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2025年10月03日

2025年9月8〜19日◆なぜ働いていると本が読めなくなるのか(後編)

これの続きです。

かつて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」という「日本こそ一番である」と言われた時代があった。
日本というのは司馬遼太郎曰くだが、各藩が自分のところ、例えば薩摩なら薩摩、長州なら長州で派を競い合った。
その勢いが戦後は各企業に乗り移って各企業の企業精神で日本全体が。
つまり企業が頑張れば日本が膨らんだという。
国家と各企業の足踏みが一緒だった時代が。
特に70年代から日本というのは「一億総中流」と言われるぐらい豊かになっていったワケだが。
当然そういう日本に関して疑問を投げかけるというアンチテーゼが始まる。

『ノストラダムスの大予言』−中略−が1973年に刊行され、あるいは同年刊行の『日本沈没』(小松左京、光文社)といった社会不安を煽るような作品がベストセラーとなる。あるいは認知症を主題にした小説『恍惚の人』(有吉佐和子、新潮社、1972年)も大ヒットする。(137頁)

これは司馬遼ファンにとっては重大だが、この期に司馬遼太郎さんは「坂の上の雲」という小説を書かれて。

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これも長大な小説。
近代国家の中で個人が頑張る。
個人が「滅私奉公」「自分を削ってでも国に奉公するとその分だけ国が豊かになった」という個人と国家というものの、ある意味では幸せな関係があった。
それが日清・日露の戦いであって、日本は奇跡のような数十年間を過ごした。
それは考えてみたら凄いこと。
世界の大国に二連勝した。
一つは中国という国に勝ってしまったワケで。
その次はロシアという国に勝ってしまったワケで。
これはやはり凄い歴史だったろうと思うが、調子に乗って、その連戦連勝に酔って三百万人以上の死者を出すという日本史最大の敗北を経験する大東亜・太平洋戦争に及んだワケで。
司馬遼太郎というのはその糸口となった日清・日露の戦いを描きながら、読者に愛国などという陶酔に誘わないように十分に注意しながら。
「坂の上の雲」に何が秘められているか?
坂の上に雲がある。
明治の若者達はその雲を目指して歩いていった。
登り着いたらそこから先、断崖絶壁であったという。
彼が言いたかったのは、そういう意味。
そこから三百万人もの死者を出す、全く勝てる見込みのない大国・アメリカに向かって戦争を仕掛けてしまったという。
そのあたりのクールさがこの「坂の上の雲」にはある。
司馬遼太郎さんは振り返ってみたら、「ウエスト・サイド・ストーリー」とよく似ている。

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個人の人物を扱うのだが、町の物語。
グループ同士が対決したりするみたいなことかと思う水谷譲。
「竜馬がゆく」を描いた時は土佐の町の若者達のタウンズストーリー。
西南戦争を描いた「翔ぶが如く」は薩摩の小さな町の若者達の物語。

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「世に棲む日日」は長州に住んでいた若者達のタウンストリート。

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そういうこと。
つまり個人ではなく集団が藩を信じた、或いは国家を信じたという。
藩と個人と、そういう大きい組織の幸せな蜜月の時代という。
でもそれも終わりがくるんじゃないだろうか?という「ジャパン・アズ・ナンバーワン」。
日本はNo.1になったが、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の坂道を登りきったところからみんなの物語が消えていった。
では何の物語が始まったんだ?
80年代の始まりになるのだが、皆さんがそれぞれに「私の物語」を綴り始めた。

『サラダ記念日』は1987年−中略−に刊行され、そして瞬く間に大ベストセラーになった。(143頁)

 「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの
                       (俵万智『サラダ記念日』)
(142頁)

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日(「サラダ記念日」)

サラダ記念日 (河出文庫 227A BUNGEI Collection)


全く個人の、実に個人的な女性の体験が平安時代からの文芸である短歌というものに結集して女性の感性が表現された。
この俵万智のベストセラーは80年代の結晶であった。

黒柳徹子の私小説『窓ぎわのトットちゃん』−中略−は500万部を突破し、村上春樹の小説『ノルウェイの森』−中略−は上下巻合計350万部、−中略−吉本ばななの小説『TUGUMI』−中略−は140万部を突破した。(144頁)

 一方で、長時間労働をしているサラリーマンもまた、右肩上がりで増えていた。(145頁)

女性という新しい顧客を迎えて出版界は大いに賑わったという。
時代背景と売れた本の関係性が面白いと思う水谷譲。
個人の時代が始まってベストセラーも「窓ぎわのトットちゃん「ノルウェイの森」「TUGUMI」「サラダ記念日」等々の書籍が売れてゆくワケだが、この出版ブームは急激に女性の消費行動になだれ込みがあって景気が良くなるのだが、この頃男の子、男性はどうしていたのかというと雑誌に夢中だった。

1980年−中略−に創刊された雑誌「BIG tomorrow」(青春出版社)は、男性向け雑誌のなかで圧倒的な人気を博していた。(147頁)

「BIG tomorrow」は、「職場の処世術」と「女性にモテる術」の2つの軸を中心にハウツーを伝える、若いサラリーマン向け雑誌である。(147頁)

 同じビジネス雑誌ジャンルでも当時の「will」や「プレジデント」はエリート層サラリーマン向け雑誌だった(147頁)

これは何を問題にしたかというと「コミュニケーション力」をどうやってつけるかということで、70年代から一転して80年代は国家や集団を離れて

「僕」「私」の物語を貫き通す。(151頁)

 それは労働市場において、学歴ではなくコミュニケーション能力が最も重視されるようになった流れと、一致していたのだ。(151頁)

武田先生はその頃は30代だったが。
そして次に90年代。
本はまた日本人の関心を別の世代へといざなっていく。
時は平成に移る。

 平成を代表する作家を挙げろと言われたら、私は彼女の名前を出すだろう。さくらももこ。──言わずと知れた国民的アニメ、漫画『ちびまる子ちゃん』の作者だ。(163頁)

この人はある意味では新しい時代の新しい書き手だったという。
妊娠を直感した、その体感をさくらももこさんはエッセーにこう書いたそうだ。

 私は尿のしみ込んだテスターを握ったまま、十分余り便器から立ち上がることができなかった。−中略−
 この腹の中に、何かがいるのである。大便以外の何かがいる。便座に座り込んでこうしている間も、それは細胞分裂をしているのだ。私のショックとは無関係に、どんどん私の体内の養分を吸収しているのだ。
      (さくらももこ『そういうふうにできている』)
(163〜164頁)

そういうふうにできている (新潮文庫)


それは女性エッセイストの歴史で見ても、真似できる人がほかにいない。(165頁)

実に率直でマンガ、アニメ、主題歌も含めてベストセラーにした方。

 出産という非日常体験の記述ではあるのだが、「宇宙」という言葉がさらっと出てくるところに、いささか驚いてしまう。(166頁)

遠い宇宙の彼方から「オギャーオギャー」という声が響いてきた。私は静かに自分の仲間が宇宙を超えて地球にやってきた事を感じていた。生命は宇宙から来るのだとエネルギー全体で感じていた。
                         (同前)
(165頁)

さくらももこのこの文章を今読むと、−中略−どこかスピリチュアルな感性が当然のように挟まってくるところだ。(165頁)

このような傾向は、さくらももこだけに限ったことではない。

 たとえば『パラサイト・イヴ』(瀬名英明、−中略−自分の身体や遺伝子が何か変なことを起こすのではないか?という自分の内面への懐疑が主題となっている。さらに『ソフィーの世界─哲学者からの不思議な手紙』−中略−も、同年刊行のベストセラー。内容は哲学史の入門なのだが(166頁)

パラサイト・イヴ(新潮文庫)


新装版 ソフィーの世界 上 ―哲学者からの不思議な手紙


これはやはり遺伝子の中に刻み込まれた他者や自分の深い内面の中にある異質な世界、そういう異質な世界を探索するという時代がこの平成ではなかったのだろうか。

「本当の自分とは何か?」とか−中略−「私とは何か?」という問いには魅力があって、人々は外界とはまた別の価値を内面に探し求めた。−中略−
 なにより臨床心理士は大人気だった。
(162頁)

確かにスピリチュアル系は多かったと思う水谷譲。

 1995年、サンマーク出版から『脳内革命』−中略−が刊行される。(168頁)

あれでサンマークが有名になったと思う水谷譲。

自己啓発書である。同書は、一番すごいときは「3、4か月ごとに100万部ずつ重版」という状態だった(168頁)

1970年代のサラリーマンに読まれた司馬遼太郎の小説を紹介した。それらと90年代の自己啓発書と最も異なるのは、−中略−読んだ後、読者が何をすべきなのか、取るべき〈行動〉を明示する。(170頁)

この90年代にスタートしたのがこの番組(「今朝の三枚おろし」)。
「行動を変えよう。あなたが変わるから」というのが時代のテーマの時に、この短い番組の中で武田先生がその手のことを語るという。
武田先生は(番組開始当初)40歳で。
あの頃は頻尿ではなかった。

1989年1月8日から平成が始まった。
そして2019年4月で平成が終わるワケで。
この平成で何が変わったか?

バブル崩壊後、日本は長い不景気に突入するのだ。(172頁)

明治から思えば国家というものの繁栄が個人を豊かにした。
滅私奉公、自ら学び、名を挙げ錦を飾る。
日本国民全体の学び、それが世界での平均点を上げた。
そのことで社会的な階級を駆け上がることができた。
国ではなく個人は企業の為に学び、書籍を企業の理想である学びの為に必要とした。
ここから高度経済成長が始まった。
一億総中流へなった。
そして異様なバブル経済。
その崩壊。

 仕事を頑張れば、日本が成長し、社会が変わる──高度経済成長、あるいは司馬遼太郎が描き出した日本の夢とは、このようなモデルだった。(173頁)

90年代以降、−中略−
 経済は自分たちの手で変えられるものではなく、紙の手によって大きな流れが生まれるものだ。
(174頁)

ドラマがトレンディーなら世界はグローバリズム。
個人がやすやすと個人と結ばれるという全く新しい時代に入っていった。
集団で船を漕ぐという時代が終わり、それぞれやってきた波に個人で乗ってゆくという。
そういう時代の始まり。
これはもうまさしく今。
集団でもう船を漕がなくなった。
武田先生は、ここで考えた。
この「(今朝の)三枚おろし」はとにかく個人の教養・修養そういうものを紹介しているような気がする。
僅かでもお客さんの中で「なるほど」と思ってくれる出来事とかそんな話題が武田先生は個人的に好きだ。
多分武田先生はあの70年代の学生運動のノンポリの立場にいまだにいるんだろうと。
今、批判をする友人もいるのだが、朝の番組に出ているのだが、非常に芸能人の方がポリティカルが好きで、政治のことを語る。
吉本のお笑いの人が政治を語っているのだから。
これはやはりポリティカルというのは一種時代のキーワードだと思う。
本当に申し訳ない。
個人的に70年代は武田先生の青春のあった頃だが、学生運動をやっているヤツと肌が合わなくて。
武田先生の居場所は何かといったら、フォークソングというジャンルというか本当にすみっこ。
同時代の自分達の仲間達が政治を語ったりなんかするのが好きではなくて、武田先生は歌を語っていた。
「関西フォークいいね」とか「(ザ・)フォーク・クルセダーズいいね」とか「吉田拓郎は凄いぜ」とか。
随分バカにされたもの。
ヘルメットをかぶった人から「(「海援隊」という)グループ名が気にいら無ぇ」と言われたことがある。
「君たち右翼っぽいね」と言われて。
武田先生の顔つきからして奇怪な顔をしているから。
そういうフォーク系の人間、政治から離れた片隅のジャンルに生きた人間。
1994年に「三枚おろし」がスタートする。
武田先生は武田先生の傾向を持っている。
この番組を包んでいるのは政治。
いわゆる情報番組。
武田先生は情報はダメ。
扱いきれない。
国家と政治の時代から内面の時代へ。
しかし90年代から経済と行動の時代を迎えて、全て自分へと特化していく。
平成の時代の90年代。

仕組みを知って、行動し、コントロールできるものをコントロールしていくしかない。
「そういうふうにできている」ものを変えることはできない。だからこそ、波の乗り方──つまり〈行動〉を変えるしかない。
(175頁)

これが新しくやってきた時代のトレンドなワケで。
その中でヒットした読み物、ベストセラーは何か?

『電車男』(195頁)

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もうこれはズバリ。
「やりたいこと」「自分らしさ」、そして「情報の波を自分で捉えて乗ること」。
それが時代の中で一番大事なことという。
「電車男」「世界の中心で愛をさけぶ」そして「冬のソナタ」。
「やりたいこと」「自分らしさ」「あの人の情報」この三つを結びつけることが自己実現のゲームであったという。
そして本は読まなくても情報を読むことが重大になってくる。

読書はできなくても、インターネットの情報を摂取することはできる、という人は多いだろう。(200頁)

これはまさしく今。
インターネットの上で出会うという。

 インターネットの本質は「リンク、シェア、フラット」にある、と語ったのはコピーライターの糸井重里だった(196頁)

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リンクは繋がること、シェアは分かち合うこと、フラットは貸し借り無し。

「フラット」というのはつまり、「それぞれが無名性で情報をやりとりすること」と糸井は説明する。(166〜167頁)

「名無し」でいこう、と。
ハンドルネームで。
流れがちゃんとできていると思う水谷譲。
2000年代に入ってくると、また身につまされる話題が出てくる。

 2000年代、自己啓発書は1990年代にも増して売り上げを伸ばしていた。−中略−ベストセラー一覧には『生きかた上手』(日野原重明−中略−、『人は見た目が9割』(竹内一郎−中略−、『夢をかなえるゾウ』(水野敬也−中略−など多数の自己啓発書が入っている。(202頁)

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自分の為だけの情報。
「これはあなたの為に役に立ちますよ」という情報。
勝者たるべき自分を目指す「情報」としての読書。
本を読むのではない。
情報を取りにいく。

過去や歴史とはノイズである。(204頁)

 しかし情報は、「今」ここに差し出されるものだ。たとえばインターネットで共有されるマネー情報は、刻一刻と変わっていく。最先端の情報を知っている人が「情報強者」とされ(204頁)

僅かに遅れた情報は、言葉はきついが「一種、ゴミなのである」と。
情報が量産される時代、人々は情報を読む。
著者はここで実に面白いことを述べている。

読書で得られる知識と、インターネットで得られる「情報」と「読書」の最も大きな差異は、−中略−知識のノイズ性である。−中略−情報にはノイズがない。(205頁)

この表現は驚いた。
昔のドラマを見ていると窓を開けると街の雑踏が流れ込んできた。
最近は入れない。
最近、水谷譲の好きなドラマは「VIVANT」
街のノイズ等々、ノイズが入っていない。
注意して見てください。
昔はノイズだらけだった。
ノイズというのは季節感だった。
山田洋二の「男はつらいよ」を見ると、もの凄くノイジー。

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ご飯をとら屋で食べていると、ゴーンとお寺の鐘が鳴って「ああ、今日も日が暮れたねぇ」なんて。
寅さんが土手の道を歩くと、周りで遊んでいる子供の喧騒な声とか、ボールゲームをやっている少年達の声が響いた。
一切ない。
ドラマからもノイズが消えている。
この「ノイズの除去」というのが今、もの凄く重大なテーマになっている。
知識とは何か?

読書して得る知識にはノイズ──偶然性が含まれる。(205頁)

いつか役に立つかも知れないし、ただのゴミかも知れないというものを持っておくことが「知識」。
これは三宅さんから教えてもらったような気がしたのだが、武田先生はノイズ。
武田先生は今、情報番組に出ている。
サン!シャイン
相当、考えこんでいる。
あの番組でも左右に司会者とコメンテーターがいる。
あの人達に勝てない。
情報を持っておられる。
武田先生に情報は無い。
武田先生にあるのはノイズだけ。
武田先生はネットにもあまり触れない方なので、そういうことかと思う水谷譲。
「情報」とは何かというと「生もの」。
今、喰えるかどうか。
足が早いから間違って喰ってしまうと、お腹が痛くなってしまう。
ある意味、この番組は「ノイズでありたい」ということだと思う水谷譲。
ずっと本の流れを考えながら「『三枚おろし』って何かな?」といったら時代の中に於けるノイズ。
この「三枚おろし」が始まる前と「三枚おろし」が終わった後が情報番組になっていて、武田先生は何かというとノイズ。
武田先生はノイズで生きていこうと思って。
そう考えると、政治のことを取り上げることもあるが、取り上げ方がちょっと変わっていると思う水谷譲。
現にフジテレビの司会者の方からも「何を言い出すんだ、この爺さん」という顔をされることがある。
ノイズ。
お気づきの方も多かろうと思うが、武田先生は「生きかた上手」「人は見た目が9割」「夢をかなえるゾウ」等々、2000年代の自己啓発本はこの「三枚おろし」で全く触れていない。
これは恐らくそれらの本が情報だからだろう。
武田先生が触れるのはノイズだから。
物語で皆さんにお伝えしたいな、と。

2000年代からはじまっていた日本社会の「やりたいことを仕事にする」幻想は、2010年代にさらに広まることになる。(217頁)

「フリーランス」といった働き方がもてはやされたのだ。−中略−「ノマド」という言葉も浸透し(217頁)

個人完結型の人生の追求。
どこまでも自分の理想と自分を近づけていくか
これが生き方の大事なところになる。

池井戸潤の小説『下町ロケット』−中略−村田紗耶香『コンビニ人間』−中略−、『舟を編む』(三浦しをん−中略−『半沢直樹』−中略−、『逃げるは恥だが役に立つ』(218〜219頁)

下町ロケット (文春文庫)


コンビニ人間 (文春文庫)


舟を編む (光文社文庫)


半沢直美


逃げるは恥だが役に立つ


こういうのは自分の理想に自分を近づけるという生き方。
2010年代、労働と個人の理想のテーマが書籍にもドラマにも溢れていた。
ところがこの「三枚おろし」は本当に申し訳ない。
どの一冊も取り上げていない。
武田先生はその間、何をしていたか。
内田樹さんの行動主義や白川静さんの漢字の話をしていた。
よくぞ2010年代、この番組「三枚おろし」は潰されもせず生き抜いたものだ、と。
これは武田先生が時代の中に潜り込めたのではなくて、違う主語で語っていたからではないだろうか?
武田先生が持っているローカリズムの喋りでラジオ番組の中で小さなまな板を守ってきたような気がするんです、と。
このあたり、著者の指摘と我が身を計りながら本と武田先生の関係を辿ってみた。

 2010年代から2020年代にかけて、「オタク」あるいは「推し」という言葉が流行するようになった。
 2021年に芥川賞を受賞した、『推し、燃ゆ』(宇佐見りん
−中略−は「推し」のアイドルを愛する女性の葛藤を描き(227頁)

推し、燃ゆ (河出文庫)


これまで余暇時間に趣味として楽しむものとされてきたアイドルの応援活動に、人生の実存を預けているところにある。(228頁)

「オタク」と呼ばれる人達も同様で、他人の文脈で生きていくという。
これはたじろいだ。
「なるほど。『推し』っていうのはそういうことなのか」と。
他人の文脈に乗ってみるという。
でもこれは、武田先生はあんまり「推し」を遠くに感じなかった。
だって武田先生は自慢ではないが坂本龍馬を何十年も推している。
武田先生はビリを走っているつもりだったが、今、先頭に立った気持ち。
武田先生は申し訳ないが本当に推しだったら負けない。
水谷譲は「何やってんだ、この爺さん。薩長連合を語り始めちゃったよ」と迷惑そうな顔で聞いている。
本物の「推し」。

一番最後にこの頭のいい三宅香帆さんは上手いこと締めくくっていて「二十世紀から私達は外部と戦ってきた」。
凄い言葉。
他国との戦争に生きた。
政府への反抗もあった。
上司或いはライバルへの反発もあった。
反抗、反発、
もうボチボチ疲れてきた。
疲れない為には敵を想定しない。
「全身全霊を求める主張、主義、そういうものはだんだんと疲れ果ててくるんですよ、みなさん」と三宅さんは言っている。
この方はだからこそ全身全霊で働くなと言っている。
この人は「働いたふりをしながら本を読め」という。
三宅さん、ちょっとごめんなさいね。
このあたりのオチところ、ちょっとあなたの文章をよくかみ砕けなかったので粗い感じになったのだが。
でも武田先生はあなたが指摘してくださった中で、もの凄く嬉しかったのは「人間が生きていく中で文章の中のノイズ、これがもの凄く重大なんだ」という。
今、生ものであるところの情報に夢中で情報を握っている人が「情報強者」といって「オマエ知らないの?」という、そんなもんたいしたこっちゃ無ぇや、という。
明日はゴミになる情報じゃ無ぇか。
それよりも私達はノイズいっぱいの知識を手に入れて、それを物語にしていくことなんだ。
ここに情報と物語がある。
人間が何かを記憶する為には情報は覚えられない。
私達は物語が必要。
物語が無いと物事を覚えられない。
武田先生のしつこさは、龍馬を語ったら18の時から76まで語る。
あの南海の快男児は武田先生の胸の中で微動だにしない。
これこそ推しのパワーだ、と。
そしてこの龍馬から教えてもらったのだが「誰もオマエのことを聞きたがらないかも知れないけど、それはオマエのノイズなんだよ」という。
でもそれがこの「三枚おろし」がこれだけ続いている理由かも知れないと思う水谷譲。
今回、こんな本が流行ったというのを見ながら、ベストセラーに武田先生が全く触れていない時代がある。
そういうちょっと傾いているが偏向とは言わない。
傾いているが武田先生にとってはその傾きこそが武田先生のノイズたるゆえんで。
今、テレビで情報番組をやっているが、赤の横に座っているおじさん(カズレーザー)。
あれもノイズ。
時々メインのキャスターの方が「うるせぇなコイツ」という顔で。
ごめんなさい。

というワケで「ノイズでよければ」ということでお付き合いのほど。
これからも雑音として「三枚おろし」頑張ります。

2025年9月8〜19日◆なぜ働いていると本が読めなくなるのか(前編)

「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」

なぜ働いていると本が読めなくなるのか (集英社新書)


(著者は)三宅香帆さん。
集英社新書から出している方だが、この方は本の中で「自分は本を読むのが楽しみなんだ。ところが今の時代、一生懸命働けば働くほど読書の時間が無くなるじゃないか」という。
これは視点としては面白い。
この方は1994年生まれで、武田先生との年齢差は45歳。
だから45歳年下の人からその人の読書事情を聞くという。
なぜかというと「本を読む」というのは武田先生はもう半分日常だから。
武田先生はこの番組(「今朝の三枚おろし」)の為にだいたい週に3冊ペースで、(1か月当り約)12冊。
この中で使いものになるのが4〜5冊という。
時々「勿体ないかな」と思うのだが、その時に自分を励ます言葉が「俺は日本国民を代表して本を読んでるんだ」という。
この香帆さんが「偉いなぁ」と思った。
何を「偉い」と思ったかというと、この人は未来を想定する為に過去に遡るという思考パターンの人で。
いろんな人間が未来を思考している。
人間には三種類あって「昔を経由しながら未来を想像する人」そして「今を想いながら未来を想像する人」それから「未来に向かって想像して未来を描き出す」。
この三パターンがある。
武田先生は必ず過去に戻らないと駄目。
武田先生は昔から「まず歴史からだ」とおっしゃっていたと思う水谷譲。
そうすると未来の映像が浮かびやすいのだが、この三宅香帆さんの柄としては武田先生と同じだなと思ったのは、この方はどこまで遡ったかというと明治時代まで遡った。
それで明治時代にもベストセラーがある。
そのベストセラーを時代ごとであぶりだしながら、現代のベストセラーに辿り着くという。
現代は活字離れが進んでいる。
では明治の初め、なぜあんなに日本国民は無我夢中で本を読んだのか?という。
これは発想が面白い。
この三宅さんの視点はまた実に面白くて、江戸期との違いとは何か?
江戸時代の出版人と言えば蔦屋重三郎。
彼らと明治人との読書、本の感覚、センスの違いは一体何か?というと

句読点の使用が急速に増加したのは明治10年代後半〜20年代のことだった。(36頁)

明治時代初期に読書界に起きた革命と言えば、「黙読」が誕生したことだ。
 江戸時代、読書といえば朗読(!)だったのだ。当時、本は個人で読むものではなく、家族で朗読し合いながら楽しむものだった。実際、森鴎外が『舞姫』を書き上げたとき、家族の前で朗読したエピソードが残っているが
(35〜36頁)

あれは本人(森鴎外)の恋の物語。
それを女房と子供の前で、というから、まあそれとこれとは別ということだったのだろう。
こんなふうにして始まった「黙読」と「句読点」。
この二つで日本に「文字を読む」「読書」「本を読む」というのが習慣付いた。
明治期のベストセラー1位は何だったか?
これは面白い。
武田先生は一瞬、「学問のすゝめ」がよぎった。
これは明治期にやはり4〜50万部売れているから。

1871年(明治4年)に刊行された『西国立志編』は、『学問のすゝめ』よりもさらに売れた。(43頁)

(番組内では明治5年に刊行と言っているが、本によると上記の通り明治4年)

明治末までに100万部は売ったらしい。まだ人口5000万人だった日本いおいて、驚異の売り上げだ。(43〜44頁)

内容はというと

 ワット(James Watt)は、最も勉強労苦せる人と称すべし。その生平の行跡を観るときは、絶大のことを成し、絶高の功を収むるものは、天資(生まれつき)、大気力あり(44頁)

と、こういう。
この人はどういう人柄でどういう努力をやって、蒸気機関というワットを発明した、というのを。
だから西洋の成功例の人達の文章。
それを明治五年の若者達は無我夢中で読んだという。
成功者の秘訣を説く偉人伝でサクセスストーリー。

原題はSelf-Help=Aつまり「自助努力」。(45頁)

「自らを救う者は自らを」という。
一種人生のハウツーものだったという。
これが日本の本を読む人達に浸透した。
近代化に舵を切った日本で自己をいかに啓発していくか?
自分を成功者にのし上げていくビジネス書を読むことこそ読書であり、出版界の目指した本の理想とはこのビジネス書と修養を勧める本であるという。
ここから日本の読書が始まったという。
というワケで明治からの読書を振り返ろうと思う。

近代の日本から本の傾向というのを探ってゆこうと思う。

『西国立志編』からはじまり、−中略−欧米の自己啓発思想の輸入は、日本のベストセラーをつくり続けていた。(49頁)

かくのごとくしてビジネス書が読書傾向のスタートだった。
そこに「成功する成功する」ばっかりをささやく本から飽きた人がでてきた。
「成功だけ、何かそれだけが物語じゃ無いんじゃないの?」という。
「失敗する人の物語もあって、失敗する人は失敗したで素敵な失敗の仕方を学ぼうじゃねぇか」
そこに登場したのが夏目漱石。
夏目漱石はビジネスを離れて、修養とか教養を離れて、悩む人間としての物語を文学の中で提案した。
つまりこれが文学のスタートになる。
だから課題図書になるのかと思う水谷譲。
成功ではなく教養を目指すのでもない。
悩むことの重大さを教える文学というジャンルが立ち起こってゆくという。
ビジネスと文学、この二本は若者達がワリと必須の読み物にした。
そこからまた面白いことに、「だったら一冊ずつ勿体ないでしょ」と月刊誌で「両方載せますから読みません?」という。

「中央公論」を代表とする、「総合雑誌」と呼ばれる教養系雑誌のことである。
 大正時代初期から昭和戦前期は「総合雑誌の時代」と呼ばれた。
(77頁)

小説も載ってるわ、ビジネスは載ってるわ、政界の動きは載ってるわという。
これの第一号が「中央公論」。
そうやって考えると面白い。
それで明治から大正にこの中央公論が登場して、これが爆発的に売れた。

明治末の書店数は約3000店だったのに対し、昭和初期には1万店を超えるようになったというのだから驚きだ(57頁)

 当時の日本は、大きな行き詰まり感と社会不安に覆われていた。日露戦争によって巨額の負債を抱えた政府による増税、そして戦後恐慌による不景気が社会を襲う。−中略−日比谷焼き打ち事件や−中略−米騒動といった、都市民衆騒擾も起こった。−中略−暴動が絶えないくらい、若者のストレスは極致に達していた。(59〜60頁)

「大正の大ベストセラー」として挙げるのは、以下の3冊だ。
『出家とその弟子』
(58〜59頁)

出家とその弟子 (岩波文庫)


有名な作品。
親鸞と唯円の物語。
「人生とは何か」とか「生きるとは何か」とか「どうやれば救われるのか」とかというスピリチュアルもの。

『死線を超えて』(59頁)

死線を越えて


「社会主義という理想の考え方もあるぜ」という啓蒙書が売れて、読書人は社会主義を政治体制として憧れ始めたという。
ここに左翼文学が成立した。
これと同時に、大正期だが若者達が文学の中で花開いた。
それが芥川龍之介。
芥川龍之介というのは人間の扱いが生々しい。
「藪の中」

藪の中


貴族の女を強盗が襲って亭主の貴族の前で暴行するとか。
それでこの芥川と同時に名を馳せたのが谷崎潤一郎。

『痴人の愛』を読んだことがあるだろうか?
 谷崎潤一郎が1925年(大正14年)に刊行した小説だ。数え年で15歳の少女ナオミを自分好みの女性に育てあげようとする男性の物語である。この大正末期に世に出た小説の主人公は、実は「サラリーマン」であることをご存じだろうか。
(63頁)

痴人の愛


ネグリジェを着せて、自分がお馬さんになって柔らかい女の尻を背中に感じながら部屋を歩き回るという変態小説。
でも考えてみると人間を生々しく描くということが谷崎の性文化を否定しない。
谷崎潤一郎にそんなのがある。
女性の汚物を飲むという男性の物語とか。
もちろん人形なのだが、人形のお尻にチョコレートを詰めてそれを顔に押し当てて舐めるという。
谷崎というのは凄い。
これに目を付けたのが月刊誌で出てくる。
菊池寛。
菊池寛がこの変態小説と実際にあったスキャンダルを雑誌に載せた。
これが「文藝春秋」。
これは大正期スタート。
主筆・菊池寛という人。
菊池寛の広告にあるのだが文藝春秋社は小説家の人がよく遊びに来る出版社だった。
足繁く通ったのが芥川龍之介で。
芥川は何をしに来たかというと、スキャンダルを聞きに来た。
その「あわや殺し合いになった本妻さんとお妾さんの話」とか、そういうのが芥川は興味津々で。
何か小説のネタにしたいということかと思う水谷譲。
つまり性というものを捕まえて描かない限り、人間というのは捕まえられないんじゃないか?という、そういう思いが芥川にあって。
芥川自身も自殺前後の時に恋をなさったりして、奥様がもの凄く頑張って止められたとかと。

 1923年(大正12年)、関東大震災が日本を襲った。
 それは出版業界にも、当時広がりつつあった民衆の読書文化にも、大打撃を与えた。
(82頁)

 そんな出版界に革命を起こしたのが、「円本」だった。それは、倒産寸前だった改造社の社長がイチかバチかの賭けに出た結果だった。(83頁)

 円本を日本ではじめて売った、改造社の『現代日本文学全集』−中略−はまず全巻一括予約制をとった。つまり「予約した人しか買えない」−中略−「全巻を買うことが必須」(83頁)

1冊1円、という価格設定は、当時において破格の金額だったのだ。
 当時、書籍の単行本は2円〜2円50銭が相場だった。
(84頁)

戦前サラリーマンの給料の目安を「月給100円」だったと解説する。ビール大瓶は35銭、総合雑誌は50銭だった時代のことだ。−中略−円本全集の1冊1円は、現代でいえば1冊2000円ほどである。(89頁)

 出版社側はその安さを、初版部数の多さで補うという大博打を目論んだ。そしてそのバクチは大勝利に終わる。予約読者は23万人を超えた。−中略−改造社は当初全37巻、別冊1巻だった出版計画を変更する。結果的には全62巻、別冊1巻に及び、6年以上かかって刊行は終了した。(84頁)

これも火が点いてしまった。
事業としては大成功。
しかし、買ったところで全巻読んでいる人はいないのではないか?
面白いのもあれば面白く無いのも入っているだろうと思う水谷譲。
読んだことあるヤツと読んだことないヤツが。
これは62巻も揃えられて。
売れた原因は何か?
インテリア。
「そこに置いておくだけで」という。
昔でいったら百科事典みたいなことだと思う水谷譲。
恐らくインテリアとして書斎にバーっと60何巻全集を持っていて、「君、トルストイ読んだ?」とかと何かそういう話のネタに使うインテリア全集物。
これを通称「積読(つんどく)」という
「そこに積んどく」という。
これら文学全集に対して大衆小説「も負けてなるか」と「そっちに行かせるもんか」というのでそこに登場したのが

吉川英治、山本有三といった戦前からのベストセラー作家が次々と小説を刊行し、そして作品は売れていた。(101頁)

『風と共に去りぬ』、エーブ・キュリーの『キュリー夫人伝』などの翻訳書のベストセラーが出た。(101頁)

風と共に去りぬ(第1巻〜第5巻) 合本版


だから「風と共に去りぬ」は日本人も知っている物語だった。
これは小林桂樹さんというベテランの俳優さんから聞いたのだが、アメリカでもめっちゃ評判を呼んだ。
それでハリウッドが映画化に走った。
驚くなかれ太平洋戦争中。
日本軍が97式戦闘機か何かで「トラトラトラ」とかと言いながら真珠湾に攻め込んでいる時にハリウッドでは「よ〜い!ハイ!」とかと言いながら映画を作っていたという。
それで小林桂樹さんは兵隊さんとしてシンガポールに回されて、押収物(として)いわゆる米・英軍が残していった映画のフィルムがあったので、それを見たのが「風と共に去りぬ」だった。
これは絶対負ける。
小林桂樹さんは「風と共に去りぬ」と、ディズニーの「ジャングルブック」を見たそうだ。

ジャングルブック(吹替版)


一番最初の「ジャングルブック」。
あの模型か何か巨大な蛇が池を渡ってくるなんて。
その蛇が作りものに見えないぐらい精巧な
実写版「ジャングルブック」。
今見たいと思う水谷譲。
子供の時に見たことがある武田先生。
息をのむ。
太平洋で戦争をしていても、そんなのを作る力がアメリカ本土にはある。
そして昭和15年あたりから戦時色が強くなって、出版界は完全に軍部の前に膝まづくということになっていったという。

本当のことを言うと、読書の流れを戦後から始めたかった。
昭和戦後がスタートするのだが、滅茶苦茶人々は活字に飢えていて。
ところがだんだん時代が進んでくると読書以外にも娯楽が花を付ける。

サラリーマンや労働者たちが、今はパチンコや競輪に向かっている」と書かれている。−中略−すでに人気になっていた競馬に続く競輪は案の定人気になり(103頁)

 時代はラジオでNHK紅白歌合戦がはじまり、手塚治虫が漫画を描き、テレビ放送がはじまろうとするタイミング。そう、本格的に「余暇」を埋めるエンタメが、「本」以外に増えようとしている時代だった。(108頁)

本の方は読者層であるサラリーマンに照準を合わせる。
だから物語も短く読みやすく、わかりやすい。
サラリーマンものでは源氏鶏太がいた。
それから読み切り連載ものでだいたい通勤時間の往復で読めるもの、これが出版界を引っ張る内容になるワケで。
また高度経済成長が始まると同時に人々の労働時間がどんどん伸びてゆく。
求められたのはビジネスに活かせるハウツー本ということで、その頃ヒットしたのが

『記憶術─心理学が発見した20のルール』(117頁)

『英語に強くなる本』(116頁)

『頭のよくなる本─大脳生理学的管理法』−中略−『日本の会社─伸びる企業をズバリと予言する』−中略−はどれもカッパ・ブックスから刊行されたものだ。(117頁)

1960年代から、圧倒的なサラリーマンたちの支持を受けると同時に、今まで都市部に集中していたサラリーマンの読者層から、今度はローカルの労働者層へも広がっていったという。
働く人の為の教養としての本だった。
ご本人はそんなことをお考えになっていないと思うが、60年代の半ばからのビートルズとズバリ重なっている日本の作家さんが司馬遼太郎。
不思議なもの。
後に彼は国民作家と呼ばれる。
圧倒的支持を受けるという。

 司馬作品にしばしば見られる「乱世に活躍する人物」というヒーロー像への陶酔は存在しなかったのだろうか。(123頁)

それもモロ武田先生が影響されたと思う水谷譲。
ちょっと三宅さんほどクールにはなれない。
武田先生はこの人の代表作品でいう「竜馬がゆく」というのを18(歳)の時に読んだ。
武田先生は本なんか読んだことがない。
柔道部のあんちゃんで脚が短くて何か汚い青年だったのだが。
駅前の本屋さんにあった「竜馬がゆく」の一巻目〈立志篇〉を本当に無我夢中で読んだ。
この「無我夢中で読む」というのが水谷譲にはわからないだろう。
そこまで、はまったものは水谷譲には無い。
何で武田先生は竜馬を読もうと思ったのかと思う水谷譲。
司馬遼太郎の書いた文章というのは「読む」のではない。
もう読み始めて、あるルーティンができると場面が見えてくる。
だから「読む」のではなく「見て」いる。
例えば「竜馬がゆく〈怒涛篇〉」「秘密同盟の書」。

竜馬がゆく〈4 怒涛篇〉


「ば、ばかなっ」
 竜馬は、すさまじい声でいった。
「まだその藩なるものの迷蒙が醒めぬか。薩州がどうした。長州がなんじゃ。要は日本ではないか。小五郎」
 と、竜馬はよびすてにした。
−中略−
「坂本君、きみの提唱する薩長連合が成らざれば、おそらく長州はほろぶであろう」
−中略−
 竜馬はだまっている。
「ほろんでもかまわぬ」
−中略− 
 と、桂は、激昂をおさえつ、小さく叫ぶようにいう。
−中略−
「薩州は皇家のおそばにあって尽している。長州は文久以来、孤軍、藩の存亡を賭けてつくしてきた。もはや、藩の命脈はいくばくもない。しかし薩州が生き残って奮闘してくれる以上、天下のためには幸いである。われわれはいま交渉をうちきって郷国に帰り、幕府の大軍をむかえ討つことになるが、ほろぶとも悔いはない」
−中略−
 この土佐人は、佩刀をとって立ちあがった。

「どこへゆく」
 と桂の声が追っかけてきた。
 竜馬はもう廊下へとびだしていたが、「知れたことだ」と捨てぜりふのようにいった。薩州の二本松屋敷へゆく。
(「竜馬がゆく 怒涛篇」257〜259頁)

(ページは新装版ではない古い方の文藝春秋社刊のもの)
盛り上がっているところを申し訳ないが、そこまで映像化したのは武田先生ぐらいではないかと思う水谷譲。
武田先生は読んだのを覚えている。
18の時にここを一番最初に辿った時の感動を覚えている。
この本の熱というのが70(歳)の半ばを過ぎても・・・
二時間ぐらい喋りたい。

なぜ今まで本を読んだことがなかった鉄矢少年が「竜馬がゆく」を手に取ったのか?という水谷譲からの質問。
柔道部の大きい大会が終わってしまって、今から受験勉強をしても、来年の春までに間に合いそうにない。
今年一浪させてもらうということで、珍しく時間潰しに「本でも読もうかなぁ」という。
その時に本屋さんの棚を見たら「竜馬がゆく」とあった。
例えば時代小説だとフルネームで出てくる。
「宮本武蔵」とか「西郷隆盛伝」とか。
でも「竜馬がゆく」と、こんなタイトルは初めてだった。
未だに覚えているが「こんなの五冊もあんのかよ」とか思いながら、その一巻目の〈立志篇〉を読み始めたら第一章に出てきたのが19歳の坂本龍馬。
その19歳の坂本龍馬は土佐の田舎者で学問も全然ダメで少し体力に自信があるような若者。
茫洋としていて何かこう、胸の中に熱いものはあるのだが、形にならないという19歳。
その時に武田先生は18歳だった。
それを読むうちに五人兄弟の末っ子で子供の時から「ちょっとバカじゃない?この子は」みたいな扱いを受けていたという。
「俺じゃん」とかと思った。
武田先生は五人兄弟の末っ子。
兄ちゃんがいて姉ちゃんが三人。
竜馬も兄ちゃんがいて姉ちゃんが三人。
「俺んちとおんなじじゃん」とかと思った。
でもその文章を読み始めたら端々に何年後かの竜馬のことを伝える文章がある。
「この若者はこの後」「日本を大きく変える英雄に育っていくがこの頃はまだ」とかという表現があって「えっ?コイツが英雄になるの」と伝っていくうちにどんどんなっていく。
もうそれが胸かきむしられるぐらい。
それで自分にも自分を変えていく何かが起きるかも知れない。
司馬さんの上手さは、こういう文章。
これは「新史 太閤記」という信長の家来だった木下藤吉郎、秀吉と参謀になる黒田官兵衛が初めて会った時にこんな会話をする。
黒田官兵衛は頭がよくてクールな人。
(恐らく黒田官兵衛ではなく竹中半兵衛)
ボソッと藤吉郎にこう言う。

「私は上総介殿をきらっている。足下は上総介殿が士を愛するといわれるが、あの態度は愛するというより士を使っているだけのことだ」
「これはしたり、貴殿ほどのお人のお言葉とも思えませぬ。愛するとは使われることではござらぬか」
−中略−
 半兵衛は、あざやかな衝撃をうけた。なるほどそうであろう。士が愛されるということは、寵童のような情愛を受けたり、嬖臣のように酒色の座に同席させられるということではあるまい。自分の能力や誠実を認められることであろう。理解されて酷使されるところに士のよろこびがあるように思われる。
(「新史 太閤記(上)」228頁)

ゾクっとする武田先生とゾクっとしない水谷譲。
「竜馬がゆく」は累計で売れた冊数、2500万部。
司馬遼太郎というのはそれほど日本人を夢中にさせたというワケ。
司馬さんの話が長くなったがこの熱。
「本を読むということで人生が変わる」というのが本の中にあるんだ、という。
そしてこれはご本人もおっしゃっていた

司馬遼太郎の作品もまた、文庫本になってさらに広く受容された。(130頁)

1970年には通勤時間が1時間以下が76%だったのが、1975年には55%となっている。(130頁)

(番組では司馬遼太郎による統計という話になっているが本によると国土交通省作成「大都市交通センサス」)

この70年代の半ばに凄い本が世界で評判になった。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」

新版 ジャパンアズナンバーワン


「世界で一番は日本じゃ無ぇ」かという。
経済に於いて日本は米国を抜くんじゃないかと言われた。
その日本はまるで各企業が戦国大名のように国内で戦っている。
それで足腰を強くして海外に出ていくものだから他の国は勝てない。
この頃のことをよく覚えている。
ハワイのワイキキビーチのビルが見える。
あれの90%が日本企業のものだったという。
ワイキキビーチ。
日本は凄いと思う水谷譲。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」
ここに日本人の強烈な信仰が生まれた。
それはみんなで頑張る。
敗戦からわずか30年でみんなが贅沢できるという日本をつくったということ。
その裏にあったのが歴史から学ぼうという司馬遼太郎だったのではないだろうか?
近代の呼び方では「国家」とか「企業」とか呼ぶが、日本の場合は「徳川」とか「長州」とか「薩摩」とか、そういう藩単位のルールを持った企業が日本をこれだけ強靭な国にしたという。
ところがこれにまた出版界にアンチが生まれてくる。
そのアンチがまた別の出版ブームを起こすワケだが、その続きはまた来週ということで。



2025年09月07日

2025年6月23日〜7月4日◆アーティスト伝説(後編)

これの続きです。

「アーティスト伝説」
新田和長さんがお書きになった一冊。
この中にたくさんのミュージシャンたちが並んでいる。
今回ちょっと新田さんを離れる。
新田青年を離れて60年代後半に入ってゆく日本の音楽界から語ろうかなと思う。
(水谷譲が生まれたのは1967年なので)60年代は水谷譲は生まれている。
そんな時に何が起こっていたかをまず話す。
戦後歌謡。
もう本当に日本人を、日本の歌謡界は励ましつつ復興に導くワケだが、その間にも政治闘争として安保闘争「アメリカの子分のままでいいのか」等々の激しい若者からの突き上げがあって60年が過ぎた。
次にやってくるのが70年。
歌謡曲の世界が揺れ始める。
これがちょうど新田青年が東芝に入って活躍する頃から。
その間に音楽界では何が起こっていたかというと、戦前・戦中の人達が作る歌謡と戦後世代が作る歌謡が分かれ始めた。
フォークソングが芽生える。
そのトップバッターとなったのが「フォークル」「(ザ・)フォーク・クルセダーズ」というグループなのだが、彼らが歌を作り始めると、それまでレコード会社に所属していた作詞家の人達、その戦線に文学界から寺山修司、五木寛之というような作家さん達が歌詞を提供するようになった。
その中でも特に影響が大きかったのがこの人の詞ではないかと思う。
寺山修司「戦争は知らない」。
(ここで本放送では「戦争は知らない」が流れる)

戦争は知らない


この巧みさ。

野に咲く花の 名前は知らない(ザ・フォーク・クルセダーズ「戦争は知らない」)

「花の名前を知らない」というところを問題提起している。
そんな名前も知らない花が好きだ。
「知らない」ということが大事で。
2コーラス目で

戦争の日を 何も知らない
だけど私に 父はいない
父を想えば あゝ荒野に
赤い夕陽が 夕陽が沈む
(ザ・フォーク・クルセダーズ「戦争は知らない」)

巧み。
あの戦争からもう二十年経っている。
1970年が間もなくやってくるから。
その私は戦争は知らないんだ。
だから「戦争を知らない人間としての価値を作ってゆこう」というのが彼らの歌になった。
寺山修司の用意周到なところは、これは世界的な歌とぴったり歩調を合わせている。
「花はどこへいった」

Where have all the flowers gone?(「花はどこへ行った」)

ピート・シーガーが作った歌なのだが、「花」というのがキーワードになってそれが戦いと結びついて歌を作っていくという戦中・戦前派が思いつかない歌の展開をこの60年代の若者達は。
しかもこの「花はどこへいった」を調べるとびっくりするのだが、ウクライナ民謡。
だからこの歌声は今もなお、どこかで響いている歌声。

一生懸命武田先生が言っているが、やはり「戦争は知らない」あたりぐらいから日本の歌謡界の気配、音楽の気配が変わった。
こんなことを思うのは武田先生だけか。
これはかなり武田節が入っている。
少なくとも寺山修司さんの「戦争は知らない」あたりには戦後世代の主張がある。
美空ひばりは戦争による消失を歌う。

せめて あたいが 男なら(美空ひばり「波止場だよ、お父つぁん」)

波止場だよ、お父つぁん


「波止場だよ、お父つぁん」

久しぶりに 手を引いて(島倉千代子「東京だョおっ母さん」)

東京だョおっ母さん


島倉千代子が歌う「東京だョおっ母さん」。
これはいずれにしても大戦があったという体験。
三波春夫。
彼は何を歌ったか。
敗戦を得ても変わらぬ日本人の共同幻想を歌うという。
これが三波先生。

槍は錆びても 此の名は錆びぬ(三波春夫「俵星玄蕃」)

長編歌謡浪曲 元禄名槍譜 俵星玄蕃


という「俵星玄蕃」の中に潜んでいるのは日本人が抱き続けたある種、共感の世界を歌うという。
ところが70年代の後半からの青春は「戦争は知らない」と断言したという。
そして「戦争は知らない」というこの一行から北山修は杉田二郎と一緒に「戦争を知らない子供たち」というヒット曲を作る。
このあたりから歌謡界のフレーズが変わってくる。
歌の歌詞が変わって来る。
これは「戦争は知らない」の中にある。
60年代中盤から「風」がキーワードになってくる。
多分ボブ・ディランの「風に吹かれて」なんかがそう。

風に吹かれて


それから「荒野」。

父を想えば あゝ荒野に
赤い夕陽が 夕陽が沈む
(ザ・フォーク・クルセダーズ「戦争は知らない」)

というような。
五木寛之がこれでフォークルの為に「青年は荒野をめざす」という。

青年は荒野をめざす


そして「野に咲く花」、それから「旅立ち」。
こういうことが歌の材料になっていって、「旅立ち」なんていうのは60年代に上がっていって70年代を突っ切って70年代の最後まで「旅立ち」というフレーズは、青春に響き続ける。
谷村新司の「いい日旅立ち」。

いい日 旅立ち


ずっと「旅」。
こうやって考えると面白い。
新田青年はそういう時代の狭間に生まれて、新しいフレーズを持った若いミュージシャンを見つけていく。
どうしてもやはり取り上げなきゃいけないと思うのだが

 歌舞伎役者の市川染五郎(後の九代松本幸四郎、現在の二代目松本白鸚)さん(61頁)

これが異国の顔をしていて、彫りが深くて。
昔の染五郎。
でも我々はどうしても「染五郎」と呼んでしまう。
「ラ・マンチャの男」等々でアメリカのブロードウェーとも渡り合えるぐらいの力量を持った、この御曹司。
これはただ者ではない。
これを見つけたのもやはり高嶋さんのようだ。
「おい、新田。ついてこい。口説くぞ、歌舞伎界の大物」と言って、この市川染五郎を口説きにお父様のところに行って頭を下げたという。
(本によると新田氏は同行していないのでこの部分は武田先生の妄想。同行したのは会社の重役)
「息子さんでレコードを作りたいです」と頭を下げて。
市川染五郎、松本白鳳さん。
スケールが違った。

「野ばら咲く路」は当時の日本のフォークソングでもなく、グループサウンズでもなく、−中略−フォーク・ロック・ブームを牽引したザ・バーズ、あるいはイギリスのデイヴ・クラーク・ファイヴ、ザ・ビートルズなどを好きで聴いていた人がつくることができた音楽のような気がする。いずれにせよ市川染五郎さんは60年代から70年代にかけての、日本の自作自演時代の新しい音楽の扉を開けたひとりだ。(62頁)



聞いたことが無い気がする水谷譲。
これは水谷譲が知っているヒット曲の路線からは外れているかも知れない。
ヒットした。
もの凄いショックを受けた。
歌舞伎界の御曹司の戦前・戦中とは違う音楽センスを持った方が出てきたという。
そして染五郎さんだから、歌舞伎界の御曹司だからもう違う。
それでアルバムを作るのだが、アルバムとなるとフォト表紙になって写真の表紙になる。

 ある日、染五郎さんは僕に聞いた。
「新田さん、ジャケットの写真を撮るカメラマンですが、どなたか候補の方はいらっしゃいますか」
「いえ、誰もいません。私はまだカメラマンに知り合いがいません」
「それでは友人のカメラマンに頼んでもいいですか」
−中略−
「まだ無名ですが、優秀です。将来必ず活躍する人です」
−中略−
 撮影当日、
−中略−現れたカメラマンの名前は篠山紀信といった。(68〜69頁)

そうだろうなと思っていた水谷譲。
続々と人材がそろっていくというか、新しい人達が時代の表に出始める。
新田青年はそういうのを目撃しながら大きくなっていく。
この方、新田青年はやはりつくづく感心するが、ザ・リガニーズをやっていて、そこそこヒット曲を出した。
その後は東芝EMIのスタッフ、ディレクターとして働き始めるのだが、もの凄く忠義深い。
この新田さんという方は仕事熱心な方。

 1969年秋、タクシーに乗っていると偶然流れてきた「竹田の子守唄」という歌に、僕は身を乗り出した。(72頁)

(ここで本放送では「竹田の子守唄」が流れる)



それを聞き入った。
「いける」
一発で思った。

歌っているのは赤い鳥というアマチュア・グループらしい。(72頁)

 その歌は、ピーター・ポール&マリーが歌ってもおかしくないフォークソングにも聞こえるが、何か違う。(72頁)

国際的な有名なグループなぞに負けないぐらい美しいハーモニーを。

まるで西洋と東洋が一緒になっているような聴いたことがない響きだった。(72頁)

「京都のフォークルに続いて、いけるのは兵庫の赤い鳥ではないか?」と直感した。
しかし残念なことではあるが、彼らは(日本)コロムビアからのデビューが決まっていた。
(このあたりからの移籍の経緯は本の内容とは大幅に異なる)
それでもやはり新田青年はあきらめきれなかったのだろう。
直ぐにメンバーとの接触を始める。
メンバーに会うのだがみんなクレバーでポリシーもしっかりしている。
マネージメントのスタッフもクール&クレバー。
それで先を越されて「竹田の子守唄」」が発売になる。
これが何なのだろう。
こういうことがある。

赤い鳥のデビュー・シングルは1970年6月に日本コロムビアから発売されていたが思うように売れず苦戦していたのだ。(74頁)

ラジオで新田君が聞いた時は「売れる!」と踏んだ。
ところがそれが正式のレコードになって流れるとちょっと変わってしまった。
新田は新しくアレンジになったこの「竹田の子守唄」が全く気に入らない。
何が変わったかというと歌詞を変えてしまった。
これは京都のわらべ歌。
だから方言がそのままメロディーになっていて。

守もいやがる ぼんからさきにゃ(赤い鳥「竹田の子守唄」)

子守で他家に行って働いている少女、その子が盆から先もまだ働き続けなければならない。
そのことの悲哀。

おどまぼんぎり 盆ぎり
盆からさきゃ おらんと
(「五木の子守唄」)

「私は盆までここで働きますけど、盆から先は私はもう古里に帰りたいんです」というあの悲しみ。
それをわかりやすいラブソングに変えたらしい。
そうしたら売れない。
新田は「アンタは何をやってるんだ」と「あの歌でいいじゃ無ぇか」。

『竹田の子守唄』は元の歌詞でないと駄目だと思います。言霊なんです。音楽とのマッチング、響きです。響きがこの歌の命です」(75頁)

意味っていうのは後から追いかけていけばいいだけで。
それに新田という青年はすぐに直感した。
レコーディングしたスタイルがよくない。
新田青年は「スタジオにおけるミュージシャンの立ち位置、演奏するスタイル、そういうのがもの凄く大事だ」という、そういうことがわかっていた。
一番大事なことは、「海は恋してる」で自分達は任せて貰えなかったけど、彼達赤い鳥のようなグループにとって大事なのは自分で演奏して自分で歌うんだ、という。
そうしないとあの良さが、本当の良さが出ない。
それをメンバーに語ったらしい。
そうしたらスタッフの仕事もやっているメンバーから「君の言う通りだね。もう一回やり直そうか」と言い始めたというところから「赤い鳥」という章の物語が始まる。
それで新田君はもう一回トライして、「絶対にヒットさせてみせる」というのが彼の誓いになった。

「竹田の子守唄」をライブ感のあるレコードに仕上げてヒットさせなくてはならない。メンバー5人の歌と演奏が同時に録音できるいちばん広い東芝1スタを押さえた。
 録音当日、メンバーに馬蹄形に並んでもらった。コントロール・ルームから見て、左端からギター山本俊彦、ボーカル新居潤子、ウッドベース大川茂、ボーカル平山泰代、右端がギター後藤悦治郎だ。
(76頁)

マイクを挟んで、「せーの!」で録ろうという。

「村井の弟子の瀬尾と申します」と挨拶してスタジオに入ってきた。
 イントロに足すチェロ一本、たった5小節の短いメロディーを書いた譜面のはずなのに、デザイナーが持ち歩く画用紙を2枚広げたような大きなバインダーを抱えてこの青年はやって来た。
(77頁)

瀬尾一三。
後に大アレンジャー。
武田先生達もやってもらった。
これはまだ青年で。
凄く張り切って模造紙を広げて「これです!」とかと言いながら。
この頃、瀬尾さんは可愛かったそうだ。
このレコーディングは新田さんはディレクタールームで聞いていて、彼自身が感動する。
やはり、だから本領発揮。
新田青年の見込んだ通り
潤子さんの知的でありながらどこか艶のある歌声。
この人はいい声をしている。
そしてサポートコーラスで絡む泰代さんのベールに包むような柔らかい響き、スキャット。
まあ聞いただけでうっとりするという。
(ここで本放送では「竹田の子守唄」が流れる)

竹田の子守唄 - 赤い鳥


「これで赤い鳥の本当の魅力を出せる」ということだったのだが、問題はというと、コロムビアから出した時に「守もいやがる」というそのフレーズをやめて違う詞を当てた作詞家(山上路夫)がいる。
これは新田青年が偉いなぁと思うのは、その作詞家を呼ぶ。
それで「失礼なことしちゃってるかも知れないが、私はこのほうがいいと思うんです」とその作詞家を説得する。
納得してくれたらしい。
「やっぱそうだよね」という。
それでこの作詞家に、失礼なことをしたので、新たな仕事を頼む。

作詞かの山上路夫さんのお宅に行ってB面の歌について相談した。−中略−これから活躍する赤い鳥のテーマ・ソングをつくろうという話になった。山上さんはふとこう呟いた。
「鳥は空を飛ぶよね」
 山上さんの頭には「翼をください」の歌詞がすでに浮かんでいたのかもしれない。
(78頁)

翼をください


というワケでここからまた新田青年の60年代の活躍が始まる。

山上路夫さんは「翼をください」を書くのだが、才能というのは凄いもので、もの凄くわかりやすい、誰でも口ずさめる詞を作るのだが、山上さんも冒険してみたかった。
今まで日本の歌謡界に登場したことのないフレーズで詞が作りたい。
それはB面を製作する時には敢えて使わなかった。
アルバムの時にそのフレーズを使う。
そのフレーズが有名になってしまう。

いま富とか名誉ならば
いらないけど 翼がほしい
(赤い鳥「翼をください」)

富や名誉はいらない。翼がほしい。価値観、生き方まで端的に示している革命的な唄だ。「富」とか「名誉」という言葉が日本の歌詞に登場する時代が来るとは誰も考えなかっただろう。(79頁)

それをLP用に取っておいたというから凄い。
このあたり新田青年も用意周到。
一曲の歌なのだが違う歌詞で別バージョンを持っていたという。
これは凄いことになる。
この二曲のヒットによって、この二曲を含むアルバムは驚くなかれ15万枚の大ヒット。
アルバムは当時1万枚でヒットを飛ばしたという時代に15万枚。
それも邦楽から出したワケで。
この「赤い鳥」の人気はビートルズに並び始めた。
遂に新田君は日本の中だけだが、大きな波を立てたという。
ここからが面白い。
赤い鳥はアルバムをバンバカ売れる。
それで1970年代に入ったばかりの頃だが、営業の方から売れるから「アルバム出せ!どんどん」。
それで上司から新田君のところに来る。
「作れ、急いでアルバムを」
ところがアルバムを作るにはアルバムを作るだけの材料の歌が集まらないと、アルバムというぐらいだからできない。
そこで新田君は、こんなことを考えたのは恐らく世界で初めて。
それは、古い歌でもいいから今度のアルバムはライブでいこう。
でも赤い鳥はライブで録れるグループではなくて、音をしっかり録音しないとダメなんで、

ファンにも参加してもらう形で1スタでスタジオライブをやったらどうだろう。1日でレコーディングができる。(83頁)

 当日は、150人近いファンの人たちがスタジオに入った。(84頁)

これが間違いないと思う。
スタジオライブというのは世界で初めて。

 それから21年後の1992年、エリック・クラプトンが−中略−かつての「赤い鳥スタジオ・ライブ」と同じレコーディング方式と知って僕は嬉しくなった。(85頁)

それからビートルズが会社の屋上でやった「ゲット・バック・(セッション)」。

ザ・ビートルズ:Get Back


あれは新田君は言いにくいだろうから武田先生が代わって言ってあげるが、ビートルズとエリック・クラプトンが新田君を真似したんじゃないか?
これは世界で初めてスタジオライブをやったという。
(8月25日の放送内で謝罪と訂正。ビートルズは1969年1月30日、赤い鳥は1971年12月なのでビートルズの方が先。この時点でもうビートルズは解散していたとのこと)

 アルバムは計画通り12月に発売され、当初の販売目標を大きく超える成果を上げることができた。(85頁)

これは聞いていてびっくりした。
つまり、レコーディングは緊張する。
その上に赤い鳥はお客さんまで入れたワケだから。
レコーディングの緊張とライブの緊張と両方。

新田君はこの赤い鳥を売ったことで(世間が)彼を注目するようになって、彼がどこかに入っていくと小声で「来たよ、東芝の新田だよ。新田が見てるよ」とかというヒソヒソ話が聞こえるようになったという。
彼が注目したのは加藤和彦、北山修、かまやつひろし、加山雄三、小田和正、平原綾香。
アーティストとの交流が始まる。

余談で今週を締めくくろうと思う。
まだまだ続く。
まだまだ(この本の内容は)続くのだが、これから新田さんのことを語るにあたって、ちょっとこぼれ話。
この日本中の若きアーティスト達が「新田、コイツ新しい音楽を作ろうとしてる」と注目が集まったある日のこと。

 1971年冬、僕は赤坂のTBSから溜池の東芝レコードまで歩いて帰ってきた。入り口の前に、背の高い痩せた青年が立っていた。−中略−ロングコート姿だった。
「新田さんですよね」
 僕が頷くと、
「福岡のチューリップというバンドの、財津和夫と申します。どうしても聴いてほしい曲を持ってきました」
−中略−
「魔法の黄色い靴」が流れた。
(114〜115頁)

ここからまた新たなる新田伝説が始まるワケだが、少し時間を挟んで新田伝説、またこの続きは語りたいと思う。

今週の新田和長さんの「アーティスト伝説」はBSテレ東「武田鉄矢の昭和は輝いていた」でも取り上げている。
7月中の放送になるのでぜひそちらの方もご覧ください。
(7月18日放送のBSテレ東「武田鉄矢の昭和は輝いていた」【昭和40年代・歌謡界に新風を巻き起こした音楽】を指していると思われる)




2025年6月23日〜7月4日◆アーティスト伝説(前編)

(今回のネタ本の著者である新田氏については2024年11月25〜12月6日◆人生、待っていたのはでも言及しているので、今回の話はその時の内容と重複する部分がある)

というワケで「アーティスト伝説」。
申し訳ない。
これはそのまま(本のタイトルを)使ってしまった。

アーティスト伝説:レコーディングスタジオで出会った天才たち


これは新田和長さんがお書きになった「アーティスト伝説」。
新潮社から出ている「レコーディングスタジオで出会った天才たち」というサブタイトルが付いているが。
皆さん、見てらっしゃる方もいらっしゃるだろうと思うが、今、武田先生もテレビで「(今朝の)三枚おろし」みたいなことを短い時間やっている。
テレビとラジオは違う。
テレビの場合、いかに短く伝えるか。
長くなるともたない。
だから「なるべく約めてくれ、約めてくれ」と言う。
十分ぐらいにまとめなければならない。
あれは大変だなと思う水谷譲。
我れながら「よくやってる」と思う武田先生。
もう正体をバラしてしまうと、「三枚おろし」で使ったネタを向こうでやっている。
だが、取り扱い方法が違う、組み立て方が全く違うワケで。

今朝から始まった「アーティスト伝説」。
新田さんの長き人生。
「レコーディングスタジオで出会った天才たち」ということなのだが。
新田さんというのは遠い思い出に出てくる人。
武田先生は遠い昔、この伝説の人と福岡の小さなホール(電気ホール)の舞台袖ですれ違ったことがある。
武田先生は大学の三年生。
22歳ぐらいの年齢だった。
「海援隊」というアマチュアフォークグループに夢中になっていた。
そこに彼がやってきた。
彼の肩書は東芝EMIディレクター。
(この時点での社名は「東芝音楽工業」。この後も番組内で何度も「東芝EMI」という言葉が出てくるのでここでも同様に表記していくが、その時期の実際の社名ではない箇所が多数ある)
遠い東京から遥々福岡までやってきたという。
それはもう存在だけでドキドキする。
彼はなぜわざわざそんな田舎町、50数年前の福岡にやってきたのか?
新田さんは彼の直感で「このグループはいける」と思ったグループが福岡にいたからで。
そのグループとは、もう詳しい方はすぐ名前が出てくると思うが「チューリップ」。
敢えて呼び捨てにさせていただくが、このチューリップのリーダーの財津という青年の持っている才能、これを「ただ者ではない」と見抜いたワケで、たった一曲聞いただけだが「果たしてこれがプロになるかどうか」ということで福岡にやってきたという。
それでじっと舞台袖からこの新田という青年の若さ、舞台袖で見ていた。
その時はまだチューリップは出ていなくて、チューリップの前座が出ていた。
それが海援隊。
面白い。
その新田さんが見ているとも気づかず、武田先生達は無我夢中でやっていたワケで
これは武田先生はよくは覚えていないのだが、チューリップの財津さんの方から「前座やってくんないか」という。
どうしてもその電気ホールを満員にしたい。
もちろん、アマチュアとしてのチューリップは人気があるのだが、安全パイの意味で満杯を勝ち取る為には財津さんはもう一グループ欲しかったのだろう。
それで前座として武田先生達(海援隊)が出た。
武田先生達が舞台が終わって降りてきた時に、東芝EMIの新田さんが手招きして武田先生達が呼ばれた。
それで「君たち面白いね」とおっしゃった。
新田さんは後に「違う言葉をかけた」とおっしゃるが、武田先生はその一言の印象が強くて、その一言を覚えている。
武田先生はどうしたかというと「そんな」と言いながら彼の前を足早に通り過ぎたという。
怖かった。
(海援隊は)ただのアマチュアグループ。
財津さんはもうプロを目指していたから、覚悟が全然武田先生達とは違う。
武田先生達はただ、ネエチャンに好かれたくてやっているようなフォークソングだから、最初から性根が腐っている。
それがやはり「プロの東芝EMIのディレクターさんが」というのがドキドキする。
それから長い年月が過ぎて、50年以上経って、この新田さんが自分の人生の大まとめということで「アーティスト伝説」という本をお書きになった。
その本の中に一行だけ武田先生が出てくる。

 海援隊を率いるあの武田鉄矢さんが一肌脱いでくれたらしい。観客動員のため、コンサートは海援隊とチューリップのジョイントだった。(118頁)

「後に、ここには武田鉄矢というのがいて非常にユニークな」というので出てくるワケで。
(本にはそういう文章は無い)
その「ディレクター」という言葉自体も珍しかったのだが、武田先生は「新田」という名前を聞くと胸がドキドキする。
この後、武田先生は人生の中でこの新田というディレクターさんの名前を何度も聞くことになる。
そんな凄い人なのかと思う水谷譲。
皆さんは「あっ!」と声を上げられるかも知れないが、著者・新田和長さんだが

 1968年、早稲田大学フォークソング・クラブ所属の僕たちのバンド、「ザ・リガニーズ」は東芝からレコードを出し(2頁)

あのリードボーカルが新田さん。
そうやって聞くと面白い。
この人自身もシンガーだった。
それもフォークソングのシンガーだったというところから、新田さんの長いミュージシャン達とのお付き合いが始まるワケだが、これがもう本当に見事な人々を網羅しているという新田伝説でもある。

ザ・リガニーズという学生バンドがあって、これがいよいよ東芝からレコードを出す。
学生さんを相手に東芝EMIというレコード会社がレコードを出そうという。
何でこんなことができるようになったのかというと、60年代の半ばから後半にかけて日本の音楽界に激震が走る。
その激震とは何かというと、どうしてもここから語らなければならない。

 ザ・フォーク・クルセダーズ(以下フォークル)のステージを初めて見たのは、1968年(86頁)

「帰ってきたヨッパライ」は何ひとつレコード会社の手を借りず、数人の学生だけでつくり上げてしまったのだ。後に僕は、京都駅からそう遠くない−中略−
 この家庭用のテープレコーダーの回転を変えて録音したので
(93頁)

(ここで本放送では「帰ってきたヨッパライ」が流れる)

帰って来たヨッパライ


フォークルの出現そのものが革命的だったのだ。(92頁)

ディレクターも必要としない曲が深夜放送で爆発的に売れたということ。
これで「手間も暇もかかんねぇな。学生は」というので「そのへんの学生に声をかけてみよう」という。
そうしたら早稲田大学に人気のあるフォークソング・クラブがあって、そのグループの名前が「ザ・リガニーズ」。

足元にザリガニを見つけて「ザ・リガニーズがいいんじゃないか!」と叫んだ。その一言でバンド名は決まった。(14頁)

それで「東芝から出そうよ」なんて、もの凄い話をレコード会社が学生さんにする。
新田さんもいい気持ちになったのだろう。

 1968年、シングルの発売に向け、大学3年生の僕は高田馬場から赤坂溜池の東芝音楽工業に通う機会が増えた。(18頁)

これはもう、あのときめきは忘れられない。
武田先生もそう。
武田先生も大学の二年生ぐらいの時に地元のテレビ局に出入りできるようになった。
TNCという地方局があって、自動扉が開く事務所に入ってゆくのはもう何か凄い自分が「業界!」(という感じで)「あ、月曜日空いてます」とかと言うと胸がときめく。
そのネクタイを締めた方から一丁前に扱ってもらえる喜び。
そんな気持ちだったのだろう。
新田青年はそこに出入りするようになった。
その東芝EMIに強烈な人がいた。
この強烈な人こそ誰あろう高嶋(弘之)さん。
聞いただけで「ああ」と頷く方がいらっしゃると思うが、東芝EMIのディレクターさんで

バイオリニスト、高島ちさ子さんは高嶋さんの次女だ。(41頁)

本当に、この高嶋さんというのはただ者ではない。
皆さんは「ちさ子さんのお父さん」というイメージがあるかも知れないがやめてください。
日本の音楽界で大変なことをした人。
この高嶋さんが新田という青年が気に入ってきた。

 ある日、高嶋さんは、卒業を来年に控えた僕に対して、驚くべきことを口にした。
「新田、無試験でいいからウチに入れ」
(18頁)

よっぽど見込んだというか人手が足りなかったというか、新田青年を「使いやすい」と見たか、何かよくわからない。
みんながみんな、先見の明がある人が揃っているということだと思う水谷譲。
それと人間の確かめ方が直感のみでよかった昭和特有の・・・

 突然の大胆なお誘いに戸惑いながら、
「ありがたいお話ですが、僕は輸出マーケティングというゼミで、商社に入るための勉強をしております」
「商社に入って何をするんだ?」
「はい、テレビ、カメラ、自動車など、国際競争力のある日本の製品を、世界に輸出したいと思っています」
「馬鹿だなあ、ウチに入って、君が言うところの国際競争力とやらのある音楽をつくって、世界に輸出すれば同じことじゃないか!
−中略−
「いいか、そのうち、姿、形のないものを輸出する時代が来る。芸能とか、芸術、文化とか」
−中略−
まだ、ソフトとか、ハードという言葉もなかった時代に、先見の明とはまさにこういうことを指すのだろう。
(18〜19頁)

試験無しだから。
当然正社員として迎える。
凄い時代だと思う水谷譲。
若者というのはこういうふうにして大人から仕切られると燃えるのだろう。
それで新田さんの人生の中でまずは「海は恋してる」という自分達のオリジナル曲のレコーディングに打ち込むワケで。

海は恋してる


この「海は恋してる」という曲から彼のレコーディングスタジオの歴史が始まるワケで。
敢えて「青年」と付けさせていただくが、新田青年はこうやってレコード産業界に入ってアマチュアとして卒業記念という意味合いも込みで東芝EMIから一曲、レコードを作ってそれを販売しようという話になったという。
それでギターの演奏を磨き、コーラスなんかも仲間が集まって一番楽しい時。
「レコーディングするから」と曲が決まって仲間と練習するという。
その時は楽しいもの。
そして新田青年は東芝EMIレコーディングスタジオへ乗り込む。

首相官邸に隣接するスタジオに到着した。ロビーで会った高嶋さんは言い放った。−中略−
「もう、スタジオミュージシャンで録音してあるよ!」
 がっかりだ。
(19〜20頁)

ボチボチそういう時代に差し掛かっていた。
そして「ああもやりたい」「こうもやりたい」と練っていたアレンジだが、アレンジも終わっていた。
ガックリくる。

さっそく、期待半分、不安半分でプロの演奏を聴かせてもらった。−中略−
 プレイバックされたイントロを聴いた瞬間、メンバーの誰かが、12弦ギターのチューニングが狂っていると言った。
−中略−E7のコードが、Em7になっていた。(20頁)

このあたりは丁度時代の変わり目で、新田君が夢見ている音楽業界は「あくまでも自分の手作り」というのだが、認められなかった。
というわけで、皆さん方に確認していただく意味でE7がEm7に変わっているところと、少しチューニングの甘いイントロの12弦ギターを聞いてみましょう。
ザ・リガニーズ「海は恋してる」。
(ここで本放送では「海は恋してる」が流れる)



この歌はよく知っているが、どこがどうおかしいのか全然わからない水谷譲。
これは新田青年のこだわりがあるのでチューニングが甘いとか、それからコード一か所アレンジの方が変えたのでコーラスが凄くやりにくくなったらしい。
だから「自分達が演奏する」というこだわりがあるので、ほんの僅かでも違和感を感じるとそれがミスのように感じてしまうという。
ここでまた凄く面白くて、新田青年は本当に高嶋さんのことを恨んだのだろう。
「やりたい音楽と違いますよ!」とかと言ったのだろう。
そうしたら高嶋上司から言われたのは「上手い歌なんかいらないんだよ!欲しいのは売れる歌なんだ」
(本の内容とは異なる)
これはもう誰もが洗礼を浴びるところでやはりいろんな人がここにぶつかっていく。
これは恐らく平尾昌晃さんから聞いた話。
歌唱力をひけらかすヤツがいる。
「誰がそんな。鼻歌でいいんだよ!聞き手の人はそれを聞きたいんだ。オマエの歌唱力なんかいら無ぇんだよ!」
それはもの凄く大事なセンスの違いで。
平尾さんは有名。
みんな歌唱力に自信があるから歌手になっているワケだから、もう何だか「十週勝ち抜きナントカ大会」みたいになってしまう。
「人々が求めてるのは鼻歌なんだ」という。
だからその歌自慢のヤツが「命をかけて歌唱に臨みます」なんていうのは誰も求めていない。
でもこれは本当におっしゃる通り。
アマとプロの差がそこにある。
上手い歌などいらない。
売れる歌を作る。
その為、売れる歌を作る為にはどうしたかというと、その歌は「売れるという渦を持っていないとダメだ」という。
凄い。
レコード産業界は厳しくて面白い。
新田青年はこの最初の高嶋との激しいやり取りが音楽の基本として「そうなんだ。俺達に要求されていることは『売れる歌』なんだ」というところから一歩、二歩と彼の人生が始まるワケだが、アーティスト伝説はこの後まだまだ続く。

1960年代の説明をしなければならないが、1960年代、レコード産業界が動き出す。

 ビートルズのデビュー・シングル「ラヴ・ミー・ドゥ」は、1962年−中略−イギリスで発売された。ヒットしたものの大ヒットとは言い難かった。しかもそれはイギリス国内だけの話だとして、アメリカのキャピトル・レコードは相手にしなかった。当時、世界の洋楽勢力図は圧倒的にアメリカが中心で、イギリスは遠く及ばなかった。−中略−マッシュルーム・カットに象徴される彼らの容姿はどう見てもまともな音楽家ではないと批判するクラシック界などからの声も聞かれた。(38〜39頁)

アメリカの扱いはどうかというと「イギリスの港町の田舎バンド」というイメージがビートルズ。
それぐらいの存在だった。
ポップスの方はというと、もうダントツ、アメリカ。
「ビー・マイ・ベイビー」とか「悲しき雨音」。
そんなのが大流行で「ラヴ・ミー・ドゥ」というラブソングはあまり・・・
ポップスについて「世界を主導できる、引っ張っていけるのはアメリカンポップスだけで、イギリスにそんな力があろうハズが無い」というのが全体の見方だった。

イギリスで発売された2枚目の「プリーズ・プリーズ・ミー」、4枚目のシングル「シー・ラヴズ・ユー」を聴いた高嶋さんは、−中略−日本でのレコード発売の準備に取り掛かった。
 その頃、アメリカのキャピトル・レコードは依然としてビートルズのアメリカでの発売に否定的だった。
(39頁)

これは武田先生も体感として覚えている。
「女の子みたいで髪の毛伸ばしたヤツ。そんな奴らが力があろうハズが無い」と思っていた。
タカトリ君という友達がいて、タカトリ君の好きな女の子がシロウズさんという。
それでそのビートルズが

She loves you, yeah, yeah, yeah(ザ・ビートルズ「シー・ラヴズ・ユー」)

と歌ったものでタカトリ君が学校の帰り道「ビートルズはシロウズの事ば知っとう」と言いながら武田先生に告白した秘密の会話を思い出すぐらいで。
でも「シー・ラヴズ・ユー」に反応したのはタカトリ君ぐらいだった。
「これではいけない」と思ったのが東芝。
これはEMIと提携をする。
1962年。
何とかしなければいけない。
東芝EMI。
(「提携」というのが不明だが、本によるとEMIと合弁会社になったのは1974年。会社同士のやり取りはビートルズ以前からあったようだ)

「プリーズ・プリーズ・ミー」、4枚目のシングル「シー・ラヴズ・ユー」を聴いた高嶋さんは、ビートルズの音楽はこれまでのアメリカの音楽とは何かが大きく違うと感じた。(39頁)

このグループはタダ者じゃない。
何でアメリカと喰い合わせが悪いのかというと、アメリカのポップスには無いブリティッシュロックというか、クラシックの臭いもあるんだ、という。
「これ絶対いけるわ」と高嶋は思う。
アメリカ、キャピトルは動かない。
「ビートルズ宣伝しよう」という。
高嶋は策士。
イギリスEMIと密談する。
日本とイギリスが手を組んで「ビートルズが売れた」と騒ぎだせば、絶対にキャピトルも腰を上げる、宣伝し始める、という。
それでEMIは「そんな夢かけてくれるんだったら、アンタの言うこと何でも訊く」と言ってイギリスEMIと高嶋の間で意思疎通ができるようになった。
(このあたりは本の内容とは異なる)
向こうのディレクターも高嶋に乗ってしまった。
高嶋は何を要求したかというと「プリーズ・プリーズ・ミー」とか「シー・ラヴズ・ユー」では受けない。
「どうしたらいいんだ」といったらビートルズは何を歌っているかをタイトルに付けた方がいいんだ」という。
でないと日本では手が付かない。
字幕の洋画か吹き替えで声優さんが演じているかの違い。
それでその次の歌が「アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド」。
これは「アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド」だから「あなたの手を取りたい」。
それを高嶋が「俺がタイトル付けるから納得してくれ。ビートルズにも言ってくれよ」といって。
それで「アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド」を日本のタイトルに変えた。
これが「抱きしめたい」。
さあ聞いてみましょう。
ビートルズ「抱きしめたい」
(ここで本放送では「抱きしめたい」が流れる)



英語タイトルでは日本では馴染みがない。
だから最初は「日本語でとにかくやらせてくれ」という。
これがまたものの見事に当たる。
何と日本とイギリスが手を組んだ「アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド」「抱きしめたい」、これが日英で大ヒットし始める。
そうしたらキャピトルがし始める。
アメリカ公演をやる時にファンをカネで雇ったというのだから。
ビートルズがアメリカに降り立った時、飛行場で騒いでいた女の子にギャランティーを出していた。
サクラ。
そして少しお金を握らせて、ジョン・レノンが落とした灰と灰皿をを百ドルで買った女の子というのも。
そういう伝説も。
そうしたら「アイ・ウォント・トゥ・ホールド・ユア・ハンド」、邦題「抱きしめたい」は日英米で火が点いたという。
これでEMIは高嶋に頭が上がらない。
そんな世界的なヒットをどうやって飛ばすかを横でじっくり見ていた新田青年。

改めて新田さんの本を読んでしみじみ思ったのだが、ビートルズを売るということに関して高嶋さんの働きは凄かったらしい。
まだ東芝の方での主役は誰かというとベンチャーズが主力だったという。
ベンチャーズがアルバムを100万枚売った。
(「インストゥルメンタル」という言葉が本放送ではカットされている)
それぐらいのパワーがあった。
テケテケテケ♪

 同じ東芝が発売していたベンチャーズのアルバムは100万枚も売れ、ビートルズはまだ5万枚しか売れていない時、高嶋さんは数字を改ざんしてベンチャーズよりビートルズの方が売れているように見せる社内書類を作成した。おまけに社外秘の印まで押して雑然とした机の上にさりげなく置いておく。業界紙の記者が毎日社内を歩き回ってネタを探していた時代なので、その書類は必然的に記者の目に留まる。(42頁)

EMIからの覚えもめでたいので高嶋さんだけにはビートルズの英語のタイトルを日本語に変えていい権利が伝授された。
ビートルズのナンバー

「恋する二人」「恋におちたら」「悲しみはぶっとばせ」「ノルウェーの森」「ひとりぼっちのあいつ」なども全て高嶋さんがつけたタイトルだ。(42頁)

今頃になってちょっと「間違えたんじゃないか」というのが発見されている。
「ノルウェーの森」ではないらしい。
本当は「Wood」だから「ノルウェーの家具」。
でも「ノルウェーの家具」では売れていないだろう。
「ノルウェーの森」で水谷譲の好きな作家さんの小説のタイトルになった。

ノルウェイの森 上 (講談社文庫)


でもそれぞれに音が聞こえてくる。
「恋する二人」「恋におちたら」「悲しみはぶっとばせ」「ひとりぼっちのあいつ」
これは全て高嶋さんのアイデアで。
一個だけ正確にものを言っておかなくてはいけないのだが、ビートルズは世界中で大ヒットするのだが中国だけはヒットしていない。
文化大革命(文革)の最中で、「愛国無罪」とか漢字四つ文字が流行っていた国ではビートルズは一切。
しかしこのグループは知れば知るほど天才的だった。
そのことを高嶋の横に立っていた新田青年は学ぶ。
ビートルズは何が凄いか?
イントロを聞いたらその曲がわかる。
例えば「アイ・フィール・ファイン」。
(ここで本放送では「アイ・フィール・ファイン」が流れる)



演奏のノイズのハウリング。
これがイントロ。
「Help!」
(ここで本放送では「Help!」が流れる)



イントロ無し。
いきなり。

「カム・トゥゲザー」は冒頭いきなり「シュッ!」という音で始まった。−中略−ジョン・レノンの声なのだろう。(43〜44頁)

(ここで本放送では「カム・トゥゲザー」が流れる)



60年代の半ばから日本をビートルズ一色に染めてゆくという。
それを新田青年はジーッと眺めていて、先行したビートルズから「なるほど。こんなふうにして音楽を売ってゆくのか」というのを学んだという。
もう一回繰り返すが、この60年代半ばから日本の音楽界に大革命が起きた。
これはもちろん先行するビートルズがいたからなのだが、日本でも影響力を持ったフォークグループがスタートする。
それが(ザ・)フォーク・クルセダーズ。
彼等からフォークソングという新しい音楽運動が。
日本のフォークソングはここから始まったという一曲がある。
これは武田鉄矢説。
寺山修司さんが作詞なさった「戦争は知らない」。
(ここで本放送では「戦争は知らない」が流れる)



それまでの日本の歌謡界は戦争を知っている人達の歌。
フォーク・クルセダーズが言い始めたのは「俺達は知らない。戦争を」。
寺山修司の作詞から影響を受けて北山修は「戦争を知らない子供たち」という曲を。

戦争を知らない子供たち


ここからフォークというものが立ち起こっていくという。

(本放送ではBSテレ東「武田鉄矢の昭和は輝いていた」の宣伝が入る)


2025年07月05日

2025年3月31日〜4月10日◆眼高手低(後編)

これの続きです。

二年前に読んだ本だがいい内容だった。
「妄想する頭 思考する手」というタイトルで暦本純一博士、東大大学院の教授。
コンピューターの開発を行ってらっしゃる方。
祥伝社から出ていた。
この方がスマートスキンというか指を広げたり縮めたりすると拡大、それから縮小が簡単にできる、あの原理を考えた方であって。
この方が「眼高手低」「眼差しを高く上げ、手をせっせと動かす」ということで次なる発明で考えておられるのが「白杖」。
視覚障害がある方の白い杖をデバイス、端末としてスマートフォンが持っている地図アプリを連動させて、それから振動機能があるので、最初に地図アプリの方に目的地を打ち込んで白杖を握る。
曲がるところになると小さく震えるとか、そういう工夫で目的地まで白杖が地図を覚えて引っ張っていくという。
これを今、開発中。
その一部がもう車に活かされていて、昨今、武田先生の車であるトヨタ車だが、白線をちょっと踏んだりするとハンドルが震える。
それから救急車が来ると知らせる。
チャイムが鳴る。
「救急車接近中」という。
このあたりが最近の車は本当にコンピューターだらけということ。

ここからもっと面白いことを考える。
便利がいいと思った
その、右に曲がるところ、角まで来たらちゃんと白杖がスマートフォンの地図アプリと連動していて、震えるとかというの。
これは凄いと思うのだが、ここからこの人はもっと凄いことを考えている。

非線形な振動によって引っ張られるような感覚が生じること自体は昔から研究されていた。(144頁)

これは道案内にも使える。単に振動するだけでなく、正しい方向に引っ張らせることができるのだから、よりリアルな「誘導」ともいえるだろう。(146頁)

この人はまず娯楽を考えるのだろう。

「仮想」の力を生み出せるとなると、エンターテインメントにも応用可能だ。たとえばアスリートが感じている力を再現できるかもしれないし、CGキャラの身体感覚を疑似体験することもできるだろう。(146頁)

この人が考えたのはバットを握る。
それで仮想現実でもいいのだが、とにかくボールを投げる。
その人が振る。
その時のバットの手ごたえがホームラン。
それは凄く娯楽性を帯びる。
そういえば画面ゲームを、ゴルフでもやり始めた。
世界のトッププロをスクリーンに向かってボールを打たせる。
それでテレビゲームとしてのゴルフをプロ選手にやってもらうという。
そういう仮想現実の、これはあくまでもエンターテインメントだが、こういうのはやはり「面白いな」と思う。

暦本さんは新しい発想をお持ちなのだが

新しいアイデアは、何も無いところから突如として出現するわけではない。そのほとんどは、「既知」の組み合わせだ。その組み合わせが新しいから、「未知」のアイデアになる。(86頁)

プリンターは何枚もの紙を連続してプリントするので、一枚のプリントが済んだことを感知する仕組みがないと、次のプリントを始められない。また、紙が詰まって動かなくなったら、作業を止めてエラーシグナルを出す必要もある。(147〜148頁)

これはいちいち「いちま〜い、にま〜い、さんま〜い」と番町皿屋敷みたいに機械が数を数えていた。
それが故障が多い。
引っかかったりすると「さんま〜い、さんま〜い、さんま〜い」になってしまう。

紙送りセンサーとして使われているのは、じつは低画質の「カメラ」だ。機械の中で移動する紙の様子を、毎秒一〇〇〇回ぐらいのスピードで撮影している。それによって、紙送りが終わったことや止まったことを感知するわけだ。(148頁)

つまり「シンプルじゃないとダメですよ」という。
これは紙送りセンサーというのがあって、コピー機のデバイス、端末としてたちまち誕生したという。

 HMDは、VRのディスプレイとして頭に装着するデバイスのことだ。テレビやパソコンやスマホなどで動画を見るのとは違い、周囲のリアルな風景をシャットアウトできるので、バーチャルな臨場感が得られる。
 その臨場感をさらに高めるには、できるだけ見える範囲、つまり視野を広げたい。
(152頁)

HMDの視野を広げるときに、全面を同じ解像度にする必要はない。周辺視野の映像は少しボヤけていても、リアリティが失われることはないだろう。(153頁)

つまり無駄な努力はしないというのがイノベーション発明の基本的な考え方だそうだ。

Netflixでホラーサスペンス系を見ることが多い水谷譲。
タイムマシンものと宇宙旅行ものをよく見る武田先生。
昨日見たのが「ライフ」だったか

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火星で拾った生命体が宇宙ステーションの中で暴れ出して。
真田(広之)君も・・・
まあむなしい物語。
言ってしまうとまずいか。
ラストは「ちょっとどうするんだろう?」と思う水谷譲。
ドキドキさせるというヤツ。
あんなのを見ていて思うが、アメリカのハリウッドに於ける、あの手のいわゆるSF映画の作り方を見ると圧倒される。
仮想現実の無重力の宇宙ステーションを見せてくれる。
あれが本物にしか見えない。
ああいうのを見ているとハリウッドの持っているSFを作る力というのは凄い。
「スター・ウォーズ」だって昔は結構チンケなヤツがあった。
今は浮かぶスクーターとかというのも「バック・トゥ・ザ・フューチャー」なんかも明らかにあのブルーバックでやったという淡い仕掛けのラインが見えた。
今はもう全く無いという。
ゴジラを見てもそう。
あの「ゴジラ-1.0」

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「シン・ゴジラ」もそうだが「まあ凄いもんだな」という。

シン・ゴジラ



何でそんなことを喋ったかというと、この本の暦本純一さんがおっしゃっている「妄想」というのが人間の能力にとって大事な感覚。
妄想の最大のものが人間の拡張で。
人間は走れないが、車という拡張機に乗ると最高では200キロ近いスピードで。
SFで言うとガンダムの頭の中に入ってしまうと、自分の手足同然になるワケで拡張する。
暦本さんは「これなんだ。人間の夢は」。

私が研究している「ヒューマン・コンピュータ・インタラクション」という分野は人間と機械を「つなぐ」のがテーマだが、−中略−機械を自らの中に取り込むことによって、「人間」という概念がこれまでよりも広がる。それが、私の抱いている妄想の土台である「人間拡張−中略−」だ。(〜頁)

AIと人体の融合、あるいはChatGPTなどもそうで、今、考えてみると人間の能力の拡張である。
検索する。
何でもよく出てくる。
自分の忘れたことだって記録に取ってあるワケで、「もの凄い発明だなぁ」と思う。

「顕微鏡は視覚の拡張である。他の感覚器官、たとえば聴覚・嗅覚・味覚・触覚なども、将来の発明で拡張されるだろう」(170頁)

 さらに妄想を広げれば、人間の「脳」そのものがニューラルネットとの接続によって拡張されるはずだ。(196頁)

人間の脳がネットワークに繋がり、膨大な知識を自分のものとして使うという時代がもう既に到来しているワケで。
これも最初はもの凄く簡単で、美術館に於けるイヤホンガイド。
これが原型。
絵を見る時、意味がわからない。
でもイヤホンガイドを借りると絵の説明をしてくれるので。
歌舞伎だって外国の人は意味がわからないが、イヤホンガイドを付けると「出てきた彼女は子供亡くし、今、探しながら泣いております」という理解の拡張がそこにあるという。
拡張という、そういうこの事象を見る、この出来事を見る。

映画『マトリックス』では、ヘリコプターの操縦技術を脳にダウンロードするというシーンがあった。(196頁)

マトリックス (字幕版)



これがもう間もなくできるんじゃないか?という。
前に話したことがある
片手だけしか今、できていないのか。
そこにグローブみたいな手を付けると、手の動きがクラシックピアノを弾き始めるという。
それは手袋が弾いている。
これをもの凄く大きい意味で言うと「ショパンが弾いた手にしろ」という命令を出すとショパンが弾いた通りに弾けるという。
「体はゆく」の時に出てきたエクソスケルトンのことを指していると思われる)
例えばしっかりした用具を付けてパットを握って「イチロー」をジャックインするとイチローのヒットが打てるとか大谷のホームランが打てるとかという、そこまでなるのではないだろうか?という。
SF。

道具なしの「裸の動物」としてはネアンデルタール人のほうが強かったので、もし石器が発明されていなければ、現在の地球は彼らが支配していたかもしれない。しかし石器という道具によって拡張された能力は、ホモ・サピエンスのほうが高かった。いわば「矯正学力」でネアンデルタール人を上回ったわけだ。(199頁)

その道具はどうやって進化させたのか?
今日の問題にする。
これはディープラーニングと言うらしいが、道具を進化させる為に必要なのはたくさんの話し合いで。
(本の中の「ディープラーニング」の紹介内容とは異なる)
暦本さんは非常にヒューマン。
何かハッとして本に赤線をひっぱったのを覚えている。
武田先生が「(今朝の)三枚おろし」にネタを持ち込むワケだが、武田先生一人に任せておくと「武田先生一人が面白い」という番組になってしまう。
水谷譲を話し相手にしていると、番組そのものが予想もしなかった内容になり意外な方角に話題が広がってゆく。
媚びるワケではないが水谷譲に巡り合ってよかった。
何か時々ふと、最近、そういう当たり前のことに感謝できるような自分になった。
話題が盛り上がらないと乳の下を掻かれるというような屈辱を受けるのだが、それが武田先生を鞭打つ。
だから一人の価値観で物事を進めてはいけないという。
人気がある人に集中してはいけない、と。
本当にそうだと思う水谷譲。
「あの人さえ使っておけば何パーセント取れる」というような発想ではなくて。
その人を殿様にしてはダメだと思う水谷譲。
ちょっとこのあたり発言が微妙になるので。
一般論。
武田先生達は一般論を言っている。

テクノロジーの進歩というのは、中間の認識を多く持つことだそうだ。
皆さん、これは科学者らしい言葉。
テクノロジーを進歩させるとは中間の認識を多く持つことで、中間の認識をたくさん持つことが改良に結びつくのだ、という。
中間層は多様性に満ちている。
だからその多様性を改良に活かす意見とすることなんだ。
繰り返す。
世界は専制、たった一人の独裁者を嫌い、たった一人の人気者が支配するという世界を嫌い、自由を求めて自在に人の多様な意見を吸い上げるというシステムを好むという。
私共はどちらかと言えばそのことを踏まえて政治的に言うとウクライナを支援している。
「申し訳ないねぇプーチンさん。お宅のロシアに多様性を感じないんですよ」
いろんな人がいろんな意見を言っているという人間の声をあまりおたくの社会は静か過ぎて我々はダメ。
民主主義とは何か?
喧しいということ。
いろんなヤツが勝手にものを言って。
でも喧しいことが民主主義。
だから「うるさい」を否定してはいけない。
今日は冴えている。
おっしゃる通りだと思う水谷譲。
もうゾクゾクする。
自画自賛。
「我田引水」
好きな四文字熟語。
自分の田んぼに水を引かなくて誰に引くんですか?
こういうことなので、日本社会の弱さみたいなところは案外強さに変わり得ることがあるぞ、と。
これは反対する人はいるだろうが、嫌う人は嫌うのだろう。
マイナンバーカード。
みんな手続きしないで困っているじゃないか?
マイナンバーカードをICチップで注射で打てばいいんだ。
小さいのだったら打てるのではないか?
小さいICチップにして、体の中に埋め込んでおけばPASMO、Suica、それからアイデンティティカード。
水谷譲の猫の首に番号が書かれたチップを(埋め込んだ)。
全然わからないぐらい小さいので猫も痛いともスンとも言わない。
人間なら、なおさらできると思う水谷譲。

監視カメラを付けると「個人の自由が無くなる」とかと言ったが、もう今、監視カメラは犯人を割り出すのに最高のシステムになってるじゃないか」と。
これは逆に言うと今、最も監視カメラが発達しているのが中国。
中国の学校では凄い。
これは中国に負けてしまう。

深圳あたりの学校では、生徒の頭に脳波を計測するバンドをつけた状態で授業をやっているぐらいだ。(226頁)

中国は凄い。
ちょっとやり過ぎな気がする水谷譲。
暦本さんはそういう中国がいいとはおっしゃっていない。

この暦本さんの面白いところは何がいいかというと、「妄想する脳」を作らないと何事も発展しない。
管理された脳ではダメ。

日本という国は、−中略−ある種の「妄想大国」でもあったはずだ。(227頁)

『ドラえもん』は今も現役だし、『サイボーグ009』や『鉄腕アトム』などは古典として生き続けている。『機動戦士ガンダム』や−中略−『新世紀エヴァンゲリオン』など、(228頁)

これらの物語は妄想から生まれたんだ。
中国やロシアに於いて妄想は非常に限られた人しか持っていない。
それじゃダメなんだよ。
中間層の妄想が大事なんだ。
いろんな妄想があっていいんだと思う水谷譲。
ところが中国やロシアでは限られた人しか妄想ができない。
アメリカの「偉大な国」。
それもトランプさんの妄想かも知れない。
妄想はいろんな人が持っていないと活力にならないという。
妄想はどこから生まれるかというと「不真面目」から生まれる。
(本では「不真面目」と「非真面目」を区別していて、このあたりは「非真面目」)
そういう不真面目から生まれる妄想を大事にしないとダメですよ。
このへんはわかりやすい。
「遊びから生まれる」に近い感じかと思う水谷譲。

暦本さんは古い話を。
こんな職種があった。

 かつて、炭鉱には「スカブラ」と呼ばれる人たちがいた。−中略−みんな一生懸命に炭鉱で働いているのだが、一〇〇人のうち五人ぐらいは、何をするでもなく機嫌の良さそうな風情でブラブラとそのへんを歩いている。−中略−スカブラの人たちは、「平時」は何もしないけれど、いざ事故やトラブルなどが発生するとすぐに駆けつけてみんなを助けてくれるからだ。アリなどの集団でも同様で、観察すると実際には働いていないアリが一定の比率でいるそうだ。(230頁)

(番組の中で「スカプラ」と言っているようだが、本によると「スカブラ」。ここでは本に従って「スカブラ」に統一しておく)
こういう「スカブラ」みたいなことはとっても大事なことで

 グーグルには、かつて「二〇パーセントルール」と呼ばれる制度があった。「従業員は、勤務時間の二〇パーセントを自分自身のやりたいプロジェクトに費やさなければならない」というルールだ。−中略−以前はそれがグーグルの「イノベーションの源泉」とも言われた。(231頁)

こういうふうにして、みんなの為の妄想できる、そういう人間の組み合わせとかがタフな企業を作っていくという。
これは考えさせられる。
イノベーションの為のアイデアが生まれる為には、こういう不真面目な妄想から人間がいろいろこう発展させていくという。
とにかく妄想は重大なアイデアを作る為のスイッチなのであるという。
何か勉強になった。
始めて「スカブラ」という言葉を聞いた水谷譲。
言葉は悪いが「スカブラも使いよう」だと思う水谷譲。
だから一色に染まってはダメ。
今、世の中で一色にまとめるのがいいことだと思っている人がいて。
最近の大河ドラマを武田先生は評価する。
蔦屋重三郎が主人公なのだが、蔦屋重三郎というのは何者かというと、今でいうと芸能界のことを出版物にして芸能界をアピールするという。
大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」
そうやって考えると凄くわかりやすくて。
あの「べらぼう」を書いておられる作家さんは素晴らしい。
「やるなぁ」と思って。
その名前をつぶやいていたらスタッフから「前にお付き合いしたじゃありませんか」と言われて。
「JIN -仁-」

JIN-仁- BD-BOX [Blu-ray]



(脚本はどちらも森下佳子氏)
だから武田先生は吉原に詳しい。
そういう意味でスカブラ。
蔦屋重三郎も一種スカブラ。
文化というのはみんなスカブラ。
「文化放送の電気のコード」のことを「QRコード」と言うのかと思った武田先生。

(この週の最終日は「雑感」ということで、本の内容とは無関係なので割愛)


2025年3月31日〜4月10日◆眼高手低(前編)

音だけでは非常にわかりにくい四文字熟語だが、「眼高手低」といってどんな字を書くかというと「眼は高く手は低く」という、そんな中国のことわざだが、意味については本放送を聞きながらどういう意味なのか探っていただければ嬉しい。
「妄想する頭 思考する手」

妄想する頭 思考する手 想像を超えるアイデアのつくり方 (単行本)



東大の教授の方で、コンピューター関係の開発を行っておられるという大博士。
(著者は)暦本純一さん。
祥伝社から出た本で。
申し訳ございません。
ご紹介が遅れた。
この本はもう二年以上前に読んだ本。
次に面白いのが来たりすると飛び抜かしてそれをやっているうちに、取り忘れてしまったヤツ。
「これはちょっと話もややこしいから面白く無ぇかな」と思って読み返していたら面白かった。
それで取り上げてみた。

この暦本さんの本を読みながらびっくりしたのだが、今はもう当たり前の当たり前になっているから、そんなことも考えもしなかったが。

スマートフォンを持っている人なら、この技術は毎日のように使っているはうだ。ピンチング(画面の上で二本の指を広げたり狭めたりすること)によって写真やテキストなどの拡大・縮小ができるあの技術だ。(14頁)

考えたら凄い発明。
どんなタイムマシンものを見ても、これは出てこない。
昔のSF映画で、空間に映像が出てきて、それを手でどんどん変えていく、流していくみたいな「こんなことできるワケないじゃん」と思っていたがそれに近いと思う水谷譲。
まさしく我々はその未来を歩いているワケだが、あの原理を考えた方が驚くなかれこの暦本さん。
日本人の人。
あれの原理を考えた。
凄い技術で、この技術は凄い発明なのだが。
この人の発明を発想したその裏側が面白いということで今回取り上げているワケで。

「必要は発明の母」と言うけれど(68頁)

灯油をストーブに移すシュポシュポとかああいうの。

トラスコ中山(TRUSCO) ポリエチレン ペール缶用ポンプ (手動式) 517mm GJ-10-1P



「必要があるから生まれてきた」という方が多いが、暦本さんは「そうじゃないんじゃないの?」という。
「これさえあれば便利」なんていう、そういう何だか真面目なことというのはあんまりひらめきを起こさないんですよ、人間の頭には」という。
その一例として大ヒット商品のソニーのウォークマンを挙げておられる。
あれは女性が提案した。
若い娘さんが「こんなのあったら便利」というのでウォークマンの原型を提案したら、もう重役会議でぼろくそに言われた。

社内でも「録音機能のないテープレコーダーなんて売れるわけがない」と反対する声があったらしい−中略−それでも、そういった当時の常識にこだわらずに、思いつきを突き通して形にしてみたら、画期的な商品として世界的な大ヒットとなった。(18頁)

それももう今は・・・
もうそういうのに取って変わったのだが、でもウォークマンの最初は「本当にいい道具だな」としみじみ思った。
指を広げたり縮めたりする「ピンチング」という技術なのだが、これはとんでもないところから発想している。
テルミン。

 テルミンという不思議な楽器がある。本体に手を触れることもなく、アンテナ型の電極に手を近づけたり遠ざけたり、その向きを変えたりすることで、音の高さや大きさをコントロールする楽器だ。ロシア(ソ連)の物理学者レフ・セルゲーヴィチ・テルミンが−中略−発明した。世界初の電子楽器である。(133頁)

シンセサイザーの前の電子楽器と言われて面白グッズとして紹介される。
発明する人というのはそういう頭なのだろう。
この「箱から出ているアンテナに手を近づけて音が変化する」という発想そのものに暦本さんが惹かれた。

 テルミンには、音の高さを決める垂直のアンテナと、音量を決める水平のアンテナがある。そのアンテナと手のあいだに蓄えられる静電容量の変化を利用するのが、この発明のポイントだ。(133頁)

これで「二本の指の動かし方で画面のサイズが変わる」という発想になるワケで、それがどう結びついていくか。

 たとえばテーブルのようなコンピュータ画面を、たくさんの電極線で縦と横に分割する。テルミンの垂直アンテナと水平アンテナを二〇〜三〇本ほど敷き詰めて座標を作るようなイメージだ。縦のマス目を数字、横のマス目をアルファベット順にすれば、座標の交点は「3のB」「7のH」といった具合に指定できる。そこに物を置くことで静電容量が変化すれば、その位置情報をテーブルに伝えることができるだろう。(134頁)

だから(スマートフォンの画面の)電話のところを押すとちゃんと電話番号を収めたノートが出てくる。
「YouTube見たい」とか基本は指先の静電気。
あれは縦と横に入ったマス目の数字とアルファベットでその所在がはっきりするという。
それを指しておいて広げると広がるという仕掛けにもつながるというワケ。
これはテルミンの音が、人間の手のひらを近づけることで音を大小にしたり、音の高い低いを変えられる。
それで狙った情報のスイッチがその画面の中にいっぱいあるということ。
しかしそれにしてもスマートフォンは便利が良すぎる。
アルバムはあるわアダルトビデオはあるわ。
スマホは調べものは抜群。
アダルトビデオに接触する度に「これは子供には見せられないな」とかと思いながら見ている。
それとやはり無限大に人の情報が入って来る。
「ちょっとおたくの機械おかしゅうございますから掃除しませんか」「きれいにしましょう」とかという諸注意が。
あれは相手にしなくていいのかと思う武田先生。
ダメなものもあるので武田先生はそれは触らない方がいいと思う水谷譲。
作っておいて「触らない方がいい」。
「何とかしろよ」と年寄としては言いたくなるが、そういうものなのだろう。
この仕掛けを考えて画面に指を近づけることで「画面変化とか特有のチャンネルに合わせるということができますよ」というので面白半分で暦本さんは研究していたそうだ。
「何かの役に立とう」なんて思ったことが無かった。
学会でも注目されるのだが、それは子供のおもちゃと同じで画面が大きくなると子供は喜ぶし触ればチャンネルが変わると楽しそう。

 でも結局、その発明を最初に商品化したのはアップルだった。(141頁)

ジョブズさんがいなければこの画期的イノベーションは生まれなかった、という。
この著者自身は自分の発明がこのような形で利用されること、それだけが嬉しくて。

 ところが、私と関係のないところで特許侵害をめぐる訴訟が起こった。訴えられたのはアップルではない。アップルがスマートフォンのライバルであるアンドロイドを作っているモトローラを訴えたのだ。アンドロイドに搭載されたマルチタッチ技術はアップルのものだから特許を侵害している、という。(142頁)

(番組ではモトローラがアップルを訴えたと言っているが、本によると上記のように逆)

当時モトローラはグーグル傘下にあったため、グーグルの顧問弁護士から協力を要請されたのだ。そもそもiPhoneで使った技術がアップルのオリジナルでなければ、モトローラは訴えられる筋合いがない。それを証明するために、アップルが暦本のアイデアを使ったことを裏付ける証拠がほしかったわけだ。−中略−私の出した証拠もモトローラにとって有利な材料として働いた。結局、アップルが訴訟そのものを取り下げる形でこの争いは終わっている。(142頁)

これは暦本さんは何も文句を言っていない。
「俺にカネよこせ」とか言わなかった。
ただ「俺のものだとは言えない」というのをスティーブ・ジョブズが言い出して、何のことはない、誰でも使っていいということになった。
暦本さんは大学教授の方。
いわゆる研究者で自分の主張を放棄なさった。
この暦本さんの発明はもっと凄いのだが。
「自分が考え付かなかったことをジョブズが考え付いてくれたんだから、みんなも使っていいですよ」と。
そうおっしゃってくださらなかったら、我々は今、そんなできなかったと思う水谷譲。

 もしモトローラが敗訴していたら、マルチタッチ技術はアップルが独占し、他社のスマートフォンやタブレットでは使えなくなっていたかもしれない。(142〜143頁)

指先でコンピュータの画面を拡大できたら、そのほうがマウスよりも自然だろうという感覚は持っていた。いや、現実世界ではものを一本指で操作することのほうがめずらしいのに、なぜマウスでは常に一本指ですべてを操作するような「不自然さ」を当たり前のように受け入れているのだろうかそういう自分自身の素朴な疑問から始まったのが、スマートスキンの開発だったのである。(16頁)

だから新しいものを発明する人は目の付け所が全然違う。
それが結び付いたワケで。
暦本さんがおっしゃっている中で本当に感心するのだが

自分の価値軸の上で「面白い」と感じたことを、素直かつ真剣に考えている
 その「妄想=やりたいこと」を実現するには、いろいろな工夫や戦略が必要だ。
(24頁)

「そういう『妄想する心』みたいなものが無いと新しい発明、イノベーションは生まれませんよ。必要よりも『ああ、面白い』という、そういうのが大発明を生むんです。子供が見て面白く、年寄が見て『あ、こりゃ便利だね』という」
やはり指の広げたり縮めたりで活字の大きさが変わるのは子供は面白いだろう。
写真なんか際限も無くアップにもできるし。
年寄にとって一番有難いのは老眼鏡をかけなくていい。
そこだけデカくしたら読めるワケで。

 たとえば産業革命の起爆剤となった蒸気機関は、最初から機関車の駆動技術を目的として発明されたわけではない。そもそもは炭鉱から水を汲み上げるためのポンプとして開発された。それを交通機関に転用した蒸気船が実用化されたのは、ワットの発明からおよそ四〇年後のこと。−中略−蒸気機関車が実用化されるまでには、それからさらに一〇年近くかかっている。(69頁)

ワット自身も「そんなふうに使ったの?俺の発明」と驚いているハズだ。

 また、エジソンの蓄音機という発明も、想定外の必要を生んだ。蓄音機(フォノグラフ)はもともと録音装置、今で言う「ボイスメモ」に近いものとして発明されたものだ。その場で自分の喋った言葉を「蓄音」すれば、たとえば後で聞きながら文字に起こすこともできる。そんな利便性をエジソンは考えていた。(69頁)

 ところが、この発明が「録音された音楽を聴く」という必要を生む。(70頁)

最初は音楽では無かった。

まったく縁のなかった分野に、「そんな技術があるなら是非これに使いたい」と言う人がいる可能性もある。自分の妄想から生まれた面白いアイデアは、最初の用途にこだわりすぎずに、より大きな「必要」の可能性を検討してみることも大事だろう。(71頁)

「なるほどな」と思った。
新しいアイデアは何かしら世のバランスを崩し「こう思っていたこと」それがひっくり返る。
そういう「ひっくり返す力」が無いと新しい発明はできませんよ。
これはやっぱりちょっと皆さん、メモっておいてください。
おっしゃる通り。

この先に暦本さんが考えておられる、新しい発明・発想を聞きたいでしょう?
これは面白いことを考える。
近頃世間を見ていて「あらら?」と思う一つに「強くなった卓球日本」。
確かに強くなったと思う水谷譲。
もちろん中国は強い。
でも肉薄しているのはわかる。
何でこの十年、二十年ぐらいでこんな強くなるの?何があったんだろう?とは思う水谷譲。
この突然強くなりつつある卓球だが、何とこれはどうも後ろ側に暦本さんがいらっしゃるようで。

あるとき、パラリンピックに出場する卓球の日本代表選手と話す機会があった。いろいろと話していて気づかされたのは、「スポーツは速度を落として練習することができない」ということだった。
 ギターやピアノなど楽器の演奏なら、速くて難しいフレーズを遅いテンポで練習することができる。
−中略−
 でも卓球やテニスの初心者は、最初から速いボールを打つ練習をせざるを得ない。
(97頁)

特にパラリンピックの卓球の選手の場合。
これはちょっと間違えたらごめんなさい。
多分聴覚欠損の選手だと思う。
耳の聞こえない選手、その人が卓球をやると速く攻撃するのがもの凄く難しい。
ピンポン玉を視覚で捉えて見なければいけないから。
それで暦本さんが考えたのは、卓球選手はどうやって練習しているかというと、卓に当たった音と最後のフォームを見ることでどこに来るかを予測する。
そうしたらどうするかというと、その耳の聞こえないパラリンピックの卓球選手のチームに対してはVRで速く打ち込む選手の姿を見せる。
暦本さんの発想を辿ろうと思うが、この方が卓球選手達の強化をどうやればいいのか、そこで考えた。

 時間の流れを変えられるVRの話は、その卓球選手も大いに興味を持ってくれたので、さらに踏み込んだ専門的な話もした。−中略−その選手はこんなことを教えてくれた。
「私たちもボールの軌道を目で追って反応してるわけじゃないんですよ。相手が打ったときのフォームや打球音で、一瞬のうちに次のプレーを予測しているんです」
(99頁)

それを聞いた暦本博士、何をやったかというと、もの凄い勢いで打ち込んでくる選手、それを撮影して「VR」「バーチャルリアリティ」のあの眼鏡の中にその選手を置いた。
それで何回も何回もそれを見せる。
そうすると「その選手の形がこうなったからボールはここ」にという条件反射で覚えさせるそうだ。
そうしたら打ち返せるようになった。
その人達のもの凄い速さのスピードを形として体に覚えさせる。
そうするとどこに出せば打ち返せるかが計算できる。
そういうのを聞くともう・・・
ちろん中国もすぐ作るのだろう。
だが武田先生はこの発想そのものに、そこに目を付けた暦本先生みたいな方がのびのびと生きておられるというのが、そこにこの国の可能性を感じる。

暦本さんというのは凄い人だと思う水谷譲。
何で武田先生も(この本を番組で)今までやらなかったかと自分でも・・・
時々こういうミスをする。
「こっちの方が加奈、喜ぶかな」と思って。
何とこの「(今朝の)三枚おろし」は、おろした料理は二年近く棚で眠らせていた。
熟成されたということだと思う水谷譲。
とにかく分野を超えて様々な分野の重ね合わせのうちから斬新なアイデアを生もう、と。
「みんながやらないと斬新な発明って生まれませんよ」

こういう問題が今、起きている。

用意するのは、二つの相反するニューラルネットワークだ。ひとつは、何かを「本物」っぽく作ろうとするニューラルネットワーク。もうひとつは、それが作ったものの「嘘」を見抜こうとするニューラルネットワーク。−中略−それを戦わせるから「敵対的」という。戦いのレベルが上がるにしたがって、「偽物」はどんどん「本物」に近づいていく。(115頁)

もう鉾と盾。
最強の鉾と最高の盾を戦わせる。
そうすると今は本物と見分けの付かない人の姿や人の声を作り出せるそうだ。

そうやって作ったのが、「この世には存在しないけど超リアルな人間の顔」だ。(115頁)

それから今のChatGPTに関してはこれは始まったばかりでまだイノベーションに辿り着いていない発明だ、と暦本博士はおっしゃる。
もうおっしゃる通り。
これをどう使うか?
「我々も参加しないとダメで頭のいい人だけに任せてはダメですよ」というのが暦本さんの言い方。
こういうのは面白い。

そしてここで明かしておく。
今週のタイトルになった「眼高手低」。

「眼」は、たとえば美術や文学の鑑賞力や批評力など物事を評価する力のこと。−中略−一方の「手」は、何かを創作する技能や能力のこと。その「眼」が高くて、「手」は低い。つまり「批評は上手だが実際に作らせると下手」という意味だ。口では立派な能書きを垂れるけれど、いざ自分で作ってみると実力のない「口先だけ」みたいな人を揶揄する言葉である。(118頁)

 ところが、この眼高手低を別のニュアンスで使った人がいる。生活雑誌『暮らしの手帳』の創刊編集長として有名な花森安治だ。
 花森さんは「手低」を「現実の生活にしっかりと着地している」という良い意味でとらえた。すると眼高手低は同じ「眼は高く、手は低く」でありながら、「高い理想を持ちながら、現実もよくわかっている」といった褒め言葉になる。
(118頁)

この眼高手低から暦本さん曰く「イノベーションは生まれるんです」と。

手を動かさないと失敗さえできない−中略−
 そういう試行錯誤をどこまで続けられるかが、技術開発の勝負どころだ。
(119頁)

手を動かし続けられるのも才能(120頁)

何度も失敗を重ねながら手を動かす時間は「神様との対話」をしているのだと思っている(122頁)

自分の「やりたいこと」が見つからないという人は、今の自分が何に手を動かしているかを考えてみるといいかも知れない。(125頁)

「そうすると手があなたの持っている隠れた才能を見つけることができますよ」
武田先生は文字を書くのが好き。
嫌いだったらこんなに書かないと思う水谷譲。
武田先生はやはり勉強をするとかではなく字を書くのが好き。
朝、三時間字を書いて、もう無我夢中でやっているのだろう。
それと、この本は非常に面白かったが、武田先生の一番いいところは面白くない本も結構面白く読む。
面白く無い本を面白く語ることができる。
これが武田先生のイノベーションだろう。
武田先生は字を書くのが好き。
昔からそうなのかと思う水谷譲。
小学校の時、ろくでもない子だから。
今だから罪を発表するが。
職員室に入って自分のテストの書き換えとかをやったことがある。
自分で「出来が悪いな」と思ったら朝早く学校に行って、職員室に潜り込んで正解が書いた先生のアレを見つけて書いたことが一回だけあった。
もう時効だが絶対見つかったら不味いことだと思う水谷譲。
武田先生は「頭のいい人のふり」をするのが大好きで、小学校四年ぐらいの時に味を覚えて、石を見てその石がどんな石かを友達に説明する。
「あ、これ花崗岩」とかと言うと知的に見える。
「これ玄武岩」
本当は何も知らない。
その石の名前を知っているだけで、それを適当に並べて言っている。
「あ、変成礫岩だ」とか嘘ばっかり。
そうするとみんな「武田は詳しか」という話になった。
そうすると「頭がいいっていうのは気持ちいいな」と思って。
それで頭がよく見える為にはどうしたらいいか?という。
それが、自分でノートを付けてそれを一杯頭の中に入れること。
「太陽の温度は6000℃」とか。
何かしょうもない。
それを書いていた。
テストをやるとそれはもう悪い。
だが発表会とかやらせると一人で説明する子。
「日本の工業地帯」とか画用紙に日本の地図を描いて日本の四大工業地帯、それから何を作っているかを図式に書いて。
それは図鑑の丸写しなのだが、それを黒板にバーっと貼って、棒を持って説明するとものすごい快感だった。
それで「頭がいい人に見えるにはどうしたらいいかな?」と考えていたら、一番いいのはコツコツ勉強することだった。
そこに思い当たるまで高校生までかかってしまうのだが。
「竜馬がゆく」なんていう小説の一冊に出くわして、誰も知らないことを武田先生だけ知っている。

合本 竜馬がゆく(一)〜(八)【文春e-Books】



「そこにいたら絶対負けない」という知識が、という。
そういうことから朝起きてコツコツコツコツ・・・
子供の頃から「三枚おろし」だったと思う水谷譲。
本に関してもつくづく思っているのは、差を付けたかったら一冊や二冊ではダメ。
そうすると全世界を網羅できる。
何かそういうことになってしまったのではないか?
だから暦本さんみたいなこういう博士の勉強ぶりなんか、武田先生はもう本当に感動する。

コンコルド。
大型旅客機。
もの凄い短時間でアメリカまで飛べるという。
これはどうなったか?
もう無い。
あんな夢のような飛行機だったのにと思う水谷譲。
250機まで作って、あまりのカネのかかりように中止になった。
(本によると製作されたのは16機。250機は採算を取る為に必要な数)

 コンコルドの場合は、開発途中で航空機業界が旅行の大衆化へ舵を切り、低コストで大量輸送が可能な旅客機が求められるようになったことで、超音速旅客機へのニーズが失われた。(131頁)

この暦本博士がまた加わっておられる発明があるのだが、これも面白い。

 そのとき考えたのは、「振動によって人を誘導する」というアイデアだ。たとえば視覚障害者が使用する白杖にそのデバイスを仕込んで、地図アプリのようなものと連動させる。白杖を進むべき方向に向けたときにブルブルッと振動して知らせれば、目的地まで誘導することができるだろう。(143頁)

実現化できそうな気がする水谷譲。
これは着々といい方に行っているそうだ。
地図アプリと連動させることによって「歩き出す」のサインから「ここを曲がろう」「ここを階段を降りよう」それをバイブで教える。
これはしかしできそう。
そしてこの発明の一部がもう既に車で生きている。
もう全部言ってしまう。
武田先生はトヨタ車に乗っているが、新車でびっくりした。
車を運転していたらハンドルが震える。
「何だ!オマエ」と思ってハンドルが震えている。
何で震えたか?
車線を踏んでいた。
追い越し車線を踏んだりすると「爺さん爺さん」とゆする。
こういうのが生きているので、水谷譲が言う通り、白杖の端末として地図アプリと連動させるというのがもう進みつつある。
ここから暦本さんの凄い発明が。




2025年06月29日

2025年4月25日〜5月9日◆りんごの物理(後編)

これの続きです。

伊与原新さん、文藝春秋社「宙わたる教室」という大変興味深い小説だが、これは小説だから物語がある。
(この番組では物語の部分には)触れていない。
武田先生がお話しているのは、その中の実験の様子だけを語っている。

本に戻る。
伊与原新さんの「宙わたる教室」。
「(今朝の)三枚おろし」的には「りんごの物理」ということでお話している。
この中でだんだん魅せられていったのだが、火星では夕日は青い。
この夕日の青というのはオポチュニティというNASAが打ち上げた火星探査機が送って来た映像。
このオポチュニティ自体も感動の物語。
これは問題から言う。
火星の夕日の青というのが実験室でやったよりも薄い。
本物の火星の夕日の青というのはもの凄く色が深い。
幻想的。
あの色を出す為には火星の土がわからなければダメだ、と。
酸化鉄はたくさん入っているそうだが、もう一つ重大なのはどうも火星には間違いなく水があるらしい。
その水が大気中に相当飛んでいるのではないだろうか?
これはどうしてそう言えるのかというと、クレーターでわかる。
火星のクレーターは月のクレーターとは違うそうで。
月のクレーターは水谷譲もご存じだと思うが丸い縁。
ところが火星のクレーターはその丸い縁にフリルが付いている。
花丸みたいな。
ヒラヒラと付いている。

「いくつか仮説があるんだけど、決着はついてない。有力なのは、氷や水が原因だって説」−中略−
火星表面の平均温度はマイナス五十五度と極低温であるために、地表や地下には水や二酸化炭素が凍った氷が存在すると考えられている。
 隕石が衝突すると、凄まじい熱でその氷が一気に融け、大量の水をエジェクタが取り込んで泥流となる。
−中略−ランパート・クレーターのローブは、それらが孔の外側に流れ出て堆積したものという説らしい。(174頁)

そのクレーターを実験で作ろうとこの夜間高校の生徒達が盛り上がる。
火星のクレーターを実験で作ってみようと話が弾む。
それでオポチュニティから報告でわかっている酸化鉄を含み、微量の鉱石、火山灰、そして水。
こういうのを混ぜないと火星の土ができない。
何で火星の土がわかるかというと、成分表をオポチュニティが送ってきている。
それで、地上で火星の土を再現できる。

「ほんのちょびっとある大気はほとんどが二酸化炭素で、地表の気圧は地球の〇.六パーセントしかない。(191頁)

地球とは全く違う自然が赤い青空、青い夕日を出現させているというワケ。
それにしてもオポチュニティの活躍なのだが、火星探査機オポチュニティ。
これは凄い。
武田先生は初めて知った。

 オポチュニティは、−中略−二〇〇三年七月に打ち上げられ、−中略−二〇〇四年一月に火星に到着。−中略−
 設計段階で想定されていた運用期間は、約三カ月。
−中略−
 そして気づけばなんと、十四年。
−中略−しかし二〇一八年、大規模な砂嵐に襲われて長時間日光が遮られ、とうとう太陽電池がダウン。機能の回復ができず、通信が途絶えてしまう。−中略−ミッション終了が宣言された。(101〜102頁)

