「バイリンガル」
言葉の問題。
自分の国の言葉が使える、これだけで十分なのだが「バイリンガル」、もう一か国別の国の言葉が自在に話せる、或いは「マルチリンガル」、たくさんの国の言葉が話せるという。
言葉のみを見つめると世界には日本語では置き換えが不可能な表現というものがあって、もちろん日本語もそういう言葉がある。
「もののあわれ」とかというのはとても訳しにくい。
韓国語では器や袋に何かを入れるとき、「ぴったり」入っているか「ゆったり」入っているかで使う単語が異なる。(165頁)
キムチを瓶に詰めたりする文化からきているのかと思う水谷譲。
「詰め物に対する厳密さ」みたいなものを認めて。
日本だと山盛りというのはサービスなのだが、中国ではそれが当然で、或いは「山盛り」と「擦り切り」、それをちゃんと言葉で表現するという。
英語で「いとこ」を表す単語は「cousin」しか存在しないが、中国語では8つもある。母方か父方か、男か女か、自分より年上か年下かで分類しているからだ。(165頁)
ただ、困ったことに今は中国はおじ・おばがいないという一人っ子政策なので。
言葉だけ残って内実が伴わないという。
言語・言葉というのは深く人間の心理に根差している。
これはもう先週もお話したが。
中国語と英語のバイリンガルを対象に、ギャンブルにおける意思決定に関する研究を行った。ポジティブなフィードバックと金銭的な利益(すばらしい! プラス10ドルだ!)を経験した後と、ネガティブなフィードバックと金銭的な損失(最低だ! マイナス3ドルだ!)を経験した後で、それぞれの被験者がどのような意思決定をするかを観察する。
その結果、母語以外でフィードバックを受けたほうが「賭けに出る」という意思決定が減り(172頁)
今言ったように母国語の場合は非常に大胆になってしまう。
第二言語で語る時は非常に慎重になるという意味で、その習慣が日本にも根付いて、例えば歯医者さんとか病院の外科医などは治療の最中、専門用語で語るという。
カルテなんか開く時「次のクランケ呼んで」とか。
歯医者さんで「10点10点」とか。
あれはいわゆる「言語を変える」ということの方がクールになれるので。
外科手術なんかでその国の言葉で話されると意識がある時に嫌。
武田先生は心臓に欠陥があったので腕の血管からずっと細いチューブを入れてそれを覗きに行くという。
難しかったのだろう。
若い方がやってくださったのだが、横で指導なさっているのが老教官の方。
その人が全部日本語でおっしゃる。
「ビビらずドーンと行けよぉ!」
嫌だった。
「ドーンと行け。ドーンと行け」と言うのが凄く嫌で。
さすがに主治医にポロっとこぼしたことがあった。
「『ドーンと』はやめてください」
そいう時にはやはり専門用語を使ってもらうと、こっちも・・・
同じ言葉でも著者は「インフルエンサー」、影響を与える人の言葉の力を振り返っている。
いい話があって、その典型でジョン・F・ケネディの話を。
ジョン・F・ケネディはソ連邦がベルリンの真ん中に壁を建てると言い始めた時に激怒して「そんなことは許されない。人類に対する冒涜だ」とソ連邦を叱った。
そのベルリンの壁の向こう側にいたのが今のプーチンさんだが、ケネディの演説を聞いただろう。
冷戦時代のもっとも有名なスピーチの1つで、ジョン・F・ケネディはドイツ語で「Ich bin ein Berliner」と言った。これは「私はベルリン市民だ」という意味であり、ベルリンの人達との連帯、アメリカと西ヨーロッパとの結びつき、そしてベルリンの壁建設に反対する姿勢を伝える役割を果たしている。(188頁)
英語で喋っておきながら、たった一言ドイツ語が入ったという。
これはベルリン市民に強烈な自由主義の素晴らしさを伝えたという一語。
言語・言葉。
政治家の方にとってもとても大事で、プーチンさんはウクライナの子をもっていってロシア語で教育するというのに熱心で。
政治家は、聴衆に合わせて話し方を変えている。たとえばバラク・オバマ元大統領は、黒人に向かって語りかけるときと、白人に向かって語りかけるときで話し方を変えていた。(188頁)
同じ米語でもそれぐらい違う。
インドでも同じようなことがあり、チョコレートのような贅沢品の広告ではヒンディー語よりも英語を使うほうが効果的で、洗剤のような日用品の広告では英語よりもヒンディー語のほうが効果的になる。(191頁)
これは日本も同じ。
日本も高級品はワリと英語でやる。
イメージが。
綺麗なアナウンサーの方が「beautiful」みたいな。
これはアメリカの人。
面白い。
日本語というのは難度が高く、その言葉がその意味を持たないということが大きい。
日本の文化では、空気を読めるかどうかが死活問題になることもある。なぜなら多くの場合、相手の言葉だけで相手の本心を知るのは不可能だからだ。交渉術を教えるコースの中には、日本人の「かもしれない」は、英語の「絶対にない」と同じ意味だと教えているところもある。(205頁)
