かなり哲学的な。
えぐみのある一冊。
「言葉の風景、哲学のレンズ」(著者は)三木那由他さんという方、講談社から出ている。
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全編150ページほどの文章に何か深いものを感じさせるという武田先生の直感。
著者は哲学を研究する人。
哲学とは大きな世界観を持つ学問だが、その哲学そのものを問うという学問の分野がある。
「哲学を哲学する」「その哲学を使って新しく哲学を築き上げよう」という。
もうすっかり水谷譲に付いてくる気が無くなった。
ここから細かいところに入っていくが、この細かいところが武田先生には面白かった。
タイトル「言葉の風景、哲学のレンズ」とあるが、武田先生はこの本のタイトルを「言葉のレンズ」と、こうしてはどうかな?というふうに思って。
「言葉」とは一体何か?
水谷譲もお互いに言葉の世界に生きている。
この著者、三木さんは「言葉とはレンズのようなものではないか?」という。
何がどうレンズかというと、言葉というものがあるとその言葉から遠くが突然見えたり、或いは近くがググッと近く見えたりするという。
そういう伝達の道具、それが言葉ではないか?と。
この方はもの凄く珍妙なことをおっしゃる。
第一章でこの方はこんな深いことを綴っておられる。
それは「痛みを伝える」。
誰かが「痛い」と言っているとする。でも、そのひとが本当に痛みを感じていると私たちは確実に知ることができるだろうか? 単にそう言っているだけなら嘘である可能性もあるから、「『痛い』と言っている以上は痛いに違いない」とは言えない。−中略−結局、他者の痛みについて確実に知る手段などないのではないか。(10頁)
それと、痛みの程度がわからない。
痛みというのを理解し合えない。
「どういうふうに痛いの?我慢できないの」と訊くしかないと思う水谷譲。
だからこのあたりでも男女差があるので男は理解できない。
例えば「生理痛」とか「出産の痛み」とかというのは男は想像できない。
一生わからないと思う水谷譲。
だから「痛み」というのはどの程度のものか、或いは本当か嘘かもわからない。
なのになぜ人は「痛い」と言うのか?という。
これは哲学として面白い。
これは哲学的に解決しようという。
それでも人はなぜ「痛い」と言うのか?と。
このあたりはもう哲学らしく理屈っぽいという。
しかし一度この「痛い」という言葉にひっかかると「確かにそうだな」と。
「痛いの」と言われてもどの程度の痛みであるか、深いことを言うならば真偽のほどもわからない。
だからやがて表情や顔色等の変化と共に「痛い」の程度を探ることしかできないのが痛みを報告された人の想像力。
痛みは正確には伝わらない。
それでも尚、人に向かって「痛い」と伝える意図は一体何か?
何で「痛い」という言葉が日常生活の中にあるのか?
哲学的。
具体的な人間である私たちが日常において「痛い」と訴えるとき、−中略−「通常の仕方で授業を受け続けることはできない」だとか、「約束通りに事を進めることができない」だとか、「仕事のスケジュールの変更が必要だ」だとか、「いまの作業を止めて手当をしてほしい」だとか、とにかく私とあなたがこれまでやってきたことを続けるのに支障が生じているから、何かしら軌道修正をしたいということを伝えているのではないか。−中略−私たちはただ、誰かが「痛い」と言い出したのをきっかけにして、ともにやっていくやりかたを再考しているだけなのだから。(12〜13頁)
つまり「痛い」という言葉は哲学的になにゆえに存在するかというと「ここから二人の関係を変えましょう」という。
「だから休ませて」ということだと思う水谷譲。
「あなたでは相手にならない」とか、それから「痛いので慰謝料をください」とか。
それから「明日はお休みしたい」とか。
「痛い」を挟んで付き合い方の変化は何通りもあるという。
その為にはまず「痛い」から始めなければならない。
哲学者・三木那由他さん、この方はそこに言葉のレンズとしての役割があるのではないだろうか?と。
この何気ない言葉のやり取りの中に、実はたくさんの人間の心理が響き合っているという。
ちょっと深いのだが今週お付き合いください。
言葉が持っている不思議な作用。
言葉には変わった仕事があるという。
普段は聞き逃しているのだが、よく考えてみると言葉というのは実に不思議である、と。
最近、Netflixばっかり見ていて今、バカリズムさんの「ホットスポット」という連続ドラマを見ている水谷譲。
(ホットスポット | Netflix)
