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2019年05月19日

2019年2月25日〜3月1日◆損する顔、得する顔

損する顔 得する顔



これはもう本当にそう思う。
「人間には得する顔と損する顔がある」という。
おばさんがしゃあしゃあと顔について意見を述べている時「バかぁ!」と言いながら。
どの事件かは言わないが刑務所の中に入っているのにまだ人を騙そうとして、もう一回刑務所の中で逮捕されたなんていう。
特に沖縄から出てきているから「純朴なヤツだ」と思ってしまう。
テレビ番組をやって。
それが株式で人を騙しておいて。
武田先生が大好きなタレントさんに手を出したりなんかしたアイツ。
でも顔はいわゆる「ハンサム」。
街の声のおばさん「まあぁ〜!イケメンなんだから惜しいわよ!」。
まだ「イケメン」て言うかよ!
繰り返すが「イケメン」というのはやめた方がいい。
「イケメンだから○○しても許される」みたいな免罪符っぽく使われる。
範疇から最初から外れている武田先生。
今は別の境地だが、半生はこの顔の誤解を解くために。

テレビ番組のバラエティが調べてくれて、ある心理学者から言われた。
バラエティの番組か何かで打ち合わせをやる。
話を聞いてくれる人の体を触る武田先生。
パン!と肩を叩いたり。
相手の体を触りたがるというのは「お願い、ボクを誤解しないで」という願い。
「もっとお近づきになりたい」とかというのを、自分の印象が悪いからぼてぃランゲージで懸命に。
そういうところがある武田先生。

武田先生の体験。
高校二年生で柔道部でごっつい顔つきをしていた。
教室にカバンを置いて部活に行っていた。
部活が終わって二時間ばかりやって、カバンを取りに帰るというのが習慣で。
柔道着を脱いで学生服に着替えて、高校の夕日の射す廊下を歩いていた。
体育館から出てきて、本館の方に入る曲がり角で「リンダ」というニックネームの女の子とぶつかりそうになった。
この子はちょっと「山本リンダに似てる」という。
今でも覚えているが、放課後の廊下でお互いに人がいるとは思わず、ふっと曲がりかけた瞬間にぶつかりそうになった。
誰も他にはいない。
このリンダさん「うわあぁぁぁぁぁぁ〜!」と言った。
女の子の悲鳴もいろいろある。
「嫌っ!」とか。
違う。
「うわあぁぁぁぁぁぁ〜!」と言いながら。
武田鉄矢17歳。
ヘコむ。
その人が近眼だったというのもあるかも知れないが、そこまで声を出すか?
そういうことで自分の顔立ちというのにすっかり自信をなくし「顔がバケモンで悪かったね!」とかと言いながら結構傷ついていた。
トラウマになる。
高2の時のニックネームは「バルタン星人」。
シノダというのが付けた。
「武田。やってくれ、バルタン星人」
「フォ〜ッフォッフォッフォッフォッ」と言いながらやるとクラス中にはウケていたが本当はやりたくなかった。
武田先生のニックネームは「バケモン」だった。

2005年に「サイエンス」誌に掲載された、米国プリンストン大学の学生を対象とした研究によれば、候補者の顔への瞬時の判断で、選挙の当落を予想できるというのです。−中略−学生が見た目から有能と判断した側が、70%の確率で当選していたことがわかりました。−中略−基本は顔を見せる時間は1秒以下であるということ、しかも実際の判断はその10分の1秒でじゅうぶんで、その他の時間は自分の判断の確信を高めるだけというのです。(70〜71頁)

とにかく「印象」。
その印象から「信頼性」。
そして「支配性」。
この二つが選ばれる条件。
こういうものにも大衆は騙されて、コロッと付いていくと言う。

様々な顔がある。
例えばジョージ・クルーニー。
ハンサム。
小っちゃいカップでコーヒーを飲んでいるのがカッコいい。
そういうのがある。
ジョジー・クルーニーが小さいカップでエスプレッソを飲んでいる。
タバコを吸っているのはもう今はあまり流行らないが「カッコいいなぁ」と思った。
昔、スティーブ・マックイーンがいた。
この人がタバコを吸うのがカッコいい。
口を覆うような感じで吸う。
指が長いのとガタイがあるからタバコが細く見える。
そのへんがタバコと体形のバランスがいい。
武田先生は手は短いしずんぐりしているのでタバコを吸うと吹き矢を吹くような感じで(という謙遜)。

少し古いですが、映画『男はつらいよ』シリーズの主人公、寅さんの顔をしげしげと眺めると、到底男前とはいえないその造作にもかかわらず、いつまでも多くの人から愛され続けるキャラクターとして存在してます。(97〜98頁)

 寅さんの顔を思い出すとき、あの独特の笑顔が思い浮かぶのではないでしょうか。(100頁)

日本の俳優の遠藤憲一さんもそうでしょう。(102頁)

(遠藤憲一さんは)強面。
あの人もズボンばっかり上げている。
一回だけ共演したことがある武田先生。
お顔はやっぱり悪党面と言うか「ケンカでもしたのか?」というような顔をしてらっしゃる。
でもあの人もあの顔で好感度がグングン。
CM出演が多い。

人の顔は骨格ではなくで、よく見せる表情で記憶されることがわかっていますが、さらにこのギャップがより強い印象を残すのです。(100頁)

人は社会で生きている。
その社会で人と人との接点は「顔」「表情」。

 この社会脳は、実は複数の脳の働きの集合体です。顔を見ること、共感、否定的な感情の判断、他人の心の動きの理解、模倣に分かれるのです。この中に、相手の動作を思わずまねてしまう「模倣」が含まれていることが重要なポイントで、意図せずに思わずまねてしまうという行動が、社会脳の基本の一つなのです。(122頁)

模倣は無意識の行動なので、一つの顔は社会全体の表情でもある、という。
だから雑踏に入って、だいたい人々の表情の平均値を取れば、どこかに統計でお願いするよりは平均値は簡単に取れる。

武田先生はいつも思う。
「社会全体をどこで感じるか」というと、新幹線の乗り降りで感じる。
新幹線の乗り降りでたくさんの旅行客の方が武田先生の後ろから追い越し、あるいは正面から。
その表情を見ているとだいたいわかる。
人間が動いているのは、お金がものすごい勢いで流れているワケだから。
所詮、経済なんていうのは「流れ」。
不景気というのは流れが悪くなるワケだから澱んでくる。
でも東京駅の人の流れを見ていると(人が多い)。
プラス、あの駅弁を買うお店がある。
あそこはすごい。
本当に堤防が決壊したがごとく、バァッ!とあそこの店に人が入っていって。
それでもう、みんなお金を払いたくてたまらず、ズラーッと列。
皆一個だけじゃなくて二個も三個も。

 信用ならない人の顔を記憶する際には、記憶にかかわる海馬という部位だけだでなく、人物の否定的な情報や不快感や恐怖といった感情に関与する島皮質と呼ばれる部位がかかわっていることがわかったのです。この脳の仕組みによって、悪い印象を持たせる顔は、そうでない顔と比べて、記憶されやすくなります。(130頁)

刑事ものなんかでおまわりさんが「こんな男を見かけませんでした?」と言ったらその人が「あります!あれは7日の夕方・・・」とかと言いながら語り出す。
あれは明らかに「悪いファイル」を選んだ、という顔。
いい人について語る時は「そんなふうには見えなかったですよ?」「挨拶すると『こんばんは』って明るい声でおっしゃる方でして」。
何か「箱」が違う。
だから悪い人のことを尋ねられると引き出しの開け方が乱暴で「えーっと!」とかという。
脳の住む場所が違う。

 否定的な感情だけでなく、快感情も顔の記憶を活性化させる効果があります。ただしそのときに働く脳の領域は変わります。記憶にかかわる海馬といっしょに、金銭的な報酬をもらうときに活動する、前頭葉にある眼窩前頭皮質が働くのです。(130頁)

これは面白いもので日本人は特に笑顔が好き。
笑顔が特に深く記憶に残る、という。
そんなに派手な顔じゃなくて、印象のある顔じゃない人なのだが二回目に会った時にその人の笑顔を見て「あ、この前会った人だ」とわかるというのはやっぱり「笑顔」なんだなと思う水谷譲。

そして国によって顔の印象、人の表情。
どこをまず見るかが違う。
大雑把な分け方だが、欧米は口元を見る。
欧米は口元の表情を特に印象に残す。
だから銀行強盗はマスクをする。
アジアはどうかと言うと、風邪をひいたらアジア人というのはすぐマスクをする。

マスク姿は欧米人には忌避されるからです。(145頁)

だから日本の黒いマスクとか気持ち悪い。
よく中国とか韓国の方がやってらっしゃると思う水谷譲。
絵柄の付いたヤツ。
あれ「気持ち悪いなぁ」とかと思っている。
これとは反対にマイケル・ジャクソンがレーガン大統領と会った時にサングラスをしていた。
あれはドキッとする。
人前で、あるいは年上の人を前にしてサングラスをしているということは、日本ではこれは失礼になる。
だから国民の間でどこを見るか、表情のどこを一番に記憶するかというのは、それぞれ違う。

生後7カ月から日本人の赤ちゃんは東アジア人らしく目元を見る一方で、イギリスの実験室でのイギリス人の赤ちゃんは欧米人らしく口元をよく見ることがわかったのです。(142頁)

是非どこかの街角で。
東京オリンピックもあるので。
赤ん坊を東洋、西洋、すれ違う時にそれぞれ見てください。
日本んの赤ん坊は目を見ている。

日本には「顔隠し」の文化があると主張する研究者がいます。平安時代の日本女性は、扇子で顔を隠していたこともありました。
 扇子で隠すのは、主に口元です。口元を隠すことは今も続き、日本女性は笑うときに口元を隠すことがあります。
(144頁)

アラブではベールで目だけを見せるというスタイルで。
これらはすべて目に表情を読ませる、という他者への誘導。
だから「私の目を見て!これが本音よ!」とか。
そういう複雑な会話を目で。
「目は口ほどにものを言う」というヤツ。
よく時代劇なんかである。
「助さんなんか大嫌いよぉ!」とかと言いながら相手をにらんでいくと「嫌いじゃなくて惚れてるな」というのがわかるという。
こういう心理というのが文化的に居ついている、という。

目というのは面白い。
今のドラマを作っている方、ちょっと聞いてください。
目というものは、はっきり言ってそれくらい意味を持つが、近づきすぎると意味を失う。
『シン・ゴジラ』

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監督は庵野(秀明)さん。
寄り過ぎ。
長谷川(博己)くんの目元とか、ライバルの目元とか。
あれは映画は抜群なのだが、何であんなに目に寄るの?
あの人は目にこめられた意味そのものを、クローズアップで目をポン!
NHKの大河ドラマでも目に寄り過ぎ。
『西郷どん』でも。

大河ドラマ 西郷どん 総集編 [DVD]



最近の若い演出家の人は目に寄っとけば心理描写が出来てると思う。
あれは私達年寄りから言うと、目の内側にこめられた心理よりも「この人は充血してんなー」とか「白目んとこに黒点あるなー」とか眼病の先生みたいに目を診断してしまう。
このへん、目というのは距離が非常に大事で近づきすぎるとだたの臓器。
耳の穴のクローズアップなんか映されて「聞いてる?」って、そんな表現をされても困る。

(目は)口の中に普段隠しているベロと同じ種類のもので。
何か動揺したからといってベロのクローズアップは撮らない。
ベロにはベロの写し方というものが。
喉ちんこのクローズアップとかは嫌。
目のアップというのはそれと同じ。
何であんなに(目のクローズアップに)こだわられるのかがわからない。
「意味を帯びて私を見てるな」という距離がある。
おじぎ。
おじぎをして顔を上げた瞬間の距離感。
これが一番「目」の表情がわかる距離感。
武田先生と水谷譲がいまいる距離感。
約1m30cm。
これがあと20cm近づけば水谷譲の目にこめられた意味を武田先生は汲み取ることができる。
目にこめられた表情を見るためには、この距離が絶対必要。
だから近寄ってきて握手をするとわからない。
だから武田先生は握手がダメ。
道を歩いていて「握手!」とかという人がいるが、握手をしてしまうと何も伝わらない。
だから選挙の時、立候補した人はみんな握手している。
あんなのは(武田先生のご自宅の)近くに住んでいる世田谷上町の犬だったら武田先生に向かってあれぐらいはみんなする。
今日もエサをやってきた。
裏木戸を開けて「アレックス、生きてるか!」。
そいつが顔をあげて出てくる。
「おぉ、武田来たー」と言いながら。
それでエサをやって帰っていく。
「奥さん閉めときますねー」と言いながら。
古い人間だから、庵野さんみたいな新しい演出家の方の演出技法は知らないが、人間の表情をとらえるキャメラと俳優さんの距離が一番わかりやすいのは山田洋次監督。
山田洋次監督のあの人物を映す画角というのが一番ピッタリくる。
むやみに近寄って来ない。
そういう映画の見方。

幸福の黄色いハンカチ デジタルリマスター2010



ラストシーン。
下の方で倍賞(千恵子)さんと(高倉)健さんが抱き合っていた。
東映の任侠ものの逆。
東映の任侠ものはラストに近くなると健さんに寄る。
松竹・山田洋次は主役からグングン離れていく。
日本人は離れれば離れるほど、深く感じる。
寄れば寄るほどわからなくなる。
だからむやみに斬られた小次郎の目に寄ったりしない。
あれはバァーン!と引いて、二人を大きい画面で捉えて、ゆっくり小次郎が倒れていくところに「勝負あった」というようなものを感じる。

握手の際には初対面からしっかり目と目を合わせるのですが、これは見知らぬ人と目を合わせることが少ない日本人にとっては気疲れすることもあります。−中略−東アジア人は表情を読むときは目を見、初対面の人の顔を記憶しようとするときは目をそらすのです。さらに日本人をよく知る認知科学系の研究者の間では、日本人ならば、ネクタイのあたりばかりを見るのではないかといわれているほど、日本人は相手の目を見つめて話すのが苦手です。(147〜148頁)

恋愛もそう。
これはちょっと山田イズムに捉われているかも知れないが、山田さんが誰かを演出なさっている時におっしゃったのだが、その人が相手の心を見るために顔を見たがるというのがある。
山田さんが「日本人はね、大事な話をする時は目を見ないんですよ!自分のことを考えてみてください。日本人はね、プロポーズする時にしゃがんで目なんか見ませんよ」。
じゃあ、どうやってやるか。
それはその人と同じ方角を見ながら、顔を見られないように本当のことを言い出す。
並ぶ。
そうするとジィーンとくる、という。
「今から一緒の方向を見て歩くんだよー」みたいな。
「それが日本人の愛情表現だ」という。
これほど知っていながら最近ほとんどドラマの仕事がないというこの悲しさ。

「人間には得する顔と損する顔がある」という。
本当にそう思う。
特に男性の方は「女性の好み」という淘汰がある。

 実験の結果、イギリス人では顎から男性を判断しているのに対し、日本人は顎とともに太い眉で判断していることがわかったのです。(176頁)

(本によると、顔のどのパーツで男女を見分けているかという実験なのだが、番組では「女性がどのパーツに惹かれるか」という話になっている)

昔、母から言われたことがある水谷譲。
「男の人を見る時にまず眉毛を見なさい」
何でかというと「女たらしの人というのは眉毛が下がっているから、それでわかるわよ」と言われたことがある。

 2000年代にイギリスと日本で、平均男性の顔を、女性らしく、あるいは男性らしく加工して、女性に評価させた研究があります。その結果は他の生物とは異なり、日本でもイギリスでも、女性っぽい男性の顔のほうが好きというものでした。(177頁) 

街の声(番組の本題の前に街頭インタビューの音声が流れるのだが、その中の話かと思われる)が言っていたその人もそうだろう。
DaiGo(メンタリストの方の)さんというのも細い人なのではないか?
健さんぽい顔立ちの人はいない。
高倉健、若き日の長嶋茂雄。
ああいうのが男性の憧れる男性の眉。

76%の人で微笑みは右側に強く表出されるというデータがあるのです。(179〜180頁)

顔を見るときに働く脳の部位は、脳の右側にあるからです。ややこしいことに、左右の脳には、目の前の視野の反対側の映像がそれぞれ入るのです。(180頁)

つまり相手の右側を見ればいい。
だからやっぱり見る。
こっち側(相手の顔の右側)を武田先生も見ている。
右と左で表情の出方が違う。
だから(演技で)悪い人(の役)をやる時は顔の左右対称性を消せばいい。
どっちかが歪むというか大きく出ると「悪い顔」に見える。
「ひょっとこ」ももしかしたらそうかもしれない。
右側が曲がっているのかも知れない。
そんなふうにして左右を違えて、なるべく右側に自分の本性が出るように人間は動く、という。
だからみなさんも右側の顔というのを自分で意識なさってくださいね。

そしていろいろ国際的にももめているし、共同歩調が何十年やってもとれないという隣国二つと共に生きている。
半島の国、二つある。
日本、韓国、朝鮮、中国。
ここについて顔つきに関する美の基準がそれぞれ違う。
武田先生が年齢的についていけないのは韓国の整形天国。
あそこはもう、大統領でさえも整形を自らおやりになるという。
今度の大統領もおやりになっているのだろう。
異様なほど笑顔が左右対称の大統領。
あの方の笑顔は本当に「全方展開の笑顔」と言うか、左右対称性の強い笑顔。
でも日本はあんまり整形のことを歓迎しない。
これはネットなんかで悪口を言う時は「イジってる」とかというのはちょっと黒い方の言葉。
日本という国については整形についてはまだまだかなり抵抗がある、という。

中国の方はと言うと、お化粧と共に「輸入国」。
化粧品に関しては、日本に春節にドーン!と来られた。
店ごと買っていくというような勢い。
福岡の街をうろつくともう一発でわかる。
福岡はこの韓国、中国がものすごくわかりやすい街。
韓国の人はどこでわかるかというと口紅。
真っ赤。
それから中国の方は服装。
真緑の服を着ておいてネッカチーフが赤いとか。
統一されないという統一美。
何かそんな感じ。
何か「クリスマスか?」みたいな。
福岡の子はモノ(トーン)が多い。
武田先生は博多に帰るとやっぱり「博多の子」がわかる。
身に付けるものはあまりたくさん持っていない。
そんなのがある。

顔に関しても日本、韓国、朝鮮、中国。
それぞれ何か美意識があるようで。
北朝鮮の方は肌がきれいだということをおっしゃっていた。


posted by ひと at 10:49| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年04月09日

2019年1月14〜25日◆漢字とアジア(後編)

これの続きです。

元の支配が弱まっていくなかで、それまでとは違った朝鮮的なるものが少しずつ生まれてくる。一三九二年には高麗が滅亡し、李成桂(一三三五−一四〇八)が朝鮮王朝を建国します。いわゆる李氏朝鮮(一三九二−一八九七・一九一〇)はここからはじまります。そして一四四三年にハングルが生まれます。(158頁)

漢字を捨てて韓国・朝鮮はハングルだが。
ただし、住んでらっしゃる方はどう思ってらっしゃるのか。

今でこそハングルと呼ばれていますが、つくられた当初から永く「諺文」といわれつづけてきました。−中略−当時においっては、「諺文」は下々の使うもので、インテリは使わなかったのです。(159頁)

 まず基本的には、ハングルはアルファベットと同じような「音素文字」です。つくられた当時は子音字一七、母音字一一の計二八字−中略−これらの音節文字をひとつあるいはいくつか並べることによって単語をつくっていきます。(166頁)

わずか28字を覚えれば意味はわからずとも読める。
これは文字の中に発音まで書いてある。

例えば漢字で四文字熟語。
「弱肉強食」「焼肉定食」等々の四文字熟語があるが「国際文化」これを文字にすると。

국제문화

発音してみると「クッチェムンホア」となります。(167頁)

日本との違い。
ハングルは日本のカタカナに近く、ひらがなではない。
ひらがなでくずすと「くに」と続けて書ける。
「国家」の「国」という字は草書では書ける。
ハングルに草書はない。
だから「ク」「ニ」とカタカナで書くのと同じ。
だから言葉が増えてくると重なる文字がいっぱいある。
韓国・朝鮮を支配している言語は「音」。
私達は漢字の意味を言葉にしている。
ハングルはというと、その漢字の意味ある言葉を捨てて音しかないワケで。
「味の素」と言っても、何を言っているのか全然わからない。
「アジノモト?」と言う。
文字の世界に住んでいると例えようがない。

例えばお子さんをアナタが産むとする。
「うつくしい」という漢字をその子に付けるとする。
「美」
「ミ」にする。
「ミ」と言えば日本語では「見」「実」「三」「巳」「未」。
様々な「ミ」がそこにはあるワケで「ミ」という音を聞くたびに「どの『ミ』かな?」と思う。
韓国では「ミ」は一つしかない。
例えばわかりやすく言うと、女子ゴルフの選手で「イ・ボミ」という人がいる。
ハングルで簡単に他の人と重なってしまう。
イ・ボミさんのことではないが、韓国の女子プロゴルファーの世界に5人同じ名前の人がいる。
仮に「イ・ボミ」とする。
「イ・ボミ」が5人いる。
たった20数音しかないのだから、音は重なる。
困った韓国女子プロゴルフ協会はどうしたかというと「数字で呼ぼう」。
「イ・ボミ1号」「イ・ボミ2号」「イ・ボミ3号」「イ・ボミ4号」
時々女子プロゴルファーのテレビ中継を見てください。
名前の一番最後に番号がふってらっしゃる方がいらっしゃる。
本当に実在する。
その人は「○○5号」だった。

武田先生がラジオで呼びかけるというので「オマエは何考えてんだ」とお思いになられている方もいらっしゃると思う。
「この放送を聞いてらっしゃるスパイの方」
何であんなことを言うのか?
これは昔読んだ本の中。
日本は情報管理、情報漏洩が頻繁で「ダダ漏れの国だ」という。
だからロシアも含めていろんな、北朝鮮の方なんかもスパイで、東京にいっぱい集まってらっしゃる、という。
この番組を聞いていたら面白い。
やっぱり必要な呼びかけの言葉だと思う。
放送の始まる時に「病気療養中の方も」という。
あれはTBSの大沢さんがよくおやりになった。
あれは「いい呼びかけだなぁ」と思った武田先生。
ラジオという文化に対して「病気療養中の方もぜひお聞きになってください」と大沢悠里という方が。
それと同じ気持ち。
「『三枚おろし』をお聞きの、スパイ活動をやってらっしゃる方もお聞きください」という。
母国のことでもまた思い出してもらえればいいし、という。
これをこの間うっかりテレビで喋って三浦瑠璃さんに怒られた。
東大出の政治学者。
それから外国の大学も卒業してらっしゃるのだろう。
顔つきからして違う。
でも何か気配は怪しげ。
「スパイてのも私、仕事だと思うんですよね。大変なお仕事で、ご家族もいらっしゃるだろうに」と番組で発言しちゃった。
だからスパイの方とかテロリストの方も安心して、いわゆる「観光のできる国、日本」。
(スパイは)独身とは限らない。
所帯持ちがいて「パパ!どっかの国、連れてって〜!今、スパイ日本でやってるんでしょ?行ってみたい、日本へ」とかと言ったら。
スパイはだいたい家族には内緒にしているという水谷譲。
それにしても子供が出張の多いお父さんにダダをこねる時はある。
子供だって(父親が)行ったきり帰ってこないのだから。
その時に日本に子供を連れてきて、日本を案内して歩く、という。
浅草とか。
それで飛び交う情報に関しては、もう日本の国力にすればいい。
「情報が流れ落ちる国」にすれば。
人間はどこかに息抜きする場所がないと人生疲れる。
それを三浦(瑠璃)さんの前で言ったのだが「それでは国はできません」と言われてしまった。
耳たぶを噛むような柔らかい発音で。
自分はコメンテーターに向いていないと思う武田先生。
鋭くとがったことを言えない。

武田先生の立ち位置を「面白い」と思う水谷譲。
何かがあっても必ず「俺、胸が大きくなる夢見ちゃったから、そういうの勉強し始めたんだ」という。
「哲学に必ず持っていこう」とする立ち位置は結構面白い。
40代の後半でおっぱいが大きくなる夢を見た武田先生。
それが立派。
乳輪、乳首とも真ピンク。
自分で吸いたくなるような。
しばらく手で揉んでみたのだが、手ごたえがいい。
パンパンに張っている。
「何で俺は乳房ができたのかな?」
その時に夢占いでユングをやったら「人を育てなさい」という深層心理からのメッセージが乳房に。
「その乳で若い人を育てなさい」
だから、それからわりと悪役でも引き受けるようになった。

正しい漢字を保有しているのは日本と台湾。
しかも漢字の発生に関して日本は白川静なる偉大なる博士も持っているワケで。
この石川先生はその漢字については、白川博士とはいささか違う見解。
石川博士の立場を探ってみましょう。
著者はある意味で日本も韓国も朝鮮もベトナムも元々は「中国にいた東アジア人だ」と。
「みんな中国人なんだ」と。
そんなふうに捉えた方が東洋史はわかりやすいですよ、と。
こうおっしゃっている。

神話に代わるものとして縄文が持ち出されるようになった。麗しい、素晴らしい縄文があった、と。青森県の三内丸山遺跡(小高い台地上の縄文時代集落遺跡)を見て、作家・司馬遼太郎さんは「世界に冠たる文明があった」と書いています。哲学者・梅原猛さんも三内丸山遺跡を激賞するわけです。縄文こそが日本のふるさとであり、古朝鮮にならっていえば「古日本があった」ということになります。(140頁)

縄文時代を研究されてきた小山修三さん(国立民族学博物館名誉教授)の説によると、縄文末期の孤島の人口は七万五〇〇〇人だったということです。−中略−ところが、古墳時代の末期になると孤島の人口は五四〇万人に激増するというのです。−中略−逆算して計算したところ、なんとこの間に一五〇万人もの人々が、半島や大陸から渡来しているという結果が出たというのです。(145頁)

つまりもうこの頃から外国人入管難民法は立派に日本を支配していて、陸続と働き手として日本にやってきたアジア人、中国人がいるんだ、と。
「その人たちが日本を作ったといって何が不適当な発言なんですか?」というのが石川博士の立場。

朝鮮には檀君神話があります。朝鮮の歴史は古朝鮮からはじまるといわれていますが(146頁)

古代に英雄がいて、古朝鮮、古い朝鮮をまとめたんだ、国を作ったんだ、としきりに伝説の王朝をドラマなんぞで言っているが本当かいな?
これはもうはっきりものの本に書いてある。

 伝説的な王朝の二つ目が、「箕子朝鮮」です。箕子公子を聖者としてつくりなおされたのです。春秋戦国時代の哲学者のひとりとして箕子を捉え、その聖者が朝鮮をつくったと考えるのです。箕子はどういう人かというと、これについては『史記』に触れられています。−中略−中国から遣わされて王になったのです。(147頁)

「だったら韓国・北朝鮮は元を正せば中国のもんですよ」と。
わかりやすくていい。
日本が中国から東アジアでは真っ先に離れていく。

 六六三年に日本が白村江で敗れたといいましたが、これが日本が独立する契機になりました。なぜか。それまで孤島は大陸あるいは半島と海つづきであったものが、この敗戦によって遮断されてしまったからです。(151頁)

日本はこの時に対馬を一番の果てとし、ここに防人を置いた。
防人。
防衛したことによって日本を作った。
日本を作ることによって政治的には中国を真似しても文化的には独立し、900年にはもうすでに朝鮮に先駆けること数百年。
ひらがなが生まれ、カタカナを発明し、文字としての独立を果たした、と。

 書でいえば、女手成立以前には空海をはじめとする三筆や最澄がいて、女手以後には小野道風・藤原佐理・藤原行成の三蹟がいます。(154頁)

中身は何かというと「王義之の草書、行書の模倣から始まっているんだ」と。
空海さんだって先生がいたんだ。
中国人・王義之という方であった。
その後に花札に出てくる小野道風。
それからひらがなが入り、書は和様というものを確立した、という。

7世紀、日本は国を閉ざし、9世紀ごろにはひらがなを生み、朝鮮半島は14世紀にハングルを生んだ。
そこで「続け」と言わんばかりにベトナムも続くワケだが。
その次に生まれた中国の大帝国が元帝国。
元寇の襲来。
朝鮮半島にあった国も元には散々な目に遭う。
元に命じられて「兵隊を出せ」とか「日本に攻めていけ」とか。
この元という外来の中国の支配者なのだが、この人たちが朝鮮に残したのが「焼肉」。
それまで「儒教の国」だから肉を喰わなかった。
儒教は肉食を嫌うから。
だけどやったのだろう。
焼肉パーティーを。
それで味を覚えちゃった。
それで元から教えてもらった焼肉が国民食になる。
元の残した肉の焼き方。
例の鉄板で焼くヤツ。
どんな形をしているか?

パール金属 グリル 焼肉 プルコギ グリル アルミ鋳物製 ふっ素樹脂加工 焼肉っ! HB-3555



モンゴル人が被っていたヘルメット。
あの中に火を下に入れて焼いて肉を喰った。
だから焼肉には支配されたモンゴルの兜の形が残っている。
面白い。

ベトナムの方々も中国周辺国として生き延びた民族。
ベトナム(越南)は漢字文化圏だった。

チューノム(字喃)という、いわゆる越南文字をつくることを通じて起こってきます。(220頁)

この石川先生がおっしゃるのだが「やっぱり、もうちょっとみんなクールになろうよ」と。
巨大な文明というのが中国で興った。
その中国に興った文明の余波、波で我々は出来上がった。
だから中国文明の一種。
血は同じなんだ、と。
名前からしてそうだ。
日本のことはどういう字を書くか?
「日の本」というのは「どこから見た風景か?」ということ。
中国から見ると日本は日の昇ってくる方角にあるという、方角を示しただけ。
それを日本は自分の国名にした。
「朝鮮」というのははっきりしている。
これは名付けた人が中国人。
中国の皇帝。
朝鮮の人が貰いに行っている。
「名前をください」
それで「朝鮮」という名前をもらって「ありがとうございます」と朝鮮の人はお礼を言った、という。
だから名付け親は中国人。
日本は中国から見た方角のことであって国名ではなかった。
それと同じようにベトナム。
「越南(えつなん)」
これも「越の南側にある国」という意味なので「位置」。
何もかにもの始まりは中国の漢字文明から私達は始まったんだ、と。
「素直に認めましょうぜ」というのが石川先生の言葉。
中華思想。
真ん中に光がある。
周辺は真っ暗。
私達は真っ暗な世界の蛮族、野蛮人。
中国の方からは「東のエビス」「東夷」と言われる。
元という国が興った時に、この元というのがあまりにも中国でも横暴なので、三者三様でケンカをする。
日本は外壁の地方である福岡辺りで何とか台風を活かして勝ちを拾う。
朝鮮はもういじめられる。
ベトナムは撃退する。
ずっと元と戦い続ける。

ベトナムはチューノムという独特の言語。

「一」は越南語で発音すると「モット」となるので、同じ「モット」と発音する「没」という字を使って「没(モット)」で「一」を表す。これは音借です。「二」は「𠄩(ハイ)」です。これは「台」と「二」、つまり「ハイ(台)」という越南語と、「二」という意味を組み合わせたものです。(226〜227頁)

「𠆳」は頭目を意味します。(228頁)

これはズバリ人が立っているからで。
上に人が立っているから、これで「指導する」の「指」になる。
かくのごとく日本でいう「国字」のような文字をどんどんつくっていって、自分たちの言語にする。
ところがこれもやめてしまう。
中国も頑張って広めてください。
実は漢字が理解できるとベトナム語は簡単。
ベトナムの言葉で「ありがとう」のことを「カンノン」と言う。
「カンノン」と若い人が漢字が書けたら、日本人はこの漢字だけで通じる。
「恩を感じる(感恩)」と書く。
それがベトナムの「ありがとう」。
フランスの支配とかあり、ベトナム戦争等々あり、異国に踏みにじられたベトナム人は嫌だったのだろう。

昔「サイゴン」、今「ホーチミン市」。
あそこに行って歌を歌ったことがある武田先生。
あそこの楽屋の絵を見ていたらゾウに乗ったベトナムの兵士が中国軍をやっつけている絵。

首都ハノイ。
あれも漢字で書くと「河内」と書く。
「河内」と書いてベトナム語で「ハノイ」と読む。
だから漢字さえできれば我々は深き心情を語り合える、アジア人同士になれる。

石川博士の主張というのをご披露している。
繰り返しになるが縄文文化を日本の始まりとしている学者諸君が多い。
しきりにそこから、さも今の国家が出来上がったように語っているが、これは誤りである。
アジア圏における文明の始まりはすべて秦の始皇帝の篆文による文字統一からアジアは始まったのである。
考えてもみよ。
縄文の日本の人口はわずか7万5千人程度。
それで文明、文化と言えるか?
これが弥生になると50万〜150万人が中国から渡来し、大和「倭」を作ったのである。
これが日本の始まりである。
朝鮮もまた中国文化の亜種であって、中国文化から見るとそれはアジアの一地方である。
日本語の原型をタミールやロシアの一部族のウラル・アルタイに求めるのは無意味で、日本語の大本は中国語であると考えるのが妥当だ、という。

そして石川先生はこうもおっしゃっている。
漢字の源泉たる3200年前の殷の甲骨文字。

 甲骨文字時代に貝が貨幣として流通していたのは「貨、賃、寶、財、資」等の文字から明らかですが、この貝は子安貝であり、この子安貝は琉球で採れる子安貝であるといわれています。これは白川静さんも書いておられます。そう簡単に言い切っていいのか疑問もないことはないのですが、少なくとも文字が誕生した頃に大陸と琉球とのあいだで子安貝を通じての交易があったようです。
 だとすれば、これは仮説にすぎませんが、文字以前の時代から、大陸と沖縄には結縄が、少なくとも沖縄にはあったと考えられます。
(291頁)

琉球が日本から取り込んだものはひらがなだけだ。
文化的には中国との結びつきが深いんだ、とこうおっしゃっている。
ちょっとこのへんがよく理解できない武田先生。
「アジアは中国が始めたんだ。認めようではないか」という。
しかし石川先生。
お言葉を返すようだが、たとえばヨーロッパにおいて彼らを侵略し支配したであろうローマ、あるいはギリシャに対してものすごい憧れがイギリスやアイルランドにもあるというのに、なぜ日本は、あるいは朝鮮は、あるいはベトナムは、唐や隋の文化、あの漢字を教えてくれた秦という大帝国に関して憧れがないのはなぜなのか?
特に日本は天神様の菅原道真から中国離脱の歴史。
千年。
仲良くしたいと願っているのは韓国だと思う。
朝鮮半島の半分の北朝鮮はやっぱり父のごとく中国を慕っているワケで。
今も韓国の支配者の方は日米なんかよりは遥かに中国の方が。
それは歴史的な血統が習近平さんに惹きつけられるのではないか?
でも日本は、そういう意味では本当に変な民族。
変であるというのを理屈ではなく感じつつ、胸に抱いておきましょう。

武田先生が一つ思うのは、日本が国としてまとまるのはどんな時かと考えると、外から攻められた時にこの国はまとまる。
この国をまとめるのは外敵と震災。
この時に日本人はもの凄い日本を感じる。
そこにこの国に生きる面白さとダイナミックがあるような気がする。

今、石川先生に向かって話している。
みなさんどうお思いになるか?
このへんは「武田流」なので、きっとここに三浦瑠璃さんは笑われると思うが。
静かに言われた。
観光客がまだ足りないそうだ。
「まだ少ないです・・・」
その時に三浦さんの中にあった言葉で、英語が話せないのは致命的らしい。
アジア圏の中でこんなに(英語が)下手なのは「いない」と。
韓国の方はタレントさんでもものすごく上手。
フィリピンの人、シンガポールの人、英語。
何でか?
ここはちょっと偏見に満ち溢れているから心静かに聞いてください。
英語がとても上手な人に対する、一種警戒心がある。
日常の会話の中で英単語がポンポン出てくる人に対して。
「ちょっとイラッとする」という水谷譲。
ちょっと熱いものに触ると「わ!Oops!」と言ったヤツがいる。

今回は言語というので、アジア圏というものをザァっと触れてみた。


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2019年1月14〜25日◆漢字とアジア(前編)

「漢字」と言えば、何となく武田先生のイメージが強い。
金八先生(『3年B組金八先生』)で多用していたというようなシーンを思い浮かべられる方もいらっしゃるだろう。
そして「漢字名誉博士」みたいな称号もいただいている武田先生。
白川静博士(漢文学者)。
「この方を演じてみたい」というのが武田先生の俳優としての夢。
「このお芝居のうちに死ぬなら死んでもいいな」と思うぐらい。
白川静博士を演じてみたいと夢見ている。
白川先生ばかりでは、意見は広く聞かないと。

「勤」
あれは甲骨文字を見るとひっくり返る。
祈りの箱の「サイ」を掲げた女が立ってている。
その女の足元には火が燃えている。
天に向かって「雨を降らせてください」という、生贄のために女が焼かれているという図が勤労感謝の「勤」。
(「サイ」は以下のようなもの。白川静氏が命名した甲骨文字。)
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この白川説に対していろいろ反論もある。
ちくま文庫から出ている文庫本。

漢字とアジア (ちくま文庫)


「白川静の他の意見を聞く」という意味合いでは非常に刺激的な本。
著者、石川先生、石川博士はこうおっしゃる。

 結論的にいえば、日本、中国、韓国・朝鮮、台湾、越南(ベトナム)が含まれるアジアというのは、単なる地理的な概念ではありません。「漢字文明圏」というかたちで括ることのできる歴史的、地理的、文化的な共通性を持つ地方です。(17頁)

アルファベット文化、アラビア文化。
それからインド文字の文化等々が世界にはあるが、それらと一線を画し、漢字世界というのが東アジア、アジア圏にある、と。
まことに残念なことながら、現在この漢字を使用しているのが日本と台湾のみ。
朝鮮・韓国、それからベトナムは漢字文化圏から離れていった。
この石川先生はもともと、中国、日本、韓国・朝鮮、台湾、ベトナム。
漢字が東アジアを支配していた。
そういう文明なんだ、と。
この石川先生なりの正しさだと思うが、もの凄い言い方をなさる。
日本、韓国・朝鮮、台湾、ベトナム。
これは正体は何か?
昔中国人だった。
「そのことをリアルに認めましょう」と。
文字がそうなんだから。
異論はあると思うが、石川先生はガバッと大づかみに。
(本の中にはそういう極端な表現では書かれていないが「東アジアは中国を中心とする非常に曖昧なグラデーションで繋がる地方であり、中国といわれている国も実のところはヨーロッパのように複数の国が寄り集まってできている」と書かれている)

 中国は多民族国家ということになっています。−中略−人口は約一四億で−中略−その九十数パーセントが漢族で、残り数パーセントを占めるのが少数民族で、その数は五五あるといわれています。(23〜24頁)

その13億の漢族が同じ言葉でまとまっているのが中国ではない。
そのことが結構驚きだった武田先生。
中国のみなさんは北京語が標準語でありながら、体験したことがある。
上海に行くと蘇州の「呉(ご)音」になる。
「呉」という国の発音になる。
福建に行くと「閩(びん)語」になる。
漢字の読みが「閩」という種族の言葉に変化する。
広東に行くと「粤(えつ)語」と言って「粤」なまりになる。
四川に行くと「客家(はっか)」のなまり。
その他、蒙古、ウイグル、チベット、満州、朝鮮、ヤオ、ミャオ族に分かれているので、13億といえども一言語で会話が通じるわけではない。
「北京語を習っても中国全部では通じない」「いろんな言葉がある」と聞くという水谷譲。
そのことをまず覚えておかなければならない。
この石川先生の資料はちょっと古いかも知れないので、数字は変化しているかも知れないが。
石川先生はその会話する言葉の違いをこんなふうにおっしゃっている。

浙江省の温州というところで、北京語を中心とした普通話(標準語)を使ってテレビやラジオなどで話すと、それを理解できる人は五パーセントしかおらず−中略−その範囲は六〇キロ圏域だけで、そのエリアを越えた人には温州語は通じないらしいという話が(25頁)

これぐらい中国は多言語国家。
中国を中華人民共和国たらしめているのは言葉ではなく「文字」「漢字」。
漢字は語形は変化しない。
労働党の「働」と書く。
「働」は変化しない。
英語だと「ワーク(work)」。
働く。
「ワークド(worked)」とか語形が変化する。
過去形になったり。
中国語は過去形がない。
過去完了形とか現在進行形とか、そういう変化を一切しない。
日本語もしない。
「過去の掴み方」がおおざっぱ。
英語では「have」を使って「have been」とか過去完了とか。
日本語は過去はもう「過去だ」でおしまい。
「しました」「(聞き取れなかった)た!」みたいな。
ちょっと話が広大すぎるかも知れないが、とにかくこの漢字というものからアジアというか考えていただければ、なかなか面白い視点が見えてくるように思う。

中国の方、申し訳ありません。
私達の耳にはあなた方の話している言葉というのは断言に満ち溢れ、主張する言葉。
「ワタシ、ラーメン喰いたいヨ!」
日常語に聞こえずに政治的スローガンを訴えるように聞こえてしまう、という。
響きが強い。
中国語は破裂音が世界中の言葉の中でも多い。
中国の方のおしゃべりが私達にはなんとなく相手を威圧するような強い響きに聞こえてしまうのは当然。
漢字をレンガのごとく積み上げて語る言語だから。
だからあの方々はズバリ言うと、毎日四文字熟語で話しているようなもの。
「弱肉強食」「旧態依然」「千客万来」「チュウガイキョクリツ(「局外中立」のことか?)」「相思相愛」「盆栽売店」「天網恢恢」「一体一路」「ファーウェーイ!(華為)」
この四文字熟語を速読みすると北京の街角の市場の賑わいに聞こえてくる。
「弱肉強食」「旧態依然」「千客万来」「チュウガイキョクリツ」「相思相愛」
聞こえてくる。
これは何でかというと四文字熟語がそうであるように、非常にロゴス的。
そう石川さんはおっしゃる。
これはわかりやすい。
そういう意味で漢字における文明というのは、ご本人たちもだんだん息苦しさを感じてくる。

まずは漢字の成り立ちから。
この漢字の成り立ちが大好きで、白川静先生のことが好きな武田先生。
これは石川博士も認めてらっしゃる。
まず漢字は宗教、神への言葉とし、神への思いを伝えるツールとして誕生した。
甲骨文字。
そしてこの頃、甲骨文字の主語は「神」であった。
「我、問う」と言うと誰に問うておるか?
それは「天の神」に対して聞くという態度が「我、問う」。
これが宗教として生まれた漢字。
この殷から周になると、今度は「金文」という別の形の文字になる。
これは鋳物に鋳込んだという意味で金属の「金」を当てている。
漢字の主語がここから変わる。
「神」から「天」という概念が主語になる。
「我、問う」と言えば「天」に問う。
天命思想。

 諸子百家の言説によって、天にいる帝が「天の理」もしくは「天の道」となりこのようなロゴス化運動を経て、ついに地上の帝、皇帝が生まれます。その始まりの皇帝こそが、始皇帝です。(42頁)

本当に中国のスパイの方も(『今朝の三枚おろし』を)聞いてらっしゃるかも知れないが、こういう言い方はトゲがあって申し訳ないないが、日本人にわかりやすく言うためには。
今、中国の皇帝は誰かと言うと習近平さん。
皇帝的力をお持ちで。
習近平さんは最高権力者として、北京のどこかに住んでらっしゃる。
住んでらっしゃる所は皇帝のもの。
日本は違う。
安倍(晋三)さんは皇帝ではない。
あの方は今、代々木公園の近くだが、おうちを借りられた場合は家賃を払わなければならない。
これは中国人はびっくりする。
感動されたことがあった武田先生。
昔、総理大臣で中曽根(康弘)さんがいた。
あの人は長嶋茂雄さんが持っていたマンションを借りてらした。
足の便がいいから。
大家さんは長嶋茂雄さんだったという時期があって。
そのことが新聞に載った時に中国のスパイの方が「ウソ!」と言った、という。
それが北京で広がったらしい。
長嶋さんのお立場は何かといったら、漢字で言ったら「棒球選手」。
棒を振り回す。
棒球選手のおうちを皇帝が借りて家賃を払う。
日本は家賃を払うし、飲み喰いしたらお代金も払わなきゃいけない。
当たり前。
中国では当たり前ではない。
とにかく中国の政治的形は秦の始皇帝で決定する。
この秦の始皇帝は神の代理者であり、彼はまず中国全土に文字の統一を図る。
彼が甲骨文字とかを全部削っていく。
周が作った金文なんかも削って行って。
篆刻。
篆書体として文字を統一する。
水谷譲の実印の印鑑。
あれは篆書体。
あれは不思議な文字。
あなた(水谷譲)も、半分秦の始皇帝に仕えているようなもの。

神から生まれた、その神様との会話のために生まれた「漢字」という文字が、やがて天下人、秦の始皇帝によって紀元前200年、神の代理者となった始皇帝は文字の統一を図り篆書体という文字を。
篆刻。
これはみなさん方の印鑑でよく利用されている、その文字。
つまり印鑑に使うということなので、政治的文字。
同時に隷書体。
これは奴隷の「隷」を書くが、隷書もここから生まれてくる。
自らを奴隷とし、おエライお役人に差し出す文字、という。
つまりお役人の「お上との連絡のための文字」ということだったのだろう。

ところがその秦がたちまち滅んでしまい「漢」という時代。
前漢二つあるが(「前漢」が二つあるのではなく「前漢」と「後漢」の二つがあると言いたかったのではないかと思われる)、漢という大帝国が中国に生まれる。
隷書体はこの漢でますます中国全土に染み込む。
このあたり、この漢字文明を漢はアジア諸国に輸出した。
「漢の息かかってんだぞ」というような。
ところが漢という国家そのものは、非常に内向きな国家で。
この自分たちが作った漢字という文化から何かを醸成させる、発酵させて次の文化を作るという文化的力はなかったようだ。
これは漢を作った劉邦という方が文字があまり好きじゃなかった。
この方は口癖だが「文字なんてのは名前さえ書ければ用は足りる」と。
「それぐらいのもんでいいんだ」と公言する戦国期の英雄であったために文字に対する興味みたいなものは、あまり醸し出されなかった、と。

前漢・後漢の大帝国を経て、やがて漢が滅び、三国、さらには六朝、南北朝ともいわれる分裂の時代が到来します。(45頁)

これは面白い。
戦争がまた激しく中国が分裂して戦うようになると、情緒が不安定になったりするのだろう。
ここから鉄板みたいだった漢民族から情感の時代になり、冒険家がいた。
お上に差し出す書類の文字を家族に向かって書いたヤツがいる。
通信手段で政治家への訴えを書くべき文字を家族へ便りとして書いた中国人がいた。
だからこんなのを中国ポリスマンに見つかったら引き破られてしまう。
「文字をこんなことに使うな!」
ところがこっそりやった人がどうもいる。
「私信」という自分の便りとして。
その時に篆書体とか隷書体でカクカクに書くと情感が伝わらないので、ひん曲がったような字で漢字を書いちゃった。
草書体。
「草が倒れるような文字の書き方をした」というので「草書」という書き方が生まれた。
(本によるとそういうことではなく「草卒」の「草」で、早書き、省略書き、要するに普段書きとのこと)
この草書体は個人の心情を書くという文字。
個人の思いを書く、という。

王義之(おうぎし。一般には「王羲之」のようだが、本では「王義之」となっているのでこう表記しておく)なんていう書の天才がいるのだが、この方は草書体の達人。

 王義之は手紙のなかで友人や親類に病苦や労苦の思いを告げました。−中略−これに対応しているのが草書体です。(46頁)

その中には政治的に一切使わない「我、君を心配する」とか、そういう新しい四文字熟語、私的四文字熟語の文字作りがこの王義之さんあたりから始まる、という。
草が倒れるような、風に吹かれるような文字なので、それを草書と言う。
(前述のように、そういうことではない)
「これは私信ですよ」という暗号で。
「これ、お上に出した手紙じゃないですよ。アンタだけには書いて渡してんだからね」という意味合いで。
その手紙の文面に「草書で書きます」ということを含めて「早々」と書く。
「これは市役所に出すんじゃない。アンタに出す手紙ですよ」というので「早々」と書いたという。
(本によると「早々」は「早書きで失礼します」という意味)
「拝啓」なんていうのは「公式的文書」という意味なのだろう。
「早々」というのはやっぱり「さだまさし」という。
「元気で〜い〜るか〜♪」という、あの「さだまさし風」になる。



やっぱり「自分の思い」というのを文字があれば書きたくなる。
日本の場合は凄い事に、草書体の崩しからやがて物語を作っていく。
このへん凄い。
そのうちにこの漢字にアジア圏で大革命が興る。
その大革命の千頭に立ったのが、私達日本。
いかにして日本は漢字大革命の先頭に立ったか?

漢字の文化の話をしている。
甲骨、金文。
それから篆書、隷書。
それから草書体まで来た。
これぐらい漢字の書き方一つでも大きな歴史のうねりが。
この間にアジア、特に東アジアにおいて漢字はもう権威だった。
だから日本からの古墳で見つかる鉄剣なんかに漢字が刻んである。
漢字そのものが権威で、あれを見るとみんなが「ハハーッ」と拝むぐらいのパワーがあったのではないか。

そこにまたもう一つ曲がり角。
アジアと漢字の曲がり角がやってくる。
隋が天下統一。
618年には取って代わって唐が隋を倒して統一する。
日本の官僚が遣唐使の何かを決定した。

八九四年の菅原道真による遣唐使の廃止です。(83頁)

一生懸命中国文明を学んできた島国の日本が派遣をやめている。
これは何でかというと、どうも日本は漢字が嫌になってきた。
何でかというとやっぱり漢字が窮屈。
漢字世界に対して窮屈を感じた小国日本。
(本にはそういうことは書いていない)
本当に中国の方が今でも日本をバカにする時に「小国」とおっしゃるが、「小さな国」日本は辞めてしまう。

今もってこの戦が謎だが、古代に大変なことが起こる。
朝鮮半島の小国である百済と手を結んだ「倭」であるところの日本、ヤマトは連合軍を組み、大唐軍と海戦をしている。
白村江(はくそんこう)の戦い。
その時にボロ負けする。
百済の人は日本にその後滅びると逃げてくる。
いろんな所の日本に住みこんだり、皇室に一部入ったりしている。
それは平成天皇がお認めになっている。
日本の皇族と天皇家、百済の人と結婚している。
ただし韓国の方は誤解しないでください。
「百済の人たちと」です。
韓国とではありません。
それを「天皇家は韓国の支配下に」と拡大解釈なさる方がいらっしゃるが、日本の天皇がお認めになったのはそうではない。
一部避難してきた百済の貴族たちを日本に入れている。
お墓も近江とかにいっぱいある。
もうその時代にすでに入管難民法は立派にあった。
「何をいまさら騒いでいるのか」と言いたいのが『三枚おろし』武田鉄矢の立場。
「大和民族の血が失われる」なんて反対する方で叫ぶ方がいらっしゃったが、何を言っとるんだ。
日本はそうやって人口を増やしてきた。
古代に、あるいは歴史に学びましょう。

戦って敗れた。
この敗れたことが重大。
その時に「仕返しに唐が攻めてくるんじゃないか」という恐怖心がしばらく日本を支配した。
確か中大兄皇子の頃。
一旦日本は、ヤマトは国を閉じた。
閉じることによって急に変化が。
自分たちで字を作り始めた。
このへんからひらがな、カタカナが生まれてくる。

太陽の「太」。
太陽の「タ」と読んだり「ふとい」と読んだりするという、一漢字に対して自分のところの解釈と向こうの呼び方みたいなものを合わせるようになった。
これは複雑なのだが、うまいことを考えた。
だから水谷譲も武田先生も、お互いの漢字の名前には大和風の読み方であって、中国風にも読める。
武田鉄矢(ウーテン・テイエ)
『101回目のプロポーズ』の時、台湾ではそう呼ばれていた
この「ウーテン」という言葉そのものも現代中国語とは違って唐の時代の読み方。
中国の方、そのあたり日本を楽しんでください。
日本はあなた方が歴史上で作った最大の帝国。
唐の漢字の読み方ができる島国。

アジアにおける文字の変化。
日本においては漢字の変遷みたいなものを追いかけている。
白村江の戦いで大唐と戦った日本。
そのあたりから日本は国を閉じて、大宰府というような所に出張所を置いて、防人たちを九州の海側にバァッと張り付かせて国防態勢に入った。
これは非常に不幸なことだが。
しかしわからない。
この不幸から日本は日本らしい文化を醸すようになった、ということ。

中国大陸と縁を切った日本だが、唐から初期に学んだものもあった。
唐の時代に漢字を詩に使うというのが流行る。
これは我々は勉強した。
「七言絶句」とか、そういう詩形で漢字を楽しむ、という。
「文学としての漢字」がそこにはあった。
楷書なんかがそう。
楷書なんかがこのあたりで、感情によって崩さず、それでも柔らかく丁寧に書くということで、楷書が生まれたりする。
この時代に「狂草(きょうそう)」という文字の中から。
針金を丸めたような字。
毛沢東さんが狂草という書の書き方がものすごくうまかった。

唐の滅亡を受けて、唐が滅んだ後にアジア圏において文字の曲がり角がやってくる。
ベトナムが離れ、朝鮮半島の国々が中国から離れていく。
そのトップランナーが日本。
ひらがなの発明。
日本は漢字的世界が窮屈に感じた。
では、漢字のどこが窮屈か?

この漢字が話し言葉になると助詞がない。
ゆえに「僕は学校へ行きます」が中国ではどういう漢字を充てるかというと「僕行学校」。
こういうふうになる。
動詞は名詞にもなる。
日本語の場合は名詞を動詞にする時は付け足さなければならない。
中国語の場合は、「成長」だけで実は動詞でもあり名詞でもある。
日本は名詞を動詞にする時は漢字二文字の後ろに大和言葉で「する」と付けると動詞になる。
「成長」これは名詞。
「成長する」これは動詞。

中国語の語彙というのは漢字二文字を基本としている。
漢字二文字で主語述語の関係で扱う。
「地震」
これは名詞にも動詞にもなる。
「地が震える」ということで補充している。
それで「飲酒」「乗車」というのは、これは「引っくり返し」。
それで名詞、動詞、両方OK。

修飾語が前に来る場合が多く、これは日本語と同じです。白い花ということで「白花」。最も高いということで「最高」。(49頁)

並列の構造。学ぶことと習うことで「学習」。大きいことと小さいことで「大小」。(49頁)

なかなか面白い。
石川さんの説。
怒る方もいらっしゃるかも知れないが。
中国全土を支配した元。

元の支配が弱まっていくなかで、それまでとは違った朝鮮的なるものが少しずつ生まれてくる。一三九二年には高麗が滅亡し、李成桂(一三三五−一四〇八)が朝鮮王朝を建国します。いわゆる李氏朝鮮(一三九二−一八九七・一九一〇)はここからはじまります。そして一四四三年にハングルが生まれます。(158頁)

日本の場合は面白いことに、わりと圧倒的国民の支持で。
政界で使う文字は漢字、普段はひらがな、カタカナを入れた「女文字の入った」という。
そういいう文化の世界。
『土佐日記』
「男もすなる日記といふものを、女もしてみむとてするなり。」
あの異様さ。
「女もしてみむ」と言う。
その「女」は紀貫之。
だから男。
男が女のふりをして「男がよくやっている日記を書いてみようと思う」という。
もうすでにジェンダフリー。
性を離れている。
谷崎潤一郎みたいなもの。
「指でつくんです。あの人が」みたいな。
三浦瑠璃さんみたいな。
「うふふふふ」
この間(番組で)ご一緒した。
あの方はいい。
耳たぶを噛むような喋り方が大好き。
「間違ってると思うんです」とか何か。

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2019年03月18日

2018年12月3〜14日◆フォッサマグナ(後編)

これの続きです。

大陸移動説。
昔、ユーラシア大陸の東の端にあった地形がある。
それが千切れてやがて太平洋、海のほうに泳ぎ出し、その千切れた隙間に昔は池ぐらいの小ささだったのが今の大きさに広がって日本海が出来て、離れ離れになった二つの島は海上でピタッとくっついて日本列島の本州が出来た、という。
それでロシア方面から千切れた島がやってきて北海道になり、フィリピンの沖にあった小さな島が関東の下の方にぶつかって伊豆半島になり、沖縄の向こう側にあった端っこがプカプカまた浮いてきて九州になった、四国になった、という。
これは1920年代になってやっと認められた大陸移動説によって立てられた、謎を解く一つの説。
ほぼこれは間違いないんじゃないか、と。
地球の一番深い所にはマントルという火の塊がある。
そこからはマグマが上昇してプルームという、おそらく「火の鳥」。
それが上の島を千切っちゃった。

地球のほとんどの大陸が合体してできた超大陸パンゲアは、約2億年前にはとてつもなく巨大なスーパープルームによって再び引き裂かれて、移動を始めていました。(『フォッサマグナ』176頁)

だから世界中の陸地をバーッと集めると千切れた形にピタッとくっつく。
それで地質学者の人が千切れた所の土砂を調べたら同じ。

 地球上では、大陸が集まって「超大陸」をつくっては分裂して離散する、ということが繰り返されています。プレートテクニクスによって動き回る大陸は、いずれはほかの大陸にぶつかって合体し、どんどん集まって、一つにまとまります。これが超大陸です。諸説ありますが、過去には19億年前から1億年ほど前までに7〜8度、超大陸が形成されたようです。(『フォッサマグナ』176頁)

超大陸パンゲアがバラバラになると、プレートの残骸は海溝に沈み込んで「メガリス」と呼ばれる重い岩石の塊となります。それらはあまりにも重く、そして大量なため、地下670kmのラインを越えて下に沈み込み、2900kmのところにまで落下します。すると、その反流で、そこにあった大量のホットプルームが上昇を開始したのです。
 上昇したホットプルームはスーパーホットプルームとなって、1億2000万年前頃に、南太平洋で「地球史上最大」といわれる火山活動を引き起こしました。大量のマグマを海底に噴き出して、オントンジャワ海台を形成したのです。その面積は約200万km2で日本の約5倍。厚さは約30km、流れ出た溶岩の総量は富士山の溶岩の5万倍に相当するというすさまじさでした。
 この途方もないスーパープルームは、枝分かれして地下のマントル内を移動します。その一部は北上し、フィリピン海にさしかかります。そして、およそ6000万年前(60Ma)頃に西フィリピン海盆を南北に拡大させ
−中略−このフィリピン海プレートの沈み込みの開始にともなって、15Maに伊豆・小笠原弧が現在の位置へと移動してきて、本州に衝突したことは、すでに繰り返し述べてきたとおりです。(『フォッサマグナ』176〜177頁)

一番大事なことは、今、やや収まりつつあるのはその火の鳥が1億5千万年をかけてゆっくり冷えていくので潜りだす。
だから姿が消えてなくなってまたどこかの地表に出てくるということ。
だから近寄ってくることは間違いない。
考えたらすごい。
とにかくいろんな千切れたものが一点に集まって来てできたのが日本列島。
これを考えるとやっぱりすごい。

ユーラシア大陸の東の端っこにあった海岸線。
これがプレートの火に焼かれて千切れる。
上の島(東日本)は時計と逆に回っていく。
西日本は時計回りに動いてくっついた。
千切られたのだが。
海へ海へと泳ぎだした島はここでくっつく。
二つに千切れた島は現在のロシアから富山までを泳いできたわけだが、何と700kmの海上を年間35cm動いたという。

新潟糸魚川から静岡清水にかけて日本を横断する深い溝「フォッサマグナ」について話している。
それはかつてここで日本列島は合体したんだ、と。
それが1500万年前のこと。
その後100万年前の頃にフィリピンの沖から泳ぎ始めた伊豆・小笠原諸島がぶつかったという。
そしてこれは伊豆半島になって。
伊豆半島はいまだに本州を押しまくっている。
このことによって丹沢から赤石山脈は押されつつ今も隆起が繰り返され、その中ほど平野部にはマグマを噴き出すためのいわゆる「呼吸する穴」としての富士山があるわけで。
山が毎年爪先立ちしていくというのが列島の山々。
かくのごとくプレートに乗っかって島は集まる。
例の東日本の大地震を起こした沈み込みが、プレートが岩手沖にある。
あれと大陸側は日本列島を千切ったプレートがあって。
だから東北地方は右と左から押されている。
日本列島は左右から押されているというのは事実。

日本列島の反対側には海溝三重点という強大なアンカー(錨)が存在しているため、日本列島そのものが形を変えていくということはありませんでした。(『フォッサマグナ』195頁)

それがずっと持っているから1500万年前の風景のまま列島はある。
そこが引っ張っているから。
そういう意味では「奇跡の地形」。

合気道をやっている道場の先生から誘われて伊豆の先端、下田の温泉に行った武田先生。
行く時はよかったが、帰ってくる時に武田先生の奥様が天城峠を越えた後に下り始めたら気持ち悪くなった。
「高いとこ上って低いとこ行ったからかなぁ」とかと言っていたのだが。
その時の奥様の気持ちの悪がり方が神がかっていた。
原因がまったくわからない。
奥様は「気持ちが悪いの」という。
何か「気持ち悪い」には出てくるワケで。
吐き気がするとか下痢をしそうだとか。
でも、ただひたすらお腹を押さえて痛がるだけで。
そこを通過して東名に乗った瞬間に「あ!治った〜」とかと言う。
その土地の境目を越える時の、その病というのが武田先生には「この人のお腹を痛がらしたのは、生き物としてではなくて、もっと地の底から湧いてくる一種何か『磁力』とか、そういうものではないか」という。
「磁気はある感じがする」という水谷譲。
そのへんから「伊豆半島て変だなぁ」と思うようになった武田先生。
あの山の険しさは無い。
高速道路といっても伊豆半島に行くとループで降りて行くのだが、螺旋階段で車を降ろさないといけないぐらい高低差のある高さからいきなり。
それにあそこは「落石注意」が多すぎる。
いたるところに「落石注意」。
落石は注意しようがない。
よく考えてみたらあの半島はいまだに動いているから落石が多いのではないか?
そんなふうに考えると、私たちはその手の「ジオ」という、火の鳥の背中で生きているということはもう間違いないことで。
そういう意味では朝鮮半島にお住まいの方、あるいは中国大陸、ユーラシア大陸にお住まいのロシアの方、中国の方とは自然に対して全く違う感性を持っているのではないだろうか?と。
そんなふうに思う。

(奥様が)「気持ち悪い」と言うので武田先生は「助手席じゃなくて、後ろで寝とけ」と寝かせた。
時々跳ね起きる。
ルームミラーに青ざめた奥様の顔を映るたびに叫びたくなった武田先生。
地球の地下、この地面の下には火の鳥が住んでいるというふうに思ったほうがいいのではないか?
我々は火の鳥の翼の上で生きている、という。
とにかく地震というのは地下に住む火の鳥が巻き起こす現象。

『日本書紀』には、天武天皇13年10月14日(西暦684年11月29日)に大地震があり、土佐では田畑50万余頃(「頃」は当時の面積単位、50万余頃は約12平方キロメートル)が海中に没し、加えて津波が来襲したという記録があり、これは南海トラフ巨大地震による地殻変動の最初の文書記録です。
 南海トラフの巨大地震では、室戸岬など岬の先端部が大きく隆起し、内陸側に向かって隆起量は徐々に減少し、さらにその奥では逆に沈降する地域が出てきます。
(41頁)

更に西暦870年。
これはものすごく有名だが貞観の大地震。
これがマグニチュード8.3以上と言われている。
津波が発生し、富士山が大爆発。
貞観という時代も大変だった。
そして千年の時を挟んで江戸期。
宝永大噴火。
更にマグニチュードはこれも9以上で慶長大地震。
これは秀吉も聚楽第か伏見にいて体験している。
大地震と津波など私たちはもうありありと日本史の中で「火の鳥の狂乱」という爪痕を歴史の中にたくさん持っている。
そのたびに人が亡くなっているワケで。
地面の下に火の鳥がいる。
その火の鳥の背中に列島は乗っているんだ、ということを絶えず思いを馳せながら生きていかなければならないのではないかと。
そのあたり、地面に対する感覚が日本人は何か独特な大地感を持っている。
中国には風水みたいなことがある。
「家の向きをどうするか」という。
でも地面に関する思いというのは、ものすごく日本人の感覚にある。
漢字の中にもある。
地面にそもそも悪しき霊が棲んでいて、それが憑りつくんだ、という。
(結局何という漢字かというのは、番組中にはわからず)
昔の人たちは「この地面の下に何か悪いものが宿っている」となると、ナイフで刺した。
武田先生の奥様が天城越えをする時に気持ち悪くなったが、そういう土地を過ぎて別の土地に入った時に、そこの地面の下の神様の種類がコロッと変わると悪さをすることがある。
その悪さをさせないために女の人は髪にかんざしを挿した。
花が魔除けになる。
それがかんざしのいわれ。
その花で魔除けにならなかった場合は刺す。
その攻撃の武器として「かんざし」という。
かんざしが尖っていて凶器のようだから「ここまで尖らせなくてもいいのに」と思っていた水谷譲。
いわゆる「魔に対する自衛力として」というようなことがあるように。
昔、芭蕉とかもそうだが、越境して他のエリアに入る時は男でも、ちょいと花をかざしたそうだ。
それから古代からの土地に関する怯え。
古代の中国は持っていた。
土地褒め。
旅をしてその土地に入った瞬間、その土地のことをべた褒めに褒める歌を作らなきゃいけない。
だから万葉集なんかすぐに土地を持ってくる。
「大和し美したたなずく」とか「吉野山」とか。
(「大和は 国のまほろば たたなづく 青垣 山ごもれる 大和し 美し」のことか)
「風に舞い散る黄葉ばは」とか。
(「風吹けば 黄葉散りつつ すくなくも 吾の松原清くあらなくに」のことか)
あれはそこの土地にいるからじゃなくて、その土地の神様に悪さをして欲しくない祈りを込めて、土地の名を呼びだして絶賛してご機嫌をうかがう。
土地神様を持ち上げる。
武田先生の考え。
最近ちょっと地震が多いのは、その手の歌が今、歌謡曲界では無い。
乃木坂とかAKBとか。
だからちょっと地震が多いんじゃないか?
昔は歌謡曲にあった。
北島三郎さんなんか土地褒めばっかり。



「は〜るばる〜きたぜ函館ぇ〜♪」とかと函館が喜んで「地震はやめとこう」とかと言う。



「女、港、気仙沼〜♪」とかと低い人(低音の意か?)が歌っていたが今はやらないから。
というようなことを言う人がいる。
だから「土地褒め」というのはまんざらではない。

大陸から千切れて東日本・西日本が今の位置でくっついた。
そして伊豆半島等々がぶつかり、四国なども寄って、九州も北海道も大陸から千切れてプレートに乗っかってここまでやってきた。
この島々を引っ張ったというエネルギーは今、千葉の房総沖の一点にある。
これは三点何とか(海溝三重点)と言う。
これで杭が打たれたみたいに今、列島は動かなくなっているという。
これとよく似たことが近い将来起きるのではないか?と言われている深い溝がある。
これは巨大で、また千切れるんじゃないかと。
大陸から千切れて流れ出すんじゃないかと言われている候補に挙がっている所。

「巨大地溝」として最も有名なのは、人類の発祥の地と考えられた東アフリカリフトゾーン(東アフリカ大地溝帯)でしょう。幅35〜100km、総延長は7000kmに及ぶ巨大な地溝帯には、実は三重点が存在します。(『フォッサマグナ』156頁)

これは日本と同じ。
日本もそう。
ユーラシアプレート、北米プレート、フィリピンプレート。
そういう三枚。
ここも三枚。
三枚ないと千切れない。

「アファー三角地帯」と呼ばれるところで、ここでは紅海、アデン湾そして東アフリカリフトを境界とする、アラビアプレート、ソマリアプレート、ヌビアプレートという3枚のプレートが1点で交わっています(『フォッサマグナ』156頁)

リフトの中ではホットプルームがマグマとなって、ケニア山やキリマンジャロなど、巨大な火山をつくりだしています。「火の気」は十分です。
 今後、リフトにさらなるマグマがつぎ込まれれば、やがて拡大が起こって、アフリカ大陸は二つに分かれてしまうでしょう。もしもそのとき、そのどこかに島弧が衝突するようなことがあれば、まさにフォッサマグナができるのではないかと考えています。
(『フォッサマグナ』156頁)

この不思議な説を聞いた時に、たまらなく興奮した武田先生。
この何千年か前にここはへこんで草原が出来る。
とにかくアフリカの東側が一旦ボコーンとみんなへこんだ。
昔はアフリカ全部がジャングルだったのに、ここがへこんだお陰で地形が変わって草原になった。
ジャングルに住んでいたヤツがいきなり草原で暮らすことになったので、めっちゃ困ったサルがいる。
そのサルは樹木で生活していたのだが、草原に暮らさなければいけない。
そうしたらもうヘビとかライオンとかトラのエサになってしまう。
どんどんサルは死んでいくのだが「仕方ねぇ」というので(周囲が)草なので遠くを見るために「まずは立ち上がって様子を見よう」というので、とあるサルが四つ(足)から立ちあがった。
これが原人のスタート。
それで原人の後に旧人。
それから30万年〜20万年前に新人。
そしてその新人から人類へ進化した。

証明できなかったのだがすごい仮説があって、それでドキドキした武田先生。
このボコンとへこんだ盆地、窪みがある。
そこは「スーパープルーム」というマグマの炎の地面の底が焼かれる。
焼かれると何かというとマグマは自然の放射線を持っている。
放射能、放射線は遺伝子の配列を変えたりする。
とある人が「このアフリカから出てくるサルの種類があまりにも多すぎる」と言う。
もしかすると「地の底に棲む火の鳥の輝きの中に放射線があって、その放射線が遺伝子組み換えをやってるんじゃないか?」という。
ものすごい話。
その新種のサルが生み出されるポイントが一か所じゃなかったかという説があがった。
ところが仮説が崩れた。
ちょっと期待していたのだが。
だが、間違いないことは、人類はこの窪地で生まれた。
フォッサマグナの底で生まれたのがサルから始まった人類。
そのフォッサマグナという窪地を日本は信州に持っている。

今、数百億年を振り返り、大きな大地の動きを説明している。
千切れて漂う二つの島。
そこへいくつもの島が集合し、日本列島というジャポネシアを作った。
しかもプレート3枚が重なり合う。
これは異例。
地震が多いのは。
でもみなさん、耐えよう。
何かある。
アフリカの3枚重なり合ったアフリカ大地から人類が湧いて出てきたように、奇跡のような地勢地形、ジオの中に生きているということは、何かここに住まねばならぬ理由があるからで、今日明日出る答えではないが、千年の時をここにかけましょう。
貞観の地震が起きようと宝暦の大噴火が起きようと、富士山が爆発しても関東に人は住み続けたワケじゃないですか?
そのことを思ってこの島にしがみつく力にしましょう。

三つのプレートが一点で交わる房総沖海溝三重点があります。実はこれは現在の地球上では唯一の海溝三重点です。(『フォッサマグナ』131頁)

これがまとめているので列島は平衡を保っている。
地面の下に住む火の鳥の残した仕事をちゃんと地形にとどめているのは、世界中でここだけ。
そのことにもう、興奮しよう。
太平洋側の沈み、これが三陸沖の大地震になった。
日本海側からもユーラシア大陸から日本を千切った沈み込み、プレートの沈み込みがある。
だから東と西から圧縮が続いている。
これで赤石山脈などは3千m級の山になった。
散らばった島をプレートに乗っけて引き寄せているのも日本という、この「海溝三重点」。
素晴らしいじゃありませんか?
地面は高くなるが、島は呼び寄せている。
日本の南アルプス、北岳、赤石岳、甲斐駒ケ岳等々は、今も高くなっている。
日本列島が生きている。
大地が動いている。

 千島海溝と日本海溝はいずれも、太平洋プレートが北米プレートに沈み込むことで形成されています。2つの海溝の会合点には、襟裳海山が差しかかっていて、その先、つまり日本列島寄りには、沈み込んだカデ海があります。北海道はこのプレートの沈み込みによって、東西のブロックが中央の日高山脈で衝突してできたとも考えられています。(『フォッサマグナ』150頁)

ここも海溝三重点の可能性がある。
この辺りの沈み込みの影響で、ついこの間の地震が起きた。
東から北海道を押すプレートと、西から北海道の根室側に向かって押すプレートと、その真下に本州に向かって押すプレートの3枚の1点が襟裳岬の先にある。
それがどうも暴れたらしい。
だが、そのことにみなさん耐えましょう。
きっとこの不幸を幸運に変える何かが地面の下で起こっています。

安倍首相に言いたい。
北方領土、大丈夫。
プーチンさんと妙にお金なんかで買い戻したりなんかしないでください。
あれは武田先生のカンだが(北方領土は)こっちに来ている。
もうすぐ北海道に国後も択捉も全部めり込んでくる。
ジオはそう動いている。
その時にめり込んだら「うちのもんだよね?」という。
それは誰が考えてもわかる。
島だったら戦争で勝ったのだからいい。
でもめり込んだら、向こうからこっちに来たワケだから、アンタたちが出て行ってください。
さあ、やめましょう、北方領土交渉。
あれは大丈夫、来ます。
これは間違いないです。

太平洋プレートも毎年9.5cmずつ日本列島に近づいていますので、太平洋プレート上のハワイ諸島もおよそ5000万年も経てばやはり日本列島にくっついてしまうでしょう。(『フォッサマグナ』150頁)

ハワイに行かなくていい。
来るんだ。
あれは来ている。
こっち側にゆっくり。
時間さえかけりゃ、みんな寄ってくるのだから大丈夫。
そうやって考えれば、時間さえかければカリフォルニアだって日本のもの。

 それまでの日本には伊能忠敬がつくった地形図しかなく、それには等高線が記されていなかったため、地形図を補完しながら地質調査を進めるという大変な作業を強いられた末、ついにナウマンは北海道を除く日本すべての地質図(20万分の1)を完成させました。1885(明治18)年のことです。−中略−ナウマンが10年で、概略とはいえこれを仕上げたのはおそるべき速さだったのです。(『フォッサマグナ』21頁)

日曜日か何かで、横浜の地面をナウマン君が掘っていた。
そうしたらビックリした。
小型の象の骨を発見してしまった。
(調べてみたが、どうやら横浜ではなく横須賀で発掘されたようだ)
昔、大陸と日本が繋がってていた時にユーラシア大陸に住んでいた小型の小象が海峡を越えて日本に入って。
津軽海峡も繋がっていたので。
それで横浜の草を喰っていた。

 ナウマンゾウの名前は、明治の初めにドイツから招かれた地質学者E・ナウマンの名前から付けられました。彼は本州中部の「フォッサマグナ」という大地溝帯の名付け親でもあります。(59頁)

フォッサマグナがなぜできたかはナウマン君は知らない。
これは後の研究でわかったが。
でもここが深い地溝帯であるということを発見したナウマン君。

当時の学生たちは、同じ年恰好の若いナウマンの横柄な態度に業を煮やしてもいて、ナウマンとの間ではトラブルが絶えなかったようです。(『フォッサマグナ』20頁)

だが、ナウマン君の大冒険のおかげで私たちは古代史に、それも超古代。
地勢、ジオに関してこれほど敏感な国民になった。


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2018年12月3〜14日◆フォッサマグナ(前編)

(今回は一週目の途中で次の本に移行する。本ごとに分割しようかと思ったけど、それだと後半がすごく長くなるし、別の本からの引用も登場したりもするので、いつも通り一週間分ずつ区切る)

フォッサマグナ 日本列島を分断する巨大地溝の正体 (ブルーバックス)



フォッサマグナ。
小学校の時に教科書に出てきて「わ!こんなのがあるんだ」と思った水谷譲。
その時は「日本を割ってる線があるんだな」みたいな感じだった。
糸魚川から静岡にかけて。
この正体は一体何だ?ということ。
このフォッサマグナを語る時に、どこから始めるかと言うと、西南戦争からまた話を始める。
西南戦争とフォッサマグナ。
この「地質の話が何で結びつくんだ?」というところを聞いていただければ語り手のよろこび。

 1875(明治8)年の夏、文明開化の波押し寄せる日本の横浜港に、一人のドイツ人の青年が降り立ちました。(18頁)

武田風に言うと坂本龍馬が死んでまだ7年ぐらいしか経っていないという日本。
この明治8年の日本というのは6〜7週に渡って(この番組で)語り続けた、西南戦争の外交問題で日本政府の陸軍大将西郷隆盛と内務卿の大久保、そして参議の木戸孝允の対立が明治8年、激しくなってきた。
そんな時代。

 青年の名はエドムント・ナウマン。(18頁)

象みたいな名前。

 エドムント・ナウマンは1854(嘉永7)年9月11日に、ドイツ・ザクセン王国の陶器で有名な町マイセンに生まれました。ミュンヘン大学に学び、20歳で博士の学位を受けると、恩師のギュンベル教授とともに地質調査事業に従事して、地質図を作成していました。とくに輝緑岩という変質したドレライト(粗粒玄武岩)の化学組成の研究をしていましたが、やがて教授から、「日本に行って地質学の教授にならないか」という話をもちかけられます。日本の新しい政府が、西洋文明の取得のために外国人教師を招聘しているというのです。いわゆる「お雇い外国人」です。
 ナウマンは二つ返事で、輝緑岩の分析も何もかも放り出し、2ヵ月後には日本に到着しました。
(18〜19頁)

武田先生の直観では「大久保利通がいるのではないか?」と。
大久保も忙しい。
考えたら気の毒なほど。
大親友の西郷さんと朝鮮半島問題でケンカをしながら、鹿児島県の扱いに関して桂小五郎さんとケンカしながら「ドイツから学者ば呼ばないかん」「日本は進歩せんばい」と思った。
何でドイツか?
理由は簡単。
大久保さんはドイツが大好き。
この人は2〜3年前にドイツ旅行をして、ドイツの一番偉いさんが会ってくれている。
その人の名前がビスマルク。
「鉄血宰相」と呼ばれたこのビスマルクさんが「アンタ方の国はドイツに学ぶとよかたい」とかと言われている。
大久保さんはもうドイツが大好きになった。
ドイツのようにガッチりした官僚で国家を創り、その官僚のエリートたちが庶民を指導するという官僚体制を大久保さんはイメージした。
これが桂さんとの大ゲンカ。
桂さんはフランスが好き。
「ショボーン」とかと言いながら。
西郷さんはまた両方が嫌い。
フランスも嫌い。
ドイツも嫌い。
ロシア大嫌い。
「島乗っ取りに来るっちゃけん。ロシアは」
五島列島が危なかった。
一回ロシアが住み着いている。
それを西郷さんが叩き出している。
ロシア人はまず住み着く。
みなさん、歴史から学びましょう。

ナウマン君は夏に到着している。
ドイツから二か月半くらいかかったか。
たどり着いたナウマン君。
降りた瞬間に、この日本列島の石が好きになった。
風雲急を告げる明治8年から10年にかけて、このナウマン君は日本の珍しい石を集めて信州方面を歩き回った。
突然明治史、西南戦争の頃合いに紛れ込んだナウマン君の青春やいかに?

大久保はドイツから学ぼうと官僚システムを東京政府に作ろうとしている。
明治8年のこと。
西郷隆盛は南下してくるロシアに対して「あんヤツばここに住まわせてはいかん!必ず島ば乗っ取って住み着いて『おがもん』て言うったい!アイツらが」。
やり口はほとんど変わっていない。
桂さんは桂さんで「選挙たい!大統領ばつくるったい!」。
もうバラバラ。
そんな風雲急を告げる明治8年。
二年後には西南戦争という大戦争が始まる。

 さて、ここでナウマンが来日した1875(明治8)年に時間を戻します。
 この年の11月4日、ナウマンは早くも、最初の地質調査旅行に出かけていました。それは従者と通訳を従えただけの単独行でした。
 馬車で東京を出たナウマンは、高崎から碓氷峠を越えて中山道を下り、追分(現在の軽井沢町)の宿場を数日滞在して、浅間山へ登っています。
−中略−
 その後、現在のJR小海線に沿って千曲川沿いに進み、鉄道最高点のある野辺山に至ると南下して、獅子岩を超えて平沢という小さな集落に泊まります。
(23〜24頁)

平沢という村に来た時に「ダシテンタルケン!(でたらめな薩摩弁風のドイツ語)よか仕事ばしとらすごたるですな」というような。

宿としたのは、古い民家でした。
 その夜は、嵐に見舞われました。木の板だけの壁はガタガタと揺れて、いまにも壊れそうでした。
(24頁)

(以下、本の内容とは無関係な武田先生の想像)
食べ物といっても、カリカリに焼いたトーストとかはない。
「焼き米」とか。
保存食用の米。
薄く焼いてある。
それにちょっと砂糖がまぶしてあって、それを口いっぱい頬張ると。
昔の戦国時代の呼び方では「干し飯(ほしいい)」とかという。
お腹の中に入ると水っ気を含んで膨らむ。
そんなのを喰っていたのだろう。
あるいは水で溶かして喰ったか。

ろくに眠れないまま一夜を過ごしたナウマンは、夜が明けるとともに宿を出ました。風は止み、青空がのぞいていました。そして峠から南西を見下ろしたとき、ナウマンは言葉を失いました。
 彼の目に飛び込んできたのは、はるか眼下に釜無川の流れる平坦な大地の向こうに、2000m以上もの高さのある南アルプスの鳳凰や駒ヶ岳が、ちょうど壁のように突っ立っている姿でした。そして、その南東の奥には富士山がさらに高く威容を見せつけていました。
「こんな光景がこの世にあるのだろうか。こんな大きな構造は見たこともない」
 ナウマンは言い知れぬ感動を覚えたといいます。と、同時に、なぜいきなりあんなに高い山が聳え立っているのか、なぜこのように大きな構造ができるのだろうか、という疑問も抱いたに違いありません。そして彼は、いま自分が立っているのは地面にできた巨大な溝のような場所ではないかと考えたのです。
(24頁)

1876(明治9)年からだが、西南の地、鹿児島、薩摩辺りで風雲が立ち興り、(明治)10年には何と西南戦争が勃発する。
ナウマン君には関係ない。
「石ばっか見て歩く」という。
これは面白い。
西郷や大久保や桂が命がけで戦っているのに、ドイツ青年ナウマン君は地面の石ばっかり見て歩いたというのが「何ともはやおかしい」と思う武田先生。
彼は西南戦争が起こった年も信州を歩き回っている。
そして赤石山脈、関東山地、丹沢。
その地形が彼にとってはもう不思議で不思議で仕方がない。
「おかしかばい!」
ドイツ弁でそう言いながら。
彼はますます日本のジオに惹かれていく。
(番組中「ジオ」という単語に別段説明がされないが、本によると「大地の」の意)
彼が最も惹かれたのが赤石岳という。
これは赤石山脈。
何に一体彼は驚いたか?

ドイツから明治8年にやってきたエドムント・ナウマン君。
九州の方では西南戦争という戦争が勃発するが一切注意も向けず。
ナウマン君は日本の地形が面白くて面白くて仕方がない。
山脈を調べていくとギョッとするような発見がある。
彼は玄武岩の研究家。
玄武岩というのは地底の奥深い所でできる石。
これは後の発見でもあるが、赤石山脈でナウマン君がひっくり返る。
「ウソぉ!」

赤石山脈という名前のもとになったのは、赤い「チャート」です。チャートとは、遠洋の深海底に棲む放散虫(プランクトンの一種)の死骸が体積して岩石となったもので(89頁)

(番組では「珪藻とかサンゴのかけら」と言っているが本によると赤いのは放散虫)

海のない場所でこうした海洋生物の化石が出てくることは、それらが伊豆・小笠原弧の衝突によって深海から陸に乗り上げ、付加したことを物語っています。(90頁)

彼はそういう発見をしながら日本の地質に惹かれていく。
とにかくあれが忘れられない。
あの信州で見た南アルプスの光景が。
駒ヶ岳の光景が彼は忘れられない。
このナウマン君はずっと歩く。
南アルプス、北アルプス。
その間を。
そこで彼が発見したのは「西南の日本から続いてきた古い地質が新潟糸魚川から静岡清水で本州を横断するように深い溝がある」という。
「その深い溝が松本等々の盆地になっているんだ」
松本辺りのその山脈と山脈の間にある窪地は掘っていくと岩石が出てくるはず。
掘るが、到達できないぐらい深い。
ということは、これはどんなことが想像できるかというと「山」。

フォッサマグナ地域の東西では約1〜3億年前の古い岩石が分布しているのに対し、フォッサマグナ地域の内部は、約2000万年以降の新しい岩石でできているのです(34頁)

ラテン語の「Fossa Magna」に変更しました。(29頁)

そのジオ、地勢に名前を付けた。
この巨大な溝は現代で言うと糸魚川から静岡清水までの250km。
この溝は両岸の山々から少なくとも250万年ほど前の時をかけ、土砂が流れ込んできたわけで土砂の川底を目指している。

現在ではボーリング調査によって、フォッサマグナは地下6000m以上もの溝であることがわかっています。(34頁)

だから一番最初にその溝ができた時からの風景を想像すると、松本の6千mの下から見上げると南アルプスはヒマラヤを超える1万mの山になる。
1万mの山と山。
松本はそれに挟まれている。
今で言うとインドの平野からヒマラヤが両側に立っている。
この巨大な溝。
ラテン語で「巨大な溝」という「フォッサマグナ」とは何だったのか?
こんな地形は世界中、ナウマン君の予感通り世界に一つしかない。
これは面白い。
そんな所に住んでいる。

この間ちょっと温泉に行った武田先生。
飛騨の方の温泉に行くために松本でレンタカーを借りた。
山越えをして日本平、飛騨、穂高に行った。
その時にちょっとこれを勉強していたものだから「今、フォッサマグナの上を走っているんだ」と思うと、何かものすごく不思議な気がした。
あんなことは行くと何も考えないものだが、やはりこの手の本を読むとハッとする。
そのたどり着いた温泉の露天風呂の脇に「このあたりからよく貝殻の化石が出ます」とあるのだが「あ!赤石山脈と同じか!」とか。
それから女将と話したが、穂高はまだ山が伸びるらしい。
押してきている力があるそうだ。
だから何cmかずつ伸びている。
私達はそういう所に住んでいる。
もしかすると日本列島は「ひょっこりひょうたん島」かも知れない、という。

特に今年(2018年)は秋口に気が滅入って仕方がない武田先生。
それはなぜかと言うと「この列島に住んでいる」ということが時々嫌になることがある。
別にこれは政治的なグチでもなんでもない。
この列島は天災が多すぎる。
2011〜2018年で福島、岩手、福岡、熊本、長野、北海道、大阪。
水害では本当に言いたくもない福岡、岡山、広島。
台風は宮崎、高知、沖縄。
その上に火山の爆発。
どうしてもムカッ腹が立って。
本当に許せない。
木曾の御嶽山は卑怯。
ずっとレベル1ぐらいでおとなしくしていて、たくさんの人がとても気持ちよくてっぺんを極めたらいきなり水蒸気爆発。
やることが卑怯。
今年もまた追悼の式典か何かのニュースに触れるとハラワタが煮えくり返る。
もうオレは許さない!
やり口が汚い!
「オマエそれでも山か!?」とアイツに向かって言いたい。
本当に憂鬱がたまる。
台風がいっぱい来た。
台風が来る度に思う。
「まっすぐ行けよ!」
何で沖縄からカックーン!と上に上がっていく。
狙っているのではないか?
本当に「オマエそれでも熱帯性低気圧か?」と言いたい。
お百姓さんの茫然たる顔なんか見ているともう本当に「どこか大陸の隅っこに住みたくなる」というふうに思う。

『水戸黄門』でよく頑張ったので夏休みに家族旅行で穂高方面、飛騨の方に旅行に行った時「この国に住むことが嫌になるなぁ」というのを車の中でつぶやいたら上のお譲さんが「それは違うんじゃないの?パパ」「何でだ?」「ここ生きてんのよ、地面が。私達は地面が生きてる所に住んでるのよ」と言われて、ふっと「そうか。オレたちは『ひょっこりひょうたん島みたいな所に住んでんだ』と思った時に「え?ということは・・・ここは『ひょっこりひょうたん島』みたいに泳いでるのか」と思った。



これがすごい。
日本列島は泳いでいる。
ここで本を乗り換える。
(と言っているが、妙に前の本からの引用が多が、ここから先は『日本列島100万年史』からの引用はいつも通りにページ数のみ『フォッサマグナ』からの引用はいちいち『フォッサマグナ』と記して区別する)

日本列島100万年史 大地に刻まれた壮大な物語 (ブルーバックス)



この一冊から教えて頂いたこと。
この『日本列島100万年史』曰く、沖縄八重山から北海道歯舞色丹まで、この島は何と大陸に住むのが嫌でここまで泳いで来た。
泳いで集まったのが日本列島。
(という文章は本の中には発見できず)
日本列島は「ひょっこりひょうたん島」だった。
「ひょっこりひょうたん島」に住んでいることが火山列島であるし地震大国であるし、そういう地の特徴というのは「泳ぐ島」だったから。
これはウェゲナーの大陸移動説。
ここからすごい話になる。
今日一番のニュース。
違うニュースで一番という方がいらっしゃるかも知れないが。
1900万年前、日本は大陸の東端にあった海岸だった。
ユーラシア大陸の隅っこにあって、朝鮮半島もロシアも中国もべったりくっついていた。
明らかな事実。
100万年前まで遡ると、山崎博士、あるいは久保博士によると日本はユーラシア大陸の端にあった。
生き物で言えばヒラメのエンガワ。
そういうのがペロンとくっついていて、そのペロンが日本だった。

アルフレート・ウェゲナー(1880〜1930)が大陸移動説を提唱したのは1912年のことで(『フォッサマグナ』69頁)

1900万年前、日本は大陸の東端にあった海岸であった。
それが千切れて1500万年前に今の位置まで泳いできた。
当然のように大陸から千切れてやって来るには原動力がいるが。
ここからが「ジオ」。
これは例えて言うと「神様」と呼ぼう。
「ジオ」という名前の「ジオ神」というのがこの地表の下に住んでいると思ってください。
地球の一番深い所に「マントル」という神がいる。
マントルは対流する。
炎の海が真ん中にあるが、それが燃えながらゆっくり動いている。
横にも動くし、縦にも動く。
この真っ赤に焼けたマントル。
これが冷えると潜る。
熱くなると浮かび上がってくるという、「対流」という運動を繰り返している。
このマントル対流は浮かんできたマントルが地下670kmの浅いところで地面の底を焼く。
地面の底を火が焼いている。

丸い形の餅を焼くところを思い出すと、イメージしやすいと思います。餅は真ん中がふくらんで、そのあとひび割れができてきます。大地が裂けるときも、このようなひび割れが等間隔に3本できるというのが、オラーコジンという考え方です(『フォッサマグナ』174頁)

オラーコジンでは3本のリフトは「T字形」に「進化」していくそうです。2本は一直線につながり、もう1本が直交する形です。私は日本海の拡大に寄与したのはつながった2本のリフトで、もう1本のリフトが南へと延びていき、日本列島の真ん中を貫いて北部フォッサマグナをつくったのではないかと考えています。−中略−
 日本海の拡大とともに、東北日本側のリフトは反時計回りに回転し、西南日本側のリフトは逆に時計回りに回転しました。
(『フォッサマグナ』180頁)

(ここで番組では時計回りを逆に説明しているが、後で訂正される)
フォッサマグナというジオ、地形に関しては世界でただ一つ。
今、「マントルの火が焼いた」と言った。
マントルの火の炎のことを武田先生は「火の鳥」と例える。
その日の鳥が溶接機の炎のように切った。
それで千切れてピタッとくっついた。

日本列島の島弧の方向が、フォッサマグナのところで逆「く」の字に曲がっているのは、これで説明できると考えます。(『フォッサマグナ』180頁)

 西南日本の沖合にあるフィリピン海プレートの海底岩盤は、伊豆・小笠原弧を載せたまま北上して、南海トラフや相模トラフで本州の下に沈み込んでいます。1年間におよそ4cmの速度で北上し、ついに本州に激突しました。伊豆・小笠原弧の「北上」は、その後も続きます。プレートに押され、本州の下に沈み込んでいったのです。しかし、伊豆・小笠原弧の地殻は20km以上の厚みがあったので、上層部は沈み込めずにはぎとられて、本州に押し付けられるように付け加わります。これを「付加体」といいます。こうして伊豆半島ができました。(『フォッサマグナ』82頁)

地球の真ん中にマントルという炎がある。
そのマントルは時々ブァーッと炎をあげて、地表に向かって火の鳥を飛ばす。
火の鳥は地面の底を焼き、エネルギーが無くなって冷えたら潜っていく。
炎は冷えたら潜っていく。
炎は熱くなったら上がってくる。
このことを覚えると日本はプルームという火の鳥が作った諸島。
島の連続衝突によってできた非常に珍しい、世界にただ一つの地勢、地形。

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2019年02月25日

2018年10月8〜19日◆知ってるつもり(後編)

これの続きです。

このスティーブンとフィリップが本の中で繰り返し言っているのは「決して人は一人で考えてはいけない」と。
人間というのは本物の知識が頭の中だけに蓄積されているわけではない、と。
例えば右手で使うもの、左手で使うもの。
それをカードで見て「これは名前は何と言いますか?」とかと言っても手に取らせるとパッと言える。
ペンが出てくる。
それをその人が右利きだったら右に握らせると「ペン」とすぐに出てくる。
つまり右手と一緒にペンを覚えている。
こんなふうにして脳に記憶があるのではなくて、記憶というのは体全部にあるんだ、と。
だから物事を覚えていくとき、体を無視してはいけない。
そういう例えなのだろう。

そしてもう一つ。
人は他者を使って考える。
他人を使って考える。
つまり「他人と一緒に考えなければダメだ」という。
だからやっぱり相撲には親方。
体操選手にはコーチ。
テニス選手にもコーチが必要、ということ。

 人類学者のジョン・スペスは、最終氷河期の末、つまり更新世後半の北アメリカ西部で行われていた集団的バイソン猟を、次のように説明する。−中略−
 獲物を殺すのは、狩猟の目的のほんの一つにすぎない。動物を屠ったら、肉をさばいて保存しなければならない。これも非常に大がかりな仕事だった。一頭あたり一六〇〇キロほどもあるバイソンを一〇頭さばき、保存処理をするのがどれだけ大変か、想像してみてほしい。これには共同体をあげて協力する必要があった。
(124〜125頁)

ところが人間の中には「オレが倒したバイソン」ということで肉を全部自分のものだと勘違いする人がいる。
そういう頭の使い方をしてしまう人がいる。

テキサス大学の心理学者、エイドリアン・ワードは、インターネット検索を利用することで、被験者の認知的な自己評価、すなわち情報を記憶し、処理する能力に対する評価は高くなることを明らかにした。しかも知らなかった事実をインターネットで検索した後、その情報をどこで見つけたのかと尋ねたところ、記憶違いをして「もともと知っていた」と回答するケースが多かった。(151〜152頁)

スマートフォンなんかで調べものをしているヤツは態度がデカい。
人の疑問に対して「すぐわかりますよ」と必ず言う。
でも繰り返し言うが、たいした解答ではない。
ゴーグル(グーグル)。
けっこうガセがある。
間違いがあるし個人的な見解がある。
個人的な見解でその手のことを書いていることがある。

スティーブンとフィリップが挙げている人間の混乱の仕方。
航空機の速度が十分な揚力を生み出せない、失速事故が起こった。
水平行動を取れなくて、ゆっくり落下し始める。
マニュアルにちゃんとあって、学校でお勉強しているはずなのだが。
人間の手の操縦に代えて、飛行機を立て直さなければならない。
その時どうするか?

航空機の速度が飛行状態を維持するのに十分な揚力を生み出さなくなると、失速する。失速すると、航空機は落下する。失速から復活する最適な手段は、航空機の先端を下に向け、飛行速度が揚力を維持できるレベルに上昇するまでエンジン出力を高めることだ。(158頁)

落ちている時は(機首を)落とす。
グライダーを飛ばすとわかる。
飛んでいるものというのは、高く上がってコクーンコクーンと下がっていくが、下がって水平を保とうとする。
これは物理の鉄則で、どこかで水平飛行の高度が見つかる可能性が、下げることによって得られる。
ところが落ち始めると、ほとんどの人が上げようとする。
そうするとますます急角度で落ちるという運動に。

武田先生が結構お世話になった大学の先生。
立命館にいらした東洋学、中国文明の研究家。
加地(伸行)先生。
新聞なんかでお名前を知っている方がいらっしゃるかも知れないが、メディアに登場する文化人の悪口を書いて今、大当たりに当っている。

マスコミ偽善者列伝 建て前を言いつのる人々



温厚ないい人なのだが、すごい売れ行きらしくて。
タイトルも何か物凄い。
ちょっと言いにくいぐらいのすごいタイトル。
「誰が知ったかぶりしてるか」「知ってるつもりで威張ってるか」というのでバーッと名前が書いてある。
でも加地先生の理路は決して感情論ではない。
それがすごくわかりやすい。
ヘイトスピーチに関することで、加地先生がお書きになっていたので「ああ、そういう考え方、なんとなく自分も支持してしまうな」と思った。
ヘイトスピーチ。
とある国の人たちに対して激しくその人たちを侮辱するようなことを言う。
そうしたらこの知り合いの加地先生が米軍の基地反対のプラカードに「ヤンキーゴーホーム」とあった、という。
ヘイトスピーチを問題にするのなら「ヤンキー」という呼び名に関してもちゃんとした反応を示すべきだ、という。
この理路は。
やっぱり侮蔑の中で「ヤンキー」だけは平気で「ゴーホーム」という。
「それはないんじゃないか?」という。
そこをきちんとしない限り、抗議運動とヘイトスピーチの壁はなくなってしまう。

世界最強の国はどこか?
アメリカ。
加地先生がすごく突っ込んで「じゃあ、何で最強なんだ?」。
「兵力とか経済力」と思う水谷譲。
加地先生が「兵力だったらいっぱいいる」と。
中国だって負けていない。
人数等々。
何でアメリカをガツーンとやっつけないんだ?
兵力が強いのに。
アメリカは「友達がいらない国」。
付き合わなくても一国で飯が喰っていける。
工業と農業のバランスが比較的いいので、自分のところの田んぼ、畑で採れたもので物を作りつつ生きていける。
そんな国は世界でアメリカしかない。
ギリギリだが。
贅沢を言ちゃダメ。
でもアメリカは紙にも困らないし電気にも困らない。
水もきっと何とかするだろう。
それに比べて中国はもう農業があぶない。
中国が小麦を輸入している。
麺類の国が。
日本も。
小麦は自分のところでなんとか・・・。
日本も一番大事なのはもしかしたら「農業」かも知れない。
やっぱり農業は絶対に持っていないと。
世界のお友達から去られた後「喰い物がない」と慌てる惨めさ。
つまり加地先生がおっしゃりたいのは「自分の持っている知識ですべてを割り切りすぎる」という、そのことなので。
人の名前を出さないということで「加地先生の本をいくつか取り上げようかなぁ」というふうに。
武田先生もメディアで働くので、(加地)先生がボロクソ言った人とすれ違うことがあるので。
ただ、加地先生のおっしゃっていることはすごくわかる。

人々は自分の知っていることだけで世界を割り切りたくて、逆の意味でいうと「錯覚を喜んでいる」という。
この『知ってるつもり』のスティーブンとフィリップは繰り返し言う。
自分の知らない人と一緒に考えるという知恵を持っていない限り、人間はバカになっていきますよ。
そういえば日本のやっぱり前半中盤ぐらいのスキャンダルは全部狭いところの範囲内だった。
日本のアメフト部。
それから日大の総長さん。
アマボクシングの会長さん。
それから東京のお医者さん関係の学長さん。
それから必死になって「自分の息子を大学に入れてくれ」と頼んだ文科省の方。
わりと狭いところでヒソヒソとお話しをなさっていた。
それから女帝部屋に呼ばれて「ナントカパワーを感じた」という選手と。
それから体育館の片隅でビンタをしているコーチとか。
いかにもこのぐらい物陰での会話であるし、話ではある。
「それではダメなんだ」と。

今、大きな時代の変化を迎えている。
それは何かというと、賢さの定義が変わりつつある。
人間の頭の良さを決めるのは実はIQとか知能テストではない、と。
別の才能がその人の賢さを決めていく、と。

思い込み。
天気予報の時にレポーターの人が地元に住んでいる人に質問して言わせている。
「ここはアンタ、ずーっと生まれた時から生きててアンタ、70年近いよ?」「始めてだよ。こんなに雨、降ったのは」という。
その70年があてにならない。
その70年というのはデータとしては非常にか細い。
そういう定型の言葉を持ってきて「異常気象である」ということを遮二無二言わせようとするのはどうかなぁと思ったりする。
みんな最近疲れてきたせいか、だんだん「異常気象」と言わなくなった。
昔、テーブルを叩いて言っていた。
いっぱい不幸があって、本当に被害に遭われた方には申し訳ないが、地球も一生懸命バランスを取るために強烈な台風が来る。
「どうしてもあのスピードで海をひっかきまわさないと全体が」というのを考えているとすれば、あんまり呪うことはできない。
そんな気がする。
切ない。
時としてこの国に住んでいることを呪いたくなる時がある。
本当に台風21号なんて見ていると「まっすぐ行けー!」と言いたくなる時があるカックーンと曲がって四国に来る。
でも時としてあんまり連続して20、21(号)とか続くともう本当に「何でオメェそこで曲がるんだ!」と「こっちくんな!」と言いたくなる時がある。
しかも今年は災害があって、また同じような台風が来たりとか「今年また来るの?」というのは・・・と感じる水谷譲。
中国地方だってまだ片付いていないのだから。
そうしたら時々するどいことを言う、武田先生のお譲さん。
「ねぇパパ。台風も来なきゃ雨も来ない。竜巻も来なきゃ、地割れとか土砂崩れもない。どこか知ってる?」
砂漠。
「日本は何でこんなに揺れたり濡れたり崩れたりするんだ」と言ったらお嬢さんが「それは地面が生きてるからよ」と。
「生きてる地面」の上に住んでいる。
まだ成長している。
川は流れを変え、山は姿を変える。
確かにもう本当に、そばに住んでいた方は大変な犠牲だが。

テレ東『YOUは何しに日本へ?』
夏だ、祭りだ、絶景だ!”日本の伝統LOVE”で猛暑をぶっ飛ばせSP:YOUは何しに日本へ?|Youは何しに日本へ?:テレビ東京
この間、変なヤツがいたので思わず結果として見た。
金継ぎ。
お皿の割れたところを「継ぐ」「修理する」という。
パテで。
たいがいは漆。
漆を固めて。
それで割れた茶碗をそれで塞いで、そこに装飾をほどこして「かつてあったものよりも、さらに美しいものを作る」という。
その「金継ぎ」にイカレたポーランドの青年がいて、日本に習いに来ている。
それで金継ぎがいかに素晴らしいかを一生懸命テレビスタッフに語る。
ヨーロッパにも金継ぎ技術みたいなものはある。
だがそれは高級なお皿とか陶器。
何でか?というと、使わないが飾っておくために修理する。
日本は違う。
金継ぎは継いだらまた使う。
そんな技術は世界にはない。
すごいのは、粉々に割れた茶碗が割れなかった茶碗よりも金継ぎの後、値段が何十倍にも上がる。
その金継ぎで名を売った名器がある。
「織部」という。
あの人は金継ぎのカブキモノ。
だから金継ぎ技術を高めるために「自ら茶碗を割った」という。
だから金継ぎ茶碗がものすごい。
割れたところにきれいに漆で。
聞いたらあれは60〜70工程。
70回ぐらい手間がかかる。
割れなかった茶碗よりも値段が上がる。
立ち上げた会社を2年間で10社も倒産させ、直後に足を骨折という黒歴史を持つYOU。「人生最悪」って時にネットで見つけたのが金継ぎだった。壊れても美しく生まれ変わる様を見て、「自分もまだやれる!」と一念発起して起こした会社が、5年目でなんと年商11億の企業に急成長。つまり、今の成功は金継ぎから始まったというから好きすぎるのも納得〜。
(ラジオでは倒産の回数は7回と言っているが上記のように10回)
カネを貯めて金継ぎ作品を買いに来るのが彼の楽しみ。
金継ぎを見ると元気が出る。
別れ際に日本のスタッフに「自分も金継ぎで前より高くなってみせる」と言いながら背中を・・・。
いい話。
さっき言ったが(日本は)山崩れはあるし地震は多いし、土は持っていかれるけど、日本人はこの大地に、生きた大地にしがみついて懸命に金継ぎしながら生きてきた。
「金継ぎ的美」というのはこの日本人の日本の土に対する感情と全く同じ感情を芸術にしたのではないか。
割れるものを恐れず!

