人間というのは実に複雑な動きをしている。
これもJ・ギブソンの説だが、生まれてからまだ一年経っていない乳幼児がいる。
そのママが「違う違う、あそこよ」と指をさす。
生まれて数か月だと、赤ちゃんはその「あそこよ」という指さす指を見る。
ところがこれが一年にも満たないうちに「指がさしているものを見るんだ」という、その指が示唆しているということを理解するという。
考えたらもの凄く抽象的な体の動きを理解するようになる。
このあたりから爆発的に知識が増えるという。
例えば時間。
「時間」という抽象概念の場合は、豊富な経験のある「距離」の概念に似たものとみなしている。−中略−残り時間が「短くなる」、−中略−話すのに「長い」時間がかかる、といったように。(174頁)
そういうのをたちまち理解するようになる。
また他の表現だが「見え透いたお世辞」これを英語で言うと「レフトハンディッド」「左手でやりやがって」という。
日本では役に立つ人物のことを「右腕」とか言ったりするし、侮辱されたことを「顔を潰された」とか「泥、塗りやがった」とか、「アイツ手、汚しやがった」とか「もう俺ぁきっぱり足洗いたいんだよ」とかという身体動作、そういう表現になっていく。
だから「人間というのはあらゆる発想が体と関わっているんですよ」という。
体を使った慣用句が本当に多いと思う水谷譲。
これは大変お隣の国は盛んなのだが、皮膚に施す美容施術・美容整形、ボトックス。
ボトックス製剤は、ボツリヌス菌が作り出す毒素からできている。−中略−ボツリヌス毒素によって皮膚の下の表情筋を事実上麻痺させるというのが、しわ取りの仕組みだ。(176〜177頁)
はっきり申し上げて今、結構な人がこれをやっている
(やっている人は)わかる。
武田先生はやっていない。
これはやってらっしゃる方からも・・・
女優さんは平気で言う方がいらっしゃる。
何も言わなくてもやってらっしゃる方はわかる。
これは「ああ、この人はそういう施術をやっておられるんだなぁ」というのが本当にわかる。
「凄いな」と思うのだが、これは本に書いてあったのだが
こんなふうにして美容整形でボトックスをやってもいいのだが、そうすると
ボトックス利用者に関する別の研究では、大げさではないかすかな情動を示す顔写真を見せられた利用者は、表情の読み取りにより時間がかかることがわかった。(176〜178頁)
このあたり皆さん、「我思うゆえに我あり」ではない。
「我行動すゆえに我あり」。
「自分がどう動いたか」ということが今の私の根拠なんだという。
ここから凄まじく理屈っぽい文章に入る。
これは本の中に書いてあったのだが、180ページにこんな例題が書いてあって。
これは物理法則。
「等速円運動する物体に作用している力を向心力といい、物体の質量をm、速度をv、円の半径をr、求める向心力の大きさをFとしたとき、F=mv2/rで表される」(180頁)
これは理解するのは無理。
「これを体が動く」というその体の動きに合わせたことで物理法則をもう一回解き直そう、と。
想像してみてほしい。あなたはローラースケートをはいて、駐車場で滑っているところだ。支柱をつかんで止まろうとすると、まだ止まりきらないうちに、あなたの体は支柱の周りを回りはじめる。この回転が等速円運動だ。つかんだ腕に感じる力が向心力で、要は等速円運動を引き起こしている力のことである。支柱をつかむ前に滑っていた速度(v)が、あなたが腕に感じる向心力に影響を与える。滑るスピードが速いと、遅いときに比べ、支柱をつかんだときによりぐいっと勢いよく引っ張られる。これが方程式にある「v2」の意味だ。速く滑っていればいるほど、支柱をつかんだときの向心力が大きくなるのである(そしてそれだけ腕も痛くなる)。(180〜181頁)
こんなふうにどんな法則も「いったん体に喩え直してみるとわかりやすくなりますよ」と。
この等速円運動というのを体で考えてみよう、という。
この等速円運動が支配しているスポーツ。
ゴルフ、フィギュア、野球、スキー、ボード、武道も実はこの等速円運動であるという。
これがF=mv2/rとどう結びつくか?
