というワケで「アーティスト伝説」。
申し訳ない。
これはそのまま(本のタイトルを)使ってしまった。
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これは新田和長さんがお書きになった「アーティスト伝説」。
新潮社から出ている「レコーディングスタジオで出会った天才たち」というサブタイトルが付いているが。
皆さん、見てらっしゃる方もいらっしゃるだろうと思うが、今、武田先生もテレビで「(今朝の)三枚おろし」みたいなことを短い時間やっている。
テレビとラジオは違う。
テレビの場合、いかに短く伝えるか。
長くなるともたない。
だから「なるべく約めてくれ、約めてくれ」と言う。
十分ぐらいにまとめなければならない。
あれは大変だなと思う水谷譲。
我れながら「よくやってる」と思う武田先生。
もう正体をバラしてしまうと、「三枚おろし」で使ったネタを向こうでやっている。
だが、取り扱い方法が違う、組み立て方が全く違うワケで。
今朝から始まった「アーティスト伝説」。
新田さんの長き人生。
「レコーディングスタジオで出会った天才たち」ということなのだが。
新田さんというのは遠い思い出に出てくる人。
武田先生は遠い昔、この伝説の人と福岡の小さなホール(電気ホール)の舞台袖ですれ違ったことがある。
武田先生は大学の三年生。
22歳ぐらいの年齢だった。
「海援隊」というアマチュアフォークグループに夢中になっていた。
そこに彼がやってきた。
彼の肩書は東芝EMIディレクター。
(この時点での社名は「東芝音楽工業」。この後も番組内で何度も「東芝EMI」という言葉が出てくるのでここでも同様に表記していくが、その時期の実際の社名ではない箇所が多数ある)
遠い東京から遥々福岡までやってきたという。
それはもう存在だけでドキドキする。
彼はなぜわざわざそんな田舎町、50数年前の福岡にやってきたのか?
新田さんは彼の直感で「このグループはいける」と思ったグループが福岡にいたからで。
そのグループとは、もう詳しい方はすぐ名前が出てくると思うが「チューリップ」。
敢えて呼び捨てにさせていただくが、このチューリップのリーダーの財津という青年の持っている才能、これを「ただ者ではない」と見抜いたワケで、たった一曲聞いただけだが「果たしてこれがプロになるかどうか」ということで福岡にやってきたという。
それでじっと舞台袖からこの新田という青年の若さ、舞台袖で見ていた。
その時はまだチューリップは出ていなくて、チューリップの前座が出ていた。
それが海援隊。
面白い。
その新田さんが見ているとも気づかず、武田先生達は無我夢中でやっていたワケで
これは武田先生はよくは覚えていないのだが、チューリップの財津さんの方から「前座やってくんないか」という。
どうしてもその電気ホールを満員にしたい。
もちろん、アマチュアとしてのチューリップは人気があるのだが、安全パイの意味で満杯を勝ち取る為には財津さんはもう一グループ欲しかったのだろう。
それで前座として武田先生達(海援隊)が出た。
武田先生達が舞台が終わって降りてきた時に、東芝EMIの新田さんが手招きして武田先生達が呼ばれた。
それで「君たち面白いね」とおっしゃった。
新田さんは後に「違う言葉をかけた」とおっしゃるが、武田先生はその一言の印象が強くて、その一言を覚えている。
武田先生はどうしたかというと「そんな」と言いながら彼の前を足早に通り過ぎたという。
怖かった。
(海援隊は)ただのアマチュアグループ。
財津さんはもうプロを目指していたから、覚悟が全然武田先生達とは違う。
武田先生達はただ、ネエチャンに好かれたくてやっているようなフォークソングだから、最初から性根が腐っている。
それがやはり「プロの東芝EMIのディレクターさんが」というのがドキドキする。
それから長い年月が過ぎて、50年以上経って、この新田さんが自分の人生の大まとめということで「アーティスト伝説」という本をお書きになった。
その本の中に一行だけ武田先生が出てくる。
海援隊を率いるあの武田鉄矢さんが一肌脱いでくれたらしい。観客動員のため、コンサートは海援隊とチューリップのジョイントだった。(118頁)
「後に、ここには武田鉄矢というのがいて非常にユニークな」というので出てくるワケで。
(本にはそういう文章は無い)
その「ディレクター」という言葉自体も珍しかったのだが、武田先生は「新田」という名前を聞くと胸がドキドキする。