「開発した技術者たちも、いずれ塵によって動かなくなるのは避けられないと考えていたようです。火星で三カ月も働けば、砂塵が太陽電池パネルに積もって発電できなくなるだろうと」
「なのに、なんで十四年ももったんですか」
「大きな理由は、パネルに積もった塵が露でうまく洗い流されたり、季節風のおかげで吹き飛ばされたりしたことだそうです。
(115頁)

「彼に、オポチュニティの運用が終わったときのことを聞いたことがあるんです。八カ月にわたって通信が途絶えていたオポチュニティに、いよいよ最後の信号を送ることになった日。管制室にはミッションに関わった人たちが集まった。そして、短い信号を四回発信。やはり応答なし。『十五年間の任務、ご苦労さま』。そんな言葉とともにマネージャーがミッションの終了を宣言したときには、みんな泣いていたそうです」(115頁)

(番組ではオポチュニティに対して「ご苦労様」というメッセージを送ったという話になっている)
いい話。
それにつけても何でこんないいニュースを伝えてくれないのだろう。
武田先生も水谷譲も(このニュースは)全然知らない。
伝えていたのかと思う水谷譲。
伝えて欲しい。
これはニュース。
最近でいうと「はやぶさ」とかは凄く伝わってきたのだが、オポチュニティは知らなかった水谷譲。
武田先生も知らなかった。
ニュースは作ってできるのだが、お願いだからニュースを作る人よければこういうこともニュースにしてください。
もう本当に関税ばっかりで飽きてしまった。
「知らなかったニュース」というので本当にもったいない。
学びのチャンスになるものは伝えて欲しい。

この物語「宙わたる教室」の中で(英語の木内)先生がこう英語で励ます

「Anyone who stops learning is old, whether at twenty or eighty」−中略−木内は笑顔でうなづく。「アメリカの自動車会社フォードの創業者、ヘンリー・フォードの言葉です。こう続きます。Anyone who keeps learning stays young」(129頁)

「学び続ける者は若さにとどまる」
本当にそう思う。

さて、藤竹は科学実験室に小さな火星を作り火星の出来事を再現しようと生徒達に呼びかける。
それは火星のクレーターを実験で作ることである。
まだこれは仮説らしいのだが。
火星のクレーターを自らの手で作ればそれは仮説ではなくなる。
興味深いのは物語はここから事実と並走する。
これは読み終わった後、教えてもらって驚いたのだが。
水谷譲にお話しした火星の実験があった。
夕日が青いとか。
これは実は本当の話。
本当に定時制の高校生達が科学部員で、火星の青い夕焼けから始まって、隕石が落ちる激突実験まで本当の定時制の高校生達がやっている。
(大阪府立大手前高等学校定時制の課程と大阪府立春日丘高等学校定時制の課程の「重力可変装置で火星表層の水の流れを解析する」)
そこは実話。

彼らの微小重力発生装置の東京大学の橘省吾さん−中略−が注目し、JAXA(宇宙航空研究開発機構)を中心とする「はやぶさ2」サンプラーチームが同様の装置で小惑星表面試料採取に向けた基礎実験に取り組みました。(284〜285頁)

 この小説は、久好さんら三人の先生方の熱い思いと、それに応えた生徒たちの奮闘に感銘を受けて書いたものです。(285頁)

武田先生が(この番組の中で)やっているのは先週も申し上げたが物理の実験のみ。
物語の方はもっと感動的なので是非読んでみてください。
実験室で火星を作る実験。
これが注目。
大気を通るのは長い波長の光だけになるような大気がある火星の空。
故に昼間の空は真っ赤、夕日は真っ青になるという火星の夕暮れ。
なぜそうなるのか?
それは大気に舞う塵が違うからで

「この実験、なんで火星の塵として酸化鉄の粉を使ってるんですか」
「実際に火星の表土に含まれている物質であって、かつ、簡単に手に入るからですね。火星の塵のサイズだといわれている、一マイクロメートル程度の粒子の試薬が」
−中略−
火星の表土を構成する、さまざまな鉱物の微粒子でできているはずです」
(114頁)

それをこの高校生達は一つ一つ再現していく。
彼らは火星の土づくりから始める。
火星の土は酸化第二鉄が多い。
とにかく地球とは違う知識が。
火星をどうしても再現したければ火星の大気とか気圧、そこまでも計算してアレしないと・・・
だから火星のいわゆる引力とか重力とかというのも火星に近づけないとできない。
これは大変。
その火星の地面の下には氷か水がある、と。
それが隕石の衝突した瞬間に高温が生じて溶けて湧出する。
一瞬にして土砂崩れのような大波を起こす為にフリル状の土砂が外輪を飾るという。
これはまた仮説。
果たしてそれが事実かどうか。
この小さなクレーターを作る実験と知恵が絞り出されていく。
だから、まさに少年ジャンプ的。
「友情」「努力」「勝利」
この手順でこの物語も進行する。

もうあきらめているが、ここからはラジオで語るのは非常に難しい、と。
武田先生には、読んでいてもその実験が文字で見えてこない。
なるほどテレビドラマ化するハズ。
これはもうテレビで見たら一瞬でわかるのだろう。
それでも文字で伝わってくるのは彼らの努力がどれほど凄まじかったか。
理解はしていないかも知れないが、感動したのは実はこの小説の中でここ。
重力の問題。
地球と火星では重力が違う。
火星では地球の0.38倍しか無いそうだ。
0.38倍の重力にする為には、夜間高校の実験室ではできない。
ところが実話の通り、高校生達がこれをやる。
重力を変えて火星での隕石衝突の再現。
これは相当大きい施設に頼まないとできるワケがない。
みんながそう諦めた時に、まあドラマでいうと見せ場。
藤竹先生が言う。
「いや、重力を変えることは可能ですよ」
前に何かのテレビのスペシャルで、飛行機で高くまで行って一気に失速すると重力を作るというのは見た水谷譲。
それに近い。

あなたたち自身は、いろんな重力をしょっちゅう体験しているはずですよ』って」−中略−
「『皆さんは、「ディズニーシー」に遊びに行ったことはありませんか?って。
−中略−
「『タワー・オブ・テラー』ですね」
−中略−
「そう、それ。真下に落っこちる乗り物なんだろ? 乗ったことなくても、ケーブルの切れたエレベーターを想像すりゃいい。自由落下する箱の中では、無重力になる」
(192頁)

 つまり、箱が落下する加速度を調節してやれば、原理的には好きな大きさの重力をその中に作り出すことができる。(195頁)

物理的には凄く簡単なことで箱の重さ、その反対側に箱の重さと同じ鉛を付ける。
そうすると手を放すと箱の方が落ちる。
それは重さが同じだから。
(同じ重さだと釣り合ってしまって落ちないのではないかと思う)
「その重さを変えることによって箱の落ちるスピードを変えることができますよ」という。
まず具体例でいう。
箱の落下速度を調節すればよい。
落下速度を変えればいい。
落下速度を変える為には反対側の重しで引っ張る力を強めにするとゆっくり落ちていく。
それを0.38倍になるところで止めればいい。
そうするとその重力が再現できるはず。
具体例でいきましょう。

天井に滑車を固定する。
井戸のつるべ。
その縄の端に重石を付け、反対の端に実験箱を取り付ける。
重石の調節によって0.38倍の重力の瞬間に鉄球を砂に落とす。
そうすれば火星のクレーター、その再現が箱の中で起きるはずだという。
箱の中だけが火星。
それをややゆっくり目の地上で落下する速度の三分の一になるように重石を反対側に付けて滑車を放す。
その時にその長さを計っておいて、その箱の上に鉄球を括り付け、そのスピードになった瞬間、ヒモがぎりぎりのところで結びつけられているので切れてしまう。
キレた瞬間に落ちる。
(本の内容とは異なる)
その数秒間の間に火星と同じ重力で鉄球が箱の下に敷いた土に激突する。
瞬間的。
しかしそれでも実験はできる。
火星と同じ重力が再現できる。

火星重力が維持できるわずか〇.六秒(211頁)

これを繰り返し繰り返し彼らは実験で割り出していく。
そしてついに火星と同じ0.6秒の瞬間を小さな箱の中に作る。
これを聞いていたJAXAもこのアイディアに負けたと思った。
それで引力の実験。
他の星でも重力の違うところはいっぱいある。
それを高校生のやり方でみんな真似をした。
それでその星で起こっていることを観測できる、実験できるようになったという。
このあたりはひどく感動したのを覚えている。

この物語を読みながら「人間の想像力というのは凄いものを生み出すことができるんだなぁ」。
「頭がいいとか悪いとかそういうことではない」「そこを超えている」と思う水谷譲。

ネタを使い切ってしまったか。
でも年を取ってくると全部のことが凄く気になるように・・・
武田先生はあの物理の教師、電車の振り子が揺れるのを見ながら地球の自転を証明しようと言ったあの物理の教師がよみがえった。
結局武田先生はその謎は解けたのかと思う水谷譲。
解けた。
物語を離れて一番最初にお話しした、あのつり革が揺れるのを見ながら地球が自転していることを証明しなさいという、あの高校三年の時の物理の授業に武田先生の思いは帰っていく。
一つの物理現象を目の前の実験でやりつつ、壮大な宇宙の理屈を割り出していくという。
それがフッと武田先生の個人史の中だが、高校生、生意気盛りの時に全く聞かなかった物理の時間に思いが戻って、あの時にその先生の話を聞いておけば一つは謎が解けたであろうに、先生の授業を聞かなかったというその無念がフッと思い出されて。
それが西鉄電車。
西鉄電車は関係ないが。
「つり革が揺れている」ということで「地球が自転している」ということを証明しなさいという。
武田先生は何を言っているのかわからなくて「つり革を見て地球が自転することがわかるわけないだろう」と思っていたのだが、実はあの物理の先生が教えたかったのはそこではない。
この物語の藤竹と同じで、つり革というのは「振り子」という意味合い。
とにかくつり革を作る。
それもつり革の短さだとすぐ止まってしまうからヒモを長くする。
それに数百キロの重石を付けて揺らす。
そうすると長いものだから揺れ続ける。
それをジーッと見ていると往復しない。
回る。
振り子がゆっくり回って行っているということかと思う水谷譲。
それが「フーコーの振り子」。
何で振り子は回るのか?
地面が動いているから。
(スタジオ内の電波が悪いのでドアを開けてYouTubeで「フーコーの振り子の動画を見る水谷譲)
(「フーコーの振り子」で検索するとたくさん動画が出てくるので、実際に番組で取り上げている動画がどれかは不明だが、一つだけ紹介しておく)



振り子を下げているその柱は、地面に直結している。
地面が振っている。
それがゆっくり違うところを往復するというのは地面の方が動いている。
この振り子の揺れによって地球がどの方向に自転しているのかもわかる。
今、見ているフーコーの振り子なのだが、少しずつずれている。
往復がゆっくり回転している。
「あの先生が言いたかったのはこれか」と。
なるほどそれで、地球が自転していることが証明できる。
もう少し詳しく言うと、自転の方向と逆回りだから日本で「フーコーの振り子」を揺らすと左に回る。
それで日本でいうと地球は右に回っているので、そうするとそういうことになる。
(多分逆)
たかだかこれしきの仕掛けでいろんなことがわかる。
さらに、頭が痛くなるかも知れないが、地球上のあるポイントではこれが全く動かない。
つまり「ずっと同じ方角に揺れ続ける」というポイントがある。
「赤道」だと思う水谷譲。
赤道は垂直に重りが引っ張られているので赤道上では往復を繰り返す。
そうやって考えると、あの先生が言いたかったのは小さな電車のつり革。
仕掛けはもちろんヒモの長さ等々違うのだが「それが揺れるというのも宇宙を貫いている物理なんですよ」という。
まだ映像がずっと続いているのだが、確かに振り子は普通にゆっくりゆっくり揺れているが、だんだんずれてきていると思う水谷譲。
これはもの凄く時間がかかる。
巨大な大地だから、球体だから、そう簡単に感じ取れるようなスピードではない。
映像を見たい人は「フーコーの振り子」で検索してください。
そうやって考えると物理法則、自転、公転、大気で何キロメートルにも達するような入道雲も小さなビーカーの中の味噌汁の煮え方でわかるとか、火星の重力でさえも実験室の中で再現できるとか。
面白いもの。
暮らしの中にはこのような物理法則がいくつも起こっている。
何か本当にそんなことをしみじみ思う。
それにしてもあの時、先生、もう今更ではあるが、授業をサボって申し訳ない。
ちゃんと先生に聞いておけばもうちょっとマシな・・・と思うのだが、あんまり贅沢を言わず、今、知ること、それでさえもやはり十分な知だというふうに思うので。

というワケで二週にわたって伊与原新さん、文藝春秋刊で「宙わたる教室」。
珍しく小説を。
物理実験のみを取り出して語ったという変わった回。
伊与原さんは「藍を継ぐ海」という短編集をお出しになって、これが直木賞に選ばれたという。
(第172回直木賞受賞作「藍を継ぐ海」)

藍を継ぐ海



伊予原さん、この人の考え方「自分達が生きているこの世界を貫く物理法則がある」「その物理法則というのが人間を豊かにしてるんだ」という。
物理と人間を結びつけたというのが武田先生は面白くてならない。
この人の直木賞受賞作品が何篇も好きなヤツがあったのだが、武田先生は「長崎の原爆資料を集めている」というのが好きだった。
(広島平和記念資料館の初代館長で地質学者の長岡省吾氏の活動に着想を得た「祈りの破片」)
長崎に原子爆弾が落とされた。
長崎のあちこちから遺品を集めたという人がいる。
焼けただれた茶碗とかそういうものを。
本当にいたらしい。
その人の廃屋があって、そこをガラクタだってみんな思っていて、よく調べたら原爆資料だったという。
科学で明かす為の証拠品として集め続けたという。
これも壮大な物語だった。
(「藍を継ぐ海」)
「藍」とは何か?
これは「海」。
「海を受け継ぐもの」というタイトルで四国のとある町にやってきたウミガメ(アカウミガメ)。
そのウミガメが付けていたタグがある。
そのタグを持って、異国のアメリカ人がその浜辺までやってくるという。
ウミガメの太平洋の旅は聞くと凄い。
そんなことを考えたこともない。
(ウミガメにタグをつけたのは)ウミガメの研究者の人。
それでもう本当にその時に伊予原さんが「痛いとこつくなぁ」と思うのだが、ウミガメのことを考えて村人は凄くウミガメを歓迎して、浜辺まで歩いてヨチヨチ歩きで行く最中に事故に遭ったりカラスに喰われたりしないように、かつて村人たちが卵を掘り起こして別の砂に移して大事に温めて子亀になるのを待って子亀を海に返したそうだ。
人間として優しい。
人間が手を加えることによって、助けたウミガメを全滅させている。
そのことが最近の研究でわかったという。
ウミガメが卵から孵る。
そうすると子亀の全身に「海に急げ」というホルモンが出る。
それは何日間かしか出ないもので、日にちが過ぎてしまうとそれは出なくなってしまう。
出なくなったのを確認して海に返してしまうと、ウミガメ自身が本能のパワーを無くしてしまう。
「優しさって何だろう」と思う水谷譲。
生き物を扱うということがいかに難しいか。
武田先生はこのへんを本当に思う。
生き物が生き物に対する思いというのはわからないでもないが。
タグをくっつけてそのウミガメを返す。
そのタグの成分がウミガメにマイナスだった。
とにかく人間が手を出すことによって、かえってその生物を絶滅に追い込んでいるという。
東日本大震災の時もそうだったが数か月でアメリカ北米に届く。
あの航路と同じ航路を辿ってウミガメは旅していって。
それでただ一点の自分の生まれた古里の浜辺を思い出して上ってくる。
あいつらも数十年かかるそうで。
ちょっと記憶が間違いないと思うが、確率から言えば千個の卵のうち、交尾できるウミガメに育つのは二匹。
だからやはり冷酷かも知れないが「その法則に従わなければダメなんですよ」という。
伊予原さんがそうおっしゃる。
その言葉に凄い説得力がある。
「人間が下手に手を加えてはいけないんだな」と思う水谷譲。
暮らしの中には小さな事象、いろんな森羅万象がある。
「リンゴが木から落ちる」とか「走る電車のつり革が揺れている」とか「空が青い」とか「夕焼けが赤」いとか。
実はその裏側には広大な宇宙の物理が働いている。
武田先生がもっとも感動したと言ってもいいと思うが、巻貝というのはある。
あの巻貝の巻く方角。
銀河の巻き方と同じ。
あれの通りに貝は巻くそうだ。
そんなふうにして考えると「私達の中にとても大きな宇宙がある」ということ。

武田先生は、古里の高校の先生ではあるが、こんな話を覚えている。
「私達は星の欠片でできているのです」



2025年4月25日〜5月9日◆りんごの物理(前編)

これの続きです。

(本放送では初日の冒頭にQloveR(クローバー)の入会キャンペーンの宣伝が入る)

水谷譲が直感鋭く「うわぁ〜物理ぃ〜!?」と言っていたが、普段の暮らしの中で物理の法則を意識するなんていうことは無い。
「ああなるほど。これは物理だ」とかニュートンみたいにリンゴが落ちる、その時に頭の中に引力というものの方程式が横切るとか、ピサの斜塔から物を落として落下速度とかそういうものの方程式が駆け巡るというのは無いワケで。
ただ、最近凄く面白い作家さんが現れた。
武田先生の普段の暮らしだが、まだ朝明けきらぬ空だが、人の声が聞きたくなって、申し訳ない。
つい(ラジオの放送局を)NHKにする。
喋り口が静かなので勉強しやすい
(「NHKの放送というのはこっち側の考え事を邪魔しない」は本放送ではカット。QloveRの宣伝に使った分の調整と思われる)
その番組の中で作者が出てきて自分の本をプレゼンするという、そういうコーナーがある。
ある作家さんが出てきて、
(「『どうしてこのような物語にしたんですか?』とアナウンサーが訊くと」は本放送ではカット。この後もところどころ細かくカットされている)
「世界には物理の法則というのがあるんですよ。物理の法則というのは普段の暮らしと結び付いた時、私達はその出来事から宇宙全体を感じる時がある。そんな小説が書いてみたかった」
これが引っかかった。
その目の前の出来事から宇宙全体の動きがわかるという。
でもそんなことが日常あるワケがない。
リンゴを見ても別に何とも思わないし。

でも武田先生の頭の中に一瞬よぎる思い出があって、武田先生が17歳ぐらいのいわゆる反抗期の頃。
高校に通っていて丸坊主頭で、生徒会長をやりながら柔道部に所属していて。
そんな時に物理の授業が面白くなくて。
もう物理に関しては、平べったく言うと「だから何だ」「何が面白いんだ、それが」みたいな。
そんな時に高校で教わる物理教師で地味な先生がいてせっせと授業をやるのだが、申し訳ない、誰も聞いていない。
クラス全体が騒ぐ。
「喧しい!聞け!」とかと言えばちょっと怯えるのだが、その教師がずっと我慢しているものだから、先生の声なんか聞こえないぐらいみんな世間話をしている。
武田先生は「柔道の練習が終わったら、今日はうどんにするか焼きそばにするか」というのをハンドボール部キーパーのイトウ君と語り合っていた。
さすがに教師もキレたらしくて授業をやめた。
すると物理教師がこんなことを言った。
「皆さん方は今朝学校に来る時、西鉄電車でやってきました」
武田先生達は西鉄電車の下大利という駅で降りる。
「西鉄電車でやってきました。その時に皆さんは電車が今動いている、止まっているというのは皆さんどうやってわかっているんですか?」
「それは体が揺れますもん」とかみんな言う。
その物理教師が「西鉄電車にはみんなつり革が下がっています。つり革が止まっていれば電車は止まっています。つり革が僅かでも揺れていれば電車は走っています。それは皆さんわかりますよね」。
そんなことわかる。
それにハンドボール部のイトウ君が「目をつぶってもわかります」と言った。
電車が走っているか止まっているかぐらいだったら。
そうしたらその物理教師が「では同じ理屈を使って地球が自転していることを証明しなさい」。
電車のつり革から、いきなり地球の自転に持って行った。
それがワケわからなくて、クラス全員50数名いるのだが「はぁ?」というヤツ。
教師はやはり武田先生達を物理世界に誘いたかったのだろう。
「いや、わかる。そういうことがつり革一つで。それはね・・・」と言った時にチャイムが鳴った。
もう聞きはしない。
全員早速学級委員が「起立!」と言ってお終い。
つり革で地球が自転していることを証明するなんて、もう全く興味が無かった。
でも、ここからが年齢ということの不思議さ。
変わってくる。
「あの先生は何を言いたかったんだろう?」とか「つり革で本当に地球の自転が証明できるんだろうか?」とか不思議になる。
それで30年の歳月が過ぎて、創立記念日に会った時に武田先生はその高校に舞い戻る。
それで体育館でパーティーをやっていたのだが、武田先生は物理教師を探した。
残念ながら亡くなられておられた。
目の前の出来事から宇宙の動きを察する。
そんなことが果たして・・・という思い出と、「普段の小さな暮らしから宇宙全体を察することのできる現象があるんです」というその作家さんのことが気になって、その作家さんの本を読みたくなった。
まあ探した。
とにかくこの本を今週、紹介しようと思っている。

齢(よわい)70を過ぎた武田先生だが、日常の現象から宇宙全体の現象が繋がるというその作家さんの一言に惹かれて彼の本を探し出した。
作家の名前は伊与原新さん、文藝春秋刊。
これはたくさんの方が読んでいるのではないか?
「宙わたる教室」

宙わたる教室



(本の中の傍点部はアンダーラインで表記する)
この人は今年の直木賞を取った。
それも凄く面白かったが、伊与原さんすみません。
武田先生は「宙わたる教室」が一番面白かった。
小説。
これはNHKでドラマ化されていた。
宙わたる教室 - NHK

宙わたる教室



申し訳ない。
見なかったが。
これは見ておけばよかった。
これはテレビの人が飛びつくハズ。
テレビドラマとして面白くできそうな予感がする小説。

物語の舞台は東京新宿にある都立高校の定時制。
髪の毛を真っ赤に染めた(本によると金髪)廃品業の青年とか、自分の経営する中小企業の工場を閉めて看病に当たっている中小企業の男、それからフィリピンの中年女性もいたり、それから手首を切ること、そういう自傷行為に走る子とか、そういうゴッタ煮の教室の中で藤竹なる教師は物理の面白さを説いてゆく。
しかしどう考えても「そんな人達がいわゆる物理に興味を持つハズが無いな」と思ったりする。
最初の方の物語に出てくるのは廃棄物処理で働く岳人なる青年。
(番組では「岳人」を「ガクト」と紹介しているが、本によると「タケト」)
小学校、中学校・高校でも成績不振。
(本によると高校へは進学しなかったようだ)

 読み書きに難があることは、どの職場でもふとしたきっかけで知られてしまった。露骨にばかにされたときはもちろん、冗談半分にからかわれただけで、今回のように手が出た。−中略−そんな人間が、職場に長く留まれるわけがない。(24頁)

この子はどうしても高校卒の免状が欲しい。
トレーラーの大型免許を取る為にはその免状が無いと取れないらしい。
(そういった事実は無い。本によると高卒資格取得の為ではなく運転免許を取得できる程度の読み書き能力を見に付けることが目的)
でも彼は文字を読むのが凄く苦手。
この作家さんは惹き込むのが上手い。
夜間高校に行くと、この藤竹なる熱心な先生がいる。
岳人が字が読めないということを、その先生が見抜いてしまう。
それで岳人も呆然とするのだが。

「ディスレクシア……」初めて聞く言葉だった。
「読み書きに困難がある学習障害です。
(32頁)

でもこういう例を使った方が分かりやすいだろうと思うがトム・クルーズがこれ。
読字障害、文字が読めない。

はねはらいも含めて線の太さが均一で、濁点なども大きめ。より手書きに近いので、文字の形をとらえやすい。ディスレクシアのために開発されたフォントです」(31頁)

脳の方の障害らしいのだが、その形を見ると脳がはじくという。
藤竹のその診断を聞いて、岳人は烈火のごとく怒る。
「オマエ俺のこと生まれつきのバカって言いたいのか」
でもそうではない。
藤竹は説得する。

「バカどころか、聡明な人だと私は思いますよ。いくら練習しても歌が下手な人、球技がだめな人がいるように、単に君は読むことや書くことが──」(32頁)

大谷翔平なんかもそう。
あれだけ凄い人ながら、バスケットなんか突いた瞬間手が合わないという。
サッカーも相当下手。
これと同じで「フォント」というそうだが、書体を変えたら夢のように読めるようになる。
今、簡単にできるから。
パソコンなんか文字の書体を変えられるから。
だから彼に渡すメモに関してはタブレットで書体を変えて渡す。
そうすると岳人は読める。
それはただ単にその文字の形が苦手というだけで知能とは関係ない。
その時に藤竹の魔法にかかった岳人は一瞬で世界が変わる。
この岳人を導く藤竹なのだが、ある日授業でとても不思議なことを言い始める。

藤竹は天井を指差した。「空はなぜ青いのか? 正しく答えられる人はいますか」(37頁)

そうするとフィリピン人の奥さんもリストカット好きの少女も中小企業の元社長もその当然は知らない。
「目の前の出来事を宇宙にまで拡大できるという授業が実は物理なんだ」ということで藤竹は「なぜ青空は青く見えるのか」「夕日は赤く見えるのか」の実験を教室で見せるという物語。
というわけで教師藤竹が授業で「空はなぜ青い」「夕焼けはなぜ赤い」という、空の物理を説明し始める。

 藤竹は、黒板の前に立てた縦長の段ボール箱の頭を開き、上から中に腕を突っ込んだ。何かスイッチを入れたらしく、白い光が開いた口から上方に放たれる。
「箱に入っているのは、強力なスポットライトです。
−中略−
「このライトを太陽だと思ってください。太陽の光は白色光ですが、プリズムなどを通すと、赤、橙、黄、緑、青というふうに連続的に分かれて見えることは知っていますか」
−中略−
太陽光には様々な波長の光が含まれていて、波長によって色が違う。波長が短いのが青色で、長いのが赤。すべて混ざっていると白い光になる。
−中略−
「誰か、たばこを吸う人──ああ、柳田君、たばこ持ってますよね? ちょっと前へ来て手伝ってください」
−中略−
藤竹はすたすたとスポットライトに近づき、その直上にたばこの束を掲げた。光の帯の中に、煙が立ちのぼる。
「どうです? 煙が青く見えませんか?」
−中略−
光の当たった部分が青みがかって見える。
−中略−
「太陽光が大気中で、空気の分子などの微粒子にぶつかると、四方八方に散乱を起こします。レイリー散乱という現象です。その際、波長の短い光は空気分子にぶつかりやすく、波長の長い光は通り抜けやすい。つまり、太陽光のうち波長の短い青い光がもっとも強く散乱されて空全体に広がり、たとえ太陽に背を向けていても、我々の目に飛びこんでくる。それが、空が青い理由です。
(38〜39頁)

この光が強ければ強いほど青は深くなる。
だから電灯では無くて太陽の明かりなんていうのは真上からバーっと降り注ぐと真っ青な青空になる。
まだ水谷譲はついていけていない。
武田先生もしばらくこれを考えた。
でも皆さんは経験したことは無いか?
昔は映画館でタバコを吸っていた。
(あの時の映画館でのタバコの煙の色は)青い。
武田先生は覚えている。
小林旭「銀座旋風児」

二階堂卓也・銀座無頼帖 銀座旋風児



武田先生は小学校六年生。
その時に館内にタバコを吸うおじさんがいて、タバコ(の煙)をフーっと吹くとそのスクリーンを映すための光が出ている。
それにタバコの煙が混じると、青かった。
何でかというと吐く時は白い。
闇の中でも白く見える。
それが光の中に当たった瞬間、青くなる。
だから今、みんな礼儀正しくなっちゃってそういうのがわかりにくくなった。
それで藤竹の凄いのは、そこからまた一工夫する。
そのタバコを吸ってフーっと吹く。
「これが青空が青く見える物理ですよ」

藤竹は別の一本をこちらに差し出す。「すみませんが、煙をしばらく肺に溜めてもらえませんか。できれば一分間」−中略−
「はい、光の当たっているところに吐き出して。ゆっくり、そっとですよ」
 岳人は口をすぼめ、静かに煙を吐く。
「今度は煙が真っ白でしょう。雲のように」
−中略−
「煙の粒が、柳田君の肺の中で水蒸気を含んで、ふくらんだんです。粒子がある程度大きくなると、すべての波長の光を同程度に散乱させます。だから、出てくる光は白くなる。ミー散乱という現象です。雲を構成する水滴や氷の結晶は粒が大きいので、ミー散乱が起きます。それが、雲が白く見える理由」
(40頁)

水谷譲は波長とか微粒子は全くよく理解していないのだが「同じことがここでできるんだな」ということにちょっとびっくりした。
つまり大きい言葉で言うと、ここに物理の面白さがあって、目の前の事象は全宇宙を貫いている真実だということ。

これで「雲が白い」「空が青い」がわかった。

日没近くになると、太陽光が大気を通る距離が長くなり、青色以外の光も散乱の影響を受けるようになる。したがって西の空を見ると、もっとも波長が長く散乱されにくい赤い光が生き残って目に届く。それが地球の夕焼けが赤い理由だという。(99頁)

赤い色は長い波に乗ってやってくる。
「理解できません」という。
もうずっと(スタジオの中で)語り合っている。
とにかく光というのは波。
後にアインシュタインが見抜いた如く、光は粒であり波。
その両方の性質を持っている。
波でやって来る。
波の名画と言えば葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」。

葛飾北斎 ポスター 『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏(浮世絵)』 A2サイズ【日本製 日本画】 [インテリア 壁紙用] 絵画 アート 壁紙ポスター (A2サイズ)



あの中には三パターンの波が出てくる。
富士山を包まんばかりの大波と、人間がしがみついている中波があって、その一番右端に小波がある。
あの大波に乗っかっているのが赤い色。
全部波なのだが大きな波に乗ってくるのが赤い色。
一番小さい波に乗ってくるのは青。
乗っている波が違う。
太陽が真上にいる時は真っ青に空が見えるのは地表と太陽の関係で垂直なので、短いので真っ青に上空が見える。
ところが夕日が沈んでいくので、横になるから空気の層が厚くなる。
そうすると次々に青いヤツははじかれて見えない。
一番大波でやってくるヤツに空気中の埃みたいなものがぶつかって真っ赤に見えるという。
「埃」というと響きが悪くてごめんなさい。
その空気の成分に当たってしまう。
だからどの波がどの塵に当たるかで色が変わる。
どの波がどの塵に当たるかで色は変わる。

この授業が終わった後、ちょっと不思議な習慣が出て、定時制の彼らはそれから空を見上げる人間になってゆくという。
この作家さんは上手い。
次々に藤竹は面白い実験をやっていく。

 ビーカーは小さなホットプレートに載せられ、加熱されている。味噌汁が温まる様子をこうして真横から見るのは初めてだ。(50頁)

「味噌汁の表面に、サラダ油を浮かべてありましてね」藤竹が眼鏡に手をやった。「表面の蒸発による冷却が抑えられていることもあって、対流が間欠的に起こるんです」(51頁)

「味噌汁で積乱雲を作る実験ですよ」藤竹が答える。−中略−
 味噌の濃い部分がビーカーの底から三分の一あたりまで溜まり、上澄み部分と分離した。そのまましばらく待っていると、突然味噌が下からもくもくと沸き上がり、液体の上面で横に広がる。
「ほんとだ。入道雲みたい」
 ビーカーの中をぐるっと回った味噌は、またゆっくりしたに落ちていく。
「液体や気体をしたから温め、上を冷やすと、対流が起こりますね」藤竹が手振りをまじえて説明する。「温められた部分は密度が小さくなって上昇し、上で冷やされてまた落ちてくる。物質そのものが上下にぐるぐる回って熱を運ぶわけです」
(50〜51頁)

そしてこの一言は魅せられた。

「我々は、対流の世界を生きているんですよ」藤竹が続ける。「地球のダイナミックな現象は突きつめればほとんどすべて、対流による熱の輸送が引き起こしたものです。雲も雨も風も海流も、地震も火山も」(51頁)

この対流の法則というのは恋愛関係も対流。
よく考えてみると恋というものは入道雲かも知れないという。
雨も降れば雷も鳴る。
それは対流だから。
新婚当初からもう70、80になると、綾小路きみまろのやるあの漫談の通り。
あれは悲しい。

「あなた、どこにいるの?あなたがいなければ生きていけない」
あれから40年
「何呼んでんの、人を」


対流。
これは武田先生の家庭のことを話しているのではない。
一般論として語っている。
面白い。
「世の中は全て対流で」という。
皆さん、全部「対流」。
アメリカは今、元気がいいが、もうすぐ元気がなくなる。
対流。
そうやって考えると簡単に「勝った負けた」なんぞ口にするものではない。

藤竹は小さな世界で次から次へと面白い物理現象を見せてくれる。

 まず、すき焼き鍋に水飴を深さ数ミリ程度まで流し入れ、IHヒーターで加熱する。百四十度で煮立たせて一分ほどすると、泡立ちがおさまり、粘り気が出てくる。水飴が黄金色に変わってきたところで、藤竹が「もういいでしょう」と声をかけた。−中略−このまま固まれば、べっこう飴の完成だ。冷めるのを待つ間に、岳人が大きなバットに氷水を用意する。−中略−藤竹は、「よし、氷水へ」と命じる。岳人はすき焼き鍋を両手で持ち上げ、静かにバットに入れた。
「何なに? 何が起きるの?」
「地震だよ」
(63頁)

すき焼き鍋の飴からピチピチとかすかな音が聞こえてくる。音はだんだん大きくなり、やがてパリッという音とともに、ふちのほうに小さなひびが入った。(63頁)

 パリッ、パリッという断続的な音とともに、新しい割れ目がどんどん生まれていく。直線的ではなく、円形に閉じた割れ目だ。
「地震というのは、地殻の破壊現象です」藤竹は言った。「固い物質に力が加わると、わずかに変形することでそれに抵抗しようとしますが、力が大きいとどこかで限界を迎え、破壊が起きる。同様に、固まりけたべっこう飴を急冷すると、熱収縮によって飴の内部に力が加わって、クラックが生じます。つまりこれは、地震発生モデル実験になっているわけです」
(64頁)

割れていくプチプチプチという音があるが、あれを録音しておいて波形を取る。
それを地震と比べると全く同じだそうだ。
つまり我々はべっこう飴の上に住んでいる生き物。
では鍋の底は?というとマグマで。
距離があって熱は我々には届かないが、でも急激に冷えることによって裂け目ができやすい。
地震の波と同じ波形をこのピチピチピチは描くそうで、割れ方は地球の逆断層、正断層の割れ方と全く同じ。
我々はべっこう飴の上に住んでいる生き物。
鍋で大地震を縮小して見せてくれる科学実験。
もの凄くわかりやすい。

藤竹の物理はだんだんだんだん夜間の生徒達を巻き込んで物理実験にのめり込んでゆく。
そしてある日のこと、この藤竹が凄いことを言いだす。
それは「物理実験で違う世界に行ってみよう」と。
「今までは地球であるものを再現してきたけど、我々は知恵さえあれば宇宙のどこにでも行けるから宇宙のどこにでもあることそれを小さくして見ることもできるかも知れないよ」ということで。

アクリル水槽は、幅二十五センチ、高さ十センチほどのものだ。中に入っているのは、今回も、水と酸化鉄の粉末。
 水槽の右側にはスタンドに取り付けた白色LEDライト、左には小さなスクリーンがセットしてある。ライトを点けると、光は水槽を通り抜けて、スクリーンに当たる。その色は、うっすら青い。火星の夕焼けだ。
(112頁)

酸化鉄というのは遠い遠い火星にある地面の成分。
だから風が吹くところみたいなのでその酸化鉄の粉がアクリル水槽の中で少し微塵、粉となって浮かんでいる。
それを強烈なライトで照らすと青になる。

火星の大気は極めて薄いのですが、その代わり風によって巻き上げられた塵が大量に含まれている。塵の粒子のサイズは赤色の波長に近いので、太陽光のうち赤い光をより強く散乱させます。ですから、火星の昼間の空は赤っぽい。夕方になって太陽高度が下がると、散乱されずに残った青い光が我々の目に届くので、青い夕焼けが見られるというわけです」(99頁)

これはただ単に想像ではない。

 オポチュニティは、−中略−二〇〇三年七月に打ち上げられ(101頁)

NASAの火星探査車です」(100頁)

これが送って来た火星の一日の情景で、オポチュニティが火星の赤い青空と火星の青い夕焼けを送ってきている。
このブルーが綺麗の何の。
「何のごみもないから綺麗なんだ」と思う水谷譲。
違う。
そんなふうにして持ち上げてはダメ。
「火星だから人間住んでないから綺麗だろ」と思ってはいけない。
これは火星の事情でそうなっている。
つまり大気の質が違う。
大気中に漂っているこまやかな微塵。
それが性質が変わると見えてくる色が変わる。
つまり波がやってくるのだが、当たるもので色は変化する。
「オポチュニティ」を引くと、この火星の赤い青空と青い夕焼けを見せてくれる。
72 火星探査機オポチュニティ Stock Photos, High-Res Pictures, and Images - Getty Images
そうすると、とにかくあの夕焼けの美しさ。
吸い込まれる。
話はここから壮大なる宇宙へと繋がっていく。



2025年4月25日〜5月9日◆りんごの物理(序)

(4月25日は「言葉のレンズ」の回の週の最終日なのだが、翌週から始まる「りんごの物理」の話なので、この日の分も「りんごの物理」として紹介する。内容的に翌週のものとかなり重複している)

大ネタに入ってしまう。
だからまた来週続くかも知れない。
これは、「(今朝の)三枚おろし」としては珍しく小説。
「どういう動機でこれを取り上げたか?」という我が思い出と絡めてこの一篇の小説を語りたいと思う。
まだ朝明けきらぬ空、武田先生は勉強を開始している。
昨今は6時には勉強を開始する。
遅くても7時までには。
朝の10時までが武田先生の勉強時間。
3〜4時間。
その時に家の者は誰も起きてこないのでラジオを点ける。
NHKの放送が声が穏やかなものだから勉強をしながら聞くにはもってこいで。
何か人の気配を感じていれればいいので、ずっとボリュームを押さえて聞いているのだが、男性の声がクールに何事かを語っている。
そのラジオの喋りの中でこんなことを言っていた。
「物事の真ん中には必ず物理法則があるんですよ。その法則は当たり前のことで気にもしない。普段は。でも、物理を知るともう一つ新たな世界が見えてきて、その世界の広さに気づくことがある。そのようなことを私は物語にしたかったんですよ」と著者が語っている。
「物理法則を小説にする」という。
この方が今、もうウケにウケている。
直木賞をお取りになった。
伊与原新さんという方。
(第172回直木賞受賞作「藍を継ぐ海」)

藍を継ぐ海



この方は別の短編集の方でお取りになったのだが、武田先生が興味をそそられたのは「宙わたる教室」という学園もの。

宙わたる教室



「物理法則を知る」ということがもう一つ広い世界を知ることになるという。
実はこんなことがあった。
17歳だったと思う。
高三だったか。
反抗期真っ盛りの頃、物理の授業を受けていた。
この物理がもう退屈で退屈で堪らない。
実験室の階段教室で白衣を着た物理教師は何やら物理式を黒板にカツカツカツと書いて、物理法則と物理世界を懸命に説明する。
これが興味も何も湧かない。
そこで仕方なく隣のハンドボール部のキーパーをやっていたイトウ君と二人で・・・
「四文字熟語を作れ!」と高校の先生から言われて、先生から「しっかり準備することは何と言うか?用意、用意・・・」と言ったらイトウ君が「用意ドン」と言った。
そういうイトウ君と部活帰りに何を喰うかのヒソヒソ話をしていた。
50人程のクラスだが、この教師の話を聞いているものなんていうのは殆どいない。
あっちこっちでヒソヒソヒソヒソ話している。
その私語がだんだん喧しくなってくるという。
カーッとなって「喧しい!」とかと怒鳴ればいいのに、大人しい物理教師で何も言わない。
ところがその物理教師が反抗期盛りのゴツい高校生の武田先生達に向かって突然、珍妙なことを言い始めた。
「皆さん方は今日は電車で大半の人がこの学校に来とります」
武田先生達は高校を西鉄電車で電車通いの人が多かった。
この物理教師はこんなことを言う。
「今日も西鉄電車で大半の皆さんはこの学校まで来ましたが、停車した電車のつり革と走っている電車のつり革の違いは何ですか?」
頭の悪い子でもわかる。
止まっていればつり革は揺れない。
走っていればつり革は揺れる。
当然。
武田先生もアホだったがそれぐらいはわかる。
「そんなことは眠っとってもわかる」と武田先生が言ったらクラスがバカウケした。
しかし、物理教師は笑わず神妙なままこう続けた。
「では止まっている電車のつり革と、走っている電車のつり革の違いを使って地球が自転していることを証明する為にはどうしたらいいでしょう?」
もうばかばかしくて「だから何だっつうんだ?」という。
50名一クラスの生徒が唖然として物理教師を見ている。
大半のものが質問の意味がわからない。
電車のつり革と自転する地球がどうやっても結びつかない。
それでみんな「ええ〜?」とか言いながら不満の声を上げながらザワザワザワとしたのだが、その物理教師は「つり革の揺れで地球の自転が証明できるんですよ」と笑った。
その時チャイムが鳴った。
昼休みの食堂へ行く時間だというので、学級委員が「起立!礼!着席!」でウワ〜ッと散ったという。
それで終わり。
ところが年を取るというのは面白いもの。
50歳ぐらいになった時に「電車のつり革と同じ理屈で地球の自転を証明するというのは何だろう?」と思い始めた。
そうは思わない水谷譲。
何十年過ぎたでしょう?
とにかく18歳の時、高校三年の時のあの日、あの問題を解く為に武田先生は物理法則を遡ることになったが、それがこの伊与原新さんの「宙わたる教室」とピタッと重なるところがあって、来週からの 「宙わたる教室」の回でご説明したいと思う。



2025年06月23日

2025年3月3〜14日◆悪について(後編)

これの続きです。

「悪について考えよう」という今週だが、時代そのものが「悪の時代」なのではなかろうかということ。
これは製作にもいろんな意図があるだろうが、例えば配信動画の中では武田先生も見たが「サンクチュアリ」「地面師(たち)」「極悪女王」「ゴールデンカムイ」など。
暴力、殺人、詐欺。
それが物語の大きな流れになっているという。
悪をどう描くかが今、とても大事で。
正義の味方と同量、悪も描かないと物語が成立しない。
出てくる人がいい人、悪い人、というのは非常にわかりにくい時代になってきたのではないだろうか?
それ故に少年ヒーローの徳目「友情」「努力」「勝利」、これを読み間違えて闇バイトに走っているのではないだろうか?という。
さてマンガ家、「ジョジョの奇妙な冒険」の作家である大変な売れっ子さん、荒木さんはマンガ作家として悪について実に細かく細部からつくりこんでおられる。
先週もお話した通り、この方は悪というものを徹底的に調べた。
それでその上に悪役を作る時はその名前から服装、表情、そして悪へ傾斜していった動機等々悪の手口から悪の喜びまで、これが構成されないとストーリーが動いていかないそうだ。
配信動画の方へ目を転じる。
「ゴールデンカムイ」「サンクチュアリ」「極悪女王」「地面師たち」等々がある。
これは全て悪の物語。

日本の悪役というのは伝統芸。
だから伝統芸の要素というものを演技の中で表現しなければならない。
例えば武田先生達が子供の時に見たのは時代劇スターが主役で中村錦ちゃん(中村錦之介)とか 勝新太郎「座頭市」とか、そういう時代劇のヒーローが立つと、出てきただけで悪役とわかるという。

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「水戸黄門」がそう。
水戸黄門で一番求められるのは悪役がちゃんと悪役らしく演じるからわかりやすい。
迷うことはない。

ちょっとこの悪役の伝統というものに触れてみる。
ラスボス、一番偉いボス、或いはお代官様。
これは無表情であること。
そして笑う、怒る、叫ぶはなるべく突然に。
歩く歩幅は大きくしかもゆったりと。
他者を見る時は真っすぐ見下す。
やや上から目線で「そちが・・・」とか言ったりなんかすると「あ、この人は悪い人だ」。
日本人は非常に敏感に「あ、この人、悪だ」と。
「上で待てばよいのか、下で待てばよいのか作法をお教えください」「そのようなこともわからんのか。田舎大名。フナじゃフナじゃフナ侍じゃ」

忠臣蔵



こういう演技。
そうするとみんな怒るという。
ラスボスの下の方の子分はどうするかというと、これは姿勢は半身。
半身というのはちょっと足を前後させて腰を低く。
それで斜に構える。
正対しない。
肩なら肩だけを向けて斜に構える。
表情はなるべく左右対称にしない。
「へっへっへっ。冗談じゃないてんだよ」とか何か言いながら。
表情は歪ませる。
笑い声は鼻で笑う。
アゴを引き上目遣いを基本とし、喜怒哀楽の表情は混ぜて。
目は怒りの表情ながら口元は笑っている。
「なんだと?」
こういう(演技の仕方をする)。
上手い(自画自賛)。
こうすると悪党に見えるという。
この法則は面白い。
基本形だと思う水谷譲。
これは自分で悪役をやると本当に伝統芸は身に沁みてわかる。
武田先生の悪役は「白夜行」だと思う水谷譲。

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あれでこういうことを次々と思いついた。
刑事なのに悪役。
殺人犯を追っているので刑事で正義の味方なのだが、表情は悪役。
だから顔を左右対称にせずに片一方が笑っているような頬の上げ方をして、片一方は下がっているという。
こういうことをすると悪役に見える。
憎々しい刑事だったと思う水谷譲。
こんなふうにして悪というのは作法に則ってやるワケだが、昨今はちょっと冷たい言い方をするが、最近の配信動画を見ると皆さん、悪の作法を知らずにキャメラ割りに頼っておられる。
それが意味の無い目のアップ。
何であんなに多用するのか?
バーン!と目のアップに寄る。
ツーショットを映しておいたかなと思ったら悪党が何か思いついたら目のアップ。
でも本当のことを言ったら俳優さんが悪を演じないとダメ。
そのへん頑張ってください、若い方。
こういう「悪のお芝居」というのは長い映画の伝統の中で磨かれた伝統芸、作法。
配信動画の中の悪というのは、いささかハリウッド映画の影響を受けている。
俳優さんの芝居を見ていると「この人はアメリカ映画見過ぎだな」と思うのがある。

悪役の演じ方とかそういうのを語り始めると、水谷譲がだんだんノってきた。
その手の話になると面白いという。
何に関しても言えることだが、皆さんがご覧になっている時代劇の「SHOGUN 将軍」、それから大河ドラマ「べらぼう」。

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あのあたり、若い方あたりが時代劇の作法をはずしておられる。
それは武田先生は昭和を生きてきたからいろんな悪役の人とすれ違った。
彼らには演じるにあたっての作法があるのだが、昨今の方は作法が無い。
そんなことを感じる。
ハリウッドの映画を受けた時代劇に於ける芝居というのは、やたら相手に向かって話す。
大河ドラマもズバリ言うが、セリフを言う時に目と目を合わせ過ぎ。
セリフを相手役に渡そうという芝居が芝居だと思っておられる。
そうじゃない。
芝居に於けるセリフというのは相手に渡すのではなくて観客に渡さなければいけない。
その典型が歌舞伎。
歌舞伎というのは正面を向いてセリフを言うのだが、観客にセリフを渡す。
悪党は悪党の芝居を、正義の味方は正義の味方のお芝居をやる。
作法が全部決まっている。
何かその違いがあって。
大変になるとだんだん声が大きくなっていって話す。
それはない。
話が深くなると声を低くしていくのが時代劇の伝統。
叫ぶことは殆どない。
それから相手とは目を合わせない。
水谷譲と武田先生は目を合わせているが、それは仕事の関係で合わせているだけであって、お互いに何の感情もない。
ちょっと雑駁な言い方になったが。
ラブシーンを見ていて思うが、最近の恋愛ドラマは見つめすぎ。
相手を見つめることが愛の証だと思うせいか。
見つめるなんてちょっと照れくさくてできないと思う水谷譲。
普通はそう。
プロポーズの時だって日本人は相手を見つめない。
違う方向を見ながら「俺はアンタのことを思うと夜、眠れないんだ」と言う。
見つめて言えない。
悪役同士が向かい合って悪事の相談をしている。
日本の時代劇では悪代官と越後屋がヒソヒソと語り合うというあのシーン。
悪の相談をする時に正対している。
この時に悪の順位が分かるという。
ボスの方は必ず床の間を背にしているとか。
この時に一番声を低くする。
「(小声で)主水之介をどう始末するかじゃ」とか何か言ったりするともの凄く納得できる。
それでいよいよ主水之介が現れてコイツを殺す場面になると、もう悪いヤツは見つめ合わない。

旗本退屈男



ところが最近、悪い人を描く時、ミーティングをやる。
何の作品というのは不味いから言わない方がいいか。
悪者たちがミーティングをしているのはドラマで見た水谷譲。
丸いテーブルを囲んでやる。
悪いヤツが円卓のテーブルに並んで悪事を相談する。
これが何だか武田先生には違和感。
これは悪の描き方が個人ではない。
集団化されたグループゲームになっているので、友情と同様に悪も円卓のテーブルで円陣を組んで語り合うという。
つまり悪にもチームワークが必要という。
今でいう悪というのはチーム。
役割分担があって。
部屋の外で見張るヤツと、部屋まで運ぶヤツと、そういう段取りと役割分担がこまやかに決まった「悪のチームプレイ」というのが今のこの悪のやり方になってしまったという。
これはまさしく悪に於ける「友情」「努力」「勝利」。
こういうもので支配されているグループの結束なのである、と。
これが政治の中にも反映されて。
「友情」「努力」「勝利」
これが国際政治の中でもジャンプふうになってしまって、皆さん真似しておられる。
プーチン、習近平、ネタニヤフ。
皆さん全員グループでミーティングをやりながら「少年ジャンプ」の結束、「友情」「努力」「勝利」を目指しておられるという。
ちょっと意外なところに行くかもしれないが、この意外なまま突っ走ろうと思う。

2000年代に入ってから世の中の流れが変わった。
かつて武田先生達が少年だった時の少年ヒーローの徳目、彼らの特徴は「勇気」「正直」「親切」。
これが少年マガジン時代。
それが2000年代あたりから変わって少年ヒーローの徳目、そのキャラクターはというと「友情」「努力」「勝利」。
この「少年ジャンプ」の影響が国際政治にも反映して、皆さんジャンプ的になってしまった。
トランプ、プーチン、習近平、金正恩、ネタニヤフまで風貌はラスボス的。
ラスボスという顔をしている。
トランプさんはピッタリ。
彼らにとって外交というのははっきり敵を想定して激しく憎むこと。
みんなそう。
「激しく敵を憎む」という。
これが一番必要とするのは何かというと「友情」。
つまり徒党を組みたがる。
例えばイスラエルは「アメリカの後ろ盾があって」とか、みんな連携してやりたがる。
プーチンさんなんか全然仲良くなかった北朝鮮の将軍様と仲良く手を組んだりなんかして。
やはり「友情」。
「僕達頑張ろうね」
戦線にそこの兵隊さん達がいって加勢しているワケだから。
目指すのはたった一つ。
彼らが目指しているのは何か?
これはトランプさんもプーチンさんも習近平さんも正恩さんもネタニヤフさんもみんな同じ。
「勝利」を目指している。
ジャンプ的。
かつての時代、「少年マガジン」の頃はというとその頃の政治家はジョン・F・ケネディ。
この人はどう考えても「勇気」「正直」「親切」の人だった。
この人の演説はかっこいい。
「次の何年までに我々は人類を月に送り込もう。そして最も深い海まで潜ろう」
彼の呼びかけというのは勇気に溢れ正直で親切だった。
だから公民権もやはり認めた。
「黒人の人には権利があるんだ」という勇気。
それ故にああいう悲劇が。
本当にこのジョン・F・ケネディとかというのは少年マガジン的ヒーローだった。
でも「勇気」「正直」「親切」を言う政治家が今もいらっしゃる。
日本の石破さん。
この方は「少年マガジン」。
「勇気をもって野党の方、語り合っていこうと思うんです」「楽しい日本にしましょう」
やはり石破さんは「少年マガジン」。
一番胸がときめくのは迫力が悪役的。
山本太郎さんを睨む顔なんていうのは。
もう目が白くなると思う水谷譲。
もう素晴らしいと武田先生は喝采を送った。
だからこれからやはり石破さんが持っている「マガジン的」に期待しましょう、皆さん。
どこかで思い切ってくださると思う。
武田先生は可能性として菅(義偉)さんなんか凄いと思った。
菅さんは何を考えているかわからない。
(菅氏の顔立ちは)ラスボスの後ろにいる人。
更に後ろ。
ラスボスがいて、その後ろにいる。
スター・ウォーズで言うとヨーダ。
あのキャラ。
だから武田先生は菅さんは好き。
そうやって考えると、そういう意味では日本の政治家は面白い。
武田さんは面白いことを言う(自画自賛)。

日本という国は歴史と文化に於いて悪には緩い文化圏である、と。
キリスト教圏や儒教圏とは違う。
「元気」「躍動感」、これを「悪」と呼んでいる。
日本の文化そのものが悪を否定したことがない。
能、或いは狂言には悪太郎という登場人物がいて、悪さばかりするのだが、室町時代には「元気があってよろしい」という。
そして地方に芽生えた政治勢力。
これを鎌倉時代には「悪党」と呼んだ。
この悪党の中には楠木正成がいるし足利・新田義貞等々も「悪党」と名乗る地域、エリアの勢力だった。
やがて室町が終わって、ついに戦国時代がやってくると、悪というのは新しい日本を創造するエネルギーでもあった。
ここが中国の方の政治・歴史とは違う。
日本は悪を尊んだ。
その代表が信長。
それはもの凄い革命家。
信長なんていうのは、中国はもう絶対認めない。
中国史というものは易姓革命・華夷秩序、これは常識。
ところが日本はこの常識を一回も認めたことがないという。
日本というのは大変な国。
中国はあんな大国なのに全然真似をしようとしないのだから。
戦国時代、信長の家来でどこから湧いて出てきたかわからないような秀吉が次の天下を取る。
それは考えればもの凄い国。
日本は悪を否定しない。
日本の伝統としては「悪を成す人間」というのを排除しようとしない。
その人の持っているエネルギーを高く評価するという。
ただ一つ条件がある。
これが日本の面白いところ。
うわーっと元気で景気のいいヤツは好きだ、という。
明の時代に日本を訪れた中国の人がいた。
倭寇という盗賊がいて、中国の沿岸で悪さばっかりする。
それで頭にきた人が日本を訪ねてきて、九州のある町にやってきて日本人を観察する。
日本にやってきて彼が驚く。
それは何を驚いたかというと日本刀を振り回して暴れたりするのだが、秩序がある。
それでその明の人が「狂暴なれども秩序あり」という。
下剋上といって上下関係を無視して下が上を殺したりなんかする。
ところが面白いことに裏切りやだまし討ちをするともの凄く嫌う。
変。
「誰を殺してもいい」という戦国時代でありながら、光秀が信長を討ってしまうと「卑怯だ」と言う。
だまし討ちを嫌う。
そのくせ正々堂々だったら首を切ろうが何をしようがオールOK。
「堂々としているから」という。
このあたりが日本の歴史・文化というのが中国や朝鮮半島の国々と違う道を歩き出す。
これは恐らく鎌倉という侍の世の中、ここらあたりから日本は独特の文化圏になるのだが、この時に宗教に悩むという時代が鎌倉時代にあった。
仏とは何か?という。
その中で親鸞という人がいた。
この人は変わっている。
この人は宗教家、お坊さん。
この人は浄土真宗という宗教を興すのだが、テーマが何か?
悪。
悪について考えた人。
それで凄いことを教義にする。

歎異抄 (岩波文庫)



善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや(歎異抄)

「善人?もちろん極楽いけますよ。悪人?行けるに決まってるじゃないですか」
そして「人間はどんないいことをすれば極楽に行けるんですか?」と言ったら「何言ってるんですか!我々人間は」と親鸞が言った言葉は

地獄は一定すみかぞかし(歎異抄)

「オマエの行く先は地獄に決まってるじゃないか」
上手い言い方ではないが「地獄が決定」「所属する場所だ」と、こう親鸞は言う。
しかも凄い。
親鸞は言う。

「たとえば人を千人殺してんや、しからば往生は一定すべし」(歎異抄)

「どうしても極楽に行きたかったら人を千人殺せ。そうしたら往生できる」

久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生まれざる安養の浄土は恋しからず候こと(歎異抄)

意味を言う。
「久遠劫よりすてがたく」
「嫌な嫌な世間でございます。嫌なことばかりある。ところがいざ死ぬ段になると何だか死にたくないんだなぁ。死ねば極楽が待っているのに」
「安養の浄土は恋しからず候」
「ちっとも極楽が恋しくない」
人間と言うものは

「さるべき業縁のもよおせば、いかなる振る舞いもすべし」(歎異抄)

「業(ごう)が心に立ち起こればケダモノのようなことをするんですよ、人間は。そんなもんなんです人間は。だからこそ仏教があるんです。阿弥陀様という方がおられて、あなたが悪に染まりやすいから、いつでも救ってあげるって彼は言ってるんですよ。それを信じましょうよ」
彼は悪から救済を見つめた人。
善から救済を考えるという手順、そこにもの凄い困難を感じた。
「いや、悪の方が優先的に救われるからこそ、そこに仏の力があるのではないだろうか」という。
だから親鸞の浄土真宗の教えというのは、読み間違えるとすると「少年ジャンプ」になってしまう。
闇バイトの危険さ、これを悪の自覚なく悪をバイト仕事として引き受ける。
そして金銭を得る。
それを成功と呼ぶ無知。
そこに欠けているものは何か?
盗みをする仲間に友情を感じ、共犯という悪の結び目を絆とするオマエ達の人間としての狭さ、ラスボス・実行犯・見張り・逃走係、そんなの悪で結び付く。
そして暴力を犯し窃盗をやる。
そんなことを努力し勝利と読み間違えている、という。
でも、これはとっても危険なことだが、これはあり得る。
何があり得るかというと「昔ヤンキーだったんだけど、今は凄い良いパパ」とか。
よくあると思う水谷譲。
親鸞が怒っているのはここ。
「その人の語り口の中の言葉の中に『昔ワルだったから今、いい人になった』という、甘えがあるんじゃ無ぇの?」
これを親鸞はめっちゃ怒っている。
つまり「悪くなったら次はいい人になれる」というような人生の読み間違いが、闇バイトが無くならない一因になっているのではなかろうか?という、実に複雑な。

「闇バイト」から浄土真宗・親鸞「歎異抄」に来たワケだが今日は締め括りたい。
昨日言った「若気の至りで悪さをしておいて、成人になると立派な人になる」という。
それが何だかまるで一つのストーリーのように言う人がいる。
じゃあ最初から真面目な人はどうなのか?
そこにあんまり物語を感じない。
昔悪かった子が今はいい、立派な大人になったということが、面白味があるワケだから。
そのことをしきりに言う人がいるのだが、武田先生は闇バイトの中にこの論法が生きているような。
つまり「若ぇ時、悪さをやってもいいんだ。大人になってからマトモになりゃそれで取り返せる」という。
この中のストーリーは何かというと「善に気づく為に一度悪に身を染めてみせる。それを機に悪から真逆の善の方角を見つけ出すんだ」という。
この生き方が「闇バイト」というのをバイト感覚にしているのではなかろうか。
こんなことはとっくに親鸞が叱っている。
これは「歎異抄」の一条に書いてある

弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし。 (歎異抄)

「若かろうがそんなことで阿弥陀様に救われる救われないが決まるワケじゃない。ただただ信じるか否かだ。若気の至りで多少の悪さをしてもいいというのは弥陀を信じていないからだ」
弥陀を試している。
「一回悪に染まろう」なんていうのは、試すというのは、もう根性が間違っている。
「弥陀の信心」とは何かというと、

罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします。(歎異抄)

「どんなに悪い人でも救ってやろうと決心なさった。その人の前でオマエは悪党のふりをするのか?」という。

悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに(歎異抄)

「阿弥陀様はただただ我等を救わんがために永久の誓いとして『人類を救済せねば』とそう宣言なさった。その宣言を信じるんだ。どんな悪を成したものでも必ず救おうと決心なさった。その決心をオマエは試すのか?」
親鸞は人間に絶望していると言える。
人間というのはとんでもない悪いことをする。
もう今の世の中を見てください。
悪いことばっかりするヤツがいっぱいいる。
でも

善き心のおこるも宿善のもよおすゆえなり。悪事の思われせらるるも悪業の計らうゆえなり。(歎異抄)

「運命によって善も悪も決定してしまう。運命がほんの僅か曲がっただけで人間はとんでもない罪を犯してしまう」

わが心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」(歎異抄)

「『人なんか傷つけちゃいけない』と思いながらも運命の喰い違いで思わず人を殺めてしまうこと、それも百人も千人も殺めてしまうことだって人生にはあるんだ。悪なんてコントロールできないんだ。それが人間なんですよ」という。

心の善きをば善しと思い、悪しきことをば悪しと思いて、願の不思議にて助けたまうということを知らざることを(歎異抄)

「心が『よいことをしたぞ』『悪いことをしたぞ』、考えてしまうが、それを全部忘れて善悪を超えて救ってくださる。そこに阿弥陀仏のありがたさがあるんだよ。悪を重さに換算して『未成年だから』『少年法が守ってくれるから』、そんな計算をする薄汚い悪がどこにあるんだ」
そして一番最後に彼がおっしゃっているのは

わざと好みて悪をつくりて、「往生の業とすべき」由を言いて、ようように悪し様なることの聞こえ候いしとき(歎異抄)

「わざと悪をつくって、それを往生のきっかけにしよう。それはね

「薬あればとて毒を好むべからず」(歎異抄)

薬があるからといって毒を喰うような真似をするのか?お前は。それは毒で薬を試すことだ。薬を信じるなら毒を試すな」
もちろんここに親鸞の矛盾がある。
矛盾があるからこそ親鸞は惹き付けられる。
一番最後に親鸞はこんなことを言っている。

「海河に網をひき釣りをして世を渡る者も、野山に獣を狩り鳥をとりて命をつぐ輩も、商いをもし田畠を作りて過ぐる人も、ただ同じことなり」と。(歎異抄)

「漁師の人、お百姓さん、商売やってる人、鳥・獣を殺して生きていく糧になさっている方、そんなふうにしてみんなは業(ごう)の中で自分の業の苦しさを感じつつ生きている。そういう人は私の友達なんです」という。
いい。
親鸞は一度ひっかかるとずっと考え続ける。

まあとにかく「闇バイト」から「親鸞」まできたということで納得していただければという。
ワケがわからない回になったかも知れないが、また来週は別のネタでご機嫌伺いたいと思う。



2025年3月3〜14日◆悪について(前編)

壮大なるテーマだが「悪について」。
これは申し訳ない
去年ぐらいの時に考えたヤツなので少し世間の流れが変わっているのかも知れないが。
ここで取り上げた「悪」というのは実は「闇バイト」の一件。
闇バイト。
これは強盗なのだが、強盗事件が多発している頃に考えた。
振り返りましょう。
2012年の日本の強盗件数は1138件。
ところが2023年になると「闇バイト」と称して特殊詐欺や強盗等の犯罪をグループでやるという。
実は殺人まで含めた事件というのが2023年までに何と17500件に増えているそうだ。
今はわからないが、逮捕された青年を何人か、皆さんも(テレビの)画面でご覧になったろうと思うが、何ともはや、少年の名残があるような気弱そうな青年がいる。
続っぽい言い方でまことに申し訳ない、あの手の青年たちに対して武田先生達、年寄が持っている形容詞「ケツの青い」青年達。
報道番組で顔を映せない少年らがこれに続いている。
ただ世界的に見ると強盗のみでは日本が1138件に対して、トランプさんが仕切るアメリカでは121373件と、もうアメリカは桁が違う。
この強盗事件、呼び名は通称「闇バイト」。
この「闇バイト」という呼び名そのものもあまり関心しなくて、クラブ活動のような気楽さがある。
いとも簡単に悪の勧誘に乗ってしまう少年や若年層の青年達。
彼らが持っているもろさ、危うさ、これは一体何だろうと懸命に考えた。
日本での逮捕率は九割。
アメリカは20%がやっと。
日本は九割逮捕される。
残り10%近くあるのだが、これも長年のうちに逮捕されることになる。
ただ胸が痛んだのは闇バイトに走った少年を孫に持つおじいちゃん、つまり武田先生達の世代のおじいちゃんが「もうあの子は見限った。縁ば切ります」と嘆く人がおられた。
痛々しい。
身内のものとして犯罪に手を染めた子や孫を見る時の絶望。
その絶望がいかに深いか。
武田先生はジンときた。
しかし武田先生達はこの祖父世代にいるワケだが、孫の世代は何でいとも簡単にそんな悪さをするのか?
そこで悪についてこれからとことん考えてみましょう。
武田先生が一番気になったのは、水谷譲にも一度言ったと思うが、気になって仕方のない哲学者・内田樹先生。
この方が絶妙のエッセーを書いておられて。
(このあたりの話は2024年10月28〜11月8日◆男の唯一無二で紹介している)

勇気論



この方は「自分達、祖父世代の人間が少年だった時、最も支持したサブカルチャーでマンガというものがあった」と。
そのマンガの中には少年ヒーローが出てくる。
その少年ヒーロー達には徳目、テーマがあった
それはどんなものかというと、比べてみましょう。
「月光仮面」「少年探偵団」「鉄人28号」「鉄腕アトム」「宇宙少年パピイ」なんてあった。
遊星少年パピイを指しているものと思われる)
「パピイ〜パピイ〜!」というので。
それから「赤胴鈴之助」。
「こしゃくな小僧め、名を名乗れ!」「赤胴鈴之助だ」という。
この威勢のいいタンカで始まる。
それから「少年ケニヤ」。
「ワタルは強いぞ♪」
少年ケニヤの歌 キング児童合唱団 - ニコニコ動画
それから「狼少年ケン」
「ボバンババンボン ブンボバンバババ♪ボバンババンボン ブンバボン♪」



ちょっと団塊の世代の皆さん中心に今、お話している。
この少年ヒーロー達には特徴があった。
この少年ヒーロー達の徳目、持っている徳は何かというとまず「勇気」次に「正直」そして「親切」。
これが武田先生達団塊の世代の少年ヒーローの徳目。
「勇気」「正直」「親切」の徳目を持ったればこそ、少年のヒーローとなれた。
これはやはり意外と重大で、武田先生達をこうやってマンガから少年ヒーロー達の活躍を見て、道徳教育を必要としないほど強烈だった。
少年マンガから教えてもらったのだろう。
この少年ヒーロー達が変わっていくという時代の流れの中に「闇バイト」につながる何事かが起こったのではないだろうか?という今回。

団塊の世代の子供時代・少年の頃、一斉を風靡した少年ヒーロー。
「月光仮面」「少年探偵団」「鉄人28号」「鉄腕アトム」「赤胴鈴之助」「少年ケニヤ」と。
「月光仮面」はおじさんだが、あと以下は全部少年ヒーロー。
これがゆっくり昭和が進むと、昭和の変貌と共にヒーロー像が変わっていく。
「あしたのジョー」「巨人の星」「キャプテン翼」「ワンピース」「ドラゴンボール」「鬼滅の刃」「スラムダンク」「呪術海戦」
かくのごとく少年ヒーローはゆっくりと変わっていくワケで。
「少年マガジン」の時代、「少年サンデー」の時代がゆっくりと暮れてゆくと、昇ってきた少年ヒーローの雑誌が、今言った後半の方だが「キャプテン翼」「ワンピース」「ドラゴンボール」「鬼滅の刃」「スラムダンク」「呪術海戦」。
これは「少年ジャンプ」。
この「少年ジャンプ」というのは、編集者が強烈なテーマを持っていて、それが少年ヒーローの徳目。
「友情」「努力」「勝利」
そういえば「キャプテン翼」「ワンピース」「ドラゴンボール」「鬼滅の刃」「スラムダンク」「呪術海戦」。
全部集団ドラマ。
鋭い内田樹氏の指摘は「少年ジャンプ世代の徳目と少年ジャンプの徳目の喰い合わせが悪い」とおっしゃっている。
何が悪いか?
少年マガジンの時に一番大事にされたものは「勇気」。
ところがジャンプの一番大事にするものは「友情」。
「勇気」と「友情」は違う。
「勇気」は一人になった時に試される。
「友情」は相手がいないとダメ。
それから「正直」「親切」。
これも個人の徳目。
「俺は正直でありたい「俺は親切にした」。
ところが「努力」と「勝利」というのはジャッジ者がいる。
「よく頑張ったよ」と言う人がいる。
そして「やったな!オマエの力だよ!」という人がいる。
そうしないと成立しないから「友情」「努力」「勝利」には他人が必要。
ところが少年マガジンの「勇気」「正直」「親切」。
これは仲間がいらない。
自分の問題。
正直の一番代表例。
「金の斧銀の斧」

金のおのと銀のおの: イソップものがたり (はじめての世界名作えほん 76)



あれなんか自分が正直だから立派な斧を貰っただけであって、横に友達が必要無い。
この「少年マガジン」と「ジャンプ」の徳目の差というものにいつの間にかその徳目を読み間違えて、「友情」「努力」「勝利」を犯罪に使ってしまったのが「闇バイト」ではないか?
これは犯罪の構造によく似ている。
どこぞにお館様がおられて、使える戦士を集める。
それらはチームワークで、変な言い方だが「君、見張り。僕、実行犯」。
役割分担。
そして勝利を目指しているワケだから。
「やったね!300万、ジジイ騙しちゃった」とかという。
そういう意味では最近の犯罪はチームワーク。
悪が分担作業になっている。
このあたりが爺ちゃん世代と孫世代の違い。
「少年マガジン」にはライバルや別の正義を抱くもの、違う正義が必要であった、と。
しかし、少年ジャンプの中のヒーロー達が求めたのは「絶対悪」。
それが正義と対立するという。
この時に、もの凄く面白い理由は悪がもう一つの物語としてストーリーの柱になっているということ。
正義の物語なのだが、同じ分量「悪の物語」もストーリーの中に書かないと物語が成立しない。
鉄腕アトムが空を飛んでいてバッと降りた先に悪いヤツがいると、悪いヤツのことは描かずにアトムがどうやってやっつけるか。
ところが今のマンガは悪の方を描かないとストーリーが成立しない。
ここで「これは面白いぞ」と思った。
三軒茶屋蔦屋。
店名まで行ってしまった。
ここで面白い本を見つけた。
それは荒木飛呂彦さん。
この方はマンガ家の方なのだが。
「(荒木飛呂彦の)新・漫画術 悪役の作り方」

荒木飛呂彦の新・漫画術 悪役の作り方 荒木飛呂彦の漫画術 (集英社新書)



彼は大変なヒットメーカーで、「ジョジョの奇妙な冒険」というシリーズを書いておられて、これは今大ヒットしているそうだ。

ジョジョの奇妙な冒険 1~7巻(第1・2部)セット (集英社文庫(コミック版))



彼のマンガは20万部を超える大ヒットメーカー。
この中で一番の問題を彼がおっしゃったのは「悪をどうやってつくるか?」。
これは興味がある。
荒木さんの考え方をいく。
これは面白かった。

漫画でも天才が続出し、それまでの漫画を大きく変えた時代がありました。−中略−当時の日本の漫画は手塚治虫先生などがいて(65〜66頁)

彼は平面二次元のマンガ、紙に書いてあるマンガ、そこに感情を表現する。

「基本四大構造」−中略−@「キャラクター」、A「ストーリー」、B「世界観」、C「テーマ」の四つの要素(14頁)

この人あればこそ、日本のマンガ界はここまで進歩した。
これも内田先生の発想。
武田先生は感心してしまった。
先生の言葉、まるまるではないが、こんなふうに手塚治虫を語っている。

手塚治虫は実に哲学的だった。
彼の巧妙さ、上手さは物語に前景と背景がある。
「人間とは何か?」ということをテーマにすると手塚治虫はロボットを主人公にした。
ロボットから人間を考える。
「死」をテーマにする時は絶対死なない「火の鳥」を主人公にした。

【化粧箱入り】火の鳥 全12巻セット



「生命」「命」をテーマにして考える時は次々に死んでいく生き物たちの繋がり。
これが「ジャングル大帝レオ」、或いは「ブラック・ジャック」。

少年チャンピオン・コミックス『新装版ブラック・ジャック』全17巻セット(化粧箱入り)



「心」というものをテーマにした時、手塚さんが考えたのは心を妖怪に盗まれた百鬼丸「どろろ」。

どろろ 1



「どろろ」はそう。
心を盗まれている。
この手塚の手法に従って日本のマンガ界は、アメリカに対して圧倒的な差をつける内容の深さを持った。
この前景と背景、二重構造は日本マンガの伝統である。
「ジョジョの(奇妙な)冒険」を書いてらっしゃるこの人気漫画作家が自分がデビューした頃の日本を考えると、社会の心理の価値が大きく変わっていった。
「ジョジョの奇妙な冒険」のスタートがちょうど2000年代に当たるそうだ。
(「週刊少年ジャンプ」の連載が1986年かららしいので、これは誤り)

二〇〇〇年代から、−中略−人間の異常性や変わった部分をテーマにした作品がヒットするようになった気がします。(68〜69頁)

2000年、このあたり、コミックではないアメリカ映画を見ると悪を描いた作品。
2000年代前後「羊たちの沈黙」。

羊たちの沈黙 (特別編) [DVD]



これは1991年。
人肉を好む異常なハンニバルという博士の物語。
これは大当たり。
「ハンニバル」だけでもう一作作った。

ハンニバル (字幕版)



このあたりから日本人も変わってきて、これは作曲家の方には申し訳ないが武田先生にはそう思えるのだが、振られた男の心理を描くのも闇っぽくなってくる。
槇原敬之さん「SPY」。
(本放送ではここで「SPY」が流れる)



「彼女の様子がおかしい」というので、ある日スパイを気取って彼女を後ろからずっとつけてゆく。
ストーカーということだと思う水谷譲。
槇原さんごめんなさいね。
武田先生が言ったのではない。
「ストーカー」と水谷譲が言った。
これは槇原さんみたいな若い方が考えられた失恋男の描き方。
それでは昔の歌を聞いてみましょう。
鈴木三重子さんの「愛ちゃんは太郎の嫁になる」。
(本放送ではここで「愛ちゃんはお嫁に」が流れる)



愛ちゃんは太郎の嫁になって去ってゆくのだが、愛ちゃんは「俺(おい)ら」を捨てて太郎の嫁になってしまう。
主人公は愛ちゃんの花嫁行列を見ている。
追いかけたりしない。
振られた男は立ったまま花嫁姿の彼女の幸せを祈りつつ見送るという。
この男の心理が変化するワケで。

(この日の冒頭は本とは無関係なバリウムの話なので割愛)
(「SPY」と「愛ちゃんはお嫁に」の話は)本には書いていない。
もうちょっと違う例の歌はなかったのかと思う水谷譲。
思いついたのはこれだから仕方がない。
2000年のヒット曲と1956年のヒット曲。
40年間経つとこれだけ違う。
人間の心の表現の仕方が変わっていく。
これはひょっとすると悪役が主役になっていくという、そういう時代が2000年で現れたのではないだろうか?
これは「ジョジョ」のマンガ家さんもおっしゃっているのだが「悪を描く時にカッコよくないとダメなんだ」。
悪がどのぐらいカッコいいかがヒットマンガの条件。
1950年代「愛ちゃんは太郎の嫁になる」の時代の頃、「少年マガジン」或いは「サンデー」の頃、悪役とはちょっと珍妙な風采で様子がおかしい人が多かった。
例えばピーターパンに登場するキャプテンフック。
あの眼帯の、カギの片腕の。
ああいう異様な風体の人でなければダメで、そういう意味では一目見ただけで「カッコ悪いよ」というのが悪役の条件であった。
それから1970年代、星飛雄馬のライバルとなる花形満。

巨人の星(1) (週刊少年マガジンコミックス)



「あしたのジョー」の力石徹のように、敵役、ライバル達がカッコよく描かれるという。
それで主役と同じように扱わないと物語が盛り上がらない。
2000年代が近づくと悪はもっと複雑に。
荒木氏曰くだが、その支配の為、相手を排除するという万能の武器を持っている。
そして上手く社会にパラサイトして、よい人のような顔をして生きていくという。
ドキッとする。
それ故に、悪も世界観を持っていなければマンガでは通用しない。
荒木さんは偉い。
マンガの中の悪役を作る為に勉強した。
不動産、会社経営、AIをいかに利用するか等々。
この不動産、会社経営、AI利用の詐欺から悪役を学んだ。
凄い。
つまり「絶対悪」という単純ではなくて社会の影に映り込んだようないじめ、疎外、格差、そういう共感できる悪をどう描くか。
とにかくマンガ家さんも悪について懸命に勉強して。

(武田先生が「レミオロメン」を「マスクメロン」と言い間違えてイルカさんから叱られた話は割愛)

悪役を作るということは、作者の「悪とは何か」という一種の「哲学」が反映される、けっこう深い作業なのです。(89頁)

 そんな今の時代の「悪」を描いた作品のひとつが、映画『ジョーカー』(二〇一九年)でしょう。『ジョーカー』の主人公は、後に『バットマン』シリーズのラスボス、ジョーカーとなる若者アーサーで(88頁)

ジョーカー [DVD]



配信動画のヒット作も見てください。
悪。
「サンクチュアリ」「地面師(たち)」「極悪女王」「ゴールデンカムイ」
この中で描かれるのは暴力、殺人、詐欺の仕掛け合い、いかに相手を騙すか。
このドラマが進行する時の最も重大な要素が「友情」「努力」「勝利」。
「何億円も儲かる」というような土地詐欺。
驚くなかれ、鎌倉幕府を作った(北条)政子様が悪党の中にいらっしゃるというような。
あれもチームワーク。
今、時代そのものが「悪役の時代」。
そうやって考えるとわかりやすい。
悪もドラマも並行して描いている映画とかドラマとかアニメは本当に今多いと思う水谷譲。
少し前に内田樹先生の名著で「呪いの時代」というのを読んで、凄く感銘を受けたことがあるが、呪いからちょっと時代が進んで今は「悪の時代」。

呪いの時代



これはまことに申し訳ないが「少年ジャンプ」を非難しているワケでも何でもない。
ただ、このあたりに闇バイトを若い子達が参入していくというあのパターンが日本では繰り返されているのではないでしょうか?という。
犯罪の構造そのものがヒットマンガそっくりで「指示役、実行役、見張り役」こんなふうにしてキャラクターを分けてお互い犯罪現場で連絡を取り合うという。
そんな犯罪が繰り返されている。
果たしている役割で力を合わせるワケで金銭・物品を強奪するという犯罪を犯す。
それを山分けする時が彼らの言うところの「勝利」ではないだろうか?と。
それほど「善」というものに魅力が無い時代なのかという、こういう問いを立ててみた。
善の方に魅力がない?
善に魅力が無いから悪に惹かれてしまうのではないか?
善はそんなに魅力が無いかどうかというのをこの荒木さんの本で探していて、ギクッとする一文章に出くわした。
武田先生が取り上げている本は集英社新書、荒木飛呂彦のお書きになった文章なのだが「(荒木飛呂彦の)新・漫画術 悪役の作り方」。
これで唐突にエピソードを語り出す荒木さんなので、最初は意味がわからなかったのだが、何回か咀嚼するうちに「もしかしてこういう仮説?」ということで思いついたのだが、マンガの中で荒木さんが球体三つの必殺道具を考えた。
(このあたりの話は本の内容とは異なる。番組では荒木氏と編集者のやり取りであるように説明しているが、本によると「岸辺露伴は動かない」の中のストーリー)

岸辺露伴は動かない 3 (ジャンプコミックスDIGITAL)



漫画の中で使う為の何かの道具を。
その球体三つの道具が面白いなと思ってその物語を急ごうとしたら編集の方から「マズいっすよ先生。デザイン変えてくださいよ」。
「非常に危険だ」という。
丸いボールが三つくっついているという、それだけのもの。
それを編集者から「危険危険」と言われる。
編集者の心配。
球体三つ。
盗用ということで著作権侵害に当たり訴訟問題に発展する可能性があるという。
荒木さんは、これは何だと書いていない。
だから想像するしかない。
世界で一番有名なネズミのシルエットに似ている。
それを気にする。
これは名前もおっしゃらないので、理由も解き明かさないで「丸三つが問題問題」ばかりおっしゃる。
だからその丸三つ続けて描くことは国際的な厄介ごとに巻き込まれる可能性があるという。
盗用というのはもの凄く危険な地雷なのではないだろうか?
失言、揶揄、指導の口調、訓練の会話、しつけ、応対の態度等々、伝える言葉が法に則らないと今、ものすごい勢いで・・・
その典型が丸三つで「『うちの盗んだでしょう』と言われたら返事できなくなりますよ」。
つまり今、善はもの凄く息苦しい。
面倒くさいことばかりだと思う水谷譲。
善よりも悪の方が自由度が高い。
だからラスボスの呼びかけによって集められた仲間との絆で力を合わせ、ガラスをたたき割り、現金或いは物品を盗むという闇バイトの構造が実は悪の方でこそ、のびのびという。
このあたりが悪にドラマチックな展開を考えている、考えの浅い人には飛びつくべきストーリーを持っているように思えてしまうのではないか?
武田先生達「少年マガジン」の世代で正直ストーリーが理解できない、そういう映画が今、何本もヒットしている。
これは武田先生の感覚。
関係者の人、許してね。
何だかよくわからないのがある。
「ハリー・ポッター」

ハリー・ポッターと秘密の部屋 (吹替版)



本当のことを言うと、これは二作目から意味がわからない。
わかったふりをしているが、何が何なのかわからない。
「スター・ウォーズ」は「ドラゴンボール」を見ているみたいで。
「ヤー!」と言いながら光線を出してばっかりで。
「ヤー!」とは言っていないと思う水谷譲。
悪の描き方が善と同量で、よく見ていないとどの人が悪い役かわからない。
「スター・ウォーズ」も「悪いと思っていた人が実はもの凄い悲しい歴史を背負っている」みたいになっていると思う水谷譲。
そうやって考えてみると非常にストーリーが読みにくい時代。
この奥にある「悪を」探求したいと思う。


2025年05月25日

2025年4月14〜23日◆言葉のレンズ(後編)

これの続きです。

先週の続き。
「言葉の風景、哲学のレンズ」(著者は)三木那由他さんという方、講談社から出ている。
かつて男性でありつつ、今は女性として生きておられるというこの方「の言葉をめぐる哲学」というのが非常に武田先生には面白かった。
その中で彼がおっしゃっているのは「矛盾の無い人間というのは意外とつまらないもので、矛盾とか合理的ではないえという、理屈に合わないというところが人間の人間たるゆえんである」と。
老刑事が若い私立探偵から秘密の情報をねだられる。
公的立場にある刑事は「そんなこと教えられるわけがないじゃないか」と拒否するのだが、正義感に溢れた私立探偵が好きでたまらない。
そうすると依頼に対して「Noだ!」と言っておきながら「情報はなぁ、このファイルの中に全部書き込んである。これさえ読めば一発でオマエだってわかるよ。だがなぁ絶対オマエには見せられない。申し訳ない、俺はちょっとタバコを一服してくる。絶対に見るなよ、このファイル」と言いながらオフィスを出ていく。
こういう不合理な行動の中に人間というのは人間らしさ、人間の柄を持つのであるという。
人間は非理性的であるというところにその人の本性・本音、人間の手触りが出るということ。

私たちの多くは、矛盾を抱え、あちこちで理由のない決断をして生きているのではないだろうか。そして私は、それぞれのひとが織りなす一貫性のないぐねぐねと曲がりくねった軌跡が重なり合うこの世界を、とても愛おしく思うのだ。(113〜114頁)

いい文章。
武田先生もそうだが、生き方としてはぐねぐね生きている。
男に生まれて男という性に目覚めて、青春の頃、異性を求めて性淘汰のレースの中に投げ込まれ、どんどんライバルに抜き去られる敗北の嵐の中で、歌を歌うこと、それで己を慰め、ハッと気が付くとそれを職業にしたという。
著者のように自分の性について二重性は武田先生には無い。
そういう苦悩は全く無いが、トランスジェンダーに生まれた著者に対して申し訳ないことに実に単純に男としての性を生きているが、年を取ると男としての能力が急速に性の部分で落ちてゆくものだから。
何か「男性の女性化」はあるのだろう。
男の人は急におばさんぽくなったり、おばさんもだんだんおじさんぽくなったりすると思う水谷譲。
深層心理学で学んだのだが、入れ替わるらしい。
若いうちは心の奥底に一人の乙女をちゃんと秘めているのが男で、その乙女が男らしさを。
ところが年を取るとだんだん入れ替わってきて、その乙女が前面に出て外側にいた男性がゆっくり沈んでいくという。
これは女性にも起こるということで。
奥様の叱り方なんかを見ていると最近は「ああ、男らしい」と思う時がある武田先生。
年齢で変化していく。

著者はトランスジェンダーとしての中でGLAYの大ファンになる。
彼女のお気に入りは「pure soul」。
流れて来た。
(ここで本放送では「pure soul」が流れる。ポッドキャストではチャラ〜ン♪という効果音のみ)

pure soul



 避けられぬ命題を今 背負って 迷って もがいて 真夜中 出口を探している 手探りで(126頁)

著者に決心をさせる歌とは、あるいはノックとはそれほどの言葉のレンズを持っているという。

ちょっとあとの「賽を振る時は訪れ 人生の岐路に佇む」という歌詞(127頁)

人生には賽(サイ)を振る時が来る。
水谷譲にもあった。
何回かあった
やはりある。
今日、賽を振る方もおられると思うが、どうぞ頑張ってしっかり振ってください。
人生の分かれ道、どっちの道を行くか、右に行くか左に行くか。
「pure soul」というGLAYの名曲なのだが、その言葉が、言葉のレンズによって個人の中である風景をバーっと大きく見せる。
やはり言葉というのはレンズ。
その文脈で受け取ってしまった著者はそのようにしか聞こえなくなってしまうという。
これはもちろんトランスジェンダーの迷いの歌ではない。
全然違うところにあるのだが、そんなふうに聞こえてしまった著者にはそのようにしかもう聞こえないという。
レンズとしての言葉というのは凄い力を持っているという。

ここから気づきもしないことを、この著者・三木那由他さんがおっしゃる。
これは武田先生はずっと「言葉のレンズ」「レンズのような使い方をする言葉」という意味で語ってきたのだが、言葉にはもう一つ使い方があって「犬笛的言葉」。

もともと「犬笛」とは人間の可聴域を超えているが犬には聞こえる音を発するホイッスルのことで、犬に合図を出すのに用いられたりする。これが転じて、特定の集団にしか聞き取れないメッセージを持つ言葉が「犬笛」と呼ばれるようになった。(129頁)

哲学の人は凄いところを突く。

例えばBlack Lives Matterの運動が大きく報じられるようになったなかで、ALL Lives Matterというスローガンを掲げるひとたちがいた。これは文字通り読むならば「すべての命は大切だ」ということであり、たぶん多くのひとが「まあ、そうだよね」と思うだろう。しかし同時にこの言葉は、人種差別主義者の人々にとっては「すべての命が大切なはずなのに黒人ばかりわがままを言っている」という印象を生じさせたり、ひいてはBLM運動に反対する言動を引き起こしたりする働きをしていたと考えられる。このとき、「ALL Lives Matter」という言葉は人種差別主義者にしか聞こえない音を発する犬笛となっている。(129〜130頁)

 似たような事例はいろいろとある。例えばドナルド・トランプは何度か「大統領に再選したら男性が女子スポーツに参加できないようにする」と発言している。額面通りに見ると意味がわからず、むしろ当たり前のことしか言っていない発言に見える。実のところこれは、近年のレギュレーションの調整などを経て女子スポーツに出場できるようになった少数のトランスジェンダーの女子選手を保守的な人々が中傷する文脈で(133頁)

そういう「犬笛」的呼びかけがこの「全ての男を叩き出す」という。
現実にトランプさんはトランスジェンダー問題に関してはまとめてしまった。
「生まれながらの性を優先するんだ」というのがトランプさんの考え方だと思う水谷譲。
ただ大統領が叫んでも一発で通らないようだ。
アメリカは衆の国「state」なので、衆が法律を持っているので、大統領の命令が一発で通るという「鶴の一声」ではないらしい。
しかしそれにしてもやはりその存在は大きいし、トランプさんが持っている言葉のレンズというのが非常に強力なレンズである上に、犬笛的要素も持っていて、彼の支持者を集めるということに関してはまことに・・・
こんなふうにして、今、ニュースに犬笛的言葉が多すぎてしまって「身内を集めるためだけのニュース用語」というのがたくさんある。
最近、ニュース用語が固定されていて、例えば「トランプ関税」とかと言うが、あの仕組みが果たしてアメリカを豊かにするのかというのは疑いっぽい。
つまりトランプさんの言っていることには大きい方の話がない。
「これをこうする」「これをこうする」「これをこうする」は全部「具体」があるのだが、この人には抽象と全体が無い。
話というのは具体と全体で進むもので、
「抽象的なものばかりでもダメだけれども」ということだと思う水谷譲。
具体的なものばかりでもダメ。
武田先生はそう思う。
だから武田先生も考えた。
現代に於ける「犬笛的言葉」って何かな?と思った。
それは「年収103万円の壁」。
103万円に壁は無い。
それは一種犬笛的使い方。
「103万円の壁」とか言わずに「いくらあったら幸せなのか」というレンズとして使わないと。
「遠くの人も近くに見える」という言葉をレンズにしましょう。
これはかなり武田先生の説が入っている。

 GLAYの話に戻ると、「誘惑」という曲の歌詞には「ZEROを手にしたオマエは強く」という一節がある。(133頁)

「ZEROを手にする」
それが「全体」ということではないか?
1や2や3や4という具体と0(ZERO)という、そういうことを著者は三木さんは感じておられるのではないか?
いつも我々は0を手にしておかなければいかけない。
千とか万とか億の単位の0。
プラス「何も無い」という0も手にしておかなければならない。
「0なんだ」という。
この言葉を武田先生は詩的で好きだった。

そして終章、一緒に生きてゆく為にトランスジェンダーの苦しみを彼女はこんなふうに語っておられる

二〇二三年二月、荒井勝喜総理大臣秘書官(当時)が同性婚に関連して「見るのも嫌だ。隣に住んでいたら嫌だ。人権や価値観は尊重するが、認めたら、国を捨てる人が出てくる」などと強烈にホモフォビックな発言をして問題視されたことをきっかけに、再び話題にされるようになった。(136頁)

性についてグレーである彼ら、彼女達はこういう方がおられると息苦しい水圧のコミュニケーションの中で生きてゆかなければならないという。
何が息苦しいかというと、これはやはり「大変だなぁ」と思ったのだが

 背景を説明すると、私の体は現在、テストステロン(いわゆる「男性ホルモン」)もエストロゲン(いわゆる「女性ホルモン」)も産出できない状態にある。なので、定期的にホルモン補充療法を受けないと、体からホルモンが枯渇した状態になって体調を崩すことになる。具体的には、震えるような寒気がしたり、顔がほてったり、めまいがしたり、といった症状が出る。−中略−ホルモン補充療法を中心的におこなっているのは婦人科なので(139頁)

診療所はトランスジェンダーの人達に関してははっきりと「来ないで欲しい」。
「女性客の迷惑なので」という。

人間の認識というのは見た目でジャッジされると非常に困った混乱が言葉の中で起こる。
これは武田先生が考えた。
武田先生は偉い。
例えば大きな真っ白い鳥がいる。
「白鳥」
白いから。
「スワン」で「白鳥」というのはいい。
ところがスワンの中には黒いのもいる。
「黒鳥」
その時に「黒鳥」というのは変。
「白鳥」と名づけたのだから、これはどう考えても「黒い白鳥」ということ。
そういうふうに言葉が変わって。
トランスジェンダーの問題に関してはそんなふうに考えたらどうだろうか?
あんまりはっきり何かを言ってしまうと、「男」「女」と言ってしまうとそれ以外動かなくなってしまうところで違う性の人が出て来たところで混乱してしまうという。
或いは乱暴になってしまうという。
「白鳥の中には黒い鳥もいる」という、そういう約束事をきちんと持っていれば白鳥と黒鳥が泳ぐ風景を私達はのどかに眺めることができる。
白と黒に意味を付けると同じ種類のものをまるで違う種類のように思ってしまうという言葉のレンズの誤解が生じますよ、という。
そういう意味合いで、この三木那由他さんの小さい本だったが、非常に勉強になったような気がした。
いずれにしろ黒鳥であろうが白鳥であろうが、私共は一種自然の風景としてそれを眺め楽しみましょう。
美しいものです。

(この週の最後の二日間はこの本とは関連の無い話なので今回は取り上げない)


2025年4月14〜23日◆言葉のレンズ(前編)

一冊の本をまた、まな板の上に置いて三枚におろすワケだが、おそらくはこの「(今朝の)三枚おろし」で取り上げると著者の方もびっくりなさると思う。
かなり哲学的な。
えぐみのある一冊。
「言葉の風景、哲学のレンズ」(著者は)三木那由他さんという方、講談社から出ている。

言葉の風景、哲学のレンズ



全編150ページほどの文章に何か深いものを感じさせるという武田先生の直感。
著者は哲学を研究する人。
哲学とは大きな世界観を持つ学問だが、その哲学そのものを問うという学問の分野がある。
「哲学を哲学する」「その哲学を使って新しく哲学を築き上げよう」という。
もうすっかり水谷譲に付いてくる気が無くなった。
ここから細かいところに入っていくが、この細かいところが武田先生には面白かった。
タイトル「言葉の風景、哲学のレンズ」とあるが、武田先生はこの本のタイトルを「言葉のレンズ」と、こうしてはどうかな?というふうに思って。
「言葉」とは一体何か?
水谷譲もお互いに言葉の世界に生きている。
この著者、三木さんは「言葉とはレンズのようなものではないか?」という。
何がどうレンズかというと、言葉というものがあるとその言葉から遠くが突然見えたり、或いは近くがググッと近く見えたりするという。
そういう伝達の道具、それが言葉ではないか?と。

この方はもの凄く珍妙なことをおっしゃる。
第一章でこの方はこんな深いことを綴っておられる。
それは「痛みを伝える」。

 誰かが「痛い」と言っているとする。でも、そのひとが本当に痛みを感じていると私たちは確実に知ることができるだろうか? 単にそう言っているだけなら嘘である可能性もあるから、「『痛い』と言っている以上は痛いに違いない」とは言えない。−中略−結局、他者の痛みについて確実に知る手段などないのではないか。(10頁)

それと、痛みの程度がわからない。
痛みというのを理解し合えない。
「どういうふうに痛いの?我慢できないの」と訊くしかないと思う水谷譲。
だからこのあたりでも男女差があるので男は理解できない。
例えば「生理痛」とか「出産の痛み」とかというのは男は想像できない。
一生わからないと思う水谷譲。
だから「痛み」というのはどの程度のものか、或いは本当か嘘かもわからない。
なのになぜ人は「痛い」と言うのか?という。
これは哲学として面白い。
これは哲学的に解決しようという。
それでも人はなぜ「痛い」と言うのか?と。
このあたりはもう哲学らしく理屈っぽいという。
しかし一度この「痛い」という言葉にひっかかると「確かにそうだな」と。
「痛いの」と言われてもどの程度の痛みであるか、深いことを言うならば真偽のほどもわからない。
だからやがて表情や顔色等の変化と共に「痛い」の程度を探ることしかできないのが痛みを報告された人の想像力。
痛みは正確には伝わらない。
それでも尚、人に向かって「痛い」と伝える意図は一体何か?
何で「痛い」という言葉が日常生活の中にあるのか?
哲学的。

 具体的な人間である私たちが日常において「痛い」と訴えるとき、−中略−「通常の仕方で授業を受け続けることはできない」だとか、「約束通りに事を進めることができない」だとか、「仕事のスケジュールの変更が必要だ」だとか、「いまの作業を止めて手当をしてほしい」だとか、とにかく私とあなたがこれまでやってきたことを続けるのに支障が生じているから、何かしら軌道修正をしたいということを伝えているのではないか。−中略−私たちはただ、誰かが「痛い」と言い出したのをきっかけにして、ともにやっていくやりかたを再考しているだけなのだから。(12〜13頁)

つまり「痛い」という言葉は哲学的になにゆえに存在するかというと「ここから二人の関係を変えましょう」という。
「だから休ませて」ということだと思う水谷譲。
「あなたでは相手にならない」とか、それから「痛いので慰謝料をください」とか。
それから「明日はお休みしたい」とか。
「痛い」を挟んで付き合い方の変化は何通りもあるという。
その為にはまず「痛い」から始めなければならない。
哲学者・三木那由他さん、この方はそこに言葉のレンズとしての役割があるのではないだろうか?と。
この何気ない言葉のやり取りの中に、実はたくさんの人間の心理が響き合っているという。
ちょっと深いのだが今週お付き合いください。

言葉が持っている不思議な作用。
言葉には変わった仕事があるという。
普段は聞き逃しているのだが、よく考えてみると言葉というのは実に不思議である、と。

最近、Netflixばっかり見ていて今、バカリズムさんの「ホットスポット」という連続ドラマを見ている水谷譲。
ホットスポット | Netflix
武田先生は「鹿の角を持つ少年」を見ている。
スイート・トゥース: 鹿の角を持つ少年 | Netflix (ネットフリックス) 公式サイト
これは面白い。
地球にデカい変事が起こったようで、動物と人間のハイブリッドが出てきて、可愛らしい少年の頭から角が生えてくるという。
こういうヤツを見ていても思うのだが、あの手のドラマの中で、ドラマの言葉の使い方で、「あら?」と思うのがある。
その画面とその言葉遣いがマッチしていない言葉遣いがある。
たまに「あら?これ・・・違うな」というのがある水谷譲。
「私達の言葉遣いと違うな・・・」
著者の三木さんがこんなシーンをマーベル映画で発見している。
こういうのは面白い。

 マーベル映画にハマった。そう、スパイダーマンとか、アイアンマンとか、そういった派手なスーツとマスクを身につけたヒーローが出てきて、犯罪者やら怪物やら異星人やらと激しく戦う、あのマーベル映画だ。
 きっかけは『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』だった。
(28頁)

スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム エクステンデッド・エディション (字幕版)



変なところでどうにも気になることがあった。−中略−反目しあっている二人がいて、その一方がピンチになる。そこにもう一方がさっそうと現れて助け出し、ピンチになっていた側が何か言いたげな顔をしたところで、その前に言う。「どういたしまして!(You're welcome!)」(30頁)

(番組内ではこのシーンは「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」の中に登場するという説明をしているが、本には「具体的いどの作品でどう出てきたのかはっきり覚えてはいない」と書かれている)
一体「You're welcome!」「どういたしまして!」というのは何を意味しているのか?
この状況に最もふさわしいのは礼を言おうとしている相手に向かって「お礼はいいですよ」と言えばいいのに「You're welcome!」「どういたしまして!」と言う。
先にに言ってしまうと思う水谷譲。
この「You're welcome!」「どういたしまして!」は日常でも出現する。
例えばご婦人でご高齢の方がおられて、傘を持っておられずに濡れておられる。
そこに傘を差しだして「ビニール傘の安いヤツなんで持ってってください」と彼女に渡して彼女が何か言おうとした瞬間「どういたしまして」と言う。
「お礼を塞いじゃう」という。
なぜお礼を塞ぐのか?
ここにも言葉のレンズとしての働きがある。

「感謝をしたひとは、謝意を表明したひとがするような振る舞いをするという一種の約束を相手と交わしたことになる」というようなものだろう。(35頁)

それはどういうことかというと「私も同じようにピンチになった時、雨に濡れそうになった時、あなたもまた、私を助けてくれますよね?」という。
ややこしいというか面倒くさいと思う水谷譲。
でもこんな言葉遣いは水谷譲はどこでも見かけているハズ。
これは日常でこういう言い回しはある。
ラジオでは使わない。
でも同じ語法をコンビニで見ているハズ。
時々おトイレを拝借して、そのおトイレの水洗の入り口のところに書いてある。

トイレなどにある「きれいにご利用いただきありがとうございます」がある種の行動を促す機能を持つのかという話をした。この貼り紙によって、それを提示したひとは感謝という言語行為をおこなっている。−中略−感謝されるに値する行為(つまりトイレをきれいに使うこと)をもたらすのではないか。(32頁)

ある意味脅迫というか「きれいに使わなくちゃいけないんだ」という気持ちになる水谷譲。
それが「You're welcome!」。
言葉というのはこういうふうにして考えると、まことに面白いもの。
未来に於ける関係を先回りして今、言うことによって共同の未来を持てるような言葉遣いが世の中にはある。
「いつもきれいに使ってくださってありがとう」
まだ使っていないのに。
それを言うことによって「きれいに使おう」という気になるという。
言葉によるコミュニケーションとは「私をあなたに言葉で伝えること」ではなくて「私とあなたの振る舞いを今後こういうことにしましょう」という約束事の為に人は語り続けるのである、と。
まさしく言葉とはレンズ的、近眼で使ったり老眼で使ったり。
言葉とは不思議なもの。
前に入ったお手洗いで「トイレットペーパーを持ち帰らないでいただいてありがとうございます」と書いてあって「ああ、持ってっちゃう人、いるんだな」と思った水谷譲。
そういう言葉遣いの面白さというのはある。
万引き防止の究極の脅し「ちゃんと見てるぞ」。

コミュニケーション。
人間と人間が言葉で繋がるということは、その言葉の隅々の中に「これからの二人の振る舞いをこうしましょう」という、「未来完了形」というか「未来で完了するであろうその行為にこれから向かいましょう」という言葉遣いがあるという。
「未来完了形」というのは、いい言葉。
この「未来完了形」というのは「みなしの約束」「約束とみなす」という。
このコミュニケーションの約束の誤作動、受け渡しが上手くいかない、それが「ハラスメント」である。
なぜハラスメントになるかというと、渡された言葉を逆に取ってしまう。
「嫌い」と言われると、これを「好き」と勘違いする。
「帰ります」と言っているのに「帰りたくない」と、こういう逆の反応になるという。
男女間に於いては特にそうだが、真逆に表現する時がある。
武田先生は典型的に真っすぐ取ってしまって痛い目に散々遭った子だから
やはり「武田君、いい人よね」と言われると「この女、惚れてるな」と思う。
本当にそう言っている人もいると思う水谷譲。
女性の場合は無い。
やはり「いい人ね」と言われると武田先生は「あぁ」となるのだが、実はこれは「どうでもいい」という。
一番曲者なのは絶世の美女がちょっと眉間に皺を寄せて「あたしあの人嫌い」とかと言う時。
それはよく考えたら「好き」の表現だったり。
別情報で、(海援隊の)リードギターの千葉(和臣)が小声で「できとうよ、あの二人は」と言ったりなんかするという青春の頃のフォークソングのグループ活動の中にあった。
女の子は困ったことに「大嫌い」という言葉で「大好き」を伝えることがあるという。
「もう帰ろうかな〜」なんて言った時に「じゃあまたね」と言われると「おいおい!止めてよ」と思ったりする水谷譲。
これは人のネタなのであまり言ってはいけないが、もうジジイになったのでお互いにボソボソみっともない恋愛話をするようになって、千葉和臣はなかなかの美男子だった
可愛らしい年下の恋人がいて、武田先生達、中牟田(俊男)もそうだがなかなか女子の言葉が読めない。
千葉は最高傑作で、その女の子が「あたし寒い」と言ったらしい。
薬局に風邪薬を買いに行っている。
「風邪をひかせてはいけない」という。
でも女の子は「ぎゅっと抱きしめて暖めて欲しい」それが言いたかった。
千葉がせつなそうに「俺、一生懸命薬局まで行ったよ。『ちょっと熱があるかも知れんとですよ』相談したったい。もうその間に彼女はおらんことなっとった」。
こういう言葉の齟齬というのは・・・
言葉はやはり「哲学」。
親が子に向かって「オマエなんか死ね!」という。
それは「死んじゃいけないよ」ということを「死ね」という表現で。
そういうことはある。
「出ていけ」と言いながら「出てゆくな」ということを叫びたい親心というのがあって。
このへん、測り切れない言葉の軽い重いがある。
その中でこの方は「からかい」という受け渡しのミスがある。

「からかい」が「遊び」の文脈にあること(51頁)

だが言われたその人は「本当のことだ」という意味で取ってしまうという。
「からかい」によってマイノリティーのジェンダーの人達はサークルの中で傷つけられてしまうという。

ここからこの話になってしまう。
このあたりで武田先生もアホで、やっと少しわかってきた。
著者はトランスジェンダーで。
今は女性として生きておられる方で。
性別に於ける言葉遣いに悩む。
それ故に言葉を哲学にするという学問を選ばれたという方。
ジェンダーの問題を外しても己を語る為だけの哲学ではない。
言葉遣いの歪みの指摘というのは、この人から受けると鋭くて実に武田先生にとっては興味深くなる。

何でもいい。
これは国会答弁でよく出てくる言葉。

 どこが気になるかというと、「議論が尽くされていない」という表現である。(61頁)

「国会での議論が足りないので結論は出せない」ということを言いたいが為に「議論が尽くされていないという」こういう言い方をする。
最近、これは何でも言う。
流行り。
「103万円の壁」とかという時に、「与野党間で議論が尽くされていない」という。
この「議論が尽くされた・尽くされない」というのは議論している当人から外れた第三者が測るものであって、ジャッジする審判がいて「はい、議論尽くされました」と言う人がいない限りできないはず。
(このあたりの話は本の内容とは異なる)
こういう曖昧な言葉遣いが現代で非常に多い、という。
それから「論破された」というのが好き。
「その人の言っている理屈を叩き伏せられた」という意味で「あの人は論破された」と言うが、これも実体の無い言葉で審判がいるワケではないから。
「アンタ勝ち」とかと、そういうことにはならない。
「ディベート」
懐かしい言葉。
司馬遼太郎が日本語訳で「ディベート」のことを「減らず口」と訳した。
見事。

三木那由他さん「言葉の風景、哲学のレンズ」という講談社刊の本。
なかなか難度が高くて、一生懸命読んだ。
そして読み始めてから感性が独特なので驚いていたらトランスジェンダーの方で、今は女性として生きておられるという。
トランスジェンダーとしての体験からあぶりだされた深い思索があるような気がする。

92ページの章で「カミングアウト」を取り上げておられる。
「カミングアウト」というのも最初に出てきた時に何だからわからなかった武田先生。
武田先生はもちろん「金八先生」で
3年B組金八先生(第6シリーズ)|ドラマ・時代劇|TBSチャンネル - TBS
(鶴本)直という女の子が突然、お母さんに向かって「私今日、カミングアウトしちゃった」と言ったらパッとお母さんの顔色が変わって。
武田先生はわからなかった。
上戸彩がトランスジェンダーの少女役でそれをやった。
その「カミングアウト」が乱れ飛ぶのだが、演出家も説明してくれないから、「カミングアウト」と(いう言葉の意味が)ずっとわからなかった。
その頃、生まれた言葉ということだと思う水谷譲。
そうやってどんどん新しい言葉が生まれてくる。
何かこうついていけない。
「アップデート」の意味を教えてくれたのは指原さんだった。
「アップデート」もわからなかった。
武田先生は「急いでデートコースを回ることかな」。
響き的にはそう。
武田先生は「アップテンポ」とかそういう言葉は知っているが「アップデート」だから、バーっと忙しく車でデートーコースを回る、「東京タワーの次、浅草よ」とかという感じかなと思ったら全然違う意味で。
でも指原さんが、「アップデートって何?」と武田先生が番組の中で訊いたら、絶望的な顔をなさった。
「このジジイ、何にも知ら無ぇや」という。
「何?」と言われても説明する言葉が出てこない、「アップデートはアップデートだから」と思う水谷譲。
そういう言葉は今、凄く多い。
「M&A」
それは「吸収&合併」だと思う水谷譲。
武田先生は「チョコレート」だと思った。

マースジャパン M&M'S ピーナッツシングル 40g×12袋



何か似たようなことはいっぱいある。
それから武田先生が間違えた音楽のグループ。
「レミオロメン」
我々はカタカナで入って来たことを日本語に訳せないまま生きているという。
「カミングアウト」もそう。
カミングアウトを日本語で説明すると「告白する」みたいな感じかと思う水谷譲。
ところが「告白」と思いがちなのだが、トランスジェンダーのこの方にとって「カミングアウト」というのはそれだけでは済まない。
なるほど、言われてみてわかる。

カミングアウトを言語行為的な観点から取り上げる研究がある。(94頁)

これを発話することで話し手はあるときには主張をおこなったり、報告をしたり、説得をしたり、いろいろな行為をおこなっている。このように言語を用いてなされる行為が言語行為であり(95頁)

このカミングアウトをした後はどうなるかというと、自分の性の変更を告げるワケで。
「私は男としてふるまっているが、実は女であった」
このカミングアウトをした後は、会う人ごとに、ずっとその事情を説明しなければならない。
「告白」だけでは済まない。
告白し続けなければならない。
新しい人に会う度に「私は実は」「男性としての戸籍を持っているが、本当は女性で、しかもカミングした後、女性として生きています」という顛末を告白し続けなければならないという言葉が「カミングアウト」。
そうやって考えてみると「発語内行為」という、何か言葉を発するとその発した言葉が行為で支えられるという、行為し続けなければならないという。
これは大変。

発語内行為はたいていの場合、誰もがいつでも自由におこなえるようなものではない。例えばスポーツの試合で反則を取れるのは、きちんと認められている審判が適切な手続きに則って発話をおこなう場合だけであって(98頁)

このような存在があれば「カミングアウト」とはずっと楽であるが、そういう存在が無い限り日常は実に厳しい。
相手に対して絶えず自分の顛末を、自分の文脈を説明し続けなければならない。
そして親に対しては「今まで育ててもらった文脈の全てを改定して欲しい」という「男の子として育てられたが、女の子だったというふうに変えてください」と。
そして他人に対して「私は『シスジェンダー』『生来の生まれついての女性』ではなく人生のあるところから女性になった」というカミングアウトをし続けなければ、告白し続けなければならないという。
「カミングアウト」というのは大変な行為。
ただ、本を読んでいて、彼女がおっしゃっていることはわかるような理解できるような気がする。
著者は「『その人生は間違ってる・間違ってない』そんなことをやる為に人間は生きてるんじゃない」と。
「人間はぐねぐねと生きていく」という。
ぐねぐねと「正しい」「間違っている」だけではなくて矛盾こそその人の命の奇跡である。
矛盾こそ、その人の個性でありその人の興味深いものである、と。
こういうのが大好きな武田先生。
内田樹大先生の本の中で「人は間違った時のみ個性的です」という、その一行に触れた時にもう武田先生は雄叫びを上げた思い出がある。
そう。
間違っている時は個性的。
正しいことをやっている時は個性も何も無い。
そうやって考えると「正解」はつまらない。

 私が血液検査を受けた結果、中性脂肪の値が高すぎて心配になったとしよう。心配なものだから、次に検査を受けるときまでには中性脂肪の値をいまより下げておきたいと私は考える。さらに、運動をすれば中性脂肪の値が下がると私は思っているとする。−中略−たいていの人間はそこまで理性的ではない。私は、甘いものを控えるのが中性脂肪の値を抑えるのに寄与すると思っているのに、甘いものを控えられずにいる−中略−そんなことをしてしまうのは不合理というほかない。
 こうした不合理性はしばしば「意志の弱さ」と呼ばれていて
(106〜107頁)

「意志の弱さ」を表す古代ギリシア語の「アクラシア」という言葉(107頁)

こういう人間の「意志の弱さ」がその人の「個性」になっているという。
実は理性を弾ませる内なる力は何かというと、この意志の弱さである。
意志が弱い時だけ人は激しく理性で「だからこうしなきゃダメなんだ!」と自分に命じるという。
やはり人間は一筋縄ではいかない。
私達は意志の弱さを痛感する度に理性の正しさを思い知る。
様々な推論を並べる能力は意志の弱さが原動力となるのである。
「こうすればいい」「ああすればいい」というのは。
人間の行動と心理もまた推論に結びついている。
故に理性的ではない。
外れたところに理解のカギがある。
故に私達は不合理に魅力を感じてしまう。
だからこそ大好きな人に向かって逆に「大嫌い」と叫んでみたりするのであるという。
まさに男女間はそういうことだと思う水谷譲。
この不合理こそが物語になる。
合理的物語は面白くもなんともない。
老刑事がいる。
若い私立探偵がやって来た。
「情報を知りたいんだけど」
そうしたら老刑事が「オマエごとき私立探偵にそんな重大なことが教えられるはずがない」
バタン!
ドアを閉めた。
これ。
そこでお終い。
物語にならない。
映画のシーンで言えば、どこから物語が始まるか?

 職務に忠実な刑事が、顔なじみの私立探偵から情報提供を求められる。刑事は部外者に情報を漏らしてはならないということを理解している。−中略−「部外者に情報を教えるわけにはいかない。だが、少し煙草でも吸ってこようと思う」などと言って席を立ち、自分が席を立っているあいだに捜査資料を覗き見するようそれとなく探偵に促すといった振る舞いをする。(110〜111頁)

シーンになる。
つまりここでは真逆の言葉が。
私達はそのような矛盾した行動を見ると感動する。
だから「矛盾する行為」とか「意志の弱さ」とかそういうものが物語を推進する、推し進める力になってゆくという。
そういうのが無い人は「クソ面白くない」と思う水谷譲。
お願いだから「クソ」を付けないで欲しいと思う武田先生。
つまり私共はこういうシーンを見ると「粋だなぁ」とか心理の読み合いの綾を知る。
そのことがやはり人間の面白さではないかなというふうに思う。

ちょっと今週は偏った哲学話かも知れないが、実はこれは今、そこら辺にいっぱい溢れている出来事。
私達の生活は簡単そうに見えるがややこしい。
謎がいっぱいある。
「人間はなぜその時そう言ったか」というのは全部謎。
謎を「クソ面白くもない」と水谷譲がおっしゃった理屈で解いていくと、どんどん世の中つまらなくなってしまう。
私達は解けない謎の真ん中にいるという「非理性的」「不合理」な世界にいると、そういうふうに思うとこの世界に更なる興味が湧いてくるという。
これはまだネタがあるので来週も続けてみたいと思うが、理屈っぽい話で申し訳ない。




2025年05月18日

2024年10月14〜25日◆倍音(後編)

これの続きです。

(番組冒頭は文化放送「浜祭」でのグッズ販売の宣伝)
さて本題だが、まな板の上は「倍音」が乗っている。
(著者は)中村明一さん、春秋社から出ている、ズバリ「倍音」という本。
発想は「声」を「音」という段階から考えようという。

歌謡、芸能の世界から入っていって、ゆっくりとお喋りの世界、それを辿りながらというところが武田先生にはたまらなく面白かった。
ここから声の方で「音」というのを見ていたいと思う。

政治の世界でいかんなく発揮したのが、田中角栄元首相でした。(59頁)

彼の演説の巧みさは群を抜いていた。
確かに本当にそうで武田先生も聞いたことがあるが、長岡の駅前で遊説を始める。
その時の第一声。
「ばあちゃん!」
その言い方が、何となく愛嬌がある。
喋りというのは不思議。

テレビ番組のインタビューに際して「……私は…シャケが好きでしてねえ…」と濁らせた声で、つまり[非整数次倍音]たっぷりで答えていたことが−中略−[非整数次倍音]を聞かされた私たちは、妙に親近感がわき、身近にいる人、という感覚が生じて、彼のことを好きになってしまったのです。(60頁)

(番組では政治家のパーティーの席での発言というような説明をしているが、本によるとテレビ番組のインタビュー)
この方が文春報道等々によってロッキード事件の親玉ということで「越後の悪代官」のイメージで見られた時だが、そこで大パーティーが行われた。
ゲストで呼ばれたのだろう。
それで挨拶をするのだが、その第一声が「ワタクシが田中角栄であります」。
これだけ。
「ワタクシが田中角栄であります」
会場大爆笑。
「ロッキード事件に関して何か言うのではないか?」という期待の真ん中で「ワタクシが田中角栄であります」という。
それが皆さんにはユーモアと余裕に見える。
大爆笑。
コロッケの「こんばんは、森進一です」。
これで爆笑を取るのと同じ。
どんな本音が聞けるかと思ったら何のことはない、ただの名乗りだった、自己紹介だったというところがおかしい。
このへんが[非整数次倍音]。
非整数の声、波の声ではない。
ノイジーな、そういう波音で声を聞かせると人気者が出てくる。
田中角栄の対極を置く。
田中角栄さんの対極にいる声を音にした持ち主は誰か?

小泉純一郎氏の場合、田中角栄氏とは違って、[非整数次倍音]を前面に出した声で演説をしていました。−中略−「自民党をぶっ壊す!」「感動した!」というように、発言の強さはありました。内容、言い方は強かったのです。しかし、声は[非整数次倍音]の豊かな声でした。少し濁って、ザラザラ・カサカサしていたのです。この倍音はダイレクトに心に響いてきます。(61頁)

(番組では田中角栄氏が[非整数次倍音]で小泉純一郎氏が〈整数次倍音〉という説明をしているが、本によると角栄氏は両方を使いこなしているが〈整数次倍音〉が強く出ていて、小泉氏は[非整数次倍音]だった)
これは本人の口調ではなくモノマネ芸人の小泉純一郎さんのマネをなさっていた、そのマネの中にこんなヤツがあった。
大観衆が彼を待っている。
そこに小泉純一郎のモノマネの人が出てくるのだが、もう出て来た瞬間から小泉純一郎になりきっている。
会場を静かに見渡して「何の集まりかは知りませんが、おめでとう」という。

さあ、では芸能ではどうか?

 まず、タモリです。彼は〈整数次倍音〉が非常に強い声の人です。−中略−タモリは、どちらかというと若い芸人やタレントとよくからみ、友だち付き合いをしているように、同レベルで親しみやすい内容の話をします。こうして親しみやすさの意思表示をしながら、〈整数次倍音〉の強い声で、どこか上のほうから、どこか遠くのほうから見ている人、というポジションを獲得しているのです。(63頁)

 次にビートたけしを見てみましょう。−中略−話している内容は、きわめて毒のある、一見世をすねた、斜に構えた発言をしているのですが、声質が[非整数次倍音]を多くふくむ、カサカサしたものです。−中略−それゆえ、ひどい嫌みを言ってもそれが嫌みに聞こえない、ということが起こるのです。(63〜64頁)

さんまさんもそう。
[非整数次倍音]
これが単独の芸人さん。
ここから漫才コンビに入る。
ボケとツッコミ。
吉本の漫才の元型は「やすきよ」。

ツッコミの西川きよしは[非整数次倍音]、ボケの横山やすしは〈整数次倍音〉でした。これはむしろ、役割からすると逆のように思えます。−中略−これ以降、売れているコンビにはこのパターンが多くなっていきます。(65頁)

「ダウンタウン」も、元々、この形でした。ツッコミの浜田雅功は[非整数次倍音]の持ち主(66頁)

こんなふうにしてお笑いにもボケとツッコミの領域、エリアがあって、これを取り換えてはいけない。
ボケた人がボケたままツッコむと大変な炎上騒ぎになるという。
敢えて触れないが、あの8月、9月の番組を見るとおわかりでしょう。
オリンピックのメダル選手を迎えての司会は浜田さんと上田さんだった。
それがボケ・ツッコミのバランスの面白いところ。

「なるほど」と思うが[非整数次倍音]と言うが「ノイジーな声」。
だがノイジーな声というのはパッと引き付けるという、そういう力があるんだよ、という。
〈整数次倍音〉これは魅力的だけども、力量を持っていないと人を聞かせることができないよ、という。
ジョン・レノン、ボブ・ディラン。
この二人は[非整数次倍音]。
そしてもうくどいが美空ひばり、北島三郎、この人達は整数と非整数を自由に行き来できる。
それが歌の上手さになっているという。
整数と非整数を揺らしながら歌が歌えるという。
彼の人の歌唱力の中には日本人の何かを揺さぶっている、私達がただ「歌」と思っているが、実は深いところを掴まれているのではないだろうか?

