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2024年10月06日

2024年7月22〜8月2日◆バイリンガル(前編)

まな板の上、「バイリンガル」が乗っている。
元ネタはある。
「言語の力」、(原題は)「The Power of Language」。
角川書店から出ていて(著者は)ビオリカ・マリアンさん。

言語の力 「思考・価値観・感情」なぜ新しい言語を持つと世界が変わるのか?



この本の腰帯にはこんな宣伝文句が載っている。

「ChatGPTの翻訳はますます巧みになっていくだろう。そんな時代に、外国語を学習する意味は何か」

こういう一文。
もう本当に訳せるようになった。
旅行先で看板とかにスマホを向けただけですぐその文字を訳してくれるから便利は便利だと思う水谷譲。

ではバイリンガル、他の国の言葉が使えるというのは果たしてこれから意味があるのだろうか?という。
武田先生もこの本を読みながらまた、日記を英語で書いていた。
しばらくやめていたのだが、この本を読んでいるうちにやはり老化対策も含めて続けてみようと思って。
それは何でかというと前にお話しした通り。
他愛のない日常生活、同じことの繰り返しなのだが、英語で書くと別の世界の出来事のように思えてくる。
その「バイリンガルの面白さ故に日記は英語で書く」これをもう一回復活させようと思ったワケで。
バイリンガルと言うが、もうバイリンガルだけではなく世界には「マルチリンガル」、三か国語、四か国語を話せるなんていう人がいらっしゃるワケで。
バイリンガル、つまり英語が自由自在に使えたら。
バイリンガルに憧れる水谷譲。
テレビのタレントさんでもいらっしゃる。
外国からお客様が来ても顔色一つ変えずに番組で。
あんなのを横で見ていて「いいな」と思うワケだが
この本を読み始めたら、この作家のビオリカさん。
まずはバイリンガルであること、或いはマルチリンガルであることについては絶賛から始まっている。
やはり言葉、他の国の言葉ができるというのは素晴らしいこと。

例えば文法で言うとそれは代名詞。
「わたし」「あなた」「彼」「彼女」という言葉だが、「橋」という名詞がある。
これは代名詞で日本語だったら「それ」とか「あれ」でいいのだが、異国ではこれを「彼」とか「彼女」とかで言ったりする。
そのこと。
橋の代名詞に性で表現するという。

ドイツ語では、「橋」の代名詞は「彼女」で(14頁)

ルーマニア語では、−中略−単数なら男性で、複数なら女性なのだ。(14頁)

無生物の対象に対し文法で性を与えるという。
そういう言語の中のあるイメージがあるのだろう。
「橋」で思い出したが、青春の頃だが、今、思い出すのは「明日に架ける橋」がある。
あの中に英語の歌詞で

Sail on silver girl,(サイモン&ガーファンクル「明日に架ける橋」)

(本放送ではここで「明日に架ける橋」が流れる)



それは最初の訳文はその通りだった。
「漕ぎ出そう、銀色の少女よ」という。
「何で銀色の少女なんだ」「変だな」と思ったのを覚えている。
何のことはない。
船のことを英語は「girl」「銀色の乙女」。
そういえば船なんかはそう。
「処女航海」と言う。
そうやって考えると言葉の中にある文化というのを覚えないと言葉は喋れないワケだから。
世界を見てみましょう。

ヨーロッパ、アジア、アフリカ、南アメリカの多くの国では、生まれたときから複数の言語に触れながら育ち、−中略−ルクセンブルク、ノルウェー、エストニアでは、人口の90パーセント以上がバイリンガルかマルチリンガルだ。−中略−ヨーロッパ全体で見ると、人口のおよそ3分の2が少なくとも2カ国語を話し−中略−、そしてカナダは人口の約半数がバイリンガルだ。−中略−EUの場合、高等教育を受けた人の80パーセント以上が2つ以上の言語に通じているという。(28頁)

(番組内で言われた数値は本の内容とはかなり異なる)
何かベルギーの人だったか四か国というのがいた。
どんな頭をしているのか本当に不思議。
フランスで知り合いになったパトリックというのが英語と日本語とフランス語だった。
そういう多国籍の人達がゴロゴロいる。
ただ、いくつもの国の言葉が話せるというのは心理実験でもちょっと変わったことがあって。

