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2024年10月02日

2024年8月19〜30日◆ヒト、犬に会う(後編)

これの続きです。

先週に続いて「ヒト、犬に会う」。
人と犬の出会い。
半分ぐらいは想像するしかないが、太古の昔、オオカミであることをやめたイヌという種類、サルであることをやめヒトになった、その人と犬が出会った。
それを語っている。

言っておくが非難とかしているワケではない。
食文化だからいろいろあっていいのだが、インドシナ半島から中国、朝鮮半島に関しては犬を食べるという食習慣があって、それは習慣だからそういうのがある。
不思議なことに日本では極端な飢饉を除いて、食習慣としてこの習慣が定着しなかった。
それどころではない。

犬の眷属が「おおかみ(大神)」と呼ばれて尊ばれていた(49頁)

縄文がまた出て来るが、どうも縄文人は犬に神を感じた。
それも非常に高い次元の神で「大神」という。
考えてみればこの縄文の名残だろうか神社には狛犬というヤツがいて守っているワケで、神の代表者、それが狛犬なワケで。
それから日本の古代史に残っているが青森、亀ヶ岡・三内丸山(遺跡)等々では子供が死ぬと子供が寂しがらないように、或いはあの世への道を間違えないように犬に先導させるという意味合いで子供の亡骸のすぐ横に一体揃った犬の骨があったという。
これは食で食べたのではなくて、犬を番犬代わりにして殺して埋めたのではないだろうか?
埴輪から犬も出ているし。
これはアジアの習慣である。
犬に守ってもらうという。
だから漢字なんかも「家」という字を書く。
うかんむり(宀)の下の「豕」は犬の亡骸。
これは犬を埋めた時の姿。
特に人間の骨と犬を一緒に埋めると悪いものを退けるというパワーになって、にんべん(イ)の横に犬を書くと「伏」。
「そこに伏せて彼等は家を守っている」という一文字。
面白いもの。
犬というのは漢字のあちこちに姿を現している。

 イヌの家畜化過程で食用があったことは確かだが、すぐにイヌの超能力に気がつく人物もいて、防衛と狩猟の両面で使うようになったと考えるほうが合理的である。−中略−犬の持つ超能力を人間がどれほど引き出したかが、家畜化の鍵となる。それは、他の家畜にはまったく見られない犬の特質である。(116頁)

何でそうなったかというと、武田先生は思うのだが、中国大陸を横断してシベリア方面から行っておいて、カムチャッカ半島経由で北からずっと回り込んで住み着いたのが縄文人だとすると、ずっと犬と一緒に旅している。
それで日本列島に住み着いても森が近い、林が近い、山が近いということで鳥獣の被害が昔からあった。
だから食用なんかにはとてもできない。
共生して犬にケモノを早目に探知してもらうというのは命を守る行動の一つだったワケで。

 現在の犬の品種の中でもっとも古い形質をもつのは、コンゴ(アフリカ)のバセンジーなどで(116頁)

オオカミから分かれたばかりの犬。
バセンジーの姿形はオオカミに近いということかと思う水谷譲。
そうかも知れない。

これらに次ぐのがアキタやシバなどの日本固有種(116頁)

だから私達は古代から付き合っていた犬が、今でも世田谷とか杉並を歩いているという。
紀州犬もそう。
あれは古代犬だから。
猟をやる人達が鍛え上げて作った犬種だから。
犬がいなければ日本のように自然が近いところでは生きていけないんだという。
犬の不思議な能力を日本人は頑なに信じている。
これはまた繰り返しになるが、そういうものが今、インバウンドで外国からのお客様を集めているのではないか?
一番繁華街の百万人単位で人が出入りしているような渋谷という街には犬の銅像があるのだから。
あそこで海外の人がみんな写真を撮っている。
犬が銅像になっているなんていうのは、それは考えられないだろう。
犬は歌舞伎にも登場する。
「里見八犬伝」
犬に関してはたくさんの能力を人間は感じている。

彼を「超能力者」と呼びたくなる私の気持ちは分かっていただけるかもしれない。
 その犬の超能力の一端は、よく知られている嗅覚や聴覚、味覚である。
(124頁)