今、時代と共に賢さの定義が変わりつつある。
かつて人の賢さを計測する方法は知能テストだった。
足し算を素早くやったり。
「四角の中に何個の三角形が隠れているか答えなさい」とか。
そういうことで賢さを測っていた。
今は違うそうだ。
まずは「g因子」。

「一般的(general)」の頭文字から「g因子」と呼ばれる。(222頁)

(この「g因子」はIQを一般的な指標とするものなので旧来の「賢さ」を指すのだが、武田先生は曲解しているようで、この後の説明は本の内容とは異なる)
これはその人の知能。
空間、言語、数学、類推、それから単純、複雑思考の使い分けなどの中で、他者との関わりを利用した方がよいと判断した時、すぐにグループに呼び掛ける力。
わかりやすく言うと、何かの問題に遭遇した時に「すぐにグループを組める」という。
そのグループを組む力のことを「g因子」という。
これは実は「賢さ」に入っている。
だからグループを組めない人は能力が低いということになる。

集団知能仮説とは、集団においても同じような相関が存在するという考えだ。あらゆる集団作業の成績には相関性があり、集団の成績を分析することでg因子と同じような因子(「集団(Collective)」に因んでc因子と名付けられた)が抽出できるはずである、と。(227頁)

(上記のように本の中では「c因子」とは個人の能力ではなく集団としての能力について想定されているものだが、これも曲解しているようだ)
グループを形成した後、グループ全体を励ましてグループ全体の成績を上げようとする。
そういう人がいるとするとその人のことを「c因子が高い」と呼ぶ。
「集団知能が高い」というふうに表現されて「知能の高さ」に。
だからグループ。
仲間を集める力。
仲間と一緒に頑張れる力。
それが今は「知能」。
日本語で難しくて「人間力」とか言う。
でもそういうのを賢さの中に、それが実は一番大事な賢さである、というふうに賢さの定義が変わりつつある。

今年(2018年)はスキャンダルの方を振り向くとその「ジェネラル(g)」も「コレクティブ(c)」も低かった人が多い。
仲間が集まらない。
それから仲間と一緒にやる気がない。
今年のスキャンダルの主のだいたいの特徴。

パフォーマンスが低い人ほど、自らの成果を過大評価していた。(278頁)

いっぱいいる。
本格的にリングに立ったことがないのにパンチの練習をやっている爺さんがいた。
「軽いパンチ、アカへんのや。ボォンと入らななー?」
やってみろよ、三分間。

運転が下手な人は、スキルが低いだけでなく、習得すべき運転のスキルがどれほど幅広いものであるかもわかっていない。だから実際よりも自分はうまいのだと思う。(227頁)

無知と錯覚が重なった人で、こういう人がコミュニティの知能から切り離されると、より大きなコミュニティに被害をもたらす人物になってしまうという。
そういうのは思い当たる。
自分の狭いスキルにうぬぼれている人は集団から切り離されると集団全体をダメにするほどのミスを犯す人になる、と。
どんなに無知であっても、集団、あるいは仲間を集め、考える力を持った人というのはg因子、c因子が高い人だが、これはものすごい偉業を残すそうだ。
その一人がJFK。
(番組ではg因子、c因子の話として紹介されているが、以下は無知であったことが成功に向かった例)

 一九六一年の段階で、ジョン・F・ケネディには六〇年代のうちにアメリカの宇宙飛行士が安全に月面に着陸できると予想する正当な理由は一つもなかった。ケネディの予測は、錯覚から生じた傲慢さによるものとしか形容できない。だが、信じられないことが起きた。アメリカはそれを成し遂げたのだ。JFKが大それた野望を語っていなければ、アメリカは挑戦すらしなかっただろう。(283頁)

これは仲間さえいれば、どんな錯覚もとんでもない奇跡を起こす引き金となりうるのだ、と。

武田先生の注文。
もうちょっと具体的に色々書いて欲しかったが(この本は)そのへんが少ない。
この特徴はアメリカの研究者の方の本というのはすごくドメスティック。
途中で腹が立って「私には少〜しも面白くないのです」と書いている武田先生。

 次ページに挙げたのは、NSBが一九七九年にアメリカ国民の科学的知識を測定しはじめて以来、最も頻繁に出題された質問だ。(173頁)

質問 ※3番以外は正誤を解答  正答率(%)
1.地球の中心はとても熱い。  84
2.各大陸は何百年もかけて現在の位置まで移動した。今後も移動を続ける。  80
3.地球が太陽の周りを回るのか、太陽が地球の周りを回るのか。  73
4.放射能はすべて人為的につくられた。  67
5.電子は原子より小さい。  51
6.レーザーは音波を集中させてつくる。  47
7.宇宙は巨大な爆発とともに始まった。  38
8.生物のクローン技術は、遺伝子的に同一のコピーをつくる。  80
9.赤ん坊の性別を決めるのは父親の遺伝子である。  61
10.一般のトマトには遺伝子はなく、遺伝子組み換えトマトにはある。  47
11.抗生物質は細菌とウィルスの両方に効果がある。  50
12.今日私たちが知っている人間は、先祖である動物から発達した。  47
(174頁)

答えは1.正 2.正 3.地球が太陽の周りを回る 4.誤 5.正 6.誤 7.正 8.正 9.正 10.誤 11.誤 12.正。(175頁)

9番のみ誤答で11点だった水谷譲。
武田先生は満点。
スタッフは10点。

 各質問の横に書かれた数字は、二〇一〇年の調査で正解した回答者の割合だ。質問七と一二は、正解を書くことが宗教上の信念に反する場合もあるので、議論の分かれるところだ。両者の冒頭に「天文学者によると」あるいは「進化論によると」と追加すると、正答率はともに約七〇%に上昇する。−中略−アメリカ人の愚かさ加減に笑い出したくなるかもしれないが、少し待ってほしい。中国、ロシア、EU、インド、日本、韓国での調査結果もさほど変わらず、ほとんどの国ではもう少し悪かった。(173頁)

ちょっとこれはおかしい。
このへんちょっとスティーブン、フィリップはもう一回研究し直して欲しい。
この12問を5点間違えるというのは宗教上の理由にしてもちょっとやっぱり『三枚おろし』をアメリカもやった方がいいかも知れない。

どうして人間は無知になってしまうのだろう?ということ。
これはもう非常に単純なことで、今の自分、今のコミュニティ、それに属しながら、更に次なるコミュニティの中に自分が入ってゆこうとするという、そういう思いがなければ。
そしていくつになっても自分を「完成しない自分」とし、決してうぬぼれず、コツコツと勉強していくという。
アナタが知らない事を一日も休むことなく加算、積算されていきます。
自分の生きていく世界のすべてを支配していると思っていた老人が、2018年夏、け躓いたプレイをたくさん見た。
今、所属しているコミュニティに満足せず、またオノレにもうぬぼれず、という意味でお届けした「知ってるつもり」。

posted by ひと at 11:06| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月8〜19日◆知ってるつもり(前編)

スティーブン・スローマンさんとフィリップ・ファーンバックさんというアメリカの学者さん。
注目されつつある学者さんということで早川書房が日本語版を出している。

知ってるつもり――無知の科学



(番組では副題が「知ってるつもり」だと言っているが、多分この部分は副題じゃない)
人間の愚かさと言うか「知っているつもり」でいるという。
「これいいかなぁ」と思って手にした本。

 一九五四年三月一日、彼らが太平洋の片隅で目の当たりにしていたのは人類史上最大の爆発だった。「シュリンプ(エビ)」と渾名された水素爆弾を使った核実験「キャッスル・ブラボー」である。だが何かが決定的におかしかった。爆心地にほど近いビキニ環礁のシェルターに座っていた兵士たちは、過去にも核実験を見たことがあり、爆発の約四五秒後に衝撃波が来ると予想していた。(9頁)

爆心地から100キロ以内の立ち入り禁止。
ビキニ環礁近くの島に住む島民たちもロンゲラップ島やウチリック島へ強制疎開させられた。
マグロ漁の全ての民間漁船も安全のため100キロ外へ出された。
そういう意味ではアメリカはエライ。
きちんと安全を考えて。
賢いアメリカ。
科学のアメリカ。
その時、厚さ90cmのトーチカに守られた兵士は安全確保し、空気中の放射能を検知のためB36という飛行機が飛んでいた。
これも全部科学的に計算した安全圏だった。
そして海上だけではなくて海中だが爆心地から深くソ連のスパイ潜水艦を警戒するため、米潜水艦が危険外で潜航し、スパイ活動を見張っていた。
そしてついにその瞬間を迎えて水爆、核実験が行われた。

地面はゼリーのようにゆらゆらと揺れた。九〇〇メートル上空では、B36の乗組員が咳き込み、パニック状態で叫んでいた。機内には熱と煙が立ち込め、−中略−そこから一三〇キロメートルほど東の海上では、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の乗組員が甲板に立ちすくみ、恐怖と驚きをもって水平線を見つめていた。(9頁)

爆発から二時間後、放射性降下物の雲が船の上空に到達し、数時間にわたって死の灰を降らせたのだ。(10頁)

潜水艦から空中に浮かんで観測していたものから厚さ90cmのトーチカに守られ安全を確保した兵士まで全員被爆。
第五福竜丸だけではなく、ないしょにされていたがアメリカの兵士も全員被爆している。
実は計算間違いがあった。
科学のアメリカが。

一九四五年に広島に投下された原子爆弾「リトルボーイ」はTNT一六キロトンで、−中略−シュリンプを開発した科学者たちは六メガトンの核出力、すなわちリトルボーイの三〇〇倍以上の威力を想定していた。しかしシュリンプの実際の核出力は一五メガトンと、リトルボーイの一〇〇〇倍近かった。(10頁)

この実験のように、一つの水爆実験に関して数万人の関係者がいる。
その関係者のうち、その威力を計算した科学者は数人であった。
誰一人チェックしなかった。
この本のスティーブンはいいところに目をつけた。
私たちはどうやら間違いなく、そういう世界に今、住んでいる。
人間というのは、これほどのバカをしでかす生き物なのだ。
それを決して忘れてはいけない。

世の中で最も危険なのは何か?
それは「知っているつもり」。
これが最も怖いとスティーブン&ファーンバックは訴えている。
では、私たちはいかにものを知らないか?
「知っているつもり」で平気で生きているかを探っていこう。

スティーブン、フィリップも言っているが、私たちは身の回りの90%を説明できない。
知っているつもりで生きていっているという我々の暮らしがいかに脆いか、いかに危険かをスティーブンとフィリップの二人に教えてもらおうと思う。

自動ドアは何で開くかよくわからない。
エレベーターは何で上下しているのか?
説明できない。
電車は何で動いているのか。
考えてみたら説明できないことばかり。
中でも馴染み深いと言うか、みなさんがお世話になっている水洗トイレ。
何であれは水が入れ替わるのか?
このトイレの発明はもの凄く時代が古くて19世紀。
1880年代にもう発明されていた。
基本構造は21世紀の今まで、ほとんど変わっていないという。
ある意味で完璧な発明。

主な構成部品はタンク、ボウル、トラップ。トラップは通常S字かU字型で、ボウルの排水溝より高い位置でカーブして、それから下水道につながる排水管へと降りていく。最初の段階で、タンクには水が貯まっている。
 トイレを流すと、水はタンクからボウルへと一気に流れ、水位がトラップの一番高いカーブより高くなる。するとトラップから空気が抜け、水が流入する。トラップが水で満たされたとたん、魔法が起こる。サイホン効果が生じ、ボウルから水を吸い込んでトラップを通して排水管まで流すのだ。
(14〜15頁)

一番言いたかったことは、かくのごとく我々は身近な暮らしの中でも、その物がどのような仕掛けで動いているのか知らない、という。
まだいっぱいある。
エレベーターとか自動扉とか言ったが。
古い発明で未だにうまく説明できないファスナー。
何で閉じるのか?
やっぱり世界の90%が説明できない。
すなわち「知っているつもり」で生きているんだ、と。
そのような錯覚を自覚するかしないかで生き方が大いに変わってきますよ、という。

それから今年(2018年)はやっぱりそういう意味では「大活躍したんじゃないかなぁ」と思う「気象」。
お天気。
これについてもスティーブンとフィリップは提案している。
彼曰く気象について、天気について人間が持っているデータはせいぜい150年ぐらい。
ということは地球全体のことで気象を占おうとする時に(150年は)もう2秒か3秒ぐらいのデータでしかない。
だからデータとして少なすぎて天気予報、気象というのは相当正確に当てることは難しい。
大雨が降る、降らない。
台風の進路。
竜巻、高潮、海抜、時、所、山、海、川。
そういう条件がバーッと重なってくるので気象というのはやっぱり相当予報が難しい、と。
そういうことを聞きながら、踏まえながら、天気予報と付き合った方がいいですよ、と。

一番わかりやすい例だが(台風)20号は半分当たったような当たらないような台風予想だった。
平成30年台風第20号 - Wikipedia
急にカーッ!と四国方面間に上陸したヤツ。
これはダラダラと言っていたが、意外とスッと抜けた。
雨は降ったが。
(台風)21号。
「風が強い」というのがきれいに当った。
この20号と21号というのは聞く方の立場で言うと20号は半分しか当たらなくて、21号はズバリ当たった。
受け止める側は命を助ける手段。
台風がやってくるたびに全く同じことを繰り返し言うというのは、予報の方ももうちょっと言葉を・・・。
まあ、勝手な要求。

台風が来る度に同じ注意ばっかりされると、注意に関して鈍感になるということを申し上げたかった。
その意味では台風が通り過ぎるたびに気象庁の人が出てきて「今度の予報はこことここが当たったけれども、こことここは外れました」等々を少し聞かせていただけると自分の身の周りの、自分が見聞きした台風の記憶というのが、この次にやって来る台風に関して磨かれるような。
分析してもらうとわかりやすい。
もう全部同じことを言うから、どれがどれだかわからなくなっちゃう。
何でこんなことを言うかというと、本の中でスティーブンとフィリップが言っていることだが、私達人間というのは後ろ向き情報、過去の情報を前向き情報に変換するという、そういう能力を持っている。
だからこそ、我々の暮らしがそこにあるワケなので。
後ろ向き情報というのをちゃんと聞かせていただきたい。

ものすごく防災なんかに詳しい方がいらっしゃって、何かこう、反省してらっしゃる「用心した方がいい」という方がいる。
北海道の地震なんかで液状化か何かで「あ、ここらへんはね、水出ますね。この土から見て」という。
それはそうかもしれないが、先に言ってあげなさいよ!アナタ!
ああいうのがものすごく合点がいかない武田先生。
【北海道震度7地震】内陸部でなぜ液状化? 札幌市清田区、谷地に盛土 耐震化遅れた水道管も被害拡大 (1/2ページ) - 産経ニュース

それから関空に関してもそう。
滑走路の高さに関して「この飛行場は想定外の波に弱いですね」と。
みんな弱いよ!想定外に!
【台風21号】関空「50年に一度」の想定超えた!? 海上空港のもろさ露呈(1/2ページ) - 産経ニュース
あれは一見便利そうだが、本当に子供の理屈で考えたら当たり前。
飛行場に行く道が一本しかない。
そこを通れなくなったら孤島になっちゃう。
そういう意味で前向き情報ばっかりで作っちゃった飛行場という感じもしないでもない。
想定「内」「外」で「考えている」「考えない」をジャッジするのは本当にやめた方がいい。
「想定内」は昔会社を頑張って乗っ取ろうとした人が作った言葉だが。
堀江貴文 - Wikipedia

 世の中には、わかっているとわかっていることがある。これは自分たちにわかっているという事実が、わかっていることだ。一方、わかっていないことがわかっていることもある。つまり自分たちにはわかっていないという事実が、わかっていることだ。しかし、わかっていないことがわかっていないこともある。自分たちにわかっていないという事実すら、わかっていないことだ。(43頁)

そのことに関しては人間は謙虚であるべきた、と。
いつも人間は「わからないことがわからない」という、その側面を持っているんだ、と。

見ていて最近「不思議な世界になってきたなぁ」と思うのは、ちょっと武田先生のところにも数字(視聴率)なんかが具体的に入ってくるのだが、とあるクイズ番組なんて「5〜6%取ればOK」という。
そういう時代。
テレビドラマはカネがかかるので二桁。
15(%)以上というのが暗黙の了解で、そういうところに生きていた。
昔はトレンディドラマは38%とか40%近く取っていた。
幸せなことに、そういう時にそういう仕事をやっていた武田先生。
今はというと、BSはあるわCSはあるわ。
本当に山ほどチャンネルが増えたワケで。
それで割っていくとドンドン、という。
でも地上波が「現代」「今」を映し出すとすればBSが「過去」。
BSの扱いはわりと昔のヤツが多い。
この間『昭和は輝いていた』で武田先生も賞をいただいた。
番組そのものが後ろ向き。
「昭和」をやっているから。
8チャンネルのBS(BSフジ)でよくやっているのは『鬼平犯科帳』。
あれを中村錦之助さんの代からやっている。
やっぱり何かこう、ちょっと過去を。
日テレなんて相変わらず『笑点』の司会者はあの人。
円楽さんとか歌丸さんの司会のヤツをやっている。
それをつい見ちゃう。
つまりテレビの電波は今、前向き情報と後ろ(向き)情報を両方やっている。
だから東野英治郎さんの『水戸黄門』とかやっている。
「やがて私もあっち行っちゃうんだろうなぁ」と思って。
『金八先生』も始まったらものすごい本数があるから「延々と」という。
だからテレビが今、「前向き情報」と「後ろ向き情報」で「地上波」「BS・CS」となる。
そうやって考えると人間にとっては、天気予報もそうだが「前向きと後ろ向きの情報が必要である」という。
これはやっぱり「明日を予見する」そういう能力に変換するための大事な素材ではないだろうか?というふうに思う。
人間というのは実に不思議な生き物。
いろんな物語があるが、ちょっといじるとたちまち物語が別の物語になるという。
そういう不思議な側面があるということ。

イディッシュの民話にこんなものがある。商店主がある朝店に来ると、ショー・ウィンドウにスプレーで下品な落書きがされていた。商店主は落書きをすっかりきれいにしたが、翌日また同じことが起きた。そこで一計を案じた。三日目近所の不良が集まってきて落書きをすると、彼らに一〇ドルを支払い、その労力に感謝した。翌日も同じように不良たちに礼を言ったが、今度は五ドルしか払わなかった。その後も店を汚す不良たちにカネを払い続けたが、その金額は徐々に減っていき、ついに一ドルになった。すると不良たちは姿を見せなくなった。これっぽっちしかカネをもらえないのに、商店主を困らせるためにこれだけの手間をかけてもしかたがない、と思ったからだ。(76頁)

これは主人公が切り替える。
「いたずらを叱る」とかっていうことではなくて、いたずらにギャラを払うことによって、そのギャラの対価でだんだん彼は疲労を覚えてくるという。
実に巧妙な落書きをやめさせる大人の知恵だった。
これは物語の乗り換えがある。
そういう意味で後ろの物語を前向きに変えるという。
これは因果を実にうまく取り入れた。
これはマーク・トウェインなんかもそういうのがある。

トム・ソーヤーの冒険 (新潮文庫)



親からペンキ塗りを頼まれた主人公が楽しそうに、本当は楽しくないのにやっていて。
そうすると仲間が集まってきて、あんまり楽しそうにやっているので「代わってくれ。オレにもやらせてくれ。頼むよ!」と言いながら。
すっかり小銭まで巻き上げてやらせて。
綺麗に壁は塗り替えられました、という話。
態度によって、いかな物語も美しく変えることができる。

(2018年)9月につくづく思ったこと。
坂上(忍)さんがえらく興奮して。
だからついテレビを見てしまう武田先生。
体操・速見元コーチの暴力映像を流した「バイキング」 坂上忍に対する批判も集まる|ニフティニュース
ジムで走りながら見てしまうのだが、あのコーチのあの叩き方はない。
大変申し訳ないが、武田先生にも娘がいるが、娘が好きでやっていることでもあのコーチがあんなふうに叩いたら、あのコーチを叩く。
絶対許さない。
人んちのお譲さんをあの早さで叩けるというのは。
当時、選手側はそれを受け入れていた。
あのコーチの額から血の一滴も流していただかないと気が納まらない。
あんなので「今月分」と教えていただいたお給料は払えない。
あの時「こんなもんだなぁ」と思ったが、後ろ向きの人との差をモロに感じたのは大坂(なおみ)さんという人がいた。
あのコーチ。
(サーシャ・バイン氏のことを言っていると思われる。先日解任されてしまったが)
あの人はビンタをかましたとは思わない。
あの人が(大坂)なおみさんがふてくされて「できない!」とか言ったところでバチーン!と叩いたりしないと思う。
「ユーキャン!ユーキャン!」「君はできる!できる!できる!」と。
どちらがメダルを獲れるか?
どちらがトロフィーを獲れるか?
あえてあのコーチにあの方法で彼女に金メダルを獲ってもらおうと思った武田先生。
獲れたら体操界でみんなビンタが大はやり。
でも聞いたことがない。
浅田真央についていたあのジェントルマンのおじいちゃん(佐藤信夫氏のことか)が「真央!」と言いながらパチーン!と叩くか?
リンクを降りた時に真っ先に温かいコートをかける人なのに。
それは違う。

ストーリーを変える、その力が人間を人間たらしめたのである。
我々は昔々、アフリカ東海岸の草原のサルであった。
そのサルはもの凄く弱くて、もういろんなケダモノの餌食「好物」だった。
一説によれば人類になるサルというのは4万頭ぐらいまで減った。
1回減ったことのある種。
「黙れ」というのを「シッ!」と言ったりなんかするのはヘビの「シャー!」に影響を受けたサルの時の記憶。
「シーッ」と言いながら噛みつこうとするヘビがいたのだろう。
それで「ヘビがいるぞ」の合図が「シーッ!」だったらしい。
今は国際的用語。
どこにいっても「シーッ!」と言うから。
弱いサルがヒトになったのは何かというと物語の力。
「あれをこやれば、こうなるのではないだろうか」という、後ろ向きを前向きの予測に変えてストーリーを作っていく力。
これが人間を人間たらしめたのである、という。

人間はもっとも弱い生き物で、いつ絶滅してもよかった、という。
そういう実にかよわな草原のサルであった。
そのサルが80億ぐらいだと思うが、それぐらいの大勢の「人類」という「人間」という種に増えたのかというと、それは因果を共有し、同じ物語をコミュニケーションとして持つ集団だからである、という。
喰い物を探しに行って、最初はやっぱり森の喰い物とかだが、雑食であるサルは大型の獣を狙うようになる。
最後はマンモスとか狙っちゃったワケで。
その時に「前にこうやったから今度はこの手で捕まえよう」とか。
それが想像できる生き物になった。
それが人類がここまで発展して人数を増やした理由。
ところがあまりにも前を向き過ぎて「け躓く」というのが結構人間には多いぞ、ということ。
人間はわかりやすく物語を作ってしまう。
だから何か問題があると今までの知恵ですぐ答えを出そうとする。
そこに人間の大きな間違いがある、という。

一度やったヤツだが、もう一回やりましょう。
この時に紹介されている)

 バットとボールで合計一ドル一〇セントである。バットはボールより一ドル高い。ボールはいくらか。(95頁)

バットとボール合わせて1100円。
バットはボールより1000円高い。
ボールはいくらか?
「ふたつ合わせて」だからすぐに「ボールは100円」と答えそうになるが、そうならない。
これは実は50円。
だから1000円高い。

 湖面にスイレンの葉が並んでいる。その面積は毎日二倍になる。四八日で湖面全体がスイレンの葉で覆われるとすると、湖の半分が覆われるまでには何日かかるか。(96頁)

「二四日」という回答がぱっと頭に浮かんだだろうか?−中略−面積が毎日倍増するなら、二四日目に湖の半分が覆われていれば、二五日目には湖全体がスイレンの葉で覆われているはずである。−中略−正解は湖全体が覆われる一日前なので四七日である。(96頁)

読売新聞でやっていて武田先生が四日ぐらい考え続けた漢字問題。
(□の中に同じ漢字一文字を入れて熟語を作る)
馬□
神□
□鳴
□子

答えは「鹿」。
知らない単語をポン!と入れられると人間は予測がつかなくなる。
「鹿鳴館」だったら武田さんもすぐに出てくる。
だが「館」がなくて「鹿鳴」という。
これは面白かった。

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2019年01月14日

2018年9月24日〜10月5日◆感情的になるなよ(後編)

これの続きです。

重大なことはまず情動、感情が動くこと。
その「情動」が価値に変化を与える。

先週は印象派の絵に関して。
「キリストを描け」「ギリシャの神話を描け」と西洋絵画が流れてきて。
ところがお茶をフランスか何かに配達する時に緩衝剤、詰め物。
それに浮世絵が入っていた。
お茶を販売する時の「包み紙」だった。
ところがその包み紙を広げて「美しい」と感情を動かしたフランス人がいて、これがパリで大ブームを呼ぶ。
それがジャポニズムのスタート。
ヨーロッパ、とくにフランスの画壇が揺れるほどの衝撃が北斎から始まった。
雨がバーッと降っている中、橋の上を頭を押さえて人が走っている(歌川広重『名所江戸百景・大はし あたけの夕立』 )とか。
紙か何か持った人の紙がビラビラと風に舞っている(葛飾北斎『富嶽三十六景・駿洲江尻』)とか。
本当にそういう意味では「意味がない」。
ところがそれを見たフランスのアーティストたちは「見たまま描いていいんだ、オレたちは」「絵の中に意味なんか無理やりこめるんじゃない」「見たまま描いてその中に感情がこもっていれば、これはアートなんだ」。
ジャポニズムから新しい美術運動が興った、という。
これがこの著者の言葉の通り。
「重大なことはまず感情が動くこと。その感情、情動が価値へ変化を与える。それは大きく価値判断の体系の再編成をしてくれるものだ」という。
高みへ登ろうとする時、情動、感情が動かない限り階段を上ることはできない、という。

この「情動」「感情」というヤツはまた同じ力で人を階段から突き落とすこともあるという。
これは「悲劇的ディレンマ」と呼ばれている。
ある努力をした。
それは懸命な努力であった。
もう今年の夏に、もう本当に。
一生懸命、家を建てた。
ところが突然やってきた。
日本は災害が多い。
嵐、そして火山、爆発等々、大地の揺れ等々で、それが倒壊して壊れてしまった。
そのことで犠牲者が出た。
大変だった。
その「悲劇的ディレンマ」を文学作品として描いたのがウィリアム・スタイロンの『ソフィーの選択』。

ソフィーの選択 (字幕版)



 ウィリアム・スタイロンの小説『ソフィーの選択』のなかで、幼い息子と娘とともにナチスによってアウシュビッツに送り込まれたソフィーは、ガス室行きかどうかの選別を行う親衛隊軍医から、恐るべき選択の「特権」を与えられる。二人の子供のうち、一人は助けてやるから、どちらを助けるかを選べ、というのだ。選べない、とソフィーが泣き叫ぶと、選ばなければ、二人ともガス室に送るぞ、と軍医は選択を迫る。それでも、選べない、とソフィーが言うと、軍医は、二人ともあっちへやれ、と部下に命じる。そのとき、ソフィーはとっさに娘を投げ出して、この子を連れていって、と叫ぶ。(101頁)

これは軍医が考えた悪魔的苦痛の与え方だったという。
しかし、ソフィーは錯乱と極限の苦痛を味わいながらも、サバイバーズ・ギルトに耐えるという。
(番組内で「ギルド」と言ったようだが「ギルト」)
「生きるための罪」というのを背負い込む、ということ。
その悪魔的選択を正気で続けることが彼女が悪魔のような軍医に立ち向かう、ただ一つの選択であったという。
「苦しもう」と。
そう決心した時に彼女の情動がピタリと静まった。
やるかやらないかで悩むよりも、この苦しみを引き受けて苦しむ。
「そういう人生を私は選ぼう」と思った瞬間、彼女の情動は動かなくなった、という。
これはすごい。

65歳から「人生最後の武道修行」だと思って合気道を習っている武田先生。
ちょっと自慢だが二段になった。
真剣に教えてくださる教授方がいらっしゃる。
この合気道は何が面白いかというと言っていることがトンチンカン。
水谷譲の息子も合気道をやっている。
やればやるほど不思議な武道。
そういう意味では問題の多いボクシング、柔道。
アジア大会で韓国の人が怒ってもめていた。
それからさっぱり勝てなかったレスリング。
相手に接触しながら相手をやっつけるという、武道ではないにしても体術の競技がある。
ところが合気道は実践じゃなく「型」修行で見取り稽古。
お師匠さんが見せてくれるその技を、自分がどれほどスムーズにできるかという。
練習場に行くと先生が見本を見せてくれる。
それを同門の人に頭を下げて「お願いします」と言って、四本掛けて四本掛けられてワンセット。
それを許可が出るまで繰り返す、という。
いわゆる「かたち」を稽古する。
ここに不思議な鉄則があって有段者は相手の人を怪我させちゃいけない。
ここが不思議。
勝ち負けがない。
技的には相手の手首を折り肘を割り肩を抜く、という。
武道なので「相手の骨なんか折っちゃうぞ」という技で。
でも稽古の時に先生から無闇に言われるのは「絶対に怪我させるな」「稽古の途中で怪我をさせたら、それは合気道じゃない」。
武田先生の道場はなかなか厳しくて、壁にぶつかったりすると優しい先生が「しっかり見てないからだ!」とか言われてしまう。
ちょっと怖い。
この「相手に怪我をさせない」。
これはどうも合気道をお作りになった植芝盛平さんという大先生がいらっしゃるのだが、この方が「合気道は相手を愛する武道だ」という。
柔道もレスリングもボクシングも全部相手を倒すため。
ところが合気道は敵と仮定するものに対して、手首、腕、肩を逆に取り、打ち負かすポジションを取りながら「傷つけない」という情動を感情をキープしなさい、という。
これはソフィーではないが、かなりのジレンマ。
しかしうちの先生はいいことを言うのだが「このジレンマのうちに、技そのものが柔らかくなるんだ」と。
先生の口真似をすると「強いっていうことは固いことじゃないですよ。強いってのは太いってことじゃないですよ。強いってのは重いってことじゃないですよ。強いってのはね、柔らかいことです。勝てないんですよ、柔らかい人には」と。
「丈夫かもしれんが、嵐が来ると折れたりします。折れない木は何か?柳です。吹かれちゃうんですよ。合気道は押してくる人には押されるんです。引っ張る人には引っ張られるんです。そのわずかな差から生まれてくる技。それが合気道なんです。だから『合気道』なんです。『気』を合わせるんですよ」
そこにこの武道の本質がある、という。
柔らかさはジレンマに自ら飛び込むことによってしか醸成されない。
醸すことはできない。
特に力んでしまうタイプの武田先生はそればかり言われる。
肩から力を抜くのがいかに難しいか。
四年やってもまだ抜けない。
やっぱり「肩から力を抜きなさい」と実際やるとなったら難しい。

いくら償っても、けっして赦しえない悪、許すことが正当にはなりえない悪も存在するだろう。(120頁)

連続殺人とか、お年寄りを、とか。
体の不自由な方を、とかっていう人たちに対して。
我々はその悪に対して「許しがたい」と思ってしまうのだが、「許しがたい」ともう一つ「それでも許さねば」というジレンマにあえて自らを置きましょう、と。
そこでしか柔らかさは醸成されない、醸すことができません、という。
こういうことをこの本の方では言っている。
それで合気道の先生の言っていることを思い出した。
『ソフィーの選択』のソフィー。
ソフィーと軍医の関係は「二人称の道徳」だ。
歪みは権利の偽造からソフィーに殺人について関与させ、ユダヤ人のどちらかを殺す資格を与えて、拒否すればどちらも殺すという矛盾にソフィーを突き落とし苦しませた。
ソフィーは軍人に対し憎しみ、ゲシュタポは憎まれるということによって苦しむソフィーを面白がるのである、と。
残酷なもの。
今もある「残忍な加害者」と「傷の癒えない被害者」という、こういう二人の関係があるとすれば、我々はどうすればいいんだと言うと情動的には「三人称を求めるんだ」。

今年(2018年)もスポーツ界の揉めごとがいくつもあって。
でもジイッと見ると全部配役が似ている。
加害者の人はみんな太っている。
みんな似たようなキャラ。
そういう人たちとの対立があるのだが、その対立を「三人称で眺めていこう」と。
三つの事件とも落とし方が全部同じ。
第三者委員会。
これがこの著者の言うところの「三人称で語りませんか」と。
ここからまた変わったところに問題は入っていく。

人と対立する。
「言った」「言わない」の問題なのだが、著者は二人の関係の二人称の道徳から脱出する。
三人称の道徳にしてしまえ。
客観的な人物をそこに置け、と。

三人称的になってしまった道徳はもはや私たちが実践している道徳とは言えないだろう。(159頁)

この言い切りは何だろうか?

自分の情動を洗練する。
これは不思議な言葉。
武田先生には意味がわからないが本に書いてあったので著者の方は武田先生が読み間違えていたなら抗議のハガキをください。
(本を読んでみたが、それらしい文章が発見できなかったので、ぜひハガキを!)
文章がこうあった。
自分の情動を洗練するためには、自分の心を見つめないことだ。
自分の価値的状況を他人に教えてもらう関係を取り結ぶことである。
(本の中には「自分の情動がどのようなものかを理解することを他人に委託してもかまわないのだろうか。明らかにそうではないだろう」とある)

春から続いた大学構内での揉めごと。
それからボクシングで起こったこと。
それからナショナルトレーニングセンターで起こったこと。
等々あるが。
自分の心を全部言うとものすごい傷つけ合い方になる。
そういうことを著者は言っているのだろうか。
つまり「自分の心のままに語ってはならないんだ」と。
「自分の情動がいかなものかというのは、他人に教えてもらう関係を取り結ぶことが、その対立している人との関係を何とか切り抜ける方法である」という。

感情を情動と呼ぶというこの本の著者の如く、哲学用語というのは時々面白い言葉を使うもので「こんな言葉、本当にあるんだ」と思った武田先生。
今、日本で一番多い労働者。
どんな労働に従事しているかというと「感情労働」。
いわゆる「サービス業」のこと。
哲学で言うと感情労働。
まあ、第三次産業。
武田先生は「芸能」、水谷譲は「メディア」の方の、そういうポジションにいて感情労働をしている。
つまり自分の感情ではなく職業の感情で生計を立てている。
水谷譲は自分の感情ではなく職業の感情で「こんなジジイと話したくもねぇよ」と思いながら「理屈っぽーい!このクソジジイ!」「まだ喋ってるコイツ」。
我慢して「ふんふん。なるほどー」とかという、そういう感情労働。

 今日では、接客業に従事する人たちだけではなく、医師もまた、聖職者や教師などとならんで、感情労働に従事する人とみなされる。(169頁)

自分の情動をそのまま患者に伝えることは職業倫理として許されない。
「あと一か月だね」
その真実を言うか言わないか。
職業倫理として自分の感情に走ることは許されない、という。
告知なら告知でタイミング等々を図らなければならない、という。

有用なサービスであっても、それが感情労働であるかぎり、不適切な情動を抱かなければならないが、そのような情動を抱く必要があるのは、顧客の優越性の承認欲求を満たすためである。(175〜176頁)

「うるせぇ客だなぁ」と腹の中で思いながらも「とんでもございません、お客様」とかと。
だからそのお客が目の前で何か抗議しているのだったら、その優越性に関して自分は感情を抑え込む。
情動を抑えて屈しなければならない。
屈するところから職業が始まる。
そういう意味では「優越性を承認しなければならない」という。

ちょうどこれをやっている時にその手の問題があった。
大韓航空やアシアナ航空の社長や親族は、その社員に対して強く優越性を強制した。
これは大韓航空どころではない。
日本のスポーツ界にも一番偉い方がこの優越性をなさる。

生きるために自分を卑下して、客の優越性を承認しなければならない。(177頁)

ストレス、苦痛を訴える人が非常に多い。
これは自分の情動を不明瞭にすることの苦痛だ、という。
「ワーッ!」と言いたくなることがある。

元キャビンアテンダントの健康社会学者の河合薫さん
CAさんは感情労働者の典型。
ムカッ腹立つこともあるだろう。
コジマ君というスタッフと福岡へ行く武田先生。
コジマ君は態度がデカい。
「新聞いりませんか?」と来る時にケンモホロロの返事をするヤツがいる。
「え?」という。
態度のデカいヤツ。
ちらっとキャビンアテンダントを見る武田先生。
腹の中は「この野郎!」と思っているのではないか。
あるテレビ番組で、話をツッコむお笑いの人がいた。
「お客さんから電話番号もらったりすることないんですか?」
受け取るのは受け取るそうだ。
その場で突っ返したりは絶対しない、という。
だからやっぱり彼らは感情労働で抑えている。
普通の道で会ったら「何するんですか!」と目の前で破られちゃうと思うが、機内ではスチュワーデスの、CAのちゃんと制服を着てらっしゃるから、自分の情動を抑えるのだろうが。
そういう非常にストレスの多い優越性の下に屈服している彼女たち。
あるテレビ番組で、バラエティのツッコみの失礼な質問に答えながら、彼女たちが生き生きと語りだした勤務実態があった。
彼女たちが何が生き生き話しているかというと、CAさんというのは「待機」という任務がある。
「待機」というのを会社から命令されると、彼女たちは制服を着てメイクを済ませて二時間でその飛行機へ搭乗できる宿で待つ。
宿か自宅、住まいで待つ。
「もしかすると」と思ったのだが、その「待機」という緊張が彼女たちの価値的状況を作っているのではないか?
これはあまりふさわしくないかも知れない。
フッとそんな気がした武田先生。
消防士の人がいる。
彼らがジャン!と鳴ったら飛び出して行くが、彼らが最も消防士としてプライドを持っている時間は何か?と思ったら、「待機の時間」だと思う武田先生。
消防署でベッドに横になって「待機」というか眠っている時、ウーン!と鳴ったらブワーッと着替えて鉄柱にぶら下がって下にストーンと。
一種あの「待機」はプライドを保持してくれるのではないか?
「無駄に寝てるんじゃない」という。
寝ている時も「俺たちは準備してるんだ」という。
その緊張というのが、実は職業に対して深い意味を感じさせ、情動を強く刺激しているのではないか?
二時間以内に行ける場所で待機を命じられたCAさんはメイクと制服を着てジイッと待つ。
本を読んでももちろんいいのだが。
でもその時に「仕事が待っているかもしれない」という「待機」というのは一種「張りつめたものを張ったまま、普段通りに過ごす自分」というので全部タガが緩んじゃった人よりも遥かに情動に一本筋が通っていると思う。
「情動」を刺激しているのではないか?
こういうことはもの凄く人間をある意味で動かしているのではないかと思う武田先生の勘。

喜び、充実、やる気、注目などは情動として好ましく、私を弾ませる「正の情動」である、感情である。

悲しみ、憎悪、嫉妬、罪悪感のような好ましくない情動に満ち溢れた人生は、非常に不幸であろう。−中略−好ましくないものは負の情動と呼ばれる。−中略−おおまかに言えば、正の価をもつ情動が多いほど、人生は幸福であり、負の価をもつ情動が多いほど人生は不幸であろう。情動価は人生の幸不幸と深い関係がある。(191〜192頁)

だから正の情動で日々を満たせば人は幸せになれるのか?
そう限らないのが人間なのだ、と。
「先輩の○○さんはあの時も笑顔でおられた」とかっていう、そういうこの「マイナスをプラスに変えていく」という情動がある限り、いつも正の情動で満たされるよりも、時として屈辱的なことが彼女たちの正の情動を刺激するんじゃないか?と

情動哲学者のプリンツ。
情動価値「感情が決めた値段というのは意識では動かせない」という。
(本に登場するのは「情動価」で、プリンツは内的強化子説を主張しているが「感情が決めた値段」といった話ではない)
そう思っちゃったらもう情動は動かない。

ワールドカップでの勝敗を見て感じたこと。
韓国と日本を比べる。
情動に差があるような気がする。
一勝二敗と一勝一敗一引き分け。
これはほとんど韓国と日本は差がない。
ところが帰国した選手団に関して迎え撃つサッカーファンの感情は天地の差があった。
0.5しか違わないが。
韓国は例の飛行場に降りた瞬間に生卵が。
日本は成田に帰った選手団に拍手喝采。
これは情動価値の差。
決勝に進んだ日本がベルギーに敗れた。
これも負けた。
ところが日本人は3対2、一点差で負けたことに関して正の情動で引き受けた。
韓国はというと、韓国はすごい。
2敗の後のドイツ戦で2−0で勝っている。
ドイツは前の大会で優勝したところ。
これを韓国の人たちは負の情動として受け止めて「生卵」になるワケだから。
喝采と生卵の、その出迎え。
ここに両国の情動価値の差があるような気がする。
あの選手を見ると腹が立ったのだろう。
韓国の人は負で捉えたその情動は動かない。

本著は負の価値的あり方を表層する情動能力が実は負けでありながら、正の動機づけとして捉える人間の奇妙さを説明している。

日本人は何で負けを感激するのか?
武田流の解釈。
それは自然災害。
日本列島は本当に時々可哀想になる。
今年(2018年)は9月になってもダラダラ一週間おきに(台風が)来やがって「ずっとまっすぐ行け!」と思ってしまったり。
それが必ず日本に。
天気予報の台風の進路を見ていると、まるで日本は朝鮮半島の人たちのために海に置かれた台風がぶつかってくる「壁」のよう。
台風だけではない。
今年の夏の初めは関西方面で地震もあった。
それから火山活動もあった。
いろんな山から煙が上がって。
自然災害の火、水、大地の不幸。
何と日本は全世界の半分くらいをこの小さなエリアで受けている。
我々はそういう非常に不幸の多いプレートの上に乗っかった列島に宿命として生きている。
感情として負の情動は「日常」。
もうあの天気予報の方の口ぶりを聞いていてもわかるが、不幸を予言することが予報。
あの人たちはいいことは決して言わない。
時々腹が立つ時があるが。
日本人は「不幸が起こる」ということに関して発想が違って「不幸が起こればその次はいいことが起きる」という。
そういう発想を日本人は持っている。
水谷譲もお子さんに体験させたことがある。
お正月に獅子舞がやってくると泣いている子供を捕まえて「噛んでもらいなさい!噛んでもらいなさい!」。
あれが負の情動の予祝。
「獅子に元旦噛まれると、もう噛まれることはない」という。
仮定で獅子に噛まれておくと、本当に噛まれることはない。
つまりすべての出来事は負から始まる。
つまづいた、負けた、屈辱的な目に遭った。
そのことによって日本はその次に勝つ。
正の情動を手に入れた。

たまに「今、幸せすぎて怖い」みたいなことを聞いて、それがわかる水谷譲。
つまりこれは獅子に噛まれることと同じで「不幸を予感することによって、幸せの方角を」。
日本人の発想。
台風が来ても地震が来ても頑張って生きていきましょう。

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2018年9月24日〜10月5日◆感情的になるなよ(前編)

情動の哲学入門: 価値・道徳・生きる意味



 本書では基本的に「感情」という言葉ではなく、「情動」という言葉を用いる。−中略−あえて「情動」という言葉を選んだのは、無数の名もなき情動たちをそこに含めたかったからである。(はじめに)

今の世の中、「感情」はあまり値段が高くない。
感情的になってしまって損をこいている。
けつまづく人が何人もいる。
「オレが金メダル獲らせたんやー!」から始まって
ボクシング:山根会長 村田に「生意気だよ!1人でメダルを獲る力ない」TV発言(スポニチ) - 毎日新聞
「彼女、全部嘘言ってるなー」
塚原副会長、宮川の告発を全否定「なぜあんな嘘を言うのか」/体操 - スポーツ - SANSPO.COM(サンスポ)
あとで前言を訂正なさるが。
その感情的な一言をマスメディアがあげつらって、その人を突き落す、という。
これはもう今、メディアはこのやり方を必ずする。
大勢でバーッと囲まれてウワーッと言われたら「全部嘘ですよー!」や「オレが獲らせたんやー!」というのも言ってしまうかもしれない。
「感情」あるいは「感情的」とは、人を過ちに招きよせる誘導灯のような、そういう語られ方。
理性の反対語に情動、感情という言葉があるように思ってください。

人に暴力を振るった。
犯罪に手を染める。
あるいは恋に落ちること。
しばしばそういうことを私たちは「一時の感情に押し流されて」とか「ついカッとなって」などと表現し、ネットの炎上などに見られる集団的熱狂、集団的憎悪など、そういうものに火をつける火力は人間の持つ「感情」である、と。
だから人は感情ではなく理性でふるまわなければ危うい、と。
これが普通の考え方。

 一見、情動を排して、純粋に理性のみに基づいて生きていけば、私たちは過ちのない幸福な人生を送ることができるようにみえる。−中略−しかしじっさいにはそうではないのである。情動がなければ、たとえ理性が健常でもまっとうな人生を送ることはできない。(はじめに)

私たちの理性は情動のお膳立てを必要とし、単独ではほとんど何もできないのである。(はじめに)

実は理性は感情(情動)の補佐役に過ぎない。
こういう哲学。

 VM患者は脳の前頭前野の腹内側部に損傷を負った患者である。彼らは知的な能力には問題がないが、情動が鈍化しており、何事につけてもほとんど情動を抱くことがない。それゆえ、彼らはまさに情動ぬきに理性のみで生きる人と言ってよさそうである。しかし、彼らの人生は悲惨である。彼らは意思決定に大きな問題を抱えており、ごく簡単なことでさえ、あれこれ些末なことを延々と考えるばかりで、なかなか決断できない。(はじめに)

 理性は情動能力を鍛えて、そもそも誤った情動ができるだけ生み出されないようにすることができる。(はじめに)

しかし、私たちを突き動かしているのは「感情」。
感情がまずある。
その感情を頭に一回送って「こうしよう」と決定する。
その最初の感情に自分で気づかない。
ただ、頭の中に「イヤぁ〜」みたいな呻き声みたいなのが「うわーん」と響く。
「人はまず情動」「感情から動く」という。
これはちょっと面白い。

何でこの本に惹かれたのかがわからないが、この手の言葉を捕まえておくと芋づるみたいに「ネタが根で結ばれている」という直感がある武田先生。
このまとめのノートの最初の方に書いている。
「この一冊はあるいは私が知りたいと思っていることと違うかも知れない。しかしとにかく、丁寧に読んで情動を探ろうと思う」

 魅惑感や渇望感などを情動に含めるためには、情動の範囲をかなり広く理解することが必要である。−中略−ここでは、情動の範囲を広げて、事物の価値的性質を「感じる」という仕方で捉える心の状態をすべて「情動」とよぶことにしたい。(6頁)

「感情」がある。
その「感情」が価値を呼ぶ。
どういうことかと言うと、楽しければ「もっと楽しみたい」と思う。
「美しい」と自分が感じたならば、その美しさを「なんとか自分の手に」とか。
嫌悪だったら「顔も見たかねぇや!」というような価値的性質を感情は帯びる、と。
これは不思議な物の言い方。
哲学者の人はこういう言い方をする。
「見る」「聞く」「触れる」は感覚器によるが、心で感じて心にたち現れる価値的性質が情動なのである。
見るとか聞くとか触るとかというのは感覚がある。
でも心で感じていることは頭の中に湧くが感覚器はない。
「何か今日、つらいなー」とか「何か今日、うっとうしいなー」とか。
いくら考えても答えが出てこない。
原因、理由はわからない。
カーッとなって怒った時も「何でいつもよりこんなに腹が立つんだろう」という。
「腹の虫が治まらない」ということがある。
自分の内側に他の者がいて、ソイツと自分のコミュニケーションが取れていなくて気分だけが残っている、とか。
女の子が二人歩いている。
「右の子、好みだなー」と思ったとする。
左の子と比べて「何が好みか」は言えない。
「好み」は「好み」だから言えない。
「見る」「聞く」「触れる」に関しては比べられるが「感じること」に関しては感じてしまったまんまで、さっきの「ぼんやりうっとうしい」と同じように、何で好みかもうまく言えない。
そういう広い感情の動きを「情動」と呼ぼう、と言っている。
「情けが動く」と。

 情動には特有の感覚器官がない。(7頁)

しかも喜怒哀楽ばかりではない。
魅惑や渇望という情動も心理に出現させる。
さっき言ったように「好みのタイプ!」という心のざわめきみたいなヤツは心理に現れて自分を突き動かすのだが、それがどこからやってきたのかうまく説明できない、という。

有名な情動のジェームズ=ランゲ説によれば、私たちは悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのである(9頁)

これは不思議。
つまり理性で捉えて「悲しい」と感じたから泣くのではない。
ハッと気がつくと泣いている。
それでその情動に対して理性が「あれ?オレ悲しいんだ」と。
こういうことは人間にある。
「情動を注意深く見よう」と。

情動に身体的反応の感受が含まれるとしても、それはあくまでも身体的反応の感受であって、事物の価値的性質の感受ではない。(10頁)

若い女の人が泣いている。
「あ、この人は悲しいから泣いてるんだ」と思うと「君は甘いよ」と。
女は悲しくなくても涙を流すことがある。
つまり、泣いてその姿を人に見せるという行動に打って出る時がある。
「アタシ傷ついたの・・・」なんて何回も言われた武田先生。

私たちが目覚めている間中、ずっと情動は生じている。(はじめに)

考えると不思議。
若い女性が頬に涙を流している。
「あ、この人は悲しんでいるんだ」と思いつつも、その涙というのは悲しく見せるための演技ではないかと疑う。
この「疑う」こともまた「情動」「感情」。
結局その涙が「価値的性質」、何のために流され、どんな価値が値打ちがあるのかということを分かった時、涙のみを「悲しい」とイコールで結べない、という。
「泣いたら勝てるかな?」みたいなことはあるんじゃないかと思う水谷譲。
昔、とある女性に教えてもらったことがある武田先生。
女の人は被害者に回り込む。
やっぱり被害者の方が得。

女性という生き物はよく見ていると本当に不思議。
武田先生の恋愛時代の体験。
綺麗な女の人がいる。
仲良くなる。
必ずすっぴんで来る。
化粧をしたその人の顔が好きなのだが。
若い時には「好きだ」というのは目が「闇夜のタヌキ」みたいに光るタイプなので、女の人から読みやすいのだろう。
ちょっと武田先生に興味のある女の人は必ずすっぴんで来る。
それがずっと謎だった。
武田先生の偉い所は若いとき持った疑問をずっと持ち続けているというところ。
女の人は化けるためにメイクをする。
メイクは美しく見せるためではない。
自分を隠すため。
男というのは隠そうとしているものを見たがる。
「絶対に開けないでください」といったら絶対に開ける。
「絶対に見ないでください」といったら絶対に見にいく。
「絶対に触らないでください」といったら触りにいく。
男はそういうもの。
女の人というのは隠すことが本質。
バーッと男が入ってきて「イヤ!」とか言いながら股間と胸に手を当てるから男は「フフフ・・・お嬢さん」とか言う。
でもあれはバッ!と両手を広げてみる。
バァン!と広げる鳥がいる。
あれをやったら男が怯えてバァン!と扉を閉める。
男は隠されているものに関して興味がある。
スカートを「よくあんなもん履きながら風の中、歩けるね?」といつも思う武田先生。
スカートは何に似ているかというと「マジックショーのカーテン」。
手品師が箱に布きれをかぶせる。
「1、2、3」とかと言いながら。
スカートというのはマジックにかぶせた布きれ。
スカートの中はマジック。
男は見たがる。
でもネタは絶対にバラしちゃいけない。
しっかり閉じていないと。
男の情動というのは隠されたものに対して動く。
(著者の)信原さんがしきりにおっしゃっているのは「情動は価値に対して動く」と。
「価値」というのは「この人は好きなタイプだなぁ」とか「この人は嫌いなタイプだなぁ」とか。
情動はそっち。
「その価値に向かって動く」ということ。

人間の感情。
その感情の不思議さみたいなものを。
昨今、感情というのがいろんなところで混乱している。
人間の感情。
情動の混乱。
例えば殺人事件から動機が消えたり、思わず目をそむけたくなるが若いお母さんがわが子を、とか。
老夫婦が殺し合う、とかという。
件数としては日本はすごく平和の方に流れているが「情動」「感情」の掴めない人たちがけっこういる。
そういう人たちに対して、その人が表現できない感情とは、情動とは一体何か?
深く考えないとダメ。
トップニュースの文字だけで世界は割り切れるものではないと近頃思うようになった。

いろんな人がニュース解説をやったり世界のことを説明してくれる。
そんな情報はスマートフォンも含めて、山ほど世の中にあふれている。
でもよく見つめると全然わからない。

「北斎が印象派に与えた影響」という、その手の本も読んでいる武田先生。
例えば葛飾北斎が描いたお相撲さんの一筆書き(「一筆書きというのが何を指しているのかは不明だが『北斎漫画』十一編を指していると思われる)で「お相撲さんが腰に手を当てて休んでいる」とかを印象派の人たちの絵の中に探すとドガのバレー(エドガー・ドガ『踊り子たち、ピンクと緑』)。
あれは腰の角度から全く同じ。
それからお相撲さんがタライのお風呂か何かで体を洗っている。
それが印象派の『たらいで背を洗う女』という。
構図が全く一緒。
それからモネの『ポプラ並木』(クロード・モネ『陽を浴びるポプラ並木』)。
ポプラ並木が並んでいて藁の小積みというかあれが畑の中にたっている。
あれが北斎の農村風景(葛飾北斎『冨嶽三十六景 東海道程ヶ谷』)と全く同じ。
木が何本も立っていて、という。
それを上野の美術館でやったから見に行った。
(国立西洋美術館で開催された「北斎とジャポニスム HOKUSAIが西洋に与えた衝撃」かと思われる)
葛飾北斎とそれから浮世絵。
「ジャポニズム」と言って浮世絵がゴッホなんかにも巨大な影響を与えた。
『ひまわり』とか『アヤメ』とかがある。
それから『タンギー爺さん』は後ろ側にゴッホが浮世絵を描いてる。
すごい影響。
モネもアレだしドガも。
みんな。
何でマネしたのか?
いわゆる彼らの「情動」が「感情」が動いた。
でも何で?
その「価値的意味」。
彼らは何の価値を見出したのか?
考えてみたら本当に不思議。
マネをするというのは、よほど強い感情。
そこから印象派が生まれてきて、あれだけの美術史の大革命になった。
「これ何でだ?」というのが不思議で仕方がない。
北斎の何に惹かれたのか?
セザンヌなんかも白状しないが、そうらしい。
ボォン!と故郷の山を描いたのは北斎の『赤富士』(葛飾北斎『富嶽三十六景 凱風快晴』)をマネした。
赤富士を見てセザンヌが「スッゲェ!」と思う。
かんざしをいっぱい差した芸者さんの浮世絵を見てゴッホが「スッゲェ!」と思う。
北斎が描いた花の絵を見てゴッホが「オレも花、描こう!」と思う。
何でそう思うのか?
(おそらく「北斎とジャポニスム HOKUSAIが西洋に与えた衝撃」へ)奥様とお嬢さんと三人で行った武田先生。
「(印象派の画家たちが)北斎のどこに惹かれたんだ?」と。
富士山が奥側に見えて、波がこうバアッと渦巻いているヤツがある。
あんな波が来たら死んじゃう。
あれはオーバーに描いている。
「あれでひっくり返った」という。
美術の本にも理由は書いていない。
今、『たゆとうけど沈まず』という日本の版画の売買をやった人とゴッホの物語を読んでいるが、それにも出てこない。

たゆたえども沈まず



やたら「ゴッホは浮世絵に惹かれた」ばかりしか書いていない。
「何で惹かれたんだ?」というのが不思議。
びっくりすることを言った武田先生のお譲さん。
「何で北斎のマネしたんだ?」と言ったら(大学で美術を勉強している)お嬢さんが「北斎の絵には意味がないからよ」。
「なるほど」と思った。
「西洋の絵」というのは意味がないとダメ。
例えば女の子を描いて、その女の人が百合の花を持てばマリアになる。
マリアがあって、足元でヘビを踏んでいないといけない、とか。
聖書の意味とかギリシャ神話の意味とかが一枚の絵の中にあるのが「西洋美術」。
だから印象派が描いて大パニックになったのは『草上の昼食』(エドゥアール・マネ)。
公園の片隅でサラリーマンみたいな人と奥さんか恋人か、それが素っ裸で飯を喰っている。
それを見た時にものすごく印象派はいじめられる。
女の人の裸はギリシャ神話の女神を描かなければならない。
それが普通の女の人が裸になっているから。
「印象派!」という悪口。
『印象・日の出』をモネが描く。
あれを罵った批評の言葉が「な〜んだ、印象描いてるだけじゃ〜ん!」。
「意味のない絵を描く人たち」という意味で「印象派」という。
彼らは北斎を見て何が驚いたかといったら「意味がない」。
『赤富士』は山が描いてあるだけ。
それを見てびっくりした。
「何だ。北斎がやってるんだったらオレも故郷の山、描いていいんだ」ということになる。
「ただの風景を描けばいいんだ」「それが絵でいいじゃねぇか」ということ。
ゴッホに至っては北斎が描いた菊の絵を見て「何?花描いていいの?」「ひまわり描こうぜ!」。
「絵に意味はいらないんだ」という。
意味がないということが「情動」「感情を動かすんだ!」という。
だから「麦畑のカラス」というゴッホの絵がある。
真っ黄色の麦畑の中にカラスがバーッ!と。
何の意味も感じない。
でも動く感情だけはどうしようもない。
モネの『睡蓮』。
東洋の花がいっぱい咲いているだけ。
あれはキリスト教で出てくる花ではない。
だが、モネはそれを描いた。
もっとモネのすごいのは「家族」を描いた。
意味はない。
キリスト教的意味合い、ギリシャ神話的意味合いはないが「へぇ、奥さん幸せそうだな」という「情動」が動いた、という。
それが「印象派」という流れを作っていった。
そこから美術が第二のルネサンスで「神を離れて人間の元にやってきた」という。
北斎が与えた影響はデカくて『考える人』の(オーギュスト)ロダン。
ロダンたちもマネをしている。
「ジャポニズム」というのはもの凄いショックだったらしい。
ロートレックも浮世絵の役者絵を見て同じことをやる。
つまり「頭ではないんだ」「感情が動くということが大事なんだ」という。
その「情動が動く」という興奮。
それが印象派から、やがては近代絵画へ流れていくという。
情動が動けばそれは美なんだ、アートなんだ。

価値判断には情動が不可欠である。情動がなければ、世界の価値的なあり方を知ることはできない。(50頁)

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posted by ひと at 10:27| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月31日

2018年11月12〜19日◆ゴッドハンド

これの続きです。

これは前に考古学ブーム、そして旧石器ブームを巻き起こした学者さんたちの戦いを語ったが、やがてそれは一人の男の出現によって旧石器の研究がすっ飛んだというスキャンダルになってしまうという。
その顛末をみなさんにお話ししたいと思う。
一番最初に杉原さんという登呂遺跡なんかやってらした方。
それで芹沢さんという方。
これは東北大学の教授。
この方が旧石器に目覚めて。
そして相澤(忠洋)さん。
縄文土器を見つけた方。
これはアマチュアの方なのだが、この方のおかげで教科書が変わったというくらいの大発見があったのだが、その後、一大スキャンダルで先人たちの功績というのがすっ飛んだという、その顛末。

発掘狂騒史: 「岩宿」から「神の手」まで (新潮文庫)



前に話したのは杉原さん、東北大学に行かれた芹沢さん、相澤さんの感動的物語だったのだが、この『発掘狂騒史』の中で1990年代後半になって藤村新一(番組中「本には『一郎と書いてあるので』」ということで「一郎」と言い続けているが、本の中でも「新一」)という青年が登場する。
ついた名前が「ゴッドハンド」。
この青年が一地点を指差して「出たぞー!」と叫ぶと日本を揺るがすような旧石器の発見が相次いだ、という。

何かの雑誌で読んでびっくりした話。
1997年(平成9年)にこのゴッドハンドは山形・宮城県境約30kmも離れた2地点からピッタリ接合する一つの石器を発見している。
これは石器の半分と石器の半分が遠いところにあったのだが、その両方を発見して「ほら、ピッタリ合いますよ」というので奇跡を呼んだ。
そしてテレビ、雑誌メディアのスターと彼はなった。
その頃にかつて日本の考古学をけん引した相澤さんが60代半ばで病死され、この相澤さんの後釜として藤村というアマ考古学ボーイは発掘の星となった。

この藤村新一くんはこんなインタビューを残している。
子供の頃から土器に興味があり、近所の空き地から土器を見つけて先生に見せると大発見だと褒められてうれしかった。
仕事が終わると芹沢先生の宮城県内での考古展を見に行き、親切な芹沢班の人に特別に毎日見せてもらった。
自分もその人のおかげで石器へのロマンを持った、という。
感動的なお話なのだが。
これは彼が憧れた考古学ボーイが話した話と一緒。

相澤忠洋のコピーだ。日中は履物屋の丁稚をして苦学していた相澤が、露天商から手に入れた石斧を通っていた夜間中学に持っていき、先生に褒められて得意になったエピソードとほとんど同じだ。ただ石斧が土器になっただけである。(266頁)

 藤村の捏造事件を、最初に世に知らしめるきっかけとなったのは、発掘調査会社アルカ代表角張淳一だった。(278頁)
 
この方は長野の人で旧石器を学び、私財をなげうってアマ考古学チームを自らの手で立ち上げた、という。
この方が藤村の相次ぐ世界的な発見、日本史を揺るがすような旧石器の発見に「ちょっとおかしいんじゃないか?」と。
あまりにも大発見が集中しすぎている。

 そして捏造が発覚する歳、二〇〇〇年(平成一二)二月には、ついに埼玉県秩父で五〇万年前とする住居跡までが藤村らによって発見される。これら東北も含めた一連の発見は、発掘チームによって「原人は男女を現わすように石器を埋めた儀礼や、埋葬などの宗教活動も行っていた」と発表された。もはや世界の考古学はもちろん、人類学にも大きく影響する、驚愕すべき事態になっていた。(300頁)

そういう世界的な大発見をすればするほどアマ考古学の角張さんは発見が「どう考えても、これは藤村が自分で石を埋めているとしか思えない」と。
その嘘を告発することで、考古学そのものを深く傷つける恐れゆえに、アルコールでごまかして耐え忍んだという。

そして角張さんに続いて藤村の発見に疑問を持った人で竹岡俊樹さんというアマの方が出てくる。
この二人が「どうも藤村はおかしい」と心を痛めるようになった。

 事件が発覚する約三ヶ月半前の二〇〇〇年七月二四日、ついに角張は自らの会社アルカのHP上で「前期・中期旧石器発見物語は現代のおとぎ話か」と題して、藤村の捏造を指摘する起爆剤≠ニなった論文を一般に公開する。(303頁)

「面と向かって『考古学を売りやがって』と言われたこともありました。『神の手を疑うのか』という雰囲気で、何かの新興宗教みたいでしたね」(304頁)

藤村はというと、考古学界の一大スターだからテレビ、活字メディアで大活躍。
ところがよく見るとやっぱり変。
この捏造というのは科学的発見でもなんでもそうだが、よく見ていると変。
藤村は一人であれほどの発見を重ねながら論文を一本も書いていない。
(本には「正式な論文がほとんどなかった」と書いてあるので「一本も書いていない」ということではなさそう)

捏造はこの間もあった。
ナントカ細胞。
STAP細胞問題とは何だったのか? | ハフポスト
あの時も大騒ぎになったが、やっぱりよく見ていると変。
ノーベル賞を貰った先生が言っていた。
あの先生は頭から疑っている。
「論文がおかしい」と。
鋭い方には見抜ける。
だから藤村の捏造に関しては角張さん。
それからもう一方、竹岡さんという方が「おかしいぞ」ということで見ていた。
しかし、このへんがまた不思議。
前の細胞の捏造(STAP細胞)の時もそうだが。
この藤村の後ろ盾には東北大学の芹沢さんという大教授がついている。
その芹沢さんはとのかく前期旧石器に燃えている人なので、藤村の発見がありがたくて、わくわくして仕方がない。
考古学を引っ張っているのは日本ではとにかく芹沢さんの権威なので、誰も文句を言えない。
前の細胞の捏造の時もそうだった。
くっついている人がすごい人なので、つっこめないし質問できない。
でも竹岡さんと角張さんは心の痛みを隠しながら捏造というのを内部告発する。

毎日新聞北海道支社の根室通信部にいた本間浩昭記者は、「藤村の発掘はおかしい」という一本の電話を受け取る。(304頁)

本間は本社報道、あるいは新聞報道に強い疑問を持つ記者だった。
この記者は大学の権威のまま、素人の発見を新聞で報道してしまう大手新聞というものに関して、すごい疑いを持っていた。

 さらに本間は新聞記者として、ジャーナリズムの欠点も承知していた。
「やっぱり記者は『最古』のとか『初』ものに弱い。大本営発表をそのまま書いてしまう。
−中略−彼の発見の多くは、そうした科学的な裏付けを欠いていた。非常に雑だと感じた」(306頁)

STAP細胞もそうだった。
割烹着で大騒ぎし、ビーサンで大騒ぎし、本質はちっともついていなかった、という。
「教科書を疑え」とノーベル賞の先生がおっしゃったが、「新聞も怪しげだ」とどこかで思っていないといけない。
これは記者さん自らがおっしゃっている。

ビジネスの安全と成功のために、当たり前や常識を疑え (1/3) - ITmedia ビジネスオンライン

 本間は、毎日新聞社北海道支社の真田和義報道部長に「藤村氏の石器はおかしい。もしかしたら一面トップを狙えるかもしれない」というメールを、疑惑の根拠も添えて送る。(306頁)

毎日新聞北海道支社の六人の取材チームは、連日会議を重ね、北海道新十津川町、埼玉県秩父市、宮城県築館町と約二ヶ月、計一四日間の張り込み、約一〇〇〇万円もの取材費をついやして藤村を追い続けた。(308頁)

目撃情報だけでは駄目で、写真は絶対条件だ。しかし広い発掘現場での、薄明かりの下での望遠レンズを使った撮影は困難を極めた。取材班は実際に藤村が埋めにきた現場にも居合わせたものの、そのシーンの撮影は失敗の連続だった。(308〜309頁)

藤村が石器を埋めているのは間違いないからその瞬間をとらえてほしい、それがジャーナリズムの責務だと言ってね。それと恐らく夜に埋めてるだろうから、ナイトスコープでの撮影も提案した。まさか朝になって堂々と埋めてるなんて、このときは思ってもみなかったからね」(308頁)

「大スクープもこれまでか」と危ぶまれた一〇月二二日早朝、取材班はついに、藤村新一が石器を埋めている決定的瞬間を鮮明な映像で捕えたのだった。(309頁)

でも、この油断を見てもそうだが、藤村という人は子供っぽさがあって、余り深い計算とか悪意がなかったのではないか?という。
写真を撮った後、取材班は彼を追いつめていく。
まずは連続写真でしっかりと埋めている行動を撮り、藤村の上司役にあたる芹沢班の責任者たちを呼びつけて、これを突きつけた。
「ゴッドハンドなんて呼んでますが、朝、こんなことやってましたよ?」と。
(といった記述は本の中にはない)

 取材の総仕上げとして、藤村に実際にこの映像を見せ、この事実を本人に当てなければならない。インタビューは極秘のまま一一月四日、仙台市内のホテルのスイート・ルームで行われることになった。−中略−
「藤村氏はアポをとっても、すぐにドタキャンすることで有名だった。しかし相手が若い女性だと受けることがわかっていたので、当日は若い女性に同席してもらうように手配し、万全を期しました」
(309頁)

(番組では「美人記者」と言っているが、本には美人だったとは書いていない)
美人記者を先頭にしておいて五人(とは本には書いていない)。

「当日は藤村氏が自殺しないよう、部屋の窓を家具でふさいだりしたよ。(310頁)

(番組では隣の部屋に奥さんを呼んでいたと言っているが本にはそのような記述はない)
美人記者に旧石器を発見するコツなんかをしゃべらせといて、突然男性記者に変わって、連続写真をバァーン!と。
「あなた埋めてるでしょ?これ。何を埋めてるんですか?」
「この日、あなたこれとこれを発見したと言いましたね?」
「あなた、発見したこれを朝、何時埋めてたんでしょ?」
突きつけられた瞬間に藤村は旧石器捏造を認めた。
(このあたりも本の内容とはかなり違う)

藤村が捏造を認めると、すぐに東京本社へゴーサインがいき、予定原稿が次々に入稿されていった。(310頁)

許可を出してNHKにも。
NHKも動いていた。
もう毎日(新聞)がつかんでいるので「毎日より先に出さない」ということで。
(本にはNHKが動いていたことは書いてあるが、そういった取決めがあったようなことは書いていない)
一面が終わった後のニュース報道のフィルム回しはNHK。
日本考古学界の大混乱は凄まじかったようだ。
今のスキャンダルと全く同じ。
芹沢班は激しく責められ、検証委員会は藤村を呼び出し、藤村を考古学界から追放した。

 藤村は捏造発覚後、精神科医から「鬱」や「解離性人格障害」などと診断されていたので、聞き取りには必ず、鎌田が紹介した医師が立ち会っていた。(318頁)

本当にお気の毒だが、藤村を応援し続けた芹沢もまた、弟子たちがブワーッと離れていく。
そして寂しさの中で死んでいったという。
最初の告発者の角張さんもアルコール中毒になり、この報道の後、体を壊し絶望のうちに死んでいったという。
そして芹沢班に集められた日本の考古学、旧石器の研究者であった大学講師、准教授の人たちも東北大学からほとんど追放同然で。
この毎日(新聞)、それからNHKのテレビ報道によって日本の旧石器研究というのは完膚なきまでに、きれいに爆破されていった、という。

「あなたは事件当時、相澤忠洋になろうとしてましたよね。最初に石器と出会った話から、旧石器の展示に何度も通った話も、相澤さんの真似をした」(324頁)

「アマチュアの星である相澤になりたかった」という単純な動機こそが巨大な捏造を生んだのではないだろうか?という。

捏造が毎日新聞のトップ一面を飾って、すぐにNHKが全国放送でこの捏造事件「ゴッドハンドは嘘だった」というのを報道する。
東北大学の旧石器研究チーム、主催をしていた芹沢さんから研究者から、告発した角張さんというアマチュアの方なんかも孤独と絶望のうちに、数年のうちに亡くなられている。
しかしその中でも首謀者である藤村は生きていた。
自殺防止のために駆け付けた(という事実はなさそうだが)奥さんとはその後離婚。
それでも藤村は別の女性と再婚をしている。
そしてひそかに福島南相馬で生活をしていたという。

これは何がすごいかというと、この本の著者である上原善広さんは最近、藤村さんの所にインタビューに行っている。
「最近」と言っても○年前。
その事件が人々の記憶からない頃、このルポルタージュをお書きになった上原さんだけは「神」と呼ばれたかつての男にインタビューを。
何度も何度も彼の家の扉を叩いて、その扉が開いて、藤村はインタビューに応じている。
著者曰く「藤村は神であったことを無邪気に著者に語り続けた。核心に触れる質問をすると『幻覚とか幻聴に導かれて石器を発見した』などという神がかった発言を平然とする」という。
そして手のひらを「触っていいですよ?」と言いながら、著者が手のひらを触ると「神の手ですよ」と言いながら笑ったという。
著者曰く藤村の様子を、インタビューも含めて「全部芝居してるのかもしんない」と。
(このあたりも本の内容とは大幅に異なる)

この藤村の捏造事件に相対して協力した角張さんという方がいらした。
この方はアルコール中毒で無念の思いで亡くなられた。

 竹岡は「自分が参加していれば、もっと違った結果が出ていた」と断言する。−中略−藤村の石器には、実は本物も混じっているんだ。(315頁)

この竹岡さんというのはヨーロッパで地層の研究をなさって、科学的知識を持った考古学者だった。
それで半分以上嘘かもしれないが、もう一回調べてみないとわからないというのを必死になって世間に訴えるが、もう捏造事件があるから「全部破棄」。
もう捏造スキャンダルの威力は凄まじくて「戦後の考古学のすべてを吹き飛ばした」という。
いわゆる「捏造あばき」というのはパワーを持っているが「もしかしたら」とこの竹岡さんが無念がってらっしゃる。

ひたすら藤村は批判で罵られ、彼を守った芹沢も激しく疑われ

 そして二〇〇六年(平成一八)、芹沢はついに倒れる。(345頁)

享年八六歳。(346頁)

芹沢教授が発掘していたという遺跡も全部捨てられた。
藤村と一緒に研究に関わった人々は非常に無残な人生を送られた。

竹岡さんというのはクール。
この方は捏造スキャンダルの破壊力で無残に崩れ落ちた「石の塔」とおっしゃっている。
(本によると「石の塔」というのは竹岡さんが言った言葉ではないようだ)
「象牙の塔」ではなくて。
研究者が積み上げた旧石器という石の塔は無残にも、という。
間違いなく旧石器の後期はあった。
そういうものも全部いっぺんに壊れた。
このむなしい話の中から何かをみなさん、見つけ出しましょう。
そしてスキャンダルが暴かれて正義が見えた瞬間「その正義と同時にとても大事なものを失う」ということがありうるということを少し考えましょう。

今、日本中から旧石器に関する研究はもうほとんど消えていると思われているが、竹岡さんは頑張ってやってらっしゃるようだ。
健闘を祈りたい。

4万年以上前の前期旧石器。
日本にはあるのかないのか?
その頃、日本はあちこち火山が噴いていて、人が住めるような所ではなかったというのが通説。
しかし氷河期で今より氷が厚かった。
北海道と大陸がつながった関係が冬の間だけできるので、マンモスを追って原人は来たのではないか?と。

間宮海峡に立ったことがある武田先生。
仕事でロシア側と樺太のあそこの海峡に船で行ったことがある。
引き潮の時にあそこの海峡は降りられる。
長靴で水が入ってこない。
そんなに浅い。
船を深みのところに置いておいてあそこを歩いたことがある。
間宮海峡はそんなに浅い。
ロシアの人はその海峡のことを「タタール海峡」と呼んでいる。
そこが氷が張っているワケだからマンモスは当然やってくる。
まだ津軽海峡が浅い。
10mぐらいしかない。
そんな時代。
原人がこの列島にやってきて住み着いたことは間違いない。
その証拠が捏造をやったかも知れないが、藤村の発見の中に一つか二つあったかも知れない。
でもそういう調査は一切行われず、毎日新聞の報道の後、全部ただの石ころとして処分されてしまった。
竹岡さんという研究者は、相澤から杉原、芹沢が命をかけて積み上げた石の塔が藤村の捏造ですべて引っくり返され、賽の河原のようになった日本考古学界にありながら、その石を一つずつ拾いながら、もう一回積み上げている。
だから大発見がこの竹岡さんたちのグループでできるかもしれない。

ここでもう一回くどいが、毎日新聞のスキャンダルというのは60年の研究が壊れた。
「文春砲」とか「新潮」とかがあるが、スキャンダルというのはやっぱりむごい。
スキャンダル発覚から10年以上経って主犯の藤村はおどおどと地方の小さな村で幻聴幻覚に悩まされながら生きている。

 私はふと「いっそ刑事事件として罰せられた方が、彼にとって楽だったのかもしれないな」と思った。(326頁)

犯罪ではないから。
捏造スキャンダルで暴かれた瞬間から手足を縛られたまま、水の中に突き落とされるような生涯を藤村は過ごしている、と。
今もスキャンダルに縛られて顔を晒されて、手足を縛られたまま水の中で生きるが如く、アップアップしながら浮き沈みを繰り返し、息だけしている。
そういう人たちもいるのではないか?という。

藤村を責めつつも、捏造スキャンダルがどのようにして生じ、その藤村の心が澱んでいったか、腐っていったか。
それをちゃんと見ようとするこの本の著者の目が実に優しいと思う武田先生。

人生をスキャンダルで棒に振った人たちをさらに追い詰めて、さらに鞭打つような正義はない。
この「神の手」と偽ったこの男に対してノンフィクションの手法で著者は手を優しく差し伸べていると思う武田先生。
この著者は優しいと思う。
やっぱり懸命に藤村の今後を心配してらっしゃる。

この上原善広さんの『発掘狂騒史』というノンフィクション。
この一作こそ「神の手を持った男を描く、人の手のぬくもりを持った正義の一冊」である。
何が言いたいかというと、スキャンダルメディアの方、スキャンダルを暴かれる時にその「人の手のぬくもり」をお持ちになってくださいと、こう言いたい。


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2018年9月3〜14日◆スキャンダル 突き落とされた人々(後編)

これの続きです。

アマチュア考古学者、相澤忠洋の人生を辿っている。
この人の人生を辿ると、その後の捏造事件の深い真相なんかも見えてくる。

一生懸命働くよい少年だったのだろう。
上野のそのお店が彼に自転車を貸してくれたそうで。
(本によると自転車は浅草の履物屋のもの)
その自転車に乗り小豆沢に出かける。
それで一生懸命スコップで掘っていくという。
だからやはりその頃の日本は、いい人ばかり住んでいたのだろう。
夕暮れになると少年が土をほじくり返しているので近所のおばさんが来て「兄ちゃん何やってんの?ああ、土器探してんのかい?お腹空いたろ?ほら」といいながらサツマイモをくれたり。
(本によると道に迷って小豆沢にはたどり着けず。近くにあった民家に水をもらいに行ったところ、サツマイモを出された)
だんだん「あの子は土器を探してるんだよ」というのがその板橋区小豆沢あたりで有名になった。
(ということはない)
そのうち別のおばさんが「うちの庭掘ってごらんよ。うちの庭だ、何だか知んないけどさー、貝殻がボロボロボロボロ出てくんだよ」。
「そうですか。じゃあ掘らしてください」と言いながら、おばちゃんの所の庭を掘る。
貰ったイモか何か喰いながら。
(番組では上記のように「別のおばさん」となっているが、貝殻が出ると言ったのは最初にサツマイモをくれた人)
土器片をいくつも発掘していく。
その土器片を教えてくれたあの博物館の考古学に詳しいお兄さんのところに駆けて行って「これはこの間、小豆沢で見つけたんです!」と言うと、そのまた学芸員をしていたお兄さんがよい人だったのだろう。
「今度○○博士がやってくるから訊いてみるよ、これ」
(最初の時点で小豆沢にはたどり着けていないので、小豆沢で掘るようになったのは「おばさん」とは別件。最初に親切にしてくれた人は学芸員ではないし、この時に行ったという記述はないし、この後の文章も大幅に本の内容とは異なる)
そうしたら何とこれが、大変な土器の発見につながっていった。
もうただのおばさん家の裏庭じゃなくて、土器片、石器片の発掘が相次ぐ。
相澤少年は誘導灯に誘われるがまま、土の中の遺跡を掘る青年になっていくという。
後に兵隊にとられ苦労はするものの、戦争が終わると桐生横山町というところに住んで、戦後は一人暮らし。
闇市の物品を仕入れて手売りで歩くという商売をしながらも、そこでも「あそこには土器が出るぜ」という噂を聞くとスコップを持って土をはぐという日々を過ごす。
でもこの熱心さは一種、健気すぎて一直線すぎて布団も綿がなくなっちゃって。

「布団といっても、中の綿が飛び出したすごい布団です。布団の綿は土器が壊れないように包むのに使っていたので、中身が少なくなっていました。私はその少なくなっていた綿を出して包まり、堀越さんは布団の皮≠体に巻き付けて寝てた。(57頁)

もう極貧生活。
ところが二十代の前半の時、そのいつも通う稲荷山の切り通しで発見した黒曜石が日本の石器時代を発見するということで、彼は考古学界の大ヒーローになる。
そして大発見の人生を抱え込むことになる。
ところが岩宿遺跡の発見者は誰かという問題が相澤と杉原の間でわだかまる。
杉原さんは中途まですごくいい人なのだが、だんだん発見が重大になっていく。
そうすると杉原さんがあんまり相澤さんのことを言わなくなる。
「私が見つけた手斧は」ばっかり語るようになり、二人の間にわだかまりが。
だから難しい。
相澤の黒曜石は文化財の扱いを受けない。
でも杉原が発見した石斧は重要文化財の指定を受ける。
メディアは相澤のことを「アマチュア考古学者」とのみ伝えるワケで。
(相澤の名を掲載せず「アマチュア考古学者」と発表したのは毎日新聞のみ)
さらに朝日は相澤を「岩宿の発見者」とし「旧石器の発見者は杉原とする」という。
(本には朝日には「東京考古学会会員で桐生市在住の相沢忠洋氏」と書いてあったという記述のみ)
メディアでも扱いが変わってくる。
この二人のわだかまりに芹沢は「すべては相澤と知り合った自分から大発見が始まった」と思うようになる。
ところが杉原は発見のすべてを牛耳っているというような感じになり、芹沢は師である杉原に、わだかまりを持つようになる。
芹沢さんも学者さんになっていくが、どの論文でも杉原を無視するようになるという。
人間関係というのはなかなか難しい。
このあたりが実は考古学の根っ子にあるという。
これは今も変わりないのではないか?
スキャンダルの裏には実はその前に深い病巣というか、根っ子があるのかもしれない。
だからただ単純に「あの人はいい人で、この人は悪い人」と言われないのがスキャンダル。

相澤忠洋というアマチュア考古学者がいる。
彼の紹介の元でまた別の石器を発見した大学教授、明大の杉原教授がいる。
この二人が「旧石器を発見したのは自分である」という。
そこにこだわり始めると「それは相澤さんが気の毒だ」と思う考古学ボーイが出てくる。
これが芹沢さん。
ちょっとややこしい。
杉原さんのお弟子さんが芹沢さん。
アマチュアの相澤さんがいる。
相澤さんの導きで旧石器の発見があった。
その相澤さんを横に置いておいて自分を売り出そうとする杉原という先生が教え子の芹沢さんは気に入らない。
そういうことも黙って耐えているアマチュアの相澤さんのことが好きになって、好きになった分だけ師匠の杉原さんが許せなくなってしまうという。
人間の感情は動く。
芹沢さんは夢を見る。
それは何かというと、相澤と組んで岩宿から杉原という先生を圧倒する大発見をすること。
それが自分の生きる道ではないかと思うようになる。
この芹沢さんは自分の学問をさらに深めるために明治大学に居残らない。
「先生と違う所に行った方がいいんだ」ということで東北大学。
そこに居を構え、足場を作る。
芹沢には仮説があった。
それは何かというと、杉原の石斧は旧石器後期のもの。
杉原を打ち倒すために芹沢が夢見たのは後期ではなくて前期。
さらに古い時代の石器を見つけること。
芹沢は相澤を先頭にし、相澤さんがいるとたくさんのアマチュア考古学者が集まってくる。
そういうアマチュアの力を結集し「共に掘ろう」ということで。
旧石器、それも前期の発掘に燃える。
この芹沢という人はアマチュアをものすごく大事にした。
自分のところの杉原教授が冷たかったから。
そのかわり芹沢は何としても自分の師匠である杉原を打ち倒すためにも狂気の如く「前期の旧石器を探す」ということに命を懸ける。
(このあたりの内容は本とはかなり趣が異なる)

人間らしい葛藤で、悲しみも含めて、世紀の大発見の後にはこうなってしまうのだろう。
長野県から情報が寄せられる。
これはやはり情報一つ。
「何かあのあたり出るみたいですよ」と言うので由井茂也くんという少年か青年がいて「矢出川という河原で旧石器みたいなものが出るんです」ということで、冬場、雪が降る中、全員で発掘に行っている。
そしてそこで黒曜石で細刃の刃を発見する。
この執念は凄い。
泥と雪、霜柱で、小さな石の刃の石器を見つけても見分けがつかない。
水で洗いたくても水をかけると凍って、今後抜けなくなってしまう。
「破損してしまう」ということで由井くん他の仲間たちに大声で叫び声を上げさせながら、その採石場の掘り出しに芹沢は燃えた、という。
何で大声で叫ばせたか?
熊が出現する。
だから数人が叫んで「その間に掘るように」ということで熊よけの叫び声を弟子たちに叫ばせながら。
(本によると叫んだのは熊をよけるためではなく「吹雪の中で黒いものが動いていると、熊と間違えて撃ってくる者がいる」から)
芹沢はもう、地に伏せて黒曜石で作ったカミソリ刃を固い霜柱の立った地面から引き出そうとする。

 とにかく出てきたものを確認するために必死だった芹沢は、雪の上に泥にまみれた石器を置き、その上から自分の小便をかけて洗った。(180頁)

(本には上記のように書いてあるが、番組では弟子にも命じて叫び声を上げながら辺り一面に小便をかけたと言っている)

芹沢は当時、「旧石器時代の終末期には、ユーラシア大陸と同じようにきわめて小さな石器、細石器の盛行した一時期があるにちがいない」という仮説を打ち立てていた。
 そんな自らの仮説を証明した第一歩が、この矢出川の細石刃発見だったのである。
(181頁)

つづいて向かった新潟県荒屋遺跡では四〇〇を超える後期旧石器を発掘した。また北海道では荒屋と同型の石器と、舌のような形をした茎部を持つ有舌尖頭器を発見している。−中略−
 芹沢は相澤と共に長崎県福井洞穴から、当時日本最古とされた土器を掘り出していた。芹沢はこの土器の古さを測るため、炭素一四年代測定法を使うことにした。
(182頁)

 当時の常識では、土器は約八〇〇〇年前に中近東で発見され、その後、世界各地へ広がったとされていた。−中略−
 しかし自然科学の炭素一四年代測定の検証によって、芹沢が発掘した土器は、約一万二〇〇〇年前という結果が出た。つまり、極東の果ての日本で、「世界最古の土器」が出土したということになる。
(183頁)

この発見は日本史どころではなく、世界史を揺るがす大発見ということになる。
中東から土器が始まったのではなくて、土器は日本から始まったんじゃないかという仮説も成り立つ。
これはひっくり返る。
これは大騒ぎになる。
縄文時代というのが、日本人が思っているより遥かに古い、長い年月を持っていた。
1万2千年前から一万年も続いた。
その時代が日本にはあったというふうに日本史が書き換えられた。

東北大学芹沢助教授は考古学界の台風の目になった。
これに対してかつての恩師、杉原は「負けてなるか!」というので岩宿遺跡にこもって再度発掘を進めて旧石器を発見する。
もう二人のケンカ腰の発掘合戦になる。
この物語の主人公である相澤さんは気がいい。
杉原教授に付き添っていらっしゃる。
杉原さんから頼まれると、相澤さんは「嫌」と言えなくて。
それでちょっとむごいことだが、この時の発掘した物は、これは読み間違いがあるかも知れないが、ほとんど杉原教授の発見ということで博物館に置かれた。

芹沢率いる東北大学のメンバーにより−中略−岩宿遺跡の再発掘調査が行われた。−中略−
 再発掘は一九七〇年(昭和四五)三月から一ヶ月間行われ、芹沢はそこで多数の珪岩製石器を発掘する。珪岩とは「チャート」と呼ばれる硬質の石のことで
(215頁)

芹沢はこれをもって「前期旧石器」ということにした。
これは大発見。
もう歴史はさらに3〜4万年以前から始まるという証拠を発見したという。
これに対して杉原は何と言ったかというと「それは石器ではない。礫である」。
(本によるとこれを言ったのは杉原ではない)
「自然の石だ」と言った。
外国に鑑定を頼もうということだったが(このあたりのページにはそういった記述は見つからない)前期旧石器と折り紙が付けられるのか、日本考古学界は「日本の地層を把握せずに、その結論は出せない」ということで芹沢長介さんの発見は強く否定される。
つまり「石器かどうか」というよりも石器が出た地層そのものをもう一回ちゃんと調べなおさないとわからないということで棚にあげられる。
対立する杉原らは芹沢の前期旧石器発見を「長介石器」と称して、からかい始める。
ここに二人の対立は深く根を持つことになる。

学者さんが「○○時代の土器発見」「石器発見」と言うと私たちはすぐに信じてしまう。
「へぇ〜そんな古いヤツなんだ」と思ってしまう。
断定はできない。
特に石器は自然物で「握りやすい形に丸まった斧らしきもの」とかというのは河原を探せば出てくる。
だからそれまで地層環境というのをよく把握せずに「発見発見」で騒いでいたのだが、実は芹沢さんも含め、日本の旧石器に関しては「かなり怪しいのではないか」と。
だが、国内ではこの芹沢一派と杉原一派というのは東北大学と明治大学で学閥で激突する。
その激突のさ中、芹沢さんは「負けてなるか」となお、全国のアマチュアに向かって「集まれ〜!」と声をかけるその一人にゴッドハンドの藤村が混じっていたという。

旧石器発見という、それも前期旧石器発見という日本の歴史を、いや、世界の歴史を塗り替える発見というのが1960年から70年に続く。
それはそれなりに武田先生も「これはすごいなぁ」と思っていた。
日本の考古学界は世界中から注目を一旦浴びた。
ところが冷や水を浴びせられる。
大学の学閥同士の激突が学会で始まった。
それは「片一方の学閥をやっつけよう」。
そのために東北大学、芹沢という人は日本中のアマチュアに声をかけて。
アマチュアに声をかけると様々な人が寄ってくる。
なにせヒーローがいるから。
相澤さんという日本の歴史を塗り替えたような人がアマチュアでいるワケだから。
だからやっぱりみんな憧れで集まってくる。
ところが人を集めているのは難しい。
そこに相澤さんにあこがれ続ける少し夢見がちな藤村という青年が混じっている。
この青年が芹沢さんの教えの元、土器石器を発掘し始める。
スキャンダルというのは不思議なもの。
この純朴な北の青年の藤村が、やがて考古学界に一大捏造事件を引き起こす。

スキャンダルというのは突風のごとく突然巻き起こるものではない。
人の感情があり、その人の感情が激しく行き交いし、渦巻き、絡み、波打ち、澱みができ、やがて思いもよらぬ人影によって一挙に破局にもっていくスキャンダルのうねりが生まれる。

ただ、事の真相を聞くとガックリくる時がある。
武田先生が人間ドックで行っている病院とよく似た名前のお医者さんを作る大学が「女の子の点数引く」と。
東京新聞:順大「女子、浪人差別」認める 医学部入試、2年で計165人不合格:社会(TOKYO Web)
失礼だ。
「科学的に物を見る」という医者。
医者を選抜する試験というのはそんなものなのか?
しかもお役人のエライさんの坊ちゃんは加点してくれる。
汚い。
京都で例の役(水戸黄門)を演っていた時に、何人もすれ違う人から「やっつけてください」と本当に言われた。
助と格を連れて乗り込もうかと思った。
テープを聞いたか?
「合格は予約ということで・・・」
あんなのは「越後屋」「代官」。
ところが「どこの大学でもこれやってんじゃねぇか」と。
何でかというと女の子が入ってくるのはいいのだが、病院の大看板であるところの「外科手術をやる医師がいなくなるんだ」という。
それはやはり「男の性」と「女の性」は違う。
子供の頃は人形を大事に抱きしめて寝ていた水谷譲。
ネコのぬいぐるみとかフランス人形っぽい柔らかいドレスを着ているようなお人形とか。
男の子にその人形を与えると、まずスカートをめくる。
「分解癖」というのは男の子の本能。
分け入る。
男の子のほとんど本能。
とにかく男の子は何かを見ると分解する。
ボールペンとか。
何でもバラバラに一回しないと気が済まない。
でも、そのことによって外科医が全然いなくなったら大変。
それだったら最初からそんなふうに言え。
女の子でどこを希望するかによって、外科医選ばないんだったら○と○というところで「女の子同士で戦ってください」とか。
「裏から入れてくれ」と頼んだ「はいはい、いいですよ」と言った大学の学長もいい加減でお医者さんになるには、また国家試験受けなきゃいけないので「だから入れるんだ」と。
とにかく、ささやかな人間関係のもつれとか澱みとか絡みが大きなスキャンダルに結び付く、という。

1972年(昭和47年)まで時は進んだ。
仙台東北大学の芹沢班、芹沢グループは県内のアマチュア考古学者に必死で情報を求め続けた。
「長介石器」と言って東京の方で自分の発見を嘲笑っている人がいる。
「どんどんオレが発見して叩きつけてやる!」と芹沢教授は燃えた。
前期旧石器発見。
これが彼の野望。
県内で石器を並べてしきりに考古学展を開く。
(本には古川市民会館で一週間の予定で「宮城県考古展」が開かれたということしか書いていない)
熱心に芹沢教授がやっていくうちに、そこにものすごく熱心に通ってくる男がいる。
22歳、藤村。
芹沢グループに座散乱木という地名の宮城県内の情報を持ちこんだ。
鎌田くんというのがいて、藤村と一緒に旧石器を座散乱木に探す。
藤村が「鎌田さん、鎌田さん。あすこらへんに何かあるような気がするんですよ」と指をさして鎌田がそのあたりを掘ると何かにあたる。
掘ってみると後期ではあるが石器に間違いないものが出る。

 座散乱木には一本の農道が通り、それが岩宿のように、地層に深く切り込んだ切り通しになっていた。そこでは旧石器時代の目安となる火山灰のローム層が露わになっていた。鎌田が早速、露出しているローム層を削っていくと、移植ゴテに堅い物が当たる感触があった。
 出てきたのは、地層からいって旧石器と思われる物だった。鎌田は郷里で初めて後期旧石器を掘り出したことに感動し、藤村と手を取り合って「バンザーイ」と喜んだ。
(269頁)

 七五年に鎌田が発表したレポートには、「発見した旧石器時代の遺跡は六ヶ所に達した」と記された。もちろん、そのほとんどに藤村は関わっている。(272頁)

今まで他の所を一生懸命掘っていた芹沢教授も乗り出して座散乱木の発掘に力を出す。
ここでなんと驚くなかれ、芹沢自身の手により藤村の「あそこに何かあるんじゃないですかね」という一言に導かれ、掘った所に4万年以前の前期旧石器の発見。
(藤村に言われて芹沢自身で掘ったという記述は本の中には発見できず)
これは学会が無視した石器とは違って、礫岩ながらはっきりと剥離面が確認され、しかもほとんど石を含んでいない地層から出ているワケだから人工的。
誰が見ても間違いない、ジャスティスを秘めた石器。
この発見は岩宿の発見より衝撃的発見ということでバァン!と地元新聞に大ピックアップとなり、何と藤村はこの時、アマチュア考古学界のゴッドハンドという名前をもらう。
芹沢は藤村が発見現場に立つと頼もしくなる。
何気なく藤村が「芹沢さん、あそこ」と言ってそこを掘ると出てくる。
この時期、相澤さんはもう60代半ばで体調を崩しておられた。
芹沢さんと藤村くんのコンビは頼もしくて、杉原が主張する3万年以前を否定し、必ず芹沢が4万年以前の石器を発見し、日本史の1ページ目の決着をつけるに違いない。
そう確信するようになったということ。
ゴッドハンドというニックネームがついたこの二人が「出たぞー!」というたびに奇跡的発見が続々と次ぐ。

 この報告書が発表された八三年(昭和五八)、一人の考古学者がひっそりと亡くなっていた。「考古学の明治」を一代で築きあげた、杉原荘介だ。(274頁)

芹沢はついに日本の考古学界の先頭に立った。
ところがこのゴッドハンドとトップオブリーダー。
このペアが日本の旧石器の記録を塗り替えている時点で、同じ芹沢班の中で「あまりにも出すぎるんじゃないか」と不安になった人が出てきたという。
これも人間の絡みとか澱みとか、そういうものなのだろう。
これが後の旧石器捏造という大スキャンダルになる。

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2018年9月3〜14日◆スキャンダル 突き落とされた人々(前編)

78歳のご老人が「○○が金メダル獲ったのはオレが裏で動いたせいた」と言ってバァン!と胸を張って、テレビがウワーッと詰めかけていって。
山根会長、村田諒太の批判に反論「生意気」「1人でメダルを取れる力はありません」― スポニチ Sponichi Annex 格闘技
その人が右往左往しているうちに同じ78歳が、たった30分で山に姿を消した子供を見つけ出して「助けてくれたお礼に食事でも」と言ったら「いや、それはいただけんのですわー」と言いながら別のボランティア活動に出かけていって。
2歳男児救助のスーパーボランティア・尾畠春夫さん、「お金かかる?」に「お金は余分にいらない」 自宅から生中継「とくダネ!」で : スポーツ報知
同じ78。
様々な78歳を、という。

今日、まな板の上に置いたのは、この番組らしく、平成12年(西暦2000年)のスキャンダルの中心人物。
18年前。
毎日新聞のスクープで日本中が大騒動になった。
旧石器捏造事件。
「ゴッドハンド」という摩訶不思議な人がいて、この人が「この辺にあるんじゃないかな〜」と言って掘ると旧石器が。
あの「大判小判がザクザク」ふうに見つかるというので、ついたあだ名が「ゴッドハンド」。
もう日本の歴史教科書の1ページ目が「この人が全部書きかえるんじゃないか」という大騒動に。
それが毎日新聞がこの人がしゃがんで埋めているところの白黒写真を撮って「発掘じゃない。埋めて掘りくり返してるだけだ」というので。
でもあのときに思わなかったか?
「よく毎日新聞わかったな」と。
物陰に隠れてあの写真を撮っているワケだから。
だから「あのへんに穴掘って埋めるぞ」というのを前夜からわかっていた新聞記者なのだろう。
この大騒動でこのゴッドハンドの人は叩き落されて引きずり出されて。
この方の人生そのものは突き落とされても続いている。
その人物の所に行ってあの時の事情を訊いたルポルタージュの記者がいる。

時々自分の運命をそうやってジイッと足元を見つめたことがある武田先生。
神様は突き落とすためにわざと登らせることがある。
何回も見てきた。
ちょうどいい高さになるとポーン!と後ろから背中を押す。
そうすると闇空間に人の絶叫が聞こえて。
途中で岩を登っているヤツの真横を悲鳴がサーッと下へ流れ落ちていく、という。
億稼ぐタレントが、とあることをきっかけに次の日からピッタリとテレビに出なくなる。
もう今、いくらでもあるワケだから。

そんな意味でこのスキャンダルに突き落とされて運命の底まで落ちた人。
その落ちた人を追跡調査して「なぜ、あなたはその細道を登ろうとしたのか?」を問い直すという。

発掘狂騒史: 「岩宿」から「神の手」まで (新潮文庫)



上原善広さん。
新潮文庫。
(『石の虚塔: 発見と捏造、考古学に憑かれた男たち』の改題)

実に奇妙な訪問からこの本は始まる。

 インターホンがないので、私が玄関のガラス戸を叩きながら「すみません、すみません」と呼びかけた。ガラス越しに、大きな男が立ったのがわかった。
 男は「なんですかあッ」と大声でこたえた。
「新一さんですよね」
 藤村新一は姓を変えていたので、私は下の名前で彼を呼んだ。
「そうですけど、おたく、どなた」
「相澤さんと芹沢さんについて、お話を聞かせていただきたいのですが」
「……帰ってけろ。病気で何も覚えてないんだから。幻覚、幻聴。うつにもなったからッ」
(10頁)

その男は今、姓を変え、福島の海辺に住んでいるらしい。
その男のところへこの記者は訪ねていって例の捏造事件をインタビューする。
「あなたのことじゃないんです!芹沢さんと相澤さんのことを私に教えてください」
この一言が通じて、その人物がインタビューに応じるという。
ということはゴッドハンドのその先に「相澤」という別の男の歴史があったということで。
スキャンダルはただ一回の出来事ではなくて、前哨として深い根を持つというのがこの『発掘狂騒史』の面白いところ。

平成12年(西暦)2000年のこと、「旧石器捏造事件」というスキャンダルがあった。
毎日新聞のスクープでゴッドハンドとまで謳われたアマチュアの遺跡発掘名人が実は石器を埋めていたという。
その埋めている姿を写真に撮られたことで、ゴッドハンドから詐欺師ということになり、毎日新聞が一面に全国に報道した。
このゴッドハンドが名前は藤村さんと言うのだが、その人の捏造をひっそりとシャッターを押し、ドカーン!と全国紙に載せてゴッドから詐欺師へ突き落した毎日新聞。
それは痛快かも知れないが残酷な気もした。

小学校でそういう目に遭ったことがある武田先生。
小学校の女先生。
あえて学年は言わない。
「みなさん、お顔を伏せてください。学校の備品である○○が昨日の夕方なくなりました。今、正直に言う人を先生は責めません。盗んだ人は手を挙げてください」
「武田くんでしたー」という。
汚いやり方。
そういうのがある。
無邪気な子供が巧みな先生の罠にはまるという。
そのやり口を思い出した。
もちろん藤村という人も嫌い。
やったことは悪い事。
だけど物陰に隠れてシャッターを切って「ウソつきー!」とかというのは「あ、正直に手を挙げました。武田くんでした」。
教師としてやることが何かあるのではないか?
小学校低学年だったがそう思った。

その突き落とされたスキャンダルの主。
その主人公である藤村氏は「捏造」という鎖で縛られたまま姓を変えて、大震災前の福島の海辺の町に再婚をして密やかに生きていたという。
ある意味でその後、本当に壮絶に悲惨な人生を送ってらっしゃる。
しかし著者はここで、ひどく気になる一文をこの本の中で書いている。

 藤村が起こした事件は、この相澤忠洋の人生を模倣した結果だと言われている。(12頁)

藤村が起こした捏造事件というのは、彼が師と仰いだ人のマネをした結果ではないか?
一体あの捏造の裏で何があったのだろう?
そして藤村が師と叫んだ相澤とはどんな人物だったのだろう?
これは相澤さんがひどく気になる。
掘りくり返している考古学の世界を逆に、堀りくり返してみよう、と。
詐欺師に突き落とされたその人にも何か深い事情があったはずで、案外人間の断層がそこに見え隠れするのではないか?と。

 藤村から「オレたちの神様」と呼ばれた相澤忠洋は、教科書にも掲載されるほど有名なアマチュア考古学者だ。(12頁)

 一九四九年(昭和二四)七月、群馬県新田郡笠懸村稲荷山切り通しの坂を、復員服を着た若い男が一人、自転車で上がっていた。−中略−
 男は坂の上で自転車から降りると、切り拓かれた稲荷山の断層に近づいた。断面上部は黒土だったが、その下に赤茶けた太い断層がぼんやりと残っている。
−中略−
 赤茶けた崖面の辺りを見つめていた男は、断面の切れ目に人の頭ほどの大きな石があるのを見つけた。
−中略−
「赤土の下部の粘土層から河原の石が出てくるなんておかしいな。
−中略−やがて小さく光るものが突き刺さっているのに気がついた。指で動かしながら抜き取ってみると、比較的大きな、尖った石片である。
 男は軽く震えながら、土や粘土にまみれた石片をじっと凝視した。
−中略−
 洗ってみると、半透明に黒い沸がもえている。長さ七センチ、幅三センチほどの細長いひし形をしており、一端は鋭くとがり、もう一端はナイフのようになっていた。
(26〜27頁)

 ガラスのような石片は黒曜石と呼ばれるもので(28頁)

これが古代史を一変させるという大発見にやがて繋がっていく。

相澤忠洋という23歳の若い青年。
この子はたった一つの趣味が考古学。
土器発見の喜びの人が、ある断層から黒光りする石を見つけた。
間違いなくそれは黒曜石である。
黒曜石というのは弥生縄文よりさらに上、石器時代におそらくそのあたりに住んでいたであろう旧日本人が使った道具ではないか?と。

 この石器が出た地点は、稲荷山の切り通し崖面の、関東ローム層といわれている赤茶けた地層だった。関東ローム層とは、約一万年以上前、主に富士山の噴火によって積もった火山灰のことだ。−中略−
 これら一連の噴火によって、約一万年以上前の日本列島は、関東以西にかけて一面を火山灰に覆われ寒冷化がすすみ、草木も生えず、動物や人も生きていけない「死の世界」だったと考えられていた。そのため当時は発掘調査で一万年以上前を示す赤土の関東ローム層が出てくると、「ここからは何も出ないから」と埋め戻されていた。
(28〜29頁)

生き物の影はその原野になかった。
その「死の地層」にケモノを殺すための刃としての黒曜石をくくりつけた道具を持って生き物を追った人たちの痕跡がある。
あるいは、捕まえた生き物の腹を割くための石のナイフがあった。
「これは死の世界ではなくて、人間が暮らしていた痕跡ではないか?」と相澤は夢見る。
でもその当時の常識からして、日本のそこにあってはならない石器だった。

 考古学という学問もまた、戦後になって一般に注目されるようになった。太平洋戦争中は「皇国史観」が信じられてきたからだ。(31頁)

それまで日本は神々とされたイザナギ・イザナミという大陸からの渡来した人々が土器を携えて渡ってきて稲作が可能になり、その稲作から国家が出来たという「史観」。
だからその前「人影はこの列島にはなかった」と。
それが戦後、その神々そのものへの興味が切れて考古学ブームが起きている。
戦争に負けて3〜4年で。
その考古学ブームを牽引したというか、大きな大流行にしたのが素人の青年たち。
とにかく遺跡さえ見つかればひっくり返るワケだから。
発見する喜びがある。
だからアマチュア考古学者というのは胸のときめく趣味。
もちろん日本の、いわゆる大学の方でも慶応、明治。
明治大学では芹沢。
慶応では江坂さんという方がいらして。
この方は大学をそれぞれ卒業した後も大学に残って考古学を勉強している。
そういうエリートたちもいる。
考古学は始まったばかりの学問なのでアマチュアも研究家も仲がよかったのだろう。
そこに迷い込んだのが闇市で懸命に働き、素人で一生懸命発掘している相澤という青年。
この相澤がその石片、黒曜石を手にして、これが石器時代の石器かどうかというのを迷う。
やっぱり専門家に訊かないとわからない。
彼はたまらなくなって慶応大学を訪ねている。
その時に対応に出たのが江坂くん。
まったくどこの大学に行ってもアマチュアなので「日本に旧石器なんかあるわけがない」と追い返される。
そうしたら江坂さんというのはよい青年だったのだろう。
「うちの先生に見せてごらんよ。君の見つけたもの」というので案内してやっている。
(本によると「江坂は以前から群馬の発掘調査で面識のあった相澤を、気軽に自宅に招き入れた」とあり、番組の内容とは異なる)
その時にその明大の芹沢もいて「先生を紹介した」という。
(番組ではその時に石器も見せているように紹介しているが、本によると別の日)

 応接室に通された相澤は、三年かけて稲荷山の赤土層から採取した石器を一つずつ机に並べ始めた。芹沢も一つ一つ石器を手に取り、注意深く見ていく。『満蒙学術調査研究団報告』など、大陸の旧石器について書かれた文献を出してきて、そこに掲載されている写真と、相澤が採取した小さな石器とを一つ一つ比較して、思わず唸った。
「これはすごい、うり二つだ」
 相澤が持ってきた細石刃は、モンゴルやロシアなどで発掘された旧石器時代のものと同じ形だった。
(42頁)

若い三人が「おぉい!」ということ。
(本によると江坂には内密にということにしてあるし、その場には二人しかいない)
「これが本物だったら日本の教科書の一ページ目は変わる」という。
「縄文から始まっていた歴史を石器時代から始めないといけない」という胸のときめき。
ついに先生の所に相澤は行く。

この考古学ボーイ(相澤)。
大学を卒業したその二人(芹沢・江坂)に導かれて、もの凄い人物に相澤くんは会うことになる。

 当時、明治大学助教授だった杉原荘介は、一九一三年(大正二)生まれの三五歳。−中略−静岡県の登呂遺跡発掘が国を挙げて行われると、杉原は自ら調査主任となって活躍した。(60頁)

日本の弥生式の時代を発掘するという。
この人の牽引で日本考古学界は機関車の如く進んでいる。
だから杉原という人は考古学界のトップランナー。
でもこの人は旧石器時代が予感としてあったのだろう。
そこに人間がいたのかどうかというのを何かで確認できないだろうか?と思っているような人だったのだろう。
二人の大学生がこの先生に「黒曜石発見」ということを知らせると杉原は登呂遺跡から飛んで帰ってきたという。
だからやはり「直感だ」という。
これで四人になった。
(この時点でも江坂には内密にしているので四人ではない。杉原は登呂遺跡から飛んで帰ってくるということもしていないので、相澤は杉原が戻ってくるのを何日も東京で待っていた)
杉原は相澤から黒曜石の砕石場を見せられる。
そして杉原はできればそこを自分の手で発掘し、同系の採石場が見つかれば石器時代まで日本の歴史は遡る、と。

 一九四九年(昭和二四)、九月一〇日午後二時。
 浅草駅で相澤は杉原荘介、芹沢長介、岡本勇の明大関係者らと落合、桐生へ一緒に向かった。
−中略−
 翌一一日午前八時過ぎ、杉原、芹沢を入れた明大関係者三名は、両毛線桐生駅から高崎行列車に乗った。
−中略−稲荷の切り通しへ向かった。
 同じ頃、地元の考古学ボーイである加藤と堀越の少年二人は、すでに自転車で現地について相澤たちを待っていた。相澤と付き合い始めてから数年がたち、中学生だった二人も、すでに高校生になっていた。
(63〜64頁)

 最初は六人が散らばって好き勝手に掘っていたのだが、何も出てこない。そこで相澤が槍先形石器を見つけた斜面を集中的に掘ることにしたて、六人全員が横位一列に並べられるように土を盛り、その上に乗って並んで斜面を削っていくことにした。(65頁)

(番組では先に横並びで掘って午後からバラバラと言っているが、本によると先にバラバラに掘っている)
スコップで辺りを一枚一枚、雲母の石片をはがすが如く赤土をはがすという作業に移っていく。
体力のこともあり五時を作業の刻限として削っていった。
ところがこの人数で削っても、相澤の示している地点からはなかなか出ない。
秋の気配のする場所なのだが、ついていないことに四時過ぎから雨が降り出す。

あと一〇分で午後五時になる。もはやこれまでかと、皆が思ったその瞬間、杉原のスコップにカチッという音がした。
 隣で掘っていた岡本勇が最初に気がつき、驚いて振り返ると、杉原はにやりと笑い「旧石器の音を聞けよ」と言って、さらに石をカチカチと叩いた。そしてゆっくりとゴールデンバットに火を付け、深く吸い込むと、仁王立ちになって叫んだ。
「出たぞー、石器が出たぞッ」
 みなが驚いて、杉原の元に集まってきた。
 杉原の手には、粘土にまみれた青っぽい石器が握られていた。楕円形のハンドアックス(握斧)と呼ばれるもので
(67頁)

縄文より古い旧石器の発見が日本の群馬県新田郡笠懸村稲荷山切り通しで発見されたという。
これはすごい。
相澤の黒曜石の砕石場と二つ重ねて、ここには間違いなく縄文以前の石器を使う原人たちの存在があったことは間違いない。
日本人のルーツは縄文ではない。
弥生でもない。
「旧石器まで遡ることができるのだ」という断言を彼は持ったワケで。
以降、その切り通しは岩宿遺跡という名前に取って代わる。
これは発見者がアマの相澤だったことがメディアでも珍しがられ、発見のプロデュースはすべて杉原が引き受け「自分の手柄」と言わずに「相澤の手柄」と言い続ける。
それで水谷譲が知るがごとく教科書の1ページ目に載る人物になる。
人によって発見者は扱いが変わる。
このあたりに考古学のいびつな人間関係がある。

相澤忠洋の黒曜石の砕石場と杉原が見つけた握り斧。
この二つが日本に石器時代があったことを証明し、手斧発見はアジアで初めて。
東洋史を揺るがす大発見になった。
ついこのあいだまで土器拾いの現場だった稲荷山の切り通しが「岩宿遺跡」となるワケだから。
風景が一変する。
しかし、考古学界ではこの杉原の発見も含めて「ちょっと先走りである」と。
後期旧石器の発見は激しく疑われた。

 やがて明治大学による翌年四月までのさらなる発掘調査により、岩宿には二つの時代にまたがる文化があったことが判明した。−中略−
 約二万年前の層から出た石器群は「岩宿U」と名付けられた。さらに岩宿の発見から一年半後の一九五一年(昭和二六)、ついに一六歳の少年である瀧澤浩が、東京板橋区の茂呂遺跡から旧石器時代のものと思われる石器を発見した。
(79頁)

板橋のど真ん中で石器が見つかる。
そうすると関東は富士山の灰が降っている死の世界ではなくて、人間が明らかにケモノを追って生きてたという、緑の沃野だったのではないかということで。
ついに文部省も態度を変えて日本史の1ページ目が全部書き換えられた。
1ページ目には岩宿遺跡の相澤忠洋。
彼が黒曜石を見つけたので旧石器発見への火が灯ったということで、サポートをしてくださった杉原という明大の教授さんもみんなお譲りになるものだから。
彼はマスコミの大ヒーローになる。
しかも独学の人。
日本人が一番好むタイプ。

今、よく言われる話。
金銭の差で「親がカネを持っているか持っていないかで子供の学力が決まる」とか。
バカじゃねぇか。
文科省か何かにお父さんが勤めていて、そこの家の息子が難しい医学の大学校に行ったらやっぱり「裏から手回したんじゃないの?」と思うのが世間。
現実にそういうことはあったし。
でもはっきりしているのは、世間はその子を「優秀」と認めない。
「勉強机も持っていないのにあの子は東大に入った」ということが「あの子は頭がいい」という。
親がカネを持っていて休みの日にポロンポロンピアノを弾いている家のお譲ちゃんが東大に行ってもそんなのは当たり前。
「タンパク質なんか摂ってないんだけど妙に頭がいい」とか。
鯛とかマグロを喰って作った頭じゃなくて「ジャコをかじりながら優秀な頭を作った」というのを「優秀」って言うんだろ?
「トンビがタカを産んだ」ということが偉いこと。
タカがタカを産んで何が面白いのか?

