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2025年11月30日

2025年5月26日〜6月6日◆いい音がする文章(後編)

これの続きです。

若き書き手であり、作詞もやる、アイドル達の歌を作ったりする高橋久美子さんがお書きになった「いい音がする文章」。
これをまな板に乗せているが、まな板に置いたワリにはテメェの話ばかりして。
でもこれは高橋さんの指摘なさることが自分の思いと重なるというか。
それでつい自分のことを話してしまうのだが。
この著者は作詞というのが文章を書く作業とは全く違うことを指摘している。

時代が歌詞を生み出すと同時に、
歌詞が時代を作ってきたとも思うのだ。
(222頁)

作詞でよい詞が生まれる為には時代が隠しているキーワードを見つけなければならない、という。
時代の中にキーワードがある。
これはそれぞれのテレビ局で好きにおやりになればいいのだが今、BSの音楽番組等でしきりに昔のベストテンを取り上げるという番組がある。
大変申し訳ありません。
その手の番組の作り手たちに言いたいのだが、それではダメ。
ベストテンで「これが一位でこれが二位だった」と、そんなふうにして歌を振り返っても何も見えてこない。
なぜその歌が売れた時代だったか背景をを見ないと。
文化放送にもそういう番組があると思う水谷譲。
それは所詮、歌謡なので、色物なのでいいのだが、その色物一曲が時代の表面に浮かび上がったということは時代の流れそのものに注目しないと。
「懐かしいねぇ」だけではダメということだと思う水谷譲。
八代亜紀さんを懐かしむという番組がテレビで。
それで関係者が集まって八代亜紀を絶賛するのだが「親しみやすいいい人だった」とか「少女のような人だった」とか。
大変申し訳ない。
もっと難しく伝えた方がいいのではないか?
八代亜紀が持っていた才能は「良い人だった」とか「明るい人だった」とかそういうことではない。
八代亜紀の歌声をあれほど人々はなぜ支持したかということが問題。
なぜあの歌声が沁みたのかだと思う水谷譲。
それは八代亜紀が残した「音」。
それが一体時代のどこを打ったのかという。
八代亜紀さんは何を思い出すか?
「雨々ふれふれ もっとふれ(「雨の慕情」)」とか「肴はあぶった イカでいい(「舟唄」)」、歌「声」だと思う水谷譲。

雨の慕情


八代亜紀 舟歌 雨の慕情 おんな港町 KB59 CD


あの人は女性の悲惨さを笑いながら歌える人。
あの人は演歌でいうところの「泣きのサビ」で笑い出す人。

おんな港町 別れの涙は(八代亜紀「おんな港町」)

おんな港町


と言っておいてニカーッと。
今、令和の時代、女性が悲惨を悲惨の顔のまま語る。
でも昭和の演歌歌手の中に女性の悲惨を微笑みながら歌う人がいた。
確かに八代亜紀さんはそうだと思う水谷譲。
語尾で笑う。
「ほろほろのめば〜♪」とかといいながら笑顔になっていく。
悲惨なところで笑う、という。
それが女性達を強烈に励ましている。
その手の力で拮抗していた人が石川さゆり。
八代亜紀と石川さゆりは芝居で言うところの女座長。
立ち回りをして憎きヤツを切った後、ニカッと笑うという。
ちょっとニヤリな感じだと思う水谷譲。
「天城越え」という名曲があるのだが、あれを一番最初に石川さゆりさんに持っていって勧めた時にふくれたようだ。

天城越え


「あたしのイメージを台無しにする気ですか。『あなた殺していいですか』とは何事ですか。私は黙って雪の降る青函連絡船だって乗り換えたんだ。それを峠道逃げながら『あなた殺していいですか』。私のイメージをどうしてくれるんですか」と言った時に先生方が「おまえにはこの歌を演じる力がないのか」。
その「演じる」と一言入れたらパラッと表情が変わったそうだ。
八代亜紀には演じる力がある。
石川さゆりも。
だから石川さゆりは絶妙に、あの最も問題の歌詞「あなた殺していいですか」というのを微笑むがごとく歌う。
演じている。
その演じる力を高く買ってあげないと。
武田先生のこだわりはそこ。
そこで、この高橋さんがおっしゃっている「時代が歌の文句を作るが、歌の文句が時代を作ることもあるんだ」。
そういう流れを。
高橋さんごめんなさい。
武田先生の歌で説明して。
これはちょっといい発見で凄く勉強になったので。
聞いてください。
この高橋さんの主張に対して説明する為に武田先生の歌を持ってくる。
武田鉄矢の作品で、これは海援隊が歌っているが、「思えば遠くへ来たもんだ」というのがある。