犬の嗅覚の凄いところは、その臭いから恐怖、狂暴、悲しみ、喜び、これも犬は臭いでわかっている。
犬の能力の凄いところは鼻で嗅ぎ当てた恐怖、狂暴、悲しみ、喜び、味覚等々を仲間の犬に伝えることができるという。
仲間の犬に伝えることができるということは、人間に伝えようとしている。
犬は人間と話して生きているつもりでいるもので、オオカミの能力を捨てて人と生きる為に犬になった。
オオカミの能力の代わりを得たのが人を救う能力。

 犬が人を救う能力を持つことは、セントバーナード犬の例でもよく知られている。 スイスとイタリアを結ぶ山道は、モンブランの−中略−救助犬バリーは生涯に四〇人を救った(129〜130頁)

 ある人物が大学への就職挨拶を兼ねて、ジャーナリストで大学教授のジョン・フランクリンの自宅を訪れた時、彼の愛犬スタンダード・プードルのチャーリーはその男が最初の挨拶をするや否や、居間の奥に引き下がって、遠くから油断なくその男をずっと観察しつづけたという。−中略−
 フランクリンは初対面の「気の良い人物」の前でチャーリーのこの行動が理解できず、ばつの悪い思いをしたが、その男は大学に入るや否やフランクリンの敵となり、冷戦を繰りひろげることになった。そうなってからはじめて、フランクリンはチャーリーの最初の出会いの時の行動の意味に気づかされた。そして、フランクリンはひとつの決定的な教訓を得た。
「いつも、犬の意見を聞け」
(142〜143頁)

これは私達が失った能力。
私達はいつの間にか感情よりも理性を優先させる人物になってしまった。
いろんな人生での決断があるけれども、それを全て頭で考えるようになってしまった。

大脳辺縁系の命じることを人間は前脳で理解できなくてはいけない。(143頁)

本能というようなもの、それは情動中枢にあるものであって、そういうもので一切考えない。
私達は命を懸けて戦ったという経験をすっかり忘れて頭で考えるようになった。
知的判断、それが最高の判断だと思っている。
しかしよく考えてみよう。

「知性的判断」は、生死がかかる最後の土壇場で常に「逃げ出す理由」を探すが、「本能」は立ち向かうべき時もあることを示す。(145頁)

「この三行、武田鉄矢ギクリとする」と書いている。
私達はなるほど、最近は本能を殆ど使っていない。

人間はあまりに多数の偏見によって自己の人格を形づくっている(言語、人種、民族、出自、家柄、財産、学歴、社会的地位などなど)ので、そのバイアスからしか事柄を判断できない。(143頁)

そういうものは客観性を持たない妄想なのだ。
犬はそういうものを一切持たない。
その人の体から流れてくる「とてもいい臭い」か「とても嫌な臭い」を嗅ぎ分ける。
犬は本質を見ているということだと思う水谷譲。
犬にはそういう能力があるのではないか?

 (犬は)すべて実際的な目的のために、一瞬から一瞬へと生きているから、彼(チャーリー)は不死なのだ。
(フランクリン原著
(146頁)

「生きるか死ぬか」の内省の果てに「生きるか眠るか」に行き着く。つまり、死ぬのは眠るのと同じだという思想である。(146〜147頁)

『ハムレット』の有名な「生きるか死ぬか」という台詞は−中略−死への恐怖が色濃く表現されている。(146頁)

新訳 ハムレット 増補改訂版 (角川文庫)



犬はハムレットのように悩まない。
犬は死と言うものはわかっていない。
だから眠りと同じ。
現実にそう。
私達は毎晩毎晩「死ぬ練習を」しているようなもので、死とは眠りの延長。
しかも自覚はできない。
犬は「生きる」か「眠る」かだから。
だから犬は生きている限り永遠。
死がない。
これは面白い。
このあたり、ちょっと犬から深い話に入っていきましょう。

人の心の根本にあるもともとの気分とでもいったもので、ヨーロッパ人の場合は「死(gone)」への恐怖」である。(148頁)

だから映画に於いて物語は全部それ。
やっぱり西洋の映画を支配している広がり方は「死ぬことの恐怖」。
武田先生は「人間は初期設定されていて死の恐怖というのが欧米人にはあるんだ」というのは凄く納得したのだが、これは間違いないと思うが、この本の中に犬のことを書きながら日本人の初期設定は何だ?という。
人種によってその初期設定が変わっているのではないだろうか?
死ではないのではないか?
死より怖いものがある。
これは武田先生はギクッとした。