誰も見ていないところでサイコロを振り(出た数字は本人だけが見ることができる)、その数字を報告する。数字が大きくなるほど、もらえる報酬も増えることになっている。−中略−実際は、母語を使っているときのほうが、外国語を使っているときに比べ、数字の5か6を報告する確率が高くなり、1か2と報告する確率が低くなる。(38〜39頁)

第二言語を話しているときのほうが正直になるとまでいえるかも知れない。(39頁)

これは全然理由は(本には)書いていないのだが
日本語しか話せない人が集まって英語で仕事をやったりする。
それは武田先生も体験したことがあるが、インスタント麺を両手で持つヤツか何かで向こうに行く。
(東洋水産のCM撮影時の話かと思われる)
それでさんざんやる。
それはもう仕出しの人は全部ロスの俳優さんだから。
それで監督さんもアメリカの人で。
そっちの方がキャメラを回しやすいから。
アメリカのコマーシャル監督を雇う。
それでやった。
それで(撮影が)全部終わる。
そうすると日本人だけ深夜に集まる。
それで小さい声で「どうですアイツ?」と言う。
「ハーイ!ハワユー!」「アイムファインセンキュー!」と言っていた広告代理店の人が「笑ゥせぇるすまん」みたいな顔をして

笑ゥせぇるすまん (1) (中公文庫 コミック版 ふ 2-48)



「どうです?今度の監督。武田さんの意見聞きたいなぁ。アタシねぇ、ちょっと今、疑問符」とか、朝、スタッフ全員と会った時のアレと全然違う話を日本語でし始める。

この本は難しい。
この本は一つの単語が英語・スペイン語・ドイツ語・フランス語で次々と音を変えて行くということを紹介しているのだが、武田先生がわかるのが英語がやっとでスペイン語とかドイツ語とか書かれても何を書いているのか全然わからない。
だからその部分は説明できなくてすみません。
著者の方にも悪いと思うが、勘弁していただきたいと思う。

チャットGPTなんかと俳句の「プレバト!!」(夏井)いつき先生と、例えばチャットGPTが俳句を作れるだろう。
でも何が変わってくるか?
圧倒的に夏井先生が上手いことは間違いない。
GPTの最大の欠点は体が無いから。
時々(「プレバト!!」に)出させてもらっているから、下手くそながら一生懸命作るのだが、この(「今朝の三枚おろし」の)勉強をしながら、そっち(「プレバト!!」)の勉強もしていたのだが。
「夏」という季語でどんな句を作るか。
これは日本の素人の方。
海の家で一句作った。
「天丼のかくも雑なり海の家」
これはいい。
「見えてくる」というのはどうしようもない。
見たことはないのだが見えてくるという。
人間の感性というのは凄い。
それから「留守守るタオル一枚砂日傘」。
(正しくは「留守を守る」のようだ)
浜辺にパラソルが。
そこにデッキが置いてあって、何と誰もいない。
海に行ってしまったのだろう。
留守を守っているものがいる。
タオル一枚。
見えて来る。
「留守守るタオル一枚砂日傘」
何か海風の臭いが吹き抜けていくような句。
私達はかくのごとくわずか17文字で夏の情景を次々に歌にできる。
チャットGPTはどんな句を作るかわからないので紹介できないが、これはこれは人間に勝てるワケがないというワケで。

脱線ながら時間の表現。

英語の話者は、時間について話すとき、−中略−「距離」のメタファーのほうをより多く使うようだ。(85頁)

「Long, Long Ago」
距離。
日本人はまた凄いことに時間の表し方で「わび」「さび」というのがある。
「わび」というのは質素なのだが、「さび」というのは物の劣化。
言語で物が劣化していく時間というのを表現するワケだから。
典型は何かというと「金継ぎ」「鋳掛(いかけ)」。
割れた茶碗、穴の空いた鍋等々を修理して使うことなのだが、日本の価値観は「金継ぎ」「鋳掛」こっちの方が新品より値が高い。
それは時間が過ぎているという。
それは消耗しているワケだからボロになっているのだが、それを「美しい」というという。
ここに日本の美意識があるワケで。
これはやっぱり日本語を相当使いこなさないと理解できない。

武田先生が「感性違うなぁ」と思ったのだが、アメリカ育ちの日本人の女の子と一緒に桜を見に行った。
彼女が満開の桜を見て「ポップコーンみたい」と言った。
武田先生はついていけなかった。
桜がポップコーンに見えたことはない。
このあたり、その言葉の中にたくさんの文化というものも住んでいるようで、そのあたり明日から語ってゆきたいと思う。