思えば遠くへ来たもんだ


実はこの一行「思えば遠くへ来たもんだ」1978年にリリースした一曲なのだが、「これと同じようなフレーズがあるぞ」というのがスマートホンの何か悪口を書くコーナーにあって。
「武田鉄矢はかっぱらい」というのがあったので興味深く読んでみたので、それからの反論を明日からやってみたいと思う。

(番組冒頭は電動キックボードの話だと思われるので割愛)
昨日ショッキングなことを言ったと思うのだが、スマートホンのいろいろ書き込めるところに「武田鉄矢の『思えば遠くへ来たもんだ』は、ある有名な詩人の詩をそのまま使ってるじゃないか」「かっぱらった」と。
これは実は元がある。
これは大正時代の大詩人だが中原中也という人が作った「頑是ない歌」の詩。
「頑是ない歌」ご披露しましょう。

思えば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気は今いずこ
−中略−
それから何年経ったことか
汽笛の湯気を茫然と
眼で追いかなしくなっていた
あの頃の俺はいまいずこ
(中原中也「頑是ない歌」)

そこから。
素晴らしい詩。
だから中也の詩の思いを武田先生も真似したというか、重ねた。
これは「もうそっくりじゃないか」という方もいらっしゃるのだが、決定的な差は中也の詩は文学で武田先生の詞は歌謡。
だから武田先生は「時代から呼ばれなければ消えてゆく」ということで作ったのだが、70年代に青春を過ごしてきたものとして思いをしっかり重ねて作った。
しかし作る時に「中原中也ごめんね」とつぶやいたのを覚えている。
でも中原中也へのオマージュを込めて作ったということだと思う水谷譲。
カタカナを並べれば何とても言えるのだが、しかし武田先生なりに理由があって。
絶対に「思えば遠くへ来たもんだ」というのを「私の思い」にしたかった。
というのは、この70年代のテーマが「旅」。
1970年、万博があって、そこからフォークソングのブームが起きる。
それまで「港」だったり「酒場」だったり「涙」だったり「月」だったりした時代の言葉。
それを1970年の若者達は「旅」に託した。
例えばはしだのりひこの「風」。

人は誰もただ一人旅に出て(はしだのりひことシューベルツ「風」)

花嫁は 夜汽車にのって(はしだのりひことクライマックス「花嫁」)

そして吉田拓郎になると

浴衣のきみは尾花の簪(吉田拓郎「旅の宿」)

谷村新司は

いい日旅立ち(谷村新司「いい日旅立ち」)

という。
永六輔さんの

知らない街を(「遠くへ行きたい」)

あーだから今夜だけは君をだいていたい(チューリップ「心の旅」)

その時に武田先生は自分の「旅」を歌にしようと思った。
「中也と同じだ」と叱っている人、聞いてください。
武田先生の旅は何かというと、博多からここまで来た。
そして東京で今、生活してるというのが武田先生の旅の行程。
本当によく武田先生は覚えているのだが、この歌を作るちょっと前に武田先生はやっと喰えるようになった。
秋に作ったのだが1978年の春に「しあわせの黄色いハンカチ」に出た。

幸福の黄色いハンカチ デジタルリマスター2010


「やっとそっち(俳優の道)でも喰っていける」というので、五反田の六畳三つのアパートに住んでいた。
その時にそのアパートのベランダでため息をついた。
僅か六年だが、博多から五反田のアパートまでの六年間に出てきた言葉が、中也の真似ではない。

思えば遠くへ来たもんだ この先どこまでゆくのやら(海援隊「思えば遠くへ来たもんだ」)

