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2024年05月22日

2024年2月19日〜3月1日◆なぜ世界はそう見えるのか(前編)

変わったタイトルで本のタイトルをそのまま「(今朝の)三枚おろし」の題にした。
「なぜ世界はそう見えるのか」

なぜ世界はそう見えるのか:主観と知覚の科学



これはデニス・プロフィットさんとドレイク・ベアーさんという科学者の方がお書きになった本で原題は「体はいかにして心を作ったか」。
今、進んでいる認知心理学の方面では「体が心を作った」という。
この考え方が武田先生は非常に好き。
前々から凄く興味があった、J・ギブソンのアフォーダンス理論
(番組の中で「J・ギブスン」と発音しているようだが、今回の本の中でも「ギブソン」となっているので、ここでは「J・ギブソン」に統一しておく)
2020年8月31日〜9月4日◆アフォード
アフォーダンス理論というのはなかなか掴みにくかったのだが、それを補うというか説明してくれる理屈。
「体が心を作る」という。
認知心理学のこの手の本を読むと面白いもの。
J・ギブソンさんのアフォーダンス理論、この行動認知学というのは若い時に福岡教育大学に行っていた時に幼児心理学で教わった。
それがもの凄く心惹かれた。
大学で教わったのはこのJ・ギブソンさんの実験の一部なのだが

要は赤ちゃんが端から落ちてしまいそうに見えるテーブルである−中略−。テーブル上に透明で分厚いガラス板を載せるが、テーブルの天板が尽きたあとの空間にも、ガラス板だけが突き出しているようにする。(35頁)

ジョニー坊や−中略−をテーブルの中央の、断崖のすぐ手前に載せる。ジョニーの両側には深く落ち込んだ視覚的断崖のあるガラス板(深い側)と、残りの天板部分(浅い側)との二つが広がっている。こうしておいて母親が、最初は断崖の向こうの深い側から、次はテーブルの天板がある浅い側からジョニーを呼ぶのである。−中略−二七人の乳児全員が、少なくとも一度は嬉しそうに浅い側を這っていったが、勇気を奮って見かけ上の穴に這い出していったのは、わずか三人にとどまった。(36〜37頁)

赤ん坊は行かない。
彼等の体験の中で「落ちる」という体験をしたことがあるような赤ちゃんはいない。
でも人生がまだ始まって七か月しか経っていない赤ちゃんは、落ちる危険性を察してガラス板に乗らない。
これは凄く面白い。
これを(武田先生は大学で)教わった。
これが「アフォーダンス理論」。
つまり「何事かを体は知っているぞ」と。
落ちるということは危険だということ。
いつ知ってるんだ?
人間は時として習ってもいないことを知っていることがある。
あなたはわかっていないが、体はわかっていることがある、という。
それを「面白いなぁ」とバカな大学生だったが授業を受けながら「人間ってそういうところあるんだ」とその授業を聞いた。
ここから研究は進んでいないと思っていたら、このアフォーダンス理論、認知行動学の研究が進んできていて、いろんな実験結果を揃え始めた。
さっき言った赤ちゃんは何でママに近寄らず27人中24人の赤ちゃんが一斉に泣きだしたのか?
これは人間でそのまま実験できない。
一番いいのは本物の赤ちゃんを崖に向かって走らせて、それで落ちるか落ちないか試すといいのだが、そんな非人間的な実験はできない。
それでJ・ギブソンがやったのは猫でやった。
(この実験をやったのはギブソンではなくリチャード・ヘルド。番組中で語られた実験の内容も本の内容とは大幅に異なる)
ギブソンは暗闇で猫を育てて、同じテーブルに載せた。
子猫全員が平気でガラス板を渡った。
条件は暗闇で育てた子猫、明るいところで育てた子猫はガラス板に乗らない。
見るというのは見えているから見えるのではなくて、見る練習をしてから見えるようになる。
視覚体験というのが学習として積み重ねられないと見えない。
人間の赤ちゃんの方に話が戻るが、赤ちゃんはその手で床を這い、手から伝わってくる触覚、そして視覚、その両方で認識する脳の技術を学んでいるんだという。

