「アーティスト伝説」
新田和長さんがお書きになった一冊。
この中にたくさんのミュージシャンたちが並んでいる。
今回ちょっと新田さんを離れる。
新田青年を離れて60年代後半に入ってゆく日本の音楽界から語ろうかなと思う。
(水谷譲が生まれたのは1967年なので)60年代は水谷譲は生まれている。
そんな時に何が起こっていたかをまず話す。
戦後歌謡。
もう本当に日本人を、日本の歌謡界は励ましつつ復興に導くワケだが、その間にも政治闘争として安保闘争「アメリカの子分のままでいいのか」等々の激しい若者からの突き上げがあって60年が過ぎた。
次にやってくるのが70年。
歌謡曲の世界が揺れ始める。
これがちょうど新田青年が東芝に入って活躍する頃から。
その間に音楽界では何が起こっていたかというと、戦前・戦中の人達が作る歌謡と戦後世代が作る歌謡が分かれ始めた。
フォークソングが芽生える。
そのトップバッターとなったのが「フォークル」「(ザ・)フォーク・クルセダーズ」というグループなのだが、彼らが歌を作り始めると、それまでレコード会社に所属していた作詞家の人達、その戦線に文学界から寺山修司、五木寛之というような作家さん達が歌詞を提供するようになった。
その中でも特に影響が大きかったのがこの人の詞ではないかと思う。
寺山修司「戦争は知らない」。
(ここで本放送では「戦争は知らない」が流れる)
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この巧みさ。
野に咲く花の 名前は知らない(ザ・フォーク・クルセダーズ「戦争は知らない」)
「花の名前を知らない」というところを問題提起している。
そんな名前も知らない花が好きだ。
「知らない」ということが大事で。
2コーラス目で
戦争の日を 何も知らない
だけど私に 父はいない
父を想えば あゝ荒野に
赤い夕陽が 夕陽が沈む(ザ・フォーク・クルセダーズ「戦争は知らない」)
巧み。
あの戦争からもう二十年経っている。
1970年が間もなくやってくるから。
その私は戦争は知らないんだ。
だから「戦争を知らない人間としての価値を作ってゆこう」というのが彼らの歌になった。
寺山修司の用意周到なところは、これは世界的な歌とぴったり歩調を合わせている。
「花はどこへいった」
Where have all the flowers gone?(「花はどこへ行った」)
ピート・シーガーが作った歌なのだが、「花」というのがキーワードになってそれが戦いと結びついて歌を作っていくという戦中・戦前派が思いつかない歌の展開をこの60年代の若者達は。
しかもこの「花はどこへいった」を調べるとびっくりするのだが、ウクライナ民謡。
だからこの歌声は今もなお、どこかで響いている歌声。
一生懸命武田先生が言っているが、やはり「戦争は知らない」あたりぐらいから日本の歌謡界の気配、音楽の気配が変わった。
こんなことを思うのは武田先生だけか。
これはかなり武田節が入っている。
少なくとも寺山修司さんの「戦争は知らない」あたりには戦後世代の主張がある。
美空ひばりは戦争による消失を歌う。
せめて あたいが 男なら(美空ひばり「波止場だよ、お父つぁん」)
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「波止場だよ、お父つぁん」
久しぶりに 手を引いて(島倉千代子「東京だョおっ母さん」)
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島倉千代子が歌う「東京だョおっ母さん」。
これはいずれにしても大戦があったという体験。
三波春夫。
彼は何を歌ったか。
敗戦を得ても変わらぬ日本人の共同幻想を歌うという。
これが三波先生。
槍は錆びても 此の名は錆びぬ(三波春夫「俵星玄蕃」)
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という「俵星玄蕃」の中に潜んでいるのは日本人が抱き続けたある種、共感の世界を歌うという。
ところが70年代の後半からの青春は「戦争は知らない」と断言したという。
そして「戦争は知らない」というこの一行から北山修は杉田二郎と一緒に「戦争を知らない子供たち」というヒット曲を作る。
このあたりから歌謡界のフレーズが変わってくる。
歌の歌詞が変わって来る。
これは「戦争は知らない」の中にある。
60年代中盤から「風」がキーワードになってくる。
多分ボブ・ディランの「風に吹かれて」なんかがそう。
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それから「荒野」。
父を想えば あゝ荒野に