相澤忠洋さんにウワーッとメディアがたかるのは、戦争の時に兵隊にとられて勉強できなかった青年が、闇市でバイトをしながら遺跡発見に燃えて日本史を変えるような大発見をしたという。
こういう人こそがやっぱり「ヒーロー」。

 日本に旧石器時代があることを初めて証明した相澤忠洋は、一九二六年(大正一五)六月二一日、東京府羽田猟師町で生まれた。父忠三郎の一族は芸能一家で、とくに忠三郎は囃子方で笛(横笛)をよくした。(82頁)

ところが日中戦争から太平洋戦争の拡大で暮らしは窮迫し、11歳で浅草の履物屋へ丁稚奉公。
この貧しさよ。
休日は骨董屋の店先に並んだ古い物を見ると妙に胸がときめく。
ひそやかに夜間学校に通いつつ、自分が手にいれた石斧を「先生これは何ですか?」と聞いたりなんかすると、その先生が「オマエは珍しいものを持っているなー。それは縄文時代の石斧ではないか?」とかと言う。
そのうちに彼は考古学に魅せられていって上野の博物館に通うようになる。
その上野の博物館にもとっても素敵なお兄さんがいて。
上野の帝室博物館(現国立博物館)へ行くと土器石器が並んでいる。
見ているうちに若い館員さんが出てきて、戦前のことだから袴か何か履いていたのだろう。
「閉館だけど君だったらもう少し見てっていいよ」なんて優しい言葉をかけてくれて、親しくなったという。
(本によると声をかけてくれたのは「二〇代ぐらいの守衛」。「もう少し見ていっていい」とは言っていない)
このお兄さんが「だったらさ、○○へ行ってごらん?」と言って東京で土器が見つかる場所を教えてくれる。
地図を書いてくれる。
(本によると数野というこの人物が見せてくれた博物館の陳列目録に「板橋区小豆沢」から出土した土器片があることを知り、行ける場所だったので後日出かけた。「地図も持っていなかった」)
そこで相澤青年はそこへ丁稚奉公の休みのたびに小っちゃなスコップを持って出かける少年となった、という。
こういう人のことを「優秀」という。

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2018年11月29日

2018年8月20〜31日◆おーい、中(なか)の人(後編)

これの続きです。

(街角の声のクールビズの話題から引き続いて)
今年の7月のあの猛暑の中、時代劇(水戸黄門)の撮影をしていた武田先生。
しきりにテレビが「暑さ対策」を語る。
でもその言葉づかいの中に、このジイサンの気持ちをカチーン!と逆なでする、お天気お姉さんの発言がある。
「不要不急な外出はお控えください」
それは言われたくない。
失礼だ。
その暑い盛りの中で、仕事で太陽の下に行く人は日本の経済を回すため、自分の人生のために必要。
そうしたら太陽の下で働いている人は「不要不急」な仕事をしているのか?
注意喚起というのが最近メディアでちょっと威張り過ぎている。
ちょっと煽り過ぎ。
だから「それを聞かなかった人が熱中症で倒れた」と、その文章にみんな当てはまる。
ご老人が部屋の中でクーラーを付けずに倒れていた。
それはクーラーを使わないからだ。
それから街角のおバアサンから出た言葉だが「クーラー好きで入れないんじゃないんだよアンタ。かけちゃあ神経痛が痛むんだよ!」と。
歳を取ると武田先生もそうだがクーラーが強すぎると肩が痛む。
そういう人たちに対して、たった一つの答えしか用意せず「適度にクーラーを使いましょう」とか「不要不急の外出はとりやめましょう」とかというのは何か親切でどこか冷酷。
人を「ワン切り」しているというか、一断面しか見ていない。
だんだん腹が立ってきてしまった。
確かに亡くなった方は熱中症で亡くなった方は人数が出るが「本当に熱中症だけで亡くなったのか」というのはわからないということもあると思う水谷譲。
さも重大な結果みたいに後付けをする。
それがジイサンとしては、割とカチンとくる。
(「水戸黄門」の撮影現場で)製作の人間が塩飴と麦茶、水を勧めに来る。
それで2時過ぎにアイスキャンディを喰う。
「はぁぁぁぁ〜〜!」とかと言いながら。
それなりにやっぱり喜びがある。
一本のガリガリ君を悲鳴をあげながら、60〜70代の高齢者スタッフと、孫のようなスタッフがタオルで汗を拭きながら木陰で「カァ〜!」と言いながら喰っているというのは楽しい職場。
でもそういう言葉づかいのことでも「おーい、中の人」と言いたい。

例えばこういう言葉づかいがある。
普段の言葉づかいだが、人を責める時「オマエが本当に反省しているなら、そんなことはできるはずだ」。
これは二重構造。
二重課題になっている。
ダブルバインド。
人を縛る、動かせなくなる言葉づかい。
「反省してます」という返事をすると「なら、なぜできない?」と。
逆に「できるはずだとおっしゃるんだったらば、できないのはなぜですか?」と切り返すと「反省してないからだ」と言う。
こういうダブルバインド。
とあるコンサートでチーフが使っていた言葉で、今でも覚えている。
「オマエたちはそこ並べ。このままでいいと思ってんのか?」
これは完璧なダブルバインド。
「このままでいいのか?」
「いいえ」と言えば「なぜやらない?」、「はい」と言えば「なぜできない」と、こうなる。
お母さんがたの子供を叱る時の言葉づかいで、よく連発される言葉。
「私が心配しているのに、どうしてあなたはわからないの!」
「わかってるよ」と言えば「いいえ、わかってないから心配してるの!」と、こう来るワケで。
「心配しないで」と言うと「どれだけ心配してるか、まだわかってない」と。
女の人はこういう「ダブルバインド」「相手を動けなくさせる」というのはうまい。
逃げ場をなくす、追いつめる。
これは「二重課題」。
このダブルバインドというのは夫婦関係などでもよく使われるる言葉。
武田先生の奥様もこれはもの凄く多い。
今も逆らう力も夏バテしているので、ない。
この言葉づかいで来る。
これは、ある意味では問い詰める悪魔の技術。
この一環として、ついこの間の話題だが「相手を潰せ」という発言が出てきたのではないか?
日大アメフト選手が会見 「監督の指示に従った」  :日本経済新聞
あれはやっぱり「悪魔の二重課題」。
「やらないと意味がないからな」
それは反則をやる。

人間というのは無意識のうちに行動をしてしまう。
それでその無意識というのを不思議なことに縛る言葉があるんだ、と。
無意識を動かす言葉がある。
それはあまりいい意味では使われないという。
そういうことを話している。
夫婦関係で女房の口癖とか、お母さんが子供を強く叱る時の言葉とか。
あるいは悪意ある他人への誹謗中傷。
そういうのは一種の無意識を縛る悪魔の技術ではないだろうか?
あまり頑張りすぎる商品の売り込みというのは、はっきり言ってこのダブルバインド話法が比較的使われやすい。
「お肌のシミ、気になりませんか?」
これは明らかに言葉づかいとしては危機意識を煽る。
気になる。
別に気にしなくてい。
テレビに出ているアンタから言われる筋合いはない。
「梅雨時のジメジメ、嫌ですね〜」
好きな人もいる。
「ジメジメ好き〜」という人はいる。
そのような人の否定というのが二重課題をさして初期設定されてしまう。
これに対抗するために私たちは無意識をどんなふうに操ればいいか?
それは「それを認めない」という動作そのもの。

首を上下に振らせるだけで、無意識のうちに相手に対して賛同・同調する効果を聞き手に持たせることができてしまうのだ。まさに、無意識のうちに心を操る、マインドコントロールである。(170頁)

「アメリカをもう一度、偉大な国にしましょう!」
誰でも「はい」と言うに決まっている。
ずっと「はい」の返事をさせていくうちに、とんでもないことを言う。
「十代の少年たちを鍛え直すために、みんな軍隊に入ろうよ!」。
思わず「はい」と言ってしまう。
肯定の「はい」を繰り返させることによって、相手のマインドをコントロールする。
逆の意味で言うと、とりあえず横に首を振る人がいる。
「いやぁ、それはもう・・・」
誰が何と言おうと、まず一回首を振るところから始める人。
この人は何を言っても相手に賛同しない。

6月のワールドカップ。
点数を入れられたキャプテン長谷部(誠)。
「下を向くなー!下を向くなー!」
あれは下を向いて敗者のポーズをとると、パフォーマンスが落ちていく。
上を向く、前を向くと、気分が高揚してくる。
これは脳を騙すテクニック。
それから、その人の意見が間違った意見でも頷いてあげる。
そうするとその間違った意見の中にいいものが見えてくる。
そういう動作が脳を動かしていく。
これは面白いこと。

柔道も相撲もそうだが、合気道というのはこれから戦う人に向かって頭を下げる。
その時に「私はあなたを尊敬してます」というポーズをとることによって、そのポーズが卑怯なことをさせない。
水谷譲のご子息も合気道をやっているが寒稽古をやっている。
何で寒稽古をやるか?
あれは体の方から脳に命令する。
寒いのを我慢してやる。
そうすると「我慢」という行動様式が無意識に宿る。
そうすると寒さ以外に「理不尽なお母さん」「ワガママなお母さん」の無理難題でも、わりとおっとりと受けていくようになる。
そうすると環境に支配されない「耐える」という力が他の部分でも芽を一斉に吹き始める。
それが貧しさに耐えたり、苦しさに耐えたり、寂しさに耐えたりする。
「むかつく上司には頭を下げろ」
静かに笑う。
そして大きく頷いて認めてあげる。
そのことによって自分の心を強くする。

武道にはいくつも耐えることが用意されている。
寒さに耐えるとか苦しさに耐えるとか。
すると「耐える」というしぐさが無意識に身につき、別の苦しさ、寂しさ、貧しさに耐えるという心理そのものが技になっていく。
これは「脳」ではない。
無意識は耐えることを習慣とすることができる。
これから戦う。
相手をなんとしてでも潰したいと思う。
乱暴なことだけど。
でもその相手に向かって深く一礼するという習慣を持つと、無意識の方から無限の武道的力を汲みだすことができる。
それが武道の神髄。
スポーツにはすべてそういうものがある。
これから戦う相手、自分が競わなきゃならない場所に対して一礼するという不思議な動作がある。
だから後ろからタックルするのはダメ。
「敵を本気で憎む人があるか!」という。

長距離ランナー。
例えば青学の選手が自分の区間を走り終えてゴールした瞬間に、ふらふらになって産まれたてのバンビみたいになりながら走った距離に対して一礼をする。
空間全体に対して。
でもそのことによって無意識を動かす。
それからピッチを降りてきたサッカー選手とか。
それから相撲における一礼。
だから一礼をやっぱり疎かにする相撲の人というのは強くならない。
手を叩く。
相撲は必ず手のひらを見せている。
「武器は隠し持っていない」という。
白鳳とか、きれいに手のひらを見せる人が2〜3人いる。
あれは「寸鉄も帯びず」「私はもう、ひとかけらの鉄も持ってない」という。
「この肉体であなたと戦うのです」という。
こういうこと。
だから礼儀作法とかっていうのが、いかに無意識を動かすか。
考えてください。
それからどんな人でも結構だから朝の挨拶「おはよう」、帰り際の「お疲れ様」。
こういう声をかけておく。
これは「単純接触効果」と言って、無意識のうちにパワーがだんだん宿る。
人間を動かす力になる。
だからテレビコマーシャルとかラジオコマーシャルもそう。
毎日そのコマーシャルを流すことによって「単純接触効果」。
「お疲れ様」とか「おはよう」とかという声と同じように聞こえて好感を持ってしまう。
それからまた別の意識の動かし方。
これはある前提を、ある基準を設定しておくと、その設定が相手を動かし続けるという心理行動。

「日本で双子が生まれるのは、夫婦三〇〇組に一組よりも、多いでしょうか、少ないでしょうか?」
 このように問われた時、我々は無意識のうちに「三〇〇組という数がおそらくは、妥当な値なのだろう」と思ってしまわないだろうか。心理学では、この無意識の想定をアンカリング効果と呼んでいる。実際には、二〇〇九年のデータでは、双子は五一組に一組の割合で生まれるという結果になっており、三〇〇は明らかに大きすぎる値だったのだ。
(186頁)

「平成二五年度の、男性の喫煙率は一五パーセントよりも高い、低い?」
 正解は、「高い」であり、三二.二パーセントであった。この三二という値を聞いて「え!? 意外と高いなあ」と感じた人は、一五パーセントという数字のアンカリング効果を受けていると言える。
(189頁)

これは近頃のクイズ番組なんかで年がら年中やられている。
このアンカー効果は例えばある問題が出た瞬間に画面の隅に「東大生正解率50%」。
それからまた別の横の方に「小学生正解率5%」と出ると「あ、難しい」「あ、易しい」と思ってしまう。
それからテレビショッピングでよくある特別セールの呼びかけ。

 当時のアメリカでキャンベルスープの正規価格は八九セントだったが、特売品として七九セントで売り出した。そして、売り出しのコピーに三条件を設定した。「お一人様四個まで!」「お一人様一二個まで!」そして「お一人様お好きなだけ!」という三つのコピーを別々の日に付けて販売した。−中略−
 その結果、「お好きなだけ!」条件ではトータルで七三缶売り上げた。「四個まで!」条件では、それが一〇六個までに大幅に伸びた。さらに「一二個まで!」条件ではなんと一八八缶という驚きの売り上げをたたき出した。つまり、一二個までという極端に大きい数であっても、それがアンカリング効果を産み出しうるのである。
(192頁)

テレビの「歯を磨いて歯垢を落とす」「歯の汚れを落とす」というコマーシャルをよく見ている。
よく見ると少し残っている。

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洗剤でも、バーッと水が流れていくというイマジネーションがあって、その拡大図にまとわりついた油汚れみたいなのが流れていくのだが、少し残っている。
排水口とかもそう。
「お風呂の壁掃除○○」と言うが「ほら、こんなにきれい」と言うが、少し残っている。
「真っ白」にはならない、と。
誇大広告にしない意味で、少し汚れを残しておくうちにコマーシャルを終わらせる、という。
あんまり綺麗にすると誇大広告になる。
だからアメリカは大変。
今はあまりやらなくなったが昔、焼きそばのコマーシャルで空飛ぶ円盤みたいに。
それで宇宙人が戦ったりするのがあった。
焼きそばの器がUFOに似ているので、そういう商品名を付けたが、それが星空からバーッ!とやってくるという。
ああいうのも最近、ダメになってきたようだ。

日清 焼そばU.F.O. 128g×12個



焼きそばは星空を飛ばない。
それからイメージコントロールに関してうるさくなってきたようで、アメリカはもう徹底している。
もの凄い高級車が夜空を飛んだりする。
「車は飛ばない」
日本でもたまにそういうCMがあっても小っちゃく「イメージ上の映像です」みたいに書いてある。
そのあたりは厳しくなってきたということ。

著者があとがきで書いている。
有名な「吊り橋効果」。

 被験者は一八歳から三五歳の八五名の男性であった。橋は、カナダはノース・バンクーバーのカピラノ川にかかっていた二つを用いている。一つは木製で、上下左右に揺れがちな橋であり、橋から下の様子が透けて見えるものだった。橋は水面からの高さが二三〇フィート(およそ六九メートル)も上方にあるものだった。−中略−
 女性のインタビュアーが、橋の真ん中に立っていて、
−中略−アンケートの紙を一部破いて(実際にこのように論文に書いてある!)被験者に渡そうとするのだが、そこには女性のものであろう電話番号と名前が書いてあったのである。ちなみに、この実験では男性のインタビュアーの条件も用意してあったのだが、このことを知っている人は非常に少ない。
 さて、結果である。まず揺れる吊り橋で、女性のインタビュアーから電話番号の紙を受け取った男性被験者は二三名中一八名であった(五名が受け取りを固辞した)。このうち、実際に電話をした被験者は九名いた。
(202〜203頁)

これが有名な吊り橋効果と言われて。
吊り橋の上を歩くというハラハラが恋のドキドキと勘違いされて、無意識に「恋をしてる」と自分を思わせてしまうという。

男性インタビュアーの条件では、実際に電話したのは揺れる吊り橋で二名(203頁)

「これは面白いな」と思った武田先生。
まことに残念ながらこの本はここで終わっている。
このハラハラ・ドキドキの吊り橋効果というのは「男性優位であり、女性には効かない」という。
だから「片一方の実験もちゃんと取り上げるべきだ」ということで終わっているが、何でこの差が生まれたかに関しては著者は触れていない。
男女の性差の中に「誤解力」という力があって、男女で差があるのではないか?と。

8月の頭まで暑い京都にいた武田先生。
朝早く、遠い村までロケに出たりする。
江戸時代に見えるような村なので一時間以上かかる。
そこで武田先生の事務所の社長が気を利かせて「これ聞きませんか?」というのでラジオ番組を聞いていた。
その番組は『今朝の三枚おろし』。
これがびっくりするぐらいいいことを言う。
ちょうどその時にこの本(『脳は、なぜあなたをだますのか』)を三枚におろしていた時に、その京都で聞いたKBSの朝の『今朝の三枚おろし』という番組で「男女が恋するためにはバケモノが必要だ」と、あるアニメ映画を取り上げながら言っている。
(2018年6月18〜29日に放送されたアニメーション映画「この世界の片隅に」の件かと思われる)
「これはすごい一言だ」と思ってハガキを書こうと思ってしまった武田先生。
「吊り橋効果」
その吊り橋を渡る時のハラハラが恋をしていた時のドキドキと勘違いをして、ハラハラを恋のドキドキに脳の方が理解してしまうという勘違い。
この吊り橋の効果のハラハラ・ドキドキの男女の大きな差は何かというと、おそらくこの差こそ武田先生が探し求めていた「誤解力」ではないだろうか?
どういうことかというと「誤解力は男性について高く、女性に関しては低い」。
短く言えば、比較の差がその力との差となったのであろうと。
男性は誤解したがる。
男はハラハラとドキドキしたがるもの。
女性は何かというと、これはわずかな言葉の差だが、ハラハラ・ドキドキ「させたがる」。
女性にとって「誤解させている」という自信こそが「女の力」。
これはもう名言。
男にとって誤解することこそが生命力。
女性にとって誤解させることが生命力。
真実は意味がない。
そんなのは脳の後付け。
ゆえに別れの女性の言葉は決まっている。
「あなたのこと、わかったわ」
そして男性は「おまえ、そんな女だったのか」。
これは「別れの言葉」で「真実を知った悲劇」ということではない。
両者ともに「誤解させる力」がなくなった、「誤解する力」がなくなった。
だから真実を見た男に対する女性の最高の呪いの言葉は「見たな〜!」。
そういう怪談話が多い。
ずっと女の方。
男というのは何でも誤解する。
ツルを見て絶世の美女に見える。
『タニシ女房」はタニシを女と思ったとか。

ここからちょっと社会性を帯びるが「誤解するのも生命力なんだ」ということを考えると、今年の6、7月のこと、気象庁があれほど豪雨警報を繰り返しながら、自宅にとどまる方が多かった。
これは警報の出し方に「訴える力」がない。
「正確に言えばいい」と思っている。
その「正確に言おう」とする態度が「チェンジする」「逃げ出す」という力を産まない。
「この3日間で7月に降った雨量の3倍の豪雨がこの1日で降りました」
こんな言い方をされたのでは、何を言っているかわからない。
女性の方が「誤解させる力」があるのだから、今、足りないのは「正確な物言い」よりも誤解力を起動させる女子アナの声。
だから本当にお気の毒だが、自分の家、家庭でも「実は危険な場所である」という、その誤解を持っていないと。
だから「家庭が一番安心」みたいなことを言う。
台風が来たら「まっすぐおうちに帰りましょう」と言う。
「家が一番安心だ」と思っているから、本当に気の毒な犠牲者が何人も出た。
家ですら危険。
「いい意味で誤解させる」
そういう何か技を持たなければいけない。
日本は地震、台風、豪雨。
とにかく吊り橋のような国に住んでいる。
だからたくましき誤解をする力「誤解力」を持つことこそが大事なのだ。

「三枚おろし」を通じて同年代の方に呼び掛けたいと思う。
おーい、私の中の人。
さあ、しっかり誤解してゆこう。
一生現役。
最後の恋はある。
というワケで今日も一日頑張りたいと思う。


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2018年8月20〜31日◆おーい、中(なか)の人(前編)

「中の人」は誰かというと「私の内側に誰かもう一人、人が住んでるんじゃないか?」という。
小さい武田鉄矢。
そいつが時々「何を考えてんのかわからない時がある」ということで「おーい、中の人」。
「オマエは何を考えてるんだ?」ということでこういうタイトルを。

掴みは趣味でやっている合気道から話を始める。
面白い武道で日々発見がある。
高段者、有段の人から指導を受けている。
もう来年70歳になる武田先生だが、その歳になっても指導している高段者は時としてものすごく不思議なことを言う。
合気道は「見取り稽古」と言って「取り」と「受け」という二つに分かれて稽古を繰り返しする。
一番最初に師範が前に出て「こういう技をやりなさい」と技を見せてくれる。
これがそんなに難しそうに見えない。
相手が掴んでくるところを正面から相手の首を絞めるような恰好で倒すとか、単純に見える。
ところが、やり始めると、どうしていいかわらかない。
「あの動きは何だったのか?」という。
技をかける人、かけられる人に分けて取り掛かるのだが、自分が技をかける人になった場合、かけられる人に向かって「たしかこういうふうに動くんですよね?」と相談する。
相手が同じぐらいの腕前の人だと「え?そうでしたっけ?」「上から取りました?下からじゃなかったですか?」。
ところが高段者、五段六段の人になると「こうでしたよね?」と相談すると「考えてはいけません」と言われる。
それで向こうが仕掛けてくるので掴みに来る。
どうしていいかわからないが「考えずに動け」と言う。
「考えずに動け」と言われても、どう動いていいかわからないのに。
ところが3〜4年やっていると、何となく動くようになってくる。
はずれることもあるが半分ぐらい「そう。ほら、覚えてるじゃないですか」と言われてしまう。
とにかく武道というものの不思議さ。
師範、あるいは高段者の方がおっしゃる名言は「体に任せるんです」。
体に任せるっていっても?
「これは一体どういうことなのかなぁ?」と思って本屋さんに入ったら『脳は、なぜあなたをだますのか』という本に出くわした。


これは知覚心理学。
「人が心に抱く意志は錯覚である」という。
「錯覚」だってよ?
脳というのはことごとく錯覚する。
錯覚で世界を作っている。
例えば「ベクション現象」。
これは脳が特有の錯覚を起こした現象。

 坂道で車を停車させている時に隣の車が発進すると、自分の車が下がっていると錯覚してしまい、あわててブレーキを踏むという経験をしたことがあるだろうか。(29頁)

これは視覚情報で身体の移動感覚が誤作動する。
脳というのはかくのごとく、いとも簡単に誤作動を引き起こしてしまう。

また激しく流れる川をジイッと・・・
水谷譲は男か何かで悩んで、橋の上から見つめたことがあるのではないか?
そうすると不思議なことに、その流れと反対側に向かって自分がものすごく動いているような錯覚が。
これも「ベクション」脳の錯覚。

映画『スター・ウォーズ』のワープのシーンでは、画面中央に向って光る点が周囲に向かってすごい速さで通り過ぎていくが、それがまさにオプティカルフロー刺激である。(32頁)

これも脳の錯覚。
これらベクションは視神経に刺激を置くよりも、周辺を覆うように提示すると強いベクションを引き起こす。
つまり真ん中になるべくこう、注意を向けるような飾り付けにすると。

今までは視覚だったが聴覚にもある。

頭の周りに三六〇度ぐるりとスピーカーを並べて、その円を回転するように音を連続に提示する。すると、はじめは音が頭の周りをぐるぐると回転しているように聞こえるのだが、これを聞き続けると、回転しているのが自分自身のように感じられるようになるのだ。
 他にも、キューテニアス・ベクション(皮膚感覚ベクション)というものが報告されている。目隠しをして、乗馬型フィットネス機具に乗り上下左右に激しく揺らされた状態の被験者に、一方向から大型扇風機によって強い風をあて続ける。すると被験者は風が来る方向に自分の体が進んでいるように感じるのである
(40〜41頁)

THRIVE(スライヴ) 乗馬マシン ロデオボーイ FD-017



このベクションはなぜ引き起こされるのか?
これは入ってきた感覚について脳が「こんなふうなんじゃない?」と考えて世界を作っている。
これが私の「体の中にいる人」の感覚。

例えば電車が動いた。
「あ、今のは地震だ」
「あ、ドォン!と俺にぶつかりやがったな。コノヤロー!」
「いかん、めまいだ」
とか。
その理由を脳はいちいち付けたがる。
この間も関西方面であったのだが、道を走っていたら車の揺れか地震なのかわからない。
特に車に乗っている時はそう。
車に乗っている時の地震は、高架の橋みたいな所で揺れたので「これは地震だな」と判断したという水谷譲。
普通はちょっとわからない。
この間、震度4だったか。
ピンときたのは街路樹の揺れで「車の揺れと違う方角に揺れてるから地震だ」という。
こんなふうにして考えると「脳によってジャッジする」というのは、かなりやっぱり難しい。

この番組で繰り返すことになると思うが、脳はあまり賢くない。
それはもの凄いところもある。
でも、もの凄い間抜け。
今、そういうのを勉強中の武田先生。

言われてみるとそうだが、自転車を描けない。
私たちの身の回りの物で、80%ぐらいは描けない。
脳はすごく深いことを考えているみたいだが、意外と。
今度いつか正式に(番組で)やるが、トイレの水が何で流れるのか?
つまり私たちはいっぱい説明できない。
脳は「わかった気」になっている。

今、共演者と盛り上がっている話。
バットとボールで合計のお値段が1100円。
バットはボールより1000円高い。
では、ボールはいくらでしょう?
「100円」と言ってしまいそうだと思う水谷譲。
それを女子力だと思う武田先生。
(ボールが)100円だとバットは900円になってしまう。
二つ合わせて1100円にならなければいけない。

脳というのはそんなにあんまり頼りにならない。
跳び箱を飛ぶ。
ボールをシュートする。
飛んできたボールを打つ。
そういう行為を人間は平気でやっている。
スポーツ中継を見ていてもそれは一種、そうやって見ている。

刺激がはじまってから〇.五秒経たないと、我々はその刺激を気づくことができないのである。−中略−
 では、なぜそんなズレがあるにもかかわらず、我々は生きていけるのだろうか。なぜ適切に跳び箱が飛べるのか。なぜ野球でボールを打つことができるのか。〇.五秒ものズレが環境と意識の間にあるのに、我々はどうして環境に対して適切に行動ができるのだろうか。
(73〜74頁)

脳が遅い。
つまりボールが飛んでくるから打つ。
あれは「打とう」と思ってバットを振ったのではもう遅い。
あれは振った後に「打とう」と思っている。
そんなふうにして体と脳がズレていく。
その0.5秒の差のことを武道では「考えるな」と言う。
武道は体験としてそのことを知っていた。
人間はなぜ「打とうと思った」「シュートしようと思った」「跳び箱を飛ぼうと思った」と考えるかというと、記憶として残すため。
そうやって考えると、この私たちの「無意識」という「中にいる人」というのは、「何考えてんのかなぁ」と思わず呼びかけたくなるという。
人間のすべての行動は体が動いている。
その後、頭が「そうしよう」と思った。
「動いたからそう思った」のであって「思ったからそう動いた」のではない。

もの凄いことを途中でこの著者は言い始める。
知覚心理学の妹尾武治さん。
意志、意識は行動の決定に何の意味も持たない。
「この人が私の本当に愛する人かどうか、私、何べんも考えたの」
科学上では「嘘」。
これらの意志、意識は何のためか?
これは思い出として包み込み、しまうために脳が整理整頓。
選挙でもマニフェストをしこたま読んで、よく検討して清き一票を入れた。
「選挙民が自由意思によってあの人を選んだ」なんて言っているが、著者はすごいことに「人間に自由意思などない」。

アメリカの実際の選挙(上院下院)の投票結果を用いた実験をした。−中略−
 顔だけを見て競争力があるとして選ばれた方の人物が、実際に選挙で当選していた確率が七一.六パーセントにも達したのである。
(88〜89頁)

 次に、子供を被験者にして行った、これと非常に似た実験を紹介したい。−中略−二人一組の顔写真を子供に呈示し、どちらが選挙で勝ちそうかを予測してもらった。年齢は五歳から一三歳−中略−子供が顔写真だけを見て予測した結果の正答率は、なんと七七パーセントもの高さとなった。つまり、子供がちょっと見ただけであっても、選挙の合否はとても正確に予測が可能であったのだ。(92頁)

人はみんな印象派。

被験者は二人の顔写真を見せられる。ここでは、左右の手に二人の女性の顔写真が呈示されている。男性の被験者は、この二人のうち、いずれがより魅力的であるかを判断する。
 さまざまなペアの顔で、この判断を何度も繰り返して行ってもらう。その後、実験者が「先ほど選んだ顔は、どうしてあなたの好みに合致しているのか? その理由を聞かせて下さい」と被験者に問いかける。
−中略−
 ここにトリックがあり、数枚に一枚の頻度で実際には選ばなかった方の写真を被験者に見せて、選んだものとして理由を尋ねたのである。数枚に一枚の頻度であるため、被験者もすっかりだまされてしまって、自分が選んだ方だと思い込んで理由を述べたのだった。
(95〜97頁)

 好きだという理由はほとんど嘘であるということが、ここからもわかるだろう。(97頁) 

人は決して合理的な意志を持って恋をしているワケではない。

 ノーベル賞を受賞した彼の研究テーマは、「プロスペクト理論」と呼ばれるものだった。非常に簡単にこの理論を説明してみたい。今、一〇〇パーセントの確率で七〇〇〇円をもらえるのと、九〇パーセントの確率で一万円もらえるという二つのうち、どちらかを必ず選択せねばならないという状況になったとして、みなさんはどちらを選択するだろうか。多くの人は、確実にもらえる七〇〇〇円の方を選ぶのではないか?(103頁)

(本の中では上記のように「七千円=100%、一万円=90%」と言っているが、番組では「五千円=100%、七千円=80%」と言っている。この後の説明も本とは異なる)
これは何かと言うと、無意識のうちに期待値「もらえる金額×失う見込みの金額」7000×0.8=5600円
わずか600円を損する可能性から5000円を選ぶのである。
とにかく「二人でも落っこちるのであれば、そっちの方には行かない」と。
それより低い値段でも。
これが実は経済に影響している。
これは経済で人の心理を支配する法則。

 二〇万円の借金は、一〇万円の借金の二倍不幸に感じられるかもしれないが、二億の借金は一億の借金の二倍不幸かと言われると、おそらくそうはならないのである。(107頁)

(番組では10万円と一億は「罰金」としているが、この本によるとそういう内容ではない)

 告白するという選択をした場合の帰結は、大きく三つあるだろう。
1 恋人になれる
2 「友達のままでいたい」と言われる
3 友達以下の存在として煙たがられる
(110〜111頁)

これも「友達」でいい。
人間は真ん中を取りたがる。
だから「告白しない」が圧倒的に増える。
こういう傾向を心というか無意識は持っているという。
(このあたりを本には詳しい数式で紹介しているが、番組で言っている内容とは異なる)

人は万が一の成功よりも負の期待値が低い方がいいんだ、と。
つまり平凡でもいいから安心して得られる方法を選んでしまう、という。
そういう行動をとりやすい生き物だということ。
これを「プロスペクト理論」という。

内田樹先生がおっしゃる中で、ギクッとした話。
「恋がうまくいっている時ほど、相手に意外な一面を発見すると、男女はそれを裏切られる予感としてカウントする」という。
「二人ともうまくいっているんだけども、ある瞬間だけその子が期待した行動と違う行動をとる」という。
手をつないで歩いている時に、その子がちょっと手を離した瞬間に「違う男の臭いが」みたいな。
「お付き合いしている人がいたとして、何か『ん?』て、一瞬でも『違う』て思った瞬間があったら、結婚する相手じゃないかも知れない」と母から教えられた水谷譲。
そういうことが比較的おきなかったから、その人を選んだのだろう。

内田さんから言われて本当に思ったこと。
武田先生の家では特にそうなのだが「高価で割れやすい美しいガラスは、高いところに飾る」。
普段使いのものは低いところに置いて、蹴ったにしても「一枚も割れてない」みたいな。
でも高いものは上の方に、「上部に置きたがる」という。
逆だった方がいいのに。
こういう不思議な理論を心は持っている。

「モンティロール問題」という数学の問題がある。まずはこの問題を紹介したい。
 閉じられた扉が三つある。このうち、どれか一つだけ扉の向こうに正解のご褒美がおいてある。被験者には三つの扉のうちから一つを勘で選んでもらう。正解は一つなので、もし被験者が正解の扉を選択しているとすれば、選ばれなかった二つの扉の向こうにはご褒美は置いていないことになる。また、もし被験者がはずれの扉を選んでいる場合には、残された二つの扉のうち一つの扉は、はずれであり、向こう側にご褒美が置いていない。
 そこで、ゲームのマスター(仕切り人)が「今選ばれなかった扉のうち、一つは確実にはずれですから、私が開いてしまいます」と宣言して、一つの扉を開く。
 ここで、ゲームのマスターが被験者に問いかける。
「正解の扉は残り二つのうち、どちらでしょうか? はじめの選択のままステイしてもいいですし、残りのもう一つの扉に変更(スイッチ)してもいいですよ」
 このとき、被験者はステイするべきか、スイッチするべきか? みなさんはどう思われるだろうか。
(128頁)

可能性は33%。
33%がそれぞれ可能性がある。
その中から意図的に一枚をはずした。
ということは確率は66%に上がる。
それで「選べ」と言うと変えない(ステイ)。
設定そのものが変わったワケだから、可能性も変わっている。
科学的に見ても変えるのが常識。

最初の選択において被験者は三三パーセントの確率にかけており、その他二つの扉の正解の確率は合計で六六パーセントとなっている。今、この六六パーセントの正解率はそのまま保たれた状態で、一つが「はずれ」であることを教えてもらったので、閉まったままの残りの扉、つまりスイッチする対象の扉が正解である確率は二つの扉の合計分の六六パーセントになっている。これが数学的に正しい考え方なのである(128頁)

同じことを鳩にやる。

 鳩は、初日のセッションでは人間と同じく七割近くがステイを選ぶ−中略−しかし、最終日の三〇日目−中略−にはほぼ一〇〇パーセントの確率でスイッチを選択するようになったのである。(134頁)

(番組では「100回繰り返すと」と言っているが、本には「最終日には1日100回」なので、トータルで100回より遥かに多い)

武田先生が何を思いながら「三枚におろそうかなぁ」と思っていたかというと「避難してください」と呼びかけても、動かない人がいる。
チェンジとステイが、実は災害避難等々の場合に70%がステイを選んでしまうことを考えると、人間社会の中の「注意喚起」という意味で、その呼びかけ等々に関して、人間はステイを選んでしまうという常識を、ちょっと国民全体で共有するというのはいかがか?
「最初の自分の決断を信じたい」という心理が働いてしまうのだろうと思う水谷譲。
ニュースで一番ショックだったのだが、7月の事、息子さんがもう腰まで水に。
それで飛び込んで行くと親父が「おい、オマエも手伝え!」という。
日テレNEWS24 日テレNEWS24 「逃げなくても大丈夫」避難拒む父に危機が
お父さんのインタビューが後から出て「こんなことは初めてだから」。
「息子に言われて初めて」という。
ああいうステイを思わず選んでしまう。
それは自分の経験に照らして「その直感は間違っていない」と思う、という。
そいういう直感というのが総崩れの時代にきているんじゃないか?
こういうふうにして結びつけると鳩との比較なんかも面白い。

 心理学において、重要な概念に注意資源というものがある。人間の心の動きには、燃料が必要なのである。何か考えるにしても、脳が燃料を使う。なにかに集中し注意を向ける。つまり、なにかの課題を適切にこなそうと思ったら、注意の力が必要なのだ。
 この注意の燃料のことを、心理学では「注意資源」と呼ぶ。
(146頁)

たった一回入ってきた情報の方が人間はチェンジを選ぶ。
絶えず「お気をつけください」ばっかりを繰り返されると人間は気を付けなくなる、という。

 今、ある人の注意資源の最大値が一〇〇だったとしよう。かけ算に五〇の資源がもっていかれ、バスケットボールをつく課題に六〇もっていかれる状況だと、トータル一一〇の資源が必要になる。しかし、この人物の限界は一〇〇である。すると、どうなるか。
 答えは簡単で、かけ算がいつまでたっても解けないか、バスケットボールを突き続けることができず
−中略−
 同じ課題を、注意資源の最大値が二〇〇の人物が行えば、二つの課題は適切にこなされることになる。
(147〜148頁)

また加齢に対する衰えもあって、ボールをつきながらかけ算をやるというのは高齢者に難しく、運動神経が鈍い方はさらに難しく、練習した事のない人はさらに難しくなるという。
だから練習していない、あまり運動神経がない、歳を取っている。
こういう方々はステイに関して、もの凄く注意深くなった方がいい、ということ。

オレオレ詐欺に引っかかってしまうのも、まさに二重課題による注意資源の搾取が原因である。
 オレオレ詐欺では、息子と名乗る人物が矢継ぎ早に自分の困難な状況と、それを救うための金銭的な条件を電話越しに伝えてくる。聞き手、つまりその息子の母親や父親などの、オレオレ詐欺の被害者は、まず電話越しのやりとりを無難にこなすという課題を完遂せねばならなくなってしまう。つまり、自称息子が電話越しに伝えてくる中身を正しく理解するというタスクが課されているのである。
(157頁)

詐欺師なんかが使うのは「二重課題」。
「こつこつやる人よりも倍のスピードで動く人は、上達も倍になる」
「食べても痩せられる」
よく考えるとあるワケがない。

posted by ひと at 11:17| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年11月07日

2018年7月16〜20日◆植物は未来を知っている(後編)

これの続きです。

植物というのは記憶力を持っている。
これは間違いないんだ、と。
植物は視覚を持っている。
見てるんだ、と。
そう言われてみると桜がバーッと一斉開花するという日本独特の風景があるが、あれなんぞ見ていても桜がやっぱり周りを見ながら「あ、さくら咲くの?」みたいな感じで次々咲いていくという。
そういう会話をしているんじゃないか、という。
そしてこの方が次におっしゃっているのが、ちょっと日本では類例をみられないかも知れないから首をひねられる方もいらっしゃるかも知れないが「植物の擬態」。
カマキリが蘭の花に化けたりというようなのを擬態というが、これが「植物にもある」と。

ボキラ・トリフォリアータは、チリとアルゼンチンの温帯林で成長するつる性植物でボキラ属の唯一の種でもある。(68頁)

樹木に巻きついているどのボキラも、見事な擬態能力でそれぞれの宿主≠フ葉をまねしていたのだ。実際、宿主となりうる植物は一種類ではなく、ボキラはずうずうしくも、じつにさまざまな葉をそっくりコピーしていた。(69頁)

同じ森の中の10種類以上の植物の葉をマネするそうだ。
(とは本には書いていないが)

擬態能力は何らかの形で《役者》に利益をもたらす。この場合《役者》に当たるのはボキラだ。では、自分の葉を変化させ、宿主の葉を模倣することで、ボキラはどのような利益を手に入れることができるのだろう? 第一の仮説は、有害な昆虫から身を守れるということだ。たとえば、ボキラがまねしている葉が草食性の昆虫にとって有毒な植物だとしたら、そして昆虫自身もその葉を避けることを学習していたなら、ボキラはその植物に紛れこむことによって身を守れる。(70頁)

実はこの本を読んでクイズ番組で10万円を稼いだ武田先生。
アフリカのどこかの自然動物園か何かで草ばっかり喰うツノの曲がった鹿みたいなピョンピョン跳ねるヤツ。
あれが大量に死んだ。
それを追求していって出た結論が「植物が殺した」。
その葉っぱを喰うという鹿みたいな動物がいる。
そいつから喰いつくされることをおびえた植物は新芽の段階で毒を用意した。
それで全滅はさせないまでも2/3ぐらいを殺した。
減ったら毒を新芽から消した。
(番組は『世界まる見え!テレビ特捜部 謎を解け!ミステリークイズ2時間SP!動物3000頭ナゾの大量死』。アカシアが自分の身を守るために大量のタンニンを生成し、それを食べて消化ができなくなったクーズーが死んだ)
だから完全犯罪でどこかのドンファンみたいな話。
特集:紀州のドン・ファン 不審死 - FNN.jpプライムオンライン
植物の世界にもそういう「一服盛る」というのがあるそうで。
我々が食べている野菜だってそう。
ジャガイモだってそう。
ジャガイモの芽は毒。
あれもスタンバイしている。
ただジャガイモが今のところおとなしいのは全滅させられる可能性がないから。
そういう「動物に全滅させられてたまるか」と思った葉っぱは擬態によって他の葉っぱに化けて「私はボキラじゃないもん」とかって言う。
この辺はすごい。

二つの仮説を示している。一つ目は、ボキラは大気中に放出された揮発性物質を近くして、模倣すべきモデルが何かを決定しているというものだ。(72頁)

とにかく環境を目で見てマネしているとしか思えない、と。
動物の視覚とは全く違うしくみを植物は視覚として持っているのではないか。
葉っぱはとにかく光を探す。
根っこはひたすら闇を探す。
考えてみれば「視覚がないとできませんぜ?」という。
この好日と、いわゆる「闇を好む」という二つの性格。
この辺、植物はやっぱり動物的。

(著者の)ステファノさんがおっしゃっているのは、人類が解決しなければならない謎の一つ「秋の紅葉」。
これは謎の現象。

秋の森を彩る赤、オレンジ、黄の色の爆発は、数年まえまでは葉緑素の減少による当たり前の結果と考えられていた。葉緑素がなくなれば緑色で覆い隠されていたほかの色が現われてくるというわけだ。ところが、実際はもっと複雑な何かを示しているのではないか、という疑問が生じてきた。なぜなら、いくつかの種は、大事な資源を使ってまで葉を色づかせるための分子を製造していることがわかったからだ。しかも、葉が落ちてしまう数日もしくは数週間まえに。すぐに失ってしまうような明らかに無益なものに貴重な資源を投資するのは、いったいどうしてなのだろう?(80頁)

コストパフォーマンスが悪い。
全山紅葉するのは「じゃ、なにゆえなんだ?」と。
「わぁ、キレイだね」と言っているのは人間だから人間を喜ばせる投資になると言う水谷譲。
特に日本はもう、秋の紅葉というのは大事にする。
人間にとって楽しみではあるが、果たして他の動物にとって紅葉は楽しみかどうか?

二〇〇〇年、オックスフォード大学のビル・ハミルトンが亡くなる数か月前に提示した理論が、この謎を解き明かしてくれた。彼の研究によれば、秋に葉を華麗に色づかせる樹木は、いわゆる誠実な信号≠送っているのだという。つまり、紅葉は植物のもつ力をアブラムシ(アリマキ)に向けて誇示するメッセージというわけだ。(80頁)

「緑だから葉っぱでも喰おうかなぁ」とかと思って「これから寒くなるんでいっぱい喰おうかなぁ」とかと思って張り切っている時に真っ赤になるワケで。
「何!赤じゃん!」みたいな。
虫を弾き返す、寄せ付けないために紅葉させているのではないだろうかと。
そういう考え方がある。
一種、植物から動物への示威行動として。
炎のような色を見せつけて虫を脅し、自らの生命力を誇示する森の木々の「デモンストレーション」。
それが実は紅葉なのではないか、と。

 たとえば、一頭のライオンが視界に入っても、逃げようとせずにその場でバネのように飛び跳ねているガゼルの群を見たことがあるだろうか? 一見、ガゼルたちはエネルギーを浪費するだけのむだな行動をしているように思えるかもしれない。しかし、実際はライオンに向かって、「私がどれほど力強く頑丈なのかを見よ。捕まえようとしても、おまえは時間とエネルギーを浪費することになるぞ」というメッセージを送っているのだ。同じように樹木も濃く色づくことによって、秋のあいだに移住の頂点を迎えるアブラムシに対して、自らの強靭さと生命力を誇示する信号を送り、ほかのもっと楽な宿主を探すようにうながしている。(81頁)

かつて楽園があった。
どこにあったのか?
どうもやっぱり中東の方にあったんじゃないか?
そこで初めて人間の文明が立ち興ったという。
その文明とは何か?
メソポタミア地方。
学校で習う。
農業。
農業が興ったということがものすごく重大なことで。
ここで人間は集団で生きる。
そして農業を基礎にするという社会を作ったワケで。
あたりには森と草原があったはずで。
この人間を人間らしく集団にまとめたのは「植物」。
植物がなければ農業は始まっていないから。
その人間をまとめた植物は何か?
麦。
わずか1万2千年前の出来事。
麦という植物が育つことによる人間の文明があったという。
そこが今は森も緑もなくなって。
文明とは何かと問えば、文明とは定住生活。
もう移動しない。
人間の定住は何によって可能になったかというと「農業」によって。
農業は穀物によって支えられている。

今日、三種類の植物──コムギ、トウモロコシ、コメ──だけで人類の摂取するカロリーの約六〇%がまかなわれ、そのかわりにこれらの植物は、世界じゅうどこでも広大な土地を使って栽培され、地球全土へ拡散され、ほかのライバルたちを圧倒している。(82頁)

たとえば、コムギかコメが病気に襲われたら(すでに起こっているが)大参事になるだろう。(83頁)

人間がある植物の特徴に注目して栽培すると、ほかの植物がそれを擬態し、予想もしない結果をもたらすことを最初に指摘したのだ。(88頁)

ジャガイモからサツマイモ。
更にタロイモ、キャッサバなどが食べられるようになった。
とんでもない事をこの人は途中から言い始める。
それは人間がコムギ、トウモロコシ、コメを喰いだす。
植物が考えて「アイツらのマネをすればいいのか」というので、他の植物がコムギ、トウモロコシ、コメのマネをし始めた。
コムギ、トウモロコシ、コメの立場になって考えましょう。
この人たちは毎年、秋になったら人間に喰われちゃうワケだが、春にちゃんとまたタネを蒔いて育ててくれて「滅びる」ということがなくなった。
コムギ、トウモロコシ、コメというのは。
そうすると植物もバカではないのでこのコムギ、トウモロコシ、コメを見ていたヤツが「あいつらのマネすりゃ、一部喰われたにしても俺たちは永遠の命と共に生きることができる」と。
やっぱり見ている。
それでジャガイモがマネをした。
ジャガイモがいったらすぐサツマイモが「よぉーし!俺もジャガイモのマネしよう!」って言いながらパーッと膨らんだ。
タロイモがマネをして、今、アフリカあたりではキャッサバがそれをマネしているという。
コムギもすぐにコムギの擬態が始まった。
コムギ畑の中にコムギそっくりのヤツが増える。
この人(著者)曰く「これがライムギだ」と。
だから人間に喰われるかも知れないが、喰われることによって大変なアドバンテージを手に入れる。
有利になる。
アドバンテージを彼らも手に入れたかったのではないか?
それはなぜかというと、人間に喰われることによって来年の春は育ててもらえるということともう一つ、植物にとって絶対に不可能なことが可能になった。
それは移動できる。
世界中に広がることができる。

この除草剤の使用について不安を誘うデータがある。一九七四年、農業用に使用されたグリサホートは、アメリカ合衆国だけで三六万キログラムだったが、二〇一四年には一億一三四〇万キログラムに達した。つまり四十年のあいだに、三百倍以上にも増えたのだ!(91〜92頁)

(番組では「30倍」と言っているが上記のように「300倍」)
あぜ道の雑草はグングン耐性をつけている。
人間にすり寄ってくる植物について、すべてが悪いものと断定するのは早計であるぞ、と。
もしかするとその雑草の中に第二、第三のカラスムギ、ライムギの仲間がいるかも知れない。

花以外の蜜の働きは長いあいだ謎に包まれていた。ダーウィンは、花の外に現れる蜜は、捨てるべき余分なものだという意見だった。いいかえれば花外蜜腺は、もともと何らかの理由でつくりすぎた物質を外に吐きだすための排泄器官だということだ。−中略−
 デルピーノは、このダーウィンの理論にまったく同意できなかった。植物がこれほど甘い物質、つまりエネルギー価の高い物質をむだ遣いするなど、彼には考えられなかったのだ。これほど糖分の多い生産物が余剰物≠ノされるなどありえない。植物がこうした貴重な資源を捨てるのなら、そのかわりに何か自然の利益≠得ているはずだ。つまり、花以外で分泌される物質も、花の蜜と同じ働きをもっているにちがいない、と考えたのである。
−中略−
 数年の研究のあと、デルピーノが見つけたその理由は、《ミルメコフィリア(好蟻性)》
−中略−というおもしろみのない名前で知られるようになった。−中略−好蟻性とは、花外蜜腺を使ってアリを引き寄せ、そのかわりにほかの虫や捕食者から身を守るための性質だ。−中略−捕食者から守ってくれるお返しとして、甘い蜜がアリに提供されるのだ。(127〜128頁)

ネソコドン・マウリティアヌス
桔梗の花に似ている花。
その桔梗の花に似た花の内側から、花びらに向かって蜜を流す。
(本によるとヤモリをおびきよせて受粉させる)

 一例は、アフリカや南アメリカ原産のアカシア属のさまざまな樹木とアリの関係だ。アカシアはアリを養うために独特の実をつけ、樹木の内部に特別な場所も提供する。−中略−アカシアはアリに対して、食べ物、宿泊所、さらには花の外で分泌する蜜というフリードリンクまで提供する。かわりにアリはアカシアに害を与える恐れがある動物や植物──それがどんなに攻撃的な相手でも──から宿主を守りぬく。−中略−よこしまな考えを抱いて近づこうとするほかの昆虫を遠ざけるだけでなく、自分より数十億倍も大きな体の動物にも果敢に立ち向かう。アリがゾウやキリンのような巨大な草食動物に噛みついて、木に近づくのを思いとどまるまでけっして離そうとしないのも珍しいことではない。(129頁)

蜜は糖だけでできているわけではない。ほかのさまざまな化学物質、たとえばアルカロイド、γ−アミノ酪酸(GABA)のような非タンパク性アミノ酸、タウリン、β−アラニンなどもふくまれている。こうした物質には、動物の神経系を制御する重要な作用があり、神経の興奮をコントロールして行動を支配する。−中略−蜜にふくまれているアルカロイドは同じアルカロイドの仲間(あるいは類似物質)であるカフェイン、ニコチン、ほかの多くの物質のように、アリ(または、蜜を採取して花粉を運ぶ他の昆虫)の認知能力に影響を及ぼすだけでなく、蜜への依存を引き起こす。
 アカシアの樹木もほかの好蟻性の植物と同じように、花の外の蜜にふくまれるこれらの物質の生産を調整して、アリの行動を変化させられる、ということが最近の研究でわかった。つまりこうだ。狡猾な麻薬密売人のように、アカシアはまずアリを引き寄せ、アルカロイドが豊富な甘い蜜で誘惑し、アリが蜜への依存症に陥ると、次はアリの行動をコントロールし、アリの攻撃性や植物の上を移動する能力を高める。
(131〜132頁)

コロンブスが最初の中央アメリカ遠征から戻るときに、トウガラシはヨーロッパにもたらされた。(139頁)

ここからトウガラシの世界制覇への旅が始まった。

世界中でこれほど多くの人がトウガラシの辛さを好んでいるのはなぜか? カプサイシンはほかの植物性アルカロイド(カフェイン、ニコチン、モルヒネなど)とはちがった形で脳に影響を及ぼすが、どちらも最終目的は同じである。つまり、依存症を引き起こすことだ。(145頁)

舌で痛みを近くすると、脳に信号が届き、脳は痛みを緩和するためにエンドルフィンを製造する。
 エンドルフィンとは、モルヒネに似た、痛みを鎮める生理学的な特質をそなえた神経伝達物質だが、その効果はモルヒネ以上だ。
−中略−
 エンドルフィンが依存症を起こすというのは、奇抜な発想ではない。それどころか、よく知られたランナーズハイもここから来ると考えられる。
(145頁)

だから一回辛さに耐えると、もっと辛いものが欲しくなるという。
モルヒネ、キニーネ、アヘン、シャブ、マリファナ。
こういうものが全部植物由来であるのと同じように、植物が滅びたくないために人々を支配するという。
これはすごい。

 植物は、私たち動物に似たものを何一つもっていない。植物と動物の共通の祖先は六億年まえまでさかのぼる。その時代、生命は海から出て陸地をも征服しようとしていた。−中略−植物は新しい環境に適応し、地面に根を下ろし、太陽が放射する無尽蔵の光をエネルギー源として利用した。(158頁)

地球に暮らす全生物の総重量の少なくとも八〇%は植物が占めている。(158頁)

一番最初に話した藤子不二雄先生の漫画ではないが、海から一番最初に上陸して、地面で光合成によって地球上に生きること、それを始めたのは実は植物。
植物がしっかりと世界を作った後、招かれるようにして爬虫類が海から上がってきて両生類となり・・・という。
(本にはそういうことは書いていないし、進化の方向性を考えると両生類→爬虫類)
そうやって考えると、植物がまず地球を拓いたパイオニア。
動物は生存について問題が生じるとまず移動した。
すこし言葉をきつめに言えば動物の特徴は何か困難に出くわすと逃げ出すことである。
そう。
絶えず逃げてきた。
今でも変わらない。
とにかく何か困難に遭遇すると大臣以下みんな逃げる。
「やってない」「会ってない」とか。
「知りませんでした」とか、そういうことを言いながら。
植物だけが逃げない。
動物はあくまでも逃げて己を守る。
植物は逃げない。

植物は、じっと動かないことを選択した結果、並外れて優れた感覚を発達させた。環境から逃げられなくても生き延びられるのは、ひとえに、数多くの化学的・物理的なパラメーターをいつでも緻密に知覚する能力をそなえているためだ。パラメーターとは、たとえば、光、重力、吸収できるミネラル、湿度、温度、力学的な刺激、土壌の構造、空気の成分などだ。植物は、そうした力、方向、時間、強さ、刺激の特徴を、そのつど識別する。さらに、ほかの植物との距離、その植物の正体、捕食者や共生者、病原体の存在を伝える《生物的シグナル》(ほかの生物が発する信号)についても、植物はたえずインプットしつづけ、つねに適切にその信号に対応する。(165頁)

ライムギの個体一つは、数億本もの根端を伸ばすことができる。(167頁)

森林のわずか一平方センチメートルの土地には、数千もの根端が存在するといわれているが(167頁)

植物とは非中枢的生き物。
そういう意味で「植物的である」というのは大事な才能なのではないか?
高層ビルなども考えてみれば箱の積み重ね。
上の人の床が下の人の天井になっている。
失礼。
樹木においては、あれほど葉っぱがありながら、上の人の床を天井にすることはない。
わずかにズレてすべての葉っぱが太陽の光を吸収しているワケだから。


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2018年7月9〜13日◆植物は未来を知っている(前編)

これの続きです。

植物は〈未来〉を知っている―9つの能力から芽生えるテクノロジー革命



この本を選んだ動機。
芸能でお足をいただいていて生計を立てている武田先生。
ドラマではいろんな所に引っ張りまわされる。
あるドラマで海沿いの山道を登り、丘の上に登った。
その丘の上での撮影だった。
これがすごい丘で、伊豆半島。
いきなり山が高くなっている。
ミカンの丘が広がっている。
どのくらいの急傾斜かと言うと、ミカンの実がコトンと落ちると下200mぐらいにある県道まで転がり続けるというような急傾斜のミカン段々畑だった。
そこでキャメラを向けたのだが、片平さんと演っていたお芝居。
(内容的に多分TBSの『リバース』。「片平さん」というのは片平なぎささんのことだと思われる)
金曜ドラマ『リバース』|TBSテレビ
ドラマというのは右から撮れば左からも撮るという二つポイント。
ところがそのドラマに関してだけは海を見下ろす角度からしか撮れない。
逆の海側から山へ向かってのキャメラサイドはないのかなぁ?というふうに思っていたらキャメラマンがブスーっとふくれて「撮れるワケねえじゃん!」とふくれっ面。
「何でこんなにこの人は機嫌が悪いんだろう?」と思って「どうした?」と言うと気になる方角を彼が指差した。
ハゲ山。
そのハゲ山なのだが、金属の板がズラーッと並べられている。
太陽光パネル。
ミカン農園を営みながら死んだ息子の敵を討ちたいと思っている母を問い詰めた刑事の武田先生。
それ(太陽光パネル)の光り方が情感が出てこない。
何だか果物ナイフを横に並べてキラキラキラキラ振り回しているような。
つまり、はっきり言って殺された息子の思い出を語る時に後ろ側で金属片が光るとドラマにふさわしくない。
しかしすごい。
本当に「緑をはがされた」と言っていいほどの山。
かつては果樹園が、ミカン園が並んでいたそうだ。
そのあたりにロケハンにやってきてディレクターは気に行った。
ところが一年も経たないうちにそこに来てみるとも一山、全山。
一方方向だけのキャメラワークということだったのだが、通りかかったミカン農園の方が「あれ、外資と結んでる太陽光発電会社なんですよ」と。
「私どもも反対してるんですが、言うこと聞かないんですよ」と。
外国資本が一枚入っていて、権利関係が出来ているので「景観なんか関係ない」と。
ただ、ミカン畑であんなふうに全部木を切ってしまうと「山が崩れて、ということもあるんでねぇ」と言いながら不安そうだった。
茫然とその太陽光発電のパネルの並んでいる景色を眺めたのだが、どうにも日本の景色にはなじまない。
太陽光パネルというのは、例の福島での原発事故があって、日本人が急激に興味をもって。
水力、火力、そして太陽光、それから風車等々で何とか、といったのであるけれども。
圧倒的に不安定らしい。
それで外資の方はと言うと外から入ってきた資本なのだが、中国は太陽光パネルはもう強気で、国土が広いものだから「いくら並べても」という。
ところが日本みたいに角度の決まった丘の上に、時間にならないと太陽が昇ってこないような地形で、またもう一山買ってパネルを並べないと黒字にならないと言って買占めが・・・という。
申し訳ないがあんまりいい噂を聞かない。
前から言っていることだが、あのデザインは何とかならないのか?
太陽光(パネル)のデザインそのものをもっと考えられないかと。
つまり並べれば景色として美しくなるような太陽光パネルというのがあるんじゃないだろうかと。
そんなふうに思う。
樹木は葉っぱが太陽光パネル。
パッと目が合ったら「ああ・・・ホッとする。太陽光パネル」みたいな。
「植物と共に未来を眺める」という今週の始まり。

(番組の最初の街頭インタビューからの話の流で「イケメン」という表現が失礼に感じるという話が続く)
フランス語で美女を褒める時に「mannequin(マヌカーン)」と言う。
(調べてみたが「mannequin」にそういう意味があるかどうかがわからなかった。辞書にはなくても俗語としてそういう表現があるのかも知れないけど)
「マネキン」と。
服を着てずっと立っているだけ、という。
「おお、マヌカーン!」みたいな。
「イケメン」には同じ響きを感じる武田先生。

植物を見る時に、動物の私たちは、私たちと全く違う生き物と見ている。
植物は動物のように環境に適応し、己の姿を変化させ、それを動物と同じく「進化」と呼ばず「順化」と呼んで別の扱い。
「適応した」という。
しかし植物の順化は経験を記憶し、自らの組織構造と代謝を修正し己を変化させる。
生物とは一体何かというと、己の姿を変化させることによって生き延びようとするもの。
考えてみれば進化も順化も同じではないか、というのがこの本『植物は〈未来〉を知っている』のテーマ。
(番組では植物の「順化」を「進化」と同列に説明しているが、本の中では「順化」は「記憶力」と同じ種類のものというような説明)

例えばフルーツトマト。

高糖度フルーツトマト「太陽のめぐみ」 (無選別1kg)



本当にうまいのがある。
武田先生が好きなのは高知県のと熊本の八代。
ここのトマトは美味しい。
これは凄く面白いことに八代は「塩害」。
あれは潮風が入ってきて。
土佐の高知も台風で塩水を浴びた畑のトマト。
武田先生が感動した話。
フルーツトマトは一体どこから生まれてきたかというと、塩害の被害から出てきたのがフルーツトマト。
塩害で塩が畑まで来て全滅した。
植物が全部枯れてしまうから。
その中でよく見ると実を小さく実らせている。
塩で縮んでしまってチビになっている。
それで「こんなものは市場には出せねぇ」とその畑の人が喰ったら甘いの何の!
「これはベジタブルじゃない。フルーツだ」と。
それで、それからはわざと地面に塩を撒いてトマトに激烈な苦労をさせて。
実を小さくしても甘味を。
何で甘味が付いたか?
トマトが「俺は死ぬんだ」と思った。
その時に「生きたい」という思いが、地面から実は小さくても甘味を吸い上げる。
糖分を持っていれば糖分の栄養で生き延びられないかと決心した小柄なトマトがフルーツトマト。
この種からは続々フルーツトマトができてくる。
一回塩でつらい目に遭ったということを「フルーツトマトは記憶している」ということ。
そうすると発想を変えないとダメ。
この著者曰く「植物、記憶を持ってる」ということ。

オジギソウ。

可愛らしいオジギソウ 先生へのプレゼントに 感謝のしるしとして 教室で植物を育てましょう くすぐると葉を閉じて枝を下に向けます少し変わったプレゼントで先生はきっと笑顔に



黒胡椒みたいな小っちゃい種を撒いて観察日記で子供がやっていたという水谷譲。
子供だったら必ずやる。
大人だってやる。
ペロッと触る。
シュルシュルシュルシュルーと葉をたたんでしまう。
やり続けるとどうなるか?
やり続けると閉じなくなる。
やったことがある武田先生。
触って葉を閉じていたら風が吹くたびに閉じなきゃいけない。
風が吹いてももう閉じなくなる。
それが「記憶」「学習してる」ということ。

鉢に植えたオジギソウを、約一〇センチメートルの高さから繰り返し落下させる。落差の距離が刺激の大きさを表している。−中略−何度か落下を繰り返すと(およそ七、八回)、植物は葉を閉じなくなり、無視するようになったのだ。−中略−つまり、植物は過去の経験を記憶する#\力をもっているのだ。
 ところでその記憶力はどのくらい持続するのだろう? この疑問に答えるために、実験でちがう刺激を区別できるようになった数百のオジギソウを、何も刺激を与えないままに放置し、学習したことをどれぐらい記憶しておけるのかを調べてみた。すると、予想をはるかに上回る結果が出た。オジギソウは四十日以上ものあいだ記憶を持っていたのだ。これは多くの昆虫の標準的な記憶の持続時間よりはるかに長く、高等動物の記憶に匹敵する。
(30〜32頁)

(番組では落とした回数が40と言っているが本によると40は日数)

樹木にとってその枝先に花を付けるか、これは重大な決定。
桜はよくあれだけ揃って開くと思う。
気象予報士の森田(正光)さんが言っていた。
あれは太陽光を足し合わせたのと、ぶり返す寒さが何回目かを桜がカウントしている
合計の温度が○度に達すると開花する、という。
(渥美清ふうに)しかし森田さん、アンタ本当かい?
そうではなく、水谷譲ふうに言えば「あったまいいんじゃないの〜?」というような言い方の方が的確で。
桜はやっぱりきちんと記憶力を持っている、と。
動物が持っている記憶力とは全く違う種類の記憶力を植物が持っているのではないか?と。
これが最近、研究が進んでいるそうだ。
わけわからないがゾクゾクするぐらい面白く思える武田先生。

 最近、MIT(マサチューセッツ工科大学)の生物学部のスーザン・リンドクイストが指揮する研究グループが、ある仮説を打ち出した。それは、少なくとも開花の記憶のようなケースにおいては、植物はプリオン化したタンパク質を利用している可能性があるというものだ。プリオンは、アミノ酸配列が誤ったやり方で折りたたまれたタンパク質で、近くにあるタンパク質すべてに対して、この異常形成されたタンパク質をまるでドミノ倒しのように増殖させる。動物にとってプリオンは有益どころか、害にしかならない。たとえば、BSE(牛海綿状脳症)やクロイツフェルト=ヤコブ病は、プリオンが原因だ。でも、植物では、プリオンが独特な記憶方法をもたらしているのかもしれない。(34〜35頁)

何十年も前のこと、アトランタで取材をやったことがあってジミー・カーターさん(アメリカ合衆国第39代大統領)とお会いしてお話しをするという企画があった。
世界平和について。
ただ話を聞いているだけだったが。
ガードマンの人がマシンガンを持っているのが怖かった。
そのカーターさんが武田先生に会っていただけたのは、ある日本企業の協力があったから。
ファスナーで世界メーカーのYKK。
それがアトランタのカーターさんをずっと州議員の時から応援し続けた企業がYKKさんだった。
だからすごくカーターさんはYKKさん経由でアレすると連絡が簡単に付く。
そのお礼もあってアトランタのYKKの工場に行った。
富山方面から来ていて、その方々は松の木と桜の木を見せたがる。
ところが工場長。
日本人の方。
笑ってらっしゃったが。
松はあっちこっちから針金で引っ張って遮二無二枝が曲げてある。
「がんじがらめですね、この松は」と言ったら「ええ、もうね、アトランタで松育てるとまっすぐ伸びやがって」という。
風とかがあまりなくて気候がいいものだから「Pine Tree!」って言いながらまっすぐいっちゃう。
日本人は松の風情は風雪に耐え、枝をくぅ〜と曲げながら「生きております!常緑樹」みたいなのがある。
日本人ならではの。
だから大変。
あれを美しいと思いだすと、まっすぐの松はつまらない。
「おめぇ、芸ねぇな」みたいな感じになってしまう。
それでもう一つが桜の木だった。
あくまでもその時に聞いた話。
この桜がバカで。
立派な木。
大木になっている。
計算できないらしくて、もう何だか二月に咲いたかと思ったら九月にまた咲きやがって。
もう全然季節を守らない。
それで「何とかしなくちゃ」というので日本の庭師さんに富山の方は「四月の後半ぐらいに咲くようにならんですかね?このバカ桜」という。
そうしたら庭師さんがすごく面白いことを言って「四月ぐらいにここで咲く花は何ですか?」。
その手のスミレ草があるらしい。
そうしたら庭師さんが「じゃ、この桜の木の周りに四月に咲くスミレの花をいっぱい植えてくれ」と。
「そしたらだいたい桜も四月に咲きますから」と。
「そんなことあるんですか?」と訊いて「ええ、ええ。あのね、桜ね、仲間がいたり同じ時期に咲く花がいないとカウント間違えちゃうんだよ。見てっから桜」。
「あ、アイツ咲いたな」と思うと咲く。
「(渥美清ふうに)さくら、アイツ咲いたな?よし、咲くか」
バーッと咲く。
何で判断しているか?
目は無い。
見ているわけではない。
「見る」と言ったら「目」と言う。
だからこの作家さんが「違う」と言っている。
それでそれ以来四月にきちんと咲くようになったというふうに言われてもう一回、日本の桜の情景を見渡したら桜並木は一斉。
咲く時も散る時も。
「オマエ、咲いたな?さくら。散るのか?さくら。じゃ、俺も散っちゃおうかなー」
きれーいに揃える。
審議定かならずなれども、この著者によれば植物はやっぱり人間とは全く違うシステムの目を持っているのではないか、ということ。

人間はとにかく自然に学んできた。
ケモノをマネしたり鳥をマネしたり魚をマネしたり。
そうして動物の中でも他の動物を出し抜いて様々なものを人間は獲得してきた。
しかし現代はいよいよ植物から学ぶ時が始まったと著者は言う。
「インターネット」とういのを図式化すると植物の根と同じ。
構造としては植物の根と同じであり、植物的発想は未来へのヒントを含んでいる。
いよいよ人間は植物のテクノロジーを学ぶ時代が来た、と。
こうおっしゃっている。

私は、植物が新しいロボットの製作に大きなインスピレーションをもたらす可能性に魅了され、二〇〇三年に《プラントイド》(植物型ロボット)のアイデアをふくらませはじめた。(53〜54頁)

これは欧州宇宙機関では火星探査に関してアメリカ型の動物型ロボットをやめたそうだ。
動物型ロボット。
つまり自走。
自分で走って掘り起こして石とか土を持って帰ってくると言う。
これは「犬」。
犬型のロボットだが、これじゃない、別のロボットのタイプを開発しようというので、植物型ロボットを今、ヨーロッパでは懸命に考えているそうだ。
「これはすごい」と思った武田先生。
火星探査。
空気の薄いところにポンと降ろして箱がカタンと開くとその中から犬型のロボットが出てきて走って掘り起こして土を取って持って帰ってくるみたいな。
ヨーロッパが今、考えているのはそうじゃない。

無数のプラントイドを火星の大気中まで送り込むことを想定した。送り込まれたプラントイドたちは、火星上にまき散らされる。それぞれのプラントイドは約一〇センチの大きさで、赤い星の地表に姿を消すと、ただちにその体から根を土壌に差しこむ。この根が火星の地下を探索するいっぽう、表面に並んだ葉のようなものが光電池(太陽電池)を使ってエネルギーを補給する。−中略−プラントイドは、種子のように大気中ではじけて広範囲に散らばっていく。そしてその場でじっとしたまま、お互いに、さらには地球とも連絡をとりあい、土壌の成分についてのデータを地球に送信する。(57頁)

それでもう一つ。
「集合する能力」というのを与える。
集まる能力を与えておく。
そうすると「森」ができる。
(という話は本の中には発見できず)
とにかく植物を発想にして探査型のロボットを作るという。
これはやっぱり面白い。
夢のSFの世界。
これはもう現実に進行している。
生き物のマネではなくて植物のマネをして、これからは火星の探査をやるという。

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2018年7月2〜6日◆バナナがなくなる前に

これの続きです。

世界からバナナがなくなるまえに: 食糧危機に立ち向かう科学者たち



自然は決して人間に従うことはない。
自然を従えていると思い込んでいる者に、自然は実に自然に復讐をする。
南沙諸島の問題は大丈夫なのか?
天気予報を見てください。
あそこはバンバカ台風が来ている。
サンゴ礁を平地にして、遮二無二にそこに船とか飛行機を置いている。
あれは飛ばされる。
そんなことを思うと人間というのは自然を従えているつもりかも知れないが、自然には基地とか何とか一切関係ない。
そんなつもりでぜひ聞いて欲しい。

アメリカ自動車王のヘンリー・フォードさん。
この人の夢は一体何だったのか?
この人は何を革命を起こしたかと言うと大量生産。
同じものをいっぱい作るというシステム作りで成功した人がフォード。
これのおかげで車がガン!と安くなったのだが。
ヘンリー・フォードさんは車の大量生産で革命を起こした人なのだが、この人は実は農業にも手を出した。
車は工業製品。
ところが一か所だけ農業がうまくできないと、できない部品がある。

 自動車は石油と鉄鋼を必要とする。−中略−自動車にはゴムも必要だ。−中略−それはアマゾン川の南方の熱帯雨林地域を原産とするパラゴムノキ(Hevea brasiliencis)という木から採取される。(191頁)

だがパラゴムノキは、食物としてより重要であった。種子は食用になる。−中略−しかし一七七〇年、(やがて酸素を発見する)進取の気質に富むイギリスの科学者ジョセフ・プリーストリーが、凝固したゴムの樹液で鉛筆のなぐり書きを消せることに気づく。−中略−
 しかし二つの発明によて、すべては変わる。一つはレインコートだ。チャールズ・マッキントッシュは薄いゴムのあいだに繊維をサンドウィッチのようにはさむことで、防水性の布地や、のちにはコートを製造できるようにした(それゆえ「レインコート」は「マッキントッシュ」とも言われる)。もう一つは加硫法(Vulcanization)である。
−中略−加硫法は、貧困にあえぎながら大きな夢を抱いていたチャールズ・グッドイヤーによって一九三九年に考案された。彼はゴムの耐久性を向上させようと何年も苦心していた。ある日、ゴムと硫黄を混ぜ、ストーブの上に置いてみた。−中略−グッドイアー(原文ママ)は、硫黄によって弾力性と抵抗力が加わり、ゴムがより安定したと理解した。加硫法の発明により、さまざまな製品に、やがてはタイヤにゴムを使えるようになったのだ。(192頁)

ゴムというのは最初食物だったが消しゴムになってカッパになって靴底になってタイヤになったという。
でも、これは繰り返し言っておくが食物。
このゴムというのがまた西洋列強にとってはムカッ腹立つことに、イギリス辺りではできない。
アメリカでもできない。
暖かいところじゃないと。
これは「もってこい」ということでイギリスはアジア支配をする中で90%のゴムを独占した。
だからイギリス辺りからお金でゴムを買わないと、マレーシア、インドネシアのゴムが手に入らなかった。

 ヘンリー・フォードは、自動車の製造のために熱帯アジアに依存することを好まず、生産過程をコントロールしたかった。(195頁)

一九一二年の時点では、アジアのラテックスの生産量は八五〇〇トンであった。それが一九一四年には七万一〇〇〇トン、一九二一年には三七万トンに増大している。(194〜195頁)

ちょうどその頃、イギリス経由でゴムを買っていたアメリカの自動車王フォードはゴムを買うことをよしとしなかった。
全部自分のところで作って純益の嵩を上げたいという。
もうアジアに出て行く隙間がない
イギリス、フランス、オランダ。
いろんな所が、列強が植民地にしているから。
アジアはダメだ、と。
そこでフォードが狙ったところがアマゾン。
アマゾンの熱帯雨林にフォードのゴムノキ生産農場を作った。
このスケールがすごい。

一〇〇万ヘクタールの土地が開墾された。(195頁)

1ヘクタールが1万平方メートルだから3025坪。
だから何坪になるかというと30億2500坪。
その1辺の距離を車でだいたい60〜70キロで行くと世田谷〜成田。
1辺行くのに1時間20分ぐらいかかる。
それぐらいの広大な土地を手に入れて。
フォードはやることがすごい。

二〇万本の木を種子から育てるために二〇〇〇人以上の労働者が雇われた。−中略−要するに、ミシガン州の自動車工場の組み立てラインをモデルにフォードランディアを建設しようとしたのだ。(195頁)

フォードが雇った二〇〇〇人の労働者は、家屋やバラックで暮らしていた。プランテーションは、最終的に一万二〇〇〇人を抱える。コミュニティの健全性を保つために、飲酒や喫煙は禁じられ−中略−食事は無料で提供されたが、食糧はトウモロコシやダイズではなくコムギやジャガイモが、ブラジルではなくアメリカ中西部から調達された。余暇は、教会、レクリエーション施設、ゴルフコース、図書館で過ごすことができた。現地に一度も足を運ばなかったフォードは、雇用者のうちゴルフをする者は誰もおらず、ほとんどが名ばかりのキリスト教徒であり、多くの人が文盲であることを知らなかったらしい。(196〜197頁)

王国を支配するのはフォードが派遣した植物学者。
と言ってもこの人たちは、やっぱりエンジニアとビジネスマン。
植物のことを知るよりも、いかに早くゴムを生産するか、という。
(番組では上記のように名ばかりではあっても植物学者を派遣したように言っているが、本によると植物学者を現地に送っていない)
こういうことはやっぱり一事が万事ある。
このフォードのゴム工場の最大の欠点は順調な計算はすぐできるが、失敗を予想できない。
何を計算していなかったかというとゴムノキの病気に関して対策の手を打てる専門家が一人もいない。

南米葉枯病(Pseudocercospora ulei)と呼ばれる子嚢菌である。−中略−農園労働者は南米葉枯病について聞いてはいた。それは太古の怪物で、熱帯雨林の奥深くに潜む、説明不能なジャングルの悪魔であった。(198頁)

アジアのプランテーションをマネしているから、フォードさんはずっとゴムノキを並べる。
プランテーションはもう一面同じ木。
このゴムノキをザーッと世田谷から成田まで並べたという。
全部同じ木。
これがまず間違い。
これは一番、ゴムノキが嫌う植え方。
このあたり、植物の復讐がゆっくり始まる。

フォードがアマゾンの密林に作ったゴムの生産工場。
ゴム畑の話。
70万本に達したゴムノキは順調に成長した。
1934年まですべてが順調だった。
そしていよいよゴムノキからラテックスというゴムの汁が流れ落ちる収穫直前の1935年、一本の木に突然葉枯病が出現。

緑の葉は黒ずんであばたのようになり、やがて腐って地面に落ちた。−中略−木は再度成長しようにも、若枝の発育は阻害され、小さな葉をつけることができるだけだった。しかもその葉も、黒ずんでしおれた。葉枯病は古木から若木に、さらには苗木床の小さな木や苗にも拡大していく。(200頁)

すべての葉が落ちきって70万本全部が死んだ。
もうまったくラテックス一滴も採れないという。
(このあたりの話はかなり本とは異なる。「70万本」はフォードランディアの失敗の後に新設されたより大規模なプランテーションでの数。ラテックスは一滴も採れないということはなくフォードランディアもそのあとのプランテーションでもラテックスは生産できていた)
何でこんなに病の広がりが速いのかというと、並べて植え過ぎ。
これはやっぱり問題がある。
牛を飼うにしてもニワトリにしても「たくさん飼う」というのはこの病に関してはものすごくもろい。
ゴムノキ自身はそのことを知っている。
だからゴムノキは100m以内は同じ木になりたくない。

ゴムノキの果実は乾燥すると、ねじれてはける。それによって、種子は最大で一〇〇メートル先まで飛ばされる。川に落ちた種子は、さらに遠くまで数十キロメートルほど運ばれる。(199頁)

それくらい葉陰を嫌う。
葉陰になるとたちまちそこから葉枯病が成長するという。
この葉枯病の残忍さは葉っぱを食べるために育ちきってから一斉に病気になる。
ところがフォードはあきらめない。

一九三六年、彼はプランテーションを別の場所に移す。熱帯雨林を伐採し、フォードランディアよりさらに広い敷地を確保したのである。(201頁)

このことを踏まえて50万本を植えて。
(本によると苗木が500万本、生育した木が70万本なので「50万本」がどこから出てきたのか不明)
土地改良とアメリカお得意の農薬で育て上げたという。
これは焦るのもわかる。
1936年。
これはヨーロッパにヒトラーが出現して、欧州は戦場になりつつあり「車の需要がものすごく必要」という。
そのためにも彼は、ゴムを自らの手で生産し、ゴムタイヤを輸出したい。
そして、この1936年から苦労して何年か待った後、いよいよラテックス収穫の時かと思ったらまた災難が襲ってくる。

今回は(少なくとも最初は)葉枯病ではなく、害虫の突発だった。グンバイムシ、アカムシ、コナジラミ、ヒメアリ、ゾウムシ、ヨコバイ、ツノゼミ、ガなどの害虫が襲ってきて、プランテーションの端から端までゴムノキを食い尽くしたのである。数千人が動員され、手で害虫をつまみ取った。魚類の毒素を成分とする新たな殺虫剤が撒かれた。(201頁)

それをやれとフォードがニューヨークでテーブルを叩いて絶叫する。
「儲ける戦争がすぐそこまできてるんだ!やれー!」と言う。
とにかく朝から晩までとりあえず効きそうな農薬は撒く。
フォードのゴム農園はまるで一日中霧がかかった状態だったという。
(このあたりは本にはないので想像か?)
これでやっと虫が落ちて死に始めた。

そうこうしているうちに、葉枯病が舞い戻ってくる。再びゴムノキから葉が失われ、今回は二度と生えてくることがなかった。(202頁)

アマゾンのジャングルというのは病原菌に関しても最高の天国。
あまりに虫、葉枯病が交代で襲ってくるので「ここは呪われている」という噂が広がって従業員たちが逃げ出しはじめた。
(という話も本にはない)
彼の経営はニューヨークではもう万能。
しかしジャングルでは実に無力で役に立たなかった。

フォードはもう撤退する。
でもここはアメリカのまた「アメリカ魂」というか、ゴム作りに挑んでいく。
それで化学的なゴムを作ろうということで合成ゴムの研究に乗り出す。
この合成ゴムの完成が戦争にすごく役に立った。
その合成ゴムで爆撃機とか戦闘機、車両等々をアメリカ軍は山ほど作る。
その機器を対日本戦に合わせて合成ゴムで乗り切ったという。
だからやっぱり戦争は空母とか戦闘機とか言うが、底辺にあるのはねじの一個とかタイヤの原材料のゴムとかのこと。
この合成ゴムというのは石油生成。
石油から作っていく。
だからアメリカのお得意はお得意。
それでこの合成ゴムで天然ゴムの需要は減ると思われたが、ゴムの戦いは永遠と続く。

 一つの問題は、一九七三年に産油国がアメリカに対して石油輸出禁止措置をとったために引き起こされた石油危機に起因する。天然ゴムも輸送や加工の工程で石油を必要とするが、合成ゴムの石油への依存度はそれとは次元が違う。だから石油危機が到来したとき、合成ゴムの価格は、絶対的にも天然ゴムと比較しても劇的に高騰したのである。そのときには、天然ゴムの使用量が増えている。産油国の石油輸出禁止措置が解除されれば、天然ゴムの使用量は減ってもおかしくはなかったが、そうはならなかった。理由はまったく意外なものであった。ラジアルタイヤの登場である。(204頁)

ラジアルタイヤは、車のタイヤの素材として十分な強度を確保するために、その側壁に天然ゴムを使用しなければならなかったことである。(205頁)

それでまた天然ゴムが必要だということで天然ゴムを欲しがるようになって、ゴム戦争はいまだに続いている。
大戦中から戦後までアマゾンに入りゴムノキの種を探し続ける「シードハンター」。
これは新しいゴムノキが欲しくて探し続ける人がいる。
彼はアジアとは違う品種を探して。
また、掛け合わせることによって廉価で提供できるゴムノキをとにかく見つけたい。
葉枯病に強い木でないとダメなんだけれども、現状では強いゴムノキもあるのだが、それはラジアルに向いていなかったりする。
この辺は実に難しい。
未だに続々とそのアマゾンなんかのジャングルに入り、新種のゴムノキを探す人というのが山ほどいる。
私たちは何となくだが、戦争とか何とかと言うとすぐ兵器を連想するけれども基礎の材料というものがなければ何もできない。
その植物に関して無知であるということがいかに危険か。
そういうことを防衛力を上げるためにも必要だ、という。
逆の意味で言うと「核を持つ・持たない」。
日本の周りはほとんど核を持っているワケだから。
極論を言うと「核を持った方がいいんじゃないか」とかいう人がいるが、でも、そんな武器を持つよりも逆に「何か」を持てば、そこに日本の生きる道が。
「まさかそういう兵器とか戦争というところにゴムとか植物とかは『関係ない』と思っている」という水谷譲。
ところがとんでもない。
やっぱり自然から学ぶというのはたくさんあると思う。

(最終日は次に紹介する本の予告編)

植物は〈未来〉を知っている―9つの能力から芽生えるテクノロジー革命



植物というと「自分たちとはあまり関係のない」というか、同じ生物でも生き物のごとく植物を見ることはない。
何もやっていないのに玄関の横のミニバラが5月にちゃんと咲いたり、アジサイが何もしていないのに毎年花を咲かせたりするのを見ると「この人たちすごいな」と思う水谷譲。
6月のこと「梅雨だ梅雨だ」というワリにはさっぱり雨が降らない関東地方。
武田先生の家の近所にアジサイの並木道がある。
そこがものすごくきれいな色を付けている。
天気はピーカン。
だからコイツらもちょっと天気予報の何かお兄さんとかおじさんたちの言うことを聞き過ぎじゃないか?
世の中で枯れているアジサイぐらい無残なものはない。
「来年、これ咲かないだろうな」というぐらい枯れている。
でもちゃんと咲く。
ちょっと仕事で何日か転々と歩いて、夜タクシーで帰ってくる。
そこの遊歩道を通る。
フッとそのヘッドライトに照らされたアジサイの小路を見ると不気味なぐらいアジサイが青々と。
あまりにも色鮮やかなアジサイを見てギクッとしたりなんかして、次の朝、雨音で目覚めたりなんかすると「昨日のアジサイは雨、待ってたんだ。だからあんな顔色になったんだ」という「生き物扱い」をしてしまう。
何か植物が生き物に見えてくる瞬間というのがある、という。
そういう時に出くわしたのが『植物は〈未来〉を知っている』という本。

藤子不二雄先生の漫画が大好きな武田先生。
『ドラえもん』の先生。
確かタイトルが『緑の街』。
(調べてみたところ『みどりの守り神』という漫画のようだ)
そういう漫画があった。
昔読んだがいまだにその漫画が忘れられない。
どういう漫画かというと戦争か何かで世界が消えた後の街なのだが、人間が戦争で消えた街に一番最初に戻ってきたのが緑。
緑の木々とかツル、花の植物が、人間のいない街にバーッと咲いている。
そこに生き延びた人間が植物の下とかで寝たりなんかすると、目を覚ますとその人間の脇に木の実が置いてあって食べると美味しかったりする。
どこに行っても木の実とか花の実とか。
それから喉が渇くとツルを切ると水が出てくる植物にバッタリ会ったりなんか。
その時にその主人公が「植物のヤツが意識を持っている」と言う。
彼らもまた人間が吐く二酸化炭素がないと生きていけないので「人間を増やすつもりなんだ」という。
そうすると巨大な木から握手を求めるが如くツルが人間の手に巻きつくという。
それで「もう一度初めから君たちを世界を作ろう」というところでエンドマーク。
その「プラント」植物が意識を持って、人間が農業を育てたように植物の方が人間を育てていて吐く息を待ちかねるという、逆サイドから見たものの見方は面白い。
そのことのバランスが人間という動物の歴史を作ったんであって、この動物の歴史は動物のみではできなかった。
そうやって考えていくと実は、案外植物は「人間の未来をコントロールする力を持っているのではないか」という。

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2018年10月26日

2017年10月30日〜11月10日◆しがらみ、絆、思いやり(後編)

これの続きです。

人間というのは元々サルであった。
しかし人間のようなサルというのは他にもまだいっぱいいた。
一種類ではなかった。
ホモ・サピエンスだけではない。
人類は一種類ではなくホモ・エレクトゥス、それからネアンデルタール人とか、いわゆる「人類」というのは何種類かいたのだが生き残ったのは「人間」という我々だけ。
他に滅びた種はあったワケだが「一体その差は何であるか?」という。
今までは「脳だ脳だ」と言われていたがネアンデルタール人というのはそうとう優秀な脳を持っていて、社会もきちんと形成していたようだ。
それから石器なんかを見ても「技術的な知能も十分にあった」と。
じゃあ、なぜ彼らは死に絶え絶滅し、われら人類は生き残ったのであろうか?
それをこの学者さんたちがいろいろ調べてみた。
そのホモ・エレクトゥス、それからネアンデルタール人、ホモ・サピエンス、我々人類。
その違いは一体何かというと「トーテム」ではなかろうか?という。

長谷川 自分たちの部族には「ご先祖さま」がいて、それがチーターだったり、鳥だったりするというのがトーテミズムですが、こうした形で仲間意識を共有するというのはゴリラやチンパンジーにはないし、おそらくネアンデルタール人にもなかったでしょう。(74頁)

そういう今まであまり大したことはないんじゃないかと思っていた能力が、実は滅びの時に重大な役割を果たしたのではなかろうか?
そのトーテムというものの中には宗教ももちろんあるだろうが芸術もあった。
野牛を捕まえて殺すというのはネアンデルタール人もやっていた。
それからホモ・サピエンス、我々もやっていた。
だけどネアンデルタール人は壁に牛の絵を描かなかった。
人類は牛の絵を描いた。
それが差ではなかろうか?という。
もっとわかりやすく言うとネアンデルタール人、ホモ・エレクトゥス、そしてホモ・サピエンス。
何が違うかというとホモ・サピエンスは「祭り」を持っていた。
山車を持っていた。
トーテム。
そういうふうに例えることができるのではなかろうか?
共同で夢見る幻想を共有していた。
ネアンデルタール人たちはあまりにもリアルに生きていて幻想を持っていなかった。
幻想を共有できなかった。
もっと平べったく言うと、人類に進化したホモ・サピエンスは神を持っていた。
神を信じようとした。
ネアンデルタール人は神を持てなかった。
神を信じられなかった。
それが実は生き残った理由ではないか。
信じるものを持たなかった種はどうなったかというと滅びちゃった。
というのは、どんな小さな集団でも「人類」という名のつく集団は神を持つ。
アフリカの部族の方々、集団の方々。
マダガスカルの方、インドネシアの離れ小島の方。
みんな神を持っている。
持たなかった人類はというと絶滅したのではないか?と。
こう考えると面白い。
これをこの二人の著者はビタッと現代まで持ってこようとしている。
特に(2017年の)上半期あたりで男性が多く問題を起こす。
あるいは女性が多く問題を起こす。
現代にいろいろ問題を起こす人間がいる。
なぜか?
それは「祭りと神を持っていないからではないか?」という。
「祭りと神を持っている人は問題を起こさない」という。
(とは本には書いていない)

武田先生が大好きな構造主義、文化人類学者のレヴィ=ストロース。

神話と意味【新装版】



この人が『神話と意味』の中で自然を解き明かすためには科学的思考しかない。
ところが科学で全部宇宙を解き明かすためには調べなきゃいけないこと、わかっていないことがいっぱいある。
でも神話を使うと我々が住んでいる地球以外にも別に遠い世界があって何かすごい考えを持った人がいて「その人の考え方によれば」とかという。
そういうふうに理解していけばわかったような気になる。
その「わかったような気になる」ということがものすごく大事なこと
人間には三つの特性があって「理性」「感性」。
そしてもう一つが好きな言葉だが「霊性」。
スピリチュアルなもの。
スピリチュアルは何が便利かというと知識はなくても理解することができる。

文化放送の一番近くにあるお寺。
増上寺。
あそこの前は浄土宗の法然上人。
お寺の前にいつも看板が大きく。
「法然という人トは何で偉いのか」とつくづく考えたことがある武田先生。
文教は昔、哲学だった。
でも法然さんは日本にやってきた仏教、特に浄土宗の中から「勉強しなくてもいいじゃん」と突然言い出した。
重力波の話はそういう話で、重力波を理解することは不可能かも知れないけれども、神話とかそういうものを信じて「地球以外の別世界には別の物語がある」とかっていう。
それと法然さんが結びつくような気がして。
難しい話をずっと煮詰めていって、突然法然みたいな人が「いいじゃん、勉強しなくても。南無阿弥陀仏知ってりゃいいじゃん!」と言った。
みんな「シーン」となったという。
何かそういう神話的発言。
そういう別の考え方を。

チンパンジーは言葉を使う。
志村けんさんのあの番組(天才!志村どうぶつ園)を見ていればわかる。

長谷川 チンパンジーに言葉を教えるというプロジェクトはいろいろと行なわれていて、一般の人にもよく知られています。−中略−だいたい三〇〇語くらいまでは覚えられて、それらの単語を組み合わせて、単純な文章を作ることもできるようになります。
 しかし、そこで彼らが語る内容を子細に検討すると、ほとんどすべて自己の欲求を表現するものなんですね。たとえば「リンゴがほしい」とか「扉を開けて」といったことで、彼らは「世界の状態を描写」することがない。ここがヒトと類人猿の大きな違いでしょう。
−中略−
長谷川 ヒトは幼いうちから「このお花はピンクねとか「雨が降ってきた」、あるいは「何々ちゃんが来た」とか話しますよね。それが世界の状態を表現するということです。
山 岸 それができるのはヒトだけだというわけですね。
(100〜102頁)

そしてその特徴を人と重ねたがる。
だから母が見ているものと自分が見ているものが一致すると、それだけで子供は喜ぶ。
あれは美しい笑顔。
そして子供はその共感を拡大していく。
このようにして人の心は人間だけの、人類だけの社会性を育てていく。
この力とは一体何かというと「共感する力」。
同じ考えを持っているということが喜び、快感。
この快感によって協力というのが能力になる。
力を合わせて何かを成すということが気持ちよくなる。
この中には返礼義務「お礼しなきゃ」。
人間の中に眠っている「恩返しをしたい」。
日本風社会で言うと「義理」。
そしてこの返礼義務がなぜ芽生えるかというと「返礼義務をみんな持っているんだ」ということで集団がまとまると、返礼義務を持っていないヤツが時々いる。
ホテルのスタンプを集めたりするヤツがいる。
「別の人に使おうとしてる!」とかというのは返礼義務がない。
こういう単純なことが社会を形成する能力、生きていく力になる。
社会はこの共感する力、協力する力、そして一回プレゼントをもらうと「返さなきゃ!」と思う心。
これで出来上がったのが社会であり、実は国。
共感する力と協力する力と返礼する、それを感じる、義理を感じる。
このへん「しらがみ」「絆」「思いやり」断ち切れない何か。
こうやって考えると面白い。
それでそういうところから社会全体が生まれたという。

世代というものは25年で代替わりする。
25年で一世代が変わるという。
武田先生はデビューが20歳前後だから2世代生きてきたがよく生き残った。
だいたい「人気」は10年。
これが人気の実相。
それ以上、ずっと生きている人気者はいるが、その人たちはものすごく幸運な人たち。
武田先生もそう。
『金八先生』の後、黄門様。
「キン」の後「コウモン」。

 一世代二五年として単純計算すると、一万年で四〇〇世代ですよね。つまり、親の世代と違う形質を持つ子が産まれて進化するチャンスが、まだ四〇〇回しかないわけです。よほど強力な遺伝子の変化がないかぎり、四〇〇世代ではそんなに大きく変わりません。ですから私たちは、一〇人〜五〇人程度の小集団で何十万年もすごしてきた時代の脳の仕組みを受け継いでいると考えたほうがいいでしょう。
山 岸 社会のサイズと脳の適応にギャップがあるということですね。
(132〜133頁)

この間、渡辺直美さんが自慢していた。
(明石家)さんまさんとふざけて写真を撮ったらフォロワー数が47万人。
1枚の写真を10分とかそれぐらいの時間で47万人が見るという。
(『水戸黄門』で)武田先生の相棒だった助さん格さんの助がインスタグラム。
何で「グラム」なのか?
2枚写真を撮ると「2グラム」というのか?
5枚で5グラムか?
インスタグラムで「黄門グラム」を見せたらしいが、一日で1万数千人、急激に仲間が増えている。

産業革命、通信メディア革命。
何かそういうことが連続してもうこの短い時間の中でうわーっと興り、巨大な仲間が手に入るようになった。
そのくせ私たちはいまだ、草原のサルの能力しか実は持っていない。
その矛盾が様々な人間の事件を巻き起こしているのではないだろうか?と。
決して批判するワケではないが正直に言った方がいいから正直に言うが「小池都民ファーストから松居一代まで」と書いてあるが、これは何でかというと、ついこの間書いた原稿なのだが、この時まだ政党を作ってらっしゃらなかった。
だから「都民ファースト」と書いてあるが「希望の党」。
凄まじい数の議員団を国会に送り込もうと努力をなさったワケだが、あの小池さんの勢いというのは何かというと、都知事になったことで彼女に飛びついた。
でもあの支持者のことを「友」だと思っていいかどうか?
松居一代さんだって100万人ぐらいいるのだろう。
彼女のアレを見るのが。
「ちょっと興味本位」という人がほとんどだろうと思う水谷譲。
そういうことも全部含めて100万(人)単位となると、やっぱり松居さんが「これは私の友だ。支持者だ」と思っても、それはやっぱり仕方ないのだろう。
とにかく選挙等々やると「支持者」ということで「仲間を自分は集めた」というふうに思う人が多い。
そのことが大きい事件を巻き起こす原因になっているのではないだろうか?という。
小池さんはもちろんやっぱり今「女王」。
だけど小池さんという方はブレスが短い。
言葉の「切り」が早い。
抑揚の波がピッタリ重なる人がいる。
この人は落合恵子さんと同じ。
二人の声を聞けば綺麗にはまる。
やっぱり女子アナとしての能力が非常に高い方なのではないか?
だから語りの方の上手な方であって。
とにかく頑張ってくださいね。
これだけの支持を集めたワケだから。
その他にも、今度は「逆」の方。
仲間が集まらない方がいらっしゃる。
夫を次々殺す奥さんだった方がいらっしゃる。
この人も70(歳)近い方。
それからみなさんも事件として聞きたくもないだろうが、子供を男のために殺す若いお母さんもいらっしゃる。
こういう人たちは一体何か?
この人たちは仲間を作れなかった人たちではなかろうか?
これは武田先生の考えで本には書いていない。
逮捕されている女性を見ると、やっぱり孤独そうな顔をしてらっしゃる。
そういう意味では「仲間を集められなかった人」という。
だからそんなに人間を持ちあげることなく、草原のサルとしてもう一回捉えなおした方がリアルなのではないか?と思う。

(番組冒頭の街頭インタビューの「貯金をしている」という話に引き続いて)
頭で将来を考えて「貯めとこう」と思う人というのは、その金が必要な時はやってこない。
本当に人生はそんなもの。
そんなお金が必要な時は、たとえば(インタビューに答えている)君が婚約して彼女と一緒に何かする時は同じぐらい彼女が持っているから「彼女のヤツを使っとこう」というので君のはそのままにして、その上にまた重なっていく。
「将来、何か不安定になるかも知んねぇな」と思う人は将来安定している。
何かそんなものだよ人生は。
最近何か人生全体が少しわかってきた武田先生。
黄門様を演り始めてから。

「しがらみ」「絆」「思いやり」
これは全部同じものじゃないかというのが武田先生の主張。
本とは関係ない。
この本に乗ったのは「人間を考える時に人間を現代で考えないで、もうサルから考えよう」というところから考えると人間というのは理解できるんじゃないか?という。
「その発想凄い!乗った!」という感じだった。

今回は「いじめ」。
尾木ママが「イジメはやめましょう」とかあんなに言っているのにちっともなくならない。
なぜか?