それから「前向きに検討します」というのは前向きではない。
「考えてみます」という返事は「あまり考えたくない」という意思表示だという。
このへんは痛痒い指摘。
実に当たり前の話だが、これは指摘されてハッと気が付いた。
「例えば」と著者は言う。
結婚式の招待状。
いくつかの国(たとえばモルドバ)では、結婚式に招待され、はるばるアメリカから大西洋をわたって出席する場合、結婚式だけで終わらないことが多い。たいていは、式の前の晩と当日の晩の宿、滞在中の食事、そして実際の結婚式とそれに続くディナーとパーティまで、すべてホストが提供してくれる。−中略−オランダで結婚式に招待されると、招待に含まれるのは本当に結婚式そのものだけだ。式の後のディナーやパーティは含まれず、それぞれに別の招待状が用意されている。(205〜206頁)
中国の場合、結婚式の招待状は、式典、ディナー、パーティなど、結婚式に関連するすべての行事への招待を意味する。アメリカでは、式典とパーティを分け、それぞれの時間を明記するのが普通だが(206頁)
結婚式の招待状というものは、−中略−それが意味するところはさまざまだということだ。(206頁)
アメリカにあって英語が公用語ではあるが、移民の国であるが故にフランス語、ドイツ語、オランダ語等も許されている。
また、アフリカ系アメリカ人によって訛りもあり、その訛りが相当地域差でありますよ、と。
そして陸軍と海軍では言葉遣いが変わる。
中国では公用共通語、これは北京で使われている言葉。
マンダリンと広東語の違いは、たとえばお互いに意思の疎通が可能なデンマーク語、ノルウェー語、スウェーデン語の違いよりもずっと大きく(209頁)
東北弁と鹿児島弁以上の違いがある。
これはロシアとウクライナ語もそうで、ある意味でお互い分からないように話す傾向があるのではないだろうか?
これは武田先生の説だが、とにかくウクライナの人をロシア人にしたがるプーチンさんと、ロシア人になりたくないというウクライナ人の戦いが未だに続いているという。
ロシアでプーチンさんが凄くいろいろ頑張っておられるが、武田先生は不思議で仕方がないのだが、司馬さんの本から学んだのだが、ロシアの人は「あなた方はアジア人ですか?」と訊くともの凄く怒る。
ロシアの人は凄くアジア人が嫌い。
日本人とか中国人が嫌い。
でも一番今、仲がいい国は中国なのだが。
何で嫌いか?
ジンギス・ハンにやられた。
ジンギス・ハンに奴隷同然に使われたので大嫌い。
アジア人のことを「タタール」と呼んだ。
「タタール人」という。
間宮海峡がある。
ロシアの人は日本人と差をつけるために「タタール海峡」と呼んでいる。
「ここから先は野蛮人しか住んでいない」という意味で「タタール海峡」。
それで肉を喰う時もドロドロした「タタールソース」をかける。
それが「タルタルソース」。
「タルタル」というのは「タタール人のソース」という意味で。
これは武田先生の発見だが、ウクライナは「ウクライナコサック」といって、馬に乗るのがとても上手な一群の兵士がいた。
このコサックは実は何をプライドにしているかというと「俺達はジンギス・ハンの末裔だ」と言っている。
そのへんはどうもアジア観がロシア人とウクライナ人では違うそうで。
プーチンさんはただひたすらヨーロッパに於けるロシアの地位を上げたいという。
だからヨーロッパを従えることが、彼のスターリン以来の夢。
アメリカにまいりましょう。
現在、アメリカでは350種を超える言語や方言が話されている。(215頁)
アメリカ人というのはそういう意味では最も耳のいい国民。
どんな訛りがあろうとも何とか解釈してくれるという。
一説によると「バガボンド」
あれを熊本弁と言う人がいる。
「バカモンが!」という。
いとも簡単にアジア人の言葉を吸収できるアメリカの言語世界。
早口で喋るアメリカ人のお喋りなんか聞いていると何を言っているかわからない。
この本では面白い実験をしている。
英語話者を対象に日本語の対義語のペアを見せ、それを英語に翻訳した単語のペアからどちらがどちらの意味になるか推測してもらった−中略−
たとえば、日本語の「heiwa(平和)」と「tatakai(戦い)」というペアを見て、それから「peace」と「war」というペアを見た英語話者は、偶然の結果と思われるよりも高い確率で、「平和」は英語で「peace」であり、「戦い」は英語で「war」だと推測することができた。(245頁)
(番組では音を聞かせたという説明になっているが、本を読んだ限りでは見た目を問うたようだ。音声を聞かせたのは別の実験)
こんなふうにして25組の対義語に挑んでもらうという。
アメリカ人の耳で言葉の響きの勘を試すという。
日本語の他にフランス語、中国語、これはもちろんマンダリン、そしてポーランド、ルーマニア、ロシア、タイ、スペイン、ウクライナでこのゲームをやった。