日本人ほど音の響きについて敏感な国民はいない。
例えば普段の暮らしからみてそうだが、世界中でそんなことをやっているのは日本人だけだろう。

 象徴的なもののひとつが、美味しいスイカの選び方です。八百屋さんの軒先に並んだスイカを、おじさんがポンポンと叩いて「ほら、いい音がするだろう。こっちのスイカは甘いよ」と声をかけてくる。−中略−私たちは、叩いた時の音で、スイカの味を聴き分けていたのです。(75頁)

 海外では、果物売り場でメロンをポンポン叩く光景など見たことがありません。(76頁)

少なくともハリウッド映画などには出てこないと思う水谷譲。
ムスターファとかが出てきて、西洋の長いスイカをこう叩いて「あ!熟れてる」とかと。
そんな人は見たことが無い。
「甘いかどうか」というのを音と手の感覚で確かめるというから、舌で味わうものを指先の感触とか耳で確認するというのは本当に変わっている。

 叩いた音で中身を知る、という方法を、専門的に利用している場があります。缶詰工場です。−中略−打検士と呼ばれる検査士が缶詰を叩きます。叩いて返ってきた音で、その缶詰の状態を判断するのです。(76頁)

それからトンネルか何かもヒビ割れが入ってないかどうかをコンコンコンコン叩きながら「こことここが弱くなってる」とかと叩いた音の反響で異常を知るという。
日本人の耳というのは凄い。
凄いところに話が飛んでしまうが、日本人というのは潜水艦を作るのが上手。
何で上手かというとスクリューの磨き工程が上手。
潜水艦のスクリューを磨く人達がいて、この人達が磨くと海底で回しても音が全くしない。
それが技術で。
武田先生はやっとわかったが、潜水艦みたいなところに行くと初めて納得がいくのだが、原子力潜水艦というのは意外と使い物にならないらしくて、どこにいるか音で一発でわかる。
原子炉がずっと燃えている。
あれは海底の中ではすぐ聞こえる。
やはり物事というのは進み過ぎると厄介なところが出て来たりするんだな、と。

打検士の話に戻る。

 どのくらいの速さで検査ができるかといえば、通常一分間に二〇〇〜三〇〇個。−中略−一日一人当たり一〇万個の検査をすることができる。(77頁)

こんな耳を持った人というのは非常に珍しいということ。
リラックスした時、世界の人々は柔らかいものの上に腰をおろす。
ソファーとか椅子とかというのがあるのだが、かつての日本人は柔らかいといっても座布団が精いっぱいで椅子みたいにひじ掛けとか背もたれが一切付いていないので、そうすると衣服というものの根本の思想が違って、例えばベルト。

帯は、洋服のベルトとはメカニズムが異なります。−中略−帯は骨盤の上に巻くので、同じようには、できません。帯を締めて着物が着崩れないようにするためには、腹を出し続けていなければならない。(82〜83頁)

これは武田先生もいろいろ考えた。
皆さんに何を説明しようかなと思ったが、相撲で言うところの蹲踞(そんきょ)の姿勢。
或いは優勝力士がトロフィーを抱えて笑顔で。
あの時はおなかがまわしの上に出ている。
あれが関係しているという。
武田先生は「なるほど」と思ったのだがあれは腹式の呼吸をする。
(本によると「密息」というもので「腹式」とは異なる)
おなかを帯の上に出す。
そのおなかを息を吸うたびに上下させない。
そうするとおなかを動かさず呼吸ができる。
これが日本人の発声なんかに関して凄く有利に働いているのではないだろうか?という。
水谷譲は感動していたが、北島三郎という人は「風雪ながれ旅」を歌う時、必ず袴を付ける。

風雪ながれ旅/北の漁場/まつり - 北島三郎



あの帯の結び目に北島三郎さんのおなかが乗っている。
だからあのいい声が出るのだという。
来週から水谷譲も帯でやるように。

政治家の声、等々を辿ってきたがいよいよ水谷譲のアナウンスの方にもいってみたいと。
平べったく言うと、水谷譲も音の職業だから。
日本語の持つ音色性、倍音は日常の中に息づいていて、我々はわずかな響きの違いを微妙に使い分けながら生きているという。

「傘の絵」、「傘の柄」と発音してみてください。「え」の音の違いが分かりましたか。−中略−「絵」の方が、倍音が強いことが分かります。私たちが同じ音だと思っていた「絵」と「柄」は、実は異なった音だったのです。(93頁)

「絵」の方は響かせるのだが、取っ手の方の「柄」は響かないように。
「純音」というのはそう。
かくのごとく意識しないでもちゃんと使い分けている。
だからこの筆者が言う通り「倍音」というのがいかに深く体の中に潜り込んでいるのはわかる。

 同様に、「死」、「師」、「詩」について考えてみましょう。「死を悼む」、「師を敬う」、「詩を書く」と言ってみてください−中略−「死」は「sh」を強調しています。「師」はあまり強調していません。「詩」の場合は逆に「い」を強調しています。(93〜95頁)

僅かな響きの違いで、まあ日本語というのは大変だ。
これをやっているワケだから。
これを勉強する人は難しいと思う水谷譲。
同じ「し」でも全部響きを変えて相手に伝えようとするという。
この「響き」というところが日本語の特徴。
そして日本語の共通点だが筆者も面白いのを挙げてくる。

『怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか』−中略−の中で、さまざまな男性の心をくすぐるものの名前に濁点が付いている(ゴジラ・ガメラ・ガンダム)とか、売れる自動車にC音が多い(カローラ・クラウン・シーマ)ということをあげています。私の観点からすると、ガ行もC音も、いずれも[非整数次倍音]が強い音です。(96頁)

怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか(新潮新書)



「助けて」という重要な言葉であっても、英語では[非整数次倍音]を入れないで普通に「ヘルプ・ミー」と言えば、聞き手も「助けて」の意味として受け取ることができます。しかし日本語の場合、[非整数次倍音]を込めて声を濁らせないと「本当に重要である」という言葉通りの意味が認識されません。(37頁)

(日本語の)「助けて」は歌にならない。
一曲だけある「老人と子供のポルカ」というので左卜全(ひだりぼくぜん)という人が

おお 神様 神様 たすけてパパヤー
ズビスバー
(左卜全とひまわりキティーズ「老人と子供のポルカ」)



「助けて」と言えば大ヒット曲。
「ヘルプ!(Help!)」



ビートルズ。
「ヘルプ」で成立する。
ところが「助けて」には歌唱・歌謡にはならない。
なぜならば「助けて」と叫ぶ時、表情が決定しているから。
その顔じゃないと「助けて」は言えないので、その顔で始められる歌は無い。
サビだけ急にそういう顔になるというのは無理。
悲惨な一語を楽しい顔で歌うことはできない。
それが日本語なのである。
映画やドラマでは、この響きだけでセリフを持つ俳優が数多くいた。
これが先週話しかけてやめたところ。
日本の映画の中にはセリフが非常に不明瞭なことを個性とする俳優さんがいた。
そのトップバッターが左卜全という方で。
それがもう一人、子供の頃に時代劇スターで大河内傳次郎という人がいる。
何を言っているのかわからない
セリフがはっきりしないのでよくモノマネをされる。

東野英治郎をはじめとする役者の話し方が、現在とは非常に違っていることに気が付きました。−中略−「にってんでぇ。んなこてってるけど、めぇなんかくぅだろぅ」(何言ってるんでえ、そんなこと言ってるけど、てめえなんかこうだろう)。(109頁)

どん底



映画で見るとわかる。
こういう言い方をした。
かくのごとく「セリフが不明瞭で、セリフが伝わる」という演技がかつての日本の映画界にはあったということ。

(この日の最初は冒頭部分から引き続いての「暗黒の木曜日」関連の話なので割愛)
ここから水谷譲の出番。

 それに対して、現代の、−中略−テレビ・ラジオのアナウンサーなどは、非常に違ってきています。−中略−口を大きく開け、言葉をきっちり区切って話しています。しかし、口を大きく開けることにより、倍音の高い成分がなくなります。(110頁)

だから水谷譲なんかもぜひお考えになってください。
水谷譲は〈整数次倍音〉の習慣がある。
これを職業となさっているが、どこかで[非整数次倍音]、それを技として水谷譲も持たないと水谷譲の老後はない。
自分で訓練すれば持てるものなのか?と思う水谷譲。
これが本当に面白いことに日本の古典を練習すると水谷譲も上手くなる。
落語の口真似でもいい。
そしてもう一つ、[非整数次倍音]の練習で歌舞伎。
[非整数次倍音]のお手本、それは歌舞伎。
歌舞伎というのはセリフを明瞭に言うと全くつまらなくなる。
(明瞭に発音して)「知らざあ言って聞かせやしょう 浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の 種は尽きねえ七里ヶ浜」
これは非整数を目指す。
「わかんないとこはわかんなくていいんだ」と開き直って「知らざあ言って聞かせやしょう 浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の 種は尽きねえ七里ヶ浜」。

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そうすると歌舞伎の演技になる。
整数で喋っていると歌舞伎の芝居にならない。
それと落語が持っている「(不明瞭な発音の言葉)」というそういう非整数の喋り方。
そこが実は魅力なのである。
非整数を狙う。
それがいわゆる葛飾北斎が描いた波の絵になる。
アナウンサーの方は大波だけ届けようとするから。

 西洋音楽では、音高と時間的位置という要素に、決定的に大きな優先度が置かれています。それに続いて、音量という要素、その後に音質(=倍音構造)、という優先順位です。(114頁)

日本人にとっては、「この音高で奏でる」ということよりも「この音質(倍音構造)で奏でる」ということの方がより重要だったのです。
 一方、時間と音量の情報は、古い尺八の楽譜には、まったくありません。個人に任されているとも考えられますし
(116頁)

 たとえば、能などにおいては「イヨーッ」というかけ声とともに、間を計り、「ポン」と鼓を打つことがあります。−中略−
 アメリカでワークショップをしたときに、お手本を示してからアメリカ人の受講生に「イヨーッ、ポン」をやってもらいました。すると、受講生たちは、「イヨー(ワン・ツー・スリー)ポン」とすこしかけ声を変えて、それに合わせて手を叩く「間」を変えると、彼らは「さっきは四拍目で叩いたのに、なぜ今度は二拍目の裏で叩くのだ」と、多くの人が疑問を口にしました。
−中略−
 ところが日本人の場合は、誰もそのような疑問を持ちません。私が日本で、一番多くの人と行った事例では、約二〇〇〇人に、「イヨーッ、ポン」と手を打ってもらったことがあります。これだけの人数でも、日本人ですと、一糸乱れず、見事に「ポン」が合います。しかも、カウントを取る人はいません。
(141頁)

(番組の内容とは若干異なる)
武田先生も一回だけ体験したことがあるのだが、あるパーティーで「手締めでいこう」というので、外国の方がいらっしゃったので、「関東一本締め」で「ヨーオ、パン」でいこうと「一本だけだからできるだろう」というので少し説明して入ったがダメ。
バランバラン。
だからリズムではなくて「間」でポンと叩く。
何でこういう間の習慣が付いたかというと、この人は面白い。
こういう間の練習を小さい頃、我々はさんざんやったという。

たとえば、ジャンケンを考えてみてください。「じゃんけんぽん」と声に出してから、動作をし終えるまで、無意識のうちに相手との「間」をはかり、呼吸を合わせていることに気が付きませんか。(177頁)

(外国の人は)できない。
パックンマックンとかやらせるとダメ。
とにかくビッタリ合うという、この「間」というのは日本人はなんだかんだ言いながら、体の中に沁みついている。
そして、この作者は、このあたりを一番説明したかったのではないか?
この方は尺八奏者。
この「間」は時に能の拍子で

能の囃子に用いられる能管という笛(143頁)

能管 合竹製 紐巻



ここで重大なのは音階を静かに上がっていった音が、突然整数次から非整数次へ飛躍する。
能狂言でこんな音を聞いたことはないか?
「ピョー〜〜〜ピョォォォォ」
この笛が〈整数次倍音〉「ピロロ〜♪」とかと弾いていて、突然音がある間を挟んで[非整数次倍音]に「ピョ〜」と鳴ったりなんかするという。
これは舞台上のもちろん演出の為だが

大きな倍音の変化により、空間も歪みます。時間も空間も異様に歪んた状況において、現実世界とは遠い異界への扉が開いていきます。(144頁)

この[非整数次倍音]へ飛んだその間の後から死者、或いは霊が登場するという、そういう展開のきっかけに[非整数次倍音]があるということ。

 もともと、倍音が強い音というのは、火山の爆発、地鳴り、台風など、人間にとって異様な状況の時に現れる音でした。倍音が強くなると、脳はさまざまな反応をし、脳の状態が通常とは異なった段階に上がります。(144頁)

そういうので整数から非整数次へ飛ぶ音に関しては過敏になったのではないだろうかという。
これは面白い。
これはあくまでも筆者の感じたことだと思うが、この手のことが国際的に日本の文化の中から外へ流れ出したんじゃないか?
ジョン・レノンなんかにもあるが、やたら非整数を使う。
東洋の文化の影響かどうかわからないが、ジョン・レノンは異様な音が好き。
だから初期の作品だがハウリングから始まる、そういう音楽があった。
「アイ・フィール・ファイン(I Feel Fine)」なんかがそう。

(本放送ではここで「アイ・フィール・ファイン」が流れる)



つまり、非整数次、ノイジーに聞こえるものの中に音楽性を見つけるという。
そうやって考えるとビートルズ、特にジョン・レノンはもの凄く東洋の影響を受けている。
「スターティング・オーヴァー (Just Like) Starting Over)」だったかソロアルバムでも仏壇のチーン!と叩くような音から始まったり。



仏壇っぽい。

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あの人は日本人のノイジーが好き。
「世界は女の奴隷か」で何か誰かから聞いたがクールファイブを聞いて感動したという。

女は世界の奴隷か! (2010 Digital Remaster) [Explicit]



(「世界は女の奴隷か」ではなく「女は世界の奴隷か!」。意味が逆になってしまう)
あんなしつこいサックスの音を好きなのは日本人だけ。
「ああああ〜長崎〜は〜♪」で「ブブブブ〜♪」というのはノイジー。



ノイズい近い。
だが「ノイズの中に何かある」というイメージを。
尺八もやはりノイジーで、最初から整数が出しにくい。

 人間は、物質とエネルギーを取り込んで成長し続ける有機体というモデルとして、考えることができます。(173〜174頁)

食事がそうで、そして人間は人間とコミュニケーションすることで人間を成長させる。
〈整数次倍音〉、或いは[非整数次倍音]、そういう声を持った人に関して人間というのは情緒豊かに育てることができるんだ、と。

本当はこれからもう一ネタあるのだが、もうネタがあり過ぎて、これを語るにはもう一週必要なので、今回はこれでやめておく。
チャンスがあったらこの続きをやりたいと思う。
それで実は何でこんなに「声」を「音」ということで皆さんに語ってみたかったかというと、一つ、武田先生の胸のうちにあることで、それがこの本の著者とビッタし考えが同じだった。
武田先生としては、それが凄くうれしかった。
この中村明一さんが「音の中に脳にまで沁み込んで脳を非常に癒す力が音にあるのではないだろうか?」こうおっしゃっている。

 声として発するときには、〈整数次倍音〉の方が、−中略−エネルギーが少なくて済むので、超高音波と呼ばれる領域の高次倍音まで出すことが可能です。−中略−この領域の超高周波を聞くと、α波をはじめ、脳内で快感となる物質、抗ストレス・ホルモン、免疫機能向上ホルモンを出すことが分かっています。すると気持ちが良くなり、癒され、リラックスし、精神が安定し、−中略−免疫機能が向上するといった働きが起こる。(36頁)

この音の解釈は凄い。
美空ひばりや北島三郎さん、或いは三波春夫という人達の歌声、それが戦後の日本の中でなぜ誕生したかというと、日本人の大脳に沁み込んで彼らを励ます強いエネルギーになり得たのではないだろうか?
そう思うと、ただ単に歌謡史の問題ではなくて、これは精神まで沁み込んできた「声」ではなく「音」ではないだろうか。
そうやって考えると素敵なオチ。
「楽」という字を書いてください。
「音を聞いて楽しい」これが「音楽」。
そして音楽の「楽」に「くさかんむり(艹)」をかぶせると「薬」。
このオチを考えた(武田先生が)武田先生を好きになった。
というワケでうぬぼれ一杯だが、まだ落ちはついていないので、どこかのチャンスでこの「倍音」のパート3をやりたいと思う。


2024年10月14〜25日◆倍音(前編)

(この回に関しては、また別の機会に続きをやるような話をしていたので続きが終わってからアップしようと思っていたが、一向に続きが放送されないので放送された分のみ紹介する)

(番組冒頭は文化放送「浜祭」でのグッズ販売の宣伝)
本題だが今週、まな板の上は「倍音」が乗っている。
中村明一さん、春秋社から出ている一冊なのだが。

倍音 音・ことば・身体の文化誌



(番組の中で、正しく言っている箇所もあるが「整数次倍音」のことを「整数倍音」と言ったり「非整数次倍音」のことを「非整数倍音」と言ったりしているが、全て本の表記と同一の〈整数次倍音〉と[非整数次倍音]に統一しておく)

武田先生は奇妙なものに引っかかってしまって、三波春夫という昭和歌謡・演歌史の講談・浪花節の作品で「俵星玄蕃」というのがある。
それが9分間にも亘る長編浪曲・講談・歌謡曲なのだが、この作品を三波春夫さん自身が作ったという事実に圧倒されて、三波さんはなぜ作り上げたのだろうか?と、そこを考え始めた。

長編歌謡浪曲 元禄名槍譜 俵星玄蕃



ちょうどひっかかることに、この番組でもお話したが、武田先生は1970年の頃青春を過ごしていて、その1970年、まさに学園紛争のただ中で大学生だった武田先生。
ヘルメットの反戦運動の学生達が日本中に溢れたという。
その遠い思い出の中に九州のある大学で文化祭に出演したら過激派の学生から声をかけられて、そいつが言った一言「三波春夫の『俵星玄蕃』、あれ聞いてると何で涙が出てくるのかね?」という。
(この時のことに関しては2024年8月12〜16日◆俵星玄蕃で詳しく語られている)
ヘルメットの過激派の学生。
それが「俵星玄蕃」に感動しているというのが武田先生には不思議でならず「さあ、わからないな」なんていう返事をしたのだが、歳月が流れて50年の歳月、ある人の本を読んでいたらアルベール・カミュの一言「反抗的人間」という作品があって、その中でカミュの言葉だが

「人が死ぬことを受け入れ、時に反抗のうちで死ぬのは、それが自分個人の運命を超える『善きもの』のためだと信じているからである。−中略−人がある価値の名において行動するのは、漠然とではあっても、その価値を万人と共有していると感じているからである。」

これはちょっと難しい言葉だが、そのヘルメットの学生あたりが必死になって戦っていたのは「ベトナム反戦」という運動が、武田先生達1970年を青春で生きた者の中にある。
それ故に我々は社会全体に反抗した、という。
「ベトナム人民が可哀そうじゃないか。何人殺せば気が済むんだ、アメリカ帝国主義」という、そういう思いがあった。
平和を希求する「善きもの」の為に激しく社会と戦うという運動が70年の学生運動の中にはあったのではないか?
それにしても三波春夫の不思議は「俵星玄蕃」。
よく考えてみるとこれも元禄という時代の中にあって幕藩体制、幕府の体制ゆえに簡単に「正しい」「間違っている」を決められて自分のお殿様を亡くした侍たちが起こした反乱と思えば、武士の筋を通すという意味合いでは彼らの正義がここにあったのではないか?と。
三波さんはそのことを訴えたかったとすれば、なぜ東京オリンピックの年にこの歌だったんだろう?と、そんなふうに思った。
スーッと頭によぎったのは三波さんの胸の中にシベリアあたりで死んでいった日本兵の姿、「私の中で、死んだ戦友たちは日本の正義を信じていた」という無念を、それを忠臣蔵と重ねたのかな?と思って、「凄いな」と思って三波春夫を辿っていたら、また凄いのに出会ってしまった。
一つ疑問を持つと疑問というのは芋づるで次々繋がっていく。
晩年の歌唱だが、三波春夫さんが1999年、NHKの企画で「一本刀土俵入り」という任侠ものをやっている。

トリプルベスト 三波春夫1「大利根無情(台詞入り)/一本刀土俵入り(台詞入り)/俵星玄蕃(メロ譜なし)」



二葉百合子さんとやっている。
(駒形)茂兵衛を励まして「立派な横綱になるんだよ」とかと言いながらやさしくしてあげる旅籠の女を(演じる二葉百合子)。
それを浪曲でやっている。
何度も何度も頭を下げていく茂兵衛。
「どんなに嬉しかったんだろうねぇ」とかと言いながら。
お蔦という、その宿場町の女が茂兵衛に向かって一声かける。
二葉さんが「よっ!駒形!」。
その声が何と言うか、しびれるぐらいいい。
この声の良さは一体何だろう?と。
朗々とし、凄味があって凛として響きがいい。
物語を始めるには最高の掛け声で背中にゾワりと泡立つものが感じられる。
こんな感激をなぜ感じるんだろう?
ただの歌謡曲ではない。
物語を辿るのだが、「歌声」なんていう軽いものではなくて。
とにかく声が入ってくる。
「これは一体何なんだろう?」と思った時に見つけたのがこの本。
「倍音」
武田先生はその時、直感で二葉百合子さん、三波春夫さんの歌声を「声」として解釈するのではなくて、「音」として解釈した方が正解に近づけるのではないだろうか?
とにかく歌声を一回「音」という基本の単位まで落として「倍音」という音に関する感性、それを今週から来週にかけて探っていきたいなと思っている。
日常の暮らしの中で「音」というものに注意を向けてみましょう。
奇妙なことに皆さんお気づきになりませんか?

 私たちの身の回りにはさまざまな音があります。そのなかには、よく知っているようで、考えてみると不思議なことがたくさんあります。−中略−
 テレビを見ていると、電話の音。
「あっ! だれからかな?」
 電話に手を伸ばすと、テレビの中で女優が「はい」。
「なんだ、テレビの音か」
 そうかと思えば、うちの犬は、窓の外から聞こえる犬の鳴き声には、どんなに遠くの小さな鳴き声にも反応するが、同じ室内のテレビから聞こえる犬の声にはまったく無反応。
(3頁)

 これらの不思議、謎を解く鍵は、「倍音」にあります。(5頁)

明らかに違うから反応しない。

人間の方にいく。
ドラマとか映画にもよくあるし、日常の暮らしの中でもあろうかと思うが、鹿威(ししおど)しがカーン!と鳴る。

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鈴虫がリンと鳴る。
季節はいつがいいか?
「秋」にする水谷譲。
除夜の鐘がゴンと鳴る。
「冬」だと思う水谷譲。
当たり前のようにおっしゃるが、私共は、かくのごとく音によって季節を言い当てることができる。
これはやってみないとわからないが、普段聞いている豪徳寺の夕方五時の鐘と、除夜の鐘の違いが分かるかも知れない。
私共は基本的に物音で季節を聞き分けるという力がある。
確かに「蝉が鳴いたら夏」と思う水谷譲。
私共にとってその風景の中にある音、自然の音、それが確実に季節を連想させる、という。

 テレビで芸人が森進一のものまねをしています。「森進一です」の一言だけで皆が笑う。何がおかしいのでしょうか。(4頁)

小泉進次郎。
あの人が選挙でやってきて「こんばんは、小泉進次郎です」と言ったらおかしくもなんともない。
何なんだこれは?
それが「音」ということ。
「音まで深く入って考えてみよう」という。

 私が小学校の頃、男の子たちは、音楽の時間に、歌うのがイヤでした。とにかく歌を歌うのが恥ずかしかった。(4頁)

そのくせ学校帰りには春日八郎とか三橋美智也は歌える。

三橋美智也 全曲集 おんな船頭唄 夕焼けとんび リンゴ花咲く故郷へ 赤い夕陽の故郷 石狩川悲歌 星屑の町 夢で逢えるさ おさらば東京 流れ星だよ 君は海鳥渡り鳥 お花ちゃん 哀愁列車 NKCD-8001



「ホーイのホイ♪」とか歌っていたが、なんだか良い子ぶって大きく口を開けて「あかいとり ことり♪」。



博多弁で言うと「なンつや付けて歌って」。
この差は一体何だろうか?

 小津安二郎、黒澤明など、昔の映画を見ると、話し方が現在とまったく違うことに驚かされます。日本語に何が起こったのでしょう。(5頁)

その奥にあるのが「倍音」なのではないか?
私共は「倍音」の恩恵にあずかりながらも「倍音」に注意を向けたことすら無い。
では「倍音」とは何か?
これは海援隊の仲間がいると皆さんにわかりやすく説明できるのだが。
例えば武田先生の横にリードギターを弾く仲間がいて、そいつが弦をデーン!と叩く。
そうすると彼が叩いた弦というのは震える。
「震える」とは何かというと弦を震わせる波が移動していく。
沖からバーっと波がよせてきて浜辺に打ち上げるように音という波が寄せて震え続ける。
絵で言うと北斎
北斎の名画「神奈川沖浪裏」という有名で渦を巻いているヤツ。

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(番組では「かながわおきうらなみ」と言っているようだが「かながわおきなみうら」)
あの中に波が描かれていて、やや左手の方に大波がある。
大波のすぐ下には中波があって、一番下に小波があって海面がある。
あれを「倍音」と言う。
一番大きな波だって大きな波でいられる。
次に中波になって小波になる。
波が大きい時は谷になったりする。
その構造そのものを「倍音」と言う。
大波・中波・小波のことを。

「倍音」のことを、英語では−中略−「ハーモニックスharmonics」と言います。(9頁)

なぜ「ハーモニー」か?
音の波は海面から整数に倍で立ちあがり大波を作り上げる。
1/2、1/3の波、1/4の波、それで大波・中波・小波を作って走る。

音の周波数は通常、一秒間に何回振動したかによって表わされ−中略−一秒間に四四〇回の振動ならば四四〇ヘルツで、−中略−楽器のチューニングによく使う音叉の音の高さです。(8頁)

基音が四四〇ヘルツなら、−中略−四四〇ヘルツの音=ラ(A3)と言うわけです。(9頁)

産まれたばかりの赤ちゃんが泣く。
オギャー!
これがドンピタ「ラ」の音。
我々は「ラ」の音から人生を始める。
不思議。
人類が「音楽」というのを作って、何と音を記号で後世に伝えることができるという文明を興したワケで。
ただ、西洋音楽が「音」というものを記号に変えることができるのだが、だからと言って音を掴み切ったワケではない。
だから倍音も難しい。
音は波である。
それが山を描きながら伝わってゆくワケだが、「整数の倍音」というものもあれば非常にカウントしづらい、そういう音も中にはあって、そのような音のことを「非整数」という。
「整数(次倍音)」という音と「非整数(次倍音)」という音が暮らしの中にはあるという。
私共が持っている暮らしの音に関する情報だが、私共は〈整数次倍音〉と[非整数次倍音]を同時に聞きながら暮らしている。

 都はるみは、ひとつのフレーズの中で、三点を自由に行き来しています。「アンコ椿は恋の花」という歌の「あんこ〜♪」の部分を見てみると、「あ」で〈整数次倍音〉を出し「ん」と唸る部分では[非整数次倍音]が強く、最後の「こ〜」というとことは倍音の少ない裏声に抜けていく。(56頁)

(本放送ではここで「アンコ椿は恋の花」が流れる)



こぶしが回って不安定になる。
あの不安定が[非整数次倍音]。
(本によると最後の部分は「倍音の少ない裏声」で「非整数次倍音」ではない)
「あ」が〈整数次倍音〉。
それをわざと非整数を。
そうすると演歌の正体が見えてくる。
整数の音を出しておいて、次の音に行く瞬間、不安定にさせてたどり着く。
それがこぶし。
我々はその音を聞くと凄く感動してしまう。
このへんがまことに面白いところで。
歌手の上手い下手というのは実は〈整数次倍音〉と[非整数次倍音]、正しい音階で歌っているところと正しくない音階に落ちた、そのぎりぎりのはざまの揺れが「あの人は歌、上手いね」という。
この〈整数次倍音〉と[非整数次倍音]というのは人間の耳をコントロールする力を持っているのだが、〈整数次倍音〉と[非整数次倍音]の天才的なシンガーが戦後の歌謡界にいる。
それが美空ひばりさん。
この人は正しい音から正しい音にゆくとつまんない歌。
「あ〜かいとり〜こ〜とり〜♪」になってしまう。
そこで「あかい」の「あ」から次の「か」にゆく時にわざと不安定な経路をたどって「か」にたどり着く。
しかも正しく「か」に辿り着ける。

 基本的に、彼女の声質は、〈整数次倍音〉を多く持っています。だからこそ、カリスマ性を発揮して、多くの熱狂的支持を集めることができたのでしょう。(57頁)

だからいささか難しいことを言っていても唸ってしまう。
「あ、なるほど」と思ってしまう。
彼女の歌は歌詞でわからせるのではない。
美空ひばりという人は音でわからせる。
だから考えると矛盾しているが、矛盾が耳に心地よく感じる。
その典型がこの歌。
「柔」
(本放送ではここで「柔」が流れる)



勝つと思うな 思えば負けよ(美空ひばり「柔」)

「じゃ、どうすればいいんだ?」という。
2コーラス目はなおさら難度が増してわからない。

人は人なり のぞみもあるが
捨てゝて立つ瀬を 越えもする
せめて今宵は 人間らしく
恋の涙を 恋の涙を 噛みしめる
(美空ひばり「柔」)

言われてみると不可解だと思う水谷譲。
武道の一番奥にある悟りのような心境を、いきなり演歌で歌って何となく聞いてしまう。
これが美空ひばりが持っているパワー。
彼女と並べるくらいの歌の力を持った人が北島三郎。
北島三郎というのは整数の倍音で歌うのだがずっと震えている。
「なぁぁぁぁぁ〜み〜〜だのぉぉぉぉ〜〜〜おぉぉぉ〜〜〜♪」



面白い。
これからぐいぐい話を広げていきましょう。
これが歌謡曲だけに終わらないところにこの話の面白さがある。

ささやかことなのだが、この倍音の勉強をしている時に昔の歌謡曲を辿ったりなんかして、「柔」を歌う美空ひばりさんの姿があった。
それが彼女が袴を履いて、紺絣で柔道着を肩にかけて歌うシーンがあった。
見事。
「正中線」といって武道でよく言うが自分の体の真ん中を一本芯が通っているみたい。
真っすぐ。
美空さんはその線が一本綺麗に通っていて「勝つと思うな〜♪」が入ってくる。
我々の体の中には〈整数次倍音〉に関して素直に従うという本能が仕組まれている。
芸能界を探しましょう。

 日本の歌手で〈整数次倍音〉が強いのは、−中略−松任谷由実。話し声では、黒柳徹子やタモリの声があげられます。(23頁)

 かつて庶民の生活に溶け込んでいた物売りの声にも、〈整数次倍音〉が強く含まれていました。「たーけやー、さおだけー」の竿竹売り、金魚屋、豆腐屋、焼き芋屋などの売り声です。(23頁)

民謡、謡曲、声明、「歌いもの」と呼ばれるジャンルに属する長唄や地歌などの声は、どれも〈整数次倍音〉の比率が多くなっています。(23頁)

これに対してもう一方であるのが[非整数次倍音]。
これはわかりやすく言うと波としては崩れてしぶきをまき散らかしているという。

ザラザラした、ガサガサした音、あるいは高次だとカサカサした音、という表現ができます。(24頁)

森進一、−中略−演歌以外では、宇多田ヒカル、−中略−桑田佳祐、明石家さんま、ビートたけし(54〜55頁)

日本伝統音楽の発声の中では、「語りもの」と呼ばれるジャンルに属する義太夫節、説教節、浪曲などの声に、[非整数次倍音]が多く含まれています。−中略−日本の人達は、尺八、三味線、琵琶、能管など、海外から入ってきた楽器をすべて、この[非整数次倍音]が出るように改良したのです。(24〜25頁)

〈整数次倍音〉ではないから不正確。
不正確な故に人が意図的に聞こうとする。
浪曲なんかもその為にわざわざ声をガサガサにする。
「旅行けば♪」



あの歌声なんていうのはそういうワケ。
尺八なんかもそう。

尺八の指孔が大きく、指孔の数が少ないこと。これらは、みな、高音を連続的に変化させることを可能にするために改良されたのです。(117頁)

それを魅力とする。
「正確に一発で出ない」というところが日本人の音に関する感性。
面白いもので、ちょっとわかりにくいかも知れないが、ここに日本人の耳の特徴がある。

西欧人は−中略−言語やそれに似たものの音を聞いたときには、左脳で反応しているわけです。それ以外はすべて右脳に入っている。西洋楽器音、−中略−自然音、鳴き声、雑音などはすべて右脳で反応が見られます。(26〜27頁)

日本人は、言語・邦楽器音を含む自然界にある音はすべて左脳で(27頁)

鳥の声を聞くと人間の声と同じように反応してしまう。
犬がワンワン!と吠えると「まぁ、チイちゃん。今日はお元気ね」と御近所の奥さんが犬の鳴き声だけを人間の言葉に変えることができるという。
そういうのができるのは日本人の耳だから。
いわゆる自然音に関して耳が日本人は敏感。
日本は四季があるからというのも関係するのかと思う水谷譲。
季節も全部音から入ってくるという。
水谷譲は今、「日本には四季がある」と言った。
四季ともう一つ自然の中にあるもの。

自然の音は、主として[非整数次倍音]でできています。(37頁)

倍音が強い音というのは、火山の爆発、地鳴り、台風など、人間にとって異様な状況の時に現れる音でした。(144頁)

「この風の音はただごとじゃないな」とか「この波音はだたの波じゃない」とか、その分だけ自然に関してもの凄く敏感な耳を持っていて。
地震にしても最初の揺れみたいなものを体験すると「デカくなる・デカくならない」を日本人は全身で感じる。
そうして行動すると思いませんか?
[非整数次倍音]で伝わってくる自然からの物音で感じる。
[非整数次倍音]というのは何かが起こる時の音。
だから耳がギョっとそっちを向いてしまう。
だからストーンと自己紹介とかをされるとガクっとくる。
[非整数次倍音]で「こんばんは、森進一です」と言うから。
小泉進次郎君だったら何ということはない。
だが森さんが[非整数次倍音]で「こんばんは、森進一です」と言う。
だからおかしい。
面白い。
かくのごとく我々は〈整数次倍音〉[非整数次倍音]を使い分けながら生きているという。

水谷譲は昨日「あ、そういうことか」と思ったことがあって、例えばアナウンサーの喋りでも凄く上手に器用に喋る人がいるが何も入ってこないという人がいる。
それはもしかして倍音が関係するのかな?と思う水谷譲。
整数過ぎる倍音はよほど力量が無いと右から入って左へ抜けてゆく。
音声が明瞭だが意味不明の人というのがいる。
それと同じこと。
ここからまた喋り方のチャームさなんかにも話が広がっていくから

日本語の特徴というものをもう一回考えてみましょう。
日本語の特徴。
これは日本人の耳の特徴だが、日本人は言語脳であるところの左脳で鳥のさえずりや虫の音、自然音も聞いてしまう。
だから人の声として理解する。
そういう音世界に住んでいる。
音楽。
西洋音楽は右で聞く。
日本語の言葉そのものは異様な言葉で「あいうえお」の言語なのだが、これは数少ない。

 この反応の傾向は、日本人とポリネシアの民族において見られました。(29頁)

子音と母音は何が違うか?
この本でやっとわかった。
70(歳)も真ん中過ぎているのに。
「かー」と必ず「あ」になると思う水谷譲。
それも特徴。
日本語の「あいうえお」。
この母音というのは何者か?
この本で初めて教えてもらった。
著者の方、本当にありがとうございます。
何と驚くなかれ、母音の「あいうえお」。
これは口の大きさだけで音が発声できる。
「かきくけこ」
舌と歯がやたらと出てくる。
「さしすせそ」
「たちつてと」
唇と歯。
それに比べて母音。
「あいうえお」
口の大きさだけ。

母音がこれほど多く使われている言語も珍しいと書いています。実際に、胃、鵜、絵、尾−中略−母音のみの単語がいくつもあります。(89頁)

 私たちは「か」と言ったときに、実はKと書く「クッ」というカサカサした[非整数次倍音]と、Aで書く「あー」という〈整数次倍音〉とを、常にセットにして発音しています。(90頁)

かくのごとくだが、日本語は独特の言語世界・言葉世界を持っているという凄い国語。
このポリネシアなんかの人達と同じような母音中心の言語と会話をすると、他の言語の人達と全く違うところが一箇所だけあって、身振りがいらない。

日本人は、非言語性の表現の中で、身振りなどの感情表出は控えめだが、音声・音響表現により敏感であるという研究結果も出ています(98頁)

西洋人はもの凄く身振りが大きいと思う水谷譲。
ヒトラーも疲れたろうと思う。
でも日本人であそこまで動く人はいない。
このへんが面白いところで、大きな身振りを必要としない。
これは東洋人の中でも中国の人よりも身振りが少ない。
香港映画とかを見ていると臭い時がある。
「チョチョシンゴンバー」とかと。
指でこうやるのが多いと思う水谷譲。
あんなのはいない。
時代劇でああいうヤツが出てきたら監督から凄く怒られる。
つまり、言葉だけでそういう世界を持っているということが日本語の面白いところ。
故に、日本人はこの言語の世界であらゆるものが決定していく。
喋り方がそうだから。
〈整数次倍音〉[非整数次倍音]と母音の多い言語、母音支配の言葉遣いで日本語は成立しているワケで。
これがいかに我々の体に沁み込んでいるか?



2025年05月01日

2024年10月28〜11月8日◆男の唯一無二(後編)

これの続きです。

「男の唯一無二」
暗い話になってまことに申し訳ございません。
景気のいい話もしたいのだが、ちょっと迷ったのだが。
この本をお書きになったトーマス・ジョイナーさんには申し訳ないのだが読みにくい本だった。
はっきり言ってしまうけれども。
最近、そういう本に当たることが多い。
「この本、もう読むのやめよう。三枚におろすの無理だ」と思うのだが、そう思って次のページをめくった瞬間に「え?え?何これは」みたいな文章に出くわすものだから。
この本がまさしくそうだった。

男が寂しさ故に人生の晩年に於いて自殺するというその傾向がある。
これをこの方は国防省から頼まれている。
兵隊さんの中で、もの凄く多いそうだ。
戦場体験者の中で年取ってから自殺なさる方が。
それで「調べてくれ」ということで調べ始めたらしいのだが、そこに彼は男という性そのものが非常に晩年になって死という穴ぼこに落ちやすいという性なのではなかろうか?という。
男は男たるべく、特にこれはアメリカの方なのでやはり「唯一無二」「王座に就け」と。
いろんな人から励まされて、ただ一つの自分の座れる椅子を目指すワケで。
自分が立てる頂を目指すワケだが、そこに座る、或いはその頂に立つと、何のことはない周りには誰もいない寂しさがこみあげてくるという。
こういう矛盾を男達は生きているのではないだろうか?という。
男というのは人と繋がっているというよりも人を従える時にもの凄く自分の能力に自信を持つという。
「人に嫌われても自信はある」というようなトップの方がアメリカでは好まれる。
もの凄い坂道があったにしても自分がリーダーとしてその坂道を登るんだったらば、いくらでも無理が効くという。
ジョイナーさんが繰り返しおっしゃっている。
体を傷付けるもの、それは孤独なんだ
まずは命の最小単位で考えてみよう。
この方は細胞の中にも入ってしまう。

テロメアとは、染色体の先端にある保護膜で、靴ひもの端にあるプラスチック製の鞘のような、靴ひもがほころびないようにするためのものだ。鞘が弱くなったり切れたりすると靴ひもがほころびるように、テロメアが短くなると染色体もほころびる。−中略−染色体がほころびると、染色体やその重要な情報を複製する作業が十分にできなくなり、「ほころび」のある情報は失われてしまうからだ。DMAに関して言えば、−中略−がんを含む多くの問題を引き起こす可能性がある。(「男はなぜ孤独死するのか」60〜61頁)

これは極端な言い方。
ただ、トーマス・ジョイナーというこの人は、「がんの原因は孤独である」と言う。
凄い論理だと思う水谷譲。
「そこまで孤独というのは細胞の一単位、染色体にも悪い影響を及ぼすんだ」という。

特に男性の孤独感を加速させる要因として、社会的ストレスがテロメアを短縮させることが明らかにされており(61頁)

実はそれが全ての不幸、全ての病のスタートになるという。
これを女性を比較してみよう。

全般的に女の子は親に対して秘密主義である場合が少ない。(「男はなぜ孤独死するのか」72頁)

お母さんに何でも話す水谷譲。

 全般的に、男の子は女の子に比べて親に対して秘密主義的であり、−中略−男の子は女の子に比べて、母親に対する反応が低く(「男はなぜ孤独死するのか」87頁)

武田先生も胸に手を当てるとそれがわかる。
娘と母親が包みなく語り合っている姿というのはいいもの。
男にはそれほどのネタが無い。
それが男の子の美学だと思う水谷譲。
男の子というのは生涯に亘って一人で何ができるか、そこに自分の価値を置く。
対して女性は友人との関係を価値とみる。
この差が人生の後半に於いて孤独の深さを男女で変えてしまうのである。

自然界の生き物を見てみよう。

「群生するイナゴの脳は、同種の単独行動するイナゴの脳より30%大きい」。(「男はなぜ孤独死するのか」96頁)

一匹でいるイナゴは脳が小さい。
集団で移動する、旅するイナゴというのは30%もデカい。
サルからヒトになった我等人間もそうである。
我等は群れにより旅をして賢くなり生存してきた。

人類学者のロビン・ダンバー(「男はなぜ孤独死するのか」97頁)

これは武田先生の話に、よく出てくる。
これは人間が賢くなる為の集団、そういう集団の人数は何人かということを調べた人。
これは面白い。
その集団の仕事にぴったりの人数のことを、この人の名前を取って「ダンバー」で表現する。
人間が何か、ある仕事を果たす為に集団、グループを組む。
そのグループの人数というのは、この人数だと非常に作業がやりやすくなるという。
例えば果実を探す。
ブルーベリーを摘んだり探したりする。
この人数。
これは何人が一番いいかというと5〜6人。
これを「5〜6ダンバー」と言う。
そういう言い方をする。
5、6人。
魚釣りだったら2〜3人。
マンモス、クジラ等々を仕留めるんだったらば30人以上が必要だ、という。
適正人数を「ダンバー」という単位で呼んだ。
これは本当に「なるほど」と思うが。
人間が野宿をする。
その為に必要な人間というか、安眠の条件は何人くらいか?
4人だと思う水谷譲。
完璧に水谷譲は外れている。
野原で寝袋で眠る。
30人。
なぜ30人か?
セーノで30人で眠る。
そうしたら一時間おきに誰かが起きている。
そうすると何かあった場合、凄く便利がいい。
それで安眠がとれる。
こういうのは「なるほどなぁ」と思う。
(このあたりの話はこの本の内容とは無関係)

「ダンバー数」について考えてみよう。人類学者のロビン・ダンバーが150としたこの数字は、人間が維持できる意味のある社会的結びつきの最大数だ。−中略−ダンバー自身も230になる可能性があると指摘している。大方の見解は300人以下のようだが(「男はなぜ孤独死するのか」97〜98頁)

このダンバーというのが何を注目されたかというと戦争の時の兵隊さんの組ませ方。
小隊・中隊・大隊・旅団とかとある。
あれはこの「ダンバー」で戦闘のエリア、仕事を決めるという。
(ロビン・ダンバーについては、以前詳しく扱っている。2016年10月10〜21日◆『ことばの起源』ロビン・ダンバー

僕たちの種が生き残り、ネアンデルタール人が生き残れなかった理由のひとつに、僕達の社会的に複雑な機能を持つ脳が関係している可能性があると主張されていた。−中略−「脳が大きい、あるいは新皮質が多い霊長類は、脳が小さい他の霊長類に比べて、より大きな集団で生活し(「男はなぜ孤独死するのか」99頁)

だから(ネアンデルタール人は)寝る時に水谷譲が言うように4人ぐらいで眠っていて獣に襲われてしまった。
ところがクロマニヨンからスタートした現生人類は30人単位で眠ったので誰かが起きていて獣を追い払うことに成功したという。

これは武田先生の考え。
トーマス・ジョイナーさんの本を読みながら思ったのだが、この集団の大きさを決定するという直感を持っている性が女性ではないだろうか?
武田鉄矢説で言っていいと思う。
マンションならマンションを買った。
その部屋をパっと見た瞬間に女性が子供を何人産むか決める。
その空間に対する、環境に対する人数の調節は女性の直感によっているのではないだろうか?
だから女性たちに遮二無二子供を産ませようとするのはやめた方がいい。
女の直感に任せるべきだ。
妊娠する・しないなんていうのは国が口出しすることではない。
それは女性の考え方、そこに任せるべき。
それがやはり男達が一番忘れてはいけないことなのではないか。
男は所詮山のてっぺんを目指す。
女の人はグルグル歩きながら山全体のことを。
それはきっと武田先生がそういう女性の直感によって今まで人生を助けられてきたということだと思う水谷譲。
それはもうわかっている。
女の人のその直感というのは凄いと思う。
日本は戦争に負けた。
それで日本中の女達は「さあ、子供産むぞ」と思った。
「もう兵隊には取られない。いっぱい産んどこう。これが日本がもう一回景気よくなる道なんだ」と戦後ベビーブーマー、たくさん子供が。
今、女性達が産みたがらない。
それは何かを直感している。
その直感に任せた方がいい。
何せ彼女達は山全体をいつも眺めているのだから。
これは武田先生の考えだが。

これが著者、トーマス・ジョイナーさんがお書きになったこと。
このあたりから武田先生は「なるほど。女性というのはそのダンバーに関しては直感があるんだな」と思ったのだが。

「女性の場合、思春期を過ぎると、わずかなアイロニーが常に救いとなる。というのも、彼女たちが歩んできた人生は、必ずや彼女たちを皮肉屋にするからだ」(「男はなぜ孤独死するのか」104頁)

これは何かというと彼女達は社会全体、或いは集団、そういう中で何人の人数が的確か、それを直感で知る。
それが年を取れば取るほど、女性達は皮肉屋になる。
男は不思議と皮肉は言わない。
一種女性達の直感から出た生存、サバイバルの術ではなかろうか?
これに対して男だが、男は集団のサイズではなくて「俺」のことしか考えられない。
「俺の邪魔をするな」
これは武田先生は見たことがないが沖縄の方なんかはよく見てらっしゃるのだろう。

 米海兵隊の旗であるガズデン旗は黄色で、とぐろを巻いて今にも襲いかかろうとしているガラガラヘビが描かれている。(「男はなぜ孤独死するのか」112頁)

「俺んとこに入ってきたら噛みつくぞ」という、そういう象徴でガラガラヘビが描いてあるそうで。
本当にあまりにもストレート過ぎて。
とにかく男にとって「俺の邪魔はするな」「全て俺のコントロールの下に従え」そういうのが男という性の中に盛り込まれた意欲。
人を従えている時に男というのは燃える。
だから何でもそうだが人の悪口を言う時でも仲間を募りたがるという。
ネット社会の中で友人を作りたいと思うと、人の悪口を言って群がりたがる愚かさがあるということ。

例えば男の信念というのは非常に単純で金持ちを目指す。
カネをとにかく貯めたい。
金持ちになったら金持ちの友達はいらない。
とにかくアリスの歌に出てくるが「You're king of kings」「王の中の王」を目指したがるという自己中心的満足というものが男の中にあるのではなかろうか。

チャンピオン



これは三百何十ページの本なので、ずっとそういう男の愚かしさについての報告が様々な例をとりながら。
ここらへんで、もの凄くくたびれた。
だがもうちょっと読み進めてみようと思って。
百ページ目ぐらいから男の孤独に対する解決策へのアイディアが出てくる。
これで読んでしまった。

 男の孤独を和らげられるという希望はあるのかという問いに対する、もう一つのアプローチは、次のような質問を投げかけることだ。即ち、男の脳は単純に異なる配線がされていて孤独とそれを引き起こす傾向が、ハードウェアに埋め込まれているのだろうか。繰り返しになるが、希望はある。こうした傾向は、生まれつき埋め込まれているものではない。(「男はなぜ孤独死するのか」221頁)

視覚的刺激の中でその脳が強い関心、或いは印象を受け、興味深く反応するイメージは何か?
そのイメージの中に孤独を減少させる力がもしやするとあるかも知れない。

調査チームは、イメージを内容に基づいて次の三つのグループに分けた。それらは、エロティックなイメージ、親和的なイメージ−中略−、刺激的なイメージである。−中略−親和的なイメージは、母親が赤ちゃんを世話している姿、刺激的なイメージは、サーフィンでチューブライディングをしている、波しぶきを浴びた人物のクローズアップを映し出すといったものだ。脳は、どのようなイメージを最も強く志向するのだろうか。−中略−脳は、エロティックなイメージと神話的なイメージに対しては、同様に高い反応を示し、刺激的なイメージに対しては、それほど高い反応を示さなかった。(「男はなぜ孤独死するのか」221〜222頁)

(このあたりの番組内の説明は本の内容とは異なる)
自分でも連載をやっている「週刊大衆」という週刊誌があるのだが、これも巻頭グラビアは若い女性の・・・
今は「(週刊)ポスト」でも何でもとりあえず巻頭グラビアは若い女性の裸が多い。
そういう意味ではイメージというのが寂しさを消してくれるという。

観葉植物の世話をすることが、老人ホームの入居者の死亡率低下と関連するという研究を思い起させる。−中略−「ガーデニングにまったく興味のなかった宇宙飛行士たちが、実験用の温室の手入れに長い時間を費やしている」という。(「男はなぜ孤独死するのか」226頁)

自然とつながることは、それだけで孤独感を軽減する効果がある。(「男はなぜ孤独死するのか」229頁)

だから年取って農業をやる方が出るのかと思う水谷譲。
これは生々しくて。
トーマス・ジョイナーさんは国防省から頼まれての自殺の調査をやっておられるのだが

潜水艦の艦長が、乗務員のやる気を引き出し、報酬として使うものの一つに、「潜望鏡使用の自由」がある。それは、潜望鏡を通して、海岸線や星や、雲や鳥を眺めるチャンスだ。(「男はなぜ孤独死するのか」226頁)

これは面白い。

そしてここ。
65歳以上は聞いて。
もう一つ男が孤独を忘れる瞬間。

彼は宇宙ではなく、正しくはブラジルの大自然の中にいる。彼は、他の人々と持続的な接触をしない部族の、最後の生き残りだった。−中略−
 本当に孤立しているにもかかわらず、彼が人間関係を活発に続けているという証拠がある。つまり、彼は、亡くなった先祖たちの霊的な世界と定期的に交信し
(「男はなぜ孤独死するのか」228頁)

だから「死者を胸の中に持つ」というのは孤独を鎮める為の一本道であるかも知れない。
武田先生なんぞもふと考えたらよかった。
胸の中にいつも死者を持っているから。
坂本龍馬。
そうやって考えると「霊との交信」というのは宗教でもあるが、純朴な形で神様はいなくても霊がいると人間というのは寂しさを感じないという。

さんざん男と孤独というものを語ってきた。
この著者の主張、「孤独というのが非常に体とか精神に悪いんだ」という。
それを遺伝子の段階から説くという。
では具体的にどうすればいいのか?
若い人ならともかくも70代以上、65歳以上になると、なかなか孤独との付き合い、孤独をどう避けるかというのは難しい命題になる。
著者がシンプルな方法を提案していて。
水谷譲に笑わないで欲しいが実行した。
この大学教授の結論は何か?
「美味しいものを食べること」ではないかと思う水谷譲。

電話で連絡を取るといったシンプルなこと(「男はなぜ孤独死するのか」236頁)

 毎日、電話をかけるという解決策で問題になるのは、一言で言えば、「誰に電話をするのか」ということだ。ほとんどの場合、「電話をする相手がいない」というのは言い訳として説得力がない。(「男はなぜ孤独死するのか」237頁)

 それに関連した言い訳として、電話口で気まずい瞬間があるかもしれないというものがある。(「男はなぜ孤独死するのか」238頁)

「電話をすれば話題はその時決まるはずです。そして思い出しましょう。あなたはその短い電話で孤独という危険を避けることができるんです」
これを読んで友達に電話をした武田先生。
そこで素直に電話をするのが武田先生のいいところだと思う水谷譲。
これだけは皆さん信じて。
口先だけにならないように、本で学んだことはなるべく実行してみようと思って。
それで二、三のことを話して
福岡の友達だが
「年は取ったけどこんなことやりたい、あんなことやりたい」と言って、いろんなことを話して。
普通の男の人は「何だこんな結論。バカにしやがって」と言って電話をしないのが普通の男の人だと思う水谷譲。
(電話を)した方がいい。
してよかったと思う。
まだ何かの結論は出ていないかも知れないが、それは凄く大事なことのような気がする。
男の感性の中にある非常にまずい感性は「あそこは俺は通り過ぎた」と言って、通り過ぎた山の五合目を八合目ぐらいからバカにするという傾向がある。
「昔、通った道だよ」とかと。
でもそこへ敢えて連絡をしてみるということが大事で。
武田先生の周りにもたくさんの芸能人の友達とかがいる。
フォークソングの仲間とか。
でもやはりみんなどこか寂しそう。
その寂しさはどこから来ているかというと、やはり成功したが故の孤独から来ている。
そんなことを思う。
もの凄く乱暴な言い方をして、「誰」というとまた問題だから言えないが、若い時に一発当たってそれからさっぱり当たらずに、それでも一生懸命まだ頑張っているヤツがいる。
そいつの方が生き生きした顔をしている。
この本の中に書いてあった「とにかく友達に電話をしてごらんよ、友達に。そして君が忘れない一番大事なことはその人に向かって感謝の気持ちを抱くことなんだ。落ち込む、妬む、それから強欲、そういうものを全部排除して、ただ単にあの頃に戻って無邪気に話をするんだ。そうするとね、君の体の中で抵抗力がぐんぐん強くなるんだよ。例えば人間ドックに通う、歯科に行って口の中をチェックする、それと同じように。電話の内容は『もう一回一緒に遊んばないか』って友達を誘うことなんだよ。あの少年の日々に戻る為の一歩だよ。ここでもう一度仲間を求めよう。全ての男達は青春を通り、そして旅へ出た。旅が終わりつつあるなど自分で決めてはいけない。この旅は続くんだ。友達を探しに、さあ、歩きましょう」。
(本には書いていない)

そしてこれはアメリカの調査。

「高校で友人が1人増えるごとに、半年分の教育費に相当する所得が倍増する」
青春時代に8人の友人を増やすことは大学教育全体と同等の価値があり、大学教育は生涯を通じて100万ドルの収入増につながるということだ。収益的に考えれば、友人1人は約15万ドルの追加収入の価値がある。これは、30年間の仕事人生では、友人1人につき、年間5000ドルのボーナスを受け取るのと同じだ。
(「男はなぜ孤独死するのか」〜頁)

凄い数字で1億4千万円(100万ドル)とか並ぶが、現金に換算するところが生々しい。
そしてその友達と再会して何をやるか?
もの凄くシンプル。
火を囲んで食事すること。
人間は火を見ながら食事をすると「分かち合う」という本能がある。
そういえば炉端焼き屋で掴み合いのケンカをしているヤツを見たことがない。
火が燃えていると「何だテメェは!俺が頼んだんだよ!ホッケの開きは!」とかというのはない。


これは面白いというか何というか。
喫煙、或いは飲酒。
一種本能の行動で寂しさを忘れる為。
タバコというのは一人で吸う時も寂しさを消す為。
飲酒もそうで人の話でも聞きながら一杯飲んでいるとホッとする。
ギュウギュウ詰めでも駅前の喫煙所で吸う人がいる。
寂しさが消えた喜び。
「見知らぬ他人と一緒に煙草を吸ってる」というのは一種孤独を癒すというのがある。
お酒に関しては「わ♪今日、誰かとお酒飲むんだ。楽〜しみ〜♪」となるので楽しくてしようがない水谷譲。
これは「トーマスさん無理でしょう」と言いたくなるのだが

孤独は喫煙や肥満のような明らかな災いよりも、さらに強く健康に悪影響を及ぼすのではいかという主張がある。(「男はなぜ孤独死するのか」190頁)

だから「もの凄く辛かったらタバコは吸っていいよ」と。

自分でタバコを栽培して自然とつながることの利点や、他の愛煙家や庭を手入れしている人たちとの会話から得られる利点を含む、いくつかの利点を享受することをお勧めしたい。(「男はなぜ孤独死するのか」289頁)

飲酒の方もそうで、楽しく飲むことに関しては孤独を消し去るという。
繰り返すが「私達は孤独を侮っている。実に危険なものなのだ」という。
日本では年間で6万8千人という孤独死があるが、この孤独死というのも病ゆえの孤独死もあるかも知れないが、中には孤独という害毒にやられて孤独死なさる方がいらっしゃるのではないだろうか?
6万8千人の孤独死の中で自宅で亡くなる方が2万人だそうだ。
その8割が65歳以上。
だから「友達がいない」ということが孤独死を、あるいは自死、自ら自殺するというようなことにもなっていったのではないだろうか?

そしてこの著者は面白いことを言う。
寂しさや悲しみを消す為に友達を探せと言っているのではない。
あなたが悲しむ、あなたが苦しむ、それはまだ未完成なのだ。
あなたの悲しみや苦しみに深く頷く友達がいる。
「わかるよ、お前のは」と言いながら。
その時に悲しみや苦しみが完成する。
苦しみや悲しみを完成させなさい、という。
これは「なるほどなぁ」と思う。

この本はちょっと言い訳だけしておかないといけないが、静けさとか孤独というのが人を哲学的にするという哲学書もいるというのでそういう人も紹介してあるのだが、著者はそういう人達を否定なさっている。
そのいちいちに関しては「(今朝の)三枚おろし」は取り上げていない。
ただ、このトーマス・ジョイナーさんの言葉の中で「いいな」と思ったのは「毎日毎日少しずつでもいいから友達を増やそうという行動をやっていこうよ。そんな努力が年を取ってからも必要なんじゃないかな?」という。
65以上の同性、男性の方は呼びかけるが、やはり「女性の真似をしましょう」。
女の人はやはり、人と人との結び付け方が上手。
男が肩をいからせて「俺の邪魔をするな!」とか「ここは俺の陣地だ!」とかそんなことを言って威張っている時代はもうとっくに終わっている。

ささやかなことなのだが、ちょっと武田先生は打ちっぱなしに行くだけの車の移動なのでバスで行っている。
そこで「女性には勝てないな」と思うが。
武田先生も貰えるのだが、武田先生が住んでいる区では高齢者になるのでバスの無料券を貰える。
それで武田先生は代金を払って乗るのだが、もうことごとく女性はちゃんと無料券を持っている。
それを運転手さんに見せてバスに乗ってくる。
「この人達は凄いな」と思う。
降りる時に必ず運転士さんに向かって「ありがとうございました」と声をかける。
何という美しい習慣でしょう。
彼女達は区にちゃんと税金を払っているから獲得した権利。
しかしその権利を施行する時も〇〇バスの運転士さんに向かって大きい声で「ありがとう〜」と言いながら降りていく。
ああいうのを見ると女性の持っている「人と結ばれてゆく糸の結び方」というのはもう見事だなというふうに思って、「これからは真似せねば」というふうに思ったりする。
最後にではあるが、著者は孤独な男達に励ましの言葉を置いている。
323ページの最後の行に書かれていた一言。

「人々がいなければ、あなたは何者でもない」(「男はなぜ孤独死するのか」323頁)

武田先生もフォークソングを歌っている時に武田先生の友人でつぶやいた一言「鉄っちゃん、あんた不思議な力があるよ」。
あの一言。
武田先生が信じた一言
あいつがいなければ武田先生は何者でもなかった。
来週また、友を求めて「三枚おろし」続けたいと思う。


2024年10月28〜11月8日◆男の唯一無二(前編)

(今回は二冊の本を取り上げているので区別を付ける為にページ数のところに「男はなぜ孤独死するのか」「勇気論」と入れておく)

よくわからないタイトルになってしまった。
「男の唯一無二」
これは、(武田先生が作った資料の量が)これだけある。
ちょっと最近は、お時間があるものだから。
これが果たして皆さんの聞きたいネタかどうかというのはわからないが、この年になってやたらこういうものに惹かれるという年齢になった。
釣り上げた本は何かというとタイトルは「男はなぜ孤独死するのか」。
「男たちの成功の代償」という副題が付いていて(著者は)トーマス・ジョイナーさん、晶文社から出ている。

男はなぜ孤独死するのか 男たちの成功の代償



分厚い。
このジョイナーさんはフロリダ州立大学の心理学者。
専門のテーマは自殺なのだが、この方は頼まれて米国防省の軍人さんの自殺が定年なさった後にもの凄く多い。
このテーマで「男の自殺」というものを心理研究の対象としたいということでトーマス・ジョイナー教授が研究に乗り出した。
(米国防総省が資金を提供した軍隊での自殺率を下げる方法に関するプロジェクトの主任研究員を務めた)
ただ、いろんな知恵というか出来事がなだれ込んでくる本で、支流が多くて途中でもうワケわかんなくなって眠たくなってしまう。
ただ、十ページに数行、ハッとする文章に出会う為、必死になり読み進み、「もうやめようか」と思うとまた十ページ読む頃にいい文章にバッタリ出会うという。
それでやめられず何度も息切れしながら、いつの間にか読了してしまったという。
これは男の後半のいわゆる完成しやすい人生のポイントで、アメリカのたくさんの男達が自殺しているという。
その中で自殺の原因の第一位「孤独」。
孤独がつらくて自殺するという。
その大半の男性が成功者。
自分の人生に於いて、ある程度の成功を収めたものの最晩年に自殺しているという。
ギクッとする。
成功されているのに・・・ということ。
嫌味な言い方になるが「人生の成功者」といえば武田先生もそう。
ラジオのレギュラーをお持ちになって・・・と思う水谷譲。
そんなことを考えると、とても他人事とは思えない。
と、思う時に「男はなぜ、自殺してしまうのか」という。
そこで「男の晩年に於ける自殺」というものを三枚におろしてみようかと。

ズバリ言うと男性は女性に比べて自殺をする率が高い。
男性の方が遥かに女性よりもたくさん自殺している。
なぜ男性はそうなりやすいのかというと、はっきりしているのは晩年、その人は孤独であった。
ではなぜ孤独に陥るのか?
その孤独を避ける道とはあるのかないのか?
それをどうしても自分でも気になった。
晩年の孤独の原因が「人生の成功」。
家族はいらっしゃらない。
それともう一つ、家族の中でも孤独であったという。
このトーマス・ジョイナーさんのテーマの据え方「男の晩年に於ける自殺の研究」なのだが、ジョイナーさんがこんなことを言うからギクッとしてしまう。
この人はお父さんを自殺で亡くしている。

 僕の父が命を絶ったのは彼が56歳の時だった。(「男はなぜ孤独死するのか」175頁)

ジョイナーさんはその朝に機嫌のいい父の顔を見て、夕暮れに死の報告を聞いているという。
(本の内容とは異なる)
家族をみんな幸せにして、お父様は成功者であった。
武田先生はもう人生の晩年、夕暮れを生きて、黄昏を生きているが「男の人生は非常に晩年、孤独に陥りやすい」という、そういうところの観点から生存、生き延びる術を探すという意味合いでお付き合い願えればなぁというふうに思う。

 1991年、10月の太陽がオークランドとバークレーの丘に昇る頃、−中略−火災は数分以内に住宅街に及び、最も激しい時には11秒に一軒の割合で燃え広がり、家の所有者たちは命からがら家から逃げ出すことを余儀なくされた。−中略−
 美術品や宝石を手にする人は、ほとんどいなかったが、多くの人が写真──愛する人々の写真を救い出していた。
(「男はなぜ孤独死するのか」10〜11頁)

人々は避難所に集まってお互いを助け合い、優しさに満ち溢れた言葉を掛け合って再起を誓い合ったという。
大変いい話なのだが。

「火災の体験が世俗的な財産を切り離し、自分の意志を清らかにしようと促しているまさにその時、保険をめぐる現実的な政治が始まり、プライドや欲、罪悪感、その他、思いつく限りの不穏な感情に煽りたてられるのだ」(「男はなぜ孤独死するのか」12頁)

新しい家の窓が上向きに設計されていたため、火事の影響やほかの人の家を見ずに済むという事実が語られていなかった。要は建築によって意図的に作られた絶縁空間だったのだ。−中略−火災は、数週間にわたる励まし合いとともに、その後の貪欲さと卑劣さと対立という気の遠くなるような試練をもたらした。(「男はなぜ孤独死するのか」13頁)

このあたりからこの方の研究が始まるワケで。
今週は少し暗い話題だが何かの人生のお役に立てばと三枚におろす今週。

難しいタイトルを付けてしまったが「男の唯一無二」。
男の人生というのは何となく「唯一無二」「誰にも似ていない一生を送りたい」という。
これは男のどこか理想。
「唯一無二の存在でありたい」という、そういう生き方を目指すワケだが。
この「唯一無二を目指す」というところが、考えてみると当然だが孤独になる。
唯一無二を目指しているワケだから。
男性は年齢と共に孤独を選ぶ傾向にある。
彼等男性は独りぼっちを「人生の戦利品」「戦って手に入れたトロフィー」だというふうに思っている。
仕事でライバル達に勝ち、多くの金銭を手にできた。
そして「いやぁ、あの仕事は彼しかできませんよ」なんていう評判を立てられる技と知恵を持っていた。
それ故に彼は彼しか座れない「ただ一人の椅子」に座ることができた。
それが玉座じゃなくても「俺しか座れない椅子に俺は座ってるんだ」というのは男の唯一無二の証。
ここ。
この「一人しか座れない椅子に座る」ということ自体が独りぼっちを目指しているワケで、それが晩年になって「寂しさ」になって襲ってくる。
その「唯一無二を目指す」というところから男というのは案外晩年で躓きやすい性なのではないだろうか?
彼は男であることにまずは満足している。
男であるからこそ、たった一つの椅子に座れた。
その「男」について考えてみよう。
男はそれほど強い生き物なのか?

「受胎から老齢に至るまでのすべてのライフステージにおいて、男性は女性よりも死亡率が高い」と記されている。−中略−女の子100人に対して、男の子は受胎した125人のうち105人しか生まれてこない。男性の約2割は出産まで至らないのだ。そして、産まれてきた男の子は、女の子に比べ、超低出生体重児や、成長障害症候群がより多く見受けられている。−中略−男性にとっては女性を奪い合う一種の「椅子取りゲーム」のような状況を意味する。−中略−まさに命を賭けた真剣勝負だ。(「男はなぜ孤独死するのか」16頁)

そして耐えなければならない。
ロシアの平均寿命。
2021年、男64歳、女75歳。
僅か二年前は男性が68歳で女性が78歳だった。
死亡年齢が低くなっている。
だから今年ぐらいの男の平均寿命はもっと下がる。
戦争をやっているから。
戦争をやると一発で下がる。
戦場に駆り出されずとも、男の死亡率というのは成人になればなるほど高くなる。
交通事故とか趣味での遊び、それによる事故。
三十代半ばで世界的に女性の数が男よりも多くなる。
つまり男の方はどんどん死んでいなくなってしまうという。
この他の生物を見ればわかるが、男という性は基本的には消耗品。
強そうで弱い。
女性は生存の為に男より強く作られている。

同じレベルの外傷を負った場合でも、女性は男性よりも約14%生存率が高いという。(「男はなぜ孤独死するのか」18頁)

その上に病気が中年から一斉に出てくる。

冠動脈疾患、脳卒中、慢性閉塞性肺疾患、インフルエンザおよび肺炎、糖尿病、HIV、自動車事故、自殺、外傷、肝疾患などがこれに当たる。また、肺がん、大腸がん、咽頭がん、胃がん、膵臓がん、膀胱がん、非ホジキンリンパ腫、白血病など、がんの発生率は女性よりも男性の方が約50%高くなっている。−中略−労働災害による死亡率の90%以上が男性だ。(「男はなぜ孤独死するのか」18〜19頁)

だから男はこれほどのハードさを切り抜けながら生きているワケで。
中年から以降、待っているのが自殺という人生の終わり方。
何と驚くなかれ、アメリカの自殺者4万9449人(2022年の自殺者数)。
約5万人。
アメリカの自殺者の70%が男性。
その70%の殆どが高齢者。
65歳以上ということ。
日本では自殺者は現在のところでは一時期3万人までいったのだが、今は2万人ぐらい。
このうちの半分くらいは高齢者の方。
(男女比は)日本も圧倒的に男性が高い。
この原因が日本でも「孤独」だそうだ。
朝から暗い話だが、この先にそれを避けるべき手段は何か?という、ここまで話を進めるのでしばしお付き合いを。
男は孤独である。
では男はどうやったら、その孤独から避難できるのであろうか?
現代社会というものに目を向けてみましょう。

1800年以降、この2世紀の間に、控えめに見ても国民一人当たりのGDP(国内総生産)が、約2000%上昇している(「男はなぜ孤独死するのか」27頁)

つまり我々は1800年代に生きるよりも2000%豊かになっている。
その割合を重ねても自殺者が増えているという、これはやっぱり謎である、と。
自殺には別の原因があるのではなかろうか?

 僕の答えは、ひとことで言えば、孤独感だ。(「男はなぜ孤独死するのか」20頁)

人間は「一人だ」と思うと死んでしまうという。
今、非常に人々が孤独を感じやすい。
パーソナルメディア、個人が発するネット社会が広がっているワケで。
世界の誰かがつぶやいた言葉が一瞬のうちに世界中に広がる可能性もあるという。
こんな世界を体験するのは人類史では初めて。
ニューヨーク、或いはアイルランドの片隅で誰かがポソッと言ったことがもう全世界、たちまちみんな知っているという。

僕たちがまさにナルシシズムの時代に突入した可能性があることを示している。(「男はなぜ孤独死するのか」30頁)

非常に個人がうぬぼれやすいという。
「〇〇大統領が俺の言うことを聞いてくれない。じゃあ暗殺しよう」
これが平気で成立するという。

今現在、誰もがスターであり、少なくともスターになる資格がある−中略−と主張するのは、ごく自然なことのように思われる。(「男はなぜ孤独死するのか」30頁)

だから容赦もなく、人のことを罵倒できる、ののしれる。
武田先生達芸能人もそうだが、たった一言言い間違えたばかりに、本当に芸能界から消えてしまう。
それで武田先生も管理されている。
武田先生は炎上しやすいタイプ。
武田先生達のような昭和生まれは特に炎上しやすい。
炎上させているのは芸能界では昭和生まれの人が多い。

ここで面白い説を唱える人がいて。
本を乗り換える。
内田樹先生なのだが、くっつけてしまった。

勇気論




この先生が「世間をよく見る為に漫画雑誌を注目してみよう」という。
それも少年漫画雑誌。
その変遷を見てみよう。
内田樹先生の理論
我々、武田先生とか内田先生のように戦後、昭和で大きくなった、その少年達を動かしていた徳目、いわゆる道徳的素晴らしさ、その行動原理、それは何か?

たしかに僕が子どもの頃に、マンガや小説を通じて繰り返し「少年は勇気を持つべし」と刷り込まれてきたことを思い出しました。(「勇気論」21頁)

「鉄腕アトム」「赤胴鈴之助」「鉄人28号」の金田少年、「まぼろし探偵」「紫電改の鷹」「スポーツマン金太郎」。
全部「勇気のある少年」だった。
勇気の次に大事な徳目、行動原理は何か?
「正直」
正直は大事だった。
ジャポーン!と湖に斧を落とした。
「ああ悲しや」というと妖精が出てきて「金の斧か?銀の斧か?」という。
その時に正直に「普通の斧でした」と言わないと金の斧が貰えない。

 勇気が最優先の徳目であった時代に、それに続く徳目は「正直と親切」でした(「勇気論」23頁)

見知らぬ人に親切にする。
例えば「すずめのお宿」。
爺さんがすずめを哀れに思って米粒を与えてあげるという親切。
「傘地蔵」
命無き石仏に雪降る中「寒かろう」と言って傘をかぶせてあげる親切。

「勇気・正直・親切」が求められた。とりあえず、僕が読みふけっていたマンガではそうでした。(「勇気論」23頁)

だからミス発言をする人は勇気がある。
そこでは言ってはいけないことを言ってみる。
それも正直に
でも二心のない。
みんな親切で言っている。
それが変わった。
この武田先生達に少年の守るべき行動原理を教えたのは「少年マガジン」だった。
ところが今は少年雑誌が変わった。

『少年ジャンプ』が作家たちに求めた物語の基本は「友情・努力・勝利」でした。(「勇気論」22頁)

これが行動原理。
見てみるとそう。
全員やはり友情によって結ばれたヒーローばっかり。
「ドラゴンボール」「ワンピース」「スラムダンク」「鬼滅の刃」「ナルト」
全然違う。
「少年ジャンプ」の時代と「少年マガジン」の時代。
物語の主人公達の行動原理が全く違うんだ、と。

『少年探偵団のうた』だって、「ぼくらは少年探偵団 勇気りんりん るりのいろ」から始まります。
 1950年代の少年に求められた資質はまず勇気だったのでした。
(「勇気論」21頁)



ところが「少年ジャンプ」の方は「友情」。
これはもう「鬼滅の刃」でも凄い。
うなりながらも。

でも、友情と勇気は相性が悪いんです。(「勇気論」22頁)

「友情」には友達が必要。
でも「勇気」は一人じゃないと確認できない。
「オマエ一人でもやるのか?」「やる」と言ったところから「勇気」。
それから「少年マガジン」の方は「正直」と「親切」。
「ジャンプ」の方は「努力」と「勝利」。
これも喰い合わせが悪い。

 正直や親切というのはごく個人的なものです。社会的な評価とか達成とかということとはとりあえず無縁です。(「勇気論」23頁)

己に正直である。
他者に「ありがとう」と言って貰う為に親切にするのではない。
親切にするということは自分で自分を認めるという行為だ、と。
それが「ジャンプ」になると「努力」と「勝利」。
これは両方共「査定者」、点数を付ける人がいる。
だからパリのオリンピックの柔道と同じ。
すぐに警告を取ってしまう審判という。
ああいう武道を「他者の目に委ねる」という競技にしてしまったところが、漢字で書く「柔道」とオリンピック種目のローマ字の「JUDO」の違い。
武道の方の「柔道」は他者に自分の評価を託さない。
だから美空ひばりは

勝つと思うな 思えば負けよ
負けてもともと この胸の
(美空ひばり「柔」)

美空ひばり全曲集 柔



「柔道を勝つ為に使ってはいけない」という、そのことを歌謡曲、演歌でも日本人は理解できるのだが、フランスのパリの柔道会場ではそういう柔道の精神は見られない。
勝ったら勝ったで大喜びして相手に対して一礼もしないという。
我々、「少年マガジン」の世代の方はそういうもの。
他者に自分の価値をねだらない。
万来の拍手は必要ない。
自分で納得できるか否か。
だから星飛雄馬も最後の一球を投げた後、たった一人で「次はどの星を目指そう」と言いながら球場を去って行くという。

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「あしたのジョー」も最期は椅子に座ったまま「燃えたよ・・・真っ白に」と言いいながら・・・

あしたのジョー1&2 DVD-BOX【劇場版】



そういう「男一人の孤独を背負う」という。
それが栄光だった。
男は「孤独」でそれが「栄光」。
だから武田先生達戦後世代、「少年マガジン」はひたすら孤独を目指して生きてきた。
ところが時代が進んで、その男の孤独そのものが、絶縁で死に結びついているのではなかろうか?と。
これに対して、もういよいよここにきた。
女性はどうか?
女性は何かというと「友情」「努力」これを絶えず人生の中で結ぶことを知っている。
女の人、女性という性はどうやって人と人を自分が人に結ばれていくか?
そこにもの凄く高い人生の価値を置く。

いろいろな派閥について、誰がどうその派閥に属しているのか、誰が誰の友だちなのか、知っていなくちゃならないのよ」。−中略−女の子たちはそれを実践しているのだ。(「男はなぜ孤独死するのか」38頁)

彼女達は独立性を犠牲にしても関係を重視する。
これはまた怒られてしまうかも知れないが、奥様の長電話を聞く度に・・・
真似できない。
関係を重視して、その関係を懸命に言葉で厚くしていく。
あの女性の持っている本能というのは凄い。
例えば、メジャーリーグを見ていても、選手の奥さん達が隊を作って集まるが、逆のことはあり得ない、女性のスポーツがあって旦那さん達が集まるということは無いと思う水谷譲。
大谷さんとかだってご家族を見てください。
旦那さんは友達がヌートバーが飲み屋に誘っても行かない。
「睡眠が大事」
あの人はもう栄光を目指す人だから孤独。
それに比べて奥さん。
やはりめっちゃあのコミュニティの中で人気者のようだ。
やはり人気者たるべき気配を持っておられる。
ところが男というのは一点を信じてそこに行こうとするという。
大谷は誰を目指しているのか?
それこそ「唯一無二」と思う水谷譲。
唯一無二。
あの犬っころも可愛い。
「犬っころ」と言ったら怒られてしまうが。
男と女というのはそもそもが「生きていく旅の形」が違うというか。
男と女というものを比べながら話した方がずっとわかりやすいのだが、ちょっと男の部分を熱く語りすぎたので。
朝から話題として暗いなと思われた方も多かろうと思うが。
昨日話したとおり「男の生き方」「女の生き方」どうも違うみたいだ、と。
生命力として女の人の方が強い。
男性より長生きだと思う水谷譲。
男女比を付けられて、さんざん男からアゴでこき使われて生きてゆくのだから。
だからやはり無くした分は全部取り返していくという女性の根性というのは凄い。
それは何でかというと、これは多分に武田先生の脚色、盛り付けが入っているが、この作者のトーマス・ジョイナーさん、アメリカの大学教授が言いたいのは、女性はトレッキング、ずっと歩いていく。
男というのは山といったらてっぺんだけ目指す。
その山のてっぺんの頂上の一番高い狭い所に立つのが「山に登った」という記憶になる。
しかも男の人は自分から山に登りたがると思う水谷譲。
しかも一人しか立てない山が好き。
だからペントハウスみたいな高い所に住みたがると思う水谷譲。。
男の人生が寂しくなるのは当たり前。
一人しか立てないところを目指すから。
バカタレ。
「頂上の孤独」ということで、加齢と共に孤独は深くなるというしくみの人生。
ところが女性はトレッキングで山の周りを回っているものだから、ワリと町人とか、すれ違うものだから寂しくない。
気楽で楽しいと思う水谷譲。

父は富と地位にこだわり、すでにそれを手に入れていたが、彼の人生で親友と呼べるのはビジネスパートナーだけで、−中略−20年後、二人がもう友人でもビジネスパートナーでもなくなった時、父は自殺した。(「男はなぜ孤独死するのか」40〜41頁)

それがずっとこの著者は引っかかっているのだろう。
考えてみれば子供の頃から孤独を気に留めないように男は育てられた。
一人になってワンワン泣く子は凄くバカにされる。
だから「男のくせに」というので小さい頃は凄く衝撃的な言葉だった。

紀元前2000年頃のエジプトで書かれた、最初のものとして知られている遺書には、「僕は不幸を背負い、信頼できる友人がいない」と書かれている。(「男はなぜ孤独死するのか」42頁)

つまり彼は孤独。
その孤独こそが己の本質だと思っている。
ときに彼は人々の中で遊んだにしても「群衆の中の孤独」それを英雄の条件と考えてしまう。
「寂しいのは俺が際立っているからだ」「他の男より抜きん出ているから俺は一人で寂しいんだ」という。
これが現代のうぬぼれのナルシストとドッキングして「寂しさの毒」に関して鈍感になっているという。
この作者の「信頼できるな」と思う一言は「孤独は毒だ」と言っている。
「孤独をよいものだと持ち上げるな」と。

孤独を多く経験すると−中略−センサーの調子が悪くなる。攻撃性、怒り、過度なリスクテイクなどの行動を取りがちになり、その結果、さらに孤独になり、−中略−負のスパイラルに陥り、最悪の結末を迎えることになるのだ。(「男はなぜ孤独死するのか」53〜54頁)

「孤独であるのはいいことだ」と思っていたのだが、それが反転すると「何だ。俺は無視されてる」という。
太宰治が言った言葉。
「『選ばれている』と思ったら、捨てられていた」という。
「選ばれた才能」と「捨てられた才能」は似ている。
実は同じこと。
太宰の名言

撰ばれてあることの
恍惚と不安と
太宰治「葉」

「あ、自分は選ばれてるんだ」という、うっとりするようなナルシストたる甘美な感情がある。
でも選ばれている人は他に誰もいない。
「え?これ俺だけ」と思ったら「この恍惚はもしかすると病気かもしんない」という。
複雑。
「もしかしたら本当は俺、選ばれたんじゃなくて捨てられたんじゃないか」と思う、そういう瞬間が人生で来ることがある。
それに警戒してください。
もう一度著者が言ったことを繰り返すと「孤独は毒です」。
この続き、来週のまな板の上で。


2025年04月29日

2025年1月20〜31日◆降りてゆく生き方Part2(後編)

これの続きです。

この向谷地さんの本を読んでいたら「この人のことラジオで喋っていいのかな?」という、そういう思いを。
そうしたら向谷地さんは「いいんじゃ無ぇの」とかと強気で言うものだから。
ご迷惑をかけないように心して語るつもりでいるが。

元大学の教授でありつつ、予備校にて論文試験の講師などもやっておられるという(最首悟氏と)、文化人類学の教授の方で辻信一さんとの対談。
これも知らない人の名前ばっかり続いて申し訳ない。
ザックリした言い方をすると、そういう方がおられてそんな話をなさったという。
その途中でこの最首さんはある重大な殺人犯との交流を語られる。
これは衝撃的。
人間を見る深いまなざし。
ただラジオで語るにはご本人の許可が必要かと思ったという。
しかしその本を編集した人から聞いたら「本に書いてあることなんで」という。
ただ、この最首悟さんというこの方の一種畏怖を感じる。

最首 私は現在八五歳になりまして(二〇二二年)。私が四〇歳のときにダウン症の星子が生まれました。三人上に子がいて(一男二女)、星子はその四番目の三女ということになります。
 現在(二〇二二年)星子は四五歳になるわけです。
(169頁)

(番組では「星子」を「ほしこ」と紹介しているが、本の振り仮名によると「せいこ」)

 当時はダウン症の子は、早死にするという。生きても三〇代とかということだったんですけど。今はもう六〇代まで生きる人も出てきて(169頁)

八歳の頃、白内障の手術が失敗したんですね。−中略−それで星子は全盲ということになって。−中略−
 何もできないというか、物を掴まない、食べるのも食べさせてもらう、そして噛まないで丸のみにするんです。
(169〜170頁)

一九七六年というのは、大変な子どもが本当に多く生まれている年で、四月には乙武君も生まれてるんですね。(170頁)

胎児性の病ということで。
最首さんはその時代、星子さんと生きてこられた。

星子は、頼らなくては行きていけない存在ですよね。鉢植えの草花っていうようなイメージで。やっぱり、水を三日やらないと枯れてしまうようなことで。(171頁)

他の力がいるんですみたいな。そのように頼られている。私たちが頼ってるっていうのは、頼られてることの、別名かと思ったりします。頼るというのと、頼られるという、これは相互関係ですよね。関係っていうのは、一方通行ではないんだ、そういう気もするんです。(172頁)

 将来、よく幼い子どもを持っている人に「将来が楽しみですね」というふうに声をかけるのが挨拶としてありますよね。(172頁)

「私も星子の将来に対しては楽しみでならないんですよ。そういう恩恵をこの子から貰っている」

今日という日と、明日という日はそんなに変わらない。
 じゃあ、未来はないんですかとはっきり言われるとね、そうは考えてないな、というような感じなんですね。
(173頁)

それも立派な将来なのだ、と。
何かそんなことを目指して生きておられるそうだ。

変化はあるんですよ。そりゃあもう、少しの変化だけで本当に嬉しいし。星子は便秘気味でしてね。なるべく薬を使わないっていうことになると、一〇日くらいぶりの排便になります。家中もう臭いんですよ。それが、何とも、母親と私とで、うきうきした気分になって、そういうのが良いですね。(174頁)

「私共はそういう生活をちっとも不幸とは思わない」「この排便の臭いをさせてくれる星子という存在が無ければ私どもの暮らしには喜びはありません」という、そういう方。
誰のものでもない出来事が私を喜ばせている。
その成り行きには人称の主語がない。
また日本語の不思議さ。
「成り行き」の不思議さ。

茶碗が割れた、ガラスが割れたという。それ割っちゃったっていうよりも、割れたっていうんですよね。(177頁)

こういう言い方をして、人影を言葉から消して、そういう流れであるという「成り行き」。
それが星子さんとの間に交わされることの嬉しさがとても幸せだとおっしゃる最首さんだが、その最首さんの身辺に実に不穏な影が忍び寄る。

余談だが不思議な日本語の言い回し。
「居る」という単語。
「そこに居る」という成り行き。

 リビングルームも居間ですしね、居留守を使うとか、居酒屋とかね。その居るっていう落ち着き方というかね、その場にいるっていうことなんだ、みたいな。驚いたのは、西洋語に、居るっていう表現がないっていうんですよ。(178頁)

「居る」というのは不思議な表現。
「そこに座っていた」とかそういう言い方をしないで「居る」という。
これは一種の成り行きで、流れのうちにある行動。
意志でそこにいたのではなくて、そこにいるような運命であったということで「いやぁ〜家に居たよ」、それから「居酒屋にいた」。
「アイツどこに居た?」「居酒屋に居るよ」という。
居る事情、成り行きを持っているという。
それを一瞬のうちに伝える。
哲学用語で言うと「私はそこに存在している」。
不思議な言い方がある。
「仕事は何やってるの」
「あ、学生してます」という。
あれも妙な言い方。

 風が吹くと桶屋が儲かる、そういう辿り方ができないんじゃないかと。−中略−私たち、成り行くというと、ちょっとって枠組みが取れない。(〜頁)

この最首さんのダウン症の娘さんに寄せる思いというのは、能力で人を分けなくなった。
「星子がそこにいる。それだけで幸せなんである」という。
そのことをこの最首さんという老境の大学教授が本にお書きになった。
これが評判を呼んだらしい。
評判を呼んだ最首さんのところに、ある日、手紙が舞い込んだ。
手紙を見て最首さんはびっくりなさる。
これが死刑囚・植松聡から。
事件当時26歳だった植松からの手紙だった。
覚えておられますか?皆さん。
相模原施設19人殺害事件、植松被告に死刑判決 - BBCニュース
やまゆり学園で重症心身の障害者の方45人を殺傷したという。
もう死刑判決は降りているが。
その彼からの手紙だった。
それで何が書いてあったかというと「この国にあって生産能力の全くないものを支援することはできない」。
丁寧な文章で差別の正当性を訴えてきた。
死刑囚・植松は著者と星子さんの関係が嘘に満ちていると手紙で告発してきた。

 一点目は、「奥さんがどんなに苦労してるのか、あんたわかるのか」ということ。−中略−あんたも大学人なら優生思想だろう。それと、星子のような子どもを育てるのは矛盾している。(180頁)

最首 会いに行きました(180頁)

「あの野郎」と言いたくなるが、あの死刑囚・植松聡。
報道キャメラが彼を撮ろうとした時に、車の中で笑い転げていた。

 その印象はどうでした。
最首 輪郭がはっきりしなくて、ぼけていて、この青年が、あれ程のことができるのかと思うような人でしたね。
(180頁)

そこでこの死刑囚と語り合うことになった。
植松は世界を割り切ろうとする。
「世界というのは単純化すべきなんだ。単純な支配、それが世界を動かしてるんだ」

IQ二〇以下は人間じゃない、もう人間扱いしないようにしよう(183頁)

「そういうふうに割り切った方が日本という国をもっと豊かにできるんだ」という。

それで、私は「割り切れないよ」っていうことを言い続ける覚悟というか、そんな簡単に、この命ということで、私たちは、命を生きたりなんかしてない。(183頁)

「自立している命が一つずつ世界にばらまかれているワケではないんだ。両足で立つもの、片足で立つもの、座るもの、うずくまるもの、様々な姿の命がある。弱くてフラフラしているものだってあるよ。そこでその命は誰かに頼る。命はそれ故に成立するんだよ」

「人のあいだ」を人と言う。(185頁)

「二人の間」の君と私であって、「二つの私」ではないという。
凄い。
それを直接本人に言いに行った。
この最首さんは論客で。
「よく考えてみてくれよ。単独としての個人なんていようはずがない。何かこう世界というものはそういう人達でできてるんだ。人間で一番孤独ではないということじゃないか?」と。
ここからこの方は壮絶な討論をこの死刑囚と始める。

最首さんはこの死刑囚と語り合うことになった。
植松は「生産能力の全くないものを支援することはできない」差別の正当性を訴えてきた。
最首さんと植松で往復書簡があったらしいのだが、結果から言うと植松の方が面会しなくなってしまう。
最首さんはいつでも会っていいと思ってらっしゃるのだが。
手紙の方も交換を最初はしていたのだが、植松は逃げ出して、一切返事をくれなくなった。
だから最首さんは定期的に手紙をきちんと書いておられる。
凄まじい、おどろおどろしい事件は「時のかなた」みたいに思ってしまうが、まだ皆さん、世の中であの男と戦っておられる方がいる。
あの男に何べん言ってもわからない。
最首さんのエッセーで中に凄まじいと思うのは、星子が今日は自力で便を出したというその臭いが家の中に残っていることですら最首さんにとっては喜びであったということ。
「汚い」とか「嫌な臭い」。
そうじゃない。
「いい臭い」「悪い臭い」は個人のもの。
そういう個人というものをとても大事に。
この最首さんのおっしゃっている「個人」は「一人」ということではない。
星子さんに支えられて二人が個人になっている。
西洋の思想の中で明治以来日本人がもの凄く苦闘したのがこの「個人」という考え方。
「個人」になる為にいろいろ日本人は必死になって頑張ってきた。
ところが「個人」で頑張ろうと福沢諭吉さんなんかが立ち上がるのだが反乱がおきると薩摩という、藩の人達がまた集まって問題を起こしたり。
その後は長州閥とか言って「閥」が。
今でもある。
卒業した大学の「閥」とかっていうのが法曹界にはある。
政治の世界ではというと、今度個人になるべきはずで投票は個人でやるべきなのだが「〇〇派」という「派」があって、という。
その「派」では学生運動の派閥があって。
ここでは殺し合いもしている。
「〇〇赤軍何とか」とあった。
それから「それはそれ、これはこれ」というので関係を個人にしようとするギャグ。

 そんなの関係ねぇって、コメディアンの小島なんとかさんは、裸で叫ぶ。カラスの勝手でしょとかね(191頁)

関係性で回りを断ち切ろうとする。
そこまでして個人を目指すのだが、なんだか上手くいかない。
それから流行った言葉。
「自己責任」
「自己責任」をわかりやすく説明した「テメェのケツはテメェで拭け」という汚い言い方があるが。
これなんかが「自己責任」で。
でもケツの拭けない人もいる。
もう腹をくくって他人のケツを拭く人がいる。
だったらその意味での自己責任も言葉として日本人には理解できていないワケで。
どうも明治以来、日本は個人というものに関して勘違いしている。
そのまま大きくなっている。
ではその個人とは一体何だろうかという、自信が無くなっているのが今の日本ではなかろうか?
最首さんは「その個人は見つからない」「人間は個人ではありえない。やっぱり人間は人間なんだ」。
「間」
関係の中に生きている、それが人間。
「自分は今、星子から頼られている。だが頼られることによって私は個人として立つことができるから。『おたくの娘さんは人間として扱いませんよ』あなたが言うこっちゃないよ!」という。
最首さんの堂々たる論理。
重症心身障害者の娘に頼られる時、私は頼る娘を頼りにして、私であるという。
植松の方から殆ど最近は面会も謝絶で、刑務所の方から聞くと受け取りを拒否して溜り続けているという。
(本には「死刑囚は、一般人からの手紙を読むことはできない」とある)
もともとは自分から出しているのにと思う水谷譲。
植松という人の正義というのはかくのごとく非常に孤独で。
武田先生も反省文で書いている。
「朝のラジオで喋るつもりだが、しかし、重すぎるのではないだろうか?この放送をどうお聞きになるか?とにかくあなたが孤独ではないことを祈りつつ、私は聞いてくださるあなたを頼りにしております。これは決して『私の正論』とか『私の言いたいこと』ではなくて、聞いてくださるあなたへの放送で」
三枚放送。
この成り行きの中に私個人が成立しているワケで、最首さんの言葉をお借りし、最首さんから学んだ言葉を今聞いてらっしゃる方に語り掛けている。
最首さんもおっしゃっているのだが、武田先生も締めくくりにこの言葉で今日を締めくくろうと思う。

『君あり故に我あり』(189頁)

君あり、故に我あり (講談社学術文庫 1706)



昨日のところで本の方の語りは一応お終いというこで、ここから先はフリートーク。
日記風に書いている。
「2024年10月の物思い」ということで書いていたのだが「10月の4、5、6を費やして浦河べてるの家、べてる文化祭へ行く」と。
帯広を降りて車で二時間、初秋の旅。
道南、襟裳岬の根本の町、浦河へ着く。
数か月ぶり、向谷地さんに会う。
そしてもう馴染みの統合失調症の(早坂)潔さん。
この方とも会う。
ちょっと浦河の原野に食べ物屋さんがあったりして、そこでべてるのスタッフと向谷地さんのところのご家族と。
向谷地の言葉遣いが好きで。
向谷地がソーシャルワーカーとして浦河にやってきて、生活が破綻した方がおられて、それを福祉で救おうとする。
お爺ちゃんがアル中で、お父さんがアル中で、せがれもアル中でという。
三代アル中。
その一家と向谷地が苦闘するのだが、向谷地の使う言葉は「いやぁ〜、あの親子三代には鍛えられました」
「鍛えられました」と発言するところは、この人のいいところ。
こんなふうにして水谷譲にも言ったことがあったか、この話。
べてるの文化祭に出ていた時に、統合失調症の方もいれば精神障害の方もおられて、そういう人達と一緒に混じって舞台の上に立っている時に、精神障害を持っておられる方から「武田さんも自分が精神障害者としてどんな病名を自分に付けますか?」。
べてるの家では自分の精神障害に自分で病名を付けなければいけない。
それで言われたので、遠い昔に、落ち着きのない武田先生を見て、ある人間ドッグのお医者さんが武田先生に病名を付けてくださった。
その名前が「過剰適応症」。
過剰に環境に適応しようとする為に、自分本人の何かを忘れているという。
「過剰適応症」と言ったら周りの精神障害の人達がもの凄く同情してくれる。
「大変ですねぇ」とか何か言われて。
それで武田先生もちょっと自分に自信が無くなって。
周りの方は「武田鉄矢」という目で見ているのか?「この人はテレビに出ている人だ」とかと思う水谷譲。
そういうことは皆さんわかっておられて、その上に「この人にも障害はあるんだ」という目で見てくださる。
そう言われてみると自分に自信が無くなる。
武田先生がが作る歌は変。
「あんたが大将」

あんたが大将



こんなの博多の戯言。
それが歌になると思うところも変と言えば変。
「贈る言葉」なんか泣きじゃくった恋の思い出。

贈る言葉



それを卒業式の歌と勘違いされるような抒情詩に仕上げるワケで。
才能と言えば才能だが、狂気と言えば狂気。
「私はちょっと変なんじゃないか?」
でも「自分は人として完璧なんだ」と思っている人こそ変だ、そんな怪しい人はいないと思う水谷譲。
そういう過剰適応症追及という、せっかく遠い昔、人間ドッグのお医者さんから貰った適応障害なので、自分で研究してみようと思って、今、適応障害の人達の本を読んでいる。
これはまた皆さんに必ずご報告すると思う。
もうちょっと待っていてください。

いよいよ話が長くなったが「べてるの家」で様々なことを学びつつ、東京へ二泊三日の旅を終えて帰ることになったのだが、向谷地さんが凄く気を遣ってくれて、浦河赤十字病院精神科の医長、精神科の長であるところの川村敏明先生に会わせてくれた。
川村先生とは前にも会ったことがあるのだが、この方と武田先生は同じ年。
団塊の世代で。
この川村先生は令和の今も現役。
初めに会った時の印象と殆ど変わらなくて、もう殆どヒグマのような風貌の先生でヒゲボーボー。
自宅近くの広大な庭で何十人もの来客を迎えて、ちょうど講話を、お話をするという会をやっておられた。
武田先生が(川村)先生のところに挨拶に行って「いやぁ〜!武田さ〜ん!」と言いながら手を振ってくれて
「こっちこっち!」と言いながら。
この川村先生は「べてるの家」と共に生きた方。
もちろん病院の先生なのだが。
まぶしい程の人で活き活きとしておられる。
何か知らないが豊かな人。
この人が小さな丸太小屋に武田先生を案内して「ちょっと世間話でもしましょうよ」と言いながらいくつか話をしたのだが。
締めにこの川村先生との会話を皆さんに聞いていただこう。
というワケで「べてるの家」と共に浦河の町での精神障害者の人達の暮らしを支える精神科医の川村先生とお会いして話していて、こういう人は落ち着く。
その時にべてるの文化祭で聞いた話。
UFOがしきりにテレパシーを送ってきて「宇宙に飛び立とう」という。
そのUFOに向かって走り出したものだからみんなで止めて。
そうしたら「べてるの家」だから、もう殆ど全員がUFOに乗ったことがある人で、みんなでミーティングをやって、その「宇宙人の中で免許証持ってないヤツもいるから危ない」とかそういう話になって、自然と流れは「アンタもUFOの免許取った方がいい」ということで川村先生は病院におられて精神科医で。
診断の結果、一週間の入院という。
入院生活をし始めると円盤の声がゆっくり遠ざかっていって、だんだん親和的、つまり向こうも慣れ親しんでくるという。
話す内容も変わってきて。
円盤の宇宙人の方から「いや、アンタやっぱり地球にいた方がいいよ」なんて真逆なことを言われてしまって。
それで症状が落ち着いたところでまた町へ帰ってくる
その時に「はい。免許取る為に入院ね」と言ったのが川村先生。
川村先生にその時の印象を聞いたのだが、やはり川村先生は医者。
武田先生がその人の狂気についてお尋ねすると、川村先生はサラっと「狂気の人も少し気がついている。幻覚や幻聴を見て、現実として狂気を語るんだけども、どこかで『ちょっとおかしい』と思う」。
だからバーっと寄ってたかって「オマエは間違ってる」と言うと狂気が強くなる。
そうすると幻覚と幻聴が生々しくなる。
ところが「そうだそうだ」と言いながらみんなで幻覚と幻聴を盛り上げると、幻覚と幻聴がゆっくりと薄くなってゆくという。
「違う」と言わずに「そうだそうだ」と一緒に乗っかると狂気の方がだんだん「いや、このままじゃまずいな」とか「みんな言ってること変だよ」とかと狂気が狂気に向かって説教し始めるという。
「そういうのを見抜くのが我々の仕事なんですよ」とえおっしゃる。
「私共も狂気を演じるんだ」と川村先生は言う。
つまり狂気の奥底には芸能にもつながるいわゆる「芸術の何か」があるという。
川村先生の近況を聞いたら、日赤でまだやってらっしゃると思う。
医長としての仕事、その局の中の長としての仕事と、それから縛られるのも何だからと言うので独立して医療の町医者を始められた。
そうしたらやはり、いろんな人がたくさん来る。
川村先生の腕がいいのを見込んで。
これが面白い。
誰かドラマにしてくれないか?
最後の仕事で、武田先生に川村先生の役をやらせてくれないか。
何が面白いかというと、人間というものを考える。
それと芸能人はやはりちょっと変じゃないとできない。
個性の塊じゃないきゃいけないし、どこかに狂気もなくちゃいけないし、癖もなくちゃいけないし、平板な人じゃ生きていけないと思う水谷譲。
そういう意味ではそっちの方面でも励まされたような気がした。
その時に最後に川村先生と盛り上がって向谷地さんも目を輝かしていたのだが、日本はこの浦河から先進の精神障害等々の治療が今、どんどん発見されている。
一万人ちょっとの小さな町。
でも世界に通じる町。
これからの「べてるの家」に期待してください。
どういう方が「べてるの家」に入れるのかと思う水谷譲。
やはり本人の決断。
「入れてください」から始まる。
ここに行くと、とにかく考え込む。
いろんな適応障害、精神障害を持った人がこの町に集まってきていて、それをべてるの文化祭で見たのだが、人から心を読まれると悩んでいる人がいる。
この人にとって必要なのは「心の壁」を持つことで、壁を持たないと他人が入ってくるという。
彼女の相談相手に向谷地さんが選んだ人が自閉症の人。
自閉症で引きこもりの青年が、この精神障害を持った女性に対して「どうやったら人との間に壁を作るか」「どうやったら閉じこもることができるか」を教えている。
面白い。
この子に向谷地が「作業は進んでる?」と言うと「はい。だいぶ壁ができるようになりました、彼女も」と言う。
彼はスタッフとして働いてる。
「人との間に壁を作る名人」「引きこもりの達人」という。
こういう発想が抜群で。
「人間というもの」というのが、どのように支え合って、ある意味で言うと硬い言葉で有機的に結びついていくか。
その人間の実験場として「べてるの家」というのは面白くて、チャンスがあったらここからまた川村先生の川村先生診療譚というのは、別個の「(今朝の)三枚おろし」で触れたいと思うのでこうご期待。
(川村敏明氏については2025年2月17〜28日◆治したくないで取り上げた)
「降りてゆく生き方Part2」を締めくくる。
来週はまた別のネタで。


2025年1月20〜31日◆降りてゆく生き方Part2(前編)

これの続きです。

弱さの情報公開?つなぐー



「降りてゆく生き方Part2」ということで、申し訳ない。
これは本当に山ほどネタを仕込んでしまって、たった二泊三日の旅だったが、いい旅を事務所スタッフからさせてもらって、いいネタをたくさんそこで見かけることができた。
「どのへんから話を始めようかなぁ」と思って言うが、昨日ちょこっと起こったことから話す。
とある長い長いバラエティー番組に呼ばれて。
「何時間続くんだ?」というような長さだったのだが、それの収録をしていた。
(2月23日放送のTBS「ベスコングルメ」のことかと思われる)
それで声のいい麒麟の川島(明)さんが番組を回しておられる。
武田先生の使い道など無いのだが、川島君はいい子だから(話を)振る。
それで昭和の思い出話をする。
あんまり詳しくないから、武田先生の話せる範囲内は決まっている。
「101回目のプロポーズ」の前後とか「金八先生」とか、昭和の深い時代に終わった人気番組のこと。
川島さんが振るのだが、振りにもう無理がある。
全然わからない。
テレビゲームの話とかになる。
武田先生は「インベーダーゲーム」で終わっている。
「名古屋撃ち」とかそういうのでもう終わっていて、「〇〇ファンタジー」とかもうわからない。
それを若い人達が盛り上がるという。
そうしたら話が、今もブームが続いているらしいが「たまごっち」になった。
また再燃。
そんなのは全然知らない。
川島さんがよせばいいのに武田先生にたまごっちを振る。
武田先生はやったこともなければ興味も無い。
面白いとも思わない。
金八先生で「たまごっち禁止」という、そういうものを物語の中で扱ったことがある。
そうしたら川島さんが残念そうにあのいい声で「いやぁ武田さんご存じかと思ったけど、ご存じないんだ」とかと言うから「日本人は何でこんな奇妙なものが突然大ブームになるんだろう?」。
これは凄い。
たまごっちだけで二百億、三百億円の経済効果があった。
何で起こっているのか誰もわからないのに大ヒットしているという。
(川島さんが)「日本人て不思議ですよね」とおっしゃるから、日本人はそういう不思議なブームを巻き起こすことがあるというので、思わず「あ、俺らガキん時によくやってた赤土団子っていうのがあった」。
赤土団子を知らない水谷譲。
知るワケがない。
武田先生達は子供の時、小学校低学年の時、何も遊び道具が無い。
それで何をするかといったら、赤土を指でほじって、それをガラス板の上で丸める。
それを金属の玉みたいにテッカテッカにする。
それがパチンコの玉みたいに、もう赤土が金属に見えるぐらい光り始める。
それを「泥団子」と呼んでいた水谷譲。
それでその硬さとか光沢を仲間同士で競い合う。
それで何回も校長先生が朝礼で禁止条例を出す。
赤土が見当たらないから運動場の隅にある子供相撲の土俵の赤土を指でほじって。
運動場の隅に土俵があったのを不思議に思う水谷譲。
昔は相撲文化だから、それを指でほじる。
ところが全校生徒千人近くいるワケで、男の子は全員毎日ほじるものだから、土俵にボコッと横穴が空いてしまって、もう校長先生が烈火のごとく怒っているのだがやめない。
それから「ギンナン笛」。
校門の横にギンナンの木が立っていて実が落ちる。
その実のアレを取って、あのタネで笛を作る。
ところがそれをやると子供だからギンナンに負けてしまって発疹だらけになる。
そうしたら低学年の子は全員ブツブツ。
「やめろ」というのだがやめない。
いったん流行り出すとやり続ける。
これが「降りてゆく生き方」にどうつなげていくかわからないのだが。

LGBTの方がレインボー運動をやっておられる。
今、アメリカなんか凄い。
トランプさんが大統領になるが、あの中で、またLGBT嫌いな人が一人いる。
あれはまた揉める。
だが日本は意外とみんな許容している。
多様性は認めている国だと思う水谷譲。
それが考えてみたら文化の中にある。
歌舞伎はやっぱり女形が芸のうちになるし、宝塚は女性が男性を演じるところに美しさがある。
こういう「ジェンダーを入れ替える」というのは、平安の昔からあった。
「とりかへばや物語」というのが源氏物語と同じぐらいの時期に物語としてあって、男の子を女の子に、女の子を男の子にして育てるという物語が平安時代にある。

とりかへばや物語 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典 (角川ソフィア文庫)



そういう文化の中で、異国のLGBT問題と日本は少し違うんじゃないか?という。
「日本という国が独特の文化を持っている」というところから「降りてゆく生き方」「べてる」のあり方みたいなものを探ってゆこうと思う今週。

「降りてゆく生き方Part2」ということで北海道・襟裳岬の根本の町「べてるの家」。
ここに向谷地さん。
武田先生と同世代の方がいらっしゃる。
その方が教えてくれた「べてるの家」の活動みたいなもの。
これがなかなか武田先生の後半の人生にとって非常に深い意味を持っているような気がして。
「そのへんを語ってみたいなぁ」と。
「降りてゆく生き方」は素敵な言葉。
これは60(歳)の頃出会った言葉だったが「なるほど」と思った。
この「降りてゆく生き方」は多分、向谷地さんが作った言葉ではないか?
違ったらごめんね向谷地さん。

パウル・ティリッヒ(アメリカの神学者・思想家)があります。『存在への勇気』という非常に難解な本でしたけれども、そこから私が得たものは、ティリッヒの「人生曲線」だったんですね。−中略−今を生きる高さから、私たちは毎日、死ぬという低さに向かって降りている、という考え方を教えられるわけですね。ここから私の中で「降りていく生き方」というキーワードが与えられ(212〜213頁)

それを生きているうちに模索しようではないか。
それから向谷地さんは読書傾向が似ていて

V・フランクルの本を示されるわけです。名著と呼ばれる『夜と霧』−中略−このフランクルの「ホモ・パティエンス」の考え方もそうですね。まさに人間は「苦悩する存在」であるということですね。この「苦悩」を人間存在の根本的なものとして捉えた。(213頁)

ものごとを「楽」とか「安らぎ」で解こうとするから、ものごとはどんどん絡まってくる。
全ての解決を苦労で解いてゆく、そういう生き方をすることだ。
「毎日みんなで苦労しようぜ」という。
そう覚悟したら人生は違ったものになる。
この言葉に向谷地という人は惹かれたらしい。
だから苦悩が義務であるから、毎日苦労してしているかどうかが問題なんだ、と。
強靭な意志。
それでこの方は社会の福祉に尽くす福祉人として精神病を患っている人と暮らしを共にする。
「精神障害の人達を病院に閉じ込めないで町に出て労働する、そこに解決策を見出そうぜ」という。

「社会復帰」っていう切り口からでなくて「社会進出」の発想でチャレンジする。(216頁)

精神的に障害を持った人が社会に進出していく、そういう生き方を探ろうということで小さな小さな浦河の町で地元産の昆布の商品化とか板金工、或いはパン屋さんをやったり、それからいわゆる道路補修等々の公益の事業に就いたりして一緒に苦労したという。

風呂に行くのを節約して早坂潔さんと雨の中で風呂代わりに体を洗って(209頁)

「苦労」への参画ということです。(216頁)

もう「今日も苦労。明日も苦労しようね」と言いながら苦労に参加していくと、次々新しい発見がある。
ここから向谷地さんは絶妙のことを言う。
何かというと精神障害を抱えたその人達が、毎日苦労するということを体験しているうちに幻聴や幻覚が質的に変化する。

私達が機嫌良くなると、幻聴さんも機嫌が良くなる。私達が仲良くなると、この幻覚も私達に対して親和的なものになるということが徐々に分かってきたんです。(216頁)

つまり幻覚や幻聴、特に幻聴が強い人が「オマエなど死ね」という言葉がどこからか聞こえてくるという幻聴に苦しんでいる。
それがここで毎日の苦労を覚悟して日々、肉体を使って働くと「頑張ろうよ」と言い出す。
つまり幻聴も変化する、という。
幻覚も変化していく。
この時に起こった事件が「空飛ぶ円盤で誘いに来た宇宙人」が、あの例の話。
みんなで語り合って、宇宙に連れていかない為にはどうするか?
そうしたら彼を入院させて、それで出てきたら幻聴が遠のいた。
あれからも、宇宙人からのテレパシーで幻聴があったそうだ。
そうしたら内容が変わってしまって、宇宙人の幻聴が「なるべく地球に残った方がいいよ」と言い出した。
これは向谷地は「もしかしたら大変なことが実は起こってんのかも知んない」という。
それで彼はソーシャルワーカーとして頑張るのだが。

精神障害を持っておられる方、症状としてよくあるのが「幻聴」幻の声が聞こえる、
或いは「幻覚」神が目の前に出てくるとか、そういうことがある。
ところが向谷地さんはキリスト教徒なので、聖書なんかよく読んでらっしゃる。
その向谷地さんが気が付いた。
「そういえば幻覚・幻聴っていうのはキリスト教の中では聖書に書いてあるな」
有名な話がある。
熱心なユダヤ教徒であるパウロ。
彼は新興のキリスト教徒を激しく憎んで捕えては次々と処刑するという「キリスト教迫害者」だった。
ある日のこと、急に視力を失って気が付いたらキリストの声が聞こえた。
「パウロ、パウロよ、なぜわたしを迫害するのか」とキリストが責めたという。
(この時点ではパウロの名前は「サウロ」)
それからパウロは目からうろこが落ちたような状態になり自らキリスト教徒になったという。
それから、武田先生はこの話が大好き。
アピアン街道の話。
これはペテロ。
キリストが処刑されるのを見届け、それから熱心にキリストを神の子だと信じるようになったペテロ。
だんだんお爺ちゃんになってしまって。
その頃キリスト教徒も増えたのだが、ネロという恐ろしい皇帝様がローマ帝国の長になられると、キリスト教徒を遊び半分で殺す。
恐ろしくなったペテロは、命が惜しくて逃げる。
ローマからギリシャ方面に逃げようとしたのか。
そこでアピアン街道というところを走って逃げていた。
そうしたら向こう側からパンツ一枚で危険なローマに向かって走る若者を見る。
彼は急いでいる。
よく見たら何のことはない、若い時お別れしたイエス・キリスト。
それで彼はその若者、あの死んでしまったイエスに向かって声をかける「Quo vadis, Domine?」「主、汝いずこへ行きたまう」「イエスはどこへ行かれるんですか」。
そうしたらイエスが怒った目で、キッ!と睨んだのだろう。
「オマエはまた裏切るの?」という。
「最期の晩餐の時もそうだったじゃん。アンタ裏切って逃げたでしょ?私がよみがえって永遠の命を見せたのに今度またアンタ命惜しさに。何べん言ったらわかるの」みたいな、イエスは厳しい目つきだったのだろう。
そこでナヨナヨナヨと倒れたペテロは「申し訳ない。ちゃんと死にますから許して」と言いながらローマに取って返して十字架にかかるのだが、普通にかかったら、ご主人のイエス様に申し訳ないので「私を逆さにして磔にしてください」ということで磔のさかさまで死んでいったという。
そのペテロの逆さ吊りの十字架の跡に立ったのがセント・ピエトロ寺院(サン・ピエトロ大聖堂)。
でもこれはいずれにしてもパウロ、そしてペテロも怒りの声。
神様からの怒りの声。
これを幻覚・幻聴で聞いてしまう。
「べてるの家」の精神障害の人達は仲間と共に頑張ると幻覚・幻聴が明るく変わってくるという。
水谷譲に一回言ったことがある。
2024年7月8〜19日◆老害2024年8月19〜30日◆ヒト、犬に会うで遅刻する夢の話が出た)
幻覚・幻聴、或いは悪夢の傾向があるという。
武田先生があの時言った。
「遅れる」という夢を見る。
今でもしょっちゅう見る水谷譲。
武田先生も今だ、遅れる(夢を見ることが)めっちゃ多い。
試験会場に遅れる、国際線に乗り遅れる、新幹線に乗り遅れる、どんどん遅れてゆくという。
「生放送に遅れる」というのをしょっちゅう見る水谷譲。
自分の内側に眠っている狂気に向かって聞いてみた。
「何で俺はこんなに遅れる夢ばっかり見るんだろう?」
そうしたら気が付いたのだが、日本人の文化の中、物語の中に「遅れる」ということがいっぱいある。
宮本武蔵と佐々木小次郎。
巌流島の決闘で武蔵はわざと遅れてゆく。
それから堀部安兵衛の決闘高田馬場では自分が遅れるという。
それで自分の親戚のおじさんか何かが切り殺されてしまうので、堀部安兵衛がもの凄い勢いで高田馬場まで走って行った。
走ってゆくといえば何回も話が出ているが、太宰治の「走れメロス」も約束を守る為に遅れを取り返そうとするとか。
昭和の戦前のことだが、国際社会に対してだんだん不満を持った日本。
それが非常に焦ってきて、ヨーロッパと肩を並べられない自分達、我が国日本に対して「バスに乗り遅れるな」。
それからミッドウェー海戦では爆弾を入れ替えようとした時の「あと五分で出撃できます」。
その隙に飛行機が攻めてきた。
日本では間に合うか間に合わないか、これが大事な・・・
この「遅れる」という恐怖感。
これが日本人の体の奥に宿っているのではなかろうかと。
ただ一瞬だけ奇怪なことがあった。
武田先生は、この向谷地さんの本を読んでいて、遅れる夢を見た。
その時に「何で遅れる夢ばっか俺見るんだろう?」と夢に訊いた。
そうしたら、それから何か月間か遅れる夢を見なくなった。
「また遅れる夢か」
そうしたら向こうが「見抜かれるぞ」みたいな。
そうしたら何か月間か見なかった。
だいたい夢の中で遅れそうで慌て始めたら「夢かも」というふうに自分で疑ってみるという。
このあたり、人間の奥の奥にある何事か。
これは恐らく民族的な遺伝子ではないだろうか。
だって「キリスト教の神と出会った」というのはアメリカの人達に影響を与えている。
マイケル・ジャクソンが亡くなった時に、凄い言葉だなと思ったのだが「王がいない国の人達は神の真似をしたがる」と。
どこかの心理学者(の言葉)だと思うのだが。
王様がいる国というのは、狂気の人は王様の真似をする。
それで、王様がいない国は神様の真似をしたがる。
だからキリストの真似をして死にたがる傾向を持つとか。
そういえばアメリカの凄いアイドル、ジェームズ・ディーンとかも若くして死す。
マイケル・ジャクソンも。
あれは神様の真似をしたがったのではないか、という。
そういう例え方が凄く面白くて。
この日本人の「遅れることへの恐怖感」というのは、どこから来ているんだろうか?と本当に真剣に考えたことがあった。
今も考えている。
これはやはり稲作を中心とした社会。
季節に間に合わないと、完璧に遅れる。
人が田植えを始めたら自分も田植えを始めないと、乗り遅れると、真夏がやってくると雨が降らないという時期がくるワケで、そういう意味では「遅れる」ということが死につながる。
なんせこの国は桜が咲いたら新聞のトップだから。
「花が咲く」ということがトップニュースになるというのは、こんな国はない。
咲かなければ咲かないでそれもトップニュースになると思う水谷譲。
それは天気にしてみれば「暑い時だってあるよ」「ちょっと俺が遅れたぐらいで『遅れたろ?』」という。
何かそういう「遅れること」に対する恐怖心というのが、自然とか天然・自然の災害とか、そういうものによってしつけられている。
集団の足並みを乱すことへの罪意識。
他の民族と違ってもの凄く日本人は重大な罪として。
電車が二分ぐらい遅れただけで「大変申し訳ありません」という放送が流れたりすると思う水谷譲。
東京駅でよく見かける風景だが、新幹線が時間通り発車しているのを時計と発車のパネルを撮って出ていく新幹線と三つキャメラにおさめている人がいる。
だから九時発の新幹線が九時に出ているというのは彼らにとっては異常なこと。
武田先生はそういう意味で「遅れる」ということに対する社会の問題化というのが日本人の心の中には相当深くあるようで、一種狂気として「遅れることへの怯え」があるのではないだろうか?と。
子供の頃から「時間は必ず守れ」と言われたと思う水谷譲。
10分以上遅れたらぼろくそに言われた。
こういうふうにして自分の狂気をジーッと見つめていると民族全体の遺伝子の流れみたいなものを感じて仕方がない。
そうなってくると向谷地さんとどう結びつくのか?という。

向谷地さんに戻ろうと思うが、この人の話を聞くといつも感動してしまう。
この方は25年間、「べてるの家」の体験で20万件の精神障害の人達と語り合ったという。
彼は「べてるの家」の実践から狂気への取り組み方を会得している。
これはこの人のおっしゃっていることだが、その人が持っている狂気に関して、研究する時に最も大切なのは「対話型」「語り合うことだ」という。
障害者と治療者、お医者さんと患者さん。
上下を付けないで語り合う。
なぜその幻聴はきたのか?
その幻覚はどうやったら出現するのか?
そういうことを徹底的に語り合う。
「そうするとだんだん正体がわかってきますよ」ということ。
向谷地さんの言葉遣いの面白いところは、精神障害がワリと重篤で治療困難という方がおられると、向谷地さんは武田先生の前でも使ったが「この人は手ごわかったんですよ」と。
「手ごわい」という。
それからさんざん迷惑をかけられた精神障害の人に対しては「いやぁ〜勉強させられました」と言う。
この向谷地というのはいい人。
とにかく徹底的に語り合う。
それで裏の裏を見抜くという。

統合失調症を持つAさんを紹介します。−中略−安全保障問題から政治情勢まで、機関銃のように話題が口から出てくるんですね。例えば病棟の看護師長さん今度は知事になるとか、自分は自民党の政調会長になるとかそんな話を延々とするわけですね。(225頁)

これは武田先生ではない。
向谷地さんの本の中で書いていた一言だが、精神障害の人と付き合ってるとわかるが、そういう人達が政治を語るっていうのは病気が酷くなっている時。
これはちょっとごめんなさいね。
国会の為に頑張って働いてらっしゃる方を決して軽蔑してるのではない。
前にお話しした神様との契約をしてるというその人と、政治を語る裏側に何があるのかと思って向谷地はずっと探索していくと彼の神様がいた。
2024年11月25〜12月6日◆人生、待っていたのはに出て来た話)

神様からのテレパシーで送られてくる命令の内容が、何と一四種類あって、その中に、「新聞を読むな」「テレビを見るな」なんと「部屋から出るな」っていうテレパシーもあるんですね。ちゃんと神様のテレパシーを守ってるんですね。−中略−私はそれを聞いて言いました。「神様もいろいろいるけどあなたのその神様ひどいじゃないですか、その神様に苦情を申し立てたい」っていうふうに言いましたら、「Aさんはそれはやめてくれ」という事で、私は「ぜひ神様に嘆願書を出しませんか」とスタッフの人に言ったら、看護師さんはそれはいいねって言ってくれて、看護師さん達は見事な嘆願書を作ってくれました。それで署名欄まで作ってくれて、スタッフの方たちや入院患者さんの一部の方たちも含めて四〇人以上の人が署名してくれて、Aさんにそれを見せたんです。これを絶対神様に届けようねって言ったらものすごく喜んでくれました。
 すると、不思議なことに、あっという間に縛りが一四から五つにまで減りました。私は五つの縛りの中身がちょっと気になりまして、
−中略−「あんまり看護師さんの胸を見るな」なんて声がちゃんとあると言って大笑いしたことがあります。(225〜226頁)

これを向谷地は「狂気を共有すると狂気の方もこっち側を見ている」という。
これでアジア圏から注目する人がいる。

メールをいただき私はべてるのスタッフ、メンバーとアジアの最貧国のバングラディシュへの「家庭訪問」を決行しました。
 檻の中で家畜同然のように暮らす女性と鎖につながれている女の子の家に家庭訪問をしました。
−中略−五年ぶりに檻から出ていただきました。しかし、シラミのために髪の毛はバリカンで丸坊主にせざるを得ませんでした。庭に出た彼女は何かに怒ってまして、私は挨拶した途端に回し蹴りとパンチをくらいました。−中略−私は一緒に彼女と塀の外へ出ました。−中略−一緒にリキシャに乗ってですね、町を一緒に散策しました。(233〜234頁)

特に鎖につながれていた女の子は何かに恐怖していると思いました。−中略−次の日、地域の会館を借りて一緒に当事者研究をしました。彼女はかぼちゃのおばけに苦しんでいたことがわかりました。−中略−彼女にとって必要だったのはですね、一緒に苦労について対話できる仲間だったんですね。私たちはこれからもアジアの精神保健福祉の現状を変えるためにアクションを続けたいと思っています。(234頁)

(番組では話を混ぜてしまっているが、向谷地氏に暴力をふるった人とかぼちゃのおばけに悩まされている人とは異なる)
この向谷地が語る狂気への向き合い方、これを知れば知るほどこの人は本当に偉大な人だと思うし、精神障害の人達のことも知れば知るほど狂気というものが格別の障害になるとは思えなくなる。
政治、宗教、思想、恋愛、芸能、そういうものにみんな狂気の片鱗がある。
それでちょっと面白いことを考えた。
武田先生の中にもそれ(狂気)はあるなと考えて、「心身症」とか呼ばれるヤツの人の本を読んでいたら、武田先生はピッタリ。
それはまた別に話す。
つまり精神にある「バイアス」「歪みとか傾きを持つ」というのは意外と人間、あるのではなかろうかと思った次第。
来週だが、もの凄く大きい問題に突入していく。


2025年04月28日

2024年11月11〜22日◆降りてゆく生き方Part1(後編)

これの続きです。

依存症をどうやって治すか?
精神科医の先生の論文を元にしてお話をしている。
(本によると論文ではなく「SHIGETAの学校での講演」)
論文の書き手、松本俊彦先生という方。
精神医療の方。
この方が依存症を治すという。
「依存」が付くものは全部、治療の対象となりうる。
薬物依存、アルコール依存、ギャンブル依存。
それから水谷譲が思いついてくれたがセックス依存症。
その「依存症」というのは精神のどこから来てるんだ?という。
この松本先生が紹介なさったネズミの実験というのがあって、このネズミの実験というのが驚きで。

 オスメス同数のネズミ、三二匹、トータル三二匹ですね。それを用意します。そしてその三二匹をランダムに二つのグループに分けます。一つ目のグループは、一匹ずつ檻の中に閉じ込めます。−中略−エサや水は決められた時間に決められた量しか与えられません。−中略−
 それからもう一方のグループは、一六匹まとめて一箇所に集めました。ネズミたちのために作った人工的な楽園に置いたんです。
−中略−広々とした場所です。そして床にはおがくずが敷かれていて、ふかふかしてとてもあったかいです。エサや水は欲しいときに欲しいだけ摂取することができます。そしていろんなガラクタが置いてあります。このガラクタで遊んだりじゃれあったり、いろんなことをします。−中略−ネズミたちはあっという間に恋に落ちます。−中略−恋におちるやいなや交尾を始めます。(101〜102頁)

これが毎日繰り広げられて、
面白いものでメスに気に入られる為に、オスは空いた時間はクルクルクルクル回るヤツで足腰鍛えているという。
メスはメスでオスとの恋を楽しむという。
グループAの16匹は体はたいして動かせない。
うずくまり、ただ水とエサの時間を待つだけという日々を過ごすという。