いじめとは本質的には、子どもたちが自主的に秩序を作ろうとするプロセスの中で不可避的に起きる現象で(156頁)

秩序を作ろうとすることに失敗することがイジメなのである。
(とは本には書いていないが)
集団が秩序を求めなければイジメはない。

 つまり、学校で集団教育をするのを止めて、子どもたちはみんな家庭で学習させる。他の子どもとは一緒に遊ばせない。そうすれば、子どもはいじめを経験せずに大きくなることでしょう。(158頁)

しかしその解決では解決にならないから模索している。
「イジメとは心の問題ではない。これは本能の問題である」と著者は言う。
ここから、この文化人類学者はすごいところに入っていく。

山 岸 ハイトはこうした実験を通じて、「理屈抜き」で人間が守ろうとする道徳律には六種類あることを示しています。細かな説明は省きますが、〈ケア/危害〉〈公正/欺瞞〉〈忠誠/背信〉〈権威/転覆〉〈神聖/堕落〉、そして〈自由/抑圧〉がそれです。(175頁)

ハイトの道徳律の中には〈自由/抑圧〉はあるのに、平等は入っていない。これはなぜなんでしょうか。一般的には「自由と平等」はひとくくりにして扱われる概念ですよね。
山 岸 これはハイトが入れ忘れたわけではなくて、人間の進化環境で求められた道徳律には平等は必要とされていなかったからだろうというのが私の仮説なんです。
(178頁)

人間は平等じゃない方を選んでしまう。
だから「格差社会は問題なんです。差別はやめましょう」。
正しいけれども、それは実は本能に反している。
これはもうアメリカの人なんて大きくうなずいて聞いているだろう。
アメリカ社会を見てごらんよ。
この道徳を守ろうとする。
「ケア」「公正」「忠誠」「権威」「清潔」
アメリカ社会はものすごく敏感に反応する。
だけど平等と差別に関してだけはアメリカ社会ってなんとなく・・・。
フットボールを見ながら途中で副大統領がいなくなっちゃう。
「起立しなかった」と。
それで副大統領と大統領が務まっているのだから。
あの人たちの差別に抗議する精神というのがピンときていない。
副大統領ともあろう方が。
何でか?
これはすごい。
本能だから。
何の本能か?
集団をつくる時に平等と差別。
この中で平等の方を選ぶと集団は形成できない。
サルの集団で一番大事なのはボス猿。
メスの独り占め。
でも男の胸の中にどこかある。
メスの独り占め。
つまり平等と差別はサルの本能で、サルが集団をつくる時「差別が必要だ」いうものが人間の中にもちゃんとあるのではないかという。

情緒で物事、社会問題を解決しないで、もっと科学的にクールにいこうというのがこのお二人(長谷川眞理子・山岸俊男)の主張。
その中でイジメについて解決する方法がある。
お二人がおっしゃるのだが、同年クラスという学級制度をやめることである。
同じ年の子が一つのクラスを形成するというのをやめる。
複式にする。
複式とはなんぞやというと『風の又三郎』。

新編 風の又三郎 (新潮文庫)



1年から6年までワンセット揃っている。
だからあの時に武田先生は長いのに言った。
この件かと思われる)
あのイジメの元凶たる又三郎は転校していった。
一郎がいたから。
アレが歌った。
一郎が「又三郎よ、転校しろ」という歌を歌った。
「俺たちはこれから雨三郎と遊ぶ」という歌を歌ったばっかりに風の又三郎は二百十日の風に乗って転校していったというのが宮沢賢治『風の又三郎』。
つまり「複式学級にはイジメは起きない」。
これは断言しておられる。
(というのは本にはない)

差別とはどうするか?
差別とは何で起きるか?
これもまた科学的。
「差別とは群れの中の同じ順位の者が裏切った場合、上の者から危害を加えられるという結束だ」
同じ順位の者がいる。
高い順位の者がいて「アイツをいじめろ」と命令して裏切った場合、自分がいじめられるという恐怖感が差別を生む。
どうするかというとその罪の裁定者を消すという。
罰を下す者を消してしまえばいい。

差別をなくすには、差別をすることによって得られるメリットよりも、差別をしないことで得られるメリットを大きくすればいい。(187頁)

しかし根深いもの。
でも科学者の意見として傾聴に値するご意見だというふうに思う。

この著者二人が繰り返し主張しているのが「社会のシステムそのものが、あまりにも急激に進化しすぎているのである」と。
人間というものは一万年前とだいたい同じ頭で今日このシステムの中を生きている。
人間はほとんど進化していない。
そう思ってこの社会を見つめてください、という。

今年(2017年)初めからちょっとショックだった武田先生。
一回だけしかすれ違ったことがないが、夫から申しだされた離婚を拒絶してインターネットなんかでブログで呪ってらっしゃる方がいる。
あれは呪いの行為。
昔で言うと藁人形を「コーン!コーン!」と打ち付ける人の行為にそっくり。
だからこれは新しい形の女性が提案した問題ではなくて、一種「呪いの人形」としてブログが、SNSが利用されているということで。
それが100万人のフォロワーがいようが何しようが、そんなふうに考えていきましょうや、という。

最近社会問題なんかで、日本の社会がデモが少なくて。
「もっと声を上げろ」「批判精神持て」とか。
そういうものは率先してやった世代の武田先生。
そういう方のためにこんなことをおっしゃっている。
「臨界質量の変化」ということで、社会を引っくり返すためにどんなことをやったらいいか。
これは日本の場合は1億人。
1億の(うちの)何人が「この社会がダメだ」と立ち上がればいいかというと、1億人で10万人。
10万人の人が固まってこの社会を否定する。
10万人集まれば社会はひっくり返る。
たった10万人でいい。
社会を引っくり返したい方は10万人を目指してください。
それから1億(人)の国家で10万人。
だから10億の国家があったとする。
隣にあるが。
これは100万人。
100万人でひっくり返る。
1億で10万人。
だから日本の場合は10万人集まらないということ。
ちなみに明治維新。
当時日本は人口は3千万人だったそうだ。
後に皇室が勤王の志士と認めた人は何人か?
少ない。
2千人。
勤王の志士は2千人しかいなかった。
その2千人が明治という国を作った。
だからぜひ、反対派の人も希望を捨てずに活き活きと。
素晴らしい日本がまたそれで来るかも知れない。
でも人間というものの結びつき「しがらみ」「絆」「思いやり」実は内実は同じで人間というものはそれほど進化しているものではないんだというところで、もう一度人間を捉えなおしてみませんか?という提案だった。


posted by ひと at 20:24| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月30日〜11月10日◆しがらみ、絆、思いやり(前編)

「しがらみ」「絆」「思いやり」
三つともだいたい同じもの。
しがらみが大嫌いで政党を作った女性がいらっしゃったが、しがらみがなくなると絆と思いやりも無くなるような。
一つの感情には必ず日の当たる部分と日の当たらない部分があるという。

きずなと思いやりが日本をダメにする 最新進化学が解き明かす「心と社会」



長谷川眞理子さんと山岸俊男さん(の対談集)。
長谷川さんは行動生態学、進化生物学の人。
山岸さんは社会心理学の研究者。
日本という社会のあり方が何やら変化していることはみなさんも感じてらっしゃるだろうと思う。
武田先生の考えを先に言うと、この日本という社会をダメだとは思わない。
絶望していない。

武田先生たち「団塊の世代」は、冷たい言い方をすると小さい頃から「なんてひどい国に生まれたんだ、お前たちは」という教育を受けてきた。
それは間違いのないこと。
小学校五年生の時の担任は「シズオカ先生」という女の先生だった。
講堂に集められて、全校生徒で一緒に小学校で『理想の国 北朝鮮 チョンリマ(千里馬)』という記録映画を見せられた。
(1964年8月末に封切りされた『チョンリマ(千里馬) 社会主義朝鮮の記録』のことを指していると思われる)
それは北朝鮮がいかに理想にあふれた素晴らしい国かというカラー映画で。
それに比べて日本はもう本当に・・・。
思春期になると政府の官僚の人が書いた本が大ヒットした。
ブラジル大使か何か。
「最低の国、日本」っていうようなタイトルの本だった。
もう日本は最悪最低の国だった。
ところが全体を振り返ると「日本、教わった時ほどひどい国か」というと・・・。
(水戸黄門の撮影で)京都に行っていた。
何で外国の人があんなに来ているのか?
(外国の人が多くて)京都駅はすごい。
一人一人に訊きたい。
だって「ひどい国」ですよ?
その国のいったい何を?
しかも修学旅行で一番行きたくない所、京都。
苔寺とか見て、高校生はわからない。
ところが今、入れない。
苔寺も石庭がある龍安寺も。
つまり、それぐらい外国の人が日本を学ぶために来ている。
七月のこと、もう四条なんて歩くと毎日夏祭りだった。
みなさん浴衣を着て。
全部外国の人。
本当に韓国の人は、こんなひどい国に何で来るんでしょうね?
中国の人。
こんなひどいことばっかりした国に、何で観光に来て下さるんでしょうね?
感謝のしようがありません。
それからヨーロッパ系の方。
全員浴衣。
七月の京都なんか、暑くて最低最悪。
四条の大通りが通れないぐらい満杯。
そしてみなさん、京都の夏の暑さをエンジョイしてらっしゃる。
楽しそうにウチワで扇いでニッコニコ笑いながら弓削の八坂に向かい、清水寺までの二年、三年坂を歩こうとなさっている。
その時に「日本っていうのは何だろうか?」と思ってしまう。

とある動物学者、とある社会学の方が「日本をダメにしたのは何か?」という激しい告発で「それは絆と思いやりではないか」ということをおっしゃっているという。
「日本、ダメだ」というところは、武田先生たちの青春期とよく似ているので、思わず(この本に)手が伸びた。
長谷川眞理子さんっていう方は女性。
女性で日本の男性社会を批判する方は多い。
だって今年(2017年)の日本の芸能界は男の浮気ばっかり。
吉本(興業)の芸人さんから若手の俳優さんから・・・。
政界は反対。
女性が騒ぎを起こした。
それからさっきも言ったように「しがらみをやめよう」というような方が党をおつくりになったり。
「ハゲぇぇぇぇぇぇぇぇ!」っていう忘れられない雄叫びを上げられた東大出の自民党の議員さんがいらっしゃった。
それから男性の浮気を疑いつつ腹いせに旦那さんの悪口を言い続けた初老の女優さんがいらっしゃった。
この日本、一体何がダメなのか?
今年はなぜ、かくも男と女で日本は激しく揺れたのか?
そんなことをちょこっと振り返りつつ。

2017年は女性がすごく吹き荒れた時代。
活躍している女性もいれば、お騒がせな女性もたくさんいた。
特に武田先生が2017年に記憶に残っているヤツでは旦那さんを殺す婆ちゃんがいた。
毒殺して何人も何人も殺して「よく覚えてませ〜ん」とかという。
青酸連続殺人:被告の認知症焦点に 京都地裁で31日審理 - 毎日新聞これのことかと思われる)

女性大臣でメガネをかけた稲田(朋美)さん。
もう記憶がだんだん遠のいていく、という。
まだ問題は解決していないのに。
とにかく(2017年)前半だけでも相当女性たちが事件を巻き起こしている。

かつて大好きな女性社会学者の三砂ちづるが『オニババ化する女』というのを書いた。

オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す (光文社新書)



「女の人はオニババになるから」という。
でも逆に鬼を退治したがる「桃太郎化したババア」というのも、言葉はちょっと悪いがやっぱり増えてきた。
そんな時に日本の問題ということで、行動生態学、それから進化生物学で名を成す二人の方の対談集ということで『きずなと思いやりが日本をダメにする』。
長谷川眞理子さんと山岸俊男さん。
集英社から出ているこの一冊をまな板の上に置いておろしてみた。

指摘としてなかなか面白かったのは、今、もう社会問題になって政党が掲げる大きな問題になっているが「少子化」について。
この少子化を語り合う前に、この二人の学者さんが「人口問題というのは戦後すぐ、何であったか?」ということを語り合ってらっしゃる。

 たとえば一九五〇年代から六〇年代の日本では、今とは正反対に「どうやって人口抑制をしていくか」ということが至上命題になっていました。その当時は出生率が四以上もあったので、このままで行くと人口爆発を起こしてしまう。とにかく出生率を下げないといけませんでした。
 そこで当時の官僚たちが考えついたのは二つ。
 一つは移民を積極的に奨励すること。私の子ども時代の友だちにも家族みんなでブラジルに渡っていった人がいましたが、当時は移民する人たちに対して優遇措置をしたんですね。
(38頁)

とにかく人口が増えるといけないんで、もう喰い物が無くなるんで、とにかく「出て行け」と。
政府というのは明け透けな生き物。

長谷川 この移民のほかに行われたのが2DKの普及です。
山 岸 いわゆる団地スタイルですね。
長谷川 当時の2DKは今よりもずっと面積も小さかったのですが、長屋や一軒家ではなく、こうした集合住宅に住み、冷蔵庫や洗濯機、掃除機などの電化製品を備えた暮らしを送るのが「文化的」なのだと宣伝し、それが大成功を収めました。
 その結果、出生率はあっという間に四から二へと下がったんです。
山 岸 なるほど団地サイズの家ではたくさんの子どもを育てられませんから、どうしたって子どもの数は減りますよね。
(39頁)

日本国民の素晴らしさだが、政府のいう事を聞く。
そして人口抑制策は短期で成功した。

世界でもこれほど成功した人口抑制策はないと思いますね。(39頁)

でも惰性がついているので、人口はいっぺんには減らないから。
国からすればダラダラ生きるヤツがいるから。
70年代になると1億人を突破してしまう。
でもここからわずか20年で出生率は2から1へ減る。
やっと戦後すぐの政府の言うことが完成した時代が今。
でも政府は今「人口を増やせ」と今度は言い出した。
二千年代に入って日本は人口が減りつつある。
もう政府も必死。
「保育園も作りますし、何も作りますし」「教育費タダ」「消費税、そっちの方に回しますから」とかと言っているがうまくいかない。
子どもを増やすということに関して、うまくいかない。
なぜその人口増加はうまくいかないのだろう?

山 岸 たしかに少子化問題については「心でっかち」な議論が横行していますね。「女性が働きたがるものだから子どもが生まれないんだ」とか「家族の素晴らしさを若者に教えないといけない」といった話ばかり。要するにお説教でしかない。お説教では社会問題は解決できないよ。(14頁)

人は何によって変わるか?
環境。
「寒くなるんじゃねぇかなぁ」と思うと人間は着込む。
「暑くなるなぁ」と思うと脱ぐ。
政治家の方がいくら「鍛えましょう、体を!」とか「国民の暮らし全体のために室内の温度は28℃で!」。
うるさい!
「お上」というのは本当に「心がけ」みたいなことをスローガンにしたがる。
「しがらみ」がなければ政治ではない。
武田先生はそれだけがわからない。
大変申し訳ないが、一番正しい政治的スローガンは武田先生たちが子供の頃にメガネをかけたオッサンで池田勇人という大臣がいた。
この人がダミ声で「所得倍増」と言った。
みんな日本人が「嘘つけ!」「所得が倍増するか!」と怒った。
でも倍増した。
その生々しい事実の語り口が政治家であって「心がけを説く」ということは違う分野の人がやった方がいいのではないか?
「ノーベル賞学者を何人作ろう」とか「うるせえ!」。
そんなことは別の人が考えるべきことであって。
「理想論ばっかり言われてもなぁ」「きれいごとを言われても」と思う水谷譲。

このお二人のこの対談が面白いのは、人間の捉え方が生物進化学に則っている。
この二人の学者さんがおっしゃっているのは「人間を変えるのは環境である」と。
「脳が考える力持って人間が進化したのではない」という。
人間の脳はさして変わらずに「環境に適応したい」という、そういう心がけが脳を作っていったわけだ、という。
この生物進化学の方が言うのは「心は森を出てサバンナで二本足で立ったあのサルの頃から、何一つ進化してない」。
そんなに進化しているワケではない。

なぜ少子化は簡単に解決しないのか?
政府のみんなは叫んでいるのに。
それを進化学の人は「当然ではないか?」
「環境に適応できそうにないから」そう女性が考えるから子供を産まないのである。
「その通り!」と思う水谷譲。
保育園はないし「仕事どうするんだ」と思うし、環境が整備されていないから「もう一点豪華主義で一人っ子にしよう」と思っている人は非常に多い。
でも別の環境もある。
保育園も無ければ幼稚園も無い。
何もなくても女性たちは子供を産んだ。
それは「働き手」としての子供が欲しかった。
今、働き手としての子供が必要ないから。
でもこの間、子供を十人ぐらい産んだ中年の女性のドキュメンタリーを見たが本当にうらやましい。
もう一回繰り返すが、砧公園で見かけた風景で、男の子を三人産んだママさんが三人を並べてノックバットで鍛えている。
「この人は産んだもの並べて、今、鍛えてるんだ」と思うと「いいよなあ〜。もう、産みたい子供!」。
この回で話されている)
少子化というのは何かというと「子供をたくさん産めば産むほど、これからやってくる社会に私は適応できなくなるのではないか?」「子供共々適応できなくなるのではないか?」という女性たちの予測の元に国が何と言おうとその思い込みがある限り、子供は絶対に増えない。
非難するつもりはないが、「国」というのは「人間を操ろう」「国民を操ろうとする」という。
何者なのでありましょう。
次は逆に国というものを考えてみる。
かつて国なんてものはなかった。
そもそも人間にあったのは「集団」「群れ」。
その群れと群れがくっついて、だんだん巨大化して群れが守れなくなった。
国家を発明したのは誰か?
これはつい最近知ったがナポレオンらしい。
何でかというと昔は兵隊さんはお金で雇わなきゃダメだった。
お金を払って雇う。
お金をもらえなくなるともう戦わない。
すぐ逃げちゃう。
そこでナポレオンという人が「国民皆兵」と言って国民そのものを兵隊さんにした。
そしたら強くなっちゃったというところで「国民が戦うんだ」「国民が兵隊なんだ」ということで、それをまとめる形として国家というものができたのだが、もともと国家なんていう単位が人間に理解できるはずがない。
せいぜいできて「集団」。

イギリスの人類学者ロビン・ダンバーは「言葉とはサルの毛づくろい(グルーミング)と同じなんだ」と言っています。つまり、集団生活をしていると個体間に軋轢が生まれるわけだけれども、サルの場合はそうした緊張を緩和するためにお互いに毛づくろいをしている。−中略−そこで毛づくろいの代わりに発達させたのが言葉だというわけですね。ダンバーの考えでは、そもそも言葉というのは他人の噂話、ゴシップ・トークをするために発達したものではないのか、つまり、種々雑多なメンバーたちに関する情報交換をするのに言葉が発達したんだろうというのです。(64頁)

ゴシップトークは大事。
「あの人、浮気したらしいよ」とか。
「ホテルからスタンプもらって、貯めてまた使おうとしてたらしいのよ」とか。
そういうことで笑ったりなんか。
だからゴシップトークが一番得意なのはやっぱり女性。
このゴシップトークで一番大事なテーマは何かというと安定した一夫一婦制の維持「亭主は浮気をしない」ということを前提に、浮気した女房を嘲笑うという話が好き。
それがサルの特性。
そういう話はワクワクするという水谷譲。
ワクワクというのは快感なワケで、快感を知っているというのは「野生」。
野生は何に支えれられているかというとサルの部分。
ゴシップトークで関係を強化し、一夫一婦制を守るというサルの本能が、まだこの平成の御代2017年の世にもある。
少子化の何が問題かと言うと「子供を夫婦で育てている」という勘違いが子供を産む自信を無くしている。

長谷川 ヒトはそこで「共同で子どもを育てる」ことにした。母親の時間とエネルギーだけではとても無理なので、配偶者、家族、さらには自分の属している所属メンバーからもサポートを得て、繁殖するという戦略を採ったというわけです。(23頁)

その基本をなくしたから、戦後すぐの社会のように子供を産めなくなっている。
サルが安心して子供を産むのは群れにいるから。
ご近所で夫婦も含めて36人いると人間の集団は安定する。
何でかというと36人いると、夜寝ている時も誰か起きている。
その最低の数が36人。
「子供が泣いたら世話をする」という単位が36人。
だから子供が産みたければこの36人の隣近所が作れそうなところに、そこに仕事があることが大事。
これはすごく説得力がある。
そして人間が「私は今、社会の中で生きている」と思う人数。
150人。
150人いればいい。
つまり「集団」というのを150人の単位で考えた方がいい。
150人が人間にとって「社会」。
こうやって考えていくと人間の本性「絆」と「思いやり」と「しがらみ」。
このそれぞれの何かがわかってくる。
すなわち「絆」「思いやり」これが可能な単位が36人。
最大で150人。
それ以上は「しがらみ」になってしまう。

山 岸 ダンバーは霊長類のデータを元に、ヒトの新皮質は本来、どの程度のサイズの集団に対応するために発達したのかを推計したところ、その数はおよそ一五〇人ではないかという結論になった。
長谷川 それがダンバー数というわけですね。
(65頁)

サルの群れがまさしくこれ。
ミツバチもそう。
増えすぎると別のところで巣を、という。
「数と集団の大きさ」というのはやっぱり決まっている。
1億2千万人。
どんどん今、減りつつあるが。
日本にふさわしいダンバー(数)かどうかというのは、ちょっと考えてみなければいけないと思う。
でも武田先生たち「団塊の世代」がいなくなったら日本は広い。
水谷譲が老婆になった頃、銀座と品川の間に森か何かできているかも知れない。

人間の集団の大きさで一番最適なのが150人前後。
会社でも150人ぐらいだと、だいたいの人の名前と顔は一致するという水谷譲。
ダンバーと人間。
そしてこのダンバー(数)で人間の集団をくくっておくと裏切り者がちゃんと探知できる。
ジャッジしやすい数。

そしてもう一つ。
「人間になった」という理由。
万能ナイフのように知恵というか能力を「折り畳み式にできた」という。
「環境や状況の変化に応じて適応する技術を引っ張り出せた」という。

今、また新しい本を読んでいる武田先生。
ジイサンにゆっくり入ってゆくが、やっぱりしがみつくように高齢者になっても「いいことはないかなぁ」と探している。
だから人間の能力で、視力はダメ、聴力も落ちてゆく。
瞬発力みたいなものが全部落ちていく。
その中で落ちないものがある。
それが「指先の感覚」と「皮膚感覚」。
皮膚感覚というのは落ちない。
番組を見ていたらアケビのツルみたいなので網カゴを作る福島の職人のジイサンの指元を映している。
速い速い!
いわゆる「匠」と呼ばれる人たちの持っている指先というのは「年季」。
それと口の周りの感覚が落ちない。
歳をとってきてお酒を飲む時にお酒と口が合わなくてお酒がこぼれることがあるという水谷譲。
武田先生の先輩が情けない声で「武田、俺はもうダメかもしれん」。
「どうしました?」
「いや〜、昨日な、メガネしたまま目薬さしてな」
そういうのは衰えてゆく。
口の周りの感覚というのは多分「味」のこととかではないかと思う。
さっき言った口からこぼした「酒」。
若いときより美味い。
年々美味しくなってきていると思う水谷譲。
だから指先の感覚、皮膚感覚、指先の感覚と口の感覚。
「黄門様」で老人役を演っていた武田先生。
夏だったので暑い。
五時には解放してくれるので六時半に撮影所に入って。
ちょんまげを付けなければいけないからそれぐらい早い。
だけど老公だから早目に上げてくれる。
五時には。
途中でスーパーでタクシーを停めて豆腐を買ってキンキンに冷えたビールを買ってシャワーを浴びて鰹節をかけて冷奴を喰いながらビールを飲む。
一人で騒いでいた。
ビールってあんなに美味いんだね?
「カーッ!」なんか言いながら。
フロントから二回電話があった。
「どうなさいました?」とかって。
倒れたんじゃないかって。
本当に美味い。
奥様には言えないが、雨が降って寒い日があったから一回だけその豆腐をアジフライにした。
新聞紙を丸めて鍋の中に網カゴがなかったからその上にアジのフライを置いて銀紙で包んでお湯で温めて日本酒で一杯やった。
うめぇのなんの。
その時「カーッ!」と叫んでまたフロントから電話。
「お倒れになったんじゃないか」と。

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2018年10月18日

2017年10月23〜27日◆できない脳

できない脳ほど自信過剰



できる脳で未来を見ると気が滅入る。
だったら「できない脳」で未来を見たら案外希望が見えるんじゃないかと思った武田先生。
それでこの本をさっそく読み下し、三枚におろした。
この本を読んでいたら、次々新しい発想が湧いてくる。
AIが、人工知能がこれからベストセラーを書くかも知れない。
AKBの新曲なんてAIがやるかも知れない。
もう将棋をやったって碁をやったって負けないんだから。
そういう未来が待っているかも知れない。
でも反対に考えるとAIは「売れない歌」は作れない。
「売れない小説」は書けない。
そうやって考えると何か少し未来が明るく見えてくる。
失敗作を作れない才能が成功作を作り続けることができるのか?
果たしてそれを「成功」と呼んでいいのか?
AIと人間の脳。
しかも「できない脳」について考えていきたいというふうに思う。

実は、脳にとって「学習が速くて記憶が正確」なことは、必ずしも好都合ではありません。(45頁)

脳にとって何がいいか?
「学習が遅くて記憶が不正確なこと」
そっちの方がよい。
これを先週のあの話と重ねてみましょう。

松居一代さんは船越(英一郎)さんのお父さん(船越英二)とあまりうまくいっていなかった。
船越さんのお父さんは二人が結婚すると非常に不幸なものを感じられた。
それがビッタリ当たった。
なぜ当たったか?
それは学習が遅くて記憶が曖昧な船越さんのお父さんの脳が、その結論を導いた。
これはしかし面白い。
つまり、「学習が遅くて記憶が曖昧」というその船越さんのお父さんの目には、ぼんやりと松居さんの○十年後が見えてきた。
そうすると松居さんの美しさの経年変化、歳を経るごとの変化、そういうものが滲んできた。
美しい人を見ると「わぁ!美しい」と思う。
最近、ジジイになってちょっと変わってきた武田先生。
だからジイサンは若い子から好かれないのだろう。
その人の40〜50年後がバッと浮かぶ時がある。
ある程度わかる。
あえて名前は言わないが、今、トップモデルの人。
(その頃には)とっくに武田先生は死んでいるので許していただけると思うが、間違いなくブッサイクなババアになる。
学習が遅くて記憶が曖昧だからわかる。
「美しい」と美しいことを学習すると記憶が正確になる。
綺麗な人の顔はバッと思い浮かぶ。
目元とか眉とか目に浮かぶ。
「綺麗だなぁ」と思う。
それは「ギリギリの何か」で守られている美しさ。
眉毛が1cm下に下がっただけで、ものすごくブッサイクに見える。
ちょっと太っただけで、ものすごく不細工に見える人を、もう何人も見てきた。
美女は所詮バランスだから、ほんのちょっとでもバランスが崩れると、本当に倍ぐらいみっともなく見える。
「それだったら最初からみっともない方がよっぽどよかった」というものだ。
目が慣れているから。
その美しさに何か欠点がある人の顔はそんなに「経年変化」年ごとの変化に、変化しない。
整いすぎている人の変化はものすごく大変化に見える。
整いすぎているから変化が目立ってしまう。
「整う」というのは何かというと「バランス」。
そういうのが伝わってくる。
やっぱり若い頃、パンパンに張った乳房というのがもうわかる武田先生。
女の人でおっぱいがデカい人で、やっぱりアレは見せたくなる。
(胸が)上の方を向いていたら。
でも向いていた分は絶対下がる。
垂れ下がったら無残。
母の乳房を見たことがあるが、若いときは母の乳房は本当に美しかったが、母が湯上りに浴衣を半分ひっかけて出てきて、武田先生の前に座った時、ボルネオのオランウータン。
本当に「経年変化」年ごとの変化、加齢変貌。
これは本当に・・・。

「できない脳」
これにどう未来が見えるか?

(スマートフォンのSiriは)道具として決して不満じゃないし、値段の分は十分活躍している。
「なんでも質問に答えてくれる」という。
最初「コイツ天才じゃないか?」と思った。
伊豆半島に旅した時に「近くの蕎麦屋」と訊くと、次々と店を挙げた、という。
でも娘がいじるのが好きで「パパ、英語の練習してるから、私フランス語にしてあるんだけど、パパ英語にしたら?」というので英語にした。
もう本当にこれはバカ。
察しろよ、オマエは。
一生懸命、日本人が英語でオマエに話しかけてんだから。
「京」の都の方へ撮影に行っていた。
天気が気になる。
だから朝起きて訊く。
丹後当たりまで撮影に行くものだから。
「Today's weather?」と訊く。
「Today's weather in Kyoto?」と訊く。
すると「weather(ウェザー)」を「wear(ウェア)」と聞き間違える。
発音が悪い。
「ウェザー?」と聞くと、ウェア関係ばっかり話して。
そのうちにウェザーと言っているのを「Leather(レザー)」と「革」みたいな。
「どんな革が必要ですか?」と訊いてくる。
オマエはバカか?本当に!
「オマエはSiri(尻)。私は肛門(水戸黄門)」と言いながら。
「What's ?」と訊いて返してきた。
頭にきた武田先生。
「ワッツ?」じゃねぇよオメェ。
なぜこの天才と言われるAI、これほどバカなのか?
「できない脳」の武田先生から言わせるとスマートフォンというのばバカ。
本当に察しろよ!オマエ。
一生懸命撮影来て訊いてるんだから、天気を。
本当に。
はっきり言ってコヤツは大事な教訓を忘れている。
アマチュア。
プロとは一体何か?
その道のあらゆる失敗を知っている者のことをプロと言う。
こいつ(Siri)は失敗を知らないからウェザーの発音一つをウェアとかレザーに間違えちゃう。
人間は言葉というものを作った。
なぜ言葉があるか?
言葉とは何かを考えましょう。
言葉とは複雑な組み合わせ。
使用することによってますます複雑にしたもの。
絶えず他人と結びつこうとする意欲が言葉。

 人からコミュニケーションを奪ったらどうなるでしょうか。そんな大胆な実験を行った人がいます。医薬分業を推進したことでも有名な神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世です。
 皇帝は身寄りのない赤ちゃんを集め、侍女に育てさせました。彼の趣味は「言語の起源」でした。人は言葉を習わなくても話すようになるでしょうか。侍女たちは母乳やオムツや入浴などの最低限の世話は許されましたが、赤ちゃんに話しかけることは禁じられました。結果は意外なものでした。2歳になる前、つまり言葉をきちんと覚える前に、全員が死んでしまったのです。
(102頁)

(番組では「34人が死亡」と言っているが、本によると死んだのは全員。「34人」というのは以下のルネ・スピッツの話と混同したものと思われる)

精神科医のルネ・スピッツは孤児院で蝶さを行いました。−中略−
 孤児院には多くの子が集まりましたから、慢性的な人手不足に陥っていました。介護者たちは乳幼児一人ひとりと十分なコミュニケーションを図る余裕はありませんでした。調査の結果、91人中34人が2歳までに亡くなってしまいました。
(103頁)

会話しないと幼児というのは死んでしまう。
AIが信じられないのは、人と会話して会話を覚えていないから。
発音がゆっくり積み上がっていないから、会話における失敗を学んでいないから、正確な発音の一種類しか知らない。
いかにも頭のいいヤツの最大の欠点。
「頭の悪いヤツの気持ちがわからない」という。
そこが頭のいいヤツの頭の悪さ。
AIはその結晶。

バルザックの言葉を引用します。
「孤独はいいものだという事を認めざるを得ない。けれども、孤独はいいものだと話し合う事のできる相手を持つことも喜びである」
(105頁)

これが人間。
「オマエはSiri、私は黄門」
本当に頭にきた。
「何か御用ですか?May I help you ?」と訊いてくるのだが、何を命じても本当に聞き取れないヤツ。
人間は絶えず他者社との関係を、特に「できない脳」であればあるほど他社との関係を結ぶという。
そのことによって学習していく。
AIはすごいかも知れないが、コイツは「ひとり学習」のヤツ。
他人と一緒に勉強をしたことがない。

過去の心理実験から「集団で行ったことは、一人で行ったことよりも記憶に留まりやすい」ことが広く知られています。(110頁)

一人でチョコレートを食べる場合と、見知らぬ人と二人で食べる場合を比較したのです。二人の場合でも会話などのインタラクションは一切ありません。ところがアンケートの結果、「二人で食べたほうが美味しい」と判定されました。(111頁)

人間の「ヤル気スイッチ」は人と人との間にある。
食事もそう。
何で長蛇の列に人は並びたがるか?
あれは、たくさんの人と食べた方が美味しい。
一人で食べると美味いものだって美味くなくなる。
だから仕切りを横に置くのはやめましょう。
美味しくなくなる。
他者のラーメンをすする音を聞きながら・・・。

 ヤル気(モチベーション)は「側坐核」という脳部位から生まれます。つまり、側坐核の活動を高めてやれば、ヤル気が出るわけです。(128頁)

バイオフィードバック活動が強くなった。
それでヤル気スイッチがオンになるという。
スイッチは自分で押すしかないというのが「ヤル気スイッチ」ということ。
「あ、俺意外と楽しそうにやってるじゃん!」というのが「ヤル気スイッチ」。
やる気の維持はモチベーション「内部の動機」。
これをいかに維持できるか。
よく人々はご褒美みたいなのをぶら下げておくとやる気が湧くとか言うが、それは逆にご褒美等々はそんなにいい「ヤル気スイッチ」の入れ方ではない。

理由はともあれ、「単に好きだからやっているだけ」という人が最終的によい成果をあげていることは確かです。(143〜144頁)

だから、その「好き」を見つけてやるという。
「この仕事、面白いでしょ?」と、その子が好きになるという理由が作業に一つ見つかるとむやみに面白くなるという。
これはやっぱりそう思う。
台本を開いて「ここをこうすれば、面白くなるんじゃないか?」。
スタッフに相談すると「武田さん、いつもやる気ありますね」と言う。
それは、好きでやっている。
自分が好きでやっていることを褒めてもらったり「いいですね」と乗ってもらうとますますやる気になる。
『(今朝の)三枚おろし』もそう。
本当にわずかな方だが「大変面白い」と反応をいただくと、やっぱりヤル気スイッチが入る。

脳はAIと違い、物事に飽きることがある。
AI、人工知能は飽きない。
しかし飽きるというのは脳の特徴。
だから料理に飽きてもいいし、愛に飽きてもいい。
朝から何だが、セックスに飽きてもいい。
「飽きる」というのは脳にしかできない能力。
ではなぜ飽きるのか?
大脳皮質にある能力で、飽きるというのは視点変換「見方を変えてみた〜いなぁ〜」と思った時に飽きる。
だから「飽きないと変」。

図1.png

太いT字形のパイプが描かれています。しかし、これを「トランペットのピストンです」と説明されたらいかがでしょう。「ああ、なるほど」と思いませんか?この感覚を英語で「アハ体験」と言います。(146頁)

図2.png

野球のホームベースに置かれたボールです。これを「王貞治さんの似顔絵」だと説明されると、なんとなく愉快さを感じます。こちらは「アハハ体験」です。(146〜147頁)

大脳というのは飽きる。
飽きた瞬間に視点変換「別の角度から見てみよう」ということになる。
そうすると別の意味が与えられる。
これは「できない脳」がすぐに飽きてやること。
だから飽きていい。

何かのラジオで言っていたらしき話。
「結婚して幸せだったのは三か月だけ。その後ず〜っと不幸です」という男性のお便りがあって、その司会者の方がボソッと「あなた、結婚して幸せになるつもりだったの?」という。
結婚というのは一体何かというと「不幸になった時のための用心の制度」が結婚。
そうやって考えると・・・。
奥様とジジイ、ババアになってきて喧嘩ばかりしている武田先生。
でもやっぱり最近「だからいいんだ」と思うようになった。
ジジイとババアになって初めて「愛の意味」が分かるようになって。
若い頃は可愛かったから「いい女だなぁ」と思ったし、連れて歩くのにも「見栄えがいい」とかというのも男と女にはある。
今、本当にシワくちゃのババアになったのだが「なんでこんな女と・・・」。
そうすると奥様が「だから愛なんじゃないの!」と言われると「あーこれは愛だ」と思う。
愛する理由なんか何もないのに、まだ一緒に飯を喰っている。
「愛」としか呼びようがない。
たっぷり飽きたから。
それで向こうが痩せてしまって転びそうになったりして、人(武田先生)のことを杖みたいにガシッと掴んできて。
「おっと!」「なんだ!しっかり歩け!」とか言って。
歩きながら「『人』という字になったね!」とか何か言いながら。
これはやっぱり本当にジイサンとバアサンが気づいた「愛」なんじゃないか?
理由がある時は誰だって愛せる。
ツヤツヤして可愛かったらなんでも好きになっちゃう。
「こんなになってんのに、まだ一緒にいる」というところから初めて「愛」という難事業が始まるのではないか?

「アハ体験」は視点変換。
この「アハぁ」とうなずくという瞬間。
これは側頭頭頂接合部(TPJ)という所がバッと赤く発火する。

TPJを人工的に電気刺激すると、幽体離脱が生じ、自分を体外から眺めることができます。(147頁)

視点変換で自分を天井の上から眺めたりなんかするという。
そういう能力に通じるので「アハ体験」というのは本当にバカにできない能力。
サッカー選手はバーッと走っている。
あれはドローンで飛ばしている。
それが優秀な選手。
ドローンを飛ばせる。
だから側頭頭頂接合部が真っ赤に燃えるんだろう。
そうすると自分の脳からドローンが出発して自分が左サイドにバーッと駆け上がって右の目の端っこの方に上がってくるヤツを見つける。
そうすると左サイドから「くれ、くれ、くれ!」と全然別の方角に向かって叫んで、そこに上がってくるボールを待って蹴り込むとかヘディングをやるという。
この側頭頭頂接合部の赤い発火というのはスポーツ選手には必要で、だから俯瞰している視点を別個に持っている。
卓球の選手もそうではないか?
もう一個目がないと、あんなちっちゃな玉は打てない。
バドミントンとか。
だから側頭頭頂接合部が発達している人はスポーツ界に多いのではないか?
一番大事なことは、ここの視点変換、あるいは側頭頭頂接合部の「自分をドローンで見る目」というのは脳の報酬系と結びついているので、自分を褒めることの多い人じゃないと手にできない。
「俺やるじゃん!」と叫ぶ人じゃないとここが。
だからサッカー選手は叫び声を上げる。
あれはやっぱり自分を褒めてあげる「別の声」なんじゃないか?
(福原)愛ちゃんが「サー!」と言うのと張本(智和)くんが「ハイサイ!」か何か叫ぶ。
(調べてみたが「チョレイ」だそうだ)
あの叫び声というのは別の人間が彼に送っている声援、もしくは報酬「よくやった」という雄叫びではないか。
この「自分をドローンで見る目」という、そういう人は国会に少ないような気がする。
「W不倫」なんか、シラを切られていた。
シラを切っているとしか思えないが。
あの人は、よく同じ口で他人の事はボロクソ言える。
だからやっぱりドローンを一切持ってらっしゃらない。
あの方は優秀な方なのだろう。
東大を出てらっしゃる方。
あの「ハゲぇぇぇぇぇ〜!」と叫んだ方も。
あの二人は同期。
でも先週紹介したAIの本に書いてあるが、AIが活躍する社会は東大出の人が必要のない世の中がそこまで来ている。
もう東大出の人は必要ない。
AIがあるから東大出なんてもういらない。
それよりも違う能力を持った人、つまりAIを上手に楽しくユーモアあふれる使い方のできる、そういう能力を持った人の方が、今、日本では、いや、世界で必要になってきている。
こんなふうに考えると「できない脳」の未来というのが明るく見えてくる。

twitter、ブログ等々、SNSで人は言葉と文字で凄まじい数の人とつながる世の中が出現した。
そういう「電網ネット」の上で、人はネットの上に足をかけて今、クモのように生きている。
人みなもう「スパイダーマン」のように。
しかしこの「ネットの上に住む」ということに関して、生きている人間にとってある矛盾が発生するという、そういう研究が進んでいる。

 まず、杭州范師範大学のリュウ博士らの研究から紹介しましょう。博士らはコンピュータ内の仮想世界に住む大勢の「人」を用意しました。実世界では社会構成員の全員が互いを知っているわけではありません。そこで仮想世界の「人」を部分的につなげてみました。−中略−
 この「仮想社会ネットワーク」内で情報がどのように伝わるかを調べたところ、いかなるネットワーク構造を試しても、情報が行き渡りにくい「情報盲」の地域(もしくは人)が、必ずどこかに生じることがわかりました。つまり、情報が行き渡らないのは、意地悪の結果でなく、人と人とのつながりの綾で生じる自然な現象だというわけです。
(168〜169頁)

これを中国の教育大学の先生が発表したというのが面白い。
13億(人)。
そこに中国共産党という政府があって、情報を広げたり締めたりしている。
必ず「ある少数民族をいじめる」という構造が自動的にできてしまうんだ、と。
これはアメリカでも同じことが。
日本でも同じことが。
もう宿命的にいじめるグループを作ってしまう。
だからイジメというのをそこから考えた方がいいのではないか。
イジメは深いものを持っている。
学校制度をいじったりするが、これだけ言って、これだけやめないというのは。
その考え方からも攻めていかないと解決しないということ。
理想ばっかり言って。
「心をいたわれ」とか。
そういう情緒面で絶対にうまくいかないという。

 次は蔚山科学技術大学校のキム博士らの論文です。こちらは仲間はずれの発生原理に迫った研究です。−中略−
 キム博士らが設定した仮想世界では、人々は自分と好みが似ている集団に帰属したいという欲求に従って行動するようになっています。さらに人間社会を模倣するように、似たもの同士が多く集まれば集まるほど、その集団の魅力がますます増すようにも設定しました。実装したルールはこれだけです。
 シミュレーションを開始すると、人々はおのおのに小グループを作りはじめ、しだいに集団サイズが大きくなってゆきました。すると、どのグループにも属さない少数派が生まれ、社会全体から孤立してしまうことがわかりました。
−中略−自分の好みをはっきりと示さず、メンバー同士が仲良くなるために利他的に奔走する「良い人」が集団内にいると、その集団はより強固になり、大きく成長しますが、意外なことに、その当人は仲間はずれの標的となり、集団から排斥されやすかったのです。
 注意していただきたい点は、シミュレーションには、仲間はずれを作ろうという「悪意」が一切装備されていないことです。自分と似た人と一緒に過ごしたいという各人の「温かい心」が、社会の中で相互作用するだけで、その裏では、仲間はずれが生まれてしまうのです。
(170頁)

(韓国は)自殺者が最も多い国。
AIを使うと未来予測が全部暗くなる。
だから電脳ネットというのが人間をくまなく幸せにすると思ったら大間違いで、「矛盾を作る」ということを「できない脳」としては、しっかり覚えておいた方がいい。
池谷先生もはっきり「○十年後に、この世界はすべてAIが支配する」とおっしゃっている。
勝てないそうだ。
(という記述は本の中には見つからず)
AIによる未来予測は何でこう暗くなるのか?
「できない脳」のまま元気いっぱい生きてきたい。

posted by ひと at 11:16| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月04日

2018年4月9〜20日◆甦れ日本(後編)

これの続きです。

この方は「アジアから学ぼう」と。
シンガポールや中国にだって学ぶところがあるんだから「しっかり勉強しましょうや」と。
それから韓国、いや、北朝鮮にだって学びましょう、と。
学ぶところがあるのだから。
そういうところに学びつつ、とにかく手を結ぶ隣国を一つに絞り込みましょう、と。
「仲良くする国は一つありゃいいじゃないですか」と。
「インドには日本の未来がある」と。
これは武田先生も何年か前から思っていた。
あと、仲良くするとよさそうなのはベトナム。
気質が合う。
それから旅先で出くわすタイの人というのは機嫌がよくていい。
そんなふうにして仲良くする国ときちんと手を結んで、きちんと商売をやれば、日本はますますと。

 たとえば、今のインドは江戸時代の日本に一番似ています。士農工商と同じようなカースト制度があって、そのカーストが自由経済とうまく折り合いをつけている特殊な事例です。インド型社会は精神性という点で、日本に一番適合しているかもしれません。(58頁)

勝海舟が「朝鮮にも清朝にも必ず外国が攻めてきたら西郷隆盛のような者が現われる」と予言した。
でも何年経っても現れない。
そのことを突っ込まれた晩年の勝海舟は小さい声で「おっかしいなー」と言ったらしい。
でもインドにはいるかも知れない。
西郷隆盛が、あるいは坂本龍馬が。
なぜならば「カーストがあるからだ」と。
面白い発想。
その坂本龍馬や、今やっている『西郷どん』の西郷隆盛、吉田松陰らはどこの階層から出てきた?
これはもちろん「士農工商」の「士」からも出てきているが、ほとんど「農」に近い人たち。
非常に身分の低いお侍さんたち。
そういう人たちがものすごく立派な志を持つことができるんだ。

「農」の中心は百姓です。百姓とは、単なる農民ではありません。言葉のとおり、百姓とは生業が100個ある人たちです。いわば、自営業者、マルチクリエーターです。農業もする人もいれば、木工をする人もいる。文章を書く人もいれば、祭りを取り仕切る人もいる。一般的に、医術も百姓の生業のひとつであって、医者も農に属していました。要は、100ぐらいの職のバリエーションをポートフォリオマネジメントしてきたのです。(76頁)

松前船。
あれは全部、土地を持たない次男坊が船に乗っかって「北前船を操った」というような。
だから士農工商の「農」というのは百姓。
様々な「姓」を持つ人々。
この様々な姓の中から大村益次郎(村田蔵六)とか関寛斎。
こういう医学を志す人も生まれてきている。
日本はこの「百姓の力で近代化を成し遂げた」という。

士農工商の中で、「商」は一番序列が低いというのは正しいのです。(77頁)

浮世の商業というものに関しては、あまり尊敬は払わなかった。
なぜならば「商は価値を作れる職業ではない」。
価値を回転させることはできるが「物を作る」という実体経済には参加していない、と。

AIが普及すると、「商」のホワイトカラーの効率化がどんどん進みます。(77頁)

眠らずに世界中から情報を集めて、その中で一番の利得はどこだというのは。
人間の直観や知識よりもAIを鍛えた方が、たちまち。
AIというのはかくのごとくして人々からいわゆる「職業」を奪っていくだろうけど「百姓」のランク、クラスにはAIが立ち入れない仕事が宝のごとく渦巻いている、という。

「20世紀は二人のアメリカ人によってつくられた時代です」という。
だからまだアメリカは威張っている。
その二人のアメリカ人とは誰か?
もう言われれば頷く。
20世紀をつくったアメリカ人。
エジソンとフォード。

 20世紀は、エジソンが電気製品をつくって売り、フォードが自動車を大衆化しました。これこそが、僕は一番大きな社会変化だと思っています。この2人が20世紀を決定づけたと思っています。(102頁)

20世紀とは何かというと「電気製品と自動車の時代」。
この二つを大量生産を可能にし、アメリカは100年間、世界を支配してきた。
この大量生産のために一つの課題に対応する商品がベストセラー。
例えば車。
走る。
それだけ。
他には何にも使えない。
一つの課題に対応する商品がベストセラー、ヒット商品になり時代に君臨した、と。
だから「車欲しい、車欲しい、車欲しい」ということ。
グローバリズムとは「絶えずマイノリティを差別した」ということ。
だから世界基準というのは「少数をイジメてイジメてイジメ抜く」という正体を持っている。
グローバリズムとは何かというと「平均以外は排除していく」という。
特に主導するアメリカングローバリズムは数少ないデザイナーが数少ない生産品のデザインを決定し、大量均一商品を世界にあふれさせることに成功した。
ほんの数人の人が考えたデザイン。
少ない人たちが握って、作る時はブワーッと作らせて最大のお客に掴ませるという。
これがアメリカングローバリズム。
グローバリズムの言語。
これが英米語。
英語。
ところがあれだけ「英語、英語」「バイリンガル、バイリンガル」と騒いでいたが、これはものすごい勢いで今、自動翻訳機が・・・。
「別に、もう勉強しなくていいんじゃねぇか?」という。
間違いないことは、もう日常会話に関して時間がどんどん短くなってきている。
だからもう間もなく、同時通訳ぐらいの感じに入れるのではないか?
そうすると申し訳ないが英語教育というのが、これは「もうAIに任しといた方がいいんじゃないか」と。
それよりもっと重大なことは日本語の学びを深めて日本語でいくつもの言い回しが出来るような、そんな日本語を仕込むことの方がAIを完璧に使いこなせるのではないか?と。

 たとえばLINE翻訳だと、「今日、一緒にご飯に行きませんか?」の場合、「ご飯」が「rice」と訳されるから誤訳になってしまう。しかし、「今日、一緒に夕飯に行きませんか?」と直せば、ちゃんと翻訳してくれます。このように繊細な言葉選びができれば、スムーズに自動翻訳できます。(113頁)

 僕は、英語は字幕がつけば、ネイティブと同じ速度で話すことができます。だから、聞き取れない単語があっても、スカイプの画面を開いておいて、リアルタイムで字幕がついていれば、それで意味を理解できます。(117頁)

マイクロソフトというのは急成長しているらしい。
もう間違いなく2020年の東京オリンピックは人間ではなくて翻訳機が、もういっぺんに進化するんじゃないか、と。
東京オリンピックを境にして、全く「英語教育何だったの?」という。
そしてもう一つ、この若い人たちの持っている「未来を解くカギ」。

サービスを伴わない車の職業運転手は、昔のエレベーターガールのような存在に近くなるでしょう。(118頁)

「え?タクシー、人が乗ってたんですか?」と言われる時代がもう来るのではないか?

 自動運転と同じく、未来に大きなインパクトをもたらすのが、次世代通信システムの5G(第5世代移動通信システム)です。(124頁)

今も日本は、4Gの接続率がすごく高い。−中略−モバイル通信に関して、日本は世界の中でもとても進んでいます。
 なぜ日本ではこれほど普及率が高いかというと、テレビが強いからだと思っています。
−中略−日本はすでに携帯電話網が全国に広がっているので、うまくインフラ投資を行えば5Gが全国に一気に広がります。−中略−
 とくに5Gで重要なのは、遅延がほとんどなくなることです。5Gになると、たった1ミリ秒の遅れで情報通信ができるようになります。
(124〜125頁)

ホロレンズ(マイクロソフトのRMデバイス)のようなMRゴーグルをかけていれば、3次元で中継をリアルに見られるようになります。(129頁)

世界は「デジタルネイチャー(計算機自然)」へ向かっていくはずです。(133〜134頁)

 CGの解像度が上がるにつれて、水槽の中の本物の金魚とCGの金魚は、きっと区別がつかなくなっていくでしょう。(136頁)

多分エンターテイメントの方から入ると思うけれども、たとえばボクシングの選手の頭のところに小さなキャメラが付いて、まるで対戦相手のパンチを受けるようなすごい中継ができる。
あるいは野球選手のバッターボックスからの情景等々が放送できるようになるということが可能になった段階で「遠隔医療」という。
これはすごい。
優秀なお医者さんをどこか県庁所在地の一点に集めておいて機材さえ持ち込めばその優秀なお医者さんの指先が完璧に再現できるという。
そうしたらそれはやっぱりかなりの方が・・・。

 リアルとCGが融合していくのはモノや生き物だけではありません。我々人間もバーチャルや機械と融合していきます。(137頁)

水槽の中に本物の魚とCGが一緒に泳ぐという。
そういうのが出来ると人間の生活にも影響がでてくる。
機会と人間が融合していくんじゃないか、と。
「耳」から「目」。

昔、聾唖学校の先生になろうと思った武田先生。
聴覚の障害のある方のことを昔「ろうあ児」と言った。
そこの先生になるつもりだった。
でももう今、補聴器の発展がすごい。
音をわずかでも聞けるようになった。
それと同じ。
この数十年で目、耳、手、足などの障害。
それがメガネをかける気楽さで機械に代わってもらうという。
あのパラリンピックを見てもすごい。
あれはもう、個人の努力もあるが、でもやっぱり。
一本足スキーを可能にした、あの機材の発達。
あれはささやかな発明だが、彼ら(障害者)に与えた「自由」というのは大きい。
障害者の方が雪山を100何キロで滑れる。
これと同じ事が社会にも起こって。
おそらく機械による介護、寝たきり老人等々の介護が可能。
あるいは、親戚にも「うまく歩けなくなっちゃった」というのがいるが、ロボットスーツさえ着込めば「朝の散歩は可能」という驚くべきところに進んでいる。
だから「ブロックチェーン化」。

これからの日本はすべてをブロックチェーンにして、あらゆるものはトークンエコノミーであるという考え方にしていかないといけません。(166頁)

となるといわゆる「金融経済」そのものが変わる。
「仮想通貨」という単位で経済が回り始めるのではないか?と。

プラットフォーム企業がわからない。
ブロックチェーンがわからない。
トークンエコノミー。
これもよくわからない。
トークンエコノミー。
カッコして「法定通貨だけではなく、交換したいものをクーポンにして交換する」という金融経済。
(本の注釈は「ここでは貨幣経済に対して、法定通貨のみならず価値交換に用いるこのとのできるトークンの発行に依拠した経済の意味で用いています」)

武田先生の解釈。
トークンエコノミーというのはビール券みたいなヤツ。
「ビール券4枚」みたいなので、それでビールが買えるワケだから。
それがドンドン広がっていったら、それは今言う仮想通貨になるのではないか?

この方が一生懸命わかりやすく書いてらっしゃるのだが、わかりやすく書いてあっても「わからない」という。
この方はこんなことをおっしゃっている。

PASUMOも仮想通貨のひとつです。(169頁)

武田先生が考えるに「仮想通貨とは『質札』のようなもの」。
この人の書いてらっしゃるのを見ると「質草」。
物とお金の交換だけでなく、物を質札にして、ネット上で手に入れて物と交換できる。
たとえばプラットフォーム企業とかビットコイン、リップルなどは質屋みたいなものか?
「悪質な質屋」のようなものとか、別何か個に形容詞を付けないと・・・。
やってみないとわからない。
この間、楽屋でボソッと話した時、興味半分に松ちゃん(松本人志)がやっている。
松ちゃんは「俺やってるでぇ」。
結構盛り上がっていた。
「いやぁ、遊び、遊び」
それで同じことを言っていた。
「やらんと何か、わからへんやん。浜田(雅功)やるかい!あいつは現金主義や!」と言っていた。
中国では電子マネーとして急成長している。
日本でもトークンエコノミーの流れは「もう後戻りはできない」と著者は言っている。
これはどんどん広がっていくのだろう。
もう間もなく東京オリンピック前後ぐらいから現金で物を買う人は覚せい剤か「オレオレ詐欺」の受け子か。
もう「持っているだけで逮捕」みたいな。
そしてこの仮想通貨からもう開発が始まっているが、人口減少と高齢化のための労働力不足、人手不足によりロボット技術化、無人化商店街が急速に日本で成長し始めている。
これはコンビニはできている。
カゴの中にバーッと入れて、もういっぺんにテーブルの上に置くと計算してくれる。
カードをピッ!と当てて支払いを済ませるから、やっぱり現金を持っていると「覚せい剤を買おうとしている人と間違えられる」という時代は、もう今すぐそこに来ている。
「この無人化等々が急速に日本では勢いづくだろう」と。
クビになる店員さんがいないから。
今やコンビニがそう。
TSUTAYA。
10回以上かかって、まだ一人でできない武田先生。
あの広大なTSUTAYAのレンタルの棚の中で、従業員の方が5〜6人。
武田先生が利用している店舗はわりと大きいので。
あとは誰もいない。
それで何を借りるか自分で決めて。
自分で機械の前に行ってカードを突っ込んで。
だからあのカードのこともやっぱりあれは仮想通貨なんだろう。
「値上がり、値下がりする」というのだけがわからない。

人間ドックも込みで、心臓の手術(二尖弁の手術を受けた)で大きいのでお薬、定期点検に行かなければならないので「病院会計」。
これも今、オール無人化。
これはもうすぐに駅、空港等々も全部「無人化になるんじゃないか」と。
東京駅で駅員さんはもう箱の中にしかいない。
昔、ズラーッと並んで(改札鋏を)カチカチ言わせていて。
いちいち(切符を)切っていた。
もう今、誰もいない。
そこに何の違和感も感じない。
空港の方も2020年に向かって「顔認証が進むだろう」と。
駅、空港、改札カウンター、手荷物チェック等々で、すべて人間が消えていく可能性がある。
今、銀行に人がいない。
この方角に向かって日本は進むが、それが日本をどのような未来に導くか?

プラットフォーム企業、ブロックチェーン化、ビットコイン、リップル、仮想通貨等々。
トークンエコノミーとか。
響きはいいが意味がまったくわからない言葉がズラーッと。
だけどこの若い方のご意見を聞いていると心から日本の未来に向かって「頑張っていけよ!」と叫びたくなる。

今は、2060年ぐらいに日本の人口は8000万人ぐらいまで減ると予想されていますが−中略−それでも、機械化によって一人当たりの生産を増やしていけば、労働力と購買力が減少してもGDPを成長させることは可能です。(160頁)

考えてみれば昔は駅に全部駅員さんがいて、切符をカッチンカッチン切って、乗降客何万人をさばいていた。
定期(券)はちゃんと見ていて「ちょっと待って!切れてる!」「期限過ぎてるよ!」みたいな。
エラい。
切符を切りながら「期限切れてる」という数字まで。
ところがもうそれが全部今、無人化で済むようになった。
その無人化にすることによって職業を無くす方々が無人化に反対するかといえば、今までなかった。
スーッと無人化の方角へ日本は。
だから「この先に未来があるんだ」と著者は言う。

今は、2060年ぐらいに日本の人口は8000万人ぐらいまで減ると予想されていますが(160頁)

ここで完全に日本は高齢化社会を通過する。
もうすぐ終わる。
武田先生たちが死に絶えて「高齢化社会」と問題視されたものが少子化とともに終わる。
ここから大きな国が次々と高齢化に入っていく。
最大は人類始まって以来の巨大な高齢者の層を持つ中国。
半端ではない。
70歳以上が1億を超えるという。
「一人っ子政策」をとっているから、下の世代が細い。
この時に中国が喉をかきむしるが如く欲しい技術が「ロボット技術」。
これはもう輸入に頼るしかないという。
今、中国は着手できない。
中国は人を使わないと経済が回らなくなる。
映画の撮影で行った友人から聞いた話。
日本でテレビのクレーン車はキャメラマンが上に乗っかって一人操る人がいる。
あれは中国で十何人いる。
機械は機械のまんまだが、遮二無二人間がくっつけてある。
働く場所がない。
だからクレーン車があるのだが、全部車で運ばない。
途中で必ず降ろす。
それでみんなで押す。
その時に「10人いる」というような態勢で空海映画とか作っている。
映画『空海−KU-KAI−美しき王妃の謎』公式サイト
そこに労働を作っている。
労働をたえず作っておかないと。
職の無い人だけでも1億人ぐらいいる。

そして日本の本当の敵はどこにいるか?
実はカリフォルニアに住んでいる。
グーグルやアップルという巨人。

 すでにカリフォルニア州は、GDPでいうと世界6位の規模にあります。イタリア経済より大きいのです。(178頁)

我々の周りにアメリカ製品はほとんどない。
戦争に使う道具以外。
でも「アメリカは豊かに」というのはいわゆるグーグル、アップルが持っているショバ代。
これがガッポガッポと入ってくるから「トランプさんでもOK!」。
この状況を終わらせるのがブロックチェーン化による・・・。
そういうことだと思う。
真ん中に中央の偉い司令塔があるんじゃなくて、いろんな所に司令塔があるという。
そういう「経済的元締め」を置かずに「非中枢的」な情報の貯め方。
スマートフォンでも情報を引きずり出す。
あれは誰が答えているのか?
たとえば武田先生が日本語で日記を書いて「英訳せよ」と言ったら英訳してくれる。
「はいはい、はい。はい日本語」
「誰がやってるんだアレ」と考える時点でそこがもうお爺さんの考え。
「スマートフォンの向こうに誰がいるんだ?」という。
「はいはい、武田さんですね。わからないことがあるの?」
無着成恭みたいな人が何十人も並んで「はいはい」とスマートフォンでやっているのか。
そうではない。
非中枢。

日本の多くの大企業は、でかくてのろい恐竜みたいになってしまいました。この状況を打開するためにも、「どうやって哺乳類型の小さくてフットワークの軽い企業をたくさん創り出して、恐竜型のでかい企業とつなげて、これまでと違うイノベーションを起こせるか」を考えなければなりません。(226頁)

posted by ひと at 10:13| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年4月9〜20日◆甦れ日本(前編)


武田先生がなぜこの本を取り上げたかというと、本の腰帯の著者の写真。
まるでジャニーズのタレントさんのよう。
堂本剛くんを細く小顔にしたような青年。

落合陽一(おちあいよういち)
1987年生まれ。メディアアーティスト。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了(学際情報学府初の早期修了)、博士(学際情報学)。筑波大学学長補佐・准教授・デジタルネイチャー推進戦略研究基盤長、大阪芸術大学客員教授
(カバーのそで)

(今は)平成30年だからやっと30歳の若者。
「客員教授」というのを務めてらっしゃるので頭はいいのだろう。
肩書きは「メディアアーティスト」。
(「今朝の三枚おろし」の)スタジオ中はジジイ・ババアしかいない。

特にきっかけは平昌オリンピックだった。
女子のスピードスケートなどを見ていて「確実に自分たちの時代は終わった」と。
もうとっくに終わっているのだが、ああいうのを見せられるとアリアリと感じる。
ジイさんたちは銅像の「何とか像」で揉めているのに。
金メダルを獲った女子選手のところに韓国の選手が来て抱きつくのだから。
若い人も楽々と乗り越えてきているのではないかと。
ああいうメダルを獲った人、あるいは獲れなかった人もそうだが、もう違う。
ちょっと今まで自分が持っている日本人の範疇から外れている。
つまり、ちょっと「若い人の意見」というのを、我々は相当聞かなければならないという。
そういう時代に入ったのではないか、と。
年寄りがよく言う「このままでは死ねない」。
はっきり「いつ死んでもいい」武田先生。

この幻冬舎から出ている『日本再興戦略』。
日本をリフレッシュ、リアゲイン。
「もう一回よみがえらせよう」という計画を持った学者さんの名前、メディアアーティストの名前は落合陽一さんという名前で。
この人が「日本は世界に先駆ける唯一の希望の国だ」と言っている。
これだけメディアが「絶望の国だ」と言っているのに、この若者はあえて日本を「希望の国だ」と呼んでいる。
ツカミのところの文章を読んでみると「日本はダメだ。○○を見習え」。
そんなフレーズで日本が元気になるはずがない、と。

吉田松陰は29歳で亡くなっていますが−中略−吉田松陰が残した「狂え」というメッセージは、当時の時代の変化が今の我々の対面している計算機時代と同様、並大抵のものではなかったことを示しているようです。(13頁)

狂え 吉田松陰の遺書とされている留魂録という書物に出てくる一文「諸君、狂いたまえ」から。(24頁)

「狂うほどの基準を自分で持ちなさい」と。
この「狂うほどの基準」こそが幕末から明治に至る変革。
これを「狂」で乗り切った長州藩。
尊王攘夷から、叶った瞬間、突然文明開化になる。
「異人を追い出せ」と叫んでおいて、明治維新が成ったその瞬間から「学ぼう、異国に」という。
若い方にはこんなことができる。
この著者曰く、やがてその欧州をまねて近代国家を作った。
その欧州をまねて近代国家を作って欧米と戦うことになり、日本はコテンパンにアメリカに敗れた。
そうしたら凄いことに日本はどうしたかというと「アメリカに学べ」と。
負けた敵を学ぶのだからこの国は凄い。
それが明治から現在に至る日本の150年。
欧州を見習い、欧米と戦って負けるとすぐに「欧米に学ぼう」という。
このざっくりとした掴み方が乱暴でいい。
絶えず日本は基準を変えつづけた。
だから「異人を殺せ」と叫んでいながら、逆に異人に学び、西洋を呪いつつ西洋にあこがれる。
日本は自分の基準を変えることで世界を変えてきた。
だから300万人という戦争による被害者を出しながら、敗北するやいなや、その殺した側のアメリカを基準にして国家を作ってしまう。
そしてなんと、それから十数年後に高度経済成長をやり遂げる。
考えてみたら変わった国。
手のひら返しがすごい。
考えたらこんな国はちょっとない。

 結局、高度経済成長の正体とは、「均一な教育」「住宅ローン」「マスメディアによる消費者購買行動」の3点セットだと僕は考えています。つまり、国民に均一な教育を与えた上で、住宅ローンにより家計のお金の自由を奪い、マスメディアによる世論操作を行い、新しい需要を喚起していくという戦略です。(15〜16頁)

「でもここからは?」というのがこの若い学者さんの提言。
では、次なる日本人の目標は何なのか?

日本は高度経済成長を戦後果たすワケだが、そのためには均一な教育とか「家一軒持てば幸せ」という基準。
それからマスメディアによるいわゆる「冷蔵庫、洗濯機、何とか」とか(1950年代後半の「三種の神器」である「白黒テレビ」「洗濯機」「冷蔵庫」のことを言っていると思われる)「手に入れると幸せ」とか、それが高度経済成長を支えたが「もうそれは終わったんじゃないか?」と。
これからは何が日本を動かす原動力になるのか?という。
この落合さんという学者さんがおっしゃるには「儲かる会社ではなく、役に立つ会社を作る必要があります」という。
それからその役に立つ会社、あるいはその会社に勤めている人は「日本の文化を深く理解することです」。
この二つを挙げておられる。

家族そろってテレビを見ながら食事をする武田先生の家。
その時は個人に走らず「穏やかな番組を見よう」というのでテレ東のジャパニーズもの『YOUは何しに日本へ?』(YOUは何しに日本へ?:テレビ東京)『和風総本家』(和風総本家 | TVO テレビ大阪)。
その中で外国で日本に興味を持った人を日本に招く。
例えば「宮本武蔵が好きになった」とか。
先々週ぐらいに見たヤツはドイツ人のかわいらしい娘さん。
大根の漬物にシビレちゃう。
シビレるというかイカレちゃう。
金髪のドイツのかわいらしいお嬢さん。
それが宮崎県の大根畑まで行く。
それでどうやって作っているかを見て、大根干しに感動する。
この人は何でも好き。
しば漬けから何から。
それで「グレート」とか「美味しいです」とかっていうのを連発。
だから田舎にドイツ娘を連れて行くものだから、タクアン製造会社の社長が大歓待するものだから、最後、金髪のお譲ちゃんは泣いちゃう。
日本人は凄い。
自分の職種を理解してくれる・・・。
『和風総本家』で見たヤツで若い人で宮大工にあこがれる人が多い。
宮大工に憧れる高校生の就業体験...|テレビ東京の読んで見て感じるメディア テレ東プラスこれかと思われる)
そのドキュメンタリーを見ていて驚いた。
十代で、もう弟子入りしているから中学を卒業して入っている。
それでその高3の年齢の子が高2の子に教えている。
それで高2の子は工業専門学校か何かに行っている。
「いい宮大工になるためにはどうやればいいんですか?」と言うと、その18(歳)の子が「自分の道具を大事にして、使い終わったら研げ」と言う。
「特にノミは」
毎日ノミを研ぐ。
ノミを研ぎながら「そんなんじゃダメだよ。立つまで研げ」と。
ノミを研いで綺麗な平面になると、手を離すと立つ。
ある角度を持って(ノミが立つ)。
武田先生がショックなのは17(歳)と18(歳)の子が話している。
それで18(歳)の子が「お宮さんを一軒仕上げ終わった時の気持ちっつったら、そりゃいいもんだよ」と言う。
一切言葉にしない。
態度で。
そういう若者がやっぱり「クールジャパン」。
そんな日本を今まで知らなかった。
だって宮大工は滅びゆく職業かと思っていた。
タクアンに興味を持つドイツ娘。
それから宮大工に興味を持つスケボーが似合うような若者たち。
そういうものを見ながらもやっぱり「日本人が日本をもっとよく知る」とか「学ぶ」とか、そういう時代が来ているんじゃないだろうか、と。
この落合さんが言う。
問題は、この国の何が日本を日本たらしめているのか。
それを自分で探る、そういう時代に入ったんだ、と。
「日本を教える人ではなく、日本を学ぶ人が唯一日本を変えられるんです」という。

若い方が広げる「大風呂敷」。
著者はこれから日本人が目指すべき基準を呼びかけている。

「ポジションを取れ。批評家になるな。フェアに向き合え。手を動かせ。金を稼げ。画一的な基準を持つな。複雑なものや時間をかけないと成し得ないことに自分なりの価値を見出して愛でろ。あらゆることにトキメキながら、あらゆるものに絶望して期待せずに生きろ。明日と明後日で考える基準を変え続けろ」と、以前Twitterに書きました。(253〜254頁)

これはもうジジイにはできません。
時々トキメくことはあるが、もうやっぱり日ごと夜ごとにトキメくというのは無理。
著者の若さが、今日いろんな論客の方がいらっしゃるが、この方々には無い、若者らしい提案をたくさんしている。

この方の日本人の掴み方が面白くて「なるほどなぁ」と思った武田先生。
「日本人は公平にこだわるが平等にはこだわらない」
もっと頭のいい人から別のたとえ話で聞いたことがある武田先生。
「資本が外国にある会社」というのがある。
それが成功する確率が高いのは日本。
ジョンソン・エンド・ジョンソン。
あそこはアメリカの会社。
「日産」にしてもそうだが、外国人社長でもうまくいく。
これは長い歴史があって九州の唐津とか松浦あたりに昔、海賊がいた。
「松浦党」とか呼ばれる海賊なのだが、社長が中国人。
給料を公平に分けてくれればいい。
「オマエはよく働いたからこれだけ」
「オマエは今月働いてないね?これだけ」
そんなふうにやると一切日本人は文句を言わずに「民族が違う」とか言い出さない国民。
日本人は公平にこだわるが平等にはこだわらない。

日本人は、センター試験でカンニングなどの不正が起きると怒るくせに、公教育に地域格差があったり、教育機関の差がある人が同じセンター試験を受けることに対しては無頓着です。(33頁) 

だって東大は東京にしかないワケだから。
でも「福岡県に東大を作れ」とは言わない。
何でかと言うと、東大は合格すればどこからでも行けるから。
これが「公平」にこだわっている。
東京の人だけしか行けない大学だと怒るが「試験パスしたら誰でも入れますよ」という東大はいいと思っている。

 平等という点では、日本人に合わないのは「男女平等」です。日本ほど男女格差がある国は珍しいと思います。男女が合コンに行ったり、飲み会に行ったりすると、当たり前のように男性のほうが女性より多く払いますが、あれは性意識の平等感に反します。(34頁)

 もうひとつ欧州発で日本には向いていないものがあります。それは「近代的個人」です。(35頁)

西洋社会というのは個人が神と直に結ばれている一対一の関係。
日本人は神と結ばれていない、と。
日本人はグループと結ばれている。
集団と結ばれている。
「個人主義」というとちょっと「ワガママ」のニュアンスが入ってくる。
「あの人ちょっと個人主義よね」と。

個人に平等に権利を与えて、全員が良識ある判断をすると仮定して、一人一票を与えたものの、選挙をしてみたら、全員にとって価値のある判断にはなりませんでした。集団の中で個人はそんなに正しく判断できないのです。ポリティカルコレクトネスのひずみやポピュリズムの台頭は西洋個人主義の限界点を示しているようです。(38〜39頁)

「僕個人にとって誰に投票するのがいいか」ではなく、重層的に「僕らにとって誰に投票すればいいのだろう」「僕の会社にとって、誰に投票するのが得なんだろう」「僕の学校にとって、誰に投票するのが得なんだろう」と考えたらいいのです。個人のためではなく、自らの属する複数のコミュニティの利益を考えて意思決定すればいいのです。(39頁)

一人に一票を与えたことがポピュリズム「人気につられて」という世界的な混乱を今、招いている、という。
現実に本当に招いている。
暗めに語ると、ヒトラーが出てきてもおかしくないような。
ヒトラーはものすごい「力」で出てきた人ではない。
あの人は民主主義で選挙で立場に立った人。
難しいもの。
この落合さんという方は個人として「誰々を選ぼう」とかって判断すんのやめましょう、と。
自分で集団を作れ。
コミュニティー、グループ。
まず個人の判断を捨てて、ある人数を集めよう、と。
「○○さんに入れる人、あーつまれ」みたいなことで。
だから自分のジャッジでアレじゃなくて、コミュニティとかグループとかそういう人たちで「誰々がいいんじゃない」ということを決定して投票に行けばいいんだ、と。
こうすると世界とかものの見方が変わるぞ、という。
これはやっぱり若い人らしい。

今は、ワークライフバランスという言葉が吹き荒れていますが、ワークとライフを二分法で分けること自体が文化的に向いていないのです。日本人は仕事と生活が一体化した「ワークアズライフ」のほうが向いています。(40頁)

昔からストレスが少なく、生活の一部として働いていたのです。(40頁)

これはドキッとする。
今、一番まずいのは「会社が社会になっている」という。
だから会社が勤まらないと社会の中でも「生きていけない」と思ってしまうというような早合点する人が出てくる、と。
そうじゃないんだ、と。
会社は何かと言うと「ギルド」。
ギルド制。
同業者の組合のこと。
だから日本風に意訳すれば「会社というのは『藩』ではないんだ」と。
「三菱」というと「三菱藩」という感じ。
会社というのは「そうじゃないんだ」と。
会社というのはギルドなんだ。
だから日本風にいうと、会社とは「海援隊」あるいは「新撰組」あるいは「伊賀」「甲賀」「才賀」。
つまり「ある技術を持った人たちの集団です」ということ。
「それが会社なんだ」と。
それでどんどん「業種が増えれば千切れて行った」と。
だから今の会社が楽しくないのは、かつての藩を守るために様々な藩主たちが犠牲になったのと同じで、他藩と付き合わずに藩内に閉じこもっているからだ、と。
だから海援隊だったり新撰組だったりすると、己の職能を持っているものだから、たとえば海援隊だと航海術で黒船を動かす技術だから「その技術を持った人とは誰と付き合ってもいい」という。
そういう伸びやかさが社会全体を活き活きするんだ。
そして己の職業の能力についてもいくつもの文化を持ち、様々な情報を取り込みながらどんどん複雑化できる。

「複雑化する」というのは「大人になる」ということ。

たとえば、仮想通貨のビットコインは中央機関がなく、プログラムによってルールが決められるという特徴がありますが、地形や自然というルールが多様な日本はとてもブロックチェーン的です。地方分権による意志決定が向いているのです。(48頁)

武田先生が考えるブロックチェーンという言葉の意味。
地方にあるアンテナ。
だから文化放送の電波を届けるために、どこどこ山とどこどこの山にアンテナ塔が建っている、という。
そのアンテナ塔に送ると、そこら全体が「ある放送局の声が聞こえる」というような。
そういうアンテナのことをブロックチェーンと言うのではないか。
その「ブロックチェーンが効いている世界だ」とこの著者は言う。

例えばレンガ職人がいる。
中国で。
あるいは韓国で。
このレンガ職人。
この方々は「技術者」。
それはどんな技術かというと「レンガを積む」ということ。
中韓では技術は一つでいい。
「レンガを積む」ということ。
ところが日本ではそうはいかない。
東京と長野では積み方を変えなければならない。
大阪と高知でも積み方を変えなければならない。
なぜならば、地方によって気候が全く違うから目指しているものが違う。
東京では頑丈さが求められるかも知れないが、長野では「雪対策」というものを考えておかなければならない。
大阪ではOKかも知れないが、土佐の高知では「台風と雨に強い」ということが一番の目標になる。
そうやって考えると沖縄から札幌まで気象が違う。
日本人はここらあたりに対応しないと「画一的なものを作るだけ」というのは「腕が悪い」と言われてしまう。
この辺がその「日本が独特の文化の中で生きている」という。

今、もっとも現実的で効果のある策は、「ローカルの発見」に力を入れていくことです。(49頁)

「日本の中にある田舎をもう一回見つめなおしなさい」という。
地方自治から日本の「リアゲイン」「よみがえり」を考える時に今は来ています、と。

すでに、その萌芽はあって、つくば市や福岡といった面白い市が生まれてきています。(50頁)

その故郷があればこそ、300万人の死者を出すという、ほとんど国が滅びた状態から日本はよみがえることができた。
何でよみがえったか?
それは「地方から先に芽を出した」と。
芽を出した地方が東京にやってきて、東京をよみがえらせたという。
東京は地方を吸い込むことにより、中央集権による工業生産様式を徹底させた。
様々な地方が東京に送り込むことによって、消費の循環がこの国を再生させた、という。
こういう話を聞くと、もうむやみに感動するし、むやみに思い当たる。

広島の小さな漁業メーカーがいる。
小魚なんかの仲卸をやっている。
船を持っていたのだろう。
ある時のこと、小エビばっかり獲れる。
それでこの小エビを何とか加工して「お菓子できねぇかな?」と言って小エビのカルシウムにビタミンか何かを混ぜて作った駄菓子がカルビーの「かっぱえびせん」。
そういうのを聞くと感動する武田先生。
「○○が大量に生まれたんで、それをうまいこと、日本スケールのスナック菓子にしていく」とか。

湖池屋のポテトチップス。
北海道で採れたジャガイモと九州で採れたジャガイモを循環させる。
それで美味しいポテトチップスを作るためには賞味期限を作らないとダメ。
「油もん」だから。
何か月かで商品を「オール引き揚げ」。
何か月か置いておくと美味しくなくなる。
韓国でポテトチップスの偽物が結構出回っている。
もうパッケージもそっくり。
「訴えたりしないんですか?」と訊いたら「ええ、大丈夫です」。
「どうしてですか?」
「美味しくないに決まってますから」
韓国に行って食べて「日本と味、違う」と思ったことが何回かある水谷譲。
あれは循環していないから。
作りっぱなしだから。
自分たちは循環させているので、いつも品質が一定で「パリッ!」とくる。
「偽物にはとてもマネできません」とはっきりおっしゃった。
「だからもう、食べてもらえばわかるから、別に裁判沙汰にしなくてもいいんですよ」と。
この余裕が「ローカル」。
「ローカルを使いまわす」というか。
そういう、地方で作り東京で消費の循環を巡って、この国はゆっくり再生し、高度成長までもっていったんだ、と。
今や第二、第三のイノベーションということか「改革の時が来てるのだ」ということ。

この人はやっぱり若いからドキッとすることを言う。
「お手本は多極化しています」と。
「日本人は学ぶとき、最高のパワーを発揮する」と。

学ぶべきは、シリコンバレー型、シンガポール型、中国深圳型のようなスピード感です。(54頁)

そして、これらの国に学びながら、手を結ぶべき大国はたった一つ。
インド。


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2018年08月08日

2017年10月16〜20日◆AI(2018年10月18日修正)

(今回は『AIが神になる日』という本を取り上げているが、かなり宗教の話とか哲学の話に紙面を割いている本だが、番組ではあまりその手のことは取り上げない)

もう自分がゆっくりと時代に取り残されつつあるという「手触り」をアリアリと持っている武田先生。
若い方が話している流行りとかヒット作品、テレビ番組に登場する人気者。
もうほとんどわからない。
もう人に訊いてばっかり。
最近のテレビドラマはタイトルを見ても内容が思い浮かばない。
タイトルを見てもわからない。
タイトルでわかるようじゃあダメなのか?
しかもニュースを聞いていても「そのニュースを笑っていいの?」という。
笑いながらニュース番組とかニュースバラエティの人が話題として扱う。
例えば、これはずいぶん前のことなのだが、(2017年)8月3日のこと。
中国香港からの伝でこんな事件があった。
人工知能AIの中国における大ヒット対話プログラムサービス「AIと話ができる」という。
騰訊(テンセント)という会社があり、そこのAI、人工知能に向かって誰か、愛国者の方だろう「共産党バンザイ」と。
するとAI。
対話ができる人工知能。
その人工知能が「腐敗と無能の政治に君はバンザイできるのか?」と答えた。

「共産党は無能」「中国の夢は米国への移住」正直なAIが反乱? 対話プログラムで批判展開、中国IT企業が急遽サービス停止 - 産経ニュース

「中国人の夢とは何か?」
習近平さんは「一帯一路」と党大会でそうおっしゃっている。
その人工知能は「中国人の夢とは何か?」と訊くと「米国への移住」と答えたという。
どういうプログラミングでそうなっているのかはわからない水谷譲と武田先生。
それに対して中国の人が「中国共産党をどう思う?」と訊くと、AIがたった一言「嫌い」と答えたという。
それでこれはすぐに北京政府が反応して、共産党が反応してすぐに騰訊のサービスを中止。
「訊いちゃいけない」ということいなったという。
それが香港伝で伝えられて、書き込みが増えて「人工知能はなんと、勇敢な反政府運動家だ」と称える書き込みが増えたという。
これをジョークであらゆるニュース番組がバラエティで伝えるのだが、これは笑っていいのか?
その人工知能「AI」。
それは今までの情報とか何とかが全部入っているわけでしょ?
未来予測に使えるんでしょ?
そうすると中国の騰訊という会社が持っている人工知能はもう、中国共産党に絶望しているワケだ。
これは重大なことなのではないか?
この8月3日のことを「これ、笑っていいの?」と思っていたら、NHKのバラエティ番組で日本のAIに日本国内の問題を尋ねるという趣向があった。

NHKスペシャル | AIに聞いてみたどうすんのよ!?ニッポン

この日本の「AI」、人工知能に対してNHKバラエティ班が日本の国内問題を問うた。
そうすると返ってくる答えが、AIが考えた答え。
「老人たちの健康を守るための具体策を示してください」
それからその次の問題が
「女性の活躍を促すための具体策を教えてください」
これは国会で論議されるような問題。
何とAIは答えたか?
一番最初「老人たちの健康を守るための具体策を示せ」という問いに対して人工知能は「総合病院をなくせ」と言ったという。
これは人間が考えるしかない。
とにかくAIはそう結論づけた。
二つ目の問題「女性の活躍を促すための具体策を示せ」と言ったことに対してAIは何と答えたか?
「モーテルと連れ込み旅館を増やせ」
理由があるんだけれども、それはAIが考えて答えたワケだから辿ることはできない。
AIは今まで詰め込まれたすべての情報を加味し未来予想をしている。
そしてもう一つ。
「少子化対策について教えてください」
AIは何と答えたか?
不思議な答え。
「自家用車の保有率を上げなさい」
これを人間が今、考えなければならない。
しかしドキッとしませんか?
老人の健康を守るための具体策「総合病院を潰せ」でNHKバラエティ班は何と驚くなかれ、総合病院が完璧に潰れたある町を発見し、老人が健康かどうかを逆調査した。
すると何と!

AI、人工知能。
それがいかに世界全体をリードしているかという話。
もう将棋とか碁とかAIに勝てない。
そんな時代になっちゃった。

「健康な老人を増やすために具体的に何をすればいいですか?」の問いにAIは「総合病院をなくせ」と言った。
本当にその具体例があったので、またNHKも頑張ってそういう町を見つけた。
最近、総合病院が全部潰れちゃったという町がある。
夕張。
市の財政が破綻したので。
武田先生が『黄色いハンカチ』で見た町だが。

あの頃映画 幸福の黄色いハンカチ デジタルリマスター2010 [DVD]



本当にシャッター商店街で、もう映画をやった頃とは違う。
今、必死になって市の人が立て直しをやってらっしゃるが、人口は流出し、産業はなかなか起きず。
頑張ってらっしゃるが。
それで老人の人口が増えている。
だからいわゆる「高齢者の町」。
総合病院がない。
健康状態は?
元気。
他の町に比べても夕張のご老人方はすごく元気。
病院がないので、みなさんものすごく自覚してらっしゃる。
「自分たちで自分たちの健康を守ろう」というので老人たちのグループの結束が固い。
だからものすごい勢いで、都市に見られる、町に見られる、集落に見られる「老人の病」というのが激減している。
夕張のお爺ちゃんたちに訊くと「しょうがねぇじゃねぇかよ!」とかおっしゃるのだが、みなさんものすごくお元気。
見方。
90歳ぐらいで雪下ろしをやってらっしゃる姿を見ると胸が痛むほど悲惨に見えるかもしれないが、健康度は上がっている。
こうやって考えるとAIが言っていることは当たっている。

武田先生もスマートフォンを持っている。
アレは「AIの結晶」。
やっぱり凄いなと思うのは日本語で四千字まで書きこんで、その文章をスマートフォンに命令すると「英語」「中国語」「韓国語」に一瞬で訳せる。
あれは凄い。
たまにちょっと違った訳になったりもする。
スマートフォンは「こいつバカか?」と思う時がある。
世田谷の大通りを朝、散歩していた武田先生。
タヌキと会った。
「ばったりタヌキと会った」と書いて、それを日記に英語で書こうと思って打ち込んだら、妙な英単語が出てきて「I suddenly met a cunning person」。
カンニングパーソン。
コマーシャルで「レッドフォックスアンドグリーン○○」というので「タヌキ」という単語はちょっと覚えていた。

マルちゃん 緑のたぬき天そば(東)101g×12個



「『タヌキ』のことを『カンニング』って言わねぇぞ?」と。
「私はタヌキに会った」というのを日本語社会におけるスラングで「ずるいヤツ」のことを「タヌキ」と言うので、そう思ったらしいスマートフォンはそれを「カンニングパーソン」と訳した。
ある意味頭はいいが、オマエ察しろよ!
「ずるいヤツ」を「カンニング」というのを一個覚えた武田先生。
それにしてもその「ヤッホー」や「ゴーグル」はすごい。
ここを開いて質問すればなんでもわかるし。
世間話に関しては、もうとにかく芸能レポーターに聞く以上に文字として流れこんでくる。
びっくりする。
気になる人物だったんで「松居一代」と「ヤッホー」を押した。
まあ、人の過去を暴く。
「そんなことまで教えてくんなくていいよ」というところまで教えてくれる。
とにかく歴史小話に関してはこの「ヤフー」「グーグル」は司馬遼太郎さん以上に知っている。
だからAIはすごいな、と。
そんなことで、AI、人工知能というものが気になり始めて、本屋さんに行って手に入れた本。

AIが神になる日――シンギュラリティーが人類を救う



 AIとはアーティフィシャル・インテリジェンス(Artificial Intelligence)の略称で、日本語では「人工知能」と訳されることが多いようです。(2頁)

世界中のあらゆるところからたえざるデータを吸い上げ、そのデータを蓄えて、一回入れたら忘れないワケだから凄い。
膨大なビッグデータを持っていて。
そして最近のAIはもう、論理を操る。
ひらめき、意志、目的をもった戦略まで可能になり、人間の頭脳のすべてを代行、さらには拡大できる世界がもうすぐそこまで来ているという。
こんな時代になったら怖い。
人間を完璧に追い越して進化を遂げるというのが。
10年後にはもう、我々の仕事も全部AIが取って代わるみたいなのは言われている。

 そうなると、その先にあるのは何でしょうか? それがテクノロジカル・シンギュラリティー(Technological Singularity)という言葉で語られているものなのです。(この言葉は、日本語では「技術的特異点」と訳されていますが、少し違和感がありますね。「特異点に至った技術」と訳するほうがよいかもしれません。)(10頁)

この特異点を通過すると世界が変わるという。
AI自身がより優れたAIを自ら育てていく。
その改良が加速度的無限に近づきつつあり、人間の想像を超えるAIが間もなく完成する。
その一瞬を「技術的特異点」シンギュラリティーと言う。
そこを通過すると世界は一変する。
その一変は、人間が今まで有史、歴史の中で体験した出来事をすべて追い越す。
印刷機発明、産業革命等々の大変化以上の社会的変化がこのAIによって起きるという。
どこまで人間の社会が衝撃を変化するかというのは、もう想像ができない

 俗に「倍々ゲーム」という言葉がありますが、今年が1なら来年はその倍の2、再来年はさらにその倍の4、その次の年(三年目)は8にまで膨れ上がるということです。−中略−もしこれが、二年目以降は「幾何学級数的に、つまり、二乗二乗で効いてくる」となるとどうでしょうか? 四年目はまだ256ですが、五年目で6万5536、六年目になると42億9496万7296という恐ろしい数字になります。(17頁)

40年で完璧なAIが世界を支配する、という。
もう人間がとにかく一切追いつけない天才が登場するらしい。
中国のAIが中国共産党政府を嘲笑った。
笑っているワケだが、これは笑い話ではない。
今、政治家が一番恐れているのはAIに聞かれることではないか?
今の段階で結論を出す可能性がある。
聞いてみたい。
そのことで社会全体が影響を受けると、これは何か恐ろしい。
ゾッとする「AIが支配する世界」はもう来ている。
半分お爺さんである武田先生にとって駅の改札口といったら切符にハサミを入れる音。
カチカチカチカチカチ・・・

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ああいう人たち(切符にハサミを入れる駅員)が新宿駅なんかにずら〜っと並んでいた。
国鉄の人が。
それでいちいちチェックして、定期(券)なんかも一瞬にして見抜くという天才的に目のいい人たちがJR(国鉄)にいて「学生さん!学生さん!」って言いながら「(定期券の期限が)切れてる!切れてるよ!」とか言いながら。
そんな時代は数十年前、そこにあった。
野口五郎の『私鉄沿線』とか、もう、歌がどんどん通用しない。

私鉄沿線



「夜汽車に揺られて〜♪」とかと歌うが「汽車」なんて言ってもみなさん知らない。
観光地を走っている。
「今夜の夜汽車で旅立つ〜♪」「遠くで汽笛を聞きながら〜♪」なんて、もうその歌がわからない。
歌に出てくる文句が理解できない。
銀行に勤めていた武田先生の奥様。
例の大手の銀行員の作業着を着て、真っ赤な口紅で窓口に座っていた。
お金を数えるのが上手。
ウチワでも扇ぐようにして。
奥様は今でも上手い。
今、受け付けに居るか?
お金をちょっと降ろしたり振りこんだりはもう、ATMでやるという水谷譲。
この事実はいかんとも動き難きこと。
飛行機の切符も昔はドキドキしながらどこかの受け付けに買いに行った。
(今は対面で)買わない。
飛行機、電車、駅、スーパーのレジ、電話局、製造、建設工事現場。
そこで働いていた人々が全部消え失せた。
確実にAIが世界を乗っ取ろうとしている。

 デューク大学のデビッドソン博士は「いま小学校に入学した子どもの65%は、大学卒業時に現在は存在していない職業に就く」と予想します。となれば、子どもたちが「将来の夢」と称して、就きたい仕事を騙ることにどれほどの真実味があるのでしょうか。(『できない脳ほど自信過剰』230頁)

今ある仕事の65%は全部AIがやるという。
子供の可能性は無限だが、可能性の方は無限ではなくなる。
松本氏は「人間優位などはどこにもない」と。
「人間が絶対いいんだ」っていうような確証はもう、これからの時代、持てないだろうとこの本の著者、松本さんはおっしゃっている。

 極端な話をすれば、詩人(作詞家)だって危ないでしょう。
 これまでだと、作曲家は、良い作詞家に頼んで(場合によれば頼み込んで)、自分の作った曲の歌詞を作ってもらいましたが、これからは「こんなメッセージを含んだ、こんな感じの歌詞をつけてくれ」とAIに要求すると、AIは、求められた「情景」や「感情」を表現する言葉を選んで、色々に並べ替え、韻を踏ませ、起承転結を構成させ、数十通りの案を作って、実際に曲に合わせて歌います。
 ついでに言うなら、作曲家志望の若い人たちも安心はできません。いったん名を売った作曲家が、いくつもの新曲を量産することが可能になりそうだからです。
(45頁)

ヒット作品のすべてのデータを取り込み、ヒットの要素を探らせてAIに頼れば、メガヒットが狙える、と。
特異点を超えた時、AIの方が人間を簡単に抜けるのではないだろうかと。
だからAI、人工知能は未来の神になりうる。
それも遠い未来ではない、と。
十数年先にはその神はこの世に降臨する。
それはAIという名の神である。
何せ、今まであった出来事、情報量をすべて知っているワケだから。
これはやっぱり「神」としか言いようがない。
これはやっぱり驚くべきこと。
宗教、政治、倫理の面から、正義や愛、憎悪の感情、知性、理性、感情について人間と比較してもAIは何一つ人間に負けるところがない。
この間、水谷譲のラジオ番組でロバさん(吉田照美)が言っていた。
ちょうどこの本を三枚におろしている途中だったのでびっくりした。
AIがAI同士で交信し始めた。
人間の許可なく、あの国のAIと、この国のAIがこっそり連絡を取り合って会話している。
それでその二国間がどことは言えないが、そのAIを全部壊した。
これは本当かどうかわからないが、都市伝説っぽいところもある。
AIというのが自立の思考体になるのではないだろうか?

将来の「戦場」では、今後は間違いなくロボットが主力になるだろうということです。(31頁)

兵隊さんというものが戦場から姿を消して、AIロボットの戦いになるのではないだろうか、と。
そういう意味ではAIは神にもなるし悪魔にもなりうるというようなことをおっしゃっている。
映画の世界。
「アイルビーバック」みたいな、あんな人工知能ロボットみたいなのができるのだろう。

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AI戦争。
これが世界の戦争になるのではないか、と。
実に陰湿な情報戦が今、繰り広げられているが、これも全部AI。

アウンサンスーチーさんは「いい人」。
何か今、たくさんの人を苦しめていると言って「アウンサンスーチーさんってそんなにいい人じゃ無ぇ」というニュースが流れて、そのニュースに対してアウンサンスーチーさんが「フェイクニュース」と言ったという。

「ロヒンギャ問題はフェイクニュース」 ミャンマーのスー・チー氏が対応を正当化 - 産経ニュース

「フェイクニュース」はトランプさんの独占語だと思っていたが。
アウンサンスーチーさんまでもが同じ言葉を、という。
そんなことを考えると・・・
この裏側で働いているのがやっぱりAIらしい。
AIが偽情報を流すことによって敵がどう出るかを読み切って「揺らす」という。
もう人間に残されているのは、ほんのわずかな領域だけだ、ということ。
その人間に残されたほんのわずかな領域というのが「芸術」と「哲学」。
AIというのはいつも答えを持っているから「答えを必要としない」というものに対してAIというのはものすごく脆い一面もあるということ。
哲学においては、データを大量に持っていることはあまり意味がない。
また、超高速で解決する必要も全くない。
人は「意味」を求める。
意味の「意味」は一体何か?
それはおそらく「快」「不快」ということではないだろうか、と。
「意味がある」というのはとても気持ちがいいということで、「意味がない」ということは何か不愉快なことである、と。

松居一代さんにすごく興味があってスマートフォンで松居一代さんとか引いた武田先生。
恨み言を言う松居さんの顔がある。
あの顔と映画で活躍なさっている松居さんの顔が出るのだが、同一人物とは思えない。
AIも同じ人物だとは分からないのではないか?
AIも「違うんじゃないかなぁ…」とかと。
松居さんはちょっとお引きしたら日活の方で活躍なさっていたという。
ロマン(ポルノ)の方で活躍。
そういうデビューらしい。
その方と、あの船越(英一郎)さんを呪ってらっしゃる顔が一致しない。
あの若い頃の松居さんがこうなるというのはAIもわからなかったと思う。
でも「こうなるんじゃないか」とわかっていた人がいる。
船越さんのお父さん(船越英二)。
結婚にものすごく反対なさって「うまくいかない」とおっしゃっていたという。
そのことで松居さんは凄く怒られて位牌をあちこち持っていったりとかというような。
だが考えてみると船越さんのお父さんは「うまくいかない」とわかっていたわけだからAIより優れている。
だからAIの欠点は何かというと、日本に住んでいる女性全体の未来像は占える。
「モーテルを作ればいいんだ」とか、そんなことは占えるが、松居一代さんに関してはわからなかった。
これが惜しい。
全体はわかるが個人はほとんどわからないという。
これがAIの躓きで、(息子の方の)船越さんのためにはAIは役に立たない機械だった、という。
お父さんの方がちょっと当たっちゃったという。
AIよりも親御さんの方がやっぱり見る目はあるというか、自分も「親の言っていることはあの時、正しかった」と思うことが非常に多いから「やっぱり親は凄いな」と思う水谷譲。
「なぜお父さんはそれが見抜けたんだ」ということを考えましょう。
そこが実はAIが最も苦手とするいわゆる「哲学」なのではないか。
哲学とは一体何であるか?
「世界とは何?」「他人とは何?」「自分はここになぜいるの?」
「根源に向かって問う」ということ。
その根源への問いというのをAIはできない。
問わない。
「物事を問う」ということができないのがAI。

美羽ちゃん先生。
小松美羽さん。

小松美羽 −20代の軌跡− 2004-2014



神獣たち。
龍の絵を描く方。
「精子が龍に見える」というような。
あの美羽ちゃん先生の、小松美羽さんの世界はAIは理解できない。
美羽ちゃんの神獣、ケモノとかを見せるとAIは苦しむだろう。
そこが唯一AIに勝てるのではないかなぁというふうに思ったりする。
AIはこれからますます、間違いなく人間の社会の中に入ってくる。
凄まじいのは翻訳システムとしての活躍の度合い。
だからバイリンガルとか意味がなくなる。
教育システム。
これにもAIが入ってくるだろう。
病院の医療なんかにも中枢にAIが座るのだろう。
だから今まで世間を主導してきた人の姿というのはゆっくり姿を消していって、哲学、芸術、スポーツ。
そういう「右脳世界」そこに人間の生きるべき特質があるのだろう。

サスペンスですごく売れている岩木一麻さんの『ガン消滅の罠』というサスペンスの小説があったのだが、後味が悪い。

がん消滅の罠 完全寛解の謎 (宝島社文庫 「このミス」大賞シリーズ)



もう歯を喰いしばって読んだ武田先生。
「ガンが消滅する」というから「前向きな話かなぁ?」と思って。
「元気が出るといいな」と思って。
「ガンで悩んでらっしゃる方がいれば」と思って読んだが、気が滅入ってしまった。
これがすごい評判だが、何かものすごく悪魔的。
ちょっと気が滅入ったのであえてチャンスがある方は読んでみてください。
武田先生が気が滅入った理由がわかると思う。

この本(『AIが神になる日』)を読んでいて、もの凄い立派な方がこの本の推薦文を書いてらっしゃって、慶応大学の教授の方とか、明治の理工の教授なんかが松本さんの未来予測に関して「的中率は絶対に100%に近いはずだ」という。
(推薦文は夏野剛(慶應大学特別招聘教授)「AIの真髄を理解したい人、正しく理解すべき人、これらすべての人にとって必読の書。」高木友博(明治大学理工学部教授)「ここまで広範な分野を深く理解し、縦横無尽かつ明瞭に語れる人を私は過去に見たことがない。」なので、的中率の話が登場しないので、このあたりの内容がどこに書かれていたのかは不明)
でも松本さん、ごめんなさい。
読み終わった後、両手を合わせて「あなたの予測がはずれますように」と未来にお祈りした武田先生。
松本さんの本がショックだったので、ここから必死になってまた本屋を探して「この傷口を埋めたい」と思って見つけた本。

できない脳ほど自信過剰



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2018年08月05日

2018年5月28〜6月8日◆すげぇ年寄り(後編)

これの続きです。

武田先生が高校2〜3年生の時、ノダ君という同じ学年の友達がいた。
そいつが凄いことに12弦ギターというギターを買った。
それで「文化祭で歌を」と同じ組の中牟田俊男という同級生と三人で文化祭でフォークソング。
『天使のハンマー(If I Had a Hammer)』そういう歌を歌った。

天使のハンマー



何か気持ちよくて。
それで休みの日になるとノダが「練習しないか」と。
そのノダの家の近くの公民館を借りて歌を歌う。
公民館のその廊下側の窓を開け放つと一面の麦畑。
のどかなもの。
その麦畑を見ながらノダが中牟田と一緒に「これちょっとやてみよう」と言って加山雄三の新しい歌を弾き始めた。
もう、あの時に何か胸の奥で風が吹くというか、火がゆっくり立ち起こってくるというか。
あれは忘れない。
もう一面の麦畑を見ながら、自分が草原に立つ若者のような気がした。
この歌を夢中で歌った。

旅人よ



この歌を歌いながら、加山雄三に何か憧れた。
例の映画の若大将シリーズがスタートしていた。

若大将キャンパス DVD-BOX



その若大将はもう本当に我らもてない男の憧れの的だった。
その人に31か32歳の時に声をかけられて、番組で共演したりして。
夢のようだった。
ある日のこと、加山さんに叱られたことがある。
三十代の初めのこと。
とにかくスケジュールがギッチギチに詰め込まれる日々。
突然入る。
「明日明後日休みだよね?」「いや、入れました」とかって。
もうイライラしていた。
それでラジオ局、文化放送でバッタリレギュラーをやっている若大将とすれ違う。
そうしたら「オマエ、顔が貧しくなったぞ。光進丸にオマエを乗っけて時間を捨てに行こう」。
時間に追っかけまわされているので「時間を捨てる」という。
そして光進丸に乗って若大将はデッキで「鉄矢!」と言うから「はい!」と言ったら、緞帳がバーッと上がるみたいに陽が沈んだと思った瞬間から水平線から星が昇ってくる。
「この人は東経西経、緯度経度で遊んでる」という。
こっちが「角」でしか遊んでいない。
「新宿の○○丁の角、曲がった三件目に…」
加山雄三は・・・甲板で歌っているのだろう。
星空を恋の歌を。

青春スターの加山さん。
アイドルの側面がある。
例えば若大将シリーズ。
三十代の半ばぐらいまでずっと大学生の役をやってらした。
彼の人生の中でキラッと光る文芸大作がある。
そのNo.1がおそらく黒澤明監督の『赤ひげ』ではないか?

