皆さんよくご存じのシンガーソングライター。
加藤登紀子さん。
武田先生達業界人は「おときさん」と呼んだり。
武田先生の場合、個人的に「姉御」と呼んでいる。
このおときさんをテレビ番組のゲストに迎えて、その時に別れ際に「読んで」と言いながらおときさんから本をいただいた。
『「さかさ」の学校』
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これは時事通社から出ている。
呼び込みの文句は「マイナスをプラスに変える81歳。ひっくり返せば18歳!」という。
実年齢でリアルに語ると「おときさん」加藤登紀子さんは武田先生達団塊、武田先生などに比べると六つばかり年上。
ギリギリながら、おときさんは戦中派。
武田先生は戦争が終わった後に生まれた戦後世代で、いわゆる団塊の世代。
おときさんに武田先生が冠した枕詞は「戦後昭和の長女たち」。
家庭の中で一番年上のお姉さん。
彼女は昭和18年生まれ。
大戦中、彼女は日本にいなくて外地・満州国にいて、植民地の中で大きくなった。
彼女は人と人とが殺し合うという時代に生きた人。
まだ二歳なのでもちろん記憶には無いだろうが、彼女の命がその時代に置かれたこと、それは命の覚悟の持ち方がどの世代とも違う。
この本のプロローグでお母さんのエピソードを話しておられるのだが、戦争中の思い出は全部お母さんからの話だそうだが。
二十代の前半で結婚を決意したおときさんだが、お母さんは大反対をしたそうだ。
「結婚は女には損よ。そんなことはできるだけ遅いほうがいいんじゃない?」(5頁)
こういうのがお母さんの説。
人の命は、自分の力で生きている時に、いちばん輝く。誰かに頼って生きていくのでは楽しく無いし、力が湧かない。−中略−
人間最後はひとりで暮らすことになる。命を輝かせるためには、ひとりで生きる力を身に付けなくてはいけない。(6頁)
それで「アンタの結婚には反対する」と言って。
それでおときさんは家を出た。
なかなか。
当時の女性ではそういう考えは珍しいと思う水谷譲。
(武田先生が)おときさんとぴったり話が合うのは、親父の悪口。
おときさんもやはりお父さんに対してはワリと厳しくて。
お父さんというのはどういう存在かというと「やらかしちまった人」という。
「何かをやって全部失敗した」という。
「狭い日本には住み飽きた。家族みんなで満州に行こう」とかといって「わ〜成功!」「戦争負けた〜!」とかという。
その時にお父さんは何と家族と一緒にいないで兵役か何かに就かれていて、お母様は男の子二人と乳飲み子のおときさんを抱えて敗戦を迎え、攻め込んでくるソ連軍の隙をついて港で待っている船に乗る為に汽車と歩きで港まで向かったという、命がけの・・・
だからお母様はニュースで伝えられる難民の人の姿を見ると「あら、懐かしい」と言った。
だからおときさんもガザやシリアの難民を見るたびに自分が紛れ込んでいるような錯覚になるという。
あれよりもっと酷かっただろう。
ロシア軍、ソ連軍なんていうのは殺したい放題だから。
異様な風景がいっぱいあったようだ。
聞いたのは、中国の人でまんじゅう売りの人が難民で逃げていく人の後をずっと追いかけてくる。
まんじゅうを売る。
お金が無かったら時計とかそのへんで物々交換とか。
それから「子供を置いてけ」と誘う「子供売り屋さん」、子供を売買するという人もいたらしい。
とにかくおときさんは小さい頃、その逃避行はまさしく生き地獄だったという。
ここ(「今朝の三枚おろし」)でも扱ったことがあるが、この引き揚げてくるという命がけの旅を数か月間やった人の先輩が、なかにし礼さん。
(2017年12月11〜29日◆なかにし礼)
なかにし礼さんは6歳とか7歳だから物心が付いている。
それで、おときさんが言っていたが、なかにし礼さんも話すと鬱屈しているそうだ。
ソ連軍の飛行機がバーっと機銃を撃ってくる。
列車に乗って逃げている最中、列車が急ストップしてバババババババッと機関銃が列車の上を走った。
ミシン目状に機銃が当たる。