武田先生は「鹿の角を持つ少年」を見ている。
(スイート・トゥース: 鹿の角を持つ少年 | Netflix (ネットフリックス) 公式サイト)
これは面白い。
地球にデカい変事が起こったようで、動物と人間のハイブリッドが出てきて、可愛らしい少年の頭から角が生えてくるという。
こういうヤツを見ていても思うのだが、あの手のドラマの中で、ドラマの言葉の使い方で、「あら?」と思うのがある。
その画面とその言葉遣いがマッチしていない言葉遣いがある。
たまに「あら?これ・・・違うな」というのがある水谷譲。
「私達の言葉遣いと違うな・・・」
著者の三木さんがこんなシーンをマーベル映画で発見している。
こういうのは面白い。
マーベル映画にハマった。そう、スパイダーマンとか、アイアンマンとか、そういった派手なスーツとマスクを身につけたヒーローが出てきて、犯罪者やら怪物やら異星人やらと激しく戦う、あのマーベル映画だ。
きっかけは『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』だった。(28頁)
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変なところでどうにも気になることがあった。−中略−反目しあっている二人がいて、その一方がピンチになる。そこにもう一方がさっそうと現れて助け出し、ピンチになっていた側が何か言いたげな顔をしたところで、その前に言う。「どういたしまして!(You're welcome!)」(30頁)
(番組内ではこのシーンは「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」の中に登場するという説明をしているが、本には「具体的いどの作品でどう出てきたのかはっきり覚えてはいない」と書かれている)
一体「You're welcome!」「どういたしまして!」というのは何を意味しているのか?
この状況に最もふさわしいのは礼を言おうとしている相手に向かって「お礼はいいですよ」と言えばいいのに「You're welcome!」「どういたしまして!」と言う。
先にに言ってしまうと思う水谷譲。
この「You're welcome!」「どういたしまして!」は日常でも出現する。
例えばご婦人でご高齢の方がおられて、傘を持っておられずに濡れておられる。
そこに傘を差しだして「ビニール傘の安いヤツなんで持ってってください」と彼女に渡して彼女が何か言おうとした瞬間「どういたしまして」と言う。
「お礼を塞いじゃう」という。
なぜお礼を塞ぐのか?
ここにも言葉のレンズとしての働きがある。
「感謝をしたひとは、謝意を表明したひとがするような振る舞いをするという一種の約束を相手と交わしたことになる」というようなものだろう。(35頁)
それはどういうことかというと「私も同じようにピンチになった時、雨に濡れそうになった時、あなたもまた、私を助けてくれますよね?」という。
ややこしいというか面倒くさいと思う水谷譲。
でもこんな言葉遣いは水谷譲はどこでも見かけているハズ。
これは日常でこういう言い回しはある。
ラジオでは使わない。
でも同じ語法をコンビニで見ているハズ。
時々おトイレを拝借して、そのおトイレの水洗の入り口のところに書いてある。
トイレなどにある「きれいにご利用いただきありがとうございます」がある種の行動を促す機能を持つのかという話をした。この貼り紙によって、それを提示したひとは感謝という言語行為をおこなっている。−中略−感謝されるに値する行為(つまりトイレをきれいに使うこと)をもたらすのではないか。(32頁)
ある意味脅迫というか「きれいに使わなくちゃいけないんだ」という気持ちになる水谷譲。
それが「You're welcome!」。
言葉というのはこういうふうにして考えると、まことに面白いもの。
未来に於ける関係を先回りして今、言うことによって共同の未来を持てるような言葉遣いが世の中にはある。
「いつもきれいに使ってくださってありがとう」
まだ使っていないのに。
それを言うことによって「きれいに使おう」という気になるという。
言葉によるコミュニケーションとは「私をあなたに言葉で伝えること」ではなくて「私とあなたの振る舞いを今後こういうことにしましょう」という約束事の為に人は語り続けるのである、と。
まさしく言葉とはレンズ的、近眼で使ったり老眼で使ったり。
言葉とは不思議なもの。
前に入ったお手洗いで「トイレットペーパーを持ち帰らないでいただいてありがとうございます」と書いてあって「ああ、持ってっちゃう人、いるんだな」と思った水谷譲。
