カテゴリ

2024年11月10日

2024年9月30〜10月11日◆我動く故に我思う(前編)

(かなり後になるまでネタ元の書籍の紹介をしないが、今回は「新版 アフォーダンス」)

新版 アフォーダンス (岩波科学ライブラリー)



(番組の最初の方は、以前ネタ元に使った「なぜ世界はそう見えるのか」という本に載っている話。
2024年2月19日〜3月1日◆なぜ世界はそう見えるのか

なぜ世界はそう見えるのか:主観と知覚の科学



ちょっと小難しいタイトルを付けてしまったが「我動く故に我思う」。
デカルトの有名なセリフ「我思う故に我在り」。
「人間は考えるんだ」「それ故に私はあるんだ」と。
ところが昨今、この説が揺れ始めた。
いや、「我思う」じゃないんだ、と「我動く」だから「我思う」なんだ。
この説は本能的に正しいと思ってしまった。
これは「アフォーダンス理論」。
「アフォーダンス理論」とかと言うと、何だか阿波踊りの踊り方みたいで。
だがそういう意味ではなくて、どうも人間は頭で考えて世界を見ているのではなくて世界を見ているうちに「私」を思うようになったという。
そんな考え方が武田先生は好きなのだが、「それは科学的に正しいよ」と言ってくださる方がおられて。
その人がJ・ギブソン。
(番組の中で「ギブソン」と言ったり「ギブスン」と言ったりしているようだが、本に従って全て「ギブソン」に統一する)
フォークシンガーだったら(有名なギターブランド名の)「ギブソン」だから好きになる。。
ちょとダジャレだが。
そのギブソン博士の説、アフォーダンス理論に惹かれてしまった。

ギブソン博士の方々が調べた結果。
荷物を友達と二人で上げている。
棚上げしている。
棚上げしている時に二人が話している内容をよく聞くと明るい話題が多い。
仕事は大変なのにも関わらず。
今度は棚下ろしで物をおろしている時。
二人の話しをよく聞いていると暗い話が多い。
「体がそう動く時、心もそう動く」という。
これはピンとくるスポーツのシーン。
サッカー。
先制点を入れられるとキャプテンが絶叫「下向くな!下向くな!」。
「下を向くな」と言う。
「反撃に出る時に下を向くと体が応じない」という。
こういう人間の見方というのは面白い。
人間というのは「体がそう動けば心もそう動く」という。
本能でやっていること。
この「本能」が調べていくと凄い。
このJ・ギブソンという博士は徹底してそのことを調べる。
体がいかに人間を作っていくか。
つまり体が人間を作ったんだ。
人間が体を作ったんじゃない。

二足歩行からして考えてみよう。
赤ちゃんはまず天井を見ているけれど、やがて寝返りを打って今度はハイハイをするようになる。

要は赤ちゃんが端から落ちてしまいそうに見えるテーブルである−中略−。テーブル上に透明で分厚いガラス板を載せるが、テーブルの天板が尽きたあとの空間にも、ガラス板だけが突き出しているようにする。(「なぜ世界はそう見えるのか」35頁)

ジョニー坊や−中略−をテーブルの中央の、断崖のすぐ手前に載せる。ジョニーの両側には深く落ち込んだ視覚的断崖のあるガラス板(深い側)と、残りの天板部分(浅い側)との二つが広がっている。こうしておいて母親が、最初は断崖の向こうの深い側から、次はテーブルの天板がある浅い側からジョニーを呼ぶのである。−中略−二七人の乳児全員が、少なくとも一度は嬉しそうに浅い側を這っていったが、勇気を奮って見かけ上の穴に這い出していったのは、わずか三人にとどまった。(「なぜ世界はそう見えるのか」36〜37頁)