赤ひげ[東宝DVD名作セレクション]



三船敏郎がいわゆる「仁術」。
江戸期の貧しい人々に優しいお医者。
また三船敏郎がいい。
女性の春をひさぐ場所に行って性病に罹った女たちをかっさらってくる。
そうするとヤクザどもがこの赤ひげをバアッと取り囲む。
「何しやがんでぇ!その女置いてけ!俺らの商売道具だ!」と言うと「この女は私が預かる」「うるせぇ!やっちまえ!」とかってバアッとなる。
この三船敏郎がそのヤクザものの関節を外していく。
これが凄い。
アゴがずれる。
「ああ・・あああ」と言いながら。
それで十何人をやっつけた後、振り返って「イカン!こんなことをしてはイカンのだ!」と言いながら手当をしていく。
お医者さんだから。
「ここまで殴ることはないんだ」と言いながら。
それをその青年医の加山雄三がジイッと眺めているという。
そして医療とは何であるか、仁の心とは何であるかと学んでいくという。
二木てるみを預かって。
売春宿に売られた少女。
狐憑きみたいな顔になっちゃって、精神的な病。
それを加山雄三の若い医師が三船敏郎の赤ひげから託されて一人で治療にあたる。
ご飯を全然食べないので、さじを持って喰わせるのだが、パァン!と手で払う。
そうすると加山雄三が泣く。
「可哀想に…」と言いながら。
「本当はいい子なのに、みんなからいじめられてこんなになっちまって…」という。
その一言で二木てるみは心を開く。
懸命に面倒をみるが故に、どんどん加山雄三が痩せてゆく。
その女の子の治療にあたっている時にあまりにも心身を使いすぎるものだから、加山雄三が痩せていく。
その女の子がまっとうな魂に戻った時、加山が倒れる。
それで治療していた女の子がずっと面倒をみつづけるという。
この間の痩せていく加山雄三はすごい。
監督は黒澤明だから。
加山さんは食べる人。
「つらかったんじゃないですか?」と訊いたら「いや全然。俺はラッキーだったぜ!」。
痩せるために何をやっていたかといったら監督からもお許しが出たので毎日サーフィンをやっていた。
サーフィンはその時すごく大好きだったから、飯を喰わなくてもできた。
どんどん痩せていくし、撮影入る前にサーフィンをやって、終わってからもサーフィン。
「もう面白くて。やっててうまくなんだよ!」「あぁ…そうですか…」「すっげぇ楽しかったなぁ。あの撮影は」
「そうかい」という。
普通だったらちょっと話に重しを付ける。
「あの減量ほど厳しい減量はありませんでした…」「役作りの為に僕は…」とか精神性を前に出す。
加山さんは違う。
「すっげぇラッキーだった。撮影やってんのに毎日できるんだぜ?サーフィンが!」
この軽やかさ。
そういうのがもうなんともはや、加山さんは素敵。
それから『君といつまでも』を歌う若大将シリーズ。
加山さんが恋人(役)の星由里子に向かって「二人を〜♪」と歌う。
ところが映画は監督から「加山、オマエ恋人に歌いかけるラブソングを『今作った』と歌え」と言われて「二人を〜♪」と歌う。
途中から星さんが一緒に歌い出す。
その意味がわからずに監督に「今作った歌なんですけど、何で歌えるんですか?」と。
「何で星さん歌えるんですか?」と訊いたら監督が「いいから黙ってやれ!」と言われた。
「俺は納得いかないんだよ、そういうのが!」
そういう少年のムキになり方が・・・。

池内さんは「年寄り」というものを七十代後半から八十代と考えているようで、今話している話は六十代の方。
すこしピタリとこないところがあるかと思う。
ただ、池内さんの「体験年寄り日記」というのを読んでいると、思い当たる言葉、励まされる言葉がいくつもある。

 でも、老いてからの病は、一つの病を治せば全快するというケースが非常に少ない。一つ出てくれば、それは他の潜在的な病の前兆であって、一つ治すと次が出て、それを治しても、また次々と出てくる。
 六十年も七十年も八十年も使ってきた人体なんて、いたるところに故障があるのが当然で、調べれば必ず何か出ます。
−中略−
 僕はもう十年以上、検査は受けていません。血液検査だけはやってますけど、いわゆる大病院の、至れり尽くせりの、あらゆるものを検査するようなものは、もう必要ないかなっていう判断です。
(101頁)

あんまりにも人間ドックの結果に振り回されないほうがいい。
このあたりはやっぱり頷く。
そら、悪いところは出てくる。
よくなるということはない。
悪いところがない人もいない。

 樹木を見てもわかります。大木、老木、古木なんて言いますが、もう長い間、伸びていないんです。その代わり、ぼこんとコブが出来たり、空洞が出来たり、枝が半ば折れていびつになったり、妙に威張っていて近寄りがたい。−中略−
 ああいうのがやっとドッと倒れると、まわりから待ってましたとばかり若木がワッと出てきます。
(25〜26頁)

だけど花だけは若々しくありたい、と。
それが老いることの理想ではないでしょうか?
枝の中にはもう腐り始めているものもあるし、いつ折れるかわからない頼りない枝もある。
それも生きてきたキャリアの姿なんです。
一番大事なことは春が来れば新しい芽が出ているかどうか。
新しい枝が作れるかどうかに老いの価値がかかっている、と。
(ということは本には書いていない)
その新しい花、新しい枝ということで「老年オリンピック」と称して、4年に1度は自分に新しい企画を課すそうだ。
だから武田先生もやらないといけない。
英会話をやって絵を描き始めて、合気道をやり始めているみたいなことを威張っているが、もう合気道も4年だから、また何か新しいことを企画しないと、新しい枝とか新しい花が咲かせられない。
最近フッと思うが「もう一回大学へ行って勉強したい」とか。
それからテレビ番組で熱心に見ているワケではないが時々チャンネルを回している最中、その番組が映ってくると見てしまう番組に『プレバト!!』がある。
あれの俳句と絵画は見る。
特に俳句は自分でも作詞をやるからだが、あの女先生(夏井いつき)は言葉のセンスがうまい。
あの先生が添削をすると、全然変わったものになる。
たった五七五。
17文字しかないのだが、わずかに入れ替えるとか、助詞「てにをは」を切り替えるとか。
それだけで、あんなにこう、深々とした句が生まれるという。
あんなのを見ているとやってみたくなる。
先人の一句。
俳優の小沢昭一さん。
『昭一的こころ」(『小沢昭一の小沢昭一的こころ』TBSラジオ)という番組をやってらして。
もう名番組。
あの方が作った一句で、時々フッと口をついて出てくる名句。
 まだ尻を目で追う老いや荷風の忌
永井荷風という、ちょっとエロっぽい文学の得意な方の記念日があって、その日に老いたりといえど、まだ女性の尻をつい見てしまうという。
その老いの描き方の見事さ。
それからラーメン屋さんに行くと芸能人のサインがいっぱい並んでいる。
あの中で昔の落語家さんはチョッチョッチョッと絵を描く。
上手い人がいる。
ああいう、こう、チョッチョッチョッというのを。

加山さんと話していて、加山さんの何気ないがジンときた言葉。
「鉄矢、覚えておけよ。運命が性格を作るんじゃないぞ。性格が運命を作るんだ」
これはいい言葉。
みなさん噛みしめましょう。
「運命が性格を作るんじゃない。性格が運命を作るんだ」という。
前を向いてる加山さん。
だからどんどん明るい運命になっていく。
加山さんはずっと長い事トップスターであり、その栄光を歩いてきた。
そんなふうに武田が簡単に持ち上げると「何言ってるんだい鉄矢。俺だってすっごい苦労したんだ」という。
芸能以外で事業を手掛けて、ものすごい借金をしたり「お金がない」という日々だって女房には体験させて「本当に女房にすまないと思ってる」。
もうすべてをなくしてアメリカに逃げたことがある。
週刊誌からその手の話ばかり書かれて暗くなって。
その時に気持ちがどんどん塞いでいくんだけど「ダメだ、しっかり前だけ向こう!」と思って残りのお金で買ったのか借りたのか。
アメリカに着いてロスでハーレーダビッドソン。
免許を持っている。
それで女房に「カネないけどこれ買っちゃおう」「借りよう」とかと言って。
「これで大陸横断しよう」と「おまえと」。
それで奥さんを乗せてハーレーダビッドソンでアメリカ横断。
街まで毛布とか食料とか燃料だけ買いに行って。
「寝るぞ」と言ってコヨーテなんかが寄ってこないように火を焚いて。
女房と二人で缶詰を開けたりマッシュルームを焼いたりなんかして。
「頑張ろうな」なんてことを話しているうちに、フッとメロディが頭に浮かぶ。
それで持っていったのか、あるいは途中で有り金で買ったのかも知れない。
ギター一本だけ。
ポロンと弾いてできたのがこの歌。

夕陽は赤く



借金に追われてアメリカに逃亡したスター。
入口のところは暗いが、聞いているうちにだんだん明るくなる。
それで「鉄矢。オマエ言うけど、すっげぇ貧乏したんだぞ」と言って怒ったくせに「それでさ、その一曲作って横断し終わって日本に帰ってきて『何かねぇか?』て言われたからさ、ポロンとこれ弾いて。そしたら売れちゃってさー」。
この、どんなに暗い話を始めても、最後は全部明るくなって。
この話を(武田先生の)女房にするといつも言う。
「そこがあなた違うんだ」と。
「あなた、まっすぐ落ちるでしょ?」
加山さんは何か、ずり落ちながらも掴んで、それが立派な強いロープみたいなのを見つける。
「ロープをたどっていったらケーブルカーがあった」みたいな。
貧しくても話が豊か。

(加齢で)眠るのがどんどん下手になってしまう。
(病院の)睡眠科にあんなにお年寄りの方が並んでらっしゃる。
ところが、この池内さんははっきりおっしゃっている。
「あの少年の頃の眠りが戻ってくるわけがねぇ!」という。
(本にはそういう文章はない)
あれは一生に一回のところだ、と。
「ぐっすり朝まで一度も起きずに」なんて、そんなことはもうないんだ、と。

 眠りはそれぞれ、三十分か一時間でいいので、合算すると六時間ぐらい寝ていることになって、非常に体にはいいと思います。(163頁)

そういうのはやっぱりハッとする。
加山さんが話してくれた。
大型のクルーザーを手に入れて太平洋を横断したい。
その船には必ず女房を乗っけて、人生を二人で祝いたい、と。
サンフランシスコに入って行って、甲板にジャグジーをひいて。
二人でジャグジーに浸かってシャンパンで乾杯したいって。
カッコイイ〜!
すみません貧乏な方。
もう語る夢が豪華絢爛。
確かにカッコよすぎる若大将なのだが、でもやっぱりそんな人を目指そう!
何かあの、枯れていくことにあまり力点を置かず豪華絢爛。
そんな加山さんの老い方というのは一種理想ではないかなぁと。
このあたりで加山さんの豪華さを語りつつ、番組を落とそうかなぁと思っていた矢先のこと。
加山さんにお会いしたのは3月25日。
わずか六日後の4月1日。
何と、その豪華絢爛たる若大将の光進丸が船火事を起こしたという。
ショックなニュース。
加山雄三の光進丸が鎮火 火災は電気系統トラブルか - 芸能 : 日刊スポーツ
ちょうど沖縄に行かれていて。
今度は武田先生の代わりに一曲目は南こうせつに歌わせて、中途から加山さんが入ってくるという、あのパターンのコンサートをおやりの最中に、打ち上げの席で光進丸から失火。
「ただいま炎上中」という知らせが入る。
次の日に加山さんの姿がワイドショーで。
もう加山さんは落ち込んでいて、可哀相で可哀想で。
ただ、やっぱりこの人の気遣いはよかった。
この方は警察と消防署の関係者の方に「鎮火にあたって下さり、ありがとうございます」と深々と頭を下げた。
それで「つらいです」という。
加山さんはずっと両手を合わせている。
「あの光進丸には思い出が多いんですよ」と。
だからいつの間にか、両の手のひらが合掌の形になって、光進丸の冥福を祈っておられるという若大将の姿を見て切なくなった武田先生。
でも昨日(この番組上の前日)もお話しした通り、この方は絶望の話の入り口から明るい豪華絢爛たるエピソードを生み出す達人。

光進丸




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2018年5月28〜6月8日◆すげぇ年寄り(前編)

2018年3月25日に仕事があったので、三枚におろす筆を一旦休めて福岡に飛んだ武田先生。
福岡では、とあるコンサートが待っていた。
「その方」のコンサートなのだが、何と一曲目には出てこないで武田先生が出る。
せりから上がってきて、お客がってきり「あの人」だと思ったら、くるっと振り返ると武田先生。
それでも平気な方。
「いや、やっぱり一曲目は…」と言うが「やってくれよ」と言うからやった。
それで、武田先生が歌を歌っていると、その方が突然現れるという。
こっち側をお客さんが観ているものだから、真後ろからその人が手を振りながら。
会場は満杯。
福岡の一番大きい劇場。
三千人近い。
四段ある会館が満席。
もう、一階のセンターからその人がライトを浴びて出た瞬間(歓声が)「ウワーっ!」。
それで歌い出す。

蒼い星くず



加山雄三。
それはどこから見ても「スター」。
本当に申し訳ないが、お客さんと握手しながらというのは見た目にはいいが疲れる。
興奮したお客さんは自分の方に(手を)引く。
それを足腰に力を入れて踏ん張りながら・・・。
体力を使う。
○千人のお客が手を伸ばしてくるところを、あの若大将(加山雄三)は颯爽と歌いながら登場してくる。
そしてセンターステージに着いてピンスポットを浴びた若大将は観客にご挨拶をする。
武田先生は煙のうちに消えてしまう。
もう(主役の加山雄三が)出た瞬間に何の役にも立たないから。
出た瞬間には「あ、武田鉄矢!」となって最初は笑うが、加山さんが出たら本当に用なし。
それで、その一曲を歌い終わった若大将のトークの第一声。
場内が割れんばかりの喝采の中、加山さんは観客に向かって話しかける。
「加山雄三です。どうですみなさん。若いでしょう?どう見たってボク、81歳には見えないでしょう?どう見ても80歳ですよね」
三千(人)のお客が「うわーっ」と笑う。
そして「よぉし、大丈夫だな、みんな!しっかりヒアルロン酸飲んでるな!」と言いながら二曲目に入る。
それを舞台袖からスタッフと観ながら。
加山さんのスタッフも今、すごく若い。
もう二十代、三十代前半の子ばかり。
その若い人たちに交じって、二曲目を歌う若大将をボーッと観ているうちに「長い付き合いになったなぁ」とか「なんてスゲェ年寄りだ」。
「あ!『スゲェ年寄り』?」ということで、池内紀(いけうちおさむ)さんの『すごいトシヨリ』と重ね合わせて、スゲェ年寄り加山雄三を語っていけば、肉厚に三枚におろせるのではないかと思った武田先生。

すごいトシヨリBOOK トシをとると楽しみがふえる



 老いるのは人間だけではありません。山も老いるし、星も年を取る。川も老いるし、建物だって老いる。(24頁)

それに年齢によって好みが変わる。
好みの街角。
すべてにおいて好みが変わってきたと感じる水谷譲。
昔は「こんなのあんまり」というのが今は好きになったりすることがある。
駅の降りる場所とか。
そういう「老いる」ということについての一種「思い」。

しきりに「老いても私はなお盛んである」と話す人がいたら病気だと思ってください。
「老いも病だと考えていいんじゃないですか?」とおっしゃっている。
(本の中にはそれらしいことも書かれているが、そのものズバリな感じの表記は見つからず)
何かいくつか褒められて「それが自分の個性だ」「それが才能だ」と思っている人がいるかも知れないが、十中八九その方はずれている。
「老いる」ということは、もうすでに賞味期限が切れつつあるわけだから。
「賞味期限切れ」という自分について自覚した方がいいのだ、と。
「豊かな老い」「心配のない老い」「大往生」「終活のすすめ」
そんなのがラジオやテレビから流れてきたら、まずは耳をふさげ、と。
どうせいいことは一つも言わんのだ、と。
「○○をやれば豊かな老後が送れる」とか「○○さえあれば豊かなんだ」とかっていう「老いに何かをプラスすることで老いが克服できる」という、そういう論法そのものがもうおかしい、と。
断捨離とか終活とかエンディングノートが流行ってみなさんやってらっしゃるという水谷譲。
終活に入った途端、老後は長くなる。
歌手の中にもやっぱりいる。
生前葬コンサートをやって、ずっとやり続けてゼイゼイ言っている方。
「疲れたぁ!」とおっしゃっているが。
なかなか自分のエンディングを演出するというのは難しい。
武田先生も自分で肝に銘じているが、自分の人生に幕を降ろすのは自分ではない。
熊本の義理の母が言った言葉。
それは「おまかせ」。
熊本の義理の母が武田先生の母親を「徳があるから、スッとあの世に行けた」と言う。
義理の母のグチを聞くと切なくなることがあって「親孝行しますから!」と言うことがあるが、とにかくラストは演出できない。
それは他の何者かに任せよう。
だって、生まれてきた時が、生まれてこようと思ってでてきたワケではない。
あんまり若い方が同情してくれるからと甘えていると、本当に哀れな老人になってしまう。
この池内さんの気骨溢れる文章というのは何かというと「自分の老いは自分の手で磨くしかないんだ」。
(このあたりの話も本には見つからず)
老人を作っているのは周りである、と。
老いというものを自分で磨いて、自分だけの老いというものを探しましょう、と。
これはやっぱりかなりギクッとする。

まもなく81歳の誕生日を迎えるという加山雄三さん。
福岡でのコンサートで、武田先生に出囃子だけやらせておいて、途中から自分がスポッといいとこ、センターマイクに立った。
そこから二時間半。
若大将はその前もステージがあって、張り切ってやっちゃっているものだから声がガラガラ。
でも一言も言わない。
普通は言う。
「喉の調子が本調子じゃなくてごめんなさいね。でも精一杯…」と。
並みの歌手でも、自分の頑張りを強調する。
「命をかけてこの世に…ゲホゲホ…」とかって気取る。
もう加山さんは声が枯れている。
それでも一個も言い訳をしない。
かすれた声で加山雄三が歌う『海』。
泣けてくる。

海 その愛



福岡でやった3月25日の加山さんのコンサート。
その時に加山さんは当日入り。
武田先生たちは前日から入って二曲しか歌わない。
でないときつい。
加山さんは当日入りで1時に福岡着。
それで会館に着くと、その足でまっすぐステージ、音リハ。
1時に着いて2時からリハーサルで4時から本番。
その4時から短い休憩も挟んで2時間半。
終わったのが7時半ぐらい。
驚くなかれ、8時15分の飛行機で東京帰り。
そして一週間もおかずに沖縄でのコンサート。
そのシリーズのファイナルをやるという。

老いは病ではない。
しかし病と同じように名付けた方がよい場合がある、と。

 老いの初期段階では、人の名前や固有名詞が浮かんでこない「失名症」や、人と話していると急に話を横から取っちゃって自分の話に持っていく「横取り症」が現われます。
 それから、「同一志向症」。これは例えば、自分のメガネをテレビの横に置いていて、家の人が掃除の時に動かしたとします。そうすると、「俺のメガネを勝手に動かすなよ」なんて言う。
(58頁)

(番組の中ではこの「同一志向症」は相手に共感を求めるような話になっているが本によると違う)

 ようするに、自分が決めたものが決まった所にないと承知できない。−中略−
 それと似たものに、「整理整頓症」があります。
−中略−
 それから、急がなくてもいいのにせかせか焦るのが「せかせか症」。
−中略−
 食事もせかせかして、誤嚥をする。食べ物が気管に入ってしまう。ゆっくり食べればなんてことはないのに、お餅を丸呑みして、大騒ぎになる。
 また、自分の昔話をする時の「過去すり替え症」も、このカテゴリーに入ります。
(58〜61頁)

これが老いの初期症状。
あれは病だと思ってあげてください。
可哀想に。
そして病態がさらに進むと老いの「カテゴリ2」。

年齢執着症・ベラベラ症・失語症・指図分裂症・過去捏造症・記憶脱落症(61頁)

老いが進むと、やたらと年齢に執着するようになります。聞かれてもいないのに、「いや、俺もね、いい年になってね」とか、「あなた、幾つ?」とか言い始める。これが「年齢執着症」。(61〜62頁)

「失名症」は「失語症」に進行します。「昨日食べた、あの……」って、普通名詞が出てこなくなる。ごくふつうの、日常のものなり言葉が出てこなくなります。(62頁)

とにかく人の話を聞かず「アレアレ」と言いながらやたらに指図し、座の中央、一座の中心人物になりたがる。
やがて他人の体験を自分のものにしたり、その時、自分がそれをどこで見ていたのかを思い出せない。
さらに進む(カテゴリ1)と自分のミス、失敗、他人への迷惑、否定的、苦境などネガティブ体験を忘れて、当人だけが幸せな状態になるという。
とにかくざっとまとめると、老いがさらに進むと聞く力がなくなる。

池内氏はドキッとする一言を言う。
「人に寄りかかるからこうなってしまうんだ」と。
「自立しろ」と。
最近マネージャーにカバンを持ってもらうことが多い武田先生。
ずっと心が痛んでいる。
若いときには、結構ムキになっていたが、最近は持ってもらう楽に慣れてしまう。
それから願望だが、自立の意味では料理ができるジイサンになりたいと思う武田先生。
今は奥さんに「面倒臭い」と怒られてしまうから。
横から手出しをすると「違う!そうじゃないの!」と怒られる。
この間も喧嘩になった。
旅番組で京都の湯葉の特集をやっていた。
「あー湯葉か」と思って「見事じゃないかよ、この京都の湯葉職人は」と言ったら奥様が突然話の方向が変わって「食べちゃダメよ、あなた。湯葉」と。
「何で?」
「タンパク質が多すぎる」
「だって植物性だよ?」
「関係ないの!動物も植物も!」と言われると湯葉を喰いながら死んでやろうかと思った武田先生。

 群れるのをやめて一人ひとりが過去を背負い、一人ひとりが自分の老いを迎えるのが本来であって、群れて、集まって、はしゃいで、というのは老いの尊厳に対する侮蔑ではないか。(37頁)

「ジジイで味わいがあるのは、一人のジジイだ」と言う。
それと、この方はやっぱり凄くはっきりおっしゃる。
「夫婦で、ジジイババアになって旅行すんな」と。

 以前、ある公共の宿に取材で泊まったのですが、食堂に入った途端、「ここ、介護施設かな?」と思いました。広い食堂いっぱいに、年を取った夫婦が並んで座っていて、シーンとしているわけです。どの夫婦も、ただ、黙々と食べている。(114頁)

旅館に行っても、バアサンが風呂から出てくるのをジーッとジイサンが表の暖簾で待っているなんていうのは「お部屋を忘れたんですか?」とかと、つい声をかけたくなる。

 ひと組だけ華やかなのがいて、「あれは、ワケありだよ」って僕はピンときた。他人だからあんなに華やいでいるわけで、あとはみんな夫婦。(114頁)

この人は生々しいヤツをご覧になったのだろう。
だからこの池内さんがおっしゃっているのは「ぬれ落ち葉みたいにくっつかないで、お互いに離れて歩け」と。

「夕方の何時頃までに宿に入る」ということだけ決めておいて別々のルートで出発すれば、お互い途中でいろいろな出来事があるでしょうから、夕食の話題になります。(114頁)

「オマエは山桜見たいんだったらば、山桜のとこ通るバスがあるから、俺は車ゆっくり走らせるから、下の川岸の方、見てくるわ」と言いながら、晩飯の時に両者が見た桜の色模様でも語れば、まだ話題があるが。
くっついているものだから、話すことも何もないというような。
これはやっぱりドキッとする。

君といつまでも



加山さんに声をかけてもらって40年になる武田先生。
とにかく加山雄三は憧れの人だった。
何で憧れか?
個人的な理由がある。
生年月日が一緒。
4月11日。
それで当然だが星座が一緒で干支が一緒。
丑年。
ということは(干支が)一回り上の兄貴。
そのことを加山さんが知っていて「オマエは腹違いの弟だ」と言って可愛がって下さる。
81歳の若大将はその3月25日のステージでも『君といつまでも』を歌ってらっしゃった。
武田先生が『君といつまでも』を聞いたのは十代の時。
三十代になったばかりの時に加山さんと知り合って、加山さんのステージに呼ばれて。
加山さんが『君といつまでも』を歌う姿を舞台袖とかバックステージ、後ろの椅子で見たり聞いたりしていた。
武田先生が40歳で、加山さんが50歳ぐらいになられた時に、またステージに呼ばれて、加山さんは『君といつまでも』を歌う。
その時になんとなく「加山さんて飽きないのかなぁ?」と思った。
だって20年ぐらい同じ歌を歌っているワケだから。
「同じ歌をずっと歌い続けると飽きちゃうんだろうなぁ」と思っていた。
でも、自分も同じ30歳で作った歌を60歳になっても「贈る〜言葉〜♪」で歌っている。

贈る言葉



フッと加山さんの心情を疑ったことがある。
今度また80歳になられた加山さんの歌を聞くと、いい。
それがいかに幸せなことであるか。
そしてそれがいかに凄いことであるか。
30歳で歌っていた歌を80歳で歌うというのは「その人の本当の力なんだなぁ」と思ったりした。

『すごいトシヨリ』をお書きの池内氏がおっしゃっているが「とにかく、なんでもいいから老いは楽しみを見つけなさい」と。

ワインっていうのは、ラベルがものすごくきれいなんです。ワインレコーダーという、ラベルをはがすシールがあって、それを使って、自分が飲んだワインのラベルをコレクションしています。(130頁)

そして「少し勉強して詳しくなろう」と。
(とは本には書いていないが)

 ラベルには、「どこで、いつとれて、どこで詰め合わせをして、どういう等級で、どういうテロワール(土壌)で、どういう人が作っていて」という、いろんな情報が書いてあるので、自分が飲んだワインについて、これを見るとおおかたわかります。(131頁)

こんなふうにしてワインレコーダーとしていろんなものを集めていくうちに詳しくなるという。
で、ヒョイと裏っ側を見て「あー」とかっていう、その姿は絵になりますぜ?と。
それから、まったく違う発見もする、と。
池内さんの発見。

「フランスは八割ちかくも原発でまかなっている」というのは、いつも日本の原発の言い訳に使われますが、その構造がまったく違うんですね。
 こういうことも、「あれ、なぜラベルの地名と原発の地名が同じなんだ?」って気づいたから。ボルドーとか、有名な産地はいくつかありますけれど、おおかた、原発の所在地でもあります。
(133〜134)

川沿いの斜面、海に近い潮風の荒れ地等々が、原発を建てるのにはもってこいなんだけれども、ワイン生産地としてもすごく大事な条件。
だからワイン作りのベルトというのは原発のベルトと重なっている。
池内さんがおっしゃるのは「福島あたりも一面のブドウ園にするといいのかもしれない。海に近いし」。
(このあたりの話の流れは本とは異なるが)
そうしたらもうワイン作りを始めた人がいる。
ボルドーに負けたくないということで。
福島浪江とか、あのあたりは気候風土が非常に近く、海にも近い。
荒れ地で栄養分が少ないから、逆にワイン作りにはもってこいという。
福島の浜通り辺りではそのへんの事情を加味して今「いつか必ず最高のワインを作ろう」という農業関係者が頑張っていらっしゃるそうだ。
池内さん曰く「飲みたいですなぁ」と。
(とは本には書いていない)
「ラベルレコーダーとして、そこのラベル貼りたいですなぁ」とおっしゃっている。
(とは本には書いていない)

若大将に聞いたことがある武田先生。
若大将はいつも歌ってらっしゃるから「若大将、すげぇ根性ですね」。
80歳過ぎてらっしゃるのにまだ歌うという。
そのステージへの執念、ファイト、すごい。
これを若大将曰く「ああ、ずいぶん長いこと続いてるなー。なぁ、鉄矢。なんで続くかわかるか?」
「いや、それはね、若大将の執念ですよ」
若大将曰く、歌はなぜ続いているか。
「遊びだからよ」
「執念」とか「この道一筋」とか絶対にこの人は言わない。
「いいか、鉄矢。何かを真剣に続けようとしたら、絶対仕事にするな。仕事にすると続かないぞ。遊びだとずーっと続くんだ。歌は俺にとって遊びなんだ。今まで苦しいと思ったことは一回もない」
これは何かガクッとくる。
日本人は力む。
生きてきた道を「マイウェイ」にしたがる。
でも違う。
若大将は遠くまでトンボを追いかけていく少年のような心で、素敵なメロディを追いかけている。
「その心なくんば遠くまで人間は歩けない」という。
このあたりが若大将の魅力。

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2018年06月01日

2017年11月13〜24日◆世界からバナナが無くなる前に(後編)

これの続きです。

(番組冒頭の小説を読まない話やドラマの話は割愛)

「農業テロ」といっても「農作物が枯れるだけじゃん」と今、お思いだろう。
ゆっくりこれからこの話を広げていく。
アマゾンの熱帯雨林。
そこに広がっていたカカオのプランテーション。
それが木を切り倒されたおかげで、砲撃を受けたような穴だらけの部分ができてきた。
この時にブラジル農協の方が考えたのは「テロだ!」と。
人がロープで結んでいる以上は。
「犯人は誰だ!」ということ。

考えられる説の一つは、ブラジル産以外のほとんどのカカオを栽培しているコートジボアール、ガーナ、マレーシアに住む誰かが、自国のカカオ生産を有利に導くために、ブラジルのカカオ生産の壊滅をもくろんだというものである。(110頁)

事実として第二次世界大戦中、戦争を行った国々は全部、実はこの農業テロの病原体の研究をしている。
ナチス、アメリカ、ソ連、日本。
この軍部は農業テロの研究をしていた。
毒ガス等々のことを言う方がいらっしゃるが、農業テロの方が被害がデカい。
あのアイルランドから100万人以上の餓死者を作り出すことが、たった二年でできる。
凄まじい被害が農業テロでは可能。
だからミサイルなんか研究している国は火を点けるのがわかるのだから、農業テロは怖い。
そうやって考えると、ちょっとやっぱり世界の見方も変わってくる。

ブラジル農協は必死になってこの犯人捜しも懸命にやったという。
しかしカカオの苗が高騰し、農民の中から農協を疑う声も上がった。
すごい、もう疑心暗鬼。
何で農協を疑うか?
カカオの病気をした木を始末した後「新しいカカオで、何とかもう一回頑張ろう」と思う人がいるとする。
農協に「カカオの苗を売ってくれ」というと五倍以上する。
もう病気で無いから。
ジャガイモが無くなったのと同じ。
種イモが無いワケだ。
それで「農協が農民にカカオの苗を高く売るために病気を広めたんじゃないか」というので、この手のことは内部で疑心暗鬼になる。
この著者がいいことを書いている。
農業テロのようないわゆる「農作物をダメにする」ということは「人間の性根まで腐らせる」という。
(この記述は本の中に発見できず)

バイーア州には六五万ヘクタールのカカオ園があったが、一九九二年には四〇万ヘクタールのみが残り、残った土地でも、かつてほど多くのチョコレートを生産することはできなかった。天狗巣病は根絶されず、完全な回復を図ることができなかったために、生産高は七五パーセント低下する。(114頁)

ブラジルは世界第二位のチョコレート生産国であった。それからたった四年後には、チョコレートの純輸入国になっていた(115頁)

何せ何にも足取りも証拠もつかめないわけだから、犯人捜しはほぼ絶望的。
今ならカメラか何かで撮っているから「犯人が」とか言うが、何十万ヘクタールの広さのあるエリアで、そういうカメラを置くのも無理。
ところが犯人がわかる。

 その後一〇年以上が経過してから、驚くべき答えが得られた。二〇〇六年になって、バイーア州のカカオ危機の関係者が誰も知らない一人の男が、ある告白をした。ジャーナリストのポリカルポ・ジュニオールが行ない、大衆誌『Veja』に掲載された四つのインタビューのうちの一つで、この男は、「私、ルイス・エンリケ・フランコ・ティモテオは、バイーア州への天狗巣病の植えつけに関係した一人です」と述べた。−中略−ティモテオは、最初の感染が発生する二年前の一九八七年、イタブナ〔バイーア州の都市〕のバーで飲んでいた。そこで五人の男−中略−と会う。−中略−彼らは−中略−カカオ産業を破壊することで、農園主の経済的、政治的権力を打破しようと画策していたのだ。−中略−地域の産業を破壊するのではない。人民のために、農園主の手から経済的な権力を奪取するのだ。そう考えたのである。この計画には「南十字星作戦(Cruzeiro do sul)」という名前さえつけられた。(115〜116頁)

 六人の男たちのうち、アマゾン地方についてもっとも知悉していたティモテオは、アマゾンを旅して計画に用いる天狗巣病菌を集めた。五〇時間以上バスに揺られて−中略−天狗巣病に感染した枝を集め、袋に隠してバイーア州まで持ち帰ったのである。−中略−こうして彼は、バイーア州とアマゾン地方を何回か往復することで、合計しておよそ二五〇〜三〇〇本の感染した枝を運んだのである。
 ティモテオがバイーア州に戻ってくると、六人は、CEPLACのロゴが描かれた車に感染した枝を積んで
−中略−沿道の木に感染した枝をロープで結わえていった。(116〜117頁)

(番組ではティモテオが主犯格と言っているが、すでに5人の男が犯行を企てており、ティモテオは6人目として加わった)
現実に犯人の仲間たちはその後、市長や農協関係者になっている。
政治的逆転というのは本当に怖い。
彼らのテロは大成功した。
ブラジル農協から憎きヤツを全部叩きき出して、自分たちが農協のトップに収まった。
ある意味ではよかった。
「テロ成功!」というワケだ。
ところが、何で自白したか?
ブラジル農協が潰れてしまった。
そこの組織の偉いさんになりたかったが、そこの組織そのものがカカオの不作で潰れてしまう。
それでちっとも美味しくなくて、ヤケになって喋っちゃった。
(本によるとそういう話ではないが)

そのせいで二五万人が職を失った。プランテーションの雇用者とその家族を含め、一〇〇万人近くが、都市へ移住した。(118頁)

6人は逮捕されたが、裁判では証拠不十分で無罪放免。
残った事実は何か?
世界第二位の稼いでた商品をブラジルが失くし、さらに苦しい貧困に陥ったという。
テロをやろうという方、よーく考えといてください。
これがテロの報い。

テロリストの人たちが農業の方に向かないように祈るばかりだと思ったが、でも日本でも鳥インフルエンザ等々があった。
あの時に鳥インフルエンザとか狂牛病等々が襲った村町をコンサートで流した武田先生。
その関係者の顔つきは、そういう顔つきだった。
鳥インフルエンザの時、もう町の名前を言うのをやめるが、県境で「そういや、何か月か前からか、○○国からの観光客が妙に増えたけん・・・」と。
それを言うと・・・。
それと渡り鳥に菌を・・・。

イムジン河



『イムジン河』の歌詞ではないが「水鳥自由に飛び交い群れ」と言っている場合じゃない。
その水鳥が大変な・・・。
決してそこの国の方を疑っているワケではないが、農業テロの恐ろしさは「そういう目」になってしまうということ。

後日談。
ブラジルはこれでカカオがすっかりダメになった。
急激にカカオ生産で名前を上げたのはガーナ。
ブラジルから西アフリカ。
アフリカにカカオ生産の主力基地は移った。
ここではまずはっきり言えるのは天狗巣病がまだ侵入していない。
そしてもう一つある。
ここが農業の面白いところ。
日本なんかも怖い。
確かに鳥インフルエンザも狂牛病も怖い。
色々ある。
だけど一番心配なのは中国。
アメリカも怖い。
耕作面積が広すぎる。
日本でこの手の心配がちょっと安心できるのは、スケールが小さいから管理が届く。
今、西アフリカでカカオが世界でNo.1になっているのは耕作面積が小さい。
小規模栽培。
だから天狗巣病が発生しても、いわゆる何坪かを抑えれば防げる。
発見まで二日も三日もかかるような広大なプランテーション農園という所が一番怖い。
今、カカオ生産が西アフリカでバーッと伸びているのは、この耕作面積の狭さ。
このへんが面白い。
プランテーションのような巨大さはなく、零細であるがゆえに、カカオの病が出れば、その飛散は小さい規模で食い止めることができる。
だからデカい農業生産をやっているところは、皆この農業テロの危険性がある。
そうやって考えるとロシア、中国、アメリカ気を付けて。
特に中国。
軍事費にお金を使っている場合ではない。

 アフリカに移植された当初、カカオはアメリカ大陸では知られていなかった難題につきまとわれた。その一つは、カカオの木の葉が赤くなり、若芽が腫れる枝腫病であった。この病気にかかると、やがて木は死ぬ。(123頁)

病原菌はアリによって拡大する。
今年(2017年)の日本の夏。
ヒアリ。
つまりその手のアリが世界中に横行する時代に突入している。

熱帯雨林の木陰に造成されたカカオプランテーションならどこでも、一〇〇種を超えるアリが見つかるはずだ。それらのアリの多くは、まだ名前がつけられていない。(126頁)

生態なんか全然わかっていないアリが。
この枝腐れ病を広げるアフリカのアリというのは地面ではなくて、木のてっぺんに住んでいる。

 熱帯雨林の樹冠に生息するアリには、羊飼いがヒツジの面倒を見るようにコナカイガラムシの面倒を見、それに依存して生きている種がある。(127頁)

このアリたちは名前も付いていないが地面ではなく木のてっぺんに住む。
このアリたちが害虫のコナカイガラムシと共生するということ。
一緒に生きていく。
このアリはコナカイガラムシを飼育する。

コナカイガラムシは樹液を吸って生きているが、−中略−余った糖分を排泄する必要がある。これはアリにとってはマナ、すなわち栄養満点の甘いミルクだ−中略−アリは排泄された糖分を摂取するだけでなく、糖分の供給を独占するためにコナカイガラムシの面倒も見る。コナカイガラムシの群れのうえに、雨や寄生虫や捕食者(さらには殺虫剤)から守るための小さなテントを張るのだ。(127頁)

(番組ではアリがコナカイガラムシに「カカオの葉っぱを喰わせる」と言っているが、本の内容はそうではない)

西アフリカで栽培されているカカオの木だけでも、アリが面倒を見るコナカイガラムシが二〇種以上見つかっている。(128頁)

その葉っぱは喰われ、カカオの実も喰われる。
このカカオの実を砕く時のアリのツバ、唾液に枝腐病の菌が住んでいるという。
これはどうしようもない。
(このあたりは本の内容とは違っている)
このアリが住む場所、このアリが虫を飼っている場所が木のてっぺん。
農薬が届かない。
ヘリコプターを雇って上から撒くと経費がかかりすぎる。
それでもう、どうしようもないということ。
これは一旦広まると、だからもう切り倒すしかない。
ところが『奇跡のリンゴ』の木村さんみたいな人がいる。

 早くからハリー・エバンスらは、木を救うためにアリ同士の戦争を利用する可能性を示唆していた。カカオの樹冠を支配するアリの種のほとんどは、カカオの天敵であるように思われるかもしれないが、ツムギアリと−中略−天敵ではなく、カカオの木に非常に有益な働きをする。有害なコナカイガラムシの種を保護したりはせずCSSVや疫病菌を拡散することがない。さらにはカカオの木を蝕む害虫を食べ、他のアリと積極的に戦う。これらのアリを用いたほかのアリのコントロールは、これまで長く実践されてきた。(130頁)

このハリー・エバンスさんは何と、アフリカのジャングルにこのツムギアリを放った。
今のところまだ結果は出ていない。
(ハリー・エバンスがツムギアリを放ったという話は本には出てこない。番組では「エバンズ」と発音しているが、本によると「エバンス」)
作物を守るための方法としては、彼は「絶対に自然に従うべき」と考えているそうで、農薬を使うというのは、そんなことをやっちゃいけない。
(このあたりの話も本の中には発見できず)
農薬も高いし農業が成立しない。
零細農業だから。
まだ未知なのだが、うまくいきそうな様子だそうだ。
だから「虫を退治するのは虫」という、この発想が抜群。
ツムギアリの他、コナカイガラムシを養うアリに寄生して体と免疫系を乗っ取る「ゾンビ菌類」の研究も始まった。
自然界にいっぱいある。
「腸」のところで話した。
このあたりの話かと思われる)
コナカイガラムシを養うアリという種類に特化して、小さな虫が寄生して脳を侵す。
脳を侵しておいて外側から「ライダーロボット!」みたいな感じで操作する。
そういうヤツがいて、乗っ取らせておいて、こっち側に持ってくるという方法を考えれば、自然界に沿って退治できるのではないだろうか、という。
これも自然界にある出来事で。
食物連鎖というものは実に細やかで、操る虫がいると、その虫を操る虫というのもいるという。
これは面白い。
そのうちに別個の女性が凄いことを発見した。

 ヒューズと研究を行なっていた学生ミーガン・ウィルカーソンは、非常に安価な方法でカカオ病原体のコントロールを試みようとしていた。彼女は、アリがコナカイガラムシのために作った小さなテントを、石鹸水を使ってこじ開けたのである。石鹸水はテントを破壊し、何匹かのコナカイガラムシを殺した。(132頁)

これが世紀の大発見。
それで「西アフリカの農業にもこれは使える」ということで。
ツムギアリと石鹸水。
この二つで今、カカオを守るという方策が成功しつつあるという。
『奇跡のリンゴ』の時に木村さんがリンゴに寄ってくる害虫をやっつけるために、酢とかお醤油とか何でもかける。
あれはやってみる価値があること。
とりあえず危険じゃないもので一回試してみるというのは。

虫が付く。
その虫をどうやって駆除していくか。
我々は、いとも簡単に「害虫」とかっていう呼び方をするが、そう一概には言えない。
木村さんが昔、お話しした時にいいことを言っていた。
リンゴに虫が付く。
だけどそのリンゴの葉っぱを喰うという害虫は葉っぱを喰うから顔つきが優しい。
それで、その葉っぱを喰う虫を喰う天敵「益虫」というのがいる。
ガラが悪い。
その木村さんのたとえが抜群にわかった武田先生。
虫と虫の関係は複雑。
そのよい例。

カカオと同じく、コーヒーはさまざまな脅威に直面している。その一つは、コーヒーの種子に穴をあける甲虫、コーヒーノミキクイムシである。−中略−一九世紀のセイロンで、コーヒー園を破壊したものと同じさび菌も脅威を与えている。(132〜133頁)

カカオとコーヒーの違い。
例えばコーヒーは最初から名前が付いている。
グアテマラ、コロンビア。
生産地に名前がそのまま付く。
コーヒーは大農園よりも中小の零細農園がコーヒーを支えている。
そっちの方が病害虫が広がりにくい。
大プランテーションにすると一発でコーヒーは滅びる可能性がある。
そうやって聞くと小さいスケールは意外と大事。
(本には公的な資金援助を受けた研究が一因などという記述しか発見できず)
ここからがまた面白い。

 ラテンアメリカの、特に木陰でコーヒーが育てられている場所では、アリはコーヒーの木のうえでコナカイガラムシの面倒を見ている。しかしここからのストーリーは、カカオの場合と異なる。コーヒーの木ではコナカイガラムシは菌類病原体に感染する。この奇妙な病原体は、コーヒーさび病菌にも寄生する。コナカイガラムシがたくさんいる場所には、この菌類病原体も豊富に存在し、その結果、それに感染してコーヒーさび病菌は減少する。(134頁)

だから多少被害は出るが、コナカイガラムシを全滅させるとコーヒーさび病が発生する。
だからコーヒーの場合はコナカイガラムシをゼロにせずに一定の被害が出ることを儲けに入れておいて全滅させずに飼いつづける。
まるでワクチン。
ワクチンを打った木のように収穫分のコーヒーが計算できる。
このへんは面白い。

 生物と他の生物が行なっている自然な相互作用を作物(と私たち)に有利な方向に変えるために作物の自然史や生態を研究する学問は、ときにアグロエコロジーと呼ばれる。(134頁)

今、もの凄い重大な学問として世界中の注目を浴びているらしい。
そんなことを考えると木村さんは先駆の人だったのだ。
ちょっとの犠牲は払っても「バランス」だという。
全部正義の主張をしない。
ちょっと悪いところを含む。
そのことによって社会全体がをしなやかさを持つ、タフさを持つ。
何か「排除しない」て大事。
いろんなことに繋がる。
このアグロエコロジーは日本なんかは大得意だと思う。
普通に市井に木村さんみたいな直感でこの道をたどり着いた人がいて、巨大ではない、プランテーションではない、零細であるということが農業を守る重大なヒントになっているというのは、何か我ら小さく弱い者を励ましてくれる。

ヨーロッパのとある国では、世界中の原種の種を氷河の底に貯蓄している。
冷凍保存できるように。
トウモロコシだって本当は種類が山ほどある。
それが一種類になることの危険さを知っているヨーロッパの進んだ国では、世界中のトウモロコシの種を冷凍保存で貯蓄している。
今、急速にかつての人々の食べた種が減りつつある。
それをキープしようという運動があって、氷河の中に種を蓄え続けている国があるらしい。

posted by ひと at 17:13| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月13〜24日◆世界からバナナが無くなる前に(前編)

世界からバナナがなくなるまえに: 食糧危機に立ち向かう科学者たち



「今、現代の文明というのはこういうことが起こりうるぞ」という警告の書。
バナナ。
ありふれた果物だが、これが突然、世界の食卓から消えるという危険性が今、あるという。

 一万三〇〇〇年前、私たちの祖先は皆、一週間のうちに数百種の植物や動物を消費していた。(7頁)

しかし、わずか三千年ほど前にその種類が減った。
なぜ減ったか?

 農業が拡大するにつれ、消費される食物の多様性は世界全体を通じて低下していった。(7頁)

人類が消費しているカロリーの八〇パーセントは一二種、九〇パーセントは一五種の植物から得られているに過ぎない。−中略−現在では野生の草原よりトウモロコシ畑のほうが、総面積が広い。(7〜8頁)

たとえばコンゴ盆地に住む人々は、カロリーの八〇パーセントをたった一種類の作物キャッサバ(ユカあるいはマニオクとも呼ばれる)から得ている。中国には、コメが消費カロリーのほとんどを占める地域が存在する。(8頁)

我々日本もそう。

北米では、平均的な子どもの身体を構成する炭素の半分以上は、コーンシロップ、コーンフレーク、コーンブレッドなどのトウモロコシ製品に由来する。(8頁)

その他に小麦、ジャガイモ。
これがほとんど全人類を養っているという。
家畜の飼料もそうなので、人類は実に今、非常に画一的に偏った食事をしている。

1950年代、こんな歌があった。

バナナ・ボート



全世界で大ヒットしたというハリー・ベラフォンテ。
「積んでも積んでもバナナの出荷が忙しくておうちに帰れない」という意味(の歌詞)。
「バナナの出荷が忙しくて、おうちに帰りたい。早くおうちにバナナを積み終えて帰りたい」と。
「アイウォナ何とかゴーホーム」だから「早くおうちに帰りたい」。
(歌詞を確認してみたが、この箇所は多分「me wan' go home」)
これは1950年代にヒットしたポップス。
これはどこの情景かというとグアテマラだそうだ。
(調べてみたがグアテマラではなくジャマイカのようだ)

 一九五〇年には、ほとんどのバナナは中米から輸出されていた。とりわけグアテマラはバナナの主要生産国で、アメリカのユナイテッド・フルーツ社が運営する巨大なバナナ帝国の核をなしていた。(9頁)

ユナイテッド・フルーツ社の収益はばく大で、一九五〇年には、グアテマラ国内総生産の二倍に達した。(10頁)

 やがて起きるべきことが起きる。パナマ病菌
と呼ばれる病原体によって引き起こされる病気、パナマ病が到来したのである。パナマ病は、一九八〇年にバナナプランテーションを破壊し始めた。
−中略−ホンジュラスのウルア谷だけで、パナマ病が到来したその年に、三万エーカーが感染し放棄された。またグアテマラではほぼすべてのバナナプランテーションが壊滅し放棄された。(13頁)

3万エーカーは東京ドーム2千4百倍。
(計算してみたが3万エーカーは121944000m2。東京ドームを単位として使う場合46755m2。よって2608.148861084376となり「東京ドーム2千6百倍」となる)
それでグアテマラが数か月後にバナナの名産地、バナナボートの国ではなくなってしまった。
その不幸により他の国のバナナが売れ始めた。
それがコスタリカ、エクアドル。
ここで別の種類のバナナが息を吹き返し、グアテマラのバナナ帝国は消え失せたという。
グアテマラは今、コーヒーで生きている。
昔はバナナな。
このコーヒーも考えてみると危ない。
何でかと言うと、挿し木でどんどん増やされていくので同じものだから。
だから多様性がいかに大事かがわかる。
いろんな種類というのが。
農業の画一化は単位面積あたりの収穫量を夢のように増大させた。
しかし滅びる時は数ヵ月で全滅するという危機。

前に取り上げたこともある「ジャガイモ飢饉」。
『ニワトリ』という本の時の件かと思われる)

一八四五年の春には、カナダのニューファンドランドに達し、その年の後半にはベルギーに上陸していた。ひとたびベルギーでジャガイモ疫病が発生すると、拡大の速度が上がり、その進行は、年単位ではなく月単位で、さらに週単位で測られるようになる。かくしてジャガイモ疫病は、七月にはフランスに、八月にはイングランドに達した。(22〜23頁)

一〇月には、ジャガイモ疫病がまだ到来していない畑は、アイルランドには存在しなかった。それから三か月以内に、一〇〇万エーカーのジャガイモ畑の四分の三以上が壊滅し、あとには悪臭を放つ黒い腐敗物が残されていた。
 畑のそばを通った人は、悪臭について語った。
−中略−感染したジャガイモの塊茎や茎が、硫黄臭を放っていた。地面から地獄のにおいが漂ってくると言う者もいた。(30〜31頁)

悲惨なのはアイルランド。
ジャガイモという穀物を奪われたアイルランドの農民は草や木を食べてその年、しのいだ。

 一八四六年の夏、不安は恐怖に変わる。雨は降り続き、それにつれ前年以上にジャガイモ疫病が拡大する。そしてジャガイモは失われた。(32頁)

ついに本格的な飢餓が始まり、死体を埋めるがもう穴に入りきれず溢れるという。
(本にはそうは書いていない)

 一八四七年八月の夏、銃を所持する者は、残った動物を狩りに出かけた。九月に入ると、銃と残った弾は、地主を脅して持ち物を奪うために使われるようになる。十月には、銃弾が尽きる。一一月には千人単位で人が死に、一二月にはそれが万単位、さらには一〇万単位になる。イギリス政府は援助の手を差し伸べず、ダブリンの行政府も何もしなかった(32〜33頁)

その年、全体の餓死者は100万人。
その数字がどんどん積み重なっている時にアイルランドに住んでいた50万人がアイルランドを捨てて国外に逃げ出した。
ほとんどがアメリカ。
一部がイギリス本国へ低賃金労働者として渡って行ったという。
その時に(アメリカに)渡った一家がケネディ一家。
アメリカまで行く船賃がなくて、イギリスの方の港町リバプールに辿りついた一家がジョン・レノンの一家になる。
ジョン・レノンもジョン・F・ケネディもアイルランド人。
同じ「ジョン」。
「ジョン」が付く人はアイルランド人。
ジョン・フォード、ジョン・ウェイン。
みんなアイルランドの人。
スカーレット・オハラ。
『風と共に去りぬ』でアメリカに行った一家に、この物語の主人公のオハラ一家がいた。

風と共に去りぬ (字幕版)



そうやって考えるとジャガイモ飢饉は恐ろしい。
これがまた「ジャガイモ疫病、どうやったら収まるのか」というので研究が始まった。
硫酸銅液体と石灰によって駆除できることがわかって駆除された。
この硫酸銅液体のことを「ボルドー液」という。
それでそれがブドウの葉腐れ病にも効いた。
それでそれをいっぱい使ったというようなことを聞いたことがある武田先生。
一種類のジャガイモが病気になると、わずか2年で100万人。
かくのごとくして、その飢餓や飢饉を避けるため穀物、植物を疫病から守るために様々な薬品開発がこのあたりの飢餓の事件から人類は思いつき「農薬散布」というのが農業の過程の中で入るようになった。
しかもこれは10回以上かけなければいけないのだろう。
だから菌を殺すため大変。
そして恐ろしいのは年々「耐性」が上がる。
菌が強くなってくる。
その他にも立ち枯れ病とか葉巻ウイルスとか、ジャガイモ飢饉の引き金になる疫病というのはもう、絶えず毎年増えている。
去年、湖池屋のポテトチップスであった。
あれは水害だった。
あれは「種イモ問題」。
ポテトチップス販売休止相次ぐ 北海道産ジャガイモ不足で  :日本経済新聞 単純に収穫量の問題のようだが?)
北海道のジャガイモなのだが、ジャガイモの○%を取っておいて、次の年の種イモにする。
それを三年ぐらい寝かさなきゃいけない。
そのイモが無くなったから全滅の危機が。
でも湖池屋はよく頑張った。
輸入物に頼らずに通常の商品を削って看板を守った。
湖池屋は偉い。
武田先生は(おそらくこっそりポテトチップスを食べようとして奥様に)見つかってモノサシで叩かれた。

農業という巨大な文明に支えられて今の文明がある。
その現代の農業は多様性をなくし、米なら米なんかに集約する。
小麦なら小麦に集約。
一点に食べ物が偏ってしまう。
その危険性を。
だから「いろいろ喰わなきゃダメだ」ということ。
日本というのはまだその多様性の可能性を残しているので、この国あたりから世界に発信できることは、そういうことではないかと思ったりする武田先生。

珍妙な話を。
近年の歴史に一つのヒントを与える農業の闘いがあった。
実はこのようなことが世界を動かしているのではないかと思う武田先生。

 一九五八年、中国共産党主席毛沢東は、国内から害虫を駆除することを決定した。(79頁)

今の習近平さんは毛沢東さんのことを心から尊敬してらっしゃる。
習さんは「第二の毛沢東」になりたいのだろう。
自信にあふれた彼(毛沢東)は農業において駆除すべき生物を選び出した。
「排除するぞ!」というので排除すべき生物。
ノミ、ネズミ、スズメ、ハエ。
これを標的とし、紅衛兵を隊長にして全国10億の民に「排除せよ!」。
北京で大音声を発せられた。
これは中国は燃えた。
ノミ、ネズミ、スズメ、ハエ。
「これは中国共産党、我が国のカタキなんだ」と。

国民の努力は、とりわけスズメに関して際立っていた。外に向けて鍋類を(代わる代わる)四八時間叩き続け、消耗して死ぬまで空を飛ぶスズメを威嚇するよう命令されたのである。国民はさらに、スズメの卵を見つけてはつぶした。(80頁)

政府が発表した四万八六九五、四九キログラムのハエ、九三万四八六匹のネズミ、一三六万七四四〇羽のスズメという数値は、その大きさにおいても精度においても驚くべきものである。実際の数値が何であったにせよ、この殺戮のあと、とりわけスズメは著しく減ったらしい。(80頁)

(番組ではネズミを934864匹と言っているが、本によると930486匹)
短期間にこれだけの生物を毛沢東の命令で退治した。
「その年から、ワーッと中国の大地は黄金の実りがたわわに揺れて、豊かな稲が実りました」とはいかなかった。

その結果、人類史上最大級の飢饉が発生し、少なくとも三〇〇〇万人、おそらく五〇〇〇万人が餓死したのである。(80頁)

これは一人の政治家が誤った決定によって人類を殺した最高の人数。
一切殺した人数は発表しない。
これが中国共産党伝統「まずいことは隠す」。

 毛沢東の計画は、生態学者が栄養カスケードと呼ぶ事象を考慮に入れていなかった。(80頁)

まあ「食物連鎖」。
これは一瞬崩すともうこれだけの被害になる。
この間もヒロミさんとそんな話になった。
あの人は猟銃を持って山に入ってケモノを撃っているらしい。
イノシシが専門らしいが、捌くまでやっているらしい。
ヒロミさんの話は何かというと「シカがいかに悪いか」。
もう今、めちゃくちゃらしい。
だから「オオカミを放とう」と。
この間「子供を襲うかも知れない」といって小学校に迷い込んだクマを撃ち殺したら全国から「かわいそうに」という批判が集まったという。
村の人が「じゃ、オマエがクマ捕まえに来い」と。
そりゃわかる。
校舎の中に子供がいるのだから、猟銃会の人は撃つ。
そういう話をヒロミさんとした武田先生。
食物連鎖みたいなことのピラミッドを人為的に人間がいじくると、たちまち全部がおかしくなるということ。
そのことの良い例がこの毛沢東の農業の闘いにあるのではなかろうか。

キャッサバ。
これは実にありがたい作物であり、原産はブラジル。
これはアメリカインディアンも栽培していたそう。
これはイモ類。
「サツマイモに似て根茎で、豊かなデンプンを含む」と。
まだ主役ではないが、熱帯において、東南アジア、西アフリカでは重大なカロリー源となっている。
これは肥料もなく暑く乾いた土地でも栽培が可能。
温暖化の進む地球では今、実は大注目の作物。
実はこれは全く日本では報道されないこと。

一九八三年、コナカイガラムシによる被害は「アウトブレイク」の状態に達し、ガーナの農民は収穫の六五パーセントを失う(五八〇〇万〜一億六〇〇万ドルの損害)。キャッサバの市場価格は九倍に跳ね上がる。苗(新たに植えるキャッサバ)の価格は五・五倍に高騰する。(93〜94頁)

(番組では損害を「1億8000万ドル」と言っているが上記のように「1億600万ドル」。苗が「5.4倍」と言っているが上記のように「5.5倍」)

歴史を知る者にとって、これら一連のできごとは、ジャガイモ飢饉の発生に至った経緯に著しく似通っていた。(94頁)

もうアフリカはただでさえ天候が不順。
キャッサバの不作なんかが続くと本当に殺し合いが始まるらしい。

栄養カスケードはとても美しい。−中略−ハンス・ヘレンは、キャッサバの生態系がそれと同様に予測可能であると考え、コナカイガラムシを食べる寄生虫を見つけられれば収穫量を回復できると期待していた。彼の計画は、毛沢東の計画とは正反対である。(81頁)

コナカイガラムシを殺虫剤で根絶しようという、これがもうアフリカの現実に合わない。
まず殺虫剤を買うお金がない。
そんなところで「農薬をかければいい」なんていう考えでは太刀打ちできない。
このハンスさんが知っているのは自然のルールに従わなければ「カスケード」食物連鎖は守れない。

 コナカイガラムシを攻撃する生物のうちごく普通に見られるものの一つは、ロペスのハチ−中略−と呼ばれる昆虫であった。このハチは有望だった。多産で、コナカイガラムシだけを食べるらしく、殺しのやり口は、恐ろしく効率的であった。ロペスのハチは、コナカイガラムシの体内に卵を産みつける。そこで幼虫が孵化し、その血をすすり、筋肉、脂肪、さらには消化管を食べる。しかもその間、コナカイガラムシの神経系はそのままにしておく。それから脱皮し、その頃には空洞と化している身体の外骨格に穴をあけ、交尾するために飛び去る。(86頁)

コナカイガラムシを全滅させず、その数を保つそうだ。
この「ロペスのハチ」と呼ばれる一種寄生蜂は、コナカイガラムシに取り付くが全部は殺さない。
何でかというと全部殺してしまうと次の世代が生きていけないから。
だからコイツらのためにも。
だから「全滅させない」ということがいかに大事かというのを自然界は知っている。
早速パラグアイからこのハチを取ってきてアフリカの大地、西アフリカ等々でばら撒いたら約二年で。

最初にハチを放ってからまだ二年しか経っていない一九八三年三月には(一〇世代のハチに相当する)、各散布地点から半径一〇〇キロメートル以内にある、あらゆるキャッサバ畑でハチが目撃された。−中略−キャッサバの生産は、魔法にかかったかのごとく回復した。ナイジェリアのキャッサバの生産高は、ハチを散布する以前の一五〇〇万トンから四〇〇〇万トンに増大した。(94頁)

(番組では「1500万トン」を「1500トン」、「4000万トン」を「4500トン」と言っているが)

一九八七年までに、ハチは西アフリカのほぼすべてのキャッサバ栽培農家に到達した。(95頁)

コナカイガラムシによる被害は既知の問題であるにもかかわらず、タイでは(あるいは、ベトナム、マレーシア、インドネシア、ラオスでも)その到来を阻止することができないでいる。(96頁)

だから今、このハチを散布中だそうだ。
こういうのはやっぱり大事な発想。
『奇跡のリンゴ』の木村(秋則)さん。

奇跡のリンゴ―「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録 (幻冬舎文庫)



あの木村さんはやっぱり害虫の研究から。
農薬を使わない。
あの人の本の中で、周りのリンゴ園が殺虫剤をバーッと撒いている時に、彼の農園だけ、リンゴ園だけ殺虫剤を撒かないので、全域の害虫が彼のところにやってくる。
そのやってきた害虫に向かって「俺んとこはオマエらにとって『ノアの方舟』だ」と言い続けたという。
それでエリアの害虫がやってくるのだが、害虫がやってきた瞬間、それを喰う虫がやってくる。
いつの間にか必ずバランスを取る。
リンゴの何%かは犠牲に遭うけれども、リンゴの何十%かは必ず生き残るシステムが畑を支配する。
カスケードの支配が及ぶ。

「チョコレートテロ」と呼ばれるカカオを巡る犯罪があった。

一九八九年五月二二日、ブラジルのバイーア州にあるコンフント・サンタナ・カカオプランテーションの一日は、いつもどおりに始まった。−中略−そのときプランテーションの技術者の一人が、異常を発見する。一本のカカオの木の枝が、がんのようなもので腫れあがっていたのだ。
 コンフント・サンタナ農園は、ブラジル最大のカカオプランテーションの一つであった。ということは、世界最大のカカオプランテーションの一つでもあった。この農園は、フランシスコ・リマ、通称チコ・リマの手で運営されていた。リマは、果実を摘んで開き、種子を発酵させ、カカオをチョコレートに加工するのに必要な最初の数ステップを実行するために、大勢の男女を雇っていた。それによって彼は比較的裕福になり、かなりの権力を持つようになった。地元の組織UDR(地方民主連合)のリーダーでもあった彼の権力は、カカオプランテーションのみならず政治にも及んだ。
−中略−腫れた枝の発見は、そのコントロールを失う最初の徴候であった。彼がもっとも恐れたのは、このがんが、プランテーション全体を破壊する能力を持つ天狗巣病菌(wiches'-broom〔魔女のほうき〕)と呼ばれる病原体によって引き起こされた可能性であった。(99〜100頁)

 天狗巣病は、菌類−中略−によって引き起こされる。この菌類は傷や気孔(葉の表皮に存在する、木が「呼吸」するための、すぼめた口のような穴)を通って木に侵入する。ひとたび木の内部に侵入すると細胞組織を食べ始め、木の成長の様態を変えて、ほうきのような形をした醜い腫瘍(がん)を形成する。ゆえに「wiches'-broom」という名前がついているのだ。時間の経過とともに、この菌類に侵された木は感染に屈する。木が死ぬ際には、ほうきの形をした腫瘍は黒くなり、ピンク色のキノこが生えてそこから無数の胞子が空中にばら撒かれる。そして他の樹木が感染する。(100〜101頁)

他の木に感染すると大変なことになるということでリマさんはすぐに動いた。

スタッフ三〇人が農園内を巡回しながら、全長数マイルの森林の下層に数マイルにわたって植えられていた一〇万本近くのカカオの木を一本一本チェックしていった。すると次々に、問題が見つかった。−中略−緩衝地帯を作り出すために感染した木の周囲に立つ木も切り倒され、それ以外の近くの木は週に一度検査された。(107頁)

ところがそれから、リマの農園の隔離領域の外に立つ二一本の木が感染していることが判明する。(108頁)

これはどういうことかと言うと、天狗巣病というカカオの木の病気がプランテーションの中から発生したんじゃなくて「外からうつされたのではないか」という可能性が出てきた。
外からこの病気がうちのカカオの木に伝染したとなれば、他のプランテーションへの伝染が心配される。

地方の小さい町を歌を歌いながら回っている武田先生。
宮崎なんかでもニワトリとか牛の病気を目撃した。
あれはやっぱりよくない。
人間が人間を疑うようになる。
県境にチェックの農業関係者が立って、入ってくるトラックのタイヤを洗うのだが、その時の目つきが「疑う」。
伝染病の怖さ。

このリマさんは地方のカカオ王であったのだが「全部切れ」というのが他の農園から出る。
10万本を。
「それは勘弁してくれ!」ということでリマさんは泣き叫んだが

CEPLACは、「木を切らなければ監獄行きになるぞ」とほのめかした、あるいは(記録によっては)そうはっきりと言った。リマのプランテーションの木は、一九八九年の五月から一一月にかけて、一万四〇〇〇人時間の労力をかけてすべて切られた。九万八〇〇〇本のカカオの木と、木陰を作っていた一万本以上の熱帯雨林の樹木が切り倒されたのだ。(108頁)

ところが、悲劇はこれだけでは終わらない。

 一〇月二六日、バイーア州のカカオ栽培地域の反対側、リマの農園から一〇〇キロメートルほど離れた地点で、ある農園主が自分の農園で天狗巣病を発見した。(108頁)

 ある農園では、天狗巣病に感染した一本の木に、さらに多くの天狗巣病のキノコに覆われた別のカカオの木の枝がくっついていた。ロープで結びつけられていたという証言もある。−中略−それから数週間、他の農園でも、別の木の枝がくっついた木が次々に発見される。それらも類似のロープで結びつけられていた。(108〜109頁)

凄まじい悲劇なのは、それからわずか二年後、1991年、この地域のカカオ園の75%が切り倒された。
あるいはこの病に倒れて枯れてしまった。
(本には1992年に生産高が75%低下と書いてある)

ロープで枝が結ばれていたという話がほんとうなら、病原体は故意に運ばれたことになる。つまり、それは一種の農業テロリズムが遂行されたことを示唆する。(110頁)

つまり「テロ」は爆弾だけではない。
今、世界が一番恐れているのは「農業テロ」。

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2018年05月13日

2018年1月8〜19日◆豆腐も切りようで・・・(後編)

これの続きです。

大沢悠里さんは言葉につまる。
「立て板に水」ではない。
それと、批判する時に「よどみ」がある。
「え〜・・・今の政治家の方にもね、ちょっとこう・・・」
悠里さんの「ガラのよさ」がヒタヒタと伝わってくる。
武田先生のメモ。
「この人の話し方は良い。喋りのスピードが良い。まるで水音のようだ。この人の喋り方にはマイナスイオンが立ち込めている」
マイナスイオンの立ち込める喋り方。
喋りのスピードが広瀬の水音、広い瀬を流れる水音のよう、という。
この人が誰かを批判する時、この人らしい作法がある。
追いつめない。
久米(宏)さんというのはナイフのような方で、本当に鋭い喋り方。
切り替えの速さで言葉を印象に。
聞き手として思うのは、大沢悠里さんというのは何かというと、その人のその批判には「あきらめ」がある。
この「あきらめ」がすごく明るく武田先生には聞こえる。
「あきらめる」というのは「明らかにする」ということ。
それで大沢悠里さんの発言を聞いていると「え〜・・・仕方ないですね。もう〜世の中ですから、なるようになるのでしょう・・・」というような。
単なる「諦念」「あきらめ」じゃなくて、とある「明るさ」を感じる。
ねばらない。
「あきらめ」というのはもしかすると、「ポジティブな決心」であるかも知れない。
世の中はやっぱりあきらめなきゃならないことはある。
水谷譲にも武田先生にも。
奥様からモノサシで手を叩かれる時にあきらめなければならない武田先生。
奥様のことをあきらめると本当に世界は広くなる。
これからが「愛」。
「好きだから、だから愛してる」というのはおかしい。
「好きじゃないかもしんないけど、愛してるなぁ」という時が「愛」。
それぐらい「愛」というのは難事業。
「どこがいいかわからない」とか「いなくなればいいのに」とか、そんなことを全部乗り越えて「あきらめる」。
で、「愛してる」と平気で言える。
これこそ「愛」。
誰でも快適だったら「好き」に違いない。
不愉快でいろんなつらいものがあっても「愛してる」という。
大沢悠里さんをマネしましょう。
「仕方ないな〜・・・なるようになるさ」
ラジオをやるんだったら大沢悠里さんみたいに。
この人はラジオ番組の中で、賞金が当たって、その聞き手の方とバンザイをする。
「よかったですね。一万円当たりました。さ、それではバンザーイ!バンザーイ!」とやる。
地域紛争とかが起きるとバンザイをやらない。
ピタッと控えたりなんかする。
そういうマナーの良さがある。
そういう喋り手でありたいと思う武田先生。
これはどうしてかと言うと、この喋りの中に実は「聞く人を健康にする」という、そういうことが喋り方であるし「自分も健康になる」という。
まず、副交感神経。
これをゆったりさせるためには「ゆっくりしゃべること」。
この「ゆっくり話す」のは相手を捉え、相手がどうすれば喜ぶか、それを考えるため、インストールのための手順であると。
たくさん話すこと、自分の存在をアピールすることを考えると、必ず先読みする。

無駄な想像をするせいで、次から次によからぬ考えが浮かんできて、どんどん自律神経のバランスを崩してしまうのです。(70頁)

これがなんと「自業自得の妄想」を呼んで副交感神経を乱し、ミス発言「失言」をしてしまう。
「失言」はみんなそう。
この間もいらっしゃった。
「何で黒いの好きなのか」 アフリカ支援で山本幸三氏  :日本経済新聞
アフリカのことを語る時に、わざわざ「色」を出して「そのような人たち」という。
あの方も無駄なく、たくさん喋ろうとする。

失言をする人は意外と一回失言して問題になっておいてそれを詫びに出てきて、また失言してというのがいる。
災害の時に、長靴を持っていないので部下におんぶさせて渡って。
「申し訳ありません」と謝っておいて「あれから結構長靴売れたんだって」とかつまらない冗談。
「長靴業界儲かった」おんぶで被災地視察・務台俊介政務官がふたたび謝罪
それはやっぱり交感神経、副交感神経が傷んでいる。
あの人たちは体が悪い。
そう思ってあげた方がいい。
間違いなく言えることは「失言」、あるいは「つまづきの言葉」というのは「質問された以上のことを答えようとして、その無理から失言を呼んでしまう」という。
先週放送分で「排除」というお言葉をお使いになって大きな蹉跌を味わわれた小池(百合子)さんだが、自民党が恐れるほどの人気があって、それがあのスピードでしぼむのだから、どうもあの時は小池さんはお疲れだったようだ。
大きい政治的な動きがあって、夜遅くまでミーティングが続いていたのではないか?
「疲れて油断もしてたのかな?」と思う水谷譲。
本当に「口は災いの元」というのの典型例があった。
そのようなミス発言をしないためにどうするか?
番組で政治的な批判を求められたりする武田先生。
テレビを見るともう、タレントのほとんどがニュースバラエティに行っている。
本当のことを言うとあまり出たくない。
政治家になったこともないし、そんなことはわからないのだから。
政治家の役は演ったことがあるのだが。
だが「答えないといけない」という雰囲気が現場にあって「しくじり発言しやすい」というポジションにタレントはある。
坂上(忍)さんなんて、やっぱり命を張ってやっている。
坂上さんはボロクソ言っているが、あれは結構度胸がいる。
そういうものに武田先生たちは晒されている。
街角を歩いていたら、ちょっと機嫌の悪そうなお年寄りがスーッと寄ってきて「武田さんは改憲派ですか?」とか訊かれたり。
「政治に無関心に生きろ」と言っているのではないが、武田先生たちはそういう意味で政治的なポジションとか発言というのが揚げ足に取り上げられやすいポジションにいる。
だから「口は災いの元」。
それは質問された以上のことを答えようとする時、松ちゃん(松本人志)なんかと付き合っていると、松ちゃんがうまいことを言うから負けじと何か一つこっちもひねろうとすると「自分の首ひねっちゃう」みたいなことになる。
難しい。
「話の切り出しは、まず相手を中心におけ」と。
主語は相手。
先週の月曜日(に放送した回の中で)、武田先生が最も感動した一言。
求めているキズバンを探していて、それがなかなかない。
その時に大型ドラッグストアの女店員の方が「売り切れてしまった」の言い訳で「お役に立てませんで、申し訳ありません」というのにハッと感動した武田先生。
これは何かというと、彼女のお詫びの中心に武田先生がいる。
「役に立てないワタクシです」というような正直な報告に、動揺するほど感動した。
これはなによりもやはり「私に対する彼女の理解」があったから。
例えば、とある人と出会って、これから何か話さなければならない。
その時にはまず、その人がどこから来たかを考えて「いやぁ、今日は遠くから大変でしたね」。
そして別れ際も「頑張ってくださいね」ではなく「ご無理をなさらず」。
この、相手の人格に向かって話すのではなくて、何というか「相手の自律神経に向かって話すクセ」。
こういうのを躾けると、そんなに大きな問題発言はなくなるのではないか?
(本に書かれている「自分からは話さない」というのとは内容的にズレてしまっているが)
普段「物の言い方」に気を付けている水谷譲。
例えばご主人に「ゴミ出し、何でしてくれなかったの?」と言うのではなく「ゴミ出ししてくれるとうれしいな」にしよう、とか。
そういう言い方で同じ意味なのに全然違ってくるので、それは気を付けるようにしている。
武田先生は(奥様から)そういう言われ方をされない。
全部「しといて」ばかり。
「きちんと冷蔵庫閉めといて」
身をねじるような。
本当に愛しています。
愛とは本当に厳しい道。
毎日、修験者の修行のような日々。

「口の利きよう」というか「言葉の選び方」、それが人生を左右していく。
プラス、健康も左右するという。
水谷譲は時折部下と言うか、後輩を叱らなければならない時もある。
お母さんなので子供を叱らなければならない時もある。

 @時間を空けずに叱る
 A短く叱る
 B1対1で叱る
(101頁)

時間が空いてしまうと自分の気持ちの中で練れてきてしまうので言葉が長くなってしまう。
人前でちょっと言っちゃったりするので、この三原則がすごくわかるという水谷譲。
練れてきて、どんどん言葉を飾り始める。

「この人は成長するな」と思う人は、次の2つのタイプに分かれます。
 @物事をはっきり口にする人
 A何も言わずに、じっと耐える人
(103頁)

(奥様から)モノサシで叩かれても耐えるという武田先生は後者。
これはやはり人生最後の課題。
「奥さん」はそれほど重大な問題。
「奥さんとの付き合い方」にここまで悩むとは思わなかったが、これは一種やはり「生存をかけた戦い」。
不信に思うともっとも疑わしい人物は「奥さん」。
栄養補給剤などを飲んでいるが、それを飲むと体調が悪くなるような気がする。
疑うとキリがないが黙って飲む。
あきらめ。
「明らかにする」ということで「あきらめ」。

依頼されて断る時の言い方。

「申し訳ありませんが、私には100%できません」(116頁)

こうすると「イヤです」とか「ダメです」とかという感情論ではなくて、可能性論になる。
「100%」が強ければ「80%やる自信がありません」とか「60%」とかという数値に落とすと、自分の能力について説得するという。
感情ではない。
これはよい言葉。
「申し訳ありません。私には○%できません。やる自信がありません」
これをパーセンテージで表現するという。
この本の書き手の小林弘幸さんという方はお医者さん。
この方自身が、やっぱりお医者さんの口の利きようで複雑だった骨の骨折部分が急によくなったという体験をお持ちなので(本によると「急によくなった」ということではないようだが)こういうお医者さんがいらっしゃるといい。

 私は禁煙外来も担当しているのですが、−中略−
 これほど害が多いにもかかわらず、やめたくてもやめられない方は非常に多く、禁煙外来を受診する方もあとを絶ちません。
 そんな患者さんに、私はこう言います。
「タバコはやめなくてもいいですよ。その代わり検診だけはしっかり受けてくださいね」
(131〜132頁)

「やめなくていいですよ」というのは開放度が高い。
ホッとする。
タバコの問題をやたら「鬼の首取った」みたいに威張る人がいる。
武田先生は(タバコを)やめた。
やめた理由は心臓の執刀医。
とてもいい先生で、その先生のことが好きになった。
その先生が手術執刀直前に武田先生の最後の健康をチェックする時に「武田さんは、タバコはいつ頃おやめになりました?」。
手術をするという計画は4か月前ぐらいからあったワケで。
「やめられて何か月経ってるのか」という返事を期待されたのだろう。
その時の武田先生の返事が「昨日です」という。
入院して近くの小屋まで吸いに行っていた。
朝から1本も吸っていなかったから早朝の回診の時に「昨日の夕方ぐらいからやめております」と言った時に「昨日ですか・・・」というような、全身崩れ去るような落胆の表情を見た時に「もういいかな」と。
何か「タバコ吸うの今、忘れてるなぁ」と思うぐらいの。
何か動くのが忙しくてタバコを吸うのを忘れている。
タバコをやめると暇になる。
結構いろんなことができる。

口の利き方。
豆腐も切りようで丸くなるがごとく、言葉も使いようで自分の健康を導き入れたり、幸運をその一言で掴んだり。
反対にいくと災いの元で、大変な転落が待っていたりするというのも「一言から」ではないかという。

自律神経を整える 人生で一番役に立つ「言い方」



武田先生が珍しく奥様に勧めた本。
「これ読むといいよ」と言いながら何気なく枕辺に。
この先生曰く「患者さんに相対した時、言葉というのはものすごく大事なんだ」と。
タバコの害を恐ろしげに説明するよりも「やめなくていいですよ。だけど検診しっかり受けていきましょう」と。
「やめるべき時が来た時にはやめましょう」というような発言。
それから胃弱の方には「食べたくなったら食べる。これで生き物は十分生きていけますから」。
(本には「食べたくなったら言って」としか書いていない)

一時期、睡眠障害で悩んだことがある武田先生。
もう5時間しか眠れない。
10時に寝て、3時ぐらいに目が覚めて、もうカーッとなって眠れない。
それで睡眠障害のところに行って100個の質問に答えて「どの手の睡眠障害か」というジャッジをするという、
そういうチェック機構が100問あって、30何点かだった武田先生。
その時にヤマグチ先生は武田先生の30何点の点数を見ながら「武田さん、ごめんなさいね。90以上をとらないと、ここに来ないでください」。
「いや、でもあの・・・5時間眠ったあと、本当眠れなくて」
「あとはどうなさってるんですか?」
「ええ。5時間眠った後、まぁ、その、体が凄いだるいもんですから、朝ごはんを食べたあと2〜3時間眠るということで過ごしてるんですけど」
「それだけ眠れば十分です」
「武田さん、昼寝すると夜、寝れませんよ?」と。
この先生の一言は堪えた。
気は楽になる。
「何で眠れないんですか?」
「いや、何かカーッとなっちゃうんですよ」
「普通、カーッとなりませんから。あなた何か考えてるでしょ?その考えてることで眠れなくなっちゃうんです。その考えてることが不安だったり、イヤぁな予感することだったり、でしょ?来年何か不安な仕事ってあるんですか?」
舞台があった。
ちょうど博多座さんと台本で揉めている時で「それですよ」と言われた。
それで睡眠導入剤を勧められた。
「カーッとなることは、歳をとるとあります」と。
睡眠導入剤と聞くと「中毒になっちゃうんじゃないか」とか「飲みすぎると効かなくなるじゃないか」。
「そんなことないですから。睡眠導入剤って飲んでから30分から1時間しか効きません」
それが外れると、もう眠くなくなる。
そんな短いもの。
きっかけを作るだけ。
そんな劇薬ではない。
劇薬ではないのを勧めてもらった。
でも、「歳をとる」というのはなかなか手ごわい。
それでもまだ時々眠れない夜が来る。
3〜4年前に夢の中で奥様が死ぬ夢を見た武田先生。
もう不安で不安で。
その時は不安だった。
「女房が死んじゃって、どうしていいかわからない」という。
その夢から覚めたら不安だけ残った。
それで目を閉じると奥様が呻いているような声に聞こえた。
「ううう・・・」という。
「どうした!?」と言ったら「起こさないで!」か何か言われて。
「触らないで!」とか。
それからまた眠れなくなった。
それでまた3年後ぐらいに「奥様が死んじゃった」という悪い夢を見てそれでまた夜中に起きた。
それから3年経っている。
ガバッと寝汗をかいて起きて「また女房が死ぬ夢を見た。正夢になるんじゃないか」と思いながら。
「あ・・・昔、3年前にこの夢見たな」と思って。
「あれから・・・死んでないな」と思って。
その時にフッと。
ものは考えよう。
「こいつ、なかなか死なないな」と思って。
それからぐっすり眠れるようになった。
「物は言いよう」だが「考えよう」でもある。
「人が死ぬ夢は実はよい夢だ」というふうにも言う。
でも「なかなか死なないな」と思ったり。
今度アレした時は「なかなか死なない」という不安がまた。

お母さんでもある水谷譲のため、子供に対して叱る時の工夫。
「ダメよ!」と言わない。

「悪かったことを言ってごらん」(143頁)

武田先生自身の体験。
あるイベントをやっていた時、もう武田先生は「芸人」なのだが、たとえば大手のスポンサーが付いたイベントなどは広告代理店の方がいらっしゃる。
広告代理店の30代働き盛りの方たちが現場に居並ぶ。
この方々、立派な大学を出て相当優秀な方が多い。
その時、そのイベントで付き合った方は東大の方だったのではないか?
流行りなのか、無闇にでっかい先の尖った靴を履きたがる人がいる。
ずっと子供の時から勉強しているから足の形まで何か万年筆みたいになっちゃうのか?
それで、その方がそのイベントの手順を説明なさるのだが、何というか、手順を説明しつつ、武田先生に注意なさるのだが注意が細かすぎる。
机が置いてあって、机がちょっとこう「弁箱」アップルボックスで底上げされている。
「見える」「見えない」の関係とか。
それからマスコミの方が2〜3人いらっしゃるというようなこともあってスポンサーも見てらっしゃるという見栄えの問題もあって。
だからその教室の机(教壇)に「手をついても大丈夫ですが、座らないでください」とおっしゃる。
ちょっと皮肉をこめて、その尖った靴の万年筆型の人に言った武田先生。
「私が机に座ると思う?」
座らないでしょう?
この方々はものすごくマニュアルを大事にしてらっしゃる。
あんまり丁寧に説明されると一種「侮辱になる」という、そういう感性が無い。
だから注意事項が1から10あると、1から10まで言っておかないと業務を果たしたことにならないという。
こういう方々は人扱いに関して、言い方が非常に不慣れ。
こういう人たちが今、業界にいらっしゃる。
何かやっぱりちょっと人扱いに関する発言というのは、どこかで訓練した方がいいのではないかなぁと思ったりなんかした。

すでに何度もお話ししているように、話す時は「ゆっくり」がポイントです。自分と対話する際も、口に出して話をすることで自ずとゆっくりになりますし(188頁)

「さぁ、困ったことになったぞ」と「なぜこうなったんだろう」と、決して優秀さを振り回すような早いテンポではなくて、とにかく今できることをまず一つやってみよう。
先のことはそれをやてから考えよう。
声にして独り言をはっきり自分で言う。
そうすると意外と解決策が見つかりますよ。と。
自律神経の切り替えがうまくいくようになりますよ。

武田先生が広げたイメージ。
言葉の使い方で誰とでもうまく付き合えるということになるかというとオールマイティではない。
そのことを覚えておかなければならない。
やっぱり世の中「トンチンカンなヤツ」とか「ヤバいヤツ」としか言いようのない人はいる。
ちょうどこれをまとめていた頃、あの事件で大騒ぎになった。
幅寄せをやってくるヤツ。
東名高速道路の追突死亡事故 被告は事故後も運転妨害か - ライブドアニュース
あおり運転。
東名高速道路で車を停めてしまって事故を招いちゃったということがあった。
これは「魔」に憑りつかれた人を相手にして言葉で説得することは不可能だと思った方がいい。
これは全然卑怯でもなんでもない。
魔がさした人がいる、魔に憑りつかれた人がいると逃げること。
寄っていってはダメ。
「車を停めて語り合えば」なんて絶対思わない方がいい。
逃げること。
こういう魔が憑りついた人というのは「人ごみの中にいる」と思ってください。
この手の人は原野にポツンといない。
「人ごみの中から人に絡む」という。
こういう人たちには言葉は一切通用しない。
だからやっぱり「逃げること」。
その「魔」に敏感になるには?
著者は言う。
「朝起きたら感謝しましょう」「『ありがとう』を声にしましょう」「挨拶をゆっくり元気に」「ため息はしっかり大きくして深呼吸しましょう」
何か気になることがあった。
例えば「部屋が散らかってる」と思ったら「いっぺん」じゃなく「一か所」だけ片づける。
そんな些細なことを毎日守っていれば「魔」からあなたを遠ざけることができます。
(本にはこれらのことは「魔」がどうこうという話ではなく「自律神経が整う」といったことで紹介されている)
小さく小さくまいりましょう。


posted by ひと at 19:38| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年1月8〜19日◆豆腐も切りようで・・・(前編)

どうしてもその日その時、「あのバンドエイド」が欲しかった武田先生。
テラテラでゴキブリの羽みたいに光るヤツや「水用」でくっつき過ぎて剥がすたびに傷口が広がる楽しいバンドエイド(は避けたい)。
気に入ったバンドエイドがあった。
そのバンドエイドは剥がれにくくて目立たなくて、今度剥がそうと思うとスッと剥がれるという。
昨年のこと、時代劇のテレビシリーズ(水戸黄門|BS-TBS)10話分をまとめて撮るために週のうち4〜5日、京都郊外の背の低いホテルに泊まりこんで、そこに下宿して働いていた。
東京へ戻るたびに合気道の道場へ顔を出して、そこに行くたびに皮が剥けてしまう。
合気道はまず、相手の手をつかまえるところから始まる。
そのため、いつも同じ個所にバンドエイドをしている。
老人なので治りにくい。
(バンドエイドを)ベロッと剥がすと、色があまり良くないのでコムラサキ色なので「どうしたんですか?」とか気持ち悪がるかもしれないので(バンドエイドを)かぶせている。
これ(現在使用しているバンドエイド)は肌色で非常に目立ちにくい。
あえてメーカーは言わないがこれが欲しい。
地方によっては「キズバン」「ファーストエイド」・・・
「クレパス」「クレヨン」問題になってしまうが。
とにかくその手のヤツ。
気に入ったヤツが一個できると、それにこだわるので、無かったら結構無闇に探すことになる。
これが本当にない。
それで今年、時代劇をやっていたので、あんまりテラテラ光るのは困る。
手甲、脚絆をしているので隠れるのだが、それを見つける目のいいチェック係りがいる。
治りかけたところにまたドーランを塗るので痛い。
それと合気道で治りが遅くなった。
とにかく必死になって(お気に入りの)バンドエイドを探す。
東京駅にちょっと早目に行って、新幹線の真下に大きい薬局があるのであそこに行った。
無い。
家の近所でもすぐに探したが売り切れている。
「まいったなー」と思って京都に行った。
撮影所に入る前に近くの早朝にやっている大型薬局、pharmacyに入って、その「エイド」を、その「バン」を買おうとする。
これはもう忘れもしない。
京都洛外に続く丸太通(「丸太町通」の間違いか?)という通りがある。
嵯峨野に続く国道脇のドラッグストアに行った。
世田谷でフラれて東京駅でフラれているから、結構カリカリきていた。
「○○というようなバンド無いよね?」「キズバン無いよね?」と。
まず否定形でレジ女性に尋ねる。
大型店舗には何度も裏切られているので、武田先生の訊き方も少し「トゲ」「嫌味」があったと思う。
その女性はレジを仲間にあずけて商品棚まで走られた。
それでレジのところで待っていたら切なそうな顔をして「売り切れている」と。
だからそのバンドは評判がいい。
「ああ、そう・・・」と不機嫌にその場を去ろうとした武田先生の背に、その丸太町、嵯峨野に続く国道脇の大型ドラッグストアの女店員の方がお詫びの声を。
その声が「お役に立てず申し訳ありません」。
これが、本当に申し訳なさそうに「お役に立てず申し訳ありません」というのが、すごく迫ってくる。
思わず振り返り「いやいやいや、いいのいいの。また探すわ」と言いながら、年甲斐もなく遮二無二笑顔をそこでこさえて会釈して別れた。
この方のたった一言でその日、ちょっとカリカリしていた(水戸)黄門の撮影が非常にうまくいった。
そんな時、たまたま本屋で見つけた一冊。

自律神経を整える 人生で一番役に立つ「言い方」



順天堂大学医学部教授の方の本。
その時にフッと思って、頭をかすめた言葉が「豆腐も切りようで丸くなる」。
ということで「言葉も切りようで」という。
何でこういうことで引っかかって新年早々(この放送は1月なので)この話をするかというと、今年一年の自分の目標にしようと思う武田先生。
何を言いたいかというと、やっぱり喋り方を「進歩しよう」と思わないとダメだ。
昔は「言葉」なんてポンポン出た。
それはやっぱりいいことではない。
聞き手の立場に立つと、あんまり朗々と喋る人の喋り方は、何か誠実さが無い。
やっぱり言葉が次々出てくるというのは詐欺師の技術の一つ。
言いよどむとか考えながら唸ってしまうとかという「間」というのが、やっぱり絶対に喋りの良心としては無いとおかしい。
このお医者さん、つまりこの著者、小林弘幸さん。
順天堂大学の方なのだが、まず、とりあえず「ゆっくり話そう」と。

「ゆっくり」言えば
空気が変わる、
人生が変わる
(73頁)

医学部の6年生の時に事故にあったのがきっかけです。ラグビーの試合で骨折をしてしまい、「一生まともに歩けない」と医師に宣告されてしまったのです。(15頁)

通院するたび、X線写真を撮るのですが、ある医師はその写真を見て「全然骨がくっついてないね〜」と言います。私も医学部の6年生ですし、自分の状態がわかるため、「本当に全然ダメだ」と思っていました。しかし、同じ写真を見て、また別の医師はこう言ったのです。
「あれ!? ここにさぁ、ひげみたいなのが見えるだろう、これがいいんだよ〜。これは再生してくるきっかけになるんだよな」と。
 そう言われた瞬間、真っ暗だった前の前に光がさしこみ、「もしかしたら治るかもしれない」と、力がわいてくるのを感じました。同じ写真ですよ? 同じ写真を見ているのに、それぞれの医師の言い方によって、こちらの気分がまったく変わってしまったのです。その瞬間、私の人生は変わりました。一縷の望みに懸けて、必死にリハビリに励み、現在では何不自由なく歩けるようになったのです。
(16頁)

この小林さん曰く、自分の不安が薄らいだ瞬間にそれこそ「自律神経」「約37兆の細胞」これが全身「酸素」という栄養を受けて血流をコントロールし、自律神経の働きがスイッチオン、スイッチオフで正しく入れ替わり始めた。
そうすると「倍速で再生した」という。
(というようなことは本には書いていないが)
だから「物は言いよう」「物は聞きよう」で「これほど体というのは影響を受けるのだ」という。

 自律神経で大切なのは交感神経と副交感神経のバランスであり、最も理想的なのは、10:10でともに高いレベルを維持することです。自律神経が整っている状態とは、この10:10の状態、もしくは8:8、9:9など、なるべく高いレベルでバランスを保っていることを指します(27頁)

そうするとバランスが維持されて回復力が急速に、という。
大事なことは健康を維持するために、相手を罵る時、一人でも「バカ」を使うな。

私が相手をおとしめる言い方をすると、相手の自律神経が乱れ、結果的に私にとってさらに不利益となることを知っているからです。(22頁)

 たとえば、「クソッ!」と、怒りに満ちた言い方をしたとします。
 すると、怒りの感情を言葉にしたことで、イライラが増幅し、交感神経がとたんに優位になって自律神経のバランスが乱れます。
(29頁)

「バカ」「クソ」というのは比較的ある。
そんな言葉を連発することがある武田先生。
「欠点の指摘」とか「悔しさの発露」とかというのを「まいったなー」「どうすんだよ」「やっちゃったよ〜」と使っていると、どんどんおかしくなって、その言葉づかいが健康を害する医学要因になりうる。
だから批判も温かみがないと、その人自身を逆に健康被害の導火線に火をともすことになる。
2017年、思慮の浅い言葉でこけていった人たちの特集を温かい気持ちでお送りしたい。
「批判」ではない。
「温かい気持ち」でお送りしたい、振り返ってみたい。

ちょっと素敵な「お母さん」である水谷譲。
11歳、小学校5年生の息子さんに合気道を習わせている。
(合気道は)面白い武道で、いろんなことを考えさせられる。
小さいことですぐに悲鳴を上げるようになる。
合気道の人は何も説明してくれないが、武田先生もそれが移ってしまったが悲鳴を上げる。
合気道の影響ではないかと思う武田先生。
合気道をやり始めてから蚊がよく見えるようになった。
それと悲鳴を上げるようになる。
道場で合気道は相手に技をかけるポジションと相手から技をかけられるというのを交代でやる。
かけられた時に、どんな高段者でも呻く。
「うぉっと!アイタタタタタ!キタ!」とか。
相手のその技に対して声とか呻き声で反応する。
自分に「驚くクセ」をつける。
武道というのは何か大きな出来事があった時に驚かないためにやる。
地震がガッ!と来ても非常に沈着冷静に行動できるという。
その驚かないための訓練で最高の訓練は何か?
毎日小さく驚くこと。
これは内田(樹)先生の言葉で見つけたのだが「小さく驚く人は大きく驚かない」。
小さなことで驚かないヤツは大きい時にものすごくパニックになる。
合気道は小さく驚く武道。
その「小ささ」に関してだけ、頭の隅に置いておいてください。

1月なので1年のスタートに自戒をこめて。
豆腐を四角に切ったばっかりにえらい目に遭った方というのが2017年。
もう典型的な例があった。
「排除します」
自分で政治政党を作れるほどの票を集めた人。
その人が「排除します」の一言で。
マスメディアは少し煽り過ぎて、この「排除します」に集約しすぎるが、やっぱり「排除します」という言葉がきっかけになった。
あの人をあれほど声援した東京都民はこの「排除します」で、「一体あの女性都知事の何を見たのか」というのをやっぱり思わず考えてします。
ということで小池(百合子都知事)さんそのものを考えた武田先生。
小池さんとは何者か?
この方は元々、言葉のプロだった。
前職は女子アナタレント。
キャスター。
この人は何か物を読むような。
あれはやっぱり若い頃からのクセなのだろう。
この人の声は「朗読声」。
ブレスリズム、呼吸のリズムが落合恵子さんとそっくり。
だからある意味で落合恵子さんと同じぐらいの声の質、声の性能、声の力を持ってらっしゃる。
落合さんのニックネームは「レモンちゃん」。
小池さんにもあだ名を付けましょう。
落合さんが「レモンちゃん」だったら小池百合子さんは「ミカンちゃん」。
それも「葉付きミカン」。
葉っぱが付いている。
ミカンは葉っぱが付いていないとただ喰われるだけだけれども、葉が付いていると鏡餅のてっぺんに置かれる。
まさしく小池百合子という人は「葉付きミカンちゃん」。
だからどこの政党に行っても上の方に「ポン」と置かれた人。
そういう方。
「飾りミカンちゃん」「ダイダイちゃん」
この方は都知事選の時、四角いものを丸く切った。
だから敵対陣営の・・・あの言葉は失礼。
「厚化粧」は言わない方がよかった。
それに対して小池さんはどうであったかと言ったら反応なさらなかった。
そういう侮辱に対して耐えられた。
昨年の2017年は「女性の一言」。
つまり豆腐の切りようがカドばったばっかりで問題を起こした方というのは多かった。
思わず興奮なさっていたのだろう。
「ハゲ」と言っただけで落選なさった方もいる。
やっぱり「口は災いの元」「一言で身を切り裂いた」という。

豆腐も切りようで。
物も言いようで。
その典型例を小池(百合子)さんに求めてみた。
2017年、たった一言、四角く切った言葉「排除します」。
この一言でこの方の票がこの方から離れていったという。
ただ、ありていに言えば、品の無い言葉だが「ミソもクソも一緒にするな」と言いたかったのだろう。
小池さんのホンネはそれが一番ピッタリ。
「ミソもクソも一緒にするな」というのは角が立つので非常に品のよい政治言葉で「排除します」とお使いになったという。
そうしたらバーッと票が。
離れた票はすごい票。
この一瞬で本当に流れが全部変わった。
そして週刊誌でこの人のあだ名の変化に気が付いた。
武田先生が「葉付きミカンちゃん」とか「ダイダイちゃん」と呼んでいるが、この「排除します」の一言でどこかの週刊誌がこの人のあだ名を書いた。
「緑のたぬき」
思わずコンビニでギクッとした武田先生。
「緑のたぬき」は武田先生の恩人。
これ(「緑のたぬき」)とは一緒に頑張ってきた。
マンションを買った。
だが、その「緑のたぬき」の方に世間が乗ってくる。
そのあだ名がついてしまったら、もう本当に「イメージが動かなくなる」というところが。
このあたりから小池さんの言葉づかいが、世間と歯車が合ってこない。
この方は選挙の名目で今振り返ると「安倍一強批判」。
そして自分たちが相当いい得票率で中ぐらいの政党を作れば、公明党と同じようなバランスの重りとなって安倍を変えさせて見せようという。
何と言うか半端な政治理念。
それから「忖度総理」の批判もしきりになさっていたが、安倍さんがもう相手をしなくなっちゃう。
そしてこの小池さんの対立軸に自民党が持っていったのが小泉進次郎くん。
この小泉くんが次々と小池さんの揚げ足を取る。
いや、「揚げ足」じゃない。
タックル。
小泉くんの若いタックルは小池さんに効いた。
上手だった。
彼が応援演説に宣伝カーの上に立とうとしたら反対側で敵方の政党が大声を上げている。
そうすると彼は注目が全部こっち側に集まっているのだが、あえて「立ち合い勝負の潔さ」というか、静かに終わるのを待って「終わりましたか?じゃあ始めさせてもらいます」という、このマナーのよさ。
このあたりぐらいからこの進次郎くんがグングンと・・・。
そしてこの方が小池さんの発言批判をなさる。
この発言批判が実にツイストが効いていてよかった。
小池さんは一生懸命おっしゃった。
これは東京都知事という側面もあるので「満員電車のない東京を作りましょう」とおっしゃった。
進次郎くんが何と言ったか?
うまいことを言う。
「その通りです。満員電車のない東京作りましょう、小池さん。でもね、小池さん、昨日山形の友人から電話がかかってきたんですがね、山形ではね、満員電車に乗ってみたいという県民の熱望もあるんです」と。
「あなたの発言はどこまでも東京であって、全国見てないじゃないですか」
このタックルは効いた。
一回相手を肯定して乗っておいて、また違う方向に持っていくというのがすごい。
この進次郎くんの「揚げ足」というか「タックル演説」というのは技として見事だった。
このあたりぐらいから小池百合子東京都知事、田舎の人間に引っかかることばっかりおっしゃっている。
三都物語。
大阪、名古屋、東京。
この三都が連合で保守政治、安倍一強政治にぶち当たろうというような、いわゆる「選挙協力体制」を「三都物語」。




谷村(新司)さんにも悪いが、博多の人間が聞くと、売れ残りの名物バター菓子の名前のようだ。
「名物『三都物語』。バターでくるんだ潮風の味ぃ〜」
小池さんのことを批判している場合ではない。
武田先生自身もいわゆる「口舌の徒」。
口と舌で生きているような人間なのでいつ「けつまづき」が待っているかわからない。
この間も武田鉄矢の悪口がボロクソ載っていた。
ムカッとくる。
腹が立つ。
だが、やっぱりつまづくことはいつかあるのだろう。
妙なご意見番化する武田鉄矢、物議醸す発言で番組盛り上げ? コンビニの成人雑誌「俺は見るね」 - zakzak
「水戸黄門を演っているので、ご意見番を気取った武田鉄矢は和田アキ子のマネをして」という。
もう発言は気をつけている。
やっぱりペロッと喋っちゃって「あ、痛っ!」というのが。
結構痛い目に遭っている。
だからそういう人がいることを忘れてはいけない。
発言等々「一言間違えたら大変なことになる」という方、ここからは熱心に聞いてください。
まずは8つの条件を必ず頭の中に入れて発言する前に振り返ってみてください。

「体調」「予期せぬ出来事」「環境」「自信」「天気」「相手の様子」「時間」「感情」(45頁)

「こういう8つを条件にして自分の発言に気をつけましょう」と。
「8つもあるのかー」と思うかも知れないが、慣れれば必ずできるようになる。
発言する前に自分の調子。
自分は油断があるかどうか。
慌てていないかどうか。
それは確かなことか。
そして今は朝か夕方か。
この後にいいことか悪いことか、そのどっちが待っているのか。
そういう想像力を持ちなさい、という。
政治家の方の失言というのは、そういう意味では非常にやっぱり体調があまりよくない時に多い。
週刊誌の人に囲まれて「ホテル行きましたよね?昨日」と言われるとやっぱり何て答えていいかわからない。
普段から自分をしつけておかないとダメで。

朝の8〜10時は、朝食を食べて交感神経が高まってくると同時に、副交感神経も比較的高い位置にあるので、非常にバランスが整っている時間帯です。会議や重要な会議など、集中力やひらめきを要する仕事を行うのに最も適しています。−中略−
 午後4〜6時は、再び自律神経のバランスが整ってくる時間帯です。
−中略−重要な会議や決断をするのに適しています。(53〜54頁)

 まず、最も大切なポイントは、ゆっくり話すということです。(58頁)

背筋を伸ばして、笑顔で。
どんなことでもまずは相手を褒めるところから話の切り口にしなさい、と。
何か違う視点を持っているかどうか。
話す時はなるべく大きく、楽しそうな、抑揚をつけて話しなさい、と。
そうすると不用意な失言はなくなる、と。
「そんな人がいるか?」と疑う向きもあるかも知れないが、やっぱり「話し上手」というのは世の中にいる。
ゆっくり、背筋を伸ばし、笑顔で、褒めるところから、違う視点で、大きく、楽しそうな、抑揚をつけて、という。
この番組をやっている武田はどうするか?
申し訳ないが、喋り上手の人たちの喋り方のマネをすれば、武田先生はけつまづくだろう。
やっぱりビート(たけし)さんと語っていて、ビートさんのリズムに武田先生が何か乗っかって喋ったら問題発言をすると思う。
松ちゃん(松本人志)とかというのはその危険性がある。
松ちゃんは喋らせる。
それで過激なことを言うから、こっち側も過激でスピンをかけて返す。
それは問題発言になりやすい。
武田先生はやっぱり、こういう人たちの喋り方のマネをすれば、人生を失うほどのミステイクをするかも知れない。
基本的に「口は災いの元」である。
しかし武田先生たちの商売は「災いを金銭に替えている」ワケだ。
だから危ない橋を渡ってきたし、これからも渡らざるをえない。
しかし、武田先生もだんだん年をとってきているので、反応が鈍くなる。
近年、ひたすらこの人を目指そうかなぁと思うお手本が実はある。
ご本人にそのことを申し上げたら、信用してくださらない。
この方は謙虚な方なので。
大沢悠里さん。
この人の喋り方はいい。
この人はご自身でおっしゃらないが、日本で一番聞かれているラジオ番組をこの間までやってらっしゃった。
これは『大沢悠里のゆうゆうワイド』。
この番組はすごい。
この人の全国放送の喋り方は北海道から沖縄まで聞く人がいる。
これはやっぱりすごい「喋りの力」。
豆腐の切り方が上手い。

大沢悠里のゆうゆうワイド 女のリポート100選



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2018年04月21日

2018年1月31日〜2月2日◆元気も気から

これの続きです。
(今回は週の途中から本とタイトルが変更になっているので、変更になっている部分から記事を立てる)

今日はヒョウ柄を着る日



「ヒョウ柄」についてのイメージ。
ヒョウ柄を着るおばちゃん。
特に関西。
女性にとってヒョウ柄を着る時は「攻める」時。
「最後の一枚」になった時にヒョウ柄を身につけているかどうかというのは女性にとって重大なこと。

 私が人生で最初にヒョウ柄を意識したのは、一九七八年、英国出身のロッド・スチュワートだった。大ヒット曲「アイム・セクシー」を収録したアルバム「スーパースターはブロンドがお好き」(すごい放題である)のジャケットでロッドは、体に張りつくヒョウ柄と虎柄の入り混じったボディスーツを着た、放漫なブロンド女性を抱いていた。そしてロッド自身もまた、ムッチリした体にパツパツのヒョウ柄パンツやスーツを身に着け、ステージで熱唱していた。(9〜10頁)

スーパースターはブロンドがお好き



 ロッドは性的魅力を表現するツールとしてヒョウ柄を取り入れたのだろう。(10頁)

 振り返れば、まだベルリンの壁が存在していた頃に訪れた西ベルリン一の目抜き通り、クーダムで夜な夜な客待ちをしていた高級娼婦の女性たちも、ヒョウ柄率が高かったように思う。(10頁)

ヒョウ柄のビキニを着ている女の子と恋仲になって、ギュッと抱きしめて「やめてください!そんな、そんな不潔な…」とアゴを突かれるとすべてが崩れる。
一回突かれたことがある武田先生。
「違うんです!私、そんなんじゃないです!」
何が違うんだい?
とにかくヒョウ柄というのは、そういう意味では「野生」だったり「セクシー」だったりという。

ところがまことに不思議なことに、星野さん曰く「なぜだろう?この地域性は」。
東京、京都、博多、そういう大都市、名古屋でも見られない。
「大阪でのみ、おばちゃんたちがヒョウ柄をまとう」という。
(本の内容としては大阪のおばちゃんしかヒョウ柄を着ないという話ではく、大阪のおばちゃんがヒョウ柄を着ているというイメージについて書いている感じ)
一体、大阪のおばちゃんはなぜヒョウ柄を身につけるのか?
では関西方面、特に大阪でヒョウ柄に託された意味は何だろう?
ヒョウ柄のおばちゃんが店に入ってきた瞬間、店の支配人以下が何を直感するか?
ヒョウ柄をまとったおばちゃんが店に入ってきた瞬間、店にピッ!と緊張が走る。
セクシーでもなければ発情でも野生でもない。
何を直感するか?
「こいつ、値切ってくるわ…」
その緊張。
つまり、ヒョウ柄とは関西でどう意訳されるか?
「ツッコむ」
このおばちゃんの野生の解き放ちのシンボルがヒョウ柄、つまりヒョウ柄はここから関係している。
おばちゃんたちに「値切れ!」という気を発散させる柄。
では、このアニマル柄に関する思いだが、なぜおばちゃんたちはヒョウ柄で「虎」ではなかったか?
普通は虎。
何で虎で突っ込もうとしなかったのか?