そういう言葉遣いの面白さというのはある。
万引き防止の究極の脅し「ちゃんと見てるぞ」。
コミュニケーション。
人間と人間が言葉で繋がるということは、その言葉の隅々の中に「これからの二人の振る舞いをこうしましょう」という、「未来完了形」というか「未来で完了するであろうその行為にこれから向かいましょう」という言葉遣いがあるという。
「未来完了形」というのは、いい言葉。
この「未来完了形」というのは「みなしの約束」「約束とみなす」という。
このコミュニケーションの約束の誤作動、受け渡しが上手くいかない、それが「ハラスメント」である。
なぜハラスメントになるかというと、渡された言葉を逆に取ってしまう。
「嫌い」と言われると、これを「好き」と勘違いする。
「帰ります」と言っているのに「帰りたくない」と、こういう逆の反応になるという。
男女間に於いては特にそうだが、真逆に表現する時がある。
武田先生は典型的に真っすぐ取ってしまって痛い目に散々遭った子だから
やはり「武田君、いい人よね」と言われると「この女、惚れてるな」と思う。
本当にそう言っている人もいると思う水谷譲。
女性の場合は無い。
やはり「いい人ね」と言われると武田先生は「あぁ」となるのだが、実はこれは「どうでもいい」という。
一番曲者なのは絶世の美女がちょっと眉間に皺を寄せて「あたしあの人嫌い」とかと言う時。
それはよく考えたら「好き」の表現だったり。
別情報で、(海援隊の)リードギターの千葉(和臣)が小声で「できとうよ、あの二人は」と言ったりなんかするという青春の頃のフォークソングのグループ活動の中にあった。
女の子は困ったことに「大嫌い」という言葉で「大好き」を伝えることがあるという。
「もう帰ろうかな〜」なんて言った時に「じゃあまたね」と言われると「おいおい!止めてよ」と思ったりする水谷譲。
これは人のネタなのであまり言ってはいけないが、もうジジイになったのでお互いにボソボソみっともない恋愛話をするようになって、千葉和臣はなかなかの美男子だった
可愛らしい年下の恋人がいて、武田先生達、中牟田(俊男)もそうだがなかなか女子の言葉が読めない。
千葉は最高傑作で、その女の子が「あたし寒い」と言ったらしい。
薬局に風邪薬を買いに行っている。
「風邪をひかせてはいけない」という。
でも女の子は「ぎゅっと抱きしめて暖めて欲しい」それが言いたかった。
千葉がせつなそうに「俺、一生懸命薬局まで行ったよ。『ちょっと熱があるかも知れんとですよ』相談したったい。もうその間に彼女はおらんことなっとった」。
こういう言葉の齟齬というのは・・・
言葉はやはり「哲学」。
親が子に向かって「オマエなんか死ね!」という。
それは「死んじゃいけないよ」ということを「死ね」という表現で。
そういうことはある。
「出ていけ」と言いながら「出てゆくな」ということを叫びたい親心というのがあって。
このへん、測り切れない言葉の軽い重いがある。
その中でこの方は「からかい」という受け渡しのミスがある。
「からかい」が「遊び」の文脈にあること(51頁)
だが言われたその人は「本当のことだ」という意味で取ってしまうという。
「からかい」によってマイノリティーのジェンダーの人達はサークルの中で傷つけられてしまうという。
ここからこの話になってしまう。
このあたりで武田先生もアホで、やっと少しわかってきた。
著者はトランスジェンダーで。
今は女性として生きておられる方で。
性別に於ける言葉遣いに悩む。
それ故に言葉を哲学にするという学問を選ばれたという方。
ジェンダーの問題を外しても己を語る為だけの哲学ではない。
言葉遣いの歪みの指摘というのは、この人から受けると鋭くて実に武田先生にとっては興味深くなる。
何でもいい。
これは国会答弁でよく出てくる言葉。
どこが気になるかというと、「議論が尽くされていない」という表現である。(61頁)
「国会での議論が足りないので結論は出せない」ということを言いたいが為に「議論が尽くされていないという」こういう言い方をする。
最近、これは何でも言う。
流行り。
「103万円の壁」とかという時に、「与野党間で議論が尽くされていない」という。
この「議論が尽くされた・尽くされない」というのは議論している当人から外れた第三者が測るものであって、ジャッジする審判がいて「はい、議論尽くされました」と言う人がいない限りできないはず。
(このあたりの話は本の内容とは異なる)
こういう曖昧な言葉遣いが現代で非常に多い、という。
それから「論破された」というのが好き。