丁度ミシン目状の隙間になかにし礼の頭があったので、前後の人はもう頭が無いというような亡骸だった。
だが礼さんは「お母さんは俺一人だけを列車の中に残した」という。
お母さんは「オマエはここにいなさい」と言いながらお兄さんを連れて表に逃げた。
何か極限状態なので・・・
そのことで命が助かったのだが、礼さんは「なぜ手を引いてくれなかったんだ」というのを大人になってもまだ言い続けたという。
ちょっと暗い話から始まるが、とにかくおときさんの人生が始まったということで。
シンガーソングライター。
大先輩の加藤登紀子さんの話をしている。
通称・ニックネームは「おときさん」。
武田先生は「姉御」と呼んでいる。
この方はテレビでゲストに迎えて引き揚げの体験とかをお話してくださるのだが、何か感性が違う。
他の方が悲惨なことを話されるのだが、姉御は結構ケロっとしている。
それは酷かったらしい。
女性に暴力を振るうとか強姦とか。
引き揚げの体験の惨めさというのはいろんな方から聞く。
お母さんも大変だったろうと思う。
終戦の1年8ヶ月前に満州で未熟児として誕生し、戦後1年間は難民として暮らし、無蓋貨物列車に乗せられての引き揚げを体験。(7頁)
まさしく地獄の旅。
そこで何と中国大陸の冬を体験。
ゴザで囲って親子四人で寝た、という。
寒かっただろう。
お母さんはおときさんを抱きしめて、そのゴザのマットの上に正座して男の子二人も抱きかかえて休ませている時、天から雪が降って来た。
それを「凄い綺麗だった」とおっしゃる。
「おまえを抱いてね、中国の〇〇っていう町で冬、空から降って来る雪を眺めてたのよ。その雪が綺麗でさ」と、こうおっしゃるという。
半端ではない。
ここでちょっと一つだけお詫びをしなければいけないのだが。
今日のお話は『「さかさ」の学校』という、おときさんがお書きになった本からはあまり抜いていなくて、テレビで伺った話等々で。
それが面白い。
姉御、勘弁してください。
本も時々つまむようにして、おときさんの名言を紹介したいと思うが。
この人は何といってもお話が面白い。
姉御は言う。
女性の生きる場所がフロンティアだから。(9頁)
女が生きている場所はフロンティアの荒野だ。
だから「開拓者となれ」という。
「新しく開拓するその土地を地獄と見るか天国と見るか、それは女の覚悟が決めることなんだ」という。
お母さんの影響もあるだろうけれども、おときさんも「フロンティアでありたい」と思ったという。
おときさんの本の中で見つけた名言、
人生は積木のように、高く積んで限界に達していくものじゃない。何度もゼロから始め、無限に繰り返す。それは例えるなら畑のよう。種をまけば次々に花が咲き、実がなり、また種をつける。−中略−
何かを残そうなんて思っていなかったけれど、いつの間にか思い出がいっぱい。−中略−
せっせと生きる!(10頁)
それで人生は十分だ。
こういう名言が『「さかさ」の学校』というこの著作の中に輝いている。
砂時計。
落ち切ったらまたひっくり返すという。
「自分が何かを残そう」とか、そういうふうに考え始めるというのは、けつまづく原因。
「我が道をゆくのだ」と。
泳ぎで言うと、手で波をかき分け続ける。
それが生きてゆくことなんだ。
困った時にも笑顔になれたら困ったことにはならない。
とりあえず笑っていると困ったということにはならないんだ、と。
ご存じの方も多いと思うが、本の中でおときさんが胸を張った出来事があって、その一つ。
私は50数年の歌手人生でコンサートを中止したことは3回しかない。1974年に大雪で飛行機が飛ばなかった北見のコンサート。1995年にハイジャックに巻き込まれた函館のコンサート。2018年に台風で延期になった多可町のコンサート。(45頁)
やむを得ない状況だと思う水谷譲。
やはり度胸がいい。
(◆加藤登紀子 1995年6月、羽田発函館行き…:有名人の事件・事故 写真特集:時事ドットコム)
まだジャンボ機のデカいヤツがあった頃ではないか。
ハイジャックされて、おときさんは二階のキャビンを上がったところのスペシャルルームにいたのではないか?