この後、武田先生は人生の中でこの新田というディレクターさんの名前を何度も聞くことになる。
そんな凄い人なのかと思う水谷譲。
皆さんは「あっ!」と声を上げられるかも知れないが、著者・新田和長さんだが
1968年、早稲田大学フォークソング・クラブ所属の僕たちのバンド、「ザ・リガニーズ」は東芝からレコードを出し(2頁)
あのリードボーカルが新田さん。
そうやって聞くと面白い。
この人自身もシンガーだった。
それもフォークソングのシンガーだったというところから、新田さんの長いミュージシャン達とのお付き合いが始まるワケだが、これがもう本当に見事な人々を網羅しているという新田伝説でもある。
ザ・リガニーズという学生バンドがあって、これがいよいよ東芝からレコードを出す。
学生さんを相手に東芝EMIというレコード会社がレコードを出そうという。
何でこんなことができるようになったのかというと、60年代の半ばから後半にかけて日本の音楽界に激震が走る。
その激震とは何かというと、どうしてもここから語らなければならない。
ザ・フォーク・クルセダーズ(以下フォークル)のステージを初めて見たのは、1968年(86頁)
「帰ってきたヨッパライ」は何ひとつレコード会社の手を借りず、数人の学生だけでつくり上げてしまったのだ。後に僕は、京都駅からそう遠くない−中略−
この家庭用のテープレコーダーの回転を変えて録音したので(93頁)
(ここで本放送では「帰ってきたヨッパライ」が流れる)
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フォークルの出現そのものが革命的だったのだ。(92頁)
ディレクターも必要としない曲が深夜放送で爆発的に売れたということ。
これで「手間も暇もかかんねぇな。学生は」というので「そのへんの学生に声をかけてみよう」という。
そうしたら早稲田大学に人気のあるフォークソング・クラブがあって、そのグループの名前が「ザ・リガニーズ」。
足元にザリガニを見つけて「ザ・リガニーズがいいんじゃないか!」と叫んだ。その一言でバンド名は決まった。(14頁)
それで「東芝から出そうよ」なんて、もの凄い話をレコード会社が学生さんにする。
新田さんもいい気持ちになったのだろう。
1968年、シングルの発売に向け、大学3年生の僕は高田馬場から赤坂溜池の東芝音楽工業に通う機会が増えた。(18頁)
これはもう、あのときめきは忘れられない。
武田先生もそう。
武田先生も大学の二年生ぐらいの時に地元のテレビ局に出入りできるようになった。
TNCという地方局があって、自動扉が開く事務所に入ってゆくのはもう何か凄い自分が「業界!」(という感じで)「あ、月曜日空いてます」とかと言うと胸がときめく。
そのネクタイを締めた方から一丁前に扱ってもらえる喜び。
そんな気持ちだったのだろう。
新田青年はそこに出入りするようになった。
その東芝EMIに強烈な人がいた。
この強烈な人こそ誰あろう高嶋(弘之)さん。
聞いただけで「ああ」と頷く方がいらっしゃると思うが、東芝EMIのディレクターさんで
バイオリニスト、高島ちさ子さんは高嶋さんの次女だ。(41頁)
本当に、この高嶋さんというのはただ者ではない。
皆さんは「ちさ子さんのお父さん」というイメージがあるかも知れないがやめてください。
日本の音楽界で大変なことをした人。
この高嶋さんが新田という青年が気に入ってきた。
ある日、高嶋さんは、卒業を来年に控えた僕に対して、驚くべきことを口にした。
「新田、無試験でいいからウチに入れ」(18頁)
よっぽど見込んだというか人手が足りなかったというか、新田青年を「使いやすい」と見たか、何かよくわからない。
みんながみんな、先見の明がある人が揃っているということだと思う水谷譲。
それと人間の確かめ方が直感のみでよかった昭和特有の・・・
突然の大胆なお誘いに戸惑いながら、
「ありがたいお話ですが、僕は輸出マーケティングというゼミで、商社に入るための勉強をしております」
「商社に入って何をするんだ?」
「はい、テレビ、カメラ、自動車など、国際競争力のある日本の製品を、世界に輸出したいと思っています」
「馬鹿だなあ、ウチに入って、君が言うところの国際競争力とやらのある音楽をつくって、世界に輸出すれば同じことじゃないか!−中略−
「いいか、そのうち、姿、形のないものを輸出する時代が来る。芸能とか、芸術、文化とか」−中略−
まだ、ソフトとか、ハードという言葉もなかった時代に、先見の明とはまさにこういうことを指すのだろう。(18〜19頁)