「その人の言っている理屈を叩き伏せられた」という意味で「あの人は論破された」と言うが、これも実体の無い言葉で審判がいるワケではないから。
「アンタ勝ち」とかと、そういうことにはならない。
「ディベート」
懐かしい言葉。
司馬遼太郎が日本語訳で「ディベート」のことを「減らず口」と訳した。
見事。
三木那由他さん「言葉の風景、哲学のレンズ」という講談社刊の本。
なかなか難度が高くて、一生懸命読んだ。
そして読み始めてから感性が独特なので驚いていたらトランスジェンダーの方で、今は女性として生きておられるという。
トランスジェンダーとしての体験からあぶりだされた深い思索があるような気がする。
92ページの章で「カミングアウト」を取り上げておられる。
「カミングアウト」というのも最初に出てきた時に何だからわからなかった武田先生。
武田先生はもちろん「金八先生」で
(3年B組金八先生(第6シリーズ)|ドラマ・時代劇|TBSチャンネル - TBS)
(鶴本)直という女の子が突然、お母さんに向かって「私今日、カミングアウトしちゃった」と言ったらパッとお母さんの顔色が変わって。
武田先生はわからなかった。
上戸彩がトランスジェンダーの少女役でそれをやった。
その「カミングアウト」が乱れ飛ぶのだが、演出家も説明してくれないから、「カミングアウト」と(いう言葉の意味が)ずっとわからなかった。
その頃、生まれた言葉ということだと思う水谷譲。
そうやってどんどん新しい言葉が生まれてくる。
何かこうついていけない。
「アップデート」の意味を教えてくれたのは指原さんだった。
「アップデート」もわからなかった。
武田先生は「急いでデートコースを回ることかな」。
響き的にはそう。
武田先生は「アップテンポ」とかそういう言葉は知っているが「アップデート」だから、バーっと忙しく車でデートーコースを回る、「東京タワーの次、浅草よ」とかという感じかなと思ったら全然違う意味で。
でも指原さんが、「アップデートって何?」と武田先生が番組の中で訊いたら、絶望的な顔をなさった。
「このジジイ、何にも知ら無ぇや」という。
「何?」と言われても説明する言葉が出てこない、「アップデートはアップデートだから」と思う水谷譲。
そういう言葉は今、凄く多い。
「M&A」
それは「吸収&合併」だと思う水谷譲。
武田先生は「チョコレート」だと思った。
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何か似たようなことはいっぱいある。
それから武田先生が間違えた音楽のグループ。
「レミオロメン」
我々はカタカナで入って来たことを日本語に訳せないまま生きているという。
「カミングアウト」もそう。
カミングアウトを日本語で説明すると「告白する」みたいな感じかと思う水谷譲。
ところが「告白」と思いがちなのだが、トランスジェンダーのこの方にとって「カミングアウト」というのはそれだけでは済まない。
なるほど、言われてみてわかる。
カミングアウトを言語行為的な観点から取り上げる研究がある。(94頁)
これを発話することで話し手はあるときには主張をおこなったり、報告をしたり、説得をしたり、いろいろな行為をおこなっている。このように言語を用いてなされる行為が言語行為であり(95頁)
このカミングアウトをした後はどうなるかというと、自分の性の変更を告げるワケで。
「私は男としてふるまっているが、実は女であった」
このカミングアウトをした後は、会う人ごとに、ずっとその事情を説明しなければならない。
「告白」だけでは済まない。
告白し続けなければならない。
新しい人に会う度に「私は実は」「男性としての戸籍を持っているが、本当は女性で、しかもカミングした後、女性として生きています」という顛末を告白し続けなければならないという言葉が「カミングアウト」。
そうやって考えてみると「発語内行為」という、何か言葉を発するとその発した言葉が行為で支えられるという、行為し続けなければならないという。
これは大変。
発語内行為はたいていの場合、誰もがいつでも自由におこなえるようなものではない。例えばスポーツの試合で反則を取れるのは、きちんと認められている審判が適切な手続きに則って発話をおこなう場合だけであって(98頁)
このような存在があれば「カミングアウト」とはずっと楽であるが、そういう存在が無い限り日常は実に厳しい。
相手に対して絶えず自分の顛末を、自分の文脈を説明し続けなければならない。
そして親に対しては「今まで育ててもらった文脈の全てを改定して欲しい」という「男の子として育てられたが、女の子だったというふうに変えてください」と。