 この二つのグループ−中略−のネズミに二つの飲み物を与えます。一つは普通の水です。もう一つはモルヒネ入りの水です。(102〜103頁)

この二つの飲み物を、二つのグループのネズミたちに与えて、五七日間観察します。−中略−どちらのグループのネズミのほうが、このモルヒネ水を好むネズミの数が多いか? こういう実験です。−中略−実際の結果は、圧倒的に一匹ずつ檻に入れられたネズミでした。この檻に入れられたネズミ一六匹中一六匹が普通の水よりもモルヒネ水を好みました。しかもモルヒネ水の消費量は、この実験中どんどん増えていきました。(103頁)

(番組ではモルヒネの濃度を濃くしたように説明しているが、濃度は一定で消費量が変わったようだ)

 一方、楽園に置かれたネズミたちは−中略− こんな状態でモルヒネ水を摂取したら、ラリッてしまって足腰が立たずに、乱交パーティの相手が見つからない、モテ度が下がってしまう。そのことを危惧したのかもしれません。一匹だけモルヒネに対して嗜好を示すネズミはいました。しかしながら、檻の中のネズミに比べると、モルヒネの消費量は二〇分の一以下だったことがわかっています。(103〜104頁)

かくのごとく57日間でもAとBを比べると、もの凄い差が出る。
つまり依存症とはこういうことなのである。

薬物を摂取すると、以前からずっと悩んでいた、痛みや悩みが一時的に消えるんです。苦痛が緩和されること、これが報酬となるってことなんです。(104頁)

大事なことは「快感」を求めているのではない。
痛みの和らぐことを求めて「依存している」という自分を積み重ねてゆく。
だから依存症というのは、努力しないと依存症になれない。
これは武田先生はハッとしたのだが松本先生は凄いことを言う。
依存症の本質、依存症が求めているのは快感ではない。
苦しみや痛み、これを緩和するところに喜びがある。
一番大事なことは苦痛を完全に消すことは困ることで、緩和されるということが快感なのである。
だから苦痛を大事にとっているんだ、と。

 快感だったら飽きるかもしれません。しかし、以前からずっと悩んでいた苦痛がいっとき和らぐ。これは飽きないと思います。(104頁)

だから「苦しい」が終わらないように、「苦しい」を感じない時間があってまた苦しくなるということが依存症の一番大事なところで。
変な男で失敗してもまた同じ男に行ってしまうようなものかと思う水谷譲。
フロイトが言っていた。
3回、4回結婚しても女房がだいたい似たタイプという男がいる。
誰かが四度目の結婚式場に出て小さい声で「あの野郎、雪道に迷いやがった」と言っている。
グルグルグルグル同じところを回っているというのがいる。
芸能人の中。
(名前を出したいが)我慢する。
言ってはいけない。

ここから依存症は奥につっこんでいきましょう。

実は依存症というのは、「安心して人に依存できない病」だという気がするんです。(109頁)

薬物であろうとドラッグであろうとギャンブルであろうと、女性依存、或いはセックス依存というような依存症というのは「安心して人に頼れない私」。
「そこから始まるんだ」というと「あの依存症の人もそんな顔、してたなぁ」という気になってくる。
この「依存」の反対語は何かというと「自立」。
「自立」とは何かというと自分で根を張って生きているということで、植物に例えると、四方に根を持つ。
例えば桜とかそういうもの。
では依存症の植物は何かというとツル。
誰かに巻き付いている。
その人の脇で巻き付いて生きていくというような性格、或いはキャラクターの人が依存症になりやすいようだ。

初めて依存症の専門外来にやってきた方たち、治療開始から三か月後にも治療を続けている人がどのくらいいるのかを調べてみました。なんと七割が治療を中断していました−中略−この三割の方に聞きました。−中略−この三か月間に一回でも覚せい剤を使った? 聞いてみると、なんと九六パーセントが一回も使ってないんですよ。(111頁)

その三割の人に「なぜ頑張れたのか」と聞くと「三か月もやめているということを誰かに自慢したかった」という。
その「誰か」がお医者さん。
「アンタ三か月辞めたのか!」とそういう喜びを分かち合える人がいると、その笑顔に会う為に我慢できる。
(番組では三割の人は医者から褒めてもらえることで覚せい剤をやめられているというような話になっているが、本ではやめることができている三割の人が自慢をしに病院に来ているだけという内容)
とにかくこの松本さんというお医者さんがおっしゃっている。
これはちょっと乱暴な言い方。
でも皆さん、検討しましょう。

 安心してシャブを使いながら参加できるプログラム。(113頁)

こういうのをプログラム診療所といって、様子を見ながら治療していくという。
どんなことでも急に「やめろ」と言われたら苦しいと思う水谷譲。
武田先生もタバコをやめてしまった。
三箱吸っていたのに。
(やめた理由は)病院の入院生活が忙しくて。
心臓病の手術をやって入院していた。
それでも頑張って吸いに行っていた。
病院を抜け出して近くの児童公園の滑り台の下で。
そこは他の患者さんもいっぱい隠れて吸いに来ている。
糖尿病の人とか。
その中には、ちょっと反社の人とかもいる。
だから何分待ったら吸えるのかが読めない。
それから競馬のノミ屋さんとか、電話で連絡している。
並んだ並木道の陰に隠れて彼らが去るのを待つのだが、あの人達は話好きが多いから話が長い。
反社の人とノミ屋さんが独占している。
それでだんだん行くのが面倒臭くなって。
ある日ハッと気づくと「あれ?俺いけ無ぇ!タバコ吸うの忘れてた」と思って。
それで手術したばかりの痛い腹を押さえながらまたブランコのところに行ったら、反社の人がまたいる。
「退院が間近だ」とお話になっていて。
本当に「早く退院してくれ」と思った
そうしたら武田先生の方が退院が早くて。
「やめた!雨も降ってるし今日行か無ぇ」と思った雨の日が三日、四日続くと(タバコを吸うことを)すっかり忘れてしまって。
だから禁煙なんていう思いがない。
「タバコを吸うのを忘れちゃった」という日々が十数年続いているという。
助かった。
それからやはりお医者さん(の存在)がデカかった。
手術直前に「武田さん、あの、ざっとでいいですけどタバコ何か月前におやめになりました?」
その時にいい先生だったもので「え?タバコですか?昨日やめました」とはっきり嘘とわかる顔で言った。
その人が悲しそうに下を向いて「そうですか・・・」。
それが結構残像で強かった。
奥様からあんなに厳しく言われても、奥様には悪いのだが、武田先生にタバコを止めさせたのはあの反社のウエットスーツ(スウェットスーツのことか?)を着てらっしゃる方とか、競馬のノミ屋さんをやっておられて借金の取り立てをやっておられる方、そしてあの真面目な心臓外科医の〇〇先生、この三人のお陰でタバコが辞められたという。
よかった。
いい人に会った。
本当に反社感激!
それは「感謝(感激)」だと思う水谷譲。

先ほど示したネズミさんの実験を紹介したいことがあります。五七日間檻の中でモルヒネ漬けになって、すっかり薬物依存になってしまったネズミさんを、一匹だけ楽園のほうに移します。−中略−数日経つと完全に乱交パーティグループのレギュラーメンバーになって、みんなと一生に乱交しています。そのころから、このネズミに大きな変化が出るんですよ。それまでモルヒネ水を吸っていたネズミは、他のグループのメンバーの真似をして、普通の水を飲むようになるんです。−中略−急ににモルヒネをやめるので、激しい禁断症状が出てきます。水を吸いながら痙攣発作を起こしています。でも、二、三日我慢するとその禁断症状もとれで、三日目以降は、どのネズミが元々檻の中にいた薬物依存症ネズミか、もはや区別がつかなくなっています。(115〜116頁)

だから取り囲むというのは大事。
松本さんというこのお医者さんはいいことをおっしゃっている。
なんでもいろんな目で考えてみましょう。

アディクション、これは酒や薬に溺れた状態、あるいは依存症を意味する言葉です。じゃあアディクションの反対はなに?(116頁)

 アディクションの反対はコネクションですよね。−中略−酒や薬は止まらなくてもまずは繋がることです。(116頁)

日本語だと「依存・自立」だが英語は「繋がり」「コネクション」。
ということは依存症というのは繋がりに弱い。
仲間がいて、その繋がりができれば依存は治まる。
だから著者は言う。
「覚せい剤やめますか。それとも人間やめますか。」とか「ダメ。ゼッタイ。」とか。
こういう標語は役に立たないんだという。
考える。

この「ダメ。ゼッタイ。」は、国連が出した Yes to Life, No to Drug の和訳なんですよ。−中略−半分訳し残してるからまず間違いなくバツですよね。(120頁)

「Yes to Life」、これが無いんだという。
では「Yes to Life, No to Drug」、これを何と武田先生だったら訳すか?
「おいで人生、さよならドラッグ」
そういうふうな訳の方がいいんじゃないだろうかと。
「Yes to Life」、こっちの方を大事にしないとダメなんだという。
だから松本さんという方は面白いことを考える。

「人間は薬物を使う生き物ですから」と答えています。−中略−ケシの花からアヘンを抽出するだけではなく、ヘロインまで作りました。でもその一方で、アオカビからペニシリンを作り、それから柳の木の樹皮からアスピリンを作った。−中略−人間は薬物を使う生き物です。(121頁)

トータルで一番害が大きい薬物はなにか、ダントツでアルコールなんです。(123頁)

お医者さんだからそうおっしゃる。
宗教の中でもアルコールに関して非常に厳しい宗教がある。

こんな薬物がコンビニで売っています。(124頁)

それなのに覚せい剤に関してはいかにも暗く暗く考えてしまうという。
「言っときますけどね、コロナと同じですよ」と松本さんはおっしゃる。

薬物問題と感染症の問題ってすごく共通点があるなと思います。(124頁)

天然痘、インフルエンザ、コロナ、手足口病、HIV、A・B・C型の肝炎、エボラ出血熱、コレラ、破傷風、ペスト、どれも根絶できないんだ、と。
自然界には病原体がいっぱいいる。
それを「ダメ絶対」、これが通用しないんだ。
それだったらば薬物依存に陥っている人に一緒に社会を明るい方角に。
とにかくアメリカ禁酒法の失敗、禁酒法を繰り返すと社会の中にカポネら違法ヤカラが蔓延することになる。

中国の明の時代に煙草を規制したら今度はみんながアヘンを吸うようになる。(124頁)

(番組では清が煙草を規制したように言っているが、本によると煙草を規制したのは明でアヘンを規制したのが清)
日本では薬物がダメ。
だったらば市販薬を大量に飲んでしまって、トランスとか変性意識に憧れる若い人達がいっぱいいる。
何でこんな人達が出現するんだ?
昔もあった。
何かアンプルに入った液体をチュッチュッチュと吸うと元気が湧いてきて。
エナジードリンク。
それを吸いながら「ドンドコドンドコ効いてきた♪」というのがあって。
小学校の子供達がみんな真似をした。
「ドンドコドンドコ効いてきた♪」
アンプルの強壮剤。
(亜細亜製薬の「強力ベルベ」を指しているものと思われる)
依存症になるならないを全部横に置いておいて。
薬物とかというのを暗い目で見ないで、仲間がいると非常にそういう依存症になる人が少ないよという。
そこの観点から依存症というのを考えてはもらえないだろうか?という。
治療法の一つとしてそういう方法もあるよ、ということかと思う水谷譲。
もちろん法として取り締まりというのは大事。
でも言葉狩りのように、ある行為に関してもの凄く厳しくすると人間は歪んでくるという、そこの一点を忘れてはなりませんぞ、という。
弱さについて語っているが、人間の弱さはまだまだある。
語りあかしましょう。
人間の弱さというものを辿ってゆく。

それから話は移って、薬物に依存、ギャンブルに依存するアルコールに依存するという依存症の方々、その弱さを訪ねていく時に遭遇するのが加齢による弱さ。

ドイツの老人保養施設の中で、利用している人たちの自殺が群発してしまうっていうことがあったんですね。これを防ぐために、スタッフはいろんな工夫をしたんです。精神科医を呼んで、うつ病のスクリーニングをやったりとか、心理カウンセラーを入れて、困っていそうな人にカウンセリングを強要したりとか。いろいろやったんだけど、全然自殺が減らなかったんですね。最終的にいちばん効果があったのは、お金を払って利用している老人たちに、役割を与えて厨房を手伝わせたり、庭掃除を手伝わせたりとか、そういう係を決めて責任を持たせてやらせたんですよね。そうしたら、自殺が減ったっていうんです。(130頁)

老人にとって責任ある仕事こそが居場所であるという。
それがまた繋がりにもなる。
一緒に仕事をしている仲間こそが、まさに命を繋ぎ合う関係であるという。
それを踏まえて、ドイツの老人保護施設で認知症カフェを開くと、その町のよき集会所になってたちまち人気のカフェになったという。
これはべてるがやった「人間を強さではなく弱さで結びつける」という。
認知症の方がやっているカフェが、日本でもあると思う水谷譲。
多分モデルケースはここではないか。
(番組では「認知症カフェ」をドイツの話として紹介しているが、本には日本での事例が紹介されているのみ)
彼らに仕事がある。
その仕事をやりながら自分の病と闘うワケで。
確かに効果があるのだが、注意すべきこともある。

これまでうまく人に依存できなかった人が依存し始めるときには、この人依存しても良いんだと思った瞬間に、全体重が乗っかってきたりすることがあるんですよ。−中略−だから、そこでチームを作るっていうこと、一人でしないっていうこと、多機関で支えるとか、チームで支えるっていうことをポリシーにする。(142頁)

ドイツのその上手くいっている、水谷譲が日本にあるといった認知症カフェもそうで、凄く人気がある。
注文したコーヒーがなかなか届かなくても思い出して持っていくと「すいません」「いやぁ〜アタシもあるわよ」でゲタゲタ笑うという、この「弱さ」。
だがそれは「集団で無ければダメですよ」。
この中でハッとする。
人間関係に柱を作らない。
ヒモでつながるようにするという。
キャンプのテントを張るように、ヒモで引っ張って。

大事なのが説得術。
ちょっと紹介しておく。

FBIのネゴシエーターのテクニックなんです。−中略−
 よく言うのはピウス(PIUS)かな。まずPはポジティブ。肯定的に言う。
−中略−次のIは愛メッセージ。お前こうこうしろっていうふうに、二人称単数で言うと、人は反発するんですよ。そうじゃなくて、自分の気持ちを一人称単数で言って、あなたがこんな泥酔状態になっちゃうと悲しいって、私は悲しいっていうふうに言うのが大事とかね。それからUは、アンダースタンディングだ。−中略−そして最後のSはシェアですよね。責任の一帯を担ってあげる。あなたにこんなふうに飲ましちゃうなんて、何か私も至らないところがあったのかもしれない。私に何かできることないかしら。(143頁)

これが人間を説得していくんだという。
依存症、或いは鬱、精神疾患、その問題にその個人が追い込まれる。
そこまでを理解しないといけないんじゃないかな?という。
「それをいとも簡単に、自殺をしようとした人はすぐ警察に電話、薬物違反これも警察、みんな警察に行っちゃうだろ?その前に一手、我々の仲間で何か手を打とうよ」「そうなるまでにきっと何かあったんだよ」という考え方。
それが大事なんじゃなかろうかなぁと。
鬱、依存に自分で好んでなったんじゃなく、そういうところにゆっくり落ちていった。
薬物がやめられないんだったら、やめられないまま当事者として自分を記録していく。
そういう自分を記録するところに解決策が見つかるという。
この時、最も人を励ます言葉は何か?
これは「べてるの家」のテーマだが「安心して絶望できる人生」。
でも皆さん「、安心して絶望できる」というのも希望に成り得るような気がする。

この間、孤独死の話題が上がっていて、孤独死の人というのはもの凄い人数。
「ここにお金置いておきますんで焼いてください」とか遺書に書いてらっしゃる方もいるようだ。
ところが孤独死なさる方の財産というのが結構凄い金額だそうだ。
びっくりしたのだが没収財産。
(番組では「没収」と表現しているが「残余財産の国庫への帰属」というものらしいので「没収」ということではない)
孤独死なさった方が残されたものがある。
それをまとめると、武田先生が聞いたラジオ番組では700億円と言っていた。
(2021年度に647億円、2022年が1015億円)
没収財産。
没収して国庫、国に入ってゆく。
孤独死なさる方が命が細っていく中で、火葬場の費用とか無縁仏に収める費用とか数百億円の財産を国に残しておられるワケで。
そういう意味では日本の死者達というのは働き者。
没収財産だけでそれだけの金額になるというワケだから。

精神に病を持つ方、それから依存症の方、そして認知症を取り上げてみたのだが、何でこんな話をしたかというと今、性的な少数者が世界的に人権を獲得している。
このLGBTの方々、性的少数者の方々というのが二十世紀初頭はもの凄く差別された方々で。

ミシェル・フーコー(フランスの哲学者−中略−フーコーは自身の同性愛という性的嗜好についてずっと苦悩していました。そこから生まれた考察のひとつが「標準」をめぐる「権力」の研究です。医療は医学に基づいて、教育は教育学などに基づいて実践されていると思いますが、−中略−人間の身体と精神を「標準化」させようとする不可視の装置であると論じたのです。(78頁)

フーコーの言う「大監獄時代」へと突入していきます。−中略−霊的な存在と一緒に「標準から外れた人間」もまた組織的に排除されるようになったのです。そこには「狂人」だけではなく、あらゆる障害者や病人、同性愛者なども含まれていました。(79頁)

言われてみたらその通り。

「狂気は白日のもとで大いに活躍していた。『リヤ王』も『ドン・キホーテ』もそうだ。しかし、それから半世紀も経たないうちに、狂気は押し込められてしまった。強制収容の城塞の中で、『理性』と、道徳の諸規則と、それがもたらす彩のない暗がりに縛り付けられてしまったのである」(78頁)

狂気の歴史<新装版>: 古典主義時代における



今や彼らを解放すべきである。
日本では芥川龍之介。
芥川龍之介もやはり一種の狂気
「河童」とか「藪の中」とか、あれは狂気が書かせた。

河童



藪の中



つまり狂気はかつて文学であったという。
それを全部監獄の中に入れて、檻の中にいれて囲い込みをやって、服従・管理を求めた。
「そうじゃないんだ」という。
国民の安全と家族の負担等々を軽くするという名目で、それらの人達を世界から隔離してしまった。
LGBTの人達もまた己の性を隠して二十世紀生きてきた。
もうその時代がゆっくり終わりつつある、という。
そうやって考えると襟裳岬の根っこにある浦河という小さな小さな「べてるの家」というところが、実は小さな地方の片隅から日本を大きく変革すべき新しいアイデアを秘めている。
そんなふうに。
「べてるの家」の向谷地さんがやっていることは本当に面白いと思う水谷譲。
皆さん喝采を送りましょう。
武田先生は文化祭に行ってくるので。
べてるの文化祭(「べてるまつり」)がある。
「妄想大賞」(「幻覚&妄想大会」)とかといって愉快。
凄い妄想を見た人に、「円盤がやってきた」とか、毎年新しい妄想が出てくるのだが、その人に表彰状をあげるという「べてるの家」の文化祭がある。
それにちょっとゲストで参加しようかなというふうに思う。
そういう人達を片隅に追いやらないで。
浦河も人口流失が、町がどんどん縮小してしまって、つい暗く考えがち。
向谷地さんは明るく語る。
「べてるの家」でやっていたスタッフが、町が小さくなるので、それだけの人数がいらないので、「べてる」を出ていく。
それは悲しいこと。
ところが向谷地は「いやぁ助かるんですよ」、
「なんで」と聞いたら「よその町に行ってべてるをやる」。
タンポポの穂みたいに飛んでいくのだが「落ちたところで『べてる』というやり方が活躍できるようになりました」。
そんなのを聞くと向谷地という人のタフネスさが嬉しくなってしまって。
「降りてゆく生き方」
ここまでにしておく。
二週続けた。
来週はまた別のネタでご機嫌伺いたいと思う。


2024年11月11〜22日◆降りてゆく生き方Part1(前編)

(この時の放送では「降りてゆく生き方」というタイトルだったが、2025年1月に放送された続きのタイトルが「降りてゆく生き方Part2」なので、こちらを「降りてゆく生き方Part1」にしておく)
(この週のポッドキャストは一日分ごとに間に「STORIES〜アルモノガタリ〜」のCMが入る)

遠い昔の個人的な話から始めようかなというふうに思う。
実は久しぶりに向谷地さんと会って「あら懐かしや」でずいぶん話が弾んだ。
唐突な話で申し訳ない。

向谷地生良
−中略−社会福祉法人浦河べてるの家理事長。(237頁)

彼との縁は何かというと武田先生が60歳になる前。
だからもう15年以上前のこと、一般公開無しの自主製作映画に主演したことがあって。
降りてゆく生き方 | 映画&総合情報 公式サイト
変わった主演映画だった
プロの俳優が2〜3人しかいない。
後はオールアマチュアで、通行人を含めて俳優さんは全員一般市民のボランティアからオーディションをやって選ぶという。
映画のテーマはというと日本の地方が乱開発等々が進んでいて、地方がボロボロになってゆく。
或いは農業衰退、人口流出、限界集落の問題等々を見据えて地方のエネルギーがいっぱいたまった映画を一本作りたい。
これをどうするかというと「東京なんかでやらないで地方で自主で公開していこう」。
自分達で映画を公開していく。
その時になにがしかのお金を貰って、それをその製作費に回そうではないかということ。
プロが非常に少ないので、監督もテレビで演出をやっているという方だったのだが、とにかく「武田さん、よろしく」というというようなもので。
脚本づくりから加わったのだが、硬いテーマをいかに柔らかくするかが映画作りの妙。
武田先生が地方を守る守り手になるとストーリーが流れ過ぎる。
ストーリーが上手く流れ過ぎる。
それでは映画はダメ。
映画というのはひっかかりで、前も「(今朝の)三枚おろし」で言っていたが「いないいないばあ」で。
2024年9月16〜26日◆いないいないばあ
「ないない」というところから「ばあ」と何かが大きく変わる。
そういう物語でないといけないので、主役の武田先生は地方を舐めきっているヤツで。
外国資本の手先となり日本の土地を買い漁るある国の使い走り。
(武田先生の役は)悪者。
村を買い占めて、そこにリゾートを作って周辺の村人を全員叩き出すという。
大悪党の手先の子悪党で。
武田先生は、山村の人達に取り入って調子よく騙しながら村を買い占めるという不動産屋の役を演じた。
これは場所はどこかというと新潟。
新潟の方はもの凄く、県知事さんも市長さんも協力してくださってこの映画作り。
だから安い映画のワリにはスケールが凄く大きくて、町の通り一本を貸し切りで「ヨーイ、ハイ!」を言ったりというような、非常に贅沢な撮影をやらせてもらった。
この映画の中にちょっと面白い仕掛けがあって、「リアルでいきたい」というので地方に住んで地方をもう一回立ち上がらせたい、古里を創生したいという本物さんを呼んでミーティングをやっているところをキャメラを回そうという。
米作りを農薬を一切使わない、自然栽培。
この人のお米はデンプンが体質で合わなくて摂れない人も食べても大丈夫という。
そういう米作りの達人から、体がご不自由なのだが地方について「こうやればいい地方ができる」と頑張っている論客、そういう人達を何人も呼び集めて新潟市長も含めて「ローカルを語り合う」というシーンを撮った。
その「ローカルを語り合う」というシーンの一人に、さっきお話した向谷地さんというのがいる。
この人のやっている社会活動が重大。
この人は襟裳岬の根本の町、浦河というところに住んでおられて「べてるの家」という社会福祉法人をやっておられる。
何の為かというと、精神障害で悩んでいる幻覚や幻聴で悩むというような人達がいる。
その人達を精神病院に閉じ込める、入院してもらっているのだが、「それじゃあダメだ」という。
「彼らは病人であるときと病人でない時があるので、病人で無い時に何で病院に入れるんだ」
凄い発想。
それでこの浦河という町に住み着いて、生活を一緒にしながら病気の兆候が現れたらすぐに病院に移動してもらう。
病院の院内と院外を往復することによって病気を治そうという。
この向谷地さんがその精神障害の人達の治し方、治療法で考えたのが「当事者研究」。
お医者さんではない。
精神障害を持っておられる方を精神障害の人と語り合いながら治してゆく。
これは凄い発想。
遠い遠い北海道の「何もない春です」の襟裳岬の根本なので、あまり騒ぎにもならなかったのだが、この向谷地さんの研究にだんだんヨーロッパが注目し始めた。

襟裳岬



そうすると精神障害の治療法が革命的に変わったという。
向谷地さんからドサッと紙袋で「読んでみます?うちの本」とかと渡された。
そのうちの一冊が「弱さの情報公開」で出版社はくんぷる。

弱さの情報公開?つなぐー



この一冊はタイトルの通り。
人間の弱さについての対談・鼎談・座談会を収めてある。
主催者の向谷地さんがいて、ゲストを迎えて「べてるの家」の精神障害を抱えつつ生活をするべてるの人々、それから若い社会福祉家達と一緒に対談をやっている。
何とその丸テーブルの中にアっと驚く人が一人混じっている。
その人の名前は「吉田知那美」さん。
女子カーリング競技、銀メダルの選手。
この人がいる。
「べてる」のある襟裳岬の根本と、彼らがいる北海道のオホーツクの東側の常呂町。
車で行ったら4〜5時間かかるのか。
縁の大元はわからないのだが、とにかくその吉田さんが「べてる」のミーティングによく顔を出しているという。
(どういう経緯かは本の中には書かれている)
それで座談会で発言しておられる。
彼女がべてるの様子を見て「本当に助かった」という。
何で助かるんだろう?
そこから語りが始まるのだが、

オリンピックとなると、オリンピックが掲げているスローガンというのが「より強く、より高く、より早く」。(16頁)

「べてるの家」とは全く無縁な世界の戦いである。
ところが戦っていくうちにだんだん吉田さんが、戦うことがつらくなってきた。

他のチームを見て「強さで繋がってるチームっていうのは、すごくもろいな」と感じたのです。(17頁)

そのことを思った時に、自分達もそうで「凄く力あるぞ」と言われているのだが、その中に凄い脆さを見た。

日本代表決定戦っていうのがありました。−中略−同じチームと五回戦って、三回勝った方が日本代表になるルール。オリンピックに出場するチームを決定する試合なので、−中略−なんと、最初二連敗してしまって。−中略−次、負けたら、「オリンピック出場終わり」という。(18頁)

それでパニックになってしまって「あと一つ、あと一つ」と言っているうちに一緒に競技をやっていく連中の表情がどんどん硬くなる。
「何でこんなにあたし達は脆いんだろう」
その時に吉田さんは「べてる」の人達と語り合った時に「べてる」の人達が一番大事にしているのが「弱さ」。
「弱さを口にすること」なんだ。
弱さを全員で分け合う。
そうしたら弱さで結ばれた人は強く結ばれる。
そこでこの方が提案したかどうかはわからないが、もう「あと一回勝たないとオリンピックに行けないと言った」時に、覚えてらっしゃいますか、皆さん。
タカハシ(と聞こえるが不明)さんに向かって「あたし達さ、もっと楽しくやってたじゃない?オリンピックに出たいとか金メダル獲りたいとか言ってるうちに、あたし達のカーリングは楽しくないよ。小学校・中学校の時のカーリングのこと思い出して楽しくやろう。その為にはまず何が弱いかを声出してしまおう」「秘密の謎のチームの強さなんかそんなもの、あてにしちゃダメなんだ。『まだまだ、まだまだアンタできるよ』って言ってたけど、それを『十分だ十分だ』って言おう、切り替えよう。そっちの方が力出るんだよ。子供みたいにはしゃぎながらやろう、カーリングを。不調な時に口、閉ざすのやめて不安とか心配とか失敗とか大声で仲間で叫びあったら強い絆ができるよ。わたしね、『べてる』っていうところで見てきたの。そこの人達、そういうことで結ばれてるんだ」と言ったらタカハシさんがダーっと涙を流した。
自分達の弱さを、なんでも公開しよう。
だから愚痴を言い合う休憩時間。

モグモグタイムって、他のスポーツだったら、たぶんロッカーに帰って、見えないところでやってたりはすると思うんですけど、私たちのチームはカメラの前で作戦会議も、そのまま見せちゃうし(51頁)

あれはこの方のアイデアらしい。
そうしたら勝った。
勝った時の感想が「楽しかったね〜」になった。
それが後にメダルになっていくという。
精神を病んだ方の為の治療方法がスポーツの世界でも使えるんじゃないか?
人間は弱さで結ばれる。
弱さで結ばれた人間の方が強い絆で結ばれるという。
彼女達が「そだね〜」みたいな、それが凄くみんな可愛いなと思って見ていた水谷譲。
「そだね」もそう。
これを吉田さんが学んだのが「べてるの家」だったという。
また向谷地さんが考えたキャッチコピーが凄い

『安心して絶望できる人生』(15頁)

新・安心して絶望できる人生 「当事者研究」という世界



ではいかな人生か?
向谷地さんの言う「安心して絶望できる人生」。
ギクッとする文句。
絶望していい。
では「どう絶望するか」というのを精神障害、その病と闘う人達から学ぼう、と。
「べてる」の人達は自分の精神障害を通して自分を研究するという日々を送っておられる。
故に彼らは専門医に任せずに自分で自分の病名を付ける。
自分の弱さに、自分の病に名前を付ける。

チャーミーはあだ名です。私の自己病名は、躁は買い物、うつは体のストライキな躁うつ病のチャーミーです。(39頁)

早坂さんは「あい うえお」といって。「愛に飢えてる男」でね。(41頁)

(早坂潔さんとは)武田先生もお会いしたことがあって、映画にも出演してもらった。
早坂さんは精神障害を持っておられるのだが、何か頼りがいのある人で、親分格。
普通にコミュニケーションをとっている時に何か違いは感じるのかと思う水谷譲。
何も感じない。
この「べてる」の人達と付き合うと、いろんなことを考える。
それが早坂さん。
(佐藤)太一さんという方がおられるのだが、この方は幻聴。
べてるの家ではこれに「さん」を付けて「幻聴さん」と呼ぶのだが。
この方は四人の声が聞こえるという。
それぞれ四人とも性格が違うもので、この四人の中にいい人もいれば悪い人もいるという。
さっきお話した早坂さんは一途な方で、ロコ・ソラーレを夢中で応援なさっていて、毎日お祈りをする。
それが早坂さんの習慣。
早坂さんは山根(耕平)さんという弟子がいる。
その山根さんから指摘されているが、カーリングがよくわかっていない。
スポーツの中身をわからずに「勝て!勝て!」と言っているらしい。

向谷地 いわゆる弱さの文化というか、これは非常に、もしかしたら日本的、東洋的な文化かもしれないなって思うんです。海外いって弱さの情報公開をすると、たとえば自分はこんな病気を持ってますという話をすると、なんでそんな自虐的なんだとか、お前はもっとこういう良いところがあるじゃないかとか、そんな自分のダメなところに目を向けないほうが良いよみたいな、私たちが弱さの情報公開をしても上手に伝わらないもどかしさみたいなのを、海外でたまに経験することがあって(52頁)

私が思ったのは、いわゆる私たちがとりあえず弱さと言っているものって、実はものすごく大事なもので、大切なもので、私たちはまだそこに価値を見いだせていないだけであって、だからこそ独り占めしないでみんなで分かち合う大事なものだという(52頁)

これは面白い発想。

山根 −中略−僕はサッカーをずっと、大人になるまでずっとやっていて、なんでも努力すれば、勉強もスポーツも努力すればうまくいくものだと思っていたんですけど、この統合失調症って病気については、努力すればするほどどんどん悪くなっちゃう。なにしてもダメだと思ったときに、早坂さんに弱さの情報公開をしたら、お前も苦労してんだなって言われて、でも俺とか他の先輩が同じような苦労をして失敗してるから、お前も失敗しても大丈夫だっていう(53頁)

これが「弱さの情報公開」であるし、「安心して絶望できる人生」という。
もう一方、精神を患った方で自殺癖のある方がいる。
木村さんという方がいる。
この人の話が面白い。

チャーミー 何年か前、一〇年ぐらいか、七、八年前に死にたいんですと向谷地さんに言ったら、向谷地さん「ああ、そうですか」という感じで、「あー、そうですか」って、ただそれだけだって、聞いてくれたんだよね。でもそのときに「あー、死んじゃダメだよ」とかって、そういうんじゃなくて、「あ、そうですかって」淡々言われたことで(58〜29頁)

(木村さんではなくチャーミーさんの話。「死んじゃダメ」と言われたと番組で言っているが本によると上記のように言っていない)
(ここから先は「木村」さんではなく「木林」さんの話。番組ではチャーミーさんの話と混同している)

向谷地 木林さんは死にたくなって、海に。−中略−海が近いから、港にいってね、テトラポットという波消しの上に向かったら、するっと苔というか、海藻で足が滑ったんだもんね。そしたら、−中略−
木林 
−中略−そのとき滑って、ぞっとして、「あー死ぬかと思った」と。死のうと思っていったのにね。(59頁)

そうしたら水谷譲も笑っておられるが、本人が笑い始めた。
この話は笑う。
笑っていい。
この木村さんも笑い出して。
人間は面白いもので、笑い話というのは誰かに話したくなる。
それで自分に冷たくした向谷地さんにだけはこの話はしておきたいなと思ったら、ハッと気が付いたらべてるの家に戻っていく自分がいた。
(それは「治った」とは)言わない。
「治る」「治らない」は言わない。
「それは死ななきゃダメよ。思い切って」「いや、死ねませんよぉ」とかと「死」というのを仲間と笑い転げていくうちに、彼の中でほんの僅かの変化は死への衝動がだんだん薄くなっていったという。
この「薄く」なるというところに当事者研究の妙がある。
時々酷い発作の時には、彼はまた自殺の方向に走るかも知れないが、その勢いがだんだん薄まってきたという。
そのへんが当事者研究の面白いところ。
それから向谷地さんの報告なのだが、自傷の人。
セメントの壁に自分の頭を打ち付けるし、こぶしを握り締めて自分の顔を殴る。
そういう人が「べてるの家」に来た。
それで向谷地さんが「ん〜」とかとうなっていると、早坂さんを含めて精神障害を持ってらっしゃる方が、その女性を囲んで「どうすべぇか」を語り合った。
何を思い付いたか?
これが病院の先生では思いつかない。
普通だったら「手を縛ろう」とか「拘束しなくちゃいけないよね」というふうになると思う水谷譲。
病院はそれ。
これは早坂さん、達精神病の先輩達がその人が自傷行為に入った瞬間、六人がかりでコチョコチョやる。
とにかく発作が起きたら周りにいるべてるの仲間が一斉にくすぐる。
コチョコチョ・・・と擬音を立てながらだろう。
本人は真剣にアゴを殴ったり目を殴ったりしているのだが、あいた隙間の脇とかまたぐら、足の裏、それを6〜7人でくすぐるから、自傷行為が途中で止んで本人も「アハハ〜ん!」と笑いだす。
これが効果があって、自傷行為の頻度がだんだん減っていったという。
「弱さ」というのを隠さないで公表するところに分かち合う分があって、分かち合った弱さは絆になるという。
共通しているのはこの当事者研究、精神に病を持つ人は精神に病を持つ人を治療に当たるというここの特典は、一種のその人を支配していた狂気がどんどん薄くなる。
この時に向谷地さんはもの凄い重大なことに気づく。
前に水谷譲に説明したことがある。
今、インバウンドの人がいっぱい集まってくる。
あれは一種、「弱さの文化」へのあこがれではないだろうか?
諸外国はみんな「強くないと生きていけない」「自己主張が強い人が生き残る」という文化の中で、日本にはまだかすかに「弱さの文化」がある。
そういう日本の風土の「弱さの文化」。
咲き誇る桜より散ってゆく桜、それを「美しい」と言ってしまう。
その「弱さの文化」に諸外国の人達は憧れを持ったのではないだろうか?
前にお話ししたロコ・ソラーレの吉田さん。
吉田さんもそのあたりを「べてる」から学んだ。
「弱さ」というのを隠さないで公表するところに分かち合う分があって、分かち合った弱さは必ず絆になるという。
そうやって考えると、あわれな物語を日本の文化は十分に持っている。
咲く花よりも散る花の方が美しい。
そしてもう一つ、たとえ負け戦であっても最後まで立派に戦ったもの、これを「あわれ」の反対語で「あっぱれ」という。
この「あわれ」と「あっぱれ」の文化は実は弱さの連帯から生まれたものではないだろうか?と。
このへんは面白い。
かくのごとく話、「降りてゆく生き方」は続く。

「べてるの家」の話。
ちゃんと病院と連携して、病の方が重くなっていたらそのまま入院で軽くなったら出てくる。
社会と結びつくということが、いかに精神障害の人達にとって大事か。
そういうことを向谷地さんは切々と訴える。
武田先生よりも若い人だが、この人には頭が上がらないところがあって「偉いなぁ」と思う。
この本の面白さ。
この「弱さの情報公開」。

ここまでお話したのは精神に病を持つ方、鬱病とか自傷とか、鬱とかというそういう重度の精神に病を持つ方。
中には統合失調症、幻覚や幻聴に苦しむ人達もいるのだが。

第四章なのだが、これは依存、薬物依存。
その依存症の専門のお医者さん達の。
これが本当に読みながら深く考えた。
薬物依存を中心とする依存症の専門医、松本俊彦さんという方の主張なのだが、申し訳ない。
面白かった。
「面白い」と言ったら失礼だが、本当に考えた。
この方ははっきりおっしゃっている。
皆さん、覚せい剤、あるいは危険ドラッグ、脱法ハーブ、深刻化している。
薬物依存によって意識障害、けいれん、昏睡、肝障害、或いは死亡等々が増えているのではないだろうか?

もしかすると刑罰が悪い結果をもたらしている可能性はないのかということ(88頁)

 もっとも有名な前例は、一九二〇年から一九三三年の間、米国において行われた禁酒法です。あの禁酒法が行われた一三年間、アメリカ国民のアルコール問題はまったく問題が解決しなかったことがわかっています。それどころか、反社会勢力が酒の密売をしたために、アルカポネをはじめとした反社会勢力が巨利を得たということがわかっています。−中略−メチルアルコールが含まれた密造酒が出回ってしまって、それを飲んだ人が失明をしたり、死亡したりという、深刻な健康被害が続出したんです。(96頁)

著者は依存症の人々に対して「ダメ。ゼッタイ。」というのが合言葉だが「ダメ。ゼッタイ。」が効果があったことが一度も無いぞ、という。
ここに薬物依存の問題も見つけていくという。

危険ドラッグは危険な薬物でした。−中略−しょうがないから通院だけ続けなさいということで言うと、わかりましたということで、しぶしぶ通院するといったところがせいぜいでした。−中略−治療を開始して一年後、多くの方たちが薬物をやめていたんです。(97〜98頁)

脱法ハーブはドラッグよりも成績がよくて、この中で依存症で成績が悪いのが覚せい剤。
脱法ハーブ、ドラッグ、それからオーバードーズ。
そういうものが青少年に流行ったりなんか・・・
これはやがて覚せい剤で大変な大沼にはまってしまう入り口になってしまうから、そこに落ちてゆくからというのだが、人が絡めば治りやすい。
そういうことを考えると「ダメ。ゼッタイ。」「人間やめますか」、覚せい剤に相対する対し方というのはもう一手何か考えればという。
とにかく覚せい剤に関しては「人間やめますか。覚せい剤やめますか」だから丁半しかない。
病院に通院するだけでだんだん依存が治ってくるというのはどういうことかというと、これがもう「べてる」と同じ。
やめて何か月間かは禁断症状に耐えると先生が褒めてくれる。
だからやる気になる。
モチベーションが上がる。
覚せい剤の方は「またやった」となると、警察に連絡してしまう。
それで病院に来なくて再び手を出すという。
この松本先生曰くだが、とにかく病院まで来てくれて医者と接触してくれたら、依存症は治る。

覚せい剤の違法薬物を使っている方たちは、はじめて覚せい剤を使ってから専門病院に繋がるまで、−中略−平均すると約一五年と言われています。(98頁)

芸能人でやった人もいるが、本当に長い。
何度も何度も逮捕されている。
覚せい剤の人は薬から抜け出すまで20年から30年かかる。

脱法ハーブがなんでこんなにも早く治療にアクセスできるかというと、違法ではないからなんです。(99頁)

著者は「犯罪にされるか、職場、家族、恋人、病院が関係の中に入って『やめなよ』と言ってくれる人を回りにいっぱい持っているかがこの差なんだ」という。
これがこの松本先生は凄いことを言う。
もう松本先生は何の凄いことかというと、本当に実践だと思う。
だからどうすればいいかというと、覚せい剤をやっている人がいる。
その覚せい剤の量をゆっくりと減らしていく努力。
つまり「ダメ。ゼッタイ。」では絶対に効果がないという。
「人間やめますか。覚せい剤やめますか」では両方共やめられる人はいない。
人間はやりたいわ、覚せい剤はやりたいわ。
この松本先生がちょっと身に堪えるような動物実験を本の中で披露している。
これは動物の実験なので、人間に当てはまるかどうかはわからないが、どんな実験結果が出たかは来週の続きとしましょう。


2025年04月27日

2024年11月25〜12月6日◆人生、待っていたのは(後編)

これの続きです。

(この週は、番組の冒頭はQloveR(クローバー)の入会キャンペーンの宣伝)

大変な事件が起こって、どんな事件かというと同じネタをやりそうになった。
そのことに水谷譲が気づいて「同じ話をなさっているんじゃないですか?」という静かな口調の軽蔑のまなざしで。
それで慌てて自分の身の上に起こった「待っていたもの」を語ろうかなという流れに。
アメリカの心理学者のトーマスさんという方の説を。
でもそれは前の前の放送で語っていた。
申し訳ございません。

先週は自分の青春時代の話でまとめて、小さな屋台で22歳の武田先生はホラばかり吹いていた。
ホラというか理想、夢を語っていたと思う水谷譲。
「俺は歌だけでは終わらない。人気は吉田拓郎に次ぐぐらいのフォークの人気で映画なんかにも出演する俳優にもなるんだ」とか。
「将来それでカネ貯めたら俺は坂本龍馬を演じるんだ」という。
でも皆さん本当、笑わないでください。
これは全部やってしまう。
そこが凄いと思う水谷譲。
武田先生はその頃、いつも大学に通うカバンの中に酒井和歌子さんのブロマイドを入れていた。
好きで
酒井和歌子さんが。
でも考えてみたら「刑事物語パート2」で共演者に選んだ。

刑事物語2 りんごの詩



こんなふうにしてことごとく武田先生は屋台で語ったことの夢をなぞるような後半の人生になる。
この頃の武田先生のエピソードで、さっぱり女性にモテなくて。
本当にモテなかった。
よく振られる話は伺う水谷譲。
いろんな人から嫌われて。
女性から「武田鉄矢の印象は?」というと「気持ち悪かぁ」という、そういう感じだった。
でも辛抱強い子がいて時々長く付き合ってくれる子がいたのだが、最後の詰めがダメで
告白して「恋人にならんね」と誘うと下を向いて「なりきらん。武田さんの恋人にはなりきらん」「なんで?アンタは俺と手ぇつないだやないね!?」「手は誰とでもつなぐ。フォークソングとおんなじやけん」「そらフォークダンスやろ」みたいなもので。
その一人の女の子、が今でも忘れないが、言った言葉の中にあったのが「言うことがとんでもない」と。
「東京に出ていって『フーテンの寅さん』に出る」とか「吉田拓郎とコンサートをジョイントでやる」とか。
それこそホラだと思う水谷譲。
「そげな武田さんの夢を聞きよったら、つきあいきらんと思う」「そげなこと言う人は福岡にだ〜れもおらんよ」という。
確かに現実を見ていないというか夢を追いすぎて「大丈夫か?この男」とは思うかもしれないと思う水谷譲。
遠い昔、余計なことをしたがるテレビ局が。
武田先生を振ったという女性十人にアンケートをとってくれた。
それで出た結論。
10人中7人が同じことを言っている。
「武田鉄矢をなぜ選ばなかったか」
第1位「将来性がない」。
女の人というのは将来を考える。
当たり前か?
ごめんなさい。
それは見抜けなかった。
そんな武田先生だった。
でも屋台のラーメンの湯気の中で語った夢というのを、それはジュンというのが聞き役で「アンタはその後それば全部やった」と言った。
それでそのジュンから出たアイデアが「もう一回湯気ば俺が立てるけん、語らんね」。
彼は今、小さな飲食店をやっている。
そこでなるべくおでんを中心に湯気を立てるような料理をやるので「福岡の知り合いとか友達の前でもう一回夢ば語らんね」。
「でもそげんいくつもないよ?」と言ったら「アンタやったらあるハズ。それば語るったい。湯気ん中でアンタ夢あっためたら、アンタそれ必ず実現する」と言う。
もう本当にドラマのワンシーンのようだと思う水谷譲。
それをこの間、福岡に帰った時にちょっと話した。
そうしたら店にホリケンが来ていた。
博多のローカルタレントが青木さやかさんと一緒に。
それをジュンと話していたらバーっと出てきて「湯気の中に入れてもらってよかですか?聞きたかぁ〜!」という。
そういう出来事があったから、このネタを選んだ。
そうしたら一回喋ったネタでした。
ごめんなさい。
もう一つ二日間の短い旅で経験した出来事がある。
「自分の人生にこれも待ってた出来事だなぁ」と思ったことは明日からお話しましょう。

「人生待っていたものは」
自分としてはそこを通過したつもり。
例えば先週お話したように博多の警固(けご)神社のすぐ脇にあった屋台の湯気の中。
それは青春の一ページだったのだが、九州福岡の友だちが「もう一回その湯気の中に戻って武田、夢ば語らんか?」。
自分としては通過したつもり。
ところが戻ってゆくというか、何かそういうのがある。

(この後は「弱さの情報公開−つなぐ−」に書かれている部分があるので引用を入れる)

弱さの情報公開?つなぐー



ここから先はまた別の話になる。
ちょっと放送では使いにくい、表現しにくいこともあるのだが、なるべく皆さんに伝わりやすく話さなければならないが。
15年前になるが武田先生は60歳のおりに一本の映画に出演している。
これは一般公開無しの巡回映画と言って「その映画を見たいという人が数百人集まったらその映画を公開します」という、そういう変わった映画で。
「降りてゆく生き方」という映画に出演した。
降りてゆく生き方 | 映画&総合情報 公式サイト
その映画に出てくる出演人物たちはプロで俳優さんという方が4〜5人しかいない。
後は全部新潟のアマチュアの方に出演してもらって物語にしていくという。
脚本の段階から入ったのだが、そのアマチュアの方が台本を書くというのでプロさが全くない。
「どんな話にしましょうか?」と、「そこから話に乗ってくれ」というような映画だった。
それで新潟県のある町の再生、それを有志達が集まって「志があるものが集まって素晴らしいローカルを作ろうじゃないか」という。
そういうローカルストーリーにするという。
それで「武田さんにはその中心人物になって欲しい」と言われたのだが、まず良い人達を描いてしまうと、良い映画にならない。
武田先生は悪い役に回らないとダメだ。
「いい人達に付き合っていくうちに良くなってしまう私」という、そういう映画の作りの方が面白いいんじゃないの?という。
どこかの国が日本の国土を金で買収していく。
それで武田先生は日本の田舎を売りまくるという、その手先。
それで田舎の人達を武田先生は口八丁手八丁で騙くらかして、次々用地を買収していって、その国の人達の為の町を作るという計画に乗る。
ところが付き合っていくうちにいっぱいいい人がいるもので、だんだんそっちの方に武田先生は引き込まれていって味方してしまうという、そういう映画。
これが「降りてゆく生き方」。
いろんなところから俳優さんを集めるのだが、それは真面目にローカルで生きている人達。
そういう人達を率先して集めた。
新潟県で山奥の田んぼで、「不耕起」「田んぼを耕さない」という新しい農業の方法で素晴らしいお米を作っておられるお百姓さんとか。
老人のケアセンターの中で老人達を懸命に励ます若い人達のグループとか。
酒造りを辞めてしまった酒屋さん。
その酒造会社を貸し切って撮影をやっていた。
そうしたらそこの酒屋さんが映画の撮影をやっているうちに、やる気になってしまって。
また再開し始めた。
それから千葉県の方ではお酒を造っておられる酒メーカーの方とか。
そういう人達と仲良くなった。
その中に「浦河べてるの家」の人達がいた。
「べてる」の人達を上手いこと紹介しないといけないのだが、精神障害の団体。
その精神障害の人達が共同で精神障害と戦いながら、そこにいるソーシャルワーカーの方たちの守りもあって、精神障害者同士が精神障害者の人を助けて町で生きていく、生活していくという、そういう運動をやってらっしゃる。
そこで知り合ったのが北海道・襟裳岬の根本の町、浦河という交通の要所があって、ここに居を構える「浦河べてるの家」。
ここは凄い。
幻覚や幻聴がある、そういう人達が町の人達と一緒に生活している。
だが幻覚や幻聴が襲ってくるワケで「大丈夫なのかな?病院に入院しとかないで」。
「大丈夫だ」という浦河べてるの家。
そこで知り合ったのが向谷地(生良)さんという方。
これはもう話した。
あの時はまだ行っていなかったのだが、秋口、この「浦河べてるの家」で文化祭(「べてるまつり」)をやるので「ゲストに来い」という話になって「行くよ」というようなもので行った。
十数年ぶりで「べてるの家」に行って、久しぶりに昔、映画で共演した人達と再会したのだが、そこでも考えさせられることが次々あって。
15年ぶりぐらいに「べてる」に行って向谷地さんに「べてるの家」の現状を聞いたりなんかした。
浦河べてるの家「べてるまつり」。
妄想大賞(「幻覚&妄想大会」)。
精神障害を持ってらっしゃる方というのは時として幻聴が聞こえたり、幻覚が見えたりする。
それで、もの凄い幻覚、素敵な幻覚を見た人には、その年の年間大賞をあげるという。
ちょっとこれは「大丈夫かね?」と思うのだが、これが皆さん、楽しい。
今年は、コロナでしばらく会えなかったから「盛り上げようぜ」というようなもので、これまでの傑作妄想、これを「べてるの家」の精神障害を持った人達が力を合わせてショートコント、舞台劇にしてある。
これは面白かった。
前にも水谷譲にお話しした「べてるの家」の精神障害者の方。
この方が襟裳岬の先端にUFOを降ろす。
その幻聴に誘われて彼が走り出すと向谷地さんが「ちょっと待て」と。
「一人で行っちゃだめじゃないか。みんなに相談しようよ、一回」と言いながら、べてるの町に引き戻してミーティング。
5〜6人集まってUFOから聞こえた声がある
「どう対処したらいいか、みんなどう思う?」
それで向谷地さんがその6人に向かって「今までUFOなんていうのは乗ったことのある人いる?」と言ったら殆ど全員が手を上げたという。
UFOはみんなある。
それでみんなから今、走り出した人に向かって「いろいろ注意することがあったら」という。
そうしたら一人の人が「免許証確認したか?」という。
「ライセンス持ってないと危ない」
そうしたら別の女性が手を上げて「私、無免許の人に乗ったことがある。墜落したのよ、白神山中に」という。
そういう方がおられて最後に出た結論が「円盤のライセンス、オマエも取れ」。
そういう話。
運転に疲れたりなんかすると、宇宙人が「途中で代われ」という。
長い宇宙の旅なんで「オマエもやってくれ」とかと言う。
操作が難しいからチョチョチョっと覚えただけではダメで「だからオマエもライセンスを取らなきゃダメだ」。
それが凄い。
日赤病院の精神科の川村先生。
「ここに行くと日本国が隠している『空飛ぶ円盤練習場』というのが別にあるんで、そこに行ってライセンスを取れ」
それですぐに行って川村先生に。
そうしたら川村先生がたった一言「わかった。免許頑張って取るように。まずは一週間の入院」と言うので入院したらしい。
でもそれは我々は本当にUFOのことを知らないだけで、本当にみなさん乗ってらっしゃるかも知れないと思う水谷譲。
これは内話がある。
本当に素敵な話。
それで一週間入院している。
そうしたら幻聴は消えていく。
これは本当に面白いと思う。
幻聴は振り切ろうとすると強くなる。
仲良くなろうとすると薄くなる。
入院している間は何もしない。
川村先生が「どう?まだ円盤の声聞こえる?」「はっきり聞こえるようじゃ逆にまずいんだな」とかと。
「いわゆる練習場とか何かが秘密基地にあるから、円盤からそこ、探査されるとまずい」と言って、入院して二週間ぐらいで全く幻聴が聞こえなくなったんで「はい、町に帰っていいよ」で帰ったという。
ただ、それだけの話。
この文化祭の面白いところは、その幻聴を見た人が審査員席に座っている。
それで司会者が訊いた。
「君の幻聴を舞台化してみたんだけどどうだろう?」
その人が「バっカみたいですねぇ」と。
それが妄想・幻覚であるというのはもうわかっている。
単純ではない。
今日、喋ってしまうかな。
川村先生が「一週間入院」とおっしゃった。
その後、武田先生は川村先生に会っている。
川村先生は忙しくて文化祭に出てこられなかったのだが、帰る日に川村先生に会って。
「先生あれ面白かったです。一週間入院は大爆笑だったよ」
そうしたら川村先生は教えてくれた。
いわゆる「狂気」というものが襲ってくる。
振り切ろうとすると近寄ってくる。
だからみんなで 狂気に寄り添う。
そうするとその狂気に取り憑かれた人が気づく。
みんなで空飛ぶ円盤の話をする。
川村先生に言っても「秘密基地の資格として一週間入院」とか言う。
今までそんな話をするとさんざんバカにされたのに、ここはみんな狂気に協力してくれる。
協力すると狂気は小さくなっていく。
川村先生の名言で、本当に感動した。
幻聴、幻覚でどんなに頭の中がグシャグシャになっても、20%ぐらいの自分がいて、正気があって「変だな」というのはわかっている。
だけど周りから「オマエが変だ変だ」と言うとどんどん正気が小さくなって狂気が大きくなる。
逆に狂気に付き合ってあげると狂気がだんだん萎縮して狂気が人間に合わせようとする。
この精神障害によって幻覚・幻聴の話を聞くと人間観がゆっくり変わってきて、この話はまた明日続ける。

ネタを忘れてしまったというミスがあるので、これも終わった話かも知れないが「いい話だな」と思ったので続ける。
向谷地さんからいただいた本を読んでいて感心したのだが、向谷地さんが「べてるの家」で一緒に生きている精神障害の人。
(番組の中で「べてるの家」にいる人として紹介しているが、本によると別の場所での話のようだ)

統合失調症を持つAさんを紹介します。−中略−その方の後ろには「神様」がいて、そのテレパシーをいつも感じていること、−中略−神様からのテレパシーで送られてくる命令の内容が、何と一四種類あって、その中に、「新聞を読むな」「テレビを見るな」なんと「部屋から出るな」っていうテレパシーもあるんですね。ちゃんと神様のテレパシーを守ってるんですね。−中略−私はそれを聞いて言いました。「神様もいろいろいるけどあなたのその神様ひどいじゃないですか、その神様に苦情を申し立てたい」っていうふうに言いましたら、「Aさんはそれはやめてくれ」という事で、私は「ぜひ神様に嘆願書を出しませんか」とスタッフの人に言ったら、看護師さんはそれはいいねって言ってくれて、看護師さん達は見事な嘆願書を作ってくれました。それで署名欄まで作ってくれて、スタッフの方たちや入院患者さんの一部の方たちも含めて四〇人以上の人が署名してくれて、Aさんにそれを見せたんです。これを絶対神様に届けようねって言ったらものすごく喜んでくれました。
 すると、不思議なことに、あっという間に縛りが一四から五つにまで減りました。私は五つの縛りの中身がちょっと気になりまして、
−中略−「あんまり看護師さんの胸を見るな」なんて声がちゃんとあると言って大笑いしたことがあります。(225〜226頁)

(番組では神様からの命令が15、署名に応じた人数が50名)
だんだん神様の声が聞こえなくなっていった。
つまり向谷地は昨日話したとおり。
狂気を否定するんじゃない。
狂気に寄り添おうとする。
その文化祭というのは凄い女性が出て来た。
その人も過去の(妄想)大賞を獲った人で。
この人は恋愛に命を賭けるというタイプの妄想で、小泉(純一郎)さんに恋してしまう。
何と恋心のすさまじさで体がちぎれてしまう。
半分だけの彼女が小泉純一郎のところに会いにいった。
小泉さんもいい人なんで会ってくれた。
凄く大喜びしていたらしいのだが、浦河の町に半分だけで生きていくのが辛いので向谷地に頼んで、それでそのまま妄想も酷いので一回病院に行ったら、病院の川村先生ではなく精神科医ではなく、内科医の若い先生がおられて、今度は何とその人に恋した。
毎日会いたい。
恋愛病だから。
向谷地に相談する。
「毎日会いたいんだけど、どうしたらいいんだろう?」
そうしたら向谷地が「毎日会いたいっていうのは難しい。一番いいのは糖尿病だ。だから糖尿病になれ」という。
それで頑張って糖尿病になって毎日会いに行くようになったという。
それが治療。
「一つの病を作り出す」ということも精神障害に対しては、治療になる可能性がある。
この「べてる」が教えてくれることはそういうこと。
そういう精神医療がある、という。
そのことの重大さ。
非常に危険かも知れないが、人間はそのようにして正気を。

それと今年の2024年の妄想大賞が素晴らしかった。
聞いて、もう泣きそうになってしまって。
旦那様がアルコール中毒で生活力もなくて奥様は妄想とか幻覚のあるという精神障害を持っておられて、お子様もいらっしゃるのだが養護施設に預けて懸命に働くのだがその二人がある寒い日に酷いケンカをした。
旦那様がアルコールの依存の為に暴れ始めて、彼女は裸足で飛び出して初冬の北海道の浦河の冬道を歩いていた。
ここでの生活は何が大変かというと、その女性が証言なさっていたが、灯油と電気を切られたそうで。
北海道で電気を切られて灯油を切られたら無理。
凍え死んでしまうと思う水谷譲。
待ち受けているのは、そういう貧しさだった。
それで彼女は夜道へ飛び出して歩いていた。
そうしたらもともと妄想・幻覚のある精神障害を持った方なのだが、そこに幻覚が降りてきたという。
その幻覚が何と凄い。
道路の真ん中にいたらしいのだが、キツネ。
(キツネの)子供を引き連れているそうだ。
そしてそのキツネが彼女に向かって話しかけてきた。
それは「頑張るんだよ。頑張るんだよ」とキツネが言う。
それで彼女は「頑張ろう」と思って、ソーシャルワーカーの向谷地のところまで走っていったという妄想。
「面白い」と言ったら失礼だが面白い。
狂気が励ましている。
私共にとっては狂気というのは恐ろしいもの。
幻覚とか幻聴とかというのは正気を失うワケだから。
ところが狂気というのは時として、その人に「生きてゆけ」と励ますという。
そういう狂気もあるんだというので、その方が2024の大賞を受賞なさった。
その狂気のキツネが目に見える。
「狂気が生き延びる術を語りかけてくる」という強烈なものを武田先生はそこに感じた。
それと向谷地さんも重い声で言っていたが、日本にまだ命がけの貧困があるということ。
悪い循環で、このアルコール依存症の旦那がいらっしゃった。
お父さんもアルコール依存、お爺ちゃんもアルコール依存。
生きてゆくのが大変なのだろう。
そういう貧しさを引き受けながら狂気と折り合って生きている、そういう女性がいるということ。
この浦河・日赤、浦河の「べてるの家」というのは幻覚・幻聴の人達を町の人と同列に、同じように共に生活者として生きていくワケで。
それで上手くいっている。
何かトラブルとか無いのかなぁと思う水谷譲。
ある。
都会では妄想に取り憑かれた人が起こした犯罪がある。
でも向谷地さんは言葉にはしないが「狂気との付き合い方を都会の人が忘れてるからじゃないか?」という。
現代を生きていく命に関する力不足。
忙しさにかまけて今日の自分の用事にせかされて忘れちゃってる、というのが。
確かに都会だと隣に誰が住んでいるのかも興味が無かったりするとそういう関係性も薄いと思う水谷譲。
「だから関係性をどう作る」というのがもの凄く人間の命に大切で。

驚くなかれ、武田先生は感動してしまったが、今年の浦河の「べてるまつり」の「べてるの家」の文化祭なのだが、韓国から見学の人が来ていた。
「べてるのやり方を学ぼう」という人達が韓国にいる。
それと「狂気の住む場所というのは昔はあった」という。
前も「べてる」の時に言った。
文学者の人は狂気と一緒に住んでいたという。
シェイクスピアも、カフカも変だし芥川龍之介も変。
でもそれが文学になっていた。
ところがその今、入院させて檻の中に閉じ込めている。
向谷地は「これから俺はアジアに乗り出そう」。
だから彼はバングラデシュなんかに行っている。
そこの精神科の医療を訪ねて。
ちょっと嫌な言い方になるが、指導にかかっている。
彼が一番興味を持っているのは中国。
中国みたいなしっかりした社会は狂気の住む場所がない。
しかも町中に監視カメラがあるので、そういう社会というのはすぐに檻の中に入れる。
そういうことが習慣づくと出て来た狂気は本当に暴れる。
そういう事件があった。
そういう意味合いで「べてる」というのが、小さな町だが世界に向かって何かこう、道しるべみたいなものを。
武田先生はその時、フッと思ったのは「この話を九州の友達にしたいなぁ」と思った。

ということで、「ネタを家に忘れた」というところから始まった二週だったが語ってみたというワケで。
ちょっとフリートークで言葉もいろいろ不適切な言葉もあっただろうかと思うが不適切な表現を借りねば語れないこともあるもので、そのへんどうぞ御容赦のほど。
来週はまた立て板に水でお送りしたいと思いますんでよろしくお願いします。



2024年11月25〜12月6日◆人生、待っていたのは(前編)

(この週は、番組の冒頭はQloveR(クローバー)の入会キャンペーンの宣伝)

個人的なことだが、夏のことだが名古屋という街で共に苦労をしてきたツチダという名前のスタッフがいて訃報が入って。
ちょっと71(歳)という若さで逝ったものだからツチダを偲びつつ。
皆さんには関係の無いことなので個人的な思い。
今週、まな板の上に置いたのは「人生、待っていたのは」。
もう武田先生の身辺にもいろいろちょっと「アイツが死んだ」とかという報が入る。
武田先生も人生の決してもう真ん中ではないので、最後の直線コースに入っているワケだが、友人の後輩の死か何かを聞いて本屋さんに行って見つけた本だが。
これは本のタイトル「男はなぜ孤独死するのか」。

男はなぜ孤独死するのか 男たちの成功の代償



もちろんこれは武田先生の後輩、スタッフとは何の関係も無いのだが、そういえば孤独死、最近よく聞くこと。
その本は非常に気になる副題が付いていてトーマス・ジョイナーさんという方がお書きになった晶文社の本だが「男たちの成功の代償」。
フロリダ州立大学心理学者であるトーマス。
専門のテーマは自殺。
360ページを超える大著で。
もの凄くいろんなことがたくさん書いてあるので「やめようかな」と思ったことも何度かあったのだが、この本は困ったことに十ページに一行必ずいいことが書いてある。
それでその一行を求めてめくっていくうちに、だんだん身に沁みてきたという。
何が一番、身に沁みたかというと、ドキッとするのだが男の人生である程度の成功を収めた人ほど、晩年自殺しやすいという。
これはアメリカの話。
皆さん、アメリカの話だと思って聞いてください。
そういう人がアメリカには多い。
人生である程度成功を収めた男が晩年に自殺しやすい。
アメリカで起こっているかも知れないが、非常に気になる文章で。
「人生である程度成功を収めた」というのは武田先生の身の回りにいっぱいいる。
武田先生自身のことを考えたらそう。
博多のイモ兄ちゃんが一発ヒット曲が生まれたかと思ったら、その後、先生役か何かでずっと生きていることになって。
大成功だと思う水谷譲。
そういう「成功した男」ほど自殺の傾向が激しいという。
これは気になる。
しかもこのトーマスさんの調べ方は徹底していて、この傾向は女性に比べて遥かに自殺する確率は高齢になればなるほど男性が高くなる。
その一つの要因に男性が孤独になりやすい性質を生まれながらに持っている。
なぜ男は孤独に陥るのか?
これは凄く気になる。
年取った男が非常に脆いというのは・・・
男性で奥様を先に亡くしたりすると、とても脆くなるなという方はよく見かける水谷譲。

こういう話がアメリカにあったそうだ。

 1991年、10月の太陽がオークランドとバークレーの丘に昇る頃、−中略−火災は数分以内に住宅街に及び、最も激しい時には11秒に一軒の割合で燃え広がり、家の所有者たちは命からがら家から逃げ出すことを余儀なくされた。(10〜11頁)

新しい家の窓が上向きに設計されていたため、火事の影響やほかの人の家を見ずに済むという事実が語られていなかった。要は建築によって意図的に作られた絶縁空間だったのだ。−中略−火災は、数週間にわたる励まし合いとともに、その後の貪欲さと卑劣さと対立という気の遠くなるような試練をもたらした。(13頁)

皆さん何をなさっているかというと、建て直した家に関しては懸命に孤独を守ろうとなさっていたという。
人間、何か一つあると孤独を守りたがるという。
この「孤独」が問題。
訃報を聞いて見つけた本だがトーマス・ジョイナーさんという方がお書きになった晶文社の本「男はなぜ孤独死するのか 男たちの成功の代償」。
成功した男性であればあるほど、自殺の確率が高くなるというアメリカの心理実験。

老いを生きている昨今だが人生の中で待っていたもの、それが明るく希望に満ちたものであればいいのだが、老いてゆく自分を見つめるというのはなかなかしんどい作業。
そんなことを話そうかなと思ったのだが、バラしてしまうがこのネタは(この番組で過去に)やった。
2024年10月28〜11月8日◆男の唯一無二
昨日「デジャブっぽいな」と思いながら話を聞いていた水谷譲。
一回出したヤツをまた出してしまった。
武田先生の勉強部屋のノートの置き方が悪かった。
一番上にあったヤツを「これだこれだ」「これやりたかったんだ」と思ったら一回やったヤツをもう一回引いてしまったという。
それで水谷譲が「一回聞きました」と言うものだから。
年を取るとダメ。

とある決心をさせることが、一回目をやっておいてなった。
前のタイトルは「男の唯一無二」。
男は山のてっぺんの一か所を目指して登ってゆく。
その生き方を人生に例えるとだんだん孤独になってゆく。
女はどうかというと、てっぺんを目指さない。
山の裾野をグルグル回っているものだから、いつも山全体を見渡している。
それが女性の力である。
そういう男女差の違いが、男が一か所を目指したばかりに孤独に陥って、もう山を下りなければならないのにまだ頂にいる為にどんどん孤独になっていくという。
これは本当に正直に話すが、昨今の自分の心境。
自分も唯一無二の個性を求めてずっと生きてきたし、男にとって唯一無二の個性を発揮した人生は充実していると思って、70代になると結構寂しい。
この本の中に書いてあった「昔の友人に電話しろ」という。
そんなことを話した。
同じ話。それで電話をした。
それでその友人に会いに行った。
博多。
そうしたら博多のいつもの同級生達が集まって武田先生のことを囲んでくれた。
武田先生のことに関していろいろ話すうちに、自分の初心を思い出したというか。
それは前に話した通り。
それはもう仲間にも言われたこと。
「武田さんはいつも『ライバルはチューリップの財津さんだ』『ソロで上手い井上陽水さんだ』って言う。だけど武田さんはね、違うと。陽水さんも財津さんも歌ば歌いよる。武田さんはアマチュアの頃から歌、歌ったことない。語ってた。歌を歌っても武田さんはメロディーは付いてるけど武田さんの歌い方は語りよ。目指してるもんが全然違うから武田さんは陽水さんや財津さんに負けまいと思って歌、作ったワリには似ても似つかない歌ができる」
(どういう仲間なのかというと)武田先生にアマチュアの頃、音楽仲間、(「海援隊」の)千葉(和臣)・中牟田(俊男)の他にもう一人ジュンというヤツ。
そのジュンというヤツと一緒に海援隊の練習が終わった後、ナケナシのカネを合わせて二人で屋台に行く。
そこでラーメン一杯とビールを大事そうにチビチビ飲みながら、寒い時には熱燗一本だけを貰って二人で「オマエから先に呑んでよかぜ」とかと博多弁で言い合っこしながら二つに分けたお酒を呑みあっていた。
その貧乏な学生と、ジュン君は喫茶店を自分で出すことが夢なオーナーになることを目標にしている労働青年だった。
語り合っているうちに武田先生は駄ボラをこく。
「俺は映画に出る。博多から出てきた田舎者の武田鉄矢は演技力は凄かぞ」
ホラをこいて喋る。
そうしたら屋台なので、ラーメン屋のオヤジさんがラーメンを湯がいている。
その湯気の向こう側からその屋台のオヤジさんが「その先はどげんなったと?」と聞く。
そこでさんざんホラ話をする。
そうするとみんな「面白か」とかと。
3、4日してまたそこの屋台に行って、そこのラーメンを湯がくオヤジが「あの続きはどうなったと?」と言う。
気づくとお客さんがいる。
そのお客さんは武田先生の話を聞きたいばかりに通い続けている。
その時にジュンが「アンタには不思議な力があるよ」と言った。
それがポッと心に灯って「東京行きたかぁ〜!」という。
結局それが実現していると思う水谷譲。
ネタが重なったので、武田先生の終わりを語りたくて二度に亘って。

同じネタを持ってきてしまったもので、自分の人生を待っていたものをアドリブで喋りたいという非常に苦しい一週間だがお付き合いのほどよろしくお願いします。
昨日のお話は何か、その光景自体がドラマのワンシーンみたいな感じがした水谷譲。
その22歳の若者だった武田先生も今、75歳だが、ふっと人生を振り返ると屋台の明かりが見えてくる。
その頃のことを話しましょう。

福岡は音楽の青春を選んだ若者達が非常に多かった。
武田先生がよく通っていた屋台から歩いて5分ぐらいのところにフォーク喫茶「照和」というライブハウスがあって。
繰り返しになるが、そこには強力な音楽仲間というか、ライバルがいて、チューリップの財津さんがいて、チューリップはもう完璧なコーラスで。
それから時々ソロで歌いながらコーヒーを運ぶ役が「甲斐バンド」の甲斐(よしひろ)君。
お客さんの中には聞くところによると長渕剛さんがいらっしゃって、「風」の正やん・伊勢正三さんがそこを観客席にいて何ブロックか先に喫茶店があってそのマスターがタモリさん。
タモリさんはいたずらばかりしていたという。
お客さんが「何が美味いか教えてください」。
「あ、ウインナーコーヒーですね」と言いながらコーヒーにウインナーを入れて出したという。
そのタモリさんの勤めていた喫茶店のちょっと先、大橋を渡った反対側の中州ではペドロ&カプリシャスが歌っている。
そんな渦。
その中で我が身の「海援隊」はというと、パっとしない。
また仲間もよく付き合った。
武田先生達は変なパロディソングを作っていて
海援隊で初めて作ったパロディソングが「大学ボタン」といって。
ここでも一度ご紹介したことがあると思うが。
2024年8月12〜16日◆俵星玄蕃
60年代に大ヒットしていた高倉健の「唐獅子牡丹」の替え歌を「大学ボタン」といって。
健さんの「唐獅子牡丹」は任侠映画で

義理と人情を 秤にかけりゃ−中略−
背中(せな)で吠えてる 唐獅子牡丹
(高倉健「唐獅子牡丹」)



と、こうくる。
武田先生達の「大学ボタン」は70年代の学生運動をパロディに選んで

辞書とゲバ棒 はかりにかけりゃ
ゲバ棒が重たい 学生の世界
背中(せな)で吠えてる 第四機動隊


と歌う。
田舎のフォークグループだから、これしきでもウケる。
その演歌仕立てが。
その頃のフォークは爽やかで

人は誰もただ一人(はしだのりひことシューベルツ「風」)



とか、その中で「♪辞書と・・・」と(ステージに)出るとワーッと。
その程度。
井上陽水さんの前座をやった。
陽水さん、勘弁してくださいね。
ちょっとお話します、あなたのことを。
福岡から車で一時間以上かかる佐賀県の田舎。
その当時は田舎だった。
佐賀の人、勘弁してください。
唐津の人、勘弁してください。
唐津という町がある。
そこの公民館の前で唐津大漁祭りとかというのがあって、提灯がぶら下がっている下で朝礼台みたいな台を置いてフォークシンガーが歌を歌う。
陽水さんが出た。
その時の陽水さんはまだ全然売れていなくて。
まだヒット前。
「アンドレ・カンドレ」を辞めて「井上陽水」になったばかりで、彼も自分でオリジナルを作り、ため始めた頃だった。
だから何曲か自作の歌を歌うのだが、これが後に日本を席巻するニューミュージックの先駆け。
「サキガケ」はやはり「先が崖」。
余り受けなかった。
何でかというと公民館の前。
青空の下で後ろは松林でガーッと風で揺れている。
そこで陽水さんが日本の社会の闇を歌う。
彼のテーマは「青年の孤独」。
唐津青年団とかが見ている中で都会の青年の憂鬱を歌う。

都会では自殺する若者が増えている(井上陽水「傘がない」)

傘がない (Remastered 2018)



田舎の人はびっくりする。
「東京では若者が自殺しようと!?」という。
サビが凄い。

行かなくちゃ−中略−
傘がない
(井上陽水「傘がない」)

と言う。
唐津の青年団は理解できない。
「雨の中、君に逢いに行かなくちゃ」なのに「傘がない」というのは。
小さな声が会場に沸き起こった。
ある意味でどうしても言いたかった村の青年達のつぶやきだろう。
「濡れて行けばいいやな」
それぐらい文化ギャップがある中で苦戦なさっていた。
この後、武田先生達「海援隊」。

そんなこんなで文化差が東京エリアと博多・福岡ではあの当時あった。
60年代、70年代の初めのことだから。
だから陽水さんのあの都会派、アーバンなニューミュージックというのは受けなかったというかあんまり反応がよくなかった。
それに比べて武田先生達(海援隊)は泥付きの地方ローカルバンドだから盛り上がる。
演歌がかったフォークか何かでみんな村民の手拍子で。
そういうところが仲間たちは「武田は少し誤解しているんじゃないか?武田はフォークソングでも何でもない」。
武田先生は勝手に「ライバルだ」とかと呼んでいた人達は武田先生達のことを何とも思っていないワケで。
余りにも違い過ぎるから。
「母に捧げるバラード」を作った。

母に捧げるバラード



その時に音楽記者の方から「どうしてお母さんのことを歌おうなんて思いついたんですか?発想の原点は何ですか?」と言うから、その当時の流行言葉で「やっぱりビートルズですかねぇ」という。
ジョン・レノンの「マザー」。

ジョンの魂:アルティメイト・コレクション<1CDエディション> (通常盤)(SHM-CD)



Mother,you had me(ジョンレノン「Mother」)

ああいうのを聞いて「母親のことを歌おう」。
「やっぱり影響はジョン・レノンですね」と言った。
そうしたら遠くで聞いていた井上陽水さんが「アンタ達はね、『ビートルズの影響』とか言うけどな〜んも受けとらんよ。ビートルズはおらんでもアンタは『母に捧げるバラード』は作っとう」と言われた。
それは当たっている。
誉め言葉だと思う水谷譲。
その時は(誉め言葉だとは)思わなかった。
吉田拓郎とかに憧れていたし。
それがずっと引っかかっていて「バカにしとうなコイツは」とかと思っていたのだが。

もうこんな話もしましょうか。
もう今や、誰に恨まれるワケでもないだろう。
(19)70年、或いは71年。
その70年代の始まったばかりの頃に博多にも大変な騒動が起きる。
フォーク喫茶「照和」にレコード会社が来ている。
びっくりして。
それは何かといったら「チューリップ」。
チューリップの上手さがもう他の都道府県にも響いていて、日本で新しい音楽を起こそうとしている東芝EMI。
そこからスカウトが覗きに来ている。
その時に財津さんの顔色が変わった。
「武田君」と呼ばれて行って相談された。
「僕達とジョイントばしてくれん?」
その当時は武田先生達にとっては非常に晴れの舞台だったのだが、渡辺通という大通りがあって、その脇に電気ホールというホールがあった。
お客さんが千人ちょっとか。
そこを財津さんは満員にしたかった。
ちょっと自信が無かったのだろう。
もう一つ、或いは二つ、三つ。
仲間を誘ってやって自分達がトリを取ったら満員に、という。
その満員にできる可能性のサポートは、客を呼んでくれそうなのは「海援隊」というローカルコミックバンド。
それで武田先生に「ジョイントばせん?」と。
その時に財津さんは「頼むけん」と頭を下げた。
やはり彼は東芝EMIのオーディション、シンコーミュージックというところがプロダクションなのだが、そのディレクターと社長さんの前で福岡での人気を見せたかった。
満員ということを前提に。
それでチューリップをトリにしておいてコントをやったりする。
チューリップが主人公のコントをやった。
コントとか好きだから、武田先生も出たかった。
そうしたら「武田君はいらんけん」と言われて。
妙に出してウケるとヤバいと思って。
コントはチューリップ全員でやる。
武田先生達は武田先生達で演歌臭いのを歌って、それでチューリップがトリを取って。
そうしたらディレクターさんが舞台袖で見ていた。
東芝EMI、切れ者で有名な新田(和長)さんという。
その時に武田先生もちょっと見て「ああ、この人か。東芝の偉い人は」。
田舎者が東芝ならドキドキする。
その人がパっと見て「さっき出てたの君?」と言うから「はい、そうです」その方が「君さぁ。面白いね」とおっしゃった。
だがそんなことを言われても困るし。
チューリップが目立つべき。
「僕達は福岡でずっと歌うていきますけん」とかと言いながら武田先生はそこを引き上げた。
そこから時間が経つ。
その後、その場にいらっしゃった東芝EMIの新田さんと50年ぶりに会った。
去年のこと。
これがまた不思議なご縁で。
ピート・ハミルという方がおられて。
この方はニューヨークでライターをやっておられて。
ニューヨークタイムズにエッセーを書いておられた。
そのピート・ハミルさんがお書きになったエッセーのタイトルが「幸せの黄色いリボン」。
これはアメリカの町で本当にあったことらしいのだが、長距離バスに乗り合わせた若者と一人の中年男がいて中年男が横にいる若者に「実は俺、刑務所を出てきたばっかりなんだ」と言う。
「ああ、そうですか」というような話をしているうちに、だんだん打ち解けて「彼女はきっと幸せに暮らしていると思うけども、私が家に帰って欲しくなかったら俺んちの前に樫木が一本あって、その樫木に何も掲げないでくれ。でも私をもし待っててくれたらその樫木に黄色いリボンを結んどいてくれないか」という。
これは本当にあった話。
バスがその家の前を通った時に男はじっと下を向いていて、若者が「ありましたよ。ハンカチ」と指さすと樫木いっぱいにリボンが結んであったというアメリカの小さな田舎町のエピソードをニューヨークタイムズに書いた。
それがフォークソングの「幸せの黄色いリボン」という歌になった。



それを映画女優である倍賞千恵子さんが歌っていた。
傍におられた山田洋二監督が「倍賞君、その歌どういう意味なの?」と言ったら倍賞さんは「この歌、綺麗な歌なんですよ」とバーっと話したら山田監督がじーっと考えて「これは映画になるねぇ」という。
松竹はちゃんと許可を貰って、これを日本版で山田洋二監督が脚本をお書きになって「映画にしよう」。
いろんな候補があったけれどもやはり「あの人がいいなぁ」ということで高倉健。
問題は若者(の役)。
「若者は現代風の人がいい」というので女性は桃井かおり。
「じゃ男性は」といろんな人が挙がったらしい。
だがそのうちに山田さんが突然「武田鉄矢でいこうか」という。
武田先生をどこで見ていたのかと思う水谷譲。
永遠の謎。
最近も訊いているが監督はお答えにならない。
ただ「君を使うことに於いては賭けだった」といつもおっしゃる。
ただ山田監督のこだわりは何かというと、フォークソングでいきたかった。
だからフォークを歌っているヤツがいい。
プラス田舎臭いヤツがいい。
山田さんの胸の中にフッと沸いたのは、健さんがその若者と古里の言葉訛りで語り合うという。
「あ!武田といえば訛りだな」というようなもので、フォークソングと古里に救われたというのは武田先生のこと。
それで武田先生にお呼びがかかってあの映画に。
飛ばす。
あの映画は成功裏に終わった。
お陰で武田先生もやっと喰っていけるようになった。
二年後には荒川の土手を歩く中学校の先生役が舞い込む。

3年B組金八先生第2シリーズ DVD-BOX [DVD]



歳月が流れた。
また(話は)戻る。
武田先生に声をかけた東芝EMIの新田さん。
友達がいる。
新田さんがピート・ハミルさんの奥さん(青木冨貴子)と知り合いだった。
ピート・ハミルさんはもう亡くなってしまったのだが(奥さんは)実は日本人だった。
しかもこの人は日本で音楽雑誌記者をやっていた。
この人が初めて駆け出しの頃にインタビューしたのが「海援隊」。
その方が日本に一旦戻ってこられた。
新田さんと音楽仲間だった。
それで新田さんに「武田君と一杯やりたいね」という話になった。7
武田先生が通っている合気道場に彼の「テカ」(と聞こえるが何を意味しているかは不明)が通っていた。
それでピート・ハミルさんの奥さんの青木さんと「会おう」という話になって、ピート・ハミルの奥さんと新田さんと武田先生と三軒茶屋で一杯やった。
武田先生は高倉健という俳優が懸命に打ち込んでいたか、山田洋二が真剣にあの一本の映画に演出をやっていたというお話をしたら、ピート・ハミルの奥さんである青木さんが泣きながら聞いてくださる。
ピート・ハミルさんも映画の仕上がりを見てくださっていた。
武田先生がお気に入りだったらしい。
武田先生のニックネームが(映画の中で)車を運転していたから「ドライバー」というのだが、ウンコをしてティッシュペーパーの箱を抱えて走るところはハミルさんが笑っていた。
それを話してくださって。
その宴席の一番最後に新田さんがおっしゃった一言が「人生で待っていたものは」。
「あん時、アンタもスカウトしとけばよかった」
長大な話だが、こんな話もちょっと続けてみる。



2025年04月15日

2025年3月17〜28日◆希望の歴史・下巻(後編)

これの続きです。

ルトガー・ブレグマンの「希望の歴史」を三枚におろしている。
その第16章。
変わったタイトルが付いている。
「テロリストとお茶を飲む」
この中でまたルトガーはルトガーらしい希望の見つけ方を語っている。
これは読むとハッとする思いに駆られる。
それぐらいルトガーには説得力がある。
そのルトガーが激しく疑った定説こそ「割れ窓理論」。

 ハーバード大学の政治学教授だったウィルソン(162頁)

 一九八二年、ウィルソンは−中略−こう記した。「割れた窓をそのまま放置したら、じきに他の窓もすべて破壊されるだろう」。−中略−道端に散らかるゴミ、路上の浮浪者、壁の落書き。そうしたものは全て、殺人や暴力の前兆だ。割れた窓が一枚でもあると、ここでは秩序が守られていない、もっとやっていい、というメッセージが犯罪者に送られる。したがって、重罪と戦うのであれば、割れた窓を修理するところから始めなければならない。(163〜164頁)

これは結構、一世を風靡した。

ブラットンは−中略−ニューヨーク市警察の交通部門のトップに任命された。彼はウィルソンの理論の熱烈な信奉者で(165頁)

ブラットンがしようとしていたのは、窓の修繕だけではなかった。ニューヨークの秩序を立て直したかったのだ。−中略−最初にその標的となったのは、地下鉄の無賃乗車だ。取り締まりは強化され、一.二五ドルの切符を提示できなかった人は、鉄道警察に逮捕され、−中略−逮捕者の数は以前の五倍になった。(165頁)

今や、誰でも、ほんの些細な違反でも、逮捕される可能性が出てきた。公の場で酒を飲んだ、マリファナを所持していた、警官に軽口を叩いた、というだけで。ブラットン自身の言葉によれば、「街路で小便をしたら、刑務所行きだ」。(165〜166頁)

とにかく「割れ窓理論」に乗っかって街を綺麗にする、浄化運動を始めた。

犯罪率は急落した。殺人は? 一九九〇年から二〇〇〇年の間に六三パーセント減少した。強盗は? 六四パーセント減少。車泥棒は? 七一パーセント減少。(166頁)

大きい効果だと思う水谷譲。
この「割れ窓理論」はニューヨークを安全な街にする為の重大な秩序となった。
ところがルトガーさんはこの「割れ窓理論」の影の部分を見つける。
2000年代に入ると「割れ窓理論」そのものにヒビ割れが入り始めた。

 ……ブルックリン・パークでドーナツを食べていた女性。インウッドの公園でチェスをしていた人、午前四時に座席に足をのせていた地下鉄の乗客。そして、凍った寒い夜、必要になった処方薬を車で買いに行く時にシートベルトをしていなかったクイーンズ地区の老夫婦。−中略−その後、夫は心臓発作を起こして亡くなった。(168頁)

(亡くなった経緯は番組の内容とは異なる)
本当に薬が無ければダメだった。

割れ窓戦略は人種差別と同義語であることも判明した。データによると、軽犯罪で連行された人のうち白人はわずか一〇パーセントだった。(169頁)

そうするうちに大変なことが起きてしまう。

二〇一四年に煙草を密売した疑いで拘束され窒息死したエリック・ガーナーの事件のような、致命的な結果を招いた。「あんたらは、俺を見るたびに、ちょっかいを出したがる」とガーナーは抗議した。−中略−
 しかし、警官は彼を地面に倒し、締め技をかけた。ガーナーの最期の言葉は「息ができない」だった。
(169〜170頁)

例のアメリカの大暴動のきっかけになるという。
あれは全ての始まりは「割れ窓理論」に則っての警察の行動だった。
ここから「割れ窓理論」にヒビが入っていくワケで。
1982年、ハーバード大学JAウイルソン教授から始まった「割れ窓理論」からいつの間にかそれが人種的特権を含む過剰な取り調べになったという。
水谷譲に言った。
「割れ窓理論」を利用して殺人は63%、強盗は64%、車泥棒は71%も十年間で減ったという。
でも怪しい。

警官たちは、できるだけ多く罰金を科し、召喚状を発行するよう、駆り立てられた。彼らは違反の捏造さえ始めた。(169頁)

だからガーナーさんがお気の毒なのは、何回も嫌な目に遭っている。
「友だちに煙草を一箱あげるのが何で麻薬の密売になるんだ」という、それが反抗的態度ということで窒息死という亡くなり方をしたということ。

ルトガーさんは「希望をどう持つか」ということでこんな例を出されている。

「もしあなたが、女性を誘拐して五年間ラジエーターに鎖でつなぐ男の映画を作ったら──おそらくそんなことは、歴史上、一度しか起きていないだろうが、──それは社会を現実的に分析した映画だと、褒めそやされる。−中略−恋に落ちる人々を描いく映画を作ったら、今日の英国ではおよそ一〇〇万人が恋に落ちているにもかかわらず、非現実的な世界を感傷的に描いた映画だと言われるだろう」
    リチャード・カーティス(映画監督・脚本家)
(214頁)

(上記の話は細部が番組の内容とは異なる)
「平凡が大事なんじゃないの?」という。
今、異常なことが起きると異常さを強調するニュースの並べ方をする。
「そこにリアルはないんだよ」というのをルトガーさんが言っている。
著者は平凡にリアルを求めるという、それを希望にするという、そういうものを持ってないと今、世の中どんどん暗く見えちゃいますよ、という。
これは人間の心の内側にあるネガティブ・バイアスという本能で、人間が危険に遭わない為に追い込まれた心理。

人間には「ネガティビティ・バイアス」があることを述べた。(216頁)

「暗い方に物事を考える」という。
だから、あなたが被害に遭わない為にニュースは連呼するのだが、メディアの役割は何かというと「警戒して」。
リアルは何かというと人間は常に警戒できない。
ではリアルはどこにあるかというと時々騙される。
これが人間のリアルなんだ。

時々は騙されるという事実を受け入れたほうがはるかに良い、と彼女は言う。(218頁)

そうした方が人間というのは希望を見つけられるのではないだろうか?
これはハッとする指摘。
武田先生は「騙す」という字が最近、気になって一生懸命字源を・・・
「騙」
これは「だます」と読むのだが、違う読み方で「かたる」と読む。
武田先生が放送しているのは、これは「語り」。
でも「だます」ことも「かたる」と言う。
つまり皆さん、武田先生の喋りには「語る」と「騙る」が両方混じっているということを忘れないでください。
特に武田先生にはどっちもあると思う水谷譲。
つまり「語っている」時に思わず「騙ってしまう」ということがある。
だから常に「騙されるか」と思ってこの番組を聞いていただくよりも、敢えて「時々騙されてやろう」と思って聞いた方があなたの暮らしの中で希望が見つかることがある。
ルトガーさんは抜群の名言を残しておられる。

もしあなたが一度も騙されたことがないのなら、基本的に人を信じる気持ちが足りないのではないか、と自問すべきだろう。(218頁)

この逆説が成立するところにルトガーがいる。

「希望」それを手探りしている。

ドナルド・トランプは−中略−こうアドバイスする。「相手ではなく、自分に勝ち目があるうちに、敵を粉砕し、自分のためになるものを奪い取れ」。(219頁)

トランプ大統領の大変さは、絶えず敵がいないと成立しない。
この人は敵が必要。

 良いことをすると気分が良くなる世界に生きているというのは、素晴らしいことだ。−中略−人助けが好きなのは、他者がいないと自分もいなくなるからだ。(219頁)

他人がいるから自分という名乗りができるのであって、他人がいないと自分も消えてしまう。
敵を憎み、反感や悪意を抱くと、体の中がそうだがエネルギーの消費が跳ね上がるそうだ。
憎悪というのはくたびれる。
そんなものから自分を解放したければ許すこと。

 世界史上のほぼすべての哲学に共通する黄金律ゴールデンルールは、「自分がされたくないことを人にしてはいけない」というものだ。−中略−孔子がすでに述べている。(220頁)

その通り。

 黄金律のこのバリエーションは、「白金律プラチナルール」と呼ばれるが、ジョージ・バーナード・ショーがその本質をうまく言い当てている。「自分がしてもらいたいと思うことを他人にしてはいけない。その人の好みが自分と同じとは限らないからだ」(221頁)

当然のことだが、このへんを時々人間は鼻が高くなったり、ちょっとした権力を握ったりなんかすると忘れてしまう。
大国、大きな国というのは周辺の小さな国に対して「尊敬しろ」、尊敬を求める。
巨大な文明をもたらすのは強大な王の国、キングダム。
だからこそ小国に対して威張る。
「大国だからといって尊敬されると思うな。このバカチンが」と教授はおっしゃっている。
何かやたらと偉大さを振り回す人というのはいる。
「我が国は偉大だ。我が国は偉大だ」という。
今、人間の精神活動はMRI等のスキャン技術でモニター画面で脳の活性を見ることができたりする。
何を考えているかというのは脳をスキャンしてみるとわかるそうだ。
これは面白いことに、世界の独裁者はこのスキャンをもの凄く嫌うそうだ。
バレてしまうから。
このスキャンではっきりわかることがある。
大国同士が手を結ぶ時、共通の敵を探し出して憎む。
その「憎む」という心で共感を結び合う。
しかし「憎むことで手を結ぶとくたびれるよ」という。
それは本当。
敵を想定すると前頭前野、耳のすぐ後ろにある脳の領域がいつも緊張する。
「恐怖に耐えよ」そう命じる脳の部位がここらへんにあるらしい。
人間が一番くたびれるのは何か?
これはルトガーさんが調べたのだろう。
「愛国心」
愛国心というのは脳がくたびれる。
脳の消耗が著しくなる。
愛国心はどこかでふんばらないと。
今で言うところの「ギガ」が重いのだろう。

今、光っているのは、線条体と眼窩前頭皮質だった。−中略−わたしたちが「思いやり」と呼ぶものだ。共感と違って思いやりはエネルギーを搾りとらない。(223頁)

だから意志が続く。
キープすることが可能。
敵に対してどうすれば敵対の心を鎮めることができるのか?
それは敵に対して思いやりを描くことだ、という。
確かに愛国心が強すぎるとそれも戦いに導かれちゃったりすると思う水谷譲。
愛国心はやはり怖い。
これは同士、同じ愛国心を抱く人にとっては凄く重大なことかも知れないけれども、敵に回された人にとっては何回殺されるかわからないという。
今もある。
愛国心ゆえに追い詰めるだけ追い詰めて人間を殺しているという。
やはり体がそうであるように、心の健康を保持する為にも、私達には「思いやり」という心を健康にする働きをしている感情があるよ、という。

 わたしたちは人を区別する。えこひいきするし、身内や自分に似た人々のことをより気にかける。それは恥ずかしいことではない──それがわたしたちを人間にしているのだ。それでも理解しなければならないのは、他の人々、遠くの見知らぬ人々にも、愛する家族がいることだ。そして彼らもまた、あらゆる点でわたしたちと同じ人間であることだ。(228頁)

この「当たり前のリアル」。
「ここから考えよう」という。

「希望の歴史」上下巻に亘って触れてきたのだが、最後の方になってこのルトガーさんがもの凄いことを言いだす。
著者はギクリとするようなことを終章に向かって書いている。
希望を見つける10の心得(本によると「人生の指針とすべき10のルール」)。
希望を見つけるテクニックは十個ある。
その七番目にこんなことを書いている。
「ニュースを避けよう」
それを言われてしまうと立つ瀬がない。
だがルトガーさんの考え方だけはちょっと皆さんにお伝えしておく。
「ニュースを見るのやめましょう」と言っている。
確かに最近そう思う水谷譲。
ちょっと言い方が悪いがムナクソ悪くなってきていることがある水谷譲。
(「ムナクソ悪い」という表現は)「いい言葉」「べらぼう」だと思う武田先生。
ルトガーさんは言う。
「日常の中でニュース見るのやめよう、聞くのやめよう」

実のところニュースは、あなたの世界を歪めている。−中略−ニュースは往々にして、「腐ったリンゴ」に焦点を絞る。(229頁)

「とにかくリンゴの中で腐ったものを選んで『ホラ汚い』『ホラ腐ってる』って騒いだ方が見るんだよ。悪ければ悪いほど注目を集めるのがニュースなんだ」

ソーシャルメディアについても同じことが言える。少数の不良が遠くで叫んだヘイトスピーチが、アルゴリズムによってフェイスブックやツイッターのフィードの上部にプッシュされる。これらのデジタル・プラットフォームはわたしたちのネガティビティ・バイアスを利用して儲けていて、人々の行動が悪くなればなるほど、利益が増える。なぜなら、悪い行動は人々の注目を集めて、クリック数を増やし、クリック数が多ければ多いほど、広告費は上がるからだ。このことがソーシャルメディアを、人間の最悪の性質を増幅するシステムに変えた。(229頁)

「まずはそのニュースに近づかないことさ」
武田先生は何だかすっかり気持ちよく読んでいるが、そんなことを言っていない。
ルトガーさんに成り切ったつもりで続けましょう。

もっと繊細な新聞の日曜版や、もっと掘り下げた著述を読む。−中略−自分の体に与える食べ物と同じくらい、心に与える情報についても慎重になる。(230頁)

「ラジオでおすすめは『(今朝の)三枚おろし』だね」(とルトガー氏は)言わ無ぇよ、嘘言うなよ。
だからオマエは「騙り屋」って言われるんだ。(自分で自分にツッコみ)
とにかく明るい方へ物事を見よう。
武田先生はバカだから信じてしまう。
最高傑作はニュースで「信用でき無ぇな」と思ってスクロールして次のニュースを見た。
そうしたら「芸能界で意外と嫌われているベテラン」というのが出てきてそれの第三位が武田先生だった。
その瞬間に「こんなん信用でき無ぇよ!」。
自分が出てきたら「信用でき無ぇ」。
本当に人間というのは浅はかなもの。
人の悪いニュースは率先して取り入れて、自分が同じことをやられたら「誰だ!こんなこと書いたのは!」と被害者面をして。
「PTSDになったらどうするんだ!」とか使ったことも無いような、PTSDの意味も知らず。
知っているのは「DDT」だけという。
(「DDT」は)戦後の話。
武田先生はメモ書きしていて今度ご披露するが、本当にいろんな言葉を知らない。
ニュースは、そういう横文字を三つ並べて使う。
ずっと同じ状態が続くこと「持続可能社会」「SDGs」。
「SKD」だったら知っているが。
言葉が分かりにくい。
「インフルエンサー」は「風邪をひいて人に移す人」のことかと思った。
「インフルエンス」に「er」が付いているのだろう。
「(インフルエン)サ」も「ザ」も変わりはしない。
咳をしながら移す爺さんがいる。
「あのジジイ、インフルエンサーだ」と言いながら。
そういうのがある。
それから「ダイバーシティ」。
武田先生はフジテレビのことかと思った。
あれは「お台場」だと思う水谷譲。
でも「台場」の「シティ」。
「台場シティ」と言ったら「フジテレビ」に決まっている。
(意味は)「多様性」だと思う水谷譲。
それから「LGBTQ」。
それから「ChatGPT」。
でも「YKKファスナー」と「ChatGPT」は語感は一緒。
そんなもの、年寄はわかりはしない。
かくのごとく「メディアというのはわかりにくいぞ」という。
「あんまり信用しちゃダメだよ」とルトガーさんは言うという。
その中でもルトガーさんが最後にとても愉快な希望の話題を持ってくる。

「希望の歴史」いよいよ終章。
本の方はまだたっぷりあるのだが、武田先生がとりあげたのはこの出来事。
ルトガーさんの言葉。
不安で出来事を語り、それをニュースにして語る人がいる。
ネガティブは売り物になる。
批判、不満、不安、ニュースは自分達が正しいという証拠になる。
批判とか不満とか不安を言えばそれは商売になるんだ。
それに対して希望について相手にしない。
希望は商売にならない。
彼らは批判と不満と不安をなるべく短い言葉でまとめてこれをリピート、繰り返すことで商売にしている。
ナチス、アウシュビッツ、日本帝国主義、そういう用語を何度も繰り返し使えば人を不安にさせることができる。
つまりニュースの用語そのものが売り物になるから。
ルトガーはこんなニュースを伝えている。

ヒトラーの腹心だったルドルフ・ヘスが獄中で自殺し、ヴンジーデルの墓地に埋葬されると、その町はネオナチの聖地になった。現在でも、毎年ヘスの命日である八月一七日には、スキンヘッドのネオナチが暴動や暴力が起きるのを期待しつつ、町中を行進する。
 そして毎年、まさにそのタイミングで、反ファシズム主義者がこの町にやってきて、ネオナチの望みどおりの状況をもたらす。
−中略−ナチを殴っても彼らを力づけるだけだ。彼らはそれを自分たちの正当性の裏づけと見なし、新兵の勧誘がしやすくなる。−中略−絶妙なアイデアを思い付いた。ルドルフ・ヘスのための行進をチャリティウォークにしたらどうだろう?−中略−ネオナチが歩いた一メートル毎に、町の人々は一〇ユーロをEXIT-Deutschlandに寄付するのである。そのお金は極右グループからの脱退の支援に使われる。(231頁)

(細かい部分は番組の内容とは異なる)

彼の組織はドイツの過激なロックフェスティバルで、Tシャツを配った。極右のシンボルが派手に描かれたそのシャツは、ネオナチの思想を支持しているかのように見えた。しかし、洗濯すると、別のメッセージが現れた。「Tシャツにできることは、きみにもできる。わたしたちは、きみが極右から自由になれるのを助けよう」(232頁)

こんなふうにしてこのジョークがドイツ中では評判になっている。
このユーモアには説得力がある。
批判、不安、不満ではなくてジョークで返せるだけの余裕があるということが大事なこと。

最後にルトガーはもう愚直に叫んでいる。

現在、現実主義者という言葉は、冷笑的の同義語になっているようだ──とりわけ、悲観的な物の見方をする人にとっては。(236頁)
 
「現実を見る」とは人の善を信じることだ。
人が時に友好的で他人を命をかけて救い、懸命に助けようとする、そういう生き物であること、そこから人間を考えてみよう。
「一番大事なことは無知から脱出すること。それが人間の希望の歴史なんだ」という。
スケールの大きい話になったが。
こんなことを話しているのは武田先生達だけ。
がんばりましょう。

ということで「希望の歴史」ルトガーさんの考えだった。
来週また別のネタでご機嫌伺いたいと思う。


2025年3月17〜28日◆希望の歴史・下巻(前編)

(今回は以前放送された「希望の歴史」の続きの内容となる。前回も今回もタイトルは「希望の歴史」なので、それぞれのネタ本に従って「上巻」「下巻」としておく)

上巻をお送りしたばっかりという感じだが「希望の歴史」下巻の方に入りたいと思う。
「これは善だ」「これは悪だ」
「我々は善悪で行動を決定しているが、ちょっとその考え方、あんまり急ぐのやめた方がいいぜ」というルトガー・ブレグマンさんがお書きになった「希望の歴史」、文藝春秋社刊。

Humankind 希望の歴史 下 人類が善き未来をつくるための18章



(本の中の傍点部はアンダーラインで表記する)
歴史の中で「悪だ」と思われていることがあるが、よく見つめると実はそれが「善」だったりするという。
文藝春秋はいい本を出す。
「善悪はそう簡単に決められるものではない」というご本。
ルトガーさん。
アメリカの研究者。
下巻の方はというと「権力はいかにして腐敗するか」。
ここから始まる。
(下巻は「共感はいかにして人の目を塞ぐか」から始まり、「権力はいかにして腐敗するか」は二番目)
この本はもの凄く丁寧で膨大。
だから申し訳ありませんが、皆さんにご報告というか、「(今朝の)三枚におろし」で語るのは武田先生の興味のあるところだけを切り取って出しているので、どうぞ御容赦のほどよろしくお願いいたします。

これは下巻の40ページから続く章だったのだが「権力はいかに(して)腐敗するか」「権力というのは非常に腐敗しやすいものなのだ」と。

 一五一三年の冬、一人の落ちぶれた官吏が、パブで長い夜を過ごした後、小論の執筆に取り掛かった。(40頁)

「こうやりゃ間違いないんだ。バカ野郎!」「てやんでぇ」というようなもの。
何で江戸っ子なのかがわからない水谷譲。

後にその官吏、すなわちマキャヴェッリは、その小論を『君主論』と名づけた。(40頁)

君主論 - 新版 (中公文庫 マ 2-4)




彼は次のように記している。権力を得たければ、つかみとらなければならない。図太くなれ。原則やモラルに縛られる必要はない。(41頁)

この1513年の前後の頃に日本では、ちょっと暴君と見間違えるような織田信長が生まれいてる。
それで、戦国時代がこれでようやく終わる為の始まりが信長から始まるという。
「君主論」というのはそういう意味では見事に世界情勢を言い当てたという一冊になっているワケで、「善悪には縛られない。権謀術数に長け、目的の為に手段を選ばない。そういう君主がいいんだ」という。
ある意味ではちょっと皮肉な言い方だが、現代がまさしくそういう時代で。
暴君と言えるような人が国のまとまりを作るという。

権力を手に入れて維持するには、厚かましく嘘をつき、人を騙さなければならないのだろうか。(41頁)

「ちょっとした気まぐれ」とマキャヴェッリが呼ぶこの小論は後に、西洋史上、最も影響力を持つ著作の一つになる。『君主論』は、皇帝カール五世、ルイ一四世、スターリン書記長のベッドサイドに置かれた。ドイツ首相オットー・フォン・ビスマルクも、チャーチルもムッソリーニもヒトラーも同書を持っていた。ワーテルローで敗北を喫した直後のナポレオンの馬車の中にもあった。(41頁)

この系譜はザーッと今も習近平、トランプさんに続くワケで。
悪の使い方こそが「マキャヴェリズム」と呼ばれるもので、今も権力はこれを目指している。
だから「君主論」というのはプーチンさんなんかは熱心に読んでいるのだろう。
「なるほど〜」とかという感じで勉強なさっているのだろう。

ケルトナーは、人が権力を得るとどうなるかについても研究した。−中略−「クッキーモンスター研究」だ。『セサミストリート』に登場する毛むくじゃらの青いマペット、クッキーモンスターにちなんでの命名である。−中略−被験者を三人ずつのグループにして、ランダムに選んだ一人をリーダーに指名した。そして全員を退屈な作業に取り組ませた。まもなく実験助手が、「皆さんでどうぞ」と、五枚のクッキーを乗せた皿を持ってきた。どのグループも最後の一枚を皿に残した(マナーの黄金律だ)。しかし、ほぼすべてのグループで四枚目のクッキーはリーダーが食べた。さらに、ケルトナーが指導する博士課程の学生は、リーダーたちの食べ方がだらしないことに気づいた。−中略−これらの「クッキーモンスター」たちは、往々にして口を開いたまま、大きな音を立てて食べ、シャツにこぼすことも多かった。(42〜43頁)

ニキ SESAME STREET(セサミストリート)/クッキーモンスター クラシック 25? 3041956




(番組では四人グループということになっているが、本によると上記のように三人)
自分がリーダーに選ばれたら「最後の一枚はみんなでわけようね」とならないのかと思う水谷譲。
クッキーモンスター実験ではならなかった。
かくのごとく人間の奥底に眠っている「特別な人間になった」という思いが高圧的な上から目線の態度になってしまうという。
「こういうのが人間の実態にあるんだぞ」とルトガーが教えてくれる。

実験は更に続く。
このあたりから水谷譲には興味を持ってもらおうと思うが
次なる、権力というものに乗っかった人間の心理の変化。
これはアメリカの方が書いた本だが

ケルトナーらのチームが行った別の研究では、高級車の心理的影響を調べた。第一グループの被験者は、古びた三菱車かフォード・ピント(小型車)の運転を課せられた。横断歩道を渡ろうとする歩行者を見かけると、彼らは皆、法に従って一時停止した。
 しかし第二グループの被験者は、素敵なメルセデスを与えられた。今回、四五パーセントの人は、歩行者のために一時停止しなかった。そして車が高価になればなるほど、運転マナーは乱暴になった。
(43〜44頁)

ここからルトガーさんの面白いところ。
それで「世界の権力者達の行動と表情を観察しよう」という。
様々な政治家が世界にはおられる。
政治家の中で強い権力を持っている人。
プーチンさん、トランプさん、習近平さん。
そのあたりを皆さん、イメージしてください。

権力者はあまりミラーリングをしない。(44頁)

共感において重要な役割を果たす精神プロセス「ミラーリング」(他者の行動や態度を無意識に模倣すること)(44頁)

誰かが笑うと思わず笑っている。
誰かがあくびをするとあくびに誘われてしまう。
こういうふうにして「集団との繋がり」というものが表情に出るという。
これが絶対的な権力者になればなるほど殆ど出ない。
強い権力を持っている人は場の雰囲気で笑ったりしない。
その表情は他者に対して否定的。
それが権力者の特徴である。
そういえばやはり読みにくい。
トランプさんとか。
「腹の中では何を考えてらっしゃるんだろうな」的な表情だと思う水谷譲。
世界の政治家の中で最も表情が少ないのは習近平さんだろう。
それからトランプさんは、もの凄く人々が笑顔で拍手を送っているのに、彼のみが怒った顔で「アメリカを偉大にする」とか。
ましてプーチンさんはあくびが移るような顔をしていない。
そんなふうにして考えると、このルトガーさんの指摘がわかるような気がする。
権力の無い人はどういうことかというと、もの凄く公平を好む。
だから食べ物が手に入ると「分けようとする」という本能がある。
ところが権力を持つと変わる。

わずか三歳の子どもでも、ケーキを平等に分けようとするし(49頁)

これは人間の特徴で言われてみれば思い当たる。
類人猿、チンパンジー等々がそうだが、人間に一番近いと言われるボノボというサルには見られる傾向だが「食事の奪い合いをしない」という。
チンパンジーなんか食べ物の取り合いをする。
ところが人間はしない。
「人が喰ってるもん横から取るヤツ」というのはよっぽどのこと。
それはマナーとして守っているワケで。
食事の奪い合いをしないということと、それからズバリ言うと「食事をしている人に声をかけるのも失礼だ」というマナーを持っている。
公平に分け合うこと、それが人の本能である。
本能に根差した感覚に反した時、「マナーに違反したな」と思った時は口ごもったり、人間の最大の特徴は赤面する。
赤面というのがもの凄く人間的な行為として大事。
だから漢字でも意味深。
「耳」の横に「心」を書いて「恥」だから。
ほっぺたを赤くする「恥じ入る」というのは人間の最大の特徴。

 権力を握る人々にも、同じ傾向がみられる。−中略−
 つまり彼らは赤面しないのだ。
(44頁)

言われてみれば赤面している権力者は見たことがない水谷譲。
トランプさん、プーチンさん。
あの人は屁をこいても全然恥ずかしそうな顔をしないような、そんな感じが。
ごめんなさいね、プーチンさん。
例が悪くて。
そういう恥じらいみたいなもの。
恥じらいがあるところが人間らしさなのだが、権力を手にすると恥じらいを消してしまうという。
この奥の方に眠る権力とは何か?
ルトガーさんのこれは文書にあった言葉だが興味深いのは「専制独裁者は赤面しない」「彼らは羞恥心が無いことで生き残って来た例外の人々である」。

診断可能な社会病質者は、一般の人々では一パーセントしかいない(59頁)

だから「赤面しない」というのは独裁者になるかどうかのテストになるという。
赤面した瞬間にもうその人の偉さは無くなってしまうから、厚顔無恥でいてくれないとと思う水谷譲。
高校の友だちに「急所を攻めるのはやめてください」と言ったヤツがいた。
「オマエみたいなバカを『厚顔無恥』と言うったい。わかっとっとかイトウ」「先生!急所を攻めるのはやめてください」
イトウ君はあの時、顔が真っ赤だった。
睾丸を鞭で攻めているのが想像できたのだろう。

ここからルトガーさんの逆説に満ち満ちた希望の見つけ方が始まる。
V.E.フランクルさん。
この方は文明的な人。
アウシュビッツまで行ったという。
この方が本の中でこういうことを掲げてある。

「それゆえわたしたちはある意味、理想主義者でなければならないが、それは、そうなって初めて、真の現実主義者になれるからだ」
         ヴィクトール・フランクル
(72頁)

「理想主義者でなければ現実主義者にはなれないよ」こうおっしゃっている。
一体に人を疑うことと人を信じること、どちらが人生で役に立つでだろうか?
「人を信じること」だと思う水谷譲。
V.E.フランクルさんは、人生をそう喝破なさった。
政治家にも同じことを求められるという。
政治を批判する人も「人を信じる」ということで現実を知らなければならない。
ルトガーさんはそれをわかりやすく、こんなふうに説明する。

 友情を取り上げよう。もしあなたがある人を疑っていたら、その人に嫌われるような振る舞いをするはずだ。友情や愛や忠誠心といったものは、わたしたちがそれらを信じる「からこそ」真実になる。ジェイムズは、信じていたことが後に誤りだとわかることもある、としながらも、「希望の末の欺瞞」の方が「恐れの末の欺瞞」より好ましい、と主張した。(75頁)

現実を変える力となるのは疑うことではない。
信じることなんだ。
これはちょっと「武田が明るいこと言っとるな」とお思いの方もいらっしゃるだろうし、武田先生もなかなかそこまでの達観はできないが、最近YouTubeなんかで人の悪口が凄い。
あれは気が滅入ってくる。
「ある組織体の裏側はこうなっている」とか、もの凄い暗いことが書いてある。
危険な言葉が飛び交って。
「こんなこと書いていいのかな」というようなことが書いてある。
でもそのYouTubeから何も力は出てこない。

 新学期が始まった時、スプルース小学校の教師たちは、ローゼンタール博士という高名な科学者が、自校の児童を対象として知能テストを行うことを知らされた。この「習得度想定テスト」は、今後一年で最も成績が伸びる児童を割り出すためのテストだと説明された。
 実を言うとそれはごく普通の知能テストで
(77頁)

全部偽物。
そんなのわかるワケがない。
そういうテストをやったそうだ。
「一年後、この子が伸びるかそれとも成績が落ちていくかを今ジャッジできるという知能テストです」ということでやった。
その心理学者がその結果を教師に渡した。
教師は悪い人ではないのだろう。

教師たちは「成績が伸びる」と言われた子どもたちに、より多くの関心を寄せ、より多くの励ましと称賛を与え、結果として子どもが自分をどう見るかを変えた。−中略−知能指数は、一年で平均二七ポイントも上昇した。(78頁)

反対に「あんたは下がる」と言った子は本当に下がった。

 ローゼンタールは自分の発見を「ピグマリオン効果」と名づけた。−中略−わたしたちが抱く信念は、真実であっても想像であっても、同様に命が吹き込まれ、世界に変化をもたらす。(78頁)

彼は二〇人の孤児を二つのグループに分け、一方のグループには、きみたちは上手にはっきり話すことができる、と語り、もう一方のグループには、きみたちは将来どもるようになる、と語った。−中略−数人の孤児に生涯続く発音障害を残した。(79〜80頁)

ピグマリオン効果の裏面はゴーレム効果と呼ばれる。(79頁)

今の社会はこのゴーレム効果を試す人が多くて、とにかく一回後ろから突き飛ばして落としてみるという感じ。
まあそういうのが好きな人がいるのだろうが、突き落とすのが好きな人はどんな人生になってしまうのだろう?
武田先生がどっちを信じるかというと、ごめんなさいね皆さん。
ピグマリオン効果を信じる。
何でかというと、実は武田先生にも確かにピグマリオン効果があった。。
ピグマリオン効果について我が人生を振り返って、武田先生はまさしくこれだった
27歳の時に本当に三流のフォークシンガーで喰い詰め直前までいっていたのに、一本の映画「幸福の黄色いハンカチ」に抜擢されて武田先生は俳優の道を歩き出す。

幸福の黄色いハンカチ デジタルリマスター2010



そこで凄い人、高倉健さんとか渥美清さんに会って。
初めて役者の世界を、芝居の世界を見るワケだが。
何よりも最大の出来事は山田洋二監督という演出家に出会ったこと。
本当に忘れないが、この監督さんから「ここが上手くいかないんだよ。君ならどうするね?」と、そう依頼を受けて、「自分がみっともない男で、強くなりたいから柔道をやって、足が短くなった」というそんな話を映画の中でアドリブでやったら、そのシーンが終わった後だが「君にはセリフをつくる不思議な才能がある」。
これは生涯忘れない。
親もそんなことを一回も言ったことがなかった。
親も気づいてくれないのに人様から、しかも大変な映画の監督さんから「セリフをつくる能力がある」と褒められたその一言がピグマリオン効果になって。
それから5〜6年後には台本を書いていたから。
それでテレビのレギュラーが入ってきたら、頼まれもしないのに40分アドリブでやったり。
「オマエさ、極端だろ」というようなものだが、人間はきっとなる。
それはいい結果だと思う水谷譲。
だからこのルトガーさんあたりの本を読んでいると、そのへんの自分が交錯していく。
だからピグマリオン効果はどこかで信じている。
激しく否定する人よりも、とりあえず褒めてくれた人の言葉をいつまでも覚えているタイプというのは。
褒めて伸びるタイプだと思う水谷譲。
それから親戚のおばさんから言われた「鉄矢は大器晩成やけん」というのが。
「大器晩成」というのが大好きだった。
もう頭の悪い子の唯一の希望「大器晩成」。
だから龍馬が好きになった。
坂本龍馬は子供の時「知的な才能が無い」と。
「坂本のよばいたれ」とか、「おねしょばっかりしている」とか「愚鈍」とかさんざん罵倒される。
「常識が無い」とか。
それが小学校6年ぐらいから剣道場に通い始めたら人変わりしたという。
それで17〜18(歳)ぐらいになると剣の才能が芽生えてきて、いっぱしの男としての風格を持つようになったという。
その愚鈍の部分がもの凄く惹き付けられた。
「俺も龍馬になるぞ」という。
ピグマリオン効果というのは確かにあるような気がする。

第13章「内なるモチベーションの力」。

二〇世紀の二つの主要なイデオロギーである資本主義と共産主義が、この人間観を共有していたことだ。資本主義者も共産主義者も、人を行動させるには二つの方法しかない、それはニンジンと棍棒だ、と語る。資本主義者がニンジン(つまり、金)に頼る一方、共産主義者は主に棍棒(つまり、罰)に頼った。(88頁)

「外因性インセンティブ・バイアス」と呼ぶ。つまり、人にやる気を起こさせるには報酬を与えるしかないと、わたしたちは決めつけているのだ。(88頁)

 資本主義の基盤になっているのは、この冷笑的な人間観だ。(88頁)

それからこの間テレビで仕入れた言葉だが、最近の若い人はあんなことを言う。
政治家が人民を操るコツ「サーカスとパン」。
サーカスと喰い物を与えていると人民はついてくるという。
それを「サーカスとパン」というそうだ。
この国の全ての政党は同じことしか言わない。
「あなたの時給と休憩時間を増やそう」これが現代の政治家の主張である、と。

 そしてわたしたちは幾度となく、他の人は自分のことしか考えていないと決めつける。つまり、目の前に報酬がなければ、人はだらだら過ごすのを好む、と思い込んでいるのだ。(93頁)

それが政治家の人間観であるという。
しかしこれはルトガー曰く、人間をつかみそこなってるんじゃないか?
私達には人間について新しいリアリズムを今、書き直す時なんだ。
そんなもので人間は動いてないよ。
高い収入のニンジンがなければ人は上手くいかない。
そんなふうに思っているけれども、そうか?
上手くいってるとこだってあるぞ。
我々が今、新しい人間観をつかむ為に、「人間はこういうものだ」と見つける為に必要なものは収入が十分でないにも関わらずやりたくなるという仕事をやっている人。
そういう人を見つめることなんだ。
そこに新しい人間のリアリズムがある。
これはハッとする。

まずは子供の世界を見てみよう。
子供にとって教育される場所の学校に待っているのは監視と成績の順位である。
この二つが子供達にとって飴か鞭かということになっている。
しかし急いで大人になること、それがいいことのように言っているがそんなことはないぞ。
しっかり遊ばないといい大人にならない。
まずはしっかり遊ぼう。
遊ぶとは一体どういうことか?
ここからまたルトガーが細かに入っていく。
興味ある方、明日も聞いてね
「しっかり子供は遊ばないと立派な子供にはならないぞ」「遊びが子供を作ってゆくんだ」という。
これは思い当たる
おっしゃる通りだと思う水谷譲。
「遊び」とは何かというとルールがある
それからそのルールを当たり前だが守ること。
基本的に遊びのルールは自分の内側に眠っている勇気を奮い起し、仲間達に親切で結び合い、違反には正直に告白するという。
これは前にもお話した少年マガジンのルール。
「鉄腕アトム」にしろ「ジャングル大帝」にしろ「鉄人28号」にしろ、皆、この少年の遊びのルールを守った。
その遊びのルールとは「勇気」「正直」「親切」。
この三つを守って遊ぶという。
だから我々の少年時代のヒーローは勇気に溢れ、正直で親切という。
「タイガーマスク」とかそう。
一番最後はみなしごの子達につくして、最後は死んでゆく。
かわいそうに。
交通事故で死んでゆくのだが、タイガーマスクであることを隠す為に彼はマスクを捨てる。
そして別の人間として死んでいき、「タイガーはどこかで生きている」というレジェンドを残すという。
そういうラスト。
最後は交通事故で死ぬ。
その時に薄れゆく意識の中で胸ポケットに入っているタイガーのマスクをドブ川に捨てる。
そうすると「伊達(直人)」で死んでいける。
タイガーは生き残るという。
これは泣ける。
初めてニュースで聞いた時、武田先生は泣いてしまった。
みなしごの方ばかりが集団で暮らしている施設の前にランドセルが置いてあって「タイガーマスクより」と書いてある。
ランドセル寄付の「タイガーマスク」張本人が語る...「子供時代は偏見にさらされていた」(ニューズウィーク日本版) - Yahoo!ニュース
たまらない。
つまり「勇気」「正直」「親切」。
これが遊びの徳目だったが、遊びもどんどん広がって守るべき徳目も変わってきて少年ジャンプの徳目「友情」「努力」「勝利」。
これが少年ヒーローの目指すべき徳目になる。
だからこの「友情」「努力」「勝利」で「鬼滅の刃」「ワンピース」「進撃の巨人」「呪術回戦」等々のストーリーが展開していく。
「スラムダンク」とかみんなそう。
集団劇。
「友情」「努力」「勝利」
これを子供達は体験しないとダメなんだ。
だから読み間違えてしまって悪い方につるんだりなんかしてしまって。
闇バイトなんか友達と一緒に参加したりなんかして。
「ルールをしっかり守る」という、これが遊びにとって大事なんだ、という。
武田先生はまだしつこくゴルフなんかやっているのだが、遊び飽きない爺さん達が朝早く打ちっぱなしに行くと同じぐらいの年齢の人が、舌打ちをしながら練習をしている。
まだゴルフ場から魂が帰ってこない。
ゴルフで試されるのもやはり「勇気」「正直」「親切」。
あれは嘘をつくと面白くもなんともない。
一打ごまかしたりなんかすると。
ルールを一本通さないと遊びは面白くない。
「なんでもやっていい遊び」というのは面白くない。
そうやって考えていくと子供にとって「遊ぶ」ということがどれほど大人になる為のよい勉強か、ということ。
その例としてルトガーはいじめを例に挙げている。
「いじめは同じ場所、同じ条件で発生する歪んだ狂気である」と。
だいたい同じような場所、条件でいじめが発生するそうだ。

・全員が同じ場所に住み、ただ一つの権威の支配下にある。
・すべての活動が共同で行われ、全員が同じタスクに取り組む。
−中略−
・権威者に課される、明確で形式張ったルールのシステムがある。
(117頁)

こういう条件が続くといじめが発生するそうだ。
このような場所は日本の社会のどこにでもある。
まずは「学校」

その究極の例は刑務所で、そこにいじめがはびこっている。−中略−老人ホームなど他の場所でも見られる。(117頁)

ではいじめの場所・条件を突き崩す為に何をすればよいか。
これが実に簡単で、もう一度泥んこになって遊ぶ子供と同じ環境になればいいんだ、と。
自由を与え、ある年代と様々な能力を持つ子供達がそこに混じり、そしてしっかりしたコーチとプレーリーダーが支援する場所。
そこで子供達はよく学ぶという。
これはやはりそのルールのしっかりした「遊び」とその場所、そこで子供は最もよく学ぶというのは大人も同じこと。
そんなふうにして考えると、このルトガーさんが言っておられる「希望のある場所」というのはそういうところだなというふうに思う。