合気道の場合で言うと相手を崩す為に入り身転換と言って、相手が手なんかを握ってこようとすると相手の方に踏み込んで回転する。
この入り身転換の回転の時、相手の後ろに回り込むほど大きく回れと指導される。
これがズバリ言うとローラースケートで滑っていて道路標識にしがみつく自分というのと同じ。
そのスピードが速ければ速いほど生まれる向心力が強くなる。
回る時に先生が「腰で回れ」と言われる。
これが手で回ってしまう。
何で「腰で回れ」かというと腰が円の中心。
それから手を伸ばしている。
これが半径のrだから中心と半径のrをしっかり持つ。
そうしないと円運動は完成しませんよ、という。
これはやっぱり考えさせられる。
いっぱい面白いことをこの本の解説者の方が考えておられて、ローラースケートで滑っていてスピードを出し過ぎてもう止まろうと思って電柱に掴まるという状況設定で言うと
今度はあなたが重いバックパックを背負っているとしよう−中略−バックパックを背負って質量が大きくなると、背負っていないときに比べ、支柱をつかんだときに腕がより痛むのである。最後に、支柱をじかに手でつかむのではなく、先に輪がついた投げ縄を支柱に投げ、縄のもう一方の端を手でつかんでいるとしよう。投げ縄が短ければ、あなたは小さな円を描いて支柱の周りをすばやく回るだろうし、投げ縄が長ければ、もっと大きな円を描いて、ゆったりと回ることになるだろう。(181頁)
一見難しそうな物理方程式でも体を通すとわかりやすくなる。
体で考えてみるということがとても大事なことなんですよ、という、この本デニス・プロフィットさんとドレイク・ベアーさん。
「なぜ世界はそう見えるのか」白揚社から出ているが、この著者はあらゆる事体を体を通して考えなさい、と。
「仮にライオンが話せたとしても、われわれにはライオンの言うことが理解できないだろう」と述べている。−中略−ライオンと人間の身体、生態環境、関心事はあまりにも違いすぎ、両者の近く世界は種の違いを超えて経験の共有を伝達し合う場とはなり得ないとヴィトゲンシュタインは考えたのだ。(183頁)
身体化、体に喩えてものを言える人が素晴らしいのは何かというと、一番わかりやすいのは文章力。
体を使って説明する人の文章は凄く納得がいく。
それで別の本で司馬遼太郎さんの文章で身に沁みた文章があって、その文章を持って来た。
司馬さんというのはこういう文章を書けるからボンクラな武田先生にでもわかる。
司馬遼太郎「新史 太閤記」。
豊臣秀吉の物語。
豊臣秀吉が諸国を点々と歩くうちに頭のいい参謀を見つける。
これが黒田官兵衛という人。
黒田官兵衛は凄くクールな頭の人。
信長の子分だった秀吉が「織田家にいらっしゃい、織田家にいらっしゃい」と誘う。
ところが信長と接して官兵衛はこの人はちょっとむごすぎる、
藤吉郎(秀吉)に対して凄く冷たい当たり方をする。
殴ったり蹴ったりも平気でするし。
大の大人をつかまえて「猿」と呼び方を侍がするか?