日本人の場合は、「おくれることへの恐怖」だろうか? 子どもなら学校の、大人なら会社での他人との競争、同調その他どんな場面にでも「おくれる」、「遅れる」、「後れる」ことに恐怖を感じる。(148頁)

アメリカンジョークの中で、そういうジョークがあった。
飛行機が墜落してもう飛行機から飛び降りるしか助かる方法がない。
落下傘が開くかどうかわからないが、飛行機のスタッフが次々いろんな人を送りこんで行く。
アメリカ人には「素敵なご婦人がアナタを見てますよ」と言うと(落下傘が)開くかどうかわからなくても飛び降りる。
日本人には何て言うかというと「仲間はみんな行っちゃいましたよ」と言うと飛び降りる。
(「沈没船ジョーク」のことかと思われる。沈没しかけた船に乗り合わせる様々な国の人たちに、海に飛び込むよう船長が説得を行う。アメリカ人に 「飛び込めばあなたはヒーローになれます」日本人に 「皆さん飛び込んでます」)
その民族の違いによってラストの行動の仕方も変わってゆく。
その中で唐突に、島さんが書いた文章だと思うのだが「どうも日本人は遅れることへの恐怖心が死より勝っているんじゃないだろうか?」という。
その今はもう想像しかないが、昔若い人達に特攻隊を命じたりなんかするとみんな競って前に出たという。
あれは「一歩遅れる」ということへの恐怖心が死を急いだのではないだろうかと言われているし、忠臣蔵でも討ち入りをさんざん迷う志士もいる。
結局仲間達は行ってしまって彼は遅れるという。
そこでさめざめと泣く。
ここで武田先生の中年期から今のいわゆる後期高齢者になろうという20〜30年の悪夢を思い出した。
30年間同じ夢を見る。
夢の中身は何かというと全部「遅れる」。
受験場に遅れそうになる。
遅刻。
それから海外旅行をしようとしているのにゲートが見付からず飛行機に遅れる。
水谷譲もよく昼、ニュースを読まなければならないのに、浜松町ではなくて四谷にいて間に合わないとか、そんな(夢)ばかり見る。
遅れる。
死ぬ悪夢なんか見ない。
日本人は「遅れること」に対する恐怖の初期設定がなされているのではないだろうか?という。

人類というのは初期設定がなされているという。
初期設定の中に犬もいるのではないか?とおっしゃっているのが島泰三さん。
だからエイヤワディ川のほとりで子供を守ってくれた犬を抱きしめたアナタ。
それが時を挟んで「今もその犬と暮らしている」という犬との関係が繰り返されているのではないか?という。
もちろん犬の種類も変わって、もう「ケモノから守ってくれる」という犬ではないかも知れないが、朝、犬と散歩をなさっているご婦人を見ると、本当に何か人生の一端を懸けてらっしゃるような。
また飼っている犬を散歩をなさって世間話をしている奥様方がいる。
もう殆ど犬の言葉を自分で喋っている。
知り合いの犬に会ったら犬が思っていることを全部言葉にできる婦人の不思議な力がある。
「チャーちゃん。暑くなりました。ハァハァしちゃうよね〜」とかと言うと「まぁ、は・や・お・き、エ・ラ・い。ママの言うことちゃんと聞いて」とかと犬の気持ちを語る方。
でもあれは逆の目で見ると犬がご婦人を操っている可能性もある。
特に女の人はその能力に長けていて声音を変えてまで犬を演じてらっしゃる方が。
「怒ってるの?」とか(と言っているのを)よく見る水谷譲。
あれは実は日本人の心の中に初期設定された犬との関係が現われているのではないだろうか?
興味深いのは、もし夢を見るのだったらこれから犬に注目。
(夢の中に)犬が出て来る。
その時の犬が助けてくれる役回りに入る。
そういう意味で遠い遠い昔のことだが、犬の残像みたいなものが焼き付いているのではなかろうか?という。