赤い夕陽が 夕陽が沈む(ザ・フォーク・クルセダーズ「戦争は知らない」)
というような。
五木寛之がこれでフォークルの為に「青年は荒野をめざす」という。
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そして「野に咲く花」、それから「旅立ち」。
こういうことが歌の材料になっていって、「旅立ち」なんていうのは60年代に上がっていって70年代を突っ切って70年代の最後まで「旅立ち」というフレーズは、青春に響き続ける。
谷村新司の「いい日旅立ち」。
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ずっと「旅」。
こうやって考えると面白い。
新田青年はそういう時代の狭間に生まれて、新しいフレーズを持った若いミュージシャンを見つけていく。
どうしてもやはり取り上げなきゃいけないと思うのだが
歌舞伎役者の市川染五郎(後の九代松本幸四郎、現在の二代目松本白鸚)さん(61頁)
これが異国の顔をしていて、彫りが深くて。
昔の染五郎。
でも我々はどうしても「染五郎」と呼んでしまう。
「ラ・マンチャの男」等々でアメリカのブロードウェーとも渡り合えるぐらいの力量を持った、この御曹司。
これはただ者ではない。
これを見つけたのもやはり高嶋さんのようだ。
「おい、新田。ついてこい。口説くぞ、歌舞伎界の大物」と言って、この市川染五郎を口説きにお父様のところに行って頭を下げたという。
(本によると新田氏は同行していないのでこの部分は武田先生の妄想。同行したのは会社の重役)
「息子さんでレコードを作りたいです」と頭を下げて。
市川染五郎、松本白鳳さん。
スケールが違った。
「野ばら咲く路」は当時の日本のフォークソングでもなく、グループサウンズでもなく、−中略−フォーク・ロック・ブームを牽引したザ・バーズ、あるいはイギリスのデイヴ・クラーク・ファイヴ、ザ・ビートルズなどを好きで聴いていた人がつくることができた音楽のような気がする。いずれにせよ市川染五郎さんは60年代から70年代にかけての、日本の自作自演時代の新しい音楽の扉を開けたひとりだ。(62頁)
聞いたことが無い気がする水谷譲。
これは水谷譲が知っているヒット曲の路線からは外れているかも知れない。
ヒットした。
もの凄いショックを受けた。
歌舞伎界の御曹司の戦前・戦中とは違う音楽センスを持った方が出てきたという。
そして染五郎さんだから、歌舞伎界の御曹司だからもう違う。
それでアルバムを作るのだが、アルバムとなるとフォト表紙になって写真の表紙になる。
ある日、染五郎さんは僕に聞いた。
「新田さん、ジャケットの写真を撮るカメラマンですが、どなたか候補の方はいらっしゃいますか」
「いえ、誰もいません。私はまだカメラマンに知り合いがいません」
「それでは友人のカメラマンに頼んでもいいですか」−中略−
「まだ無名ですが、優秀です。将来必ず活躍する人です」−中略−
撮影当日、−中略−現れたカメラマンの名前は篠山紀信といった。(68〜69頁)
そうだろうなと思っていた水谷譲。
続々と人材がそろっていくというか、新しい人達が時代の表に出始める。
新田青年はそういうのを目撃しながら大きくなっていく。
この方、新田青年はやはりつくづく感心するが、ザ・リガニーズをやっていて、そこそこヒット曲を出した。
その後は東芝EMIのスタッフ、ディレクターとして働き始めるのだが、もの凄く忠義深い。
この新田さんという方は仕事熱心な方。
1969年秋、タクシーに乗っていると偶然流れてきた「竹田の子守唄」という歌に、僕は身を乗り出した。(72頁)
(ここで本放送では「竹田の子守唄」が流れる)
それを聞き入った。
「いける」
一発で思った。
歌っているのは赤い鳥というアマチュア・グループらしい。(72頁)
その歌は、ピーター・ポール&マリーが歌ってもおかしくないフォークソングにも聞こえるが、何か違う。(72頁)
国際的な有名なグループなぞに負けないぐらい美しいハーモニーを。
まるで西洋と東洋が一緒になっているような聴いたことがない響きだった。(72頁)
「京都のフォークルに続いて、いけるのは兵庫の赤い鳥ではないか?」と直感した。
しかし残念なことではあるが、彼らは(日本)コロムビアからのデビューが決まっていた。
(このあたりからの移籍の経緯は本の内容とは大幅に異なる)
それでもやはり新田青年はあきらめきれなかったのだろう。
直ぐにメンバーとの接触を始める。
メンバーに会うのだがみんなクレバーでポリシーもしっかりしている。
マネージメントのスタッフもクール&クレバー。
それで先を越されて「竹田の子守唄」」が発売になる。
これが何なのだろう。
こういうことがある。