そんな主人の為に何でこの人は命をかけて働いているんだと不思議で仕方がない。
体を使ったいい文章。
そして黒田官兵衛は誘いに来た秀吉に向かってこう言い返す。
(恐らく黒田官兵衛ではなく竹中半兵衛)
「私は上総介殿をきらっている。足下は上総介殿が士を愛するといわれるが、あの態度は愛するというより士を使っているだけのことだ」
「これはしたり、貴殿ほどのお人のお言葉とも思えませぬ。愛するとは使われることではござらぬか」−中略−
半兵衛は、あざやかな衝撃をうけた。なるほどそうであろう。士が愛されるということは、寵童のような情愛を受けたり、嬖臣のように酒色の座に同席させられるということではあるまい。−中略−酷使されるところに士のよろこびがあるように思われる。(「新史 太閤記(上)」228頁)
見事。
激動の嵐が吹き荒れた二十世紀前半、アメリカおよびヨーロッパ全土で、なぜか乳児が次々と謎の死を遂げるという危機的状況が生じていた。二つの世界大戦と大恐慌の煽りを食い、児童養護施設に収容される子どもの数は激増した。−中略−二歳になるまでの乳幼児死亡率が三一%から七五%にも上った。(187頁)
可能な介入として「ケア、食事、空気」を勧めた。(188頁)
これは第一なのだが、もう一つある。
それを見落とすと子供は40%近い確率で死んでしまうという。
それは一体何か?
九年に亘る調査でようやく「ケア、食事、空気」その他、もう一つそれを見つけた。
「寂しくない」
流れてきた。
(本放送ではここで「誰もいない海」が流れる)
トワ・エ・モワで「誰もいない海」。
トワ・エ・モワさんが歌っている。
淋しくても 淋しくても
死にはしないと(「誰もいない海」)
この歌は間違っている。
死ぬ。
人間というものは淋しいと死んでしまう。
イギリスで孤独担当大臣が「え〜?」と思ったがそういうことかと思う水谷譲。
「淋しくない」これが人間が生きている「環世界」「ウンヴェルト」。
人間はここで生きていくしかない。
人間は社会で生きている
社会という環境の中で生きている。
皮膚というのは、社会的触覚で撫でてくれる人がいないと淋しくて死んでしまうという生き物が人間。
箱を一人で持ち上げるときと二人で持ち上げるときとで箱の知覚重量がどう変わるかを探った研究によって、実証されている。−中略−持ち上げる前の重量推定の際、一人で持ち上げると思っている場合には、手伝う人がいるとわかっている場合に比べ、推定重量が重くなることがわかった。(201頁)
今、避難所生活なんかでもいろいろトラブルがあるかも知れない。
でも、大変かも知れないがそこは力を合わせて皆さん、乗り切りましょう。
そんなことしか言えなくてまことに申し訳ございません。
本当にぬくぬくとした正月を送ってしまって、おたくらが厳しい環境の中で戦っている時に。
でも決しておたくらのことを忘れたワケではございません。
同じく日本人としてあなたが今苦しんでおられるその街を旅したことのあるフォークシンガーとしてあなた方の淋しさというのを重々推し量ることが、一歩でもいいから昨日と違う今日を作っていくというその一歩が人間の命を支えるものになりますので、そのことは是非、忘れないでいただきたいなというふうに思う。
環世界、周りの環境なんだ。
例えば重たく陰気な顔をして「認知症」とつぶやくのと、「お母さんの物忘れの凄さ!」とケラケラと笑う明るい嫁や娘や息子がいると、どんどん軽度になっていく。
アフォードする力というのは凄いものがある。
もちろんいいことばかりではなく、同一化という問題もあり、同じ意見で凝り固まっていると同じ人の意見しか聞かなくなるという。
これは凄い実験を行っている。
生後三か月の白人の乳児は黒人、白人、中国人の顔をどれも同じように判別できたが、同じ乳児が生後九か月になると、白人の顔しか判別できなくなくなっていた。(231頁)
これは同一化と言って、環世界、環境が人間を作るのだが、一方的な環境の中に沈んでいると、だんだんそのセンスが狭くなっていくという。
国際社会を見てみましょう。
ウクライナ人とロシア人、イスラエル人とアラブ人。
これは本当に両国に悪いが私達日本人から見るとどっちがどっちかわからない。
ただ、よく見ているとわかる。
それはそれぞれにウンヴェルト、環世界、取り囲んでいる環境が表情に映し出されているような気がする。
そんなふうにして我々を取り囲むウンヴェルト、環世界、これを見詰め直して、自分をもう一度折り畳んでいこうではないかというふうに提案している。
「なぜ世界はそう見えるのか」
この本をお書きになった方はやはりアメリカの方なのでアメリカの物の考え方というかアメリカという環世界、環境がやはり本の中に反映している。
アメリカというのは州ごとにもの凄く違うんだ、と。
著者はアメリカ南部、ディープサウスと呼ばれるエリアの文化について報告している。
テキサス、ここはアメリカでは他の州に比べて圧倒的に殺人事件の多い州で三倍。
なぜここだけこんなに殺人事件が多いのか?
