先週は引っ張ったワケではないのだが、説明をしておかないとわからないと思ってあれだけのことをお話したのだが、やっと今週から「なぜ『古事記』『日本書紀』に富士山が登場しないか」という。
藤原氏の陰謀がその裏側にあったのではないだろうか?
この藤原不比等・鎌足あたりをからかうようなおとぎ話が生まれた。
紫式部が
まづ、物語の出で来はじめの祖なる竹取の祖なる竹取の翁(「源氏物語」絵合の巻)
つまり「日本国に物語が生まれた初めての物語は『竹取物語』、かぐや姫の物語だった」と言っている。
これ(「竹取物語」)はご存じかと思うが、作者不詳。
これは当然で権力を握った藤原氏をからかっている。
これは戸矢学さんの説だが、このかぐや姫に求婚して見事にふられる公子、貴族・庫持皇子(くらもちのみこ)こそ藤原不比等ではなかったのだろうか?という。
この物語の中で五人の貴公子の執拗な求婚に対して、かぐや姫は難題を与えます。(120頁)
A蓬莱山に生えている金銀製の枝木──庫持皇子=藤原不比等(121頁)
だが金と銀で樹木が生えるワケがない。
しかもどうもこの金と銀の木の枝をちょこっと舐めたりなんかすると永遠の命が得られるという。
永遠の命が得られる蓬莱山の山頂に生えた植物。
これをキーワードとしてちょっと覚えておいてください。
そして結末から先に言ってしまうと、かぐや姫は朝廷側がお侍さんを出して懸命に守るのだが、月の軍団のまぶしさに一時的に目が見えなくなって、かぐや姫は月に帰ってゆく。
かぐや姫は、育ててくれたお礼にと、竹取の翁夫婦に「不老不死の妙薬」を残します。−中略−
しかし翁も媼も悲しみのあまり、薬など呑む気にならず、それを献上された帝もさらに悲しみ呑むことをせず、結局はその薬を手つかずのまま、天に最も近い駿河の高山の頂に運ばせ、燃やすように命じました。
その結果、山頂からは煙が絶えることなく立ち昇り続けることになったということです。
それ以来、山は「不死山」と呼ばれるようになりました。(119〜120頁)
だから恐らく(富士山は)活火山だった。
それを不老不死の薬を燃やした煙と見立てた。
いっぱい物語の中に意味を込めて語るという手法を紫式部がマネする。
この後に「ある御代の頃、光り輝かんばかりの美しい少年が生まれました」という「源氏物語」、藤原氏の公子の物語になる。
これがどうも「竹取物語」に対抗した物語ではなかろうか?
富士伝説。
不老不死の薬を山のてっぺんで燃やしているので、不老不死、死ぬことがない。
不死(フシ)の山。
「不二家」の不二もまさしく。
不二家はペコちゃん・ポコちゃん。
二つとない。
それで「不二」だから。
このあたりからフシとかフジとかそういう呼び名で、あのアサマの山を呼ぶようになった。
戸矢さん、ここから本当に面白かった。
なぜ不比等は「古事記」「日本書紀」その中で富士山を隠したのか?
しかも富士山の大元の神様はスサノヲノミコトとクシナダヒメ。
これはアマテラス系の神様が宿っている。
それをいつの時代からかコノハナサクヤヒメに変えた。
今、富士山に男の神様がいて、嫁さんに行ったのがコノハナサクヤヒメじゃないかという。
そういう説にもなったりしているのだが、このあたりから戸矢さんも余りにも大胆な説なのではっきり書いていないのだが、ページ数で言うと270ページのある本で、終わりにかけてやっと切り出される。
これは戸矢さんの本を読んだ武田先生の解釈で、間違った解釈だったら申し訳ありません。
(番組内での解釈と本の中の解釈では異なる)
だがそう解釈しないと戸矢さんのこの本は読めない。
なぜ藤原氏は富士山のことを「古事記」「日本書紀」に書かなかったのか?