おときさんは、そこから何か外部に向かって電話をしていた。
その電話の声みたいなのがテレビで流れた。
その時も克明に犯人の状況みたいなのを喋っておられた。
顔色一つ変えることは無いのだろう。
この人はしかし、度胸がいい。
1990年11月、ニューヨークのカーネギーホールで二回目のコンサートをした時、ホテルで−中略−自分の指で乳房にシコリを発見した。
帰国後すぐに病院へ行くと「悪性の癌の可能性が高い」と言われた。−中略−年末は「ほろ酔いコンサート」があり、中止することはできない。その1ヶ月、抗がん剤の処置をしながらコンサートを開催すると決めて、初めてお酒を飲まずに「ほろ酔いコンサート」をやり切った。バンドのメンバーにもいっさい言わずに。
年明け早々、正月明けの病院で手術を受けた。1月半ばにコンサートがあり、キャンセルはできない、と医師に告げ、ステージで着る衣装は、肩を出した胸元までのドレスだ、と伝えたら、ドレスのラインをマーキングして、絶対に傷跡が見えないように手術をしてくれた。(19〜20頁)
(番組の内容とは時系列などの詳細が異なる)
左胸の乳頭の下のほうを切除した後の乳房が、見ると10代の頃に戻ったみたいに可愛くて、「右胸のほうも切ってもらおうかしら」なんて言ったらお医者さんもびっくり。
「そういう風に言った人は初めてだなあ!」と一緒に笑った。(20頁)
武田先生のテレビ番組に来ていただいた時にしていただいた話が凄く面白い。
何かのご縁もあっただろうが、武田先生も一部、彼女のそのあたりの出来事を知っている。
お話しましょう。
何よりも興味深いのは、おときさんに絡んでいく男達のバラエティーの面白さ。
いろんな男がおときさんに絡んでいく。
彼女が本の中で最も頻度が高いのが藤本敏夫さんという。
おときさんの旦那さん。
彼は関西生まれの活動家。
アメリカのベトナムに於ける戦争の有様等々を見て、もの凄くアメリカに反感を持ったという。
学生でありつつ反戦運動を繰り返し、機動隊にぶつかっていった。
数度逮捕、拘留、投獄されたという方で。
1960年代から70年にかけて、もの凄く激しい青春を生きた人。
特に70年前後の東大闘争に於いては先頭グループの活動家で。
この時におときさんと知り合ったという。
藤本という方も関西生まれの方らしいのだが、「東大生でありつつギターを持って歌う歌手である」というおときさんに接近した藤本さんは、「決起集会で歌を歌ってくんないか?君歌手だろ。歌ってよ。戦う学生の為に」。
そうしたら、おときさんは凄い。
その藤本氏に向かって「政治に歌を利用するというその態度は何だ」という。
そうしたらここから彼女の目がキラキラ輝きながら亭主のことを語るのだが、彼はすぐにひっこめた。
「あっ、そうだよね。悪かった、悪かった」と言いながら。
もの凄く素直に「君の職業に対して少し上から目線だったかも知れない」みたいな謝り方をして素直に詫びたという。
その詫び方が何ともはや、おときさんには爽快だったのだろう。
断固アメリカを許さない。
その態度は絶対に崩さない。
そんな彼に、おときさんはゆっくり惚れていく。
警察から目を付けられ、いったんは釈放とかになったりするのだが、またデモに参加してまた捕まって。
その度に警察にお迎えに行ったり、時には拘置所の前で彼の出獄をまったりしたという。
彼が投獄されると、おときさんも手紙を書いたり。
その間も藤本氏は、もの凄く愉快な人で独房の自分を明るく明るく文字にしておときさんに送り続けたという。
その独房の中での体験だが、藤本氏が独房の中に一人いる時、便器の中からネズミが這い上がってきで。
そのネズミと語るのだけが楽しみだったという。