ルトガーさんの面白いところは、今まで私達が「これが人間に関する定説だ」と思うことをひっくり返していくところにある。
権力に憧れて、人を上から目線で突き動かしたいという欲望はそれは誰の胸の中にもあるのだが、しっかりした遊びをやった子供というのはそれを乗り越えてゆける、という。
遊びの中で自分を鍛えるということが、自分を作っていくということが、いかに大事かというルトガーさんのこの説に従って、さあ我々が信じ切っているこの世界の中、どう変えていけばいいのか?
その希望の源、歴史を訪ねたいと思う。
同じタイトルでまた来週頑張りたいと思う。




2025年03月19日

2025年2月17〜28日◆治したくない(後編)

これの続きです。

襟裳岬の根本の町、浦河の町・東町に診療所ができる。
精神医療の為の診療所。
ここに川村先生という名物先生がいて、この先生が往診はやるのだが入院は無い。
「自宅で治しなさい。それが一番いいことなんだよ」という。
分別し隔離するという精神医療、「そんな時代は終わったんだ」ということ。
その代わり訪問診療をしてくれる。
しかも北海道は広いから先生の往診は

一日の走行距離が百キロを超えることもあり(131頁)

北海道は老々介護の農家が多いそうで、川村先生の診察は先生が来てくれるのでもう有難くてたまらない。

 訪問先の一軒は兼業農家だった。−中略−車から降りてまず裏のビニールハウスに向かっている。−中略−
 この家の八十代の「父さん」は、認知症でもう働けない。けれど「母さん」はしっかり家を切り盛りしている。ビニールハウスを見ればそれがわかる。
(131〜132頁)

 台所から今に来て座った母さんが、そうそうとうなずく。−中略−
 「やっぱり寝れるからでない? 夜」
 「なんで寝れるようになったんだろ」
 「この人が寝れるから」
 父さんが寝てくれるので、母さんも寝られるようになった。
(133頁)

父さんはいつしか畳の上に寝そべっていた。その顔を見ながら、先生が誰にともなくいう。
「我が家にいるって顔してるね。穏やかだもん」
(134頁)

ということで、本日の診療お終い。

 別な日、先生たちは−中略−八木国男さんの家に往診に行った。
 統合失調症の八木さんは、数年前、自宅の敷地内に自分で小屋を建て、そこに立てこもったことがある。母屋にいると幻聴が聞こえるからだ。いっしょに暮らしている兄の車を壊すなどのトラブルを起こすようになり、一時は駐在所の警察官のお世話になった。
(135頁)

 母屋の裏手に八木さんが自分で建てた小屋がある。−中略−その小屋を指さしながら先生がいう。
「これ自分でつくったって、自作でしょ。そこにわたしたちはまず感動したんですよ」
(138頁)

 塚田さんはこの前の年、八木家の空いている畑に先輩看護師の竹越さんとトウモロコシを植えた。(139頁)

それを芽が出たらヤギさんも人の撒いた種なのでちょっと責任感を感じて面倒を見ているうちにすくすく育って、まあそのトウモロコシのその年の出来がいいこと。
(このあたりは本の内容とは異なる)
これが先例になって統合失調症の八木さんも先生がやってくると野菜の出来をまず見せて、症状を見てもらうという。
ある意味、それはモチベーションになっていると思う水谷譲。
だから「今日は大丈夫だ」と言ってもらう為にとにかく頑張って野菜を作るようになったら統合失調症の幻覚・幻聴が静まっていったという。

今度は南の方に回って道南の海辺沿いには漁師さんで統合失調症の方、或いは認知症の方がおられる。

先生は訪問診療についてこういっていた。
「訪問に歩いているのは、安心を配達しに歩いているだけなんですわ。
(137頁)

こういう往診の風景。
この著作はこのように筆の運びで川村先生の診療を記録している。
往診に出かけては患者と話し込む川村先生。
そうすると患者さんの内側にあるものが見えてくるという。

こんな婆さんがいたそうだ。
この方は認知症かもしかすると統合失調症もちょっとあるのかも知れない。
(本によるとクマの話をした人は認知症でも統合失調症でも無いようだ)

「浜にクマが来たの? 昆布拾いに?」
「来た、採りに来たの。それ、おれのだからよこせ、って」
−中略−
 クマが浜に来て昆布を拾っていった。いや人間から取っていった。
 ある日、往診に出かけた先生がソファに寝そべっているばあちゃん相手にバカ話を楽しんでいる。
(141頁)

これはクマを害獣として扱うのではなくて「隣人としてクマを感じる」という婆ちゃん。
その自然に対する感性。
「狂っている」と言うかも知れないが、クマの声が聞こえるというのは、まるで宮沢賢治のような。

もう一人の患者さんを説明する。

じいちゃんは長年漁師として暮らしてきた。八十歳を超え認知症を病んでも(142頁)

 船に乗っているとき、腹のぐあいが悪くなり薬を飲んだ、でもよくならない、そこまではわかる。しかしつづいてこういうのである。(143頁)

 病院に行ったら盲腸だといわれた。ところがそこから話は飛んで、船長が「おまえ、どうした」と尋ねてくる。(143〜144頁)

 「すろうと」の「船の親方」に、盲腸を「しゃあねえ、やってもらうよ」と「切ったぎった」されたのか。(144頁)

 そこでようやく概要が見える。じいちゃんは船の上で腹が痛くなった、船長が盲腸じゃないか、といったけれど、医者でもない「すろうと」のいうことで「切ったぎった」になるのはかなわない。おびえながらも陸に上がり、結局病院で医者に手術してもらった。そういう経過が飛び飛びに、前後を入れ替えながら語られている。(145頁)

先生はじっと話を聞くそうだ。
そして先生は思う。

病の深さっていうのを知ってるんだよね。(151頁)

この言葉がなかなか意味深でいい言葉。

北海道・浦河にある精神医療の先生の話をしている。
精神障害にしろ認知症にしろ、病には深さがある。
と、こんなことをおっしゃる。
脳の部位、いろんな部分があるが、そこが幻覚・幻聴を引き起こす。
或いは認知症の場合だと時間の消失、それから人間関係の図式の記録、そういうものを失う。
それは確かに正常ではない。
「狂気」と呼んでいるワケだが、だからといって正気に戻るのがよいことなのか?
精神障害の場合はそう簡単にその答えが出せない。
川村先生は「狂気の中に人間の心の力学が狂気の中にあるのではないだろうか?」「心理の深いところにある原始の未分化の命を励ますものが心の奥底に実は眠っているのではないか?」という。
「狂気を防ぐ」とか「狂気が表に出てこないように抑え込む」とかそんなことはできないという。

今年の正月・元旦に「ヘビの記憶」というのをやっていた。
子供に9九枚組の写真を(見せる)。
その9枚の写真の中に花とか木とかがあるのだが、ヘビが一匹混じっている。
その「9枚の写真の中のヘビを当てなさい」という。
そうすると幼稚園の子でもヘビを見抜く。
そんなに難しいヤツじゃない。
今度は逆にすると8枚がヘビの絵で1枚だけ花がある。
その中で「花を見つけなさい」と言うと時間がかかる。
9枚の写真のうち1枚だけがヘビということになると、すぐに小さい子供でも見つける。
これはなぜゆえか?という。
番組でちょっとお叱りを受けたけれども、木の上に人間がサル然として生きていた頃、襲われたのがヘビ。
だからヘビに対する警戒心、「すぐにヘビを見つける」という能力は遺伝子であるということ。

白川(静)博士。
武田先生が大好きな漢字の博士が「中国人を動かしている民族のエネルギーは何だろうか?」。
その質問に対して「狂」と言っている。
毛沢東みたいな英雄が、秦の始皇帝みたいな英雄が現れると中華民族というのはその英雄の足元にひれ伏す。
一種「狂」である。
韓国はどうか?
ここは「恨(ハン)」の文化。
恨みを民族のエネルギーにしている。
日本は何だろうか?
何かもっと穏やかなものだと思う水谷譲。
違う。
日本人も凄いのが。
武田先生は「悪」だと思う。
悪のエネルギー。
生きる為に悪を敢えて選ぶということ。
それを日本人は決して否定しない。

川村先生の言葉に戻る。

「自分のなかから思わず行動が引き出されるから、誰が何をしたっていう感覚が、した、されたっていう関係がないんですよね。(そこで)思わずおもしろいものが見える」(164頁)

「目指さない。その面白いものとは出会うんですよ。期待したものとは違う。違うものと出会う。だからそれを面白がるか否かなんですよ」

正しい答があってそこに進めばいいのではないから、迷い悩み、考える。考えながらなお、目の前に起きている事象にいまこの時点での対応をする。(165頁)

「それが生きていくことですよ。答えなんか探しちゃダメなんですよ。そしてその出くわした事象、出来事に対してそれが決定打ではなくて、それもまた流れている。そういう状況を面白がることなんですよ」
答えをきちんと持たない。
「答えも流れているということが難問に遭遇した時の心がけですよ」とおっしゃっている。
このへんからかなり先生の話は文学みを帯びてくるが、それゆえに武田先生は面白くて仕方がない。

昨日は川村先生の哲学的な「求めてはいけない。答えには出会うんだ」と。
難しい表現になるが、でもこの先生も精神の病の人達にと対峙するうちにいろんなことを考えたのだろう。
答えを固定化してはいけない。
「流れている状況というものを答えにしましょう」
そして流れてまたその答えは変わってゆく。
そんなふうにして我々の日々、人生というのは日常を作ってゆくのではないだろうか。

 価値は、力のある人が力を発揮して何事かを成しとげるところにあるのではない。−中略−人びとのなかに入り、自分の力を抑えることで人びとを生かし、人びととともにいること。そこで生まれることにこそ「うんと」価値がある。(168頁)

たった一人のトランプ大統領の出現で世界が変わるとは思えない。
この後、彼もいろんなことをやっていくだろうが。

そこで患者は「ある種、こっちに合わせてくれる」ようなことがなくなり、患者も医療者も、精神科とは何かを考えることがそれまでより自由にできるようになる。(168〜169頁)

こんなことをおっしゃっている。
「物語は精神障害を持った人の病態に似ている」
そう。
おどろおどろしい物語が多い。
特にアメリカ映画はピンチに次ぐピンチ。
「まあよくもここまで考えたな」というぐらいピンチが続く。
バイアスがあり飛躍があり敵がある。
そして意外な展開が用意されて物語ができていく。
自分の内側に狂気というものがあるとすれば向き合いたいなと思う。
自分の狂気は見てみたいと思う水谷譲。
昔、70年代だが読もうと思って買わなかった本に「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」というのがあって、タイトルが武田先生は凄く好きで。

われらの狂気を生き延びる道を教えよ(新潮文庫)



これをいつか歌にしたかった。
他には「されどわれらが日々」とか。

新装版 されどわれらが日々 (文春文庫) (文春文庫 し 4-3)



そういう文学作品があった。
フォークシンガーで吉田拓郎さんが歌っていた。

されど私の人生 (Live)



されど私の人生は(吉田拓郎「されど私の人生」)

そんなフォークソング。
「軍旗はためく下に」というのを泉谷しげるさんが「国旗はためく下に」という一字しか変えなかったという。

軍旗はためく下に-増補新版 (中公文庫 ゆ 2-23)



国旗はためく下に(Live)



そういうのもあった。
ごめんなさい。
しょうもない話。

都市部をうろついていても、時々妙チクリンな人と出会うことがある。
それは「ふてほど(不適切にもほどがある!)」なんかにも出てくるが、ある日のこと、バス停を降りたらお姉ちゃんがずっとかまぼこ板にずっと話をしているという。

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するとあのオッサンが「どうしたんだい?耳ん中にうどん入れて」とかと。
でも知らない人にとって、やはり狂気。
かまぼこ板に向かってずっと話している人というのは、どこから見ても。
「スマートホンを持たずに話をしている人を「あれ?この人大丈夫かな?と一瞬思う水谷譲」。
「独り言・・・?ああ違う電話してんだ」みたいに思う水谷譲。
随分デカい独り言の人もいるし、我々は「スマートホン持ってるか持ってないか」でジャッジしている。
やはり「人を見る目」というのがいろんなところに拡散してしまっているものだから、その人の狂気というのが非常に危険であるという、それを確認できない。
そんなことを考えてみると、やはり小さな田舎町のこのトライ、挑戦というのがいかに素晴らしいことか本当にわかる。

ここでわかりやすくいく。

 診療所の薪ストーブの前で、早坂潔さんと川村先生が話をしている。
 早坂さんは自称「精神バラバラ状態」、
−中略− 先生は、早坂さんとは三十年以上のつきあいだ。(180頁)

(番組では「ハヤカワキヨシ」と言っているようだが、本によると「早坂潔」。この後も番組内では「ハヤカワ」と言っているが本に従って全て「早坂」にしておく)

「先生はね、潔どんたちといっしょにいい精神科をつくりたいなって。−中略−
 ちょっと頭のおかしい人でも、暮らしやすい「いい精神科」をつくりたい。
(182頁)

早坂さんが、間髪を入れずに答える。
「いや、そんなに治さなくてもいい、っていった」
「そうだ、ほんとに、ははは。すっかり病気なくなったらおれ困るなあって」
「困るなって、いったわ」
「川村先生くらいでいい、すっかり治されても困るものぉ、っていったんだよ。
(183頁)

実は本のタイトル「治したくない」はここから来ていること。

早坂さんの顔を見ながらふっと、ことばが川村先生の口をついた。
 「半分治したから、あとの半分はみんなに治してもらえ」
(183頁)

この「半分治す」というところが。
潔さんと語り合ううちに思わず出てしまった言葉ということなのだが、川村先生は「完治を目指すことが精神障害者にとっては本当によいことなのか?」。
潔さんは「医者に任せっきりにした自分は楽しくない」。

 精神病の経験から早坂さんが学んだことは、自分自身で「考えたり悩んだり」することだった。(190頁)

その弱さについて仲間と語り合う。
「それが凄く楽しいんだ」という。

そして一人の女性の話になる。

 「名古屋から来た患者さんが、ある日救急外来に来て。日赤時代。なんか幻聴も聞こえると不調を訴えて、精神的余裕なっくなってきて」−中略−
 「苦しくなって、休みの日にやっぱり救急外来に「注射してください」って来たんです。で、ぼく「注射しないよ」っていったんですよ。彼女も一生懸命粘って、「病院なのにどうして注射してくれないんですか、わたしは名古屋でこういうときはいつも注射してもらったんです」と、けっこう粘るわけです」
 くり返し自分のつらさを訴え、強硬に彼女は注射を求めた。先生は答えた。
 「ここで名古屋とおなじことしたいんだったら、名古屋に帰んなさいっていったんです。
(212〜213頁)

 浦河では有名な林園子さんのエピソードである。林さんはその後、統合失調症という自分の病気を仲間とともに考え、話し、克明なメモを取りながら注射に変わる対処法を編みだしていった。(213頁)

ところが不思議なことに、このノートが他の患者さん、仲間達にも役に立つようになったという。(213頁)

彼女の苦労はやがて浦河で、「当事者研究」と呼ばれる病気とのかかわり方に発展していった。(213頁)

そしてついに「もうこれ以上、わたしの病気を治さないでください」というまでになる。(213頁)

 その数年後、彼女は自室で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。生きていればさらに多くどれほどのことばを残してくれたかと思うと、彼女の不在は埋めようのない空洞になったというほかはない。(213頁)

「悩むこと、考えることは生きていく上で重大なことである」「苦労するということが命にとってはとても大事なことだ」という。
これは武田先生はギクッとしたが、これはV.E.フランクル。
V.E.フランクルというのは深層心理学の方に出てくる方。
「夜と霧」

夜と霧 新版



アウシュビッツで次々処刑になる同胞を見守りつつも「人間の精神の支えになるのは何か?」そのことを突き止めようとした心理学者。
このV.E.フランクルの名言の中にあるのは「人間は苦悩する才能がある」という。
人間だけだと思う水谷譲。
「苦悩とは生きていく条件だ」と言っている。
潔さんという方、精神に疾患のある方でこの方はもうこの病にかかって50年以上。
向き合えることが凄い、向き合って名前まで付けるほど自覚ができるということが凄いと思う水谷譲。
武田先生がべてるの家の文化祭で「自分に精神的な病があるとして名前は何にしますか?」と(問われた)時に「過剰適応症です」と言ったら、もっとも同情してくれたのが潔さんだった。
「鉄ちゃんも大変だ」と言われた。
狂気というのは遠いものではない。

斉藤道雄さん「治したくない ひがし町診療所の日々」、みすず書房の一冊。
斉藤道雄さんこの方が本の終わりの方で、難解極まりないフランスの哲学者を取り上げて。
レヴィナス。
レヴィナスは武田先生が勝手に師と仰ぐ、内田樹先生が師と仰ぐフランスの哲学者がレヴィナス。
このレヴィナスがこんなことを言っている。
これは難解な言葉なので気持ちが半分逃げているが。

〈他者〉を打つ力に対抗することが可能であるのは、抵抗の力によってではない。対抗が可能であるのは、〈他者〉の反応が予見不可能であるからにほかならない。(237頁)

わけがわからない。
〈他者〉に対抗する力がある。
それは抵抗することによってではない。
対抗が可能であるのは〈他者〉の反応が予見不可能であるからである。
この言葉をレヴィナスはどこで言っているかというと、ナチス時代のアウシュビッツを取り上げて言っている。
ナチスによる弾圧によってアウシュビッツで殺されたユダヤ人が何百万人といる。
その事実を見たユダヤ人の中で「神はいない」と言い切る人が出てきて、ユダヤ教を離れる人がいっぱい出た。
それに対してレヴィナスは「違う」と言う。
「神は一人も救ってくれなかった。だけど、そのいわゆる予見不可能な神の態度こそが我々が神を考える為の最高の材料じゃないか」という。
「神が何もしないことによって神たるべき」という。

向谷地さん、それから川村先生。
この人達は実は解決しない。

 精神障害が何であるか、精神障害者とは誰なのか、それは「無限なもの」のなかにあって見通すことはできない。精神障害にどう応じればいいのか正しい答はないし(240頁)

「無限なもの」を考えつづけること、人間を、また人間と人間のあいだを見つめることだったのだと思う。(238頁)

無限なものとは「捉え難く、絶対に思いどおりにはなりません」ともいっている。(239頁)

「でもその無限に耐えて人間は迂回しながら考えるんだ」
こういうこと。
難しいように聞こえて、川村先生や向谷地さんがやっていることはまさにそれだと思う水谷譲。
そう。
「真っすぐ解決に行くな。遠回りしろ、迂回しろ。その迂回から見えてくることがある」
向谷地さんと話していて、武田先生は「面白い言葉遣いするな」と思うのだが、この人は精神障害を持つ人に殴られたり蹴られたりしている。
でも殴られたり蹴られたりしながらじっと耐えながら、自分の中の何事かを伝えようとする。
向谷地さんの苦労話の中で本当に目も当てられない惨憺たる人はいる。
その人の思い出を語る時に向谷地さんの使う不思議な言葉遣いで「いやぁ〜あの人には鍛えられた」。
「あの人に迷惑を被った」と言わない。
そこにもの凄い彼のスピリッツを感じる。
川村先生もそう。
人口1万2千ばかりの浦河から、日本どころか世界を変える力を持つ。
小さな町の精神科の診療所が、いくつもいくつも探り当てているこの現状を皆さん方に伝えたくて無我夢中の喋りとなったが。
べてるの家はこれからどうなっていくのかと思う水谷譲。
日赤で精神科がどんどん縮んでいく。
ところが面白いことに縮んでいくとそこで鍛えられた人、精神障害を持つ人達に鍛えられた人達が職を求めてよその町に行く。
そうしたらべてるのメソッドがよその町に広がってゆくという。
つまり「一面で不幸を見ちゃダメだよ」という
川村先生は子供が野球ができる球場を作ったり。
浦河の町は町としては縮んでいる。
だが川村先生のところにはいろんな人が集まってきて「これはいいですね」とか。
一番当たったのはあの統合失調症の女性の為に作った墓地。
あれは「私も入りたい。私も入りたい」で、べてる経営の霊園墓地ができそうで。
ある意味経営も強化されている。
それで潔さんに「武田さんもこっち来て入ればいいじゃん」と言われて、武田先生はその墓地を見に行った。
いい環境。
つまり希望と絶望は同時進行。

折に触れて、また新しい便りがあったら必ずお伝えしたいと思う。


2025年2月17〜28日◆治したくない(前編)

まな板の上に乗せたのは「治したくない」という不思議なフレーズだが、実はこれはまた北海道。
北海道・襟裳岬の付け根にある人口1万2千ばかりの浦河町「べてるの家」ということで、何度も話題に。
そこの町で生きる、あるお医者様に注目したという著作が、みすず書房「治したくない ひがし町診療所の日々」。

治したくない??ひがし町診療所の日々



(本の中の傍点部はアンダーラインで表記する)
斉藤道雄さんという方が書いておられるのだが、これが読み応えがあったのだが、まずは初めて聞かれる方の為に浦河という町の風景からご説明する。
町の背中は日高山脈で目の前には北海道の南の海が広がっている。
日高の山々。
傾斜地が多いのだが、その一番緩やかなところには浦河の有名な産業であるが競馬馬の生産をやっておられて。
ここは南の海が温かいものだから海洋性気候で霧が発生しやすい。
その分、冬の厳しさもある程度緩やかだという場所。
これは行くとわかるが日高山脈は緩やかな裾野には馬の牧場が広がっていて、牛の方はワリとバリケードでバーっと巡らしている。
馬牧場の方は白い柵がずらーっと並んでいて、何かこう歌が聞こえてくる・・・



「ルンナ♪白い何とかのルンナ♪」というような。
牧舎も全然スケールが。
この浦河の町に今、インドの出稼ぎの方が凄い勢いで増えているという。
インドというのは昔、イギリスの植民地でイギリスが、ポロとかで競馬もそうだが、とても馬競技を大事にしたので、馬の飼育に関してプロが多い。
人手不足を補う為に浦河の町にインド人の方がやってきて、という。
このインド人の方々の技術というのは日本競馬会「JRA(日本中央競馬会)」でもスタッフとして有名だそうだ。
とにかく海は豊か、山は豊かという浦河。
ここは日高昆布の集積所、集まる市場がある。
人口1万2千の本当に小さな町に、何度でも紹介しているが、精神障害者のグループホームの「べてるの家」があって。
精神障害の方が精神障害の方と一緒に暮らしながら、いわゆる精神障害を治そうという医療の挑戦。
精神の方の病は様々あるが、長い人類の歴史の中でこの精神の病というのは無くなったことはない。
確かに存在する。

 日本の精神科の入院患者は三十一万人(196頁)

これに加えて昨今では、鬱、引きこもり、そして認知症等も加わって、15年前から2.6倍の患者の方がおられるということ。
認知症等は高齢者の14%がこの病に罹っているということで、とにかく体を統合する心を病み、或いは暮らしを認識する能力を失うというこの病は世界的にも増加傾向にあるということ。
アジアでは韓国社会もその人数が増えているし、韓国では「どうやって治すか」の模索が続いていて、武田先生もお会いしたが、韓国からの医療の方々がここで勉強しておられる。
やはり中国の方も早く勉強をスタートした方がいいんじゃないだろうか?
認知症が中国では加わっていくから。
本当に「景気のどうのこうの」言っていないで、この勉強を開始した方がいいのではないか?と。
浦河というのはアジアが注目する精神医療の最前線基地になっている。
これは日本の方もご存じないかと思うが、やはりこの浦河の挑戦というのは凄く今、ヨーロッパが注目している。
「べてるの家」というのはそれほど価値のあるものだが、実はこのべてるの家を支えるのに奇跡のような人物がいる。
それが精神医療者、病院の先生で川村敏明先生という先生がおられる。
この方は浦河赤十字病院の精神科医をしながら、浦河の病院に精神に病があって入院してくる人達を町に出しているという。
精神に病を持った人を入院という形で病院に閉じ込めてしまうとどんどん悪くなる。
川村先生は逆に町に出して普通の暮らしを、働いて生きていくという暮らしをさせた方が病の為にはいいということで通院を求めるという。
この今回は川村先生のこの精神医療に対する日々の取り組みをご紹介したいと思って語り始めたワケで。

北海道浦河、赤十字病院の川村先生の話。
精神に病を持つ方がやってくるのだが、先生は「町で共同生活をしなさい」
その町には「べてるの家」という福祉法人があるワケで。
「そっちの方が治りが早い」というのを川村先生はおっしゃる。
そうすると浦河の赤十字の精神科の方の入院のベッドが空いてしまう。
矛盾している。
そうするとお国の方から「縮小しろ」と。
「入院患者を引き受けないんだったらベッドはいらないだろ」

 精神科病棟を老人病棟にしろという要求は、−中略−地域からの方が強かった。(7頁)

川村先生は「認知症も隔離しておいて治すということはできないんだ」という。
かといって治るものでもない。
はっきり言って認知症は治らない。
今は薬も出始めているが、始まったばかりだから。
それでその日赤の人間として立場も苦しい川村先生が考えたのが、「診療所を作ろう」という。
だから「入院設備はない」という。
自分が診療する。
そうすると、この先生は何か凄い評判がいい人で、看護師さんたちも「川村先生と一緒だったら私、定年退職したら先生の診療所に行く」と言って何人も力を貸してくれる。
とにかく精神医療というのはなかなか偏見もあって難しい。
それで病院で隔離せずに町に出してしまう川村先生にも凄い非難が集まるのだが、べてるの家というこの福祉施設がしっかりしていて、町との折り合いがいいものだから、ワリと上手くいっている。

「結局、(精神科は)赤字だから患者さんを集めてベッドを埋めるか、やめるかだっていわれたんですよ、経営コンサルタントに。で、集めるっていったら高齢者、それこそ認知症の人たちで埋めるって話で、それはもう」−中略−こんどは老人の「収容施設」になるなんて耐えられない。(6〜7頁)

これでもう廃止が決まってしまう。
入院病棟を持っていると国から6億円出るのだが、先生はどんどん(病院から)出してしまうので6億円が入ってこない。
(本によると、浦河日赤では入院患者の減少で国の医療保険が毎年六億円の節約になったという試算があるということが書かれてあるので、このあたりの話は事実とは異なる)
それでその認知症の老人達はどうするかというと、入院施設の無い先生の診療室に行く。
それでこの先生は何をやったかというと、自分で車に乗って看護師さんを連れて二人で自宅を診て歩く。
認知症の老人達のところを。
それが斉藤道雄さんがお書きになった「治したくない ひがし町診療所の日々」に書いてある。
それが「こんなことをやってる人がいるのか」と思うだけでなんだか心がウォームアップ(「ハートウォーミング」ということを言いたかったのだと思われる)というか温かくなってくる。
その認知症の老人達の話は後回しにして、一番最初にその診療所が扱った問題を。
(以下の内容は2017年に始まったようなので、診療所のオープンが2014年であることから考えると「一番最初に扱った」というのは誤りだと思われる)

 大貫恵さんは統合失調症だ。かつて子どもを二人産んだが育てることはできず、児童相談所が介入して施設に預けなければならなかった。親はアルコール依存症、きょうだいも頼りになるどころか逆に大貫さんの生活保護費をあてにするありさまだった。大貫さん自身も幻聴や幻覚が強く、パチンコや男性依存から抜けられない−中略−川村先生の患者だったが、二年前に浦河から姿を消し、隣町に行ったといわれていた。(45頁)

(番組内では浦河から姿を消したのは数か月であるように言っているが、上記のように二年)

 その大貫さんが妊娠したと一報が入ったのは三月だった。子どもは浦河で産みたいと、浦河日赤まで受診に来たのである。ところが四十代の高齢出産だというのに準備がまったくできていない。所持金もなく(45頁)

 母親は精神障害、自活能力はなく、頼れる友人家族はひとりもいない。−中略−子どもが生まれたらはじめから児童相談所に任せるというのが一般的な判断だろう。(45頁)

 長年大貫さんとかかわった経験のあるワーカーの伊藤恵里子さんは、「チャンスだと思った」とふり返っている。高田大志ワーカーも「もうパパっと動きましたよ」といい、川村先生も「これはビッグ・イベントだ」と腰を浮かせた。(46頁)

家族に取りあげられていた預金通帳を取り返すこと、そこに振り込まれる生活保護費を自分で受けとれるようにすること(47頁)

べてるの家が持っているグループホームを借りて中古の冷蔵庫を一台買うとその冷蔵庫にセイコーマートで買えるだけの食品を詰め込んで、本人に「おなかの子の為にこの中にある食品を喰え!」という。
(本によると既にあった冷蔵庫の中へ「近くのスーパー」から買ってきたものを入れたことになっている)
町の福祉が「子供産むの無理だよ」と言う。

役場の担当者はときに声を荒げたという。
「支援、支援っていうけど、いつまで支援できるんですか。
−中略−あなた方、骨を拾うところまで援助できるっていうんですか」(47頁)

川村先生は凄い。
病院内で骨を拾う順番を決めたという。
「私がまず拾って」という。
(という話は本にはない)
「どこに埋めるんですか?」と言ったら何人か入れる墓を購入したというから凄い。
行政担当者からしてみれば福祉の枠組みからはみ出す行為を川村先生はやる。
しかし川村先生の後ろ側にはべてるの家があって、それで出産させたという。
ここからまた凄まじい福祉の戦いのような活動が始まる。
というワケで精神障害のある恵さんに子供を産ませた。
産まれてくる子供にとって何が幸せなのかがわからないから、ちょっと今のところどうなるかが凄く不安だと思う水谷譲。
男の子だったらしく、「タック」という名前だそうだ。
(番組の中で「タックン」と言っているようだが、本の内容に従って全て「タック」と表記する。この後の内容も本の内容とはかなり異なっている)
子育ては診療所でである。
診療所の待合室にこの子を置いてみんなで面倒を見るという。
手の空いた人が散歩に連れて行ったり、夜は夜で日赤保健所の人、或いはベテルの家の精神障害を持った人がおしめを替えたりして24時間体制のシフトを組んだという。
グループホームの精神障害者の人が育児に協力し、精神障害を持っておられるから「睡眠が大切」ということで夜は川村先生と川村先生の奥さんが面倒を見続けた。
朝はそのまま先生は診療室に行って診療室の待合にタックを置いておくと心に病がある人がやってきてタックのお守りをしてくれる。
最初は育児放棄があったらしい。
ところが本当に「不思議なことが起きる」としか言いようがない。
だんだんタックがそういう人達に慣れてくると、恵さんの中にお母さんが芽生え始めて、面倒を見られるように成長していく。
子供が母を育てる。
育児放棄が始まったりするとスタッフ、或いは精神障害の症状が軽い人が順番に面倒を見る。
そしてグループホームへ連れてゆく。
とにかく手の空いた人がタックを家に連れていく。
そして寄り添う。
子育てに最も大事なのは手の多さであって、育児は手さえあれば何とかなるんだ、と。

 ひがし町診療所の「みんなの子育て」は、法律や制度に縛られず、「パパっと動く」人びとの自然な思いが可能にしたことだった。(50頁)

そして一番重大なことは「責任者を置かない」。
責任者を置くとその人が支点になって重圧を被ることになる。
今まで話を聞きながら「誰が責任取るんだろう?」というふうに思っていた水谷譲。
最後は川村先生が取るのだろう。

責任論に巻き込まれない。「正しさ」や「常識」で考えようともしない。(50頁)

とにかく調子のいい人がタックの面倒を見るという。
調子のいい人が誰もいないということはあり得ないのかと思う水谷譲。
これが百人以上いるので、何とか回転する。
つまり責任者の責任ではなくて、手の多さが育児を回していく。

「(援助するのが)ひとり二人だったらね、(受ける方は)すごく不安なんです。どっさり人がいるんです。ふふふ。質より量です」
 わかりますか? 援助ってのはね、質より量なんです。
(57頁)

こういう発想。
そして一個だけ川村先生らしいのは月に一回必ず支援ミーティング。
(本によると「応援ミーティング」)
タックの子育てに関して反省、これからのスケジュール、そしてこれからの希望をみんなで検討する。
責任者よりもこれら頼りないべてるの人々が実は援助の中心になっていく。
そしてそのベテルの人達を地域社会は取り囲んでいる。

タックが育つにしたがい、大貫さんの暮らしも病状も行ったり来たりしながらではあったけれど少しずつ落ち着いている。(49頁)

「ちゃらんぽらんだったけど、母親らしくなった」(49頁)

凄いことに、恵さんの狂気も子育てに協力し始める。
これは川村さんも、それから向谷地さんも言っていたが、狂気もこっち側を見ているらしくて、だんだん小さくなる。
面白い。

 ひがし町診療所がオープンした二〇一四年五月一日、−中略−なんの宣伝もしないのにこんなに患者がやって来るのは見たことがないと、製薬会社の営業担当が驚いたという。過疎の町だというのに、開設から五年半のあいだに訪れた患者の数は千八百人を超えている。(23頁)

こんなに繁盛している精神科の病院はちょっと類がないらしい。
川村先生の診療というのは、この姿勢で心の病に対応していく。

 たとえば自分たちで田植えをし米づくりをする、−中略−石窯をつくってピザを焼くといったようなことだ。−中略−山をひとつ買って−中略−そこに「哲学の道」や「幻聴の広場」をつくりたい、あるいはヤギを飼いたい(24頁)

 医者が患者を診ているのと同時に、患者もまた医者を見ている。(26頁)

川村先生のこれは名言。
患者は医師に希望を探る。
希望を感じない医者はいつか患者から捨てられる。

どれだけ治さなくてすむかっていうか、世間が考える医療的な部分をどれだけ減らしてもやっていけるか」
 むしろ、そちらの方向を考える。
(28頁)

これを伝えて提案するのが医療の道ではないか?
この川村先生の言う

「どれだけ治さなくてもすむか」(28頁)

治すことばっかりを考える医療。
それを我々は当然と思っているが「いや、全部治しちゃダメだ」という。
治すパーセンテージを決めるという。
こういう川村先生の発想というのは凄い。
先生は言う。
医療を抑えると思いがけないことが症状に起きる。
それが完治より患者を励ますことがある。
つまり病院があったり医者が手を出すと医者の思う通りになる場合もある。
しかし、医者の思い通りにならない時にそのことが患者をより励ますことがあるという。
これはちょっとこの先生の説はややこしい。
それが待てるかどうかが医師の腕だ。
医師が何かをする、或いは何かをしない。
そのことによって病状が変化する。
よいふうにも悪いふうにも。
よいふうになった、悪いふうになった。
この二つを見極めるところに医師の腕がある、という。
これは精神障害だから、何がどうなるかわからない。

昔、水谷譲に話した。
河合隼雄という深層心理学の先生が、自殺しかかった青年をなぐさめる為に「何か言わなきゃ、この子は自殺する」という電話か何かのやり取りで。
何も思い浮かばない。
「生きなきゃダメだよ」とかそんなこと聞きそうにない子。
先生がその時に東京駅のみどりの窓口で駅員から言われた一言をポッと言った。
「のぞみは無いがひかりはある」
そうしたらその青年は態度を変えたという。
言葉はそんなもの。
これはJRの人のつぶやいた言葉。
「のぞみは無いがひかりはある」というのは列車のこと。
のぞみが無い時でもひかりはある。
それを自殺する子には何よりの希望の言葉として繋がった。
「思想家 河合隼雄」の時にも紹介されていた話)
そういうその言葉しか伝えられない何か。
それが言葉の面白さ。
そのたとえが分かるかわからないか。
ゴルフなんか典型的。
「手で打つバカがあるか!腰で打つ」って「打て無ぇよ。打ってみろ腰で」。
その「何か」に出会うまで人は模索しなければ。
それが待てるかどうかが医者の腕なんだ、という。

統合失調症の女性が出産し、子育てをする。
これは危険この上無い。
反対する福祉事務所を押し切って出産した。
母親は幻覚・幻聴があり育児放棄もあった。
だがそこに百人のサポーターが集まってみんなで育児を続行した。
するとこの統合失調症の女性の恵さんは三か月で症状が治まったという。
(このあたりも本の内容とは異なる)
夜任せられるようになった。
誰がどう責任を負うか。
そんなことではない。
「責任者決めてるようじゃダメなんだよ。入院させればみんな安心する。管理してる、収容してるという、そんな言葉で」
それが長い精神障害の治療であった。
そんな方法はすぐに役に立たなくなる。
数千万人いる高齢者の4人に1人が認知症になる時代に、隔離・管理で消すことはできない、という。
「認知症と共に生きていく」という腹をくくることが大事なんだ。
「今、のどかに景気のいいことを言っているが、プーチンさん。アンタんとこだって大変だよ、あれ。一億ちょっとの人口いますけど戦争やったPTSD等々を含めると、もの凄い人が心を傷付けてますよ」
皆さん、ここが面白い。
「来るべき未来の為に」と川村先生は言う。
来るべき未来の為にまずは地方が悩もう。
大都市でできないことが浦河ではできる。
だから率先して日本の問題を地方の浦河、人口1万2千が悩む。
解決することはもちろんできない。
しかし「何かにたどり着くことはできるよ」「ローカルが日本の為に悩むんだ」という。
ローカルが率先して日本の為に。
とにかく日本の問題を過疎のこの小さな町が先に悩むこと。
そうすると前進があるという。
人口1万2千の浦河がゆっくりと日本の未来の問題を解決する、或いは打つべき手をいくつも思いついているという。
高齢者の認知症も含めて精神障害というのは人類が抱えた宿痾・業病である。
「命の宿命」なんだという。
そのことを引き受ける。
そういう小さなローカルを持つことがいかに大事かという。
武田先生の熱量は凄い。
何かこういう希望を持っている人の姿を見たり語り合うと安らぐ。
これだけは皆さん、覚えておいてね。
「責任者を置かない」
良い言葉。
もうスタジオ中、みんな頷いている。
みんな責任者になりたくない。

北海道・襟裳岬の根本の町、浦河。
その浦河で精神医療に関して小さな診療所を始めた川村先生。
この川村医師が始めた精神障害者に対する町ぐるみの対処の姿勢を並べてみましょう。

ここでは誰もがみな対等だ。常勤医師は川村先生ひとり、あとは看護師、ワーカー、事務職員などで、非常勤を含めれば三十人ほどのスタッフがいるけれど、その全員がほぼ対等な関係にある。−中略−より個性的になって、その人でなければできない役割を担うようになる。(70頁)

問題と解決を結びつけない。

幻聴が聞こえるといえば薬を増やすのが一般的な時代に、川村先生は増やさないどころかときには減らしている。「低脳薬」になった患者は自分を語るようになり、その語りが「治療」の風景を変えていった。(77頁)

すると幻覚・幻聴が当然だがひどくなる。
ひどくなると面白いことに患者とはどんな幻覚・幻聴なのかを耐えられずに人に話すようになる。
目の前に宇宙人が見えたりなんかするというのは恥ずかしい。
人に話すと「バカじゃ無ぇの」とかと言われてしまうのが嫌。
ところが酷くなるとそれを思わず話したくなる。
話し出したら先生はそれをとにかく聞く。
看護師さん達もそれを聞く。
その幻覚・幻聴の変化を記録するそうだ。
そうすると少しずつ幻覚・幻聴が物語になる。
「そうかそうか。へぇ〜。そういうふうに出た?幻覚が。ふーん。どうなるんだろう?」先生がそうやって励ますとだんだん幻覚・幻聴が整い始める。
物語っぽくなってゆく。
そこで「面白いけど面白過ぎない?」と先生から言われると狂気も考えるらしくて狂気が訂正してくる。
それでそういう話をしているうちにその人が何を隠しているかがわかってくる。
つまり人間の弱さがだんだんはっきりしてくると、見えてくるものがある。
とどのつまり先生が言いたいのは「健常者などどこにもいない」という。
狂気の人の幻覚・幻聴を聞くうちに「その幻覚だったら俺も見たことがある」とつい言いたくなるような事態になってしまう。
そうなった時に自分の異常さとその精神の病を得た人のそれが重なる。
そういうことがある。
それがはっきりした後でどうするかというと、患者自らが自分の病名を決める。
お医者さんが診断して決めるんじゃなくて、患者さんが自分の。
それを彼の病名としてカルテに書き込むんだそうだ。
例えばどういう病名が?
「あいうえお病」というのが(早坂)潔さんがよく言っていた。
「愛に飢えている」「あいうえお病」とか、「男好き好き病」とかという、そういうの。
水谷譲に言ったのだが、武田先生も精神障害の人から「武田さんも何か病気持ってますか?」と言われて、人間ドックに通い始めた時に主治医から「過剰適応症ですね」と言われて。
「過剰適応症」というのは先生でもないのに先生のふりをという凄いストレスを感じつつ演じているという。

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役者さんはみんな過剰適応症になっている。
そうやって考えると狂気というのと物語とかそういうものがどんどん似通ってくる。
役者さんの根性なんていうのは一種狂気。
だから考えてみればスタントの人なんてそれ。
キャメラのアングルを探しておいて、そこで最も危険なことをやりたがるというのは、彼の中に狂気が無いとそんなことはできやしない。
一種異常とも言えると思う水谷譲。
その異常が芸術を生んでるんじゃないか?とかと考えると、精神の病には統合失調症、鬱病、双極性障害とか不安、発達障害等々あるのだが、自分も一種の狂気を帯びていると思えば思い当たることはいくらでもある。
女の人に恋をすることはやはり狂気。
女の人はいっぱいいる。
それを「あれじゃなきゃダメだ」と言うのだから「いい加減にしろよ」(と自分で自分に言う武田先生)
「アンタと一緒になれなきゃ死んじゃう」なんていうのがいるのだから。
かくのごとく狂気というのは遠い存在ではなくて内側に誰にでも突発的に出てくることがある。

 幻覚や妄想は、一対一で聞いてもつまらない。けれどみんなのなかで話せば、こんなおもしろいことはないというときがある。(219頁)

このみんなの笑いが精神障害者にとってどれほど重大か?
お笑い芸人にお笑いを頼るのではなくて、笑いを自分達の手で作ってみる。
そのことが実はもの凄く大事なことなのではなかろうか?と。

これで今週はお終い。
水谷譲の声を殆どふさぐようにして喋っているが、何かこの話は素敵。
皆さんもちょっと不適当な言葉がポンポン出たかも知れないが、ごめんなさい。
川村先生を語っていると、このような言葉になってしまう。
ここからまた更に面白い。
今度はこの川村先生が認知症の老人のそういうものに乗り出すという。
これは来週はお年寄りの方は聞いてね。



2025年03月08日

2025年2月3〜14日◆希望の歴史・上巻(後編)

これの続きです。

先週はとても大きな問題を提出して。
かつてニホンザル、ゴリラ、チンパンジー、様々なサルが。
あれと同じで人間もホモ・エレクトス、ホモ・フローレシエンス、ホモ・デニソワンなどいろんな種類別があった。
それが現生人類、今の私達のみが生き残って、他はみんな死に絶えた。
では何で我々は生き残ったのか?
弱肉強食説というのがあって「喰っちゃったんじゃないか?」と。
もういっぱい説があったのだが、どれもぴったりこない。
そこでこんな実験をやった人がいるそうだ。

 ここで話は一九五八年の春にさかのぼる。モスクワ大学で生物学を学ぶリュドミラ・トルートは、ドミトリー・ベリャーエフ教授の部屋のドアをノックした。動物学と遺伝学を専門とするベリャーエフは、野心的な研究を計画しており、そのための助手を探していた。(89頁)

彼らが解こうとしていたのは、どうすれば、どう猛な捕食動物をフレンドリーなペットに変えられるか、というシンプルな謎だった。−中略−家畜にはいくつか注目すべき類似点があることを指摘していた。まず、それらは野生の先祖より体が小さい、また、脳と歯も野生の祖先より小さく、多くの場合、耳は垂れ、尾はくるりと巻き上がり、−中略−生涯にわたって幼く、可愛らしく見えることだ。
 これは長年ベリャーエフを悩ませてきた謎だった。なぜ家畜化された動物は、そのように見えるのだろう。
(90頁)

 そしてベリャーエフは、−中略−人間を怖がらない個体だけを交配させて、野生の動物を、飼いならされたペットのように変えるのだ。最初に試す動物として、ギンギツネを選んだ。(90頁)

選択交配の四世代目で、キツネはしっぽを振り始めた。(91頁)

耳は垂れ、しっぽは丸くカールし(92頁)

人間を見ると寄ってくるキツネ。

「ひと懐っこいキツネほど、ストレス・ホルモンの分泌が少なく、セロトニン(幸せホルモン)とオキシトシン(愛情ホルモン)の分泌が多いのです」(93頁)

この家畜化できたキツネというのはどういう風貌かというと愛嬌があり人懐っこい。

発生生物学の用語を使えば、幼形成熟ネオテニー(おとなになっても幼体の特徴を保つこと)した。簡単に言えば、子どものようになったのである。(94頁)

これはいわゆる今、女性が好む、水谷譲なんかが求めている「小顔の子」。
全体的に丸っこくて歯が小さいという。
脳は小さく、頭蓋骨は小さくて、いわゆる小顔で、耳は垂れ、尾も丸く、共通項があるのだが家畜化された生き物は目に愛嬌があって、目がパッチリしているという。
沖縄の安室ちゃん。
安室ちゃんがいわゆる進化系。
「家畜化」と言う言葉を悪い意味にとらないでください。
これは人懐っこくて雰囲気全体に子供の特徴を持っている。
それがいわゆる家畜化には必要で

ドミトリー・ベリャーエフは、人間は飼いならされた類人猿だと言っているのだ。−中略−人間の進化は、「フレンドリーな人ほど生き残りやすい」というルールの上に成り立っていた、というのが彼の主張だ。(93頁)

今の女性アイドルの方はそういう感じが多いと思う水谷譲。
みんな人懐っこい。
それで様々な人間の種類がいる時に、現生人類はこの「人懐っこそうな顔」というのが生き残りの原因になったのではないか?
これがまさしく希望の人類史。
つまり「愛される」ということが生き残りの戦略に成り得るという。
我々は「少年の顔をした大人」に弱いし、今もそうだが「少女の顔をした成熟した女性」に弱い。
武田先生も成人週刊誌に連載を持っているから言うが、若いお嬢さん方の魅力的な水着とか半裸のカラーグラビア。

週刊大衆 2025年3月17日号[雑誌]



あれは「一体何かな?」と思ったらそれ。
幼形成熟。
肉体そのものは40、50の女性を思わせつつ、顔は少女の風貌というのに男性は弱い。
ここで一人の男、つまり幼形成熟のネオテニーの見本のような男が頭の中に思い浮かぶ。
アメリカの野球界で最もギャラの高い人(大谷翔平)。
あれは大人ではない。
(顔は)少年。
あの彼が、あのゴツいメジャーリーグの世界で、敵地からも好かれるような人気選手になったのは幼形成熟、東洋系の少年が持つ純真さが30(歳)の彼の顔にあるから。
そう思うと彼のそのいわゆる天文学的な800億円とかいうギャランティもわからないでもないし、メジャーリーグの選手を見るとゴツい。
恐ろしい。
はっきりいって大谷選手は怖くない。
しかも選んだ奥様がいい。
あれはもうバスケット少女。
あの二人は誰も何も言えないと思う水谷譲。
大谷の周りには金髪のいい女とかもいただろうに、そっちに行かなくて彼女を射止めたというのはまるで少年と少女のような。
しかも耳の垂れた犬を飼っているという。
これがまた「よく言うことを聞くんだ」という。
そうやって考えると幼形成熟説はまんざらでもない。
「我々は人懐っこい風貌をしているから生き残ったのではないだろうか?」という。
私達は集団で暮らす命、そういう命をデザインされている生き物。
そのためには自分の集団を愛するホルモン、オキシトシンとセロトニン、「愛情と幸せのホルモン」を体内の中にたくさん蓄えている。
他にいろんな人類もいただろうが、私達、現生人類が最もたくさんオキシトシンとセロトニンを与えられた種だったのではないだろうか。
最大の欠点は何か?
これはこの本の著者が言っている実に鋭いところだが。
このオキシトシンとセロトニンが多ければ多いほど愛情と幸せをきちんと知っているという、そいういうホルモンが多ければ多いほど他の集団に対して残酷になる。
やはり自分とこの集団がかわいらしいから。
しかしルトガーというこの著者は、希望を説く。

『暴力の人類史』である。(110頁)

暴力の人類史 上



二一か所の遺跡で見つかった骨の中で、暴力による死の兆候を示すものの比率は? 一五パーセント。今も狩猟採取の生活を続ける八つの部族における暴力による死の比率は? 一四パーセント。二つの大戦を含む二〇世紀全体での暴力による死の比率は? 三パーセント。現在のその比率は?
 一パーセント。
(111頁)

確実に減っている。
希望はある。

番組冒頭からこんなことを言うのも何だが、もし通学途中でこの番組を聞いている若い人がいたら、短い時間だから今日は最後まで聞いていってね。
そんな話をしたいと思う。
この本の著者ルトガーさん、オランダ人の方。
人間について徹底して調べている。
この人は戦場に行って兵士にインタビューしている。

 一九四三年一一月二二日の夜半、太平洋のギルバート諸島のブタリタリ環礁−中略−では、−中略−米軍と日本軍との戦闘が始まった。米軍の攻撃は計画通りに進んでいたが、奇妙なことが起きた。
 大佐で歴史家のサミュエル・マーシャルは、陸軍公認の戦史家として従軍していた。
(112頁)

日が落ちると日本軍が奇襲攻撃を仕掛けてきた。−中略−日本軍は人数こそ少なかったが、米軍の戦列を崩すことにほぼ成功した。
 翌日、マーシャルは、何が悪かったのかと考えた。
(112頁)

兵士全員を集めて、グループに分け、自由に話すことを求めたのである。−中略−こうしてマーシャルが知ったのは、驚くべき事実だった。
 昨晩、ほとんどの兵士は一度も発砲していなかったのだ。
(112〜113頁)

アメリカ軍で上官から「撃て!」と命令されて真っ暗闇の中でそういう命令が下ったのだが、突っ込んでくる日本兵に向かって銃を撃った人がいなかった。
これ。

 マーシャル大佐は、最初は太平洋戦線で、次にヨーロッパの戦場で、兵士たちとのグループ・インタビューを重ねるにつれて、戦場で銃を撃ったことのある兵士は全体の一五〜二五パーセントしかいないことを知った。−中略−「彼らが撃ったのは、わたしや他の上官が見ている時だけだった」(113頁)

理由は一つ。

普段は意識していないが、人を殺すことに抵抗があり、自分の意志で人を殺そうとはしない」(114頁)

これは今もウクライナの戦線あたりではある話ではないか。
このマーシャルさんの説はアメリカ国防省が躍起になって否定したそうだ。
「そんなことがあるか!」
ところがマーシャルさんが言いだすと他の大佐や中佐も加わって「俺んとこもそうなんだよ」と言い始めた。
戦場に於ける銃撃戦は凄い。
何であの撃ち合うイメージなのか?
これをルトガーさんは「ハリウッド映画の影響だ」という。
確かに今、思い浮かぶ光景というのは映画の光景だから、リアルな戦場は見ていないからわからないと思う水谷譲。
ニュースでも「ウクライナ戦争を撮影しろ」と言ったら大砲を撃っているところを撮りに行く。
ところが意外と静かで撃ち合わないという。
戦場に於ける銃撃戦のイメージは半分ぐらいハリウッド映画によって作られたイメージではないだろうか?
この後、若い人、聞いて。
学校に行ったら友達に話して。

ハリウッド映画によって作り上げられた暴力のイメージと現実の暴力は、ポルノと現実のセックスが違うのと同じくらい違う。(119頁)

これはごめんなさい。
ハッとした。
アダルトビデオとか見ると信じてしまう。
十代の時「はっはぁ〜!こうなってんのか」とか思った。
それをお手本にする方も多いんじゃないかと思う水谷譲。
それはそんなふうに思う。
このルトガーさんがはっきりおっしゃっているのは「戦場に於ける銃撃戦とポルノ映画のセックスシーンは現実には殆ど無い」。
それは長い人生を振り返って、あれは無い。
それをやはり十代の時は信じた。
「はっはぁ〜!」「あそことあそこを責めるのか」という。
こういうことで「人類の本能、殺人の本能とか、性の本能とかというのもメディアの誇張が入ってますよ」という。
ルトガーはそのことをメディアリテラシーというのか、メディアを読む力で持っておかないとダメで、若い諸君に言いたいのは「アダルトビデオなんかで見かけるシーンは君の人生に殆ど起きません。そのことを覚えておこう」。
人類というのは本当に面白いもので「強さ」「賢さ」「狡さ」とかいっぱい人類の特徴が。
「それゆえに生き残った」と言うが、人類史の中でルトガーが確認したのは「人類が生き残ったのは人懐っこいから」。
「人懐っこい」というはどういうことか?
これは若者、聞いてくれよ。
これはルトガーが叫んでいることだが、それは「協力します」と顔に書いてある人が「人懐っこい」。
「何に関しても協力しますよ」という顔をした子。
今、我々に要求されていることはこういうことで、この間も深夜の討論会で「トランプ外交に石破で大丈夫か」というのを激論するのでおっしゃっていたが、武田先生は石破さんの中に愛嬌を感じる。
あの人の微笑みは何だか石仏みたいな笑顔でいい。
「石仏」というのも何だが。
頑張って欲しい。
人の容貌はけなすより褒めてあげよう。

人間の中にあるもので希望を見つけようという。

仮に文明が始まってから今日までの年月を一日に置き換えてみれば、二三時四五分まで、人々は実に惨めな暮らしを送っていた。(150頁)

(番組では11時55分と言っているが、どこから出てきた数字なのかは不明)
その中で人類はとてつもない残酷なこともやったワケで、アウシュビッツ、ホロコースト、そして専制者による悲劇が続いていて。
だから人間というのは天使ではない。
「天使ではないから悪魔なんだ」という方もおられる。

こんな実験。
科学はいくつもの悪の証拠を実験で提出している。

 一九七一年八月−中略−その日の午後、若い犯罪者たち(本当は無実の学生たち)は、スタンフォード大学の四二〇号棟の石の階段を降りて、心理学部の地下室へ向かった。「スタンフォード郡監獄」という表示が彼らを迎える。階段の下で彼らを待っていたのは、九人の学生からなる別の集団で、全員が看守の制服を着て、−中略−ほんの数日で、スタンフォード監獄実験は制御不能に陥るのだ。(183頁)

これは「人間の心の中に悪魔があるからだ」という結論。

 スタンフォード監獄実験よりさらに有名な心理学実験があり、−中略−スタンレー・ミルグラムだ。−中略−一般人五〇〇人を募集する、と書かれていた。−中略−被験者は二人一組になり、くじを引いて、一人は「先生」役、もう一人は「生徒」役になる。先生は大きな装置の前に座るよう指示され、それは電気ショック発生器だと教わる。−中略−生徒は隣の部屋で椅子に縛られており、声だけが先生に聞こえるようになっている。こうして記憶テストが始まるが、生徒が答えを間違えると、先生は研究スタッフの指示通りにスイッチを押して、生徒に電気ショックを与えなければならない。(204〜205頁)

 電気ショックは一五ボルトという弱い電圧から始まる。(205頁)

その裁量は先生に全て委ねられていて、450ボルトまでの威力があるそうで、450というのは命の危険があるから相当不味い。

被験者の六五パーセントが電圧を上げ、ついには最大となる四五〇ボルトの電気ショックを生徒に与えたのだ。−中略−見知らぬ人を感電死させてもかまわないと思ったのである。(205〜206頁)

 ミルグラムは−中略−最初からこの研究を、ホロコーストの究極の説明として発表した。−中略−人間は命令に無批判に従う動物だ、と彼は言う。(206頁)

「ミルグラムの実験」というので、これは人間の残酷さを示す実験として非常に有名で。
これが面白い。
2017年のことだが、著者ルトガーはこの実験が信じられなかった。
ルトガーはしつこい。
実験に参加した500人を探し求めて詳しく実験の中身を聞いたそうだ。
この人は人間のいわゆる希望に対して執念の人。
このミルグラムの電気ショック心理実験は今でも取り上げられて、人間の心理の奥底に潜む残酷さの証明実験に使われるのだが、何と驚くなかれミルグラムはこの実験を始める前に台本があったそうだ。
そして電気は入っていなかった。
先生役で死を意味する450ボルト以上上げた人も500人の中にいた。
(最大が450ボルトなので、それ以上上げることはできないと思われる)
ところがこれは横にいたミルグラムが「上げれば。上げれば」と指示したという。
電流が本当は入っていないということを直感した人もいたし、直感できなかった人もいるのだが、直感できなかった人は「ミルグラムさんからそう言われたから上げた」。
やらせみたいなことだと思う水谷譲。
そしてプラス450まで上げた人はギャラを貰ってすぐに帰れた。
それだったら武田先生だってすぐ450にする。
ギャラが何ドルか(一時間につき4ドル)貰えるワケで。
この450を一発で上げてさっさと帰る人もいたというので、人間の残酷さとは全く関係のない実験がミルグラムの電圧実験。
スタンフォード実験も追試者を集めると、こういう結果にしたいという旨が博士から伝えられていた。
こういうのを考えると人間の残酷さというのを、すぐにナチスを持ち出して例えて考えるのはあまりよくないぜ、と。

そしてこのルトガーはさらにナチのアイヒマンの裁判記録を丁寧に調べる。

元ナチス親衛隊中佐(218頁)

大量虐殺。
アイヒマンとかいう人は600万人ぐらい殺しているワケで

アドルフ・ヒトラーか上官の誰かからの明確な指示がなければ、私は何もしなかった」と、アイヒマンは法廷で証言した。−中略−同じ嘘を、後に無数のナチス党員が繰り返すことになる。「わたしはただ命令に従っただけだ」と。(219頁)

公式の命令はめったに出されなかったので、ヒトラーの信奉者たちは自らの創造性に頼らざるを得なかった。彼らはただ指導者に従うのではなく、総統の精神に沿う行動をして「ヒトラーに近づこうと努めた」(220頁)

ミルグラムの被験者と同じく、自分は善を行っていると確信していたので、悪を行ったのだ。(219頁)

この人(著者のルトガー)は徹底して個別の問題を扱っている。
事実というものを見つめ直すと違うものがどんどん浮き出てくるぞ、という。
その事件の一つ一つを書いてあるものだから、ページ数がもの凄く必要。

一九六四年三月一三日、午前三時一五分。キャサリン・スーザン・ジェノヴィーズは−中略−オースティン・ストリートの、地下鉄の駅にほど近いパーキングに車を停めた。−中略−
 誰もがキティと呼ぶ彼女は、
−中略−二八歳、−中略−アパートへ急いで戻るところだった。(230頁)

 三時一九分、夜の街に叫び声が響いた。−中略−
 暴漢はいったん姿を消したが、また戻ってきた。男は再びキティを刺した。
−中略−
 誰も出てこない。
−中略−近隣の数十人は、−中略−窓から眺めるだけだ。−中略−
 男が再度、戻ってきた。キティは自分のアパートの建物のすぐ内側にある階段の下に横たわっていた。
−中略−
 男はキティを何度も刺した。
 三時五〇分、警察署に最初の通報があった。
−中略−二分以内に警官が到着したが、もはや手遅れだった。(230〜2301頁)

三月二七日、−中略−ニューヨーク・タイムズ紙の一面には「殺人を目撃した三七人は警察を呼ばなかった」の見出しが掲げられた。記事はこう始まる。「クイーンズ地区キューガーデンの遵法精神に富む立派な市民三八人は、三〇分以上にわたって、殺人犯が女性を三度襲うのを見ていた」。そして記事は、キティは今も生きていたかも知れない、と語る。刑事の一人が言うように、「通報の電話がありさえすれば」。(231頁)

国内のメディアはニューヨーク・タイムズをきっかけとして目撃者38人を罵倒する。

牧師は、アメリカ社会は「イエスを十字架にかけた人々と同じくらい病んでいる」と語った。(232頁)

日本、イランを含む世界各国で、キティの死は大々的に報じられた。ソ連の新聞、イズベスチヤはこの事件は資本主義の「ジャングルにおけるモラルの欠如」の証拠だと記した。(232頁)

この事件を説明する時に最も応用されたのが、昨日も言ったスタンフォード大学の監獄実験とか電気ショック事件だそうだ。
「ほら、見てごらん。人間の心なんざ、悪なんだよ」という。
この実験がこの事件を挟んで、世界中で有名になったという。
著者は凄いことにこのメディアの報道した悪についてもう一度自分で調べ直している。
この著者は凄い。
社会心理学者の人達と一緒にこの事件をもう一度調べ直すと違う側面が見えてくる。
窓を開いた住人達。
その駐車場が見下ろせた人達の38人は全員その物音と気配、ただならぬ様子を「これは不味いな」と思って。
だから誰かが警察に電話をすればよかったのだが、何と38人の人が同時に「誰かが電話してる」と思ってしまった。
もの凄い悲劇なのだが、これがただ一人の人が聞いていたら直ぐに警察に電話している。
しかし38人が窓を開けて見下ろしているので、「誰かが電話しているハズだ」と。
それで、38人が誰一人とも電話しなかったという事実を作り出している。

彼女の夫は警察に通報しようとしたが、彼女は夫を引き留めた。「通報の電話はもう三〇本以上、かかっているはずよ」と言って。(235頁)

その奥さんがさめざめと泣いて「ああ・・・しとけばよかった」と言う。
(という話は本の中には無い)

被験者は大学生で、閉めきった部屋に一人で座り、同年代の学生数人とインターコムで学生生活についておしゃべりするよう指示される。−中略−まもなく、誰かがうめき始める。−中略−この叫びを聞いたのは自分だけだと思った被験者は、廊下に駆け出した。−中略−しかし、最初に、近くの部屋に他に五人の学生がいると説明され、その五人も叫び声を聞いていると思い込んだ被験者では、六二パーセントしか行動を起こさなかった。これが傍観者効果だ。(234〜235頁)

それは何かというと「あんな大きな声だもの、誰かが行っている」。
これは人間性とは全く関係がなく、著者ルトガーは「隣人を信じられる」と主張している。
ホッブスの人間闘争進化論、ダーウィンの自然淘汰、ドーキンスの利己的遺伝子、アダム・スミスのホモ・エコノミクス「カネのことを考えることで生き残った」と、人間の性善説を激しく否定する理論とされているけれども、人間は経済を離れて、利己的遺伝子を離れて、弱肉強食を離れて、闘争進化論を離れて性善の「善」を持っている。
「そう信じようではありませんか」とルトガーは説く。
これが上巻。
下巻の方はまた折を見て、来週はまた別のネタで。




2025年2月3〜14日◆希望の歴史・上巻(前編)

大きいタイトルの本。
これはもうそのものズバリ
文藝春秋社、上下巻。
ルトガー・ブレグマンさんという方が書いた「Humankind(希望の歴史 )人類(が善き未来をつくるための18章)」という大きいタイトルの本。

Humankind 希望の歴史 上 人類が善き未来をつくるための18章



副題が「希望の歴史」。
(多分副題ではない)
人間というのをどう見るか?
大上段。
こういう本を見るとうずく武田先生。
でっかいタイトルが好きなので、自分の些末な出来事を一瞬忘れさせてしまう大きいテーマの本。
これはどんなふうに水谷譲に説明しようかなと思ったのだが、とにかく1ページ目から書いてあることをそのまま水谷譲にわたしていく。

 一九四〇年九月七日、三四八機のドイツの爆撃機がイギリス海峡を越えた。(13頁)

ヒトラーは司令官らに攻撃計画を伝えた。「然るべき時に、ドイツ空軍によって容赦ない攻撃をしかければ、英国人の戦意をくじくことができるだろう」と。(13頁)

数百万の市民が恐怖心に圧倒されるだろう。ヒステリックな暴動が起きるから、−中略−とチャーチルは予測した。(12頁)

ぎりぎりのタイミングで、精神病院がいくつか郊外に急造された。(13頁)

続く九か月間、ロンドンだけで八万超の爆弾が落とされた。−中略−数か月にわたって爆撃を受けたら−中略−市民はヒステリックになっただろうか。野蛮人のようにふるまっただろうか。(14頁)

空襲下のロンドン市民はどのようにパニックになったか?というのを記録として残っていないかと探す。
これが不思議なことに死者4万人を出しているのだが、さしたるパニックが起こっていない。
みんな空襲の警報が鳴るとバーっと地下に隠れて逃げて、通り過ぎるのを待つということを繰り返す。
空襲下に於いても空襲警報が鳴るまで普通の商売をやっていた。

空襲で破壊されたデパートが、「営業中。本日から入り口を拡張しました」とユーモアあふれるポスターを掲示したのは有名な話だ。また、あるパブの経営者は、空襲の日々にこんな広告を出した。「窓はなくなりましたが、当店のスピリッツ(アルコール、精神の意味もある)は一流です。中に入ってお試しください」(15頁)

「ドイツ人が爆弾を落とすならその下でみんな飲もうや」という。
こういう類例がたくさんあがってきた。

精神への影響はどうだったのだろう。専門家が予測したように、数百万人が心に傷を負っただろうか。不思議なことに、そのような人はどこにもいなかった。確かに悲しみと憤りはあった。−中略−この時期、英国人のメンタルヘルスはむしろ向上した。アルコール依存症は減り、自殺者数は平時より少なかった。(15頁)

「空襲の時期、隣人たちはすばらしく協力的だった」(19頁)

「英国の社会は大空襲によっていろいろな意味で強くなった」と、英国の歴史学者は後に書いている。「その結果を知って、ヒトラーはがっかりした」(16頁)

イギリス空軍も慣れてきて迎撃されるようになってしまう。
こういうことを前提にすると「人間の見方そのものが、今まで少し間違ってるんじゃないか?」という。
空襲は効果がないということをヒトラーに人々は学ぶべきだ
空から攻撃すれば人民は怯え続けると思っているという。
これは伝え方が悪いんじゃないか?とルトガーはこんなことを言う。
実はこの伝わっていないものの中に人類の希望があるのではないか?
だから不幸というのをもっと正確に読み込んでみようや、という。
ここから皆さん、早春なので希望のある話が続く。
是非春先の希望、これを当番組(「今朝の三枚おろし」)で見つけていただければと思う。

これはどの番組でもそうだが、武田先生も時々間違えて呼ばれて。
時事問題を扱うワイドショーの番組に呼ばれたりするのだが「103万円の壁」とかという話題になると何も発言できない。
ああいう話になると東野幸治君とか強い。
それからEXITの髪の毛を染めた人(恐らく兼近大樹)。
とにかくあんな若いのにやたら強い。
ごめんなさい。
本当、(武田先生が坂本金八役で出演した「3年B組金八先生」で山田麗子役だった)「三原じゅん子議員」しか知らない。
センスが無い。
ごめんなさい。

自分を反省している時に見つけたのがこの「希望の歴史」だった。
このルトガーというのはオランダの人なのだが、この人が声を大にしておっしゃっているのが

 人間は本質的に利己的で攻撃的で、すぐパニックを起こす、という根強い神話がある。(24頁)

そのことを一番叫んでいるのは何か?
メディアである。

わたしが「ニュース」と呼ぶのは、偶発的でセンセーショナルな事件を報じる、最も一般的なジャーナリズムだ。欧米の成人の一〇人に八人は、毎日ニュースを見たり読んだりする。ニュースを知るために平均で一日に一時間を費やしている。(37頁)

しかし、それが本当かどうか検証した人は一人もいない。
ルトガーという人はここに疑問を持った。

 二〇〇五年八月二九日、ハリケーン・カトリーナがニューオーリンズを襲った。市を守るはずだった堤防と防潮壁が壊れた。家屋の八〇パーセントが浸水し、少なくとも一八三六人が亡くなった。カトリーナは米国史上最も破壊的な自然災害の一つになった。
 それからの一週間、新聞の紙面は、ニューオーリンズで起きたレイプや発砲事件のニュースで埋まった。うろつくギャング、略奪行為、
−中略−最大の避難所になったスーパードームには、−中略−二人の幼児がのどを切られ、七歳の子どもがレイプされて殺された、と新聞が報じた。
 警察署長は、市は無政府状態に陥っていると語り、ルイジアナ州知事も同じことを恐れた。
(24頁)

ガーディアン紙に寄せたコラムにおいて、多くの人の考えを代弁した。−中略−人間は数時間内にホッブズが唱える自然状態に戻ってしまう。すなわち、万人の万人に対する闘争という状態だ……。−中略−大半の人はサルに戻る」−中略−ニューオーリンズは、「人間の本性も含む、自然という沸き返るマグマを覆っている薄い地殻に、小さな穴をあけた」(25頁)

 およそ一か月後、ジャーナリストが去り、−中略−研究者たちはようやく、ニューオーリンズで本当は何が起きたかを知った。
 銃声のように聞こえたのは、ガソリンタンクの安全弁がはずれる音だった。スーパードームで亡くなったのは六人。うち四人は自然死で、一人は薬物の過剰摂取、もう一人は自殺だった。警察署長は、レイプや殺人に関する公式の報告は一件もなかったことをしぶしぶ認めた。実をいうと、略奪は起きたが、ほとんどは、生き延びるためにチームを組んで行ったもので、一部は警察が協力していた。
(25頁)

(亡くなった人数等は番組の内容とは異なる)
それを「集団略奪が起こった」と新聞が書いてしまった。
ニューオリンズの洪水の犯罪報道の大半が社会の為の非常時行動であって、その結論を数年後メディアに報告した。
この科学者達、研究者達が「あの記事間違ってます」「この記事間違ってます」というのをことがちゃんとわかって数年後。
調べるまで数年かかったらしい。
それこそフェイクだった。
それを訂正すべきだったのだが、もう2年近く経っているので「もう今更訂正しても」みたいな。
そういうことだったらしい。
(このあたりの話は本には無い)
これをこの本の著者は「こんなことでいいのだろうか?」と。
そしてもう一つ、私達が肝に銘じなければならないのがメディアがニュースになると思って飛びつくのは悪の報道であって、この事実にルトガーは「気づけ」というワケで。
こんなことを言っているのはこの番組だけ。

この本は武田先生にとってショックだった。
文藝春秋社刊だが「Humankind 希望の歴史」という上下巻。
オランダのジャーナリスト・歴史家のルトガーさんという方が書いた本。
今、希望の無い時代に生きていて、経済学者の方はもう「日本もどんどんどんどん経済的に落ちていって、もう先進国から零れ落ちる」という。
年明け早々からトランプ旋風を警戒してみんな身構えている。
ニュースを見ていても悪いニュースとか嫌なニュースが続いた後に「お爺ちゃん・お婆ちゃん達が集まって餅つき大会が開かれました」みたいなの(が始まると)一回「ま、いっか」と思って席を立って、そのニュースは見ず、また戻ってきてスポーツニュースが始まる水谷譲。
トップニュースはだいたい殺人系列。
「爺さん婆さん殺された」とか「爺さん婆さんが殺した」とかそういうニュース。
「若いヤツが詐欺やってるぞ」とか「まあいよいよ不況が始まったぞ」とか「隣の国のCという国が日本の領土近くに船を出して」とか「隣国のあの国は大揉めに揉めてるぞ」というような。
これは何か?
何でこんなに水谷譲の周りには暗いニュースが多いのか?
それは「暗いニュースを敢えて強く流しているから」というのと、「私達が実は暗いニュースを欲している」と思う水谷譲。
実は水谷譲が陰惨なニュースを毎日、朝起きてすぐ探しておられる。
これは水谷譲のせいではない。
水谷譲の体の奥底にある遠い遠い縄文の頃からの知恵で。
遺伝子の中に入っていて、今日起きる悪いことをざっと想定して一日を始める。

心理学者が「ネガティビティ・バイアス」と呼ぶものだ。わたしたちは良いことよりも悪いことのほうに敏感だ。狩猟採集の時代に戻れば、クモやヘビを一〇〇回怖がったほうが、一回しか怖がらないより身のためになった。人は怖がりすぎても死なないが、恐れ知らずだと死ぬ可能性が高くなる。(37頁)

 二つ目の理由は、アベイラビリティ・バイアス、つまり手に入りやすい(アベイラブル)情報だけをもとに意思決定する傾向である。何らかの情報を思い出しやすいと、それはよく起きることだと、わたしたちは思い込む。(37頁)

ニュースラインを読んでみてください。
あれは悪いことからずっと流れてくる。
悪いニュースから流していく。
だから悪いニュースがたくさんの人に読まれやすい。
悪いニュースは画面に溢れているのではなくて、溢れるように画面が構成している。
ニュースはタダが一番で。
だから噂を聞くとバーっと広がる。
フェイクはそう。
「動物園からライオンが逃げ出したらしいぜ」というのが載っていると信頼性が無くてもすぐ信用していまう。
これは典型的。
縄文時代と同じ。
「あそこの道は毒蛇が多いよ」というようなもの。
「〇〇動物園から地震の際にライオンが逃げ出した」なんていうのは、誰でもすぐに「逃げ出したらしいよ」と人に伝える。
たちまちフェイクが広がってしまう。
つまり私達は悪いニュースを探しながら生きている。
だから「そのことを前提に生きていかなやダメですよ」という。
これは考えさせられる。

もう一つ人間の面白い本能。
今、時代の中で顕著に出ている。
悪い物語が好き。
NetflixとかDisney+とか相撲界の裏側、「地面師(たち)」。
つまり人間は悪い物語が好き。
こういう話をルトガーは挙げている。

一九五一年に英国のウイリアム・ゴールディングが書いた小説だ。−中略−「無人島で暮らす少年たちの話を書いて、彼らがどんな行動をとるのかを描くというのは、良い考えだと思わないかい?」
 その著書、『蝿の王』
(47頁)

これはイギリスに於いて大ヒットする。
少年達が深作(欣二)さんがやろうとした「バトル・ロワイアル」。

バトル・ロワイアル



少年少女達の殺し合い。
これが大ヒットした。
少年達が相争って命をかけて戦うというのが、イギリスは伝統的に大好き。

三〇を超す言語に翻訳され(47頁)

やがてゴールディングはノーベル文学賞を受賞した。(48頁)

では「蝿の王」というこの大ヒットの物語はどんな物語か?
今、映画化するとこれは受ける。
漂流した少年達の対立と殺し合い、生存の殺し合いを描いた物語で大ベストセラーになる。
これは何でこういう本が売れたかというと1951年、第二次大戦が終わって、ナチスのアウシュビッツ等々の悪が暴露されると「人間てのはこんな悪魔みたいなことができるのか」ということで、人間が実は心の奥底にもの凄くドロドロした汚い悪を隠している生き物であるという。
それが少年もケダモノになるという。
今も人気の「ハリー・ポッター」。
博多弁で「ハリー・ボッター」。
博多弁とか関係ないと思う水谷譲。

ハリー・ポッターと賢者の石 (吹替版)



これはでも、凄い言葉。
ハリー・ポッターが言った名言だが「呪われた子」。
パート1でハリー・ポッターは「呪われた子である」という。
それがいじめの現場でしょっちゅう使われるようになったという。
ハリー・ポッターの影響らしい。
私達はこういう暗い悪の物語を好む傾向にあるという。
このルトガーという人を「信じてみようかな」と思ったのは、この「蝿の王」という、少年が「バトル・ロワイアル」、漂流少年が「命を賭けて生存の為に殺し合う」という。

無人島に子どもたちしかいない時に、彼らがどう行動するかを、実際に調べた人はいないのだろうか?(49頁)

 こうして、わたしの現実の『蝿の王』探しが始まった。(49頁)

この人の執念は凄い。

しばらくウェブ上を探し回った末に、−中略−興味深い話を見つけた。「−中略−六人の少年がトンガから釣り旅行に出かけた。……大きな嵐に遭い、船が難破して、少年たちは無人島にたどりついた。(50頁)

8日間の漂流の末、アタという岩だけの孤島に流れ着いた。
そこで1年3か月、その岩だけの孤島で過ごした6人の少年がいたという。
子供6人だけでそんな何にもないとこで生きられるワケがないと思う水谷譲。
水谷譲は「ハエ」だと思っている。
1年3か月後、この6人全員助かっている。
(この後の説明はところどころ本の内容とは異なる)
何でトンガから出航したかというと子供らしくて「〇〇の海まで行くと魚が釣れる」というので人んちの船を持ち出している。
それが嵐に遭っている。
それで8日間漂流した末にアタなる岩だらけの孤島に流れ着き、彼等は上陸した後、流木で火を作り、6人のうち誰かが何時間毎に起きるということで火を守り続け、島のココナツの殻を集めて浜辺に敷いて雨水を貯める貯水タンクを作り、火も一点だけだと危険なので一個火ができると点々と島のあちこちに火をくべて火を保存。
船と一緒だったものだから、それにあった野菜、そういうものをわずかな土に植えて、畑を作り、罠で捕らえた鳥を飼い卵を手にし、魚を釣り浜の生け簀で保存。

変わったダンベルのあるジムと、バドミントンのコートと、鶏舎があり(59頁)

子供にそんなドラマや映画みたいなことはできないと思う水谷譲。

流木と半分に割ったココナッツの殻−中略−を使って、ギターを作り、それを弾いて仲間を励ました。(59頁)

そして1年3か月後、商船に発見されトンガに戻り、トンガに戻った後、6人全員少年感化院に入れられている。
「人んちの船、勝手に持ち出した」というので。
かわいそう。
それで窃盗で取り調べと刑期を終えて出てくるのだが、トンガの町で評判になる。
(本によると救出した船長の機転ですぐに監獄から出ている)
何が評判になったかというと「よく6人で生きてたね。ウソ!」というおばさん達とか。
いつの間にか彼等は町の人気者になったという。
これはルトガーは言っている。

 アタ島の六人の男の子の心温まる物語は、例外的なものだろうか。それとも深遠な真実を語っているのだろうか。他に例のない逸話だろうか。(69頁)

しかし小説「蝿の王」では他者、友達のことは考えない「汚物にたかるハエ」になる。
だが、事実としてあるのは誰も命令していないのに蜜を集め、見事な巣を作った。
人間はハエであるかハチであるか?
これは人間について今も続く論争であって結論は出ていない。
しかし、「ハチになった少年」という事実は消えない。
このへん、ルトガーの面白さ。
子供達の漂流の話は、にわかに信じがたい思う水谷譲。
水谷譲が信じられない話がある。

最近、ちょっと武田先生はスカタンこく。
「スカタンこく」というのは「乗りそこなう」とか「失敗する」とか「すべる」。
博多弁で言うと「スカタンこいた」。
何か「ズレちゃった」という。
この間、何かの番組に出た時(の話)。
子供は変な遊びをやる。
「赤粘土の玉づくり」という、そういう遊びがあった。
平成、令和の人にはわからない。
武田先生は昭和の貧しい子。
何か遊びたくてしようがないので「赤玉作り」というのがあった。
これは何かというと赤土を持ってきてガラスの板にこすりつけて丸くする。
それをパチンコの玉よりも硬くして、綺麗なキンキラキンの金属みたいな光を持つ赤粘土の玉を作る。
それをみんな小学校の生徒達が机の下の手でずっと授業中も回している。
何であんなことをやっていたのか?
それで赤土はどこにでも無くて一か所だけ小学校に赤土がある場所がある。
それが校庭の隅にある相撲の土俵。
そこから指でバッと赤土を盗んできて丸める。
ところがその小学校の男子生徒が全員赤玉作りをやるものだから、ボコッと削げた。
そこで校長先生が「赤玉作りはやめなさい!」という朝礼をやっても、それでもまだやっていたという。
いい話だと思う水谷譲。
それがスタジオで全く受けなかった。
麒麟の川島(明)さんといういい声の人から静かな声で「もう終わりました?」と言われて、「ああ、スカタンこいた」と思った武田先生。
結構あること。
こうやって時代とだんだんチグハグになってゆくという。

人間がハエであるかハチであるかという論争は続いている。

 これは、何百年にもわたって哲学者が取り組んできた問いだ。英国の哲学者トマス・ホッブズ(69頁)

自然状態における人間の生活は、「−中略−おぞましく、野蛮で−中略−
 その結果は? ホッブズによれば「万人の万人に対する闘争」
−中略−混乱を抑制し、平和な社会を築くことは可能だ。−中略−体と心を、ただ一人の君主に委ねるのである。ホッブズはこの独裁者を、聖書に登場する海の怪獣にちなんで「リバイアサン」と名づけた。(71頁)

これがトマス・ホッブズの考え方。
ところがすぐに同じ17世紀にフランスではジャン=ジャック・ルソーが生まれた。

 官僚や王が生まれる前、すべてはもっと良い状態だったとルソーは主張する。「自然状態」でいたころ、人間は思いやりのある生き物だった。(73頁)

「アダムが畑を耕し、イブが機を織っていた時、誰が貴族であったか?」
(という言葉は本の中には無い)
このトマス・ホッブズとジャン=ジャック・ルソーの戦いは今もまだ続いている。
これは科学でもそう。
ダーウィンの「弱肉強食」。
「弱いヤツを喰って生き残ったヤツが今なんだ」という。

英国の生物学者リチャード・ドーキンスは、遺伝子が進化に果たす役割を述べた自らの最高傑作『利己的な遺伝子』を出版した。それを読むと、わたしは気が滅入ってくる。−中略−「わたしたちは利己的に生まれついているのだから(79頁)

このダーウィンの「弱肉強食」、ドーキンスの「利己的遺伝子」の中から学説として現生人類、今の人類の始まりはネアンデルタール人を喰ったんじゃ無ぇかという。

ドイツ、ケルンの北にある石炭岩の採石場で、二人の鉱夫が生涯忘れられない発見をした。それはかつてこの地上を歩いた動物の中でも最も激しい議論を呼び起こすことになる動物の骨だった。−中略−
 その週、地元の新聞は、ネアンデル谷での驚くべき「フラットヘッド(平たい頭)族」の発見について報じた。
−中略−
 その骨は現生人類のものではなく、異なる人類のものだ、と。
(84〜85頁)

 現在、多くのヒト族が発見されている。ホモ・エレクトス、ホモ・フローレシエンス、ホモ・デニソワン(86頁)

私達だけが生き残っている。
「何で生き残ったんだよ?」というのが現代科学の謎。
一つは「強かったから」「賢かったから」「宗教を持っていた」「国を作ることができた」「協力する集団であった」。
集団で他の集団を殺すような集団であったから現生人類が生き残った。
もしかしたら旧人類を食料として喰ったのかも知れない。

イスラエル人の歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリは推測する。「サピエンスがネアンデルタール人に出会った後に起きたことは、史上初の、最も凄まじい民族浄化作戦だった可能性が高い」(88頁)

(本によると食人に関する話はハラリではなくレイモンド・ダート)
ところがこれは最近崩れた。
ネアンデルタール人を現生人類が喰ったというのだが、ネアンデルタール人の骨がきちんと出てくる。
皆さんもケンタッキーフライドチキンを喰った後、鶏の形に綺麗に骨を埋めたりしない。
喰うと骨はバラバラ。
ところがネアンデルタール人の骨は綺麗に骨が繋がって出てくるので、「喰った」というのは無いのではなかろうかという。
「ではなぜ俺達は人間になれたんだ?」というのは、興味深い。
こんなことを言っていたら現代の番組から浮く。
スカタンこく。
ではスカタンこき続けの武田先生が、このルトガーさんの説に従って人類の希望を見つけていこうと思う。



2025年02月24日

2025年1月6〜17日◆運のいい人(後編)

これの続きです。

中野信子先生の「運のいい人」という著作を取り上げて三枚におろしている。
中野先生は脳科学者だから、あくまでも立場は科学的。
中野先生がその著作の真ん中ぐらいに書いてらっしゃる言葉。
運のいい人とはどういう人か?
中野先生は繰り返しおっしゃっている。

 自分は運がいい人間だ、と決め込んでしまう。
 これが運をよくするコツのひとつです。
(70頁)

これは自分を暗く認識すると自分がどんどん不自然になっていく。
これに対して、まず自分を明るく保つ。
これがもの凄く大事なんですよ。
自然というのはわかりにくいかも知れないけど自然のままなんです。

セロトニンとメラトニンを十分に分泌させるためには、もともと体に備わっているサーカディアンリズムにのっとった生活をすること、すなわち朝は早めに起きて朝日をしっかり浴び、夜は早めに就寝することが大事なのです。(88頁)

(番組では「メロトニン」と言っているようだが、全て「メラトニン」と表記する)

セロトニンをつくりだすためには、トリプトファンが含まれる食事をしっかりとることも重要です。
 トリプトファンは、赤身の魚や肉類、乳製品などに含まれています。そしてセロトニンの合成にはビタミンBも必要なので、ビタミンBが含まれる食品
−中略−をうまく組み合わせて食べるとよいでしょう。(88〜89頁)

メラトニンは、脳の松果体でセロトニンからつくられます。(88頁)

「これは全部連鎖しているんですよ。そういうことで好循環、よい循環が体の中に生まれるのです」という。
ちょっとホルモンの名前とか難しいかも知れないが、昔から言われている「早起きは三文の得」とかという、三文も頑張って続けていると小判に化けることもあるので、「そういうこと大事なんだなぁ」ことを思ったりなんかする。
「私は運がいい」そう思うことが大事である。
武田先生も2023年はついてないことばっかりだったが、でも自分の運については絶対にののしらない。
死んでいく時も必ずそうつぶやこうと思うが、運のいい人生だった。
本当にたくさん、いい人に会った。
もう思い出なので語るが、去年2024年の暮れぐらいに(高倉)健さんの十周忌があって、健さんの映画をみんなで振り返ろうという企画が。
その人気投票をやったら一位に「幸福の黄色いハンカチ」が。

幸福の黄色いハンカチ デジタルリマスター2010



東映の方から「くやしいですけど『黄色いハンカチ』は普遍的な名作で、健さんのいい作品、東映にもあるんですが一位は必ずハンカチに取られちゃうんですよ」というので、山田(洋次)監督と一緒に登壇して健さんのその映画の上映会のゲストで。
もう山田監督は90代のご老体で。
壇上に上がる時、足元が危ないので、あの大監督が武田先生の肩を「鉄矢君・・・運んで」と。
何か泣きそうになってしまった。
本当にもう50年の年月にわたって。
50年前の作品がいまだ映画館でかかっているというのは、これは「運がいい」としか言えなくて「運が悪い」なんていったら運の神様から怒られてしまうという。
そんな気がして。
本当に現場では言ってもらえなかったが、監督から「君を選んでよかったよ」という。
50年後に監督の杖代わりになっているという。
「あの時は頼りなかったけど、今は頼りになるよ。鉄矢君」と言われて。
75(歳)で「君」だから、そう呼んでくださる方と映画館の壇上に登っているというのはもうこれは「運がいい」としか言いようがない。

中野先生の本に戻りましょう。
人類そのものから考えてみよう。
人類の曙に於いて、アフリカの東の海岸から歩き出し、世界へ広がっていった、それが人類である。
なぜ歩き出した?
世界の果てまで広がる旅をなぜ人類は始めたのか?
それは「ここじゃダメだ!」という予感があり、「遠くへ行きたい」というロマンがあり、その土地で生きてゆく不都合、干ばつ、飢饉、ディストピアに対する不安から滅亡を恐れての旅立ちであったという。
だから人間の体の中には「ここを脱出すれば必ずユートピア、いい世界へ行ける」という一種妄想・迷信があるという。
だからこそ彼は旅に出るのである。
その妄想こそはドーパミンを刺激する快感。
こうやって考えると、やはり人類の曙そのものが「遠くへ行きたい」という、そういう妄想が湧く頭を持っていることが運のいい人を作るのではないだろうか?という。
水谷譲は自分では結構運がいい人生だな、ありがたいことだなと思いながら生きている。
水谷譲の運の良さを支えているのは何か?
周りは「可哀そうねぇ」ということもあったりするが、自分では「いや、そうでもない。結構幸せだし」と思うので、ポジティブに生きていることが運のよさなのかなということは思う水谷譲。
自分で「しあわせのものさし」をきちっと握っていて、他の人のものさしに惑わされない。
それはあると思う水谷譲。
あとは他と比較しないとかということかと思う水谷譲。

運を作る為、幸運を作る為、もう一つ大事な要素がある。

 あなたの近くに、愛しいと思える、自分より弱い存在の人はいませんか。−中略−
 もしいるとしたら、その存在を目いっぱいの愛情をもって育てること。それたあなたの能力向上、ひいては、「運」の向上につながる可能性があります。
(93〜94頁)

出産経験のあるラットのほうが未婚ラットより記憶と学習の能力が高まる、という研究結果を発表しています。(94頁)

 母親ラット、未婚ラット(交尾経験のないラット)、里親ラットを、それぞれエサの隠してある迷路に入れます。そしていつも同じ箇所にエサを隠し、そこへ戻る道順を記憶させました。−中略−
 この実験でも、戻る道順をもっとも早く記憶したのは母親のラットでしたが、2位は里親のラットで、その成績は僅差だったのです。
(95頁)

一番遅かったのが独身ネズミ。

実の母親であるかどうかは関係なく、たとえ里親であっても父親であっても、愛情をもって「子ども」を育てれば、記憶と学習の能力は高まることがわかったのです(96頁)

そして同時に幸運、つまりエサを見つける能力までが向上するという。
運を引き付ける為には「誰かに貢献したい」と願わないかぎり運というのは開けないという。

前に東郷平八郎の運の話をした。
武田先生は忘れられない。
「燃えよ剣」の中に書いてある東郷平八郎の運の強さなのだが

燃えよ剣 全2巻 完結セット (新潮文庫)



土方歳三が乗った順動丸だったか幕府の軍艦。
(多分「順動丸」ではなく「開陽丸」)
それが大阪から出た時に、木っ端舟ぐらいの薩摩船とすれ違って、その薩摩船の砲手に21〜22歳の東郷平八郎がいた。
それで順動丸という幕府の船は、薩摩船、丸に十の字と見抜いて、「このこわっぱ」というので大砲を至近距離で100発撃った。
一発も当たらない。
それでその薩摩の船、春日丸だったと思う。
そのカツオ船級の戦艦に乗っている21〜22歳の東郷平八郎は右舷甲板にいた。
右の方の大砲の打ち手だった。
東郷が撃った弾が幕府艦隊に全弾命中する。
この不思議を司馬遼太郎が驚く。
つまり東郷から見れば、海戦ですれ違う時に、大砲のその位置に偶然立っていたというその幸運。
その幸運に恵まれたのは東郷しかいなかった。
幕府の軍艦はあれほど撃ちかけて一発も当たらなかった。
まだ続く。
東郷平八郎。
土方が函館に逃げた後、仙台の近くの宮古湾で宮古湾海戦というのが行われて、その時に土方が切込み隊長で官軍の軍隊に突っ込んで行って飛び移るという乱暴な作戦を。
夜明け前に停泊中の敵の艦隊にぶつかっていく。
土方は手榴弾か何か持っていたらしい。
それを投げつけて飛び移って、その官軍の軍艦をやっつける。
ところが20隻ぐらいが折り重なっているから、撃つワケにはいかない。
ところがちょうどいい角度にいた船に乗っていたのが東郷平八郎だった。
それで東郷がまた右の甲板にいて撃ったら全弾命中。
このことで薩摩の中に一種神話が生まれる。
それは「東郷が乗っていると弾は当たるが敵の弾は当たらない」という。
それで何十年も時が経って、60(歳)手前になった東郷が海軍を辞める時、その時に日露戦争が起きる。
それで誰を司令長官にするかと悩んだ時に山本権兵衛という人が「東郷で行きたい」と。
「運を持っているから」それだけ。
明治帝が「なぜ東郷に?東郷は来年引退じゃないか」そうしたら「ヤツは不思議なことに運を持っております」という。
それが日本海海戦でバルチック艦隊という最強ロシア艦隊の壊滅状態まで勝利したという。
この東郷を支配していた運というのは何だろうか?と考えてしまうワケで。
「日本がロシアの奴隷になるか・ならないか」という日露戦争の戦いで大日本帝国連合艦隊が縋り付いたのは東郷の運だった。
東郷というのは薩摩隼人の仲間からいつもからかわれていて、若き兵隊の頃、軍服を着て町を歩いていても牛とすれ違う時は遠回りをしたとか。
犬でちょっと目つきのおかしいヤツはもう小走りに逃げるようにという。
東郷平八郎はそれを仲間から笑われる。
「東郷どんは犬や牛が怖かすか」とかからかわれると「怖い」と言ったという。
「それで戦場で戦える軍人になれるか」と叱ると「牛に体を突かれてケガをしたり、犬に腿を噛まれて動けなくなったり、そういう傷を持つことが怖い」と。
「おいは軍人でごわす。戦場で戦う為に生きております。その前に自分の体を痛めるようなことは一切したくありもはん」と言いながら、牛や馬とすれ違う時、わざわざ距離を。
それは何でそんなことをしたかというと、戦場で戦う為の体を戦場に持っていく。
そういう心がけの人だったらしい。
全ての運をいくさで使おうと思ったという。
それから日本海海戦で大勝利をあげるのだが、大勝利をあげた後、影のように静かな人になったという。
それは東郷の中に「全ての運を使った」という思いがあったのだろう。

もう一つ「運」話。
これは合気道を教わっている管長から教えてもらって、敵の名前はあえて言わないが、植芝盛平という合気道の開祖がいた。
身長1m51〜52cm。
小柄な老人。
明治の人だから。
この方にある格闘技家が決闘を申し込んだ。
(この話は以前「運という技術」でも紹介されている。今回は名を伏せているが、その時の話によると決闘を申し込んだ相手は木村政彦)
戦前のことだからもう決闘といえば殺し合い。
その方が伝説によれば2m近いような大男。
1m80数cm、100数kgの巨漢。
それに151cmの中年男が対決するという。
これを植芝盛平が受ける。
道場内で「じゃ、決闘やりましょう」。
それで弟子共は「おやめください」と止めるのだが、植芝盛平は平然としている。
当日を待っていた。
そうしたら敵が、申し込み者が来なかった。
なぜだか知らないけれども。
それで「何だ、アイツは怯えやがって」とかとみんなが騒いだ時に植芝盛平が「このことは誰にも言うな。決して相手が逃げ出したとかそんな不正確な情報をばらまいて『うちの先生は凄い』とか言わないでくれ」。
だが「1m51cmの中年男が2m近い巨漢を合気道の何技でやっつけるんだろう?」と弟子共は興味があって「先生はいかなる技であの男に勝とうと思ったのでありますか?」と訊いたら「私は運が強い」。
ただ一言だけ。
それで植芝盛平が弟子共に言ったのは「毎日合気道の稽古をする。それは何の為にやるか。運を強くする為だ」。
これを管長から教えてもらって「頑張ろう」と。
あの武道をやることによって「運が強くなる」というのは、植芝盛平は何を以てそういったのか、不思議な言葉。
毎日毎日地道にコツコツやって積み重ねていくということが大切なのかと思う水谷譲。
どうもそういう「積み上げてゆく」という何かがないと運は強くならないみたいだ、という。
この話は武田先生は好きで。
若先生といって合気道の指導をしてくださっている息子さんがおられるのだが、この方もそういう発想の方で。
若先生はちょっと責任を感じたのか、この間、ちょっと道場で小さな事件があって。
少年部で一生懸命練習している子が、道場ではない、学校でちょっと躓いて骨折をしてしまった。
それですぐお母様から連絡があって「うちの子、骨折してるんで、先生、休ませてください」と。
お母様も決して悪気は無かったのだろう。
こそっと「もう全く恥ずかしい。あんだけ一生懸命合気道やってるのに、学校で骨折なんかして」という。
そうしたら若先生は凛とした声で「お母さん、合気道やってなかったらアイツは死んでいます」と。
ポジティブに。
「合気道をやっていたから骨折でよかったんです」という。
それをこの中野先生の話に重ねると、人生を横のラインで見るか縦のラインで見るか。
それで「幸・不幸」というのが決まってくるという。
そういう意味ではなるべく頑張って横のラインで見ていけば、と。
そう考えると武田先生の車を傷つけられたというのも、それぐらいで済んだという考え方でいいと思う水谷譲。
もう腹が立ったが、でも悪いことに出会った時にそれをどう考えるかというのが中野先生の「横のラインで見るか縦で見るか」という。
財布を無くしたのも全て「その程度で済んだ」ということだと思う水谷譲。
老人を励ますような口調の水谷譲に不満な武田先生。

中野信子先生の「運のいい人」という著作を取り上げて三枚におろしている。
中野先生は脳科学者だからあくまでも科学的なのだが、中には中野先生らしい人生に対する明るい取り組み方みたいな指導があって、それはやはりよく胸に響く。
「あなたの幸運の役に立つお話を続けましょう」
中野先生は脳科学者故にスッパリとおっしゃる。
加齢等で人は時として必要以上に暗く不安になる時がある。
ご同輩、段階の世代の方、聞いておいてください。
加齢等で人は時として必要以上に暗く不安になることがある。
或いは青少年もそう。
「借金をした。返さなければ。何とかバイトして。それも効率のいいバイト」で闇バイトへ走ってしまう。
そういう不運を掴んじゃいけない。

「どうして不安になるのだろう?」「心配でしかたがない」などあれこれと考え、不安を真正面からじかに受け止めてしまうのではなく、これはおなかがすいたり、生理前になると腹痛や腰痛が起きたりするのと同じ生理現象なのだ、セロトニンの分泌量が減っているにすぎないのだ、と考えるのです。
 そう考えれば、不安がさらに不安を呼び、ますます不安になってしまう、という悪循環を避け、自分の状態をコントロールしながら、しんどい時期をうまく乗り切ることができるでしょう。
(143頁)

ヘルマン・ヘッセの名言。
「青空と嵐とは同じ空の違った表情にしか過ぎない」

ヘッセ詩集 (新潮文庫)



そう思おうと思っても難しい水谷譲。
しかし、とにかくそれを繰り返し繰り返し、自分に言い聞かせましょう。
そして一番最後、これは武田先生もハッとした。

 ゲームをおりないこと──。。
 運がいい人はここを徹底しています。
 私たちは生きていくうえであらゆるゲームに参戦している、といえます。
(160頁)

良い言葉。
ゲームをおりようと思ってはいけない。

 ゲームをおりないようにするには、「ゲームは常にランダムウォークモデルのように進む」と考えるのがコツです
 コインを投げたとき、表が出る確率と裏が出る確率は共に2分の1ですね。
(163頁)

「勝ち負けを繰り返すのがゲームなんだよ」という。
勝ち負けがあって当然。
勝つばっかりは絶対にありえない、という。
この「勝ち負けがある」という、そのことが大事だという。
武田先生もいいことを歌っている。
今、若い方が歌っている。
「ミスターランナー」という歌の中で武田先生が作った文句で

二勝三敗 それで上出来 まだ折り返し(東京力車「ミスターランナー」)

という。



「人生は八勝七敗で勝ち越し。あなたは15回のうち、7回負けてもいいんです。8つ勝てばあなたは勝てる、勝者になれる。7つの敗北を正しく敗北として受け止めるという。そのことが大事なんですよ」という。

細かいことを言うと、コイン投げというゲームがある。
表と裏の確率は絶対に二分の一だ。
一万回投げてみよう。
そうすると必ず勝ち負けは5000:5000になるハズだ。
5000:5000にならなくてもその数字に近くなるはずだ。

マイナスの出来事が立てつづけに起きるかもしれないけれど、いつかは必ずプラス方向に振れるときがくる、と考える。いつかくるプラスのときのためにいま何ができるかを考え、準備しておく。−中略−とにかくゲームをおりずに粘りつづける。これが最後に勝つコツといえます。(166頁)

これはその当時2023年は大話題だったのだろう。

ニュートリノをとらえ、−中略−ノーベル物理学賞−中略−を受賞した小柴昌俊博士(172頁)

田中耕一さん−中略−のちのノーベル賞受賞へとつながるのです。−中略−一見マイナスに思えた出来事がのちにプラスに転じることは、私たちの身の回りでも少なくありません。
 とくに運がいいといわれる人には、過去にマイナスの出来事を経験している人が少なくないように思います。
(174〜175頁)

このあたり「ゲームをやめない」その心意気。
このあたりは武田先生もちょっと励まされることがあって。
やはり「人生上手くまとめよう」とか思ったらダメ。
やはり武田先生は歌を作るというところから始まった青春だった。
「とにかく歌、作り続けよう」と。
その中から何か運があるような気がして。

武田先生が模索している「運」と中野先生がお説きになっている「運」とは少し質が違う。
武田先生の場合は幸運というか「luck(ラック)」というヤツが混じっている。
(中野)先生がおっしゃる「生き方としての運」とは少し味わいが、先生の方が深くて武田先生の方が浅いのだが。
でも、失恋しているあなたが聞いておられるかも知れない。
老後の暗さに戸惑うあなたが聞いておられるかも知れない。
宝くじ売り場に並んでおられるあなたが聞いておられるかも知れない。
いじめやハラスメントに悩むあなたが聞いておられるかも知れない。
そういう意味で「運」というのは別個に取り出して考えてみるというのはとても大事なことで、武田先生自信も自分の運について考えねばというふうに思っている。
ここでドンピタ、ネタが切れてしまった。
最終日、まとめる言葉は何も無いという。
明るく終わろうかなと。
本の話は終わり。

(最終日の後半は、今後予定しているネタについての話なので割愛)




2025年1月6〜17日◆運のいい人(前編)

年の始めということもあって「運」というものを三枚におろそうかなぁと思っている。
これは驚かないでください。
何と一年間寝かせたネタということで。
ズバリ言うと2023年の暮れに仕込んだネタ。
2024年、丸一年発表せずに2025年の新春に、という。
(寝かせていた理由は)「ウケ無ぇんじゃねぇかな」「ちょっとベタ過ぎるかな」と思った。
ところが武田先生の雑記帳を覗き込んでみると何となく「面白いな」と思ったもので「ヨシ!2025年の新春にやろう」ということで。

こんなことをメモで走り書きしている。
「年の始め、前の年を振り返った。何ともツキの無い一年だった。よく考えてみるとでもまあツキは無かったけど、それでもいいこともあったかなと思いが交錯する。三枚におろすつもりだったがあまりにも平凡なネタかと思い、机に置いたまま数か月過ぎた」
ネタの本はある。
(著者は)中野信子先生、サンマーク出版「科学がつきとめた『運のいい人』」 。

新版 科学がつきとめた「運のいい人」



(番組の中で言及がないので、ここでは全て「新版」の内容でご紹介するが、この本は単行本と文庫本も発行されている)
だが科学で「運がいい」をつきとめるというのが面白がってもらえるのかなぁ?と思って手を出さなかった。
中野先生、申し訳ございません。
気分でいろいろネタを取り上げているもので。

中野先生はまずこんなところから「運」というものを語り始めておられる。
これはミュンスターバーグ錯視。
錯覚の一つ。
水谷譲も一年を振り返る時「ついてない」という年がある。
でも不思議なことによく考えると「まあそれでもいいこともあったよな」とかと少し混乱する。
いいことと悪いことが
「これでチャラかなぁ」と思ったりする水谷譲。
何でそんなふうに考えてしまうのか?
それをミュンスターバーグ錯視で中野信子先生はこう説明しておられる。

001.png

 みなさんは「錯覚」をご存じでしょう。たとえば、こんなものがあります。何本かの平行な横線を描き、その上下に、黒・白の正方形を、上下ズラすように描く。すると、最初に描いた、平行なはずの線分が、めちゃくちゃにゆがんで見えるのです。−中略−
 これは、ミュンスターバーグ錯視と呼ばれる有名な錯視ですが、このような、錯視と同様のメカニズムが、人生に起こってくる事件を観察していくうえでも、つい働いてしまうのです。つまり、運がいい、悪い、というのは、脳がそうとらえているだけで、冷徹に現象面だけを分析すれば、まったくの錯覚にすぎない、ということになります。
(13頁)

武田先生のグニャグニャを振り返る。
新年明けて「何てついていなかった去年だろう」と振り返った年があった。
それが2023年。
これは仕事もしんどくて、毎週出演者が一人ずつ死んでいくというドラマをずっと冬からやっていた。
「ダ・カーポしませんか?」
それでその年はコロナが広がっていてこれに罹患。
何と妻と娘に感染させてしまって家族から激怒を買うという。
それで大好きだった友達が二人、この年の春にコロナが終わったと思ったら死んじゃったという。
何と秋になったら新幹線に財布を忘れて大騒動。
それも皆さんにご報告した。
キャッシュカード、保険証、免許証、通院カードの5枚をいっぺんに無くすという。
スタッフがもう足元がフラフラの武田先生を支えてコロナ禍の中、マスクをしながら全部作り直した。
鮫洲(運転免許試験場)に行って運転免許証の再発行をしてもらい、銀行の方にもキャッシュカードを止めて作り直す大変さ。
一か月間本当に・・・
ところが何と驚くなかれ、一か月ちょうど経った頃、その財布が家の中から見つかったという。
いつも置く棚の横の箱の中に落ちた。
それで奥様から「ボーっと生きてんじゃ無ぇよ!」という。
秋になったらコンサートをやっていたら海援隊の仲間の一人、中牟田(俊男)の様子がおかしくて立ち上がれなくなってしまって、すぐにコロナ検査薬を試したら真っ赤だったという。
それで家の方に連絡をして「中牟田がね」と伝えたら奥様の方からはっきりと「帰ってこないで」。
それで東京にいるのに都内のホテルに四日連続で宿泊するという無残さ。
何だか寂しかった。
でも考えようによっては贅沢だと思う水谷譲。
いいホテルに泊まっている。
ただ、書いてある。
「一日500m歩くこと二回」
500mだけ歩いて帰ってくるという。
ちょっと歩きたい。
マスクをして。
それでホテルの周りを一周するという。
それを二回繰り返して・・・本当に缶詰だった。
奥様から「出歩くな」という。
それはもうおっしゃる通り。
それでそれが終わって、やっと家に帰れたと思って愛車・トヨタのハリアーでウロウロしていたら、ボディに悪意に満ちた引っ掻き傷。
これは引っ掻き傷が一周していて。
これが保険でセーフだったのだが、直すのに20万円。
明らかにいたずら。
これはやはりどう考えても2023年「ついて無いわ。運の悪い年だわ」。
ところが新年明けになってその2023年を振り返ると運命を縦で見ないで横で見ると、武田先生はこの年、合気道四段に昇格している。
エッセーで「向かい風に進む力」を書き下ろして本屋さんで発売。

向かい風に進む力を借りなさい



しかも「演歌を頼む」という作詞依頼が相次いで、水森かおりさんとか鳥羽一郎さんの歌詞を書いている。





四日間のホテル暮らしで演歌の詞を四つぐらい書いた。
やることが何も無いので。
それから月に一回か二回のトーク&ライブというステージに立つのだが、この年は不思議なことにどこに行っても満員。
だから縦ではグニャグニャしているのだが、横で見るとワリと・・・
そんな感じだから、運命を横で見るか縦で見るかでグニャグニャの度合いが。
それで「運を少しよくする為に中野先生の本を読み始めたんだから、拾い書きだけしてみよう」と思って書き出したのが今回のネタ。
ただし、中野先生、申し訳ございません。
運に関する本は鵜呑みは危険である。
そう思う。
ここに書かれていることは、運のいい人によるハウツー「こうすれば運がよくなりますよ」というような方法ではない。
運をどう考えるか、横で見るか縦で見るかという、科学的に見る方法。
この一冊には宝くじに当たるようなつかみ方は一切書いていない。
「グニャグニャに見える人生の中でよく見るとあなたの人生の中にも真っすぐ伸びた一本の横線があるハズだ。その横線を見つけることが運の良さを見つけることなんですよ」と。
横線を見つけた人が中野先生のいう「運のいい人」。
縦だけで人生を見ない。

 自分を大切に扱う──。(34頁)

 他人の尺度でなく、自分の尺度で行動する。他人がどう思うかではなく、自分が心の底から「心地よい」「気持ちよい」と思える行動をするのです(41頁)

いい加減な人は、社会の価値観とズレている部分もあるかもしれませんが、−中略−柔軟性があると、不測の事態に速やかに対応できます。考えが硬直していないので、不測の事態にどう対処するか、その発想が豊かになるのです(52〜53頁)

「そういう人が運がいい人、横線をしっかり持っている人なんですよ」という。
中野先生は具体例を挙げる。
ある好みを持ち、科学的に見てその好みは脳と進化論に裏付けされている。
人間はそういう横線をいっぱい体の中に持っているということ。
男性にとって、女性というのは好みのタイプがある。
これを科学的に言うところがこの中野先生のクールなところ。

男性は、ヒップとウエストの比が1対0.6から1対0.7の女性をもっとも好む傾向があることがわかったのです。−中略−ヒップがおよそ92センチから108センチの間の女性、ということですね。(55頁)

これはもちろんアメリカで出した平均でいささか大きいが、日本で言うと87〜88ぐらいだろう。

おなかにつく脂肪は、オメガ6脂肪酸というもの。一方、お尻や太ももにつく脂肪は、オメガ3脂肪酸というものです。同じ脂肪でも質が違うのです。
 ところで、人間の脳の大部分は脂肪です。
−中略−お尻や太ももにつく脂肪と脳を成長させる脂肪は同じもの。(56〜57頁)

この横線に操られて男は女を選ぶという。
だからそれで男は本能的に横線としてそういう女性に執着を持つという、そういう生命理論に男は操られているんだ、という。
なるほど。
武田先生が「理想的だなぁ」「この二人はほんと似合いだなぁ」と思うカップルに大谷夫婦がいる。
奥さんはベッピン。
「大谷の為に用意されたイブ」みたいな感じがして。
お二人が醸し出す空気が違う。
にこやかに笑って、あのグーでタッチしてらっしゃるという、ああいうのを去年の末にさんざんスポーツニュースでやっていたが、何か「奥さんの為に用意された旦那」「ダンナの為に用意された奥さん」という感じがして。
顔と体全体の比率が夫婦揃って同じという。
しかし人んちの奥さんながら、やはり憧れてしまう。
まるで少年のような旦那さんと、まるで少女のような奥様という。

では女性は?とお考えください。
生命理論の横の線。
女性はどんな男を求めるか?
やはり胸板の厚い感じがいいと思う水谷譲。

女性が男性を選ぶ場合は、記憶、つまり、その言動に矛盾がないかどうかを重視するといわれています。たとえば約束をきちんと守ったかどうかなどに、女性はとくに強く反応するのです。
 これはその男性が「エサをきちんと持って帰ってくるかどうか」の判断にもつながります。ずいぶん現金なようにも感じますが、生き延びるには、とくに狩猟時代などには必要な資質だったでしょう。
(57頁)

「尻が大きい」「きちんとエサを持って帰ってくる」という、これが男女が惹き合うとても大事な条件なのである。
中野先生はこういうもの凄いことをサラリとおっしゃる。

私たちの脳にはセロトニン、ドーパミン、ノルアドレナリンなどの神経伝達物質が存在しますが、この量には個人差があります。
 これらは、私たちの情動に働きかけ、気持ちを動かす物質です。セロトニンは、
−中略−安心感、安定感、落ち着きをもたらしてくれます。ドーパミンは「やる気」のもととなり、−中略−ノルアドレナリンは、集中力を高めてくれるなどします。(29頁)

全体量を調整するモノアミン酸化酵素という物質があります。(29頁)

バランスで落ち着かせるという。
さじ加減をいちいちきちんと測って「今は安心していい」「安心しちゃいけない」これをきちんとダイヤルを回しているという、そういうモノアミン酸化酵素というのが脳の中にあるという。
これが個性として、このさじ加減のバルブがあるのだが、これがしっかり締まる人と緩い人がいて、緩い人は脳内ホルモンがダダ漏れという。
そういう人もいる。
この「バルブの締め加減を女性は見ているみたいだ」と。
このバルブが緩い人は脳内神経伝達物質が漏れやすく安心・やる気・集中力が脳内にいつも流れ出ている。

 この分解の度合いが低いタイプの女性の脳は、幸福を感じやすい脳といわれ、−中略−なかでもとくに低いタイプの人は、幸福感が高いと同時に、援助交際のような反社会的行動をとりやすいともいわれています。(30頁)

こういう多幸感に溢れた人は騙しやすく、やる気満々、詐欺犯罪に引っかかったり詐欺犯罪に走ったりするという。
困ったことにこのダダ漏れの人はカネを貢ぐことで幸せを感じるという。
そういう人がこの間捕まっていた。
片一方からは詐欺でお金を何億円も巻き上げて、自分の入れ込んだホストには何億円も貢いだという。
あれはバルブが緩い。
そうやって考えてみると面白い。
そのあたりの理屈を中野先生は厳しく問い詰めておられる。

男性の場合は、モノアミン酸化酵素の分解の度合いが低いと攻撃的なタイプになるといわれています。(31頁)

不安というのはとても嫌なもの。

不安感は先を見通す力、将来を考える力があるからこそ芽生えます。(30頁)

故にそのような自分を励まし続けること、バルブの硬い人は自分のことを臆病者だと決めたりしているが、でもこの臆病者だという不安から「将来を見通す力」というのができてくる。
このへん、人間存在なかなか一辺倒ではいかないということ。

怖いもの知らずの性格は、営業や大きな金融取引などの仕事に生かせるかも知れません。−中略−
 攻撃的なタイプの人は、弁護士など舌戦を必要とする職業で実力を発揮するかもしれないし
(32頁)

何と「芸能人に向いているんだ」と。
(本には書かれていない)
武田先生はやはり緩い。

先の話になるが「べてる」(浦河べてるの家)の人達との付き合いがあって去年文化祭に行った。
そこで精神障害を持った人達と一緒に壇上に上がっていろいろイベントをこなしていた。
そこのべてるの家は面白くて自分の病名は自分で付けなければいけない。
「愛欠乏症」とか、自分で付けている。
その時に精神障害の人から「武田さん、自分に精神的な病気があるとしたら、どんな病名付けます?」と言われた。
武田先生は30代の時に人間ドックの医師から性格に於ける障害を付けられたことがある。
「あなたに病名を挙げるとすると、現在の精神の障害は何かというと『過剰適応症』」
これは先生の作り事かと思ったのだが、どうもあるみたいで。
武田先生は適応障害。
この「過剰適応症」というのは場に応じて自分を遮二無二適応させようとする。
だからテレビドラマの現場で「セリフ覚えなきゃ。子供懐かせないと」とかとあの頃、もう30代だったから、その場ごと、シーンごとで自分を切り替えなきゃいけないので「過剰に適応する」という。
役者さんというのは全部「適応障害」。
それも過剰の。
でないと刑事と犯人・人殺しが同時にできるなんて。
縦線で見るとあの人の人生は間違っている。
でも横線は役者。
だから商店主をやったりヤクザ者をやったり。
でもそれは適応しているだけであって、その人の横線は「役者」という「演じている」という。
そういうことがあって、あらゆる人々が障害を持っているのではないか?と。
その障害度に応じて人生を作っていけたらいい。
それを自覚することが大切だと思う水谷譲。
武田先生が「過剰適応症」と言ったら「あいうえお症」という「愛に飢えた症状」を持ってらっしゃるキヨシさん(浦河べてるの家の副理事長を務める早坂潔氏を指しているものと思われる)という、50年間ベテランの精神障害者がいる。
その人がしみじみ武田先生に同情して「武田さんもきついねぇ・・・」か何か言われると。
武田先生が「過剰適応症」と言ったら横にいたベテルの責任者の向谷地(生良)さんが言った「私はその逆だな。過小適応症」。
演じられる役が決まっていて、それ以外、一切演じないという。
この人は頑固。
向谷地さん、怒らないで。
ちょっと話の傾向が暗い。
「いやぁ〜浦河も発展してきましたね」「人口はどんどんどんどん減るばっかし」とか、何千人しか減っていないのだが暗く語るという。
向谷地はそう言っておいてじっと下を向いて瞬きばかりしているから、武田先生の過剰適応症について自分が過小適応症と言ったことが自分で言いながら胸に突き刺さったのだろう。
キヨシさんから慰められて「頑張ってくださいね。適応障害の人」と言われて。
こういうことはまた別個にやるのでちょっと待っていて。
ずっと過剰適応症が武田先生の頭の中に40年間あった病名。
そういう意味では武田先生を助けてくれた病名で。

中野信子先生がお書きになった「運のいい人」という本を三枚におろしている。
中野先生は「こうやったら宝くじ当たりますよ」とかそんなことではない。
「運のいい」という傾向を人生に取り入れる為にどうしたらいいか?
これを科学的に。
中野先生が懸命におっしゃっているのは運のいい人になる為には自分を大切に扱うという。
昨日水谷譲と二人で病名のことで盛り上がったが、不思議なもので、このべてるの家というところがやっている方法だが、自分の病気について自分が名前を付けると愛着が湧く。
病の自分に愛着を持つということは凄くいいようだ。
上手く付き合っていけると思う水谷譲。
では、「自分を大切にする」とはどうするか?
このへんは中野先生は見事。

 運のいい人は、必ず、自分なりの「しあわせのものさし」をもっています。−中略−
 たとえばカフェでくつろぎながら読書をする時間が何よりもしあわせ、という人もいるでしょう。
(39頁)

 他人の尺度でなく、自分の尺度で行動する。他人がどう思うかではなく、自分が心の底から「心地よい」「気持ちよい」と思える行動をするのです(41頁)

これは大谷を見ていて思う。
この人はもの凄く眠りを大切になさっている。
だから眠りを犠牲にしてまで飲食したくないとか、宴会に行きたくないとか。
あの人は一人で練習をする。
巨人軍元監督の原監督がおっしゃっていたのだが、後楽園に野球の選手為の小さなジムがあるらしい。
その機材か何かが気に入って大谷が一人で三時間練習していた。
武田先生は無理。
人が見ていないと嫌。
(高倉)健さんからも注意を受けたことがあるが、人が見ているところで頑張りたい。
大谷は一人で練習をするのが幸せ。
そういうところがある。
「一人でいることの幸せ」みたいなものをきちんと持っている。
野球選手で素晴らしい人で松井(秀喜)がいた。
あの人の高校時代のエピソードを地元の(石川県)根上という古里の町で聞いたことがあるのだが、ゴジラ(松井選手の愛称)が高校生の頃、ちょっと悪ふざけをしたもので、先生が「この野郎!」なんて怒って「オマエ、そこで素振りやってろ」と言って体育館の隅で素振りを命じた。
それでランニングをやっている選手もいるので先生が見に行って「素振りしてろ」と言ったその松井を忘れてしまった。
先生は家に帰って風呂に入ってしまって、その湯舟の中で「いけね!俺、松井に素振りしてろって言った」と思い出して、もう一回学校を見に行った。
そうしたら体育館の隅で4〜5時間、松井は素振りをしていた。
これは松井は一人で素振りしても楽しかった人。
「松井、やめていいぞ」と言ったら「あ、どうも」と言いながら汗を拭いて真っすぐおうちに帰ったという。
この一途さなのだろう。
だから「幸せのカウント」、これを自分で持っている
面白そうと感じるなら、或いは思えるなら一人でも嬉々としてやり続ける、自分のものさしに合う幸せ度を絶えず持っていないとダメだ、という。
この自分のものさしに合う幸せ度を特に中年から高齢の段階で持っている人は免疫系のバランスが良くなる。
「いやいややらされている」ということは免疫系の衰えとしてまずい。

子どもは一日平均300回笑いますが、大人は17回、70歳以上になると2回しか笑わなくなるそうです。(63〜64頁)

これは皆さん、ちょっと考えましょう。
やはり2回ではダメ。
とにかく70歳以上、ご同輩の方々はプラスあと10回、とりあえず何か笑いましょう。
何でもいい。
「トランプがゴルフやってる」とか、それで笑いましょう。
「プーチンがお風呂に入った」とかそれだけでもいいから、とにかく笑いましょう。
そこらあたりから、その人の持っている運の流れがガラッと変わってくるそうで70代以上の方、プラス10回、成人の方はあと20回、子供達はもう自在に任せましょう。
この笑いの少なさ、そのものが免疫系の能力を落とすという。
このあたりを考えると「運のいい・悪い」というのは自分の幸せのものさしの大事さ、そのことをぜひ皆さん確認しながら向かってまいりましょう。


2025年02月13日

2024年9月16〜26日◆いないいないばあ(後編)

これの続きです。

快楽原理。
人間の体の中に沁み込んだ日本人の体の中に沁み込んだ一種快楽原理
原理があって
「いないいない」で不安になる、「ばあ」で笑うという。
どうも人間は「不安・不安・安心」このパターンが好きなんだ、という。
「不安・安心」ではない。
「不安・不安・安心」
報道番組でもまず「不安」。
ニュースの順番。
「不安・不安」で、最後に天気予報とか犬とか猫が出てくるとか美味しい食べ物屋さんとか。
「ばあ」でお終いという。
何でこの「いないいない」の不安が好きなのか?
それはもちろんそれは「ばあ」で安堵する為なのだが、この「いないいない」が無いと「ばあ」がちっとも気持ちよくない。
その為に快楽原理の鉄則。

痛みかつ喜びのようなものを感じる。つまり「痛気持ちいい」というマゾヒズムです。(156頁)

これが最高の快楽なんだという。
痛気持ちいいのが大好きな水谷譲。
一種のマゾなのだが、でもこの「痛気持ちいい」というのはもしかすると命の本性かも知れない。
人間はもしかするとひたすらに「痛気持ちいい」を求め続けて生きているのではないだろうか?
これはわかるような。
水谷譲が「痛気持ちいい、好き」と言ったが、本当に味を覚えてしまうと、痛くないと気持ちよくならなくなってしまう。
月一で足裏マッサージに行っていて、だんだん「もっと強く」となってしまう水谷譲。
武田先生の専門の整体医は「腰が重い」と言うと武田先生を仰向けにして腹部の柔らかいところを指で押して腰まで治してしまう。
腰が痛いのに内臓、膀胱あたりをギュー!と押す。
それでその腹に置いた指が背中に付くんじゃないか?という。
その間「ンガンアアアア〜〜〜!!!!」と悶絶のパターン。
ところが終わって起き上がる時の快感というのが凄い。
「快感が待っている」と思うからこそ痛さが強くないとダメ。
それが「いないいないばあ」の本性。
快楽原理。
世の中、特に芸術に於いてはこの「いないいない」の待たせ方、それが予測を逸脱する誤差を生じさせる。
これが快楽の「ばあ」を盛り上げるんだ。
「ばあ」のタイミング、反復の不安。
寄せる波のように不安でなければダメだ。
「もしかして不安で終わるの?」といったら「ばあ」で痛気持ちよくなってしまうという。
「そういえば」ということで八月のパリ五輪を思い出して団体体操男子、本当に大逆転というか、思いも寄らぬという「いないいないばあ」が日本にメダルをもたらした。
スポーツもそうだが「そうきたか」という、そういう「ばあ」の落とし方。
これがセンスとなって現れるという。
不快を楽しくさせるセンスとはそういうことである。
「こうあるべきだ」という硬いリズムがある。
そうではなくて、その「ばあ」の出方が偶然であればあるほど快楽原理は上がっていく。