全く教えられていないのに「落ちる」という恐怖感を、生まれながらに持っている。
つまり「体が知っているんだ」と。
やがては掴み立ちして立ち上がる。
立ち上がってよせばいいのに、一歩、歩こうとする。
歴史的な瞬間。
あれはよく考えると凄く不思議。
這えばいい。
立って歩いた練習をしていない。
それが立ち上がった瞬間に歩こうとする。
何でだろう?
これをJ・ギブソンという人が「それは赤ちゃんに何者かが歩かせようとしているんだ」という。
歩かせようとしている者は何者だ?
「地面だ」という。
地面が歩かせようとしている、という。
これがアフォーダンス理論。

「我動く故に我思う」
知能を持ったAIロボットを作ったという例え話から今回は始める。
アフォーダンス理論。

 1台のロボットがいた。仮にロボットTと名づけておこう。ある日ロボットTは、唯一のエネルギー源である予備バッテリーのしまってある部屋に、何者かが時限爆弾を仕掛け、それがまもなく爆発するようにセットされていることを知った。このような危機的状況を知った場合には「部屋からバッテリーを取り出す」ようにプログラムされていたロボットTは、部屋に入り、バッテリーをそれが乗っているワゴンごと持ち出した。ところがなんと、ワゴンの上にはバッテリーとともに爆弾も乗っていた。部屋の外で、ロボットIはバッテリーと一緒に爆発した。−中略−
 最初の失敗を分析した設計者は、
−中略−行為の直接の結果だけでなく、その結果、環境に副次的に起こることについても推論できるように、ロボットTのプログラムを書き換えた。ロボットUが誕生した。
 さて、ロボットUはプログラムに従って「部屋からバッテリーを取り出す」ために、いち早くバッテリーのある部屋に向かい、ワゴンの前で推論をはじめた。
−中略−ワゴンを持ち出すことにともなって環境に起こる副次的結果について考えつづけた。その間に、部屋のどこかで爆弾が破裂した。
 設計者はこの失敗から、行為にともなう副次的な結果のすべてについて推論していると、時間がいくらあっても足りないことに気づいた。そこで一つのアイデアを思い付いた。「そうだ! ロボットに、目的としている行為に関係している結果と、無関係な結果との区別を教えてやり、関係のないことは無視するようにすればよいのだ」と。ロボットVが完成した。
 同じ状況にこの最新のロボットを置いてみた。ところがロボットVは全然動かない。ロボットVに「何をしているのか」と尋ねてみた。ロボットVは答えた。「黙って! ぼくはこれからやろうとしていることに関係のないことを見つけて、それを無視するのにいそがしいんだ。関係のないことは限りなくあるんだ……」。
 最新のロボットVが動きだす前に、部屋のどこかで爆発音がした。
(2〜4頁)

「完璧なロボットを作るということがいかに難しいか」ということは、私達はそんな難しいことを簡単にやっている。
何でそれが簡単にできるかというと、私そのものが考えているのではなくて、環境が私を動かす、と。
その「環境」とは何か?

 たとえば、「2次元の網膜像からなぜ3次元が近くされるのか」という、古くから哲学者たちを悩ませた大問題がある。(8頁)

ところが武田先生は水谷譲を見ると同時に水谷譲の後ろ側の窓の向こう側の景色も一緒に見ている。
つまり奥行がある。
この「奥行」とは一体何だ?

平面上にある2点の距離と、二つの点それぞれから遠くにある対象までの角度を計測し、それらの値を利用して対象である3点目の位置を算定する「幾何計算(三角測量)」をする機構が「こころ」の動きにあるとすれば簡単に説明できるだろう、とデカルトは考えた。(8頁)

「だから心の知性は凄い」と言った。
だから心を作るとすれば膨大なプログラムが必要になる。
私達はそれを楽々やっている。
一体、心は何をどう動かして操っているんだろう?
心を操っているのが実は環境ではないか?という。