それは富士山を「神籬(ひもろぎ)」、神の山と崇める別の国が関東にあったから。
別の国のご神体が富士山だったので、奈良に都を持つ藤原氏は触れたくなかった。
「え?関東に?別の国があってそこの神様が富士山だったから?」となるのだが「じゃ、その国って何だよ?」という。
というふうに武田先生は解釈で戸矢さんの本を読んだ。
これは凄い異様なことなので仮説として聞いて下さい。
そうでないと戸矢さんの本が読めないし。
平城京があった時代、関東には平城京の天皇が手を出せない別勢力の大王が住んでいた。
その大王の信仰する山が富士山だったので「敵の山を拝むということは負けたことになっちゃわない?」という。
関東はバカにされていた。
「坂東」といって「野蛮人しか住んで無ぇ」というので。
ところが「それ、変じゃ無い?」という。
関東には宗教・軍事・経済を統括する巨大な大国があった。
「それを藤原氏は歴史から消したんだ」という。
関東は平安期、坂東と呼ばれた荒れた大地、未開発の後進エリアと紹介されているが、とんでもない。
とても豊かな農業国家の大国であった。
もともと関東地方には縄文時代の早い時期から多くの人々が暮らしていたことは、関東各地に無数に残る「貝塚」によって明らかです。
縄文時代の貝塚は、日本列島全体で約二五〇〇カ所発見されていますが、その四分の一は東京湾岸一帯に集中しています。(180〜181頁)
大森の貝塚なんかそう。
弥生時代に入ると、突然のように巨大古墳が関東各地に築造されるようになります。
日本屈指の規模である埼玉古墳群は特に有名です。
その中の一つである稲荷山古墳から出土した「鉄剣」は、一一五文字に及ぶ金象嵌の銘文が発見されたことで大ニュースになりました。(181頁)
鉄剣が出たということに関して驚きが日本人は少なすぎる。
ヤマト政権、奈良にあった政権は銅剣。
脆い。
鉄剣の方が遥かに強い。
その鉄剣には漢字で文字が書いてある。
文字は115文字。
金錯銘鉄剣には、−中略−ワカタケル大王(雄略天皇)に仕えたヲワケの功績などが記されており(212頁)
でもそれは違うんじゃない?
戸矢さん、申し訳ございません。
戸矢さんが言ってらっしゃることと違うかも知れないが、武田先生はこう読めた。
続ける。
稲荷山古墳は、−中略−前方後円墳です。
築造されたのは古墳時代後期、五世紀中頃と考えられています。−中略−墳丘部の長さだけで一二〇メートルあります。(210頁)
鉄剣の技術、漢字の文字使用、金による装飾、こういうのは600年代、7世紀の中頃のヤマト政権を凌駕する文明があった、という。
それでヤマト政権の藤原氏、不比等を圧倒するような文化、技術、農業、そういうものをこの関東の大王は持っていた。
この関東の大王の神の山が富士山だった。
だから古事記には触れなかったという。
(大王の名前は本の中に)ある。
ここからもの凄い不思議な話になる。
仮説。
今度は稲荷山古墳を見る。
稲荷山古墳の円墳と方墳がある。
前方後円墳。
墳丘の中心軸は真っ直ぐに富士山を向いているのです!(210頁)
富士山を神だと思っていた人が作った。
方士がおこなっていた地理風水の方法に「天心十字法」というものがあります。(182頁)
偉い人、身分の高い人は北を背にして南を向く。
それで右と左に太陽が昇る沈むの十字。
その真ん中、そこに偉い人は住む。
北を背にして南を向き、東から昇る太陽を西へ見送る。
その十字にランドマークがないとダメなので、探してみましょう。
北、筑波山がある。
南、富士山がある。
東は千葉、海がある。
ここから日が昇ってくる。
千葉には12794基も古墳がある。
だから日の出の方向にここの王国では亡骸を埋めたのだろう。
それで陽が沈む西に浅間山がある。
筑波山を北にして日の出の方角は海の方角で千葉、そして日が沈む方角に浅間山がある。
その十字を結んだところに王の住みたもう皇居があった、という。
十字だからその場所が簡単に出る。
何と大宮。
前に大宮っていう名前は・・・と武田先生がおっしゃっていたと思う水谷譲。
それがそういうこと。
今の時代「翔んで埼玉」とか「ダサい埼玉」とか言って、とんでもない。
あそこに「大きな宮」と書く地名があるということは、とんでもない人が住んでいたという名残りで
氷川神社の鎮座する地は古来「大宮」と呼ばれてきました。(184頁)
しかもこれは一宮。