人と犬との歴史、物語。
もう一度整理しましょう。
一万六千年前、シベリアと日本列島は歩いて渡れた。
寒冷期に当たって氷のせいで、ベーリング海峡も津軽海峡も繋がっている。
津軽海峡なんかで歴史に残っているが深さは膝ぐらいまでしかなかった。
だからジャブジャブ歩いて渡れた。
その渡る時に横に柴犬がいたという。
アフリカを出発してズンダランド、そしてインドシナ半島エイヤワディ川の河畔で犬と人は出会った。
ここから人と犬は長い旅に出て、縄文人、その人種はシベリアを経由して北海道から青森に入ったという。
これらの人々は旅の途中で様々な知恵を磨いていて、特に縄文に関しては土器を作って煮炊きした。
縄文人である彼等は栗やヒエ、更には魚、イノシシ、シカなどを調理し、この採取生活に最も協力し、共に戦ってくれたのは犬である。
狩りの協力者として犬というのは人間の仲間であった、という。
犬という種類に進化したイヌはデンプン質も食べることができた。
これはオオカミはできない。
オオカミは消化酵素マルターゼを持っていないので、デンプン質が取れない。
これを犬は獲得しているので人間の喰うものは全部付き合えたという。
日本に残っている犬種、紀州犬にしろ秋田犬にしろ柴犬にしろ、全部これは猟犬、猟の為の犬。
犬が持っている本能とは何かというと、獲物に対して自分の体重を計算する能力。

捕食者側の体重の合計が獲物の体重をこえた時、その大型の草食獣を捕まえることができる。−中略−石井さんのイノシシ犬が体重六〇kgのイノシシを倒すには、五頭以上の犬(体重一五kg程度)が必要となる。(134頁)

相手よりほんの僅かでも体重を重くする頭数が集まらないとチームプレイに打って出ない。
これを一瞬で計算するという。
これはオオカミの本能らしい。
オオカミも「シカを喰おう」と思った瞬間に計算するようだ。
「四頭以上必要だ」とか。

そしてこれは今でも散歩の途中で皆さんお気づきになっていると思うが犬と人が歩いていて、主従の関係が上手くいっている犬と人間の関係が上手くいっているペア共通の行動がある。
それは犬の方に特にあるのだが、歩きながら主人の顔を見上げている。
これが上手くいっている証拠。
一万六千年前から続く犬の習性。
飼い主を引っ張るような感じでグイグイ行く犬は上手く行っていない。
あれはオオカミの性格が強く出ている。
もう犬を飼ってらっしゃる方はお気づきだろうと思うが、犬は家族内に順番を付ける。
それでいつもエサをくれる奥さんがボス犬だとすると、夜遅くしか帰ってこない亭主は三番手か四番手のオオカミの群れで考える。
飼い主を引っ張る犬というのは飼い主を二番手に見ている。
そうすると自分がリーダーなので、一番最初にお話しをした武道を教えてくださる先生が子供の時、シェパードを飼っていて「コイツは犬だからいいよな」と思ってジーッと見ていると犬が切なそうな顔をして「『俺がどれだけオマエの面倒見てるのかまだ気付いてないのか』と、そういう目だったんですよ」という。
それが順位の中で犬は生きているから。
このへんが面白い。
さっきもスタッフと話していて盛り上がったのだが、犬というものは主人が指差すと指を見ないで指差したものを見る。
猫は「あれだよ」と指を指すと指を見るので「バカだねぇ」と思う水谷譲。
これは既にコミュニケーションの成立で会話と同じ。
ご主人がボールを投げる。
投げるところまで犬はご主人を見ている。
それでご主人がボールの方角を指すと「『あれを取ってこい』っておっしゃるんですね」と理解する。
この理解が動物の中で最高に勘がいい。

 チンパンジーたちは、人の視線や指さしの意味をまったく理解できないと言われている(155頁)

だから彼(犬)は言葉を使っていなくても会話している。
それが面白いところ。
だから主従の関係がしっかりしていないとダメで、だから命懸けで戦える。
最も顕著な例が秋田犬で、これは映画にもなったが「HACHI」の中で名場面があって。

HACHI 約束の犬(字幕版)



このあたり犬は目を表情だけで言葉無く会話しているという。

遠い昔、一万五千年も前のことだが、我らはインドシナ半島の川沿いの小さなエリアで人として犬として出会った。
そして一万五千年を旅してきた。
その「旅をした」という体験が犬と人を結んでいる。