言葉に関する人間の心理の実例。

「ダブルフラッシュ錯覚」とは、何かが1回出現(フラッシュ)するときに、短い音を2回聞くと、それが2回出現したように見えるという現象だ。(90頁)

(番組内では「ダブルフラッシュ錯覚」を条件反射のような内容で説明しているので本の内容とは異なる)
これが武田先生の勘だが、恐らく一目ぼれの原理。
前に話した。
一目ぼれは二度目が一目惚れ。
一回見た。
「好きなタイプじゃないな」と思った。
それで目をそらしたのだが、目をそらした瞬間に何かの音が聞こえてもう一度見た。
その時に「好きなタイプだ」という。
一度「二重線でその人を消した」ということがその人を際立させるきっかけになる。
水谷譲はこのあたりを相当疑っていると思う。
「その人を見た。その後にその人を誰かが呼ぶというその声を聞いた」ということはその人の名前が分かった、その人がいた。
誰かが「ハナちゃーん」と言ったらその人が「はい」と返事をした。
「あの子の名前はハナコか」
歩き始めて「ハナコ・・・ハナコ・・・ハナコ」と言っているうちに好きにっていく。
これはあり得る。
これが恐らくダブルフラッシュ現象を説明する、最もわかりやすい例え話ではないかなと。
好きだからその人の名をつぶやいたのではない。
つぶやくうちにその人のことが好きになってしまったのだ、と。

錯覚というのは心理の中にいっぱい住んでいて

 共感覚とは、ある知覚による経験が、別の知覚による経験が引き起こすという現象だ。たとえば、ある音を聞くと必ずある色が見えたり、ある生理的な感覚が起こったりするという現象だ。(91頁)

それから音楽を聞くとそれが味になって感じられる。
バイリンガルやマルチリンガルの人も言語と結び付いているある「共感覚」、別の感覚があるのではないか?という。
だから汚い言葉を使うと逆になってしまう。
面白いなと思ったのだが、罵倒しているYouTubeがある。
汚い言葉を使いたがる人というのがある。
「経産省なんていうのはクソなんだよクソ!」とかと。
この人達はなぜ汚い言葉を使うのか?

 言語は痛覚にまで影響を与えることもある。汚い言葉を使うと、冷たい氷水に手を入れていられる時間が長くなる。−中略−汚い言葉を使うことで−中略−痛みを感じる閾値が変化したからだろう。(94頁)

だから人から傷つけられたくないと思うと汚い言葉を使う。
痛みについて怯えている人は汚い言葉を使って自分の感覚を自分で麻痺させる。
水谷譲が今、頭に浮かんでいるコメンテーターの方もそういう感じがある。
汚い言葉を使われて、人が入れないぐらいの言葉数の多さでワーッと言う。
それはもう自分で壁を作ってらっしゃるんだろうなと思う水谷譲。
それは「痛みに鈍感になりたい」という願望が汚い言葉を使わせる。
汚い言葉を使いたがる人は痛みについて怯えている人。
そういう人は世間にいるが「あ、怯えているんだな」という証拠だと思ってください。
自らの怯えが汚い言葉で自分を守るという。
そうやって見方が変わるので。

☆高齢者の方へ
運動は肉体を変えます。
同様に新しい言葉を学び使うと脳の活動を変えることができます。
脳の活動を変えると脳の構造そのものを変える力があるんです。
時々は婆さんのことを「ダーリン」と呼んでみましょうよ。

婆さんは「ハニー」ではないかと思う水谷譲。
爺さんが「ダーリン」。
でも急にそう呼ばれたらちょっと怖いと思う水谷譲。
面白いのではないかと思う武田先生。

バイリンガルの脳は、前頭部の灰白質が普通よりも分厚くなっていることがわかってきた。
 灰白質はニューロンの細胞体が集まる場所であり
(106頁)

 灰白質の量と、白質の統合度は年齢とともに低下するが、複数の言語を話すことによって、その低下を遅らせることができる。私たちの脳は、自らを再組成し、ニューロン同士の新しいつながりを生成するという驚くべき能力を、経験とともに身につけてきた。(107頁)