偶然とは時間を取ること。

 芸術とは、時間をとることである。−中略−
 時間を節約する、コストを節約する、ということばかりが言われるのが今日ですが、
−中略−むしろ時間それ自体が無駄そのものではないか(186頁)

偶然に任せる、

 途中の過程を引き延ばす。遅延する。それはサスペンスですが、ものすごく広くとらえれば、時間のなかで生きていることがそのままサスペンスだと言えるし(188頁)

ここでまたもう一回「センス」が出てくる。
それからオリンピックを見ていて「不愉快だなぁ」と思ったのはこの「ばあ」に反する人達。
「ばあ」の出方が遅かったり、タイミングの悪い「ばあ」を出す人とか、「不安・不安」の重ね方に一定のリズムが無くて、それが日本人には不快。

予測誤差、言い換えると偶然性を──耐えられる程度の、という条件はつきますが──私たちは欲しているんですね。(191頁)

これはいい言葉。
何でもそうです皆さん。
世界は不安材料があります。
でも基本はこれ。
私達は耐えられる程度の予測誤差、或いは不測の事態を欲している。
突然起こる。
大統領候補が変わったり、勝つハズの国がなかなか勝てなかったり、そういう「不測の事態」というのがある。

物質の場合は、作用・反作用が物理法則に従って即時に起こります。(190頁)

ところが地球に生まれた生き物はこの作用・反作用が少しも楽しくない。

 遅延とは、行動の多様性である。人間はそれを誇りに思い、つまり自分は自由であるという意識を持ち、その余裕を楽しみます。ですが、その余裕ゆえに、不安になったり恐怖に陥ったりもします。このプラスとマイナスが混じったジレンマ的な状況が、−中略−芸術の本質でもあるのです。(191〜192頁)

これは本に書いてあって、武田先生も赤線を引っ張っている。
人間の奇妙さとはどうなるかわからない時、最も躍動する。
(という文章は本の中に見つからなかった)
それはなんとなくわかる水谷譲。
芸術であれ音楽であれ芸能であれスポーツであれ絵画であれ文学であれ、どうなるかわからない時に最も興味が深くなる。

芸術に身を浸すというのは出来事に対する別のリズムを学ぶこと。
芸能もそうですよ、という。

不快なのに楽しい。楽しさのなかには、そのように「否定性」が含まれている。−中略−芸術あるいはエンターテインメントを考えるときに、これは非常に本質的なことです。(198頁)

つまり、不快というものもどこかで芸能人は持っていないとダメだ」という。
好感、良い感じを持って欲しい」というのはあるのだが、それだけでは芸能人は成立しない。
芸能に置き換えると
人気がある人というのは好かれてもいるし嫌われてもいると思う水谷譲。
それが「いないいないばあ」の快楽の原理。
今はもう伝説、レジェンドが止むことがなくて八月の初めの方だったかドリフの特集をやっていた。
(9月16日放送の「今夜復活!8時だョ!全員集合 不適切だけど笑っちゃう! ドリフ伝説コントBEST20!」を指しているものと思われる)
ちょっとむごい言い方をするが、ドリフのネタを今のお笑いの人達がやる。
そういう特別番組があった。
悪いが面白くない。
やはり志村さんとか、あの人は毒がある。
有名な今のお笑いの方がやった。
それはやりたがる。
ドリフのネタだもの。
「雷様」とか「もしも」とか。
「もしも」とか危ない。
もうラジオでも言えない。
あの頃、面白かった。
それは毒。
やはり志村という人が持っていた、或いはいかりや長介という人が持っていた暗さ。
いかりやさんはやはり顔つきがシリアス。
喜劇の人の顔ではない。

著者の方はいろいろセンスというものを拡大して、芸術というものまで展開しておられるが、ズバリ言って結構難しいので、そのへんは飛ばしている。
著者の興味深い一言を並べていく。

ものごとをそれ自体として=リズムとして楽しむということを、−中略−説明してきました。−中略−メッセージではなく、まず形がどうなっているか、リズムの構造を見る。−中略−
 しかし、そうすると、リズムが面白ければそれでいいのかと、読みながら疑問を感じてきた方もいるかも知れません。
(200頁)

まず意味への関心を一度外したほうがいい。(200頁)

これは哲学的で。
これはもの凄くハッとした。
言葉を連ねる時に意味を考えてしまう。
それが普通だと思う水谷譲。
著者は「意味への関心を一回外した方がいいよ」。
特にこれは作詞の場合。
詞を作る時に意味を考える。
だが最近の若い人達なんかアレしていると意味なんか考えていない。
J-POPは特に。
意味を考えていたらああいう楽曲はできない。
ラップとか。
ラップなんていうのは典型的にリズム。
韻を踏むとかリズムの為に言葉を犠牲にするとか、そういうのがある。
でもパターンとしてあった。
三波春夫さんの「俵星玄蕃」はめちゃくちゃ深く自分で研究したが、三波先生みたいな日本語にうるさいであろう演歌の方だって、講談で語る時は言葉の意味を飛ばしている。



けいこ襦袢に身を固めて、−中略−
股立ち高く取り上げし、
−中略−
九尺の手槍を右の手に、
切戸を開けて一足表に出せば、
(三波春夫「俵星玄蕃」)

(番組内で言っている内容と実際の歌詞は若干異なる)
その時に敢えて三波先生は「九尺(くしゃく)」と言う。
これは三波春夫さんが何を言っているかというとリズム。
この(パンパンという叩く音)リズムに乗せる。

「時に元禄十五年十二月十四日、
江戸の夜風をふるわせて、響くは山鹿流儀の陣太鼓、
しかも一打ち二打ち三流れ、
(三波春夫「俵星玄蕃」)

これは読み方も「一(ひと)打ち二(ふた)打ち」。
「ひとつ」「ふたつ」「みっつ」
それをあの先生は「一(ひと)打ち二(に)打ち三流れ」。
(「二」が「ふた」ではなく)「に」になっている。
これは何でか?
捨てた。
意味なんかどうでもいい。
リズム。
この間「この歌いいなぁ」と思ったがTEBUの「あー夏休み」。

あー夏休み



湘南で見た 葦簾の君は(TEBU「あー夏休み」)

「葦簾(よしず)の君」なんて平安時代の言葉遣い。
葦簾。
その向こう側にちらっと水着姿の女の子が見えたのだろう。

夏の少女一度お願いしたいね(TEBU「あー夏休み」)

何をお願いするんだよ?
それは言わない。

切れ込み feel so Good!(TEBU「あー夏休み」)

英語が出てくる。
これは情景をポンポン言いながら、意味はもう敢えて説明しないでリズムだけで押し切っている。
このへんの妙味というのがJ-POPなんかでは生きているワケで、今回、皆さん方にお話ししている「いないいないばあ」というのは、まさにJ-POP。
このJ-POPが意外と深いものを含んでいるという。

 芸術の軸足は、身体的な癖と言えるような反復の方にある。公共性に軸足があったら、こんなあり方をしてはいけない、直しなさいという話になる。−中略−ここで提示しているのは、社会とのジレンマがあるときに、やや刺激的な言い方をすれば、「身体という悪」の方によることに芸術の意義を見出すというスタンスです。(208頁) 

「なるほど、そうか」という。
つまり芸術はありふれていてはいけない、ちょっと個性とか偏りとかがないとということかと思う水谷譲。
「身体」「人間の体」という、人間の脳、或いは精神から考えると「悪そのものなんだ」という。
でも体がしようとしている悪の方に偏っていく、或いは意味を見出す。
「それが芸術ってもんじゃないですか。体の味方をしない芸術なんてありませんよ」という。
これがセンスとどう結びつくかというと、「いないいない」という空白というか「不在」。
それが存在に結びついてゆく。
その危険さ。
結びつかないことだってありうるワケで。
「ばあ」の無い「いないいない」が世の中には時としてある。
それでも不安の「いないいない」に身を託すというところに「ばあ」の快感がある。
「ばあ」の快感とは何かというと体の快感なんだ、という。
ちょっと難しいかも知れない。
このあたりが面白い。
「センス」というのは人間の持っている感覚で大事なものなのだが、「アンチセンス」という、それは「センス」の一種だ、という。
これは面白い。

ある種のテンプレ的な装飾を過剰化することが大衆文化らしさだったりするわけです。ヤンキーファッション、ギャル的なもの(213頁)

ある種の「格好悪さ」が「恰好良さ」に成り得るという。

バランスがとれた良い人というだけでは魅力に欠ける、というのはよく言われる話で、どこか欠陥や破綻がある人にこそ惹きつけられてしまうことがある。(214頁)

「そういうセンスがあるんですよ」という。
だからセンスは百点満点のことではない。
バランスのことで、あるバランスでは「センス無いねぇ」がセンスになったりする、という。
ここが武田先生は「面白いなぁ」と思った。
この人は突然こんなことを言い始めた。
豪華な部屋がある。
豊かな文化資本に恵まれたとても素晴らしい部屋がある。
その部屋にはもの凄く有名な画家さんの絵が飾ってあって、それは凄くセンスがいい部屋だ。
ところがこれを「センスがいい」って言わないという「センス」があるという。
非常に狭い。
それから豪華な飾り物一つも無くて絢爛たるお花なんか生けてない。
そこに一輪花が飾ってある。
それで食事も豪華にできないので二人っきりでお茶を飲む。
それを「センスだ」と言うとその「センス」は値打ちがある。
それが「茶道」ではないか?
天下の信長や秀吉はその狭い茶室に「センス」を見出した。
そしてそれが日本のある意味では「茶道」という芸術を味わうセンスになったという。
一番最初にセンスを作った人はもう間違いなくはっきりしている。
これは室町幕府の室町の将軍様。
足利さんがセンスを作った。
この人はどういうセンスを作ったかというと、ちょっとした休憩所を全部金箔を貼ってしまって金閣寺を作ってしまった。
ところがこれに相反して信長の新しいセンスは欠けた茶碗に繋いだりして、茶釜で湯を沸かして。
そして、あれはお百姓さんが捨てた茶釜。
それとお城一つを同じ価値にした。
そういう話がある。
信長が「あの茶釜をくれるんだったらオマエの命を助けてやる」と言ったという。
それで、その茶釜とお城一つと交換した。
「平蜘蛛(ひらぐも)」というヤツ。
ちょっと間違っていたら教えてください。
新しい美意識を持っていた。
美意識ではない、「センス」なんだ。
信長に於いて凄い価値があるのだが、彼が天下を取った瞬間、信長のセンスを全部真似する。
小屋みたいな茶室は、もの凄い高い次元のセンスになってしまう。
こういう「アンチセンス」というセンスの在り方。
そういう意味でセンスの難しさはある種の恰好悪さ、ある種の欠陥と破綻、そういうものがセンスに成り得る。
と、ご同輩。
武田先生が言いたいのは、最初に言った通り、ある種の恰好悪さ、欠陥と破綻、「これこそ我等老人のものではないか?」という。
豪華絢爛で娘や息子に残す宮殿のような自宅ではなくて、小屋のようなところに満足し、茶を飲んでいると「あなたはセンスがある」って言われるよ、という。
何かただ貧乏くさいだけの気がする水谷譲。
それを「センス」と言い張る。
言い張らないとダメ。

「アンチテーゼ」「アンチセンス」「欠陥と破綻を持っている」そういう人がセンスに変える力を持っている人だ、という。
武田先生曰く、それは「年寄みんなセンスあるじゃん」。
しつこい話、ある種の恰好悪さ、欠陥と破綻、それは老人のものだ、という。
これは加齢で得たセンスです。
武田先生で言えば、合気道、ゴルフのセンスの無さ。
これは上達という憧れを捨ててしまえば、武田先生の中では全く違う意味を武田先生に感じさせてくれる立派な道になる。
「上達したい」と思うから息苦しい、センスが悪くなる。
合気道もゴルフも「上達するのやめよう」と決心する。
そうすると別のものが見えてくる。
安土桃山城の天守閣より、小さな茶室に意味、価値を見出すところに「加齢」「年を取った」という意味があるんじゃないかなと。
老境とは「いないいないばあ」に身を置くこと。
どんな「ばあ」が出るかは自分であれこれ考えないで「ばあ」を楽しく待つ。
それが老いてゆく意味ではないか?
ずっと生きてきて、まだ生きている。
何で生きているのか?こんな年寄りになってまで。
それは何か知りたくなる
それは「いないいないばあ」の「ばあ」を待つ。
そう思うとあらゆるものが楽しく待てるような気がする。
普通の人から見たら武田先生はテレビにも映画にもバラエティーにも出てらっしゃって、十分もう「ばあ」を何度も、と思う水谷譲。
それでも「いないいない」はある。
「この先、どうなっちゃうんだろう?」という。
その「どうなっちゃうんだろう」を「ばあ」があるから楽しみにしとこう、とか。
でも「ばあ」が来るかどうかはわからない。
この人(本の著者)は「それを想定するな」と言う。
「それがあなたのセンスを築きますよ」と。
安土桃山の天守閣よりも小さな茶室に人生の意味や価値を置いたという信長の茶道に於けるセンスというのは、ただの天下取り人じゃなくて、あの人は芸術家だったんじゃないだろうか?という。
そういう自分でありたいなぁと。
そういう意味で「たくさんのことを勉強していきたいな」「『いないいない』を探しながら勉強していこうかな」というふうに思う。

ノートの隅に「老いの哲学を急ごう」と書いてあるが、このセンスという一点、どんどん自分が人間として物忘れも激しくなるし、欠陥と破綻、夜、トイレに行く瞬間に壁にぶつかった瞬間にパイプラインの破綻とか、そういうのを込みで「ばあ」を待つ。
どんな「ばあ」が待っているかわからないけど。
でも「ばあ」を待つのは、皆さんと同じ。
そんな気がして仕方がない。

ちょっと難しい芸術の方に偏ったりなんかしたのだが、この先生の話を何とか皆さんにお伝えしなければと思ったのだが、千葉雅也大学教授「センスの哲学」を取り上げてみた。
上手いことあまり行かなかったかも知れないが、勘弁してください。
この千葉先生も絶対いい人。
「センスがいい・悪い」をバーっと箇条書きしてくれればついていけるのだが、ずーっとひたすらにセンスを哲学的用語で説明なさるから、中途でもの凄く難しくなる。
「破綻、反復」とかが出てくると
本自体は難しい本かと思う水谷譲。
でもこの先生の真摯なメッセージというのは伝わってくる。
茶道に於ける信長・秀吉なんていうのは武田先生の自作。
千利休の物語とか映画などで見たことがある水谷譲。
秀吉が黄金の茶室か何か作った時に利休が面当てで自分の茶室を作る。
その時にあの人は朝顔を一輪切ってきて壁に置く。
それが豪華絢爛な茶室を作った秀吉に対する当てつけと取られた。
その一輪の朝顔、それがこの先生のセンスの解説にはもってこいで、「人が全く無価値だと思うものに価値あり」と言い切ること、それが老人のセンスを磨く唯一の方法じゃないかなぁと。
やり方にもセンスがあると思う水谷譲。
利休のセンスを感じる。

ちょっと一日余ってしまった。
明日は別のネタで迫りたいと思っている。
(この週の最終日はおまけの話


2024年9月16〜26日◆いないいないばあ(前編)

「いないいないばあ」というタイトルではあるが、この「いないいないばあ」が出てくるまでしばらく間があるので、どうぞよろしくお願いいたします。
とても便利な言葉だが、その便利な言葉に「センス」。
「とにかくあの人、褒めなきゃ」という時、思わず使ってしまう「いや、あの人はさぁセンスいいよ」という。
これはもう本来の意味とかけ離れて独特の日本の言葉になっている。
逆に虫が好かないとか、妙に引っかかるヤツについて悪口を言う時「アイツ、あれセンス悪いもの」とかと言ってしまう。
そのセンスということは「正確にこういう言葉だ」ということは意外とわかっていない。
なるほどセンスとは謎の言葉である。
そのくせ己の不出来、不備を叱る時は恐らく便利が一番いい言葉で。
武田先生の場合は趣味でやっている合気道、そしてゴルフ、これはもう自分でも自覚しているが、センスが無い。
本当に下手っぴで。
「下手」というと何か尖るが、「センスが無い」とか「センスが悪い」と言うと何となく伝わり易いのかなというふうに思う。
この場合の「センスが無い」とは練習量とか技術、モチベーション・意欲、そういうものに問題があるとか、そういうことではなくて、それ以前の体形、目つき、顔つき、そういう「不適要素」が上達を阻んでいるというような指摘の場合は「いやぁ〜ちょっとセンスが無いもの、あの人」とかと言ってしまうという。
ドジョウが金魚の真似をするような、無駄な努力のことを「センスが無い」と言うそうで。
それで「センスが無い」と自分でよく自覚しているものだから、本屋で見つけた本が著者は千葉雅也さん。
1978年生まれ、立命館大学の教授で。
この方がお書きになった「センスの哲学」文藝春秋刊。

センスの哲学



(本の中の傍点部はアンダーラインで表記する)
本に「腰帯」という紙が付いているが、あれに

これは「センスが良くなる本」です。(本の帯)

と書いてあったものだから、一読しておこうかと思って。
千葉雅也さんという著者の方はどんなふうにおっしゃっているかというと

 センスという言葉には、トゲがあると思います。(15頁)

いわゆる「地頭じあたま」に似ているところがあると思います。(15頁)

「センスって何だろう?」とずっと考えていた水谷譲。
「趣味」とか「才能」ではなく「地頭」。
「頭がいい」というのと「地頭がいい」というのは全然違う。
どちらが適応力がいいかというと地頭の方がいい。
「頭がいい」というのは「出すところを間違えたらとんでもなく躓くぞ」という。
地頭というのはある意味では判断力とかその人の感覚とか。
センスは使い出のある言葉で「ユーモアのセンスがある」、それから圧倒的に武田先生に無いものだが「服のセンスがいい」。
これは不思議な言葉。
言われると「センスがいい・悪い」はパっとわかる。
見ただけで何事かを伝えられる印象がその人にある。
その場合は「あの人はセンスがいい」と言う。

こんなことを言ってしまうと「また炎上しますよ」と水谷譲に注意されたことがあって。
武田先生はあの人のことを「あんまりセンス良くないね」と言った。
トランプ氏。
トランプさんはガタイもいいし、いい老人なのだろうが、何かセンスが悪い。
トランプさんの方はファンの人もいっぱいいらっしゃるだろうと思うが、感覚だけの問題だが。
とにかくそのセンスというのに分け入っていきましょう。

 センスの良し悪しは、しばしば、小さいときからの積み重ね、「文化資本」に左右されると思われています。(21頁)

「ものごとを広く見る」モードに入ることが、センスを育成していくことです。(24頁)

それが狭いモードしか、狭いチャンネルしか無い人からは、やはり凄くまぶしく見える。
これはあくまでも志向・考えではなくて感覚・皮膚で決定するもの。
それがセンスというワケで。

意識的すぎるもの選びや作品は、かえって何かが足りない感じがする。むしろ、「無意識」が必要である。無意識こそがセンスを豊かにする。(37頁)

自覚もしないでやっているから格好いい。
ズバリ言うと大谷翔平というのはセンスがいい。
「夫婦で出てきてセンスいい」と思う。
二着あるうちの一着を選んだのではない。
何十着とある中で「一着を着てきた」みたいな、その何十着を感じさせる背景というのがある。

その感覚によるそのセンス、尋ねていきましょう。
写真で写したような正確な絵ではない。
また、本当の女体、女性の体に見えるようなビーナスの美しい絵ではない。
それは個性的なのだが世間一般とずれている。
しかしそれでもなお、その人の姿にエネルギーが満ちている。
その時に思わず「センスがいい」という。
なかなか目指すべきものははっきり見えてこないが、このセンスの話がやがて「いないいないばあ」に繋がるので是非お楽しみということでお付き合いくださいませ。
「いないいないばあ」と題しているが、センスの話をしている。
「センス」と言っても舞妓さんが手に持って踊るヤツ(扇子)では無いので「あの人はセンスがいいね」とか「いやぁ〜ちょっとセンス悪いよ」とかという「センス」。
センスとは何か?
センスとは美しいものを目指さない。
正確なものを目指さない。
それでもエネルギーに満ち、清らかである。
正確に描いた絵ではない。
「乱暴だけどエネルギーがあるな」と。
これを「センス」と呼ぶという。
美しさを目指さない、正確さを目指さない、それでもエネルギーに満ち、清らかであるという。
「具体例は何だ?」と言えば小さな子供が描いた「お母さんの顔」。
それがセンス。

再現志向ではない、子供の自由に戻る。(44頁)

キーとなるのは、適度な忘却、省略、ある特徴の強調、などだと思います。(46頁)

「うっかり」と「あきらめ」。
「それがセンスなんだよ」という。
「『忘却』『あきらめ』そういうものがないとダメですよ」とこの千葉さんという著者から言われて武田先生はハッとした。
「ズレ」「忘却」「あきらめ」これこそ高齢者の得意技。
加齢と共にだんだん体に出てくる症状として高齢者には「ズレ」「忘却」「あきらめ」がある。
つまりズバリ言うと、このセンスがない武田先生だが、これから年を取るとセンスは良くなるという。
こんな武田先生でさえも、このセンスの最大特徴である「ズレ」「忘却」「あきらめ」これを上手く生かせば「あ、センスいいねぇ。武田鉄矢」と言われるように・・・
その秘訣がこの本にあるのではなかろうか?と。
どこかでセンスは持って生まれたものというイメージがあるので、「センスを磨く」ともいうが、磨けるものなのだろうか?と思う水谷譲。
「ズレ」「忘却」「あきらめ」
これは高齢者にとっては最大の年を取る意味を・・・
これは面白い。
ポジティブでありたい。
「ズレ」「忘却」「あきらめ」
これを決して人間の能力が落ちていくとは見ていない。
「センスへの近道がここにある」と。
せっかくこの若い哲学者が説いておられるのだから尋ねていきましょう。

まずは著者は言う。
「とにかく楽しめ。でないとセンスは育てられませんよ」
「ズレ」「忘却」「あきらめ」
それを楽しむ、或いはそのことにワクワクする。
「そうしない限りセンスは育てられない」という。
(このあたりは本の内容とは異なる)
ではどうワクワクするか?
そのワクワクの最もシンプルな形が今週のお題「いないいないばあ」。
「いないいないばあ」
何を思い出すか?
赤ちゃんを思い出す水谷譲。
よく考えてください。
産まれたばかりの赤ちゃんは何も世の中のことを知らないのに何で「いないいないばあ」で笑うのか?
赤ちゃんは身をよじって笑う。
「いないいないばあ」で笑う赤ちゃんのことを皆さん頭の中に思い出してください。
まず「いないいない」。
この時赤ちゃんはどんな顔をしているか?

 何かがない=隠された状態から、露わにされた状態へ。「ない」から「ある」への転換。この遊びを子供は喜ぶわけですが(85頁)

何も知らないのに、なぜこんなに笑うんだ?という。
これを著者は数式で解けと。

 1とは、何かが「ある」こと、0とは「ない」ことです。(75頁)

つまり「いないいないばあ」はコンピューターで言うと「001」。
「いないいないばあ」にはコンピューターの基本がある。
この「いないいないばあ」を哲学で表現しましょう。
0だから「存在しない」。
「いないいない」そして「ばあ」で「存在」する。
これを「いないいないばあ」を哲学用語で言うと「不在・不在・存在」。
それがあんなに赤ちゃんを笑わせる。
これは何が楽しいかというと「ない」から「ある」に変わることへの興奮。
存在したということの喜び。

「いないいないばあ」とは、存在/不在の対立だけではないリズムである(87頁)

この「ない・ない・ある」というリズム。
それがたまらなく嬉しい。
これは赤ちゃんの身になって考えてみると凄くわかる。
理由は簡単。

人間の場合は非常に弱い状態で生まれ、長期間、生き延びて生育するために誰かを必要とする。それゆえ、−中略−「他の人間がいてくれないと困る」という事態と結びついている。(89頁)

だから周りに誰もいないという「不在」というのが極端に不安にさせる。
それも二つ続く。
「不在・不在」「誰もいない・誰もいない」。
そこに「存在」。
「やったー!ぎゃはは」ということだと思う水谷譲。
「お母さんいない・お母さんいない・いた!」という。
このリズムが一種、人間の体に沁み込んで「いないいないばあ」は各個人の快楽原理になる。
これは人間の中に沁み込んだ快楽原理が「いないいないばあ」で、このリズムで人間は喜ぶようになる。
一種、二度リズムがあって不安にならないとダメ。
リズムが乱れてはダメ。
「いない・・・いないばあ」ではダメ。
やはり二つ「不在」のシンボルである「いない・いない」、同じリズムで「ばあ」
このリズムがとれる喜びというのが赤ちゃんをあそこまで。
そしてこれが一種、快楽原理として人間の体の中に沁み込んでいく。
これが実は人間に於ける全ての快楽原理になる。
絵画、文学、芸能、音楽、スポーツ、そのセンスを司っているのは「いないいないばあ」。

 物語における「サスペンス」とは、意図的に作られたストレスです。サスペンスが「いないいないばあ」に相当することは、もうお気づきかと思います。(93頁)

これはディズニーランド、ユニバーサル・スタジオから小説から映画のストーリーから落語、なんば(グランド)花月、J-POP、演歌まで全部この「いないいないばあ」のパターンでできている。
例えばジェットコースターが「いないいないばあ」なのか?と思う水谷譲。
小説の展開の仕方も上手くできている小説、水谷譲が大好きな村上春樹さんも基本は「いないいないばあ」。
「これ名作だわ」というのは全部「いないいないばあ」でできている。
「緊張・緊張・な〜んだ」というヤツ。
落語のパターンは全部「いないいないばあ」。
つまり「ばあ」のところにオチがある。
「緊張・緊張・な〜んだ」というヤツ。
ドラマもそう。
演歌もそう。
でも「いないいないばあ」が感じられない場合がある。
それがリズム乱し。
「いないいないばあ」を基本のバージョンとして、「いないいない」の連呼になる。
サスペンスドラマは「いないいない」の積み重ね。
「いないいない」それを波として何回も繰り返し「犯人は奥さん、あなただ」という「ばあ」になるという。

古畑任三郎 3rd season 1 DVD



リズムは「いないいない」で続かないと「ばあ」に結びつかないという。
演歌で言うと

しあわせは 歩いてこない
だから歩いて ゆくんだね
(水前寺清子「三百六十五歩のマーチ」)

が「いない・いない・いない」。

一日一歩 三日で三歩
三歩進んで 二歩さがる
(水前寺清子「三百六十五歩のマーチ」)

「人生は」で「ばあ」。
「休まないで歩・・・」「ばあ」。
こういう「不在・不在」或いは「不安・不安」から「安堵」。
そのバージョンが命を弾ませるという。
確かに映画やドラマなんかは、不安で不安でちょっとワクワクとして「ばあ」だと思う水谷譲。
どう「いないいない」を設定するか。
このリズムがあって「いないいないばあ」を繰り返すので、やはりわかりやすいのは武田先生が考えたのだが「俳句なんかどうかな?」と思った。
俳句というのは五七五。
五七五で「上手いなぁ」と思うのはやはり「いないいないばあ」。
さっき車の中でスタッフと話しをしていたのは、俳句の番組に出るので俳句の勉強をしているのだがこの間、もの凄く有名な正岡子規とか何とかいう人の俳句の中で一つだけ吹き出すようなヤツを見つけたのだが、それが「大寒や 見舞いに行けば 死んでいた」という。
(高浜虚子の「大寒や見舞にゆけば死んでをり」を指しているものと思われる)
何か可笑しい。
そういう句が名句で挙がっていた。
つまりこれこそが「いないいないばあ」になっている。
その虚脱感というか。
このリズムで説明する為にちょっと俳句で「いないいないばあ」を説明してみる。
これは本には書いていない。
「センス」というのはリズムがあって「いないいないばあ」そういう構造を持っている。
わかりやすそうだと思って武田先生が準備したのが俳句・短歌の類。
日常のささやかなことを言葉にするというのでセンスの説明にはもってこいではなかろうか。

 日常のささいなことを、ただ言葉にする。−中略−ものを見る、聞く、食べるといった経験から発して言葉のリズムを作ることだからです。もう文学です。(112頁)

リズムは連想を生むが意味を作ってはいけない。
意味の「クラウド」「雲」を作る。
それが文学なのだ。
「意味がわかりすぎるとそれはギャグだ」という。
心象・心の中にぼんやり浮かぶものを提案する。
ぼんやり浮かぶものが定義できる、それがセンスなんだ。
センスは人しか持てない。
ChatGPTは俳句ができない。
センスは意味であってはいけない。
センスは「意味のクラウド」「ぽっかり浮かぶ白い雲のようなもの」でなければならない。
ChatGPTというこのAIには辞書と文章の例文を大量に持っている。
だからChatGPTに「名月を季語に句を作れ」と言えばおそらくこんな俳句を作るのではないだろうか?
「名月やお盆のような形なり」
言葉と言葉をつけるのがこのChatGPTの仕事だから。
この程度の句しかできないであろう。
ChatGPTがどうしてもできないのが、例えば小林一茶の句「名月を取ってくれろと泣く子かな」。
(番組では全て「取ってくれよと」と言っているが正しくは「取ってくれろ」。ここでは全て「取ってくれろ」に統一しておく)
子供がお月様を親に向かって「ねぇお父さん取って取って!」という。
こういう句はChatGPTにはできない。
なぜか?
彼には子がいない。
「ChatGPT凄いなぁ」とか「知識量凄いな」とか言う方はいらっしゃるかも知れないが限界も。
センスという意味合いで「ChatGPTにはセンスが無い」と。
ChatGPTは意味を目指す。
意味を目指すと感動がない。
「いないいないばあ」というのはできない。
小林一茶の句が名句だと言われて知る人が多い。
「名月を取ってくれろと泣く子かな」
知っている人は多い。
これは何でかというと、ここはやはり感情の流れがあって「いないいないばあ」。
名月が出てきた。
子供は泣いている。
何て泣いているか?
「取ってくれ」
「いないいないばあ」の構造になっている。

 小説や映画について、全体として何が言いたいのかというのが「大意味」であり、人はたいてい大意味がわかることで感動するわけです。(120頁)

「これで感動するだろう」という感動を目指すとそれは離れていく。
大まかな感動は小さなささやかなことを言語化する練習が必要だろう。

俳句の句集でひどく気に入った一句を見つけた。
思わず笑った一句。
これは小林一茶だった。

武士町や四角四面に水を蒔く(小林一茶)

打ち水。
武士がいっぱい住んでいる城下町のそのあたりでは打ち水も四角四面に撒いてあるという。
それからこの句。
武田先生が笑ったヤツ。
現代の人の俳句。

天丼のかくも雑なり海の家(大牧広)

これは何が可笑しいかというと、(情景が)見える。
大学生のアルバイトの子か何かがワリとエビか何か乱暴に揚げてポンポンと二本乗っけたという。
それに「情緒が無ぇ」と注文した著者が怒っている。
これはあくまでも「わかるなぁ」という笑い。
雑な天丼が見えてくるという。
著者は言う。

小さなことを言語化するというのは、言葉は悪いですが、「無駄口」を豊かに展開する練習だ、ということになります。(128頁)

「それが豊かな情景を展開する方法なんです」と。
そんな風に考えると武田仮説だが、ささやかなことを見つけていく。
五七五、発句、始めの五から次の七へ、ゆったりと句が広がり最後の句で感動できる。
こういうことがセンスになる。
小説でもそう、詩でもそう。
その人間を操っている快楽は「いないいないばあ」。
やはり八月のパリオリンピックで印象に残っているのは「いないいないばあ」
大逆転劇というのは「いないいないばあ」のパターン。
そうやって考えてみると、この「いないいないばあ」の快楽原理。

ポンポンポンポン具体例を挙げてゆけばいいのだが、本の方にあまり具体例が。
センスがいいことを紹介するとセンスが悪いのと比べなければならないので、この方はそういう比較論が嫌いなようだ。
だからずっと理屈が。
ただし、何かわかるような思いがこの一冊から伝わってきた。
人間の快楽原理の中に沁み込んだ「いないいないばあ」。
これはあらゆる文化の核心に秘められた一種の原理なんだ。

 映画には「ショット」という概念があります。−中略−次の場面に切り替わるまでのひとつながりの映像のことです。−中略−ちゃんとしたストーリーがなくても、−中略−ショットを並べたらもうそれで映画だと言えます。(138頁)

映画とは長大な、長い長い「いないいないばあ」である。
音楽もそうである。
音があり和音があり、リズムに対してそのリズムを否定するリズムがうねりとなって、全て響き合いながらやがて大団円のうちに締めくくる。
これがクラシックである。
基本は「いないいないばあ」なんだぞ、という。
人間は困ったことに「いないいない」のサスペンスにすぐ慣れてしまう。
だから「いないいない」のサスペンスをいかにうねらせるか?
それが「ばあ」を呼び寄せる鉄則となる。
私達はどうしてこんなに「いないいないばあ」が好きなんでしょう?と。

・遊びやゲーム、フィクションの鑑賞は、世界の不確定性を手懐けるための、習慣に似たものであり、それは「自分自身にリズムを持つこと」だと言える。(152頁)

これはもの凄い大きい言葉で言うと、日本の総理よりもアメリカの大統領が世界を揺るがすという事態が起こっているが、今年(番組放送時は2024年)の1月、2月、誰が予想した?
アメリカ大統領選挙。
トランプさんとバイデンさんの対決だったのが中途でカマラ・ハリスさんが出てきて。
トランプさんだって、あの八月の段階では「負けるワケ無ぇじゃねぇか」という勢いだった。
それが各種世論調査で追いついてきた。
そんな世界の歴史を変えるような選挙の流れが1か月で変わる。
この先もまだ変わり続けるだろう。
武田先生はそんな気がした。
テレビで一回だけ注意されたことがあった。
バイデンさんとトランプさんがテレビ討論会で戦った。
余りにもバイデンさんがお年を召して記憶が・・・という。
7月7日のこと。
(調べてみたが、2024年大統領選のハリスvs.トランプTV討論会は第一回が6月27日、第二回が9月10日)
話が脱線するが、何かおかしい。
バイデンさん対トランプさん。
それはトランプさんに行く。
バイデンさんがお名前の言い間違いとかちょっと言葉が「大丈夫かな」と思うことが増えてくる前だったら「バイデンさんもアリかな?」と思う水谷譲。
でもあれほど頭のいい人達がいるホワイトハウスで、何でトランプさんと討論会をやらせたか?
ああいう言い間違いをするんだったらもう読めたはず。
あの時、不安がる人がいっぱいいた。
逆に考えてみる。
バイデンさんは頭がしっかりしている。
わざとボケたふりをした。
武田先生はそんな気がして仕方がない。
(バイデン氏がボケたふりをした理由は)ハリスさんに譲る為。
あれが最高の引き際だと思う。
「譲る」というのはそれこそ「いないいないばあ」。
ここでも快楽原理が働いていて、「トランプ対バイデン」これをひっくり返す為の作戦は何か?
それはバイデンが「いないいない」「不安不安」。
それで「ばあ」で出てきたら強烈にトランプさんと対立できるという。
「カマラ・ハリス!」ということ。
この「いないいないばあ」のリズムは、もう選挙なんかでは絶対。
世界中の人がこのリズムが好き。
パリオリンピックの柔道の団体戦であった。
あれこそまさにカラカラカラ・・・と回って「いないいない」で「ばあ」。
ルーレットは「いないいないばあ」。
「いないいない」の不安が「ばあ」で解消される。
「不快」が「快」へひっくり返って興奮をそこに呼び込む。
そうすると人生最大の不快が最高の快楽と変化するワケである。
その為には「いないいないばあ」の手順を踏まなければならない。
不快や不安を人間はつい求めてしまう。
ゲーム、賭博が中毒化するのも全て「いないいないばあ」である。

芸術家にはハチャメチャな人生を送った人がたくさんいたし、格闘家や芸能人もそうです。そこまで行かなくても、日常において、今日はいいやと過剰に食べたり、無駄な買い物をしたり、飲んで騒いだりするのも多かれ少なかれ似たことです。(155頁)

でもそれはただひとえに快である「ばあ」を待つ為なんですよ。
そして人間が求める最高の快感は何か?

「痛気持ちいい」というマゾヒズムです。(156頁)

ここから話を始める。
この続き来週のまな板の上で。



2025年02月07日

2024年12月23〜27日◆炎上の言葉づかい

世を騒がす一言ということで「炎上」という現象がよく起こる。
水谷譲も時々武田先生のことをからかうが、武田先生もワリと炎上させていて、「老害」とか、その部類に入る芸能人。
それで本屋さんで目が合った本が「ふだん使いの言語学」。

ふだん使いの言語学: 「ことばの基礎力」を鍛えるヒント (新潮選書)



(著者は)川添愛さん、新潮選書から出ている。
これは腰帯、宣伝文句にドキッとした一文が飾られている。

「なんとなく」の会話で
痛い目を見ないために。
(本の帯)

これは読みたくなる。
「人前に出す文章を添削する」「必ず書き込んだら添削する能力を自分で持て」「『言った、言わない』なぜ起こる」「SNSで気を付けたい大きな主語」「笑える冗談と笑えない冗談の違いとは何?」という、気になることがズラ〜っと。
ただしこのご本そのものは日本の言語学に於ける特徴を記した本で、これが身につまされるというか・・・

ほとんどの単語には複数の意味(語義)がある。単語が複数の語義を持つことを、「多義である」とか「多義性を持つ」などと言う。(17頁)

困ったことに裏表があったのだが、コインの裏表と違って裏と表で価値ゴロッと変わるという。

 【問題】カフェで、友人同士のAさんとBさんが話している。AさんがBさんに、最近行った海外旅行の話をしている。

 Aさん「で、バリ島着いたら、もう良い宿がいっぱいでさ〜」
 Bさん「へー。やっぱり観光客が多いところって、そうなんだね」
 Aさん「そうそう。それで、困っちゃってさ〜」
 Bさん「うん、分かるよ。選択肢が多いと、逆に迷うよね〜」
 Aさん「えっ? 選択肢が多いって、どういうこと?」
 Bさん「え? 私、何か変なこと言ったけ?」
 Aさん「うん。私、宿の選択肢がなかったって言ってるんだけど」
 Bさん「???」
(17〜18頁)

(番組内の例文は「パリ」だが本は上記のように「バリ」)

Aさんの発言の「良い宿がいっぱい」の曖昧さが誤解の原因だ。聞き手のBさんはこれを「良い宿がたくさんある」と解釈したが、話し手のAさんは「良い宿が満室だった」というつもりで言った。(18頁)

このへんが日本語の難しいところ。
ちょっと重ねていく。
(番組収録中に立ち会っていた)スタッフの間から「わからない」というのがある。
この手のわからなさが炎上するきっかけになる。
つまり今、ラジオで喋っているから伝わる部分があるが、文字になるとわからなくなるという日本語がある。
例えばこの日本語。
「これ紅茶じゃない」
これは当然二つの意味がある。
日本語というのは非常に意味が多義的というかいろんな意味に解釈できるという言語なんだ、という。
つまり同じ文章なのだが、これは否定と断定が二つ入っている。
「紅茶ではない」というのと、「これは紅茶に間違いない」という、真逆の意味が入っている。
ガラスの向こう側でディレクターが懸命にまばたきばかりしていて意味がわかっていないようだ。
でもどんどん重ねていく。
皆さんも口の中でつぶやきながら今週お付き合いください。

 【問題】AさんとBさんが、とあるSNSを通じて、文字で次のような会話をした。−中略−
 Bさん:何言ってるの。今日はあなたのせいで負けたんじゃない。

 この会話におけるBさんの「今日はあなたのせいで負けたんじゃない」という発言は曖昧で、少なくとも二通りの解釈がある。
(20頁)

もしBさんのいう「あなたのせいで負けたんじゃない」の「じゃない」が否定のそれであれば、Bさんの意図は「今日はあなたのせいで負けたわけではないよ(だから、責任を感じる必要はないよ)」である。−中略− 他方、もしBさんの「じゃない」が事実確認のそれであれば、Bさんは「今日はあなたのせいで負けたのよ(だからあんたは『またみんなで頑張ろうね』とか言える立場じゃないだろフザケンナ)」と言っており−中略−こういう危うい「じゃない」はSNSなどで頻繁に見られるので、注意が必要である。(21頁)

確かに炎上した案件を今、思い出しても、聞いた感じはそうでもないが文字にすると凄く尖って見えるというのがあったと思う水谷譲。
これは本当に難しいというか何というか・・・
つまり言葉というのはどういうものかというと、個人で一対一で話す言葉と、会話しているところを誰もから聞かれているとなると、伝わり方が全く変わる。
「これぐらいのことを言ってもあの人は怒らない」と思って言ったことが他の人に聞かれると「何ていう言い方をするんだ」ということになりうるということ。

日本語というのは非常に意味が多義的というか、いろんな意味に解釈できるという。
そういう意味では非常に炎上しやすい言語なんだ、という。
例えばこういうもの言いが炎上してしまう。

「かっこいい俺の車を見てくれ!」(67頁)

「かっこいい」という言葉が「車」を修飾している解釈と、「俺」を修飾している解釈があるからだ。前者の場合はあなたの意図どおりに「かっこいいのは(俺の)車である」という解釈になるが、後者だと「かっこいいのは俺」というナルシスト解釈になる。(68頁)

これは決してその方の炎上がどうのと批判しているワケではない。
「あの人のこの一言は気に入らない」とか、そんなことを言っているのではないので聞いてください。

昨日問題に出したのはこれ。
「これ、紅茶じゃない」
その次、これも二つの意味がある日本語。
「おまえのせいで負けたんじゃない」
困ったことに大人になればなるほど成熟度が増せば増すほど、或いは二人の関係が密になればなるほど言葉遣いは複雑になっていく。

 お医者さんのアドバイスその1
 胃腸を休ませるために、これから数日は空腹になるまで食べないようにしてくださいね

 お医者さんのアドバイスその2
 胃腸を休ませるために、これから数日は、満腹になるまで食べないようにしてくださいね
(31頁)

「空腹になるまで食べないでくださいね」では、「ない」の影響範囲は「食べ(る)」のみで、「空腹になるまで」を含んでいない。そのため、「『食べる』ということをしてはいけない、空腹になるまでは(=空腹になるまで、食べ始めてはいけない)」という意味になる。他方、「満腹になるまで食べないでくださいね」では、「ない」が満腹になるまで食べ(る)」全体に影響しているため、「『満腹いなるまで食べる』ということをしてはいけない(=満腹になる前に食べるのをやめろ)」という解釈が出てくる。(34頁)

これが病室で言われたりすると逆に取られたりするという。
その可能性がある。

誤解だけではなくて、日本語の中にはいわゆるコミュニケーションの中にもう誤解させるような言い回しがある。
それをどう解くか、或いは解くところに二人の間柄がある。
その言葉遣いの難しさ。
これも言語学の方から拾っていく。
これは著者から指摘されて武田先生もハッとしたのだが。
三つ言葉を並べる。
本当はどういうことを意味しているかを感じてください。

 (1)友人から、「今から来れる?」というメールが来た。−中略−
 (3)窓の近くに立っていたら、人から「そこの窓、開けられますか?」と言われた。
 (4)好きな人に告白して、付き合ってくださいと言ったら、「実は私、好きな人がいるんです」と言われた。
(47頁)

実際、私たちは(1)のような発言を、「今から来て」というお願い(あるいは命令)だと解釈しがちだ。
 ここで注目すべきなのは、「今から来れる?」という文そのものは疑問文であり、お願いや命令の形をしていない、という点だ。つまり「お願い」や「命令」は、「今から来れる?」から直接出てくる意味ではない。にもかかわらず、私たちが「今から来れる?」をただの質問ではなく、お願いや命令だと解釈するのは、相手がなぜ自分に対して「あえて」このように尋ねているか考えた結果、「相手は私に来るように依頼(命令)している」と推測するからだ。こういったものが会話的含みである。
(48頁)

(3)の「そこの窓、開けられますか?」も(1)に似た例で、−中略−これも表面上は疑問文であり、依頼や命令の形をしていない。(49頁)

「開けてよ」ということ。
それを感じなかったら相当鈍感な人。
それから若い男女のやり取り。
女性の方が交際を申し込んだ男性に向かっての返事。
「私、好きな人いるんです」
「ていよく断られた」と思う水谷譲。
「私好きな人いるんです」
これはお断りの意思表明ではない。
「他に好きな人がいるのであなたとはお付き合いできません」ではないのか?と思う水谷譲。
その好きな人よりもあなたのことがもっと好きになる可能性がある場合にこういう言い方をする。
「私好きな人いるんです」
それは交際を断っているワケではない。
今、現状について話しているワケで。
「交際してください」と言って「私好きな人いるんです」。
確かに本当に断るんだったらもっとはっきり断ると思う水谷譲。
「私あなたとは付き合えない」
「好きな人いるんです。でももしかしたらあなたにも可能性あるかもよ」ということかと思う水谷譲。
女性にとって男性を選ぶというのは重大な行為だから、やはり「どっちが重いか」みたいなことはある。
(このあたりの説明は本の内容とは異なる)
恋愛の困ったところは内田樹さんの本で読んでハッとしたのだが、一番大好きな人を大嫌いと言うという。
男女の関係の中で女性は特に。
その時に「言葉を真に受けるヤツはバカだ」という。
それから「そこの窓、開けられます?」
可能性を聞いているが、可能性を聞くんだったら「このバスのその窓開けられます?」。
「その」「この」が付いて、バスの窓の話になるハズだという。
そこの窓が開くか開かないかを聞いている以上は「開けて欲しい」という「遠まわしの強い依頼」という。
これは面白い。
しかもこれが日常の会話、普段使いだけではなくて比較的メディア媒体等々でも非常に曖昧な、相手に決定を預けるような言い方がテレビ・ラジオメディアではないだろうか?

著者はこんなことを言っている。
天気予報でキャスターが予報する時、明らかにその情報の確信の度合いを聞き手に任せるという。

 明日は雨が降るだろう
 明日は雨が降るかもしれない
(119頁)

A(前者)の方が(降水)確率が高いと思う水谷譲。
もう水谷譲はちゃんとわかっている。
明日は雨が降る「でしょう」の場合は雨が降る確率は50%以上。
降る「かもしれません」は50%以下。
そういうことを日本人は聞き分けている。

 (1)私は予言する。1999年、天から恐怖の大王が降りてくるだろう。
 (2)私は予言する。1999年、天から恐怖の大王が降りてくるかも知れない。
(119頁)

と言うと、やはりA(前者)の方が「50%以上来るな」という。
つまり我々はかくのごとく複雑に複雑に言葉を解釈する世界に。

武田先生はこの本を読んでいて凄く面白かったのはこの大学の大先生、川添愛さんという方もおっしゃっているのだが

 実のところ、私たちは自分の母語について、習ってもいないことを非常に多く知っている。(15頁)

だからほんのちょっとの言葉遣いの違いを一瞬のうちに学校で教わっていないのに学び取っているという。
教わることではないと思う水谷譲。

 (1)a.−中略−朝起きたら必ず一杯の水を飲むようにしています。
    b.
−中略−朝起きたら必ず水を一杯飲むようにしています。(122頁)

どっちが重大事件でしょう?
どんどん行く。
同じ問題。

 私は夏休みに二冊の本を読みました。
 私は夏休みに本を二冊読みました。
(121頁)

どっちの本が重大だったか。
A(前者)だと思う水谷譲。

 それほど明確な違いではないが、それでも(1)のaの「一杯の水」の方は、bの「水を一杯」に比べると「なんとなく特別な感じ」がある。(122頁)

日本語の微妙な言い回し。
日本社会の中でSNS等々で炎上騒ぎを引き起こしやすい原因にもなっているのではないか?
言葉遣い。
これは一体何が問題なんだ?
川添愛さんがお書きになった「ふだん使いの言語学」新潮選書から出ている。
その日本語の特性だが、この著者、川添さんがおっしゃっている中で助詞の複雑さがある。
このへんはもう「プレバト!!」。
俳句の先生。
助詞のちょっとした使い方で意味合い、ニュアンスがが変わる。
例えばこういう表現
「ゴジラは銀座方面へ歩き続けた」
次の言い方
「ゴジラが東京湾へ帰ってゆく」
これが実は「前進」と「後退」を表している。
「ゴジラは銀座方面へ」と言った場合は、その前もゴジラはもうすでに登場している。
つまりキャメラがあってキャメラに向かってゴジラは歩き続けてきている。
それが「ゴジラは銀座方面へ歩き続けている」。
そのゴジラがフッと背中を向けたら「ゴジラが東京湾へ帰ってゆく」。
そういう助詞の僅かな違いでゴジラが前を向いているか後ろを向いているかがわかるという。
このへんが面白いところ。
難しい言い方をする。

「が」が「格助詞」とされているのに対し、「は」は「副助詞」などとされていることが多い。(125頁)

 副助詞は、−中略−「それが付いた語句を取り立てる」−中略−「何らかの意味を付け加える」(126頁)

では格助詞は。

「は」は旧情報に付き、「が」は新情報に付くというものだ。−中略−
 ・「は」はそれまでの文脈ですでに登場しているものに付く。
 ・「が」は、それまでの文脈には現れておらず、新たに登場するものに付く。
(126頁)

「は」は古い情報、「が」は新しい情報の取り立て。
「武田鉄矢〔は〕歯を磨いている」と「武田鉄矢〔が〕歯を磨いている」は、「武田鉄矢が磨いている」は「今」だと思う水谷譲。

もっと細かいところにいく。
A「あそこに狸〔は〕いるよ」
B「あそこに狸〔が〕いるよ」 
Aは動物園の会話。
「あそこに狸はいるよ」「狸の檻があるよ」という。
ところが世田谷通りでばったり交差点で狸を見つけた場合は「あそこに狸がいるよ」。
「は」と「が」でこれぐらい変わる。

この他にもいっぱい面白い例がある。
A「ちょっと待ってください。ちょっと難しいです」
これは副詞として同じ意味合い。
B「少し待ってください。少し難しいです」

「ちょっと」を「少し」に置き換えてもほとんど意味が変わらないし、違和感もない。(176頁)

「少し難しい」の方は「ちょっと難しい」に比べると、いくぶんポジティブに聞こえると思う。(177頁)

「ちょっと」と「少し」は同じ意味。
ところがそれが会話の中に入ってくると「ちょっと難しいですねぇ」と言われると「ああ、もうダメだ」。
ところが「少し難しいですねぇ」と言われると「お!可能性あるぞ」、こうなる。
このへんの日本語の面白さがたまらない。

さて、この他にもこの本の中にはギッチリと日本語の複雑さが書いてある。
いっぱい文法上の問題とかもあるのだが、武田先生が月曜日にお約束したのは「普段使いの言葉がSNS等々の社会の中で炎上騒ぎを起こして火の粉を舞い上げる」という。
「これはどうしてなんだろう?」という。
これは三枚におろしながら一生懸命考えている。
炎上と言葉遣いの問題。
著者がおっしゃる通り「自分の言葉というのを意識的に見つめるという、そういう普段を持っていないとダメですよ」という。

世を騒がす一言ということで「炎上」という現象がよく起こる。
それでまな板の上に置いている本「ふだん使いの言語学」川添愛さん、教授の方がお書きになった本。
(教授ではなく准教授のようだ)
ご本の中にあった例ではないのだが、ある哲学者の方がおっしゃった言葉の中で「そう言われてみると不思議だな」という言葉遣いがあった。
「痛い」
他者に向かって「痛い」と訴えている。
その「痛い」は何を求めているのか?という。
「痛い」を理解するということは困難に近い。
人の痛さというのはわかりにくい。
その「痛い」という人に対して「本当だろうね?」というのはある。
「どのぐらい?」とかというのはあると思う水谷譲。
「眠れないぐらい」とかいろいろつかうのだが。
つまり日本人が「痛い」と言う時に訴えようとしていることは「痛さ」ではないという。
これは面白い。
これはある哲学者の方がおっしゃった言葉。
では「痛い」ということで何を訴えているのか?
「痛いから優しくして」とかだと思う水谷譲。
つまり「あなたの行動をどうするか」ということを決定する言葉が「痛い」で、「私に近寄らないで」とか「触らないで」とか「ちょっとあなたと口が利きたくない」とか。
つまり、これからあなたが取るべき行動を指し示す一言が「痛い」という。
そうやって考えると、日本語というのはこの手の表現が山ほどあるワケで、いろいろ言葉が次々問題を起こすという時代になっているが、そういう意味で言葉を理解するリテラシーというのは難度の高い技。

本に戻る。
この方が「炎上をきちんと整理してみよう」という。
(本の中では「炎上」ではなく「現象」)

 (1)現象を観察する
     ↓
 (2)個別の現象の観察から、法則性を見出す(一般化)
     ↓
 (3)法則性を説明できるような理論を作る
     ↓
 (4)理論から予測を出す
     ↓
 (5)実験によって、理論の予測が現実と合っているか検証する
     ↓
 (6)間違っていたら(3)に戻る
(219頁)

とにかく皆さん、身の回りで起こった炎上騒ぎをしっかり観察しましょう。
誤解されない日本語の使い道の中で一番最初におっしゃっていたことが

 言葉のトラブルにつながりやすい、「主語が大きい」ケース(199頁)

 俗に「主語が大きい」と揶揄される分というのは、一般名詞(句)が「その属性を持つものすべて」のように解釈され、なおかつそのような解釈が現状からみて「言い過ぎ」であるような文章だ。(28頁)

靴紐が上手に結べずに苦戦している人を見て、そういう時に一般論を持ってきてその人を否定する。
それは非常に相手を傷つける言葉になる。
例えば水谷譲が何かを失敗した時に「だから女はダメなんだよ」ということかと思う。
その「女」が主語がデカい。
炎上という社会事件が起こるが、武田先生も時折、不用意に発言したことで炎上騒ぎになったりするワケだが、こんなふうにして川添愛さんの法則等々を学ぶと、日本語というのがもう一度胸に沁み込んでくる。

川添愛さんの著書「ふだん使いの言語学」これを大元にしてお送りしたワケだが、まだ不思議な言葉がある。
時々トイレで見かける言葉。
よく読むと不思議。
「きれいに使っていただいてありがとうございました」
これから使おうとしているのに、もうお礼を言っているという。
その方がこっちが「あっ、きれいに使おう」と思う水谷譲。
この言葉遣いの面白さは「これからあなたがやるであろう行為を決定して伝えている」という。
「汚く使うなよ」ということを言う為に「きれいに使ってありがとうございます」。
先にお礼を言っておくという。
これは言語学で言うとどんな表現になるのか?
「未来完了形」とか。
つまり「言葉が先回りしてあなたの行為を未来で待っている」という。
そうやって考えると言語学というのは深いもの。
日本語にはこの手の表現が山ほどある。
武田先生は一つピンとこないところがあるのだが、それでも覚えている文章で、内田樹さんが司馬遼太郎さんの文章を褒めて「この人の文章の面白さは未来完了形だ」とおっしゃっている。
「竜馬が日本を夢見た。その通りにきっとなるであろう」という、こういう語り口調が人間に希望を感じさせるということ。
ちょっとややこしい話が続いたが、来週はまた別ネタで。


2025年01月28日

2024年12月9〜20日◆ジュリー(前編)

まな板の上はちょっとふざけたが沢田研二さんジュリーを置いてみよう。
これは前からやりたかったのだが、面白い本が手に入った。
「なぜ、沢田研二は許されるのか」

なぜ、沢田研二は許されるのか



実業之日本社というところから出ている。
田中稲さんという方がお書きになった本。
武田先生の感覚としては同じ時代を生きて、スタジオのどこかですれ違ったことのあるというタレントさん。
武田先生達ローカルフォークシンガーからすると、もうオーラが全く違う方で。
沢田研二さん。
通称「ジュリー」だが
「アイドル」であり「シンガー」であり「アクター」であり「タレント」でもあった。
時にコメディなんかもやっておられて、志村けんさんとおやりになっている。
文化放送でもレギュラーを志村さんと一緒に持ってらっしゃった時期があると思う水谷譲。
(「What's a Wonderful Radio ジュリけん!」2001〜2003年)
武田先生の印象だが楽屋では物静かな方だった。

 沢田研二がザ・タイガースの「ジュリー」としてデビューしたのは1967年、彼が19歳のときだ。−中略−ザ・タイガースは同年2月に『僕のマリー』でデビュー。(18頁)

(本放送ではここで「僕のマリー」が流れる)

僕のマリー



ニックネームの由来は、「ジュリー・アンドリュースのファン」というものだった。(18頁)

ということで付いた名前が「ジュリー」。
ジュリー・アンドリュースというのはその頃、大ヒット作品「サウンド・オブ・ミュージック」や「メリー・ポピンズ」で主演をなさっていた女優さん。

サウンド・オブ・ミュージック (吹替版)



メリーポピンズ (吹替版)



続いて5月にリリースされた夏らしく爽やかな『シーサイド・バウンド』で大ブレイクを果たす。
(本放送ではここで「シーサイド・バウンド」が流れる)

シーサイド・バウンド



 そして、8月にリリースした3枚目のシングル『モナリザの微笑』(18頁)

(本放送ではここで「モナリザの微笑」が流れる)

モナリザの微笑



 その後も『君だけに愛を』−中略−、『花の首飾り』(19頁)

ヒットが続くワケだがジュリーの存在に磨きをかけたのは、天才である「すぎやまこういち」というテレビゲームの音楽で高名になる方。
すぎやまさんはもともとクラシックが好きだった。
イギリスから出たロックグループ「ビートルズ」はサウンドの中にクラシック、バロック音楽が入っている。
それですぎやまさんは沢田さんのところのタイガースというグループを知ると、これを試したいということで、こういう歌になる。
「花の首飾り」
(本放送ではここで「花の首飾り」が流れる)

花の首飾り



歌を辿りつつ沢田研二、この人の歴史を、レジェンドを辿ろうと思う。

沢田研二さんを三枚におろしているワケだが1960年代の終わりの方、娯楽面というかそういうところを大波が立った時代で、沢田研二さんのいるタイガースというのはその中でもトップグループで「シーサイド・バウンド」「モナリザの微笑」「花の首飾り」「君だけに愛を」 と連続ヒットが続くワケで、アイドルとしては人気絶頂。
音的にはバロック音楽をサウンドに加味したGS・グループサウンズで、衣装はというと「少女漫画の王子様」これがイメージであったという。

アイドルグループのジャニーズが解散した理由を「タイガースが出てきたから、これはもうかなわないと思って解散した」と聞かされたそうだ(140頁)

「楽器を演奏しながら歌う」というのが流行りになってしまって、運動靴を履いて踊っている人があんまり恰好良く見えなくなってしまったという。
不動の人気者になったタイガース。
沢田研二さん、ジュリーだが、こうやってみると武田先生も、こんな時代をよく生きてきた。
この60年代の終わりから70年に入るやいなや、音楽の流れが変わってしまう。
フォークソングが大ブームになる。
電気楽器というのは仕掛けがかかるが、フォークソングが立ち上がると気軽にギターで歌えるというのと、もう一つタイガース・沢田研二あたりとは大きく流れを変えたのは歌う人が自分で作る。
「シンガーソング」「自分で作詞作曲をやってしまう」となってくる。
そして沢田研二さん、ジュリーのいる歌謡界とは違ってこのフォークソング一派というのは歌のテーマを変えてしまう。
これはやはり歌謡界にとっては、沢田さん達にとってはショックだったろうと思うが「(ザ・)フォーク・クルセダーズ」が朝鮮半島の南北問題を歌にした「イムジン河」、そういう歌を歌う。

イムジン河



岡林信康というフォークシンガーは差別や貧困を歌う。
高石ともやは3Kの労働者のワークソングを歌う。
「俺らの空は鉄板だ」とか。



これは地下工事をやっている肉体労働者の歌。
こんな歌と「花咲く〜乙女たちは♪」とは全然歌質が違う。
そして決定的だったのはローカル、広島シティからトップオブリーダー・吉田拓郎というフォークシンガーが出てくる。
この吉田拓郎というフォークシンガーは恋だけではない。
若者の絶望や苦悩を歌う。



「祭りのあとの淋しさは♪」とかと、しわがれた声で歌うと・・・
もちろん甘いラブソングも作る。
だが、吉田拓郎のラブソングは、沢田さんが生きている世界とは違う。
例えば最も枚数を売り上げた一曲だが「結婚しようよ」。

結婚しようよ



考えたら珍妙な歌。
こんなラブソングは今まで日本の歌謡界に無かった。

僕の髪が肩までのびて
君と同じになったら
約束どおり
−中略−
結婚しようよ
(吉田拓郎「結婚しようよ」)

という。
「髪の長さが男女同じになったら結婚しようよ」という。
何で髪の長さが同じになったらだったんだろうと思う水谷譲。
わからない。
でもその当時この一文句は若者に凄くウケた。
つまり後ろ姿ではもう男女の区別がつかなくなった。
長髪ブームの時。
「無帽の時代」と言われて、若者が一切帽子を被らなくなった。
「髪の毛(の長さ)が一緒になったら結婚しようよ」
価値観の大変動。
若者の歌う歌は大人がそれまで持っていた価値観を全て否定して、若者だけの価値観でラブソングができる。
それでジュリーの歌うところの「男の歌」というのは価値を落としていく。
「価値を落とす」と言っていいのではないか?
支持されなくなってしまう。
しゃがみこんで「君だけーに〜♪」とか「オ〜プリーズ、オ〜プリーズ♪」ではもう時代が反応しなくなった。
このフォークソングのブームに続いて都市型のアーバンジェネレーションが立ち上がる。
これがいわゆるニューミュージックの波。
フォークブームに続いて出てきたニューミュージックというのはユーミン、陽水、小椋佳。
「真っ白な〜陶磁器を♪」



陶磁器を見つめないとダメ。
大変。
若者の小さな問題が、それが社会問題となるという。
井上陽水「都会では自殺する若者が♪」。



それで決定的になったのは荒井ユーミンの登場。
「あのひとのママに会うために♪」



「ママに会う」
洒落ている。
グループサウンズの方は、もうフォークブームとニューミュージックの波に押されて、砂の城のように崩れていったという。
このあたりから沢田研二の苦闘が続くが、ここがレジェンドの始まり。

武田先生達の青春の頃。
武田先生の青春は1970年代。
72年に東京にやってきて、74年に「母バラ」の大ヒット。

母に捧げるバラード (Live)



77年には「幸福の黄色いハンカチ」に出て

幸福の黄色いハンカチ デジタルリマスター2010



79年には「(3年B組)金八先生」という。

3年B組金八先生第1シリーズ DVD-BOX [DVD]



その芸能界の真ん中にいたのが沢田研二さん。
GS・グループサウンズで名を成したのだが、その後フォークブームが始まってフォークからニューミュージック。
そうするともう歌の流れがガラッと変わってきた。
その時に沢田さんは戦っておられる。

ザ・タイガース解散後、短期間の活動となったバンド・PYG(ピッグ)(13頁)

水谷譲が知らないのも当然でパっとしなかった。
惨憺たる目に遭う。
ヤジを飛ばされてしまって。
「ロックのツラして入ってきやがった」ということで。
後ろに内田裕也さんとか大盾がいるのだが、どんどん新しい人が出てくるもので「GSがロック仕立てでもぐりこもうとしている」というのが・・・
ショーケン(萩原健一)さんとツインボーカルでやったりなんかしている。
それでも全然ウケない。
時代というのは恐ろしい。
「女の子の為にキャーキャー言われるが為にオマエらロックのふりしてるんだろう」という。
そういうことで仲間達も揺れ始めて仲間の大半が離れていく。
そのトップバッターが堺正章。
この人はタレント化していく。
そしてテンプターズのショーケンさんは役者へ、ということで別の道を歩き出す。
でも沢田さんはジュリーのまま歌謡界に挑み続けた。
これがこの人の偉大なところで、よく考えるとこの人は大変な人。

1972年、タイガース解散から二年後のことだが、ジュリーは再びシングルを発売してそのシングルでオリコントップに立つ。
これがこの歌「危険なふたり」。
(本によると「危険なふたり」のリリースはは1973年)
(本放送ではここで「危険なふたり」が流れる)

危険なふたり



 作詞は安井かずみ、作曲を担当したのはザ・ワイルドワンズのリーダーでギタリストだった加瀬邦彦で、加瀬はこの曲から沢田研二の活動に深く携わることとなる。(21頁)

沢田さんは何を考えたか?
これは(著者の)田中さんが教えてくださったが、ジュリーは沢田さん「演じる」ところのジュリーはフォークが反体制、そしてニューミュージックが文芸であるのに対し

 沢田研二の魅力を「花」として見ていた「少女たち」に対して、「はるか年長のプロの男たち」は「毒」としている(27頁)

そういう存在になる。
「毒」と「花」。
それが歌のテーマになっていく。
そしてヒット曲が続く。
まずはこの歌「勝手にしやがれ」
(本放送ではここで「勝手にしやがれ」が流れる)

勝手にしやがれ



『カサブランカ・ダンディ』など、名曲を次々と発表する。(29頁)

カサブランカ・ダンディ



 阿久は−中略−次のように述べている。−中略−これは、やせがまんの歌である。やせがまんをカッコ良く思わせたかった。(29〜30頁)

どこにいますか?
やせ我慢でぶざまで恰好悪い。
それは武田先生のこと。
誰も真似できない。
唯一無二の沢田研二。
彼の奮闘はまだまだ続く。

 1980年1月1日、沢田研二は29枚目のシングルとして『TOKIO』を発表する。(32頁)

TOKIO



作詞は−中略−コピーライターの糸井重里。(32頁)

作詞家ではない。
このあたりからちょっと阿久悠さんと距離を置くようになる。
これは沢田さんがテーマを変えた。
70年代の「やせ我慢」、80年代に入ると沢田さんはジュリーに別のテーマを背負わせる。
そのテーマは何か?
田中稲さんが書いた沢田さんの本に書いてあった一言でギクッとした。

「道化」に徹するという策だったのかも知れない。(35頁)

「ピエロ」を演じている。
「TOKIO」は相当記憶に残っている。
びっくりした水谷譲。
「パラシュートを背負ってきたよ」みたいな。
あれは異様。
「ピエロ」「道化」と言われるとピンとくる。
パラシュートを背負って空中を飛び降りる。
あれは何かピエロ的。
沢田研二さん演じるジュリーは80年代、「時代の道化であろう」と。
よく「TOKIO」なんて思いついた。
「TOKIO」は町の名前。
それも外国人が「トーキョー」をうまく発音できずに言う「東京」の呼び名が「TOKIO」
何で歌にしたのだろう?
歌謡界は面白い。
これはフランクシナトラ。
「ニューヨーク・ニューヨーク」
(本放送ではここで「ニューヨーク・ニューヨーク」が流れる)



町そのものを舞台にして歌い上げる。
シナトラが摩天楼のセットを舞台に「New York, New York♪」と歌う。
あれを聞くともうニューヨークが浮かぶ水谷譲。
それを沢田さんにやらせる。
しかもパラシュートで東京を真上から俯瞰で見ているという・・・
このスケールで歌える人は沢田研二さんしかいない。
(本放送ではここで「TOKIO」が流れる)

TOKIO (Single Version)



この80年はまた別種の音楽のグループが出てきてライバルだらけになる。
沢田さんはライバル達に取り囲まれる。

クリスタルキングの『大都会』(34頁)

(本放送ではここで「大都会」が流れる)

大都会



オフコースの『さよなら』(34頁)

(本放送ではここで「さよなら」が流れる)

さよなら(オフコース)



アリスの『終止符』(34頁)

(本放送ではここで「終止符」が流れる)

秋止符



海援隊の『贈る言葉』といった叙情的な曲が多い。(34頁)

(本放送ではここで「贈る言葉」が流れる)

贈る言葉



(「贈る言葉」は)大ヒットしたと思う水谷譲。
ギラギラするような個性が沢田さんを取り囲んでいる。
沢田さんはこれらのライバルを相手に「きゃつらにできないことを僕はやってみせる」。
それは何か?

「僕は見世物でいいってやりだしたわけです」(34頁)

「見世物」というのが凄い。
他の人たちは見世物になりたがらない。
でも沢田さんは敢えてそこをとったという。
例えば映画の世界では「魔界転生」で死後の天草四郎。

魔界転生(1981年)



三億円事件の実行犯役の『悪魔のようなあいつ』(105頁)

悪魔のようなあいつ DVDセット1・2 / 沢田研二



原子爆弾を製造し国家を脅迫する青年教師を演じた『太陽を盗んだ男』(105頁)

太陽を盗んだ男 [DVD]



そういう圧倒的な「毒」、それをジュリーが演じる。
「花」と「毒」、そして「道化」。
誰も演じられないものを沢田さんは次々と演じていく。
著書の中で沢田さん自らおっしゃっているのだが「自分の人生はヒット&エラーだ。だからありとあらゆる挑戦に乗り出していく」。
著者は「ヒット&エラーで挑むという、その挑戦心がジュリーなんだ」という。
(本の中では「トライ&エラー」となっている)
次にどこの分野でヒットを狙ったか?
沢田研二さん、この方は時代と一緒に自分の歌も変えてゆくという、ヒット&エラーを全く恐れない。
沢田研二さんは歌の世界、いかな人とでも付き合っておられる。
沢田さんは80年代になると松任谷ユーミンさんのところに詞曲を依頼したり、忌野清志郎さんのところにも行っている。
いろんなところを訪ねて。
この時に、ご本人は全く知らないが、武田先生のところにも(「曲を作ってください」という依頼が来た)。
詞を書いたりする人間に「沢田研二(に歌詞を提供する)」というのはやってみたくなる。
それで作品は作った。
全然有名ではない。
それは実はこれは沢田さんの為に作った一曲。
「俺が信長」
(本放送ではここで「俺が信長」が流れる)



これは本当は沢田さんだった。
沢田さんは信長顔だと思う武田先生。
だからステージに立つ時に、布で作った外套ふうの甲冑を着せる。
そこまでイメージして作った。
ピンスポを当てると彼が太刀を持って出てくるという。
竹光でいい。
馬を叩くムチでもいい。
それで信長を歌う。
それは何で実現しなかったのかと思う水谷譲。
たいした作品ではなかったのだろう。
でも面白いと思う水谷譲。
「お聞きですか?沢田さん」
もう遅い。
これは沢田さんはもちろんご存じない。
多分、沢田さんのスタッフがいろんな人をノックするうちに「やってみねぇ?」という軽い話でやってきた話だと思う。
自分で作った本に書いている。
「『俺は信長』という奇抜な歌を考えたが採用されなかった」
武田先生の感想からすると、間違いなくジュリーは創作を刺激するアイドルであった。
「作りたい」という気になる
本当にこの人は時代との格闘が凄い。
1980年代後半、沢田さんのもう「もってこい」の時代がやってくる。
それが何かというと「バンドブーム」。
GSと同じようにグループサウンズ的な音がもの凄くもてはやされた時代。
しかもそのバンドブームと一緒にアイドルブームも起きる。
沢田さんはキャリアの中で両方をお持ち。
タイガースでバンドブーム、そしてジュリーでアイドルブームを。
80年代後半はまさしくその時代が来る。

 1980年代半ばからは、−中略−ザ・チェッカーズや−中略−、安全地帯などのバンドが勢力を増し(38頁)

おニャン子クラブが若者に圧倒的支持を得て(39頁)

たのきん。
そういうブームがやってきたから沢田さんはここでかつてのキャリアを発揮すれば彼らをブっ飛ばすほどのキャリアをお持ちだったワケだが、ちょっとこういう言い方は本当にたのきんの方とかチェッカーズの方には申し訳ないのだが、沢田さんは花としてデカすぎる。
安全地帯、チェッカーズ、おニャン子、たのきん。
ワリとまとまりやすい。
花束になりやすいグループ。
何か花として大きすぎるが故に、沢田研二というのは一輪の花。
ところがここでやってきたバンドブームとアイドルブームは花束。
それは凄くわかりやすい例えだと思う水谷譲。
決して、たのきんの悪口ではない。
どうです皆さん?
この時代と戦う沢田研二の戦いぶりというのはこれは三枚におろすに値するし、その健闘や、まさにレジェンドだと思う。
語り継ごうと思う。
ジュリー伝説。



2024年12月22日

2024年3月18〜29日◆歪んだ鏡(後編)

これの続きです。

人間の間違えてしまう「思考の穴」。
考えたことが落とし穴になってしまったというようなヒューマンエラー。
それをまな板の上に置いている。
「ついそんなふうに思ってしまう」という人間のバイアス、歪み。

先週最後の話題がニュース番組。
だいたい3時半、或いは4時ぐらいから始まってだいた5時〜5時半ぐらいまでは硬いニュース。
「国会であの人がこう言った、どう言った」とか、「経済界でこの人がああいった、どう言った」とかと。
5時半ぐらいになるとバタッと表情を変えて季節の味覚、或いは街角の人気店を紹介したり。
ニュースに必ず食べ物を添える。
これが民放のニュース番組は全部構成が同じ。
これが武田先生は不思議だったのだが。
「何か理由があるんだろうな」と思って。
考えてみれば見せるものが無い分ニュースは成立しない。
テレビの場合はそうだと思う水谷譲。
解説を入れるのが耳だから「聴覚」。
ここをさんざん使わせておいて、一息入れさせる為に「嗅覚」「味覚」を使わせるという。
これでバランスというか、飽きがこないように。
そういう工夫が番組全体でされているから、どうしても食べ物の話題をしなければならない。
全部の感覚を刺激しているということだと思う水谷譲。
これは一つだけ抜けているのがある。
「触覚」
こればっかりはどうしても、映像メディアというのは再現できない。
このあたり皆さん、日ごとのニュースというのを触覚で捉える、これが一種フェイクを見抜く手立てになるのではないかなと。
これは武田先生の考え。
皮膚でどう感じるか?
その発想で見るというのが事の本質を突けるような気がする。
フェイクというのはとにかくそれを見て、音声等を聞いて視覚・聴覚で飛び込んできたニュースであなたがびっくりする。
これは間違いなくフェイク。
何でかというとフェイクというのはびっくりさせる為の仕掛け。
フェイクの最大の特徴は驚かせること。
それがエサ。
あなたの感情を揺らす為の罠。
ならばあなたはどうするか?
いつも驚くことに慣れておくべきだ。
その驚くことを皮膚を通して驚く習慣を持つ。
そうするとフェイクを見破れるようになる。
まず何をするか?
皮膚で風を感じる。
皮膚で季節を感じる、雨を感じる。
そういう一日の時間を大切にしてください。
その皮膚から人を感じ命を感じるという。
そういう常識があなたの皮膚に宿った時、あなたはもうフェイクに騙されることはない。
何か難しそうだと思う水谷譲。
武田先生もそう思う。
ただ、皮膚を鍛えるということに関しては学習法がある。
これも本には書いていない。
武田先生の独創。
夏井(いつき)先生。
俳句を作る。
俳句は皮膚情報。
五七五の文字を詠んで皮膚に何か感じることができたら、それはあなたの皮膚が順調に成長していること。
夏井先生も褒めてくれる俳句は皮膚情報に伝わってくるヤツ。
確かに夏井先生が添削してから詠み返すと「おっ!伝わる!」と思う水谷譲。
「あ、風感じるよ、こっちの方が」みたいなのがある水谷譲。
時々あの番組に呼ばれることがある武田先生。
「プレバト!!」
その時にやはりしみじみ思った。
俳句というのは皮膚感情なんだ。
皮膚に伝わる感情なんだ。
前もドナルド・キーンさんの時に水谷譲に小林一茶という俳人が上手いという話しをした。
あの人の句の中で「雪とけて村いっぱいの子どもかな」。
皮膚を感じる。
三月、これぐらいになると冬の厳しいところでも「雪とけて村いっぱいの子どもかな」、皮膚に訴えかける情報が入ってくる、
温度も感じるし、聴覚で子供達のキャー!という声、陽射し、それから雪が溶けて真っ黒い地面が出てきた土の臭い。
俳句というのは、歌というのはそもそも皮膚情報のことではないかな?という。
だから皮膚で感じるものというのは伝えられるニュースの本質をいとも簡単に捕まえてしまって言葉で解説される、その必要がなくなる。
その為には皮膚を鍛えましょう。
それが人間の思考の穴をふさぐ唯一の手立てだと思う。

著者はアン・ウーキョンさんという大学教授だが、この方は人間の考えごと、誤謬は何で間違ってしまうか?
それはたった一つの答えを求めるからだ。
思考に穴が空かない、考え事をしてもいいが穴が空かない。
そういう方法があります。
それをお教えしましょう。

人間は正しい答えを求めようとすると考えに罠というか穴ぼこに落ちてそこから動けなくなってしまう。
正しいことというのはそういう意味ではたくさんの人を間違った方向に導き出したエサであるし、罠。
その穴をとにかくふさぎましょう。
若い人、年よりのお爺さんの言うことだが、どこか頭の隅に置いておいてください。
思考の穴に落ち込まない為に。

 日々の生活のなかで、明らかに理屈に合わない判断を下さないようにするためには、そうした資料の数字をより深く理解する必要があり、−中略−そのために知っておくべき概念が少なくとも3つある。−中略−「大数の法則」「平均への回帰」「ベイズの定理」だ。(163頁)

 大数の法則は、−中略−「データは多いほどいい」という意味である。(164頁)

平均気温、二酸化炭素濃度、海面上昇、そういう情報をかみ合わせて「温暖化」という事象を見ましょう、と。
事実なのでデータは大切だと思う水谷譲。
そういうこと。
このデータ、それも少なくてはダメ。
この中で面白いのはアメリカでいた。

「地球が暖かくなってるなんて嘘ですよ。だって私は今日、寒かったですから!(165頁)

でも大数の法則で言えば温暖化、平均気温、二酸化炭素濃度、海面上昇等々を見るともう間違いない事実で対策を打たねばならないということ。
これが「大数の法則」。
二つ目「平均への回帰」。
(以下の「平均への回帰」の説明の内容は本の内容とは異なる)
百人のアンケートの平均よりも、街頭インタビュー・動画の方に人間はつい影響を受けてしまう。
動画の方に強い印象を受けてしまうのは、これは「平均を無視する」という歪みが生じているんだ。
インタビューで特に政治的な意見を求める時は少数意見を併記する。
これはテレビがよくやっていること。
でもこれは「何人のうちのいくつの意見だ」ということを言わない。
「分母を言わないとダメよ」という。
それは見ていて思う水谷譲。
テレビは必ず両論を両方並べる。
少数意見を併記する。
しかしこれでは見た印象からするとまるで両論が拮抗しているような、街の五分五分の意見のような印象を残す。
データのスケール、つまり分母をしっかり語る、これが「平均の回帰」なんだという。
そしてもう一つが「ベイズの定義」と言われていて。
これは人間の思考、考え方の悪癖。

あなたの目の前に別の何かがあり、それは動物だということしかわからない。動物であることを踏まえるなら、その何かがコアラである確率はどのくらいになるか?
 それは絶対に100パーセントではない。
(185頁)

「でもシルエットから見ればコアラかな?でもこれは違う場合もある」という。
こういうシルエットでこう断じてしまったら「コアラ」と、こう断定する。
そうするとそのシルエットの向こう側の動物が全てコアラになってしまうというように頭は偏ってしまうんだ、という。
これはちょっと今、あまりいい例ではない。
こっちの方がわかりやすい。
こんなことがアメリカであった。

2001年9月11日のテロ攻撃を鮮明に覚えている。−中略−
 痛ましいことに、その怒りの矛先の一部がアメリカに暮らすムスリムに向けられた。
−中略−
 ムスリムに対するヘイトクライムは激しさを増していった。
(183頁)

9.11直後から2016年末までに起きた、死者を出したテロ事件の数が掲載されていて、−中略−アメリカで死者を出す事件を起こしたテロリストの数は、−中略−報告書のなかで数えたところ、その人数は16人だった。(194頁)

(番組内で「9.11」を「3.11」と言っているが、4月15日の番組内で訂正があった)

 ムスリムのテロリストの数である16を、アメリカに暮らす成人ムスリムの総数である220万で割ればいい。そうすると、答えは−中略−0.00073パーセントとなる。これは、FBIが1万人の成人ムスリムを拘束したとしても、そのなかにテロリストがいる可能性は限りなくゼロに近いことを意味する。(195頁)

これがコアラの見方と同じ。
似ているからといってそのものではない。
そのことをよく覚えておかないといけないという。
アメリカではこういうヘイト、まあ日本もそうだが。
必ず分母で見よう。
分子だけ見ないで分母を見る。
そうすると「何分の何」という確率が出る。
このように誤謬を正す、当たり前を使ってバイアス、歪みを矯正する。
データの分母と分子で印象操作をされることは結構多いと思う水谷譲。
水谷譲は「印象操作」という生々しい言葉を使う。
今は「印象操作」と言う。
アンケートの結果でも「いい」「悪い」とか「賛成」「反対」のその中間のものがそれをどっちに寄せるかで全く数が違ってくることがあると思う水谷譲。
「印象で操作する」というのはもの凄く感じる時がある。
このあたり、我々は真剣に考えましょう。

 あなたは医師で、あなたの患者の胃には悪性の腫瘍がある。−中略−一度に腫瘍全体にそのX線を高強度で照射すれば、腫瘍は死滅する。ただし、それほどの強度で照射すれば、腫瘍に到達するまでにX線が触れた健康な組織も死滅してしまう。
 X線の強度を下げれば健康な組織は無事だが、それでは腫瘍に効果がない。
(197頁)

ではどうするか?
医学的問題。
どうする?
そういうコマーシャルがあった
「どうする?」



腫瘍に向かって複数の方向からX線を照射すればよい(189頁)

それから何回かに分けるとか、いろんな場所から当てるとか、そういう複数のストーリーを作ることが大事なんだ。
今、世界が求めているのは複数のストーリーなのだろう。
一つのストーリーに縛るということが難しくなった時代。

まったく同じことでも、ネガティブな切り取り方をされていると避けるが、ポジティブな切り取り方をされていると喜んで受け入れる(206頁)

牛挽き肉に関するものだ。
 脂肪25パーセント、というとかなり身体に悪そうに感じる。
−中略−ところが、赤身75パーセントとなると、意味はまったく同じでも、ずいぶんと健康的で身体によさそうに思える(207頁)

カーディーラーを訪れる。−中略−
 販売員曰く、車体の本体価格は2万5000ドルだが、オプションXは1500ドル、オプションYは500ドルというように、さまざまな機能を追加できるという。
−中略−
 別のディーラーのやり手の販売員は、正反対のアプローチをとる。彼女はまず、すべてのオプションをつけた3万ドルのモデルを提示する。そのうえで、安産性を高めるオプションXを諦めるなら、価格は2万8000ドルになり、縦列駐車をサポートするオプションYも取れば、2万8000ドルになると説明する。
(219頁)

実際に引いてみせると引いて見せたところで「買う」という人が多という。
心理的にはわかる水谷譲。
これも明らかにバイアス。

ここから武田先生。
ちょっと愚痴っぽいのが入っているが、すみません。
人間というのは、本当に始末が悪いのはネガティブに惹かれる。
明るい予感と暗い予感があると暗い予感の方を聞いてしまう。
そういう傾向がある。
中野信子先生の脳の本を読んでいた。
武田先生みたいなヤツでも、年取って夜中に目が覚めるといろいろ考えてしまって眠れなくなる時がある。
それを中野先生はたった一言「あっ、普通ですよ」と言われた。
「そういうもんですよ、年を取るっていうのは」
それを聞いてホッとする。
「あ、なんだ」と思ってしまう。
ネガティブな情報、これを少しおびえながら生きているというのがどうも人間の生き方である、と。
それはおそらく長い人類の歴史の中、それこそ遺伝子の記憶の中でそれで上手くいった経験が何回かある。
悪い方の予感が当たっちゃったみたいな。
この人間の殆ど本能に近いものを利用しているのがフェイクとか辛辣な侮辱記事。
最初は思わず武田先生もギクッとして見ていたのだが、YouTubeの情報は絶妙。
例えば武田先生が見たヤツだが「嫌いな司会者ベスト10」それとか「もうやめてもいい長寿番組」とか。
それでいっぱい芸能人の悪口が書いてある。
「アイツは酷いヤツだ」とか「どこどこで遊んでた」とか「ほんと、凄ぇセコいヤツだ」とか。
ある日のこと、タラタラ指先でやっていたら、付き合っているお笑い芸人がいた。
そいつの名前が上がっってパっと見たら、そいつがろくでもないことをやっている。
「こんなことをアイツやってたのか」と思ってしまって。
こんな悪い噂を立てられて。
YouTubeなんて信用していないけど一瞬「付き合いを考えようかな」と。
それでまた他の人の悪口を探していたら「嫌われているベテラン芸能人」というのがあった。
「オイオイオイ誰だよ?」と思ったら三位が武田先生だった。
もう人間の勝手さ。
その時にパーン!とスマートホンを捨てた。

ギクシャクするネガティブな情報がある。
どうしてもそのネガティブな情報に触れなければならない。
そういうネガティブな話題を相手に仕掛ける時はどうぞ皆さん、一つのフレーミング効果を活用すること。
もう武田先生なんかも典型。
墓穴ばかり掘っている。
子供、或いは女房に対する問いかけ。
怒りを買う。
奥様の不機嫌を買ってしまう。
どういう言葉遣いか、どういうネガティブ会話かというと「おい、その服買ったの?」「宿題終わったか」「え?今日のご飯これだけ?」。
これでもう、何の考えもなく見たまま言っている。
もの凄い反撃をされる。
これはフレームの問題。
この会話を投げかけたその「フレーム」「額縁」が滅茶苦茶悪い。
皆さん、お考えになったことがあるでしょう。
ちょいと額縁がいいと何だか深い絵画に見えたり。
これと同じ。
フレーム、額縁。
人と会話する時はこのフレームを大事にすることです。
「その服買ったのか?」と言わずに「いやぁ〜、色いいね」。
褒めるところから問うてみる。
「宿題終わったか?」そう言わず「さぁ〜遊べるね」。
終わった後の楽しさから入る。
びっくりするぐらい量の少ない夕飯が出た。
「えっ?今日これだけ?」と言わずに「十分、十分」。
二つ重ねるとこれで通過できるという。
このあたり習慣が支配する。
武田先生も一生懸命自分で習慣づけている。
こういう習慣が無いから悪いフレームに言葉を入れて送ってしまうものだから、凄く怒られる。
フレーミングを意識しておくことだなと。

解釈するのは脳である。
脳が殆ど勝手に判断していく。

解釈にバイアスがかかることは絶対に止められないと理解しよう。歪んだ解釈の危険性に立ち向かうために何ができるかを考えるには、この認識を持つことが最初の一歩としてふさわしい。(273頁)

歌にしようかなと思って狙っているのだが、恋愛の難しさ。
そんな歌を博多弁で作ろうかなと。
「一番好いとう人に女は時々いっちょん好かんて言うもんね」
大好きな人間に向かって「一番嫌いだ」と言ってしまうのが女心ですよ、とか、そういうもっともっと高度な複雑なもの。
とにかく人間の言葉のフレームを磨いていくというか。

因果の刷り込み」という名前までつけた。(242頁)

最初に思い込んだことを信じ続けようとするという。
自分の持っている情報で全てを考えてしまおうとする。
その情報は世界の人々が知っていると思っているという。
人は相手の視点から考えることはできない。
やはりそう。
人の立場に立ってものを考えるということは人間にとってもの凄く難しい。
思考の穴を著者は様々に展開し、いくつもの心理実験で、考えることによってかえって思考の穴を大きくしてしまう、或いは増やしてしまうという。
それが本の後半の方で実験で示してあるのだが、やめてしまって。
でもここまで広げただけでもおわかりだろうと思うが、脳がそのような傾向にあるとわかっただけでも違う。
若い時に恋をして、その恋をした相手の人と所帯を持って50年以上の歳月を一緒に生きてきて、時々振り返ると「あの若さでよくこの人と結婚しようと思ったな」とかと思う。
その時に人間の心理の複雑さだが、やはり何べん考えても恋をした人を人生の終わりまで幸せにするという自信は無かった。
「人を幸せにする自信」というのは無い。
ある人がいたら会ってみたい水谷譲。
その自信はどこからくるんだろうと思う水谷譲。
ではあの時に「結婚しよう」という一言を言わしめたのは何なんだろう?と思う。
「勢い」ではないかと思う水谷譲。
もちろん。
その勢いは何か?
それは「この人とだったら不幸せになってもいい」という、その覚悟ではないか?
これは歌にしたらいかがかと思う水谷譲。
これこそ本当の愛の歌。
もう一曲だけラブソングを作って死にたい。
何か最近そう思ってきた。
そう思うと、とても幸せな人生。
世の中で「不幸せになってもいい」と思うことほど幸せなことはない。

「歪んだ鏡」の大まとめ。
これは万人に当てはまるという話題ではないが、この本の中、ダイヤモンド社から出ている「イェール大学集中講義 思考の穴」。
「よりよく生きる為にはいかによく考えるか?」という。
講義の本。
この方、著者のアン・ウーキョンさんがおっしゃっている例だが、こんな女性がアメリカの大学にいたらしい。

私の友人の友人の友人は生物学の博士号を取得していながら、mRNAワクチンが遺伝子に致命的な損傷を与えるという複雑で誤った理論を展開している。
 それでも、彼女の大学生になる娘は、キャンパスに戻る条件として大学からワクチン接種を求められたため、結局ワクチンを接種した。
(278頁)

(番組では親ではなく娘の側がワクチン拒否しているという話になっている)

 これは、たとえ人々の意見が大きく分かれていようとも、システムレベルで変えれば公衆衛生が守られるという一例だ。(278頁)

またいくつもの「誤信念」「知識の呪い」「自己中心性バイアス」または相手にわかりやすく話すことで「わからせている」と思う思い上がり、という弊害が人間には付きまとう。
なるほど身につまされる。
武田先生も偉そうに話していて、わからない人に「え?わかんないの?」とかと言ってしまうタイプなので。

思春期中期での自己管理レベルが高い子ほど、青年期になったときに免疫細胞に老化の兆しが多く表れたのだ。(361頁)

自分の人生をもの凄く巧みに管理している人、この人達に共通しているのは何か?
これも相当数が集まったから書いておられるのだろう。
免疫システムの性能が落ちる。
何が著者は言いたいかというと、しくじりや失敗の多い人程、人生の敗北感に耐える力が付いており、実は失敗に対する耐性が付いて、かえって生命力を高めているという。
(本の説明とは異なる)
一番最初、水谷譲に言ったネガティブ・ケイパビリティという。
不愉快な人が隣にいる、或いは隣の国がスッゲぇ不愉快な国。
でもそれがマイナスにならず、何となくその国と隣同士で生きてゆくという力。
そういう力もあるんですよ、という。

最後に実につましい、しかし重大な当たり前を説いている。
これが面白かった。

 ヨガ教室でラクダのポーズに挑戦するときは、インストラクターの「呼吸」という言葉に耳を傾ける。ポーズをとるべく床に膝をついて背骨をそらし、とうてい届きそうになりかかとをつかもうと手を伸ばすとき、インストラクターが「呼吸」と呼びかける。それは、自分を追い込む度合いを各自に呼吸で判断させるためだ。呼吸がしづらければ、それ以上無理をしてはいけない。−中略−ポーズが完璧にできなくても、呼吸を維持しながら、背骨が目を覚ます感覚や、血液が頭にめぐる感覚を味わうことはできる。−中略−目標のために自分で自分を傷つけていると感じたり、達成がすべてで過程は楽しくないと感じたりするようであれば、いったん立ち止まってみるべきだ。(364〜365頁)

 人は、自分を卑下するべきではない−中略−
 また、自分を過信するのもフェアではない
(367頁)

他者を操らず、思い通りにはいかない、そのことを当たり前と思って生きていく。
その当たり前が人間にとってはもの凄く大事なんだ。

最後に著者はまたこれも当たり前の名言を言う。

結果に飛びつかず、過程を楽しめ(364頁)

「そうすると思考の穴を避けて、あなたは人生を歩いてゆくことができます」という。
ここまで皆さんにお話しをしてハタと気が付いた。
最初の合気道道場の話。
サボってばかりの女性がある日、突然昇段して合気道稽古に熱心な道場生となったというあのエピソード。
これと今の話を合わせると、終章でピタっと話が合う。
彼女は三段を目標とせず、ポツリポツリでも道場に通い続けた。
それが管長の目にとまり黒帯、三段の段位を贈られた。
楽しく、それが厳しい武道修行を続ける一番大事な要素であるという。
(武田先生のノートに)書いている。
「話の初めと終わりが見事な円になった。何て見事な終わり方でしょう」とノートに書いてあって、その下に「トントントン」と書いてある。




2024年3月18〜29日◆歪んだ鏡(前編)

(この週は3月20日分の番組の冒頭にQloveR(クローバー)の宣伝)

ちょいと面白い本が手に入って「思考の穴」といって、イェール大学集中講義という特別講座があってその授業を本にしたという。

イェール大学集中講義 思考の穴──わかっていても間違える全人類のための思考法



(著者は)アン・ウーキョンさんという。
原題は「Thinking(101)」「考える」ということ。
そして副題が「よりよく生きるためにはいかによく考えるか」という。
(副題は「わかっていても間違える全人類のための思考法」だが、原書の副題が「How to Reason Better to Live Better」)
講座がある。
人間の考えることにはエラーや或いはバイアス、歪みが発生しやすい。
人間はなぜゆえエラーするのか?
或いはバイアスがかかって物事を歪んで考えてしまうのか?
これには「考えることにはエラーしやすい、罠のような穴があるぞ。その穴をふさぐ手はないか?」という。
これがアン・ウーキョン教授からの提案。

話をいきなり変える。
「この本、面白いな」と思いつつも、武田先生はこんな出来事の中を生きていた。
2023年12月17日という日付があるが、武田先生の小さなイベントだが、通っている合気道場の「23年を締めくくろう」という納会パーティーがあった。
若き指導者である若先生の提案で生徒達が、武田先生も含めて次々に「なぜ合気道を始めようとしたのか」等々、これをビールやシャンパンを飲みながら、手巻き寿司を食べながら宴で語り合うという。
そのワイワイガヤガヤの中でちょっと面白いことがおこって。
女道場生がこんなことを言い始めた。
「私はコロナの最中三年間、全く道場に寄り付かず、近頃になって急に熱心になって稽古に来ております」
若先生が「なぜあなた急に稽古来るようになったの?」。
逆に訊き返した。
そうしたらその女性が「昇段したからです」。
三年間コロナの間は、やはりコロナが怖いから本当に適当にしか来なくて、道場も非常に苦しい時期だった。
それが「(コロナが)やっと引いた」という時期に、ポン!と、パラパラしか来ていないのに段が上がった。
三段になった。
それで彼女の質問は天道流という合気道を始めた管長に向かって「サボってばっかりいたのに何で昇段したんですか?」という。
そうしたら管長はニヤっと笑うだけで答えない。
それでその人が最近急に熱心に来るようになったのは、サボっているのに昇段したから「こりゃ行かないとマズいな」と思うようになった、という。
その話を管長はニヤっと笑って聞いている。
これは凄く面白い話。
段が上がる時には試験は無い。
これは指導部という5〜6人の道場生と管長と若先生が語っていくうちに「あの人はあの技が」みたいなことで段をつける。
どう考えてもその女性は管長とか若先生が褒めるような、指導部が褒めるような稽古熱心な人ではなかった。
これは「面白いなぁ」と思ったのは、彼女が急に熱心になったのは「段が上がった」という、つまり「昇段の為に努力する」のではなくて、「昇段したので努力するようになった」という。
例えば歌舞伎とか落語で襲名して、凄く責任を重く感じて「より技を磨こう」というのと同じような感じかと思う水谷譲。
そういうこと。
武田先生は一時期、学校の先生を目指したので、その学校の先生になる為の心理学で習ったのだが人間の能力の中に「飛び越し学習」というのがある。
足し算が上手くできない子がいる。
「足し算は基本だから」と言う。
でももうその子を待っていられないのでクラス全体は掛け算に進んだ。
そうしたらその子は掛け算はできるようになった。
その子も掛け算ができるようになった段階で足し算を理解した。
こういうことが人間の脳の中で起きる。
そのことを取り上げているのがこのアン・ウーキョン教授の「思考の穴」。
この手順で人間は「バイアス」「歪んだ鏡」で自分を見てしまうという。

一つの実験だが、このアン教授が授業でこんなことをやった。

 その研究の実験に協力した参加者は、マイケル・ジャクソンがミュージックビデオでムーンウォークをしているシーンを切り取った6秒の動画を視聴した。−中略−
 その実験では、一部の参加者には動画を1回だけ、残りの参加者には20回視聴させた。そのうえで、ムーンウォークをどのくらい上手にできると思うかを全員に自己評価させた。
 すると、動画を20回視聴したグループのほうが、1回しか視聴しなかったグループに比べて強い自信を示した。
−中略−実際にムーンウォークをやってみると、2つのグループに差はまったくなかった。マイケル・ジャクソンのムーンウォークを20回視聴しても、1回しか視聴しなかった人より上手にできるようにはならなかった。
 誰かが難なくやり遂げている姿を見ると、自分も労せずできるという錯覚が生まれやすい。
(25頁)

(番組ではアン教授が行った実験であるように説明しているが、アン教授が行った実験はBTSのダンス。マイケル・ジャクソンのムーンウォークの実験はMichael KardasとEd o'Brien)
これは何かというと脳はうぬぼれやすい。
「20回も見たんだからできるはずだ」と思ってしまう。
これは「存外単純そうに見えるが、私にもできる」「私だけは知っている」バイアスにはまると世界全体を「歪んだ鏡」で見るようになるという。
何で人間は世界を歪ませて見てしまうのか?
これはちょいとした脳のうぬぼれ。
見て、知っていることに関しては「ああ、これぐらいだったら私にもできるんじゃないか?」とか「このことを知っているのは私だけ」という「脳のうぬぼれ」がある。
このうぬぼれがあると世界全体を歪んで見るようになるという。

決して悪口を言っているワケではないのだが、まあ聞いてください。
暇があるとついつい指先で遊んでしまうのだがYouTubeでゴルフのレッスンとか武道の凄い技とかというのが短く流れる。
YouTubeというのは誘惑的。
短いからつい見てしまう。
あの中でゴルフのレッスンなんかがある。
見ていると自分でもできそうな気がする。
でもはっきりしていることがある。
それは何か?
YouTubeのゴルフレッスン、或いは武道の極意を教えるという作品を見ても全く上手にならない。
そんなものではない。
そのことがわかるのに人間は時間がかかる。
見てしまったら上手になったような気がする。
「何かが上手にできる」ということは何なのか?というと次に取るべき行動を体が知っていて、頭より先に体が動いてしまうというのが「知っている」ということ。
「ああ、そういや、あらぁ見たな」とかと、その見た記憶にすがるようでは技は上手くできない。

 ヒューリスティックは完璧な解決策を保証するものではない。(38頁)

次の行動にとりあえず自分の体が動いている。
それが正しい。
やろうと思った正しい答えがバン!と頭の中にあって、それに向かって体を動かすのではない。
体がもう動いている。
「あれ?だったっけ?」とかと言いながらの方が実は能力としては高い。
つまり頭で考えるより先に体が動くということかと思う水谷譲。
だがそう。
「球技に於ける球のスピードと条件反射の秒数」というのが話題になっているがそれは別の世界。
体はもう動いている。
それが正解。
だから体が動くようにしないとダメですよ、という。

 何かを完了させるのに必要となる時間と労力は、少なく見積もられることが多い。(49頁)

これが「思考の穴」なんだ。
何かを上手くやる為に「これだけの時間とこれだけのお金がかかりますね」と計画を発表する。
もうそれがすでに思考の穴にはまっている。
思考の穴にはまってはいけない。

私はつねに、最初の見積もりより50パーセント多い時間を確保している。(55頁)

そうやって過去に、思考の穴にはまったイベントがいっぱいあった。
「東京オリンピック」「(EXPO 2025)大阪・関西万博」
最初からプラスと考えておけばよかった。
それを「安く上げよう」とか「こうやったら上手くいく」とか、頭で考えたことをやったから、こんなことになった。
そしてご同輩お聞きください。
頭で考えて終活なんかやると「俺の人生も残りあと10年」と計画していたら突然5年で終わった友もいる。
その後20年生きた友もいる。
(武田先生の勉強)ノートに黒々と書いている。
「嘆く必要はないぞ。全ての生き物はミスするようにできているんだ」
これはいいアイディア。
何でかというと楽観的に見るように作ってある。
でなければアフリカの東側で草原で立ち上がったサルはあそこから歩き出したりしなかった、という。
「こんなとこいちゃダメだ。もっと木の実がいっぱい成ってるとこ行こうよ」と歩き出した。
そんなもの簡単にあるワケがない。
でも歩き出した。
それはやがて人間になるサルが持っていた楽観性。
この著者は上手いことを言っている。
その「人間になったサル」ばっかりではない。
アン・ウーキョン教授は言う。

私たちには楽観的な姿勢がある程度組み込まれている可能性が高い。これについては、鳥やラットなどの実験で実証されている。(57頁)

楽観的にできている。
だから楽観的というのはもの凄く大事な人間の生きる本性で、楽観しましょう。

 これから3つの数字を提示する。その順序に隠されたシンプルな法則を見つけてもらいたい。−中略−
 どうやって法則を見つけるかというと、自分で考えた3つの数字を出題者に伝えるのだ。すると出題者が、その並びが法則に当てはまるかどうかを答える。 
−中略−
 法則に当てはまる3つの数字の並びは「2、4、6」だ。
(67頁)
 
4、6、8
3、5、7
13、15、17
−9、−7、−5
(70頁)

「では、4、12、13はどうです?」とマイケル。
 私は笑顔で「イエス」と告げる。その並びは法則に当てはまる。
(71頁)

「もしかして、前の数字より大きい数字であれば何でもいいんですか?」
 ようやく私は答える。「はい、正解です」
(72頁)

2、4、6の中に法則が隠れている。
「二つずつ増える」という増え方と、もう一つ「前の数字よりも後(の数字)が大きくなる」。
5、6、7でも正解。
つまりこれは自分がその事体の中で一つ法則を見つけるとその法則に縛られてしまう。
これが「思考の穴」「歪んだ鏡」。

人が「自分が信じているものの裏付けを得ようとする」傾向のことを指す。(72頁)

「そう思うと穴にはまっちゃいますよ」という。
これが「思考の穴」。
人間は自分が信じたことだけを集めようとする。

「DNA検査」に関するものだ。−中略−個人で簡単に自分の遺伝子検査の結果を入手できる。100ドルほど払えば自分の先祖に関するレポートを受け取れるほか、もう100ドル払えば、体質の傾向についても知ることができる。−中略−2019年1月までにアメリカで遺伝子検査の直販サービスを利用した人の数は、2600万を上回るという調査結果もある。(85頁)

自分がどんな病気に罹りやすいかがわかるので、自分もやってみたいと思う水谷譲。
それはやらない方がいい。
この教授の説をいく。
評判を呼び、寿命とか将来襲ってくる病気とか将来どんな仕事に就けば成功するか等々、科学的占いでDNA検査は大繁盛した。
しかし「皆さん思考の穴にはまってますよ。歪んだ鏡を見てますよ」。

遺伝子で人生が決まることはありえない。なぜなら、遺伝子はつねに環境の影響を受けるからだ。(86頁)

私共は遠い昔サルだった。
それが「立って歩ける人間になった」というのはあなたが100ドル払った遺伝子が変わったから。
遺伝子は常に環境の影響を受けます。
そして遺伝子はあなたの運命を変える力はない。
その通りだと思う。
ここにも「確証バイアス」が落とし穴を仕掛けている。
そう信じてしまうと、そう行動してしまう。
人間はそういう生き物。
故にバイアスによって人は間違う。
しかし間違うことによって生き延びてきたことも、これもまた事実。
「このままこのアフリカの草原にいたのでは俺達は死ぬ」と思った一団が東アフリカから歩き出してヨーロッパ、アジアへ広がり、ベーリング海峡を伝って南米へ。
そして世界中に広がっていった。
これだけ広がった生きものは人間だけだから。
その時に適応する為にどうしたかというと、持っている遺伝子をどんどん変えていった。
つまり遺伝子は環境で変わる。
人間の適応力というのは遺伝子ではわからない。

人間というのは「思考の穴」「歪んだ鏡」で見てしまう。
それを決定的な大きなミスにしない為にはどうしたらいいかというと「偶然に身を委ねるという自分をいつも準備しておきなさいよ」と、この教授はおっしゃっておられる。
これはどんなことかというと凄くシンプルだけれども武田先生は「いいな」と思った。
「いつも同じことばっかりやっていないで時々違うことやろう」と。

 お気に入りのレストランで食事をする、あるいはテイクアウトを注文するときは、メニューから無作為に1品選ぼう。(115頁)

それに思考の穴の中に落ちるのも楽しく落ちた方がいい。
「落ちてもいいけど楽しく落ちる」「それがお笑いなんですよ」という。
お笑いというのは思考の穴に楽しく落ちていく人のこと。
つまり間違える人のこと。
その最高の例が「笑点」。
皆さん見てください。
「座っているのがやっと」みたいな人。
本当に思う。
笑点の出演者の方申し訳ない。
だが現実はそう。
あれは妙に元気のいい人が出ると何か生臭くて嫌。
最近若々しくなったと思う水谷譲。
(若々しく)しなくていい。
何で座っているのがやっとな人、そんな人が好きなのか?
それは思考の穴に真っすぐ落ちるから。
それが面白い。
つまり「笑い」というのは思考の穴への落ち方の楽しさ。
武田先生が好きなのは、座っているのがやっとの落語家さんが、自分が仕えた師匠がヨボヨボのお爺ちゃんで思考の穴に落ちる人だった。
その方がおっしゃる、
「私は十代の若さで弟子入りして、師匠の家に行っていたら餅にいろんなカビが生えている。で、訊いてみた。『ねぇ師匠。何でカビが生えるか?』。師匠が言ったんですよ『早く喰わ無ぇからだ』」
「師匠がテレビでスポーツ中継を見てる。大はやりのバスケットを見てるんですよ。日本出身の大男が一所懸命ボールを運んでパーン!と入れるんだ。その時に師匠が笑いながら言ったんですよ。『おい、木久蔵。早く教えてやんな。あのカゴは穴が空いてる』」
ごめんなさい。
「老いる」ということは面白い。
やっと最近それがわかった。
どんなしょうもない話でも。
ジワジワくる水谷譲。
武田先生は結構コンサートネタをこの人から貰っている。
この人の持っている「年寄ネタ」というのは凄く面白い。
それで「年取った師匠をバカにしてすいませんでした」と言うのだが「アンタだって座ってんのがやっとじゃ無ぇか」と。
そこ。
笑いというのはそれを目指している。
ごめんなさいね、(林家)木久扇さん。
でも「老いる」ということのおかしさという。
話がどこに行ったかわからなくなってしまった。
とにかく真っすぐ落ちる。
そして偶然に身をまかせる。
そういうところから、別の生き方ができるんじゃないだろうかというふうに思う。
ぶっちゃけた話だが、落語家さんは若い時、全然面白くなくても年を取ると凄く面白い人がいる。
だから「加齢」「年を取ること」が面白い。
申し訳ない。
若い時の(初代 林家)三平さんはあまり好きではなかった。
年を取ったらおかしい。
つまんないダジャレを言う。
あれが年を取ると面白い。
晩年の三平さんしかわからない水谷譲。
ちょっと元気が良すぎてしまう。
でも年を取って大きい病気をなさって再び高座に上がった時、あの人が珍しくお客さんに向かって若手の落語家の悪口を言い始める。
でもその悪口がおかしい。
「(古今亭)志ん朝なんてのは本当にいい男でしてね、落語熱心ならいっつも楽屋の済ではジーッと本読んでる。何を読んでんのかなと思って見たら『週刊新潮』だった」
たかがこれしきでも面白い。
若い落語家ではダメ。
「もっと面白いこと言え」となるのだが。
三平さんが病上がりで言うとおかしくてたまらない。
ちょうどそのギャグを言った瞬間に目の前の女のお客さんがお茶を飲んでいたのだろう。
そうしたら血相を変えて「奥さん!お茶なんか飲んでる場合じゃないですよ」。
それがもうおかしくて。

ごめんなさい。
落語に行ってしまった。
いろいろお名前を使わせていただいた方は失礼な言い方で申し訳ないが、思いのまま喋ってみた。
武田先生もゆっくり年取っていくので、もうすぐそちらにまいりますので、どうぞご安心くださいませ。

「歪んだ鏡」「バイアス」
人間のものを考える時に歪みが発生するという。
その歪みはなぜゆえにどうやって発生するのか?という。
歴史的事件でこういうことがあった。

 1919年1月。世界が第一次世界大戦と1918年に始まったスペイン風邪の大流行から必死に立ち直ろうとするなか、戦勝国のリーダーたちがパリ講話会議に集結し、敗戦国の処遇を定めようとしていた。−中略− 
 当時のアメリカ大統領だったウッドロー・ウィルソンはドイツにあまり強い制裁を課したくないと考えていたのに対し、フランスと英国が厳しい損害賠償を求めたからだ。
−中略−ウィルソンはスペイン風邪に倒れ、−中略−講和会議に復帰はできたが、自らの意見を押し通す強さは失われていた。
 結局、ベルサイユ条約には厳しい賠償請求が含まれ、ドイツは多額の借金を背負った。
 この条約がドイツ経済に与えた打撃によって、アドルフ・ヒトラーとナチスが台頭する下地ができたと論じる歴史学者は多い。
(116〜117頁)

(「講話」と「講和」が混在しているが本の原文ママ)
プライドもズタズタに傷つけられたドイツ。
そのドイツに誕生したのがナチス党。
アドルフ・ヒトラーが「俺達は間違って無ぇぞ!」と言い始めた。
それは飛び付く。
もう殴られっぱなしの毎日だから。
それでこのアドルフ・ヒトラーを指導者に選んだ。
ヒトラーのやり方はどうかというと子供じみているのだが、いわゆる「歪んだ鏡」を巨大化して「我々ドイツ人はゲルマンではないか!」。
ワケがわからない
「ゲルマン人だ」とか「だから何だ」と。
そういう国はある。
「我々は偉大な国家、〇〇の末裔である」とかそういうことを言う人は今もいる。
「何百年前はここは俺んちだった」とか「何千年前はここは俺んちだった」それもいる。
こういう全く意味のない話をし始める。
そうするとヒトラーはワーッと人気が。
どうしてもヒトラーは今すぐやっつけられる敵が欲しい。
それで選ばれたのがユダヤ人。
ユダヤ人差別政策を表に出してゲルマン・ドイツ人を鼓舞した。
そしてこれがホロコーストという巨大な悲劇を招く。
国を持たなかったユダヤ人達は自分達の国を作ることにこの時、目覚めた。
考えてみたら、一部の報道によればアラブ人虐殺をユダヤ人がしているのではないかという、このへんはちょっと武田先生ごときの政治力ではわからない。
このヒトラー台頭の原因を、アメリカの学者さんだが「やはりこれはスペイン風邪が問題だったんじゃないか」という。
これに罹ってさえいなければ600万人のユダヤ人虐殺も無ければ、この時に同性愛者とか身体障害者もヒトラーは殺しているから

ウィルソン大統領のスペイン風邪がホロコーストを引き起こした、と主張する歴史学者は実際にいる。(119頁)

この教授が「そういう考え方は非常に危険ですよ」。
何でかというと「確証バイアス」、「原因を一つに絞り込みたがる」というのは間違った解答に至る為のバイアスなんだ。
私達は確証に実に弱い。
「これがあったからこうなったんだ」という、そういう論法に弱い。
しなかったことよりもしてしまったこと、最後に起こったこと、自分達でコントロールできたけどコントロールしなかったこと。
こういうことが条件について、さもそれが原因のように叫び始めるという。

これは本には書いていない。
武田先生が気になって仕方がないのは、在京の、東京にいらっしゃる方はだいたい同じニュースを見ておられる。
5時、6時は民放がニュースを流すが、番組構成が同じ。
何時かになると美味しいものをだしてきたり、お店紹介とかグルメとか。
「味のニュース」と言うか、これが民放局は構成が全部同じ。
これは「どうしてなのかな?」というのが武田先生の謎だった。
ここに実はバイアスがあるのではないだろうか?
これはこの方の本を読みながら、武田先生はもの凄く深く考えて、これはまたお話したいと思う。
この続きは来週のまな板の上で。



2024年11月14日

2024年9月27日◆おまけの話

(9月16日からの「いないいないばあ」の最終日なのだが、一日だけ別の本を取り上げてタイトルも異なるので、この日の分だけを掲載する)
(今回も番組内の説明と本の内容はかなり異なる)

(著者は)高橋源一郎。
朝日新書だが、この人が凄いタイトルの一冊を出されていて「一億三千万人のための『歎異抄』」という。

一億三千万人のための『歎異抄』 (朝日新書)



歎異抄。
これは一種宗教の秘伝書。
それをわかりやすい現代語で書かれていて、それが凄く武田先生には面白かったので「取り上げようかなぁ」と思っていた。
高橋源一郎さんがどういう解釈をされるのかが興味深い水谷譲。
高橋源一郎さんは、西洋の哲学者のロラン・バルトなんかと比較して、鎌倉時代に親鸞という人が宗教の基本姿勢を決めた。
(本の中で取り上げられているのは「ロラン・バルト」ではなく「カール・バルト」)
宗教の基本姿勢とは何かというと、仏と一対一で向かい合うことだ。
だから「一人にならないとダメですよ」という。
そういう発想を親鸞さんは持ったのだ、と。

カール・バルトが痛烈な批判を行った。その主旨は、「信仰とは神との一対一の契約であり(170頁)

親鸞は微妙に違う。
親鸞が言っているのは

「非僧非俗」−中略−
「非僧」、「僧侶」ではないもの。
「非俗」、「俗人」ではないもの。
(167頁)

お坊さんでもないし、立派な生き方をしている、善人の人でもない。
そうなることが阿弥陀仏、仏と向かい合うことだ、という。
高橋さんの説明がゾクッとしたのだが、親鸞が言いたかったのは何かというと

正しそうなものには気をつけた方がいいのだ。(173頁)

世の中で「私は正しいんだ」という人がいたら、ついていくなよ、という。
鎌倉時代なのだが、親鸞はこの非僧非俗の一語の中に「正しい」というものは例えば「だから間違ったものと戦争しよう」とか「正しいことの為にいつも戦う意思がある」。
そういう人はもの凄く人を不幸にする可能性があるんだ、という。
「善人」とは何かというと、とにかくいいことをずっとしているので「俺はいいことしてるぞ」という自覚がある。
「こういう人が躓くと一番悪いんだ」と言っている。
ラジオでも(そういう人が)周りにいるのですごくわかると思う水谷譲。
では親鸞はどんな人になれと言っているのかというと「私は間違えました」という人が一番いいんだという。
「私は間違えました」と罪の告白をする人の前に、いわゆる仏、阿弥陀仏が登場するんだ。
阿弥陀仏は「私は間違えました」と言う人の為にじっと待っておられる、という。
だから「間違えているものになりましょうよ」という。
そこでその武田先生の主張なのだが、では、芸能人とは?
ここにきてしまう。
芸能人というのは「間違えた人」。
武田先生はそう思う。
つまり芸能人になった人は、まず誰かを裏切っている。
父を裏切り、母を裏切り、兄を裏切り、姉を裏切り。
母が晩年によく言っていたが「鉄矢はバカやけん。福岡の先生にしようと思うてわたしゃ一生懸命大学にやりました。気がついたらアレは根っからバカやけん、テレビで今、先生しよります」という。
多少、母の興奮があったのかも知れないが、でも彼女は武田先生を福岡県の先生にする為に・・・
そうしたら海援隊を作って家を出てしまって、それで一発だけ当たったのはいいが、その後は鳴かず飛ばずで大騒ぎをして「だから言わんこっちゃない」というセリフが母は喉元まで出かかった。
「喰うや喰わずになって泣き言言いやがって」という。
「ここで弱音吐いてどげんするか」ともう一回たたき出したら今度は帰ってきたら「母ちゃん、俺は映画に出る」。

幸福の黄色いハンカチ デジタルリマスター2010



それで幸運で。
でも母に対しては武田先生は間違ったことは事実。
父親も殴りつけたかったようだ。
「お前は自分で美空ひばりになれると思うとりゃせんか」と言ったのを覚えている。
息子の鉄矢は美空ひばりになれるはずがない。
「私は間違えました」という、そこに芸能人の本質があるとすれば、「間違える」ということに関して芸能人は全力を上げよう。
「正しいことをやっていると思うなよ、芸能人」という。
「オマエは間違えるという業(ごう)を選んだんだ。もうそこをゆくしかないんだよ」という。
芸能を選んだこと自体、業を生きるということで。
恋愛も全部業。
恋愛というのはとんでもない業。
同じ女の人。
それを「あの人じゃなきゃダメ」とかと言うのだから、わがままにもほどがある。
誰でもいいというわけではないと思う水谷譲。
でも基本的には誰でもいいはず。
トンボとか蝶々は言わない。
「あの紋が気に入らない」とか「触覚が嫌いなの」とかぐずぐずぐずぐず・・・
「うるさい!」という。

話がとんでもなくなったが
「正しそうなものには気をつけろ」
それが親鸞の教えであった。
この続きはまたチャンスがありましたら。




2024年11月10日

2024年9月30〜10月11日◆我動く故に我思う(後編)

これの続きです。

「アフォーダンス理論」なのだが、「環境から影響を受けて人間は人間らしくなったんだ」というこの理屈が何となく武田先生は惹き付けられた。
人間の体もそんなふうにできているそうで、私達はその環境から学んで体を作った。
その体が心を作った、とそう言う。

では「人間の体についてみてみましょう」というワケだが、人間というのは骨というものがあって、その骨に中心棒がない。
中心の棒が無くてバラバラの骨が筋肉・筋(すじ)で結ばれていて

 筋は、−中略−ゴムのように伸び縮みしている。運動に使われる横紋筋も、骨を「引く」ことはできるが、柔らかいので「押す」ことはできない。力を伝えるために弾性素材を用いる場合、引く力は不安定であり、それで骨を特定の軌道上を正確に動かすようなことは困難である。(100頁)

この「引く力」しかないというのが人間に力を出させるパワーというか、技をいくつもこさえた。
この間、YouTubeで格闘技に入ってしまった。
合気道のお手本か何かを見ていたらYouTubeが気を利かせて格闘技ばかり並べる。
その中で沖縄空手とキックボクシングの対戦を見せる。
それの対戦を見ていて沖縄の○○空手を習った人がやたらと強い。
(普通の空手とは)違うように見えた。
動きがブルース・リーっぽいというのか。
詠春拳(えいしゅんけん)とかという中国独特の拳法があるのだが、それに似て。
沖縄空手もいっぱいあるようだ。
だからどれがどれだかわからないが、その中で解説の人が思わず言った「彼のやっている沖縄空手の流派は夫婦(みょうと)手という特有の体の使い方がありましてね」と。
アッパーカットで敵を殴っていると思ってください。
普通ボクシングはアッパーカットと片一方の腕でガーン!とかち揚げる。
その人は丸くかち揚げる。
例えば左右一個一個バラバラにしないで、腕を丸い円にしておいて左右に振っていく。
アッパーカットもそれを縦にしておいて・・・
上からやったら下からもやるという。
常に両腕が円を描いている状態でアッパーとかフックのパンチがあったりする。
その動きが独特で強い。
これが何でかというと左右の両手を同時に動かすことによってパワーアップするそうだ。
皆さんもちょっとやってみて下さい。
武田先生も今ちょっと試していて、左右バラバラに使わない、一緒に使う。
それを「夫婦手」「女房と亭主が一緒に行動している」という。
「何かに似てるな」と思ったらゴルフのスイングに似ている。
「ゴルフは沖縄空手でいうところの夫婦手なのか」と思って。
そういえばそんなふうにも名選手の動きは見える。
体を捻じり上げるアップとダウンからフォロースルーまで一瞬のうちに両手が回転していく。
こうなると力学の世界だと思う水谷譲。
それでアフォーダンス理論というのはそういう力学がある。
今言った「夫婦手」もそうだが「引く力」のパワーアップなのだ。
夫婦手は右手で殴りに行くということは左手が右手を引くということ。
そうすると体にこめられた「引く力」というのを存分に使えるという。
この夫婦手の方法で今度は弓を引く。
弓は右手と左手、別々の動きをする。
右手で引いたら左手は押す。
ここで弓で的を狙う時の初心者と熟練者の違いは何か?