ロボットで考えると人間は凄い。
人工知能を仕込んだロボットがある。
そのロボットに「客に向かって紅茶を運べ」と命じる。
「紅茶を運べ」と言うとロボットが一番最初にやったことは(中に入った紅茶から)カップを引き剥がすこと。
だから紅茶をまず捨ててしまうところから始める。
カップをまず切り離さないと紅茶は運べないから。
その上に「カップと紅茶を分けてはいけない」と指示しないとロボットは動かない。
ところがここで困ったことは、それで届けられたとしても飲み終わった後「カップを持ってこい。後片付けするぞ」という「洗う」とかと言わずに「後片付けするから」と入力すると途中でコップを捨てる可能性がある。
だがこれを物心ついた子供は、教えられなくてもちゃんとやる。
「お茶持ってって」と言ったらお茶だけを手のひらに乗せようとする子はいない。
ロボットがやるとすると膨大なプログラムが必要なのに、子供は物心がついたらできる。
それは何でか?
最初の一歩と同じ。
彼女、或いは彼を動かしているのは、彼の意思とかではなくて「環境」。
環境が彼を動かしている、彼女を動かしている。
だからロボットより遥かに賢いことができる。
私達は環境に対してそのように見る本能がある。
そこが人間の知能の面白いところで。
小っちゃな赤ちゃんに向かってママが「あれ取ってちょうだい」と言ったらその子は指を見ないで差したものを見る。
猫は指を見ると思う水谷譲。

武田先生の暮らしの中でそのシーンを見たことがあるが、東京にお住みの方は思い出される方がいらっしゃると思う。
東名高速道路に向かう三軒茶屋手前の道。
首都高速道路というのは不思議なものでアップダウンがわかりにくい。
実はゆったりと登っているのだが、その手前が下っているものだから、傾斜が車で走っているとわからずに、下っているつもりでブレーキを踏まれる。
次々に踏むもので渋滞してしまう。
そこで高速道路を管理する人が何を考えたかというと、その下っているように見えるところに明りの点滅を付けて次々に灯っていく。
そうするとそれは、流れを連想させて思わずアクセルを踏んでしまう。
それで渋滞がなくなるという。
そういう仕掛け。
(「エスコートライト」と呼ばれる誘導灯)
これが何をしろと言われているのか、環境の中から意味を見出していく。
ママがいて赤ちゃんがいて、ママが何かを指差すと小さい頃は指先を見てしまうが、指差すといつの頃か、一年も経たない、何か月かで指差している指の先の方を見るようになる。
これは指示。
凄く面白いことに生き物でできるのは人間とチンパンジー。
もの凄く高等なアフォーダンス。
あらゆる風景の中から「自分はどうすればいいのか」という意味を見つけていく。

 たとえば音のつながりは、一つのメロディーとして聞こえる。−中略−メロディーは、要素である個々の音とは異なるレベルの「秩序」である。(14頁)

「見ることの不思議さ」だが、とにかく人間は意味を見つけようとする。
例えば点がある、線がある。
そういうものを見ると「意味があるんじゃないか」と見てしまう。
そうするとこれが文字になる。
文字とはアフォーダンス。
そして見続けると意味が変わってくる。
「ゲシュタルト崩壊」
じっと見ていると違うものに見えてくるという。
例えば「虎」という漢字を一つか二つだったら「虎」と書ける。
ところがこれを千ぐらい続けて書くと(混乱してくる)。
こういうのを「ゲシュタルト崩壊」と言って。
感覚は目や耳や皮膚が主人公ではなく生き物の感覚であって、生き物の感覚そのものは別のものが操っているという。
見ることが網膜に写った映像では説明できない。
当たり前の視覚。
実はその「当たり前」の中にもの凄く重大な何かが隠れているのではないか?
そのことに気が付いたアメリカの博士がジェームズ・ギブソン。

「こんなことをやられてしまうともう勝てるワケが無ぇな」と思うのだが、このJ・ギブソンという人がどこからこういう研究を始めたかというと、1940年、日本とアメリカが戦争に入った瞬間に優秀なパイロットを作る為の適性テストをやりたい」と空軍が言い出した。
(本によると1942年)

 パイロット、ナヴィゲーター、爆撃手などの候補者となる、すぐれた「空間能力」を持つものを選抜することが、従軍した「ギブソン大尉」に与えられた任務だった。(23頁)