(ここで本放送では「思えば遠くへ来たもんだ」が流れる)
それでも「似てるじゃないか」とおっしゃるから、作詞家として屁理屈を並べていく。
中也はこう歌っている。
「思へば遠く来たもんだ」
武田先生は「思えば遠く『へ』来たもんだ」。
この違い。
中也さんの方が詩人として優れている。
数えてみる
 おもえばとおく:7
 きたもんだ:5
七・五調だから最も日本人が好むリズム。
ところが武田先生は嫌だった。
波長、リズムを壊しても「へ」を入れたかった。
「おもえばとおくへ きたもんだ」
「へ」が重大。
武田先生の「へ」は場所的なもの、中原中也の「思えば遠く」というのはもっと感情的なものだと思う水谷譲。
「思へば遠く来たもんだ」というのは振り返って、来た距離を眺めている。
どこから出発したかわからない。
それぐらい遠い過去。
「ああ、思えば遠く来たもんだ」
だから中也はどうしても
「十二の冬のあの夕べ 港の空に鳴り響いた 汽笛の湯気は今いづこ」
出発点のわからない遥けさ、遠さ
「思へば遠く来たもんだ」
ここまで「遥々来たもんだ」という意味。
武田先生は遥々とここへ来た。
武田先生は「思えば遠く『へ』来たもんだ」。
これは「へ」だから問題なのは出発点。
「出発点からここまで来た」という。
中也と離れる。
ここで一番重要なのは、武田先生は「福岡からこっち方面に来た」ということを歌っている。
「こっち方面」とは関東平野。
「関東平野のどこぞに着いた」という、その距離を歌っている。
博多からの遠さを「思えば遠く『へ』来たもんだ」。
方向性。
ここが大いにに違う。
「へ」と言ってしまうから水谷譲が笑ってしまったが、これは助詞の問題。
これは「に」ではない。
「思えば遠く『に』来たもんだ」
「に」ではダメ。
それは武田先生も本能で作っていて、今更ながらある人から言われたので。
あの歌を深く解釈してくださる方から「あれは『に』じゃダメ!『へ』なのよ!」と言われた。
「に」は到着点のこと。
ここ「に」来た。
だからここが目標だった。
「へ」は目標ではない。
博多から関東平野「へ」来た。
「に」と「へ」の助詞の違いはここ。
「に」は到着点、目標を明確にする為の助詞。
「へ」というのは博多からここへ来たが、この先どこへ行くかはっきりしないという寂寥感がある。
情感の伝え方が違う。
日本語は微妙だと思う水谷譲。
それ故に武田先生が言いたかった「かっぱらったかっぱらった」とかアレだが、それはやはりたった一文字ながら武田先生の「遠く『へ』来たもんだ」なのだ。
武田先生はなぜ「へ」にしたかというと武田先生の事情を歌いたかったから「へ」にした。
もちろん中也からのインスパイアというのも十分わかっている。
そしてもう一つ、70年代のテーマで「旅」というキーワードを歌う為に武田先生は「博多からここ「へ」来た」という、その旅の途上を歌にしたかったワケで。
武田先生にとって歌の中で一番大事なのは博多とここの距離。
この歌を聞いてくれた人が感じるのも、例えば自分の古里と「ここ」。
「栃木から来た」とか「札幌から来た」とか「から来た」を強調したい人にとってはやはり「思えば遠く来たもんだ」ではなくて「思えば遠く『へ』来たもんだ」と、こうなる。
日本人は凄い。
理屈をわかっていなくても「へ」と「に」の違いをどこかで感じている。
英語だったら「to」で終わってしまうところが「へ」にすることによって「そこからどうなるかはわからないよ」というニュアンスを伝えてくれると思う水谷譲。
情感が「に」と「へ」では全然違う。
こうやって考えると歌作りはなかなか面白いもの。
助詞一つで全然違ってくると思う水谷譲。

高橋さんのご本を紹介しているうちに高橋さんに刺激されたことのみを語るという、ちょっと変則の・・・
高橋さんも現代のヒット曲を解説しておられる。
この方は作詞家として立派だから。
でもごめんね高橋さん。
あなたがご提示なさった、解説なさったヒット曲はこのお爺さんは殆どわからない。
新しいものだから「うっせぇ」一曲しかわからなかった。
それで自分のを使った。
ただそういう「歌への接近の仕方」というのは面白いかなと思って。
お話したように時代は言葉を隠している。
八代亜紀なんか歌声でそれを言い当てる。
その歌唱力の凄さ。
女性達が苦しい時代、その時代にあって、八代亜紀はそれを片頬で笑う。
それから男に尽くしてもさっぱり報われない虚しさ。
それを「雨よ降れ」と命じるという。
あの巫女的エネルギー。
人を動かす不思議な発声法というか、ただ単に名詞を言うだけで詞を感じてしまうという。
八代亜紀の歌唱はそう思う。
「肴はあぶった イカでいい」
これが響きとして伝わった時にいろんな・・・
またゆっくり歌謡論でやってみたい。

