いろいろ中東問題の主役であるイスラエルという国、その建国史。
この国はいかにして興ったのかという。
ニュース等を見ていて理不尽だなと思うのだが、よくわからないがイスラエルの右の凄くイスラエルに自信満々の方が出てきて、「アラブ人の住人を認めない」と言う人がいる。
「あそこは全部イスラエルのものだ。ガザからも出ていけ。ヨルダン川西岸からも出ていけ。もともと俺達のものだった」という。
その言いっぷりがちょっと武田先生はひっかかった。
あの人のおっしゃる満々たる自負は一体何だろう?と。
それは何と3400年前、旧約の神ヤハウェがユダヤの民と約束したエリアが今、3400年後に彼等の主張になっている、という。
それで申し訳ないが神様から約束された土地をザッと計算するが2000年、捨てたというか空き家にしている。
そこにアラブの人が住み着いた。
それを「出てけ」と言っている。
そして「3400年前にしろ」と言っているワケで「それを言い出すと『アメリカ人も出てけよ』『オーストラリア人もオーストラリアから出てゆけよ』それと同じだよ」。
3400年前の主張を今、繰り返していいのか?というような問題もあるかもしれない。
そんなことも込みでこの旧約聖書の世界を。
一体、神とイスラエルの民は何があったのか?という話をしている。
繰り返すが武田先生は政治的批判をする力はない。
経済を語る力はない。
その方は他にミヤザキさんとか何とかザキさんとかがいらっしゃるので、どうぞそちらの方へ。
本当に武田先生には(政治を語る)力がない。
時々YouTubeを見ていると「武田鉄矢が政治的発言をした」と結構書く人がいるが、信用しないでください。
だからアラブ・中東問題といっても武田先生が語れるというか、興味があるのは3400年前。
それで先週からずっとユダヤの四代の跡目相続の話をしてきたが、何でもそうだが三代目ぐらいから組織というのは揺れる。
そっちの方が面白い。
四代目からワリと散り散りになってしまう。
イスラエルもそう。
三代目までワリと手堅くいって四代目からヤハウェの神をないがしろにしてエジプトに出稼ぎに行って。
みんな居着いてしまって神様がくれたカナンの地に戻らなくなったという。
そういう話ではないか?
それですっかりエジプトで定着したユダヤの民。
どんどんと人口を増やして、あなどりがたい勢力となった。その数、男だけで六十万人……。ちょっと多すぎる。−中略−実数はせいぜい一万人程度だったろう。(59頁)
こうなると、エジプト王は不安におびやかされる。−中略−
「そうか。男の子を殺せばいいんだ。−中略−
王の命令が下って、イスラエルの新生児は、男ならば、生まれてすぐにナイル川に捨てられることとなった(59〜60頁)
モーセが生まれたのは、こんなときである。−中略−母はモーセを殺すことができず、一計を案じ、かごに入れて葦の茂みに置く。そこはエジプト王の娘が水浴びに来るところであった。−中略−
王女はかごの中の赤ん坊を見つけ、−中略−拾って育てる。(60頁)
この人はエジプトの王様の娘に育てられたユダヤ人。
だから自分がイスラエルの民であるということを知って、もの凄いショックを受けたのだろう。
「俺、ユダヤ人なの?」ということで。
それでどうしていいかわからないので、とにかく山籠もりでもしようかということでシナイ山という山まで登り
(このあたりの説明は聖書の内容とは異なる)
モーセが羊を養いながらシナイ山まで来ると、不思議な光景を目撃する。(61頁)
ばったり旧約の神に出会う。
どうやら神の命令は、あの権力絶大なエジプト王に交渉して大勢のイスラエル人を解放し、エジプトで貯えた財産ともどもカナンの地へ移り行け、と、そういうことらしい。(62頁)
こう言われてモーゼさんが「これ、やっぱり帰った方がいいな、一回」と。
