先週の続き。
「言葉の風景、哲学のレンズ」(著者は)三木那由他さんという方、講談社から出ている。
かつて男性でありつつ、今は女性として生きておられるというこの方「の言葉をめぐる哲学」というのが非常に武田先生には面白かった。
その中で彼がおっしゃっているのは「矛盾の無い人間というのは意外とつまらないもので、矛盾とか合理的ではないえという、理屈に合わないというところが人間の人間たるゆえんである」と。
老刑事が若い私立探偵から秘密の情報をねだられる。
公的立場にある刑事は「そんなこと教えられるわけがないじゃないか」と拒否するのだが、正義感に溢れた私立探偵が好きでたまらない。
そうすると依頼に対して「Noだ!」と言っておきながら「情報はなぁ、このファイルの中に全部書き込んである。これさえ読めば一発でオマエだってわかるよ。だがなぁ絶対オマエには見せられない。申し訳ない、俺はちょっとタバコを一服してくる。絶対に見るなよ、このファイル」と言いながらオフィスを出ていく。
こういう不合理な行動の中に人間というのは人間らしさ、人間の柄を持つのであるという。
人間は非理性的であるというところにその人の本性・本音、人間の手触りが出るということ。
私たちの多くは、矛盾を抱え、あちこちで理由のない決断をして生きているのではないだろうか。そして私は、それぞれのひとが織りなす一貫性のないぐねぐねと曲がりくねった軌跡が重なり合うこの世界を、とても愛おしく思うのだ。(113〜114頁)
いい文章。
武田先生もそうだが、生き方としてはぐねぐね生きている。
男に生まれて男という性に目覚めて、青春の頃、異性を求めて性淘汰のレースの中に投げ込まれ、どんどんライバルに抜き去られる敗北の嵐の中で、歌を歌うこと、それで己を慰め、ハッと気が付くとそれを職業にしたという。
著者のように自分の性について二重性は武田先生には無い。
そういう苦悩は全く無いが、トランスジェンダーに生まれた著者に対して申し訳ないことに実に単純に男としての性を生きているが、年を取ると男としての能力が急速に性の部分で落ちてゆくものだから。
何か「男性の女性化」はあるのだろう。
男の人は急におばさんぽくなったり、おばさんもだんだんおじさんぽくなったりすると思う水谷譲。
深層心理学で学んだのだが、入れ替わるらしい。
若いうちは心の奥底に一人の乙女をちゃんと秘めているのが男で、その乙女が男らしさを。
ところが年を取るとだんだん入れ替わってきて、その乙女が前面に出て外側にいた男性がゆっくり沈んでいくという。
これは女性にも起こるということで。
奥様の叱り方なんかを見ていると最近は「ああ、男らしい」と思う時がある武田先生。
年齢で変化していく。
著者はトランスジェンダーとしての中でGLAYの大ファンになる。
彼女のお気に入りは「pure soul」。
流れて来た。
(ここで本放送では「pure soul」が流れる。ポッドキャストではチャラ〜ン♪という効果音のみ)
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避けられぬ命題を今 背負って 迷って もがいて 真夜中 出口を探している 手探りで(126頁)
著者に決心をさせる歌とは、あるいはノックとはそれほどの言葉のレンズを持っているという。
ちょっとあとの「賽を振る時は訪れ 人生の岐路に佇む」という歌詞(127頁)
人生には賽(サイ)を振る時が来る。
水谷譲にもあった。
何回かあった
やはりある。
今日、賽を振る方もおられると思うが、どうぞ頑張ってしっかり振ってください。
人生の分かれ道、どっちの道を行くか、右に行くか左に行くか。
「pure soul」というGLAYの名曲なのだが、その言葉が、言葉のレンズによって個人の中である風景をバーっと大きく見せる。
やはり言葉というのはレンズ。
その文脈で受け取ってしまった著者はそのようにしか聞こえなくなってしまうという。
これはもちろんトランスジェンダーの迷いの歌ではない。
全然違うところにあるのだが、そんなふうに聞こえてしまった著者にはそのようにしかもう聞こえないという。
レンズとしての言葉というのは凄い力を持っているという。
ここから気づきもしないことを、この著者・三木那由他さんがおっしゃる。
これは武田先生はずっと「言葉のレンズ」「レンズのような使い方をする言葉」という意味で語ってきたのだが、言葉にはもう一つ使い方があって「犬笛的言葉」。
もともと「犬笛」とは人間の可聴域を超えているが犬には聞こえる音を発するホイッスルのことで、犬に合図を出すのに用いられたりする。これが転じて、特定の集団にしか聞き取れないメッセージを持つ言葉が「犬笛」と呼ばれるようになった。(129頁)
哲学の人は凄いところを突く。
例えばBlack Lives Matterの運動が大きく報じられるようになったなかで、ALL Lives Matterというスローガンを掲げるひとたちがいた。これは文字通り読むならば「すべての命は大切だ」ということであり、たぶん多くのひとが「まあ、そうだよね」と思うだろう。しかし同時にこの言葉は、人種差別主義者の人々にとっては「すべての命が大切なはずなのに黒人ばかりわがままを言っている」という印象を生じさせたり、ひいてはBLM運動に反対する言動を引き起こしたりする働きをしていたと考えられる。このとき、「ALL Lives Matter」という言葉は人種差別主義者にしか聞こえない音を発する犬笛となっている。(129〜130頁)