そして他人に対して「私は『シスジェンダー』『生来の生まれついての女性』ではなく人生のあるところから女性になった」というカミングアウトをし続けなければ、告白し続けなければならないという。
「カミングアウト」というのは大変な行為。
ただ、本を読んでいて、彼女がおっしゃっていることはわかるような理解できるような気がする。
著者は「『その人生は間違ってる・間違ってない』そんなことをやる為に人間は生きてるんじゃない」と。
「人間はぐねぐねと生きていく」という。
ぐねぐねと「正しい」「間違っている」だけではなくて矛盾こそその人の命の奇跡である。
矛盾こそ、その人の個性でありその人の興味深いものである、と。
こういうのが大好きな武田先生。
内田樹大先生の本の中で「人は間違った時のみ個性的です」という、その一行に触れた時にもう武田先生は雄叫びを上げた思い出がある。
そう。
間違っている時は個性的。
正しいことをやっている時は個性も何も無い。
そうやって考えると「正解」はつまらない。
私が血液検査を受けた結果、中性脂肪の値が高すぎて心配になったとしよう。心配なものだから、次に検査を受けるときまでには中性脂肪の値をいまより下げておきたいと私は考える。さらに、運動をすれば中性脂肪の値が下がると私は思っているとする。−中略−たいていの人間はそこまで理性的ではない。私は、甘いものを控えるのが中性脂肪の値を抑えるのに寄与すると思っているのに、甘いものを控えられずにいる−中略−そんなことをしてしまうのは不合理というほかない。
こうした不合理性はしばしば「意志の弱さ」と呼ばれていて(106〜107頁)
「意志の弱さ」を表す古代ギリシア語の「アクラシア」という言葉(107頁)
こういう人間の「意志の弱さ」がその人の「個性」になっているという。
実は理性を弾ませる内なる力は何かというと、この意志の弱さである。
意志が弱い時だけ人は激しく理性で「だからこうしなきゃダメなんだ!」と自分に命じるという。
やはり人間は一筋縄ではいかない。
私達は意志の弱さを痛感する度に理性の正しさを思い知る。
様々な推論を並べる能力は意志の弱さが原動力となるのである。
「こうすればいい」「ああすればいい」というのは。
人間の行動と心理もまた推論に結びついている。
故に理性的ではない。
外れたところに理解のカギがある。
故に私達は不合理に魅力を感じてしまう。
だからこそ大好きな人に向かって逆に「大嫌い」と叫んでみたりするのであるという。
まさに男女間はそういうことだと思う水谷譲。
この不合理こそが物語になる。
合理的物語は面白くもなんともない。
老刑事がいる。
若い私立探偵がやって来た。
「情報を知りたいんだけど」
そうしたら老刑事が「オマエごとき私立探偵にそんな重大なことが教えられるはずがない」
バタン!
ドアを閉めた。
これ。
そこでお終い。
物語にならない。
映画のシーンで言えば、どこから物語が始まるか?
職務に忠実な刑事が、顔なじみの私立探偵から情報提供を求められる。刑事は部外者に情報を漏らしてはならないということを理解している。−中略−「部外者に情報を教えるわけにはいかない。だが、少し煙草でも吸ってこようと思う」などと言って席を立ち、自分が席を立っているあいだに捜査資料を覗き見するようそれとなく探偵に促すといった振る舞いをする。(110〜111頁)
シーンになる。
つまりここでは真逆の言葉が。
私達はそのような矛盾した行動を見ると感動する。
だから「矛盾する行為」とか「意志の弱さ」とかそういうものが物語を推進する、推し進める力になってゆくという。
そういうのが無い人は「クソ面白くない」と思う水谷譲。
お願いだから「クソ」を付けないで欲しいと思う武田先生。
つまり私共はこういうシーンを見ると「粋だなぁ」とか心理の読み合いの綾を知る。
そのことがやはり人間の面白さではないかなというふうに思う。
ちょっと今週は偏った哲学話かも知れないが、実はこれは今、そこら辺にいっぱい溢れている出来事。
私達の生活は簡単そうに見えるがややこしい。
謎がいっぱいある。
「人間はなぜその時そう言ったか」というのは全部謎。
謎を「クソ面白くもない」と水谷譲がおっしゃった理屈で解いていくと、どんどん世の中つまらなくなってしまう。
私達は解けない謎の真ん中にいるという「非理性的」「不合理」な世界にいると、そういうふうに思うとこの世界に更なる興味が湧いてくるという。
これはまだネタがあるので来週も続けてみたいと思うが、理屈っぽい話で申し訳ない。