こうしてモーセは大勢のイスラエル人と一緒にエジプトを出て、カナンの地へと向かった。ヤコブがエジプトに移り住んでから四百三十年の歳月が流れていた。(64頁)
「十戒」の旅が始まる。
それで旧約聖書の中でも特別の章として「出エジプト」という章があり、モーゼがイスラエルの民を従えてエジプトを捨ててカナンの地、約束の地へ戻ってゆくという「出エジプト」という映画にもなった神話がここから始まる。
これはもうお年を召した方はことごとく見ておられると思うが、この「出エジプト」の旅は映画になった。
ハリウッド映画。
〈十戒〉という映画があって、−中略−モーセを演ずるのはチャールトン・ヘストンである。(66頁)
もう切羽詰まったと思われたそのとき、モーセが海に向かって手を差しのべた。
ゴオーッ。
なんと! 海が割れた。−中略−イスラエル人は、なんなくその道を通って対岸へ渡った(65〜66頁)
(「十戒」の映画のこのシーンは)今、考えたら意外とチンケ。
だがあの頃はあれで十分驚いていた。
このあたりの旧約のダイナミックさ。
矛盾もいっぱい、ワケのわからないところもあるのだが、モーゼあたりが出てくるとやはりハリウッド映画になってしまう。
黒雲が這い出した空に向かってモーゼ(役のチャールトン・ヘストン)が叫ぶ。
「神よ!」と言うとブワァ〜と海が割れてゆくという。
また面白いことを言う人がいて「海が本当に割れたんじゃ無ぇか」という人が。
隕石落下とか、潮流の関係で本当に一瞬だけ海が割れたんじゃないかという人がいて。
この映画の中ではあまり取り上げてはいなかったと思うが、何万人かを率いてエジプトからイスラエルまで歩いて帰っているワケだが、準備が万端とは言えない。
それで旧約に書いてあるのは食糧がすぐに尽きた。
どうしたか?
食糧問題はデカい。
これはモーゼが神様に直に頼む。
この時のモーゼが頼んだ神様は凄くサービスがよくて、空の上から食物を落としてくれる。
マナは神が約束して与えてくれたパンであり、朝、起きると白い露のように一面に散っている。薄い花びらのような形状で、かすかに甘い。保存はきかず、一日の糧は一日で足りるという教えにも敵っている。(70頁)
下で受けていたユダヤの民は大きいカメでそれを貯め込んだという。
そうしたら何日間かもったという。
その天から降って来る食糧がの名前が「マナ」。
旧約の神がユダヤの民の為に天から降らせた食糧、それが「マナ」。
これは薄く蜜を塗ったパンのような食べ物で、それをイスラエルの民は感謝しながら食べたという。
それで神から貰った食べ物「マナ」を食べているので食事の作法がうるさい。
神様にまず感謝しないといけない。
それで食事に関する礼儀作法というので「マナー」。
非常に貴重なもので言葉が転じて「貴重な物」で「マネー」。
だからイスラエルの民は今でもそうだが、ユダヤ教の人達は食事の礼儀作法ということでマナーを身に着けるらしいので、幼い時にしつけが始まるらしい。
そこでまた最大の出来事は何かといったら、モーゼの「出エジプト」の中では凄く映画のせいもあるのだろうがわかりやすい。
それはモーゼが一人になってシナイ山に登る。
それで「どうやったらいいでしょうか」と神様に個人的に相談する。
その時に神様が「これから十個命令するんで、これを守っときゃ大丈夫」という。
稲妻が光り、火柱が立ち、あたりは煙に包まれていた。(71頁)
大きな石板に十個の命令を書く。
これが有名な「ten commandments」で、石板をモーゼに与えて「十戒」となる。
そのモーゼは石板を抱えてみんなが待っているキャンプ地まで帰る。
モーセがシナイ山の山頂で、長い、長い集中講義を受けているとき、麓のイスラエル人たちは、−中略−
相談がまとまって、金の雄牛を作り、−中略−
「これが俺たちの神様だあ」−中略−