だから同じ言葉ばかり使うから老害になってしまうのだろう。
斬新な言葉を高齢者の方は武田先生も含めてどんどん使いましょう。
「ダーリン」でも「ハニー」でもいいじゃないですか。
新しい婆さんの呼び方を考えると、その分だけアナタの脳、頭の中には代謝が生まれる。
そういう現象のこと、脳内代謝が盛んになるということは何かというと、脳内の新しいニューロンの流れが作れる。
新しい流れが作れると「エピジェネティクス」という、遺伝子そのものが変わる。
(この後も番組内では遺伝子自体が変化するような表現をしているが、あくまで「遺伝子の発現」が変化する)
新しい言葉の話。

 エピジェネティクスとは、遺伝子そのものの変化ではなく、遺伝子の発現が変化する仕組みを研究する学問分野のことだ。(109頁)

武田先生も「年取ってから遺伝子が変わるなんてあんのかな?」と思っていたのだが、この人の説を読んでいるとありそう。

 エピジェネティクスの変化が変化前の状態に戻るのは、たとえば喫煙者だった人がタバコをやめた場合などだ。喫煙者のDNAは、−中略−ある種の病気の遺伝子が「オン」になる可能性が高くなる。禁煙し、そのままタバコを吸わずにいると、DNAのメチル化レベルが上昇し、いずれ非喫煙者と同等のレベルになる。(110頁)

人間の実験では確認できない。

 母ミジンコが捕食者に襲われた経験があると、その子どもはトゲのヘルメットをかぶって生まれてくる。−中略−母ミジンコの経験によって、子ミジンコが持つ遺伝子の発現が変化する。これがエピジェネティクスの変化であり(110頁)

そしてこの現象が見られるのはミジンコだけではない。自然界に自生するラディッシュも、親となるラッディッシュが蝶の幼虫に葉を食われたかで遺伝子の発現に変化が起こる。(111頁)

植物の毒というのはいっぱい実例がある。
シマウマが草を喰うのでその草が怒ってしまって、毒を持ち始めてしまってシマウマを殆ど殺してしまったとか。

エピジェネティクスの研究者の間では、このような現象は「−中略−(母親を噛むと、娘と戦うことになる)」と呼ばれている。(111頁)

親の代の経験は子供の世代に影響するということで、いくつもの偶然を経て環境に適応するのではなく、一発で適応するという。
そういう非常に直線的な進化の方法もあるという。
ただしエピジェネティクスは今もまだ研究中で、二百年ちょっとということで、まだそれ程の大木には育っていない。
ただし親の環境、体験、食事、言語、これは子供の遺伝子に大きな影響を与える。
マルチリンガルの子は明らかに脳の構造、細胞レベルに於ける化学物質変化、これが親からいろんな形質を貰っているようで、物事をいくつにも種類に分けて考えることができるという。

これは余りピンとこないかも知れないが、日本人の脳がもの凄く独特なのはこれは外国の大学教授、マリアンさんが発見なさったことだが、これは分かりやすく言う。
日本人は西暦で世界史を覚え、日本史は年号で覚える。
そういうところはある。
世界の歴史は西暦で言えるのだが、自分の個人的な思い出は昭和で、年号で語るという。
「昭和30年、お富さん」とか何かそういう。

お富さん



それは西暦に直せない。
「昭和30年・・・俺、6歳。あ、『お富さん』『おーい中村君』」とか出て来る。

おーい中村君



大変申し訳ないが、我々は「昭和何年」と言ってもらうと出てくる。
令和で言われると全然出てこない。
「令和元年」と言われると「え〜?」と4とか5を引いて一生懸命自分で計算しなおさないと思い出さない。

TJは、生みの親と養親の間でほとんど、あるいはまったく情報が共有されない「クローズド・アダプション」というシステムを通して養子になった。3歳で里子に出され、−中略−最終的にあるアメリカ人家族に引き取られて別の州に移った。−中略−
 彼女は英語を話すアメリカ人の女性として成長した。
−中略−自分の言語の歴史を解明し、ルーツについてもっと知りたいと思ったからだ。−中略−昔知っていたが今は忘れてしまった言語を再学習するスピードと、まったく知らない言語を新しく学習するスピードを比較するという形で行われる。習得が早ければ、たとえ本人は覚えていなくても、幼少期にその言語を話していたということがわかる。−中略−その結果、TJが幼いころに話していた言語は、ロシア語かウクライナ語だろうということがわかった。(332〜333頁)