正答率がもっとも低かったのはマンダリン−中略−、日本語−中略−、ロシア語で、タイ語−中略−、ポーランド語−中略−、ウクライナ語−中略−がそれに続く。正答率がもっとも高かったのはルーマニア語(74パーセント)、フランス語(79パーセント)、スペイン語(81パーセント)だ。(246頁)
つまりアメリカ英語に響きがよく似たトップがスペイン語。
似ていないのが中国、日本、ロシアの国語ということ。
面白い実験。
音・象徴としてイメージを喚起しにくいのが中国、日本、ロシアで、日本語はまことに微妙な立場であるという。
中国では飛行場のことを「机の場(机场)」と書いて、それで「飛行場」と読む。
何で「机の場」かというと中国では「机」と書いて、これは機械の「機」と読むそうで。
機械の「機」を簡単にしていったら「机」の感じになったということだと思う水谷譲。
同じ漢字でも解釈が日本と中国では違ったという。
漢字で「手紙」と書くと中国の人は「トイレットペーパー」だと思う。
それほど違うもの。
もう仮想敵国になっているアメリカなのだが、漢字で書くと
中国語で「アメリカ」は「美国」だ。(250頁)
どんなに憎くても「美しい国」と書くワケで、自らが当てた「美」の文字がまぶしいのではないだろうか?という。
日本に当てたのは「小さい日本」と書いて「小日」と「日の出の方角の小さな国」というのが日本のイメージなのだろう。
中国語の「嫉妒(嫉妬)」や「奴隶(奴隷)」は、どちらも「女」という意味をあらわす文字が含まれている。(250頁)
これが意味の中にイメージを植え付けてしまう。
日本語の非常に興味深いことに、音に関しては豊かなオノマトペを持っている。
「太陽がサンサンと照る」「風がブローブロー、ビュウビュウ吹く」「アイツはスイスイ泳げるよ」と。
それから「ほら、そこ見てご覧。綺麗な石がティンクルティンクル、キラキラ光っている」。
音、象徴としてはオノマトペの方が国際標準に近い。
こういうのを昔、武田先生は無茶苦茶面白かった時があった。
「わたつみ」と海のことを「ワタ」という。
それは「water」ではないか?と。
水が「ワタ」。
これは武田先生の推論。
もう脱線。
許して下さい。
「面白いな」と思ったのは、この日本語というのがオノマトペをとても豊かに持っていることが、マンガになりやすいのではないだろうか?という。
オノマトペの心地よい音の発音は表情、それから心理みたいなものを的確に言い当てる表現がある。
「びっくりする」「どっきりする」
これはやっぱり言葉と同じように表情がもう既に言葉が持っているという。
マンガで描く時は「びっくり」と「どっきり」は表情が違う。
これがアニメで描くとコマ数になる。
「びっくり」はコマ数がいらない。
でも「どっきり」はコマ数がいる。
そういう意味ではこのオノマトペを持っていることというのがマンガ文化、世界共通の言語が達成できたのではないだろうか?と。
この本は読めば読むほどどんどん難しくなって。
著者は音・象徴、形・象徴。
そういうものに数学がある、と。
だから言語の後ろ側には数学があるんだというふうにおっしゃっている。
たとえ昆虫でも、数を数えたり、大きな数を認識したりする能力があるという。−中略−たとえばミツバチは位置が特定できるような目印をかぞえることができ、アリは自分の歩数を数えることができる。(297頁)
カラスはかなり高度な数学能力を持つことで知られていて、たとえばゼロの概念を理解している。(297頁)
ある種のカエルは、数を頼りに求愛の儀式を行う。中米原産のトゥンガラガエルは、メスをめぐって他のオスと争うときに鳴き声を使う。1匹のオスが、鳴いたあとに短い音を一回出すと、もう1匹のオスは短い音を2回出して対抗する。すると最初のオスが短い音を3回出し、もう1匹のオスはそれを受けて短い音を4回出す。その競争が、どちらかの息が切れるまで続くのだ。−中略−トゥンガラガエルは音の回数をかぞえることができる。(298頁)
だから夏場の田んぼはやかましい。
そういうこと。
無駄に鳴いているワケではなくて、「この人は何回もよく鳴くな」と思うと「アンタを求める欲求が強い」という。
同じ子の名前をずっと叫び続ける。
かおるちゃん おそくなって ごめんね(美樹克彦「花はおそかった」)
というようなもの。
これがマンガ・アニメの中にもこの数学があって「ギクッと驚く」と「びっくり驚く」は描くコマ数が違うという。
「ギク」は一瞬で、コマ数が少ない程「ギク」の感じが。
「ビックリ」は仰天するワケで、ゆっくり持ち上がるようにコマ数を多く使うという。
そういう意味では言語の後ろ側に数学があるのではないか?という。
聴覚の研究で使われるような、きわめて敏感なマイクを耳に近づければ、耳が発している音を拾うことができる。この音は「耳音響放射」と呼ばれ、現代の科学が直面する謎の1つだ。(325頁)
これは一体どういうことか?