像を囲んで歌い踊り始めた。(73〜74頁)
偶像を拝んではならない。儀式そのものが異教徒的である。−中略−
烈火のごとく怒り、神の教えを記した石板を投げつける。(74頁)
モーセは、ふたたびシナイ山頂で神の戒めを聞き、あらたに十戒≠刻んだ石板を与えられる。(74頁)
今度は間違いないように石板を箱に入れて持っていく。
それで、チャールトン・ヘストンが演じていたモーゼがカナンの地に辿り着いてイスラエル、国創りが始まる。
このカナンの地に戻ったモーゼあたりぐらいから「神の国イスラエル」というのを打ち立てていく。
ローマ市内の名所サン・ピエトリ・イン・ツィンコリ聖堂に行くと、ミケランジェロ作のモーセ像がある。−中略−
「あら、モーセって、角が生えてるの?」
なるほど、額の上に角らしいものが二本突き立っている。−中略−
種を明かせば、これは製作者ミケランジェロのまちがい。神との交わりで、モーセの顔は光を放っていた。この顔が光る≠ニ角≠ニがヘブライ語でよく似ているらしく、まちがったラテン語訳が流布していたせいである。(75頁)
そしてイスラエルはゆっくり強くなる。
ここに英雄ダビデ登場。
ダビデも有名。
この人が王となってイスラエルを軍事的にも強国にしてゆく。
このダビデの血統からソロモン王が出る。
ダビデ王からソロモン王までの八十年間が古代イスラエル王国の黄金時代であり(165頁)
ソロモンというのはもの凄い宝を持っていて、航海の途中で宝を隠したという。
それが「ソロモン諸島」という
何かそんな伝説も聞いたことがある。
この黄金時代が紀元前千年というあたりで神はイスラエルに実に幸運を運んでいる。
一番幸せだった。
ちょっと話を脱線させるが、私達日本人は旧約よりも新約にパッと惹かれて。
そもそも旧(約)と新(約)の違いが分からない水谷譲。
乱暴に言うと旧約のセンターはモーゼ。
モーゼに続く血統。
新約は何かというと大工さんの息子のイエスから始まるものが新約。
とにかく主人公、センターはイエス・キリスト。
それが新約聖書。
イエスは旧約とは全く違う。
怒りの神でヨブなんかをあれだけ試した旧約の神だけれども、イエスは「愛の神である」と言う。
彼は「苦しむ人とか悩む人の為に存在してるんだ」という。
心の充足が大事なことで。
明治期に新約を訳した人が日本におられて、その文語体が綺麗。
野に咲く百合の花を思え
労せず紡がざるなり
かつて栄華を誇りしソロモンだに、その装いこの花の一片にしかず
今日野にありて明日爐に投げ入れらるる野の百合をも神はかく美しく装い給えば、汝らこれよりも遥かにすぐるるものにあらずや(マタイによる福音書 第6章)
武田先生が女に振られた時、呪文のようにつぶやいた言葉がこれだった。
(武田先生が聖書の言葉を暗唱して)前川清さんが一番驚いていた。
「何です!?何で何も見らんで読めると?何ば読みようと???」
(武田先生の頭は)好きなことはいくらでも入るという、そういう頭。
そのイエスさえも喩えたソロモンというのは・・・
イエスが出てきてからが新約。
旧約はまだ続く。
宗教なので武田先生の解釈が間違っているとおっしゃりたい方もいると思うが、宗教関係の方はお許しいただきたいというふうに思っている。
阿刀田高さん、新潮社から出ている1991年に書かれた本で「旧約聖書を知っていますか」という。
本自体は古い本なのだが、あくまでも武田先生の知恵で読んだという。
栄光の時代。
ダビデからソロモンのお話をした。
このイスラエルというのは丁度ヨーロッパ文明の舞台袖にあたっていて、主役が幕内に控えていてセンター目指して舞台中央に向かって見得を切って飛び出すという、その丁度花道。
そんな国だった。
そして二度にわたってエルサレムは大炎上。
この大きい勢力が通り過ぎて町に火を点けた。