一宮というのは「縄文の頃からあった神社」という意味。
非常に古い。
さあここから謎解き。
「翔んで埼玉」なんてバカにしている場合ではない。
(番組冒頭は武田先生がスピルバーグ監督作品のオーディションに落ちた話。恐らく「太陽の帝国」)
戸矢さんはの説は面白い。
戸矢さん、申し訳ありません。
こんな言い方をしては何だが、戸矢さんはもの凄い仮説なので用心深く文章が書いてあるのだが、用心深い分だけはっきり言って面白くない。
ただ、大宮という名前が関東の埼玉にあったのはデカい。
武田先生も一度だけロケで行ったことがあるのだが、あそこの氷川神社、これは氷川神社の総本山だから。
(氷川神社は関東の)いろんなところにあるが。
江戸時代の話だが、大阪の人がバカにして「氷川神社と犬のクソ」と言った。
江戸の町にゴロゴロあるのは犬のクソ。
(徳川)綱吉さんが「犬殺しちゃいけない」と言ったので犬のフンが酷くて。
それで氷川神社が同じぐらいある。
氷川の方、申し訳ありません。
武田先生も毎年拝みに行っているのは氷川神社なのだが、これは農業の神様。
ここの総本山が大宮の氷川神社。
これは一宮だから。
大宮氷川神社の歴史はどのぐらいかというと凄い。
二千年前からあったという。
まだ弥生が始まる前。
これは学識を持った、漢字を持った人、それから陰陽、方学術、風水を知っている人、それから農業を豊かにする技術者が大宮あたりに住んでいた。
「その始まりが大宮の氷川さんですよ」
武田先生も行ったことがあるがデカいお宮さん。
当時の「大宮」はどのような状態にあったのでしょう。−中略−
二〇〇〇年前のこの地に、「宮居」を構える「王」がいたということなのです。(204〜205頁)
先進の情報、都市計画、生産・経済力、指導力を持った人がここに二千年前住んでいたという。
まだ弥生がやっと始まって、稲作が始まったばかりの頃。
「そんな(人なんか)いるか?」というので歴史を探ると一人いた。
その人物のことが何と日本の歴史ではない。
中国の歴史書に書いてある。
二二〇〇年前の歴史書『史記』の一説です。
秦の始皇帝の時代について司馬遷が公式に記録した記事の中に記されています。(141頁)
そこにある人物がいる。
それは紀元前91年の記録なのだが、中国はその頃は秦の始皇帝の時代。
秦の始皇帝が徐福に命じたのは「不老不死の薬」を入手することでした。(145頁)
中国の伝説で、ある場所はわかっている。
古来、霊薬は伝説の神仙の国・蓬莱山において入手できるといわれていました。(145頁)
一番最初に「それが欲しい」と言ったのは秦の始皇帝。
秦の始皇帝は中国で絶大なる力を持っているので「取ってこい!」と言う。
(徐福は)「わかりました。アタシが行ってきましょう。アタシね、実はその山見たことがあるんです。つきましては相当長い航海になりますんで、船、資材、開発者、それとその薬が見付かるまで、その人口を私に預けてください」というので始皇帝は「わかった!オマエが行って探してきてくれるんだったら、探索の船を出そう。船も一艘や二艘じゃダメだ。大船団で行ってこい」。
始皇帝は、海神への献上として良家の若い男女三〇〇〇人と、あらゆる分野の技術者たちと「五穀の種子」とを徐福に預けて送り出しました。(145頁)
徐福一行の出航地は、琅邪台が有力です。現在の青島です。(154頁)
徐福一行の出帆は、紀元前二一九年のことであったと推定されています。(154頁)
そしてどうなったか?
もちろん徐福一行は、あれから二〇〇〇年経ついまもなお帰還していないのですが──。(155頁)
誰一人帰ってこなかったという。
そのうちに始皇帝は死んでしまう。
ところがその後、「史記」を書く時に徐福の噂を聞く。
しかし徐福は、平坦な平原と広大な湿地を得て彼の地にとどまり、みずから王となって、戻らなかった」(144頁)
「え?どこに辿り着いたんだ、徐福は!?」
様々な説があるのだが、戸矢さんがおっしゃっているのは「埼玉の大宮に着いちゃった」という説。
何が事実で何が物語かわからなくなった水谷譲。
(冒頭で「不思議の国のアリス」の話があった流れで、今回の話はまるで)ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」。
でも日本というのはそういう意味で、ある意味で「不思議の国」だったのではないか?