似たような事例はいろいろとある。例えばドナルド・トランプは何度か「大統領に再選したら男性が女子スポーツに参加できないようにする」と発言している。額面通りに見ると意味がわからず、むしろ当たり前のことしか言っていない発言に見える。実のところこれは、近年のレギュレーションの調整などを経て女子スポーツに出場できるようになった少数のトランスジェンダーの女子選手を保守的な人々が中傷する文脈で(133頁)
そういう「犬笛」的呼びかけがこの「全ての男を叩き出す」という。
現実にトランプさんはトランスジェンダー問題に関してはまとめてしまった。
「生まれながらの性を優先するんだ」というのがトランプさんの考え方だと思う水谷譲。
ただ大統領が叫んでも一発で通らないようだ。
アメリカは衆の国「state」なので、衆が法律を持っているので、大統領の命令が一発で通るという「鶴の一声」ではないらしい。
しかしそれにしてもやはりその存在は大きいし、トランプさんが持っている言葉のレンズというのが非常に強力なレンズである上に、犬笛的要素も持っていて、彼の支持者を集めるということに関してはまことに・・・
こんなふうにして、今、ニュースに犬笛的言葉が多すぎてしまって「身内を集めるためだけのニュース用語」というのがたくさんある。
最近、ニュース用語が固定されていて、例えば「トランプ関税」とかと言うが、あの仕組みが果たしてアメリカを豊かにするのかというのは疑いっぽい。
つまりトランプさんの言っていることには大きい方の話がない。
「これをこうする」「これをこうする」「これをこうする」は全部「具体」があるのだが、この人には抽象と全体が無い。
話というのは具体と全体で進むもので、
「抽象的なものばかりでもダメだけれども」ということだと思う水谷譲。
具体的なものばかりでもダメ。
武田先生はそう思う。
だから武田先生も考えた。
現代に於ける「犬笛的言葉」って何かな?と思った。
それは「年収103万円の壁」。
103万円に壁は無い。
それは一種犬笛的使い方。
「103万円の壁」とか言わずに「いくらあったら幸せなのか」というレンズとして使わないと。
「遠くの人も近くに見える」という言葉をレンズにしましょう。
これはかなり武田先生の説が入っている。
GLAYの話に戻ると、「誘惑」という曲の歌詞には「ZEROを手にしたオマエは強く」という一節がある。(133頁)
「ZEROを手にする」
それが「全体」ということではないか?
1や2や3や4という具体と0(ZERO)という、そういうことを著者は三木さんは感じておられるのではないか?
いつも我々は0を手にしておかなければいかけない。
千とか万とか億の単位の0。
プラス「何も無い」という0も手にしておかなければならない。
「0なんだ」という。
この言葉を武田先生は詩的で好きだった。
そして終章、一緒に生きてゆく為にトランスジェンダーの苦しみを彼女はこんなふうに語っておられる
二〇二三年二月、荒井勝喜総理大臣秘書官(当時)が同性婚に関連して「見るのも嫌だ。隣に住んでいたら嫌だ。人権や価値観は尊重するが、認めたら、国を捨てる人が出てくる」などと強烈にホモフォビックな発言をして問題視されたことをきっかけに、再び話題にされるようになった。(136頁)
性についてグレーである彼ら、彼女達はこういう方がおられると息苦しい水圧のコミュニケーションの中で生きてゆかなければならないという。
何が息苦しいかというと、これはやはり「大変だなぁ」と思ったのだが
背景を説明すると、私の体は現在、テストステロン(いわゆる「男性ホルモン」)もエストロゲン(いわゆる「女性ホルモン」)も産出できない状態にある。なので、定期的にホルモン補充療法を受けないと、体からホルモンが枯渇した状態になって体調を崩すことになる。具体的には、震えるような寒気がしたり、顔がほてったり、めまいがしたり、といった症状が出る。−中略−ホルモン補充療法を中心的におこなっているのは婦人科なので(139頁)
診療所はトランスジェンダーの人達に関してははっきりと「来ないで欲しい」。
「女性客の迷惑なので」という。
人間の認識というのは見た目でジャッジされると非常に困った混乱が言葉の中で起こる。
これは武田先生が考えた。
武田先生は偉い。
例えば大きな真っ白い鳥がいる。
「白鳥」
白いから。
「スワン」で「白鳥」というのはいい。
ところがスワンの中には黒いのもいる。
「黒鳥」
その時に「黒鳥」というのは変。
「白鳥」と名づけたのだから、これはどう考えても「黒い白鳥」ということ。
そういうふうに言葉が変わって。
トランスジェンダーの問題に関してはそんなふうに考えたらどうだろうか?
あんまりはっきり何かを言ってしまうと、「男」「女」と言ってしまうとそれ以外動かなくなってしまうところで違う性の人が出て来たところで混乱してしまうという。
或いは乱暴になってしまうという。
「白鳥の中には黒い鳥もいる」という、そういう約束事をきちんと持っていれば白鳥と黒鳥が泳ぐ風景を私達はのどかに眺めることができる。
白と黒に意味を付けると同じ種類のものをまるで違う種類のように思ってしまうという言葉のレンズの誤解が生じますよ、という。
そういう意味合いで、この三木那由他さんの小さい本だったが、非常に勉強になったような気がした。
いずれにしろ黒鳥であろうが白鳥であろうが、私共は一種自然の風景としてそれを眺め楽しみましょう。
美しいものです。
(この週の最後の二日間はこの本とは関連の無い話なので今回は取り上げない)