ここで著者は「二分心」という脳の仕組みを紹介している。
ウェルニッケという名前の領域が脳の部分であって、このウェルニッケという分野に犬が住んでいる。
そう言ってもいいのではないか?
(本の中では「二分心」と犬とは特に関連付けられて語られない)
何か迷ったりすると話し合う。
そういう構造に人間の頭がなっている。
「二分心」
遠い昔に人間の心の中に住み着いた犬がいるということを忘れないというワケで。

最後の章でこんなことを紹介している。
(最後の章ではなく第四章。この後の話も本の内容とは異なる部分がある)
清水さんという方でイノシシ猟のできる犬を育てることをこの人も目指しておられる。
この人は一切鉄砲は使わない。
犬に頼む。
イノシシの足に噛みつき動きを押さえ、この方は猟銃を持たずにナイフだけで首を斬るという猟をなさっている。
使っている犬は洋犬・ピットブル。
攻撃的でしかも人間には友好、従順、忠実。
そして頑固だそうだ。

「アサキチ」は−中略−生まれて初めて見た親子づれのイノシシの子どもにかみつき、自分とほとんど同じ体重のイノシシを咥えた、という。
 この名犬を群れのリーダー「先犬はないぬ」として、イノシシの単独猟が完成した。
(203頁)

それで数頭で足に噛みつきイノシシを弱らせていくという。
アサキチは仲間さえいれば100kgのイノシシにも向かってゆくという犬らしい。
この清水さんもそうだし、一番最初にお話しした方もそうなのだが、この本の著者の島泰三さんも同じことを言っておられるが、昔の日本の村落、村では村全体で犬を飼っていた。
エサやりは村全体でやって、犬を飼う。
犬は夜間、放つ。
そうするとケモノが近づいてくると吠える。
そのことで村を守っていたのではないだろうか?
今はその犬と一緒に生きてゆくという知恵がちょっと人間の方が衰えてしまって、犬からの厄災を避ける為にも安全が優先されて犬をペット扱いにする。
でも犬はあの野生が生きているという。
それから人間の暮らしを脅かすであろうクマ、シカ、イノシシ、サル、そういうものに対しては彼等は必ず目覚めてくれる。

危険だからダメなのか?
やっぱり武田先生はオオカミだと思う。
オオカミさえいれば、もっとバランスがよくなる。
オオカミを見てごらん。
惚れ惚れする。
オオカミはいい顔をしている。
犬とオオカミのハイブリッドという犬種があって、これがいい顔をしている。
人間にはやっぱりもの凄く従順だそうだ。
それをやっぱり鳥獣被害の点では、村でお飼いになるというのは、もの凄く専守防衛になり得るではないかなと思う。
何か変な言い方だが、こうなったらもう縄文人の知恵を学んで犬に頼むことが一番だと思う。

 日本列島に犬とともにシベリア経由で入ってきたわれらが祖先は、東アジアで最初にオオカミ南下亜種イヌに出会った、アフリカから東進してきたホモ・サピエンスの最初の一員だった。−中略−同伴者として氷期の極大期の過酷な条件を生き抜くためには、犬への淘汰圧は厳しいものだった。(205頁)

犬の直感は襲って来るケモノ、或いは天変地異、そういうものに対して殆ど神のような予感を駆使するという。
オオカミの末裔という位置にいた、決してペットではなかった犬。
その犬を村や町内の公共財、公共のものとして飼うというのは提案としてどうであろうか?
ぜひ都知事にも考えていただきたい。
ぜひ頑張ってください。
緑のたぬき。
ちょっと都知事のことを好きになった武田先生。
揶揄した方がいたらしい。
「今度の選挙は赤いきつねと緑のたぬきの戦いだと言ってる人がいますよ」
そう言われた都知事。
「私、緑のたぬき好きなんです」とおっしゃった。

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「玉子入れると美味しいですよ」とかと武田先生の社長と同じことを言った。
「赤いきつねと緑のたぬき」小池氏が都知事選の対立構図示すフレーズにXで言及「私は卵を…」 - 社会 : 日刊スポーツ
そういう意味合いでは「グリーンのマフラーを巻いているたぬき」の知恵を以て犬を飼う。
そんなので鳥獣被害を退けられれば(「小池」ならぬ)「大きな池」になることができるのではなかろうかと期待したい。



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