試験無しだから。
当然正社員として迎える。
凄い時代だと思う水谷譲。
若者というのはこういうふうにして大人から仕切られると燃えるのだろう。
それで新田さんの人生の中でまずは「海は恋してる」という自分達のオリジナル曲のレコーディングに打ち込むワケで。
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この「海は恋してる」という曲から彼のレコーディングスタジオの歴史が始まるワケで。
敢えて「青年」と付けさせていただくが、新田青年はこうやってレコード産業界に入ってアマチュアとして卒業記念という意味合いも込みで東芝EMIから一曲、レコードを作ってそれを販売しようという話になったという。
それでギターの演奏を磨き、コーラスなんかも仲間が集まって一番楽しい時。
「レコーディングするから」と曲が決まって仲間と練習するという。
その時は楽しいもの。
そして新田青年は東芝EMIレコーディングスタジオへ乗り込む。
首相官邸に隣接するスタジオに到着した。ロビーで会った高嶋さんは言い放った。−中略−
「もう、スタジオミュージシャンで録音してあるよ!」
がっかりだ。(19〜20頁)
ボチボチそういう時代に差し掛かっていた。
そして「ああもやりたい」「こうもやりたい」と練っていたアレンジだが、アレンジも終わっていた。
ガックリくる。
さっそく、期待半分、不安半分でプロの演奏を聴かせてもらった。−中略−
プレイバックされたイントロを聴いた瞬間、メンバーの誰かが、12弦ギターのチューニングが狂っていると言った。−中略−E7のコードが、Em7になっていた。(20頁)
このあたりは丁度時代の変わり目で、新田君が夢見ている音楽業界は「あくまでも自分の手作り」というのだが、認められなかった。
というわけで、皆さん方に確認していただく意味でE7がEm7に変わっているところと、少しチューニングの甘いイントロの12弦ギターを聞いてみましょう。
ザ・リガニーズ「海は恋してる」。
(ここで本放送では「海は恋してる」が流れる)
この歌はよく知っているが、どこがどうおかしいのか全然わからない水谷譲。
これは新田青年のこだわりがあるのでチューニングが甘いとか、それからコード一か所アレンジの方が変えたのでコーラスが凄くやりにくくなったらしい。
だから「自分達が演奏する」というこだわりがあるので、ほんの僅かでも違和感を感じるとそれがミスのように感じてしまうという。
ここでまた凄く面白くて、新田青年は本当に高嶋さんのことを恨んだのだろう。
「やりたい音楽と違いますよ!」とかと言ったのだろう。
そうしたら高嶋上司から言われたのは「上手い歌なんかいらないんだよ!欲しいのは売れる歌なんだ」
(本の内容とは異なる)
これはもう誰もが洗礼を浴びるところでやはりいろんな人がここにぶつかっていく。
これは恐らく平尾昌晃さんから聞いた話。
歌唱力をひけらかすヤツがいる。
「誰がそんな。鼻歌でいいんだよ!聞き手の人はそれを聞きたいんだ。オマエの歌唱力なんかいら無ぇんだよ!」
それはもの凄く大事なセンスの違いで。
平尾さんは有名。
みんな歌唱力に自信があるから歌手になっているワケだから、もう何だか「十週勝ち抜きナントカ大会」みたいになってしまう。
「人々が求めてるのは鼻歌なんだ」という。
だからその歌自慢のヤツが「命をかけて歌唱に臨みます」なんていうのは誰も求めていない。
でもこれは本当におっしゃる通り。
アマとプロの差がそこにある。
上手い歌などいらない。
売れる歌を作る。
その為、売れる歌を作る為にはどうしたかというと、その歌は「売れるという渦を持っていないとダメだ」という。
凄い。
レコード産業界は厳しくて面白い。
新田青年はこの最初の高嶋との激しいやり取りが音楽の基本として「そうなんだ。俺達に要求されていることは『売れる歌』なんだ」というところから一歩、二歩と彼の人生が始まるワケだが、アーティスト伝説はこの後まだまだ続く。
1960年代の説明をしなければならないが、1960年代、レコード産業界が動き出す。
ビートルズのデビュー・シングル「ラヴ・ミー・ドゥ」は、1962年−中略−イギリスで発売された。ヒットしたものの大ヒットとは言い難かった。しかもそれはイギリス国内だけの話だとして、アメリカのキャピトル・レコードは相手にしなかった。当時、世界の洋楽勢力図は圧倒的にアメリカが中心で、イギリスは遠く及ばなかった。−中略−マッシュルーム・カットに象徴される彼らの容姿はどう見てもまともな音楽家ではないと批判するクラシック界などからの声も聞かれた。(38〜39頁)