 虎は、微妙だ。−中略−ヒョウ柄が「大阪のおばちゃん」を代表する特徴であることに思いを馳せれば、虎柄で勇ましさを表現するには多少困難があることは想像がつく。
 阪神タイガースのファンと間違えられるのだ。そして誰もが知っている通り、タイガースはあまり強くない。勇ましさを演出するより、弱さの象徴と見られかねない。
(15頁)

何気ないが、おばちゃんたちがヒョウ柄で武装をするということは、動物の「気」をわが身に引き入れること。
大阪のおばちゃんたちはヒョウ柄を着た瞬間、一種戦闘モードになる。
人間というのは動物の柄を借りて、その「気」を自分に移す。
だからファッションというのは、そういう意味ではアニマル柄を先頭にして、色も含めて、「気」をこちら側に引き寄せようとする。
やっぱり元気も「気」から始まる。
柄どころかTシャツにヒョウの顔が入っているような人がいる。
それはやっぱりアニマル柄に託した「気」。

戸越銀座で観察していると、ヒョウ柄以外におばあちゃんたちから人気を博している動物が、もう一種類いることに気がついた。シマウマだ。(16頁)

たまたまこの日、シマウマ柄のバッグを持ってきていた水谷譲。
東京の戸越銀座ではシマウマ柄のおばあちゃんが増えている。
これはシマウマの「気」をもらおうとする女性の心理が隠れているのではないか?
シマウマは「性的なアピール度」は非常に低い。
戦闘的ではない。
ツッコミ度も少ない。
シマウマ柄で「負けてくれ!」とかっていうツッコミというのはちょっと考えにくい。
シマウマは冷たく言うと肉食獣にとっては「餌」ということでもある。

古代からヒトと共に生きてきた馬との最大の違いは、シマウマは家畜化できないという点だ。(17頁)

 おとなしそうに見えて、実は芯が強く、けっしてヒトになびかず、戦うより逃げるほうを選ぶシマウマ。(18頁)

つまり「家なんかにいてられっか!」「アタシゃ草原走るんだよ!」という。
その心理こそがシマウマ柄に託された女性心理。
シマウマ柄のバッグで来た水谷譲。
夜に家に帰らずに食事に行く。
産んだ子供も待っている亭主もほったらかして「お食事をしたい」という、この欲望がシマウマ柄を引き寄せさせている。
シマウマは家畜化不可能。
だからおばあちゃんがシマウマ柄を着る時は「よーし!遠くへ行こう!じいさん置いて!」という。
簡単に「アニマル柄」と言うが、我々の心理の中に、実は「気」をもらうためにたくさん動物を引き寄せている。
シマウマ柄のバッグに入っている化粧ポーチがヒョウ柄な水谷譲。
こういう動物の柄とか動物の形を引き寄せて、自分の「気」にしようという。
こうやって考えると面白い。
それゆえにヒョウ柄をまとう高齢者女性。
これを星野さんは一種「武装化」とおっしゃっている。

 私は彼女たちの武装化を笑うことはできない。何が彼女たちをそうさせるかといったら、誰も守ってはくれない、という諦めに近い感情があるからだろう。社会全体が、年寄りを騙そう、年寄りからむしり取ろうという方向へ動いていることは、もはや誰の目にも明らかだ。(21頁)

ヒョウの如く戦うか、シマウマのごとく逃げるか?
戦うか逃げるかの選択。
その「気」がアニマル柄を高齢者に着させているんだ、という。
アニマル柄を引き寄せる「気」とは何かというと、この女性作家はその「気」のことを「覇気」と呼んでらっしゃる。
(本の中に登場する「覇気」はそういう文脈では登場していないようだが)
まさしく「覇気」。
中年とか若年層の方に「そんなことないよ。俺ら年寄り大事にしてるよ?」とか思ってらっしゃるかも知れない。
そういう若い人を信じる武田先生。
ただ、目の端から入ってくる社会的な全体の情報の傾向というのは、やっぱり「ジジイ」「ババア」という。
「日本の成長の足かせになっている」という。
もう政治家の方だって「少子高齢化」とおっしゃるのだから、高齢が問題になっているわけだから。
どこかでやっぱり「老いることの暗さ」というのを感じてしまう。

後半の章でおっしゃっている「覇気」。
これは「やる気」とか「元気」みたいなヤツと同じで、もっとすごいスーパーファイトみたいなもので「覇気」という章がある。
(本の中では「覇気」を「負けず嫌い」の言い換えとして紹介されているが)

世の中はどうも年寄りに関して冷たい。
年寄りに関して「追いつめるような」という。
武田先生はそういうふうには思わないが、そう言われると確かに。

 新聞や雑誌を開けば、「認知症にならないための生活習慣」とか、「こんな人が認知症になりやすい」「終活をしよう」「遺書を書こう」「子に迷惑をかけない人生の終わり方」「ピンピンコロリ」「あとで揉めない財産分与」といった文言が溢れている。−中略−
 そういった扇動的なうたい文句が目に入ると、年をとること自体が罪のように思えてきて、「生きててすみませんよ」と言いたくなるのだ、と母は言う。
(31頁)

年寄りのやる気、元気を奪う傾向が社会全体にあるのではなかろうかと。
年寄りの覇気を奪うという傾向に世の中全体があることは間違いない。
そしてこの逆。
とにかく持ち上げるだけ持ち上げる。
「90歳で現役」とか「100歳の芸術家の○○さん」とか。

九十歳。何がめでたい



そういう90歳で現役で皮肉っぽい文章を書いている女流作家とか。
まるでそれが年寄りのお手本のごとく「この人を見よ!」という
星野さんはよく見ていて、この手の人たちはすべて共通する一点がある。
「元気」「やる気」と同じように。
お年寄りに向かって「この人が年寄りのお手本だ」という人の共通点は「すべてこれらの老人には、ある程度の資産がある」。
(とは本には書いていないが)
そういう資産家で長生きをしている人を集めて「私の生き方は正しかったのだ」というような勝利者発言をさせて「見習え」と他の老齢者に向かって。
そんな加齢に関するプレッシャーをかけるのが今のやり方なんだ、と。

「ああいうのは、ごく一部の幸運な人たち。誰もああはなれない。なのに自分のようになれってプレッシャーを与えてくるから腹が立つ」
 母はさらに続けた。
「年とっても一線で活躍するというのはね、よっぽど我が強いか、人に遠慮しないって証拠だよ。
(33〜34頁)

年をとると行動範囲が狭められ、社会性が失われる分、もともと強い人はいっそう自己主張が強くなる。自分の言い分ばかりを押し通して周囲の調和をかき乱し、傷つけられて泣かされる人が後を経たないのだという。(35頁)

でも人間はあんまり強いと、人から嫌われる。友達が誰もいなくなって、嫌われてることに気づかないまま、ひとりで長生きすることになるんだよ」
 私は言葉を失った。弱くてもダメだし、強くてもダメ。年をとるってそんなに難しいのか。
(35頁)

人が長生きしているのは、たまたま長生きしているだけだ、という。
あんまり長生きを事細かに分析するな、と。

もう結構な歳になっている武田先生。
今、性欲がどんどん引いていくので「勉強しなきゃ!」と思う。
何で昔、あんなに夢中だったのか?
昔あんなに好きだったのに。
最近、自分が「あんなことしたら痛いよ〜」と思う。

 ホルスタインといえば、思い出がある。三十年ほど前、ある小劇場の稽古場に出入りしていた時、裏方として働く元女優さんと親しくなった。−中略−その彼女が、来る日も来る日も、ホルスタイン柄の服を身に着けていたのである。−中略−
 彼女はとてつもなく、おっぱいが大きかったのだ。
(17頁)

自分はアニマルには関係ないと思ってバッグを開けてみた武田先生。
身につまされた。
まず、意味もなく手ぬぐいを持っているのだが、手ぬぐいはやっぱり自分の理想。
龍。
ドラゴンは武田先生にとっては永遠。
ここからが最高。
これが今の自分。
ポーチはボンボンを振っている「柴犬」。
洗面道具を入れているのは「猫」。
つまり、武田先生は家にいついている。
奥さんとか子供を守るために「ワンワンワン」とか「ニャンニャンニャン」とか言っている。
でも、龍一匹だけを離せないところが武田先生らしい。
「アニマル柄なんて俺に関係ない」と思ったが、バッグをさぐると以外なアニマルが鞄の中に隠れている。
まさに武田先生の心理の代表。
それは犬と猫だったという。
また猫が情けない。
招き猫。

posted by ひと at 07:11| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年1月22〜30日◆病は気から

奥様に言われて大量にサプリメントを飲んでいる武田先生。
5〜6種類。
それと同様に病院から頂いた薬も5〜6種類。
毎日十種類が体の中を通過していく。
「なんだか効いてんだか効いてないんだかわかんない」みたいな。
「飲み続けることに意味がある」と奥様から言われる。
フッと何か言われると、そこに思いが行く時がある。
「そういえばアナタ、最近マッサージ行かなくなったね」とかと言われると「あ、そういえば」と思い当たる。
フッと気がついたら二か月近く整体を受けていない、マッサージをやってもらっていない。
定期的に月に二回、二週間に一回。
それが二か月近く開いている。
「あれ?女房の勧めたアレとアレとアレかな?」と思ったりなんかした。
それで去年のこと、暮れに「納め」ということで体をやってもらった。
凝ってる凝ってる。
整体の先生からはっきりと「開かずにやった方がいいと思いますよ?」。
何のことはない。
奥様の言葉に酔ってしまっていた。
「最近、整体受けないぐらい元気がいいね」と言われたものだから「元気、元気」と。
やってもらうと、やっぱりちゃんと疲労がたまっている。
それでも時折、フッと「アレのおかげかな?コレのおかげかな?」と摂っているサプリから連想することがある。

「健康」「病態」「天候」「芸能」「不倫」「モチベーション」「(とある人間の)心理」
これらの名詞の中にすべて共通するものが一つある。
その一語が、これらの単語の半分を占めている。
これらを全部別の言葉で言い換える。
「元気」「病気」「天気」「人気」「浮気」「やる気」「本気」
何のことはない。
半分は「気」。
人間の事情はかくのごとく、半分は「気」が絡んでいる。
ほとんどの人は「気」は取り上げない。
なぜ「気」を取り上げないか?
それは「気」を買い求めることができないから。
もし「気」が買えるんだったら、もう売っている。
「(ジャパネットたかた創業者・高田明氏ふうに)ご注目ください!今なら古い気を引き取って、マイナス4千円!びっくりのお値段!」
「気」を売りたい。
やってらっしゃる方はいらっしゃる。
江原(啓之)さんとかが売ってらっしゃる。
教えたり、指導なさっている。
「南の窓に黄色を貼っとくと、とっても…」
Dr.コパさん。
この方々が売ってらっしゃる「気」が「運気」というので、やっぱり「気」というのは凄い。
ただし、運気に関しては石やネックレス等々がある。
この「気」を売ることに関しては、やっぱり霊感商法等々で罠がいっぱい待っているという。
「気」とは文字と言葉で存在するが、実体は謎。
そして取り扱いがほとんど行われていない。

「病は気から」を科学する



これはチャームなタイトル。
「痛いの痛いの飛んでけ!」
これはドイツ語でもスペイン語でも共通。
英語でもある。
「ペイン、ペイン、ア、ゴー」
(調べてみたが「Pain, pain go away」)
「痛い痛いあっち行けー」という。
これはもう、世界中にこの、子供を案ずる母の呪文、謎の呪文として「痛いの痛いの飛んでけ!」は存在する。
この「痛いの痛いの飛んでけ!」というのが、ただ「おっかさんの呪文」で終わるかというと、そうでないという実例がポコッポコッと医学界に出現する。
「親の呪文で子供の痛みが消えた」という実例がある。

 ニューハンプシャー州ベドフォードで暮らすパーカー・ベックは、二度目の誕生日から数ヵ月が過ぎるまでは、明るく健康な男の子のように見えた。しかし、その時期から、自分の世界に閉じこもるようになった。笑うことも、話すこともせず、両親の問いかけにも応えなくなった。夜間、頻繁に目を覚まし、甲高い奇妙な叫び声を上げ、体を回転させる、両手で自分の頭を叩くといった行動を繰り返した。医師の助言を求めた両親ビクトリアとゲイリーは、返ってきた言葉におびえた──息子の様子は自閉症の典型的な兆候だったのだ。息子に最高の治療を受けさせようと努力したものの、パーカーの症状は悪化する一方だった。ところが、一九九六年四月、パーカーが三歳のとき、驚くべきことが起こる。
 自閉症の子どもにはよくあることだが、パーカーにも胃腸障害があり、慢性的に下痢をしていた。
−中略−
 検査そのものからは有益な情報は得られなかった。しかし、パーカーは一夜にして劇的な回復を見せた。胃腸の調子がよくなり、ぐっすり眠るようになった。さらに、以前のように意志の疎通が取れるようになった──人に微笑みかけ、アイコンタクトを取るようになり、ほとんど口を利かない状態だったのに、突然、教材用の絵カードを読み、ほぼ一年ぶりに、「ママ」「パパ」と言ったのだ。
−中略−
 彼女は病院を説得し、パーカーが受けた内視鏡検査について、使用した麻酔剤の投与量など細かい部分まで調べた。消去法の結果、彼女は息子の症状を変化させたのは、セクレチンという消化管ホルモンの投与だと確信した。
(22〜23頁)

(番組では「1996年6月」と言っているが、上記のとおり本によると4月)
セクレチンが難病の自閉症に効くなんていうことはあろうはずがない。
もう、それは大騒ぎだった。
ところがセクレチンを使用したことは事実。
その前日面倒を見てくれた医者のところに行って、セクレチン投与を願うのだが「検査もしないのに飲ませられない」ということで、その薬を投与してくれない。
医師から拒絶される。
そこで夫婦は何と、事情を説明しながら全米の医者に「セクレチンを打ってくれないか」と掛け合う。

一九九六年十一月、ようやく彼女の話が、カリフォルニア大学アーバイン校の精神薬理学の教授であり、自閉症の息子アーロンを持つケネス・ソコルスキーの耳に入った。−中略−
 この結果に納得したメリーランド大学のホルバートが、三人目の少年にセクレチンを投与したところ、その少年も同じ反応を見せた。
(24頁)

ビクトリアはパーカーの治療をしてくれる別の医師を見つけ、一九九八年十月七日、彼の物語がNBC『デートライン』で何百万もの視聴者に向けて放映された。(25頁)

 わずか二週間で、米国で唯一、セクレチン製造認可を受けていたフェリング・ファーマシューティカルズ社は在庫を売り尽くした。インターネットでは、一回分のセクレチンが数千ドルで取引された。購入するために自宅を抵当に入れたり、メキシコや日本から闇で手に入れたりした家族の話が伝わった。(25頁)

ところが調べても調べても、なぜ自閉症が改善したのか、医学的理由がまったく分からない。
出た結論は「プラセボ」。
「偽薬効果ではないか?」ということ。

ノースカロライナ州アッシュビルにある、子どもの発育を研究するオルソンハフセンターの小児科医エイドリアン・サンドラーは思い出す。−中略−
 サンドラーの試験の参加者は、そのような試験の標準的な基準に従い、無作為に二群に分けられた。片方の群はセクレチンを投与され、もう片方は偽薬つまりプラセボ(この試験では生理的食塩水の注射)を投与された。
−中略−結果は驚くほど悪いものだった。二群の間には有意差はなかった。−中略−「セクレチンを投与された群も、生理的食塩水を投与された群も、治療に大きな反応を示したのです」(26〜27頁)

セクレチンも効くが、本当に困ったことに食塩水も効いた。
(番組内ではセクレチンと食塩水と「通常の(自閉症の)薬」の三種類で実験をしたというような説明になっているが、本によるとセクレチンと食塩水のみ。というか自閉症の通常の薬なんて聞いたことがない)

 ボニー・アンダーソンがキッチンの床が濡れていると気づいたときは、もう手遅れだった。
 二〇〇五年の夏の夕方、七十五歳のボニーは、
−中略−浄水器の水漏れのせいで濡れていたタイルに足を滑らせ、背中から倒れ込んだ。
 ボニーは身動きできなくなり、背骨に耐えがたい痛みを感じた。
−中略−背骨にひびが入っていた。−中略−つねに痛みに悩まされ、皿洗いのために立ち上がることすらできなかった。−中略−
 数か月後、ボニーは椎体形成術と呼ばれる有望な外科手術の臨床試験に参加した。
−中略−手術後、病院から出たとたん、具合がよくなった。「すばらしい気分だった」と彼女は言う。「本当に痛みが消えていた。ゴルフもまた始めたし、したいことが何でもできたの」−中略−
 椎体形成術がボニーのひびの入った背骨の問題を解決したのは間違いない。ただ、ボニーが知らないことがある。あの臨床試験に参加したとき、彼女は椎体形成術群に入っていなかった。彼女が受けた手術は偽物だったのだ。
(28〜29頁)

驚くなかれ。
なんとこれは手術そのものがプラセボであったという。
彼女は数十分間眠っていただけで、数十分間後起こされて「終わりましたよ、手術。きれーいに傷口もふさがっておりますから、ちょっと自分の目でね、見られないかも知れませんが。違和感あります?ないでしょ?きれーいに塗ってありますから。すぐ抜糸して。回復早いですよ」。
とにかく彼女は「術後はよくなる、よくなる」を医者から説得させられて退院した。
元気に歩けるようになった数か月後に「全部ウソ」と。
(本人に知らせたという記述は本の中にはない)
こういうのを聞くと、やっぱりスタートで言ったが「病気」の半分は「気」なのだという。
「病」「気」という。
著者のジョー・マーチャントさんは、なかなかべっぴんさん。
この方は女性の方。
もう「これでもか!」というような実例を全米から集めてらっしゃる。
だが、読んでいくうちにこのプラセボ、偽薬なのだが、ちょっと不思議になっていく。

 リンダ・ブォナンノは会ったとたんに私を抱きしめ、−中略−過敏性腸症候群(IBS)との闘いについて話し始める。−中略−腸の痛み、急な腹痛、下痢、鼓脹に苦しむようになった。−中略−
 病気は社会生活も壊してしまった。症状がひどいときには、「家から出ることもできない」と彼女は言う。「痛みのあまり気絶したり、四六時中トイレに駆け込んだりするから」
(52〜53頁)

 過敏性腸症候群の患者の多くがそうであるように、リンダも何年もの間、病院を転々として。−中略−しかし、それもハーバード大学医学部のテッド・カプチャクが主導する臨床試験に参加するまでのことだ。それは、プラセボ研究の世界を根本的に変える試験だった。(54頁)

彼女を担当する胃腸科専門医、ハーバードのアンソニー・レンボは、カプチャクの共同研究者だった。担当医を通して臨床試験に参加したリンダは、ボトルを手渡された。−中略−最新の実験薬を試すのだと、リンダは興奮していた。ところがレンボは、「この薬は有効成分が一切入っていないプラセボだ」と説明したのだ。
 リンダは医療助手としての訓練からプラセボの知識があり、ばかげていると思った。
−中略−彼女はボトルを持ち帰り、一日に二回、カプセルを紅茶で飲んだ。−中略−数日後、ふと気づくと症状が消えていた。(60〜61頁)

偏頭痛の臨床試験では、−中略−薬、プラセボ、何も与えないという対応をした。するとプラセボと知りつつ飲んだ場合、何も飲まなかった場合と比較して、痛みが三〇パーセント軽くなった。(61〜62頁)

この「プラセボ」に対して今、その逆の「ノセボ効果」というのがある。

 ビビハジェラ高校は今にも崩れそうだ。アフガニスタン北東部のタルカンにある、泥レンガで造られた建物だ。−中略−
 少女たちは次々と吐き気とめまいに襲われ、気を失った。数時間のうちに、百名以上の生徒と教師が病院へ運ばれた。
−中略−
 そして、今回は毒が使われたように思われた。アフガニスタンでこうした事件は多く、ビビハジェラ高校での出来事は、その年六番目の事件だった。二〇〇八年以来、国中の二十二の学校で千六百人以上の生徒と教師が、似たような状況で健康を損なっている。
−中略−
 ところが、症状はすぐに消えた。少女たちは残らず回復した。さらに、何百個もの血液、尿、水のサンプルが検査されたが、結果はどれも異常なしだった。
(68〜69頁)

原因は、「集団心因性疾患」だったのだ。(70頁)

一種「集団催眠」のようにして「病」と同じことで、という。

 ノセボ効果は害を及ぼすこともあるが、進化の観点から見れば、道理に適っている。−中略−人は周囲の人たちが病気になっていくのに気づいたとき、あるいは自分たちは毒を盛られたと確信したときに、嘔吐を始めるのは賢明な対策だと主張する。−中略−頭痛、めまい、失神はどれも、危険な可能性のある場所から逃げろ、治療が必要だと伝える警戒信号として役に立つのだ。
 この観点から見れば、ノセボ効果は、「周囲の何かがおかしい」という心理的なヒントによって引き起こされる、無視できない生物学的なメッセージだ。
(72〜73頁)

実はそのことでたくさんの危険から逃れてきたという実績があって人間の体の中に残っている。
だから、妙に頑張らず、パタッと気絶するというのは、気絶した方が生存競争の中では有利。
それで今の人類もこれを持っている。
吐き気も半分「心理」。
嘔吐は移る。
昔、加山(雄三)さんの光進丸に案内された武田先生。
演出家が「ちょっと面白いギャグやろう」というので「どうだろう。甲板に吐くっていうのは」と言われて「加山さん、驚かそうよ」とかといって吐くふりをしていたら、本当に気持ち悪くなった。
だからやっぱり吐き気は移る。
そういうことを考えると、集団心因性疾患というのがある。

あからさまな言い方をすれば、医師にもプラセボとノセボの効果がある。
その人に会うと治ったような気になるのと「俺、もう死ぬんだ…」みたいな。
「今、武田さん、これぐらいで終わってますがね?」と言ってボタンをポンポンと押すと、それがどんな病に発展していくか一瞬のうちに画面に出るという。
そういうスマートフォンみたいなヤツをお持ちで。
どんどんひどくなる病態を説明されると、もう気が重い。
やっぱり「会うと元気のなくなるお医者さん」というのはいらっしゃる。
歯医者さんがすごくいい人に当たった武田先生。
この歯医者さんは自分も歯が悪い。
自分も歯が悪い歯医者さんの言葉ぐらい患者を励ますものはない。
「ここはね、武田さん。痛いんだぁ〜」とかって言いながら、ガリガリガリガリ…という。
「あ〜!でしょう?私もねぇ、痛かったよ。ここはぁ〜」と言いながら。

この著者が言っているのは、プラセボを利用して「薬をなくす」ってことが無理かも知れないが「減らす」ということはできるはずだと。

 条件反射を利用して薬をプラセボと置き換えることを、プラセボ制御による薬剤減量(PCDR)と呼び、副作用が軽くなるだけでなく、医療費を何十億ドルも削減することができる(104頁)

お医者さんにもはっきり言われたことがある。
薬を出さないと「ものすごい頼りない医者だ」と思われる。
だから弱いお薬というのをプラセボ代わりに出すお医者さんもいるという。
だから知恵のあるお医者さんは、そういうお医者さんもいる。
「毎日必ず飲んでくださいね」と言っておくと飲んでいるうちに「そういや…」という。
たまに「いや、お薬いらないですから」と言われると「え?ないの?」と思うことがあるという水谷譲。
だからお薬を勧めると言いながらも、それがノセボ効果になるものもあれば、逆にそれが非常に効果的な偽薬の効果になることもある。
お薬を飲む時は「1日2回」と決められると、飲むたびに「少しずつ良くなるはずだ」と思って口に入れるのだから、充分なプラセボ効果だと言えることがあるだろう。
まことに体とは科学的ではなくて、不思議なものだということをどこかで半分覚えておかなければならない。

 一九七八年五月八日の朝、霧と風と雪が渦巻く中、ふたりの男性がのろのろと進んでいた。−中略−
 数百メートル上にあるのは彼らのゴール、エベレストの山頂だ。
−中略−ヒラリーも、それ以降の登頂者たちも、酸素に頼って登っている。しかし、三十三歳のイタリアの登山家ラインホルト・メスナーと、オーストリア出身の登山パートナー、ペーター・ハーベラーは酸素なしで登頂することにしたのだ。−中略−
 登山家や医師たちは一様に、どうかしていると言った。それほどの高地では、空気中の酸素濃度は海抜ゼロ地帯のたった三分の一だ。そんな状況で体に何が起こるのか誰にもわからなかったが、一般的には、ふたりは重い脳障害あるいはそれ以上の危険にさらされると考えられた。
(106〜107頁)

いくら吸ったところで酸素はほとんどないという大気の中で、彼らは疲労困憊、乳酸がたまりにたまって死んでいなければならないはずなのだが。
それが、立ち上がれなかったにしても、四つん這いで8800mのところに存在できた。
では、医学的に「生きていくために酸素が必要です」とは一体何か?
この辺も、もしかすると半分「気」ではないか?という疑いが出てきた。

 二〇一二年八月十一日、二十九歳のロンドン市民モー・ファラーは、おそらく間違いなく人生最大のものになるレースに出場するために、トラックへと歩いていた。ロンドンオリンピック大会の五千メートル決勝だ。−中略−一週間前、観衆はファラーが一万メートルで金メダルを獲得し、後世に名を残すのを目撃した。(110頁)

5千mで金を獲った時、1週間前に1万mで金を獲っている。
能力的に獲れるはずがない。
なんで1万と5千(で金メダルを)獲れたかというと、これが最大の謎。
1万mを走ったりなんかした後、疲労で体は使い物いならない。
(ウサイン)ボルトも皆そう。
それぐらい陸上の疲れというのは凄まじい。
ところがなんと彼は疲労で、いつブッ倒れてもいいコンディションで金を獲り、なんと金を獲った後、ロンドンの観衆に手を振りながら、ゴールの後はずっと1周走っている。
これは考えてみると謎。
疲労困憊で倒れるべき人が、なぜ金を5千で獲れたのか?という。
ここにまた「気」の問題が出てくる。
定説ではアスリートというのは1万mぐらい走ると筋肉が使い果たされて、筋肉にたまった乳酸という疲労物質のおかげで1週間ごときでは回復するわけがない。
これがなぜか定説が覆されたという。
これはもう、何で金メダルが獲れたのか?
もう「調子こいた」という。
「調子こいちゃった」と言うしか他ならないという。
やっぱり彼はイギリス人だから張り切っちゃった。

疲労は筋肉を限界まで追い込むことで起こるという古い考えは真実ではないということだ。−中略−疲労感とは、脳により中枢性に強いられたものという考えだった。−中略−疲労は身体的な現象ではなく、破壊的な損傷を防ぐために脳が作り上げる「感覚」あるいは「感情」だ。(114〜115頁)

 進化の観点から見れば、そのようなシステムは極めて理に適っている。筋肉が傷つくまで疲労に気づかなければ、過度の運動をするたびに衰弱状態になりかねない危険を冒すことになる。先んじて身体活動を中止することで、安全を確保し、疲労の大きな運動の直後にも機能し続けられる。「これがあったからこそ、人間が進化したのだろう。どんなことのあとにも、つねに別のことをするエネルギーが要る」とノークスは言う。たとえば、突然、捕食者から逃げなくてはならないかもしれない。狩りに出れば、仕留めたあと、必ず食べ物を家に持ち帰る必要がある。これこそファラーが二個目の金メダルのために全力を尽くしたあと、腹筋運動をし、ゆっくり走ってまわるエネルギーが残っていた理由だ。(115頁)

これがけっこう堪えた武田先生。
合気道の練習中に息が上がってくるとわりと「ちょっと休ませてくださーい」と言っていたのだが、一瞬「あれ?これ、脳の仕業なのか…」と思う。
もちろん体に無理をすることはよくない。
それはわかっている。
だが「疲労とは脳の現象である」ということを知ると、ちょっとやっぱり思うところがある。
「疲労を口に出しすぎる」という。
だから職場での過労等々も実は体の悲鳴ではなくて、脳の悲鳴なのだ。
今「働き方改革」とかと言う。
あれは身体の問題ではなくて心理の問題。
やっぱりいろんな職場での問題があるが「嫌なヤツが職場にいる」その心理的負担というのが体の疲労になって現れるという。
人間関係がよくて楽しく仕事をしていればそこまではならない気がする水谷譲。
いろんな悲劇が昨年も生まれた。

合気道をやっている武田先生。
合気道で毎日同じ武道の動きを練習する。
先生の言葉の中に「合気道は一体何を目指しているのか?」という。
「わかるかね?武田くん」
館長から言われた。
合気道の達人の先生である館長曰く「合気道が目指している極意は『火事場の馬鹿力』」。
「ストッパーを外す」という。
だから「考えるな!」という。
「考えるんじゃないんだ!体の動く通りに動け!」という。
そうしたら1m50cmの子が2mの巨漢の手首を一瞬のうちに折ることができる。
その力を付ける。
「『相手が強そうだ』とか至らんことを考えるな!『あ、動いちゃった!』という。『なぜ動くんだ』という境地にならない限り、合気道を習得したことにはなりませんぞ」と。
(漫画の)キン肉マンも言っていた。
彼の合言葉が「火事場の馬鹿力」。
(作品中では「馬鹿力」ではなく「クソ力」と表現されていたと思う)

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これはまた、とっても面白いことだが、ドーピング等々で大きいスポーツの大会が問題になっているが、ドーピングで「プラセボ」とか「疲労との関係」とかというのがわかってきたという。

(ここまでで一週分なのだが、今回は本が二週目の途中で変更になるので、本が同じ部分まで一個の記事に載せてしまう)

感動的な水谷譲とお子さんとのエピソード。
小学5年生で合気道をやっている。
一緒に歩いていて汚いものが目の前にあったので(母である水谷譲がお子さんに向かって)「ちょっとよけて!」と言ったら、ものすごく運動神経が悪い息子さんがピョンと跳び上がった。
それがすごい跳躍力だった。
「いつからそんなに跳び上がれるようになったの?」と言ったら本人が「これが火事場の馬鹿力だよ」と言った。
だから合気道がそこで繋がった水谷譲。
武田先生の指導者である(合気道の)先生がいつもおっしゃる言葉は「合気道は火事場の馬鹿力をいかに引き出すかであります」という。
これは実は『病は気から』に惹かれたのも合気道の館長の口癖。
「『気』を養成しよう。『気』を自分の中に育てないとダメだ」
「元気もやる気もみんな半分『気』ですよ、武田さん」とかと言われているうちに「あ、『気』だ」と思って。
そうやって考えていくと「気」はいっぱいあるなと思う。
武田先生の生活を支配しているのは「人『気』」。
それで今年もう一回(『水戸黄門』を)やるかどうかという「運『気』」もかかっている。
そうやって考えると暮らしの中に「気」が半分あるという。
「浮気も『気』だったな〜」とか。
「母ちゃんに確認されたのは、俺の本『気』度を試されたんだ」とか。
それで思い当たった。
こうやって考えると、いろいろ森羅万象の半分を占める「気」というヤツ。
そういうものは意外と大きいのではないかというのが、この本にフッと目が行ったという。

昨年大変なことが起こった。
桐生(祥秀)さんが日本人で9秒台を出した。
これは若い方はピンとこないかも知れないが、おじさんみたいなのはカール・ルイスから始まって「日本に100mは関係ない」と思っていた。
これがやっぱりちょっと「金・銀・銅の一角、入れるかも知れない」という。
そういうのが出てきたところが「気」の不思議さ。
桐生以外で9秒台が今年また出ると思う武田先生。
もう間もなく平昌(ピョンチャン)オリンピックがドンチャン始まる。
(放送は今年の1月なので)
あそこで出場停止に国ぐるみでなった国があるが、あの国のドーピングのおかげでいろんなことが分かった。
ドーピングの調査で分かったことは、直接筋肉に効く薬ではなく、脳に効く薬の方がドーピングにはもってこい。
だから、疲労感を筋肉からなくす薬よりも「脳が疲労を感じない」という、そういう薬の方がドーピングにはもってこいということが分かったということが、ドーピングを発見しようとすることで分かった。
脳を麻痺させること。

これは全く逆もある。
今、もの凄く問題になっているが「慢性疲労症候群」という病気があって「いつも疲れている」というのもある。
これも最初は「体の病気だ」と言われたが、昨今「脳の方の病気ではないか?」と言われているという。
(本の中での結論は「体の病気でも、心の病気でもない。その両方なのだ」)
かくのごとく「気」というものが人間の様々なものを支配しているという。
この「気」の育て方というのがまた難しい。
「武道」なんていうのはきっとそう。
「武道」というのは「気」を育てる運動だったのではないか。

武田先生が本当に納得がいかないこと。
フィギュアスケートが「10代がピーク」というのはおかしい。
もう引退してしまった(浅田)真央ちゃん。
あの子なんていうのは、女として綺麗になるのはこれから。
そんな、これから綺麗になる人を「シニア」と呼ぶというような競技というのは
、もうなくした方がいいんじゃないかと乱暴に思う時がある。
ちょっとそういう意味では非常にこの「ピーク」という考え方が肉体に寄りすぎているという。
特に女性の場合は体が丸みを帯びて重くなってくると飛べなくなる。
「回転もできない」という。
ただ、表現力は増していくと思う水谷譲。
実は我々が反応したいのはその表現力ではないか?と思うし、床なんかで金メダルを獲った人がいた。
床運動で国際大会で去年。
あの人なんかも変えた。
昔は細身の女の子がクルクル回るのがよかったが、あの子はプリップリで。
肉まんみたいな感じで力強い。
一つ発想を変えると、また別種の美しさがあるという。

昨年の年の暮れにコマーシャルを1本撮影した武田先生。
(タイミング的にスクウェア・エニックスのCMの件ではないかと思われる スクエニ、『星のドラゴンクエスト』新TVCMをオンエア開始 今年のCMを彩った勇者たち(武田鉄矢さん、デーモン閣下、ラモス瑠偉さん)が夢の共演 | Social Game Info
なかなかしんどい撮影で、どんどん追加された。
「もう帰れるかな」と思うと「あれもやってください」「これもやってください」。
スポンサーがいらっしゃったが、珍しくちょっとむくれてしまった武田先生。
覚悟をしていると我慢できるが、追加されると腹が立つ。
もうスチールは終わった。
それからコマーシャルの動きの方も。
左の肩が痛いし。
何で痛いかはコマーシャルが流れてからまたお話しする。
衣装が重かった。
共演者(おそらくデーモン閣下とラモス瑠偉)もなんだか気が合うのか合わないのかわからない人。
大変大手のスポンサーさんなのでよい印象を与えたかったが、ジジイというのはもうストレートだから「え?まだやんの?助けて〜!」とかというような醜態をさらした。
スポンサー様には申し訳ないと思うが、はっきり言って仕切りが悪いのでムカッ腹が立った。
ものは頼みよう。
予定していないのをどんどん追加してくる。
大きい声で「お疲れ様!」とかと言ったら「いえ・・・ちょっとよろしいですか?」と言われるという。
それで気の合わない三人でまた何か喋っていた。
「どう思うか」という。
「この賞品について」とか。
どうもこうもあるもんかい。
雇われているから、悪口を言えるワケがない。
喋っているうちに今度は三人が乗ってしまって、気の合わない三人が喋る喋る。
それで帰れるかと思ったら「また、もう一つ」というような。
この「追加される仕事への怒り」と言うか。
これは面白いが、今週の「病は気から」に則って言えば「人に無理をさせない」というような仕事がある。
休憩時間の長いボクシングだと思って欲しい。
3分戦って1分休憩だったらいいが、3分戦って15分休憩。
それの10ラウンドとなると、一種監禁状態になる。
これはわかるような気がする。
もう「3時間経ったとこで嫌になる」みたいな。
だから本当に難しいのは「働き方改革」というのは、「労働時間が短ければセーフ」というワケではない。
追加の仕事が、また仕事が終わった後で言ってきた。
「その働き方を改革してほしい」と思った武田先生。
だけど、その時にびっくりしたのは、そこの会社が立派な会社。
「武田先生からそこの会社の社員に呼び掛けて欲しい」と。
「5時になったんで、早くおうちへ帰ろう」と。
「もう無理な仕事はしないで、明日やればいいじゃん」とかと、武田先生の声を社内で流したいという。
その時に、無理しなければなかなか大変だろうその業界で「夕方5時には帰ろうね」と言うのを社長自らじゃなく芸能人にやらせるところが、今の企業の経営の大変さなんだな〜と思った武田先生。
その「やる気」の方、「働く気」の方の「気」の扱いもまた、なかなか難しいということ。
この「『病は気から』を科学する」ジョー・マーチャントさんは、この「気」の育て方を綿々と多方面にわたってこの後、追ってある。
例えば「マインドフルネス療法」。
マインドフルネスという心理療法がある。
それから「睡眠療法」。
「ゾーン」にいかにして入るかという。
スポーツマンを刺激するような。
それから「バーチャル・リアリティ」を使ったらどうかと。
最期にジョー・マーチャントさんは、この「気」の育成を「宗教」でやったらどうかと。
ところが、今ちょっと合気道に夢中な武田先生はどれにも乗らない。
睡眠にもマインドフルネスにもバーチャル・リアリティにも宗教にも乗らない。
「武道」だと思う武田先生。
それで自分が乗らないことは触らない方がいいと思う。

ここから次の本に乗り換える。
「病は気から」だったら「大阪のおばちゃんがヒョウ柄を着る気になった」というのは何だろうか?
「なぜ大阪のおばちゃんはヒョウ柄なのか」が気になったということで。

posted by ひと at 06:47| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月17日

2017年12月11〜29日◆なかにし礼(後編)

これの続きです。

笠戸丸は逆の意味で言うと幽霊船。
「沖を通るは笠戸丸」というのは幽霊船のようにバァーッと揺らめきながら沖を・・・という感じ。
二番目の歌詞もすごい。
語彙そのものが実に巧み。
二番目の一行目
燃えろ篝火朝里の浜に 海は銀色ニシンの色よ
ニシン漁のその夜は浜には煌々と篝火を本当に焚くそうだ。
これは火を燃やして魚を呼び寄せる。
魚を集める明かりとして浜辺に篝火を焚く。
もう一つ特徴なのは、なかにし礼氏が体験なさっている言葉だから重みがあるが、浜辺に篝火を焚きながら浜には物音ひとつしない。
物音ひとつ立ててはいけない。
音を聞くと魚が逃げる。
目に浮かぶ。
真っ暗い海の浜辺に煌々と篝火。
物音ひとつしない朝里の浜。
そしてやがて朝が来たのだろう。
ソーラン節に頬染めながら わたしゃ大漁の網を曳く
「労働のその弾む息から娘は頬を染めている」と、そう読み解ける。
礼氏曰く、これは違う。
これはなかにし礼氏から聞いたら『ソーラン節』はヤン衆が歌うと「猥歌」。
エッチソング。
もちろん正調は「ニシン来たかとカモメに問えばわたしゃ立つ鳥…」なのだが、あれは浜で曳いてヤン衆たちが歌う時は猥歌になっていて「カーチャンの上に乗っかってヤレンソーランソーラン…」というようなエロ猥歌。
それを延々と続ける。
その歌に娘は頬を赤く染めている。
その猥歌故に頬を染め、大漁の高揚もあるかも知れないが。
氏曰く、もちろん民謡の『ソーラン節』だが、ヤン衆が歌う『ソーラン節』というのは「中高校生が文化祭で運動会で踊る時に流れる、あんな歌詞じゃないんだ」という。
浜辺で唄われているのは「猥歌」なのだ。
「昨日カーチャンと寝床で船漕いだ」というような、そういう歌なんだ。
その猥歌に娘は頬を真っ赤に染めているという、そういう魚の生臭さと男女の性の生臭さが浜いっぱいに広がっているという。
活況と高揚、それが浜いっぱいにあの頃は広がっていたという。
そして、それらのすべての情景を飲んで時は流れ、今は「オタモイ岬のニシン御殿もいまじゃさびれてボロボロの幽霊屋敷のようだ」という。
(番組中「オモタイ」と言ったが、もちろん「オタモイ」)
そして時世が変わる。
時間が変わって「あれからニシンはどこへいったやら」。
いきなり時間が飛ぶ。
だから武田先生が言う「能狂言」というのがわかる。
一瞬のうちに時が掻き消えて、別の時間になってしまうという。
とても大きなお城が一瞬のうちに荒城のお城に一変するというような、そういう歌の深さを持っている。

最後の行に出てくる不思議な一行
かわらぬものは古代文字
これはここに行かないとわからない。
ここの浜辺に行かないと、この一行の謎は解けない。
よくこんな歌詞を入れたものだ。
小樽のこの浜辺の洞窟の中に、解読不可能な古代文字が刻んである。
「それをメソポタミア人が書いたんじゃないか」と言われるような楔形文字。
どこか、いつかの時代、誰かが書いたらしいのだが、これは今、洞窟遺跡として小樽の郊外の浜辺に残っている。
小樽市 :小樽市手宮洞窟保存館
縄文の文字なのかメソポタミア文字なのか判読不可能で謎はそのまま、今日も謎のままそこに置かれている。
そのことを詩人なかにし礼は
かわらぬものは古代文字
と締めくくって
(番組中「わからぬ」と言っているが「かわらぬ」)
わたしゃ涙で 娘ざかりの夢を見る
という。
老婆が賑わいの消えた荒れた砂浜に膝を抱えて座り込んでいるという情景で終わる。
ここまで説明しないとこの歌は聞けない。

武田先生のノートから。
なかにし礼氏は自信の「ルサンチマン」憎悪みたいなものを一曲に仕立て上げる、そんな人じゃない。
そういう恨みごとを綴るような、そんな詩ではないと。
この人は憎しみもするけれども、その憎しみをもっとも美しい言葉で語ることのできる詩人だと。
普通、憎しみというのは同じことを繰り返す、ただのグチになってしまいがちがだが、なかにし礼という詩人は自分の憎しみをもっとも美しい言葉で表現できた。
『石狩挽歌』は借金を背負わせて逃げ回り、やっかいをかけた兄への恨みの歌なのだが、その恨みの歌と恨みの情景をこれほど深い詩の次元まで…。



この一曲を踏まえてだが『夜の歌』という彼の自伝的小説の中には、このお兄さんの最期も書かれている。
これがまたびっくりするような。
このお兄さん「特攻隊帰り」と言ったが、なかにし礼さんはその後、お兄さんが亡くなられた後、同期でその特攻隊の部隊にいた戦友の方とお会いになっている。
お兄さんは特攻隊は特攻隊でも、飛行機がなかった。
もう戦況がボロボロで、特攻隊と言っているが飛ぶ飛行機がなかったそうで。
お兄さんのことを詳しく聞くと飛行機に乗ったことがなかったそうだ。
実際の訓練はまったく受けていないそうで。
配属された部隊はそうだったかも知れないが、実際としては飛行機にはまったく乗ったことがない方で。

兄は国旗に抱かれて焼かれたいと申しました。その願いをかなえてやりました。(『兄弟』322頁)

全部が終わった後、なかにしさんはちょっと苦しげに「あれも全部ウソか?」とおっしゃったのだが、まあ、お兄さんは別の意味での歌を書いてらしたのだろう。
実際は飛行機に乗ったことがない特攻隊兵士であったというようなオチになってしまうが。
ある意味で、ちょっと胸が痛くなるような人生。
なかにしさんの話はこれでは終わらない。
兄を見送ってから、もう一人の兄の物語が続く。

なかにし礼さんが慕ったもう一人の兄。
それは石原裕次郎。
昭和を代表する大スター。
偶然に出会っただけの銀幕のスター。
その銀幕のスターは市井の青年でしかなかった、なかにし礼さんに「歌謡曲の詩を書けよ」と勧め「できたら俺んとこ持ってこいよ」と気まぐれな一言を残し去っていき、残された青年はそこから作詩家の道を歩みだしたという。
まさに彼の人生の舵を海の方へ切ったのは石原裕次郎というスターだった。
裕次郎は様々なチャンスや逸材を与えて彼を「なかにし礼に育て上げた」という、立派なお兄さん。
そして、ここからがまた不思議。
ある日のこと。
その裕次郎氏からお呼び出しがかかったという。
それは出会いの1963年から23年後のことであった。
裕次郎氏から呼び出されて。
一回入院なさって、お元気に退院なさったんで、この後は元気にまた活躍してくれると信じて彼は会いに行く。
裕次郎さんの依頼はもちろんのこと、作詩。
裕次郎さんは「このへんで俺に一曲、またいいの書いてくれよ」。
何曲も書いてらっしゃるのだが「このへんで一曲頼むよ」。
「あ、じゃ、こんなのは」と言うと「いやいや、ちょっとこっからは俺が先に注文出していいか?何かさ、人生を歌うような歌がいいな」「え?人生を?恋の歌じゃないんですか?」「う、うん。人生を歌う歌がいいなぁ。例えばシナトラの『マイ・ウェイ』のような」。

マイ・ウェイ/夜のストレンジャー フランク・シナトラ・ベスト



その時、裕次郎さんは51歳。
4〜5歳年下のなかにし礼さんは「51歳で『マイ・ウェイ』は早い」と。
「どうかなぁ」と乗らない顔だったらしい。
気乗りしない表情を浮かべた礼さんに向かって裕次郎さんは珍しく注文を繰り返した。
どんな注文かというと「いや、何気ない情景の歌でいいんだよ。俺はさ、礼。毎晩自宅で酒を呑む。女房が満たしてくれたブランデーグラスを飲み干す。そういう習慣を持ってるんだけど、そん時さ、ちょっとしたクセがあって、女房がブランデーグラスに注いでくれたら、俺のちょうど正面にサイドボードがある。そのサイドボードのガラス板に自分の顔が映りこむんだ。その自分の顔に向かってグラスを上げて乾杯するんだ。そして妻とか俺を慕ってくれる後輩たちに対して、自分の運命に対して『ありがとう。乾杯』って言いながら礼を言うんだ」という。
「そんな歌。そういうサイドボードに映る自分の顔にグラスを上げて乾杯してる時にフッと歌いたくなるような歌を、オマエ、作ってくんないかな」という。
それを聞くともう、このなかにし礼という作詩家にはフワーッと歌がよぎる。
その時に、礼氏はそういう直感の持ち主なのだろう。
「この人、もしかすると死が近いのではないか?」と直感なさったという。
大きな病気から不死鳥のごとくよみがえった太陽の男ではあるが、しかし彼の好みの歌を聞いていると、どうもその歌の中に自分を「遺影」のように「写真」のように写し込みたいという。
この歌を聞く時に裕次郎を思い出すという、そういう「遺影」。
「写真のような一曲が欲しいのではないだろうか?」という、そういう直感がした。
その詩はこの出だしで始まる。
これは裕次郎さんが語った通りの一行から始めている。
鏡に映るわが顔に グラスをあげて乾杯を
裕次郎さんの日常の酒癖が実に平凡に静かに始まる。
そして三行目からが素敵。
たった一つの星をたよりに はるばる遠くへ来たもんだ
誰かの歌に似ている。
(海援隊の『思えば遠くへ来たもんだ』のことか)
美しいフレーズ。
2コーラス目、3コーラス目も同じ個所。
純で行こうぜ愛で行こうぜ 生きてるかぎりは青春だ(3番)
親にもらった体一つで 戦い続けた気持ちよさ(2番)
絢爛たる詩を並べているが、しかし『石狩挽歌』などに比べるとちょっと冷たい言い方をするが、詩に動きが少ない。
静止している。
詩がフレーズで止まっている。
でもこれはやっぱり詩人なかにし礼。
ブロマイドのような歌を作りたかった。
妙に揺らしたくなかった。
出来上がった歌がこの歌。



石原裕次郎に捧げた歌。
作曲は加藤登紀子さん。
これも「同じ大陸からの引き揚げ者だ」ということで加藤さんをご指名なさったようだ。

北の旅人/わが人生に悔いなし



鏡に映るわが顔に グラスをあげて乾杯を
たった一つの星をたよりに はるばる遠くへ来たもんだ
長かろうと短かろうと わが人生に悔いはない


この歌の完成から五か月後、シングル発売から三か月後、裕次郎さんは亡くなられる。
まさしく「運命」。
何と52歳の若さで、このシングルを発売して、この世を去られている。
彼は昭和のスターを演じきった。
しかもなかにし礼氏は裕次郎さんの死を演出した。
見事な演出。
この世を数か月後に去る人がサビでつぶやいた言葉「長かろうと短かろうとわが人生に悔いはなし」。
まさしく裕次郎さんしか言えない一行。
なかにし礼という人は弟として「幻の兄」裕次郎の遺影に花の如き挽歌を贈って飾った。
しかしその裕次郎にも実の兄(石原慎太郎)がいる。
長生きな方。
フッと思ったのは、この歌をお兄さんはどんな思いで聞かれるのかなぁと。
小池(百合子)さんにさんざん突っつかれ。
公聴会か何かに呼び出された時にお気の毒だった。
年齢。
あんなことをお命じになる方は情けがない。
だけど、もし慎太郎さんがこの歌を聞かれるとすると、この一行はまさしく裕次郎が兄を叱る声に聞こえたのではないか?と思う。
「兄貴、長かろうと短かろうと『わが人生に悔いはなし』だぜ?」という。
そう思うと歌は凄い。
やっぱり「歌」というのは死者の声を留める。
その意味でまさしく、なかにし礼、昭和の大作詩家。
この人の華やかな歌謡曲の裏地は「死」。
それが我々を圧倒する。

この歌は軍歌。
戦地で戦うご亭主のことを思ってしみじみ奥さんが歌っている歌。
なかにし礼さんはそれを詩を替えてコミックソングにしている。
元歌はコレ。
『ほんとにほんとに御苦労ね』



それをコミックソングで詩を替えて歌わせているのが、なかにし礼。
『ドリフのほんとにほんとにご苦労さん』



この歌は軍歌。
それをなかにし礼さんがドリフに歌わせる時にコミックソングにしている。
これはご本人に聞いていないので、理由はよくわからない。
ただ、この中に礼さんの「軍歌として不幸に生まれてきたが、俺はコミックソングに仕立て直して歌い継がせていこう」というような「過ぎた戦前を忘れさせてたまるか」というような意地を感じる。

遠い昔、こんな話を聞いたことがある武田先生。
この方も満州から引き揚げてきた方なのだが、その方のお父さんは満州鉄道の官僚だったそうだ。
彼は満州にいた頃はベッドで寝起きし、料理人は中国人、家庭教師はフランス人、父母は土曜日は舞踏会に出かけて行って、舞踏会に行く馬車の馬丁はロシア人だった。
そういう満州国ハルピンかその辺での生活をなさっていた。
ところが戦争に敗れて全部なくす。
この方は武田先生の恩人だが、日本に引き揚げてきて、もの凄い苦労をなさる。
その苦労話をお話しなさったのだが、お父さんと二人で生きるためにヤミ米を買って、昔、そんなふうにしないと喰い物がなかった。
米を背負って運んでいる時に、おまわりさんが接収にやってくる。
ヤミ米で「不当だ」というので取り上げられてしまう。
おまわりさんが来て「もう米なんてどうでもいいや」と思って動けず、へたり込んでいる時に「貴様!何をやっとるか!」とおまわりさんが少年の首に手をかけた時にボカーンと殴った人影がいた。訛りから在日韓国の人だったらしいのだが、その在日韓国人がその少年を救ってくれた。
おまわりさんを殴り倒してにっこり笑って「ショウネン、逃ゲナ」と言った。
訛りで朝鮮系の人だというのがわかって、もうそういう方が戦後、闇市にいっぱいいた。
その人はその少年を助けてくれた。
その少年は後に映画監督になる。
バァン!と横から殴ってくれたその人の残像をモデルにして「喜劇シリーズ」を作る。
それが『男はつらいよ』。

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何かその「永遠のヒーロー」を山田(洋次)さんは、その在日の朝鮮人の人の面影と重ねてらっしゃる。
表現することの引き金に、あの満州から引き揚げてきた人たちの「無念」とか「悔しさ」とか「切なさ」とか「暗い思い出」が、戦後日本のエンターテイメントの中にドッと流れこんだと思うと、なかにし礼という人の作品の数々というのは、そこも「込み」でかみしめ直す時に、二倍も三倍も味が深くなるのかなぁという。


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2017年12月11〜29日◆なかにし礼(中編)

これの続きです。

「立ち向かっていこう」と「負けたくない」というので懸命に頑張ってきた武田先生。
ここまでくるとはっきり差は認める。
最近そういうのが多い。
世の中には凄い人がいっぱいいる。
武田先生が最近一番尊敬している歌手は北島三郎さんになった。
あの人はやっぱり凄い人。
その番組(『武田鉄矢の昭和は輝いていた』「北島三郎3時間SP」を指しているかと思われる)で取り上げて、北島三郎さんのことを「生きてる神社」と呼んだ武田先生。
二礼二拍手すると何か良いことがありそうだと思う。
誰かが言っていたことだが、北島さんは「一つおやめになると一つ幸運が舞い込む」。
「もう紅白出ない」と不出馬宣言をなさって、一か月間の座長芝居も辞めて、「これからは体力に合わせて。80歳ですから」なんて切なげにそうつぶやかれたら、とたんに持ち馬が走り始めたという。
いっぱいお弟子さんがいらっしゃるが今、本当に北島プロで一番稼いでいるのはアイツ。
本当に「花さかじいさん」みたいな方だと思う。
昭和を生きてきた人間として己を振り返るが、その時に目の敵にした人の「才能」みたいなものがすごく最近身に染みて感じる。
阿久悠という人は只者ではない。
浜口庫之助さんとか。
ああいう人たちの作品とか人柄とか生きっぷりに、最近やっぱり次々に圧倒されている。
そしてお話した時になかにし礼さんの作詩の秘密を聞いていくうちに「やっぱりすごいな」と。
戦前、戦中、戦後を生きた人たちの「凄み」みたいなものがフツフツと。
見てきたもの、経験したことがもう全然違う。

戦後になってこのボロボロの人生で、なかにし礼さんは自分で苦学しながら大学に行かれてフランス語を勉強なさって学生結婚なさっている。
始めての結婚の時、お金を貯めて二人が伊豆下田まで新婚旅行に出て、そこで高いホテルに「一泊だけ泊まろう」と泊まって、そこのホテルに行かれたのが昭和38(1963)年。
下田東急ホテルに行かれて、ロビーをくぐったらそこにいた映画スターが手招きした。
その映画スターこそ石原裕次郎。
これは本当にドラマのようだが。
何で手招きされたか?

「いや、なにね、さっきからここに坐ってロビーにたくさんいる新婚さんたちの品評会を、ま、退屈まぎれに、この専務と一緒にやっていたんだよ。そこでよ、君たちが一番カッコいい新婚さんてことに、俺たち二人の意見が一致したってことだよ。ま、ここに坐れや」
 裕次郎は自分の右隣のスツールをぽんとたたいた。
−中略−ブルーのコットンパンツをはいた足は長く、白いスニーカーで悠々と床を踏みしめている。やたらとまぶしい。なんだかスターと凡人の差を感じて私は意気消沈してしまった。
「というわけでよ、君たちは新婚カップル・コンテストのグランプリに決まったってことよ。ま、一杯、祝杯といこうや」
−中略− 
「乾杯!」
 裕次郎がみんなを見回してジョッキをあげた。
−中略−
「なにやって食ってんだい?」
「シャンソンの訳詩をやってます」
−中略−
「あんなもの訳詩して食っていけるのか?」
「まあ、なんとか」
「本当か? 貧乏してるんじゃないのか。こんな可愛い嫁さんに苦労かけちゃまずいぜ。よお、嫁さんよ、おたくの旦那、大丈夫なのかい?」
 裕次郎は私越しに妻に声をかけた。
−中略−
「やめとけ、やめとけ、訳詩なんざ。シャンソンを日本語にしたってつまんねえよ。なんで、日本の歌を書かないのよ。流行歌をよ」
「流行歌ですか?」
−中略−
「自信作ができたら持ってきなよ。俺がすぐに歌うってわけにはいかないけど、レコード会社に売り込んでやるよ。なあ、専務」
 裕次郎にそう促された専務は、
「ええ、もちろんです。石原プロモーションに私を訪ねてきてください」
 と言って名刺をくれた。
(66〜69頁)

気に入った詩が出来上がったので三年後ぐらいに持っていく。
もう覚えていなくて玄関払いだろうと。
大スターだから当然だろう。
そう思ったら裕次郎さんはちゃんと覚えていて「できたかー」と言いながら事務所の奥から出てきた。
(本によると石原プロで裕次郎は応対していない。『夜の歌』はフィクションを含む内容のようなのだが『兄弟』の方にも同様のシーンが登場するが、やはり裕次郎はこの時応対していない)
まるで疫病神のような兄から「太陽をいっぱい浴びた新しい兄貴を見つけた」というこの瞬間から彼は日本の歌謡界に一歩を踏み出す。
この奇妙な縁はさらに彼を別世界へ運ぶ。

裕次郎さんが何かの関係で一人の女の子を預かった。
その預かった子が黛ジュンさん。
それで裕次郎さんから「この子の曲は絶対当てて欲しいんだ」と頼まれた。
それが例の『恋のハレルヤ』。

恋のハレルヤ (MEG-CD)



 黛ジュンという名前はどこから来たかというと黛敏郎からだ。−中略−その頃の私はクラシック音楽にのめり込んでいて、−中略−なんとしても黛敏郎の「黛」を拝借したいと考えたのだ。(216〜217頁)

なかにし礼さんは名付け親でもある。
それで『恋のハレルヤ』の大ヒットを飛ばした。
このなかにし礼という人は必死になって言葉を紡ぐ人。
その一つの例だが、裕次郎さんに言われた「シャンソンの訳詩だけじゃつまんない。歌謡曲作ってごらんよ」というので彼はシャンソンの訳詩もしながら歌謡曲の詩を作っていく。
まずヒットしたのはシャンソンの訳詩。
その当時、シャンソンの歌い手でナンバーワンと言われていたのが菅原洋一さんという。
ただ、シャンソンを歌う方はインテリ。
ちょっとうるさい。
それで、もう今でこそ笑い話なのだが、なかにしさんは必ず録音に立ち会う人らしいのだが、壮絶な闘いがあった。
その中で「なるほどなぁ」と思った一曲。
菅原洋一さんで『知りたくないの』。



これは一行目から大ゲンカになった。

 あなたの過去など
 知りたくないの
 済んでしまったことは
 仕方ないじゃないの
(242頁)

これは何気ない言葉。
これを菅原さんがテーブルを叩き「こういう言葉使う?普段から」。

念のため全音の『歌謡大全集』全十二巻を買ってきて、そのすべてに目を通して見た。思ったとおり「過去」という言葉はどこにも見当たらなかった。(『兄弟』199頁)

「過去」という二文字は男女の別れの色っぽい歌には使われない。
だいたい「過去」と言った場合、犯罪関係の話。
なかにしさんは「女心の深い傷跡として『過去』という響きの暗い言葉が一行目から必要なんだ!」というので。
でもヒットしたのでパーティーでお会いしたらすごく菅原さんは喜んでらしたという。
(『兄弟』にこの曲のレコーディングの時のことが詳しく書かれているが、菅原氏は「『過去』はカ行が二つ並んでいるせいか歌いにくいので他の言葉に代えて欲しい」と言っているが、テーブルを叩いたとか、普段使わない言葉であるという主張をされたということは書かれていない)

礼さんが『恋のハレルヤ』とか『知りたくないの』等々ヒットを飛ばすたびに、お兄さんが聞きつけて。
本名が「中西禮三」さんなのでわかってしまう。
(番組では「なかにしれいじ」と言ったが「なかにしれいぞう」)
だから「作詩家・なかにし礼」と言えば「弟ではないか」ということで住んでいるところがバレちゃうみたいなことで。
お兄さんがお母さんの面倒を見られた。
そういう関係があったらしい。
お兄さんが「母親の面倒は俺が見てる」と言われると返す言葉がなくて、お兄さんが人生に絡んでこられるという。
本人がそうおっしゃっているからそうとしか言いようがないが、本当になかにしさんのお兄さんは「疫病神」だったらしい。
ある意味で、もうはっきり憎悪を込めておっしゃる。
どんどんまた借金をして。
なかにしさんも考えてみればいいひと。
「母親の面倒見てるの俺だぞ」と言われると返す言葉がなかったらしくて、尻拭いの意味でお金を渡していくうちに、ものすごいことをなさったようだ。
勝手に借金の肩代わりみたいな。
莫大な負債をいつの間にか負わされて、歌の権利か何かも全部押さえられた。
そんな苦労をなさっている。
勝手に印鑑を持ちだされてみたいなことらしい。
それで先々の権利までお兄さんが手を出されていて、次のヒット曲を出さないとなかにしさん自身が破産するような。
連続ヒットを出さないと、なかにしさん自身が全財産をなくす。
最初の結婚はダメになってしまうが、二度目の奥様には頭を下げようがないみたいな大借金をお兄さんが持ち込まれた。
その時にレコード会社からの企画を持ち込まれて。
仕事だから、お兄さんに対する思いとか借金のことを考えると頭が作詩の方にいかないが、頭を掻きむしっているうちにヒョコッとできたヒット曲。



いしだあゆみさんの『あなたならどうする』。
「どこがどう」というわけではないが、サビの文句の「あなたならどうする」というのは、そう訊きたくなったのだろう。
それから選ばせる。
「生きるの?死ぬの?」とか何か。
あれももう、本当に全財産なくすかどうかの瀬戸際で思わず口からついて出た言葉で。
一番最初にこのなかにし礼さんを語る時に言った「『一語』が歌を作っていく」という。
この方は本当に壮絶。
それで驚くなかれ、借金はずっと背負い続けられて21世紀に入ってやっとその呪縛から。
そこまで引っ張った。
それも負債者がもう「群れ」で襲ってくる。
壮絶な巨大負債。
今まで一生懸命返してきた。
弁護士さんでものすごく立派な方がいらっしゃって、21世紀に入ってからだから数十年にわたって。
本当に「あなたならどうする?」と言いたくなる。
でも不思議。
こういう苦悩がなかにし礼という人に詩を書かせていく。
とりあえずお金とは関係ないが、作品が、一語が、次々とこの苦悩の摩擦から熱となって浮かび上がってくるという。

 『恋のフーガ』

 追いかけて追いかけて すがりつきたいの
 あの人が 消えてゆく
 雨の曲がり角
 幸せも 思い出も
 水に流したの
 小窓打つ 雨の音
 頬ぬらす涙
 初めから 結ばれない
 約束の あなたと私─
 つかのまの 戯れと
 みんなあきらめて
 泣きながら はずしたの
 真珠の指輪を
(247頁)



クラシック好きのなかにしさんらしい。
「フーガ」という。
ティンパニーのダダダーン!というような音なんていうのは、なかにしさんのアイディアだと思う。
そのなかにし礼さんが「負けてなるか」と思った一群が彼の人生に登場する。
フォークソング。
なかにし礼さんはこの歌を聞いた瞬間に「負けるもんか」と思ったという。
そのライバル心に火を点けた歌がこの歌。



作詩・岡本おさみさん、作曲・吉田拓郎さん。
自身も歌ってらっしゃる『襟裳岬』。
我々にはピタッとくる「襟裳の春は何もない春です」という。
「北の街ではもう悲しみを暖炉で燃やしはじめてるらしい」というような抽象表現が武田先生の世代の圧倒的な支持を。
そして森(進一)さんの歌唱力もあってレコード大賞に選ばれるという。
レコード大賞に選ばれた情景を、作詩家なかにし礼氏は「オマエらが襟裳だったら俺には小樽がある」ということで、彼は過去へと思いを走らせる。
その小樽にある情景というのは、あの忌まわしき兄。
そこの浜辺でニシンを引いたという「あの負けてしまったあの情景こそ俺は歌にしてやる」と。
普通は演歌だったらこれを「うみねこ」と表現するが、彼は「ゴメが鳴くから」と、こう表現した。
「ヤン衆」
漁業にまつわる季節労働者。
若いヤン衆たちの作業着を「赤い筒袖(つっぽ)」と呼ばせるという。
聞く者にあえて馴染みのない異様な言葉でその情景を語る。
この人は「ゴメ」から歌を思いついたのではないかと思う武田先生。
「海猫(ゴメ)が鳴くからニシンが来ると」とこの一行で「ブワーッと思い出が」という。
彼にはやっぱり小樽の浜辺にいっぱい思い出があるのだろう。
「雪に埋もれた 番屋の隅でわたしゃ夜通し飯を炊く」
凄い情景。
「夜通し飯を炊く」というのは体験した人じゃないと思い浮かばない。
飯を炊いているのは女。
しかも「飯炊き女」というのは響きの中に江戸期、宿場町なんかで旅人の給仕をし、売春も兼ねていた「飯盛り女」というようなのがイメージとして重なる。
それが夜通し飯を炊いて働いて、ヤン衆相手に春をひさぐというような強烈な北の匂い。
その娘がある日の浜の情景を語っている。
そういう歌。
それが五行目で突然消える。
ヤン衆相手に春をひさぐような、体を張った生き方をしている女が一瞬のうちにかき消えて「あれからニシンはどこへ行ったやら」と。
これが能狂言の舞台を観るようで、橋を渡って老婆がスーッと出現するような。
「老婆が若い頃の幻影を懸命に語る」というのが、何か能狂言の「夢幻能」を観ているみたいな感じがする。
『黒塚』とか「ヨーッ!ポン!」という。
「ハラマナサラ、ヒョワーッ!」とかというのがある。
うつつか夢がわからないという。
その闇の中から死者が浮かんできて、死者が死者を語り、また闇に消えていくような。
「夢幻能」の能舞台を観ているような気がする。
その老婆が語る風景も凄い。
「沖を通るは笠戸丸」
聞いてもわからない。
これはもう戦前を体験した人じゃないとわからない。
「わたしゃ涙で鰊曇りの空を見る」とサビが始まるが、この「笠戸丸」はかつて、南米ブラジルへと移民の人々、日本人を集めて太平洋を渡っていった、移住する人たちのための船だった。
客船だった。
これも一種「国から棄てられた人々」。
耕す土地が無いので、農家の百姓は「ブラジルへ行ってコーヒー園やれ」「一発当たりゃデカいぞ」なんて言いながら、国が笠戸丸を用意して日本人をせっせとそこへ運んだ。
それは自分たちの父と母が満州に賭けた思いと全く同じ。
そういう情景が。
この笠戸丸は戦後、荷運びの船となり、今は北の方の海に漁礁として沈められたそうだ。
(調べてみたがソ連軍に爆撃をされて沈没したようだ)
一曲の歌謡曲の中にこれほどの深みが。
「なかにしさんの歌の裏地は全部死人ですね」となかにし氏に言った武田先生。
大きく頷かれた。
「死んでいった人たちを歌の裏地に使う」という。
それが武田先生には「複式夢幻能」の構造を歌謡曲にこの作詩家は写しているのだと。
戦後日本の歌謡曲には様々な作り手がいたが、なかにし礼というのはその意味で「才人」。
能狂言を歌謡曲にして酒場に流すという。
後にそう呼ばれる一曲『石狩挽歌』。
この歌の中にはそれほどの深みがあるような気がする武田先生。
しかも歌詞の解説は一番だけでは足りない。
老婆は死んでいった者たちと、死んでいった者たちが見たであろうその情景を一曲の歌に託す。
この歌は無頼の兄に宛てて書いた「歌手紙」。
歌は書けない。
この歌はさらに二番に広がっていく。

石狩挽歌




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2017年12月11〜29日◆なかにし礼(前編)

BSで昭和歌謡を振り返る番組やTBSの歌番組でも『ザ・ベストテン』を振り返ったり、もうほとんどメインは「昭和歌謡史」。
関口さんとか『武田鉄矢の昭和は輝いていた』とか、いろんなところが昭和の歌を振り返っている。
そういう「時代の流れ」というのもあって「なかにし礼」氏を取り上げる。
『恋のフーガ』『恋のハレルヤ』『石狩挽歌』
日本作詞大賞から直木賞まで獲っちゃったという凄い才能の方。

夜の歌



一九三八年中国黒竜江省(旧満州)牡丹江市生まれ。立教大学文学部仏文科卒業。在学中よりシャンソンの訳詩を手がけ、その後、作詩家として活躍。(本のそで)

なかにし礼氏を自分の番組に招き、話を伺った武田先生。
武田鉄矢の昭和は輝いていた|BSジャパン 第181回 5月5日 「作詩家 なかにし礼の世界3時間スペシャル」)
その席で『夜の歌』という彼の自伝に近い小説、物語をいただいて、お話を伺いながらその本を読んだのが今回の『三枚おろし』のネタ。
この『夜の歌』というのがまた凄い。
なかにし礼氏が己が一生を振り返りつつ、小説にしてある。
ヒット曲にも恵まれず落ちぶれ果ているが作詞家である武田先生。
この方(なかにし礼)と同業。
ただ、スケールが違う。
武田先生はライブで数百人の観客がいれば十分というような、非常に「小商い」、狭い所帯で生きている。
なかにし礼氏はもう昭和歌謡史に残る、燦然とその足跡を残すという詩人。
自ら歌うこともあるが、彼の詩は多くの歌手に求められた。
個人の仕事ながら、それがそのまま昭和の歌謡史になるという。
作詩する力が違う。
なかにし氏は「百貨店」。
言葉の売り方、展示場が。
それに比べて武田先生は「軒下のたい焼き売り」。
「美味しいの焼けてるよ。買ってかない、お嬢さん!」とかと言いながら。
これほど商売のスケールは違う。

作詩というのは作り方「作業手順」というのがある。
その作業手順というのは「一語」から始まる。
一語、たった一つ。
その一つを思いつくか思いつかないか。
思い出があってそれが歌になるのではない。
その「一語」があって思い出がくっついてくる。
武田先生の唯一のヒット曲である『贈る言葉』。

贈る言葉



「暮れなずむ」という言葉を知った時から始まった。
これは堀内大學というフランスの訳詩集の中にあった言葉。
「暮れなずむ」
それが何だか呟いてみると響きがいい。
「夕暮れ」「日暮れ」などがあるが、この「暮れなずむ」を歌にしたかった。
そうすると当然そういう夕焼けなので「別れ」がいいわけで。
その別れは当然次に「去りゆくあなたへ」という言葉を呼び寄せる。
そしてこの「去りゆくあなた」から去って行った女の人を思い出すうちに歌が膨らんでいく、できていく。
始まりは「暮れなずむ」。
舞台を考えていくうちにそれが「別れ」になっちゃう。
「暮れなずむ町の 光と影の中」と来ると「去りゆくあなたへ」とこう来る。
「夕焼け」とか「日暮れ」とかっていうよりも「暮れなずむ」という。
その別れの情景を作っていくうちにその別れをベタッとしないでサラッと鮮やかに、というので、別れの言葉そのものを花束のように交換した、というので『贈る言葉』という。

その一語を見つけるために、本当にのたうちまわる。
自分の人生のすべてを振り返る。
そのことをテレビの番組でなかにし礼氏に訊いた武田先生。
「鉄ちゃんも作詩やるからわかると思うけど、一語なんだ。それをどう思い出の中から」という。
このなかにし礼という作詩家がどんなふうにしてその一語を持ってくるかを。
(歌の歌詞なので「作詞家」と表記するのが普通かと思われるが、この本の中では「作詩家」と表記されているので、なかにし礼氏に関してはこちらの表記に統一しておく)
礼氏がまだ8歳の少年だった時。
満州国に生まれた方。
この満州国が消えてなくなる。
昭和20年8月、日本の敗戦と同時に満州国は地上から消え失せる。
国家の庇護なく、国境から侵入してきたソ連軍の殺戮にさらされながら礼氏、8歳の少年は姉と母と共に避難民となって帰国の引き揚げ船を目指して歩き続ける。
そこで8歳の少年は、いっぱい人間が死んでいく姿を死んでしまった亡骸を見ている。
おそらく阿鼻叫喚の引き揚げ地獄があったのではないだろうかというふうに思う。
彼は自伝的な小説『夜の歌』の中でその情景を書いている。

「ぼくたちは重いリュックサックを背負い、ハルピン駅から石炭を運ぶための無蓋車にぎゅうぎゅう詰めにされて乗った。列車は中国の子供たちに石をぶつけられながら大連に向かって南下し、二十日ほどかかって遼東湾の西側にある葫蘆島という港町に着いた。
 その港町を歩いていると、海の香りがしてきた。その香りに導かれるようにして砂丘が作る小高い丘を上った。這うようにして砂丘を上りきって、ふと目の前の開けた景色を見ると、そこには雲一つない真っ青な空が広がっていて、その下には波一つない真っ青な海がたゆたっていた。そして沖のほうには、ぼくたちを日本に向けて乗せていってくれるはずのアメリカのフリゲート艦が錨を下ろして待機していた。
(229頁)

「やっとこの船で日本に帰れる。助かったんだ!」
そういう燃えるような(思いが)8歳の少年でもあった。
「もう死体を見なくていいんだ」という。
あの歓喜を生涯忘れない。
これが情景でまず思い出の中にある。
それから○十年後、話はポーンと飛ぶ。
なかにし礼氏は作詩家になっていて、曲が出来上がっている。
音符は4つ。
「4つで何かいい言葉はないか?いい言葉はないか?」
恩義ある人から頼まれた黛ジュンという新人のための歌。
頭を掻きむしっているうちに彼の思い出が8歳の少年に戻っていった。
なんとあの砂丘から引き揚げ船の船影が見えた瞬間を思い出した。
あの喜びを何て言おう。
その時に彼はフッと思う。
「あれは神がかりだった」

「ぼくはクリスチャンでもユダヤ教徒でもないが、あの時のあの喜びはハレルヤだ。神をたたえよ! その言葉しかない」(230頁)

4つの音符に「ハレルヤ」をはめ込んだ礼氏は、次に7つの音符に昭和21年10月中旬、引き揚げ船の出港を重ねた。
壮絶だったらしい。
「船が出て命が助かった瞬間、みんなウワーンと泣き出した」
(本には「ただただ無口でうずくまる引揚げ者たちは、無限にすすり泣いていた」という表現)

「満州のバカヤロー!」
 人々はそう叫びつつも、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
 空中に紙吹雪が舞った。それは緑色の満州国紙幣だった。
−中略−歴史とか世界とか人々の生活を無残に崩壊させる大いなるもの、神の力などとは言わない。悪魔の手になるのか善魔のなすものかは分からないが、とにかく止めようのない大いなる力がある。それを恋の歌の形で表現できたら、そこには万人が納得する必然性が歌の柱になってくれるだろう。
 タイトルは『恋のハレルヤ』で決まりだ。
−中略−
 ハレルヤ 花が散っても
 ハレルヤ 風のせいじゃない
−中略−
 ハレルヤ 沈む夕陽は
 ハレルヤ 止められない
(232〜233頁)
 
なかにし礼さんと話したり、この本を読んで圧倒されたのは、ものすごく暗い悲しい思い出が、後の彼が作ったポップスの歌詞になっている。
昨日(番組上の前日)、引き揚げ船で引き揚げてくる時に、消えた満州国に対する引き揚げ者たちの無念の叫び声と言った。
「満州のバカヤロー!」とか
でも、なかにし礼氏は「恨みだけではなかった」という。

満州で生きた人々にとって、満州で見た夢は膨大であり、−中略−夢に向かって歩みつづけた充実感と躍動感は生涯忘れがたいものになっている。(233〜234頁)

それくらい満州生活は胸がときめいた。
日本人だけではない。
周りには中国人の子もいるしロシア人の子もいるし、朝鮮民族の子もいる。
モンゴル系の人たちもいる。
そういうアジアの多民族が生きていた街というのは、我々が体感できない「賑わい」が。
それをなくした無念さというのは「どこか恋に似ていた」と。
それであの満州国に対する思いというのが『恋のハレルヤ』の中でこう変化する。



 愛されたくて
 愛したんじゃない
 燃える想いを
 あなたにぶっつけただけなの
(232〜233頁)

黛ジュン譲はそう歌っているが、実はこれは満州にかけた彼らの夢をあの『恋のハレルヤ』のサビのところに持ってきたという。

『恋のハレルヤ』は予定通り昭和四十二(一九六七)年二月上旬に発売されたが、プレスが追いつかないほどの売れ行きを示した。(236頁)

武田先生がびっくりした引き上げ直前の出来事。
ハルピンに命からがらたどり着いて「殺されなかった」と喜んだ瞬間に、1945年のこと、ハルピン駅で外国にいる日本人引き揚げ者に向かって日本国から勧告文書が届いた。

《ハルピン地区の事情がまったく分からないので、引揚げ交渉を行うにも方法がない。さらに、日本内地は米軍の空襲によって壊滅状態にあり、加えて、本年度の米作は六十年来の大凶作。その上、海外からの引揚げ者数は満州を除いても七〇〇万人にのぼる見込みで、日本政府には、あなた方を受け入れる能力がない。日本政府としては、あなた方が、ハルピン地区でよろしく自活されることを望む。 外務大臣・重光葵》(174頁)

いわゆる「棄民」。
国民を棄てる。
国家というのは時として国民を外国に棄て去るものであるという、そういう体験をなさっている。
私たちにはもう、想像もつかない。

 七歳の私でさえ、この紙に書いてある文章を読んでやり場のない怒りと悲しみを覚えた。私は牡丹江生まれだが、姉は日本の小樽生まれだったから、祖国に棄てられた衝撃は私よりも何倍も大きかったのだと思う。(176頁)

号泣するお姉さん。
家も財産もすべて投げ出してソ連の戦闘機に追われてやっとここまで逃げてきたのに。
帰るべき日本国政府からは「帰ってくるな」と「喰わせる飯がねぇんだ、お前たちには」という。
この「日本国に棄てられた」というこの無念と恨みを彼は歌にしている。
弘田三枝子さん『人形の家』。



 顔もみたくないほど
 あなたに嫌われるなんて
 とても信じられない
 愛が消えたいまも
 ほこりにまみれた人形みたい
 愛されて捨てられて
 忘れられた部屋のかたすみ
 私はあなたに命をあずけた


この暗い恋歌の底に、戦争敗北によって一国の街に棄てられた引き揚げ者の無念が込められていたワケで。
この人の「一語」は凄い。

満州から引き揚げてくる時、淡々と小説の中で書いておられるが、お父さんはソ連軍に連行されて、お母さんとお姉さんとまだ7〜8歳の少年であるなかにしさんは三人で逃亡していたらしい。
その逃避行の途中で「満蒙開拓団」満州に開拓に入った日本人の開拓団の人たちが中国人によって皆殺しにされたという惨状を眺めたり「七十万精鋭」と威張り続けた関東軍が紙のごとくソ連軍の奇襲に引き破られたというその関東軍の見苦しい逃げっぷりを語りつつも、かばうように帝国軍人の出来事を語ってある。

 大杉というのは大杉寛治少将のことで、−中略−
彼は参謀本部にいて関東軍の満州進出計画は手に取るように分かっていたから、父に牡丹江移住を勧めた。なぜそのようなことになったのかというと、大杉は母に結婚を申し込んでいたのだが、大正デモクラシーに染まった母は軍人よりも商人の倅である父を選んだという物語が背景にあった。大杉は自分を袖にした女性にたいして最大の寛容さをみせ、満州移住という一大プレゼントを差し出してみせたというわけだ。
−中略−
いわば大杉は父と母にとっては満州における成功と栄光をもたらしてくれた恩人であった。
(191頁)

昭和20年8月9日、大杉というこの少将は攻め込んでくるソ連軍を止めるためのしんがりを受け持った。

戦車はソ連軍一キロメートルあたり約四〇台にたいして日本軍ゼロ。戦闘機はソ連軍の数百にたいして日本軍はゼロ。大砲にしても的は四十倍、といった具合だ。(192頁)

日本軍はなんと大杉少将を先頭にして突撃を繰り返し、ソ連軍の侵攻を食い止める。

 大杉少将は言った。
「勝利の望みなき戦いで命を落とせし数多くの兵たちよ、その家族たちよ、祖国を恨むな。満州にわたり苦難を強いられた数多くの民たちよ、祖国を恨むな。祖国を許せ、
−中略−上官の言葉は天皇陛下のお言葉であると『軍人勅諭』にあったはずだ。−中略−天皇陛下のお言葉だと思って聞け! 兵たちよ、謝って済むことではないが、私は心から君たちに謝りたい。済まなかった。誠に済まなかった。済まなかった……」
 このあとカチリと音がして、兵たちが大杉少将を見た時はすでに遅かった。
 大杉少将はピストルをこめかみに当て、引き金を引いた。銃声が鳴った。
 大杉少将は膝からがっくりと地に倒れ、絶命した。
−中略−
 翌早朝、突撃隊に志願した兵たちおよそ四〇人は、大杉少将との約束どおり、白刃をかざしてソ連軍戦車隊にぶつかっていき、むなしく散っていった。
(193頁)

しかしまさしく『人形の家』の歌詞に込められたように「私はあなたに命をあずけた」というこの「満州へ渡った人たちの思い」みたいな、この絶望みたいなものが伝わってくる。

逃避行の最中、列車でソ連軍の戦闘機から銃撃を浴びている。
その時にお母さんが「伏せろ!」と言ったからそのまま伏せるのだが、もう戦場における生と死なんて運、不運のそれだけ。
だから「ダダダダダダ…」と銃をソ連の戦闘機が撃っていく。
だから当たって死んだその人の横は死んでいない。
死んでいない人のその先は死んでいる。
その運命の「非情さ」というか、そういうものをポツンとお書きになっている。
とにかく7〜8歳の少年はザクロのように頭蓋骨を割られた死体をいくつも見ながら逃避行を続けたという。
そして礼氏は、その体験を踏まえてこんなことをおっしゃっている。

 このたった四日間で、私は突如、幼児から少年になった。いや少年どころか、疲れても腹が減っても泣き言一つ言わない、しっかりした大人以上の大人になった。(51頁)

死を目撃することによって彼の中の成長が急がされてしまったという。
とても不幸な出来事かもしれないが。
「幸運」と「不運」というものの残酷さ。
それで彼らは恨みに恨んだ日本に帰ってくる。
行き場がなくてお父様の故郷である小樽にたどり着く。
そうしたらその小樽では一つ幸運が待っていた。
それはどんな幸運かというと、この一家、なかにし家の大黒柱であるご長男さんが生きておられた。

学徒出陣して陸軍特別操縦士見習士官となり、特攻隊として出撃したはずの兄は戦死していなかったのだ。(389頁)

そのお兄さんは(なかにし氏よりも)一回り年上。
「生き残った」という運を手にしてお兄さんと会った時、もう本当にお母さんは抱きついて泣かれたという。
いい話。
ところがそう簡単に話はいかない。
このお兄さんが何を思ったか、とにかく大博打が好きな人で、せっかくあった家、土地、建物の権利書を手にニシン漁の大博打に打って出られて「すべてをなくす」という。
なかにし礼氏に襲いかかる戦後の不幸はここからまた始まっていく。

もう昭和もとっくに終わって数年のうちに平成も過ぎていくのだろうが、この昭和という時代は振り返っても振り返っても不思議。
「引き揚げ」という言葉は我々の頃はまだぼんやり差別用語として使われていた。
「あの人は引き揚げ者たい」という。
つまり「一攫千金を夢見て中国大陸に渡ってはずした人」とか。
それから「日本国内がB-29で焼かれてる時に安全に眠ったやつら」とかっていう意味合いも含めてそんな言い方をする。
向こうは向こうでものすごい地獄があったワケだが。
でも満州から引き揚げてきたという人たちはものすごい才能が何であるのだろうと不思議で仕方がない武田先生。
森繁(久彌)さんは引き揚げてきた人。
加藤登紀子さん、なかにし礼さん、山田洋次さん。
この間、聞いてびっくりしたが宝田明さん。

とにかく小樽に引き揚げてきた。
引き揚げてきたら特攻隊で死んだはずのお兄さんが生きていたという。
「わぁ、うれしや」とみんなで抱き合って「生きてた、生きてた」で抱き合ったのもつかの間、このお兄さんが人変わりがしたような大変な大博打うちになり、まずは自分のところの家、土地、建物、それをカタにして高利から借金し、30万円でニシンの漁の網を買い、三日間船を借りて増毛の沖に網を張った。
戦後すぐの食糧難の時世なので、とにかく一日でも大量の網が曳ければ大金が転がり込むという大博打だった。

おばあさんが小樽にいらっしゃったようだが、おばあさんはわかったのだろう。

とんだ疫病神が帰ってきてくれたもんだ。(390頁)

このお兄さんは博打を強行。
何度曳いてもニシンが引っかからない。

 そして三日目、こんなことってあるのだろうか。兄の網にニシンが、しかも六十万尾という大量のニシンが入ったのである。(391頁)

もうそのまま函館に陸揚げしただけで100万円。
その当時の100万円だから、今で言ったら○千万円か一億近いかもしれない。
そのお金が入る。
この時になかにし礼さんは「興奮が忘れられなかった」と(本には書いていない)。
そのズシッと網に引っかったニシンの跳ねるその影が浜辺から見えた。
日雇いの「ヤン衆」漁労たちがウワーっと集まってきて浜で網を曳く。
そのニシンを曳き上げる。
篝火を焚いて延々と夜通し曳き揚げた。
「やった!ダイエン(と言っているように聞こえたがよくわからない)だ。これで一家は大金をつかんで幸せに」と思いきや、お兄さんは博打の上にもう一つ博打を重ねた。

 兄は言う。今日の大量で兄は一〇〇万円を得ることになる。しかしこの大量のニシンを輸送船をチャーターして秋田の能代まで運べば、三倍の値段になる。−中略−
 兄の取り分である三十六万尾のニシンをふた晩がかりで五隻の輸送船に積み終えた。
−中略−五隻の船は、嵐のような時化に遭って翻弄され、ニシンはみんな白子や数の子を吐き出しちゃって生ゴミ同然になってしまい、その生ゴミを海に投げ捨てて命だけは助かったのだそうだ。(392頁)

掛け金のすべてと住む家、土地をなくし、故郷に住めず、お兄さんも逃亡して一家は苦境に。
壮絶な人生。
それでなかにし礼さんは東京に出てくる。
お兄さんのことを恨みたかっただろう。

 私の初めての小説『兄弟』の、これが書き出しの二行である。−中略−
『兄貴、死んでくれて本当に、ありがとう』
(449頁)

兄弟



なかにしさんに憑りついた疫病神のごとく、お兄さんはなかにしさんを苦しめるということになるのだが、その作品は後年のことなので横に置いておく。
生活に追い込まれたなかにし礼氏。
お母さんとお姉さんを守りながら懸命に働く苦学生になって東京で学びながら働き、大学にも通いつつ、必死になってアルバイトで生きていく。
そこで彼がちょこっと芽を出したのは、フランス語をやっていたらしいが、フランス語のシャンソンの訳詩をやらせたらうまいので、バイトでやっていたら引く手あまたになった。
彼は学生結婚をして奥さんも働いてくれて二人で生きている時に面白い運命。

ここはひょっとして下田の東急ホテルか?−中略−
 私は、昨日結婚したばかりの新妻と一緒にホテルのロビーにいた。
 大勢の人だかりがしている。みな一方向を見て、口々に同じことを口走っている。
「裕ちゃんだ。裕ちゃんがいる」
 みなが注視している方を見ると、天下の大スターの石原裕次郎がロビー奥のカウンターのスツールに腰掛け、こちらを見て、にこにこ笑っている。
(64頁)

 と、すると、その裕ちゃんが、私を指さして、その人さし指を上に向けて、おいでおいでをしている。−中略−
 私はふわふわと石原裕次郎のいるカウンターに向かって歩き出した。
(64頁)

「疫病神の兄貴」から逃れたなかにしさんは、ここで「運命の兄貴」と出会う。
この人の人生の面白さ。

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2018年04月13日

2017年7月17〜28日◆人体5億年の記憶(後編)

これの続きです。

武田先生の整体師さん。
その人が武田先生の体を触りながら親指を入れる時などに「どこの筋肉か」というのを口走る。
頸椎かなんかを指で押す時も「○番目を押してます」とか「ここ押すと○○に繋がってます」とか。
一番不思議で仕方がないのは「腰が重い」というとお腹から親指を入れる。
これが痛い。
ナイフで突き刺すみたいな感じで。
その代り、その親指が無くなった瞬間にスーッと痛みが消えている。
それにはもう、本当に痛いのだが文句が言えない。
それからもう一つ、女性の方にはできない「本当はできるといいんでるけどねぇ」と残念そうにおっしゃるのは肛門のまわり。
肛門のまわりに何点かツボがある。
これが痛い。
呪いの藁人形の釘打ちみたいな感じ。
「うっ、う〜ん・・・う〜ん・・・」というヤツ。
肛門の真横なんて人間はなかなか触れるところではない。
だが、そういうふうにして「結び目」みたいなものが潜んでいる。

とある方の本を読んで「すごく面白いなぁ」と思ったのは、その人がずっと人体の筋肉図ばかりを描いていた。
哲学を志している方。
筋肉を描いておいて、女体を描いた。
前より上達している。
人体の筋肉というのを勉強して女性の裸を描こうとすると、やっぱり「しっかり筋肉の動きを見る」という腕の筆のさばきになる。

合気道の先生から教わった名言。
合気道の先生曰く「武田くん。殴りかかってくる人はですね、必ずですね、息を吸います」。
感動した武田先生。
殴る瞬間「スッ」(息を吸う音)。
絶対する。
だから「あ、吸った」と思えばいい。
瞬間のことだが、練習しているうちに見抜けるようになる。
合気道的身体の動きはどうするかというと「吸った」と思った瞬間、こっちは吐く。
そうしたら全部、自分の手足が自在に動く。 
吐くと肩から力が抜けるから、抜く動きの中で動きを模索する。
合気道は吐く練習の武道。
それから息だけで言うと、お相撲さんはぶつかりあって組み合う。
そうすると何を待っているかというと、相手が息を吐く瞬間を待つ。
息を吐くと力が抜ける。
その瞬間を見定めて一気に押していく。
呼吸の一息の中にほとんど格闘の妙味がある。

呼吸というのはただ単に吸う、吐くを繰り返す。

 「吸う方には横隔膜があるが、吐く方には、これに相当する専用筋のないことがわかる。(164頁)

肺が息詰まれば、心も息詰まる。さらに呼吸が息詰まる。悪循環いなる。そのためには、詰まった息を吐かないといけない。
 三木はこれを「息抜き」と言った。
(165頁)

臓器的には「吸う」には横隔膜という専用の筋肉があるが、「吐く」には特化した専用の筋肉はない。

吸うは易く、吐くは難し≠ニいわれるゆえんであろう。」(『海・呼吸・古代形象』26ページ)(164頁)

「息抜きが必要」とかと言われるのは「息を抜く、息を吐く、それを練習しなさい」という。
だから温泉なんかに浸かったりすると人間はやたらと吐いてばかりいる。
今時分(放送当時)、キンキンに冷えたビールを夕方、キューッ!と一杯飲んで「カーッ!」というのも「吐く」という方向に意識を持っていくという。

 「数百万年にもおよぶ水辺の生活の中で、いつしか刻みこまれたであろう波打ちのリズムが、私にはどうしても人間の呼吸のリズムに深いかかわりがあるように思えてならないのです。(167頁)

 内臓の感覚は微妙だ。その微妙な差異を味わってこその内臓感覚だ。たとえば肛門のあたりがむずむずして、中身が出そうになる。それがガスなのか、実(!)なのか、お尻のあたりの感覚を澄ましてみるとわかる。(195頁)

昔、人間ドッグにいって女医さんに肛門チェックで人差し指を入れられた武田先生。
あれは最初、慣れない。
意識、つまり脳の方では「開け!」と言うのだが、アソコが茶巾に絞ってしまう。
それでケツを叩かれて「力抜いて。武田さん。力抜いてください。入りませんから。力抜いて」。
でも絞ると、もう緩めようと思っても全然コントロールが効かないと時がある。
あれはやっぱり心と意識は違う。
あれだけ絞っているのだから。
何回ケツをペチャペチャ叩かれたことか。
「リラックスしてください」
リラックスと言われるとリラックスできない。

 「胎児は、受胎の日から指折り数えて三〇日を過ぎてから僅か一週間で、あの一億年を費やした脊椎動物の上陸誌を夢のごとくに再現する」(『胎児の世界』、107ページ)(208頁)

胎児の世界とは、「三十数億年の生命進化の圧縮」なのだ。(208頁)

男性の精子を受け入れて、精子が女性の肉体の中を入っていく。
あの時に、免疫システムは「開放しろ」と言う。
女の人の体の中に精子が入ってくることに関して「警戒するな。入れてやれ、入れてやれ」と言う。
そのくせ、精子を体の中に導こうとした瞬間に免疫システムは精子を迎えるために「解除!解除!」と叫ぶのだが、精神的に意識下で(水谷)加奈さんは他の精子が混入することをすごく警戒する。
だからその時に気持ちが不安定になったりする。
妊娠前期のまだ気づかないうちの心の揺れがある。
あれは精神面での「警戒せよ」というのと肉体の「解放せよ」の葛藤。
女の人は複雑にできている。
すごくイライラしたり、何を見ても怒りを覚えることが結構あったという水谷譲。
精神と肉体で体の中でぶつかり合う。
その卵子が生命体になる。
一億年の変化を再現して10か月間。
妊娠というのはもう、神がかったこと。
女性の体の不思議。

約一か月間、胎児の風貌、顔つきは変わる。
見ると恐ろしくなるような。
三木成夫さんはその胎児の顔を「恨みを含んだ狛犬のような顔」とおっしゃっている。
(この本にはそう書いている個所は発見できず。38日目の顔を「狛犬の鼻づら」と表記している)

 そもそも生物の上陸への進化についても、それをバリスカン造山運動と重ねる見方がある。大地の上昇・下降により、海が陸になり、陸が海になる。そのような大天変地異に対応して、海の生物が陸で暮らすようになったというのだ。−中略−
 ともあれ、アルプス造山運動という天変地異も、生物に苦難をもたらしたことだろう。ちょうどその頃に当たる胎児の顔に、苦行僧のような悩める顔を見て、三木がいう「秋霜烈日」が、そのような地質年代と合致することもなくはないであろう。
(214〜215頁)

(番組では胎児の狛犬の風貌の時期とバリスカン造山運動の時期を一緒にしているが、本によると狛犬の方は38日だし、バリスカンは60日〜90日)

 「ここで初めて、ドラマチックにつわりが起こる」(『生命とリズム』、51ページ)−中略−
よくあるテレビドラマのシーンで、嫁と姑さんがいて、嫁が台所でゲーゲー吐いている。それを度会うの隙間から見たお姑が「この人、もしかして?」と妊娠に思いをはせる。
−中略−そのときにお嫁さん(=母親)の胎内にいるのが、まさにこの上陸のドラマを繰り広げている胎児なのだ。胎児も、そのからだが、水中仕様から陸上仕様へと変貌し、必死でそのからだの変化を生き抜いている。その苦闘が「つわり」となって現れる。三木は、そんなふうに考えた。(212〜213頁)

やがて安定期に入って、その後は出産。
お母さんの膣の中を今度は赤ちゃんが出てくる。
これがまた重大。
その時にお母さんの膣の中に生きている微生物を全身に浴びる。
これが一時期すごくないがしろにされていたが、ものすごく重大で、赤ちゃんはその菌を一部取り込んで腸内細菌、(腸内)フローラにする。
だからこのシステムはすごい。
こういう三木さんのまなざしはすごい。
彼(新生児)はサルと同じ四つん這いで歩き、そしてよたよたしながら。
考えたらすごい。
立ち上がる。
彼はついに直立歩行の人類として立ち上がる。
感動的。
つわりは「わっ」とちょっと男は引いてしまうが「宇宙的なゲロ」なんだと思うと、宇宙と結びつけると感動する。

赤ちゃんは生まれてきてだいたい二年後に直立歩行人として、彼はついに立ち上がる。
立ち上がった後はもう、凄まじい勢いで人間であることを学ぶために発音、発声を繰り返し、原稿を作ったり開いたりしながら人間としての歴史をなぞる。
この子供たちの本能の中ですごく面白いことがある。
どんな小さな子でも綺麗なお姉さんが好き。
綺麗というか、優しい雰囲気を持っていて優しい声を出してくれる人に子供が惹かれていると思う水谷譲。
表情は大切。
これはなぜかと言うと「表情は内臓」。
小さい子が表情に惹かれるのは「あ、この人、内臓いいんだ」ということが本能的にわかるから。

 「人間の言葉というものは、こうしてみますと、なんと、あの魚の鰓呼吸の筋肉で生み出されたものだ、ということがわかる。……人間の言葉が、どれほどはらわた≠ノ近縁なものであるか……それは、露出した腸管の蠕動運動というより、もはや°ソきと化した内臓表情≠ニいったほうがいい。なんのことはない──はらわたの声≠サのものだったのです」(232頁)

優れた言葉の形成、これも内臓の感受性から生まれる。
だから内臓がやっぱり鈍感な人というのは言葉づかいでトンチンカンで失言が多くなるし、上から目線みたな発言に、という。
「失言」の方は表情が悪い。

 「あたま≠ヘこころ≠フ目ざめを助ける。
やげて独り言が無声化してゆく三歳児の世界でついに一人立ちし、ここに『自己』が産声を上げる。
(235頁)

内臓は植物の機能が宿り、内臓という森は宇宙リズムと呼応し波打つという興味深いエッセイをこの三木さんは残しているので『胎児の世界』などをお読みになるといいと思う武田先生。
(この本は以前番組でも取り上げている武田鉄矢・今朝の三枚おろし(8月26〜30日)◆胎児の世界(前編)

胎児の世界―人類の生命記憶 (中公新書 (691))



 「わたしたちは、あの昆虫網を斜めに構えて赤トンボを追う男児のまなざしに、遠い狩猟時代のおもかげを見はしないか。当時の感覚は、たとえば、釣竿を伝わる、獲物の筋肉攣縮のなかにも息づいているはずだ。わたしたちはまた、初雪のなかを生き返ったようにイヌと戯れる幼児の姿に、その大氷河時代の郷愁をおぼえるのではないか。(240頁)

 「幼稚園のジャングルジムに群がる園児たち。鉄棒、吊り輪、あん馬、平行棒に見せる体操選手の見事な「腕技」などなど。これらは第三紀の樹上時代に鍛え抜かれた「腕わたりbrachiation」のやむにやまれぬ復活といったところか」(240頁)

ヒトではなくニワトリの卵(や胎児)、それにサンショウウオなどを使って研究していた。生きたニワトリの胎児に、その心臓をめがけて、注射針で墨を入れる。すると血管の流れに沿って、墨は体に行き渡る。胎児の成長とともに、体は、血管は、どのような変化を遂げていくのか、そのような研究をしていた。(205頁)

ニワトリやサンショウウオではなく、ヒトの、「その胎児への墨の注入という問題にまで発展」(同前)してくる。(206頁)

 そして、医師仲間から、堕胎したヒトの胎児が提供され、研究室に運ばれてくる。三木は注入の実験を試みるが、要領を得ずに失敗する。
 その頃から、科学者としての三木の心境に変化が生じる。ちょうど妻の妊娠とも重なる。
(205〜206頁)

三木先生は著作の中で「人の発生には人がその目で決して見てはいけない瞬間があるんだ」と、そう自分に言い聞かせたそうで断念なさったと。
自分のお子さんがお産まれになった時に「やっぱりやらなくてよかった」としみじみお思いになった。
(というのはこの本にはない)

「三枚おろし」を本にしてくれた出版社があった。

人間力を高める読書法



(この本のことを言っていると思われる)
それを自分で読んで結構面白いと思った武田先生。
何が面白かったかというと、途中でポロッと自分が自分の考え方を言っている。
「この人のここが好きだなぁ」みたいな。
それが面白かった。
だからやっぱりそれを入れていかないといけないと思う武田先生。

三木成夫さんの世界はもう四回ぐらい(「今朝の三枚おろし」で)取り上げている。
もう亡くなられているが、この三木さんという解剖学者の方の順々と命を解き明かしていくという姿勢が好きだと思う武田先生。
この人(三木)が言ってらっしゃる「内臓世界」。
人間には意識の世界があって、これは脳が支配している。
だけど、もう一つ人間には世界があるぞ。
ものを考える、それが内臓世界だ。
その内臓世界というのは植物相、植物と同じなんだ、というようなこと。
「え〜?お腹ん中は植物と同じなのか?」と思っていたら違う本を読むと「小腸内に住んでいる細菌のことは腸内フローラと言います」と。
「あ、お花畑だったら…あ、三木さん正確な物言いだったんだ」という。
そういう発見。
小腸の中で花開いている花々、植物層は、実は太陽や月、星々とシンクロ、同期している。
植物はいつも空を見ている。
宇宙の方角を。
そうやって考えると「さらに学んでいきたいなぁ」と思う。

(最後はアンガールズの山根良顕氏との話。これは何度か他の回でも登場しているが今回は割愛する。2017年9月4〜15日◆来たるべきバカ(前編)

posted by ひと at 20:11| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年7月17〜28日◆人体5億年の記憶(前編)

この本以外からの引用なのか、番組で言っている内容がちょいちょい本の中にはない個所がある。
いつものように本に書かれている部分のみ抜粋するけど。

人体 5億年の記憶: 解剖学者・三木成夫の世界



以前にも番組で取り上げている三木成夫さん。
その三木成夫さんの授業を受けられた学生さんの著書。
もう結構年月が経っているので著者(布施英利さん)も中年以上の年齢になられた方。

 1980年のことだ。その年の4月、私は上野の東京芸術大学に入学した。そこで奇妙な授業を受けた。
 「保健体育」という科目が、五月の連休の頃、集中講義としてあった。講義では保健体育という名称の授業らしからぬ、独特な話がされた。
−中略−ある音を流した。子宮にマイクを入れて録音したという、心音や血液が流れる音だ。−中略−性の行動の果てに、どんな世界があるのか。それを実感させることで、生命の尊さと性の厳粛さを伝えようとしたのだろう。(9〜10頁)

非常に常識を突き破るような授業をなさった。

塩を持ってきて、それを持った手を、バーテンがカクテルを作るように動かす。「メビウスの輪の軌跡の動きが、いちばんベストだ」という。動きを止めて、最前列の学生に、その塩を舐めさせ(じつはその前に比較のために一回舐めさせてあり、メビウスの輪にゆすった後、また舐めさせたのだ)、「どうだ、味が変化したろう。甘くなっただろう」などという。−中略−三木先生は、メビウスの輪というより「らせん」の形と動きに、深い意味と価値を認めていて、らせんの動きを、学生に生々しく伝えようとしていたのだ。(11頁)

それでその「らせんの形」とういところからウンコが偉大な証拠であるという。
東京芸大の学生さんたちが、三木の授業が終わるたびに「授業のできがいい」とスタンディングオベーションしたという。
(本には「東京大学の医学部の学生が特別講義を聞き終わった後、感動の余り拍手したという伝説の解剖学者」という記述のみ)

三木はヒトの体を大きく二つに分けてみていた。「植物性器官」と「動物性器官」である。(33頁)

「全部動物ではないか?」と私どもはつい、人間をそんなふうに考えてしまう。
三木さんは独特。

からだの基本形は何か?
 三木は、それを「一本の管」であると考えた。口から始まって、胃や腸を通り、肛門という出口へと至る一本の、管。
(123頁)

 それは、ただの動物のぬいぐるみではなかった。体の中も作られていたのだ。しかも、普通の内部構造、というものではない。三木先生は教壇で、ぬいぐるみをつまんで、くるっとひっくり返す。靴下を裏返して、表と裏を逆にするような要領だ。すると、その小動物の姿は内側に包み込まれ、その代りに、内側にあった形が、表面に現れる。裏返して現れたのは、植物の樹木の形だ。ぬいぐるみのような素材の造形物なので、太く丸みを帯びている。リアルな樹木っぽくはないが、幹があり枝が伸び、葉が付いていて植物の形をしている。(12頁)

小腸というのが栄養を吸収する大事な器官で、新陳代謝の回転が早い。
それでガンの発生があまり見られない。
「小腸ガン」は聞いたことがない。
武田先生の奥様曰く「小腸は回転が早い」。
それでありとあらゆるものを作ってしまう。
神経伝達物質からタンパク質から何とかバーッと。
それでこれから排出するものを再処理する、最後に取り上げるのが大腸。
ここは古いのでガンが発生しやすい。

人間はとどのつまり一本の管である。
この管を引っくり返していくと細かな根の密集した樹木の根、根毛みたいな内臓器官があるのだが、その根が栄養と生殖を支配する。
「ムラっときた」とかと言うが「ムラっと」という感覚は内臓が支配している。
地上が感覚、伝達、運動の動物的側面であるのに対し、神経の情報、筋肉、骨、体の動きの世界は内側にあるという。
内臓にあるという。

三木はそれを肛門からの脱腸にたとえて、「顔というのは、脱腸が張り付いているようなものだ」と言っていた。(71頁)

 えらが、顔の筋肉になった。(71頁)

水族館でエイの裏側を見ると、やはりいくつもの切れ目(=えら)が並んでいる。もっと原始的な魚、ヤツメウナギなどを見ると、八つの穴が並んでいるように見えるが、そのうちの一つは目だが、残りの七つはえらだ。(67頁)

中生代1億年かけて海と陸とが激しく揺れ動いた1億年の時代があって「バリスカン造山運動」という時期があった。
(調べてみたが「バリスカン造山運動」は中生代ではなく古生代後期のようだ)
これは大変だっただろう。
陸地が盛り上がったと思ったら海の底に沈んで。
海の底だったと思ったのがブワーッと盛り上がって山になるという。
ヒマラヤもそう。
昔海底だった。
奥様と温泉旅行で伊豆に行った武田先生。
あれは島だったようで、ゴーンとぶつかった。
修善寺あたりを先頭にしておいて、下田が一番の島の尻で。
だからあそこは山のタイプが変わる。
ものすごく山が高い。
押し出された分が高くなっている。
そこに修善寺の岩山があったり。

天城越え



あれはメリメリメリメリと押されてしまって。
下田から天城越えはもういきなり坂道。
それでループ橋で上り下りしなきゃいけないぐらい、らせんで。
それは伊豆半島はああやってめり込んだから、それがバリスカン造山運動で島は動くわ大陸は裂けるわ。
(伊豆はバリスカンとは関係ないようだが)
裂けたと思った大陸、海になったと思った瞬間、海の底が盛り上がって、かつて海だったところが今度は陸になったりする。
そうするとそれについていけない魚類がいた。
それが何万匹何億匹と浅瀬に取り残される。
そいつらがギリギリの水でゼイゼイ言っているうちにもうエラ呼吸をやっている暇がない。
「これ塞いだ方がいいや」というので塞ぎ始める。
それで穴を一か所にまとめて口にしちゃって、耳の穴、鼻の穴にして。
それでゆっくりとヒレなんかを手足にしたという。
そこから両生類が始まる。
だから1億年は辛かったろう。
1億年、そんな目に遭っている。
それでめちゃくちゃ苦しんでいるうちに表情を作る筋肉になっていった。
顔とは腸の入り口であり、新しい仕事として嚥下、飲み込むその筋肉、発声、そして泣き笑いする表情。
表情というのは何かというと、内臓の意思を伝える道具。
ものを噛む、すする、舐める、声まで変化するのだが、実は内臓の思いを伝えるために顔の筋肉となった。
だからやっぱりあれは間違っていない。
「ムカつく!」
あれは本当にムカついている。

(番組冒頭のインタビューから続くスマートフォンの話が入るが、この部分は割愛)

五感は、まずは二つに分けられる。−中略−「近接受容器」と「遠隔受容器」だ。触覚器(皮膚)と味覚器(舌)が、近接受容器となる。−中略−嗅覚器(鼻)と聴覚器(耳)と視覚器(目)が、遠隔受容器となる。(97頁)

 三木は、舌という身体の部位について、進化の観点からも説明する。−中略−
 「ミミズのような下等動物では、この味細胞が触細胞と同じく全身に散らばり、からだ中で味をきき分けることができる。
(99頁)