(番組内では生後まもなく養子に出されたような説明をしているが、本によると上記のように3歳)
つまりさっき言った「『親の持っている形質』というのは体の中にきちんと住んでいるんです」という。
(3歳までの言語を探った話なので、当然そういう内容ではない)
このへんは面白いもの。

DCCS課題があげられる。−中略−
 この課題では、さまざまな基準でカードを並び替えることが求められる。たとえば、ボートが描かれたカードと、ウサギが描かれたカードがあるとしよう。カードは赤か青のどちらかに塗られている。このカードを「色」を基準に並び変えるとしたら、赤いボートと赤いウサギが同じグループになり、青いボートと青いウサギが同じグループになる。「何」が描かれているかを基準に並び変えると、赤いボートと青いボートが同じグループになり、赤いウサギと青いウサギが同じグループになる。
「何」を基準に分類するときは「色」は無視しなければならず、反対に「色」を基準に分類するときは「何」を無視することになる。
−中略−バイリンガルの子どもはこの種の切り替えタスクが得意なことが多く(126〜127頁)

 バイリンガルは日常的に言語を切り替え、そのときに使っていない言語からの干渉を無視するという訓練を行っているので、脳が鍛えられ、より効率的なコントロールシステムを発達させることができる。(139頁)

言語処理だけでなく、試行全般にとっても重要な意味を持つ。試行全般に含まれるのは、記憶、意思決定、他者との関係などの能力だ。(142〜143頁)

それもモノリンガルの人よりはバイリンガルの人の方が決断が早い、と。

 H2Oという化学式で表される物質が、温度によって液体の水にも、固体の氷にも、気体の水蒸気にもなるのと同じように、1人の人間も使う言語によって違うバージョンの自分になれるということだ。(146頁)

不思議なバイリンガル、マルチリンガルの人の個性を語りましょう。

 中国語と英語のバイリンガルを対象にした研究では、参加者が中国語で回答すると、自分について語るときにより集団を重視し、−中略−外国語で話すと、社会の規範や迷信からより自由になるとともに(146頁)

中国語で中国のことを言う時は「私達」になる。
英語で中国を語る時は「私は」になるという。
母国語で話す時は個人の表現が小さく抑えられる。

それから英語で街頭インタビューをやっている。
あれは手足を動かしている。
普通に考えて英語を喋る人は身振り手振りは大きいというイメージはある水谷譲。
あれは言語の中にその力がある。
水谷譲は英語はダメだが、たまに面白おかしく「OH!」とかやって肩をすくめたり、手振り身振りは大きくなる。
何かやる時は英語で愚痴を言う時はその仕草が出ている。
「Oh, no!」「Oh, my god!」とか「Oops!」

バイリンガルは言語を切り替えるときに、非言語コミュニケーションやボディランゲージも切り替えているらしいということだ。(149頁)

言葉の中にその人の人格を変える何かがある、と。
これは武田先生が奥様から指摘されたのだが、奥様が武田先生の横にいていつも思っていたのだろう。
「福岡県人というのは福岡人と会った時に、ホント態度違う」と言う。
福岡とわかった瞬間に全部言語は博多弁に切り替える。
「『しぇ』の発音が向こうに戻っているな」と思った瞬間に「オマエどこの生まれや?」という。
これでまた第三者が入ってきたらピタっとやめて標準語に戻るのだが、その切り替えの早さ。
それから福岡県人にしかわからない独特の標準語のフレーズの使い回し。
「と、思うとですよ」とか。
何かある。
タモリさん(の言葉遣いを)聞くともう近所のおじさんを思い出して仕方がないというような、そういう意味で福岡のいわゆる方言というのは身に沁みている。
鹿児島に行くと、あの人達は徹底して鹿児島弁で話す。
仲間内だけで。
全くわからない。
これは関西人になると変わる。
関西弁で話すことを、他の都道府県人がやってきてもやめない。
全てのものを大阪弁で表現しようとする。
関西の方、気を悪くしないでください
ただ、武田先生はそれが面白くて仕方がない。
世界の観光地で関西の人、大阪の人にすれ違うと、その大阪の表現が出て来る。
エッフェル塔を見ながら横で「何や、通天閣の方がマシやん」とか、メコン川を見ながら「大淀川には勝てんがな」とか。
そういう風景も全部大阪に切り替えていくという。
このあたり、言葉というものがその人を変えていくということはおわかりになると思う。


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