初心者の場合には、一つの関節での動きは、他の関節にそのまま伝わり、結果として全身の動揺を大きくしている。一方、熟練者では、たとえば手首での垂直方向へのぐらつきが肩での拮抗する方向への動きによって相殺されるというように、特定の関節群の動揺が他の多数の関節群の動きに「吸収」され、結果として手首の動揺が小さくなる。(102頁)

これがアフォーダンス能力なのだという。

手先の揺れを少なくするために、もう一つの技を獲得している。それは視覚のスキルである。運動スキルが向上すると周囲の「見え方」が変わる、それが、「視野(注意)が広がる」こととして体験されると述べる熟練者は多い。(106頁)

こういう例え方もある。
これはトランポリンの選手、あれは模様で判断するそうだ。
トランポリンの選手は真っ直ぐにピョンピョン飛び上がる。
あの時は世界全体を縦縞にする。
その縦縞をなぞる。
そうすると真っ直ぐ上昇している。
自分を円筒形の筒の中に入れる。
それから捻りをてっぺんで得て回転して降りてくる。
あの時は世界を横縞にする。
自分の世界を縞模様にしてしまう。
それで回転して世界を作り変えるという。
こういうのは面白い。
円筒形の筒の中にいる。
そこに自分が真ん中に立っていて円筒形の中で上下する。
今度は「右に回転する」「左に回転する」は、らせんで落ちていく。
そういう模様で世界を捉えるという。
こういうふうにして、世界の見え方が変わることによって自分の動きを決めるという。
これは普通の人間にもあって、それが錯覚。
自分が列車に乗って横の列車が動くと自分の列車が動いたように思ってしまう。
洗車をする時に自分の車が動いているように見えるが実は動いていない、プルプルと掃除機の方が動いていると思う水谷譲。
それを支配しているのがまさしくアフォーダンス理論。

壁全体が床から切り離され、前後左右に揺らすことのできる部屋に参加者が入る。参加者が壁を見たときをみはからって、壁をほんのわずか数cm動かす。すると参加者の姿勢が変化する。−中略−参加者の姿勢は壁の微妙な動きに同調するように動く。−中略−壁が遠ざかる方向に動いたとき、乳児は前に倒れ、乳児のほうに迫るように動いたときには後ろに倒れることが多かった。(107〜108頁)

そういうのもいわゆる「アフォードしなければならない」という体の命令に言うことを聞いてしまう。
昔、遊園地にビックリハウスというのがあったと思う水谷譲。
あれもきっとそう。
ここを支配しているのがいわゆる「アフォード」「環境が変わるからオマエは変わる」という。
そして赤ちゃんがハイハイから立ち上がって歩き出す。
この歩き出す時に赤ちゃんには歩く筋肉は一切無い。
この間まで這っていたワケだから。
ところが一回立ち上がると歩こうとする。
それは赤ちゃんに何が起こったかというと、環境が赤ちゃんに対して「歩け」とアフォードして歩行させる。
わかりにくいかも知れないが、例えると操り人形。
これは上から吊られている。
だから操り人形は歩いているように見える。
では赤ちゃんが歩くことはどういうことかというと、下から吊られているという。
重力。
赤ちゃんが立ち上がった。
筋力は何も持っていない。
でも、尻を落とせば座ってしまう。
でも尻を上げている。
そして感じているのは下から引っ張られている。
そして立っている。
歩く。
歩くと出した足の方から急激に重力が彼を引っ張ってくる。
だからそちら側に体重を乗せて次の足を出すという。
操り人形は上から吊られ、赤ちゃんは下から吊られて歩くことを覚える。
こうやって環境の中に適応する自分を見つけてゆくという。
その時に赤ちゃんに何が一体課題として与えられるか?というのを(武田先生は)日付まで書いてある。

2024年6月12日
(武田先生が行っている合気道の道場の)オザキ五段と道場で脱力の話になった。
道場の先輩で段位が上の、技術的に凄いところに行っている人で、師範も勤まるという方がおっしゃった。
「赤ちゃんというのは歩く為の筋肉を持っていないのに、環境にアフォードされて歩こうとするという。この時、赤ちゃんを支配しているのは重力である。重力は命令する。赤ちゃんに何を命令しているかというと『脱力せよ』。全身から脱力する。脱力して次の足を出す。そうすると歩行に向いてくる。そこに力が加わるとすぐに倒れる」

「アフォーダンス理論」なんていうのに触れていると、人間の根本を考える。
この本だが「新版 アフォーダンス」(著者は)佐々木正人さん、岩波(科学)ライブラリー。

新版 アフォーダンス (岩波科学ライブラリー)



この「アフォーダンス理論」というのは面白い本。
そんなことを言うのは何だが、合気道をやっておいてよかった。
いつも叱られる。
「武田さん、ほら、また力入ってますよ。脱力脱力」と。
「脱力」の意味がわからなくて。
「力を抜く」というのは考えたら難しい。
ただ、上手い人を見ていると「あ、脱力してるな、この人」というのはわかる。
ゴルフファンが一人スタジオで退屈そうな顔をしているので、つまんない話ですいませんでした。
ゴルフの話をするとカッと目を開く人なので話してしまうが。
8月ぐらいだったか、本当にこんな、か弱い子が、川崎春花だったか箱根という非常にキツめのゴルフ場で戦っている。
この人がパットが上手い。
カッポンカッポン入れる。
この人のストローク、パターを見ていると力が入っていないのがわかる。
例の夫婦手。
パターのフォームが夫婦手になっている。
右手でも打っていない、左手でも打っていない。
両手で輪をキープしながら打っている。
その時に小さい動作の中に、もの凄い鍛錬とか、もの凄い覚悟とか奥義みたいなものを感じた。
だから「小さい動きって大事だな」と。
でもその小さい動きに関して肩を叩いてくれたのは合気道という武道で。
これは敵がいない武道なのでオリンピックの種目でもないのだが、でも武道が持っている何事かを考えるにはもってこいの武道だな、と。
オザキ五段に「脱力が難しい」と言ったら「一番最初に、でも我々は脱力から始まったんですよ」とオザキ先輩が言ったので「どういう意味ですか?」と言ったら「ハイハイしてた赤ちゃんが立ち上がって歩く筋肉持っていないのに一歩、二歩歩くというのは脱力のパワーですよ」。
下から引く重力に身を任すという、そういうもの凄く大胆不敵なことができるという。
我々は意思を持って歩こうとする。
歩行の一番重大なことは「重力に身を任せる」という。
「その次に大事なことは何でしょうね?」と言ったら「中心線を真っ直ぐ持つことです」。
この中心線がまた西洋の「気を付け」と違う。
「体幹」でもいいかも知れない。
「正中線がしっかりしている」「真っ直ぐ前を向いている」という。
赤ん坊は斜めに歩いたりしない。
一歩、二歩、三歩と上手くいく時は正中線が真ん中で。
武田先生は正中線が歪んでいて真っ直ぐ立てない。
下手くそな柔道をやっていたから、弱いから腰を引いてしまう。
オリンピックでもそう。
真っ直ぐ正中線を広げて相手を取るという人はいない。
みんな横。
外国はもう柔道というのはローマ字の「JUDO」だから真っ直ぐなんて一人もいない。
正面を向いているのは日本選手だけ。
何で横を向くか?
あれは投げられない為。
「そんな度胸ではダメだ」と柔道は言っている。
合気道はそう。
「絶えず相手に対して真っ直ぐ向きなさい」という。
でも真っ直ぐ向くと投げられてしまう。
知っている。
武田先生は何回も投げられた。
「よし、来い」と言って何遍投げられたか。
それで歪む。
斜に構えてしまう。
斜に構えると、うちの指導者は厳しい。
「正中線歪んでます。力入ってますよ」と言う。
「脱力」「正中線」
何だ?
それをバッタリ両方見た。
それが「柔」を歌っている美空ひばりが出てくる。



美空ひばりが姿三四郎の恰好をして歌っている。
姿三四郎の恰好をしているから袴の結び目が分かるのだが、真っ直ぐ前を向いている。
それでマイクが垂直に立っている例の古い時代のヤツ。
それとブレない。
彼女の顔が正中線からわずかに横に振るだけ。
もう一つ、呼吸が違う。
あの袴を履いている帯、これが息をする為に上下しない。
腹式の深いヤツ。
特殊な呼吸法がある。
吸っていないのに吐き続ける。
その時に袴を履いているとその声が出しやすいらしい。
恐らく袴が彼女に特有の呼吸法をさせている。
ベルトではない。
ベルトと帯は違う。
これはやるとわかるが、帯を結ぶと腹が前に出る。
その時に骨盤が少し後ろに反りくり返って腹が付き出る。
優勝した横綱が優勝カップを抱いて記念写真に収まるあのお腹。
この時に美空ひばりは真っ直ぐ正中線を客席に向ける。
袴の帯の結び目が正面のマイクと重なって左右にブレない。

ちょっと話が横道に逸れたが、人間の基本を考えてゆくとアフォーダンス理論というのは大浮上してくる。
脱力の難しさ、そのことを話しているうちに、いつの間にか美空ひばりさんの歌い方みたいなところまで行ってしまったのだが元に戻す。

人間の基本的な動きの中に「体が貯えた知恵」というのがある。
それが我々は思い出せない。
例えば生まれたばかりの赤ちゃんを見てみよう。
これはアフォーダンス。
典型的に環境から学ぼうとしている。

 新生児は誕生後ほどなくミルクを吸い、嚥下(飲みこむ)する。二つの運動リズムは協調している。「吸う」と「飲む」の協調が安全な栄養摂取をもたらしている。(113頁)

ミルクを吸う時、通常は舌の先端が下がり、後端が上がる。舌がちょうどこの「しなるムチ」のような状態の時に、口蓋の奥が広く開き、ミルクが食道へと押し出されるなら誤嚥は起こらない。(113頁)

無意識にそれをやっている。
でも分解するとこれくらい難度が高い。
この「吸う」「飲む」は二拍子である。

このリズムの獲得に問題をもつ一部の早産児や運動障害児では、誤嚥が起こり重篤な肺炎につながることもある。(113頁)

赤ちゃんにとって誤嚥というのは命の危険だが、年寄りにとってもそう。
このへんもパッと頭にひらめいたのだが、赤ちゃんと年寄りは似てくる。
武田先生はそういうふうに読んでしまった。
誤嚥ということを警戒する為に、母親が「吸う」「飲む」の二拍子を体を叩いて赤ちゃんに教えること。
トントン。
あのミルクを飲ませながらトントンと叩くのは「吸う・飲む、吸う・飲む・・・」。
そのリズムに乗って赤ちゃんは「吸う」「飲む」を繰り返す。
だからお母さんの手のひらはそのリズムを知っている。
これぞまさしくアフォーダンス理論。
こういうアフォードされることによって体が学習していく。
そういうふうに考えないと、人間というものは理解できないという。

この本を読みながら「俺が今、脱力に関してこんなに興味を持ったのは何か?」。
年を取ったから。
つまり赤ちゃんと同じ課題を与えられているという。
これから先、きっと「脱力する」という能力が年を取ってからもの凄く重大になる。
それは二拍子で、もう一度ものを噛むとか飲み込むとかやらないと、若い人間をきどって喰いながら喋ったり、言いかけておいて飲み込もうとしたりという二つ動作を重ねようとした時に・・・
飲みながら顔を向けたりするとむせると思う水谷譲。
ということは、これから学ぶべきは「赤ちゃんの時に授けられた、体が覚えた知恵をもう一度なぞらないと年取ってはいけないよ」という。
なぜ躓くかというと力が入っているから。
そうやって考えると「生まれたばかり」と「老い先」というのは非常に形が似てくるるぞ、と。
そんなふうにして自分に言い聞かせるとアフォーダンス理論というのがぐっと身近に迫ってくるような気がする。
そしてこれから先、「脱力する」という能力が年取ってからもの凄く重大になる。
ゴルフにしてもそうだと思う水谷譲。
柔道もそう。
一瞬に脱力をどう使うか?
全部力が入っていたら、相手の技にかかってしまう。
ローマ字の「JUDO」と漢字の「柔道」が今、こんがらがってしまっていて、どうもローマ字のJUDOの方がオリンピックでは武器になり得るのだが、でも私達はオリンピックでメダルを獲る為の柔道を「柔(やわら)」とは呼ばなかった。
「柔」は「柔かい道」。
美空ひばりが「柔」という歌を歌っていた。

勝つと思うな 思えば負けよ(「柔」美空ひばり)

メダルを獲るなんてどこも柔は目指してないぞ。
(この歌の)二番が凄い。
人は人なり、迷いもする。
メダルも欲しくなるだろう。
でも人は人なり、迷いもあるけれども、そんな自分を捨てると自分という限界を超えてゆくことができますよ、という。
ここから学びましょう。

人間の手の骨格は、27本の小さな骨から構成されている。指と手根骨部分(手のひらの骨)だけでも15の関節があり、そこの自由度は20である。−中略−腕には、関節が7、筋が26、各筋ごとに運動ユニットが約100あると言われる。したがって、筋のレベルだけで2600の自由度がある。(99頁)

これに肘、肩が付いているワケだから、動かし方は2600×300で78万通りの動かし方ができる。
これでピアノ演奏なんかをやるから「なるほど」。
考えたら演奏というのがいかに凄いか。
これを動かしているのがアフォーダンス。
「環境から与えられて」という。
ちょっと武田先生も根拠がよくわからないのだが、人間が部分で作られているという。

それで水谷譲に見せたかったもの。
水谷譲の為に組み立てた。
これはテンセグリティ構造。

テンセグリティ テーブル テンセグリティ構造 反重力テーブルモデル テンセグリティモデル 反重力テーブルオーナメント バランスゲーム テンセグリティ テンセグリティ構造 装飾品 物理学 教育玩具 科学実験 テーブル置物 科学教育 室内装飾 卓上装飾



テンセグリメントといって中心の棒がない。
直径10cmぐらいの丸い板が上と下にある。
それを繋いでいるのが四本の鎖と一本のゴム。
上から斜めに出ている柱と下から斜めに出ている柱をゴムが繋いでいる。
これはどういう力加減かというと、下の丸い板に釘付けられた柱は、相棒の木の杭を上げようとしている。
上げようとする柱と、今度は逆に上にくっついていて下げようとする柱がゴムで結ばれている。
そうすると中心の棒はないのに、物を乗せる台ができるという。
柱がない。
これが何を意味しているかというと、さっき言った肩。
肩というのは、背中の骨と繋がってない。
筋肉というゴムで結ばれている。
そのことによって自在に動くことが可能。
だから脱臼すると思う水谷譲。
柱があると固定されてしまって折れてしまったらお終いだが、これで自在に動くことが可能。
不安定に見えるが実は安定している。
これは「テンセグリティ構造」といって近代建築なんかにも今、取り入れられているという。
バラバラな部品を筋肉の筋を思わせる糸で結んでゆく。
そうすると全く違う構造の建物ができる。

一番最後に佐々木さんが面白いロボットの話を。
これは架空ではない。

 1988年の段階で「研究所をうろつき回り、ドアの開いた部屋を見つけて入り、机の上から空き缶を回収し、それを物置場にもって行く」ことを目標とする14層からなるクリーチャーが動いていた。−中略−
 クリーチャーは、
−中略−火星での鉱物探索用ロボットとして開発された。従来型のロボットが、地形や自己位置の同定、目標までの経路プランの計算のために、数時間をかけて1mを進むのがやっとだったのに対して、クリーチャーは人間の歩行とほぼ同じ速度でサンプルの収集を行うことができた。21世紀になって、クリーチャーの開発者らは会社を設立し、家庭用掃除ロボット「ルンバ」を制作した。ルンバでは「壁伝いに動く」、「障害物にぶつかったら移動角度をランダムに変更して、そこから脱する」、「段差を検知して、転倒や落下する前に方向を変える」などの多層モジュールが並列し、競合し、結果として部屋の中を動き回り、ほこりや小さなごみをかき出して吸い込み、一定時間掃除をすると充電器(「ホーム」)を探して戻る。(116〜117頁)

ルンバ コンボ j5 ロボット掃除機 アイロボット(iRobot) 掃除機掛けと水拭き掃除が一度で完了 水拭き 両用 マッピング 薄型&静音設計 強力吸引 自動充電 Wi-Fi接続 Alexa対応 カーペット 畳 j517860 【充電が全自動】



(番組内で話された「NASAの人が定年退職になったので、クリーチャーをお掃除ロボットにした」という話は本の中には出てこない)
そうやって考えると皆さんにお話ししているアフォーダンス理論というのがルンバになったとも思えば「愉快であろうなぁ」というふうに思う。
というワケで語り尽くしたアフォーダンス理論。


2024年9月30〜10月11日◆我動く故に我思う(前編)

(かなり後になるまでネタ元の書籍の紹介をしないが、今回は「新版 アフォーダンス」)

新版 アフォーダンス (岩波科学ライブラリー)



(番組の最初の方は、以前ネタ元に使った「なぜ世界はそう見えるのか」という本に載っている話。
2024年2月19日〜3月1日◆なぜ世界はそう見えるのか

なぜ世界はそう見えるのか:主観と知覚の科学



ちょっと小難しいタイトルを付けてしまったが「我動く故に我思う」。
デカルトの有名なセリフ「我思う故に我在り」。
「人間は考えるんだ」「それ故に私はあるんだ」と。
ところが昨今、この説が揺れ始めた。
いや、「我思う」じゃないんだ、と「我動く」だから「我思う」なんだ。
この説は本能的に正しいと思ってしまった。
これは「アフォーダンス理論」。
「アフォーダンス理論」とかと言うと、何だか阿波踊りの踊り方みたいで。
だがそういう意味ではなくて、どうも人間は頭で考えて世界を見ているのではなくて世界を見ているうちに「私」を思うようになったという。
そんな考え方が武田先生は好きなのだが、「それは科学的に正しいよ」と言ってくださる方がおられて。
その人がJ・ギブソン。
(番組の中で「ギブソン」と言ったり「ギブスン」と言ったりしているようだが、本に従って全て「ギブソン」に統一する)
フォークシンガーだったら(有名なギターブランド名の)「ギブソン」だから好きになる。。
ちょとダジャレだが。
そのギブソン博士の説、アフォーダンス理論に惹かれてしまった。

ギブソン博士の方々が調べた結果。
荷物を友達と二人で上げている。
棚上げしている。
棚上げしている時に二人が話している内容をよく聞くと明るい話題が多い。
仕事は大変なのにも関わらず。
今度は棚下ろしで物をおろしている時。
二人の話しをよく聞いていると暗い話が多い。
「体がそう動く時、心もそう動く」という。
これはピンとくるスポーツのシーン。
サッカー。
先制点を入れられるとキャプテンが絶叫「下向くな!下向くな!」。
「下を向くな」と言う。
「反撃に出る時に下を向くと体が応じない」という。
こういう人間の見方というのは面白い。
人間というのは「体がそう動けば心もそう動く」という。
本能でやっていること。
この「本能」が調べていくと凄い。
このJ・ギブソンという博士は徹底してそのことを調べる。
体がいかに人間を作っていくか。
つまり体が人間を作ったんだ。
人間が体を作ったんじゃない。

二足歩行からして考えてみよう。
赤ちゃんはまず天井を見ているけれど、やがて寝返りを打って今度はハイハイをするようになる。

要は赤ちゃんが端から落ちてしまいそうに見えるテーブルである−中略−。テーブル上に透明で分厚いガラス板を載せるが、テーブルの天板が尽きたあとの空間にも、ガラス板だけが突き出しているようにする。(「なぜ世界はそう見えるのか」35頁)

ジョニー坊や−中略−をテーブルの中央の、断崖のすぐ手前に載せる。ジョニーの両側には深く落ち込んだ視覚的断崖のあるガラス板(深い側)と、残りの天板部分(浅い側)との二つが広がっている。こうしておいて母親が、最初は断崖の向こうの深い側から、次はテーブルの天板がある浅い側からジョニーを呼ぶのである。−中略−二七人の乳児全員が、少なくとも一度は嬉しそうに浅い側を這っていったが、勇気を奮って見かけ上の穴に這い出していったのは、わずか三人にとどまった。(「なぜ世界はそう見えるのか」36〜37頁)

全く教えられていないのに「落ちる」という恐怖感を、生まれながらに持っている。
つまり「体が知っているんだ」と。
やがては掴み立ちして立ち上がる。
立ち上がってよせばいいのに、一歩、歩こうとする。
歴史的な瞬間。
あれはよく考えると凄く不思議。
這えばいい。
立って歩いた練習をしていない。
それが立ち上がった瞬間に歩こうとする。
何でだろう?
これをJ・ギブソンという人が「それは赤ちゃんに何者かが歩かせようとしているんだ」という。
歩かせようとしている者は何者だ?
「地面だ」という。
地面が歩かせようとしている、という。
これがアフォーダンス理論。

「我動く故に我思う」
知能を持ったAIロボットを作ったという例え話から今回は始める。
アフォーダンス理論。

 1台のロボットがいた。仮にロボットTと名づけておこう。ある日ロボットTは、唯一のエネルギー源である予備バッテリーのしまってある部屋に、何者かが時限爆弾を仕掛け、それがまもなく爆発するようにセットされていることを知った。このような危機的状況を知った場合には「部屋からバッテリーを取り出す」ようにプログラムされていたロボットTは、部屋に入り、バッテリーをそれが乗っているワゴンごと持ち出した。ところがなんと、ワゴンの上にはバッテリーとともに爆弾も乗っていた。部屋の外で、ロボットIはバッテリーと一緒に爆発した。−中略−
 最初の失敗を分析した設計者は、
−中略−行為の直接の結果だけでなく、その結果、環境に副次的に起こることについても推論できるように、ロボットTのプログラムを書き換えた。ロボットUが誕生した。
 さて、ロボットUはプログラムに従って「部屋からバッテリーを取り出す」ために、いち早くバッテリーのある部屋に向かい、ワゴンの前で推論をはじめた。
−中略−ワゴンを持ち出すことにともなって環境に起こる副次的結果について考えつづけた。その間に、部屋のどこかで爆弾が破裂した。
 設計者はこの失敗から、行為にともなう副次的な結果のすべてについて推論していると、時間がいくらあっても足りないことに気づいた。そこで一つのアイデアを思い付いた。「そうだ! ロボットに、目的としている行為に関係している結果と、無関係な結果との区別を教えてやり、関係のないことは無視するようにすればよいのだ」と。ロボットVが完成した。
 同じ状況にこの最新のロボットを置いてみた。ところがロボットVは全然動かない。ロボットVに「何をしているのか」と尋ねてみた。ロボットVは答えた。「黙って! ぼくはこれからやろうとしていることに関係のないことを見つけて、それを無視するのにいそがしいんだ。関係のないことは限りなくあるんだ……」。
 最新のロボットVが動きだす前に、部屋のどこかで爆発音がした。
(2〜4頁)

「完璧なロボットを作るということがいかに難しいか」ということは、私達はそんな難しいことを簡単にやっている。
何でそれが簡単にできるかというと、私そのものが考えているのではなくて、環境が私を動かす、と。
その「環境」とは何か?

 たとえば、「2次元の網膜像からなぜ3次元が近くされるのか」という、古くから哲学者たちを悩ませた大問題がある。(8頁)

ところが武田先生は水谷譲を見ると同時に水谷譲の後ろ側の窓の向こう側の景色も一緒に見ている。
つまり奥行がある。
この「奥行」とは一体何だ?

平面上にある2点の距離と、二つの点それぞれから遠くにある対象までの角度を計測し、それらの値を利用して対象である3点目の位置を算定する「幾何計算(三角測量)」をする機構が「こころ」の動きにあるとすれば簡単に説明できるだろう、とデカルトは考えた。(8頁)

「だから心の知性は凄い」と言った。
だから心を作るとすれば膨大なプログラムが必要になる。
私達はそれを楽々やっている。
一体、心は何をどう動かして操っているんだろう?
心を操っているのが実は環境ではないか?という。

ロボットで考えると人間は凄い。
人工知能を仕込んだロボットがある。
そのロボットに「客に向かって紅茶を運べ」と命じる。
「紅茶を運べ」と言うとロボットが一番最初にやったことは(中に入った紅茶から)カップを引き剥がすこと。
だから紅茶をまず捨ててしまうところから始める。
カップをまず切り離さないと紅茶は運べないから。
その上に「カップと紅茶を分けてはいけない」と指示しないとロボットは動かない。
ところがここで困ったことは、それで届けられたとしても飲み終わった後「カップを持ってこい。後片付けするぞ」という「洗う」とかと言わずに「後片付けするから」と入力すると途中でコップを捨てる可能性がある。
だがこれを物心ついた子供は、教えられなくてもちゃんとやる。
「お茶持ってって」と言ったらお茶だけを手のひらに乗せようとする子はいない。
ロボットがやるとすると膨大なプログラムが必要なのに、子供は物心がついたらできる。
それは何でか?
最初の一歩と同じ。
彼女、或いは彼を動かしているのは、彼の意思とかではなくて「環境」。
環境が彼を動かしている、彼女を動かしている。
だからロボットより遥かに賢いことができる。
私達は環境に対してそのように見る本能がある。
そこが人間の知能の面白いところで。
小っちゃな赤ちゃんに向かってママが「あれ取ってちょうだい」と言ったらその子は指を見ないで差したものを見る。
猫は指を見ると思う水谷譲。

武田先生の暮らしの中でそのシーンを見たことがあるが、東京にお住みの方は思い出される方がいらっしゃると思う。
東名高速道路に向かう三軒茶屋手前の道。
首都高速道路というのは不思議なものでアップダウンがわかりにくい。
実はゆったりと登っているのだが、その手前が下っているものだから、傾斜が車で走っているとわからずに、下っているつもりでブレーキを踏まれる。
次々に踏むもので渋滞してしまう。
そこで高速道路を管理する人が何を考えたかというと、その下っているように見えるところに明りの点滅を付けて次々に灯っていく。
そうするとそれは、流れを連想させて思わずアクセルを踏んでしまう。
それで渋滞がなくなるという。
そういう仕掛け。
(「エスコートライト」と呼ばれる誘導灯)
これが何をしろと言われているのか、環境の中から意味を見出していく。
ママがいて赤ちゃんがいて、ママが何かを指差すと小さい頃は指先を見てしまうが、指差すといつの頃か、一年も経たない、何か月かで指差している指の先の方を見るようになる。
これは指示。
凄く面白いことに生き物でできるのは人間とチンパンジー。
もの凄く高等なアフォーダンス。
あらゆる風景の中から「自分はどうすればいいのか」という意味を見つけていく。

 たとえば音のつながりは、一つのメロディーとして聞こえる。−中略−メロディーは、要素である個々の音とは異なるレベルの「秩序」である。(14頁)

「見ることの不思議さ」だが、とにかく人間は意味を見つけようとする。
例えば点がある、線がある。
そういうものを見ると「意味があるんじゃないか」と見てしまう。
そうするとこれが文字になる。
文字とはアフォーダンス。
そして見続けると意味が変わってくる。
「ゲシュタルト崩壊」
じっと見ていると違うものに見えてくるという。
例えば「虎」という漢字を一つか二つだったら「虎」と書ける。
ところがこれを千ぐらい続けて書くと(混乱してくる)。
こういうのを「ゲシュタルト崩壊」と言って。
感覚は目や耳や皮膚が主人公ではなく生き物の感覚であって、生き物の感覚そのものは別のものが操っているという。
見ることが網膜に写った映像では説明できない。
当たり前の視覚。
実はその「当たり前」の中にもの凄く重大な何かが隠れているのではないか?
そのことに気が付いたアメリカの博士がジェームズ・ギブソン。

「こんなことをやられてしまうともう勝てるワケが無ぇな」と思うのだが、このJ・ギブソンという人がどこからこういう研究を始めたかというと、1940年、日本とアメリカが戦争に入った瞬間に優秀なパイロットを作る為の適性テストをやりたい」と空軍が言い出した。
(本によると1942年)

 パイロット、ナヴィゲーター、爆撃手などの候補者となる、すぐれた「空間能力」を持つものを選抜することが、従軍した「ギブソン大尉」に与えられた任務だった。(23頁)

ここからアフォーダンス理論が始まった。

 着陸のときに「どこを見るか」は非常に重要である。着陸時には、滑走路の見えがパイロットに向かって「流れて」くる。流れが湧き出る中心が着陸の「照準」になり、流れの速さやその変化はそこに向かう飛行機の速度と加速度を示している。(33頁)

今度は上昇する時は重要なのは飛んでいる空間の変化から自分は今、空中のどのへんにいるか、見るということは変化する風景を見ている。
変化する風景の中から自分を見る。
風景の中のキメ、勾配、面、配列、光。
そういうものが次々に彼をアフォードしていく。
考えてみると凄いこと。

「奥行」とは何であろうか?

 ギブソンは、薄いプラスティック板を切って大きな正方形にしたプレートをたくさん用意した。板の色は白か黒の2色で、すべての正方形板の中心に直径約30cmの穴をあけた。プラスティック板は、−中略−約5cm間隔で、白と黒の順に交互に置かれた。(39頁)

板の列のまん中の30cmの穴の連なりをのぞきこんでみると、思いがけないものが見えた。−中略−白黒のストライプのある長い「トンネル」が見えたのである(39〜40頁)

でもそれはトンネルではない。
板の穴。
そこにトンネルを見てしまうというのが視覚のアフォード。

トンネルが見えるかどうかは、配列する板の枚数、つまり並べたプレートの密度によっていた。5m間に7枚の板を並べる条件ではただ板が並べて置かれていることが見えるだけで、「トンネル」には見えない。同じ幅に36枚を並べると、だれにでもトンネルが見えた。(40頁)

では他の生き物はどうなっているか?
J・ギブソンさんはすぐに動物を調べた。
動物の目というのは特色がある。

頭の両側にあるウマの目は、それぞれが215度の視野を持ち、視野は両眼で大きく重なっている。ヤギやウサギなどの草食動物でも同じである。この「パノラマ眼」とよばれている眼がとらえている世界は、一つの像には結ばない。(42頁)

これはやはり敏感になる。

各眼に二つずつ、両眼を合わせると四つの「中心窩−中略−」をもつ鳥がいる。さらに、飛行中に水平線の鮮明な視野を得るためなのだろう、両眼を横断する「細長い帯状中心窩」をもつ鳥もいる。(42頁)

「なるほどな」と思う。
だから上手く飛べる。
でも「水平が入って見える」というのは鳥がそう言ったのか?と思う水谷譲。
これは工学的に分析、分解したのだろう。
動物ごとに目ん玉が違うワケだから、トンボなんていうのは目ん玉が飛び出しているワケだから。
だからトンボになったら全然違う世界が見えてくるというふうに思った方がよくて。
ハエは複眼。
あれはマルチキャメラと同じで。
後ろが見えるヤツもいたりんなんかする。

眼の上半分を水面上に出し、水面の上下の両方にいつも注意を向けている「ヨツメウオ」では、眼の解剖学的構造や機能も左右ではなく、上下に分かれている。(43頁)

これは、とどのつまりは進化論。
我々人間というのはどうかというと、目に関して言うと手元を凄く大事にした。
手元をよく見る為に首は上下左右に動くようになるし、光の濃度に過敏で風景の「明るい・暗い」の中から奥行をパッと見つけ出すという能力がある。
見ることは視覚・聴覚・触覚などの情報、これを全部集めて見ているのだという。
このへんが生き物の面白いところ。
そう考えると賢いと思う水谷譲。

もっともっと不思議な話が続くのだが、ちょっと余計なことも書いているので。
6月15日の日付があるが、香川高松で鼎談をして大好きな哲学者の内田(樹)先生と釈(徹宗)先生。
浄土真宗系のお坊さん。
武田先生と三人で。
その時にこぼれ話だが、武田先生は内田先生の理論を聞いていると芸能界で生き抜く知恵を授けられているような。
内田先生は不思議だったらしくて。
「私のどこが芸能人の知恵になるんですか?」
そういうことを言われて
あまり上手い、いい返事ができなかったのだが。
(でも芸能人の知恵に)なる。
こういう「アフォーダンス理論」みたいなことも、教えてもらったのは内田先生。
武田先生がこんなことを自分で見つける能力なんかない。
ただ、新しい理屈として内田先生が「アフォーダンス理論」というのをしきりに本の中に書いておられて、それで「面白いな」と思うようになったのだが。
やはり辿っていくと、アフォーダンス理論というのは本当に面白い。
それは演技などにも関係してくるものなのかと思う水谷譲。

数m先の部屋の壁に鉄棒をスライドで投影して上下に動かした。そして、どの位置なら「脚だけで登れる」段の高さかを観察者に判断させた。平均身長約160cm、190cmの二つのグループで、ぎりぎり「登れる」バーの高さは、観察者の股下長の0.88倍だった。(68頁)

股下の長さが0.88倍以上だと飛びつく、以下だと飛びつかない。
(番組では「飛びつく」か否かという話になっているが本によると「脚だけで登れる」か否か)
(飛びつくことができないので)「凄いんだぜ。体操選手が飛びついて回っちゃうんだぜ」と説明したがる武田先生。
「よくやったよあの子は、金さすが」と言いながら。
股下の長さがたっぷりある、0.88倍以上ある人は飛びつく。
つまり自分の体が何をするかを、その人が思うよりも先に決定してしまう。
例えばトム・クルーズ。
「スパイ大作戦」

ミッション:インポッシブル/ ローグネイション (字幕版)



ビルの谷間に爆発物があって、ファっとトム・クルーズがビルの谷間に身を潜めて爆風を逃れる。
あれも瞬時。
これも実は環境が決定することであって、その隙間に自分の体が入れるかどうか、これはもう本能的に動くそうで

肩幅の1.3倍を境界として、それより狭いすき間は「からだを回さなければ通過できない」ところと知覚されていることがわかった。(69頁)

提示されるバーを「くぐる」か「またぐ」かについて大学生に聞くと、答えは知覚者の脚の長さの1.07倍のところを境界にして変わる。1.07倍よりも低いバーは「またぐ」、それよりも高いバーは「くぐる」行為が妥当だと見える。(69頁)

行為の性質は環境に導かれて行動する。

次の例は皆さんもやってみてください。
武田先生はズバリだったので驚いた。
こういうことがあるから「アフォーダンス理論て面白いな」と。

 頭をこの本から少し上げて、前の机の上を見ていただきたい。机の端にあるペン立てには手先が届くだろうか。そのペン立ては、イスの背もたれに背をつけたままの姿勢では「届かない」と知覚されるかも知れない。しかし腰を曲げて背をイスから離して上体を最大限倒せば「届く」と知覚されるかもしれない。とすればその届くという知覚には、読者の手の長さと腰部の柔軟性を合わせた身体感覚が加味されていることになる。(70頁)

(ここから水谷譲に対して本の上記の箇所を実証する実験が行われるが、本の内容とはかなり異なる)

かくのごとく、人間は殆ど直感に任せて環境からアフォードされているという。

ある種のカエルは、前方のすき間が自身の頭部の幅の1.3倍以上ないと、そこに向かってジャンプしていかない。カマキリは、獲物である他の動物が、自分の前肢の長さとその先端にある鎌状の前肢の幅で捕まえることのできるサイズの範囲内に入るときだけ捕獲動作を開始する。(68頁)

それをカエルもカマキリも一瞬のうちにジャッジしていくという。
ジャッジできなかったカエルはどうなった?
死んでしまった。
広げた以上の獲物を狙ったカマキリは逆に喰い殺された。
こういうふうにして「環境の中の自分」というのを見つけていったものが今のあなたです、と。

体が知っている不思議な知恵、そういうものを勉強していけたら面白いなと思って語っているが、まだまだ話は続いて、この続きはまた来週のまな板の上で。


2024年11月06日

2024年9月2〜13日◆みんな政治でバカになる(後編)

これの続きです。

凄いタイトルだが、これは綿野恵太さんという方がお書きになった「みんな政治でバカになる」という。
この方が元々間違いやすい人間が政治という答えが出しにくい分野で答えを出していくうちに間違えてしまう。
だから「バカの二乗」なんだ
政治というものというのはバカの二乗の人達、そういう人達が語り合っているんだという。
非常に武田先生としても取り上げにくい。
なぜかというともうラジオ番組はことごとくこの政治の話が出て来る。
いろんな方にご迷惑をかけてしまうという。
でもラジオなんか聞いていると、もの凄くファイトを燃やして政治を語る人がいる。
この間も、この放送局(文化放送)で凄い人がいた。
「いろんなところで政治的に正しいことを言うから、いろんな人からいじめられて、私の話を聞いてくれるのは、この局のアナタだけです」なんていうことをおっしゃっていたが。

政治というのが上手くいっていない。
そういうことにしておきましょう。
武田先生はジャッジできない。
そういう知恵がないので。
だが、民主主義というのがちょっとお年を召してきた。
老化した民主主義となっているというのが現状ではなかろうか。
これは皆さん、認めてくださるというふうに思う。
その民主主義を若返らせよう。
どう若返らせるのか?
やっぱり制度をいじる必要がある。
曰く民政議会で両方とも選挙で選ぶ。
これは無理があるんじゃないの?

民主主義の危機を解決するために選挙制議院と抽選制議院という二院制議会を提案している(任期は一〜三年、報酬はなるべく高いのが「ベスト」だという)(136頁)

議員数、或いは議会の日数を短くして効率的に行ないましょう。
そしてその報酬として、抽選で選ばれた人に今と同程度の金額の面倒を見るという。
必ずや職場復帰が叶うような立場で。
そうすると二世議員とかというのがいなくなってしまう。
こっちのほうがよくないですか?
政治家になることを商売にしてしまう人がいるというのがこの国の民主主義を年を取らせてしまったのではないか?
政治家になった瞬間にまた変わってしまう人もいると思う水谷譲。
それが「半分抽選で決まる」というのは、これは「意外と面白いこと起きるんじゃ無ぇの?」と思う。
いい仕事をする人も出て来ると思う水谷譲。
悪い人がたまってしまうか、いい人が出てくるかも知れないという可能性にかけるか。

アテナイの民主主義においても専門性が求められる「財政」と「軍事」の要職は選挙で選ばれたが(137頁)

原子力なんかもそうだが、みなさんももう7月から体験なさっているが、やっぱりクーラーがないとやっていられない。
そういうことは「電力」ということが問題になる。
電力というものは財政の問題と、もう一つ核開発の問題も抱えている。
3分の1くらいは、やはり安定した電力供給というところでは核、原発発電というのはとても大事だ。
それにどうも外交を見ても日本の方が核を持っている。
いつでもアメリカが横にいてくれて核をお借りするというワケにもいかないので。
「核を持て」と言っているのではないのだが。
核という技術に関しては平和利用を含めて「私どもは勉強してますよ」という、そういう態度、そういう静かな脅しは持っていないとダメなのではないか?
そういう意味合いで財政と軍事についてはちゃんとした毎日のお勉強を重ねた人々が選挙によって選ばれるという。

第二次大戦後の自由主義諸国においては多くの人々が経済成長の分け前にあずかったため、「民主制資本主義」が定着した。(138頁)

日本とドイツは戦争が負けた方が景気がよくなってしまった。
どのくらい豊かな財産を民主制資本主義が生みだしたかは、やはり我が身で体験している。
しかし、その民主主義も80年経つと分け前が充分に世界に分配できなくなった。
儲けを貰うんだったら、財を欲しがっている国からすると、専制覇権主義の方がカネがいい。
インドネシアなんかがそう。
デビ夫人がやってきた国だが。
あそこはやはり日本と中国を両天秤にかけて、どちらかに安く新幹線を作らせようとして、結局材料費とか全部持ってくれるという中国に縋り付いた。
それでインドネシアの高速鉄道は中国製になったのだが、これが何だかさっぱりお客が集まらないらしい。
中国の言うことを聞いて作ったのはいいのだが、もの凄く駅が遠い。
駅が遠いから駅まで行くのが大変だから、お客さんが集まらない。
そのへんは日本がちゃんと計算してあげていたのだが、やはりお金をいっぱいくれる中国の方がよかったのでインドネシアはいってしまったのだが、今頃になって中国は急に「カネ返して」と言い始めた。
それで血相を変えているらしいのだが。
やはりそれはちょっと分配率が落ちたことで専制主義の国が作られたのだろうが、このへんがやはり何年か経つとコロッと変わってしまうという。
「バカの二乗」というのは人間に付いて回る。

年を取ってしまった我らが民主主義。
戦後も数十年経つとあの元気のよかった民主主義、パワーダウンはアメリカに始まって日本もそう。
アメリカでは民主主義に関してかなり疑いが出ていて、カリスマを求めてトランプなんていう人が。
このアメリカに対抗する中国、ロシア、或いは北朝鮮等々は専制主義。
だから国民を管理体制に置いて議会をいちいち通しているともうパワーダウンしてしまう。
それでアメリカでポピュリズム、人気者が天下を取るという。
その典型がトランプ元大統領。
この人は何かというと合理的無知と反外国バイアス。
景気のいいことをおっしゃるのだが「アメリカを再び偉大な国に」とおっしゃるのだが「どうやれば偉大になるのか」「偉大とは何か」そんなことは一切喋らない。
ただひたすら「アメリカをもう一度偉大な国にするんだ」と、それしかおっしゃらない。
そして偉大な国にする為にはどうかというと、アメリカの足を引っ張る外国をみんなやっつける。
「どこの国か?」というと、トランプさんは一番最初に中国を挙げるのだが、いつの間にか日本もそれに入るかも知れない。
とにかく「アメリカが苦しんでいるのはみんな外国のせいだ」という論理。
これがもの凄くわかりやすい。
単純なストーリーだからわかりやすい。
それでポピュリズムという人気に訴えることで専制覇権主義の国と対抗していく。
政治的な手腕とか力量ではない。
人気だけ。
この「人気」で我が身を支えて選挙民を自分に惹きつけるという。
これが今、日本にも流行している。
選挙をやるとポピュリズム、メディア受けする人がいる。
胸には缶バッジを付けて決まり文句なんかを胸に刻んで電信柱にベタベタそのステッカーを貼ったり。
誰と言っているワケではない。
それから「私を支持する人は緑を身に着けて」なんか言いながら。
誰と言っているワケではない。
いわゆる主張ではない。
ポピュリズム。
人気のファッションとかマスコットとか、そういうものを動員して人気を集めようとしている。

ポピュリズムが大衆の政治への無力感や疎外感を利用した「部族主義」であることだ。(147頁)

「私を支持するという部族」を作りたい。
とにかく敵を倒すこと。
それが政治的なスローガンで。
日本に於いてもそうだし、アメリカのトランプさんなんかもやり方は同じ。
ポピュリズムの真ん中にあるのは怒り。
「あいつは許せない」それだけ。
貧富の差、所得の高望み、民族、人種、階級対立のように見せかけて、とにかく「許せない」それを政治的なテーマとすり替えてゆくという。
他者の苦しみを語っているのだが、それは自分が正義を叫ぶ為の道具に過ぎないという。
そういう論理ではなかろうか?
このへん、この著者はもの凄くしつこい。
これを分かりやすくすると、これにハマる政治家の人の名前をどんどん挙げていけばいい。
武田先生はちょっと「(今朝の)三枚おろし」には小骨になるので(政治家の名前を)全部抜いてしまった。
だから理屈だけ。
だからRのステッカーを貼るとか緑のマフラーとかも個人で言っているのではない。
「そういう人がいた?いたかな?よく覚えてない」
トランプさんだけはちょっとわかりやすいので。
トランプさんはそういうのを堂々となさっているから、だから取り上げているだけ。
ポピュリズムの代表だから。
だからプーチンや習近平を語るが如くトランプさんも語っているワケで。
この綿野さんが細かいところは全部挙げている。
例えば、もう嘘ばっかりつく経済学者。
でもそれは武田先生は言えない。
それを聞いて本が読みたくなった水谷譲。
これはなかなか見事で。
だから綿野さんはそのへんは正面から木刀を振り下ろしている。
だが、ちょっとそれはこの放送では偏ることもあるので小骨は全部抜いてしまった。
それで綿野さんが凄くおっしゃっているのは、総まとめにそのバカの二乗で政治を語る人達の底の浅さをこういう例で語っておられる。

ナチスの強制収容所の近くに住んでいた女性が、ユダヤ人への残虐行為を目の当たりにして、「そのような非人道的な行為はすぐにやめてください。さもなければ、誰も現場を目にすることのない別の場所でやってください」という抗議の手紙を書いたという(160頁)

綿野さんは「これと同じことが政治を語る人の中にいるのではないか?なぜ勇気を持って最初の一行だけにとどめておかなかったんだ」という、そのこと。

政治を語る時に賢い選択ができない。
綿野恵太さんの「みんな政治でバカになる」晶文社、この本を取り上げている。
「政治を批判する人」も批判しておられる。
とにかくインターネットによって解き放たれた個人のサイト、SNSなど、バカの二乗を振り回している人がいっぱいいる。
このことを著者は子細にあぶりだしている。
これはもう当「(今朝の)三枚おろし」では一切触れない。
申し訳ございません、著者の方。
著者が激しく嫌っているのは、知っているつもりで政治批判をし、政治を批判することで自分をインテリと思い込むというような、そんな人達の有様を。
この、政治を語ることによって「頭のいい私」を表現したがる人、というのはステレオタイプの話をしているんだ、と。
そういう人達が政治を語ることが政治を歪めることになっているんだ、という怒り。
政治を語ることの難しさは政治の世界で起こった出来事を語ればいいというものではない。
それが何を意味しているのかを貫いて教えて欲しいのだが、これはちょっと綿野さんが書いてらっしゃる文章とは違うのかも知れないが、綿野さんの文章を読みながら自分でこう読んでいいのかな?と思って読んでしまったのだが。
政治を語る人で、自分の頭のよさを振り回したがる人達は、一言一言を熟語の意味合いを全く浅く判断するという。
例えば「自己責任」。
自己責任ということに関しては哲学がなければならないが、自分の知恵を振り回している人は浅く解釈する。

俗に「てめえのケツはてめえで拭け」という言い方がよくされる。−中略−「自己責任」を意味する。(36頁)

その解釈は身も蓋も無い。
武田先生は(もっと深い意味があると)思う。
「自己責任」というのは「てめえのケツはてめえで拭け」だけではないと思う。
例えば「自己」これは何であるか?
「自己」は「てめえのケツ」のことではない。
「ケツ」も含まれるかも知れないと思う水谷譲。
だが水谷譲が「自己」と名乗る為にはもう一人、人間が必要。
哲学。
言葉が生まれるというのは、「一義に解釈しない」という意味だから。
一人を語る時でも一人だけで話が済むことではない。
自己は他者がいての「自己」。
自己は他者と知り合うことによって自己を確認する。
水谷譲が「誰かを好きになる」ということは相手が必要なように、自己というのはそういう自己ではないか?
では次に残りの二文字の「責任」とは何だろう?
それも更に深い意味があるのではないか?
それを簡単に一つの意味だけに解釈し、自分の考えを振り回すという。
それを綿野さんは懐かしい言葉だがキツイ言葉で「エセインテリ」。
(本の中には「エセインテリ」という言葉は登場しない。全て「亜インテリ」)
エセインテリは懐かしい。
ここに武田先生の弁。
「このあたり、相当なページを割いてエセインテリを語っておられますが私のバカさについての考察をする為で、ここらあたり相当なページを飛ばしました」
綿野さんごめんなさい。
武田先生も読んだのだが、武田先生の感想。
「長すぎて疲れました」という。
エセインテリのバカな人の例をずっと挙げられると、ごめんなさい綿野さん。
読んでいるだけで疲れてしまう。
それは武田先生の読書の体力なのだが。
武田先生はもの凄く弱い。
水谷譲は言った。
「てめえのケツはてめえで拭け」「ケツは自己の一部分ではないか?」と
鋭いことをおっしゃったのだが、それは水谷譲が言葉に凄く敏感な頭のよさを持ってらっしゃるのだが。
武田先生はこの一言が凄く好きなのだが綿野恵太というちょっと皮肉もいっぱい込められるような文章の書き手の方なのだが、この人が哲学者・千葉雅也さんの指摘を紹介なさっている。
武田先生は自己に関して今、説明をしつこく粘った。
これはただ単に水谷譲から言わせると、話を引っ張っているだけかも知れない。

哲学者の千葉雅也は「深く勉強するというのは、ノリが悪くなること」と指摘している(205頁)

勉強の哲学 来たるべきバカのために 増補版 (文春文庫)



「即答できる人の知恵にあんまりビビらない方がいいよ」という。
武田先生は書いている。
「深く勉強するということはノリが悪くなること、と千葉さんが指摘なさっている。この一言ハッとしますねぇ」
「ノリが悪い」というのは、現代、凄く大事なことで、少し皆さん、自分の意見を早目に言い過ぎるという。

著者だが第六章まで進んだらこのあたりぐらいからグングンと文章は明瞭にスマートになっていく。
著者は言う。
いささか武田先生の意訳、武田先生の訳だから少し言葉の盛り付けが極端かも知れないが。

数多くの社会実験の失敗が示すように、私たちの「遺伝的な傾向」からかけ離れすぎた政治は失敗する可能性が高い。(225頁)

理想が高すぎる政治は失敗する。
「全ての人民を幸せにする為に身分を同じにしよう」という共産主義、これは上手くいかなかった。
第一次世界大戦後、ドイツはワイマールという共和国を作った。
ワイマール憲法は民主度が凄い。
民主主義のお手本みたいな制度で、「LGBTと共に生きていく」というジェンダーフリーを謳ったのも初めてだろう。
だからそういう保証もワイマール憲法で守られた。
騙し合うことのない、或いは競い合うことのない性がそこにあり、「性の快感は全て平等」ということは憲法で保証された。
理想を求めて進み出した。
これが数年でダメになる
このドイツで第一次大戦後にできた人間の自由を求める理想のワイマール憲法が崩れていった。
ヒトラーが登場する。
人々は今まで認められた自由も全部捨てた。
「人種なんか平等」だとあれ程叫んでいたドイツ人が、ゲルマン民族最優秀で劣等民族を殺そうという。
そしてこの時ドイツ人は「自由なんかいらない」と言った。
「ヒトラー総統が喜ぶんだったら、我々は自由はいらない」
そのことを書いた哲学者がいた。

人間社会にとって自由ほど耐えがたいものはない。(101頁)

不自由は気持ちがいいそうだ。
「へぇ」だ。
それは人間につきまとう永遠の歪み。
そういうバイアスが人間にはかかりやすい。
だから政治に託して思わなければならないのは、我々はそれほど立派な生き物ではないんだ。
賢くもないし、はっきり言ってずるいし、だからそのことを踏まえて我々は人間にとって快適な社会を作ろうではないか。
か弱く非力な人間。
それを従えて大きな強い国家を創る英雄とか皇帝とか大統領とかそんな人を求めるのはやめましょうや。
武田先生はそう思う。

この綿野さんというのは微妙な言葉の世界に入って行く。
ここからはもう哲学。

シニカルな政治態度からの「折り返し」がポイントなのである。(225頁)

「皮肉な口調で政治を語るな」という。
もう一つ、「無責任に政治なんて俺達がやる必要無いんだよ。やりたがってる酔狂なヤツに任せておけばいいんだよ」。
そういうことを皮肉っぽく割り切る人がいるが「やはりそれではダメなんだ」という。
私達はおろかであるし、そのおろかである、バカであるが故にちょっと世界をシニカルな目で片頬を上げながら、からかうようにして眺めるという悪いクセがある。
それではダメだ。
政治を語るんだったらシニカルとバカの間を突こう。

 バカの居直りでもなく、シニカルに嗤う冷笑主義でもない。重要なのはその「あいだ」である。その「あいだ」とは「ドヂ」な存在である。(240頁)

さあ考えてみよう。
シニカルとは何か?
これは皮肉屋。
シニカルとは何か?
エセインテリ。
賢いふりをして政治を語れば頭がよくなったと思っている。

「亜インテリ」は「いっぱしのインテリのつもり」だが、「耳学問」なのであやふやな知識しか持たない。政治や経済に「オピニオン」を持つが、知識や生活レベルは「大衆」とあまり変わらない。(179頁)

インテリ気取りで「受け売り」の知識をひけらかし(179頁)

自分でその意見を作ったと思い込んでいる。
野菜とかお米を作ってはいない。
横に移しているだけなのに、自分がさも作ったようにふるまってるだけなんだ。
こういう人は生産者じゃないんだよ、と。
だから人の意見を拾って、人をやっつける為にその人の意見を使っているんだ、という。
シニカルな人達の目的は何か?

「敵」を論破するための「ツール」でしかない。(182頁)

この人達は人をやっつける。
何かこういろんな理屈を言っているが、喰いもので言えばジャンクフードだ。
スピードだけ。
煮込む時間、焼く時間、そんなのちっとも気にしてない。
こんなジャンキーな人と付き合ってはいけない。

今日はバカの説明だが、エセインテリというのは人を論破することが趣味でその為に人の意見をいつも作り直しているという。
だからこの人には自分の意見がない。
「だから人の悪口が言えるんだ」と言っておいた後、著者はバカの説明に入る。
バカとは何か?
バカとは一つしか覚えていない。

「定型化」=「ワンパターン化」した言説を、「バカのひとつ覚え」のように繰り返すのである。(183〜185頁)

「国に帰れよ」「アメリカのポチ」「恥ずかしくないのか?」
こういう人を傷つける言葉を一つ覚えていてそれを繰り返すという。
武田先生はびっくりしたのだが、大谷(翔平)さんの春先の問題が起こった時に、大谷さんを凄く批判したワイドショーの司会者がいた。
この人はこういうことを言うとヤベェなと思ったのだが「人がね、億単位のカネを使い込んでるのに気づかないってあります?私ね、どうもそのあたり信じられない、私的に」と言った人がいた。
この人は「私の感性」で大谷を語っている。
だから「大谷の気持ちはわからない」とおっしゃる。
時々そういう人はいる。
ゴルフの中継とか見ていると「何で左打っちゃったですかねぇ?」
「それ、アンタのレベルでしょ?」
マスターズで戦っていて「何で左へ行っちゃったんでしょう」。
それから大谷の批判も結構だが、「私は理解できないな」。
その人は締め言葉でそうおっしゃった。
「理解でき無ぇよ」なんて「アンタ、バッターボックスに立ったこともないし、何もかも違う」。
やはりバットを握ったことも無いようなヤツが、或いは30台、バーディーを取ったことのないヤツが。
そういうこと。
こういうのは一種「バカの一つ覚え」。
「私には理解できないな」
すぐバカを言ってしまう。
そしてもう一つ、この著者はエセインテリとバカを広く具体的な事例と人物で丁寧に挙げておられるが、ここではそういう骨は全部外している。
美味しいところの肉だけをおろしているので勘弁してください。
このエセインテリとバカの特徴。
「これが世に言うエセインテリか」「あ、コイツバカだ」という時に、尺度がある。
エセインテリとバカの特徴。
共通してたった一つ。
テンポがいい。
これがエセインテリとバカの特徴。
ノリがよいのでポンポン人の悪口が言える人。
悪口がリズムに溢れているので、他の人が割り込もうとしても割り込みにくい。
そしてドヂ。

なぜ知識人は「ドヂ」なのか。それは本来の「テンポ」から「ズレ」た存在だからである。(243頁)

自分で考えるリズムを持っている。
そのリズムを懸命に探す。
だからリズムに乗らない。

私たちには「無意識かつ反射的に相手を模倣してしまう傾向」がある。(230頁)

内田樹さんはそういう「模倣したくなる人」のことを「整った人」と言う。
人間は「整った人」をマネしてしまう。
どういう人が整った人か?
武道に於ける高段者。
その人達は見ていて美しいので、その人のことをマネしたくなる。
偽物はどうかというと、整ったふりをする人。
この人が整っているかどうかは、どうか皆さん、リズムとセンスでわかってください。
世界の指導者を見比べると、リズムとセンス、わかるでしょ?
ちょっとここは(アメリカからは)遠いので悪口を言ってしまう。
トランプさんはリズム感が悪い。
あの爺ちゃんが壇上に登場する時に軽くツイストを踊るが、あれは相当(リズム感は)悪い。
あのトランプさんは。
それと指を立てすぎ。
だがこれだけはどうしようもなく見た目から言ったのだが、武田先生はそう思う。
ドヂな人間になろうということ。
ドヂというのは、今あるリズムに乗らない。
そして確かな文化を手渡そうとする人達。
そういう人達がセンスとリズムを持っている。
ドヂな人達は日本の昔話にはいっぱいいる。
その人達は素敵な仕事を残した人。
どんな人か?
かぐや姫、金太郎、桃太郎のお爺さんとお婆さん。
あの人達がドヂな人の見本。
生活は貧しかったかも知れないが子孫に素敵な文化を残した。

(今回の番組は)よくできた。
自分でうっとりしてしまった。
これから秋口に向かって(10月27日に衆議院議員総選挙があるので)政治の話題が増えていくと思うので、敢えて政治というものを語る意味でこの一冊を取り上げてみた。
(著者は)綿野恵太さん、晶文社「みんな政治でバカになる」。


2024年9月2〜13日◆みんな政治でバカになる(前編)

(番組の冒頭はQloveR(クローバー)の入会キャンペーンの宣伝)

まな板の上はなかなかショッキングなタイトル。
「みんな政治でバカになる」
これは武田先生も「ちょっと酷いタイトルだな」と思ったのだが、読むと著者の方は懸命に政治というもののこれからを悩んでおられる方で、あえて「政治に携わるとバカになるんだ」と。
これはなかなか大変なタイトルで、そんなことを言ったらまたラジオ番組なんか政治を語る人ばっかりだから、その人達に向かって「バカになる」と言っているようで、本当にそのあたり発言に気を付けながら進めたいと思うのだが。
著者の方はというと綿野恵太さんという方。
晶文社から出ている。
「みんな政治でバカになる」

みんな政治でバカになる



私たちには人間本性上「バカ」な言動をとってしまう傾向がある。(4頁)

ほとんどの人が政治について無知=バカであるのは事実である。−中略−私たちは単に愚かなのではない。「環境」によって政治的無知=バカになっている。(12頁)

繰り返しになるが「環境がバカにする」というのは言うことが中途で変わること。
「監視カメラを付ける」と言った時に、当初メディアも含めて一般市民は「監視するとは何事か」と反対議論が浮かび上がった。
「渋谷に監視カメラがあるなんて寒気する」とか「自由の権利は何?」とかと(言って)いた。
ところが(監視カメラを)付けて泥棒が見つかるとみんな「あそこつけなきゃダメよ!監視カメラ!」とかと。
それどころではない。
車に前と後ろに着けているのだから。
「いやぁ保険楽だもん。あれがあるから」とか。
「ほら、ついこの間言っていた自由はどうなんだよ?守らなきゃいけない個人の権利があるんでしょ?」
でもこれだけ変わる。
「環境」によって主張が変わる。
それが無知とドッキングしている。
人間という生き物は認知バイアス、バイアス、歪みを持っている。
言うことが変わる、環境によって変わる。
「自由はどうの」とか「個人的権利は」とか言っておいて、泥棒が捕まると「あそこも付けろよ」という話になる。

 私たちは「人間本性」によるバカ(認知バイアス)と「環境」によるバカ(政治的無知)という「バカの二乗」というべき状態にある。(81頁)

では人間の認知バイアスというものがどのくらいバカかというと「見てくれ世界を」と綿野さんは言う。

 なぜフェイクニュースや陰謀論が後を絶たないのか。それは私たちがバカだからだ。(4頁)

それで「政治のことについて発言する人はみんなバカである」という本だからこの後も、そういう方がいっぱい出て来る。
それで誰がどうのと言わない。
だから武田先生のバカさを。
武田先生は前から言っているように政治的に本当に無知。
何が楽しくてやっているのかもよくわからないし。
もう一回繰り返す。
「私のバカ」
一体このバカさ加減がどこから来ているのかをこの綿野さんの本で追及しよう、と。
だから武田先生個人のバカの二乗にお付き合いください。
決してアナタのことを言っているワケではありませんから。
妙に抗議の手紙をよこしたりするのはやめてください。

二〇二〇年のアメリカ大統領選で民主党のジョー・バイデンが共和党のドナルド・トランプに勝利した。トランプは選挙に不正があったとして票の再集計を求め、その翌年にはトランプの勝利を信じる支持者たちが国会議事堂を襲撃し、多数の死傷者を出した。ドナルド・トランプが小児性愛者の秘密結社と闘うヒーローだという「Qアノン」と呼ばれる陰謀論が流行した。(3〜4頁)

「Qアノン」
これはトランプ支持者の中で信じられていることで、トランプさん以外、アメリカの政治に携わっているのはもうズバリ言うと(仮面ライダーに出て来る)ショッカー。
「イー!」という人間モドキという。
それの代表がバイデンさん。
こういうふうにして自分が正しいという一人の人が出て来ると他がみんな悪い人に見えてしまう。
「認知バイアス」「歪み」、「わたしら」と「あいつら」。
この二つの集団に分けて世界を見る。
その「あいつら」が許せない。
こういうバイアス、心理がある。

このような傾向は「部族主義」と呼ばれる。(10頁)

国民とか市民ではなく「部族」。

昨日お話したのは人間はもともと認知バイアス、何か物事を考えたり決心する時にバイアス、歪みが発生するのだ、と。
その上に政治というのは十年先のことを考える為に今、決断するようなもので、十年先はすっかり答えが入れ替わっているかも知れないという。
今、結論を出すワケだが、元々バイアス、歪みがある考え方しかできない。
人々はみんなバカの二乗で生きているという。
そのバイアスの一つが部族主義。
「あいつら」と「われわれ」と集団の色分けを考えて「われわれ」を増やして「あいつら」を減らそうとするという。
これを著者は「部族主義」と呼んでいる。
「我々のことは知っている。でもあいつらのことは勉強しなくていいんだ」という。
これはアメリカの人、すみません。
でも調査によると、トランプさんの支持者の大半が中国・韓国・日本を(地図上で)指差せる人があまりいないという。
それからこれはかなりの確率らしいのだが、ニューヨークで調査をやったのだが、大半のアメリカ人がイスラエルの場所が指差せない。

ワシントン・ポスト紙の調査によると、ウクライナの位置を地図上で示すことができたのは、六人中一人しかいなかった(10頁)

我々だってウクライナはそんなに知らなかった。
今回のことがあって、どのくらいの大きさでここにあってというふうに改めて思った水谷譲。
世界地図の中で「この国はここだ」と指差しができない。
無知なんだ、と。
でも彼ら曰く「アメリカをもう一度偉大な国にしなければならない」。
ここはもう、トランプ支持者全員共通している。
「偉大な国にする為には中国、韓国、日本がどこにあるか、イスラエルがどこ、ウクライナがどこ、そんなこと知らなくていいんだ。アメリカさえ偉大な国になればいいんだ」
こういうこと。
クリミア半島とかロシア侵攻の前には知らなかった。

二〇一四年にロシアがウクライナのクリミア半島に侵攻した(10頁)

2014年にロシアがクリミア半島を侵略したことさえ武田先生は知らなかった。
ガザ地区。
死者の数がある一定数を超えた時にその悲惨を知るワケで。

つまりそういう意味合いで武田先生の政治的無知は「バカの二乗」である。
著者はここから様々な考え方を重ねていく。
実は綿野さんは哲学者。

戦後日本の中に生まれた「大衆」達がいる。
市民とは呼べない。
「大衆」
政治家さんから「大衆のみなさん!」と言われる。
「大衆と呼ばれる筋合いじゃ無ぇよ」と思う時があるが、とにかく「大衆」。
読むんだったら「週刊大衆」。

週刊大衆 2024年11月11日・18日号[雑誌]



武田先生は仕方がない。
大衆だが。
「大衆」というのは一体何かというと進化の途中で、集団の生存率の高さを知り、文化を遺伝的に受け渡す人々。
それを「大衆」と呼ぶ。
先例としたトランプ支持者。
これは典型的なアメリカの「部族」。
「アメリカ国民」ではない。
アメリカの部族、大衆。
彼らは直感システム、素早い判断とハロー効果、何回も繰り返される言葉で洗脳された、覚え込んだ人達で。
彼らが願っていることは何か?
トランプ支持者が狙っているのはどういうことか?
「世界の平和」「台湾の安全」何にも関係無い。
トランプ支持者は、そんなことは何一つ考えていない。
何を考えているか?
「富の分配が自分のところにいっぱい来るように」
本に書いてあることというよりは武田先生の独自見解。
でも当たり前。
富の分配、分け前が少しでも自分のところに多く来るということを願うことは生き方としては間違っていない。
水谷譲も自分はそうありたいと思う。
だから水谷譲も二乗とまでは言わないがバカの種類。
そのくせ、自分のところの富の分配が少しでも多いことを祈りつつも「ダメよ岸田じゃ。今、日本は」とか「株ばっかり高くなってて実感ないもの」とか。
実は気にしているのは「富の分配が自分のところに来ない」ということに不満を持っているクセに「あの経済学者あてになんない、あの人」とかと・・・
これを綿野さんは「みんな政治を語ることによってバカになってんじゃ無ぇの?」。
「今のこの暮らし向きがよくならないのは政治が悪いんだよ」という人は多いということだと思う水谷譲。
「それで何か変わる?」ということを言っている。
人々はみんな富の分配が自分のところに一円でも多くなることを実は願っているだけ。
では武田先生は何か?
老後のことしか考えていない。
武田先生如きは政治でバカになるどころか、だんだん年を取って自分の老後しか考えないという「老害」というバカになりつつある。
老害は何が老害か?
自分の道徳を無闇に大事にする。
それが文化だと思っている。
故に他者、他の文化と比べてどれほど優れているかを主張したがる。
武田先生達世代がバカなのは他者と向き合う能力が無いくせに、他者に無関心でいられない。
だから排除に結びつく。
今「老害」と言われている老人達のやっかいなところは青春の時はマルクス共産主義を夢見た。
「分配を正しくやろう」とあの時も叫んでいた。
その時は大衆ではなく「階級闘争だ」と言った。
今はこの老人達はどうなったかというと今、お国自慢で戦っている。
「ケンミンSHOW」(秘密のケンミンSHOW極
部族主義。
茨木と栃木、どっちが田舎か?
そんなことはどうでもいい。
だがそれが番組となるほど、いわゆる討論するにはもってこいの面白いところで、あれも一種の政治ミーティングと同じ。
それぞれの群れによって他の集団に打ち勝つこと、それがたまらない喜びとなる。
これは芸能界にもあって「部族主義」。
例えば「たけし軍団」。
あれは(北野)たけしさん中心の部族。
吉本興業。
あれは吉本興業を中心とする吉本部族。
そして今、日の出の勢い、サザンオールスターズのアミューズ部族。
これらはみんな道徳、礼節を持っている。
吉本興業のタレントさんと一緒の時は必ず吉本の人は自分達の文化である楽屋挨拶というのを来る。
アミューズさんもアミューズ部族。
ここは前室の差し入れが豪華。
それからたけし軍団は大将が来た時、たけしさん「殿」が来た時の送り迎えが綺麗に整列して見送るという美徳を持っている。
これは部族主義のよい面で、そういう礼儀作法を持っている。
武田先生は「博多部族」。
博多部族は特徴がある。
これはこの間カンニング竹山とも確認したが、自民党の森さんとか二階さんの悪口は言う。
「森さんがさぁ、オリンピックさぁ・・・」「二階さんもいい加減にしないとさぁ」とかは言うが麻生さんの悪口は言わない。
あれが部族主義。
なぜか?
麻生さんは福岡。
麻生セメント。
巨大な会社をやっておられる。
文化事業なんかよくやっている。
娯楽施設から市民会館からいろんなものを、麻生さんは自分のところのセメントで作っている。
武田先生もこの間、セメント業界からの対談の申し込みがあったが、すぐ引き受けた。
後ろ側に麻生さんの臭いがする。
これはやはり本能的に言いにくい。
これは武田先生の中に飼っているバイアス、歪み。
それは二階さんや森さんの方が悪口がいいやすい。
こんなふうにして大衆というのは歪みを持っているんだ、と。
ところが令和の今、大衆というのはもう好まれない。
令和の今、国民、市民のことを何というか?
「消費者」
大衆も日本に於ける消費者も西洋が持っている「市民」とは違う。
日本の大衆、或いは消費者は部族の人達。
「自分達」「われわれ」という小さな集団の決まり事を持っている。

 さまざまな人々が集まり、自由闊達に意見を交わす。かつてインターネットは、私たちが「他者」と出会い、対話を重ねる場として空想された。−中略−
 しかし、twitterやFacebookなどのSNSを見ればわかるように、私たちは同じ考えを持つもの同士で集まる傾向がある。
−中略−インターネットは私たちが見たいものしか見せないのである。−中略−私たちは同じ価値観を共有する集団=「部族」へとバラバラになる。(72頁)

インターネットが「集団分極化」を引き起こすことを指摘してきた−中略−「集団分極化」とは、同じ考えを持つものが議論すると、極端な考えの方に先鋭化する現象である。(73頁)

「バカの二乗」である私。
功利主義に弱く、部族として道徳的直感を平気で引っ込める。
森元総理や二階議員の悪口は言う。
だが麻生さんの批判はできるだけ避けたい。
なぜならば古里が福岡だから。
中国の管理・監視社会を厳しく批判する。
カメラが人を見張る社会は気味が悪い。
ただ、武田先生なんかはそうだが、世田谷に防犯カメラをもっと付けて欲しい。
水谷譲ももっと付いてもいいなと思う。
最初に抵抗したのは何だったのか?
不思議。
こういう、人間が途中でコロッと変わるというのはあり得ること。
中国はちゃんとそういうことを見越しているから偉い。
敢えて「偉い」と言った方がいい。

 中国のアリババグループが開発した「セサミクレジット」という「信用スコア」が知られている−中略−税金の支払いやSNSの履歴などの個人情報を収集し、AIが信用度を数値化し、スコアが高ければ低金利でローンが組めたりレンタルサービス利用時の前払い金が不要になったりと、さまざまな恩恵を受けられる。中国で進展する管理監視社会化はしばしば中国共産党の独裁体制に結びつけられ、人びとを抑圧するテクノロジーとして描かれる。(87頁)

これはもう誰でも中国人になりたい。
そうやって全部、官民一体の監視体制。
ポイントぐらい付けないと誰が言いたくもないおべんちゃらを言うか。
ポイントがバンバン入ってくるから、そのポイントがたまると喰いものが安くなるわ、とにかく凄く特典が貰える。
それで中国の人達が本当に偉いのは「多少の犠牲があるから私は幸せになれる」という。
これは納得すれば凄くいいこと。
少数の犠牲者はみんなの幸せのタネ。
これが監視体制の・・・
この素晴らしいアリババグループのセサミクレジットが徹底したのは武漢からのパンデミック。
この時に「コロナが広がる」という脅威につけこんで都市封鎖。
「誰が破ったかを密告しなさい」でセサミポイントが貰える。
それは密告をバンバンする。
少数の犠牲者がみんなの幸せのタネになる。
これで習近平・共産党体制は不落の籠城戦を敷いたという。
これは増々ポイントは高くつくような時代になってしまうのではないか。
これはいいこと書いておられる
綿野さんの「みんな政治でバカになる」。
中国では、はっきり言えば自由はいらない。
それよりも物が貰える方がいい。
これはある意味で、もの凄くクールに言えば立派な市民感情だ、と。
「自由なんかいらないよ、そんなの。なんぼでも灯ってればいいんだ監視カメラなんか。監視カメラがいっぱい付いてた方が我々は自由に行動できる。市民的な公共性、そんなものは衰退していいんだ。最大多数が最大の幸せになるべきで少数の犠牲は当然である」という綿野さんの推論。
長い歴史を振り返ってみると、誰か偉い王様がいて、皇帝がいて、主席がいて、大統領がいて、全部決めていくと一個間違った方に行ってしまうと大変なことになってしまうと気づいたイギリス人がいた。
18世紀のこと。
この人達が王様一人よりも集団で賢い選択をした方がいいんじゃないかというので選挙と議会、政党が生まれた。
これはやはりグッドアイディアだった。
でも18世紀、イギリスで生まれた民主主義資本制度というのは採用しなかった国があって、それが中国とロシア。
その二か国をマネしたのが北朝鮮で。
まあそれでもやはり王様がいて命令を出した方が、議会なんか通さなくていいから、何をするにしても早いワケで。
皇帝ではないが、小さな集団で国を作っていく。
こっちの方が国を動かす時、もの凄く便利がいいという。
では民主主義はどうだというと、時間がかかり過ぎる。
だから純益を綺麗に分配できなくなった矛盾が今の議会制民主主義なのだ。
この戦いが今の世界だ、という。
綿野さんはここが鋭い。
ではどうなるんだ?これから我々は。
皇帝とか王様とか、たった一人の大統領とか、一人の頭に任せておくと間違えたらエライことになるぞというので、18世紀、イギリスがシステムを発明した。
それは一人じゃなくて議会で討論して結論を出すという。
時間がかかるのだがここでいろんなアイディアが出てイギリスの成功というのは大きかった。
イギリス議会が次々と新しい制度を出していって、何と19世紀には七つの海を全て支配し、イギリスが世界を牛耳った。
それくらい豊かな富を集めてイギリス国民に分配したという。
ところが時間が経つとこのイギリスのシステムもだんだん上手くいかなくなって、選挙で政治家を選ぶというのもまどろっこしいし、無関心というのが増えて一票がどんどん軽くなっていく。
例えば日本の民主主義で考えましょう。

たとえば、二〇二〇年の東京都知事選挙の有権者数は一一二九万二二九人であった。もし東京都民であれば、あなたの意見は一一二九万二二九分の一に過ぎないわけである。投票しようがしまいが、結果は変わらない。(11頁)

(番組では1129万2290人と言ったが、本によると1129万229人)
この間もそうだが、候補者は何十人もおられたが、どの人が政治家にふさわしいのかなかなか決めるのが難しい。
「こんな人出てきちゃっていいの?」という人もたくさんいたと思う水谷譲。
学祭のイベントみたいだった。
大学のイベントみたいで。
政見放送もとんでもない人が学芸会みたいなことをやっている人もいたが。
一番いいのは全員を集めて討論をやらせること。
討論もできないような人は、もうその人達はどのぐらいの値打ちかわかるワケで。
武田先生の独自見解だが、政治家を誰か「この人がいい」と選ぶ時に、一人の人物がいる。
この人がふさわしいかどうか討論する。
それでその討論を見聞きしているうちに「この人がいいんじゃないか」というのがだんだん決まるのではないだろうか。
誰が政治家にふさわしいか。

「討論型世論調査」は通常の世論調査とおなじく無作為抽出で一〇〇〇〜三〇〇〇人を選び、そのなかから討論の参加者を二〇〇〜四〇〇人選ぶ。テーマについての必要な情報が提供され、参加者は三日間討論をおこなう。(134頁)

選挙管理委員会は、その人達にはちゃんとギャランティを出す。
そうするとある程度の察しはつくのではないだろうか?
私達はとにかく政治的な無知を乗り越える為に政治を中継してくれる何かを作り出さなければならない。
それから日当を払おう。
東京都の都議会の議員さんがいる。
あれも選挙で選んでいた。
選挙と選挙と言っても一票にすると1129万分の1になってしまう。
東京都の議会の人達が小池さんと討論しながら東京の政治を決めていくとする。
この時に半分を抽選。
あまりにも選挙に頼り過ぎるというのが一票をどんどん軽くしている。
抽選で選ばれて東京都議会議員が明日からのアナタの仕事になる。
それをできない人もいる。
水谷譲は毎日の文化放送の仕事があるので。
(都議会議員の数は)127人だそうだ。
その半分、60人を抽選で。
60人の人は結構いい収入になると思う。
多分水谷譲の今の給料よりいいのではないか?
それでそういうことにしておいて上司にかけあう。
「任期の期間中、二年間だけ、私いなくなります」
今、産休等々のシステムを励まそうと言っている時代、或いは女性議員を増やさないといけないと言われているこの国に於いて抽選で議員を選ぶというのはいい。
きちんと生活の面倒を見るということで都議会の議員さん、127人のうちの半分は選挙は関係ない。
議会を開く時間を夕方なら夕方に決めてお昼間お仕事OKとか。
バッチリの副収入。
これが武田先生の意見。
ただし一個だけ問題は少し本式に勉強しないとわからない勉強もあるので、さあそれはどうするか?なのだが、それは来週の続きということにする。

ゆっくりパワーダウンしていく民主主義だが、何とか喝を入れてこの制度を守らねばというアイディア。


2024年10月10日

2024年5月13〜24日◆サルタヒコ(後編)

これの続きです。

古代の神様をまな板の上に乗せている。
サルタヒコ。
これはもちろんネタ元があって戸矢学さんという方で「サルタヒコのゆくえ」。

サルタヒコのゆくえ: 仮面に隠された古代王朝の秘密



(本の中の傍点部はアンダーラインで表記する)
河出書房から出ている。
縄文時代から日本に住んでいたサルタヒコという神様がいた。
それを弥生時代の始まり、天孫族のニニギノミコトという人が遥々日本を訪れて日本の一角に住み着いて日本をまとめてゆくという遠征の旅に出た。
その時にその「こっち側にあなたの住むにはふさわしい場所がありますよ」と教えたのが国つ神、先に住んでいた神様サルタヒコではなかろうかという。
ある意味で侵略戦争の過程ということなのだろうが何か日本の古代史の場合は昔から住んでいた人と新しく住む人の揉み合いというのがあまり殺戮をたくさん残さずに古代史の中でいうところの「国譲り」という。
国を譲ってしまうのだから凄い。
戸矢さんは政治劇としては縄文世界の中に弥生が侵略してくるというタッチだが、武田先生は比較的権力というのが上手いこと解け合ったのではないだろうかと、戸矢さんとはちょっとタッチが違う言い方で述べて行きたいというふうに思う。
とにかくサルタヒコの案内によってアマテラスの二番目の孫、この方は九州の筑紫の日向のクシフルダケにあまふる。
この筑紫と日向というのがこれが福岡と宮崎。
違うのだが日本書紀を書いた人は福岡県と日向の違いがあまりよくわからなかったのだろう。
とにかく九州方面ということで。
ただ、高千穂の峰の「高千穂」が出て来るのだがクシフルダケ。
これが面白い。
クシフルダケというのは福岡にある。
高千穂は宮崎にある。
クシフル山というのが福岡県にある。
福岡の地名というのは古代が匂う。
それは武田先生が大好きな別の古代史作家さんから、研究者から教えてもらったのだが、自分の産まれ古里というのが古代からの地名を未だ持っているという。
それが武田先生が福岡を振り返る大元になった。
とにかくニニギという人は筑紫、或いは日向、それらの国々の後ろ盾を得てそこで住み着き始める。
この後の流れなのだが、天孫族の人々にとっては九州はとても重大な土地であった、と。
やがて日本全国天下を取るニニギだが天孫族ニニギの天下取りはここから始まるワケで。
ちょっと九州はあっちこっち飛ぶが、降り立ったところは福岡県・宮崎県、そのあたりに降り立ってそれでブラブラ、ニニギが道を歩いていたら、鹿児島の笠狹宮(カササノミヤ)という。
これは今でも地名があるが、ここを歩いている時に先住民の神様の娘さんでコノハナサクヤヒメという人にバッタリ出会う。
この人に出会って一目ぼれする。
古代の恋愛はもう今の若者達よりもストレートで、この綺麗なお嬢さんを見た瞬間にニニギノミコトが声をかけた。
何と声をかけたか?
「まぐわいせむ」
ストーレート。
「セックスしよう」という直球を投げた。
「お父様の許可がいりますわ」とかとこの絶世の美女コノハナサクヤヒメに言われて、国つ神、コノハナサクヤヒメのお父さんとお母さんのところに娘貰いに行く。
これが結婚の様相が違って先にこの国に住んでいた神様の社会のルールでは妹と結婚したければ姉さんも一緒に貰うという。
そういうルールがあったらしい。
性的にやはりおおらかだったのだろう。
でもニニギもハッキリした人で「姉ちゃんあんまり器量良くないから要らない」。
これ(姉)はイワナガヒメという。
それでこのイワナガに「アンタとは一緒にならない。このベッピンのコノハナだけを嫁さんにする」と言う。
そうしたらイワナガが呪う。
「オマエは天孫の王子かも知れないがこれで決定した。私を嫁にしておけば永遠の命を貰えたのに。岩のような命を貰えたのに、妹を好んだばっかりにオマエは永遠の命を捨てた」
これがイワナガヒメの呪いで。
これ以降、神の子であるニニギも人間と同じように老いて死んでゆくという宿命を辿るという。
とにかくコノハナサクヤヒメと上手くいったワケで。
その国の神様と天孫、異国からやって来た神がハイブリッドで子供を産む。
その最初に産んだ子供が海彦・山彦。
それで兄と弟が職場を変えようなんて交換なんかして

兄の海幸彦から借りた釣り針をなくしたため無理難題を吹っかけられ、仕方なくそれを探すために海に入った山幸彦は、竜宮で海神や豊玉姫命と出会い(「猿田彦の怨霊」80頁)

今度は海神のお嬢さんトヨタマヒメという方を奥さんにしてしまって、また子供が産まれる。
その子供の後ぐらいが大和へ登っていく神武を産む。
そう繋がる。
このへんが好きな武田先生。
物語の中に何が一体隠れているんだろう?と思う。
いっぱい隠されたものがあるのだが、日本書紀のその神話を辿っていこうと思う。

サルタヒコという奇怪な神様のことを扱っているが、いつの間にか話は横道に逸れて、この神々の交流というのがもの凄く面白い。
日本にはまず縄文の神々が住んでいた。
そこへ弥生の神々、天孫の神々、インドシナ、アラブ、メソポタミアも思わせる神々が住んでいたという。
そういうところが凄く面白いところ。
それらの神々は次々と血を交えながらハイブリッドな民族を形成していく。
そのハイブリッドな民族の呼び名を中国が名付けるが「倭」「倭人」ということにした。
ニニギの家系から神武を産んで、彼は天孫族による神々の統一を企てる。
国を統一するのではなくて、神々の頂点に自分を神としてこの国をまとめていくという。
おそらくニニギが一番最初に国つ神に出会ったサルタヒコ。
そのサルタヒコの胸元には勾玉が輝いていたであろう、と。
海人族の彼は勾玉をいつも首から下げていた。
これが一族の象徴であったという。
神武は日向から攻め上り熊野あたりに上陸するという。
ところが面白いもので、物語は同じパターンを繰り返す。
今度、神武が日本の真ん中を目指して日向から大和に行く。
それで熊野に上陸する。
その時にまたバッタリ道案内の神様に会う。
国つ神。
これがヤタガラス。
ヤタガラスはワリと重大で、今、Jリーグのマークになっている三本足のカラス。
あれがヤタガラス。
これが大和への道を教えてくれるという。
こういう国つ神、国に先に住んでいる先住の神様が後から来た神武に道案内をしてあげるという。
ここでもまた凄い物語。

神武が大和入りした時には、すでにニギヤハヤヒがそこを統治していた。
 神武は当初はそれを知らぬままに闘うが、ニギハヤヒの配下ナガスネヒコらに苦戦、結局戦闘では勝つことができなかった。ところがナガスネヒコが崇めるニギハヤヒが登場し、互いに天神であることを確認すると、なんとニギハヤヒが神武に大和の統治権を譲るのである。これが、大和朝廷の始まりとなる。
(「サルタヒコのゆくえ」140頁)

親戚だから簡単に国を譲ってしまう。
それで天孫族というのは外交戦略で言うと国を譲らせるという「国譲り」という政治的手腕が凄く巧みになってしまう。
その一号がこの大和の地。
その代わりと言っては何だが、ニギハヤが求めるのは「俺をちゃんと神様として祀ってくれる?」という。
それで「神社を作ってくれるんだったらいいよ」というので

 ニギハヤヒは、丹後宮津の籠神社に祀られている。−中略−
 籠神社の神宝は二種の鏡である。
−中略−伝世鏡(発掘ではなく)としては最古のもので、国宝に指定されている。(「サルタヒコのゆくえ」139頁)

よく調べたらメイドイン・ジャパンではなかった。

 昭和六十二年十月三十一日−中略−に二千年の沈黙を破って突如発表されて世に衝撃を与えたこの二鏡は、−中略−日本最古の伝世鏡たる二鏡の内、邊津鏡は前漢時代、今から二〇五〇年位前のものである。(「サルタヒコのゆくえ」141頁)

前漢時代といったら、まだイエス・キリストが産まれていない頃の鏡を持っていたということだから。

本当にいろんな神様がいる。
皆さん方はもう古代史の神様サルタヒコ、ニニギノミコト、ニギハヤノミコト、アマテラスオオミカミ、スサノオ、ツキヨミノミコト「関係ないよ」とかと思ってらっしゃるかも知れないが、この神々の痕跡というのがテレビに映っている。
それに気づくか気づかないかだけ。
では水谷譲にお話しをする。
アナタはテレビでこんな光景を見たことがありませんか?
これは現在の天皇皇后両陛下もそう。
この方々は時折、伊勢神宮にお参りになる。
この伊勢神宮に天皇皇后両陛下が移動なさる時、その後ろに一団がくっ付いていることを見たことはありませんか?
天皇皇后両陛下が伊勢神宮にお参りなさるのは、これは当然で、高祖アマテラスオオミカミ、この方が伊勢におられるので、その方にご挨拶をなさるのだが、天皇皇后両陛下の後ろに長い箱を捧げ持って歩いている姿を見たことがありませんか?
チャンスがあったら探してみてください。
あの箱の中には何が入っているか?
刀。
草薙剣(くさなぎのつるぎ)という銅剣が入っている。
これは片刃ではない。
両刃で本当の所有者はヤマトタケルノミコト。
ヤマトタケルノミコトが草薙剣を名古屋の熱田神宮に預けた。
それ故に天皇の持ち物ということで、草薙剣だけはなぜかわからないが、熱田神宮に預けてあるので「所有者がいらっしゃった」ということで剣が付いていく。
「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」
これはどうやって出て来たかということの謂れだが、高天原で成長したスサノオノミコトという人がいるのだが、姉とあんまり関係が上手くいかなくて問題ばかり起こす。
カーッと怒ったアマテラスオオミカミはもうこのスサノオを高天原から追放してしまう。
ショボショボとスサノオは地上に降りて来る。
一回は韓国に寄ったりするのだが「ここじゃ無ぇな」というので出雲の国に降りて。出雲の国でウロウロしていたら出雲の国つ神、先に住んでいる神様、先住の神様の娘が泣いている。
「どうしたの?」と訊いたら、この山奥にヤマタノオロチという八つ又、八つも頭のあるキングギドラが住んでいて「これがアタシを喰うんですよ」という。
そうしたら人のいいスサノオは「いいよいいよ。俺、退治してやらぁ」と言いながら挑んでいくという。
その日本書紀に書いてあるのが、そのオロチ退治の時のことだが、

「かれ、その中の尾を切りたまいし時に、御刀の刃毀けき。しかして、あやしと思ほし、御刀の前もちて刺し割きて見そこなはせば、都牟羽の大刀あり。かれ、この大刀を取り、異しき物と思ほして、天照大神に白し上げたまひき。こは草なぎの大刀ぞ」(『古事記』読み下し文)
 スサノヲがヤマタノオロチの尾を切ったら、スサノヲの刀の刃が欠けたというのだ。
(「サルタヒコのゆくえ」147頁)

「アレレ、欠けちゃったよ」と思いながらよく尻尾の中を見たら何とそこから太刀が出て来た、刀が出て来たという。
「これは不思議な刀だなぁ」
ヤマタノオロチが尻尾に隠していたという。
それを草薙の大刀、剣としてアマテラスオオミカミに差し上げたという。
スサノオの剣は草薙の刀に当たって欠けている。

スサノヲの佩刀よりも草薙剣のほうが硬度が高いと言っているわけである。(「サルタヒコのゆくえ」147頁)

スサノオが振りかざして裂いた刀は銅剣。
ところがオロチが飲んで尻尾に隠していた刀は鉄製。

出雲の玉鋼を日本式に鍛造したものであるだろう。(「サルタヒコのゆくえ」148頁)

これはもの凄く大事なことだが、この日本刀の切れ味、日本で作った、出雲で作った刀の凄いところは朝鮮半島も中国もマネできなかった。
ここらあたりで名前が変わっている。
「草薙剣」だったのだが「天叢雲剣」と別の名前になるが、何かがあったのだろう。
ヤマタノオロチの尻尾から出たという太刀。
玉鋼(たまはがね)と言って独特の鉄を硬くするという技法。
鍛造技術から生まれた名刀。
これが何が重要か?
草薙剣という。
草薙とは何かというと稲刈りの時に便利。
草を薙ぐ(切る)という。
それが武器化して日本刀になっていくのだろうが、それがなぜ熱田神宮にあるかはわからない。
これは戸矢さんの推論だと思うが、尾張族という一族が古代に住んでいて、大和の天皇家に相当いろいろ力を貸してあげたようだ。
そのお礼に「よく貢献した」ということでそれが現代まで続いているという。
サルタヒコを振り出しにして鏡の一族が勾玉や剣の一族を従えている。
これが日本書紀には物語として記録されている。
カラス、サメ、ハヤブサ、オロチ、様々な動物をシンボルとする人達がこの日本という国の山河の中に住んでいたという。
サメの一族。
出雲地方にいた。
出雲の国、ウサギとケンカしていた。
つまりあれはウサギの一族とサメの一族がいた。
それが仲たがいして大国主が止めに入ったという。
いかにも海人族のサメと陸上を移動するウサギという、そういう部族がいたのではないだろうか。
ではハヤブサは?
ハヤブサの一族。
隼人(はやと)。
鹿児島。
隼人族。
「ハヤブサの人」と書いて「隼人」と読む。
あそこはやはりハヤブサを象徴とする部族がいたのだろう。
あとはオロチとか鬼とかそういう人達が日本の山河、浜や浦に住んでいて大和はその首長達を従えつつこの国の支配権を取った。
一番の外交の目的は国譲り。
実際の戦闘ではなくて外交で攻め落とすという。
その代わりきちんと先住の神を認めてあげる。
典型的がやはり出雲。
あんな大きなお宮さんを建てて。
神社のお参りは二礼二拍手一礼。
出雲は四回叩く。
二礼四拍手一礼。
それと梅原さんという人が書いた、本殿から参道までが直角に曲がっている。
(梅原猛氏を指していると思われる)
これはなぜかというと霊が飛び出してこないように。
それから神社の扉が内側から開かないようになっている。
外から内側へは押せるが内から外へは押しても引っ掛かるようになっている。
そんなふうにして各地の神々をちゃんと神様として立てつつも、いわゆる政治権だけは収奪していったという。
このようにして様々な一族を大和王権が従えてゆくという。
国譲りとは徴兵・税を求める律令制度を目指して大和政権が用いた外交手段である。
これは縄文・弥生・古墳時代を通して、この列島に東アジアから渡って住み着いた人々には実に都合がよかった。
あることを我慢すれば、あることは自由にやっていいという。
先住の縄文と渡来の弥生が異民族ではあったが互いに皆殺しのような国盗り戦争にならず「国譲り」ということで異民族同士が仲良く血を交えて大和の国、日本を造った。
そして神様を滅ぼさない、全部生かしたものだから何とヤオヨロズの神という。
何と800万の神々がこの国にはいるというような、いわゆる神で溢れた国々になってしまった。
日本が何でそんなに神様が多いのかというのがわかった水谷譲。
このシステムはよくできている。
では渡来人は中国人。
中国がまだなかった時代の頃の民族の移動なので、そんなふうにして考えるとこの国は・・・
災害ではないがそういう時代になりつつある。
人口減少で他の民族の方に日本に住んでもらって日本人になってもらわなければならないなんていうことを国会で討論し始めたワケで。
いろいろ意見があるかも知れないが、かつて日本に住んでいた人達と、そこにあったヒノモトという政府の人達は実に上手く乗り越えた。
だから何か私達も古代還りした方がいいのではないか?

サルタヒコをお届けした次第。
武田先生が古代のことを考えてみたくなったのは、BSを見ていてここから始まった。
日本人の遺伝子を最新の研究が調べた。
遺伝子の20%が縄文人の遺伝子。
弥生人の遺伝子が20%。
後の60%は世界中の遺伝子。
中国、インドシナ、アラブ、様々な人種の遺伝子が混じり合って出来たのが日本人という血統。
縄文、弥生から始まって古墳時代という「謎の5世紀」と言われる時代を挟んで飛鳥という時代に入っていく。
このあたりから日本はスタートするのだが、このあたりまでの遺伝子を調べると古墳時代に60%の遺伝子が混じり合ったという。
だから自分の体の中には世界のどこかのエリアの遺伝子が混じっている。
それと「大和民族は一種類」とかとんでもない
様々な人種が支えたのが大和民族で、血筋が一筋なんてことを誇る方がいらっしゃるがとんでもない。
世界中のありとあらゆる人々の血が混じって出来たのが日本人であるという。
これから人口減少の日本の中で技能実習生を受け入れようとかとあるが、やはり国民にするというような意識がないとダメ。
元気のいいうちだけ使おうなんてまた文句のネタを作るようなもので、古代還りしちゃいましょうよ、飛鳥時代に戻りましょうよ。
始めの天皇達がやったようにやりましょうよ。
何をやったかはニニギノミコトや神武、それからサルタヒコにも訊きましょうよ。
そうしたらやはり活気に溢れる力が日本にみなぎると思う。
我々は令和の人間ではなくて新しき飛鳥人を目指して。
その「新しき飛鳥人を求める日本」というのが異国の人から見ると凄く面白くて。
だってラーメンを一生懸命喰っているあのヨーロッパの人なんか見ると、あの人達は・・・
天ぷら、寿司、ラーメン。
その天ぷらや寿司やラーメンの中に異国から渡ってきた食物をこの国ふうに変える、この国の不思議の力がある。
そんなふうにして考えると、申し訳ないがアラブの人とかイスラエルの人、ロシアの人。
妙につっぱらかって「そこの土地は俺のもんだ」とかと言わないと、案外人間は上手くいくもの。
国が今、暴れている状況だが、かつて日本は国という輪郭を持たなかったこと、そのへんが日本人のパワーになっているのではないかな?と。

戸矢さんは面白いなと思ったのだが、「サルタヒコのゆくえ」という河出書房から出ている本の中で戸矢さんが日本人に関してこんなことをおっしゃっている。

日本人は哲学や思想に疎遠であるとはしばしば指摘されることであるが、ことを論理的に突き詰めるのが苦手な国民的体質がある。しかし、論理や正義は、突き詰めると血を流す。日本列島は、古来「人種の坩堝」といわれるほどに多種多様な人種が海流に乗って渡来した。それゆえに、対立を回避するための知恵として、突き詰めないという体質ができあがったのかもしれない。(「サルタヒコのゆくえ」37頁)

このあたり、決して混沌を嫌がらないという。
二階さんとか麻生さんとか森さんとかいらっしゃるが「どっちが正しい」とかどうでもいい。
そんなふうに思う。
頭にくることは多いと思う水谷譲。
「オメェもいつか年取るんだよ、バカ野郎!」
でもあれは年寄りは言いたい。
それよりも二階さんにご注意申し上げるのは「転ばないように」。
骨なんか直ぐ折れてしまう。
気を付けてください。
麻生さんも頑張ろう。
大好き、麻生さん。
(麻生さんは)福岡県人。
(武田先生と)同郷。
武田先生は「福岡県で生まれた」というだけで嫌いになれない。
余計なことだが、実は戸矢さんの本ともう一冊「猿田彦の怨霊」という本も合わせて今回三枚におろした。
これは合わせ技だった。
ごめんなさい。
その「猿田彦の怨霊」はなかなか読み応えがあって、ここでは現在の皇室の問題を取り上げていて。
男系男子のみが天皇を継ぐことができるという、解釈というのはよくないんじゃないの?というちょっと面白いアイデアだった。
個人的な思いでこのことはいいと思うが、武田先生は次の天皇は愛子様で十分という気がする。
あんな感じのいいお嬢さん、本当に近頃、見たことが無い。
あれこそ日本人がこの後の世紀で持つべき笑顔ではないだろうか?
お顔を見ていると、もうそれだけで心がのどかになる。
何と申しましても日本ににとっては「頭がシャープ」とか「○○が上手」とか「戦争に強い」とかそういう国ではなくて「感じの良い国」という、それが日本人の目指すところではなかろうか?と思った次第。
上手くまとまらないなと思いつつも、上手くまとめるところが力量。
自画自賛。
「自画自賛」を同級生が「痔を手術しないままそのまま持っている人」と解釈の欄に書いたバカがいたが、元気ですか?イトウ君。


2024年5月13〜24日◆サルタヒコ(前編)

(今回のネタ本は二冊だが、番組の前半では紹介されない)

サルタヒコのゆくえ: 仮面に隠された古代王朝の秘密



猿田彦の怨霊:小余綾俊輔の封印講義



BSなのだが「英雄たちの選択」という武田先生好みで、これを見るのが大好きで。
(番組の司会の)磯田(道史)さん、この方が自分の歴史観を語るのだが、例えば関ヶ原の戦いで小早川秀秋という人がいるのだが、豊臣秀吉に育てられながら天下分け目の戦いでは家康に味方したということで彼は歴史上「裏切者」という。
しかしよくよく調べると「この小早川は決して裏切者ではありませんよ」と。
戦国の武将として全体の戦略を見ればどっちが勝つかはわかり切っているので、武将としては家康に付くのは当然ではないか、という。
後世の、後の世の人達が「裏切り裏切り」と言うけどそんなことはないですよ、という。
歴史というのは常に勝者によって語られるので、その中には敵となった人、関ヶ原では石田三成、そういう悪役が作られる。
それともう一つ、消された人物がいる。
そういう人達のことも調べ上げないと、という。
磯田さんはいいことをおっしゃっている。
歴史上で消された人、最大の消された人。
武田先生流で言えば簡単で「坂本龍馬」。
坂本龍馬は何人かが知っていて他の人は誰も知らなかった。
坂本龍馬は正史に堂々と出て来た、歴史上に堂々と出て来た人ではない。
あれは土佐の若い衆達が「アイツは面白かった」と語り継いでゆくうちに蘇った人。
龍馬がやったと言われる大政奉還案にしろ、あれは歴史の上では後藤象二郎という土佐藩の家老がやったことであって、後藤は「あれは坂本が考えたんですよ」なんて言っているワケがない。
だから坂本龍馬は消えかかった。
若い衆は「坂本ってのは凄かったよ」と言っているうちにそのレジェンドだけが残って、そこから出て来る。
そういうのが面白い。
だから坂本龍馬というのは内田樹さんという哲学者の方が絶妙のことを言っているのだが、龍馬を暗殺した人達は龍馬を歴史から消したかった。
ところが世の中は不思議。
消されることによって名前が残ってしまった。
「消されたことによって名前が残る」というそんな人は本当にいる。
聖徳太子という人がいて、これは一説での説。
いたかいなかったかよくわかっていない。
この人も伝説に残っていて、正史に残っていない。
聖徳太子でいうと一遍に十人の人からの話を聞けたみたいなちょっとドラマみたいなエピソードしか残っていないと思う水谷譲。
お母さんが旅している最中、途中の馬小屋の中で出産しちゃった。
それで「厩戸皇子」とかと聖人化してゆくという。
ただ、正史には残っていない。
正史に残らないという人は、いたかいなかったか本当はわからない。
浄土真宗の親鸞なんかも一時期は「いなかったんじゃないか」。
正式な歴史の本に残っていない。
レジェンドはあったのだが。
こういう不思議な人物が歴史の中に点々といる。
磯田さんの提案は「そういう人達も一回歴史上に上げて、綺麗にさらって泥を落とさないとその人の正体というのがわかりませんぜ」という。
歴史を作ったのは戦いに勝った人。
そしてもう一つの一群の中に歴史上で消されてしまった人達。
それを探し出して見せない限り真相、歴史的な流れを正確に言い当てることはできませんよ、という。

今日まな板の上に置いたのは「サルタヒコ」。
コーヒーショップで「猿田彦」という店があるが、そこからきているのか?と思う水谷譲。
(「ブランド名(屋号)は『みちひらき』の神様・三重県伊勢市の猿田彦大神から拝受しております」とのこと)
それはどうか知らない武田先生。
ただし、水谷譲がコーヒーショップを連想する程、場違いなというか。
舞台で猿田彦が何かで出て来たような気がするが何をやった人かはわからない水谷譲。
ゆっくりご説明しましょう。
日本の初めての歴史の教科書が二冊ある。
一冊が「古事記」もう一冊が「日本書紀」。
古事記と日本書紀の中に登場する神様。

 サルタヒコがどのような容姿であったかは『日本書紀』にのみ記されている。
 その八年前に成立した『古事記』にはそういった記述は一切ない。
(「サルタヒコのゆくえ」13頁)

日本書紀の方ではそうとう妙ちくりんな神様として登場する。
「名前はちょっと聞いたことがある」とか、それから「何かにも出てきましたよね」と水谷譲が言う通りで、サルタヒコの風貌が天狗になってしまう。

やがてそれが天狗のモデルともなっていった。(「猿田彦の怨霊」54頁)

異形の姿として登場する神様。
とてもとても不思議な神様だが、いかな神様か?

日本書紀そのものは養老四年(西暦)720年に完成した歴史書。
日本で初めての歴史書。
これは大和政権、大和の天皇家が「俺が昔からの王様なんだぞ」という正当性を叫んだ、天皇家の系譜を歴史に残すという事業で登場した書物ということ。
天孫族、つまり天皇家の始まりの神様が大和の国、日本を目指して天からずーっと天下りしてきた。
その高天原から日本の瑞穂の国、日本に降りて来る途中、天の八衢(あまのやちまた)という何叉路にも分かれたところに来て「あれ?どっち行こうか?」という話になった。
その時にその道脇で待っていた神様がサルタヒコ。
この人の風貌が

▼読み下し
「一人の神あり。天の八達の衢に居りたり。
 その鼻の長さ七咫。背の高さ七尺あまり。七尋という。
 また口尻明かく耀けり。
 眼は八咫鏡の如くにして、赩く輝けること赤酸醬に似る也」
▼口語訳
「ひとりの神が、天の道の交差点にいた。
 その鼻の長さは七咫(約一二六cm)、身長は七尺(約二一〇cm)。巨大である。
 口の端が明るく輝いていた。
 眼は八咫鏡のように大きく、赤く輝いているさまはホオズキ(酸漿・鬼灯)に似ていた」
(「サルタヒコのゆくえ」14頁)

アマテラスの孫であるニニギノミコトは高天原の神々を従えて豊葦原、瑞穂の国、このヒノモトに天下った。
新しく王様になる為の遠征が始まったワケだが、このニニギにはニギハヤというお兄さんがいた。
兄が先に出発した。
ところがその後、音信不通になる。
連絡が来ない。
それでアマテラスオオミカミは「よし、じゃあ弟の今度はアンタが行きなさい」ということで高天原の有力メンバーをこのニニギにくっつけて瑞穂の国に行かせた。
その瑞穂の国に遠征途中でバッタリと遭遇した異人がサルタヒコ。
日本書紀は怪奇な巨人として登場させているが、古事記にはこのようなことは一切書かれていない。
不思議なもの。
この時に、ニニギは不気味な神様が睨んでいるので「いきなり暴れたりするんじゃ無ぇかな」と思って「おい!スタッフ呼んで」。
その呼びつけたスタッフが女性。
アメノウズメノミコト。

天鈿女命は、自分の胸を露わにむき出して、腰紐を臍の下まで押し下げ、嘲笑って猿田彦神と向かい立ち、−中略−この天鈿女命の所作は、天岩戸開きで見せたのと同様の「性的所作」といわれている。天岩戸の際には、この所作によって大勢の神々の笑いを誘い、岩戸にお隠れになっている天照大神を呼び出したのだが、この時も猿田彦神の感心を見事に惹いた。(「猿田彦の怨霊」64頁)

言ったことが不思議な一言。
神様の会話だから。
「私が先に行く?それともあなたが先に行く?どっち?」

天鈿女命が、天孫をどこに連れて行こうとするのかと尋ねると、
「筑紫の日向の高千穂の槵触峯」に、そして自分は「伊勢の狭長田の五十鈴の川上」へ行くのだと答えた。
(「猿田彦の怨霊」93頁)

そのニニギがこの後、どこに行けばいいかというのを指図したという。
「自分は伊勢の方に行くわ」これだけを伝えてサルタヒコは去っていったという。
この時に不思議なことにアメノウズメノミコトも一緒に伊勢へ去ったという。
ニニギは筑紫の日向の高千穂のクシフルダケというところに降りようというところで天からスーッと宮崎の方に降りたという、こういう話。
これは日本書紀の中で何が言いたいかというと、ニニギに一番最初に降り立つべき場所を教えた神様ということで

 この言葉から、猿田彦神が「道開きの神」−中略−と呼ばれるようになった。(「猿田彦の怨霊」93頁)

「道を案内する神様」ということで信仰の対象になっていった。
ニニギがサルタヒコから行けと言われた筑紫の日向の高千穂のクシフルダケ。
これは「筑紫」と「日向」は全然違う。
筑紫は武田先生が生まれたところ(福岡)。
日向は違う。
東国原さんのところ(宮崎)。
何か九州がごちゃごちゃに地名として書いてある。
何でこんなにグジャグジャに・・・
だから変な言い方をすると日本書紀を書いた人は宮崎と福岡の違いがわからかったような人なのかな?と。
「アマ」というのを「海」と読んで、船でやってきた一団が日向の沖で上陸したポイントが宮崎だったという。
そんなふうに読んだらどうだろうか?という。

日本のヤオヨロズの神が住みたもうというこの大八洲(おおやしま)だが、その神の一人、サルタヒコを扱っている。
奇妙な神様。
鼻がもの凄く長くて天狗と同じで顔が真っ赤っ赤。
身長は2mもあるというような大男。
異国から海を渡ってやってきた神様と土着の神様。
そういうものがゆっくり混ざってゆくその過程を歴史で書いたのが日本書紀ではないだろうか?
ことごとく神話。
それで「アンタ方ここ行きなさいよ」とサルタヒコが勧めた。
日本のことをよく知っているということ。
それで「ここに住んだらどう?」と勧めてくれた。
それが日向の国、高千穂のあの一帯。
そこに天孫族の神が降り立ったという。
先住の神、先に住んでいた神が新たにやってきた神へ、開拓すべき土地を教えてあげた。
そしてサルタヒコ自身は自分の本拠地、伊勢へ帰った、というワケ。
その時に交渉係に立ったアメノウズメノミコト、女性の肉体美の神様を誘って一緒に伊勢まで行ったという。
この一組の神様はこの伊勢で夫婦生活を営む。
ところがあっけなく物語は終わってしまう。
本拠地伊勢の狭長田の五十鈴川、今の伊勢神宮の五十鈴川の川上というところが住まいだったらしく、そこに行ったらしい。
今でこそ伊勢だが、昔はサルタヒコが支配する土地だったのではないだろうか?という。
そこでこんなことになった。

アメノウズメは、むすばれてまもなく寡婦となる。
 サルタヒコが漁のために伊勢の阿邪訶(松阪)の海に潜った際に比良夫貝(オオシャコ貝)に手を挟まれて溺死してしまったためである。
(「サルタヒコのゆくえ」4頁)

貝類では世界最大のもので−中略−
 これまでに発見されたもので最大のものは、体長一三五センチメートル、重量二三〇キログラムにも達していたという。
(「サルタヒコのゆくえ」208頁)

これは恐らく今で言うところのシャコ貝ではなかろうか?
パラオで見たことがある武田先生。
シャコ貝が海底にバーッとある。
貝がタンスぐらいの大きさ。
「ビーナス誕生」のあのシャコ貝。

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それはもう重機がないと上がらない。
このあたり、死に様からしてもサルタヒコというのは海にまつわる一族の臭いがする。

猿田彦神は、間違いなく海神たちの主だった。(「猿田彦の怨霊」156頁)

遠い昔、海から日本に辿り着いたという一族の神だったのだろう。
このサルタヒコは海の臭いがする。
何か南海の男子を思わせる、そんな気がする。
それで後にそこにアマテラスオオミカミがやって来る。
伊勢は、最初にサルタヒコの領地だったのではないか?
アメノウズメノミコトとサルタヒコ夫婦。
夫婦でその土地に化身として宿ったのが二見浦の夫婦岩。
あれが実はサルタとアメノウズメの化身、墓標みたいなものじゃないかという。
そして驚くなかれだが、サルタヒコ信仰というのは凄いもので

 サルタヒコを祭神としている神社は、全国に三三〇〇余社鎮座する。(「サルタヒコのゆくえ」84頁)

アマテラスオオミカミが5000、ニニギノミコト、あの皇太子、そこに住み着くことになったニニギ、これが1000。
天つ神の英雄、ヤマトタケルが1009か所だから。
(「サルタヒコのゆくえ」によると1900余社)
第二番目。
いかにも脇役扱いでフイッと消されるのだが、実は脇役ではなかったのではないか?という。
いろんなところに点々とサルタヒコの神社があるので、恐らく日本を縦横に海を利用して移動していた一族ではないだろうか。
それでその風貌が天狗伝説になったりするという。
それは天狗、なまはげ、それから沖縄ではマユンガナシという大男の怪物がいるそうだ。
このマユンガナシの子分がキジムナーだ。
真緑のヤツ。
そういう海からこの国に住み着いて神になったというその系譜がサルタヒコではないだろうか?という。
それでニニギノミコトにちゃんと道を教えてあげたワケだから、繰り返しになるが、長野の信濃路など旅すると道祖神の石仏が立っているが、その石仏の中に男女神が肩を寄せ合って抱き合っている姿が道中安全の守り神になっている。
これは信濃あたりにもどうもサルタヒコの臭いが、という。
信濃は不思議。
御柱というのはまさしく古代。
この不思議な不思議なサルタヒコ。
様々な推論を巡らせてゆこうと思う。

日本書紀に登場するサルタヒコを扱っている。
日本書紀はこの奇怪な神を先住、先に住んでいた神としてなぜ描いたのか?
それはやはりこの神は相当、日本全国で人気があったのではないだろうか?
この日本書紀が書かれた時は万葉仮名の時代で、音読み・訓読みではなく、音読みだけで漢字を読んでいた。
日本書紀というのは仮名が生まれる百年前の書物。
だから日本語の音を漢字の音に当てて作られた、書かれたという書物。
だから日本語読みの時と漢字が出てきてから名前が変わってしまったものとかがある。
富士山。
あれは神社は「センゲン神社」という。
センゲンは何か?
漢字は「浅間」。
あれは大元の名前は「アサマヤマ」だった。
アサマヤマは軽井沢の方にもある。
活火山で煙を吹いている山を縄文の頃の人達はどうも「アサ」という呼び名で呼んだようだ。
だから「アサマ」も「アサ」、「富士山」も「アサマ」、九州にある活火山は「阿曽(アソ)」。
ところが漢字が入ってくると、漢字で山を描くことになって、平仮名ができるギリギリに「竹取物語」という物語が日本で初めて生まれた時に富士山が出て来る。
かぐや姫が不老不死の薬をお爺さんとお婆さんにあげるのだが、お爺さんとお婆さんはかぐや姫がいなくなってしまうので「そんな薬、いらないわ」と言いながら富士山のてっぺんで燃やしてしまう。
その煙が富士山にいつもなびいているもので「アサマ」というのをやめて「死なない山」で永遠の命の薬を焼いてしまったので「不死の山」。
そのあたりから漢字がどんどん転用されていって「不死」から尽きることが無いという意味の「不二家」の「不二」、「この世に二つとない」という「不二」になって、その後「富める士」という。
古代では「アサマ」と呼んでいたものが「不死」から「富士」になったという。
ここではっきりしていることは日本書紀を書いたあたりの人達は漢字に精通している。
だからサルタヒコに「猿」の字を当てている。

あえて「猿」の字を用いて、サルタヒコを貶める意図があったと解釈せざるを得ない。
 記紀を始めとする公文書の執筆や編纂に携わったのは
−中略−母国語である漢字の意味を知らなかったということはあり得ない。つまりこれは、−中略−「卑字」を下賜するという慣習を踏襲したものと考えられる。(「サルタヒコのゆくえ」77頁)

この人達が後に「倭」をやめて「大和」にしたり「日本」にしたりするという。
そういう知恵を持った人達がこの日本書紀をやっている。

これも本来は「サタヒコ」等と表記すべきであるだろう。(「サルタヒコのゆくえ」78頁)

そうすると地方の地名の中にこの「サタ」によく似た響きがある。
「猿投(さなげ)」
名古屋にある。
「猿島(さしま)」
これも「猿の島」と書くのだがサルは関係ない。
こんなふうにしてサルをあてて風貌を連想させて歴史を残したというのが日本書紀の正体ではないだろうか?という。
その風貌「赤ら顔」「巨大な鼻」それから「ホオズキのような赤い目」「2m以上の偉丈夫」。
戸矢学さんという面白い古代史の研究家がいる。
神様をずっと並べていって神社に残っている神様で日本の歴史を見ていくという。
この人が、この風貌はどう見ても海人族だという。
海からやってきた。
赤ら顔、日に焼けている、海人族は全身に入れ墨を入れていたので、あのテラテラ光る頬とかというのは入れ墨ではないだろうか?
そしていつも海に潜っていたから目が真っ赤。
ホオズキのような赤い目という、漁労関係者の風貌を神の風貌にしたのではないだろうか?
そして鼻。
126cmもあったという。
その鼻は一体何だ?
体で126cmほどの大きさになるものは何か?

サルタヒコの特異な造形は「勃起した男根」からの発想であろうと私は考えている。(「サルタヒコのゆくえ」45頁)

体の中でも突き出たものとしては朝から何だが「男性性器があるぞ」と。
しかし身をもってお答えするが、武田先生は15cmが精一杯。
15cmちょっとぐらいか。
「その126cmは無理ですよ」というふうに思ったのだが、何と126cmもの巨根。
はっきり言ってしまえば巨根というものがあった。
これが遺跡から出て来る。
陽根信仰ということで。
「陽根」男性性器のこと。
昔はあった。
そういうのを拝むアレが。
よくご神体でお祭りで見る水谷譲。
朝だからだが、これはもの凄く大事な。
かつての人々は男女の性器そのものに神が宿ると考えていたようだ。
それで人間が増えてゆくからこれは重大な器官。

勃起した男根をかたどった石棒は、縄文時代は言うまでもなく、旧石器時代から信仰されている。(「サルタヒコのゆくえ」61頁)

それが陽根信仰で。
縄文人の集落の跡には必ずこれがあったという。
それから海岸に空いた穴。
あれも神が宿るという。
あれは女性性器。
ああいう海岸に空いた穴にザーッと波を寄せて行ったりなんかすると、海と陸とが抱き合っているように見えるという、そういう縄文人達が拝んだ石の男性性器。
それが丁度126cmぐらい。
ということはサルタヒコというのは縄文から生き残った海人族の神だったのではないだろうか?という。
それでサルタヒコの実態はというと、縄文時代からこの極東の島国に住み着き、生きて来た縄文人、その末裔で彼等の象徴は何かというと勾玉(まがたま)。
勾玉は母の胎内で発生した生命の第一歩の姿。
胎児の恰好をしている。
それと巨根とを抱き合わせて神にしたという。
サルタヒコという神が貝に挟まれたというところもアメノウズメノミコトという母ちゃん(妻)に迎えた女から密やかに殺されたのではないだろうか?という。
そんなふうなことを思わせる。

縄文という時代があった。
そこに後からやって来た弥生の人達の政策の素晴らしさは何かというと、今と違う。
今は困ったことに後からやって来た人というのが前にいた人を皆殺しにしたがる。
中東の方の問題でもそう。
それからヨーロッパの方でロシアとウクライナが争っているのも傲慢。
縄文があって弥生が入ってくる時のスムーズさは一体何かというと、神々が殺し合うことはあっても国民は殲滅したりしなかった。
その為に何をやったかというと神様を認めた。
やってきたニニギノミコトは別のシンボルを神だと思っていたのだが、先の神様が勾玉を拝む人だったら勾玉も自分のところに取り入れようとしたという。
間違いなければ、その前に鏡を神様だとする部族もいた。
それを「剣が神様だ、シンボルだ」と思う弥生の人達がやってきて、三つとも神様にしてしまった。
それで「三種の神器」。
一個にしない。
一個にすると揉める。
今、世界中がそう。
アマテラスオオミカミというのが太陽だったら弟さんはツキヨミノミコト。
そうやって考えるとシンボルまで潰さない。
この渡来人達、或いは新しい大和人達の知恵そのものが日本をまとめていったという。
日本に観光客が多い。
それを見に来ているのではないかと思う。
神様を。
多神世界の面白さ。
いっぱい神様がいる国が、これからの世界のモデルになるかも知れない。
世田谷のある神社。
猫をお祀りしている。
あそこに観光客が行ってしまうという。
どうやってそこを調べて来ているのが不思議だと思う水谷譲。
でもそれが滅茶苦茶面白い。
日本では猫が神様になっているという。
それが豪徳寺というテンプルにあるワケで。
それで近代的なビルに囲まれて、渋谷に行ったら「偉い軍人さんが立っている」「レーニンがある」「マルクスがある金日成の銅像がある」じゃない。
犬が立っている。
あそこで写真を撮っている外国人の方が凄く多いと思う水谷譲。
みんな幸せそうな顔をしている。
それで伏見稲荷に行ったら今度は狐。
鳥取県に行けばウサギ。
因幡の白兎はいるわ。
こんなふうにして「神々とどう人間が折り合うか」という課題に関して、日本はもう既に答えを持っている国。


2024年10月09日

2024年7月8〜19日◆老害(後編)

これの続きです。

お医者さんだが和田秀樹さんの「老害の壁」というのを下敷きに、老いた人が社会全体の害をなすという「老害」を取り上げているワケだが。
「老害」というと、もう平べったく昔のことをしきりに振り回したり語ったりする人のことを「老害」と。
武田先生も若い世代の方からは「昔のことしか話さない老害」と言われている。
老害というのはいろいろ使いやすいらしくて、YouTubeなんかを見ていたら時々武田先生が出て来る。
それでいろんな意見を言ったり他国の悪口を言ったり「武田鉄矢は悪口を言ってるぞ」みたいなのが出て来る。
でも言った覚えが無いことだけは事実。
だからある発言を受けてその人がそういうふうに解釈して「武田鉄矢があの人とあの国の悪口を言ってるぞ」みたいなことに仕立て上げているんだろうと思って。
「切り取り」というのは今、大流行りだから。
「女性の政治家を生まないとあなた方、女性としては・・・」なんていう、そういう発言もいつの間にか「女を『生む生き物だ』というふうに決めつけている」というような・・・
国語的表現でそういうのあるじゃ無ぇか、という。
揚げ足を取り過ぎだなと思う水谷譲。
揚げ足を取り過ぎてまたぐら丸見えみたいな。
何かよくわからないが。
それは発言としてはどうかと思う水谷譲。
こういうのを「老害」と言う。
言葉を知りすぎているものだから使い過ぎるというヤツ。
「いろんな番組に出てベラベラ喋るのよく無いなぁ」とか「それ誤解されるよ」とかと身内からも注意されたり。
そう言われるとガクッときて落ち込むのだが、和田先生は断固たるもので「気にするな」と言う。
「どうせ言葉なんてのは正確に伝わらないんだ」
はっきりおっしゃる。
和田先生がおっしゃっているのは「切り取り等々で発言を曲解する、そういうバカモンというのはいるんだ。放っときゃいいんだ」

自分が思うことを萎縮しないで発信してください。そのほうが、いろんなストレスからも解放されるでしょう。(「老害の壁」100頁)

このあたり見事。
ただし付け足してあった。
「人の名前を使って金儲けに使うというような切り取りに関しては犯罪だから訴えましょう。バンバカ訴えていいんです、そういう輩は」という。

ここからまた、和田先生のお医者さんらしい不満というか怒りが書いてあったのだが。

 今、日本には認知症患者が約600万人いるといわれています。(「老害の壁」122頁)

600万人、大変な数。
これは高齢者では4人に1人か3人に1人かという、かなりの確率になるという。
これを和田先生はワリと怒ってらっしゃる。
「大きな言葉を使い過ぎる」と。
老化現象の一種の物忘れを大きく括って「認知症」という病名を使うな。
病気なのか「もうおじいちゃんおばあちゃんだからしょうがないよね」というものなのかというのがちょっと境目が無くなってきていると思う水谷譲。

毎日徘徊していると言っても、家には帰ってきているわけですから、その老人は毎日散歩しているだけなのかもしれません。(「老害の壁」125頁)

認知症の問題点は何か?基準点はどこか?というと、ご近所に迷惑をかける線路への立ち入り等々、これは認知症だから何とかしなくてはいけない。
だが掃除はするわ、「鉄道は危ないわ」ということはわかるわ、そんなのは認知症でも何でもないんだ。
その他に火の消し忘れとか、近道を忘れてしまって遠回りをした。
こんなのは認知症じゃない。
(このあたりは本の内容とは異なる)
それは和田先生曰く「うっかり」で「ぼんやり」なんだ。
うっかりとぼんやりは順調に年を取っているあかしだ。
大きい言葉ですぐに「認知症の初期症状」とか、そういうふうに決めつけてしまう対応の仕方、呼び方ってまずいんじゃ無ぇの?
しまった!と本人が思ってるんだったら全然認知症じゃない。
うっかり、ぼんやりは水谷譲もある。
それから注意されるが火の消し忘れ等々、これはなかなか怖い。
ただ最近、点けっぱなしでもタイマーで消えるようになっている。
本当に安心・安全になったと思う水谷譲。
それを最初に操作しておけば、無いワケで。
マツコさんなんか、お漏らしの一件とか堂々と言う。
マツコさんはやっぱりお漏らしをしてしまうらしい。
夢の中でおしっこをしながら、ふと「こんなとこでおしっこするハズがない」と思うとだいたいお漏らししているという。
「大きいくくりで病気病気と呼ぶのはやめなさいよ」と先生はおっしゃっている。

そういえばこの間聞いた話で、片頭痛が酷くて脳の先生のところへ行ったそうだ。
そうしたらもの凄い勢いで怒られて。
脳の病気に片頭痛というのは無い。
「片頭痛は無いんだよ。脳の病気には。内科に行って」
内科の先生が見た瞬間「あ、片頭痛ですね」と言ったという。

武田先生なんかも典型的に世に害をなすという意味の「老害」の部分があるのだが、一つは昭和に生きていた時に令和の日本を想像できなかった。
水谷譲なんかは全然ピンとこないかも知れないが、武田先生達団塊の世代で戦後すぐの子。
「この国に生まれたことを恥ずかしく思いましょう」運動というのがあった。
日本は貧しくて、間違った戦争をして、民主主義ができなくて、アメリカに一生懸命教えてもらっている、それが日本という認識。
それで日本の持っている習慣は全て奇習で、外国の非常識だった。
よく言われていたのが「麺類を音させて食べるなんて」。
昭和の頃、よく言われていた。
「下品な!スパゲティをすするんだぜ、日本人は」と。
それで当然、マナーとして蕎麦をすする爺さんがいるんだと言われていた。
何でこんなことを言うかというと、これは武田先生にとってはびっくりするような光景を見た。
令和の方は全然驚かないだろう。
昭和、戦後すぐに育ったこの鉄矢老害が驚く。
羽田の飛行場で見かけた風景。
金髪の綺麗なマダムが、可愛らしいお人形さんみたいな女の子と二人でうどんを喰っている。
マリリンモンローがうどん喰うか?
あれが富士そばか何かに入って、サブウェイの立ち喰いか何かで蕎麦喰うか?
もう武田先生はダメ。
それが箸の使い方が危ういんだったらまだわかる。
日本に来て、あの割り箸のワケのわからないので・・・
それはもの凄い麺類を上下させながらつゆに浸して喰っている。
それで娘と何か「quickley,quickley」と言いながら娘に子供用のボール茶碗でこう麺類を注いで分けてあげて、娘にはフォークで食べさせてあったけれども。
でもあんなに箸で器用にすする人というのが・・・
(外国の方も箸使いが)上手。
それを見た時に「昭和の常識・令和の非常識」と言われるが、武田先生達の頃に非常識だったものが今、常識になっていることへの違和というのが強烈にある。
「武田先生はモロ昭和」だと思う水谷譲。

モロ昭和の話を脱線でする。
武田先生はタイトルを聞いただけで笑った。
何かの番組で昭和の深夜番組のタイトルを挙げていた。
そうしたらもう令和の今、タイトルだけでアウト。
「11PM(イレブンピーエム)」(日本テレビ系)「露天風呂紹介うさぎちゃん」。
これはもう見たことがある。
本当に露天風呂に浸かっておられる「うさぎちゃん」という愛くるしい少女が「効能は〜の〜わせ〜ん」と、そういうのを温泉について語るのだが、誰も温泉なんか見てない。
「露天風呂のうさぎちゃん」
別の深夜番組。
チャンネルを変える。
「(独占!)男の時間」(東京12チャンネル)
司会、山城新伍。
その夜の特集。
「全国素人ストリップ選手権」
どんな番組だよ?
「オールナイトフジ」(フジテレビ系)
司会、とんねるず。
コーナー「あなたのパンツ見せて下さい」。
凄い。
そしてこの深夜番組のアイドル「オナッターズ」。
驚くなかれその中で歌とも踊りともつかないヒット曲があって、そのオナッターズの歌う歌のタイトルが「テンパイポンチン体操」。
そして山本晋也さん司会で有名な、これはテレ朝だったと思う「トゥナイト」「ノーパン喫茶めぐり」。
もうタイトルだけで令和ではありえない。
抗議の電話が凄いだろう。
老若男女見ていた。
その手の大人の世界を、こっそりだが子供も見ていた。
それで「早く大人になりたいな」と思うという。
「昭和の常識・令和の非常識」と言われているが「昭和の非常識・令和の常識」ということもあり得るワケで、大変申し訳ないが、「この手のところからテレビはスタートしたんだよ」という。
そこを誰かが語っていないといけないじゃないかというところに老害と言われる武田先生の意味があるワケで、是非そんなふうに了解していただけないだろうかと。

ここで本を乗り換える。
次なる本は藤井英子さんの本で「ほどよく忘れて生きていく」。

ほどよく忘れて生きていく



サンマーク出版で、何とこの藤井さんは女医さんで、91歳で心療内科を自ら始めた。
知恵に裏打ちされた助言がいっぱい載っている。
紹介する。

人間関係は、考えすぎないほうが
うまくいく気がします。
(「ほどよく忘れて生きていく」24頁)

相手のことを考えない時間を持つこと。(「ほどよく忘れて生きていく」25頁)

これはいい言葉。
誰でもある。

「苦手な人とうまくやろう」なんて
最初から思わないことです。
関わりを絶てないならば、
相手のことを考えない時間を
つくること。
(「ほどよく忘れて生きていく」34頁)

「忘れる練習」を繰り返し行うのです。(「ほどよく忘れて生きていく」35頁)

「これをしながら生きていかなければなりませんよ」
これはハッとする。
「忘れる練習」
練習で忘れられるのか?と思う水谷譲。
それはわからない武田先生。
だが「忘れる練習」が世の中にあるということだけは覚えておきましょう。
(藤井)先生がおっしゃるのだから、あるのだろう。

これはあまり大げさな言葉で言いたくないのだが、年を取ると夜中にフッと目が覚めてちょっと悪い方に悪い方に物事を考えるという、そういう嫌な流れの眠れない夜というのがある。
水谷譲も最近ある。
「遅れる」とか「遅刻する」夢を未だに見る水谷譲。
日本人の殆どが夢はそれ。
「遅れる」というか「間に合わない」というのが日本人の悪夢の典型。
生放送がもう始まっているのに、どこか他の所にいて踏切が開かないという夢を見る水谷譲。
試験会場に間に合わないとか。
それは日本人の殆どがそんな夢を見ていると思ってこれから過ごして下さい。
「みんなが見てるんだ」と思っていれば(遅刻は夢に)出て来なくなる。
「私だけだ」と思うから見る。
遠い昔、日本人に何かあったようだ。
その出来事が夢を見させるようだ。
日本人は時間にもの凄くうるさい。
その性格は進化のどこかの段階で出来事が太古にあったようだ。
それは日本人だけ。
オランダ人は別の悪夢を見る。
これはまた、三枚におろすので待っていて。
水谷譲が夢を見る。
でも夢の方も水谷譲を見ている。
そういうことがあって「これは私だけのことではないんだ」と思った瞬間、そいつが作戦を変えてくる。
これはまたゆっくりやる。

忘れる練習はした方がいい。
長い人生を生きてきて、武田先生も一生懸命生きてきたのだが、時として人生の中で何人か深く傷付けた人の思い出がある。
その人のことを眠れない夜なんかにフッと思い出して「あの人はどうしてるかな?」とか「あんなことをあの時言わなきゃよかった」とかという何人かがいる。
藤井先生はそのことで考え込むのは辞めた方がいいよ、という。
「あなたがその人に対して『悪いなぁ』と思っているかも知れないが、その人、あなたのことをすっかり忘れてるよ。その可能性を全部消して『傷つけた傷つけた』ばっかり思い出しちゃダメ」という。
また水谷譲は関係ないのだが、藤井先生が凄く警戒してらっしゃるのは老いの鬱。
やっぱり危険だそうだ。
(このあたりの話を番組では「ほどよく忘れて生きていく」の内容として紹介されているが「老害の壁」の方)

 うつ病の4割は60歳以上というデータがあります。高齢者がうつ病になりやすい理由の1つに、セロトニンの減少が考えられます。−中略−高齢者の場合はそれに加えて加齢によってもセロトニンが出にくくなります。(「老害の壁」130頁)

 セロトニンは朝、太陽の光を浴びると分泌量が増えます。そして、このセロトニンを材料にして、夜になると「睡眠ホルモン」とも呼ばれるメラトニンがつくられます。−中略−
 朝日を浴びてセロトニンが増えれば、うつ症状も改善され、夜もぐっすり眠れるようになるでしょう。
(「老害の壁」131頁)

(番組の中で「メロトニン」と言っているようだが「メラトニン」)

いいことも悪いことも、
ほどよく「忘れる」ほうが
いい気がします。
(「ほどよく忘れて生きていく」114頁)

これはきっとアレ。
悪いことを思い出すというのはいいことを思い出すから。
水谷譲が昔、酷く傷付けた男がいた。
その男のことを思い出して「あの人傷付けたな」と水谷譲が思っているとする。
それはどこかで「アタシがいい女だから、こういうことになっちゃったのよね」といううぬぼれがある、という。
そんなふうに考えるとやはり武田先生は運がいい。
だから悪いことを思い出す。
だが「いいことはいいことで感謝していいけれども、両方忘れていかないとバランス悪いよ」という。
これは藤井先生、なかなかいい。
いいことも悪いこともほどよく忘れる方がいい。
そんなふうにおっしゃる心療内科の藤井先生。
ふと思ったのだが、プーチン大統領。
第二次世界大戦の戦勝記念日の儀式をやっておられる報道の画面を見た。
プーチン大統領、その後ろ側に二次大戦を生き抜いた兵隊の爺ちゃん達がいっぱい勲章を付けて並んでいるが、向かって右手の方に半分眠っているお爺ちゃんがいる。
この藤井先生の本を読んでいる時にフッと思ったのだがプーチンさんの後ろに並んでいる爺ちゃん達は、戦場のことを忘れない為に勲章を付けているワケで。
まあ勝った戦争だから威張りたいのはよくわかるが、いいことも悪いことも爺ちゃん達は忘れた方がいい。
戦争が心の傷になるが如く、戦場で立てた手柄もこのお爺ちゃんたちに永遠に戦争の傷を残している。
それを胸に付けているということになりはしないか?
このお爺ちゃん達は戦争の記憶と共に、その悲惨、残酷、自分がやった勝利の為の殺害等々に関してずっと忘れずに生きていかねばならないワケで「戦場で貰った勲章というのは間違うと心の傷になりますよ」という。
武田先生がいいことを言っている。
自分で付け足したアレだが。
「プーチン大統領にお願いしたいのはただ一つ、勲章より肩掛けのケープの方が老人達には似合うのではないでしょうか?」
「ほどよく忘れる」とかというと、また怒る人が出てくる。
メディアの口癖だが「忘れてはいけない!あの悲惨さを!風化、止めなければならない!」
そういう言葉遣いで批判するワケだが、しかしこの「忘れてはいけない」というのは「忘れることを禁じている」ことではない。
これは藤井先生がいいことをおっしゃっている。

「そんなこともありましたね」と、ときどき、言われて思い出すくらいがちょうどいい気がします。(「ほどよく忘れて生きていく」115頁)

そのことをいつでも忘れずに覚えているということは、病名で「トラウマ」と言う。
だからメディアの人はトラウマを薦めている。
「ほどよく忘れる」ということの重大さで、その記憶を出し入れできるという。
そんなふうに考えると「藤井先生はいいことをおっしゃっているなぁ」というふうに思う。
それと地震が起こった地域に関してボランティアの集まりが少なかったりなんかすると、「地震が風化しております」とか言うが、

人は何かをしてあげることで、
同時に受け取っています。
励ましているように見えて、
励まされているのは
自分だったりします。
(「ほどよく忘れて生きていく」170頁)

胸に沁みる言葉。
特に日本の場合は天災とか災害が凄く多いお国柄。
それ故に「お陰様」とかという摩訶不思議な宗教用語が生まれて、お互いの親切さを交換するという。
お陰様。
「陰」に「様」を付けているワケだから。
目の前には出てこないということなのだろう。
「利他思想」
他力、人にすがることによって自らも変わるという、そういう他力思想があるが、思想として暮らしの中に根付いている珍しい国ではないだろうか?