ここからアフォーダンス理論が始まった。

 着陸のときに「どこを見るか」は非常に重要である。着陸時には、滑走路の見えがパイロットに向かって「流れて」くる。流れが湧き出る中心が着陸の「照準」になり、流れの速さやその変化はそこに向かう飛行機の速度と加速度を示している。(33頁)

今度は上昇する時は重要なのは飛んでいる空間の変化から自分は今、空中のどのへんにいるか、見るということは変化する風景を見ている。
変化する風景の中から自分を見る。
風景の中のキメ、勾配、面、配列、光。
そういうものが次々に彼をアフォードしていく。
考えてみると凄いこと。

「奥行」とは何であろうか?

 ギブソンは、薄いプラスティック板を切って大きな正方形にしたプレートをたくさん用意した。板の色は白か黒の2色で、すべての正方形板の中心に直径約30cmの穴をあけた。プラスティック板は、−中略−約5cm間隔で、白と黒の順に交互に置かれた。(39頁)

板の列のまん中の30cmの穴の連なりをのぞきこんでみると、思いがけないものが見えた。−中略−白黒のストライプのある長い「トンネル」が見えたのである(39〜40頁)

でもそれはトンネルではない。
板の穴。
そこにトンネルを見てしまうというのが視覚のアフォード。

トンネルが見えるかどうかは、配列する板の枚数、つまり並べたプレートの密度によっていた。5m間に7枚の板を並べる条件ではただ板が並べて置かれていることが見えるだけで、「トンネル」には見えない。同じ幅に36枚を並べると、だれにでもトンネルが見えた。(40頁)

では他の生き物はどうなっているか?
J・ギブソンさんはすぐに動物を調べた。
動物の目というのは特色がある。

頭の両側にあるウマの目は、それぞれが215度の視野を持ち、視野は両眼で大きく重なっている。ヤギやウサギなどの草食動物でも同じである。この「パノラマ眼」とよばれている眼がとらえている世界は、一つの像には結ばない。(42頁)

これはやはり敏感になる。

各眼に二つずつ、両眼を合わせると四つの「中心窩−中略−」をもつ鳥がいる。さらに、飛行中に水平線の鮮明な視野を得るためなのだろう、両眼を横断する「細長い帯状中心窩」をもつ鳥もいる。(42頁)

「なるほどな」と思う。
だから上手く飛べる。
でも「水平が入って見える」というのは鳥がそう言ったのか?と思う水谷譲。
これは工学的に分析、分解したのだろう。
動物ごとに目ん玉が違うワケだから、トンボなんていうのは目ん玉が飛び出しているワケだから。
だからトンボになったら全然違う世界が見えてくるというふうに思った方がよくて。
ハエは複眼。
あれはマルチキャメラと同じで。
後ろが見えるヤツもいたりんなんかする。

眼の上半分を水面上に出し、水面の上下の両方にいつも注意を向けている「ヨツメウオ」では、眼の解剖学的構造や機能も左右ではなく、上下に分かれている。(43頁)

これは、とどのつまりは進化論。
我々人間というのはどうかというと、目に関して言うと手元を凄く大事にした。
手元をよく見る為に首は上下左右に動くようになるし、光の濃度に過敏で風景の「明るい・暗い」の中から奥行をパッと見つけ出すという能力がある。
見ることは視覚・聴覚・触覚などの情報、これを全部集めて見ているのだという。
このへんが生き物の面白いところ。
そう考えると賢いと思う水谷譲。