高橋さんの文章に触れずに刺激を受けたところだけ語ってしまってという。
本当に申し訳なく思っている。
でも、こういう若い方の作詞論、詞を作る時の自分なりの流儀みたいなものを知ると、あなた(高橋さん)とはもう本当に30歳以上年が違うのだがいい勉強になる。
今、昭和歌謡への注目度が高い時代になったのだが、昭和歌謡というのは誠に文学的で。

橋幸夫の「潮来の伊太郎」。
「潮来の伊太郎 ちょっと見なれば」
あれは1コーラス目はまあまあわかるとして
意味はあまりわからず音で覚えている水谷譲。
よくわからないのだが、昔の人はそれで平気だった。
2コーラス目から「潮来の伊太郎」は意味がわからなくなる。
(本放送ではここで「潮来笠」が流れる)



田笠の紅緒が ちらつくようぢゃ
振り分け荷物 重かろに
(橋幸夫「潮来笠」)

「田笠の紅緒が気になるようじゃ、振り分け荷物、切なかろうか、重たかろうか」そういう節。
潮来の伊太郎が道を歩いている。
そうすると若いお嬢さん「早乙女」。
田植えの時期なのだろう。
「田笠」田植えの時に被る帽子。
あれが「紅緒」。
潮来の伊太郎は若い娘が気になる。
ということは「やくざの旅を続ける自分の身分が切ないだろうな」という。
そういうこと。
そんなことがいっぱい昭和歌謡にはある。
3コーラス目、ラストの締め括りがこうなる。

人にかくして 流す花
だってヨー あの娘川下潮来笠
(橋幸夫「潮来笠」)

潮来の伊太郎が大利根川へ花を投げ込む。
利根川に花を投げ込んで「あの娘川下潮来笠」。
潮来の伊太郎が道中を歩いている。
横に利根川が流れている。
舞台は茨城県の潮来だから。
(「潮来」を、恐山などの)霊が降りて来る「イタコ」とずっと勘違いをしていた水谷譲。
それでは志村けんさんの世界。
とにかく利根川に「人にかくして流す花」だから、岸からそっと潮来の伊太郎が花を流した。
結末が「あの娘川下潮来笠」。
こっそり潮来の伊太郎は利根川に花一本投げたのだが「あの娘は川の下の方に住んでいる」という。

春日八郎「お富さん」。
あれは意味が全然わからないが何でか歌える。
(本放送ではここで「お富さん」が流れる)



粋な黒塀 見越しの松に
仇な姿の 洗い髪
死んだはずだよ お富さん
生きていたとは
−中略−
エッサオー 源治店
(春日八郎「お富さん」)

(番組内では「エッサオー」を全て「エッサホー」と発音しているようだが、歌詞に基づいて全て「エッサオー」としておく)
黒い塀が粋。
洗い髪のお富さんがそこにいらっしゃる。
(お富さん)はお妾さん。
色っぽくていい女。
与三郎という恋人を裏切ってしまってお金持ちのところに行ってしまった。
与三郎は簀巻きにされて海か何かに放り込まれてしまう。
それで傷だらけになって「切られの与三」というニックネームで恐喝に来る。
これは舞台の説明が「粋な黒塀」というから立派な、今でいうマンション。
そこにお富さんが住んでいて、「切られの与三郎」が恐喝に入る。
それがあの歌。
だからおどろおどろしいのだが、リズムで聞かせるものだからトントンいってしまう。
最大の謎「エッサオー 源治店(げんやだな)」。
「源治」は人の名前。
マンションの経営者が源治さん。
もの凄い高級だから、今でいうタワマン。
それを「エッサオー 源治店(げんやだな)」。
だから「タワマンマンション源治」そんな感じ。
(「タワーマンション源治」と言いたかったのではないかと思われる)
こんなふうにして意味もわからず覚えてしまったというのが、高橋さんおっしゃるところのリズム。
音になっているから覚えてしまったという。
この音というのが「世間が面白いと思った」という、そのことがヒットの原動力になっているということ。
あの世界を探っていくと面白いもの。