考えてみればそう。
奈良・春日山で人間と鹿が共生しているということの不思議を西洋の人達が凄く驚いている。
あの人達にとってはルイス・キャロルの不思議の国に入ったみたいで。
それと鹿煎餅をあげると、仕込みでそうなってしまったのだろうが、鹿が一礼する。
奈良の鹿は頭を下げる。
ちゃんとバウするという。
何か彼等(インバウンド)はめっちゃ興奮するみたい。
しかも信号機が青になると鹿が渡る。
それから両手を見せたら諦める。
エサを持っていると鹿は寄ってくるが、両手を見せると「あ、そうですか」と言いながら。
ここから。
徐福伝説は残された中国でも大話題になって「喰うに困ったら徐福のマネしようぜ」という一団が秦が倒れ漢が興るまでの春秋戦国時代、長江下流、江蘇省、浙江省、その人達の中にこの伝説が届いて「東海の島に行けば徐福のように喰っていけるんじゃ無ぇか」という。
この人達が陸続と千人単位で集団の移住を始めた。
これが日本の弥生時代とピッタリ重なる。
これは徐福同様、船団で移住した渡来の海人族、間違いなくその中に蘇我、物部、藤原等々もいたワケで。
古墳時代を通して渡来人は日本の権力の中枢として潜り込んだのではないだろうか?
近畿王権、ヤマト王権に紛れ込むのだが、ヤマトの天皇家を倒すぐらいの力はあったにしても、なぜか手を出さなかった。
関東の徐福の流れをくむ渡来人達もいて、そういう人達が日本の弥生時代の幕開けを飾ったのではないだろうか?という。
これははっきりしていることで天皇家もお認めになっている。
天皇家は男系で結ばれていくが女性に関しては例えば、後の時代、桓武天皇の母などは百済の人、朝鮮半島の人。
それから女性の性を器として血の交わりはあるのだが、日本の天皇家はルーツを縄文に持ち、弥生、古墳時代、そして飛鳥、平安と繋がっていくワケで。
この中で重大なのは天皇の持っている風水の術、呪いの力というのは他の貴族達を圧倒したのではないだろうか。
藤原不比等は自分と同じ渡来系である関東の大王を除外した。
神奈備(かんなび)が富士だから富士にまつわる記録に関しては向こうが信仰している山なので、天皇家は「知らないよ」と無視して富士山を「古事記」「日本書紀」に描かなかったという。
ところが怨霊が跋扈したとしか思えない事件が起こる。
藤原不比等−中略−には四人の息子がありました。(115頁)
なんと、四兄弟は七三七年に、天然痘の大流行により首を並べて病死してしまうのです。(115頁)
当時の考え方では怨霊の祟り≠ニ信じられたに違いないでしょう。(116頁)
一つ考えられたのは蘇我氏の呪い。
その次に考えられたのが利用するだけ利用して殺しちゃった聖徳太子の呪い。
そして三つ目が富士山を無視した呪い。
その呪いがトリプルで来たのではないか?
それで「富士山ちゃんと入れよう」という。
そのあたりから急激に富士山を歴史の中に登場させて、藤原氏が考えたのが「聖徳太子が馬に乗っかって虚空を飛んで富士山を見物に行く」という。
それで聖徳太子が富士山を拝んだということで、聖徳太子の為にも奈良に例のデカいお寺を作る。
そうするとたちまちのうちに富士山は藤原氏に味方するようになったという。
それで「富士山を称えたらいいことばっかりだよ」というので「四人、呪いで殺されちゃったけどその残っているヤツらが非常に豊かになる」という願いを富士に託した。
それで「富める士(さむらい)達の山」で字を「浅間山」から「富士」にしたという。
これは武田先生の解釈。
でも武田先生は「そんなふうに読みました」ということで。
藤原不比等という権力者が天皇家と婚姻を結ぶこと、娘を天皇と結婚させることによって皇太子の祖父となり権力を掌握するという血統の天下取り。
ところが自分の息子四人が次々に天然痘で死んだ。
「記・紀」に登場しない富士山」と「聖徳太子登山によって聖地化される富士山」とは表裏一体のもので、いずれも藤原氏の都合によるものです。
藤原不比等は、富士山に関わるある事実を隠蔽したかった。
しかし、抑えられなくなってオープンになったため、子孫たちは富士山を最高度に聖地化しようとした。
すなわち、みずからの弱点を、逆に強みに転化させようとしたのです。(117頁)
これはちょっと戸矢さんの説を離れるが、間違いないと思うのだが、この前後に天照大神の神社を伊勢にしたり。
伊勢から富士を望める場所はすでによく知られていました。−中略−観光景勝地・二見浦です。
夏至の日には、夫婦岩の真ん中に見える富士山から太陽が昇ります。(129頁)
だから日本のいわゆる神話、或いは信仰の中に富士山が入ってくる。
不思議なことに藤原氏全盛の時代が・・・
それでこのあたりでどうも関東あたり、つまり大宮にあった別の関東の大王の娘さんなんかを天皇家と結ぼうとして姫君を貰ったようだ。
ところが姫君はその藤原氏が気に入らなかったので帰っちゃったという。
これが「かぐや姫」じゃないかという。
だから「月の国」ではなくて埼玉から来た関東の大王のお姫様だったのではないだろうかと。
これは武田説。
その藤原氏の失策を笑った作品が「竹取物語」ではないか?