そんなちょっとメルヘンチックなところに、若き20代前半のひとえまぶたのおときさんは、ちょっと色っぽい顔をしていたのだろう。
ますます傾斜していって、ここから一つの歌が生まれたという。
加藤登紀子さんが惹かれていった藤本敏夫さん。
学生運動の猛者がいた。
この人は会うとわかるのだが、凄くスマートな人。
会ったことがある武田先生。
文化放送のラジオ番組のゲストに迎えたことがあって。
『ひとり寝の子守唄』をギターを弾きながらうたった。この歌は、夫の藤本敏夫が学生運動のリーダーで拘置所に拘留されていた時の手紙がきっかけ。
「僕のひとり部屋(独房)にトイレ兼椅子がある。朝起きて蓋を開けるとよくネズミくんがいるんだ。そのネズミくんが僕の唯一の友だち」(61頁)
(ここで本放送では「ひとり寝の子守唄」が流れる)
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少ないコードでいいメロディー。
シャンソン歌手であったというその彼女が、歌謡曲を歌って、そこそこのヒットを飛ばした。
だが、そのヒットでは飽き足らずに、この「ひとり寝の子守唄」という歌を。
おときさんはそんなふうには言わないが(藤本氏を)喜ばせたかったのだろう。
それで出所した彼を迎えに行った。
それでこの歌を歌って聞かせた。
そうしたら彼は大激怒。
口を利いてくれない。
加藤登紀子、おときさんに向かって「ひとり寝の子守唄」の歌の印象を伝えた。
「惨めじゃないか」
藤本氏には惨めな歌に聞こえた。
熱心に学生運動をやっておられる彼にとっては「敗北の歌」だった。
70年、安保闘争は日本中の学生さんが政治に傾斜した時代なのだが、武田先生もこの歌を聞いた時に思ったのだが、やはり「ひとり寝の子守唄」というのは敗北の歌。
まだ本式の戦いは始まっていないので、藤本氏は妙に敗北を予感したこの歌が許せなかったという。
複雑。
それで二人は大喧嘩になったらしい。
一時期会わないとかということもあったのだろう。
そのうちに本格的に70年安保闘争が始まる。
70年、71年、72年ぐらいまで時が過ぎるワケだが、その度に藤本氏はデモに参加して逮捕されて投獄されている。
彼女がある日のこと、迎えに行ったのだろう。
刑務所か拘置所かどちらかわからないが。
そうしたら彼が出てきて。
それで事務所の片隅でコーヒーか何か入れて二人で飲んだらしい。
そうしたら彼の中にも、もう怒りが無くて。
それは「ひとり寝の子守唄」が持っていた「学生運動は敗れ去る」という予感の歌を現実に敗れた、負けた人間として彼も受け止め始めたという。
姉御が「そこで彼と話したの」とかと。
サラっと言う。
「私達はその後、キスしたの」
それが何か、あの人が話すと胸がキュッとなる。
二人とも22〜23歳。
だからお母さんが反対するはず。
恋している男は過激派の角棒を持って暴れている男だから、決していい顔はなさらなかったという。
それを振り切ってその男と獄中結婚するワケだから。
そしてここで本当に運命。
「ひとり寝の子守唄」を藤本氏は許した。
と、同時に藤本氏は歌を歌い出した。
藤本さんは古里が京都なのか。
ちょっとこのへん、よくわからないが。
京都に有名な喫茶店がある。
その当時の流行言葉で言うと「学生街の喫茶店」があった。
京大の子達がたむろしている。
そこの喫茶店のマスターがEPレコードに針を置いていつも聞いている歌がある。
その歌を藤本氏が歌ってくれたらしい。
その歌はボブ・ディラン等の反戦歌では無かった。
森繁久彌さんの「知床旅情」。
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レコードがあった。
それが何回も何回も流れてくるもので、藤本氏はそれをソラで覚えてしまったという。