そこで今日は一番最後の日なのだが、あなた(高橋さん)の本を読んでいて、あなたが本にお書きになったことの続きみたいなことを人から聞いてしまった。
これは教えてくれたのは加藤のおときさん(加藤登紀子)。
あの人と話している時に、対談をやっている時にぽろっと出てきた。
(本放送ではここで「上を向いて歩こう」が流れる)



よくご存じだった。
加藤さんは永六輔さんのこともご存じなので。
「上を向いて歩こう」話。
「永さんはあまりお好きじゃなかった、あのヒット曲は」と言ったら「そうなのよ。あの人はもう坂本九の歌い方に関しても『絶対違う』っておっしゃるし『人々の解釈も違う。希望の歌として解釈し、にこやかに高らかに歌う。そんな歌じゃない。あれは失意の敗北の歌なんだ』っておっしゃってた」という。
加藤の姉御もそっちの方も詳しいから。
「60年安保闘争に敗れた若者達の心の傷っていうのはどれほど深かったか。60年安保というのは無念さを全ての若者が抱いたんだ。だから永さんはその中で『敗北の辛さを忘れまいと上を向いて歩こう。涙がこぼれないように』と同志を励ましたんだ。それがいつの間にか希望に向かって歩き出す歌になってる。『それは違う』ってあの人、怒ってた」と。
これは「そうですよね」という話で盛り上がった。
ところが、本当にそこがびっくりすることで、きてみなければわからなくて。
それが日米安保に反対する若者の歌だったのだが、アメリカまでいったらヒットチャートで一位になってしまった。
「スキヤキ・ソング」ということで。
「スキヤキ」も違う。
あれは喰い物だから全然歌とは関係ないのだが。
歌と関係無い方ばっかりに自分の歌が引っ張られていくという。
それで聞いた話だが「遠くへ行きたい」というのはそういう絶望を歌った歌だ、と。
ところがこれが旅の歌で70年代大ヒットしてしまうという。
こういうふうにして作った歌に。
ことごとく作った歌に裏切られていくという永さんの人生。
その永さんも数十年の歳月が流れて、お年を召して障害と戦いながら一生懸命リハビリをやっておられた。
それでリハビリをやる病院に通い始めると看護師さん達が音楽をかける。
それが「上を向いて歩こう」だったという。
それで若い人達は永さんのことをとにかく無茶苦茶励ます。
「ワン・ツー・ワン・ツー!ハイ!頑張って!う〜え〜を、う〜え〜を!」と言いながら。
ところが若い人は(永六輔作詞であることを)知らない。
つまり「上を向いて歩こう」はその病院ではリハビリ用のバックグラウンドミュージック。
希望の歌でもなければ、敗れ去った敗北の歌でもない。
リハビリの歌になる。
その時に永さんの胸に何が流れたかわからない。
本当に自分の作った歌なんてそんなもの。
めぐりめぐって年老いた永六輔を励ます歌として永さんの車いすを取り囲んでいたという。
つまり、作詞者がいて歌をある思いを込めて作った。
でもそれは世間に出てその歌もずっと生きている。
その歌と再会した時に、いつの間にか永さんを励ますリハビリの歌としてそこにあったという。
こうやって考えると作詞という作業の不思議さ。
昨日水谷譲に解説した「潮来の伊太郎」から「お富さん」から、私達はもう作詞者の名前も知らない。
ただ、覚えている。
「エッサオー 源治店」という。
歌は勝手に生きて行ってくれるということかと思う水谷譲。
そう。
つまり「そのようなものを作った」というのが作詞家の仕事。
それは世間に出て独り歩きを始めたら作った人を振り返ってはくれない。
そのことを作詞する人は思い知らなければならない、という。
そんなふうに考えると作詞のすばらしさというのは、作った人が忘れられたところからまた新たに始まるとも言えるワケで。
永六輔さんという天才的な作詞家の胸に流れたのは、バッタリ出会った「上を向いて歩こう」。
その見違えるほどの成長ぶりに彼自信が驚いたという、そんな再会ではなかったか?という。


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