「自分が何かをすると、世界が応えてくれる」ことに気付く(行為主体性だ)。(46頁)

重大なのは「世界がそう見えたから私が何かをした」のではない。
つまり環境が私達をアフォードしてくれる。
落ちるのは危険ということを私が知っているのではない。
環境が「危険だ落ちるぞ」と伝えてくれるからガラスの向こう側には行かない。
J・ギブソンはこの推論を元にして生態学的アプローチと題して環境が提供する情報、そこから人間は賢くなっていったという。
「私は窓から湖を見る」
J・ギブソンのアフォーダンス理論を使うと「その窓は私に湖を見せてくれた」。
人間の認識の問題。

アフォーダンス理論のJ・ギブソンが行なったアフォーダンス理論に基づく実験。
(恐らくギブソンではなくデニス・プロフィット)
坂道の傾斜はどのように知覚されるか?

バージニア大学敷地内にある坂の傾斜を、被験者に推定してもらうのである。被験者は、三種類の方法で傾きを推定するよう指示された。一つ目は、研究助手とともに坂のふもとに立ち、助手に促されたら、自分の思う斜度を声に出して言うという方法だ。知覚された傾きを査定する二つ目の方法は、視覚マッチングである。全円分度器の上に半円を重ねたような装置を用い、対象の坂の横断面の傾きを推定するというものだ。三つ目は、坂の傾きに合わせて手を傾けるという方法である。−中略−板と平行になると思えるところまで板を傾けるのである。(57頁)

見た目、分度器、水平の板との傾斜。
これを利用して何度か?という。

傾斜五度の坂を見た被験者は、口頭と視覚マッチングでは傾きを約二〇度と見積もった。一方、手の平を載せた板を坂と平行になるように傾けるという方法では、被験者の推定は正確だった。(57頁)

(番組では二つ目の方法のものも正確だったように説明しているが誤り)
たった5度しかないのに何で20度に見えるのだろう?という。
目がそんなふうに見てしまった。
ところが本当に面白いことに見た目で見た人に「アンタ20度あると思う?」と言って「20度の坂を走って登ってくれる?」という。
そうしたら20度だからつま先は20度上がらなければいけないのだが、5度しか上がらない。
(坂はの傾斜は)度しかないのだから当たり前。
ここで重大なのは、頭が20度と見ても足の裏は5度しか上げない。
つまり体の方が正確に角度を見出す。
そしてもう一つ実験をやった。

中央値七三歳の高齢者を被験者とする実験を行った。−中略−被験者が高齢で不健康であればあるほど、知覚された坂の傾斜はきつくなった。要するに、すべての実験結果が、坂の傾斜は、実験時の知覚者の身体能力に関連して知覚されていることを示していたのである。(60頁)