赤い鳥のデビュー・シングルは1970年6月に日本コロムビアから発売されていたが思うように売れず苦戦していたのだ。(74頁)
ラジオで新田君が聞いた時は「売れる!」と踏んだ。
ところがそれが正式のレコードになって流れるとちょっと変わってしまった。
新田は新しくアレンジになったこの「竹田の子守唄」が全く気に入らない。
何が変わったかというと歌詞を変えてしまった。
これは京都のわらべ歌。
だから方言がそのままメロディーになっていて。
守もいやがる ぼんからさきにゃ(赤い鳥「竹田の子守唄」)
子守で他家に行って働いている少女、その子が盆から先もまだ働き続けなければならない。
そのことの悲哀。
おどまぼんぎり 盆ぎり
盆からさきゃ おらんと(「五木の子守唄」)
「私は盆までここで働きますけど、盆から先は私はもう古里に帰りたいんです」というあの悲しみ。
それをわかりやすいラブソングに変えたらしい。
そうしたら売れない。
新田は「アンタは何をやってるんだ」と「あの歌でいいじゃ無ぇか」。
『竹田の子守唄』は元の歌詞でないと駄目だと思います。言霊なんです。音楽とのマッチング、響きです。響きがこの歌の命です」(75頁)
意味っていうのは後から追いかけていけばいいだけで。
それに新田という青年はすぐに直感した。
レコーディングしたスタイルがよくない。
新田青年は「スタジオにおけるミュージシャンの立ち位置、演奏するスタイル、そういうのがもの凄く大事だ」という、そういうことがわかっていた。
一番大事なことは、「海は恋してる」で自分達は任せて貰えなかったけど、彼達赤い鳥のようなグループにとって大事なのは自分で演奏して自分で歌うんだ、という。
そうしないとあの良さが、本当の良さが出ない。
それをメンバーに語ったらしい。
そうしたらスタッフの仕事もやっているメンバーから「君の言う通りだね。もう一回やり直そうか」と言い始めたというところから「赤い鳥」という章の物語が始まる。
それで新田君はもう一回トライして、「絶対にヒットさせてみせる」というのが彼の誓いになった。
「竹田の子守唄」をライブ感のあるレコードに仕上げてヒットさせなくてはならない。メンバー5人の歌と演奏が同時に録音できるいちばん広い東芝1スタを押さえた。
録音当日、メンバーに馬蹄形に並んでもらった。コントロール・ルームから見て、左端からギター山本俊彦、ボーカル新居潤子、ウッドベース大川茂、ボーカル平山泰代、右端がギター後藤悦治郎だ。(76頁)
マイクを挟んで、「せーの!」で録ろうという。
「村井の弟子の瀬尾と申します」と挨拶してスタジオに入ってきた。
イントロに足すチェロ一本、たった5小節の短いメロディーを書いた譜面のはずなのに、デザイナーが持ち歩く画用紙を2枚広げたような大きなバインダーを抱えてこの青年はやって来た。(77頁)
瀬尾一三。
後に大アレンジャー。
武田先生達もやってもらった。
これはまだ青年で。
凄く張り切って模造紙を広げて「これです!」とかと言いながら。
この頃、瀬尾さんは可愛かったそうだ。
このレコーディングは新田さんはディレクタールームで聞いていて、彼自身が感動する。
やはり、だから本領発揮。
新田青年の見込んだ通り
潤子さんの知的でありながらどこか艶のある歌声。
この人はいい声をしている。
そしてサポートコーラスで絡む泰代さんのベールに包むような柔らかい響き、スキャット。
まあ聞いただけでうっとりするという。
(ここで本放送では「竹田の子守唄」が流れる)
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「これで赤い鳥の本当の魅力を出せる」ということだったのだが、問題はというと、コロムビアから出した時に「守もいやがる」というそのフレーズをやめて違う詞を当てた作詞家(山上路夫)がいる。
これは新田青年が偉いなぁと思うのは、その作詞家を呼ぶ。
それで「失礼なことしちゃってるかも知れないが、私はこのほうがいいと思うんです」とその作詞家を説得する。
納得してくれたらしい。
「やっぱそうだよね」という。
それでこの作詞家に、失礼なことをしたので、新たな仕事を頼む。
作詞かの山上路夫さんのお宅に行ってB面の歌について相談した。−中略−これから活躍する赤い鳥のテーマ・ソングをつくろうという話になった。山上さんはふとこう呟いた。
「鳥は空を飛ぶよね」
山上さんの頭には「翼をください」の歌詞がすでに浮かんでいたのかもしれない。(78頁)
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というワケでここからまた新田青年の60年代の活躍が始まる。