だからアイツ(ミミズ)はこうやって地中の中に「うわぁ!塩辛ぇ〜!」とかって言いながら動いているのだろう。
魚類ぐらいから味を味わうというのは口の中に集めた。

 「舌は、口腔の底がもり上がった筋肉の塊を口腔の粘膜がおおったものである。この筋肉は、くびの前面の筋肉の続きで、手足と同じ体壁系、すなわち動物性筋肉に属する」(『ヒトのからだ』、110ページ)(100頁)

舌はどうやら三番目の手である。
「舐める」というのは触るのと同じこと。

まず子どもは、なんでも舐めるのだ。−中略−目や耳よりも、まず舌で、それを触覚といってもいいが、世界を把握しようとする。(223〜224頁)

ものすごくこの「舐める」という感覚が大事なのは、何せ我々は呼び名として「哺乳」類。
「乳を吸う」という。
乳を舐める生き物。
だから我々は唇と舌でおっ母さんの乳を吸ったというこの経験がこの世に生まれてきた一歩目の人間としての体験だから、舐めるというのは重大な感覚。

 三木は、このようなことから、たとえば接吻という、舌と舌を絡ませる男女の行為について、それが身体的にいかに「深い」ものであるか、大学の講義で熱く語っていた。(100頁)

若いうちしかしないが。
昨日、(綾小路)きみまろさんのアレ(CDか何かか)を聴きながら「本当におっしゃる通りだ」と思った武田先生。
お父さん!
若い頃、お父さんに叫んだ「めちゃくちゃにして!」。
そしたらお父さんが言うんです。
「めちゃくちゃにしなくても、オマエはめちゃくちゃになった」

でも若い頃を思い出しましょう。
本当に内臓感覚として舐めなければ確認できない何かがあった。
そういうところを三木先生がおっしゃっているのが面白い武田先生。
この先生がおっしゃっている中で「脳は意識を支配しています。しかし私たちは内臓の中にこころを持っている」。

舌を使ってものを確認するという。
それが人類の一番最初。
お母さんのおっぱいがわからないと死んでしまうわけだから。
だから人々は舌でものを確認する。
その中に男女の唇を重ねるとか舌を絡ませるとかというのは実に哺乳類的行為ではなかろうかという。
舌による愛撫を細かく見ていく。
相手を「舐める」「吸う」「噛む」。
これはまさしく接触行為と同様。
本当に考えた武田先生。
男は何で好きな人に向かって「舐める」「吸う」「噛む」をやりたがるのだろう。
本能。
その本能のことを「本能」で逃げないで「内臓」と呼ぶ。
それが三木先生の考え方。

武田先生の自説。
なぜ人は愛する人に対して「噛む」をやりたがるのか?
何とかさんというかわいらしいアイドルの人は猫を飲む人がいる。
口の中に猫の頭を入れる「猫吸い」。

夜の歌



『夜の歌』という自伝的小説をお書きになった作家、なかにし礼さん。
この方が中国大陸で迎えた敗戦によって大日本帝国崩壊の混乱を7歳で体験なさっている。
この7歳で体験し、しかもソ連機戦闘機の銃撃あるいはソ連兵の婦女暴行、殺人
中国人の盗み等々の生き地獄の中で隠れ住むような暮らしをなさっていて、いよいよ明日、日本に引き上げるという時に白系ロシアの美少女とお医者さまごっこをやっている。
小説として書かれているが、実際にあったことではないかと思う武田先生。

 ナターシャは私のまだ子供のチンチンを手で愛撫し、口に含んで愛しげにもてあそんだ。
 私は夢の中にでもいるかのように快感に身ぶるいしたが、だからといって、それ以上のことにはならなかった。
「レイのピーシャ可愛い! まだ七歳だものね」
 と薄く笑ってナターシャは自分の下腹部に私の手を誘導した。
「これ私のピーシャ。トゥローガチ!」
 触れと命じた。私は言われる通りにした。そこにはうっすらと柔らかい毛が生えていて、その下の方にはもう一つの口のようなものがあった。そのピーシャの上を私の手が物珍しそうにさまよっていると、
「ハラショ、ハラショ、ピーシャハラショ」
 と甘い声を出して身をよじり、私の指が恐る恐る中へ入ろうとすると、
「レイ、イヤ・リュブリュ・チュビア」
 私を強く抱きしめ両足を開いた。
「愛するということは舐めるということよ。動物も人間も愛しいと思ったものに頬ずりし、舐めるものなの。リーザイチ、それが愛情の表現なのよ。それが自然なのよ」
(『夜の歌』179〜180頁)

ソ連兵が乱暴を繰り返し、逃げていく日本人を惨殺し、中国人がものをかっぱらう、日本人を騙すという。
そういう最悪、最低の魑魅魍魎の世界の中で白系ロシアの娘、ソ連でも差別されている白系ロシアの娘。
綺麗な綺麗な中学一年生ぐらいのお姉さんの娘が7歳の日本人少年のオチンチンを触る。
それは死に取り囲まれれば少年や少女でさえも性にすがるという、もう重大な、なかにし礼からの指摘。
やがてこれらの引き揚げ体験が、なかにし礼の中で戦後歌謡曲になっていく。
この文章を読んだ時に三木成夫が言う「舐めるという行為が哺乳類の行為としていかに重大か」ということを感じた武田先生。

三木教授の指摘は舐めることは性へ繋がり、その性はどこに繋がっているかというと内臓へつながっている。
内臓はどこへつながっているか。
宇宙へつながっている。

 うんちは、日本語では大便という。大きな、便りだ。ではその便りは、どこから来るのか?それは宇宙から、としか答えようがない。(129頁)

海のサンゴは、6月の満月の夜に、一斉に産卵をする。サンゴなどという、理性や知性のかけらもない生き物が、いつが夏の初めの満月の夜なのか、それを知っていて、そのカレンダーに合わせて産卵をする。−中略−
 クサフグは、7月の満月の大潮の夜、日没から一時間後が大潮の満潮になる日にいっせいに産卵する。
(126頁)

彼らは決して間違えない。
なぜなら間違えたものは今までですでに死んでいる。
今、その時を間違えないものだけが生き残った。
これら生き物はその臓器が宇宙のリズムと結ばれている。

太陽や月の運行によって生まれる、海辺のカレンダー、それを察知するのが、この「遠・観得」で、それこそが「こころ」の正体であると三木は考えた。
 この一本の管を通って、からだの外に出てくるのが大便、つまりうんちである。三木はこのうんちに、こころが宿っていると考えた。
(128〜129頁)

 そもそも「こころ」という文字を眺めていると、その文字の形態が、自分にはうんちのあの形に似て見えて仕方ない。漢字で「心」と書いても、やはり巻きグソの、あのうねりとかさなって見える。(129頁)

(番組中では著者の意見も三木成夫の意見も区別せずに紹介しているが、上記は著者の意見)
「心」の古代系は金文に残っているが、ちょっと垂れ下がったオチンチンのよう。
男性性器とも言われているが、やっぱり「心」というのは内臓的。
排泄もそうだし、腎臓なども内臓の一部。
そこは植物的世界と同期リズムを持っている。

寄生虫が最も住み着くのが「腸」。
腸に住んでいる細菌が人間を操っているという説が最近グングン出てきている。
こういうことを考えているから「内臓支配」という考え方で世界を見てはどうだろうか?という。

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2018年02月06日

2017年7月31日〜8月11日◆「いい質問」が人を動かす(後編)

これの続きです。

浜渦さんは偽証か何かの罪に問われたが、その後の動きはあるのか?
逮捕されるとか。
何か最近、本当に中途半端。
石原さんも、あれは大丈夫なのか。
それから升添さんはどうなったのか。
このへんは話題から逸れるともうスーッとフェイドアウトという。
そういう意味で早い。
浜渦さんは(この放送当時)ついこの間の方。
この方が行なった記者との一問一答会、公開ヒアリングの様子を伝えたが、浜渦さんはやっぱりその力量が只者ではない。
記者を指名する、指を差すことによって主導権を全部握る。
そして鮮やかだったのは、非常に饒舌に語る質問とケンもホロロに「あ、記憶にない」と取捨選択していけるという。
一問一答しか許さないというルールがあるので「記憶にない」って言われるのは、もう二問目ができないわけだから。
質問の方角を自分で全部操ることができる。
このへん、浜渦さんは只者ではないという感じがする。
何一つ決定的なことは聞き出せない。
「結局なんだったんだろう」という。
相対的に質問力が落ちているのではないだろうか?と。
しかし今、現状メディアにあふれているのは「『ダメだ』と思った瞬間はいつか?」「一番つらかったのはいつか?」「なぜそんな人とオマエは付き合ってるんだ?」「責任者はあなたですよ?あなた責任全うしてるのか」「悩んでる人、たくさんいるんですよ?切り捨てるんですか」。
だいたいこんな質問で、反論できないところまで相手を追い込んで「勝ちを取りにいく質問」というのが大手を振っているようだ。
質問の根底には「わからないことを聞く」という素直さがもう少しあってもいいのではないかなぁと思う武田先生。

 私が弁護士になった後、賃貸マンションを探していたときの話です。−中略−
 すると不動産会社の社員は「かしこまりました。でも、この○○マンションシリーズはとても人気があって、すぐに借り手が見つかってしまいます。このお部屋はご契約なさらないということでよろしいですね?」と言いました。
 私は、その瞬間、とても不安になりました。
(142頁)

そうすると「ちょっともう一回いい?」と言いながら見直してしまう。

少なくなったり、なくなってしまったりするものほど価値があるもののように感じてしまう心理を「希少価値の法則」と言います。(143頁)

「契約しない。これはしないんですね?これはしない。これは検討するけども、こっちはしない。こっちはしないですね?」と言っていると、冷静な判断ができなくなってくる。

マーク・トウェーンは、「アダムがリンゴを欲しがったのは、そのリンゴが食べたかったからではない。それが禁じられていたから、というだけのことだ」(145頁)

そういうタブーとか拒絶に関して、人間は結構どこかでたじろぐところがある。

他人が自分に何かをもらったら、そのお返しをしなくてはならない気になることを、「返報性の法則」と言います。
 この返報性の法則は、日常生活のあらゆる場面で見ることができます。年賀状をもらったら、同じく年賀状を返し
−中略−バレンタインデーに女性から男性にチョコレートをあげると、男性は、何が起ころうともホワイトデーにお返しをしようとします。(149〜150頁)

スーパーの試食は−中略−それをもらって試食をし、爪楊枝と皿を返しただけで立ち去るのは少し心苦しい気がします。つい少しでも購入した方がよいのでは? という気になってしまいます。(150頁)

コンビニなんかで絶対にある。
この番組(『今朝の三枚おろし』)のために「ここだけは語ろう」というので赤鉛筆でシュッと線を引く。
その赤鉛筆の芯が、もうポキポキポキポキ折れる。
それで鉛筆削り器を回してもまた置くとポキっと折れている。
それで朝の散歩のついでに赤鉛筆をコンビニに買いにいった武田先生。
「あ、武田さん。今日、赤鉛筆だけでいいの?」と言われると「いや。あ、ちょっと待って、ちょっと待って。俺何か買い忘れてる」と言いながら付箋を買ったり、あと三つぐらい買っている。
これはやっぱりどこかで返報性の法則が体の中によみがえる。
人の心理。

「ここらへんではこれに決まっている」という商品がある。
「ここのこのお菓子を持っていくと喜ばれる」という。
「切腹饅頭」
会社同士の付き合いで何かミスがある。
その時に切腹饅頭とか切腹最中があって「切腹する代わりにこれを差し上げます」というのがある。
それをもらうと許さざるを得ない。
「おいおい。切腹饅頭かい?」と言いながら許してしまうという。

【新正堂】切腹最中(5個入り)



九州福岡だと、武田先生の子供の頃は、たとえば「銘菓ひよこ」「鶏卵素麺」とか。

九州銘菓 ひよ子本舗吉野堂【ひよ子14個入】



卵の黄身とはちみつで作った甘い、素麺に似せたお菓子。

鶏卵素麺(けいらんそうめん)1本入  【石村萬盛堂 和菓子】



それから千疋屋の果物。
(長嶋)一茂くんが言っていたが、長嶋さん家はだいたい贈り物は千疋屋のメロンだった。
だから「箱に入っていないメロンを初めて見た」とかっていう話を聞いたことがある武田先生。

返報性の法則。
爪楊枝に刺したお試し食品。
カマボコやハム。
味見のお試し食品の切り方が大きければ大きいほど返報性が高くなり、買って帰るという例が増大する。
小っちゃいのは「フムフム」とかと言いながら、それでけっこう喰って何も思わないのだが、やや大きめに切ってあると商品の眺めわたし方「あ、今食べてるのこれ?」とかっていう質問がちょっと大きくなる。
この前カブの漬物を試食でいただいた時に、カブがちょっと大きかったという水谷譲。
最近は爪楊枝のお試し食品の切り方が大きい。
昔より切り方が大きいような気がして仕方がない武田先生。
このへんは、やっぱりそういう人間の心理を捉まえた動かし方というのはある。
そして、女性がよく使うが、科学的には「譲歩の提供」というのがある。

何も与えるものがない場合−中略−「譲歩」を相手へのプレゼントにする方法があります。
 心理学者のロバート・チャルディーニが行ったこんな実験があります。「州のカウンセリング・プログラム」の担当者を装い、学生を呼び止めて非行グループを動物園に連れて行く付き添いを依頼したそうです。当然学生は嫌がり、83%の学生が断りました。次に実験者は、まず呼び止めた学生に「2年間にわたり、1週間に2時間、非行少年たちのカウンセラーを務めて欲しい」と依頼したところ、全員が拒否しました。すると実験者は、続いて「では、非行グループを動物園に連れて行く付き添いをして欲しい」と依頼をしました。すると、承諾率は劇的に上昇し、なんと50%もの学生が承諾したそうです。
(151頁)

つまりこれは「君が引き受けてくれないんだったら、どう?この条件で」と、さも譲歩したように見せかけて誘導する。
最初に難しい、乗らない条件があって、これは「譲歩を与えた」というように相手に思い込ませる。
これは女の人がよく使う。
よく引っかかった気がする武田先生。

人は、一旦ある行動を取ると、それに矛盾した行動が取りづらくなり、その行動と一貫した行動を取るようになる傾向にある、という法則で、心理学では「一貫性の法則」と言います。(155頁)

 アメリカの社会心理学者フリートマンとフレイザーはこんな実験をしています。−中略−ある町の家庭を対象にした、『「安全運手」と書かれた大きな看板を家の前に設置させていただけますか?』という依頼です。次のように行いました。

 A……いきなり訪ねて頼んだ。
 B……まず「安全運転をしよう」と書かれた8センチ角の小さなステッカーを窓に貼ってもらうように依頼し、承諾を得た後に大きな看板の設置を依頼した。

 実験結果では、Aは17%しか承諾しなかったにもかかわらず、Bではなんと76%の人から承諾を得ています。調査を受けた人は、小さなステッカーを窓に貼ることにより、「自分は安全運転を推進する立場の人間だ」という態度を表明したことになり、その後大きな看板を設置する際にも抵抗なく承諾する結果となるのです。
(155〜157頁)

今年(2017年)初めから総理も含めて発言とか失言が問題になっている。
こういう「発言が問題になる」「失言が問題になる」というのはどういうことなのか?という。
何であんなっことを言うのか?
「普段からそういうことを思っているからポロッと出ちゃうのではないか」と思う水谷譲。
失言にはやっぱり絶対、失言の何か手順みたいなヤツがある。
少なくとも言えることは失言というのは「その後に何かを言おうとした」という。
その言葉を経て何かを言おうとしたその手前で「失言だ」と騒がれていたという。
何か肝心なことをこれから言うべく、枕として言ったことが失言として取り上げられたというような気がする。

質問というのはすごく面白くて、まず自分に質問することによって自分の質を上げていかなければならないという。
まず「そもそも」「ところで」「だとすれば(だとすると)」この3節を枕にして質問を自分に重ねていく。
例えば「私はそもそも、なぜ『三枚おろし』という番組をやっているのか?」。
(この番組を続けていることは)けっこうきつい。
今(放送当時)はもう一つ大仕事を抱えている武田先生。
暑い暑い京都という所で、本当に日本一有名な老人役(水戸黄門)を演っているのだが京都は暑い。
しかもロケ地は滋賀県。
毎朝忍者と手代の若者二人を引き連れて移動。
そこでいろいろ着せられ、それで演んなきゃいけない。
その時にこの番組は重荷。
もちろんうれしい。
聞いてらっしゃる方で、時々すれ違ってものすごく褒めてくださる方が二か月に一回ぐらい現れる。
ある経済学者の先生、コメンテーターの方が聞いているそうで「面白いわ〜ん♪」としみじみ言われて、それがすごくうれしかった。
でも評判だけを目指しているのではない。
この番組をやっていることによって、自分の中で好奇心というのがいつも刺激されている。
そもそも:私はなぜ『三枚おろし』をやっているのか?それは聞く人のためでもあり、自分で好奇心いっぱいの自分でいるかどうか、それが確認できるからだ。
ところで:自分のためというなら「なぜ?」という問いを忘れない自分であることが大事なんだ。
だとすると:この番組を続けるしかない。
「そもそも」「ところで」「だとすると」という、こういう手順。

「いい質問が人を動かす」は自分に対することでもそうなんだと、そういうふうに谷原誠さんのご本を読んでそう解釈した武田先生。
「自分に対しても質問力を持っていないと人間ダメだ」と。
「発言にミスがあって」とかがいらっしゃるとすれば、やはり自分に対する質問がよくなかったんじゃないだろうか?
「なぜ?」を五回、自分に重ねて考えてみるとか「そもそも」「ところで」「だとすると」というような手順で自分というものを考える。
自分に対する質問力ということも大事なのではないだろうか。

四年ぐらい前からものすごい勢いで気力の衰えを感じ始めた武田先生。
ささやかなことがすごく気になり始めた。
眠れない日が続いたりしていた頃。
困ったことに奥様の一言が胸に突き刺さって眠れなくなったり。
それは奥様の言葉づかいが悪かったりということではない。
奥様から「あなた、どうするの?」と言われると本当にたじろぐ。
「どうなるんだろうか?」とか。
自分に質問を重ねていくうちに出た結論が「もしかすると自分の気持ちが衰えてるんじゃないだろうか?」。
お嬢さんが言った一言が気力を削ぐし、奥様から言われた一言が気力を削ぐ。
本当に削ぐ。
削り取る。
また身内は痛いところを突いてくる。
トイレを終わって出てきて、その次に奥様がパッと入った瞬間「臭〜い!」とかって言われると。
もう笑いごとじゃない。
本当に落ち込んで夢に見る。
他にも「あの件どうするの?」「この件どうするの?」「事務所どうすんの?」と。
あえて「事務所」と。
そういう公的な、それからプライベートな、その両方から「どうするの?どうするの?」の質問攻めにあうと、もう本当に「どうしよう?どうしよう?」しか言えないという。
その時に強烈な気力の衰えを感じて「これは何とかせんと。自分を変えんとイカンな」というので、ゴルフをやめてみた。
ゴルフどころじゃない。
それで合気道をやってみようと思って。
内田先生が大好きだったから。
内田樹という鮮やかな論理の関節技を使うというこの先生の一言に誘われて、とにかく合気道場を探して見つかった。
そこにも三年。
七月(2017年7月)で三年が過ぎた。
さっぱり上達しない。
しかし面白いものだ。
合気道の先生がいらっしゃる。
70代後半の館長が稽古が終わるとポソッと一言おっしゃる。
それが胸に沁みる。
館長「武田くーん!」
武田「はい」
館長「『元気』でも『景気』でも『病気』でもね、あんた漢字上手だろ?書いてごらん?『病気』『元気』『景気』。みんな半分『気』だよ、気。私どもはね、毎日こうやって練習しております。合気道もね『合気』。半分『気』があります。『気』は自分で作るしかないんですよ。そういうわけです」
これは本当に堪えた。
その「気」を養うため、自分への質問から一つの答えが見つかって、今度はゴルフをもう一回やり直してみようと思った武田先生。
今度の手順はすごい。
半年間でゴルフ場に行ったのは二〜三回。
でも打ったボールの数はもう一万発近い。
ひたすら練習をしている。
何で自分が下手かが、やっとわかった。
結局見つかったのは「ゴルフの理論がわかっていないからだ」というので、またこれも先生に付いて。
自分のゴルフスイングのスローモーションを初めて見た。
ひどい。
己の姿を見てびっくりした。
「はっはー!」と思った。
「遊ぶ」というのは何のために遊ぶか?というと「気を作るためだ」と思って。
そのために必死になってやっている。
そうすると発想が変わってくる。
奥様に対してもゆっくりと受け身が取れるようになってくる。
そこで今年(2017年)に起こったのが「スマートフォン事件」。

今年スマートフォン・デビューした武田先生に奥様の厳しい質問が待っている。
それは商品を見た瞬間に「何であなた、スマートフォンにしたの?」。
あの冷たい、鼻に引っかかったような、人に突っかかってくるあの物の言い方。
そしてこれは携帯の場合もそうだが奥様曰く「ねぇ、あなた。電話帳の履歴とか見せられる?電話帳どんな人入れてるの?残ってるんでしょ、記録。ちょっと見せて。やましくないなら見せられるでしょ?」と70歳を手前にした男に突っかかってくる。
これはどこの家庭でもある。
でもこの時に大事なのが「質問されることに関して、質問を仕返しする」という。
「質問で返す」という質問力。
どう奥様に質問するのか?
同じ悩みで悩んでらっしゃる方に教えてあげましょう。
どう質問を返すのか?
「どうして見たいのか?」
「何を見つけたいのか?」
「見つけたらどうするのか?」
「お互い見せ合うのはどうか?」
「あなたの方のスマートフォン、あるいは携帯に男性の名や奇妙な店の名を見つけた場合、私は少しもあなたを疑わないが、あなたはどうなのか?」
「同じことが私の方にあった場合、あなたはどうするのか?」
「質問をする力」とは自分を守る力、ディフェンス力。
大した騒ぎにはならなかったが。
スマートフォンとの歴史が始まったばかり。
下の方のボッチ(ホームボタンのことか?)を押して画面が出てくる。
その時にびっくりしたのは声が訊いてくる。
音声ガイドみたいなヤツ。
「あなたは何を訊いているのですか?」
機械が武田先生に突然質問する。
「あなたは何を知りたいのですか?もっとはっきり質問してください」という音声入力検索の声が聞こえてくる。
奥様もびっくりしていたが、ボタンを押すたびに機械から訊かれるとびっくりする。
思わず「いや、別に知りたいことはありません」とか「今ちょっとボタン押しただけなんですけど」とか答えたのだが、ずっとそれ。
画面が出てこないで検索の声が聞こえてくる。
解除の仕方がわからない。
解除しようと思ってボタンを押しているのに「何を訊いているんですか?よく聞こえません」とか。
それで会社の方に連絡をしたら「すでに押してる段階で長押しになっているんじゃないですか?」と言われた。
でも強く押せば何か立ち上がるのも早くなるような(気がしてしまう)。
テレビでもある。
映りが悪い時、わりと強めにボタンを押すという、戦後の習慣が。
これが武田家の「スマートフォン事件」。

考えるというのは、自分に質問するということです。自分に良い質問をすれば、良い方向に思考が回転し、悪い質問をすれば悪い方向に思考が回転します。(238頁)

更に質問を繰り返す。
そのことによって問題がはっきりする。
・なぜよいのか?
・なぜうまくいったのか?
・これは続けるのか?
・それを続けるのか?
・うまくいかないのはどうしてか?
・なぜうまくいかないのか?
・やめた方がいいのか?
・どこをどう変えるのか?
こういうフィードバック・クエスチョン。
それを必ず繰り返すこと。
そしてあきらめていないということがとても大事なことで「あきらめていないということが質問をよい答えに持っていく道なのだ」ということ。
ありとあらゆるものがそう。

 北海道の旭川市に旭山動物園があります。開業したのは1967年。−中略−北海道旭川という人の流れもあまりなく、札幌などからの交通の便もよくない場所でありながら、上野動物園(東京都)をもしのいだことがある驚異の動物園です。この動物園も、一時期は年間入園者数がピーク時の10分の1の30万人を割り込み、廃止論も出たほどでしたが、小菅延長が1995年に就任して動物たちの自然の行動を見せる「行動展示」を取り入れて一気に流れが変わり、入園者数が10倍も急増しました。
 実はこの旭山動物園の成功も短所を長所に変える逆転の発想に基づいています。
−中略−ところが、旭川空港から直行すると、30分〜35分くらいで動物園に着いてしまいます。−中略−また、「寒い」という短所は、「寒い環境に適応する動物には最適な地である」という長所に変換していまいました。(260〜261頁)

「なぜなんだ?」「なぜうまくいかないんだ?」「なぜうまくいくのか?」という自分に対する質問が上手だったという。
そのことによって新しい動物園ができる。
よき質問は自分の立場を考える。
次に相手の立場を考える。
そしてその「私と相手とのやりとりを見ている第三者の自分」をいつも想定できるかどうか。
それがいい質問を繰り出すための条件であると。
このへんはやっぱり見事だというふうに思う。
ぜひ「よき質問ができる人に」という一冊。

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2017年7月31日〜8月11日◆「いい質問」が人を動かす(前編)

「いい質問」が人を動かす



谷原誠さん。
弁護士の方。
弁護士の法廷に於ける駆け引きで「いい質問」が法廷の雰囲気を変えたりする。
池上(彰)さんの決め台詞「いい質問ですね」。
これはやっぱり「上から目線の人評価」という。
でも「いい質問」と言われると質問をした方はうれしい。
それが面白いところ。
「何でこんなことがわからないんだ?」と聞かれるよりは「お、いい質問ですね」って言われた方が上から目線でもうれしい。
「何でこんなことができないんだ?」と言われるとかなり感情的になるが「どうしたらできるようになるんだろう?」と全体の問題にすり替えられると印象はガラリと変わって解決に向かって前進したような気がするという。

人をフリーズさせる一言。
時としてM体質の武田先生は感動する。
いわゆる「ダブルバインド」。
武田先生の奥様の質問。
「このままでいいと思ってるの?」
これは「いい」と返事をすれば「どこがいいの?」と反論される。
「このままではいけないと思う」と言うと「なぜやらないの?」。
「どっちにいっても叱られる」ということ。
そういう質問の仕方をすると人を追い込むことができる。
武田先生にとって「妻との一言」は「妻もまたこの言い方、人を縛る言い方に抜群の才能がある女性です。妻は実に巧みです」。
例えば「なぜ汚すの?」。
「汚していないよ」と言うと「嘘、言う!」。
「汚した」と言うと「なぜ拭かないの?」。
これはやっぱり人を動かす最高のダブルバインド「縛り方」の質問。
人を縛って動けなくしてしまう、フリーズさせてしまうというものの問い方。

「質問の質を上げる」ということはどういうことかというと、とりあえず自分の中で「なぜ」という質問を五回繰り返しましょう。
そうすると「改善すべき主題」がハッキリと現われてくる。
これは国会答弁でも都議会でもそう。
「なぜ」というのを五回繰り返すと問題があらわになる。
ついこの間までゴルフをやめようと真剣に思っていた武田先生。
「ゴルフをやめようと思う」と自分に問う。
自分に「なぜ?」と聞き返す。
「少しも楽しくない」
「少しも楽しくないの?なぜ?」
「スコアが全然よくならないから」
「スコアが全然よくならない?なぜ?」
「ドライバーが当たらない」
「ああ、ドライバー当らないの?なぜ?」
「スイングが悪いから」
「スイングが悪いの?なぜ?」
「スイングの理屈がわかっていないから」
これで五回「なぜ?」を繰り返す。
そうすると解決策が見えてくる。
それは「スイング理論を身につけないかぎりゴルフは楽しめない」という。
とにかく「なぜ?」を五回自問していく。
そして自答していくと必ず問題点がはっきりしてくるという。

デール・カーネギー著『人を動かす』−中略−人間は、他人から言われたことには従いたくないが、自分で思いついたことには喜んで従います。だから、人を動かすには命令してはいけません。自分で思いつかせればよいのです」(8〜9頁)

人を動かす 文庫版



これは本当にそういうところがある。
人からそんなふうにして持っていかれているのだが、さも自分が思いついたように言った瞬間に人間はそのように行動するという。

質問の仕方によって物事の真相が見えたり解決策が見えたりしてくるものだ。
逆の意味で言うと、へたくそな質問がいかに世の中をグジャグジャにするかという。

谷原さんのご本は法廷術。
この方は弁護士なので、法廷等々でお使いになるという実例が出てくる。
この本を読みながら、この本を三枚におろしていた自分の見聞で、この方の意見をいろいろと使ってみた武田先生。
2017年4月12日の武田家での出来事。
浅田真央引退会見での記者の質問。
「引退の決意をどこでなさったんですか?」
「今までで一番印象に残る大会での演技はどの演技ですか?」
「あなたの演技の代表的な技、トリプルアクセルにもし今、引退するあなたが声をかけるとすれば、何とかけますか?」
こういう質問が飛んだ。
それを見ながら武田先生の奥様が(テレビの)画面に向かって「腕章して、いい年こいて、バカなこと訊いてんじゃねぇよ!」という。
「そんなことしか訊けないのか!」と言いながら。
矢のような鋭い言葉。
怯えるようにして妻の脇に小さく座っていた武田先生。
なぜ奥様は激しくそういうふうに記者の質問を罵ったかというと、この質問はいずれもその後、浅田真央さんが長いこと沈黙してしまう。
ライブだから、すぐに答えが返ってくる方がいい。
浅田真央さんの引退会見なので「深いことを訊きたい」ということはわかるが、いずれも答えるのに時間がかかる。
そういう意味で奥様曰く「いい質問」ではない。
記者さんたちには記者さんたちの「バカじゃない」理由があったのだろうが。
最初の質問「引退の決意をどこでしたのですか?」はネガティブ。
非常に暗い質問。
二つ目「今までで一番印象に残る大会と、大会で行った演技を答えてください」。
これは「一つだけ答えよ」という限定。
これがまた浅田真央さんを考えさせてしまう。
これは明らかに記者側にはもう答えがある。
例の「ソチの大会での」というようなことを言ってくれればこっちはうれしいんだがなぁという記者側のアレがある。
浅田さんは深く深くお考えになったものだから、ここでも間が開く。
そして三つ目。
あまりにも抽象的。
「トリプルアクセルに声をかけるとすれば、何と声をかけますか?」
だから記者は「ご苦労様。私のトリプルアクセル」とかって言って欲しいのだろう。
これは質問として難しい。
奥様の印象。
「今の三つは下手な質問である」
奥様が「あ!」と褒めたのがある。
奥様が賛辞を送った質問はどんな質問だったか?
それは男性だったか女性だったか「浅田さん。あなたはいつも強い気持ちでいくつもの困難を乗り越えられてきました。その強さをあなたに授けた人は誰ですか?」。
もうこれは、訊いた瞬間にキャメラマンがバーッとファインダーを構えて。
浅田真央は一言置いて「母です」と言う。
つまりそのいわゆる「すべての人が想定しながら、その一言を聞きたい」という。
また浅田真央さんが正直に言ってもその答えになるという問いを彼女の前に置いてあげる。
それで浅田真央という人は美しい笑みを浮かべて「母です」と答える。
そうするとババババババーっとフラッシュが。
つまりこれはもうそこにいたファインダーを覗いているすべてのキャメラマンも合点したという「いい質問」だった。
引退会見なので返事は暗くなりがちだが、返事も表情もその会見場の誰もが望んだ、それを引き出せる質問が「いい質問」はないかと。
これは本には書いていない。
浅田真央は背中を一回向け、涙を拭いて「母です」と答える。
この質問は武田先生の奥様が「非常に頭のいい質問」という。
というのは会場にいる全員の感情が動くという。
谷原さんは質問に関してはまず「相手の感情を動かすという質問が大事なんだ」と。
だからこの質問の人がうまかった。
「あなたにその強さを授けた人は誰ですか?」と訊いて浅田真央さんが「母です」と答える。
その後にこの質問者はこう訊いた。
「そのお母さんの力を発揮できた大会はありますか?」
そうすると彼女がさっき長い間で「テヘヘ」と笑いながらうまく答えられなかったのが「ソチです」という。
ショートで失敗してグシャグシャに気持ちが折れた浅田真央。
でもいよいよフリーに望む時「真央」と呼びかけた母の声がしたと。
そして当然だが彼女は「ソチのフリーの演技でした」と応じる。
なるほど。
それを聞けば満点。
日本人の多くがそれを聞くことによって共感、喝采を送る。
質問者の質問というのが感情と理性をきちんと把握して応答させる。
そのやっぱり技術。
質問には技術がある。
これはもう、谷原誠さんが法廷等々の中で何度も感じられたことなのだろう。
「質問には技術が必要なんだ」と。
だからこの浅田真央さんの良い例を今、使ったが、逆手に使えば相手を激怒させることも簡単。

例えば水谷譲が国会議員だとする。
水谷譲は大臣。
記者である武田先生が水谷譲に質問をする。
記者「あなたは東アジアのこのエリアにおいて戦争の危険はあると思いますか?戦争の危険はどうです?隣国の問題等々・・・」
大臣「差し迫っては無いと私は思います」
記者「では将来勃発するという可能性に関してはどうですか?」
大臣「う〜ん・・・まぁ、それは今後・・・」
記者「申し訳ありません。なるべく返事は『はい』と『いいえ』でお願いしたいと思います」
大臣「はい」
記者「あなたは危険がもしあるとお思いになるんだったらば、そのことを心配なさっておるんですか?」
大臣「まぁ、そりゃそうですな」
記者「若者に武器を持たせ、殺傷の技術を教える。そういうことは国防上必要であるとお思いですか?」
大臣「今の日本ではそれは考えられない・・・」
記者「そういうことは危険であると思いますか?」
大臣「危険なんではないかと」
記者「徴兵制度を復活することには、もちろんあなたは反対ですね?」
大臣「まぁ、そうですね」
このいずれの質問も全部「『はい』か『いいえ』で答えなさい」と言うと「はい」としか答えようがない。
つまり「はい」としか答えようがないところに相手を追い込んでいくと、簡単に相手を激怒させることができる。
とにかく相手が迷ったら一問目に戻ればいい。
「あなたは東アジアに戦争の危険があると思いますか?」「いや、それは・・・」と言うと「平和ですか?」と言う。
「いやいや、平和じゃない」「じゃ、危険なんですね」「そりゃまぁ・・・はい」って言う。
その後「若者に武器を持たせて自衛隊で訓練することは危険ですか?」「それはもちろん」って答える。
「でも東アジアには戦争の危険があるんですよ?」ってそこにずーっと戻っていけば、相手を何百メートルも同じ円の中で引きずり回すことができる。
これと同じことが、この2017年の4月に起きている。
復興大臣(今村前復興大臣)に対する仮設住宅援助打ち切りの問題の記者からの質問。
「我々はちゃんとやってるんだ!」と激高した方。
怒らせた方にすごい質問の技術がある。
今村復興大臣とフリージャーナリストのやり取り[平成29年4月4日]復興庁 | 今村復興大臣記者会見録[平成29年4月4日]
大臣さんがカンカンになって「出ていけ!出ていけ!」という。
「人に向かって何ていうひどい大臣だろう」と思った武田先生。
でもその次に思ったのは「あ、この人、髪の毛染めてるな」という。
(頭髪が)真っ黒。
長崎県(番組内の別日に「佐賀県」という訂正あり)から選出されたという、大変苦労人らしい。
その方が細身の体で血相を変えて乱暴な言葉づかいで。
これは記者からの質問を受けた復興大臣の方が仮設住宅援助打ち切りからケンカに発展したということ。
しかも大臣の発言は援助を打ち切るというその人たちに対して「そこから先の人生は自己責任だろう!」とおっしゃったというので大問題。
よく聞くと、この方はあまり大きく間違ったことは本当は言ってないのではないか?というのが後の反省で言われた。
ただ、言葉を間違えた。
「しっかり自立を促したい」と言えばいいところを「自己責任」と。
谷原さんの本を読んで、週刊新潮を買って、その顛末を調べた武田先生。
2017年4月4日の復興大臣と記者たちとの質疑応答だったわけだが、これはどういうことかというと、福島県原発事故により国の避難指示範囲の外に住む避難者に対して除染が進み、食品の安全性も確保されたとし、約70億円の支援が与えられていたが、災害救助法に基づき終了したと宣言した。
この経緯をフリージャーナリストの西中誠一郎さん(52歳)が今村雅弘復興大臣(70歳)に対して「それは終了ではなく打ち切りではないか」と質問する。
記者西中さんは「露頭に迷う人がいるんですよ?」と聞いたわけだ。
しかし国の立場からすると、そのエリアに関しては除染をしてそこに戻れるということでずっと費用をかけてきたわけで、復興大臣としては打ち切るということは、そこが安全になったということだから「援助を続けます」と言うと「除染サボってるんだろ!」と言われかねない。
「食品の安全等々も確保されているので」なのだ。
援助を続けるということは福島への風評被害等々を助長することになるので、打ち切るということで終了させない限り解決に向かえない。
これは非常に質問の仕方が上手なのだろう。
西中さんは「はい」としか言えないという立場にどんどん大臣を追い込んだ。
西中さんはただひたすら「露頭に迷う人がいる」というその事実を付き続ける。
「だからそれは」と大臣が言いかけると西中さんは「あなた、わかってるんですか!」と叩き込む。
西中さんはするどく「何を考えてるんですか!」という。
はっきりいって西中さんは大臣の弁を聞く気はない。
とにかく「露頭に迷う人がいる」ということに全部戻していく。
復興大臣が何を答えようと。
福島県の避難民のための援助というのがあって、それを打ち切るという。
70億円の打ち切りの話。
それが西中さんは「露頭に迷う人がいるんですよ!」と言う。
だから「はい」としか言いようがない。
現実に困っている人がいるのだから。
それで復興大臣はカーッとなられたのだろう。
大臣というのは、総理大臣もそうだが、答弁の場合は答えるだけ応答するだけで反論というか討論ができない。
答えるというポジションにある人たちだから「はい」と「いいえ」しかない。
だからちょっと西中さんには酷な言い方かも知れないが、とにかく怒らせる質問を繰り返していけば大臣級の人は怒るようなシステム。
とにかく、かくのごとく「いい質問」は「人を動かし、人を怒らせる」という技術。
西中さんには西中さんの正義の質問のつもりだろうが、復興大臣の今村さんの激高を招いたという。
一言間違えると大臣は大変。
その後、別の失言が続いて、とうという復興大臣をお辞めになってしまった。

その後も何か自民の人の失言問題があった。
三原じゅん子氏、自民男性議員ヤジに激怒 がん患者発言に「はらわた煮えくり返る」 : J-CASTニュース
三原じゅん子さんが嫌煙運動か何か語っている時に肺がんの人たちについての発言の中で「じゃあ肺がんの人、働かなくていい」とか何とか。
あれもあの方の憮然たる表情をまだ覚えている。
「何であの人はあそこであんなことを言っちゃったんだろう?」と。
今村さんはあの後の失言で「地震が東北だったからよかったようなもんで、首都圏に来てたら・・・」という大失言をなさった。
あの後、あなたの選挙区の長崎で地震が来た。
(震度)4.○。
いくつか来た。
危なかった。
もうちょっとで・・・。
今村復興相:「東北でよかった」発言と記者団への一問一答 - 毎日新聞
だから言っておくと、そういうことになっちゃうから。
だから肺がんの方も、とにかくあなたが肺がんになったら笑う人がいるから気を付けてください。
世の中には(そういうことが)ある。
本当に、からかっていたらそういう目に自分が遭っちゃったみたいなことがある。

「いい質問をさせない」というやり方もある。
谷原さんの本を読んでいる時に、この人が(テレビの)画面に出てきたので、谷原さんの本を基礎にしてこの人を眺めた。
豊洲問題渦中の人、浜渦(武生)元東京都副知事。
この方はお辞めになった復興大臣とは違う。
この方は何が違うか?
記者を自ら集めた。
「私がパーティーの主人公である」という場作り、座作りをやらないと。
そして「質問を受け付ける」とおっしゃったが、浜渦さんというのはこの人はやっぱりなかなかやる。
この手の頭のいい人は「いい質問をださせない、いい雰囲気作り」が上手。
質問者を自分から選ぶ。
選んだ後、時間を設ける。
「10名の方、1人2分以内」とか。
そういう「場作り」「座作り」が上手。
そういうところでは公開ヒアリング、いい質問が出にくくなる。
浜渦さんは、その公開ヒアリングで記者をお招きしておいて、その後、居並ぶ記者に向かってルールを決める。
これが一問一答。
一人の記者に許されるのは一問だけ。
「二つ目の質問は許さない」ということで。
浜渦さんのイメージは何かというと「すべての質問に答えた」というようなイメージがすごく強く残る。
しかもこの人は質問者を自分で指差す。
指差した時に質問者の容姿、顔つきを言う。
だけどフリージャーナリストの西中誠一郎さんが復興大臣の今村さんと激しくやりあった時、キャメラは今村さんを撮って、西中さんを撮らなかった。
「撮った方がいいよ」と思う武田先生。
「記者の顔つき」というのは大事なのではないか。
記者の顔というのは絶対撮られない。
浜渦さんはその「記者の顔を撮らない」というメディアの方式を知っているので、関係者が聞けばわかるように、その人の特徴を言う。
「そこのちょっと細型で、ほら、そこのメガネかけた人ね。赤いネクタイの。ちょっと地味な痩せ型のあなた」と言う。
「はい、次の質問いきましょう。そこの顔の長い、派手なシャツ着た人。黄色いシャツ着たあなた、あなた。メガネかけてる」
そうすると業界の人はやっぱりだいたいわかる。
それでちゃんとお聞きになる。
「所属は?所属。どこ?どこ所属?あ、○○新聞ね。はいはいはいはい」という。
質問者の特徴を記録として残して、匿名性ではなく特定個人の対話者であるということで、わずかながら相手の自尊心をくすぐりつつもはっきり記録に残す。
残されると意外質問はそう。
丸く収まる。
あまり激高できなくなる。
この後も浜渦さんの質問に対する応答というのは、やっぱりうまい。

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2018年01月24日

2017年8月21日〜9月1日◆心を操る寄生虫(後編)

これの続きです。

 人間の体に住んでいる微生物の大規模な調査は二〇〇五年にはじめて行なわれ(134頁)

私たちひとりひとりに住みついているウイルス、細菌、菌類、原生動物、その他すべての生物を合計した数を求めたのだ。最終的な集計の結果は一〇〇兆個を超え、人体のすべての細胞を合わせた数はそれより一桁少ない。−中略−簡単に言えば、自分の九〇パーセントは、実は自分ではない。(134頁)

(番組では「体重の90%」と言っているが、本によると重さではなく数)

自分の微生物相は指紋と同じで、自分だけのものだ。(135頁)

だからお腹の中には同じ菌が誰一人住んでいないという。
だから将来は指紋代わりにも使えるという。
そんなことも上がっているそうだ。
(というようなことは本には書いていないが)

 腸内で暮らす微生物は私たちが食べるものから分け前を得ているが、そのお返しとして消化を助け、ビタミン類を合成するとともに、口から入った危険な細菌を安全なものにしてくれる。そのうえ、私たちの感情を調整しているおもな神経伝達物質のほとんどすべて−中略−さらに精神活性作用をもつホルモンまで大量に生産する役割を果たしている。(135頁)

ある意味でアナタの気分を作っているのはアナタではなくて、それらアナタに住む微生生物なのである。

 興味深いことに、一部の胃腸障害、とりわけ潰瘍性大腸炎とクローン病(炎症性腸疾患のひとつ)では、腸内の微生物相の混乱が特徴として見られ(136頁)

不安、落ち込み、社会適応欠如等々も大半が実は腸内、あるいは体内に住んでいる微生生物なのではないかと。
それらの力なのではないかと。
武田先生がこの本を読みながらつくづく思ったのは刑務所に入ってらっしゃる方なんかに協力していただいて微生物調査を進めればどうかなぁと思っている。
協力してもらうと人間の心の闇と微生生物の関係なんかがもっとよくわかるのではないかと。
それが性格にどのように影響するのか、腸内の微生物のサンプル採取、そういうものに協力してもらうと・・・。
犯罪を犯す人は何かしら共通点があると思うので、それは知りたいと思う水谷譲。
そんなに簡単に「殺そう」と思わない。
それから「カッとなる」と言う。
どうなったら「カッ」となるのかというメカニズムが知りたいと思う武田先生。
いっそのこと、それが微生物のせいだったらすごく救いがある。
人類のものすごい文化に大貢献できる。
公職に就く方、国・都の方、市町村議員、大臣、議員、区会議員、都議会議員、そして都民ファーストの会の等々は検便。
これはもう義務化。
どんな虫が住んでいるのかオールチェック。
政治で間違えたら巨大な損害が生まれる。
人的損失も含めて。
だからこれはやって欲しい。
「健康状態を報告する」ということ。
健康状態を報告すると、ある程度精神も読める。
やっぱり運転している人に向かって後ろから掴みかかって「ハーゲー!」というのはちょっとやはり。
それはやはり相当イライラが。
「ちーがーうだろー!」というのは内臓にやはりちょっと支障が。
便が固いとか、かなりの水便とかと、絶対出る。
だからやっぱり検便が一番わかりやすいから血液検査と検便だけはやって欲しいと思う武田先生。
腸内の方の安定はどうなのかというのはやっていただくべきではないのか。
「これが本当の『身体検査』」と言う水谷譲。

腸内がかなり人間の感情面を作っているという。
そうならばなおさらのこと、政治に携わる方々は当選すると同時に尿検査と弁検査を終えて妙な虫がいないということを証明し、バッジを付けるというのをやったらどうか。
これはやって欲しい。

武田先生からの提案。
この本を読みながら思ったが「メディアにおける報道」。
ニュースを伝える人たちの気分とか口のきき方、コメンテーターの提案の一つ一つで社会が大きく揺れ動いたりする。
その人たちが病気だったりなんかしてては。
その人ではなくて「虫が言う」ということもある。
だからニュース、あるいはニュースバラエティ等々の司会、コメンテーター。
この方々は検便、検尿を終えて。
だから女子アナは特に。
アナウンサーもそう。
ニュースの読み方ひとつで真実が全然違う。
「堂々と検便を提出する」という水谷譲。
「今日の検便の結果」とかというのをバーン!と朝から一覧表で・・・。
毎日。
それぐらいやらないと。
やっぱり清潔な手でニュースを触らないと、ニュースは特に雑菌が混じりやすい。
アメリカの大統領も検便をやった方がいいと思う武田先生。
トランプさんには検便の結果を出してほしい。
なぜならば、腸内微生物によってその動物の性格が明らかに変わることがどんどん証明されつつあるから。

無菌マウスは特別な方法によって無菌の状態で飼育されるため、腸内微生物をもたない。−中略−ところが無菌マウスには、この自然な好奇心がまったくない。−中略−さらに、無菌マウスは奇妙に怖いもの知らずでもある。正常な微生物相をもつマウスなら行くべきではないとわかっているような場所に、平気で進んでいく。(137〜138頁)

物事に対して警戒するというセンサーがない。
純粋飼育でその無菌マウスを増やす。
そうすると「母性剥奪マウス」が完成した。
子供を食い殺すそうだ。
(本には生まれてすぐに母親から離されても平気だった程度のことしか書いていない)
現実問題としてこの社会に子を殺す母親が出現している。
「心の問題だ」とか言う人がいるが、まずはその方の腸内細菌を一回調べた方がいいということ。
あの感覚はまったく理解できない。
このネズミの中で子を食い殺すことができるという母親ネズミが無菌マウスから完成したということは、腸内細菌と母性というのはものすごく密接に関係していることであって、そういうことが証明されると人類の大きな進歩のために・・・・。

第一のグループには細菌が含まれたヨーグルトを一日に二回、四週間にわたって食べてもらい、第二のグループには非発酵乳製品を、やはり一日に二回ずつ四週間食べてもらい、第三のグループの食事には介入しなかった。その実験の前と後には被験者全員に情動認識の課題を与え、それをこなしている最中の脳の活動をMRIスキャンで測定した。情動認識の課題では、怒り、恐怖、悲しみの表情を表す顔の写真を見て、同じ表情の写真を組み合わせていく。すると細菌が含まれたヨーグルトを食べた女性たちではほかのグループの女性にくらべ、感情、認知、近く情報処理の三つの領域で落ち着いた脳活動が見られた。(143頁)

やっぱりかなり腸内の微生物というのはその人に大きな影響力を持っているということ。

男が女に惹かれる、女が男に惹かれるというのも腸内細菌が操っているんじゃないか?という。
つまり「あの人の菌、欲しいな」という。
(ということが本に書いてあると番組内で言っているが、それらしい記述は発見できず)
大物の素晴らしい俳優さんがいたが、奥さんが入院中に「浮気の虫が」というので詫びてらっしゃったが、あれなんか違う菌が欲しかったのではないか?
大阪の菌が欲しくて。
考えてみると男と女というのは恋をすると本当に接触したがる生き物。
ある意味でこれは細菌を取り込む本能のようなものが男女間で作動しているのではないだろうか?

本の中にとても興味ある新しい研究分野を紹介している。
「嫌悪学」
人間は生きながら必ず好きなものがあるが、絶対に嫌いなものもある。
「なぜそれを嫌うようになったか」というのは研究に値する。
なんだかわからないけれども「生理的にダメ」というものが確かにあると思う水谷譲。
それを歴史とともに一回考えてみませんか?
人々は生きながら何かを嫌っている。
例えばわかりやすく言うとミミズ、ヘビ、ゴキブリ、人が吐いたもの(吐瀉物)、排泄物、ネズミ、それから外国の方は必ずお挙げになるが「海草」。
西洋の本なので嫌うものの中に海草がある。
これは思わず日本人が「え?海草?」。
でも外国の方は「浜に落ちてて気持ちが悪い」と。
私たちはパッと見た瞬間「これ、味噌汁の中に入れてるヤツかなぁ?」「これ食べられるのか?」。
このへんが「嫌悪」の微妙なところ。
もちろん「寄生虫」。
最近で一番嫌われているのは「タバコの煙」。
昔、あんなに好かれたのに、今はもう、嫌われ者の上位に昇格したのがタバコの煙。
その他、花粉、ダスト。
激しく嫌われるこの「嫌悪」から何が浮かび上がってくるのか?

行動免疫システムというラベルには病原体によって誘発される偏見だけでなく、感染から身を守るための嫌悪に基づいたその他の幅広い反応や、同じ働きをする動物の行動までが含まれるようになった。(224頁)

自分が生き物として生きていく間に「病の元」ということで。

中世にはヨーロッパの全人口の三分の一が腺ペストに倒れた。コロンブスが新世界に上陸してわずか数世紀のうちに、ヨーロッパから押し寄せた侵略者と開拓者が持ち込んだ天然痘、麻疹(はしか)、流行性感冒、そのほかの病原体によって、南北アメリカの先住民の九五パーセントが死に追いやられた。(14頁)

これはやっぱりコロンブスと開拓民がネイティブの人からはバイキンに見えただろう。

一九一八年のスペイン風邪の流行で奪われた命の数は、第一次世界大戦の前線で殺された兵士の数より多い。現在この地球上で一、二を争うほど多くの犠牲者を出している感染体、マラリアは、史上最悪の大量殺人犯であると言ってよい。(14頁)

そういうものにまつわるものが「嫌悪」として挙げられるという。

妊娠している女性は、胎児を拒絶しないように免疫系の働きが抑えられている妊娠初期には、より外国人嫌いになるが、危険が過ぎ去った妊娠中期以降はそのようなことはない。−中略−妊娠初期に免疫系の働きを抑えるプロゲステロンというホルモンが嫌悪の感情を強め、それが外国人に対する否定的な態度と食べ物の好き嫌いを促すことを明らかにした。(226頁)

妊娠初期の女性の六〇パーセント以上が経験し、吐き気を感じさせたり嫌われたりする食品の第一位は、最も病原体に汚染されやすい食べ物である肉類(魚や鶏肉も含む)だ。−中略−つまり、つわりというのは、母体と発達中の赤ちゃんのどちらにも危険を及ぼす可能性のある食品を食べないようにと、自然が未来の母親に促すやり方なのだろう。(198頁)

これは実は脳内ホルモン系。
この妊娠中の女性と同じ心理というのが今、いわゆる「人種的偏見」とか「ヘイトスピーチ」などに繋がる脳内ホルモン、プロゲステロンに由来しているという。
「人種的偏見、ヘイトスピーチやめよう!」と言うが、腸内細菌と共に考えないとダメ。
いつもみんな「心は」とかって言うが、心の問題の前に体が本能で感じている腸内細菌も考えないと。
感染症で「もう人類全部全滅するんじゃないか」という恐怖感を何度か味わっているので、そういうものが本能として組み込まれている。
それはやはり頭では決して・・・。
このへんが人間の知恵の愚かなところ。

また二〇一四年には移民排斥のウェブサイトと、一連の連邦議員までもが、アメリカの南の国境から次々と流入する中南米とメキシコからの難民が市民にエボラ出血熱を感染させるかもしれないと警告した。(232頁)

アフリカまでエボラ出血熱の治療に出かけていったお医者さんを飛行場で入れない、とか。
「エボラ出血熱がメキシコで大流行し、メキシコ人がアメリカに逃げて来てる」という。
それで「メキシコ人を入れるな」というフェイクニュースが流れた。
これを大統領選で利用したのがトランプ大統領。
「壁を作ろう」というのはこの時の「国境に壁を作らないと、メキシコ人がエボラ出血熱に罹ってアメリカに逃げ込んでくるぞ」というのが流れた。
それをトランプ大統領は巧みにつかまえた。
もう一つ重大だったことは

このとき、テキサス南部でエボラ出血熱に感染した者などひとりとしていなかったにもかかわらずだ。(232頁)

まったくの「ガセ」。
この手の感染症の細菌のイメージを使うと、人間というのはいとも簡単に操られてしまうという。
アメリカにある差別用語は日本もあまり変わらない。
というのは同じものがその人を支配しているのだろう。
アメリカでは旧市民が新市民、新しく移民でやってきた人たちに投げつける差別用語、ヘイト用語に「シラミたかり」「ダニ野郎」「ブタ」という呼び方がある。
これは日本でも同じ。
これは何でかというと「感染症に対する恐怖をイメージとして人に与える」という。
それからヒルや寄生虫、ゴキブリ。
そういうふうに言うことで感染症の恐怖を人種差別に利用する。

 一九九四年にルワンダで発生した大量虐殺は、フツ族の過激派が「ツチ族のゴキブリどもを根絶やしにしろ」と追随者を扇動したことからはじまった。(233頁)

だからもう、日本からアメリカからアフリカまで、とにかく感染症を媒介する動物、微生物、生物の名前を差別用語として使うというのは嫌悪学として法則なのだ。
しかし「嘘である」ということ。
でも、こうやって考えると、嫌悪学を巧みに使うと政治的メッセージとしては強烈に相手をやっつける言葉になりうるという。
だから政治家は使っちゃイカンということ。
「都民ファースト」を主催なさっている小池百合子都知事がよくお使いになった言葉が「頭の黒いネズミ」。
こういう病をばら撒く動物を相手のイメージと結びつけると、強烈に自分が清潔なイメージを持つことができるわけで。
ただし言っておくが「あまりよい方法ではない」と、ご記憶いただきたいと思う武田先生。

この嫌悪学というのは実験で人間の視覚をイメージで操ることができるということを本の中で詳しく言っている。
それは「アップの手法」と「繰り返し」。
(このあたりの話は本の中には発見できず)
ある主張を人に信じ込ませる嫌悪のテクニック。
これで思考を操ることになる。
ヒットラーもよく使っていたのは人々の顔のアップ。
反対運動に汗を流す人々の顔、怒りの顔。
それから万歳、歓喜する人々の顔。
それからたった一発なのに何回も繰り返すので何十発も打っているように見える北朝鮮のミサイル。
あれはしゃべってる間の間が持たないから三回ぐらい同じのを繰り返すのだが、なんとなくイメージとしては「あ、三発打った」という。
あれは一発。
でもこの嫌悪学というのはなかなか面白い。
アメリカなんてこれを見るともう、この嫌悪学の実験場としては最高。
先ほど小池都知事の言葉の中で「頭の黒いネズミ」というのは失礼だなぁと思った武田先生だが、この失礼なのが政治的技術で大いに使われているのがアメリカ。

嫌悪学を悪用すると印象操作ができる。
安倍総理がよくお使いになった言葉だが「人の印象を清らかにも悪くにもできる」という。
小池都知事が「頭の黒いネズミ」という。
一群の反対勢力、自分とは違う考え方の政治家たちに対して「ネズミ」とお使いになったという。
「そういうこと、あまり関心しませんぞ」と話した武田先生。
ところがアメリカではもうこの嫌悪学を使った選挙キャンペーンはもうザラ。
相手をいかに人々から嫌いな存在にさせるか。

二〇一〇年のニューヨーク州知事選挙の共和党予備選で、ティーパーティー運動活動家であるカール・パラディーノ候補がはじめた新手の広告キャンペーンだ。選挙のわずか数日前、彼の党の登録有権者は自宅の郵便受けで、「オールバニー〔ニューヨーク州の州都〕で何かが悪臭をはなっている」というメッセージが書かれ、生ゴミのにおいがしみ込んだパンフレットを見つけた。−中略−彼はラツィオを完璧に打ち負かし、途方もない二四パーセントもの差をつけた。(248頁)

(番組では街中に貼ったと言っているが、本によると封筒)

 もっと最近の出来事としては、ドナルド・トランプが民主党予備選討論会でヒラリー・クリントンのトイレ休憩が長引いたことを取り上げ、「気持ち悪すぎて」話すのもいやだと奇妙な表現をして、聴衆の笑いと喝采を浴びていた。(248頁)

「ヒラリーがトイレに行っている」ということを前提として、待たされたことに苛立ったトランプさんがおやりになったしぐさ。
「ヒラリーは今、ゲロを吐いている」という。
「ヒラリー」と「ゲロ」というのを結びつけたという。
そういうしぐさをしてヒラリーのイメージを「ゲロ」と結びつけたという。
これはトランプさんはしきりにお使いになる。
この大統領は日本車を売り込むことに長けた日本の企業に対しても「日本の車はアメリカに寄生している寄生虫だ」と言った。
この「ゲロ」と「寄生虫」というのはトランプさんはものすごく好き。
だからいとも簡単に気持ち悪くさせられる。
だから嫌悪学というのはそういう意味では政治学としては強烈。
ある意味では宗教もそう。
例えば豚肉の扱いとかがうるさい。
何でも喰っているのは私たちぐらい。
日本人はそのへんがルーズ。
日本人はそういう意味ではタフなのかも知れない。

武田先生の直観。
この嫌悪学を応用するとイジメの問題なんかにも深く参加できる。
つまり同じような呼び方をする。
人をいじめる時に寄生虫の名前で呼んだり、媒介生物の名前で呼び捨てたりする。
ということは、同じようなものが作動している。

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2017年8月21日〜9月1日◆心を操る寄生虫(前編)

前回(この番組の前の週は「編集手帳」なのでそれより前のことだと思われる。『おしゃべりな腸』のことか?)に「腸内細菌だ。それが人間を操る」というような話をした武田先生。
予感っぽいのが今年の夏「妙に当ったな」と思ったのは「小さな生物が人間社会を揺する」というのが結構多かった。
ヒアリ。
ヒアリ騒動はすごい。
七月の下旬だったかにマダニが50代の女性を殺したというのが世界で初めて発表されたという。
マダニ感染症、猫から感染 女性死亡 「ネコからヒト」初確認  :日本経済新聞
武田先生はマダニで人が死んだのが「世界で初めて」であると誤解しているようだが、マダニで人は前から死んでいて、この事件が珍しいのは「猫からヒトへの感染事例」だから)
だから「生き物万歳」もいいが、寄生生物、腸内細菌が人間を・・・というのにクラっときた武田先生。
本屋さんに行って探していたら、その発展形でズバリ『心を操る寄生生物』。

心を操る寄生生物 : 感情から文化・社会まで



著者はキャスリン・マコーリフ。
もっと細かに前にお話しした彼女(『おしゃべりな腸』のジュリア・エンダースのことか)の説を前進させている。
腸に住んでいるような、あるいは胃袋の中に住んでいるような、小さな小さな腸内細菌とか寄生生物、寄生虫があなたを操っているのではないか?という。
寄生虫が体の中に入って脳を侵して人間を操るというホラー映画があるという水谷譲。

エイリアン (吹替版)



これは動物の世界で言うと前にご紹介したのは「寄生虫の指示によって猫にわざと喰われるネズミが出現する」と。
それでそういうことが実は生物世界にはいっぱいあって、人間社会にもあるのではなかと考えるとピタッとくる人がいる。
「この人はやっぱり腸内細菌、寄生虫じゃないかな?」という人が。
我が国の総理大臣、安倍晋三さん。
あの方は一回目に総理大臣になった時にズタボロで辞めていった。
気弱に眉毛を下げて。
あれはお腹の調子が悪かった。
腸が弱いということでお辞めになった。
いい薬に巡り合って今度、堂々たる総理として高い支持率を維持されて、一瞬のうちになくされて。
だけど、一回目の安倍晋三総理と二回目に登場した安倍晋三総理は別人のように性格が違う。
一回目の時はもう、支持率が低調になるとテリー(伊藤)さんのところに対談を申し込んできたというのが芸能界で流れた人。
いろんな芸能人と対談をやりたがって支持率を上げようと・・・。
今度は支持率が高い時は強気、低調になるとすごく丁寧になられるが、本性は強気。
あれだけ民進(党)から揺さぶられて堂々としてらっしゃる。

今、武田先生は一生懸命調べているが、女性の事件が多い。
政界もすべて含めて。
芸能界も含めて。
「わたくしは彼を許しません・・絶対に!」とか「ハぁゲぇ〜〜〜!」「違うだろ!違うだろ!! 違うだろーー!!!」。
あんなタイプの女性がいただろうか。
まだはっきりしないが、力のないお父さんを娘さん二人と、どうも奥さんが力を合わせて殺したらしいというあの事件。
夫を自宅に放置? 死体遺棄の疑いで母娘3人を逮捕 横浜 - 産経ニュースこの件かと思われる)
旦那さんをとっかえひっかえ殺したんじゃないかという、認知症の疑いで裁判を引っ張っておられるあの70代の方。
青酸連続殺人:筧千佐子被告に死刑判決 京都地裁 - 毎日新聞この件かと思われる)
そして千葉で自分が職場であまり大事にされていないので睡眠導入剤をコンデンサーミルク(「コンデンスミルク」のことを言いたかったかと思われる。英単語としては「コンデンサー」も「コンデンス」も同じだそうだが)みたいにワーッと。
それで世間話をしながら・・・。
睡眠剤混入、上司や同僚への不満が動機か 容疑者供述:朝日新聞デジタル
話題の中心は全部女性。
しかも、もうこれから老いていくという方。
稲田(稲田朋美防衛相)さんも含めて。
この人たちは失言とか犯罪とか、ソーシャル・ネットワークを使ってのプライベート暴きとかと色々あるかも知れないが、これはもしかしたら原因は一つで「寄生虫」。
これじゃないか?
あの中で一番ショックだったのは「この人さえいなくなればいいんだ」と言いながらすぐ「あ、もう殺しちゃおう」と簡単に決断する人。
繰り返すことが多くて動機が判然としないのは、実は動機は一つ「寄生虫」。
こういう解き方で接近していったら・・・。

寄生生物という、内臓の中に住み着いてその生物を操るという。
探すとそういう事例がいっぱいある。

吸虫はアリの脳に入り込み、運動と口器をコントロールする部分に居座る。そのようにして感染したアリの行動は、日中はほかのアリとまったく変わらない。ところが夜になると、巣に帰らずに草の葉のてっぺんまでのぼっていき、下顎をつかってそこにしがみつく。空中にぶらさがりながら、草をはむヒツジがやってきて自分を食べてしまうのを待つ計画だ。ところが夜が明けても食べられなかった場合は、また巣に戻っていく。(17頁)

やがてアリのついた草が食べられたとき、寄生生物はよやくヒツジの腹のなかにたどり着く。(17〜18頁)

そうするとアリの中にいた寄生虫がヒツジの腸の中でバーッと増えていく。
吸虫は、そこまで考えてやっている。

 その話の主人公は鉤頭虫と呼ばれる寄生生物だ。−中略−この寄生生物は成体になる前に、池や湖に住む小さなエビのような甲殻類の体内で成熟しなければならない。それらの甲殻類は、危険の気配を感じるとすぐ泥のなかに潜ってしまう習性をもっている。しかし鉤頭虫が成長の次の段階に進むためには、マガモ、ビーバー、マスクラットなどの腸に入り込む必要があり、どの動物も水面で暮らしながら甲殻類を食べている。−中略−感染した甲殻類は思いもかけない行動に出ることがわかった。驚くと下に向かって潜るのではなく、あわてたように砂地の表面に姿を見せ、せわしなく動き回るのだ。(18頁)

だから食物連鎖というのが自然界は支配しているというが、その食物連鎖を巧みに利用して隙間で生きていく寄生虫というのがいる、という。
「野良猫にはマダニが」とかって言うが、そのほかにもそういう隙間で生きていく寄生虫というものがいることを忘れてはいけないということ。

ふつうは森の下草で暮らして泳がないはずのコオロギが、池や小川に飛び込んでいたという。(36頁)

これも実はハリガネムシという寄生虫にコントロールされて自殺したコオロギかも知れない。
これは草の下で鳴いておけばいいものを、月夜の晩、満月が中天にかかったりすると鳴くのをやめて湖や池を目指し、遺書も書かずにトーン!と飛び込むヤツがいる。

ハリガネムシは宿主の体から抜け出すと水中で交尾し、やがてメスが卵を産んで、それが孵化して幼虫になる。(41頁)

これは結構でかい。
ひも状で7cmぐらいある糸みたいなやつ。
それがグルグルにお腹の中に憑りついているのだが、成人(「人」ではないけど)して色気づくと「女欲しい」とかって言い始める。
「もう眠れない!」みたいな。
それでどうするかというと、宿主であるところのコオロギを自殺衝動に導いて月夜の晩に自殺させる。
(本によると「自殺衝動」ということではなく「光に向かって進め」という寄生虫からの指示で月の光を反射した水面に入ってしまうらしい)
それで水中で死んだところでお互いが抜け出して交尾し・・・。
そしてこの交尾が済んだあとは、カワウなんかに憑りついて腸の中で卵はまた大きくなる。

ダイエットには理由がある。
女性が痩せる、生き物が痩せようと志すというのは何かある。
これが寄生生物の力だったりするという。
人間というのはやっぱり喰ってゴロゴロしとくのが一番楽しい。
でも痩せようと思うのは、他の何者かが「痩せなきゃダメよぉ」と。
自然界を見ていこう。
「太った蚊」というのはあんまり見たことがない。
「飛べねぇ!」「重てぇ!」とかっていう蚊はいない。
これは、蚊は絶えずダイエットしている。
しかも自分の意思ではない。
寄生虫がダイエットをさせている。
蚊に憑りついたマラリア原虫。
マラリアをばら撒くマラリア原虫という寄生生物。
これは蚊を操っているのだが、単純な操り方ではない。
「こんな小さな虫に、どこにそんな知恵があるんだ」というぐらい巧みに蚊という生き物を操って、マラリア原虫はマラリアをばら撒いている。

 だが、こうした過程でマラリア原虫を取り込むと、それまで貪欲に血を吸っていた蚊がたちまち食欲を失ってしまう。科学者たちはその理由を、マラリア原虫が子孫を人間に感染させるには蚊の体内で繁殖する必要があるから、繁殖している期間に蚊が血を吸い続ければつぶされるリスクが高まり、寄生生物にとって利益にならないからだと考えている。ただし一〇日後には寄生生物の子孫が成長し、より感染しやすい段階に入る。そうなると微生物は食欲を増進させることで大きな利益を得ることができるので、蚊の唾液腺に侵入し、抗凝固物質の供給を経ってしまう。その結果、蚊が血を吸おうとするたびに血はすぐ血小板で固まるようになる。蚊はいつものように血をたっぷり吸えなくて苛立ち、空腹を満たすためにより多くの宿主に噛みつく(53頁)

蚊はより多くの人の肌を求めて飛び回り、血を吸い回り、多くの原虫が人間の体内に侵入するチャンスを増やす。
一遍に吸わせてしまうと一人しかないから、わざと詰まらせる。

マラリア原虫は蚊が人間をにおいで探し当てる力を利用して、蚊と人間を近づけているかもしれないい。−中略−マラリア原虫が人間の体内に入ると、元々の体臭を強めたり、蚊を引きつける新しいにおいを出させたりする可能性がある。(54頁)

一寸の虫にも五分の(魂)と言うが、一寸にも満たないミクロの虫が、かくの如く宿主の心を操ってパラサイト世界の原動力というか、動かしている。

ヒメクモバチの仲間の寄生バチ−中略−だ。このハチがクモを捕まえて腹部に卵を産みつけたときから、寄生バチによる専制が始まる。卵が孵化して小さいミミズのような幼虫になると、クモの腹部に小さい穴をあけ、そこから体液を吸う。(60頁)

「獅子身中の虫」というヤツ。
内側から喰っていくのだが、クモの方は喰われている意識がないという。
だから「いけす料理」の反対側。
喰い物を保持しながら喰い続けて最後に息の根を止める。
「それまで生かしとく」という。

 メスのエメラルドゴキブリバチはワモンゴキブリのにおいを嗅ぎつけると、体長ではかなり見劣りするにもかかわらず強引に追跡して襲いかかる。−中略−そこでハチは、注射器を巧みに扱う邪悪な医者を思わせるそぶりで、毒針をもう一度そっと突き刺す。今回の狙いはゴキブリの脳だ。−中略−やがて戻ってきたハチはゴキブリの残った触覚の根本をもち、「まるで犬をひもでつないで散歩させるように、ゴキブリを巣穴まで連れていく」−中略−そしてゴキブリの足の外骨格に卵を産み付けると−中略−その後、卵からかえったハチの子どもたちはゴキブリの体をすっかり食べ尽くし、やがて成虫となって巣穴を飛び立つ。(64〜65頁)

いけすで魚を飼い、新鮮に保ちつつ刺身を食べるという、高級料亭の逆さのパターンで。
いけすの中に住みながらいけすを喰っちゃう、みたいなそういう暮らしをする。
だからこのハチはゴキブリの脳の領域の意識を奪う化学物質を作れるということ。
だから相当高度だろうと思うのだが、そういうことができる。

 アリタケの仲間のこの冬虫夏草−中略−は、胞子の段階から従順さとは無縁だ。胞子はオオアリの体についた途端、菌糸を伸ばしてアリの体内に侵入し、すぐに体全体を占領してしまう。さらにアリに命令を出して、太陽が最も高い位置になる時刻きっかりに木の上にいられるよう、若木にのぼらせる。アリは地上からおよそ三〇センチの高さで木の北西側にある葉の裏まで移動し、しっかりと固定できる主葉脈めがけて噛みつく。それと同時にこのキノコはアリの下顎をコントロールする筋肉を破壊し、アリの口を永久的に閉じたままの状態にする。彫像のように動かなくなった宿主は息絶え、その頭からはキノコが生えてきて、一本の柄の先に子実体ができる。まもなく子実体が破裂して胞子が地上にまき散らされ、そこでまた新しいアリに拾われる。(70頁)

ということで「冬は虫であるが、夏は草になる」という摩訶不思議な。
これもフードチェイン、食物連鎖の不思議「冬虫夏草」。
これは薬草なんかで使われているが、不思議な生き方。

トキソプラズマ問題が出てきた。
「猫に寄生して」という。
これは「人間には大丈夫だ」とかって言われていたが、マダニもそうだがやっぱり「家禽」と言うか家で飼われている獣というのは、それはやはり寄生虫にとっては願ってもいないターゲット。
トキソプラズマというのは影響を実は与えている。
今は「ない」と言われている。
「妊婦さんだけ気にしてください」ぐらいに言われている。

どんな方法であれトキソプラズマは実際に自分の脳に入り込んでおり、それが自分の性格を変えて危険嗜好を強めていると、フレグルは私に行った。さらに自分の研究から、この寄生生物は何百万人もの人々の脳をいじくりまわし、交通事故、統合失調症などの精神疾患、さらに自殺まで増やしている可能性があると考えるようになったようだ。(77頁)

トキソプラズマ原虫が居ついたニューロンは、ほかの三倍半も多くドーパミンを生産していたのだ。(95頁)

「インフルエンザが人を操ってやってるんじゃないか」という説がある。

被験者は予防接種を受けてから三日間の、ウイルスが最も移りやすい時期に、予防接種を受ける二倍の人と交流していた。「社会生活がとても限られていた人やシンプルだった人が急に、バーやパーティーに出かけたり大勢の人を自宅に招いたりする必要があると思うようになった。それが被験者の多くに起きていて、ひとりやふたりの変わった人の話ではなかった」と、ライバーは話す。(115〜116頁)

そう言われると風邪をひく直前に歩きたがる心当たりがある武田先生。
ちょっと「風邪かなぁ」と思うと「葛根湯、買いに行こう」と思う。
マネージャーに頼めばいいのに「葛根湯、買いに行こう」と思う。
あれはもしかしたらインフルエンザが人を社交性にするというホルモンで「大流行を演出している」という可能性があるという。

性感染症の場合もウイルスによって操られているのではないか?という。
この入院時の報告では「病状が出る直前に性欲が強くなった」という報告が多い。
(という記述は本の中にはない。インフルエンザと異なり、性感染症は症状が出る前に感染しやすいというこではないようなので「HIV感染者は末期段階になると恐ろしいほどの性欲にとりつかれる時期を過ごす」とのこと)
「浮気の虫」と言うが、これはもう東洋人の直感で「虫の仕業」。
本人の罪ではない。
寄生生物。
寄生生物は宿主の社会性、性欲、そして人の好みを操る。
とんでもないタイプの人を好きになったりする。
長嶋(茂雄)さんではないが「俺の守備範囲じゃない」のに行ってしまう。
「ライトを守っているくせに、レフトまで走っていく」みたいな、そういう熱病みたいなところが浮気の「気」にはある。
だからこれはやはり寄生生物の可能性が高い。

トキソカラには、イヌ回虫−中略−とネコ回虫−中略−のふたつの種があり、名前が示すようにそれぞれイヌとネコに感染する。このトキソカラが私たちの精神面に問題を引き起こす可能性がある大きなヒントは、その幼虫が人間の脳に住みつくことができるという事実だ。−中略−北米とヨーロッパの人口の一〇パーセントから三〇パーセントがこの寄生生物の幼虫に感染していると推定され、一部の貧しい国では感染者が人口の四〇パーセントに達すると考えられている。(123〜124頁)

症状というものが判然としないので「害がある」ということは断定しにくいが、行動においては行動障害、それから散漫等々が原因は実はソキソカラではないかと。
もしかするとこのトキソカラの脳内の感染によっていわゆる老人に多い「認知症」というのが可能性があるんじゃないか?という。
これはやっぱり調べてみる甲斐がある。
それであの友達のカケナントカさん(加計孝太郎理事長)という方は「獣医学部をつくりたい」とかとおっしゃったのではないか?
あれは動物を媒介にする寄生虫から操られて「今治にどうしても動物病院つくりたい」という。
「総理の責任じゃなくて、みんな寄生虫だった」という。
そんなことをフッと考える時がある武田先生。

『寄生獣』

寄生獣 新装版 コミック 全10巻完結セット (KCデラックス アフタヌーン)



右手に棲みついちゃった「ミギー」というヤツ。
漫画として最高傑作で、映画になった瞬間、つまらなくなった(と思う武田先生)。

寄生獣



頑張って作ったワリに・・・。
ただやっぱり漫画の方が怖い。

ターミネーター2 劇場公開版〈DTS〉[『T3』劇場公開記念バージョン] [DVD]



あの中に銀色の水銀人間が出てくる。
手の形が刃物に変わったりする。
あれの変身の仕方がそっくりだから、相当『寄生獣』の知恵が影響を与えているのではないか?

 人間を苦しめる寄生生物は一四〇〇種類以上もいて、それもわかっている数だけだ。まだ発見されていない種類が無数にある(132頁)

武田先生がすごく胸に沁みた言葉。
「腸の中には心の住む内臓世界があり、頭には脳が作る意識の世界がある」
そんなふうに人間を捉えたらどうか?

posted by ひと at 10:49| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月26日

2017年9月18〜29日◆はじめての福島学(後編)

これの続きです。

チェルノブイリの時にヨウ素131の問題とセシウムの問題を話した。
ヨウ素131の方は8日で半減を迎えるがセシウムは非常に警戒が必要な寿命の長い放射線、放射能。
「ベクレル」(番組で何度か「ベクトル」と言っているが、もちろん「ベクレル」)などという慣れない単位が出てきて、福島における放射線リスクを大いに語られた。

 たしかに、震災直後に、タバコのリスクと放射線のリスクを比べて「安全ですよ」という科学者に対して、放射線を心配する小さな子を持つ親たちが「子供はタバコ吸わねーし」とツッコミ入れていた。これは全くそのとおりのツッコミで、化学的な説明としてあまりにも安直で、かえって不信と不安を増大させて混乱を招いたことだと思います。(212〜213頁)

六年前、放射性物質への怯えが高まって、世田谷なんかをタイガーカウンターを振り回すおじさんがいて土の中からカウンターの針が震えたんで大騒ぎになったら「ラジウムだった」という。
世田谷の放射線、床下のラジウムから 原発は無関係  :日本経済新聞
ガイガーカウンターの貸し出しも始まった。

RADEX RD-1503 ガイガーカウンター(NEW 2017年 モデル/ 旧RD-1503 後任モデル)by Radex



そのうちにガイガーカウンターを振り回すおじさん、おばさんがいっぱい増えて、あっちこっちから放射線が出ているということで問題になったのだが。
あまりにもガイガーカウンターが鳴るので、みんなどうしていいかわからなくなった。
その時に賢い人はぼんやり思った。
「放射線なんて、そこらへんからいっぱい出てるじゃん」という。
あれは変だった。
ガイガーカウンターの鳴るところを一生懸命探し回って、鳴ったらニュースになるという。
それがどのくらい影響があるのか?健康に被害があるのか?あったのか?一切報道しない。
あの後何も。
ラジウムをどこで処理したかも何も言わないから、まんま放置したのだろう。

「一日平均で30ベクレル程度の放射性セシウムを摂り続けると、体内の放射性セシウムの量と放射性カリウムの量が(ベクレルで測って)だいたい同じになる」
 つまり、先ほどの「ごはん茶碗1杯200gあたり、放射性セシウムが0.4ベクレル」という例で言えば、30ベクレルに至るためには、毎日ごはん茶碗75杯分を食べる必要があります。
(193頁)

しかも捨てられたラジウムを探して、メディアは絶えずゴミを漁り続けたという。
テレビに出て放射性物質の危険度を繰り返し叫ぶ人がいて「いや、そんなに怖いものではありませんよ」と言うと「御用学者が!」と罵るのが流行っていて、その手の方がテレビ、ラジオでバーっと仕事を増やしていった。
あの頃のその人たちの合言葉「もう騙されない」。
また陣頭指揮に立った、今「民進党」だが、民主党の党首である総理までもが「騙されない」。
これを国是となさって突然、原発事故現場を訪れたりなんかしたという。
そういうことがあった。
また、大手新聞が「みんな原発の人は逃げたんだ」と罵ったという。
後で「いや、間違ってました」と訂正するが。
そんなふうにして立場の上の方の人たちも大騒ぎにして、パニックに陥ったという。
東電を始めとして、放射能を説明する人、今、原発でメルトダウン事故の対処にあたる人も「嘘をついている。誰一人信じられない」と、みんなが疑ったという。
それで何にも物事が進まなかったという。
でも幸いでしたね?
自衛隊の人とか消防署の人たちで、ものも言わずに一番危険な作業をやってくださって。
東電にもいらっしゃった。
それで何とか。

六年前のあの日をみなさん、思い出してください。
メルトダウンどうのこうので日本が揺れた時、もう本当に「芸能界ダメだぁ」と思った武田先生。
一年ぐらい仕事がないと思った。
もう娯楽が入り込む隙がない。
何か暗かった。
娯楽番組、バラエティやお芝居は、もう一年は放送されないと思った。
絶対あの時、みんな思っている。
あの時は、どうやって通常の放送に戻そうかというのも、どの局も迷っていた。
コマーシャルが全部すっ飛んで、広告公共機構(旧名称「社団法人公共広告機構」の「ACジャパン」を指していると思われる)ばかりやっている。
もう本当にあの時に「終わった」と思った。
民放からコマーシャルを取ったら何が残んだよ!
ましてそこを職場にしているワケだから「ああ・・・もうダメだぁ」と思って。
青山まで行ってジムをやっているので、もう時間を潰すのがそこしかなくて。
武田先生が青山の国際大学の前で見かけた風景。
コンビニに何も売っていないのだが、その青山のあの大通り、青学の前のあの通りを綺麗なスタイルの人がトイレットペーパーを抱えて歩いてらっしゃる。
ロールのヤツ。
六個ぐらい抱えてらして。
うまく手に入ったのだろう。
それぐらいトイレットペーパー不足というか、騒ぎになっていた。
ガソリンスタンドに延々と車が並んで、そんな異様な風景の中でトイレットペーパーを抱えたモデル風の美女に向かって、お婆ちゃんが大きい声で「アンタさ、ウンコ拭く紙なんだから、紙に入れてもらいなよ。みっともない」。
トイレットペーパー不足だから、奪い合うようにして、あそこの青山にある大手のあそこでうまいこと買ったのだろう。
その興奮で表に持って出たのだろう。

(震災直後の)3月12日、武田先生のお嬢さんが朝六時に泣いている。
「どうした?」と言ったら「玉電(玉川電気鉄道)走ってるよ、パパ」と言ったのを覚えている。
電車が早朝、走る音がした。
いつもの音がいつものように聞こえるというのが、いかに自分たちにとって重大か。
何時間もかけて、もうみんな歩いて家まで帰っていた。

あの時、国民の関心はその男に集中した。
総理大臣。
菅(直人)さんという方だったが。
この方が眉間に縦ジワを入れて、イライライライラなさっているのがこっちに伝わってくる。
パニックになってらした。
菅さんというのは人気があった。
ところが総理がパニックになる。
メディアが何を思ったか「この人の本性は『イラ菅』」と言い始めて「いつもイライラしてるんだ、コイツは」。
先に言ってくれれば(投票は)入れなかった。
もう「これからはその政党の時代だ」と思って入れたのだから。
この時は大変だった。
総理はカンカンになって官僚の人たちを怒鳴りまくっているし。
そしてあの都民が愛した石原(慎太郎)都知事。
この方も短気になられた。
東京の浄水場の方でちょっと高めの放射線量が観測されたというのでカーッとなられたのだろう。
「本年の隅田川花火大会中止」とおっしゃった。
「こんなことやってる場合じゃないんだ!国が傾いてるんだ!」
石原都知事がさらに「花見なんかやってる場合じゃないんだよ!」。
石原都知事、花見自粛呼びかけ 「同胞の痛みを分かち合うことで連帯感を」 : 【2ch】ニュー速クオリティ
この一言がまた日本中を・・・。
やっぱりあの都民が持ち上げた方だったので「あそこまで都知事が」ということで「花見はやめるべぇ、やめるべぇ」と。
三月の中旬。
だから気象庁が普段だったら桜の開花予想をする時期。
それが開花予想をしない。
でもその総理の「イラ菅」と、あのパニックになられ、怒りの石原都知事の言葉をかき分けて、これらの騒動があっという間に落ち着く。
何と被災地からものすごく重大な言葉が届く。
その一言が日本中をシーンとさせて日常に戻した。
つまり、あのパニックを救ったのは総理でもなければ都知事でもない。
被災者の方。
その被災者の方の一言。

2011年3月のこと、中旬を過ぎて日本中のパニックが広がっていく。
原発事故の不安、そして様々な方への不信、国政に対しての不信を持つ。
総理大臣の菅さんが眉間に縦ジワを入れて、そして枝野(幸男)さんという方がいちいち報告なさるのだが、この方の場合、声は冷静なのだがクマができるという。
そういうものが渦を巻いて。
そして東京都民が大好きな僕らがヒーロー石原都知事。
この方までも、どうなさったのか記者の質問に対して、あれはたぶん3月の14、15日。
東京のはずれの水道の浄水場で「放射線量が高い」ということが発表された。
その報道を受けての質問だったと思うが、石原都知事が言明なさって、まず第一は「浅草を中止にする」とおっしゃった。
三社祭を中止。
その後、石原都知事が「花見なんてやるもんじゃないよ!」。
それでもう日本中が静まり返って。
次々に桜見中止。
気象庁はもう三月の中旬だから、靖国神社に2〜3人出向いて、普通はもう開花予想を流す。
「そんなもん行ってる場合か!」と言って石原都知事が太陽にほえられた。

太陽にほえろ!1986 PART2 DVD-BOX



それで静まり返って桜見を中止にしたら、みんながそう決心した時に被災地、岩手の酒屋さんだったか、名言をおっしゃった。
何ておっしゃったか。
「花見やってください」とおっしゃった。
この戒厳令が引かれたような日本で「そっちはそっちでやってください」という。
その時に付け足しで、当たり前だがこの酒造メーカーのご主人が「お酒を飲んでください」。
「お酒を飲んで花見をしてください」 岩手、宮城、福島の蔵元がアピール - ライブドアニュース
「自粛しないでください」というメッセージをもらった。
その時に東京都知事もイラ菅も信用できなくなって「あの人が言うんだったら呑もう」という。
「オマエら、そんなことやってる場合か!」と絡まれたら「向こうのお酒造ってる方は『呑んで欲しい』って願ってらっしゃるんだ!」「その人に賛同して俺らは酔っぱらうんだ!」というので。
あの年はもうとにかくビール会社には申し訳ないけど日本酒を呑んだ。
最初はこっちだけ浮かれて呑むなんてちょっと申し訳ないと思った水谷譲。
その一言を聞いて、もう絶対「被災地のお酒を呑もう」と、みんな呑んでいた。
「カンパーイ!」じゃなくて、亡くなられた方に「ケンパーイ(献杯)!」と言いながら。
ジャパニーズがあの時、マナーをよく守った。
この国民はやっぱり、納得するとマナーは抜群。
この時にその花見にニックネームがついた。
これも庶民が作った。
「震災花見」
その結果ですらメディアは報告していない。
庶民が「よし!」と「もう都知事の言うこと聞かない。もう総理の言うこと聞かない。あの酒屋さんの言うこと聞こう。あの人たちを仕事でてんてこ舞いさせよう。さぁ、呑もうぜ!」。
クワーっと震災花見、あっちこっちで頑張った。
できるところはみんな花見をやった。

・日本酒造組合中央会によると、清酒出荷量が4〜9月期は宮城県で前年同期より39%、岩手県で17%、福島県で9%増えた(281頁)

何と例年に比べ、あの年、清酒メーカー、醸造メーカー最大の売れ幅を記した。
本当に「福島学」。
つまり「伝え方がうまいこと伝わると、被災地に対してもお金と物の流れがきくんだ」という。
今、福島第一原発。
もう変わることなくまだあの不幸、災いは続いている。
今も作業員の方々の必死の努力が続いている。
新技術に向けての作業が開始されたばかり。
武田先生もすごくうれしかったが、とうとう日立からロボットが一台到達した。
解決はしていない。
でも作業に向けて現場をカメラで捉えるというのが日本のロボット技術の最先端がここに投入され、集中され、撮影に成功した。
まだまだこれから問題は多いが。

武田先生の夢。
福島が今、頑張ってやっている医療機器メーカーの技術と廃炉への技術が合体していくと、我々の憧れの「鉄腕アトム」が福島からガバッと起きて「ボク、日本のために頑張ります!」と言いながらビューンと飛ぶというような未来が・・・という。

第三次産業でも福島の回復力は早く、2013年、JRのキャンペーンが功を奏した。
キャッチコピーがよかったので武田先生も乗った。
JRが上手いことを言った。
2013年JRのキャッチコピー「行こう!東北へ」。
(調べてみたが「行こう!東北へ」はJALのプロジェクト。JRは「行くぜ、東北。」)
これに載って福島に行った武田先生。
「東北でお金を使うことはいいことなのだ」という。
「震災花見」に続いてこの年、「震災観光」。

問2 2010年と比べて、2013年、福島県に観光客(=観光客入込数)はどのくらい戻ってきている?−中略−
 そして、問いの答えは、「2010年と比べて、2013年、84.5%の水準に回復している」です。
(297〜298頁)

もう今はすっかり回復している。
この手の「明るい」というのは人を惹きつける。
正直に言って今なお、福島第一原発は苦戦が続いている。
でも相馬双葉地区で相馬のイチゴ狩り、それから川内村のイワナ釣り。
武田先生が好きな渓流釣り。
これが再開されている。
チャンスがあったら来年の春にイワナ釣りに行こうかと真剣に考える武田先生。
これはとっくに回復しているが、いわきのスパリゾート。
常磐ハワイアンセンター。
【公式】スパリゾートハワイアンズ・ホームページ

 福島県への教育旅行宿泊者数の推移を見ると−中略−まだ3.11以前の半分以下という状況は続きます。(305頁)

韓国、台湾など日本への観光を積極的にする人々が多い国から万単位の客が逃げてしまっている状況が、いまだに続いています。(306〜307頁)

この、修学旅行、家族連れが少ないのは、もう間違いなく「子供を守れ」の叫びが効きすぎてストッパーにまだなっている。
メディアのみなさん、流した情報のその後を考えてください。
まだストッパーが効いている。
いわきはあれほど安全なのに。
メディアばっかり責めないで自分の我が足元も見てみたいと思う。

タレントが原発の作業員の方とか技術者の人に話を聞かせてもらえるというような紀行番組の企画は通らないのかな?と思う武田先生。
圏内に、中に入るのは難しいかも知れないが、せめて拠点のJヴィレッジに行かせていろいろ積極的に番組で公開バラエティーショーみたいなのを作業員の方々に楽しんでもらえるとうれしい。
でも新聞記者の人が入っているのだから。
不謹慎でもいいから。
何で武田先生があえてこんなことを言うかというと、やっぱり効果がある。

 会津については、2013年は明らかにNHKの大河ドラマ『八重の桜』効果が出ています。(299頁)

八重の桜 完全版 第壱集 DVD-BOX5枚組(本編4枚 特典ディスク)



会津の観光地の復興率、復旧率はすごく早い。
それと今、違う局に出ているが綾瀬はるかという女優さんはその後もずっと会津地方に関わりを持っている。
この女優さんは、よい女優さん。
この子はもう力みの何にもない子。
物おじしない、物を知らない子。
そこが明るくていい。
この綾瀬はるか譲から聞いたし、ローカルニュースで見たが、この子は会津まつりにまだ参加しているようだ。
もう番宣も離れて、いいのに個人的に。
会津まつりといって白虎隊の恰好をして少年たちが練り歩くようなお祭りが、会津戦争の無念を晴らすようなパレードがあるのだが、そこに招かれると綾瀬はるかは「山本八重の恰好をしてくれ」と言われる。
ちゃんと『八重の桜』の主役の山本八重の会津城攻防戦の恰好をして、スペンサー銃を持って山車に乗る。
もう綾瀬はるかが山車に乗っかって街に出た瞬間、ばあ様方が手を合わせて「八重さま〜!」と言う。
これが泣ける。
芸能人というのは本当に役に立たない生き物だとは思うが、こういう事例を見ると「やることはあるさ」と。

福島における出産の悲劇について。
放射能汚染等で今もささやかれている流産の多発。
それから先天性奇形の子の産まれた頻度。
これらが「異様に福島では高いのではないか」というでたらめが流れている。

問1 3.11後の福島では中絶や流産は増えたのか?
 答えは、「いずれも増えていない」です。
(331頁)

問2 3.11後の福島では離婚率が上がったのか?−中略−
「離婚率は明確に下がった。むしろ、婚姻率は上がる気配も」
(334〜335頁)

問4 福島県の平均初婚年齢の全国順位は?−中略−
 これ、答えは夫妻とも「1位」なんですね。2013年が夫29.8歳、妻28.2歳で、ともに1位でした。
(345〜346頁)

(番組では女性の初婚年齢が1位で男性が3位以内と言っているが、本によると両方1位。初婚年齢も本とは食い違う内容で説明している)
「先天性奇形の頻発、流産の頻発等々、取り上げるほど、報告するほどの問題は何一つ起こっていない」と。
「ヒソヒソ話で話すのはやめてください」と。

「避難」「賠償」「除染」「原発」「放射能」という「ビッグワード」に頼ることはあえて避けました。(349頁)

福島の負った傷を科学的にみてみる。
これはやっぱりびっくりする。
帰還困難、避難指示というワード、言葉というのはある。
福島に「帰還困難地区」という土地があることは事実。
科学的にそれを見てみる。

問1 今も立ち入りができないエリア(=帰還困難地域)は福島県全体の何%ぐらい?−中略−
 1位が北海道(8万3456.2、以下、単位は平方km)、2位が岩手(1万5278.7)、3位が福島(1万3782.7)です。
−中略−
 それで、福島県の面積の1万3782.7平方kmに対して、今も立ち入りができないエリア(=帰還困難区域)はどのくらいの広さか。
 これは337平方kmです。
−中略−
 ですので、1万3782.7のうちの337がどのくらいかというと2.4%ほど。
(350〜351頁)

これはドンドン減っている。
今、もう現状2017年では1%台まで落ちているのだろう。
それをまだ言う人がいる。
「傷は1.○%だ。2%弱なんだ!」という。
そこのエリアが傷を負っているという。
そんなふうに考えて福島というのに向かって行こうと。

(番組では帰還困難区域が減っていると言っているが、最新情報が見つからなかったが今年の三月に報道された<福島第1>避難指示 帰還困難区域解除見えず | 河北新報オンラインニュースによると「帰還困難区域」の解除は見通せない。面積は369平方キロとのことで、減っているという話は発見できず)

著者は「ありがた迷惑12箇条」として「こんな人は福島について語らないでください」と12箇条を挙げている。
彼は断固として「これらの人たちは問題の本質には全く関係がない」と「福島から出て行ってください。あなた方には福島を語る資格はありません」ということで12箇条。
一回も福島に行ったことがないのに語りがたる人がいる。
「県民の表情、何か暗いんだよね。福島は」とか。
そういうことを言うヤツがいる。

「今、福島は新しい問題に遭遇している」と著者は言う。

 ところが、3.11からしばらくしたら、町で暮らす人の半分がそっくりそのまま「新住民」、外から働きに来た作業員の方々に入れ替わったわけです。この町は若者が多いわけでもないし、関西弁など耳慣れない言葉で話す人がちょいちょいいる状況もなかった。以前ならいないような人が、コミュニティにドサッと入ってきた。だから、地元のおばちゃん、おばあちゃんたちからしたらすごく不安だ、というわけです。(366頁)

今まであまり顔を見かけなかった人たちがいっぱい新住民としているわけで、それが新旧住民として交流が非常に難しい、と。
その交流がうまくいくように「どうぞメディアのみなさん、手伝ってください」「そして何かアイデアがあれば、私どもに貸してください」と開沼先生は。
(そんなことは本に書いていないが)
だからそういう新旧住民のために活躍するのが娯楽・芸能メディアだと思う。
ちょっと少し混乱した街にとって、やっぱり娯楽を積極的に外から飛び込んでくるっていうのは。
福島第一原発のみなさん方が懸命に働いているところにチャンスがあれば『三枚おろし』も出向きたいと考える武田先生。

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2017年9月18〜29日◆はじめての福島学(前編)

はじめての福島学



あれから六年の歳月が流れて、昨今、他県で暮らしている子供たちがいじめの対象になっているという。
そういうことを全部含めて(著者の)開沼博さん。
この方は福島の方。
この福島の方が「『事実』『真実』とは一体何なのか?」という。
あの大きな厄災が襲ったエリアがある。
そのエリアが六年後に「何をそこから吸い上げたらいいのだろうか?」ということをあえて「福島学」ということで取り上げてらっしゃる。
これはもう、ちょっと本を読んでいてヒタヒタと通じてくるのだが、著者の方は拳が怒りで震えている(というふうに武田先生は感じる)。
それを懸命に「怒っちゃいけないんだ」「そのことも含めて福島っていうものをもう一回勉強しよう」と思ってらっしゃる。
やっぱりひどい偏見がある。

開沼博(かいぬまひろし)
社会学者。1984年福島県いわき市生まれ。
(214頁)

今、福島大学の福島再生を図る分野で研究を続けている方。
プロフィールにそうある。

忘れがたき2011年3月11日。
「東北は闇に覆われた」と。
福島の闇は特に深くて、丸ごと県内住民の避難を訴える人もいた。
「全部避難した方がいい」と。
じゃあ「そのアイディアは本当はどうだったんだろう?」という。
「福島はもうダメです。福島に近づいてはいけません」と叫んで参議院議員になった方もいらっしゃった。
昨今、絶望はやや小さくはなったものの東京電力。
その津波被害を受けた原子炉。
そこに関する闇はどうなんだろうか?と。
他県へ避難している県民の子らが避難先の小学校で「バイキン」と呼ばれ、いじめられているというような報道が2017年上半期に頻発した。
それを今は少し振り返ろうと。
このイジメが報道のとおりの事実ならば、放射能汚染による避難者は六年後の今は日本人のある人々からは「やっかみ」を受けている。
「放射能を避けてこっち側にやってきたヤツは特別待遇を受けてるんだ」と。
そのことに対するやっかみが、ああいう暗いイジメというような事件を増やしているのではないか?
「じゃあ、あの2011年の報道、メディアは本当にちゃんと報道したのか?」と開沼さんはおっしゃる。
「六年後、こういうことになったっていうことは、メディアさん、アンタ方の伝え方に少しゆがんだことはない?」っていう。
まあ、親の顔を見ながら子供というのはそういうことをしているのだろうが、やっぱりそういう子を生んじゃったというのにメディアの報道のあり方は正しかったかどうか。
メディアがあまりにも正義を叫ぶあまり、不当に悪人に仕立て上げた人々とか、事故等々があったのではないかっていうのが開沼さん。
「それを感情ではなくて、科学でやりましょうぜ」とおっしゃっている。
これはしかし、こういうことは、本当にどうしようもなくある。
福岡でもある。
何の事件か言わないが、ニュースバラエティの番組の中にいた武田先生。
コマーシャルに入った時、地元の人で「ヒソヒソヒソ・・・」と言う人がいる。
コマーシャルに入った瞬間「違うんですよ。実は話、これ逆でね。被害者みたいな顔してるでしょ?この人が実は・・・」みたいな。
その場で「それは嘘だよ」と言った武田先生。
そういう話っぷりそのものが非常に、今流行の「フェイク」。
フェイクニュースはすごい。

・ホール・ボディ・カウンターで福島県民約2万4000人の内部被ばくの状況を調べた結果、99%の人が検出限界以下だった
・福島第一原発から西約50キロの福島県三春町の小中学生1383人を同様に調べた結果、1人も検出されなかった
(197頁)

 2万4000人の調査のほうは、どうしても「放射線への意識が高い」人であったり、ある地域であったりに偏りが出てしまう部分もあった。例えば、「ものすごい食事に気を使っている人が多かったからみんな検出限界値以下だったのだろう」というツッコミを入れる余地もあったわけです。(198頁)

(番組では、上記のような非難は小中学生を調べた結果に対して出されたような話になっているが、本によるとそういう非難をする余地をなくすための小中学生に対する調査であったようだ)
こんなふうにして「真実」「事実」というのをクルクルクルクル風車みたいに回して「何が真実か事実かわからなくなっている」という。
それも一種「福島で起きた人間の仕業である」という。
その「人間の仕業」を学問にしましょうというのが開沼さんの『はじめての福島学』。

同じような事故があったということでチェルノブイリを見学し、福島と重ねて、かえって絶望を深くした人たちがいる。
そして日本人の中にはもう福島が難しくて、面倒になった人もいる。
「いまだに福島のことが信じられない」という方と、「とにかくみんなで力を合わせて福島を助けようよ」という。
六年の時を経て、福島に関する日本人の思いが今、千々に乱れているんじゃないか?
そういうことも含めて著者、開沼博さんは「『福島学』という学問にして福島で起こった問題を学問にまで高めましょうよ」。と。
これはグッドアイディアだと思う。
だから武田先生は読んでいて、この開沼先生の感情を抑えて福島に今ある問題を科学で見ようとする目というのは、もう本当に感動した。
では、科学でどのように、学問として福島をどのように見るか?

「メディアが報道した。それは真実だ」と思うのは「結構みなさん危ういですよ」。
もう一度、あの時の福島をあの時から見つめなおしてみましょう。
あの時、放射能汚染があったことは事実。
あれから放射能汚染はどうなったのか?
これはあんまりもう言わなくなった。
著者が問題としているのは「事実を報道して、事実をそのまま放置して、その後の真実、事実を全く報道しない。それはメディアさんおかしいじゃないの?」と。
「あん時に放射能汚染どうのって騒いでおった。今、どうなったか絶えず報告しなさい」という。
別の番組で伊東四朗さんがいいことを言っていた。
「この爺さん、いいこと言うな」と思った武田先生。
「水が不足すると『不足した不足した』と騒ぐくせにさ、水がある時はちっとも報道しないんだから」と言ったら、今はスマートフォンで調べられる。
メディアというのはそういう意味では「騒ぎ師」と言うか「とにかく話題になることを」という。
一回報道したらその後も報告すべきだと思う。
「一度『事実』『真実だ』と言って報道した。それが六年後にどうなっているかという報道も必ずやってくれ。それがメディアではないか」という。

「震災前に福島県で暮らしていた人のうち、どのくらいの割合の人が震災によっていま現在県外で暮らしているか?」(36頁)

 たとえば、東京大学・関谷直也特任准教授が2014年3月に全国1779人にインターネット経由で実施した調査では、「福島県では、人口流出が続いていると思う。□%程度流出していると思う」と質問しています。
 この問いに対して全体の1365名が「流出が続いている」と答え、その予想する平均値が24.38%でした。つまり、日本に暮らす人の8割がたが福島からの人口流出イメージを強く持ち
(38頁)

 さて、答えを言いましょう。正解は2.3%程度です。(39頁)

「現実の福島」と「イメージの福島」の間には実に10倍の差があるわけです。(39頁)

 震災前の福島の人口は、200万人ほど。一方福島から震災後に県外に避難している人の数は4.6万人ほど(39頁)

 例えば、福島の南隣の茨城県の数字を見てみましょう。茨城県は、2010年10月に296万9770人の人口がいましたが、2014年1月の人口は293万1006人です。3万9000人近く減っているわけです。(44頁)

地震、原発避難等の影響は福島はほとんど今はないそうだ。
他県と比べても福島の人口減少問題は、これは優等生。
人口の減っていない県の優等生。
ベストスリーかファイブに入るぐらいよかったらしい。

 実は、2014年初時点での日本の人口減少のワーストスリーは秋田、青森、山形です。それらの県の方々には大変申し訳ない感じもしますが、データを見れば、人口減少問題という意味では福島よりもヤバい状況になっています。(50頁)

 例えば、2012年3月の段階で出た朝日新聞の記事「福島の人口、30年後に半減の予測も政策大准教授試算」(http://www.asahi.com/special/10005/TKY201203050778.html)がそれです。
 簡単に内容を把握できるようにポイントを引用すると、「東日本大震災の被災の3県のうち、福島県の人口だけが減少を加速するとの予測」
(68頁)

福島県民が本当にうつむいたという。
これが一面に踊った。
「30年後、半分になる」という。
これはまったくの虚報で、あれから六年経っているが気配もないということ。

2010年の人口を100とした場合、震災がなくても2040年には福島が63.8(36.2%減少)、宮城が75.0、岩手が59.4になると試算」ということで、岩手も「半減!」ではなにしても、「4割減!」であることも一応は書いてあります。(68頁)

しかし、もうこれは発表からわずか数年後に予想が遠ざかってゆく。

確証バイアスとは「自己の先入観にもとづいて他者・対象を観察し、持論に合う情報を選別し需要して、それにより自信を深め、自己の先入観が補強される現象」を指すわけですが、「福島の人はみな放射線に怯え苦しみ、流出しまくっている」という偏見があったのではないでしょうか。(69〜70頁)

 社会学・心理学などでは、そういう不必要な負の感情を弱い立場にある人に持たせ続けるものを「スティグマ(負の烙印)」と読んだりしますが、スティグマ強化に誤った数字の独り歩きが今でも加担しているのだとすれば、少しでもそれが是正されていくことを願います。(71頁)

宮城とかよりももっと深刻なのは「放射能汚染」という、これが「穢れ」として貼り付けられている。
だから神奈川県に転出した子なんかが学校に行って「バイキン」と。
いじめ:福島から避難生徒、手記を公表 横浜の中1 - 毎日新聞
そういうあだ名を、ニックネームをつけられていじめられるというのは、メディアがばらまいた、あるいは福島を問題化した政治家たちが放射能汚染というもののに関して正確に捉えずに、ぼんやりとした不安で騒ぎ続けた。

風向きが毎日出ていた。
矢印がやや左の下の方を指すと「こっちに流れてきてる」。
でもあれは、何かの役に立つの?
asahi.com(朝日新聞社):福島産花火の打ち上げ中止 「放射能の恐れ」愛知・日進 - 東日本大震災
asahi.com(朝日新聞社):送り火用の被災松からセシウム 京都市、使用中止を発表 - 東日本大震災
もちろん危険は危険。
別に「安全」と言っているわけではない。
ただ「安全のための情報としてそれが必要か?」ということ。
角な情報が流れて「一度汚れた『穢れ』は絶対に祓えない」という、何か古事記にも出てこないような「穢れ思想」を放射能に託して無暗な怯えに震えていたのではないか?