一番最初に言った「心が体を作るのではなくて体が心を作っている」という、この当たり前が実は凄く生き物にとっては重大なことなのではないだろうか?
この理屈を読みながら武田先生は何を思ったかというと今年も生まれたが、箱根の駅伝。
5区、或いは下りの6区。
箱根の坂。
5区と6区に上りの山の神と下りの山の神が出る。
前から不思議だった。
坂道が得意な選手というのがいる。
それも上りに強い人と下りに強い人がいる。
みんな速い。
それで不思議でしょうがないのが、山の神は何人も伝説のランナーがいる。
あの人達は元旦にやっている平べったい会社対抗の駅伝大会に出ると平凡な記録に終わる。
山の神と言われて上りであの人(柏原竜二)は6分も縮めた。
あの時は大記録だった
でも新春の元旦にやる方の社会人大会では平べったいところを走ると平凡な記録。
坂道が得意なアフリカの選手はいない。
アフォーダンス理論は面白い。
ここで何が問題かというと、
柏原君、あの山の神が坂道を見る時と、アフリカから来た選手が坂道を見る時、角度が違う。
アフリカから来たとか、平べったい2区なんかで区間新記録を作る人が坂道を見ると見た目で角度が高い。
ところが、柏原君は坂道が平地に見える。
それは持っていく足の角度が違う。
だからあの子は抜いていく時に、大変申し訳ないが、笑顔で抜いていった。
それは坂道に対するアフォードする力、適応する力が才能として違うという。
そしてこれが不思議なことに平べったいところでは発揮できないという。
これが面白いなと思った。
体が心を励ます。
その事実の証明が山の神である。
つまりあの坂道を上り始めた瞬間、彼はワクワクした。
そんなふうにして彼の体の中には正確に坂道を上ってゆく才能がある。
もの凄くわかりやすい例があってそれが正月二日・三日の箱根の駅伝。
5区が問題で、やはり青学はいいのを5区に持ってきていた。
下りもそう。
上りと下りは同じように思うが全然違う。
ちょっと横道にそれるが、下りの方がしんどいそうだ。
だから実は階段は降りる方でお年寄りの方は運動した方が・・・
つまり全体重を片足ずつに載せなければならないので。
箱根の5区、上りというのは標高が874m。
凄い。
東京タワー2台半ぐらいを上っていく。
ここを「山の神」と称する選りすぐりの上りのランナー達が駆け上っていく。
一番大事なことは彼の足は坂道の持っている斜度、傾きを正確に捉えることができる。
彼の足の裏が彼を励ます。
そしてタイムを縮める。
そういう足を持った才能のランナー達。
体が心を励ます。
その証明が山の神。
山の神の生まれたところから遡ると、我々もみんな人類そうだが、J・ギブソンはハイハイから人間を考える。
ハイハイから立ち上がり、歩行が始まる。
歩行と同時に赤ちゃんは急速に心を作ってゆく。
水谷譲も子育てをおやりになっただろうが、とにかく歩きたがる。
バタバタバタバタ・・・
そのうちに壁が現われる。
赤ちゃんは何を考えるかというと「壁も登ろう」と思う。
それで手を使って登り始めるのだが、それがいつの間にかタッチになっている。
それで立ち上がってしまった。
横を見るとまた壁がある。
もう一回しゃがみこんでハイハイをすればいいのだが、立ったまま移動するところから歩行が始まるという。
これは今、子育て中の方とかおられたら、赤ちゃんをよく見てください。
これは人類史。
アフリカのジャングルに生まれて、四つん這いのサルだったものが、草原で背伸びしてタッチしたという。
次に何を目指したかというと二足歩行。
歩くこと。
300万年前の人骨が見つかっている。

骨格を「ルーシー」と呼ぶようになっていた。−中略−ルーシーは明らかに直立二足歩行をしていた。(63頁)

これはアフリカで見つかった。
1m12cmの初期の人類だったそうだ。

 二足歩行によって長距離移動ができるようになった(64頁)

何と驚くなかれ、このルーシーさんもそうだが一日に30km歩けるようになったという。
これがサルと人間を分ける。
チンパンジーは移動しても1日に3kmが限界。
それに比べて人間は30km。
30kmを歩くと汗をかいてしまう。
それで何をあきらめたかというと毛をあきらめた。
汗を出すことによって温度調節をやろう、と。6
長く歩くという持久力を手にする為に毛を脱ぎ捨てたという。
爪も持っていないし牙も持っていないサルなのだが、とにかく持久力があるので

持久狩猟で食物を得るようになる。−中略−数人の狩人が何時間も走ってレイヨウなどの有蹄動物を追い詰め、獲物が疲れきったところで先の尖った枝を刺して殺す狩猟方法で(71頁)

それが人間を益々歩かせることになる。
そのうちに腹が減ったので海に浸かって貝か何かを拾っている。
火を使うことを覚えたばかりで。
アサリの蒸したヤツなんか喰いたくなってしまって。
そうすると海の中にジャボジャボ浸かっていると益々歩くのが達者になる。
海が歩行器になる。
これをJ・ギブソンは「環境と一緒に作った才能なんだ」という。
二本の手が自由になり

その場で経験する世界「環世界(ウンヴェルト)」(16頁)