でもその関東の権力者、王権はそんな姫様がいたのかなぁ?と思う。
これは大宮の方、埼玉の方見て下さい。
大宮氷川神社には三祭神といって三大神様が祀られているのだが、一人の神様の中に氷川女体神社、女性の神様が祀られている。
氷川女体神社は、−中略−「多氣比賣神社」の論社(該当候補の神社)です。
「多気比売」−中略−「タケヒメ」とは「竹姫」であり、「かぐや姫」のモデルだともいわれています。(199〜200頁)
これはもちろん埼玉の地方の神様ということなのだが、タケヒメこそ実はかぐや姫ではなかったのかと。
この関東の大王がいつの頃、近畿、ヤマト王権に従い、臣君の立場を逆にしてしまうのか?
それは歴史上では判然としない。
でも藤原氏のことなので婚姻を結ぶことによってゆっくりと浸食していったのではないだろうか?
それからもう一つ、これはそっちから調べると面白いのだが関東はこのあたりぐらいから馬の名産地になる。
馬を飼育するのにもってこいの平野があるというので、それを育てているうちに武士団ができる。
それが関東武士団。
馬移動の戦闘能力を持っている。
馬で移動する戦闘能力を持っている軍団というのは始皇帝が始めた軍団。
これは後に平氏を破って関東武士団が天下を取るのだが、そのあたり、大宮に住んでいた大王の知恵だったのではないだろうか?
古田武彦という人がいて、その人の本を読んだから武田先生の中では繋がった。
(番組中に古田武彦氏の具体的な著書名に言及がなかったので何の本かは不明)
それは古田武彦、この方が「関東に大王あり」と書いてらっしゃる。
昔々、近畿天皇家が「古事記」「日本書紀」を作った頃に、関東には大変な王様がいて、その人が作ったお墓こそが稲荷山古墳だという。
この本も併せて読んだのだが、はっきりまたこの本にも書いて無くて。
ただ「王権というのがそんなに簡単にまとまったんじゃ無いぜ」という。
そうやって考えるとちょっとワクワクする。
(「古事記はなぜ富士を記述しなかったのか」を読むのを)中途で「やめようかな」と思ったのだが。
読んでよかった
戸矢さん、いろいろ言ってごめんなさいね。
また別に神社の本を読んでいる。
これもまたいつか、皆さんにご紹介できると思ったのだが。
かつての人々が渦巻いていたという、それが日本には神社で残っている。
だから近くのお宮さんをお通りになる時に、昔ここでは大変な何かがあったと思って(柏手を打つ)。
「ダサい埼玉」とか「翔んで埼玉」とか小バカにしているととんでもないこと。
「翔んで埼玉」は大ヒットの映画だと思う水谷譲。
それももしかしたら氷川神社の御利益のお陰かも知れない。
「オイオイ!映画関係者、頭だけ下げとけよ、神様には」
というワケでお送りした今週だった。
実は大宮の病院で生まれているので、ちょっと誇らしい感じになった水谷譲。
因みに福岡には「高宮」というお宮があって、「高いお宮」と書く。
何かありそう。
その高宮のお宮さんのすぐ近くで生まれた人はタモリさん。