アメリカの扱いはどうかというと「イギリスの港町の田舎バンド」というイメージがビートルズ。
それぐらいの存在だった。
ポップスの方はというと、もうダントツ、アメリカ。
「ビー・マイ・ベイビー」とか「悲しき雨音」。
そんなのが大流行で「ラヴ・ミー・ドゥ」というラブソングはあまり・・・
ポップスについて「世界を主導できる、引っ張っていけるのはアメリカンポップスだけで、イギリスにそんな力があろうハズが無い」というのが全体の見方だった。
イギリスで発売された2枚目の「プリーズ・プリーズ・ミー」、4枚目のシングル「シー・ラヴズ・ユー」を聴いた高嶋さんは、−中略−日本でのレコード発売の準備に取り掛かった。
その頃、アメリカのキャピトル・レコードは依然としてビートルズのアメリカでの発売に否定的だった。(39頁)
これは武田先生も体感として覚えている。
「女の子みたいで髪の毛伸ばしたヤツ。そんな奴らが力があろうハズが無い」と思っていた。
タカトリ君という友達がいて、タカトリ君の好きな女の子がシロウズさんという。
それでそのビートルズが
She loves you, yeah, yeah, yeah(ザ・ビートルズ「シー・ラヴズ・ユー」)
と歌ったものでタカトリ君が学校の帰り道「ビートルズはシロウズの事ば知っとう」と言いながら武田先生に告白した秘密の会話を思い出すぐらいで。
でも「シー・ラヴズ・ユー」に反応したのはタカトリ君ぐらいだった。
「これではいけない」と思ったのが東芝。
これはEMIと提携をする。
1962年。
何とかしなければいけない。
東芝EMI。
(「提携」というのが不明だが、本によるとEMIと合弁会社になったのは1974年。会社同士のやり取りはビートルズ以前からあったようだ)
「プリーズ・プリーズ・ミー」、4枚目のシングル「シー・ラヴズ・ユー」を聴いた高嶋さんは、ビートルズの音楽はこれまでのアメリカの音楽とは何かが大きく違うと感じた。(39頁)
このグループはタダ者じゃない。
何でアメリカと喰い合わせが悪いのかというと、アメリカのポップスには無いブリティッシュロックというか、クラシックの臭いもあるんだ、という。
「これ絶対いけるわ」と高嶋は思う。
アメリカ、キャピトルは動かない。
「ビートルズ宣伝しよう」という。
高嶋は策士。
イギリスEMIと密談する。
日本とイギリスが手を組んで「ビートルズが売れた」と騒ぎだせば、絶対にキャピトルも腰を上げる、宣伝し始める、という。
それでEMIは「そんな夢かけてくれるんだったら、アンタの言うこと何でも訊く」と言ってイギリスEMIと高嶋の間で意思疎通ができるようになった。
(このあたりは本の内容とは異なる)
向こうのディレクターも高嶋に乗ってしまった。
高嶋は何を要求したかというと「プリーズ・プリーズ・ミー」とか「シー・ラヴズ・ユー」では受けない。
「どうしたらいいんだ」といったらビートルズは何を歌っているかをタイトルに付けた方がいいんだ」という。
でないと日本では手が付かない。
字幕の洋画か吹き替えで声優さんが演じているかの違い。
それでその次の歌が「アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド」。
これは「アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド」だから「あなたの手を取りたい」。
それを高嶋が「俺がタイトル付けるから納得してくれ。ビートルズにも言ってくれよ」といって。
それで「アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド」を日本のタイトルに変えた。
これが「抱きしめたい」。
さあ聞いてみましょう。
ビートルズ「抱きしめたい」
(ここで本放送では「抱きしめたい」が流れる)
英語タイトルでは日本では馴染みがない。
だから最初は「日本語でとにかくやらせてくれ」という。
これがまたものの見事に当たる。
何と日本とイギリスが手を組んだ「アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド」「抱きしめたい」、これが日英で大ヒットし始める。
そうしたらキャピトルがし始める。
アメリカ公演をやる時にファンをカネで雇ったというのだから。
ビートルズがアメリカに降り立った時、飛行場で騒いでいた女の子にギャランティーを出していた。