当たり前だが、何とモーゼの石板がエルサレムにちゃんとあった残っていた。
南王国はバビロニアに攻められ−中略−二度にわたってエルサレムは炎上し、神殿は崩壊する。−中略−大勢のイスラエル人がバビロンに連れて行かれた。いわゆるバビロン捕囚である。(165頁)
彼等は流浪の民となって国を失う。
イスラエルは国として消えてしまう。
ふたたび彼等が国を持つまでには、一九四八年のイスラエル国の建国を待たなければいけなかった。つまりイスラエル人は第二神殿の崩壊以降、ほぼ二千年の長きに渡って世界の各地に散り、それぞれの土地で血筋を連綿と残し続けた。−中略−この地域にはアラブ系の住民も多い。千数百年間、イスラエル人の国は存在せず、ここには多くのイスラム教徒が住み着いていた。−中略−
一方、イスラエル人にしてみれば、
「うんにゃ。二、三千年前は、たしかに俺たちのものだった。聖書にちゃんと書いてある」(165〜166頁)
その無理がこの中東紛争。
二千年住んでいた人達をどうするかというのはイスラエルの人達はもう少し悩んでもいいと思うのだが、悩まずにただただ言い張るというところに今の問題がある。
ただ皆さん、希望はあります。
それを捨ててはいけない。
それは国を創るから問題が大きくなる。
武田先生は凄く納得したのだが、内田(樹)先生が「もしかしたら国家の時代というのは終わりつつあるのかも知れない」とおっしゃっていた。
国を創って「国をみんなで守り合おうぜ」と言ったのはフランス。
フランスの革命。
あそこあたりぐらいから「国民国家」というのが。
どうも21世紀ぐらいから国家はだんだん形が薄れていくのではないか?
つまりもう人間の幸せに国が役に立たないという。
国家があるからこそ争いがある方が大きいと思う。
国家があるばかりに戦争が起こるという。
「もしかしたら国家という形そのものが賞味期限が切れたのかも知れない」という内田先生の文章を読んでギクッとした。
このあたりから変な話にいく。
ユダヤの民は欧州・露そして米などもその血を引く人々が世界中に散って、それが戦後に集まってイスラエルを建国した。
もうヒトラーあたりから相当いじめられた。
ロシアもユダヤの人達を散々いじめているから。
それで「国を持ってなきゃダメだ」という。
国を創った。
今度ははっきり言ってガザの虐殺とかを見ていると、しでかしているのは国家。
つまり「国家というのは結局人間を幸せにしないじゃん」ということに気付いてもいいのではないだろうか?
今、ハマスと戦うイスラエル。
人口的には936万人の人々がいる。
日本の四国くらいの大きさがイスラエル。
いかに優秀な人が多いかというとノーベル賞受賞者800人のうち200人がユダヤの人。
やはり無理難題を言う神様だからみんな考え込む。
ユダヤにはのんびりした神様なんかいない。
「ホント信じなかったら殺すよ」とか「息子殺すよ」とかと言ってしまう。
日本みたいに「よきかな〜」とかと言いながら打ち出の小づちを振ったりするような人は一人もいない。
世界人口の0.2%以下の人口でこれ程のノーベル賞受賞者が多いという。
日本もノーベル賞受賞者は多い。
28人。
ところがイスラエルの200人には比べようがない。
人口が936万人
東京都よりやや小さな国が、ノーベル賞が200人いる。
そうやって考えるといかに優秀かわかるが。
優秀な故に「何か考えろよ」と。
その一番の手立ては「国家」というものをほどくというような理屈を持った人がユダヤから出てこないかなぁなんて期待している。
イスラエルを主人公に旧約の世界から語ってみた。
宗教なもので、旧約聖書を読みながらイスラエルの歴史を辿るワケだが非常に失礼な言葉遣いがあったこと等々は本当に申し訳なく思うが。
ユダヤの人達というのは国を持たないばっかりに、本当に辛い目に遭っている。