はっきりとはまだわからないワケだが。
音をより聞く為に、一定の音を出していた方が音が聞きやすい。
そういう音響放射みたいなものを出している。
前に「60歳のトリセツ」か何かで黒川先生だったかの本で脳が人間の寿命を実は知ってるんじゃないかという。
脳自体も持っているらしい。
(このあたりに出て来た話)
だから自分の体には別の何かがいつもあるというふうに思っておられるといいのではないだろうか?
とにかく人間というのは不思議なもの。
このこういう小さいエピソードが凄く気になって。
この本の中に紹介してあった。
前向性健忘症(外傷や精神的トラウマを受けた時点を起点として、それ以降に新しく記憶することができなくなる症状)の女性の治療にあたっていた。
その女性は、子ども時代のことや、大人になってからのことも覚えているが、新しく記憶することができない。−中略−たとえ毎日彼の診察を受けていたとしても、彼に会ったことも思い出せない。
ある日、クラパレードは手のひらにピンを隠し、彼女がやってくるとそのまま握手をした。彼女は手にピンが刺さるのを感じた。その翌日診察室を訪れた彼女は、クラパレードと握手することを拒否した。もちろん彼に会ったことも、前日に握手したときにピンで刺されたことも覚えていないが、それでもいつもしていた握手を拒否し、その理由を本人は説明できなかった。
つまり、彼女の顕在意識の中に手をピンで刺された記憶はないが、それでも記憶はたしかに存在しているということだ。(80〜81頁)
(番組では複数回ピンを刺したように説明しているが、本によると上記のように一回)
そして先週申し上げたが、ある女性が記憶の始まっていない時に養女としてアメリカの里親に預けられた。
どこの国、どこの街の他全く里親には知らせず、その子ももちろんわかるハズもない。
里親から人生を始めたのだが、その女性は英語を話すアメリカ人として成長。
ところが大きくなった後、その事情を知って自分の本当のルーツはヨーロッパである。
自分はどこの国の人間だったのかを知りたくなってお願いしたらその大学が彼女にヨーロッパ圏の言葉をいろいろ教えた。
彼女が一番学習スピードが上がった国語は何と驚くなかれウクライナ語で、彼女はウクライナ人だったということが判明したという。
持って生まれた言語に対する感性というのは、生まれ育ったその場所で既に決まっているのではないだろうか?という。
世界の支配者で言うとロシアのプーチンさんが、とにかく子供にロシア語を叩きこみたがるのもそういう理由。
それから習近平さんがもの凄く中国統一に燃えておられる。
これは何かというと「言葉」。
北京の公用語が新疆、四川、それから南の方の江南では通じない。
この「通じない」という苛立ちが習さんにはあって、だから共産党で中国をまとめるしかないという。
そうしないと中国は三国志や春秋戦国時代のように国が割れてしまうという恐怖感が、習近平さんにはあるのではないだろうか?という。
言葉を見つめてみたが、著者は最後にこんなことを言っている。
全世界は高度の世界である。
或いは記号、符号。
DNAも−中略−4つのヌクレオチドで構成された言語で書かれている。アデニン(A)、グアニン(G)、シトシン(C)、−中略−チミン(T)(329頁)
これが二重のらせんのテープに刻まれていて遺伝子を伝えることによって生き物を生み出している。
生き物というのは考えてみると一冊の本なのだ、という。
言葉というものを取り出して、とりあえずいろいろさばいてみたワケだが。
面白い情報もあれば退屈だった情報もあろうかと思うが、最後の方、解説で (この本の監修の)今井むつみ教授という方が締めくくりでこんな話を話しておられる。
異国で買い物をするんだったら翻訳はチャットGPTで十分だ。
しかし深い技術や文化、思想を解く時、人間が言葉を解かなければならない。
言葉を武器にして民族の差を付けようとしたり、言葉で人を支配しようとしたり、或いは人の不安に言葉でつけこもうとする、そういう人を操るものとか犯罪者がいることは事実だ。
しかし多文化こそ我らが未来である。
そのためにはバイリンガル、マルチリンガルであること、言語を自由に操ること。
危険なことかも知れないけれども私達に待っている未来なのだ。
水原一平氏というバイリンガル。
非常に器用にアメリカ英語社会の中で生きていた彼が、なぜ大谷翔平という主役に対して凄まじい金額を騙し取ったのか?