サクラ。
そして少しお金を握らせて、ジョン・レノンが落とした灰と灰皿をを百ドルで買った女の子というのも。
そういう伝説も。
そうしたら「アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド」、邦題「抱きしめたい」は日英米で火が点いたという。
これでEMIは高嶋に頭が上がらない。
そんな世界的なヒットをどうやって飛ばすかを横でじっくり見ていた新田青年。
改めて新田さんの本を読んでしみじみ思ったのだが、ビートルズを売るということに関して高嶋さんの働きは凄かったらしい。
まだ東芝の方での主役は誰かというとベンチャーズが主力だったという。
ベンチャーズがアルバムを100万枚売った。
(「インストゥルメンタル」という言葉が本放送ではカットされている)
それぐらいのパワーがあった。
テケテケテケ♪
同じ東芝が発売していたベンチャーズのアルバムは100万枚も売れ、ビートルズはまだ5万枚しか売れていない時、高嶋さんは数字を改ざんしてベンチャーズよりビートルズの方が売れているように見せる社内書類を作成した。おまけに社外秘の印まで押して雑然とした机の上にさりげなく置いておく。業界紙の記者が毎日社内を歩き回ってネタを探していた時代なので、その書類は必然的に記者の目に留まる。(42頁)
EMIからの覚えもめでたいので高嶋さんだけにはビートルズの英語のタイトルを日本語に変えていい権利が伝授された。
ビートルズのナンバー
「恋する二人」「恋におちたら」「悲しみはぶっとばせ」「ノルウェーの森」「ひとりぼっちのあいつ」なども全て高嶋さんがつけたタイトルだ。(42頁)
今頃になってちょっと「間違えたんじゃないか」というのが発見されている。
「ノルウェーの森」ではないらしい。
本当は「Wood」だから「ノルウェーの家具」。
でも「ノルウェーの家具」では売れていないだろう。
「ノルウェーの森」で水谷譲の好きな作家さんの小説のタイトルになった。
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でもそれぞれに音が聞こえてくる。
「恋する二人」「恋におちたら」「悲しみはぶっとばせ」「ひとりぼっちのあいつ」
これは全て高嶋さんのアイデアで。
一個だけ正確にものを言っておかなくてはいけないのだが、ビートルズは世界中で大ヒットするのだが中国だけはヒットしていない。
文化大革命(文革)の最中で、「愛国無罪」とか漢字四つ文字が流行っていた国ではビートルズは一切。
しかしこのグループは知れば知るほど天才的だった。
そのことを高嶋の横に立っていた新田青年は学ぶ。
ビートルズは何が凄いか?
イントロを聞いたらその曲がわかる。
例えば「アイ・フィール・ファイン」。
(ここで本放送では「アイ・フィール・ファイン」が流れる)
演奏のノイズのハウリング。
これがイントロ。
「Help!」
(ここで本放送では「Help!」が流れる)
イントロ無し。
いきなり。
「カム・トゥゲザー」は冒頭いきなり「シュッ!」という音で始まった。−中略−ジョン・レノンの声なのだろう。(43〜44頁)
(ここで本放送では「カム・トゥゲザー」が流れる)
60年代の半ばから日本をビートルズ一色に染めてゆくという。
それを新田青年はジーッと眺めていて、先行したビートルズから「なるほど。こんなふうにして音楽を売ってゆくのか」というのを学んだという。
もう一回繰り返すが、この60年代半ばから日本の音楽界に大革命が起きた。
これはもちろん先行するビートルズがいたからなのだが、日本でも影響力を持ったフォークグループがスタートする。
それが(ザ・)フォーク・クルセダーズ。
彼等からフォークソングという新しい音楽運動が。
日本のフォークソングはここから始まったという一曲がある。
これは武田鉄矢説。
寺山修司さんが作詞なさった「戦争は知らない」。
(ここで本放送では「戦争は知らない」が流れる)
それまでの日本の歌謡界は戦争を知っている人達の歌。
フォーク・クルセダーズが言い始めたのは「俺達は知らない。戦争を」。
寺山修司の作詞から影響を受けて北山修は「戦争を知らない子供たち」という曲を。
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ここからフォークというものが立ち起こっていくという。
(本放送ではBSテレ東「武田鉄矢の昭和は輝いていた」の宣伝が入る)