極西部と南部に入植したスコットランド系アイルランド人である。−中略−故郷−中略−では牧畜に従事していた。牧夫は農夫に比べ、極めて窃盗の被害に遭いやすい。(248〜249頁)
土地が広いので泥棒がいてもすぐに駆け付けられない。
そこで銃で牛泥棒を撃ち殺してしまう。
それが文化になって根付いてしまったという。
(テキサスは)荒そう。
これは司馬遼太郎さんから教えてもらって本当に感動したのだが、ダーティハリーがこれ。
アイルランド系の刑事さん。
ダーティハリーは短気。
ダーティハリーは徹底しているのだが、一人も友達がいない。
何か彼は友達を持たないように努力している。
でも、それ故に汚い仕事を一手に引き受けるダーティハリー。
「汚れ屋ハリー」というニックネームがいかにもアイルランド系という。
アイルランド系で更に思い出す人。
スカーレット。
アイルランド系。
彼女はイギリス男にもアメリカ男にも寄りかからず「明日は明日の風が吹く」と傲然と胸を張る。
あれがアイリッシュのプライド。
このへんが凄く面白いところで文化というのは人間をアフォードしていく。
被験者(大半は大学生)に「手、手袋、マフラー」の絵が提示された。ペアになるのはどの二つだろうか。手とマフラー? 手と手袋?(253頁)
ペアになるのは「手と手袋」だと思う水谷譲。
大多数の欧米人は、手袋とマフラーをペアにする。どちらも冬物の衣類だからだ。−中略−だが東洋人は、手と手袋を組み合わせる。手袋は手を保護するもので、手は手袋にぴったり収まるものだ。(253頁)
東洋人と西洋人ではこの結び付け方が違うという。
このあたりはアニメなんかにももの凄く影響しているのだが、
日本人大学生とヨーロッパ系アメリカ人大学生の被験者に水中を模したリアルなアニメーションを見せ、内容を説明してもらう実験を行った。すると、アメリカ人学生はまず魚について報告することが多かったのに対し、日本人学生は場面の状況説明から入った。(256〜257頁)
ディズニーアニメは一点を見せる為のアニメ。
日本の宮崎アニメは違う。
全体を見せる。
日本の観客も全体を見ようとする。
役者が動いている。
その全体はどういう世界か?