そこからアフォードされるもの、環境から引っ張り出せるものを能力としたという。
ここで忘れてならないのが環世界、つまり環境が変わるとその能力も変化するということ。
これを忘れちゃダメなんだという。
手ごろな例。
日本は小さい島国で物凄い起伏の激しい地形。
日本人は基本的に平べったい道でも坂道を歩いているような歩き方をする。
中国の人は一歩一歩が全部脱力している。
そっちの方が平べったいところはポーンと足を投げ出した方が重力で落ちてくる。
ところが日本は地面を踏みしめる。
これを集団で見ると一発でわかる。
何百mか離れると「あ、中国人の観光客の人だな」「あ、こっちは日本の修学旅行の子だな」。
もう上海でありありと見た。
そういうのは滅茶苦茶面白いと思う武田先生。
韓国で人気者の踊りの人達。
BTSと箱根で優勝した駅伝のランナーと顔つきが違う。
ここ。
環境が変わると男子の風貌も変わってくる
このあたりアフォーダンス理論の面白いところ。

「運動習慣を身につければ世界が変わる」−中略−あなたの世界の見方は運動習慣で変化するのだ。−中略−自分は世界をありのままに見ているというのが私たちの共通感覚だ。だがそうではなく、私たちは「自分が世界にどのように適応しているか」を見ているのである。古代ギリシャの哲学者プロタゴラスの言葉をもじるなら、「身体は万物の尺度である」。(77頁)

(この本の)第三章へ行く。
人間の本性。
心理と行動の警句だが

 金槌を握れば、何でも釘に見えてくる。(78頁)

金槌を持っていると何かを叩きたくなる。
かくのごとく人間というのは道具に縛られやすいという。
だから銃、ピストルというものが自由に持てる国では銃にまつわる犯罪が増えてしまうというのは仕方がないということである、という。
手に関する不思議な症例をこの本は紹介している。

 一九八八年−中略−若いスコットランド人女性が悲惨な事故に遭ったという。−中略−女性は一酸化炭素中毒で失神し、昏睡状態に陥った。なんとか生き延びたものの、脳が一時的に酸素不足となる低酸素症になったことが原因で、珍しい視覚障害が残ることとなった。−中略−目の前の相手がペンを持っていても、女性にはその手とペンのどちらも形のないぼんやりした塊にしか見えない−中略−母親が目の前にいても見分けることもできなかった(80〜81頁)

リンゴを渡されてもどうしていいかわからない。
ところが困ったことに「ペンを絵で描いてみてください」といったら描ける。
「お母さんを絵で描いて」といったらお母さんが描ける。
「リンゴを絵で描きなさい」と言ったら描くことができる。

驚いたことに地面にある物をよけながら、つまずかずに歩いて移動することができた。(81頁)

視覚障害なのだが、こんな奇妙な障害者がいるという。
渡されたものに関してはボーっとしか見えない。
しかし思い出の中にはそれがはっきりある。
そういう視覚障害。
この症例は、病例は一体何を示しているのか?

視覚には二つの機能がある。(82頁)

一つ目の視覚の経路は、目の前にあるものの自覚的な気づきを提供する「なに系」だ。(82頁)

「これはペンである」「これは母である」「これはリンゴである」という「What」を解釈する視覚。

二つ目の視覚処理の経路が、行為の視覚的誘導を司る「いかに系」だ。(82頁)

「ペンで字を書く」「お母さんには甘えてみる」「リンゴ、剥いて食べる」
そんなふうにして「What」と「How」、「これは何?」と「これでどうする」、この二つを重ねて「見ている」という。
だから喉がもの凄く乾くと水を入れる器を(無意識に)探している。
それが「水が飲みたい」という欲求に応じる為の脳の動き。
こんなふうにして「What」と「How」、これが二つ重なって「見る」という行為が行われている。
優先順位で言うと「What」よりも「How」を優先させるという。
「これが何者であるか」を横に置いておいて、「どうすればいいのか?」そっちの方が先に来る。
「What」は錯覚しやすい。

その際に使われた錯視の一つが、−中略−エビングハウス錯視である。
 円の右側の中心にある円は、明らかに左側の中心にある円より大きい。だが、実際には、二つの円の大きさは同じである。
(85頁)

親指の先と他の指の先を接触させられるのは、霊長類の中でも人類だけだ。(89頁)