虫のように殺されたりケモノのように扱われたりという。
それでやっと戦後につくったのがイスラエル。
旧約の神々から指名された土地に住んで建国して、今は強い国の国民になったのだが、強い国になった瞬間にガザ地区等々での問題になっているが虐殺があったのではないだろうか?という。
つまり国家というのは国家を守る為に虐殺する、そういうシステムのことではないだろうか?と。
全然理由はわからないのだが、アメリカでもいじめられ、ロシアでもいじめられ、ヨーロッパでもいじめられたユダヤの民なのだが、世界中でたった一か所だけこのユダヤの民に同情した国が一つあった。
日本。
ユダヤの人達に日本人は本当に同情する。
ロシアなんかもあの頃から酷いことをしている。
その人達がシベリア鉄道で神戸に辿り着いた時に新聞がキャンペーンを打って「哀れ流浪の民」といって食料品をあげたりしている。
それで「ユダヤ人を守ってあげましょうよ」と言った人が東条英機。
日本の戦争遂行者の悪玉の一人だが。
そして計画だけに終わってしまったのだが、中国に侵略して満州国を創るがその満州国を創った一画にイスラエルを創ろうという運動が当時の日本の軍隊の中にあった。
「ユダヤの人はそこに集まりなさい」という。
そういうキャンペーンを日本の軍人・陸軍が世界に流したり。
そういう日本を頼りにして満州にやってきたユダヤの人がいた。
もの凄く面白いのは「俺達は昔、ユダヤ人だったかも知れない」という「日ユ同祖論」という論文を発表している。
これは「ヤマト民族の血はもともと、ユダヤの一部族の血が東洋までやってきて日本に辿り着いた。その一族がヤマト民族なんだ」。
ダビデ・ソロモンの時、マナセ族という一派が消えている。
1994年のことだが、そのマナセ族の末裔がミャンマーに住んでいるということで国民として受け入れている。
三千年前の神話。
もう一つ消えたユダヤ人の一族がいる。
それが日本人じゃないか?
そういう話がある。
もう一つ旧約の聖書の中でノアの方舟。
このノアの方舟のノアさんの息子の一派が日本に旅してきたのではないか?という説がある。
ノアの方舟のノアさんには三人の息子がいて長男・次男・三男なのだが長男がセム、次男がハム、そして三男がヤフェト。
この「ヤフェト」というのをイスラエルの人が発音すると「ヤマト」になる。
ヤマト民族は、日本人は、ノアの子ではないか?
こういう日ユ同祖論というのを研究する学者さんが戦前いた。
このへんが面白い
面白いのはその日ユ同祖論を発展した形の中であるのだが民謡の掛け声。
これが古代ヘブライ語ではないか?というのがある。
例えば「木曽節」。
木曽のナー 中乗りさん
木曽の御嶽さんは ナンチャラホイ(木曽節)
(ここで本放送では「木曽節」が流れる)
この木曽節の「ナンチャラホイ」という掛け声が。
これは「ナンジャラホイ」という人がいるが違う。
「ナンチャラホイ」
これが古代ヘブライ語「この地に栄あれ」。
ソーラン節。
ヤーレン ソーラン ソーラン
ソーラン ソーラン ソーラン ハイハイ−中略−
ヤサエー エンヤサノ ドッコイショ(ソーラン節)
(ここで本放送では「ソーラン節」が流れる)
これ(ヤーレン)は古代ヘブライ語で言うと「神を喜び歌え」。
「ドッコイショ」は「押せ押せ。神が守ってくださるから勇気を振り絞って前進、進め」。
だから「あ〜あドッコイショ〜ドッコイショ〜♪」と言いながら前進したという。
日本の民謡の掛け声の中に点々と古代ヘブライ語がある。
それも空耳のとんでもない話としてしか思えないかも知れないが、現実にユダヤの学者さんでそのことを調べている人がいる。
どうも日本の言葉遣いの中に古代ヘブライ語があるという。
このあたり民族の流れの面白さ。
ハァ〜ドッコイショ!ドッコイショ!