ちょっとびっくりしたのだがBBCの放送で自然物を見ていた。
そうしたらインドのコブラをやっていた。
インドの街ではコブラはそこらへんにいっぱいいる。
(コブラには)毒がある。
それで子供が公園で遊んでいる横をコブラがずっと這ったりなんかして、草むらなんかに入っていく。
その横を子供が裸足で走り回っている。
噛まない。
インドのコブラは人間を敵だと思っていない。
それからヒンズー教のサル。
ヒンズー教寺院に住んでいるサルは人間とのエサの交渉を知っている。
ヒンズー教の方、すみません。
BBCのキャメラが見せてくれたが、観光客がウロチョロしていると、ヒンズー教のサルが人間のメガネを取り上げる。
それで人間が追いかけてきて、「返せ」とかと言う。
そのメガネを振り上げて返してくれない。
その時にバナナを一本出すとパン!と(メガネを)捨てる。
交換ということ。
商売を覚えてしまった。
ボスザルは何か?
ボスザルはもっと凄い。
女の人の履物を片一方だけ取る。
それで女の人がキャーッ!と言いながらバナナを一本出すと(履物の)片一方をポーンと返す。
交渉することによってエサを得るという。
人間社会の中でどう野生動物が生きていくか。
彼らも懸命に考えている。
話が脱線したが、人間というのはそんな野生の動物よりも賢い。
だから「助け合うこと」というのがいかに社会にとって大事か。
学びましょう。

ここからは老いを完成させる知恵をご紹介したいと思う。
養生訓。
これは和田先生。
先週紹介した和田先生の「こんな工夫いかがでしょうか?」という提案。

60代、70代にも、若い頃にハマったサブカルがあるものです。(「老害の壁」156頁)

老害と言われようがなんと言われようが、それが好きなら買って集めるのです。(「老害の壁」157頁)

由美かおる、「同棲時代(−今日子と次郎−)」のあのポスター

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高橋恵子(当時は関根恵子)、「おさな妻」のあのポスター

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風邪薬の酒井和歌子のあの笑顔

「ローマの休日」のヘップバーン

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若大将シリーズ

レッツゴー!若大将



そういうものの中にアナタを若くさせる不思議なサブカルチャーがある。
若い時は英語の歌、好きだっただろう?
その英語の歌を日本語に訳して、じゃない。
英語で歌えるようにもう一回出会い直そう。
あの時に何言ってるかわからないけれどもフフフフフン♪とかと歌っていたのを、年を取って時間がある。
英語で歌おうじゃないの。
それからA面のヒット曲に縛られず、B面を探そう。
ビートルズ、仲間に書いたポップスがある。
あれが大好きだった。
ピーター&ゴードンの「愛なき世界」。



Please lock me away
And don’t allow the day
Here inside
Where I hide
With my loneliness
(ピーター&ゴードン「愛なき世界」)

そういう「B面ソング」を敢えて口にしてみるという。
今は両A面が多いと思う水谷譲。
昔はB面という・・・
でもB面の中に名曲とこだわりの一曲がある。

和田先生はしきりに薬の危険性を説いておられる。

ワクチンを打ったことが原因で亡くなった可能性がある人が少なからずいますが、全体としてみればリスクよりも利益のほうがはるかに大きいというのがワクチンを推奨する根拠になっています。(「老害の壁」174頁)

 ここで一番言いたいことは、薬には利益もあるけど、害(リスク)も意外に大きいということです。(「老害の壁」174頁)

そのことを覚悟して付き合うべきだよ、と、こんなことをおっしゃっている。

日本の医療が臓器別診療のスタイルをとっているからです。例えば、総合病院へ行くと、血圧が高ければ循環器内科で血圧の薬が出る一方、血糖値も高ければ内分泌代謝内科でも薬が出ます。さらに頻尿の症状があれば泌尿器科でも薬が出ることになるのです。(「老害の壁」177頁)

科が違うと全体を見る先生がいない。
だから前にも言ったように脳の方のお医者さんのところに行って「片頭痛です」と言うと「そんな病気は脳には無い。内科に行きなさい」と(内科に)行ったら「片頭痛ですね」と言われたという。
落語みたいだと思う水谷譲。
そういうことが本当にあるので「全体を自分で押さえておかなければダメですよ」。
こんなことを勘違いする人はいないだろうが「胃がんというものがあれば、それは切れば長生きできるという意味ではありませんよ。外科手術ってそこまで完璧なものではないですよ」という。

先週と今週に亘って使った本が「老害の壁」。
そしてもう一つ、藤井先生の「ほどよく忘れて生きていく」。
両方とも医療に携わるお医者様の本。
共通しているのは「自分の好きな老いの道を選んでください」ということ。
他にも読んだ本があって、これは取り上げなかった。
小説なので皆さんにはピタっとこないかな?と思って取り上げなかった。
小川有里さんの「死んでしまえば最愛の人」。

死んでしまえば最愛の人



「夫は81歳元気。昔から自分勝手で私の人生と体力をさんざ使ってきた。ここにきて私が命令する番よ。喰うか喰われるか、恐竜の世界のようなものよ、老後は」とおっしゃるという。
こういう厳しい老後の世界も事実。
「死んでしまえば最愛の人」。
本当にそうだろうと思う。
これとは対照的に皆様にお薦めしたいのは青木さんの「アローン・アゲイン」。

アローン・アゲイン:最愛の夫ピート・ハミルをなくして



この人はピート・ハミルというニューヨークタイムスで記事を書いていた作家さんの奥さん。
日本人の方で、この方が若い時、日本に音楽雑誌記者としておられて、武田先生達のこともインタビューなさっている。
その方がアメリカに渡って、ピート・ハミルさんという記者さんと結婚して。
ピートさんは亡くなられたのだが、ピートさんとの思い出話をずっとエッセーで書いてある。
これが異国の、ニューヨークの街の出来事だが、何か70年代を思い出して、たまらなく胸がキュンキュンする。
ジョン・レノンとすれ違ったりボブ・ディランとすれ違うというニューヨークの青春。
そして武田先生にとってももの凄く大きいのは、このピート・ハミルさんがニューヨークのエッセーにお書きになったのが「幸せの黄色いリボン」という小話で、それがやがてフォークソングになって



そのフォークソングを気に入って山田洋次監督が映画になさって、若者役を武田先生が務めたという。

幸福の黄色いハンカチ デジタルリマスター2010



不思議なご縁。
ピートさんは「(幸福の)黄色いハンカチ」をご覧になってくださって、笑い転げておられてた。
ちょっと汚いが武田先生が北海道で下痢をして草原をウンコをしながら走るというシーンのところで手を打って・・・
あれは名場面だと思う水谷譲。
因縁浅からぬ方で、この青木さんとこの間一杯呑むことができて。
皆さん因果。
ピートさんの奥さんなんかと、こうやって会うのだから。
三軒茶屋で一杯呑んだ。
これはいっぱい話があるのだが、これはおいおいゆっくり話していきましょう。
というワケで「老害」と題してお送りした。

2024年7月8〜19日◆老害(前編)

(本放送では番組の最初に「鬼の筆」の訂正)

さて、まな板の上には「老害」が乗っている。
「ロウガイ」と言っても血を吐いたりなんかする「労咳」ではなくて、昨今流行の言葉だと思うが、老いたる人の害。
その「老害」を三枚におろそうかなと思って。
武田先生の机の上には三冊ばかりの老いに関する書物があった。
どんな書物かご紹介しましょう。
まずは和田秀樹さん。
大変人気のあるお医者様。
とても乱暴な断定的な医学的立場を取られているのだが、ビシバシいくという和田秀樹さんの「老害の壁」。

老害の壁



そんな壁か知りたくなる。
それから小川有里さんの小説。
タイトルがドキッとする。
「死んでしまえば最愛の人」。

死んでしまえば最愛の人



何かいい。
そしてもう一冊が藤井英子さんの「ほどよく忘れて生きていく」。

ほどよく忘れて生きていく



もう一冊あるのだが、それは後半の方でご紹介する。
(冒頭からこのあたりまでポッドキャストと本放送ではかなり内容が異なる。冒頭部分が本放送では訂正の為に長くなった分の尺合わせかと思われる)
この三冊「老い」「老い」「老い」が並んでいて、どう考えても人生日々を繋いでいくと最後は老いに辿り着くワケで、味気ない言い方だが老いとは人生の出口、exitで、誰にでもやってくるのだが、そのワリにはあまり歓迎されないという。
特に出口に溜まっている武田先生達世代、団塊の世代なんかはまだ出口から遠い真ん中ぐらいの人達から「老害」と言われる。
若い方々には老いた人間というのが非常にうっとうしいというように感じられるのだろう。
ついこの間もこんなことがあった。
国会議員のとある老大物さんがおられて、この方がウンダコンダあって「次の選挙は出ません」と宣言なさった時に、若いと思われる記者さんの方から「年齢のこと考えて出ないのですか?」と年のことを言われた老政治家、カチーン!ときたようで「オマエもいつか年を取るんだ!バカヤロウ!」。
本当に頭にきたのだろう。
もの凄く怒っておられた。
激高おさまらず「バカヤロウ!」と怒鳴っておられた。
85歳二階俊博氏「ばかやろう」年齢に関する質問した記者にすごむ 裏金問題で久々表舞台の皮肉 - 社会 : 日刊スポーツ
「それが老いに対する態度か!」と叱りつけたかったのだろうがしかし、老政治家の方、落ち着いて考えて下さい。
令和。
武田先生もテレビ業界の中ではもう「老害」と言われていて。
老害の部類に入るらしい。
「いつまで先生風吹かせてるんだ」という。
もう何とでもおっしゃってください。
かまいません。
最近の特に若いタレントさんはバラエティーに出ていて思うが、もの凄く嫌う。
感じる。
「我々の頃は視聴率20(%)いかないと『来週ちょっと考えますわ』みたいな、そんな時代あったんですよ」っていう。
今はもうカウントの仕方が違うので何ともいえないが、武田先生達はそういう意味ではもの凄く厳密に視聴率で値打ちを測られた世代なのだが、令和のタレントさんから「そういう昔の視聴率のことなんか言ったりなんかするのは、それ老害ですよ」と言われた。
昔話をしただけで、そんなかな?と思う水谷譲。
水谷譲の世代も「ソフト老害」と言われている。

この「老害」を三枚におろしていきましょう。
武田先生の見解だが「老いた」ということに関しては意味がある。
よくよく考えれば老いには元手がかかっている。
どんな元手か?
歳月が老いにはかかっている。
70歳、80歳の人間ができあがるまでには、当然70年から80年かかるワケで。
製作期間と製作費を考えると、どの老人も安物のドラマには負けないぐらいのドラマチックな人生がそこにあったハズ。
更に申し上げましょう。
世界にはたくさんの問題があるが、この世界が抱えた問題の半分くらいが老害問題。
紛争を起こしている国の政治家は、もう老害の年齢。
ズバリ言うと、秋口、アメリカ大統領選挙もある意味では老害紛争という。
そういう感じで言うと「老害」というのは日本だけの問題ではなくて、国際的な問題で。
「老いというものをちゃんと調べないとまずいんじゃあないの?」という。
なかなかスケールが大きくなる。

手始めに手を付けた本が和田秀樹さん。
エクスナレッジという出版社から出ている「老害の壁」。
は和田先生というのはもの凄く人気があって滅茶苦茶本が売れている。
今、番組をご一緒している水谷譲。
恋せよ!オトナ オトナ世代応援ラジオ
ことごとく売れている。
本はもう900冊ぐらい出されている。
凄い数を出されている。
この和田先生曰くだが、老いに対して人間はどう身構えるか?
「いいんだよ。好きなことやりゃあいんだ」
それがこの和田先生の老いのテーマで。
医療に対しても文句を言うところが痛快。
同じ医療仲間の和田先生が「医者なんていうのは大変なストレスで、だいたいみんな若死にするヤツが多いから、そんなヤツが長寿の指導ができるワケがないじゃないか」という。
もの凄くわかりやすい。
和田先生はいろんなところでバッサバッサ切っているのだが、その中でもパンデミックのことを医者の言葉をワイドショーが大声で叫んだばっかりに、「外に年寄りは出歩くな」と言って、そのことによって老化が進んで何人の老人が死んだか反省しろ!というのが。
まずはとにかく老いの問題だが、明日から早速この和田先生のご意見から伺っていこうと思う。

 高齢になると筋肉量が減って運動機能が低下します。これをサルコペニア(加齢性筋肉減弱減少)といいますが、−中略−運動しなければサルコペニアがどんどん進行し、ほとんど歩けなくなるフレイル(虚弱)の状態に陥ります。
 2020年、新型コロナウイルスの感染対策の名の下に、外出自粛が要請されました。
−中略−これまたワイドショーが、「高齢者が出歩くのは危険」と煽った結果、ほとんどの高齢者は外出自粛の要請におとなしく従いました。その結果、サルコペニアやフレイルになる高齢者が急増しているようなのです。(「老害の壁」15〜16頁)

その責任は誰が取るんだ?
和田先生は烈火の如く怒っておられる。
これは数字は出ていないと思う水谷譲。
武田先生もハッとしたのだが、ニュースメディアの言い方は余りにも高齢者に対して一方的過ぎる。

話を免許返納に戻すと、−中略−ワイドショーで高齢者に街頭インタビューをしていましたが、−中略−
 なんとその場所が東京の巣鴨だったのです。巣鴨は「おばあちゃんの原宿」と呼ばれる場所ですから、高齢者が多いのは確かです。しかし、巣鴨にはJRの駅がありますし、東京のど真ん中に住む高齢者で運転免許を持っている人は少ないでしょう。どうして車しか移動手段がない地方の高齢者にインタビューしないのでしょうか。
(「老害の壁」16〜17頁)

これはわかる。
「そんなところに行って何でインタビューするんだ。免許が必要か必要じゃないかは別の番組『ポツンと一軒家』の主に聞いてこい、という。
「その人に向かって『危ないですよ。免許返納した方がいいです』。オマエ言えるか?」という。
このあたりは凄い説得力がある。
車が無かったら移動できないワケだから。
和田先生も「インタビューするのが面倒臭いから爺さんと婆さんがいっぱいいる町に行ってるだけだろ」と烈火の如く怒っておられる。

もの凄く面白い統計を出しておられる。

「令和3年の交通事故状況」によると、原付以上の免許をもっている人口10万人あたりの年齢別事故件数では、もっとも事故を起こしているのが16〜19歳の1043.6件(「老害の壁」17頁)

75〜79歳が390.7人となっています。続く70〜74歳は336.0人で(「老害の壁」18頁)

十万人あたりで年齢別で見ると最も少ないのは70歳から74歳前後。
(本には30〜34歳が329.1人とあるので、最も少ないということではないようだ)
これを和田先生は「数字を挙げてちゃんと追及しろよ」と言う。
ここから武田先生は和田先生を気に入ってしまった。
「ドライバーは70代が一番事故を起こさない世代として歓迎できる」と言いつつ、この人は2018年に公開されたがクリント・イーストウッド「運び屋」を挙げてらっしゃる。

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これは武田先生は見ていたので、話が和田先生とビッタビッタ合う。

『ダーティーハリー』シリーズなどで有名なハリウッド映画界の名優にして、映画監督でもあるクリント・イーストウッドをご存知ですか。彼が監督と主演を務めた2018年の『運び屋』という映画があります。18年当時、イーストウッドは88歳、彼が演ずる映画の主人公は90歳という設定でした。
 家族と疎遠になった老人が麻薬の運び屋になってしまうというストーリーですが
(「老害の壁」19頁)

メキシコとアメリカの往復。
最初に見た時は嫌で。
「ダーティーハリー」であのダンディなイーストウッドがメキシコ系マフィアの若造に小突き回される。
そのイーストウッドが「コカインの運び屋になる」というとんでもない物語だが、映画を見て行くうちにさすがにイーストウッド。
もの凄い説得力がある。
というのは、アメリカの国道を走っている。
どこかのドライブインでイーストウッドは車を止める。
後ろのトランクにコカイン。
それを運んでいる。
当然、爺さん一人にさせない。
メキシコのメキシコマフィアが車で追いかけてくる。
監視している。
ドライブインで休んでいたら、オートバイのお巡りさんが、メキシコ人を見た瞬間「手を上げろ!」と。
そう。
前の大統領が「壁作ろう」と言うような人だから。
アメリカの道をメキシコ人が走っているだけでパトカーが追いかけてくる。
「おい!手を降ろすな!撃つぞ」
本当に撃ちそう。
それにイーストウッドが割って入る。
「待ってください。今、私、引っ越しやってて、手伝ってくれるバイトの男達なんです。勘弁してやってくださいよ。ああ・・・私のことを疑われちゃいけない。ほら、免許証持ってますから」という。
そうするとドライバーのライセンスを見ると年齢がわかる。
そうしたらもう白バイのおじさんが「いやいや、あなたには関係ないから」と言う。
その時にイーストウッドが一芝居打って「あ、まずは私のトランク見てくださいよ」と言いながら開けて見せる。
コカインが山ほど入っている。
その上に孫娘に買ったポップコーンの紙バケツがある。
それを一個お巡りさんに押し付けて「買い過ぎたんだ。どうぞ仲間と楽しんでください」と言ったらお巡りさんが「もういいですいいです。もう見せなくて。ハイハイ閉めちゃって。ハイハイお爺さん、ありがとう、ありがとう」と言いながらポップコーンを抱えてオートバイで去っていく。
ここにアメリカ特有のライセンスの意味合いがあって、高齢で免許を持っているということは社会的に凄く安定した人生を過ごしているという証明書でもある。
和田先生は絶賛なさっている。
身分の証明をするのにこれほど便利な証明書があるか。
高齢でまだ運転をやっているというのは元気な証拠じゃないか?
このあたりから老害問題入っていきましょう。
時々「ダーティーハリー」も見る。
ダーティハリーはセリフがカッコいい。
武田先生は「運び屋」というのを見ながら、一回でいいからあんな役をやりたい。
「運び屋」というのは90歳近い爺ちゃんがメキシコギャングのボスのお気に入りになる。
コカインを運ぶ名人になってしまって、もの凄い利益をもたらしたというのでボスの家に呼ばれて。
ボスの家に行くと、ボスも爺さんなのだが半裸の娘達がプールサイドで遊んでいるパーティーに招かれて。
そこで若いメキシコの姉ちゃんのお尻とか見て楽しむのだが、彼の目はずっとボスの子分達を見ていて、自分を一番小突き回すメキシコの下っ端の青年に向かってボソッとつぶやく。
「こんな商売、ずっとやっていちゃダメだ」
クリント・イーストウッドの演じるアールという老人は、ボスの子分達を見ながら「裏切りが発生するんじゃないか」ということをどこかに、そのヤクザ組織がどんなに仁義に満ち溢れていた行動をとっても。
案の定、後ろから撃った若衆頭がいて、映画が急展開していくという。
もうこれから先はネタバレになってしまうので話さないが。
一番最高にまたもの凄く鮮やかなシーンがあるが、それはどうぞご覧になってください。
日本では決して成立しない老人映画。
アメリカはこういう老人映画を作るのが上手い。
免許返納した爺さんが隣の州に住んでいる兄ちゃんが病気で倒れてしまう。
もう会いに行く術がない。
鉄道とか無いから。
それで小さな耕運機(実際には芝刈り機らしい)で兄ちゃん目指して道を真っ直ぐ行くという「ストレイト・ストーリー」という。

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それから取った。
「まっすぐの唄」という金八先生の主題歌はこの映画を見て作った。

まっすぐの唄



大草原の一本道を、爺ちゃん一人を乗せた耕運機がずっと走っていく。
凄くよかった。
そういう老人映画を作るのが上手い。
老人なので「その手の映画が一本できないかな」と夢見る武田先生。

話はすっかり横道に逸れてしまった。
でも今日はここから更に脱線する。
アメリカは老人映画は得意なのだが、日本は老人童話が得意で。
「花咲かじいさん」「こぶとりじいさん」他にも「〇〇じいさん」はたくさんいる。
じいさんばっかり。
「桃太郎」もじいさん。
「金太郎」もじいさん?
日本の童話は70%が主役は老人。
こんな国は世界にはない。
「かさじぞう」を筆頭にして、婆さん爺さんが主役。
だからかつての日本はおとぎ話の主人公は爺さんと婆さんだった。
桃太郎、金太郎、かぐや姫を育てたのは爺さんと婆さんで、若い夫婦ではない。
そうやって考えると老人の物語を今、作れなくなっているというのは少しパワーダウンしているのではないか?

和田先生は簡単に若者に主役の座を譲ってしまうお年寄りを激しく叱っておられる。
「老人の静けさに甘えようなんて、そんな老人じゃイカンよ」

イギリスの研究によると、1週間に5〜10杯のアルコール飲料を飲むと、寿命が最大6カ月短くなる可能性があると報告しています。(「老害の壁」32頁)

タバコもそうだ。
一週間にだいたい1箱以上開ける人はだいたい6か月ぐらい寿命が縮む。
(という話は本には無い)

 しかし、6カ月寿命を延ばすためにお酒をやめる必要はあるのでしょうか。これもタバコと同じで、飲まないとストレスを感じるなら飲んでよいと思います。これは自分の快を優先させるべきでしょう。(「老害の壁」32頁)

「一杯だけ飲んで眠ろう」いいじゃないかそれで。
「庭だったらばタバコを一本だけ吸おう」いいじゃないかそれで、という。
それから「若い娘の裸に興味がある」。
だったら「週刊大衆」を買えばいいじゃないか。

週刊大衆 2024年10月21日・28日号[雑誌]



「(これぞ人生!)三枚おろし」というエッセーが載っているのでぜひご贔屓に。
これはまたお医者さんらしくて面白い。
若い娘の水気が多く膨らみの多い体はホルモンが支配している。
これはエストロゲンというホルモンが満ちている。
水谷譲なんかもエストロゲンが・・・今はどんどん無くなっていっている。

 女性と話したいという欲求は、男性ホルモン(テストステロン)を増やします。逆に、男性ホルモンが減ってくると、筋肉がつきにくくなり、サルコペニアやフレイルになるリスクが高まります。−中略−
 男性ホルモンを減らさないために、セクシャルな写真を見ることも効果があります。
(「老害の壁」34頁)

男性ホルモン、女性ホルモン、共に体の中に湧いてできるもので、これは男女というものを意識する性的な興味みたいなものがスイッチを押す。
別に相手が若い女性でなくても、もちろん熟女ではいいのではないかと思う水谷譲。
「そんなふうにして『性の情動』みたいなものがアナタの体の中でホルモンのスイッチを押しますから若い女性に興味があったら見ればいいじゃないですか」
「雀のお宿」なんて援助交際みたいな日本昔話もありますよ、というようなもので。

舌切雀 (新・講談社の絵本 8)



「援助交際」という(表現は)やめた方がいいと思う水谷譲。
好きになったり」「興味持ったり」というのはいいが。
「押し活」はいい。
女性の体の変化というものは当然年を取るとおきる。
男性もそうだが男性の方が惰性で男で生きている。

一般に女性は閉経後に男性ホルモンが増えることがわかっていて、その影響で社交的になっていく人もいます。(「老害の壁」35頁)

決断力が増したり、友情を大事にしたりという。
そういうのがある。
男性はというと逆に女性の部分が花開いてゆくという。
武田先生なんかもそう思う。
だんだん自分がおばさんぽくなっていくのを。

和田先生は厳しく指摘する。

年金生活者は年金のほかに2000万円の貯金が必要だと言われるようになりました。(「老害の壁」36頁)

そんな言い方で意味があるのか?

 日本はバブル経済が弾けてから、30年以上もデフレ不況で、賃金も上がらない状況が続いていますが、いまだ不況を脱却できる見通しが立ちません。(「老害の壁」36頁)

 例えば、保育園の待機児童が3634人(2021年)なのに対し、特別養護老人ホームの入居待機者数は約29.2万人(2019年)もいます。(「老害の壁」43頁)

 よくシルバー民主主義のせいで、若い人や子どものの政策が手薄になっているという批判がありますが、そんなことはありません。(「老害の壁」43頁)

今や全国のあちこちに歩道橋がありますが、高齢者にとって歩道橋の階段を上がるのは大変なことです。(「老害の壁」44頁)

これは歩行障害などを抱えている高齢者に対し、「街を歩くな」と言っているのに等しいと思います。(「老害の壁」44頁)

日本の都市はイスがほとんどないので、歩き疲れた高齢者が、座って休むことができません。(「老害の壁」49〜50頁)

東京駅なんか石段のところに座っておわれる外国人旅行者の方を見かけるが「もうちょっとベンチとか椅子とか作った方がいいんじゃ無ぇかなぁ」と思ったりする。
年寄りをないがしろにしてパワーダウンしてるんだ、ということ。

 日本ではコレステロールが悪者のように思われています。−中略−簡単に言うとコレステロール値が高いと、−中略−心筋梗塞や脳梗塞を起こしやすくなるとされています。(「老害の壁」57頁)

和田先生は「バランスだ」とおっしゃっている。
確かに心筋梗塞とか脳梗塞にコレステロール値が高いというのはまずいのだが、病気にもなっていないのに「コレステロール値は下げておこう」というのが逆にサプリが体に毒だったというような結果を招いたんじゃないか?という
このへんは武田先生もよくわからないが、和田先生がおっしゃっているのはただひたすら「バランスだ」と。
それを厳しく厳しく言っておられる。
この和田先生の物言いの中で一番ホッとできるのは、人間の健康というバランスの中に援助交際ではない「押し活」とかスケベ心とかそういうのも健康のバランスの中に入ってますよ、という。
これは「なるほどなぁ」と今、思う。

 塩分のとりすぎもよくないと言われます。(「老害の壁」62頁)

「でもそれもまたバランスで塩分控えてりゃいいっていうものじゃないよ」
このへんは頷く。
必ず我々の仲間には「サプリ命」みたいな人がいる。
サプリばっかり飲んでいる人がいる。
「ウコン飲んどきゃ大丈夫だって」という。
そんな万能薬じゃあるまいし、一番二日酔いにいいのは「飲み過ぎないこと」。
そういうこと。
これは最初の方に言っておくべきことで。
和田先生というのは非常に断言の多い方で、でも言っておくが武田先生より年若。
武田先生の方が高齢者。
まだ和田先生は60代。
この方の発言というのは、本を読む時にいつも思うのだが、「良薬口に苦し」みたいなところがあって、和田先生の発言をお話するには用法・容量を間違えると危険なことがあるので。
「ラーメン食べなさい」「ウナギどんどん食べなさい」「お肉どんどん食べなさい」みたいな感じだから。
ただ、食べてはまずい人もいる。
武田先生の奥様が昔、言っていたのだが「これさえ食べときゃ大丈夫なんて、そんな食べ物が世の中にあるハズなんか無いよ」。
何かしがみつく。
自分の身になって考えるのだが「健康というのはとっても難しいもんですよ」という。
それは情動、気持ちの動き方なんかもそうなんです、と。
人生「年を取ったらかくあるべし」という人生のまとめ方はしない方がいいです。
人に重大なことだと思うのだが、年を取ってから性格が変わる人はおられて。
良くも悪くも。
でも和田先生の場合は悪くも悪くもだが。

年をとってから、言い方がより激しくなるという人はいます。これは「性格の先鋭化」と言って、元々持っている性格が強くなることを言います。年をとると、この性格の先鋭化が起こりやすいのです。
 性格の先鋭化が起こると、例えば、がんこな性格の人はよりがんこになり、疑り深い人はより疑り深くなります。
 原因は脳の前頭葉という部位の萎縮です。
(「老害の壁」74頁)

年を取ってからワリと短気になったりイライラしたりというような方がおられたら、これは前頭葉の萎縮等々の前兆かも知れないので、しっかり脳の方、MRI等々で。
今は簡単に調べられるので調べてください。
あの方の怒りの顔が残っていて。
新聞記者の方の加齢を指摘する質問に対して二階さんという大物政治家の方が「オマエは年を取るんだ!バカヤロウ!」と怒っておられた。
あの怒りの顔が切なくもあった。
若い頃はあの人は渋い二枚目。
年を取ったらどこか体がいつも震えているようなお爺様になられたが。
我々が二階さんに期待したのはもっといい気の利いた反論。
これが聞きたかった。
でも言っておくが二階さんの年齢を見たらクリント・イーストウッドより三歳も若い。
それにしては(二階さんは)お爺ちゃんっぽい感じがする水谷譲。
何かいろいろご苦労があったのだろう。
日本のメディアの特徴だが、「老害」というのを指摘しておいて高齢者をやっつけるというのが好きなパターンで。
その他にも麻生さん、森さん、こういう人達を矢継ぎ早に上げて。
その三人の名前は必ず上がる。

日本では高齢者に対してははっきり言ってある差別がある。

EU(欧州連合)の国々やアメリカ、あるいはお隣の韓国にも、年齢差別禁止法があります。(「老害の壁」79頁)

クリント・イーストウッドの「ダーティハリー」。
この人のセリフが「運び屋」もそうだが「カッコイイなぁ」と思う時があるのだが、一番わかりやすい例でご説明しましょう。
何が武田先生はうっとりする。
ダーティハリーの三作目か四作目。

ダーティハリー3(字幕版)



新人の女刑事を従えて悪と対決する。
その時の悪は爆弾犯。
そいつらを追いかけ回すダーティハリーなのだが、悪を探す時には悪人に居場所を訊くという彼の方程式があって、どうも臭う犯人がいて、その犯人の現在を知っているのは闇の組織に生きる黒人。
その黒人達は街のダウンタウンか何かに巣喰っている。
それを若い女刑事を連れて一緒に探しに行く。
それでダーティーハリーは向こうの黒人のボスともズバズバやり合う。
それで「そいつの居場所を教えてくれないとなったら、明日にでも警官を連れてきて」と言って悪いヤツを脅す。
その手際の鮮やかさが、その悪党のボスが凄く気に入ってしまって「なあ、アンタほどの切れもんが、何でしょうもないポリ公なんかやってるんだ?」
誘う。
「俺と一緒に別の悪さしねぇか?」という。
そうしたらダーティハリーが帰りながら「何でポリスやってるかって?教えてやってもいいけど、笑うだろう」と言いながら去ってゆく。
これは感動する。
彼は正義の為にお巡りさんをやっている。
「正義の為にやってる」と答えたらオマエ笑うだろう?
感動しない水谷譲。
そういうセリフの切れ味がいい。
何か二階さんにはその手の一言を返していただきたかった。
洒落ている感じの。
例えばたった一言「年齢でおやめになるんですか?今度の選挙」とかと訊いたら「さぁどうだろう?若いアナタでは想像もつかない別の答えが私にはありますよ」という。
怒らないで笑顔で言うとかというのが洒落ていると思う水谷譲。
麻生さんは洒落たことを言うのだが、失言も多い。
結局最後は「バカヤロウ!」になってしまうというワケで。
その他にも諸々、和田先生からのがあって、そのへんはまた、来週ということにする。
とりあえず年齢というものに関するある差別「加齢よってアナタは辞めるんですね?」というのは質問自体が西洋社会では許されない。
差別用語になるので。
そういう意味では、日本では平気でそういう言葉が飛び交うというのは一つ考えなければならない点だというふうに思う。

この続き、また来週じっくりやりたいと思う。
「老害」三枚におろしましょう。

2024年10月06日

2024年7月22〜8月2日◆バイリンガル(前編)

まな板の上、「バイリンガル」が乗っている。
元ネタはある。
「言語の力」、(原題は)「The Power of Language」。
角川書店から出ていて(著者は)ビオリカ・マリアンさん。

言語の力 「思考・価値観・感情」なぜ新しい言語を持つと世界が変わるのか?



この本の腰帯にはこんな宣伝文句が載っている。

「ChatGPTの翻訳はますます巧みになっていくだろう。そんな時代に、外国語を学習する意味は何か」

こういう一文。
もう本当に訳せるようになった。
旅行先で看板とかにスマホを向けただけですぐその文字を訳してくれるから便利は便利だと思う水谷譲。

ではバイリンガル、他の国の言葉が使えるというのは果たしてこれから意味があるのだろうか?という。
武田先生もこの本を読みながらまた、日記を英語で書いていた。
しばらくやめていたのだが、この本を読んでいるうちにやはり老化対策も含めて続けてみようと思って。
それは何でかというと前にお話しした通り。
他愛のない日常生活、同じことの繰り返しなのだが、英語で書くと別の世界の出来事のように思えてくる。
その「バイリンガルの面白さ故に日記は英語で書く」これをもう一回復活させようと思ったワケで。
バイリンガルと言うが、もうバイリンガルだけではなく世界には「マルチリンガル」、三か国語、四か国語を話せるなんていう人がいらっしゃるワケで。
バイリンガル、つまり英語が自由自在に使えたら。
バイリンガルに憧れる水谷譲。
テレビのタレントさんでもいらっしゃる。
外国からお客様が来ても顔色一つ変えずに番組で。
あんなのを横で見ていて「いいな」と思うワケだが
この本を読み始めたら、この作家のビオリカさん。
まずはバイリンガルであること、或いはマルチリンガルであることについては絶賛から始まっている。
やはり言葉、他の国の言葉ができるというのは素晴らしいこと。

例えば文法で言うとそれは代名詞。
「わたし」「あなた」「彼」「彼女」という言葉だが、「橋」という名詞がある。
これは代名詞で日本語だったら「それ」とか「あれ」でいいのだが、異国ではこれを「彼」とか「彼女」とかで言ったりする。
そのこと。
橋の代名詞に性で表現するという。

ドイツ語では、「橋」の代名詞は「彼女」で(14頁)

ルーマニア語では、−中略−単数なら男性で、複数なら女性なのだ。(14頁)

無生物の対象に対し文法で性を与えるという。
そういう言語の中のあるイメージがあるのだろう。
「橋」で思い出したが、青春の頃だが、今、思い出すのは「明日に架ける橋」がある。
あの中に英語の歌詞で

Sail on silver girl,(サイモン&ガーファンクル「明日に架ける橋」)

(本放送ではここで「明日に架ける橋」が流れる)



それは最初の訳文はその通りだった。
「漕ぎ出そう、銀色の少女よ」という。
「何で銀色の少女なんだ」「変だな」と思ったのを覚えている。
何のことはない。
船のことを英語は「girl」「銀色の乙女」。
そういえば船なんかはそう。
「処女航海」と言う。
そうやって考えると言葉の中にある文化というのを覚えないと言葉は喋れないワケだから。
世界を見てみましょう。

ヨーロッパ、アジア、アフリカ、南アメリカの多くの国では、生まれたときから複数の言語に触れながら育ち、−中略−ルクセンブルク、ノルウェー、エストニアでは、人口の90パーセント以上がバイリンガルかマルチリンガルだ。−中略−ヨーロッパ全体で見ると、人口のおよそ3分の2が少なくとも2カ国語を話し−中略−、そしてカナダは人口の約半数がバイリンガルだ。−中略−EUの場合、高等教育を受けた人の80パーセント以上が2つ以上の言語に通じているという。(28頁)

(番組内で言われた数値は本の内容とはかなり異なる)
何かベルギーの人だったか四か国というのがいた。
どんな頭をしているのか本当に不思議。
フランスで知り合いになったパトリックというのが英語と日本語とフランス語だった。
そういう多国籍の人達がゴロゴロいる。
ただ、いくつもの国の言葉が話せるというのは心理実験でもちょっと変わったことがあって。

誰も見ていないところでサイコロを振り(出た数字は本人だけが見ることができる)、その数字を報告する。数字が大きくなるほど、もらえる報酬も増えることになっている。−中略−実際は、母語を使っているときのほうが、外国語を使っているときに比べ、数字の5か6を報告する確率が高くなり、1か2と報告する確率が低くなる。(38〜39頁)

第二言語を話しているときのほうが正直になるとまでいえるかも知れない。(39頁)

これは全然理由は(本には)書いていないのだが
日本語しか話せない人が集まって英語で仕事をやったりする。
それは武田先生も体験したことがあるが、インスタント麺を両手で持つヤツか何かで向こうに行く。
(東洋水産のCM撮影時の話かと思われる)
それでさんざんやる。
それはもう仕出しの人は全部ロスの俳優さんだから。
それで監督さんもアメリカの人で。
そっちの方がキャメラを回しやすいから。
アメリカのコマーシャル監督を雇う。
それでやった。
それで(撮影が)全部終わる。
そうすると日本人だけ深夜に集まる。
それで小さい声で「どうですアイツ?」と言う。
「ハーイ!ハワユー!」「アイムファインセンキュー!」と言っていた広告代理店の人が「笑ゥせぇるすまん」みたいな顔をして

笑ゥせぇるすまん (1) (中公文庫 コミック版 ふ 2-48)



「どうです?今度の監督。武田さんの意見聞きたいなぁ。アタシねぇ、ちょっと今、疑問符」とか、朝、スタッフ全員と会った時のアレと全然違う話を日本語でし始める。

この本は難しい。
この本は一つの単語が英語・スペイン語・ドイツ語・フランス語で次々と音を変えて行くということを紹介しているのだが、武田先生がわかるのが英語がやっとでスペイン語とかドイツ語とか書かれても何を書いているのか全然わからない。
だからその部分は説明できなくてすみません。
著者の方にも悪いと思うが、勘弁していただきたいと思う。

チャットGPTなんかと俳句の「プレバト!!」(夏井)いつき先生と、例えばチャットGPTが俳句を作れるだろう。
でも何が変わってくるか?
圧倒的に夏井先生が上手いことは間違いない。
GPTの最大の欠点は体が無いから。
時々(「プレバト!!」に)出させてもらっているから、下手くそながら一生懸命作るのだが、この(「今朝の三枚おろし」の)勉強をしながら、そっち(「プレバト!!」)の勉強もしていたのだが。
「夏」という季語でどんな句を作るか。
これは日本の素人の方。
海の家で一句作った。
「天丼のかくも雑なり海の家」
これはいい。
「見えてくる」というのはどうしようもない。
見たことはないのだが見えてくるという。
人間の感性というのは凄い。
それから「留守守るタオル一枚砂日傘」。
(正しくは「留守を守る」のようだ)
浜辺にパラソルが。
そこにデッキが置いてあって、何と誰もいない。
海に行ってしまったのだろう。
留守を守っているものがいる。
タオル一枚。
見えて来る。
「留守守るタオル一枚砂日傘」
何か海風の臭いが吹き抜けていくような句。
私達はかくのごとくわずか17文字で夏の情景を次々に歌にできる。
チャットGPTはどんな句を作るかわからないので紹介できないが、これはこれは人間に勝てるワケがないというワケで。

脱線ながら時間の表現。

英語の話者は、時間について話すとき、−中略−「距離」のメタファーのほうをより多く使うようだ。(85頁)

「Long, Long Ago」
距離。
日本人はまた凄いことに時間の表し方で「わび」「さび」というのがある。
「わび」というのは質素なのだが、「さび」というのは物の劣化。
言語で物が劣化していく時間というのを表現するワケだから。
典型は何かというと「金継ぎ」「鋳掛(いかけ)」。
割れた茶碗、穴の空いた鍋等々を修理して使うことなのだが、日本の価値観は「金継ぎ」「鋳掛」こっちの方が新品より値が高い。
それは時間が過ぎているという。
それは消耗しているワケだからボロになっているのだが、それを「美しい」というという。
ここに日本の美意識があるワケで。
これはやっぱり日本語を相当使いこなさないと理解できない。

武田先生が「感性違うなぁ」と思ったのだが、アメリカ育ちの日本人の女の子と一緒に桜を見に行った。
彼女が満開の桜を見て「ポップコーンみたい」と言った。
武田先生はついていけなかった。
桜がポップコーンに見えたことはない。
このあたり、その言葉の中にたくさんの文化というものも住んでいるようで、そのあたり明日から語ってゆきたいと思う。

言葉に関する人間の心理の実例。

「ダブルフラッシュ錯覚」とは、何かが1回出現(フラッシュ)するときに、短い音を2回聞くと、それが2回出現したように見えるという現象だ。(90頁)

(番組内では「ダブルフラッシュ錯覚」を条件反射のような内容で説明しているので本の内容とは異なる)
これが武田先生の勘だが、恐らく一目ぼれの原理。
前に話した。
一目ぼれは二度目が一目惚れ。
一回見た。
「好きなタイプじゃないな」と思った。
それで目をそらしたのだが、目をそらした瞬間に何かの音が聞こえてもう一度見た。
その時に「好きなタイプだ」という。
一度「二重線でその人を消した」ということがその人を際立させるきっかけになる。
水谷譲はこのあたりを相当疑っていると思う。
「その人を見た。その後にその人を誰かが呼ぶというその声を聞いた」ということはその人の名前が分かった、その人がいた。
誰かが「ハナちゃーん」と言ったらその人が「はい」と返事をした。
「あの子の名前はハナコか」
歩き始めて「ハナコ・・・ハナコ・・・ハナコ」と言っているうちに好きにっていく。
これはあり得る。
これが恐らくダブルフラッシュ現象を説明する、最もわかりやすい例え話ではないかなと。
好きだからその人の名をつぶやいたのではない。
つぶやくうちにその人のことが好きになってしまったのだ、と。

錯覚というのは心理の中にいっぱい住んでいて

 共感覚とは、ある知覚による経験が、別の知覚による経験が引き起こすという現象だ。たとえば、ある音を聞くと必ずある色が見えたり、ある生理的な感覚が起こったりするという現象だ。(91頁)

それから音楽を聞くとそれが味になって感じられる。
バイリンガルやマルチリンガルの人も言語と結び付いているある「共感覚」、別の感覚があるのではないか?という。
だから汚い言葉を使うと逆になってしまう。
面白いなと思ったのだが、罵倒しているYouTubeがある。
汚い言葉を使いたがる人というのがある。
「経産省なんていうのはクソなんだよクソ!」とかと。
この人達はなぜ汚い言葉を使うのか?

 言語は痛覚にまで影響を与えることもある。汚い言葉を使うと、冷たい氷水に手を入れていられる時間が長くなる。−中略−汚い言葉を使うことで−中略−痛みを感じる閾値が変化したからだろう。(94頁)

だから人から傷つけられたくないと思うと汚い言葉を使う。
痛みについて怯えている人は汚い言葉を使って自分の感覚を自分で麻痺させる。
水谷譲が今、頭に浮かんでいるコメンテーターの方もそういう感じがある。
汚い言葉を使われて、人が入れないぐらいの言葉数の多さでワーッと言う。
それはもう自分で壁を作ってらっしゃるんだろうなと思う水谷譲。
それは「痛みに鈍感になりたい」という願望が汚い言葉を使わせる。
汚い言葉を使いたがる人は痛みについて怯えている人。
そういう人は世間にいるが「あ、怯えているんだな」という証拠だと思ってください。
自らの怯えが汚い言葉で自分を守るという。
そうやって見方が変わるので。

☆高齢者の方へ
運動は肉体を変えます。
同様に新しい言葉を学び使うと脳の活動を変えることができます。
脳の活動を変えると脳の構造そのものを変える力があるんです。
時々は婆さんのことを「ダーリン」と呼んでみましょうよ。

婆さんは「ハニー」ではないかと思う水谷譲。
爺さんが「ダーリン」。
でも急にそう呼ばれたらちょっと怖いと思う水谷譲。
面白いのではないかと思う武田先生。

バイリンガルの脳は、前頭部の灰白質が普通よりも分厚くなっていることがわかってきた。
 灰白質はニューロンの細胞体が集まる場所であり
(106頁)

 灰白質の量と、白質の統合度は年齢とともに低下するが、複数の言語を話すことによって、その低下を遅らせることができる。私たちの脳は、自らを再組成し、ニューロン同士の新しいつながりを生成するという驚くべき能力を、経験とともに身につけてきた。(107頁)

だから同じ言葉ばかり使うから老害になってしまうのだろう。
斬新な言葉を高齢者の方は武田先生も含めてどんどん使いましょう。
「ダーリン」でも「ハニー」でもいいじゃないですか。
新しい婆さんの呼び方を考えると、その分だけアナタの脳、頭の中には代謝が生まれる。
そういう現象のこと、脳内代謝が盛んになるということは何かというと、脳内の新しいニューロンの流れが作れる。
新しい流れが作れると「エピジェネティクス」という、遺伝子そのものが変わる。
(この後も番組内では遺伝子自体が変化するような表現をしているが、あくまで「遺伝子の発現」が変化する)
新しい言葉の話。

 エピジェネティクスとは、遺伝子そのものの変化ではなく、遺伝子の発現が変化する仕組みを研究する学問分野のことだ。(109頁)

武田先生も「年取ってから遺伝子が変わるなんてあんのかな?」と思っていたのだが、この人の説を読んでいるとありそう。

 エピジェネティクスの変化が変化前の状態に戻るのは、たとえば喫煙者だった人がタバコをやめた場合などだ。喫煙者のDNAは、−中略−ある種の病気の遺伝子が「オン」になる可能性が高くなる。禁煙し、そのままタバコを吸わずにいると、DNAのメチル化レベルが上昇し、いずれ非喫煙者と同等のレベルになる。(110頁)

人間の実験では確認できない。

 母ミジンコが捕食者に襲われた経験があると、その子どもはトゲのヘルメットをかぶって生まれてくる。−中略−母ミジンコの経験によって、子ミジンコが持つ遺伝子の発現が変化する。これがエピジェネティクスの変化であり(110頁)

そしてこの現象が見られるのはミジンコだけではない。自然界に自生するラディッシュも、親となるラッディッシュが蝶の幼虫に葉を食われたかで遺伝子の発現に変化が起こる。(111頁)

植物の毒というのはいっぱい実例がある。
シマウマが草を喰うのでその草が怒ってしまって、毒を持ち始めてしまってシマウマを殆ど殺してしまったとか。

エピジェネティクスの研究者の間では、このような現象は「−中略−(母親を噛むと、娘と戦うことになる)」と呼ばれている。(111頁)

親の代の経験は子供の世代に影響するということで、いくつもの偶然を経て環境に適応するのではなく、一発で適応するという。
そういう非常に直線的な進化の方法もあるという。
ただしエピジェネティクスは今もまだ研究中で、二百年ちょっとということで、まだそれ程の大木には育っていない。
ただし親の環境、体験、食事、言語、これは子供の遺伝子に大きな影響を与える。
マルチリンガルの子は明らかに脳の構造、細胞レベルに於ける化学物質変化、これが親からいろんな形質を貰っているようで、物事をいくつにも種類に分けて考えることができるという。

これは余りピンとこないかも知れないが、日本人の脳がもの凄く独特なのはこれは外国の大学教授、マリアンさんが発見なさったことだが、これは分かりやすく言う。
日本人は西暦で世界史を覚え、日本史は年号で覚える。
そういうところはある。
世界の歴史は西暦で言えるのだが、自分の個人的な思い出は昭和で、年号で語るという。
「昭和30年、お富さん」とか何かそういう。

お富さん



それは西暦に直せない。
「昭和30年・・・俺、6歳。あ、『お富さん』『おーい中村君』」とか出て来る。

おーい中村君



大変申し訳ないが、我々は「昭和何年」と言ってもらうと出てくる。
令和で言われると全然出てこない。
「令和元年」と言われると「え〜?」と4とか5を引いて一生懸命自分で計算しなおさないと思い出さない。

TJは、生みの親と養親の間でほとんど、あるいはまったく情報が共有されない「クローズド・アダプション」というシステムを通して養子になった。3歳で里子に出され、−中略−最終的にあるアメリカ人家族に引き取られて別の州に移った。−中略−
 彼女は英語を話すアメリカ人の女性として成長した。
−中略−自分の言語の歴史を解明し、ルーツについてもっと知りたいと思ったからだ。−中略−昔知っていたが今は忘れてしまった言語を再学習するスピードと、まったく知らない言語を新しく学習するスピードを比較するという形で行われる。習得が早ければ、たとえ本人は覚えていなくても、幼少期にその言語を話していたということがわかる。−中略−その結果、TJが幼いころに話していた言語は、ロシア語かウクライナ語だろうということがわかった。(332〜333頁)

(番組内では生後まもなく養子に出されたような説明をしているが、本によると上記のように3歳)
つまりさっき言った「『親の持っている形質』というのは体の中にきちんと住んでいるんです」という。
(3歳までの言語を探った話なので、当然そういう内容ではない)
このへんは面白いもの。

DCCS課題があげられる。−中略−
 この課題では、さまざまな基準でカードを並び替えることが求められる。たとえば、ボートが描かれたカードと、ウサギが描かれたカードがあるとしよう。カードは赤か青のどちらかに塗られている。このカードを「色」を基準に並び変えるとしたら、赤いボートと赤いウサギが同じグループになり、青いボートと青いウサギが同じグループになる。「何」が描かれているかを基準に並び変えると、赤いボートと青いボートが同じグループになり、赤いウサギと青いウサギが同じグループになる。
「何」を基準に分類するときは「色」は無視しなければならず、反対に「色」を基準に分類するときは「何」を無視することになる。
−中略−バイリンガルの子どもはこの種の切り替えタスクが得意なことが多く(126〜127頁)

 バイリンガルは日常的に言語を切り替え、そのときに使っていない言語からの干渉を無視するという訓練を行っているので、脳が鍛えられ、より効率的なコントロールシステムを発達させることができる。(139頁)

言語処理だけでなく、試行全般にとっても重要な意味を持つ。試行全般に含まれるのは、記憶、意思決定、他者との関係などの能力だ。(142〜143頁)

それもモノリンガルの人よりはバイリンガルの人の方が決断が早い、と。

 H2Oという化学式で表される物質が、温度によって液体の水にも、固体の氷にも、気体の水蒸気にもなるのと同じように、1人の人間も使う言語によって違うバージョンの自分になれるということだ。(146頁)

不思議なバイリンガル、マルチリンガルの人の個性を語りましょう。

 中国語と英語のバイリンガルを対象にした研究では、参加者が中国語で回答すると、自分について語るときにより集団を重視し、−中略−外国語で話すと、社会の規範や迷信からより自由になるとともに(146頁)

中国語で中国のことを言う時は「私達」になる。
英語で中国を語る時は「私は」になるという。
母国語で話す時は個人の表現が小さく抑えられる。

それから英語で街頭インタビューをやっている。
あれは手足を動かしている。
普通に考えて英語を喋る人は身振り手振りは大きいというイメージはある水谷譲。
あれは言語の中にその力がある。
水谷譲は英語はダメだが、たまに面白おかしく「OH!」とかやって肩をすくめたり、手振り身振りは大きくなる。
何かやる時は英語で愚痴を言う時はその仕草が出ている。
「Oh, no!」「Oh, my god!」とか「Oops!」

バイリンガルは言語を切り替えるときに、非言語コミュニケーションやボディランゲージも切り替えているらしいということだ。(149頁)

言葉の中にその人の人格を変える何かがある、と。
これは武田先生が奥様から指摘されたのだが、奥様が武田先生の横にいていつも思っていたのだろう。
「福岡県人というのは福岡人と会った時に、ホント態度違う」と言う。
福岡とわかった瞬間に全部言語は博多弁に切り替える。
「『しぇ』の発音が向こうに戻っているな」と思った瞬間に「オマエどこの生まれや?」という。
これでまた第三者が入ってきたらピタっとやめて標準語に戻るのだが、その切り替えの早さ。
それから福岡県人にしかわからない独特の標準語のフレーズの使い回し。
「と、思うとですよ」とか。
何かある。
タモリさん(の言葉遣いを)聞くともう近所のおじさんを思い出して仕方がないというような、そういう意味で福岡のいわゆる方言というのは身に沁みている。
鹿児島に行くと、あの人達は徹底して鹿児島弁で話す。
仲間内だけで。
全くわからない。
これは関西人になると変わる。
関西弁で話すことを、他の都道府県人がやってきてもやめない。
全てのものを大阪弁で表現しようとする。
関西の方、気を悪くしないでください
ただ、武田先生はそれが面白くて仕方がない。
世界の観光地で関西の人、大阪の人にすれ違うと、その大阪の表現が出て来る。
エッフェル塔を見ながら横で「何や、通天閣の方がマシやん」とか、メコン川を見ながら「大淀川には勝てんがな」とか。
そういう風景も全部大阪に切り替えていくという。
このあたり、言葉というものがその人を変えていくということはおわかりになると思う。


2024年10月02日

2024年8月19〜30日◆ヒト、犬に会う(後編)

これの続きです。

先週に続いて「ヒト、犬に会う」。
人と犬の出会い。
半分ぐらいは想像するしかないが、太古の昔、オオカミであることをやめたイヌという種類、サルであることをやめヒトになった、その人と犬が出会った。
それを語っている。

言っておくが非難とかしているワケではない。
食文化だからいろいろあっていいのだが、インドシナ半島から中国、朝鮮半島に関しては犬を食べるという食習慣があって、それは習慣だからそういうのがある。
不思議なことに日本では極端な飢饉を除いて、食習慣としてこの習慣が定着しなかった。
それどころではない。

犬の眷属が「おおかみ(大神)」と呼ばれて尊ばれていた(49頁)

縄文がまた出て来るが、どうも縄文人は犬に神を感じた。
それも非常に高い次元の神で「大神」という。
考えてみればこの縄文の名残だろうか神社には狛犬というヤツがいて守っているワケで、神の代表者、それが狛犬なワケで。
それから日本の古代史に残っているが青森、亀ヶ岡・三内丸山(遺跡)等々では子供が死ぬと子供が寂しがらないように、或いはあの世への道を間違えないように犬に先導させるという意味合いで子供の亡骸のすぐ横に一体揃った犬の骨があったという。
これは食で食べたのではなくて、犬を番犬代わりにして殺して埋めたのではないだろうか?
埴輪から犬も出ているし。
これはアジアの習慣である。
犬に守ってもらうという。
だから漢字なんかも「家」という字を書く。
うかんむり(宀)の下の「豕」は犬の亡骸。
これは犬を埋めた時の姿。
特に人間の骨と犬を一緒に埋めると悪いものを退けるというパワーになって、にんべん(イ)の横に犬を書くと「伏」。
「そこに伏せて彼等は家を守っている」という一文字。
面白いもの。
犬というのは漢字のあちこちに姿を現している。

 イヌの家畜化過程で食用があったことは確かだが、すぐにイヌの超能力に気がつく人物もいて、防衛と狩猟の両面で使うようになったと考えるほうが合理的である。−中略−犬の持つ超能力を人間がどれほど引き出したかが、家畜化の鍵となる。それは、他の家畜にはまったく見られない犬の特質である。(116頁)

何でそうなったかというと、武田先生は思うのだが、中国大陸を横断してシベリア方面から行っておいて、カムチャッカ半島経由で北からずっと回り込んで住み着いたのが縄文人だとすると、ずっと犬と一緒に旅している。
それで日本列島に住み着いても森が近い、林が近い、山が近いということで鳥獣の被害が昔からあった。
だから食用なんかにはとてもできない。
共生して犬にケモノを早目に探知してもらうというのは命を守る行動の一つだったワケで。

 現在の犬の品種の中でもっとも古い形質をもつのは、コンゴ(アフリカ)のバセンジーなどで(116頁)

オオカミから分かれたばかりの犬。
バセンジーの姿形はオオカミに近いということかと思う水谷譲。
そうかも知れない。

これらに次ぐのがアキタやシバなどの日本固有種(116頁)

だから私達は古代から付き合っていた犬が、今でも世田谷とか杉並を歩いているという。
紀州犬もそう。
あれは古代犬だから。
猟をやる人達が鍛え上げて作った犬種だから。
犬がいなければ日本のように自然が近いところでは生きていけないんだという。
犬の不思議な能力を日本人は頑なに信じている。
これはまた繰り返しになるが、そういうものが今、インバウンドで外国からのお客様を集めているのではないか?
一番繁華街の百万人単位で人が出入りしているような渋谷という街には犬の銅像があるのだから。
あそこで海外の人がみんな写真を撮っている。
犬が銅像になっているなんていうのは、それは考えられないだろう。
犬は歌舞伎にも登場する。
「里見八犬伝」
犬に関してはたくさんの能力を人間は感じている。

彼を「超能力者」と呼びたくなる私の気持ちは分かっていただけるかもしれない。
 その犬の超能力の一端は、よく知られている嗅覚や聴覚、味覚である。
(124頁)

犬の嗅覚の凄いところは、その臭いから恐怖、狂暴、悲しみ、喜び、これも犬は臭いでわかっている。
犬の能力の凄いところは鼻で嗅ぎ当てた恐怖、狂暴、悲しみ、喜び、味覚等々を仲間の犬に伝えることができるという。
仲間の犬に伝えることができるということは、人間に伝えようとしている。
犬は人間と話して生きているつもりでいるもので、オオカミの能力を捨てて人と生きる為に犬になった。
オオカミの能力の代わりを得たのが人を救う能力。

 犬が人を救う能力を持つことは、セントバーナード犬の例でもよく知られている。 スイスとイタリアを結ぶ山道は、モンブランの−中略−救助犬バリーは生涯に四〇人を救った(129〜130頁)

 ある人物が大学への就職挨拶を兼ねて、ジャーナリストで大学教授のジョン・フランクリンの自宅を訪れた時、彼の愛犬スタンダード・プードルのチャーリーはその男が最初の挨拶をするや否や、居間の奥に引き下がって、遠くから油断なくその男をずっと観察しつづけたという。−中略−
 フランクリンは初対面の「気の良い人物」の前でチャーリーのこの行動が理解できず、ばつの悪い思いをしたが、その男は大学に入るや否やフランクリンの敵となり、冷戦を繰りひろげることになった。そうなってからはじめて、フランクリンはチャーリーの最初の出会いの時の行動の意味に気づかされた。そして、フランクリンはひとつの決定的な教訓を得た。
「いつも、犬の意見を聞け」
(142〜143頁)

これは私達が失った能力。
私達はいつの間にか感情よりも理性を優先させる人物になってしまった。
いろんな人生での決断があるけれども、それを全て頭で考えるようになってしまった。

大脳辺縁系の命じることを人間は前脳で理解できなくてはいけない。(143頁)

本能というようなもの、それは情動中枢にあるものであって、そういうもので一切考えない。
私達は命を懸けて戦ったという経験をすっかり忘れて頭で考えるようになった。
知的判断、それが最高の判断だと思っている。
しかしよく考えてみよう。

「知性的判断」は、生死がかかる最後の土壇場で常に「逃げ出す理由」を探すが、「本能」は立ち向かうべき時もあることを示す。(145頁)

「この三行、武田鉄矢ギクリとする」と書いている。
私達はなるほど、最近は本能を殆ど使っていない。

人間はあまりに多数の偏見によって自己の人格を形づくっている(言語、人種、民族、出自、家柄、財産、学歴、社会的地位などなど)ので、そのバイアスからしか事柄を判断できない。(143頁)

そういうものは客観性を持たない妄想なのだ。
犬はそういうものを一切持たない。
その人の体から流れてくる「とてもいい臭い」か「とても嫌な臭い」を嗅ぎ分ける。
犬は本質を見ているということだと思う水谷譲。
犬にはそういう能力があるのではないか?

 (犬は)すべて実際的な目的のために、一瞬から一瞬へと生きているから、彼(チャーリー)は不死なのだ。
(フランクリン原著
(146頁)

「生きるか死ぬか」の内省の果てに「生きるか眠るか」に行き着く。つまり、死ぬのは眠るのと同じだという思想である。(146〜147頁)

『ハムレット』の有名な「生きるか死ぬか」という台詞は−中略−死への恐怖が色濃く表現されている。(146頁)

新訳 ハムレット 増補改訂版 (角川文庫)



犬はハムレットのように悩まない。
犬は死と言うものはわかっていない。
だから眠りと同じ。
現実にそう。
私達は毎晩毎晩「死ぬ練習を」しているようなもので、死とは眠りの延長。
しかも自覚はできない。
犬は「生きる」か「眠る」かだから。
だから犬は生きている限り永遠。
死がない。
これは面白い。
このあたり、ちょっと犬から深い話に入っていきましょう。

人の心の根本にあるもともとの気分とでもいったもので、ヨーロッパ人の場合は「死(gone)」への恐怖」である。(148頁)

だから映画に於いて物語は全部それ。
やっぱり西洋の映画を支配している広がり方は「死ぬことの恐怖」。
武田先生は「人間は初期設定されていて死の恐怖というのが欧米人にはあるんだ」というのは凄く納得したのだが、これは間違いないと思うが、この本の中に犬のことを書きながら日本人の初期設定は何だ?という。
人種によってその初期設定が変わっているのではないだろうか?
死ではないのではないか?
死より怖いものがある。
これは武田先生はギクッとした。

日本人の場合は、「おくれることへの恐怖」だろうか? 子どもなら学校の、大人なら会社での他人との競争、同調その他どんな場面にでも「おくれる」、「遅れる」、「後れる」ことに恐怖を感じる。(148頁)

アメリカンジョークの中で、そういうジョークがあった。
飛行機が墜落してもう飛行機から飛び降りるしか助かる方法がない。
落下傘が開くかどうかわからないが、飛行機のスタッフが次々いろんな人を送りこんで行く。
アメリカ人には「素敵なご婦人がアナタを見てますよ」と言うと(落下傘が)開くかどうかわからなくても飛び降りる。
日本人には何て言うかというと「仲間はみんな行っちゃいましたよ」と言うと飛び降りる。
(「沈没船ジョーク」のことかと思われる。沈没しかけた船に乗り合わせる様々な国の人たちに、海に飛び込むよう船長が説得を行う。アメリカ人に 「飛び込めばあなたはヒーローになれます」日本人に 「皆さん飛び込んでます」)
その民族の違いによってラストの行動の仕方も変わってゆく。
その中で唐突に、島さんが書いた文章だと思うのだが「どうも日本人は遅れることへの恐怖心が死より勝っているんじゃないだろうか?」という。
その今はもう想像しかないが、昔若い人達に特攻隊を命じたりなんかするとみんな競って前に出たという。
あれは「一歩遅れる」ということへの恐怖心が死を急いだのではないだろうかと言われているし、忠臣蔵でも討ち入りをさんざん迷う志士もいる。
結局仲間達は行ってしまって彼は遅れるという。
そこでさめざめと泣く。
ここで武田先生の中年期から今のいわゆる後期高齢者になろうという20〜30年の悪夢を思い出した。
30年間同じ夢を見る。
夢の中身は何かというと全部「遅れる」。
受験場に遅れそうになる。
遅刻。
それから海外旅行をしようとしているのにゲートが見付からず飛行機に遅れる。
水谷譲もよく昼、ニュースを読まなければならないのに、浜松町ではなくて四谷にいて間に合わないとか、そんな(夢)ばかり見る。
遅れる。
死ぬ悪夢なんか見ない。
日本人は「遅れること」に対する恐怖の初期設定がなされているのではないだろうか?という。

人類というのは初期設定がなされているという。
初期設定の中に犬もいるのではないか?とおっしゃっているのが島泰三さん。
だからエイヤワディ川のほとりで子供を守ってくれた犬を抱きしめたアナタ。
それが時を挟んで「今もその犬と暮らしている」という犬との関係が繰り返されているのではないか?という。
もちろん犬の種類も変わって、もう「ケモノから守ってくれる」という犬ではないかも知れないが、朝、犬と散歩をなさっているご婦人を見ると、本当に何か人生の一端を懸けてらっしゃるような。
また飼っている犬を散歩をなさって世間話をしている奥様方がいる。
もう殆ど犬の言葉を自分で喋っている。
知り合いの犬に会ったら犬が思っていることを全部言葉にできる婦人の不思議な力がある。
「チャーちゃん。暑くなりました。ハァハァしちゃうよね〜」とかと言うと「まぁ、は・や・お・き、エ・ラ・い。ママの言うことちゃんと聞いて」とかと犬の気持ちを語る方。
でもあれは逆の目で見ると犬がご婦人を操っている可能性もある。
特に女の人はその能力に長けていて声音を変えてまで犬を演じてらっしゃる方が。
「怒ってるの?」とか(と言っているのを)よく見る水谷譲。
あれは実は日本人の心の中に初期設定された犬との関係が現われているのではないだろうか?
興味深いのは、もし夢を見るのだったらこれから犬に注目。
(夢の中に)犬が出て来る。
その時の犬が助けてくれる役回りに入る。
そういう意味で遠い遠い昔のことだが、犬の残像みたいなものが焼き付いているのではなかろうか?という。

人と犬との歴史、物語。
もう一度整理しましょう。
一万六千年前、シベリアと日本列島は歩いて渡れた。
寒冷期に当たって氷のせいで、ベーリング海峡も津軽海峡も繋がっている。
津軽海峡なんかで歴史に残っているが深さは膝ぐらいまでしかなかった。
だからジャブジャブ歩いて渡れた。
その渡る時に横に柴犬がいたという。
アフリカを出発してズンダランド、そしてインドシナ半島エイヤワディ川の河畔で犬と人は出会った。
ここから人と犬は長い旅に出て、縄文人、その人種はシベリアを経由して北海道から青森に入ったという。
これらの人々は旅の途中で様々な知恵を磨いていて、特に縄文に関しては土器を作って煮炊きした。
縄文人である彼等は栗やヒエ、更には魚、イノシシ、シカなどを調理し、この採取生活に最も協力し、共に戦ってくれたのは犬である。
狩りの協力者として犬というのは人間の仲間であった、という。
犬という種類に進化したイヌはデンプン質も食べることができた。
これはオオカミはできない。
オオカミは消化酵素マルターゼを持っていないので、デンプン質が取れない。
これを犬は獲得しているので人間の喰うものは全部付き合えたという。
日本に残っている犬種、紀州犬にしろ秋田犬にしろ柴犬にしろ、全部これは猟犬、猟の為の犬。
犬が持っている本能とは何かというと、獲物に対して自分の体重を計算する能力。

捕食者側の体重の合計が獲物の体重をこえた時、その大型の草食獣を捕まえることができる。−中略−石井さんのイノシシ犬が体重六〇kgのイノシシを倒すには、五頭以上の犬(体重一五kg程度)が必要となる。(134頁)

相手よりほんの僅かでも体重を重くする頭数が集まらないとチームプレイに打って出ない。
これを一瞬で計算するという。
これはオオカミの本能らしい。
オオカミも「シカを喰おう」と思った瞬間に計算するようだ。
「四頭以上必要だ」とか。

そしてこれは今でも散歩の途中で皆さんお気づきになっていると思うが犬と人が歩いていて、主従の関係が上手くいっている犬と人間の関係が上手くいっているペア共通の行動がある。
それは犬の方に特にあるのだが、歩きながら主人の顔を見上げている。
これが上手くいっている証拠。
一万六千年前から続く犬の習性。
飼い主を引っ張るような感じでグイグイ行く犬は上手く行っていない。
あれはオオカミの性格が強く出ている。
もう犬を飼ってらっしゃる方はお気づきだろうと思うが、犬は家族内に順番を付ける。
それでいつもエサをくれる奥さんがボス犬だとすると、夜遅くしか帰ってこない亭主は三番手か四番手のオオカミの群れで考える。
飼い主を引っ張る犬というのは飼い主を二番手に見ている。
そうすると自分がリーダーなので、一番最初にお話しをした武道を教えてくださる先生が子供の時、シェパードを飼っていて「コイツは犬だからいいよな」と思ってジーッと見ていると犬が切なそうな顔をして「『俺がどれだけオマエの面倒見てるのかまだ気付いてないのか』と、そういう目だったんですよ」という。
それが順位の中で犬は生きているから。
このへんが面白い。
さっきもスタッフと話していて盛り上がったのだが、犬というものは主人が指差すと指を見ないで指差したものを見る。
猫は「あれだよ」と指を指すと指を見るので「バカだねぇ」と思う水谷譲。
これは既にコミュニケーションの成立で会話と同じ。
ご主人がボールを投げる。
投げるところまで犬はご主人を見ている。
それでご主人がボールの方角を指すと「『あれを取ってこい』っておっしゃるんですね」と理解する。
この理解が動物の中で最高に勘がいい。

 チンパンジーたちは、人の視線や指さしの意味をまったく理解できないと言われている(155頁)

だから彼(犬)は言葉を使っていなくても会話している。
それが面白いところ。
だから主従の関係がしっかりしていないとダメで、だから命懸けで戦える。
最も顕著な例が秋田犬で、これは映画にもなったが「HACHI」の中で名場面があって。

HACHI 約束の犬(字幕版)



このあたり犬は目を表情だけで言葉無く会話しているという。

遠い昔、一万五千年も前のことだが、我らはインドシナ半島の川沿いの小さなエリアで人として犬として出会った。
そして一万五千年を旅してきた。
その「旅をした」という体験が犬と人を結んでいる。

ここで著者は「二分心」という脳の仕組みを紹介している。
ウェルニッケという名前の領域が脳の部分であって、このウェルニッケという分野に犬が住んでいる。
そう言ってもいいのではないか?
(本の中では「二分心」と犬とは特に関連付けられて語られない)
何か迷ったりすると話し合う。
そういう構造に人間の頭がなっている。
「二分心」
遠い昔に人間の心の中に住み着いた犬がいるということを忘れないというワケで。

最後の章でこんなことを紹介している。
(最後の章ではなく第四章。この後の話も本の内容とは異なる部分がある)
清水さんという方でイノシシ猟のできる犬を育てることをこの人も目指しておられる。
この人は一切鉄砲は使わない。
犬に頼む。
イノシシの足に噛みつき動きを押さえ、この方は猟銃を持たずにナイフだけで首を斬るという猟をなさっている。
使っている犬は洋犬・ピットブル。
攻撃的でしかも人間には友好、従順、忠実。
そして頑固だそうだ。

「アサキチ」は−中略−生まれて初めて見た親子づれのイノシシの子どもにかみつき、自分とほとんど同じ体重のイノシシを咥えた、という。
 この名犬を群れのリーダー「先犬はないぬ」として、イノシシの単独猟が完成した。
(203頁)

それで数頭で足に噛みつきイノシシを弱らせていくという。
アサキチは仲間さえいれば100kgのイノシシにも向かってゆくという犬らしい。
この清水さんもそうだし、一番最初にお話しした方もそうなのだが、この本の著者の島泰三さんも同じことを言っておられるが、昔の日本の村落、村では村全体で犬を飼っていた。
エサやりは村全体でやって、犬を飼う。
犬は夜間、放つ。
そうするとケモノが近づいてくると吠える。
そのことで村を守っていたのではないだろうか?
今はその犬と一緒に生きてゆくという知恵がちょっと人間の方が衰えてしまって、犬からの厄災を避ける為にも安全が優先されて犬をペット扱いにする。
でも犬はあの野生が生きているという。
それから人間の暮らしを脅かすであろうクマ、シカ、イノシシ、サル、そういうものに対しては彼等は必ず目覚めてくれる。

危険だからダメなのか?
やっぱり武田先生はオオカミだと思う。
オオカミさえいれば、もっとバランスがよくなる。
オオカミを見てごらん。
惚れ惚れする。
オオカミはいい顔をしている。
犬とオオカミのハイブリッドという犬種があって、これがいい顔をしている。
人間にはやっぱりもの凄く従順だそうだ。
それをやっぱり鳥獣被害の点では、村でお飼いになるというのは、もの凄く専守防衛になり得るではないかなと思う。
何か変な言い方だが、こうなったらもう縄文人の知恵を学んで犬に頼むことが一番だと思う。

 日本列島に犬とともにシベリア経由で入ってきたわれらが祖先は、東アジアで最初にオオカミ南下亜種イヌに出会った、アフリカから東進してきたホモ・サピエンスの最初の一員だった。−中略−同伴者として氷期の極大期の過酷な条件を生き抜くためには、犬への淘汰圧は厳しいものだった。(205頁)

犬の直感は襲って来るケモノ、或いは天変地異、そういうものに対して殆ど神のような予感を駆使するという。
オオカミの末裔という位置にいた、決してペットではなかった犬。
その犬を村や町内の公共財、公共のものとして飼うというのは提案としてどうであろうか?
ぜひ都知事にも考えていただきたい。
ぜひ頑張ってください。
緑のたぬき。
ちょっと都知事のことを好きになった武田先生。
揶揄した方がいたらしい。
「今度の選挙は赤いきつねと緑のたぬきの戦いだと言ってる人がいますよ」
そう言われた都知事。
「私、緑のたぬき好きなんです」とおっしゃった。

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「玉子入れると美味しいですよ」とかと武田先生の社長と同じことを言った。
「赤いきつねと緑のたぬき」小池氏が都知事選の対立構図示すフレーズにXで言及「私は卵を…」 - 社会 : 日刊スポーツ
そういう意味合いでは「グリーンのマフラーを巻いているたぬき」の知恵を以て犬を飼う。
そんなので鳥獣被害を退けられれば(「小池」ならぬ)「大きな池」になることができるのではなかろうかと期待したい。



2024年8月19〜30日◆ヒト、犬に会う(前編)

(番組の冒頭はQloveR(クローバー)の入会キャンペーンの宣伝)

まな板の上は「ヒト、犬に会う」。
(「犬と出会う」と言ったが多分「犬に会う」)
今年の夏の初めのことなのだが、合気道を教わっているのだが道場に行って、その合気道の若い指導者を「若先生」と呼んでいる。
若先生が突然思い出話で飼っていたシェパードの話をなさって、若先生が小学生時分、散歩に出た。
くたびれてどこかの川べりの土手の上で犬と一緒に座り込んでぼんやり休んでいた。
飼っていた犬はシェパード。
子供としてとてもその犬を愛しておられたらしいのだが、シェパードの顔を見ながら思ったそうだ。
「オマエは犬だからいいよなぁ。宿題は無ぇし、合気道の練習をお父さんからやれって言われることもなくて、飯ばっかり喰って長いベロ出してりゃ一日が終わるからオマエいいよなぁ」と犬にそう思ったか言葉がこぼれたかも知れない。
その瞬間、そのシェパードが若先生の顔を見つめてベロを横に出したまんま深いため息をついたという。
それが若先生には犬に思えなかったという。
人間の表情そっくりだったという。
その時にそのシェパードがもし言葉が話せたら「だからオマエは子供なんだ。俺が夜中にどんなに苦労してるか知らないだろ?オマエが寝相悪くゴロンゴロンゴロンゴロン転がって寝てる時、俺は物音聞いたら『あっ!不審の者』とかっていってパッと目覚ましたりなんかしてんだぜ。一日だって気を抜いたことは無ぇぜ。だって俺はシェパードだもん」。
それで若先生はそこからちょっといささか強引だったが(話を)合気道に持っていって「ご家族にね『こんな暑いのに何が合気道だ』って言われてる方もいらっしゃるかも知れませんが、いつか役に立つ、いつか家族を守れる手段になるんじゃないかと思って、今日も合気道の練習に励みましょう。まずは押さえ技、一教から」。
そこから(合気道の稽古に)入った。
武田先生はその話が凄く印象に残って。
武田先生自身も犬好きだが、YouTubeなんかでパンチラとか何かそういうのを見るのだが、YouTubeで一番多いのは「飼っていた犬のご報告」というのがある。
不思議なのは「赤ちゃんと犬」「幼児と犬」という組み合わせで、その時に犬の表情を見ていると殆ど人間と変わりない。
散歩を嫌がる柴犬とか、お風呂が嫌らしくてお父さんの声で「おい、入るぞ」と言うと顔をそむける。
台所に立っている奥様の足首のところから鼻と目を出して、お風呂をあきらめるお父さんを待っているという。
可愛い。
その他にも赤ん坊が泣きだすとあやす犬とか。
(赤ん坊が)ワーンと泣くと(犬が)ワォ〜ン!と鳴く。
それで赤ちゃんが泣きやむという。
人間の解釈でそれは「子守をしてくれる」というのだが、本当に子守してるんじゃ無ぇかなと。
それでバッタリ本屋さんで目が合ったのが(著者は)島泰三さん。
講談社選書メチエ「ヒト、犬に会う」。

ヒト、犬に会う 言葉と論理の始原へ (講談社選書メチエ 705)



それはどんな出来事がそこにあったのだろうか?という。
最初の前提を言っておくが、人と犬の関係は利害関係だけではないぞ、と。
もっと深い出来事で人と犬は繋がっているんだ。
というのは、犬は殆ど間違いない定説だがオオカミから犬になったらしい。

イヌが家畜化されて脳容量を二〇%減らし、同時にヒトも脳容量を一〇%減らしたことの意味を問い詰めた。その結果「犬に作用した力が同時に人間に作用しないわけはない。−中略−それぞれが相手を変えたのだ」(4頁)

(番組では犬が20%で人間が10%と言っているが、本によると上記のように逆)
だから犬に出会っていなかったら人はサルから人になれなかった、という。

こんな奇妙な仕事をなさっている人がいる。
著者はその人を紹介しておられる。

 豊後と日向の国境に、その人の終の棲家があった。−中略−
 この人里離れた世界で、石井さんはイノシシ猟用の犬を創ることに専念してきた。
(14頁)

今回出動するのは七頭。うち二頭は一歳少々の見習い犬である。主導する一頭にはGPS発信器の装備をつける。−中略−
 犬の準備をおえてから、銃を取り出す。
−中略−石井さんは短刀でイノシシのトドメを刺してきた。銃でも数十cmの至近距離で撃つ。(16頁)

凄い。
紀州犬。
もの凄く旦那さん思いというか、人間との約束を守る犬で、仕えるご主人は一人という。
それで五頭一組でイノシシを追う。
追う時にリーダーがジャッジするらしい。
何をジャッジするかというと深い谷に逃げ込んだイノシシに関しては、そこでイノシシを倒しても、この後やってきた旦那が谷を降りてとどめを刺すというのも狭い谷間では旦那も大変。
しかもその後担いでイノシシを持って上げなければならない。
どうするかというと、リーダー犬が谷にいるヤツは上に追い上げるそうだ。
それを徹底して仕込む。
そして殺すのにふさわしい広さのあるエリアを選ぶ。
それで何をやるか?
イノシシの前足を噛むそうだ。
前足を噛み砕く。
それで動けなくなったらリーダー犬が人間を呼ぶ。
ウォ〜〜ン!と吠えて旦那がやってきて、犬に当たらない為に30cmの至近距離ぐらいで撃って眉間一発だけ。
或いはもう完璧に動けないとわかったら特性のナイフを出して頸動脈を切るという。
そして血抜きをそこでやって担いで帰る。
ひどい時にはイノシシは100kgを超える。
だからやはり道具が無いとダメなので。
やはり凄いのは、犬が全部そこまでリードしてイノシシを狩る
リーダーにはGPSが付いているので、だいたいわかる。
それから見習い犬が二匹いるワケだが、そいつらは犬笛で呼び集めるという。

『和犬は点で追う』ということです。洋犬は、獲物の臭跡を追跡するので、鼻を地面につけてフンフンいって臭いの痕を線で追うけれど、彼らはそうではない。見ているでしょう。臭いだけでなく、和犬は耳と目も使ってイノシシを点で追う。(18〜19頁)

だからリーダー犬がいて、バーッと下から谷底から捕まえ易い平場の峰の上まで追い上げるとすると、その追い上げているリーダーの犬を見たらどこのポイントかを察して先に噛むヤツが隠れる。
それでイノシシが上がってきたらもういきなり首根っこにという。
首根っこを払おうとしたところに前足を他の犬が噛むという。
調教する人も凄いと思う水谷譲。
これほどの大がかりなアレなのだが、鳥獣被害で困ってらっしゃる方は夢見ることになると思うが、これは本によるとこの難度の高いイノシシ猟を犬達は一時間でやるそうだ。
今、依頼の方が殺到しているという。
この紀州犬をここまで仕込むと何でも使える。
クマ、サル、シカ、そういうものから、今はもう市町村を守る為にこの犬というのはこれから絶大なる力を持つのではなかろうかと。
期待したい。
これは石井さんは頑張っていい犬を育てて欲しい。

犬の歴史にここから入っていく。
犬というヤツがどのようにして人に会ったかという。

 イヌは一万五〇〇〇年前頃に、他の家畜にほとんど五〇〇〇年間も先駆けて家畜化された。(24頁)

人間と共生し始めたのはトップバッター。
犬の起源はオオカミかジャッカルか?と言われていたが、研究が進んでどうも犬というのはオオカミの亜種らしい。
オオカミからの流れの生き物。
オオカミと犬は違う。
どこが違うかはまた後で発表する。
このオオカミと違うところがまた重大。

 オオカミとイヌの共通祖先は一〇〇万年前頃に確立したが、それはネアンデルタールとヒトの共通祖先の時代だった。(〜頁)

オオカミは時速60キロで走れる。
最大、一日70キロ移動できて、10キロ泳ぐことができるという。
これがオオカミ。
ヒトはどうかというと人はオオカミ程の牙というような武器は何も持っていない。
直立歩行で、これはいつ滅んでもいいようなサルだった。
ところがここでサルの特徴を捨ててしまう。
それが脱毛。
「何で毛を捨ててしまったのかな」というのが武田先生の不思議だったのだが。
この本を読んで「この説が正しいんだろうな」と思ったのだが、全身から毛を抜いたのは汗の調節の為のようだ。
毛が生えていると温度を調節するというのは難しい。
それで毛を抜いてしまって汗の調節が可能になったという
この汗の調節が可能になったことによって長距離を歩くこと、或いは走ることができるようになったという。
それで汗の調節ができるので、しつこく獲物をずっと追いかけていく。
それで穴ぼこか何かに落としておいて、みんなで石か何かで殺すというような。
最後はマンモスまで殺してしまうワケだから。
それはやはり毛を抜いたというのは凄い。
サルからヒトに変化した人間と、オオカミから変化したイヌという生き物、共通点は何かというとしつこい狩りをする。
オオカミもそう。
「送りオオカミ」とか。
送りオオカミはずっとくたびれるまで付けていく。
だからその手の男のことを「送りオオカミ」と言うのだが、オオカミはそういう狩りをやる生き物。
それで人になりつつあるヒトとオオカミから犬になりつつあるイヌというのがしつこい狩りをするというので共通項があったのだが、大きな歴史的大事件に巻き込まれてゆく。

地球規模での寒冷気候に突入した。七万年前からの寒冷期はきびしく、−中略−五万年前頃にはユーラシア大陸と北アメリカ大陸を隔てていたベーリング海峡が陸橋になり、−中略−この陸橋は、マンモスやカリブーなど草食獣とそれを追うオオカミたちなどの捕食者も移動するルートとなり(69頁)

ところが寒くて寒くてたまらない。
そこでアフリカからやってきたサルから進んだ人も、ヨーロッパの山脈で生まれたオオカミという種類も寒いものだから、この島泰三という人は面白いことを言う。
だんだん生き物が住めるエリアが狭まってきて、ある一点ぐらいの狭さになったという。
居住空間がない
それで寒いものだから赤道近くに集まる。
そこは一か所だけらしいが、生き物で溢れかえってしまう。
この発想は面白い。
引き金がある。

 この寒冷気候の引き金になったと考えられるのは、七万年前に大爆発を起こしたスマトラ島のトバ火山で(70頁)

イタリア半島中部でカンパニアン・イグニンブライト噴火−中略−と呼ばれる−中略−巨大噴火があった。(70頁)

日本の九州南部で姶良カルデラ大噴火−中略−があり(70頁)

噴煙に覆われて太陽が射さないものだから、また人間の、或いは生き物の住める場所が狭くなってしまった。
だから生き物という生き物は地球上のある一点に集まった。
この発想は面白い。
旧約聖書のいうノアの方舟というのは実在したんじゃないか?という。
地球のとある一点に生命圏があった。
その中に生き物が入ってきた。
その場所を著者である島泰三さんはインドシナ半島に求めた。
ここの一点、その川沿いに生き物が住んだたという。
インドシナ半島が突き出ているのだが、その丁度首根っこのところに川が流れている。
長大な川。
これは中国の奥地の方から流れていて、ここに生き物が終結したという。

オオカミの南下集団(イヌ)は、凍りついたヒマラヤ山脈とチベット高原の外縁を回りこみ、雲南省とシャン高原を経由して、エイヤワディ川流域の草原地帯に狩場を発見した。(76頁)

 同じ頃、ヒトもエイヤワディ川の流域で村を作った。(76頁)

とにかく一本の川のほとりに地球上の全ての生き物が集まったという時代があったことをイメージしてください。

水谷譲がこういう性格の人。
「それは著者の仮説ですよね」
実際どうなのかなと思う水谷譲。
仮説だろう。
でもこの仮説はもの凄くイメージしやすい。
別個の本だったが、人類というのは一番最初に数を減らして、二万人ぐらいの時があった。
人と呼べる生き物が二万人しか生きられなかったという状況が地球上にあったという。
武田先生はそれがここなのではないかと思ったので、この仮説を疑わないでどんどん読んでしまったのだが。
とにかくここ。
エイヤワディ川の流域。
(番組内で「エイヤワディ川」を「ヤワディ川」と言っている箇所があるが、全て「エイヤワディ川」に統一しておく)
この一本だけに生き物がバーッと集まってきた。
これは赤道の近くで他の寒冷地に比べて暖かいというのと、この川の恵み、様々な生き物が生きていることができたという。

 その川岸には、生活に必要なものはすべて揃っていた。イモ類、果樹、イノシシやシカやウサギやサル類、魚もエビやカニも貝類も、きれいな水もあった。(75〜76頁)

だから食物連鎖が成立した。
ここだけで喰っていけたワケで。
特に悪食のサルである人間はデンプン質は摂れるわ、魚は摂れるわ、動物の肉も摂れるワケで。
何冊も本を読んできたので印象的な文章が武田先生の場合は次々と連続発火する。
岡潔という数学者が、シンガポールを旅しているうちに、懐かしさで泣きそうになったという。
(以前この番組で取り上げた「春宵十話」の話だと思われる。武田鉄矢・今朝の三枚おろし(12月1〜10日)◆『春宵十話』『春風夏雨』岡潔

春宵十話 (角川ソフィア文庫)



岡潔の直感。
数学者の人が「俺達は一回ここ通ったな」と言っていて。
南に行くとそういう光景にバッタリ出会う。
例えばハワイで何か息をいっぱい吸い込んで昼寝か何かして昼寝からパッと目が覚めた時にもの凄く懐かしい。
懐かしいというか「ここが私の居場所だ」と思う水谷譲。
恐らくシンガポールのどこかのアレで空とか山を見ているうちに岡さんという数学教師は「俺、一回ここ歩いたことあるわ」「俺は覚えてないけど、俺の遺伝子が覚えている」というような言い方を。
そういうアジア的懐かしさ。
それがこの(エイヤワディ川の)ほとりにあった。
ここではケダモノはケダモノを喰い、ケダモノは魚を喰い、魚はエビを喰い、エビは植物性のプランクトンを喰いという完璧な食物連鎖が成立した。
だから誰も喰い物に困らないという不思議な生命の循環が。
この循環の時にこの島さんのイメージはいい。

 ある日、彼らヒトとイヌが出会った。(76頁)

その出会った時は人はサルに近く、犬はオオカミに近かった。
ところが、何となく惹かれた。
当時は犬とサルだから「犬猿の仲」。
だから出会ったサルとオオカミはそれぞれの特徴を10%ずつ捨てた。
10%をサルが捨てたら人間になった。
オオカミが10%捨てたら犬になった。
捨てたもの同士。
ここでもの凄い進化が起こる。
これは進化というか退化といっていいかわからないが、オオカミは肉しか喰わない。
ところがオオカミを少し捨てたら犬はイモが喰えるようになった。

 イヌのゲノムからオオカミにはないデンプン質の消化能力が発見された(108頁)

 これらの犬の消化能力は、初期のオオカミ亜種のイヌとヒトとの関係が決定的な段階を通り抜けたことを示している。−中略−ヒトが定住して食べるようになったデンプン質の食物を共有できることこそ、イヌがヒト社会の一員となる決定的要件だった。(108頁)

それでサル(恐らく「イヌ」と言いたかったものと思われる)とヒトは出会うのだが、ここが武田先生のイメージ。
最初に穀物が喰えるようになった犬が出会った人はどんな人か?
子供ではないか?
大人の人間に出会わずに、人間の子供に最初の犬が接近した。
その子供はオオカミの亜種とは知らずに犬を呼んだ。
危ない。
ところがどこかのヤツがイモを渡したのではないか?
そうするとそれを喰いながら「コイツ、イモくれるんだ」という。
そこに言葉が両者の間で成立したというところから、犬と人との付き合いが生まれたのではないだろうかという仮説。
オオカミであるところの犬が人間に接近する。
その人間の中でも特に子供とのコミュニケーションの中に犬達は希望を見つけた。
犬はやはり表情がある。
それは犬の方も、人間を見ながら思っているのではないか?
「あらぁ、コイツ表情あるなぁ」という。
武田先生はそう思う。
向こうも向こうで見ている。
一番最初に若先生の話をした。
犬のことをやや上から目線で「オマエはいいなぁ。勉強しなくていいし、合気道の練習も無ぇから」と言ったらシェパードの犬がジーッと横目で見て下を向いたという。
ここで著者の島さんは「犬というものと人というものの共生生活が始まった」という。
長い長い付き合いになった。
犬の起源というのは様々世界中にあって、そういう話、ああいう話があるが、武田先生にとってはこのエイヤワディ川の話のような、このインドシナ半島の一本の川のほとりというのが納得がいく。
このエイヤワディ川のほとりから文明が立ち起こっていく。
それはだんだん天候が治まってくる。
縄文海進とかと言って、氷が溶けてゆっくり海が広がっていくという過程で、地球がだんだん生き物に優しい環境を世界中に広げ始めると、一か所に集中していた人達が次々に旅立って行く。
恐らくこのことも踏まえてこの人はエイヤワディ川が犬と人とを出合わせた場所ではないかとおっしゃっている。
ここには両方ある。
イモの話をしたが、ここはイモだけではない。
サトウキビも原種があった。
ここには小麦の原種がある。
米の原種がある。
デンプン質なんかではもう殆どのタネが。
サトウキビは強烈で「噛めば甘い」というのはもの凄く人類の体格を良くする。
ここから人類は世界に広がっていく。
その時に麦の苗を握りしめて西に行った人達がメソポタミア文明を興す。
米を握りしめて東へ行っていた人達が黄河文明を興す。
これが面白さ。
恐らくこの両方の原種みたいなものがこの川のほとりにはあったのだろう。
というワケで、西に行く人と東へ行く人がこの川のほとりで世界中に広がっていったという。

まずは西へ行った人達、メソポタミア文明を興した人達から話を片付けていく。
この人達は麦の穂から小麦を作り始めた。
乾燥した大地があるので、そこで小麦を。
小麦の一番便利なところは、倉庫に保存できる。
これは文明。
ところが困ったことにこの西へ行った人達、もう犬はいらない。
平野が、広いところが小麦栽培にはもってこいなので。
ケモノに突然森の中で襲われるということがないから、もう暮らしに犬は余り必要としなかった
だが、倉庫を作ったら大変。
ねずみ(の害)。
「参ったなぁ」といったら猫を見つけた。
それでペルシャ猫とかという、倉庫を守る為の猫文化が発達したという。
(元々はペルシャ猫が倉庫を守っていたかどうかは)知らない。
エジプトでもどこでも必ず、犬より猫が神様の顔をして出てくる。
あれはやはり猫文化というのは「小麦の倉庫を守る為」というのがあったのではないか?

今度は東に行った人達はどうしたか?
黄河文明を興す。
この人達は広い水田を見つける。
それでエイヤワディ川のほとりと全く同じように。
稲作は私達はやっているが、あれは古里を思い出させて騙している。
米を作るということは古里を思い出させること。
田植えをする。
あれこそエイヤワディ川の川岸。
「ホラホラホラホラ、エイヤワディ川よ」と言いながら農業をやっている人は植えていく。
そうすると稲の方は「懐かしいな。エイヤワディ川だ」とかと言って大きくなる。
そうすると当然雨期。
どんどん上に伸びないと水に浸かってしまうから、それで背丈を伸ばす。
人間が切りやすいところまで出たら水を抜いてしまう。
そうしたら稲のヤツは「あ!乾期だ」と思って実を実らせようと思ったのがコシヒカリになる。
つまり稲の中の遺伝子がそれを覚えている。
だから日本の稲は茎が短い。
あれがインドに行くと洪水が多いものだから二倍、三倍になってしまう。
その土地の気候。
でも彼等に「エイヤワディ川のほとりに住んでますよ」と夢を見させることが稲作りの基本。
だから季節は二つ。
雨期と乾期。
それを体験させる。

ここから日本で独自に発展した犬文化というのを振り返ってみて。
時間いっぱい。
いいところで終わって申し訳ない。
犬を連れてお散歩をなさっている方も聞いてください。


2024年09月21日

2024年8月12〜16日◆俵星玄蕃

とんでもないものがまな板の上に乗っているのだが、これは今週一週間だけのネタで「俵星玄蕃」。
これは三波春夫さんの長編歌謡浪曲という、赤穂浪士の話を10分間近い歌にまとめたという一篇なのだが、この歌に武田先生がどハマりし始めた。

長編歌謡浪曲 元禄名槍譜 俵星玄蕃



この「俵星玄蕃」を朗々と楽しそうに(過去の番組内でも歌うので)「何がそんなに楽しいんだろう?」と思っていた水谷譲。
こういうことがあった。
それはいつも出てくるが内田樹先生、文藝春秋社刊の本を読んでいた。
「街場の成熟論」

街場の成熟論



(本の中の傍点部はアンダーラインで表記する)
その第一章に「ウクライナ危機と『反抗』」という文章があった。
内田氏は第一章でアルベール・カミュの名作を挙げている。
「反抗的人間」という本があった。
これは何で覚えているかというと武田先生は70年代の学生さん。
福岡みたいな田舎町の本屋にも大江健三郎「芽むしり仔撃ち」とか「見るまえに跳べ」とかいっぱい並んでいて、その端っこにカミュの「反抗的人間」という一冊があった。

芽むしり仔撃ち(新潮文庫)



見るまえに跳べ (新潮文庫)



 アルベール・カミュは『反抗的人間』という長大な哲学書の冒頭に−中略−あるときに「何かがこれまでと違う」と直感すると人間はそれまでにしたことのない行動をすることがあるという話を記している。主人の命令につねに唯々諾々と従ってきた奴隷が、ある日突然「この命令には従えない」と言い出すことがある。−中略−このときに奴隷が抵抗の根拠にした「踏み越えてはいけない一線」(17頁)

人がそれに抵抗するのは、『ものには限度がある』と感じるからである。(18頁)

いわゆる「堪忍袋の緒が切れる」そういう瞬間があるんだ、という。

 カミュはこう続けている。−中略−
「人が死ぬことを受け入れ、時に反抗のうちに死ぬのは、それが自分個人の運命を超える『善きもの』のためだと信じているからである。
(19頁)

「でもそれは許せない」という感情は水谷譲の中には無いか?
内田さんが持って来たのはウクライナ・ロシア戦争。
ウクライナの人が、ロシアのやり口にもう我慢できなくなった。

今ウクライナやロシアで「反抗」の戦いをしている人たちの動機を「愛国心」だとは私は解さない。それより「上位の価値」のために彼らは戦っているのだと思う。(21頁)

それがロシア兵とウクライナ兵の違いだ。
それは「やっていいこと・悪いことには限度があるんだ」という。
これはわかる。
日本人の中にもスズキさん(鈴木宗男氏を指していると思われる)みたいな方がおられて「何言ってるんだ。ウクライナがロシアに勝てるワケないじゃないか」と言ってロシアまでお行きになった。
それは勝てそうに無い。
だが「ウクライナに勝って欲しい」と思う。

 私たちが反抗の戦いをしている人たちから目が離せないのは、彼らがその戦いを通じて、遠く離れた、顔も知らず名前も知らない私たちの権利をも同時に守ってくれていると感じるからである。(21頁)

だから日本人はウクライナに連帯を感じてウクライナを支援している。
これは「思想」ではない。
内田先生は鋭いいいことを言う。
「このウクライナに勝って欲しい」というのは政治でもなければ思想でもない。
これは「気分」だとおっしゃる。
直感がヨーロッパ、EU諸国を動かしている。
遠い遠い昔、学生の頃に武田先生達にも一種その気分があった。
それを思い出した。
それはベトナム反戦。
アジア人をナパーム弾をバカバカ落として焼き殺すというのは、やることに限度がある。
日本もアメリカにヤラれた口。
いつの間にかベトナム人と自分達の父母が重なった。
それが若者達の中で「ベトナム反戦」とか「『米帝国主義』とかという罵り」になって70年の全共闘運動になった。
全共闘運動もそのうちダメになってしまうのだが。
その70年に実はこんなことがあった。

1970年、政治的に日本が揺れた年代だった。
その秋口のことだったが、武田先生達のアマチュアのフォークグループ(海援隊)は九大(九州大学)という国立大学の文化祭に出た。
もう全学封鎖だから一般の学生は来ない、部活の学生だけが来ていて、後は全部ヘルメットの学生が大学を占拠している。
異様な雰囲気だった。
それでも文化祭をやっていた。
お祭は若いヤツは好きだから。
それでその九大の方から依頼があったのは「海援隊出て欲しい。アンタ達人気あるやない?」とかと執行部の人から言われて。
まあ、同級生だけれども。
それで九大の文化祭に出た。
そうしたらもう名前も言ってしまうがヤノというヤツがフォークソングを歌っていた。
世界の平和を歌う。
「♪世界は平和を・・・」とかと歌っていた。
そうしたらヘルメットが2個入ってきて「ナンセンス!」と言い始めた。
会場は階段教室で500名。
2個のヘルメットがコンサートを潰してしまった。
それで壇上に上がって「今からベトナム反戦について討論会やる」と言う。
武田先生達の出番の前。
「コンサート潰し」というのが流行った。
吉田拓郎さんのステージにもコンサート潰しが出たり、岡林(信康)さんにも杉田二郎さんなんかも。
それで「愛は世界を救う」なんて歌を歌っていたヤツに「愛が地球を救ってるっていうのを証明しろよ!」。
剣幕が半端ではないから、ヤノも怖かったのだろう。
一種の狂気だから。
それで皆もじっと下を向いていた。
500人の学生さん達。
「歌なんか聞いてる場合じゃ無ぇよ。ベトナム反戦で討議やろうぜ」と潰れかかった時にちょっとした事件が連続して起こるという。
それで別のヘルメットが入ってきた。
「あれっ?」と思った。
ヘルメットの色が違う。
このへんはなかなか難しくて、ヘルメットの色が違うだけで殺し合うぐらい凄まじいセクト間の抗争があった。
(違う色のヘルメットをかぶった人が)一人入ってきた。
そのヘルメットが突然二人の別の色のヘルメットに向かって「出てけコノヤロウ」が始まった。
「オマエ何だよ!俺らは自己批判求めてるんだ!」
「いいから出てけよ」
その男の剣幕がもの凄い。
右手に鉄パイプを持っている。
黒縁のメガネをかけた、ヘルメットから長髪がはみ出したヤツだったが。
それが「中庭に出ろ!コノヤロウ!」と始まって押し出した。
武田先生達は教室の外で次の出番を待っていた。
そうしたらその追い出した方の違う色のヘルメットが武田先生(の前)を通過する時に「続けていいよ」と言った。
それで二人を中庭に引っ張り出して怒鳴り合う声がしたのだが「続けていいよ」と言われたものだから、武田先生は(ステージに)出た。
それで出て来たものだから500人は大喜び。
ウワーッと。
それでバカの一つ覚え。
歌った歌が「♪辞書とゲバ棒 はかりにかけりゃ ゲバ棒が重たい 学生の世界」という。
「唐獅子牡丹」のパロディーソングで「大学ボタン」という。



今、過激派との抗争があったばかりで「♪辞書と」と出て行くものだから、ヤンヤヤンヤの喝采。
ウケるだけウケる。
言っておくが音楽性でウケたのではない。
何というか場の流れがよかったものだからパロディーソングがピッタリハマった。
二曲目は「ティーチ・ユア・チルドレン」とか吉田拓郎の「マークII」とか、ラブソングを歌って「腰まで泥まみれ」なんていう反戦ソングも歌って最後は武田先生達の郷土ソング「風の福岡」。

腰まで泥まみれ



風の福岡



それで手拍子で締めくくって大盛り上がり。
それで(ステージを)降りたら例の追い出してくれて「続けてくれ」と頼んだ別の色のヘルメットの彼がいた。
黒縁のメガネでヘルメットから長髪が出ている。
それが「ありがとうね」と言った。
「オタクら面白いね。最初のあの俺達からかうヤツ、学生運動やってるヤツをからかう。あれ面白いじゃん。君に質問があるんだけど、『俵星玄蕃』聞いたことある?」
何を思ったか、武田先生にそんなことを訊く。
「俵星玄蕃」というのは三波春夫が武田先生が15歳の時発表した長編歌謡浪曲で話題にはなったが学生に浸透する歌ではないし、何で彼が武田先生にに聞いたのか?
多分武田先生達「海援隊」は演歌をパロディーにした歌を歌ったから「コイツ、演歌知ってんのかな」と思って。
武田先生はポカンとした。
「あ、いや、知らなくていいんだ、知らなくていいんだ」
だってそんなもの、ライバルにチューリップがいて、井上陽水なんかとやっとお付き合いが始まって吉田拓郎の前座をやって、岡林信康をやっている武田先生が何で三波春夫だよ?
音楽的に誰の影響受けましたか?「ジョンレノンです」とかと言えばいい。
三波春夫は嫌だ。
それで彼の前でも「『俵星玄蕃』は知ら無ぇなぁ・・・」という。
でもソイツは一言言った。
「俺、あれ聞くと泣けるんだよ」
一瞬「こいつバカじゃ無ぇか」と思った。
過激派の学生をやりながら「『俵星玄蕃』忠臣蔵聞いて泣く?それこそナンセンスじゃん、保守じゃん」。
でもソイツが言った「俺、何でか泣けるんだよ」というのが武田鉄矢、ニ十歳だった。
ずっと胸の中に残っていた。
歳月は流れる。
その後、武田先生にもいろんなことがあって、東京に出て行ったりして歌謡界の紅白歌合戦の舞台袖でその「俵星玄蕃」の三波春夫さんとすれ違ったこともあったが、「ジョン・レノンの影響受けてるもんで」という顔をして生きてきた。

ところがある日のテレビの中で、その夜のことを思い出した事件が起こる。
これが2024年1月25日。
49年間、逃亡し続けたという「桐島」という元過激派の男が、何と切ないことに「死ぬ時は本名で死にたい」ということで自首して名乗り出た。
桐島聡容疑者と特定、DNA型鑑定で 指名手配犯を名乗り死亡の男性 - BBCニュース
大変申し訳ないが指名手配の桐島に、その「『俵星玄蕃』を聞くと涙が出て来る」というヤツの風貌が似ている。
黒縁のメガネのせいかも知れないが。
ただ皆さん、正直に言うが桐島という男をかばうつもりも何もない。
学生運動をやっているヤツに、ああいう顔をしたヤツがいっぱいいた。
誰でもあの時代、1970年、反米を唱えたりすれば、武装闘争となれば、ああいう顔立ちの男どもが、もう殆ど隣にいた男達が夢中でやっていたということだけは間違い無い。
それで桐島が50年間潜伏した。
その男の情報が入ってくる中で、音楽が好きだったようだ。
それが何となく彼を思い出した。
ダブった。
桐島も恐らく「泣けてくる一曲」があの時代の青年であったのなら、あったのではないだろうか?と。
長編歌謡浪曲ではないかも知れないが。
このあたりから「左翼運動に夢中になりながら何故ゆえに赤穂浪士の一人の人のことを歌った『俵星玄蕃』に泣ける要素があったのかなぁ?」という。
それが内田先生のあの言葉。
アルベールカミュの「反抗的人間」。

「人が死ぬことを受け入れ、時に反抗のうちに死ぬのは、それが自分個人の運命を超える『善きもの』のためだと信じているからである。(19頁)

ある限度を超えた瞬間に人々は反抗の為に命を投げ出すことができる。
そこが重なる
もの凄く飛躍するが「長編歌謡浪曲 元禄名槍譜 俵星玄蕃」。
この中にはアルベール・カミュが言った「限度を超えた非道に対する反抗」があるのではないだろうか?
学生運動、70年代左翼運動をやっていた青年が「なぜか泣けるんだよね」と言ったのは実はここなのではないか?
これは一瞬のうちに武田先生の頭の中で繋がった。

それで「俵星玄蕃」を調べた。
「仮名手本忠臣蔵」という歌舞伎の出し物があるが、仮名手本忠臣蔵は大石内蔵助をセンターにした四十七士の物語。
この「元禄名槍譜 俵星玄蕃」はセンターではない。
端っこにいるヤツを主役に取り上げた。
これが蕎麦屋。
杉野十平次という手槍の名人、短い槍を使うと上手という、それが吉良家の内情を探る為に夜鳴き蕎麦屋の恰好をしている。
その夜鳴き蕎麦屋が、身の動かし方で侍が臭う。
それで吉良の屋敷のすぐそばに俵星玄蕃の槍の道場がある。
そこから槍を稽古する物音を聞くと覗いてしまう。
ある日のこと、蕎麦屋がジーッと見ていることに気付いた俵星がフッと思ったのは「コイツ、蕎麦屋じゃない」。
「赤穂の浪士達が敵討ちに討って出るのではないだろうか?」という噂があって、俵星は直感的に「コイツ、赤穂の侍、浪人者かも知れない」。
それである夜のこと、この夜鳴き蕎麦屋を呼ぶ。
これは講談にあるのだが、俵星玄蕃は弟子なんか殆どいない。
道場はあるのだが教えを乞う人がいないので、何と道場を博打場に改装してレンタル料を取って生きている。
それでヤクザ者が集まって皆でそこで賭場を楽しんでいるのだが、そいつらが「先生、先生!腹減っちゃった」と言うものだから、蕎麦屋を呼んで蕎麦を差し入れさせる。
そうしたら蕎麦屋はかいがいしく蕎麦を用意するのだが俵星はフッと思いが湧いたのだろう。
そのヤクザ者のお客に向かって「オイ!悪いが今日は帰ってくれ。今日は帰ってくれ!」と言いながら追い出してしまう。
それで二人きりになった瞬間に「お前には用の無いことかも知れぬが、いつか役に立つやも知れぬ。見ておれよ」と言いながら俵星流の奥義を見せるという。

三波春夫さんの長編歌謡浪曲「俵星玄蕃」。
これを語っている。
70年代の学生運動から2024年の潜伏し続けた過激派の話まで入り乱れているがこういうこと。
これは内田先生の言葉を借りる。

 すべての人間は不完全であり、邪悪であり、嘘つきであるという命題は原理的には正しい。けれども、人間の不完全さや、邪悪さや、不実には個人差があり、程度の差がある。そして、人間を衝き動かすのは、しばしば「原理の問題」ではなく「程度の問題」なのである。
 私たちは今ウクライナとロシアの戦いにおいて、「程度の問題」がどれほど現実的変成力を持ち得るのかを見つめている。ウクライナがロシアより「政治的により正しい国」であるがゆえにこの戦争に敗けなかったという歴史的事実にできることなら私は立ち会いたいと思っている。
(34頁)

この「程度の問題」という言葉がいい。
まことに申し訳ないが、ロシアは何に見えるか?
弱い者いじめに見える。
それはその中東問題もそう。
いろいろ原理とか政治とか宗教の問題もあるだろう。
しかし内田先生の言う通り「程度の問題」。
あまりにも「程度」がひどすぎる。
それで我々の感情は本当に申し訳ないが「ロシア憎し」「ウクライナ哀れ」。
「ガザの人々の哀れ」「イスラエル憎し」になってしまう。
この精神こそ実は「吉良憎し」「赤穂哀れ」。
これが実は俵星玄蕃の中に通底する音として入っている。
これはやはり将軍綱吉の失政。
片一方の吉良に対してはおかまい無しで、浅野家は切腹で断絶だから、潰したワケだから。
江戸の市民が彼等に喝采を送ったのは「やり過ぎだよ。そりゃあ松の廊下で酷いことしたかも知んないけど、切腹させといて城まで潰すのか。大石っていう家老は必至にあちこち頭下げてお家再興をって願い出るらしいけど、全部足蹴にしてるらしいじゃ無ぇか。それで何人かの赤穂浪士が切り込むらしいぜ。仇討ちするって言ってるらしいぜ」。
そっくり。
つまり我々の遺伝子の中にあるものは俵星玄蕃に反応している。
昨日も言った通り、俵星はその蕎麦屋に甲斐は無いと思いつつも、俵星は俵星流の奥義を見せてやる。
目に浮かぶ。
そうしたら舞台の中にあるのだが、その蕎麦屋が正座して俵星流の槍の動かし方を見ている。
そのフッと俵星が気付くとそのあたり蕎麦屋の十平次(番組で「ジュウスケ」と言っているようだが、おそらく十平次)というのが涙をポロポロ流しながら見ている。
もう間違いない。
蕎麦屋ではない。
それで思わず俵星は「オメェ侍だな」と訊こうとする。
それを三波は浪花節でこう歌う。
(本放送では「俵星玄蕃」の一部が流れるがポッドキャストでは無音なので、何が何だかわからない構成になっている)



涙をためて振り返る
そば屋の姿を呼びとめて
せめて名前を聞かせろよと
口まで出たがそうじゃない云わぬが花よ人生は
逢うて別れる運命とか
思い直して俵星
独りしみじみ呑みながら
時を過ごした真夜中に
心隅田の川風を
流れてひびく勇ましさ
一打ち二打ち三流れ
あれは確かに確かにあれは
山鹿流儀の陣太鼓
(三波春夫「俵星玄蕃」)

泣ける。
俵星玄蕃さんというのは実際にいた人ではない。
全部作り話。
お蕎麦屋さんは、その手の密偵行為はやったらしい。
でも何で泣けるか、何で根も葉もない話をこれほどの熱量を持って三波春夫は演じたか。
それは宿題で置いておく。

無我夢中で話しているが水谷譲に問題。
陣太鼓を聞いただけで俵星が興奮した。
何で太鼓を聞いたら興奮したのか?
太鼓の音で俵星はこの瞬間「命を捨ててもいい」と思った。
太鼓は討ち入りの合図だが、流儀があって「山鹿流儀の陣太鼓」と言っている。
山鹿流じゃないと感動していない。
これは武田先生の考え。
陣太鼓を叩くのは合戦の時の太鼓の音。
進軍ラッパ。
つまり大石は小さなスケールの敵討ちではなくて、赤穂家と吉良家の合戦として討ち入りを強行したという。
これは残っている資料だが、数字にそんなに間違いはないと思うが総勢で47人。
一人抜けてしまった人がいる。
死ななかった人がいるのだが、それはまた隠れた話なので別個に話すが47人で討ち入った。
対する吉良方は用心棒も含めて200人近かったらしい。
これはやっぱり命懸けで。
俵星が飛び込んでゆくのだが、有名な下り。
大石内蔵助を見つけて「命を賭けてもかまわない」と言いながら俵星が申し出ても

されども此処は此のままに、
槍を納めて御引上げ下さるならば有難し、
(「俵星玄蕃」三波春夫)

「サポートは必要無い」と言う。
なぜ断ったか。
大石が覚悟しているのは「全員この後死ぬんだ。この討ち入りを、絶対に江戸幕府が許さない」。
それともう一つ、赤穂浪士だけでやらないと赤穂藩と吉良家の戦いにならない。
「敵討ちじゃないんだ。名誉を賭けた戦いなんだ」
こだわる。
そしてあの名場面。
雪の場面、武田先生がよくやるヤツ。

『先生』『おうッ、そば屋か』(三波春夫「俵星玄蕃」)

いい。
でも反抗的人間、どこかで反抗を開始した人間達。
70年代に評判になったアルベール・カミュが言った「反抗的人間」の中の理屈を日本人は元禄の頃に既に理解していた。
カミュと内田樹さんと赤穂浪士が繋がるというのが凄いなと思う水谷譲。
繋げてしまう。
武田先生の頭は花火みたいに一個火を点けるとブワーッと横に広がっていく。
でも水谷譲は笑うが、赤穂浪士はやはり日本人の心象の中で凄く深く喰い込んでいるように思う。
これは作った方に訊いたことが無いので、あまり自信を持って言えないのだが、水谷譲にも話したことがある。
AKBは48人、乃木坂は46人。
「47」だけ避ける。
これはやはり「赤穂浪士」というタブーがあるからではないか?
そういう意味では現代の芸能界のいわゆる少女アイドルグループの人数を赤穂浪士というものがストッパーでかかっている。
本当はどうなのかを訊いてみたい水谷譲。
想像している方が楽しいので訊かない方がいい武田先生
何か我々は深いところで遠い昔の記憶みたいなものに凄く行動を操られている時がある。
赤穂浪士がこれだけドラマになって歌舞伎になって、本当に日本人は何でこんなに赤穂浪士が好きなんだろう?というのを昔から思っていた水谷譲。
やはり日本人のどこかの心象をしっかりつかまえているところがあって、それは内田さんが近代的な言葉で「それは思想でもなければ哲学でもない。程度の問題だ」。
その「程度」というのが日本人を酷く深く納得させるからではないだろうか?

そして最後に向けてだが、一種異様な三波春夫の俵星玄蕃に寄せる熱量は一体何だろうか?
10分ぐらいある。
見えるが如く彼は語り演ずる。
講談も入っているし浪曲もある、演歌もある。
民謡っぽいところもある。
武田先生が思うのは三波さんは「大きな戦争で日本は負けました。300万人もの死者が出た。それで日本は変わりました。でも変わらないところもあります」。
それが俵星玄蕃をあの熱量で、テンションで語らせた彼の思いがあるのではないか。
そういう意味で三波春夫という人は負けた日本の行く末を見ながら「日本がほんの僅かでも元気になるんだったら音頭でも『(世界の国から)こんにちは』でも何でも歌うぜ」という、そいう歌手の生き方をなさったのではないだろうかな?という。



三波春夫さんの長編歌謡浪曲を聞きながら今の武田説を12月14日、赤穂浪士が討ち入った時間にやろうという(企画を今)進行している。
今回はダイジェストでお送りしたが、凄まじい分量がある。
「俵星玄蕃」、武田先生のアイディアなのだが、日本人の深い心象を捉えて離さないこの物語をもう一度点検してはいかがかな?という提案。