もっともっと不思議な話が続くのだが、ちょっと余計なことも書いているので。
6月15日の日付があるが、香川高松で鼎談をして大好きな哲学者の内田(樹)先生と釈(徹宗)先生。
浄土真宗系のお坊さん。
武田先生と三人で。
その時にこぼれ話だが、武田先生は内田先生の理論を聞いていると芸能界で生き抜く知恵を授けられているような。
内田先生は不思議だったらしくて。
「私のどこが芸能人の知恵になるんですか?」
そういうことを言われて
あまり上手い、いい返事ができなかったのだが。
(でも芸能人の知恵に)なる。
こういう「アフォーダンス理論」みたいなことも、教えてもらったのは内田先生。
武田先生がこんなことを自分で見つける能力なんかない。
ただ、新しい理屈として内田先生が「アフォーダンス理論」というのをしきりに本の中に書いておられて、それで「面白いな」と思うようになったのだが。
やはり辿っていくと、アフォーダンス理論というのは本当に面白い。
それは演技などにも関係してくるものなのかと思う水谷譲。

数m先の部屋の壁に鉄棒をスライドで投影して上下に動かした。そして、どの位置なら「脚だけで登れる」段の高さかを観察者に判断させた。平均身長約160cm、190cmの二つのグループで、ぎりぎり「登れる」バーの高さは、観察者の股下長の0.88倍だった。(68頁)

股下の長さが0.88倍以上だと飛びつく、以下だと飛びつかない。
(番組では「飛びつく」か否かという話になっているが本によると「脚だけで登れる」か否か)
(飛びつくことができないので)「凄いんだぜ。体操選手が飛びついて回っちゃうんだぜ」と説明したがる武田先生。
「よくやったよあの子は、金さすが」と言いながら。
股下の長さがたっぷりある、0.88倍以上ある人は飛びつく。
つまり自分の体が何をするかを、その人が思うよりも先に決定してしまう。
例えばトム・クルーズ。
「スパイ大作戦」

ミッション:インポッシブル/ ローグネイション (字幕版)



ビルの谷間に爆発物があって、ファっとトム・クルーズがビルの谷間に身を潜めて爆風を逃れる。
あれも瞬時。
これも実は環境が決定することであって、その隙間に自分の体が入れるかどうか、これはもう本能的に動くそうで

肩幅の1.3倍を境界として、それより狭いすき間は「からだを回さなければ通過できない」ところと知覚されていることがわかった。(69頁)

提示されるバーを「くぐる」か「またぐ」かについて大学生に聞くと、答えは知覚者の脚の長さの1.07倍のところを境界にして変わる。1.07倍よりも低いバーは「またぐ」、それよりも高いバーは「くぐる」行為が妥当だと見える。(69頁)

行為の性質は環境に導かれて行動する。

次の例は皆さんもやってみてください。
武田先生はズバリだったので驚いた。
こういうことがあるから「アフォーダンス理論て面白いな」と。

 頭をこの本から少し上げて、前の机の上を見ていただきたい。机の端にあるペン立てには手先が届くだろうか。そのペン立ては、イスの背もたれに背をつけたままの姿勢では「届かない」と知覚されるかも知れない。しかし腰を曲げて背をイスから離して上体を最大限倒せば「届く」と知覚されるかもしれない。とすればその届くという知覚には、読者の手の長さと腰部の柔軟性を合わせた身体感覚が加味されていることになる。(70頁)

(ここから水谷譲に対して本の上記の箇所を実証する実験が行われるが、本の内容とはかなり異なる)

かくのごとく、人間は殆ど直感に任せて環境からアフォードされているという。

ある種のカエルは、前方のすき間が自身の頭部の幅の1.3倍以上ないと、そこに向かってジャンプしていかない。カマキリは、獲物である他の動物が、自分の前肢の長さとその先端にある鎌状の前肢の幅で捕まえることのできるサイズの範囲内に入るときだけ捕獲動作を開始する。(68頁)

それをカエルもカマキリも一瞬のうちにジャッジしていくという。
ジャッジできなかったカエルはどうなった?
死んでしまった。
広げた以上の獲物を狙ったカマキリは逆に喰い殺された。
こういうふうにして「環境の中の自分」というのを見つけていったものが今のあなたです、と。

体が知っている不思議な知恵、そういうものを勉強していけたら面白いなと思って語っているが、まだまだ話は続いて、この続きはまた来週のまな板の上で。


この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント:


この記事へのトラックバック