山上路夫さんは「翼をください」を書くのだが、才能というのは凄いもので、もの凄くわかりやすい、誰でも口ずさめる詞を作るのだが、山上さんも冒険してみたかった。
今まで日本の歌謡界に登場したことのないフレーズで詞が作りたい。
それはB面を製作する時には敢えて使わなかった。
アルバムの時にそのフレーズを使う。
そのフレーズが有名になってしまう。
いま富とか名誉ならば
いらないけど 翼がほしい(赤い鳥「翼をください」)
富や名誉はいらない。翼がほしい。価値観、生き方まで端的に示している革命的な唄だ。「富」とか「名誉」という言葉が日本の歌詞に登場する時代が来るとは誰も考えなかっただろう。(79頁)
それをLP用に取っておいたというから凄い。
このあたり新田青年も用意周到。
一曲の歌なのだが違う歌詞で別バージョンを持っていたという。
これは凄いことになる。
この二曲のヒットによって、この二曲を含むアルバムは驚くなかれ15万枚の大ヒット。
アルバムは当時1万枚でヒットを飛ばしたという時代に15万枚。
それも邦楽から出したワケで。
この「赤い鳥」の人気はビートルズに並び始めた。
遂に新田君は日本の中だけだが、大きな波を立てたという。
ここからが面白い。
赤い鳥はアルバムをバンバカ売れる。
それで1970年代に入ったばかりの頃だが、営業の方から売れるから「アルバム出せ!どんどん」。
それで上司から新田君のところに来る。
「作れ、急いでアルバムを」
ところがアルバムを作るにはアルバムを作るだけの材料の歌が集まらないと、アルバムというぐらいだからできない。
そこで新田君は、こんなことを考えたのは恐らく世界で初めて。
それは、古い歌でもいいから今度のアルバムはライブでいこう。
でも赤い鳥はライブで録れるグループではなくて、音をしっかり録音しないとダメなんで、
ファンにも参加してもらう形で1スタでスタジオライブをやったらどうだろう。1日でレコーディングができる。(83頁)
当日は、150人近いファンの人たちがスタジオに入った。(84頁)
これが間違いないと思う。
スタジオライブというのは世界で初めて。
それから21年後の1992年、エリック・クラプトンが−中略−かつての「赤い鳥スタジオ・ライブ」と同じレコーディング方式と知って僕は嬉しくなった。(85頁)
それからビートルズが会社の屋上でやった「ゲット・バック・(セッション)」。
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あれは新田君は言いにくいだろうから武田先生が代わって言ってあげるが、ビートルズとエリック・クラプトンが新田君を真似したんじゃないか?
これは世界で初めてスタジオライブをやったという。
(8月25日の放送内で謝罪と訂正。ビートルズは1969年1月30日、赤い鳥は1971年12月なのでビートルズの方が先。この時点でもうビートルズは解散していたとのこと)
アルバムは計画通り12月に発売され、当初の販売目標を大きく超える成果を上げることができた。(85頁)
これは聞いていてびっくりした。
つまり、レコーディングは緊張する。
その上に赤い鳥はお客さんまで入れたワケだから。
レコーディングの緊張とライブの緊張と両方。
新田君はこの赤い鳥を売ったことで(世間が)彼を注目するようになって、彼がどこかに入っていくと小声で「来たよ、東芝の新田だよ。新田が見てるよ」とかというヒソヒソ話が聞こえるようになったという。
彼が注目したのは加藤和彦、北山修、かまやつひろし、加山雄三、小田和正、平原綾香。
アーティストとの交流が始まる。
余談で今週を締めくくろうと思う。
まだまだ続く。
まだまだ(この本の内容は)続くのだが、これから新田さんのことを語るにあたって、ちょっとこぼれ話。
この日本中の若きアーティスト達が「新田、コイツ新しい音楽を作ろうとしてる」と注目が集まったある日のこと。
1971年冬、僕は赤坂のTBSから溜池の東芝レコードまで歩いて帰ってきた。入り口の前に、背の高い痩せた青年が立っていた。−中略−ロングコート姿だった。
「新田さんですよね」
僕が頷くと、
「福岡のチューリップというバンドの、財津和夫と申します。どうしても聴いてほしい曲を持ってきました」−中略−
「魔法の黄色い靴」が流れた。(114〜115頁)
ここからまた新たなる新田伝説が始まるワケだが、少し時間を挟んで新田伝説、またこの続きは語りたいと思う。
今週の新田和長さんの「アーティスト伝説」はBSテレ東「武田鉄矢の昭和は輝いていた」でも取り上げている。
7月中の放送になるのでぜひそちらの方もご覧ください。
(7月18日放送のBSテレ東「武田鉄矢の昭和は輝いていた」【昭和40年代・歌謡界に新風を巻き起こした音楽】を指していると思われる)