ゴリラ、チンパンジーはできない。
できないものはしょうがない。
我々はそんなふうにして環境に適応した。
手にまつわる不思議。
手のひらというのが人間にとってはいろんな感情を作る元になったという。
これは武田先生が若い時に見つけて一人で興奮していたのだがアダムとイブを描いた作品があるのだが共通している。
これは殆どのアダムとイブを描いた絵画に言えること。
チャンスがあったらイブが出て来る絵を見てください。
リンゴを盗むイブの手は左手。
そのリンゴを受け取ろうとするアダムの手は右手。
何かそれがすごく不思議で。
英語の方が遥かにわかりやすいのだが右は英語で「right」、左は英語で「left」。
別の言い方にすると「right」「権利」。
自由の女神は右手で松明を持っている。
「left」これは何か?
「残ったもの」
あまりいい響きではない。

大多数の人──全体の約九〇%前後──が右利きだからだ。(100頁)

そんな行動によって感情が作られたのではないだろうか?という。
その意味で「心が動きを作っているのではない。動いているうちに心が作られたんだ」という。
本当こんなことがあるんだなと思うが、これもアフォーダンス理論で研究した結果だが

被験者の前にビー玉が入った二つの箱を、一つは高い位置に、もう一つは低い位置に置いた。実験のうち何度かの施行では、被験者にビー玉を低い箱から高い箱へ、その他の施行では高い箱から低い箱へ移してもらった。この縦方向の移動を行なっている最中に、被験者には「小学生のときの話をしてください」「去年の夏は何をしましたか?」など、自分自身にまつわる単純な体験談を語るようにとの指示が出される。−中略−ビー玉を上に移していた被験者にはポジティブな自伝的エピソードを語る傾向が見られ、ビー玉を下に移していた被験者には、不運な出来事や連絡先を聞きそびれた経験などのネガティブな話をする傾向が見られた。上または下方向への動作が、自分でも気づかないうちに、気分が上向く話か、落ち込む話かという体験談の情緒的な方向性を導き出していたのである。(97〜98頁)

だからサッカーの試合の時に点数を敵側に入れられたらキャプテンマークが絶叫する。
「下を向くな!下を向くな!」
あれはそういうこと。
一月の仕事始めに(南)こうせつさんと名古屋で歌うたいがあって、フォークソングの集いがあって。
お客さんも大勢来られて、本当に名古屋の方に感謝している。
ベーヤン(堀内孝雄)がゲストでみんなで歌っていた。
太田裕美さんもいた。
こうせつさんがやはりきちんとした人で、坊主の息子だから「能登半島の方でお亡くなりになった方の為の黙祷から始めよう」という。
それで黙祷から始めてこうせつさんがいいことを言う。
「辛く悲しい時期だけど、我々はとにかくこの中で精一杯明るく歌を歌いましょうや」と言いながら会場と一体になって「上を向いて歩こう」を歌う。
そうしたら涙を拭いておられたご老人の方がおられて「上を向いて歩こう」というのは名ポップスというのもあるが、「上を向く」というのが泣きながら上を向いているというのが何ともはや・・・

話が横道に逸れたが戻る。
右と左というのが、ちゃんと人間はその仕草、動きの中で使い分けているのだ、と。
もう一つなのだが、もの凄くシンプルに人間を解説した文章があった。
歩き始めた人間は手が自由になったので、両手で、右手左手で物を持つようになった。
でもまだ持ちたい時がある。

 あなたがヒトで、すでに両手が持ち物でふさがっているとしたら、さらにものを運ぶにはどうしたらいいだろうか。可能であれば口でくわえるはずだ。(160頁)

あれも発音を作っている。

「大きい」どんぐりを運ぶのに口を開ける必要があったことで、いまの私たちも、大きなサイズを言い表すのに口を大きく開けないとならないのだ。(164頁)

「large(ラージ)」−中略−が開いた口の形で発音されるのも、単なる偶然ではない。(163頁)

「small」
口が小さい。
かくのごとくして口を開く、或いは口をすぼめるというのが言葉を作っていったのではないだろうか?という。
このへんは面白い。
来週は更に奥深くこの人間の行動というものを訪ねていきたいというふうに思う。


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