姉御がおっしゃったのだが「彼はね、いい声で歌うのよ」。
「それ姉御、惚れてる証拠じゃないですか」と言いたかった。
藤本という青年は、いい声で歌ったのだろう。
藤本さんは敗北を受諾したという。
そしてその他の罪でも逮捕されて再度刑務所に収監された時、おときさんは妊娠してしまった。
面会に行くと鉄格子の網越しに藤本氏からプロポーズされて獄中で夫婦の手続きを取ったそうだ。
出所するのを迎えに行って。
藤本氏はどうしたかというと、千葉の鴨川に農園を開いて、そこで農業を始めたという。
これはけっこう成功する。
「面白い生き方だなぁ」というので、この局・文化放送が武田先生に紹介してくださって。
「元過激派の闘士で、今農業をやっている」というので彼をゲストにして番組(を放送した)。
(いつごろの事かというと)「その頃」としか言いようがない。
「青春大通り」とか、そういうタイトルの時だったのではないか。
(文化放送「ペパーミントストリート青春大通り」に武田先生がパーソナリティとして出演していたのは1978年4月〜1980年9月)
ハンサムな人で。
語り口が、おときさんが言うとおり明るい。
武田先生に向かって「武田さん。武田さんも一度捕まって刑務所で過ごすと勉強になりますよ。もう本当にありがたいですよ刑務所は。こんな僕にいろんな仕事を教えてくれて、僕はもう農業を教えてくれたのは刑務所でした。みなさんもね、遠慮しないで一度入った方がいいですよ」という。
何か悪いが、しゃあしゃあとしている。
農業をやる。
人手が足りない。
彼は何と言ったかといったら、ご近所に触れ回った。
「お宅の坊ちゃんお嬢ちゃんで成績不振の方がおられたらよこしてください。私が勉強教えます」
「家庭教師を無料で」みたいな。
それで少年や少女達を集めて、それで勉強を教えた。
それで「勉強の合間に体を動かさないと頭よくなんない」と言うので田んぼに連れていって作業をやらせたという。
この人はたくましい。
それでみるみる農業に於ける販売組織をを作っていく。
契約農家として主婦の方と契約を結んでもらって、そこに安心・安全な野菜を。
この時の発想はおときさんだった。
おときさんと子供に「よいものを食べさせたい」と言って農薬をもの凄く抑えて、或いはできるヤツは無農薬で。
それがこの藤本という人の凄いところ。
おときさんは未だに「感謝している」と。
だが、少年や少女達を集めて「無料で教えます」と言ってタダでこき使ったとかという知恵は思わず喝采を送りたくなるような。
そして彼は農園経営を軌道に乗せてゆく。
でも若くして50代で亡くなられるのだが、加藤登紀子さんの言葉の端々にこの人に対する愛情みたいなのを凄く感じる。
ベタベタしていないが。
学生運動は72年を境にして敗北していく。
おときさんは「ひとり寝の子守唄」から「シンガーソング」「作って歌うんだ」というキャリアをスタートさせる。
でも、「いい歌を作ろう」と思うのだが力みがあって。
お母様から注意された。
「歌ができない時は無理して作ること無ぇのよ。不出来な歌、聞くほど辛いことは無いんだから。人の歌で何か出来のいい歌何曲か知ってるでしょ?それを歌えゃいいんだよ」
フッとひらめいたのがこの歌。
(ここで本放送では「知床旅情」が流れるが、ポッドキャストでは流れないので意味不明な感じになっている)
このあたり歌とのめぐり逢いというのが、不思議な運命。
この時に姉御も横着。
悪いが、森繁(久彌)さんの許可を取っていない。
いい時代だと思う水谷譲。
ワリとみんなルーズだった。
ところが後に加藤おときさんを見かけたあの大俳優・森繁「お〜!君か!。」
この再会から更におときさんに訪れるキャリア。