「ニモ」というアニメがあると魚の動きをじっと見て「ナチュラルだな〜」と惚れ惚れ見ているのはアメリカ人。
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日本人はどこを見ているかというと「いやぁ〜、海が深く描けてるなぁ」
そのアニメの見方も西洋と東洋では違って、東洋では情景全体を見ようとする。
アメリカ人は部分を見ようとする。
そんなふうにして文化の状況によって最後の絵、一枚が違う。
更に東洋では中国と日本も違うし、日本と朝鮮半島も違う。
朝鮮半島と台湾も違う。
それぞれ環世界、地形、気候、そういう世界が人々をアフォードしている、そういう人達を作っているんだ、と。
このへんがやっぱり面白いところ。
よく「面白いから笑うんじゃなくて笑っているから面白い・楽しくなってくるんだ」と言う。
それに繋がるかなと思って聞いていた水谷譲。
そういうことらしい。
武田先生は年を取ってから武道を始めたりして、この手の本を読んで「やっぱり間違ってはいなかったんだ」と。
やはり行動しないとダメ。
ゴルフなんかもさっぱり上達しないし、合気道の方もさっぱりなのだが、でも「そう動いている」ということが武田先生にとっては大事なことなのではないだろうかな?と思う。
何をやっても本当に下手。
でも「何もやらないよりは」という。
だから皆さんを励ます言葉にはならないかも知れない。
特に北陸の方なんかも本当に大変だろうと思う。
でもとにかく昨日よりほんのちょっと片付けただけでも自分の中で凱歌を上げましょうよ。
それは人間にとって凄いこと。
この本はテーマがしっかりしている。
「なぜ世界はそう見えるのか:主観と知覚の科学」
デニス・プロフィットさんとドレイク・ベアーさん。
「HOW OUR BODIES SHAPE OUR MINDS」「体はいかに心を作ったか」という、これが原題。
それで最後に凄く面白いことが書いてあるので
現在使われているVRのヘッドセットは、−中略−NASAエイムズ研究センターで開発された装置のデザインがもとになっている。(273頁)
長編アニメ『アラジン』が再現された仮想空間で魔法の絨毯に乗った。魔法の絨毯で空を飛ぶなど、五〇年前には到底味わえなかった知覚経験だ。(274頁)
VRを使うと想像上のバーチャル世界に降り立てるだけでなく、想像上のバーチャル身体を手に入れることも可能だ。これをアバターという。(274頁)
バーチャルアバターへの身体化によって生じる知覚の変化に、「プロテウス効果」というぴったりの名を付けた。(275頁)
どういうことが言いたいかというと、アバターがもの凄く勇猛果敢で困難に向かっていくとそのアバターを動かしているその人がだんだん元気な人になってゆく。
何かの病で体が不自由な場所があって、そこが痛みを持っている。
その人にVRで「スパイダーマン」を体験させる。
手のひらから糸を出しながらビルを自在に・・・
そうやっていくと四肢の痛みが少し和らぐそうだ。
物語にはそういう力がある。
笑っているうちに、今ある不幸から少し心が丈夫になって立ち直ることがあるという。
被験者は白髪のアルバート・アインシュタインか無名の人物か、どちらかのバーチャル身体に入り込むことができた。「アインシュタインになった」人々は認知課題の成績がよく(276頁)
アバター同士交流できるVR世界で、肌の色の薄い人が浅黒い肌のアバターを使うと、人種に関する潜在的偏見が軽減されるのだ。(276頁)
これがVR世界であっても、人がそう動けば人はそういう人になるという。
これは人間に関する大発見。
もともと人間はそういうもので、ここに物語の意味があった。
まとめのしめくくりでこんなことを書いている。
病んだり老いたりした人も、他人にあまりにも生活をコントロールされそうになると、拒否感を示す。どんなに些細で、一見重要ではないように思える事柄であっても、患者に自主性を発揮する機会を与えると、患者の健康は向上する。健康を維持し、知性を高め、自己実現による充足感を得るためには、行為主体性が不可欠なのである。
本書でみなさんにお伝えしたいのは、「知る」ためには、その前に「行う」こと──自分の身体を用いて、意図的に行動すること──が必要だという点である。(279頁)
「元気になりたい」と思った人は昨日より一歩多めに歩けばいい。
ただそれだけでアナタは変わる。
環境がアナタを変えてくれる。
当然のことだが、そのことをもう一度、という。
そしてこの作家曰くだが、あらゆるところにAIの出現があって、AIの活躍によって未来に今、影を落としている。
しかしAIの持っている知識が不完全であることは間違いない。
理由はAIは体を持っていない。
人間のように「体にある知識」というものを使うことができない。
私達は環境にアフォードされて人間になった。
AIにはアフォードすべき環境がない。
AIの持っている知は知ではない。
今うっとりしてしまった。
これは半分ぐらい武田先生の言葉。
本当に最近、いいことを作る。