その根っこは一体どこにあるんだろうか?というのをずっと考えている。
彼は英語ができなければ・・・
賭け事はやられたんだと思うが、そんな大きな犯罪にはならなかったのかな?と思う水谷譲。
あの水原一平氏、バイリンガルであった、英語が堪能であった彼は、その預かった鍵を持ちながら博打という扉を開けてしまったという。
一平氏の犯罪を整理すると、彼の英語の全ては大谷翔平の野球の為の言葉。
彼が自分の為に使う英語はバクチの為であった、と。
大谷の野球を支えながら大谷を騙す為の日本語が使われた。
水原氏は考えてみれば凄く不思議な立場。
英語の質問を日本語で大谷に渡し、大谷が発した日本語を英語にして記者達に渡すという。
それが彼の仕事だった。
でも水原一平氏の声を聞いたことが全く無い。
彼は英語と日本語という世界に住みながら、彼の声はメディアでは一切流れていない。
彼の声が求められたのは裁判所に出入りする時に日本のマスコミ、まあアメリカもいたけれども、ワーとマイクを突き付けられて「何か一言」。
裁判所に行って初めて声を求められる。
水原氏の悲劇とはバイリンガルでありながら声を持たない。
バクチの方にのめり込んでいった、というのは何かありそうで。
かなり大きいネタなので、またもう一回やりましょう。
それは別個の本を読んでいた時に、賭け事に対する依存症の人達の病態を説明したヤツがあって。
(「みんな政治でバカになる」にを指していると思われる。本の中に「依存症者は意思が弱いのではなく、『他者に依存してはいけない!』という考えを強く持っている」とある)
みんな「やめろ」と言う。
「バカなことするな」と言う。
何でそんな病態になったのかというのは「自分で解決しよう」と思うからだという。
依存症の人というのは他者に甘えるということができない。
でも人に頼らないとできないことというのはある。
人間、産まれてきた時がそうだし、死んでいく時がそう。
「産まれる」「死んでゆく」は他者にゆだねないとできない行動。
それを自分でやろうとする。
それが依存症。
かなり哲学的なオチになってしまった。
でも一人の人間が三十億近いお金をバクチに突っ込むというのは、よほどその人間としての闇が深くないとできない行動だと思う。
これは決して彼の不幸とか、線をバサッと引いて「あの人は悪い人だから」なんて武田先生はもともと言う気はない。
何かの依存症になりそうな瞬間は武田先生の人生の中で何度もあった。
何とかクリアして生きてきた。
それはもしかすると武田先生の意思とかではなくて、ただ単に運がよかっただけかも知れない。
そんなふうにして思うと、何か人ごとではなくて、我がうちに隠し持っている何かの闇を皆さんと共に語り合ううちに、その深い闇から脱出できる術が見つかるかもしれないという。
水原氏も何か手はあったのかも知れないと思う水谷譲。
「日本人でしょう」とマイクを突き付けた人がいたが、きちんとした意見の中で「そういう言い方はないでしょう」「日本人で揺さぶるのはずるいよ」という言い方があったがその通りだと思う。
片一方の天才は余りにも明るい活躍の世界にいるので、犯罪者となった彼のことも我々はどこかで日本人として彼の心情を測ろうというふうに思う。
まだまだ続く回だが、来週はまた別のネタでお会いしたいと思う。
書き起こしがとてもわかりやすいです。寒いので、ご自愛下さい。乱文しました。
ラジオの音だけでは理解しづらい部分も多いですよね。
放送されてから何か月も経過してしまうことがあって申し訳ないですが、今後ともご愛顧いただけるとうれしいです。