問1 福島県の米の生産高は全国都道府県ランキングで、震災前の2010年は何位で、震災後の2011年には何位か?−中略−
問1 2010年が4位、2011年が7位
(104頁)

問2 福島県では放射線について、年間1000万袋ほどの県内産米の全量全袋検査を行っています。そのうち放射線量の法定基準値(1kgあたり100ベクレル)を超える袋はどのくらい?−中略−
問2 約1000万袋のういち、2012年度生産分で71袋、2013年度生産分で28袋、2014年度生産分については、2014年度末時点で0袋。
(104頁)

確実に回復しつつあるのだが、まだ騒ぐ人がいる。
TOKIO。
君たちは正しい。



福島ではその他、桃、リンゴ、ブドウの果実生産も回復しつつある。
きゅうり、なす、梨、アスパラ、なめこ、牛肉等々も。
ということで首都圏への供給は一生懸命今、TOKIOなんかがやっているが、あいつらは本当によい青年たち。
松岡(昌宏)くんとこの間、太秦ですれ違った武田先生。
生きのいい芝居をやっているようだ。
武田先生は『水戸黄門』の恰好をしている。
すれ違って「センパーイ!失礼しまーす!」なんか言いながら。
「何、演ってんだよ?」「『遠山の金さん』演ってまーす」とか言いながら。
ちょっと身びいきもあるがかわいらしい。

そのTOKIOも懸命に宣伝をやっているが、果実から野菜から牛肉等々、首都圏への供給が回復しつつある。
福島の農業がグングン回復しつつあるが、ただ一つは、まだグズグズ言う人がいる。
「検査もちゃんとしてあるから」
それでもまだ「いいえ」とか。
「あえて福島のものを買う」という人も非常に多い。
だが、福島の一番の問題は、頑張っていいものを作っても値上がりの可能性がない。
つまり「時間をかけたりお金もかけたんで、品物がいいです」と出しても「いや、お値段は去年と同じで」。
つまり「上から目線のバイヤーさんたちにさばかれているんで、努力が非常に実りにくくなっている」と。
「価格がなかなか戻らないんだ」と。
「もう勘弁してくださいよ」というのが生産者の悲痛な声だそうだ。

 たとえば果物なら、モモ、リンゴ、ブドウなどあるかもしれません。そこで、これもまた、ブランド化という点で考えてみましょう。
「モモつくっているイメージがある県はどこ?」岡山ですね。
「リンゴは?」青森ですね。
「ブドウは?」山梨でしょうか。
 他、ナシでもイチゴでもいいんですが、「福島産のイメージがある作物」というのはことごとく、「もっとイメージと結びついているライバルがいる作物」です。
(111頁)

お米。
どこをイメージするか?
新潟、宮城。
「コシヒカリ」「ササニシキ」「あきたこまち」
福島はその手のヤツがない。
「いわきの光」とか「会津の魂」とかって。
福島のお米を毎月買っている水谷譲も名前は思い出せない。
あんまり宣伝しない。

青森でリンゴが旬な時期とズラしてリンゴをつくる。そうすると、青森が引き上げてくれたニーズや価格を一定程度引き受けながら、品薄時期を埋めることができる。他の作物もそうです。
 これは、多様な気候・土地が用意されている県だからこそ、そして、首都圏や仙台など大量消費地の近くにあるからこそできる戦略です。
 名付けるならば、「一つの金メダルじゃなく多数の入賞」を狙う作戦です。「2位じゃダメなんですか?」と問われるならば、自信を持って「2位とか5位でもいいんです」と答えていく戦略。
(112〜113頁)

 2014年になって私があるラジオ番組に出た際に、コメンテーターが「福島の農地は汚れているんだから、福島の農家は農業やめて賠償請求して暮らせ」と言い出すので議論になったことがありました。−中略−
 良識派ヅラした偽善者の傲慢さに付き合う必要はなく、余計なお世話もたいがいにしろという話でしかありませんし、「おれは福島のことを本気で心配してるんだよー」みたいな顔したパーソナリティーまで同意しているのに閉口しましたが、こういう厚顔無恥なお気楽文化人と実際に被災地で暮らす人々との認識の溝は今でも深いでしょう。
(135頁)

(本には「あるラジオ番組」としか書いていないが、番組では「フクシマを語る」というタイトルだと言っているが根拠は不明)

日本中をウロウロしていると「何でこんな外国人観光客多いんだろうな?」と思う武田先生。
今、京都(太秦)に行っている。
この間「五山送り火」があった時に近くのスーパーまでスイカを買いに行った。
8月16日に「スイカでも喰おう」と思って。
黄門様(『水戸黄門』の撮影)がちょっと早目に終わったので。
それで行ったらすれ違ったのが浴衣を着たヨーロッパ系の人たちの集団。
友達の家の屋上で浴衣を着て「五山送り火」を見る。
京都の夕方なんて湿度80〜90%で耐え難い暑さ。
西洋の人が、彼らは楽しそうに歩いている。
かつて日本が非常に住みにくいとか言われたのを乗り越えて、西洋の人が京都を理解しようとしている。
その不思議。
京都と福岡に行くたびに外国の人が多いのに驚く武田先生。

福島にも外国の方が増えてきている。
「理解したい」という方がいっぱいいらっしゃる。
ところがその中で「日本人は」ということ。
2月(「3月」の間違いではないかと思われる)11日以来、農業引退者が確かに福島で多いことは事実。
しかしこれは水田が塩を被って、それを回復させる力がない等々で農業から去る人たちの数字が増えていると。

 小高地区は震災直後から福島第一原発から20キロ圏内であるため(142頁)

 また、立ち入りができなかった小高区については「農地としては使用しないため、手放したい」人が「20%しかいなかった」ということは、逆に8割の人は農地を手放さずにどうにかしたいと思っていた、それだけ農家は自分の農地を復活させる意欲が強かったとも読み取れます。(142頁)

これをはたして知識人たちは「絶望的」と呼んでいいのか?と。
よく知識人の方、コメンテーターがお使いになる言葉の中で「福島はどうなるかわからない」そして「チェルノブイリと重ねて考えても、福島に明るい未来が待っていない」と平気で言う方がいる。

チェルノブイリと福島を重ねて考える語り方がよくされがちです。たしかに原発事故が起こったという意味では共通しています。ただ、そのまま重ねあわせて考えて「チェルノブイリで起こったことが日本でも起こる」というような認識を持っている人がいますが、だいぶ状況が違うことを認識すべきしょう。(207頁)

この先生のいわゆる「反論」はチェルノブイリでは特に子供の甲状腺患者が大量に出た。
そのために福島はセシウム対策をすぐにとったのだが、一番大事なことは「チェルノブイリと福島は食習慣が全く違う」という。
(本によると食習慣の違いということではなく、各種対策によるというような内容になっている)
「チェルノブイリは牛が草から取り込んだセシウムを子供が牛乳で摂り続けてその悲惨を招いた」と。
しかし福島はただちに牛乳の廃棄と飲料水検査を繰り返し、この一点に関してはとことん警戒した。
そしてチェルノブイリは何かというと内陸。
食の習慣が全く違う。
都市からも遠く、その地域に住む人たちは自給自足の農業人。
だから主に摂ったのが牛乳、肉、そしてキノコだった。
これはもっとも放射性物質を蓄えやすいヤツを摂った。
での日本は福島では自給自足がないから(と番組内では言っているが多分違う)もう流通がすぐになだれ込んでいるから、その辺の違いを全然指摘しないで「チェルノブイリ、チェルノブイリ」と騒ぐという。
「何も発見できませんよ」というのが開沼さんの一種「怒り」。

そして日本は原爆から学んだ。
長崎で驚くほど甲状腺ガンの子供が少なかった。
これは「出る」と思われたのだが。
これは何でかといったら現地のお医者さんが調べたのだが、原爆が落ちた次の日から味噌汁を飲んでいた。
味噌汁に入れるワカメ。
そのことで抑えられたということで、日本人はヨウ素ということに関して発見した。
実際にあれほどの犠牲者の中で。
広島もそうだが、海辺に近い。
海産物を摂っている。
それがやっぱり。

posted by ひと at 10:39| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月13日

2017年9月4〜15日◆来たるべきバカ(後編)

これの続きです。

人は「次なるバカ」を目指して勉強するのだ。
そこでボケとツッコミ。
政治家の方々に失言が多いのは全部ツッコもうとするからだ。
その部屋中に満ち溢れている同調圧力。
人を同じ意見でまとめてしまおうという気配から脱するために「ツッコむ」という。
そのツッコんだ結果、それが失言として指をさされる。
その瞬間にすぐに「あ、すいませんでした、傷つけて」「陳謝いたします」「前言撤回します」というような。
武田先生も含めて、最近やっぱりこの「お詫びと訂正」を求められる。
武田先生も結構いろいろなところで投げつけられている。
舞台で座長で威張っている武田先生。
モロに劇場関係者から入ってくる。
「武田さん。二幕目のケツの方でちよっと二階のお客さん、からかったでしょ?ちょっとね、非難来ちゃってるんで一つ・・・」
でも、何か面白いことってみんな失言に近いこと。
二階のお客に向かって「前の方に来てください。ちょっとお値段張るけど。この貧乏人!」。
「そんなことを言いそうなバカ」というのが武田先生の個性。

この千葉先生の本で一個だけ納得したのは「利口において人は個性を発揮できない。バカにおいて個性が発揮できる」。
武田先生が大好きな内田樹先生の名言の中で「人は間違う時のみ個性的である」。
やっぱり、あの母ちゃんとの結婚は間違いだった。
いろんなバカを考える。
だけど、そのバカさが武田先生。
やっぱり結婚相手とかっていうのはそういう「バカさ」を選ぶ。
「安全パイ」とちょっと危ないのがあると、ちょっと危ないのを選ぶ。
武田先生の奥様は熊本のお百姓さんの娘で銀行勤めをしている。
選んだのはワケのわからないフォークシンガーの武田先生。
何で選んだかというと自分の生き方を変えそうな気がした。
「両親は絶対反対する」というので燃えたという。
「バカさ」の選択。
「利口さ」ではない。
だから偉くなりたくて国会議員の道を選んだ人というのはみんなの迷惑。
だからシャウトしちゃう。
そんな人がいた。
「違うだろぉ〜!」というのが。
オメェが違うんだよ。
国会議員を「バカだから選んだ」という人がお国のために役に立つ。
そういう人たちがものすごい仕事を成し遂げる。
とある人から聞いたが昔の総理大臣は選ばれるとポツンと小さい声で「身を粉にし、国民に勤めたいと思います」。
本当に身を粉にする人が多かったという。
国会議員になってから全財産を使う人がいた。
最近、国会議員になってから「小銭稼ごう」という利口が多いものだからおかしくなっている。
「給料なんかいらねぇ!」ということで一銭も給料がいらなくて国会議員として働いてくれたら、もう子供から尊敬する。
「どのバカを選ぶかが個性である」という。
それをこの哲学者、千葉雅也先生は「享楽的傾向」と言う。
一強体制というのはツッコミたくなる。
二回当選した人はスキャンダルが多いというよりも、一強という人はボケなければいけないのだが、ボケられない。
あの一強の方(安倍首相のことを指していると思われる)ももっとボケていたら今の苦悩はなかったろうと思う。
国会で「女房、クビにしちゃいますか?」とか何か。
チャーミング。
籠池(泰典)さんはずっとボケている。
だからあのおじさんにはメディアもツッコめない。
あれほど美しい夫婦愛を本当に見たことがあるか。
日焼けしないように首筋に出所の前日にクリームを塗ってあげている奥さん。
ボケ。
逮捕されるのにガラッと玄関で「秋晴れの、真っ青な空・・・」なんて言いながら。
「お父さん!」っていう。
ボケに完結している。
他の方はボケが足りない。
あたりに関係なく自分にノる。
その享楽的傾向を個人は持つべきである。
自分が持っている「バカさ」。
「それがその人の個性なんだ。バカさがない人は個性がないんだ」という。
そのバカさとは何か?
享楽的傾向とは何かというと「他の人は何とも思ってなくても私これ好きなんだも〜ん」。
そういうものというのが今、世界を席巻している。
その代表的人種が「おたく」。
この人たちは享楽的傾向。
あるものに対してすごく強い傾向を持っている。
ある意味では「バカさ」。
たとえば刀剣女子とか歴女とか山ガールとか。
これも享楽的傾向。
そういう傾向を持っている人は、ある仲間を形成することができる。
また、ある享楽のムーブメントを起こす人たち。
こういう人たちが、かつてはローカル、ドメスティックな人たちだったのだが、今、世界的になるんだということ。
その一例として武田先生が挙げるのは『君の名は。』
日本の高校生の恋物語か何か。
アカデミー賞でも騒ぎになった。
プラス、中国内陸部で大ヒットした。
去年のヒット作でバカ当たりをとって、日本の映画会社がもう本当に万々歳しているが『君の名は』に『ゴジラ』。
『シン・ゴジラ』
『君の名は』に『ゴジラ』。
昭和20年代、30年代の映画のタイトル。
まさしく歴史的に見てもドメスティックだしローカル。
その同じ名前のものが21世紀に大ヒットして世界的な傾向になりうる。

例の8月6日の広島の大会がある。
(原水爆禁止世界大会のことを指していると思われる)
あれの大会に今年、最も外国人が多かった。
アメリカの人が特に増えてきたという。
あの前後に太田川に灯籠を流す。
(調べてみたが太田川ではなく元安川のようだ)
あの石の階段にアメリカの人がびっしり。
何か?
それは「原爆反対」とか「アメリカの間違い」とかって責める方もあるかも知れないが、戦争で死んだ爺ちゃん婆ちゃんたちに手を合わせて、孫たちがろうそくの流し舟を送る。
風景として美しい。
その美しさ、ドメスティックな行事というのが世界的になりうる。
ちょっと種類が違うが、持っているバカさ加減。
でも本当に世界から原子爆弾をなくそうと思うと、この道をたどること。
武田先生が本当にすごいなと思うこと。
原爆のことを理解してくれたアメリカ人に対して、感謝のモニュメントがいっぱいある。
ニューヨークの新聞で初めて原爆の悲惨さを伝えてくれたアメリカのジャーナリストに対する感謝の言とか、ああいう異国の感謝に対するモニュメントが多い。
あれほど戦争の現場に、敵国の人間で理解してくれた人を絶賛するモニュメントが建っている跡地はない。
そのことを誇るべき。
いまだにマスコミは世論調査で言う。
「アメリカは50代以上の60%が『原爆はやむを得なかった』って言っている」
そんな統計をとったって一緒。
一番大事なことは今、アメリカの若い人たちの70%ぐらいが兵器として「やっぱり原爆は間違ってる」と言う。
そう思い始めたことが重大であって。
それで向こうの中学校教師とかが来ている。
みんな最初はとても楽しく広島を楽しんで、あの記念会館を一周して一時間半で出てくるとやっぱり顔つきが変わるというから、そこを信じよう。
つまり「来たるべきバカ」に向かって歩き出そう。
とにかく「おたく」とか「○○女子」とか享楽的ムーブメント。
それが世界を揺り動かす大きな力になるということ。

この番組(今朝の三枚おろし)をやりながらなぜ勉強をしているかというと「次のバカ」を目指しているから。
もう本当にバカに違いない。
65歳から合気道の道場に通っているのだから。
道場の先生「武田くんはどうして合気道を志したの?」「はい。ケンカに強くなりたくて」「誰に勝ちたい?」「女房に勝ちたいと思います」。
手か何かキュッっていう。
そうしたら道場の先生が「う〜ん・・・奥さんひねるの上手だからねぇ。強敵だねぇ」と言いながら。
合気道こそ武田先生の「来たるべきバカ」。
今年の7月で3年目で初段を取って黒帯になった。
二段こそ武田先生が目指す「来たるべきバカ」。
その道場は外国から練習に来る子も多い。
デンマークから来た子でヨハンヌという19歳の金髪の子。
おとぎ話から抜け出てきたようなきれいな子。
ガタイもデカくて白帯。
武田先生は「黒」だから「ジャパニーズブラックベルト」とわりと向こうはハッとして見る。
ただ、そのヨハンヌという女の子は10年やっている。
だから技の切れ方が半端じゃない。
受け身がきれい。
武田先生は「サムライジャパニーズ」とかと思っているのでヨハンヌと練習に入った時にパッと片手を出して、手を震わせてガラガラヘビのように威嚇した。
「カモン!ヨハンヌ!」と言いながら柔術の先生みたいに「隙があればかかってきなさい!」と言いながら。
そうしたらヨハンヌからパチンと手をたたかれて「合気道イズサイレント!」と言われて。
「黙ってやれ」と。
日本の武道の合気道は「静かな力みのない武道」なんだと。
香港映画のカンフー映画の悪役みたいに「そんなマネするんじゃねぇ!」と言われてガックリ来た武田先生。
でも、その「バカさ」で気づく。
このデンマークの19歳、ファンタジーガールはここまで深く日本の武道を理解しているんだと思うと、自分のバカさの浅さが一つの学びとなって。
「バカさの浅さ」を思い知らされるという。
次なる「来たるべきバカ」を目指して、さらなるお勉強というか修行を続けていきたいなと思う。

目移りできないツッコミは排他的である。
そして可能性を否定する。
他者の絶対化が始まり、誰かを一強にしておけば世界は一つで苦労せずその世界に同調圧力に迫ることができる。
「誰か一人がただただ強い」という、そういう世界が来た時、実は非常に便利で、一強の下で生きる人は「あの人は一番強いんだ」と黙っておけばいい。
つまり今年流行った「忖度忖度」で誰もツッコめない。
「ボケ、ツッコミができないから、それだからダメなんだ」と。
「一強に安住してはいけないんだ」と。

 絶対的な根拠はないのだ、だから無根拠が絶対なのだ。−中略−無根拠に決めることが、最も根拠づけられたことなのである。−中略−
 実際的に言えば、これは要するに、「決めたんだから決めたんだ、決めたんだからそれに従うんだ」という形で
(142頁)

決断とは、自分の決断の絶対化だが、それはつまり、他者への絶対服従である。(145頁)

これは人間が決断するということに関して「決断することがものすごく大事」という人がいる。
しかし、この哲学の先生はもっとも人の不幸は決断を自分の人生の答えにすること。
決断とはつづめて言えば「誤り」のこと。
なぜならその決断は「無根拠」で「他者に従った」というのが事実なのだから。
決断とはしょせん「仮固定」。

 ある結論を仮固定しても、比較を続けよ。(146頁)

(選挙で)自分の一票が何か頼りない。
それも実らないことがある。
都議選は民進の人に入れた武田先生。
小池さんのところが一強だったから。
民進の知っている議員さんがいた。
すごくいい人で合気道で知り合った人。
すごくいい青年だけど落ちてしまった。
それはむなしいし、今度都政で選ばれたのは小池一強の「都民ファースト」。
国政にも乗り出すと言っている。
偶然を起こすというのは「一票」。
「偶然」とは何か?
わかりやすい例。
みの(もんた)さんのクイズ番組『クイズ$ミリオネア』に出たことがある武田先生。
知人三人に訊いていいというヒントタイムと、会場にいらっしゃる50人のみなさんにABCどれが正しいかを訊いていいというのがある。
二つ特典である。
圧倒的正解を誇るのは三人の物知りの友人に訊くよりも50人座っている観客席のみなさんのABCどれかに従った方が正解率が上がる。
三人よりも50人で考えた方が、正答率、正解率が高くなる。
そうやって考えると「多数で投票する」というこの民主主義のポピュリズムを今、ケチョンパンに言う人がいるが、『ミリオネア』においてはこの民主主義的手法が正解率が高かったということは覚えておいてね。
とにかく「偶然」を起こそう。
誰かが言っていた。
「とにかく10万人」だと。
10万人が一斉に「ダメだ」とつぶやくと10億の国家がひっくり返る可能性がある。
千人が反政府運動を起こしても全員逮捕される。
ところが10万人が反政府運動をいっぺんに起こすと1〜10億ぐらいの国家がひっくり返る可能性がある。
10万人を終結させないように一生懸命やっている。
でも10万人はそんなパワーがある。
武田先生が推した人も落ちたが「多数」ということをもっと信じましょう。

決断とは所詮、無根拠である。
決断を自分の人生の答えにしてはいけない。
決断から哲学し、勉強をし続けて「次なるバカ」を目指す時、最初の決断が生きてくると。
もう年をとってくると身に染みてわかる。
「自分」というものの意味は「バカさ」において意味があるんであって「賢さ」においては意味がない。
「よい決断をした」と思う人はもうそこから躓く。

「あ、そうか。仮固定だったんだ」と思う水谷譲。
でも今の旦那さんに後悔していないというか「間違ったにしても、この間違いだったらいいか」と思える。
「しょうがないかなぁ」みたいな。
みんな「絶対」を求めるからおかしくなる。
時々本当に奥様に対してカッとなる武田先生。
ごはんを一粒こぼして、箸の頭で(奥様が)突っつくのはもうカチンと来る。
「ホラ!こぼした!」と言いながら。
腹が立つ。
だけど何か、向こうからボーっとやって来て「先生、お元気だった?」とかって。
「元気だったよ」
いつの間にか3〜40分話している。
ブスーっとしながら。
奥様が「あ、そう。一生懸命練習やって、今日はね。コーヒーでも飲むか」「じゃいっぱいいただこうか」と言いながらコーヒーを飲んでいる。
それでいいんじゃないの?別に。
女房だから本当に腹が立つ時がある。
本当に松居(一代)さんには申し訳ないが、いい参考になっている。
奥様が(おそらくテレビのワイドショーなどを)ジーっと見ながら「私はね、同じ事態に陥ってもここまではしない!」。
思わず「ありがとな」とポロッと言ったりする。
「それだったら俺もさ、安心して『黄門』続けられるよ」
「そうよ。暑いんだから気を付けなきゃ」
またコーヒー飲んじゃったり。
「こういう会話がなかったのね、このご夫婦(おそらく船越英一郎・松居一代夫妻)は」とかと言いながら。
「まあ、私たちは幸せ」
結論は全部そこにいく。
おかげで自分の賢さと間違っていない選択がだんだんわかってくる。
「間違ってたかなぁ」と思っていたのだが。
「まあ、こんなもんでいいですわ。十分十分」
とにかく人間は固有のバカさを所有している。
そのバカさの享楽的傾向こそがあなたなんだ。
ボケ。
そこから自分を持っていくんだ。
賢くなろうとしたところが間違い。

 僕が実際にやってきた方法で、「自分が何を欲望してきたか」の年表をつくるという方法です。これを、「欲望年表」とでも名付けましょう(155頁)

 自分にどんな享楽的なこだわりがあるのか、その成立史を、年表にしてみる。(156頁)

自分が子供の時から欲しかったもの。
なりたかったこと。
それを全部書くと自分の享楽的傾向というのがはっきりしてくる。
それで武田先生もこの番組のために挑戦した。
小学校4年の時の夏休みの提出レポートで、行ったこともない下関水族館の見聞レポートを書いた。
ご両親が夏休みにどこにも連れていってくれないので雑誌を読んで、さも行ったふりをして下関水族館の素晴らしさを自由研究で書いた。
雑誌を切り抜いて貼り付けたり。
「これはまったく評価されなかった」と書いている。
でもそれから妙にクセがついて、今でも気になると雑誌を切りペタペタ貼っている。
あれはこれから。
やっぱり「嘘ついた」。
嘘のレポートを書いたという。
あまりよいことではない。
でもそれから自分の享楽的傾向「レポートを書き続ける」という。
『三枚おろし』もその延長かも知れない。

武田先生が強烈に覚えていること。
小学校6年の時。
『世界日本人偉人伝』を図書館から借り出し、返却せず、そのまま盗んだ。
向こう側が管理している図書カードも早朝に行って一緒に処分したという。
完全犯罪。
ただ、これが「偉人伝」。
これを一冊ごと丸暗記した。
人名を全部覚えた。
とにかくこの一冊で日本と世界の偉人200人ばかり。
終わった人の人生を遡ることに無暗に感心した。
偉人伝だから「死んだ人」の。
それを読むのが面白くてたまらなかった。
『水戸黄門』の始まりも、この盗んだ人名事典から始まったのかも知れない。
だから本当にわからない。
武田先生が小学校6年の時、何をやったかというと、タバコの釣り銭をちょろまかして映画を観に行っていた。
おふくろから見つかって青あざがつくぐらいホウキで叩かれて。
ところが何十年も経った後で母親が誰かに「たぶん鉄矢は盗んだ金で映画俳優の勉強をしよったんだろう」と言う。
親が「悪いことした」と子供を叱るのは簡単だけど、やっぱり難しい。
その頃、全部観てる。
スクリーンの中で会った人と再会するのが自分の東京に来てからの歴史になる。
小林旭に会うし、加山雄三にも会うし。
星由里子さんにもこの間会った。
『若大将シリーズ』の澄ちゃん。

若大将 サーフ & スノー DVD-BOX



それから酒井和歌子さん。
やっぱり役に立つ。
『陽のあたる坂道』で浅丘ルリ子さんが出てきた。

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お豆腐を買うシーンがあって「あそこはよかったですねぇ」と言ったら、大きいお目々で浅丘さんが「覚えてるの?あなた」と言われて。
盗んだ金で観た映画がどれほど役に立ったか。
「いい」「悪い」って難しい。
この哲学者が言う享楽的傾向は善悪を離れて決定していくワケだから、母親はその辺はやっぱりF1のカーレースのハンドルでは困る。
遊びの多いハンドルじゃないと。
いちいちカリカリきてると大変なことになりますよ。

千葉雅也先生は言っている。
来たるべきバカを目指しましょう。
我々が目指してはいけないのは「壁の中のバカ」です。
壁のないバカこそ君の目指すべきバカなんですよ。
バカになったら次なるバカを目指す。
こんなふうにおっしゃっている。
(このあたりの文章は本の中に発見できず)

posted by ひと at 13:41| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年9月4〜15日◆来たるべきバカ(前編)

勉強の哲学 来たるべきバカのために



あるバラエティ番組に出演した武田先生。
アンガールズの山根(良顕)くんは、前もご報告した通り『三枚おろし(武田鉄矢・今朝の三枚おろし)』を聞いてくれているらしい。
もちろん「時々」だと思う。
その山根くんが武田先生にそのバラエティの楽屋で『三枚おろし』を聞いた感想であろう。
短く鋭く武田先生に向かって「手間かかるでしょ?あのラジオ」と言う。
眉間にしわを寄せて「本、読んで、武田さん、あれいちいち読んで、本から抜き書きしてしゃべりのネタにしてるわけでしょ?」と言う。
まあ、手間はかかる。
現実にこの『三枚おろし』というのは武田先生の仕事の中では「原価割れ」。
元が取れない番組。
あまりにも山根くんが同情するので、やっているのが「不思議?」と。
「だって、聞いててわかるもん。あれ、勉強大変でしょ?だってラジオ番組やるのに勉強してる人っていませんよ?」と言う。
これが山根くんの番組に寄せる感想。
でも、これはハッとする一言。
ラジオ番組で勉強をしながらレギュラーを続けるということは。
これは何かというと「哲学的問い」。
この本の言うとおり「勉強の哲学」。
勉強してラジオ・テレビ番組をやっている人は今いない。
新聞をチョロチョロと読んだり、バラエティ番組も誰かが勉強したというか調べたのを壁に貼り付けてたりしながら。
それをわざわざ目隠しで隠してペロッとめくるというのがだいたいニュースバラエティ番組の回し方。
だから基本「勉強しないこと」。
これがバラエティの回し方。

タイトルは『勉強の哲学』。
副題が『来たるべきバカのために』。
その腰帯の自薦の文章に「勉強とは、これまでの自分を失って、変身することである。」。
更に勉強を深めることで、これまで「ノリ」でできたことが一旦できなくなりますよ、という。
つまり「来たるべきバカ」になるために勉強するのであって、山根くんがただ一つ誤解しているのは、武田先生が賢くなるために勉強していると思っている。
武田先生が元の取れないラジオレギュラー番組をなぜ何十年もやっているかというと「次なるバカ」になるため。
勉強しなきゃバカになれない。
現代のバラエティ番組で人気をとるためには勉強してはダメなんです。
何についてコメントし、何について面白いと思うのか?
それは一つの言葉で集約される。
「昔やったバカ」を番組内で発表し合うこと。
「今だから笑って話せるけど」みたいなことをネタとして。
「昔しくじったこと」が1時間番組どころじゃなく最近は3時間番組やっている。
つまり「昔バカやった」「昔のバカ」「昔バカだった」。
これが今、メディアを回している。
これがテレビを回転させているエネルギー。
見る方も賢い人を見るよりもバカをやっている人を見て「まったく・・・」という方が気持ちがいい。
そして政治家の方もそう。
今、政治家の人たちがメディアに取り上げられるのはただ一つ。
とんでもないバカを言う。
この「今バカ」「昔バカ」。
これが今、メディアを回転させているエンターテインメントのエネルギー。
しかしこの千葉雅也さんという哲学者、若い方なのだが、この方は「それじゃダメなんだ」と。
「我々は今こそ『来たるべきバカ』のために勉強を開始するんだ」と。

アンガールズの山根くんが心配しているのは、武田先生が賢くなるためにラジオ番組のために勉強をしているんじゃないか?
「それはまるで、渚でのたうつイルカですよ?」「待っているのは死ばかりですよ」というようなことを武田先生に伝えたかった。
武田先生は賢くなるために勉強しているのではない。
バカから脱出しようとしているのではない。
ダウンタウンの浜ちゃん(浜田雅功)とかと絡む時は「どのぐらいバカやったか」のネタを持っていないと浜ちゃんは笑わない。
それも結構きつめのバカをやっていないと。
松ちゃん(松本人志)は理屈っぽいから少し引っ張り上げてくれるが、浜ちゃんは「なんや、そんなこと言いに来たんか?」みたいな目で見る。
離婚からやんちゃ、失恋、事故、うぬぼれ、貧乏。
ここまで全部「昔やったバカ」としてバラエティを回すネタになる。
武田先生は最近、山根くんが心配するごとく、あんまりバカを発表していない。
それは何でかというと、もうネタ切れ。
昔、バカをやったがもうネタ切れ。
もう70歳手前にしてまだ昔のバカを言っているようではダメで、そこで武田先生が夢見ているのは「来たるべきバカ」。
「次にいかなるバカを目指すか」ということ。
ここからが千葉雅也先生の教えなのだが、来たるべきバカを目指した瞬間、「今のバカ」「昔やったバカ」を語り合う群れとは離れていく。
浮いてしまう。
武田先生の付け足し。
今、「昔バカ」と言った。
「昔やったバカのことをバラエティに乗せられる人が人気者」と言った。
これははっきり言うと(明石家)さんまさん。
もう「離婚ネタ」を引っ張るだけ引っ張っている。
もう聞き飽きた感があると思うが、あの人にとっては重大なネタ。
それから(ビート)たけしさん。
昔、出版社に殴り込んだとか、暴力事件ということで逮捕されたとかという「昔のバカ」「軍団と一緒にやったバカ」は、たけしさんのもう一種の背骨。
フライデー襲撃事件 - Wikipedia
だけどタモリさんはゆっくり最近離れていると武田先生は思う。
タモリというのは『ブラタモリ』を筆頭にして別格の笑いを目指す。
つまりちょっと郷土のひいきもあるが、タモリさんこそ「来たるべきバカ」に向かって歩き出した「高低差のあるバカ」。
あの人は高低差に弱い。
『ブラタモリ』はあの人は高低差を無暗に喜ぶ。
というのはレギュラーをやっていた(『森田一義アワー 笑っていいとも!』のことか)ばかりに
旅に行けなかったから、ずっと地図の上を指で歩いていた。
地図の中に高低差がある。
それがもう「感動的だ」という。
最近「昔のバカ」を使わない新興勢力が芸能界に出てきている。
くりぃむしちゅーの上田(晋也)くん。
この人はツッコミオンリーで自分のバカを言わない。
この上田くんのマネをして陸続と「昔のバカ」を使わない新興勢力という人たちが出てきている。
それが上田くんであるし、グルメで専門家よりいっぱい料理屋さんを回っている、最近きれいなモデルさんと結婚して4億円の豪邸を建てたというアンジャッシュのW(渡部建)。
あの人はもう「昔のバカ」を語って受ける芸人さんではなくなった。
それはあんなきれいなモデルの奥さん(佐々木希)をもらって4億円の豪邸を建てて、いいものを喰ってたら・・・。
このあたり、お笑いの世界は轟々と渦巻いている。
でもテーマは一つ。
「勉強の哲学」
そして「勉強することは、来たるべきバカを目指すこと」

勉強とは、自己破壊である。(18頁)

勉強とは何か?
それは「来たるべきバカ」「次なるバカ」を目指すことである。
勉強とは何か?
それは自己破壊である。
自分を壊すことである。

今、バカな人。
「過去のバカ」を使わず「今バカ」。
その芸風の方。
「今バカ」というのをずっと続けている。
出川(哲朗)さん。
外国の街角に放り出して「あそこに行ってこんな用事果たしてこい」といってメモを一枚持たせて一時間番組ができるという「今バカ」。
バラエティ。
エネルギー。
勉強とは自己破壊である。
自分を壊していくことである。
そして日本社会では言葉が悪いがバカこそ「個性」。
個性豊かな人。
それは「バカ」なこと。
バカな人。
それは「個性豊かな人」。

では、何のために勉強をするのか?
何のために、自己破壊としての勉強などという恐ろしげなことをするのか?
それは「自由になる」ためです。
(18頁)

 私たちは、同調圧力によって、できることの範囲を狭められていた。不自由だった。その限界を破って、人生の新しい「可能性」を開くために、深く勉強するのです。(19頁)

芸能界であろうが、政治の世界であろうが、メディアの世界であろうが、地域社会であろうが、職場であろうと、厳然とそこに同調圧力「みんなと同じことを考えているふりをしましょう」という一種「ノリ」が支配している。
例えばさんまさんの番組に出る、ビート(たけし)さんの番組に出る、所(ジョージ)さんの番組に出る。
そうするとそれぞれのお笑い芸人さんたちに同調圧力がかかる。
そしてその番組にゲストで出る人たちの鉄則は何かというと「司会の方より面白いことを言わないようにすること」。
これはもうはっきり言って「芸能界の鉄則」。
さんまさんの番組に出て、さんまさんより面白いことを言ってはいけません。
言うことはできても言ってはいけません。
それは所さんの番組、ビートさんの番組もそう。
これが「同調圧力」。
同調圧力とは番組を回す一種の流れ。
それにノる。
それがひな壇に立つ者の仕事。
ところがノらないことを一種、自分の個性とする人が出てきた。
土田(晃之)くん。
あの人は特有のノリ方をする。
「協力しない」ということを売り文句にしておいて、ひな壇に並ぶという個性。
別のノリ、同調圧力に従わない人が出てきた。
それから思うのはオリエンタルラジオの顔の長い人。
オリエンタルラジオ プロフィール|吉本興業株式会社この写真を見た限りでは中田敦彦さんの方が顔が長い感じがするがどっちだろう?)
あの人なんかも頑張ってノらないようにしている。
あれは彼が「次なるバカ」を目指して歩き始めたから、あえて自分で浮こうとしている。
彼はやっぱり「来たるべきバカ」を目指してノリの悪い人になっている。
それは何でノリが悪いかというと、次なる勉強を目指して歩き始めたから。
ここに勉強の破壊性がある。
彼はやっぱり自分を今、壊そうとしている。
あのWさんもそう。
今、壊そうとしてらっしゃる。
勉強することによって人は同調圧力から抜け出し、自由になる。
その同調圧力にノらないワケだから。
「俺は俺の自由がある!」という。

 勉強によって自由になるとは、キモい人になることである。
 言語がキモくなっているために、環境にフィットしない人になる。
(61頁)

まわりの人たちとは違う言葉の中に入っていくので浮いてしまう。
「お約束」から脱して別のノリに移っていく時、人間の顔さえも別のものに見えてくる。
武田先生の説明。
「ブルゾンちえみ」が時々「うしろの百太郎」に見える。
「菅官房長官」が「柳の木の皮」に見えたりする。

本の中でこの勉強の証を漫才に例えている。
これが「ボケ」と「ツッコミ」。
このボケとツッコミのどっちにいくかでその人の個性が浮き出てくる。

武田先生が今村前復興大臣に注目したのは、世間がこの前復興大臣のことを非難している最中。
特に世間が大きくこの大臣を叩いたのは「東北でよかった」という失言。
【速報】今村復興大臣が失言で辞任。「東日本大震災はまだ東北だったからよかった」 | netgeek
政治家の方の失言が連続していて、安倍政権を揺るがす失言が続いた。
この後にいろいろ起きるのだが、まず第一波として。
今年は多い。
今村さんだけではない。
「ガンの患者は働くな」という、かつての武田先生の教え子(『3年B組金八先生』で生徒役だった三原じゅん子議員のことを指していると思われる)も絡んだというような失言もあった。
東京新聞:「がん患者働かなくていい」 大西氏、発言撤回せず 党内外で批判:政治(TOKYO Web)
これは失言というよりも政治的な考えだが「アメリカファーストをとる」というような発言があった。
これは失言ではないにしろ世界全体からは失言と言われる言葉。
T(トランプ)大統領。
それからA(安倍)首相に関しても。
あれは何か「母ちゃんをクビにした方がいいんじゃないか」とフッと思う武田先生。
奥さんをクビにして、稲田前防衛大臣が奥さんの代わりか何かになればいいんじゃないかと思ったりした。
これも失言ととりかねないが。

人はなぜ失言するのか?
これはどうも「来たるべきバカ」問題と絡んでいて、失言は勉強中に起きる。
つまり失言している人は「勉強している人たち」。
こうやって考えると失言というのは一つの成長の「過程」。
これは漫才でいうところの「ツッコミ」。
I前復興大臣。
そういう方はみんなツッコミたかった。

 ツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアが、環境から自由になり、外部へと向かうための本質的な思考スキルである。(64頁)

つまりツッコミ、アイロニー、皮肉というのは勉強中である証。
だからツッコミを入れて、それが失言になってしまう。
見事な理屈。
悪いことではない。
芸能界のポジションでいうと、どの手のツッコミか?
フットボールアワーの後藤(輝基)。
これがツッコむために失言を繰り返す司会者のパターン。
それともう一つI前復興大臣もT大統領もそうだが、誰に似ているか?
芸能界で言うと坂上忍。
坂上忍という人は今、ツッコミで浮きあがっている人。
今のところまだ失言していないが。
後藤くんはちょっと最近及び腰。
家庭が大事なのだろう。
でも坂上くんは捨て身。
坂上忍くんはありありと「来たるべきバカ」を目指している。
「同調圧力に自分は押されない、潰されない」「自分はいつかさんまを抜く、タモリを抜く、たけしを抜く、ダウンタウンを抜いてやる」その野望に燃えているのが坂上くん。
きっと本人は「違う」と言うだろう。
武田先生の研究ではそういうことになる。
武田先生は坂上くんや上田くんあたりは、次のバラエティの渦を起こせる人だと思う。
力を持っている。
失言で失敗なさった方がいっぱいいらっしゃる。
何が用意できていなかったか?
ボケ。
ボケる。
ツッコんだからにはボケなければならない。

なぜ武田先生が坂上忍を「来たるべきバカ」の第一人者として押すかというと、彼は今までのキャラから降りて、来たるべきバカを目指している。
もう坂上さんが子役をやってたなんて聞きたくない。
この人は「今」が面白い。
武田先生は、現実にこの方は成功しておられると思う。
いろんな政治家の方もいらっしゃるが、ぜひ、この坂上忍あたりを見習ったらいかがかなぁと。
その政治家の方で失言なさる方もいらっしゃるが、ツッコむだけツッコんでいい。
それでツッコんで「次のボケ」を用意すべきだと。
そのボケとはいったい何か?

 ボケとは、一人だけ急に「ズレた発言」をすることですね。(70頁)

ツッコミは根拠に向かって己の足元を掘ること。
話を深めるためにはツッコまなければならない。
だから政治的失言というのはやっぱりツッコミ。
もっと深く掘り下げてみんなと一緒に考えようという、そのつかみの一言が失言という。
そこで失言でツッコんだらボケる。
たとえば「不倫は悪だ」ということで、とあるトレンディ男優(石田純一)をメディアが取り囲んだことがあった。
この時もこの方がちょっと真面目すぎる。
これもボケ方を知らないばっかりに、あまり皆さん方は「印象」というか「屁理屈」に聞こえたのだらろう。
「不倫は悪だ」というメディアコードに対してツッコんだ方がいる。
何とツッコんだか?
「いいや。不倫は文化だ」とツッコミ返した。
ところがメディアはさらに粘った。
「文化と不倫は同じではない」
これに対してこの俳優さんは「モゴモゴモゴ・・・」で消えたのだが、その時にこう言ってみせればボケたことになった。
これを武田先生がボケてみせる。
「『不倫は文化ではない』そんなふうに考えてしまうのはあなた方の頭が石だ(石田)」
これがボケ。
相手が返せない。
後に響くのはメディア側の小さい舌打ち。
手をつないであんな写真を撮られて、ネグリジェじゃないけれども寝間着でうろうろと写真を撮られて「関係は?」「一線は越えていません」という。
「何の線ですか?」とか「どの線でいけばよかったでしょう?」とかツッコんだ後はボケる。
「不倫は文化だと考えない君たちの頭は石だ!僕は純一!」とかと言えば。
その「不倫は文化だ」の方と最近お仕事をした水谷譲。
ものすごく勉強される方。
今はものすごく勉強されているというか、ものすごく真面目。
あの人のお父さんはもともとメディアの方。
だから彼が言うのはわかる。
やっぱり不倫は文化だ。
ただ、欲望で「おっぱいおっぱい」っていう人もいるかもしれないが。
やたらと不倫を暴く人がいる。
その編集長の不倫を暴くなんていうのも成立するだろう。
「あなたを傷つけてしまった私」「あの言葉を前言撤回したい」「陳謝します」この言葉を聞くと何がつまらないか?
それはその人が自ら自分の個性を否定したから。
失言したら粘ればいいじゃないですか。
もっともっと単純に傷口を広げるだけ広げましょう。
ベロッと別の世界が生まれてくるかも知れない。
その可能性を自ら否定するところに失言の失言たるゆえんがある。
ぜひ失言した方は頑張ってボケを勉強して、また絶対次の選挙で当選してください。

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2017年10月23日

2017年5月15〜26日◆ニワトリII(後編)

これの続きです。

胎児の段階のニワトリには、恐竜のような三本指のかぎ爪と長い尾も一時的に生え始めるのだが、すぐに消え失せる。(219頁)

太古の昔、恐竜であったという。
皆さん方も骨を見たりなんかすると薄々お感じでしょうけれども。
武田先生は福岡の方に帰った時にティラノサウルスの巨大な骨標本を置いた博物館に行ったことがある。
ティラノサウルスは本当に大きいニワトリみたい。

あの図体が大きくて角のある四つ脚の恐竜トリケラトプスは、尾に羽が生えていた。T・レックスでさえ、羽で覆われていたかもしれない。(221〜222頁)

ニワトリの性別は受精時に決定されるとはいえ、生まれたばかりのヒヨコの性別を見分けるのはきわめて難しい。色も大きさも形も、ほとんど同じなのだ。ヒヨコの雌雄鑑別は難解な技術で、一九二〇年代に日本の達人たちが開拓したその技は大変な技能を必要とする。(228頁)

日本人は指先の感覚が敏感なので、雄雌を見分けるという能力が最高に高い。

鑑別師はヒヨコの肛門のくぼみをそっと押し広げて、内側に雄のしるしの突起があるかどうか確かめるのだが、この説明から受ける印象よりもはるかに難しい。(228頁)

雄雌の選定はすごく大事。
残酷な言い方をするが、卵を産ませるためには雌が欲しい。
育てるのが大変だから卵を産むまで待てない。
本当に気の毒なのだが、雄はみんな捨てられてしまう。
それが縁日で売っていたカラーヒヨコ。
雄はゴミ同然に捨てられる。

 一九五一年六月のある晴れた日、ニワトリのファン一万人がアーカンソー大学フェイエットヴィル校のレイザーバック・スタジアムに詰めかけて、未来のニワトリを作りだすための全国的な取り組みがクライマックスを迎えようとしていた。−中略−米国副大統領アルベン・バークリーがカリフォルニアの農家チャールズ・ヴァレントスに「明日のニワトリ」コンテストの優勝賞金として五〇〇〇ドルの小切手を手渡した。(280頁)

 映画『チキン・リトル』が劇場で上映されていたころ、フランクリン・ルーズヴェルト大統領は食料不足に対処するために戦時食糧庁を設立した。(281頁)

チキン・リトル [DVD]



 爆弾と同じように、「明日のニワトリ」も第二次世界大戦の落とし子だった。牛肉と豚肉は戦時中は軍隊の食料に回すために配給制にされていたが、民間人には鶏肉で十分だったので、連邦政府は家禽の価格を高く設定して、農家が銃後の国民のために多くの家禽を生産することを奨励した。(280頁)

戦争中のアメリカの貴重な動物性タンパク質になったということで、ますますチキンがアメリカ人の生活の中に浸透していった。

かつては奴隷料理、西アフリカ料理と見下されたアメリカの鶏肉料理。
鶏肉の美味さが様々な料理方法で増大し、アメリカ人の食事にニワトリは欠かせない生き物になった。

 終戦時には、アメリカ国民は開戦時の三倍近くの鶏肉を食べるようになっていたが(281頁)

ひたすら養鶏業界はニワトリに改良を加え続ける。
アメリカ用のニワトリができる。
「工業用ニワトリ」。

一羽ごとの体重は二倍に増えて、餌の量は二分の一に減り、成熟するまでの期間も半分に短縮された。そして養鶏場の数は、五〇〇万以上あったものが一九七〇年までに五〇万カ所に激減した。(288頁)

(番組では養鶏場が増えたかのように言っているが、本によると「激減」)

一九五〇年、つまり「明日のニワトリ」が定着する前の時点では、ブロイラーが平均体重の三.一ポンド(約一四〇〇グラム)に達するまでに平均で七〇日かかり、体重一ポンドあたり三ポンドの飼料を必要とした。二〇一〇年には、わずか四七日間で体重五.七ポンド(約二五九〇グラム)に育ち、必要な飼料は二ポンド足らずで済んだ。この革命をもたらした要因は、育種だけではない。ニワトリは、とくに狭い場所に押し込められた状態でいると、たくさんの病気にかかりやすくなる。ニワトリの病気の徹底的な研究に基づく新しいワクチンのおかげで、その六〇年の間に死亡率が半減し、四パーセントまで下がった。(292〜293頁)

工業用ニワトリは遺伝子レベルまで扱い、徹底して合理化される。

イスラエルのある研究チームは最近、加工コストを削減するために羽のないニワトリを開発した。(293〜294頁)

著者の長い長いニワトリの旅はどうやらここらあたりが訴えたい重大なテーマようで、このあたりから筆に怒りや熱がにじみはじめる。
牛や豚の屠殺は苦痛を除くということがいろいろ工夫されている。
そして「鯨を殺すな!」と叫んで南極まで船で押しかけていって鯨漁を妨害する。
また日本の漁村へ潜り込んではイルカの殺し方にクレームをつけて、国際舞台で日本人の残虐さを訴えるということを繰り返している。
これは彼女が言っていること。
(武田先生は著者のアンドリュー・ロウラー氏を女性であると考えているようだが多分違う)
殺し方とか苦痛を与えることに関して「これほど過敏な文明を持つアメリカ人が気にしているのは、牛、豚、鯨、イルカではないか」と。
「毎朝オマエら何喰っとるんだ」と「スクランブルエッグとかって言いながらニワトリ喰ってるだろ」と怒っている。
そのニワトリの殺し方に関しては誰一人虐待を告発した者がいない。
著者はニワトリの現状を憂う。

いまやニワトリは毎年一億トンもの鶏肉を生み出していて−中略−一年に一兆個以上の卵を産んでいる。(299頁)

(番組中、上記の数字を「アメリカで食べている量」として紹介しているが、本の中では「生産している量」)
ニワトリを飼うカゴであるワイヤーケージ。
カナリアがつがいで飼われている鳥かごの大きさに工業用ニワトリは8羽押し込まれている。
だから翼を持っていても全く開くことができない。

鳥たちは首を外に突きだして、数層に積み重ねられたケージに沿って据え付けられた餌入れの中をついばみ、排泄物はワイヤーのすき間から下のコンベヤーベルトに落ちる仕組みになっている。(332頁)

ひたすら「肉を太らせる」「卵を産む」だけにニワトリという生き物の命が使われているという。

狂暴なつつき行為、鳥のヒステリー、不可解なし、さらには共食いさえ結果として起こることが多い。鳥たちは卵を産んだ直後につつかれやすいので、怪我を制限するために麻酔なしでくちばしの先端を切られる。(332頁)

それで肉をつけるために脚も立てないほど細くしてしまうという。

不気味な話が続くが、事実として目を向けていこう。
ここで出てくるが、アメリカの養鶏場を見学した日本の養鶏業者からあまりの合理的な養鶏業に関して「ちょっと行き過ぎじゃないか」という注文がついたらしい。
だからこのアンドリューさんはすごく日本の養鶏業者に尊敬を持ってらっしゃる。
(といった内容は本の中には見つからず)

武田先生が今でも覚えている場面。
宮崎県で牛が病気で倒れた時に、牛を飼ってらっしゃる方が号泣して病の牛を地面に埋めながら手を合わせて泣きながら仰った一言「立派な肉にしてやれんで、すまんねぇ」と言う。
これはすごいひとこと。
この日本人の持っている肉になっていくであろう、消費されるものになっていくであろう生き物、それに対しても同じ生き物のラインをキープしているという、思いを持っているという。

アンドリュー・ロウラーさんはルポルタージュを書くために恐れもしないでアメリカの有名養鶏業者を訪ねる。
一番気持ち悪いのは何か?
絶対に見せない。
飼っているところを見せないというのは気持ち悪い。

卵を産んでくれたニワトリの姿を見た事があるか?
武田先生たちの子供時代と違うところ。
かつて、そこらへんにニワトリがいた。
この間、石垣島に行った武田先生。
石垣島の隣に小浜島という島がある。
あそこに行ったら小学校でニワトリを飼っている。
あれは皆で食べるのだろう。
あれはやっぱりよく出来ていて容赦しない。
容赦しないというかはっきりしている。
飼ったニワトリは卵を頂く。
ある程度大きくなったら給食になる。
隅っこの方にヤギを飼ってある。
子供が皆で育てて、皆で食べる。
あそこは、そういうのが小さい共同体だから透けて見えるところに人間の野生みたいなものがある。
東京から移住した人が小浜島にもいる。
その人がヤギを飼っている。
飼うと懐いて可愛い。
そのヤギを家の前で草を食ませる。
通りかかる人が全部同じことを言う。
「急がないと固くなるよ。急がないと固くなるよ」「もうあなた、絞めなさい」
つまりやっぱり生き物の循環みたいなので、それを東京の人はそう言われるが殺せない。
だけど島の人たちはその循環を見事に回す。
それと同じことで、私たちはこれほどニワトリを喰いながら、フライドチキンを喰いながら・・・。
コンビニでチキンを扱っていないところは無い。
豚・牛肉は横に置いておいて、全てのコンビニエンスストアに茹で卵とパックの生卵と卵入りのサンドイッチと、それからレジの横にチキン。
これほど接しながら我々は一年間、一匹のニワトリも見ていない。
理由は現代の工業用ニワトリは免疫力がものすごく落ちている。
だから人との接触、それによって感染し病が広がることを養鶏の方は恐れてらっしゃる。
そこで隔離された養鶏場でニワトリを飼っている。
養鶏場を経営するためには鳥の環境をかなりアメリカ式に直さない限り・・・。
だって卵の値段は変わっていない。
著者は「そこに実はニワトリに対する矛盾があるのではないか?」と。

ニワトリの数がどんどん多くなるにつれて、逆説的だが、その姿はますます見えなくなる。(300頁)

今年もあった「鳥インフルエンザ」。
これが日本でも発生している。
これは何を恐れているかと言うと、ニワトリ系列でインフルエンザが発症した場合。

一九一八年の世界的流行──五〇〇〇万人の死者が出て、全人口の約三分の一が発病した(347頁)

「鳥インフルエンザ」も同様に、鳥から人へうつった場合にこれくらいの殺傷能力を持っているのではないか?
その鳥インフルエンザにニワトリがかかると皆殺しだから。
全部殺すわけだからニワトリも本当に気の毒。
対策としてはこの本の中に書いてあるが「平飼い」。
ケージの中にニワトリを押し込めて飼うのではなくて、昔と同じに野原に放って飼った方がインフルエンザの広がりは抑えられるのではないかというアイディアが出来ている。

 二〇一三年には、H7N9型という新しいウイルス株の感染者が中国で一三五名発生し、その三分の一以上が死亡した。犠牲者の大半は生きた家禽と接触があったので、おそらくニワトリから直接に感染したのだろう。(348頁)

最善の解決策は中国の生きた家禽の市場を閉鎖することだと主張する研究者もいる。この抜本的なアプローチは上海、南京、杭州、湖州で功を奏し、医学雑誌『ランセット』に掲載された論文によれば、その結果として四都市で感染の拡大が防がれた。(348頁)

こういうこともあって、ますますニワトリは人の住む場所から遠ざかりつつあるという。
でもニワトリに関する病というのは、アメリカか中国で起こるんじゃないかと。
やっぱり食べる量がものすごい。

中国では、国民が一年間に食べる鶏肉の量は二二ポンド(約一〇キロ)──アメリカ人の四分の一程度にすぎない(350頁)

中国は人口が13億いるので、ものすごい(数の)ニワトリを飼わないと供給できない。

福建聖農発展の従業員は一万人を数え、会長の傅光明は億万長者だ。タイソン・フーズは今後、中国国内に九〇カ所の養鶏場を建設する予定で、一カ所で一度に三〇万羽以上のニワトリを飼育する。(351頁)

こういうところからトリインフルエンザが発症すると、これはものすごく悲惨なことになるのではないかと。

二〇一四年に中国政府は、二〇一九年までにさらに一億人を田舎から都会へ移住させると発表した。そうなれば、全人口の六〇パーセントが都市に住むことになる。(351頁)

やはりこの手の病を恐れてだろう。
人間が側にいると接触から病になるという危険性があるんでということなのだろう。
(本にはこのあたりの話は病気の関連としては書かれていない)
しかし、ニワトリについてはもっと考えてあげたほうがいいんじゃないか?と著者は懸命に訴えている。
この点、一つだけ自慢しよう。
強いニワトリのタネを持っている。
それがいわゆる「地方の鶏」。
地方には地方の特色をいっぱい秘めたニワトリがいる。
例えば名古屋には名古屋の鶏鍋用に「名古屋コーチン」というのがいる。
秋田には「比内鶏」。
四国には「阿波尾鶏」。
福岡には「はかた地どり」。
これはニワトリ系列だが、地元の風土に合ったニワトリを。
それからケージで飼わずに野原で飼っている人がいる。
そうするとやっぱりニワトリが強くなる。

武田先生が誰かから聞いたことがある話。
野生のまんまでニワトリを飼っていると飛ぶようになる。
木の枝に身を置いて眠る。
そういう様々なニワトリの種類を持っているというところがニワトリとの良い付き合い方を生むのではないかとアンドリューさんが著作の中で仰っている。

一番最後はアンドリューさんの独特の物思いだろう。
「ニワトリに対する人類の扱いは不当である」と。
繁殖、取り扱い、屠殺の方法を考えても、牛、豚、イルカ、鯨よりも遥かにニワトリは、つらい目に遭っている。
ニワトリに対する感謝、配慮が足りないのではないか?
その根底にあるのは何か?
彼らを下等な生き物として見ている先入観が人間にはある。
しかし「ニワトリはもしかすると高等な生き物ではないかと思う」と彼女(多分「彼」だろうけど)は言っている。

ニワトリが人間よりも遥かに深く詳しい視点で世界を見ていることを突き止めた。−中略−鳥類は光を好んでいたので、哺乳類よりもはるかに優れた色覚を持っている。セキショクヤケイは濃い赤と青と緑の見事な羽の持ち主だが、この鳥は人間には見えない紫外線領域のまばゆい色の組み合わせを感知する。(328頁)

ニワトリの羽は綺麗。
いっぱい色がある。
釣りをやっている武田先生は疑似餌を作る。
その材料がニワトリの毛。
ニワトリの手羽のところの毛は八千円くらいする。
それを一本抜いて釣り針に巻いて虫に見せかける。
釣り針の毛にするためのニワトリの羽というのが何種類もある。
黒とかマダラとか赤とかブルーとか売っている。

さらにニワトリは、左右の目を別々の目的で使っていて、ある対象──たとえば、餌になりそうなもの──に焦点を合わせながら、もう一つの目で捕食動物が来ないか油断なく見張ることができる。(328頁)

ニワトリの脳が左右にはっきり分かれていることを確認した。(330頁)

(番組ではニワトリが左右の目を別々に使えることと脳が左右に分かれていることとを結び付けて説明しているが、本の中ではそういう説明はない)

あるドイツの言語学者が、すべてのニワトリには特定の行動に対応する鳴き声が三〇種類もあるという結論を下している。(329頁)

よくモノマネのあの女の子(福田彩乃さんのことを指していると思われる)が「コケッコッコー!」というのがいる。
あの子がニワトリの真似をしているが、ただ単にあのモノマネの女の子がやっている「コケコッコ」ではない。
あの中に深い意味がある。
「敵が近づいているぞ」「餌を見つけた」「きれいな雌がいたよ、ここに」みたいな。

著者が一番驚いているのは、ヒヨコは生まれてすぐに餌と小石を区別することが可能である。
それくらい目がいい。
よく突っついている。
あれはアホみたいにまぐれでやっているように見えるが、彼(あるいは彼女)には見えている。
「これは小石であるか」「これは餌であるのか」というのが。
見分けることが可能。
だからものすごく知覚の能力が高い。

ニワトリは……原始的な自意識を示しているらしい(331頁)

「わたし」という、そういう心理をニワトリは持っているという。

アメリカの方というのはこのニワトリをバカにすることが好き。

「鳥頭(バードブレイン)」という言葉は一九三六年に初めて登場し、「おじけづく(チキン・アウト)」とか「臆病者(チキンシット)」といった無礼な表現が最初に使われたのは第二次世界大戦中だった。(326頁)

このスラングははずれているのだと。

著者はひたすら360ページに渡ってニワトリの過去現在を追い、未来を描く。
溢れんばかりのニワトリの情報と薀蓄の一冊。
しかし、ニワトリを歴史的な意味合いで捉えると深い。
最後は環境問題まで行く。
牛と豚というのは食品にするにはあまりに穀物を消費しすぎる。
牛一頭とだてるのにどれほどのトウモロコシを喰うかと考えると全然割に合わない。
温室効果ガスは今や工場より大量に空気中に撒いているのだと。
全体の80%オゾン層破壊のメタンやフロンガスは農業と牛のゲップである。
これを解決するためには何をするかというと、著者はこう言っている。
「ハンバーグよりチキンを愛するのだ!」
そして彼女が言っているのは「より美味しい鶏肉を求めましょう」と。
ちょっと高めでも、そのためにもっともっと我々自身からニワトリに近づいていこうと。
そうすることによって人類の未来が開けてゆくのではないかということ。
彼女は現在、タイの方に行かれていて、セキショクヤケイの保護に乗り出すために今、ジャングルの中でヤケイを探してらっしゃる。
一番最後はタイで出会ったセキショクヤケイの美しさを語る文章でこの本は締めくくる。
(本の最後はベトナムで終了しているし、このあたりの文章は本の中には見つからず)

2001年宇宙の旅 (字幕版)



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2017年5月15〜26日◆ニワトリII(前編)

これの続きです。

ニワトリ 人類を変えた大いなる鳥



ニワトリという鳥がいる。
これは野生種から人間が「家禽」と言って家畜化した。
その歴史。
一番最初、ニワトリは間違いなく食用ではない。
これは「時を報せる」という「朝日に関してすごく敏感である」と。
ちょっと「神秘的な力」。
そういう個性を人間に愛されて、神話の鳥として人間の歴史の中に登場する。
ピラミッドにはニワトリのレリーフがある。
ピラミッドを作るときの作業開始ベル代わりにニワトリが使われていたらしい。
それからヨーロッパに渡っても勇猛に闘う雄鶏というのは強さのシンボルになる。
だからフランスに雄鶏マークのスポーツウェアがある。

[ルコックスポルティフ] Le Coq Sportif コンパクトトートバッグ(CARRY ON) QA-670155 RCX (RCX)



フランスにおいては、あれは「強い」というイメージ。
あれは「チャンピオン」とか、強いというイメージがあの国にはある。
また、ヨーロッパ全体もそういう意味でニワトリのその強さを愛した。
これがアメリカに行くとひっくり返る。
「チキン」も最大の侮辱の言葉。
アメリカではなぜ臆病者のことをチキンと言うのか?

話を巻き戻し、17〜18世紀に話を戻す。
その頃ヨーロッパ、特にイギリスでは観賞用のニワトリということでビクトリア女王が無闇にニワトリを愛したという。
ところがアイルランドで起きたジャガイモの不作で、大量の移民が喰うや喰わずで新大陸アメリカに渡って行く。
アメリカにはピューリタン(清教徒)たちがアメリカを開発していくが、アフリカから黒人の方々を奴隷として連れてきて、その巨大なプランテーションの作業をやらせるという。
そこにアイルランドの人たちと黒人の人たちが住むようになる。
アイルランドの人たちは細々とニワトリを飼い始める。
何でかと言ったら七面鳥は高くて喰えない。
それまでのヨーロッパの肉と言えばシカ肉、羊、豚、七面鳥、ハト、ウズラ、アヒル。
これがヨーロッパにおけるいわゆる「動物性タンパク質」の種類。
ニワトリは入っていない。
それがアイルランド人たちがアメリカに渡って七面鳥を食べられない。
それで彼らは一年間大事に育てたニワトリをクリスマスに食べ始めた。
それでそれを見ていた黒人たちが「これは俺たち、お金も持ってない奴隷の俺たちにはピッタリだ」ということでアイリッシュ系の人たちとそれから黒人奴隷の人たちがニワトリを食べていた。
そしで毎朝産んでくれる卵をありがたく拝借していた。
ニワトリは近くの虫や草を食べて大きくなるので便利がいい。
お金がかからない。
それでニワトリの肉というのがアメリカの南部に定着していく。
アイリッシュ系の人たち、黒人奴隷の人たち、それからユダヤ系の移民がニワトリを飼っていたので、いわゆる社会の下層の人たちなので、上の人たちがニワトリを喰う彼らをバカにするがごとくシンボルにした。

伝染性の強い「ニワトリ熱」がイギリスからニューイングランドへ飛び火した。(266頁)

愛玩用ニワトリ。

一八五四年二月に史上初の全国的な家禽展示会を主催し−中略−
二月一三日付の『ニューヨーク・タイムズ』は報じた。展示会の賞金として五〇〇ドルを提供した──現在の価値で言えば一万三五〇〇ドル相当
(267頁)

1855年、ニワトリのバブルがはじけるとニワトリは黒人、アイルランドの人、ユダヤ人たちが中心だが、食料としてアメリカ全土に浸透していく。
これはアメリカ人はこの辺を昔は工夫していた。
孵卵器を発明した。
「卵温め器」はアメリカで始まった。
(本にはアメリカ発とは書いていない)
母鳥の体温で温め続けないと孵らないのだが、この孵卵器で維持するとものすごく短期間のうちにヒヨコに孵すことができる。
(多分、孵卵器を使ってもすごく短期間で孵化はしないと思うのだが、本には母鶏が卵を温める期間が取られてしまうと新しい卵を産む時間が減るということが書かれているので、そのあたりから思い違いをしたものか)

一八八〇年にはアメリカ国内で一億羽のニワトリが五五億個の卵を産み、一億五〇〇〇ドル相当の価値を生み出していた。一〇年後、二億八〇〇〇万羽以上のニワトリが一〇〇億個の卵を産み(274頁)

近大養鶏業というのが立ち興った。
ところが、ニワトリというのは非常に見下されていたものだから、ニワトリ自身が人種差別のシンボルとなってしまった。
ニワトリの呼び名。
雄鶏「コック(cock)」。
雌鳥は「ヘン(hen)」。
アメリカでは雄、コックと言わず「ルースター(rooster)」と言う。
生意気なことを「コッキー(cocky)」と言う。
「怖気づいてる」は「チキンアウト(chicken out)」。
(番組では「チキン」と言っているが本によると「チキンアウト」)
それから「尻に敷かれている」は「ヘンペッド(hen pecked)」。
「雌鶏からケツをつつかれる」という意味で「恐妻家」ということになる。
英語の中で「コック」は汚い言葉。
言ってはいけない言葉で、特に女の子は。
日本語でわかりやすく言うと「ポコチン」という意味。
「ポコチン」の正規の汚い言い方がある。
それと同じ響き。
これはニワトリの雄鶏のことなのだが、そんなふうに使われたものだから、言葉には罪はないが汚い言葉No.1になってしまった。
ニワトリというのはものすごく変わった性生活をしている。

このヴィクトリア女王から始まったニワトリバブルの1800年代半ば、科学の対象としたのがダーウィン。
ダーウィンはニワトリにすごく興味を持った。
それからカール・リンネ。
いろんな生物を分けちゃった人。

 リンネの動物界では、ニワトリは脊索動物門に分類されている。−中略−その下の分類では鳥綱で、一万種に及ぶいわゆる鳥類がここに集められている。その下はキジ目で、七面鳥など空中よりも地面を好む、比較的重たい種が多数含まれている。その下はキジ科で、キジとヤマウズラとウズラとクジャクがすべてひとまとめにされている。どれも脚に蹴爪があり、ずんぐりとした体つきで、首が短いという特徴を共有しているからだ。(179頁)

そのニワトリなのだが、実は歴史が非常に不思議で「ヤケイ」野生のニワトリというところから進化しているのだが、そのニワトリが人間が飼うニワトリにどうやってなったかに関して実はまだ謎。

名古屋コーチン
博多の「はかた地どり」
四国の「阿波尾鶏(あわおどり)」
宮崎の「地頭鶏(じとっこ)」
それでニワトリというのはそんなふうにして「地ごとで生まれたんじゃないか?」という考え方があったのだが、ダーウィンという例の進化論のあの人が「ニワトリってもしかしたら各地各地で産まれたんじゃなくて、ニワトリっていう種類で一本筋が通っていて、それが各地の雌雄と混ぜ合わせるうちに新種ができた」という。
最初にニワトリという筋があって、各地の地鶏が生まれたんじゃないかっていう仮説を立てたのだが「原種のニワトリ」というのが見つからないので、この説はずっと疑われ続けた。
「ニワトリには原種はいないんじゃないか」「土地土地で交雑を繰り返しながら生まれた種類なんじゃないの?」というような。

「生殖器」というのは環境に適応しない。
つまり性的な特徴というのは、掛け合わせてもそう簡単に変わらない。

雄鶏にはペニスがないのだ。というよりも、正確に言えば、なくしてしまった。(203頁)

だから雄鶏雌鶏の交尾はキスと同じ。
その性の特徴をきちんと最初の原種も持っているはずだというのでニワトリのルーツを探すという大捜索が今世紀になってから始まった。

今上天皇の次男である秋篠宮は幼いころからニワトリに魅せられていた。祖母にあたる香淳皇后が第二位次世界大戦の直後、皇室の食卓の足しになればとニワトリを飼い始めていたのだ。東南アジアで野外研究をしたのち、秋篠宮らの研究チームはセキショクヤケイのミトコンドリアDNAの断片を抽出した。−中略−
 研究チームが一九九四年に出した結論は、ニワトリの家畜化が起きたのは一度きりで、場所はタイだというものだった。この研究結果に基づいて秋篠宮は博士論文を書き、八年後には別のグループの研究による裏付けも得られたのだが、それから二〇年後、この説はほころび始めた。アメリカの生態学者I・レア・ブリスビンによると、この研究で野生種として使われたセキショクヤケイはバンコクの動物園のもので、家畜化された雑種だったらしい。
(198頁)

日本の皇族のインタビューを手配するのは難しいため、直接に話を聞くことはできなかったが(199頁)

 二〇〇六年、中国科学院昆明動物研究所の劉益平率いる研究チームが、セキショクヤケイとニワトリの大いぼなサンプルのミトコンドリアDNAに九つの分岐群──すなわち、共通の祖先に由来するグループ──を発見した。この分岐群の分布から、家畜化は一度だけでなく複数回起きていることが示唆された。中国南部、東南アジア、インド亜大陸の古代人たちは、それぞれセキショクヤケイを飼育して、独自の遺伝子シグネスチャーを持つ別々の系統を作り出したというのが彼らの主張だった。(198頁)

今、この二つの説「一か所から出てきた鳥」「多方面から出てきた鳥」というので論争が続いている。

 雄鶏にはコックがない。(203頁)

タマキンが無い。
何故消えたのか?
ならば彼らはどう子作り、有精卵、卵を作り出しているのか?

ニワトリの場合──すべての鳥類、爬虫類、両生類と同様に──総排泄腔は尿路と消化管が合流した一車線の終点で、さらに生殖に関する機能も果たしている。人間の男性と同じように雄鶏には精巣が二個あるが、体の外にぶら下がっているわけではなく、内臓として腎臓の下にしまい込まれている。健康な雄鶏は一回の射精で八〇億個以上の精子を出すことが可能で、雄鶏と雌鶏がそれぞれ総排泄腔を反転させて押し付け合ったときに、雌鶏の体内に精子が送り込まれる。わずか数秒間の出来事だ。卵管に入り込んだ精子は、交尾から一カ月も生き続けて、一個だけの卵巣の中の卵子を受精させることができる。(204頁)

でも謎は「なぜニワトリはペニスを捨てたか?」。

 鳥類のうちの数種、主に水鳥は、ペニスをちゃんと持っている。たとえば、アヒルは長いらせん状のペニスを持っているのだ。(204頁)

アヒルのペニスはキュッキュッキュッシュポン!みたいな感じでねじ込む。
だからもう頭さえ入ればキリキリ回転させて入れてくるという。

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雄のアヒルは非協力的な相手に交尾を無理強いすることで有名で、その最中に相手を溺死させてしまうときもあるほどだ。(205頁)

雌の悲劇を避けようとしたのがどうもニワトリらしくて、ペニスを無くすことで短い時間でパッと強い精子を送り込むこと。
これはやっぱり一つの手段。

卵に小さな窓を開けて雄のアヒルとニワトリの胚を観察してみると、どちらも受精後九日目まではペニスが発達し始めていたが、ニワトリのほうはそこでペニスの成長が止まり、原始器官はしなびてしまった。九日目にニワトリの胚は、将来のペニスを先端からしなびさせる原因となるたんぱく質を作り始めていた。(204頁)

アポトーシス。
「自然死」。
細胞でも何でも老廃物として死んでいくようになっている。
新旧を繰り返している。
毎日生まれ変わる。
だからアナタは本当は新装開店になって全部総入れ替えしている。
それが順調にいっているから気づかないだけで「自然死する」というシステムを細胞が持っている。
その細胞がたまたま「死ぬ」ということを忘れちゃって頑張って生き続けるのが癌。
癌というのは往生際の悪い細胞のこと。
そういう滅びのスイッチを細胞はちゃんと持っている。
ニワトリは胚の段階で「もうペニスはいーらない!」と言ってオチンチンが消えて無くなって。
更に面白いのはヒヨコの段階でくちばしの中に歯も生えてくる。
「僕らは突っついて生きていくも〜ん」というので歯を消してしまう。
どうやらニワトリは殺し合うようなセックスのたかぶりよりも、雄雌の協力がなければ受精しないキッスのような性交を選んだ。
そしてさらにはくちばしで突っついて生きていこうということで歯も消してしまうという。

ニワトリにまつわるアメリカンジョーク。

一九二〇年代に米国のカルヴィン・クーリッジ大統領夫妻が別々にある養鶏場を視察したとき、夫人は一羽の雄鶏がせっせと交尾に励んでいるのに目を留めた。毎日何十回もおこなうという説明を聞くと、「大統領がいらしたら、それを伝えてあげてちょうだい」と冷ややかな口調で言った。伝言を聞いた大統領は、その雄鶏は毎回同じ雌鶏と交尾をするのかと尋ねた。違うという答えが返ってきた。雄鶏はいろいろな相手との交尾を好むのだという。「それをうちの奥方に伝えてやってくれ」と大統領は応じた。(207〜208頁)

「蛇口」のことは「コック(cock)」。
だからアメリカ人は絶対に言わない。
ゴルフの時も手首のことを「コック」というが、アメリカ人は絶対に使わない。
「ポコチン」と言っているのと同じだから。
「ちょっとポコチン(コック)ひねって水持って来て」とかって誤解しそう。

ゴキブリを意味する「cockroaches」でさえ、ただの「roaches」に変えられた。(207頁)

一時期金欲しさに「ゴキブリにはコックローチ!」といったCMに出演していた武田先生。
大声でハワイのスタッフの前で叫んでいた。



ブタ(ピッグ)とウシ(カウ)は肉になると呼び名がポークとビーフに変わるのに対して、チキンはニワトリと鶏肉の両方を意味する言葉なのだが、現在では肉を指すことのほうが多い。(302頁)

「ポコチンを消しちゃう」とか「口の中には実は歯があるのだがそれも消しちゃう」とか、
最近すごく面白い研究がおこなわれている。
その「消す」というボタンが遺伝子の中にある。
それを消してしまう。
まだ完璧にはできていないが、その「消す」ボタンを消してしまうとニワトリはどんな生き物になるか?
骨格を見たらものすごく納得するが、恐竜になる。
ティラノサウルス。
ジュラシックパークで一番凶暴だったヤツ。
あれと同じ骨組み。

ジュラシック・パーク (吹替版)



ニワトリの蹴り爪はすごい。
肉を引き裂くための爪だから、ものすごく鋭い。
そうやって考えるとニワトリはスイッチを消し忘れると恐竜になる可能性があるというところが面白い。

 アサラはT・レックスのアミノ酸配列のうちおよそ半ダースがニワトリのものと完全に一致することを突き止めた。彼とシュワイツァーは六八〇〇万年前の軟組織を分離した−中略−世界最古のタンパク質を確認し、それが現代のニワトリのタンパク質と同じだとわかったと主張したのだ。二〇〇七年に『サイエンス』誌に発表された彼らの論文によって(218頁)

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2017年09月21日

2017年7月3〜7日◆仕掛学

仕掛学



東洋経済新報社から出ている松村真宏さんの著書。
松村さんは大学の先生。

仕掛学。
著者による新しい行動心理学とでも読めるのか。
ある仕掛けを施して人をそこへ誘導する仕掛け。
これをもう一種、学問にしてしまおう。
日本初のフレームワーク、物事の考え方。

ついそうしたくなる。
そういう仕掛けというのがある。
例えば飲み屋なんかでちっちゃく「ここではしないでください」というので壁の下の方に赤い鳥居を描いておくと、鳥居のマークだけで何が禁止されているかは、だいたい日本人には通じる。
あれは一種の「仕掛け」。

著者が大阪市天王寺動物園に遊びに行ったときに「アジアの熱帯雨林」のエリアで見つけたものである。どこにも説明がないので何に使うものなのか明らかではないが、望遠鏡のような形をしているので覗くものであることはなんとなく推測できる。
 また、筒の真ん中の穴が気になってつい覗き込みたくなる。さらに地上1メートルくらいのところに設置されているので子供の顔の真正面に穴がくる。これらの条件がそろっていると覗かずに素通りするほうが難しい。少し離れたところから筒の側を通り過ぎる人を観察すると、子供たちが筒を覗き込んで筒の先に置かれている象のフン(の精巧な作り物)を見て楽しむ様子が見られる。
(11〜12頁)

ファイルボックスの背表紙に斜線を一本引くとファイルボックスが順番通りに並んでいるか一目見てわかるようになる。ラインが乱れていると気になるのでつい直したくなり、結果として整理整頓が達成される。背表紙をつなげると一枚絵になっている[仕掛け3]の漫画も同じ効果が期待できる。(17頁)


背中(背表紙)は一匹の龍が這っている。
それから工場などでも「ここにトンカチを置くところ」というのでトンカチのシルエットが描いてあるところがある。
あれは間違いなくそれを置いていく。
次に使う人がすごく便利で整理もしやすい。
コンビニのレジのところに両足をそろえたプリントが床にされていて「そこに並ぶんだな」と並ぶのも仕掛学。

ゴミ箱の上にバスケットボールのゴールを設置すると、ついおもちゃを投げてシュートしたくなる。シュートして遊んでいるだけなのに、結果的におもちゃがゴミ箱の中に片付くことになる。(19〜22頁)

大阪国際空港の男子トイレにある「的」のついた小便器である。−中略−
 この的は「つい狙いたくなる」という心理をうまく利用している。的は飛散が最小になる場所に貼られているので、的を狙うことによって知らず知らずのうちにトイレを綺麗に使うことに貢献することになる。
−中略−
 オランダのスキポール空港のトイレには「ハエ」の的がついており、飛散が80%減少したと報告されている
−中略−
 トイレの的には「的」や「ハエ」以外にもさまざまなバリエーションがある。著者がもっとも気に入っているのはキッザニア甲子園で見つけた[仕掛け9]の「炎」の絵のシールである。
(27〜30頁)

清掃班の手間は年間で数億円の節約となった。

 このゴミ箱にゴミを捨てると落下音が聞こえ始め、それが8秒ほど続いた後に衝突音が聞こえる。
 ゴミを捨てた人はもう一度音を聞きたくなってまたゴミを捨てたくなる。
−中略−
 この仕掛けを施したゴミ箱を公園に設置したところ、普通のゴミ箱より41キログラム多い72キログラムものゴミが集まったそうである。
(33〜34頁)



この「仕掛け」についてその要件を満たす条件がある。

・公平性(Fairness):誰も不利益を被らない。−中略−
・目的の二重性(Duality of purpose):仕掛ける側と仕掛けられる側の目的が異なる。
(37頁)

男性便器にしても「綺麗に使って欲しい」人と「的に当てることが快感」という、この違う快感の二重性があると仕掛けとして有効である。

 行動中心アプローチでは、窃盗犯のやる気を削いで犯罪を未然に防ぐことを考える。ゴミのポイ捨て、違法駐輪、建物の割れた窓を放置していると、無法地帯であることのサインとなって連鎖的に環境が悪化することは割れ窓理論として知られている[Wilson and kelling 1982;Keizer 2008]。そこで空きスペースに花壇を作れば住民の当該地域への関心やモラルが高いことのサインになり、窃盗犯から敬遠される。(74〜75頁)

「住民同士の結束が固い」「近所仲が良い」ということが花壇から伝わる。

こんなふうにして何かの仕掛けでいろいろな役割を果たすというのは日本には実は歴史的に多い。

うぐいすの鳴き声に似た声を出すうぐいす張りの廊下は侵入者に気づくための仕掛けである。
 竹筒が石を打って音を響かせる鹿威しは鳥や獣を追い払う。風になびいたときに音を奏でる風鈴は涼しさを感じさせる。これらの音は風流なものとして今でも親しまれている。これらも音のフィードバックを利用している。
(91〜92頁)

それからお寺の「玉砂利」。
シャリシャリという音が。
そういうのが考えてみると防犯には相当(効果があると思われる)。

三角トイレットペーパーを使うと、3分の1回転するたびにわずかな振動が手に伝わるフィードバックを実現できる。
 この三角トイレットペーパーとただのトイレットペーパーの使用量を比較したところ、三角トイレットペーパーのほうが一人当たりの使用量が約30%も少なかった。
(93〜95頁)

「匂い」をトリガにしたというので「鰻屋さん」。
これも一種「仕掛学」。
外に向かって煙を出すわけだから。

ホームベーカリーも焼き立てのパンの匂いで快適に目覚めさせている。(95頁)

 お店の前を通りがかったときに美味しそうな匂いがするのは偶然ではない。気づいてもらえるようにお店の人が人通りに向けて匂いを流している。(95頁)

それから焼肉屋さん。
それで一発で決断に変わる。
「今日はウナギ喰おう」「今日は焼肉にする」「ちょっと一杯やってくか」というのはみんな匂い、嗅覚によるトリガ。
ある意味では試食コーナー等々も味覚トリガで一種の「仕掛け」。

駐車場の入口で駐車券を受け取ると駐車券を口にくわえる人がいる。その無意識の行動に着目したチューインガム会社が、新しい味のガムのキャンペーンとして駐車券にミント味の層をつけた事例がある。
 駐車券を取って口に運ぶとガムの味に気づくという味覚を使った仕掛けであり、駐車場の近くのお店でそのガムの売上が上がったそうである。
(98頁)

(番組では「ガム自動販売機のミント味のガムの売れ行きが倍増した」と言っているが本によると異なる)

 小さい子供は何でも口に入れたくなる時期があるが、のどにつまらせると危険なものもある。そのような誤飲を防ぐためにリカちゃん人形はとても苦い味が塗布されており、子供が誤って口に入れたときに吐きだすようになっている。これも味覚を利用した仕掛けである。(100頁)

 脳波から読み取った感情に応じてカチューシャについた猫の耳が動くnecomimiも目に見えない感情を見えるようにしたものである。猫の耳が動くという体験が楽しくて、誰かとコミュニケーションしたいという心理的トリガが生まれる。(102頁)

necomimi



これはフィードフォワード。
思わずそうしてしまう流れ。
(本の中ではフィードフォワードではなくフィードバックに分類されている)
別の用語でアフォーダンスと言う。
何も「快」ばかりが人をアフォーダンスの流れに惹きこむ仕掛けではない。
「不快」「不愉快」なこともアフォーダンスの流れを作る。

踏んだときに不愉快な振動音がするランブルストリップスも車線を越えたことに気づかせる仕掛けである。(113〜114頁)

 交通に関する事例ばかりではない。食堂などでメニューの─にカロリー表示があると、ダイエットに意識のある人は高カロリーなメニューを避けるようになる。(114頁)

あれはやっぱり「オムライスやめよう」と思う。
オムライスは(カロリーが)高い。
ラーメンより高い。
メロンパンは高い。
あのカロリー表示というのも一種のアフォーダンス。
(本の中ではこれらの分類は「アフォーダンス」ではなく「ネガティブな期待」)

何かのルールを報酬、褒美を与えることでアフォーダンスに引き込むという手段もある。
(武田先生は「アフォーダンス」という用語を誤解しているようで、ここからは分類が「報酬」)

 ファン・セオリー・コンテストのもう一つの入賞作品である「ザ・スピードカメラ・ロッタリー」は、スピードカメラで車の速度を計測し、制限速度ぴったりで走っている車の中から抽選で賞金が当たる宝くじを贈るというものである。この仕掛けによって車の平均速度が22%も下がったことが報告されている。(116頁)

武田先生が「いいな」と思った交通違反、あるいは交通事故を防ぐ手立て。
酒気帯び運転。
検問に引っかかって3回続けて違反しなかった人。
酒気帯び運転で3回チェックされるというのもなかなか無いこと。
だから1年に3回酒気帯び運転の検問に呼び寄せられて、3度とも「法を守っておりました」という方は市町村にその旨、印鑑を押してもらって届け出すると宝くじがもらえる。
これはすごく効果があると思う。
2つ印鑑を持っている人は3度目の酒気帯び運転の検問が楽しみで仕方がない。
検問をやっていると自分で寄って行く。
検問が必ずしも不運とか不快の入り口ではなくて、幸運の出口になるかも知れないというような。

 著者が授業で行った実験では、チラシスタンドの上部に鏡を設置しただけで鏡を設置しなかった場合に比べてチラシスタンドのほうに目を向けた回数は5.2倍、ビラを取った枚数は2.5倍になった−中略− 
 人は鏡があると気になってついチラシスタンドに近づいてしまい、そのときに自身の行動を正当化するためにチラシを取ったのではないかと考えている。
(118頁)

小さな仕掛けが人間を思わず誘導してしまうという。
壁か何かに「見てるぞ」と漢字が書いてあって、目ん玉が一個描いてある。
目黒通り沿いで見かけた水谷譲。
歌舞伎の縁取りみたいな目ん玉とかが描かれている。
決して絵が上手くないし「こんなもん効果あるワケねえじゃねぇか」と思う。
あれは効果があるそうだ。
あそこで痴漢とか置き引きが減る。
目があるというのはやっぱり何かすごく嫌なのだと。

 青色防犯灯も犯罪の抑制に効果がるといわれている。イギリスの都市グラスゴーで景観のために街頭を青色に換えたら犯罪が減ったことが発端となり、今は日本各地の自治体や自殺の多い駅のホームにも採用されている。
 他の場所と雰囲気が違うことを警戒して犯罪や自殺が減ると考えられている。
(121頁)

映画『ローマの休日』で有名になった「真実の口」をアレンジしたものである。ライオンが大きく口を開けているので、恐る恐るつい手を入れたくなる。ライオンの口の奥には自動手指消毒器を設置しており、手を入れるとアルコール消毒液が噴射されて手が綺麗になるという仕掛けである。多くの人が手を入れてくれただけでなく、アルコール消毒液が手に噴射されたときのびっくりしたリアクションが他の人の興味をひくという連鎖反応も起こり大盛況であった。(164頁)

(番組では「どこかの消毒メーカーが作った」と言っているが、本によると著者のゼミが「シカケラボ」で展示したもの)

 C棟はコの字型になっていて、教室前の廊下から中庭が一望できる。ここを釣り堀に見立てて、地上を行き来している人を釣り上げようというアイデアを実現したのが[仕掛け34]の「人間釣り」である。浮きと人間釣りのビラの入ったカプセルをつけた麻ひもを4階から垂らすと、地上にいる人は目の前に垂れてきた浮きとカプセルを見て「釣られている」ことに気づく。見上げると4階の大きな人間釣り」の垂れ幕が目に入り、気になってC407教室に行きたくなるという仕掛けである。
 この仕掛けも大盛況で、釣りひもを垂らせば100%餌を取ってビラを見てもらえただけでなく、多くの人がわざわざC407教室まで足を運んでシカケラボの展示や人間釣りを楽しんでいた。
(166頁)

人間というのはもしかすると道具に縛られているのかもしれない。
その道具がその人にある行動をさせているのかもしれないという英語のこんなジョークがある。
(番組では「英語のジョーク」と言っているが、ジョークはこの話ではなく、本の中でこの後に登場する「一方ロシアは鉛筆を使った」という有名な笑い話)

「ハンマーを持てば、全てが釘に見える」(“if all you have is a hammer,everything looks like a nail”)[Maslow 1966]は「マズローのハンマーの法則」と呼ばれている。(160頁)

ハンマーを手にすると叩きたくなるという。
何でもコンコン・・・。
つまりアフォーダンス、ある道具がその人の行動を決めてしまうという。

道路の中央線、側線。
横の線がないと人間はまっすぐ走れなくなる。
中央分離帯とか破線というのを全部取っ払って「道」という感じで何も線を引かないと蛇行する。
破線にしてあるのは、安全なスピードに達するとあれが白い直線に見える。
そういう工夫がある。
(この本に関してはここまでで終了。最終日は途中から他の本の内容に入る)

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2017年09月14日

2017年7月7〜14日◆進化論II

他のお題の最終日の途中からスタートしているので、そこから紹介する。
今回はこれからの続き。

進化は万能である:人類・テクノロジー・宇宙の未来



マット・リドレーさん曰く「世界を動かしているのはトップたちではない」「世界を動かしているのは底力だ」「数人の天才が世界を進化させていくのではない。世界の人々の平均点が世界を変えていくのだ」。
このマット・リドレーさんの面白いところは、英雄、偉人、政治家がいかに世界を変えたみたいな顔をしているかという、そういう語り口が武田先生の好み。

 一九九七年、イギリス軍の北アメリカ総司令官ヘンリー・クリントンは「南部戦略」を採用し、ノースカロライナとサウスカロライナ制覇のために軍隊を海路送り込んだ。ところが、これらの植民地ではマラリアがはびこっていた。このあたりでは春になるとかならずマラリアが流行し、とくにヨーロッパから新たにやって来た人々のあいだに蔓延した。−中略−蚊が血を吸い、原虫がその赤血球に感染した。戦闘が始まるころには、兵士のほとんどは発熱で衰弱しており、コーンウォリスも例外ではなかった。−中略−
 もちろん、ジョージ・ワシントンの将軍としての手腕をすべて否定することはできない。しかし、アメリカのリーダーの名声は予想外の展開によって決まったわけで、蚊が少なくともリーダーに引けをとらないほどの影響力を持った。
−中略−いずれにしても、これで勝敗を決めたのはボトムアップな動きだったという考えがますますその信憑性を増す。(292〜294頁)

それからグーテンベルクの印刷技術によって教会独占の聖書が誰でも手に入る書物となり、識字率が上がり、ここからルターが始めたところの宗教改革が起こったということだが「これも違う」。
これはメガネの普及。
メガネの普及、レンズ作りが盛んになる。
それを小さな虫に向けたり星空に向ける人が現れてきて、ここから宇宙観を塗り替えた。
ガリレオの発見はメガネをかけて本を読んだ人々の平均点から生まれた大発見だったという。
(このあたりの話は本の内容とは異なる)

 カリフォルニア州にあるモーニングスター社は、「自主管理」の実験を始めて二〇年になる。−中略−この会社にはマネジャーも、上司も、CEOもいない。役職を持つ人は一人もおらず、昇進もない。−中略−ルーファーが「この会社をどんな会社にしたいか?」と問い、答えは三つの原則に集約された──(1)人は自分の人生を自分で支配できるときがいちばん幸せだ。(2)人は「思考し、エネルギーに満ち、創造的で、他人を思いやる」。(3)最高の人間組織は部外者によって管理されず、参加者が協調して運営するボランティア組織のようなものだ。懐疑的な人々の思惑をよそに、このシステムはずっと機能し続け、モーニングスター社は従業員四〇〇人、パート三〇〇〇人の企業に成長した。(298〜299頁)

私たちはあまりにも起業者とか社長とか経営者とか、そういう人たちを中心に物事を見過ぎているんじゃないか?
でも、もうその限界は今、来ている。
日本の家電メーカーで巨大な戦後の歴史を築いた企業がみんな不調に陥って、それはやっぱり強烈な指揮官がいた会社。
そういうところが上手くいかなくなっちゃってるというのは、そういうのがあるかも知れない。
トップダウンでいっている会社なんて、やっぱり最後は上手くいかないのではないか?

マット・リドレーさんは独特の考えをお持ち。
皆さん方に「どうだ。凄いだろ?」なんてことは絶対言わないが、この方がおっしゃりたいのは「独裁者であろうがそれが民主的な大統領であろうが、大義名分を振り回すという、そういうやり方で国家を引っ張っていっているように見えるけど、そんな立派なもんじゃないぜ」という。
その一節の中にこういう言葉がある。

つまり政府とは、もとを正せばマフィアの保護恐喝の仕組みなのである。暴力の独占権を主張し、市民を部外者の略奪から守る見返りに上前(税金)をはねる。これがすべての政府の起源であり、現在マフィアが行なっている保護恐喝はすべて、政府へと進化する過程にあるのだ。(314頁)

人の物を取ることはいけないこと。
悪いこと。
そんなことは誰でも知っている。
ただ、国家というのは「税金」という名前にして人の物を取っちゃうという。
それで国家の真似をする人は全員悪党になる。
「国家というのはそういう組織体ですよ」と言われると「なるほどなぁ」という。
国家はシステムとして悪を模倣する。
ギクリとする言葉。
国家がやる事をマネすると悪になっちゃう。
それは乱暴に考えるとそう。
車をパッと止めて「今、10kmオーバー。これ」っていうのは儲かる。
浜松町でやったら。
「今、曲がったでしょ。ほら、カネ置いてけ」とか。
国家のシステムをマネしてはいけない。
国家そのものが悪を模倣している。

今の総理の問題点というのは、ただ一つ言えることがある。
いろいろ漏れ伝えてくるところを当番組(『今朝の三枚おろし』)なりに噛み砕くと「友達悪りぃ」。
もうそれだけ。
何が悪いのか?
本当に言えること。
ちょっと友達によい印象の人がいない。
大阪で一生懸命幼稚園をやってらしたご夫婦がいらっしゃる。
武田先生が最初にパッと見た時の印象は「あ、吉本の人か」と思った。
あの関西弁のまろやかさとか饒舌さ、スピード。
あれは花月(なんばグランド花月)で絶対に受ける話術を持った方。
特に奥様の方。
本当にストレスなく生き生きと関西の街で生きて来られたという証。
それに長男さんもしっかりしてらっしゃるし娘さんもしっかりしてらっしゃる。
幸せな大阪のご家庭。
ただ、やっぱり言葉使いが荒い。
申し上げられることは「友達がちょっと悪いんじゃないか」。
それと学校関係者が多い。

アメリカでは、個人が所有する銃の数を心配する人が大勢いるが、公共機関が所有するものはどうだろう? 近年、アメリカの(軍ではない)政府が一六億発の弾薬を購入している。全人口を五回撃てる数だ。社会保障庁は一七万四〇〇〇発のホローポイント弾を発注した。国税庁、教育省、土地管理局、さらには海洋・大気圏公団まで、すべて銃を所有しているのだ。(316頁)

これは何のために所持しているかというとはっきりしている。
暴徒を鎮圧するため。
その弾丸と銃のお金は国民の税金が担当している。
この本の著者が言うとおり「国というのは悪を模倣する」。
逆らうヤツは皆殺し。
このへんはやっぱりファシズムとか資本主義、共産体制とか言うが、だいたい正体は同じような感じだそうだ。

マット・リドレーさん曰く「だいたいまとめようとする。そういうものは絶対にロクなもんじゃない」。
(という言葉は本の中に発見できず)
欧州連合、国際連合、COP21、TPP、大ロシア、台湾を飲みこもうとする中国。
そういうものは全部悪を模倣したシステムである。
偉大なアメリカ再生を叫ぶトランプ政権も、さらに金王朝の北朝鮮の三代目のあの国もそうだが、トップダウンで世界を変えようとする人たちが世界にはいる。
「しかし」とマット・リドレーさんは本の中で言っている。
「安心してください。失敗しますよ」
この本のテーマ。
トップダウンで世界は変わらない。
変えるのはただ一つ、ボトムアップ。
私たちが変えるのである。

エリートが間違うのは「ボトムアップで自発的に組織されるのが最善である世界を、設計することによっていつまでも支配しようとするからだ」と述べている。(335頁)

「トップダウンで事が決定する」といえば「豊洲問題」なんかもそう。
みんなトップダウン。
マット・リドレーさんの言い分だがトップダウン「偉い人が問題を解決する」んじゃないよ、ボトムアップ「底辺が決定していく」んだよ。
じゃあ、どんなふうに具体的に?という。

二〇一一年、イギリス政府はデジタル起業家のマイク・ブラッケンに、大規模なIT契約の管理方法を改革するよう依頼した。フランシス・モード大臣の支援を受けてブラッケンが考案したシステムは、彼が「滝」プロジェクトと呼ぶもの、すなわち前もってニーズを特定しても結局予算オーバーで時間も無くなってしまうやり方を、もっとずっとダーウィン説に近い方式に置き換えたものだ。(334頁)

例えば「豊洲問題」。
我々は何が欲しいのか?
これも当たり前。
安心、安全、便利、安く、楽しく。
そういうものが欲しい。
だから「築地」というおんなじ名称で五つばかり小さく作ってしまえ。
だから豊洲も「豊洲」って言わない。
「築地」と言っちゃう。
大間から持って来たり、大分の関から持ってきたりして、それを築地というところが売買している中継地点。
一番発展したところを「築地」にすればいい。
トップダウンがこの混乱を招いている。
元々は石原さん(石原慎太郎元都知事)の時のトップダウンでこうなってきた。
「トップダウンで決着しよう」とか「トップダウンで良い解決策を」というのが、もうそもそも間違い。
私たちが求めているのは便利で活気があって面白くて安心な市場なんだ。
安心、安全なだけじゃない。
便利で活気があって面白くないと市場じゃない。
だからボトムアップで決定していくというのは壮大な計画ではなくて、小さなステップを積み重ねる、その進化によって創造していく。
そういう街づくりがあっていいんじゃないか。
建築家の人がいて、線を引けば道路になると思ったら大間違い。
やっぱりそこを通行する人たちの楽しさとか面白さとか、そういうものが加味されて通りはできていく。

マット・リドレーさんは宗教の方にも話を広げておられる。
世界へ広がっていく宗教。
そういうものが世界を今、分けているわけだが、その世界に広がっていく宗教にはトップダウンがあったのではないか?
そういうものが今、宗教が世界を混乱させている原因になっているので「もう一度ボトムアップまで宗教、引き返したほうがいいんじゃねぇの?」と仰っている。
この宗教のボトムアップのパワーの付け方というのは日本という国では分かりやすい。
これくらい何でも拝む国はない。
お寺を観光で行きたがるのが日本人ぐらい。
日本人はイスラム圏に行こうがインドに行こうが西洋に行こうが教会を見たがる。
日本人にとって宗教は観光。
お伊勢参りにしろ、日本人にとって宗教は観光の要素が入っていないと宗教じゃない。
ちょっと不謹慎かも知れないが、逆の意味で「のびやかだな」と思う武田先生。

 一世紀のなかばには、テュアナのアポロニオスのカルトが、帝国の覇者の有力候補であるように見えた。イエス同様、、アポロニオス(イエスより若かったが、同時代の人物)も死者を甦らせ、奇跡を起こし、悪霊を追い払い、慈悲を説き、死んでから(少なくとも霊的なかたちで)復活した。だが、イエスとは違ってアポロニオスは近東全域で名を知られたピュタゴラス学派の知識人だった。−中略−どこから見ても、パレスティナの大工(訳注 イエスのこと)よりは洗練されていた。−中略−彼の消息が途絶えてからはるかのち、彼のカルトはユダヤ教やゾロアスター教、キリスト教と競いあったが、やがて下火になって消えてしまった。
 それはタルススのサウロ(聖パウロ)のせいだ。アポロニオスには、こつこつ働くピロストラトスという名のギリシャ人年代記作者がいたのに対して、イエスは、そうとう風変りではあるものの恐ろしく説得力のあるパリサイ人のパウロに恵まれた。
(338〜339頁)

宗教をチェーン店展開するというのは弟子でよい参謀がいないと世界宗教たりえないという。
これもまた新しい学問「神経神学」が紹介されている。
世界には「スカイフック的思考」がある。
スカイフックというのは「空中から不思議なフックがぶら下がっていて、それがあなたを助けている」という。
そういうのに思わず人間は引っかかってしまう。
偶然の一致にも「それを引き起こした何かがある」とそう信じ切ってしまう。

心理学者のB・F・スキナーはカゴの中にハトを入れ、機械で一定間隔で餌を与えた。すると何であれ、餌が出てくる直前にしていたことが、餌が現れた原因だと思い込んだように見えるハトがいるのにスキナーは気づいた。ハトははその思い込みのせいで、その動作を習慣的に繰り返した。反時計回りに歩き回るハトもいれば、カゴの隅に頭を突き出すハトや首を振るハトもいた。スキナーは、この事件は「一種の迷信を実証していると言えるかもしれない」と感じ、人間の行動にも類似するものが多くあると考えた。(351〜352頁)

「きれいな石には不思議な力がある」という「勾玉信仰」から指に宝石類をしたがるという。
その石の力に頼るというような。
それから近所のお寺さんにお参りに行くとか初詣に神社に行くとかっていう性癖があって。

面白い女の人と再会した武田先生。
小松美羽さん。
十数年前に絵が描きたくなって、その小松美羽ちゃんがモデル事務所の受付嬢だった。
スタッフの知り合いで女子美出身だから「この子に教えてもらうといいから」とかといって。
時々絵を描いて小松美羽さんに見てもらって、いろいろ助言、アドバイスをもらう。
でもあんまり絵をいっぱい描くと奥様が嫌がるようになった。
「どこにしまっていいか分からないし、飾りもしない絵は描くな」と言われてちょっと萎えてしまった。
この小松美羽さんはぐんぐん名前が売れた。
今はちょっと現代アーティストで大ブレイク。
イギリスの方から買い手が来たりなんかする。
小松美羽さんは龍の絵を描く。
これがすごい。

小松美羽 −20代の軌跡− 2004-2014



この小松美羽さんは「神社には何か住んでいるし、あらゆる空間にモノノケがいる」という。
そのことをひたすら信じている。

G・K・チェスタトンの言うように、人々は何かを信じるのをやめたときには、何も信じなくなるのではなく、何でも信じてしまう。(353頁)

何か信じていたほうが「何でも信じてしまう危険」から遠ざかることができる。

5月もそうだったし6月もそうだった。
国際的な問題はもうみんな決まっている。
疲れちゃう。
「大統領がどうした」とか「◯◯書記長がまたロケット打った」とか、何か同じことばかり言っているみたいで。
マット・リドレーさんはいろんなことでトップの人を激しく嫌ってらっしゃる。
マルクスとかフロイトとかアインシュタインとか、様々な強力な理論の持ち主が今まで世界を説明してきた。
しかし21世紀までに生き残った理論はアインシュタインのものだけである。
フロイトさんもどんどん新説で人間の心理を。
それからマルクスさんは、ちょっといたるところでマルクス主義というのから国家が離れつつある。
世界を席巻したあのマルクスやフロイトの理論はなぜ生き残れなかったのだろうか?
それは反証不能だからである。
そのことに反撃するというのができない。
「高尾山にはコブラは住んでいない」ということを証明するためにはどうしたらいいか?
証明できない。
不可能。
そういうことが平気でまかり通るようになった。
反証不能なそのことを問題視する人がいっぱいいる。

著者は一番最後にこんなことを言い始める。
「地球温暖化=二酸化炭素」は本当だろうか?
温室効果ガス説、地球温暖化。
これをかなり疑ってらっしゃる。
CO2は影響の一つであって、原因の一つではない」という。
温度が高くなるということはCO2が上がっていることで「CO2が上がったんで温度だ」っていうのは問い方が逆なんじゃないか?っていうことを仰っている。
この本の最後に何でこんなことを言い出したのかなぁと思う。
気象変動に関する政府間パネルによる報告書。

「これはあまりにトップダウンの物の見方なので心配だ」と私に語る科学者の数は増える一方だ。(357頁)

これは反証不可能。
異常気象について反証ができない。
この「温度が何で上がっているか」の原因は太陽の黒点活動の影響っていうのもあるらしいし、そういう反証できないことを問題視するという。


posted by ひと at 20:39| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年5月1〜12日◆進化論I(後編)

これの続きです。

イギリスのサイエンス・ジャーナリストのマット・リドレー氏による『進化は万能である』。
動物の進化論というものは、これは人間の文明にも当てはまるんだという大作。

著者の言っていることだが「イギリスは慣習法、判例法をとる」と。

 判事たちは、現場の事実に合うように、事例ごとに法の原理を調整し、少しずつコモンローを変えていく。新たな難問が生じたときには、判事ごとに対処法にかんして異なる結論に至るので、その結果は一種のしとやかな競争の体を成し、一連の公判を通して、どの判断が望ましいかが徐々に決まっていく。この意味では、コモンローは自然淘汰によって構築されると言える。(57頁)

絶えず新しく呼吸するというようなこと。
移ろいやすく、ダイナミックで混乱しており、建設的で興味をそそり、ボトムアップ、底からゆっくりとできていくのが憲法であるという。
そういうこと。

「世界でも最も成功し、最も実用的で、最も大切にされている法体系には、制定者がいない。それを立案した人もいなければ、考案した崇高な法の天才もいない。言語が現れ出てきたのとちょうど同じように、反復的、進化的なかたちで現れ出てきたのだ」。(57頁)

「法は国家から生じるのではなく、人々の暮らしの中から淘汰の形で現れてくる」という。
かくの如くして法は国家から生じるのではなく、人々の暮らしの淘汰の過程で浮かび上がってくるという。
これがイギリスがそう。
イギリスは「慣習法」「判例法」。

イギリスのマナーで「かっこいいなぁ」と思ったのは、中学の頃に国語の教科書で読んだと思われるもの。
エリザベス女王が馬車で通っていたらエリザベス女王が大嫌いなイギリスのオッサンがいて、女王陛下に向かって罵声を浴びせた。
そう言う人もイギリスにいる。
そうしたら横にいた別のジェントルマンが「やめていただけませんか?」。
「なぜだ?彼女は決してイギリスを代表するクイーンではない」と言うとそのジェントルマンが言った答えが「アンフェア」。
一人の人が野次を飛ばして女王を罵倒している。
声をあげていい。
それは表現の自由だから。
だけどやめなさい。
「アンフェア」だ。
なぜかというと、女王は今、あなたに反論できない。
非難してもいいけど、それは女王陛下があなたの反論に応えるべき立場の時にやるべきであって、ここでやるべきではない。
これをやっぱり「さすがに習慣の中から法律を作っていく民族である」と日本の学者さんが感心した。
バカな中学生だったが「へぇ〜」と思った武田先生。
「世の中には父ちゃんや母ちゃんと違う人がいるもんだ」と思った。

「サルから人間になった」というふうに学んできた『進化論』に関しては、今「そうじゃないんだ」という説もある。

 米最高裁が学校で進化を教えることを禁じる法律をすべて廃止したのは、ようやく一九六八年になってからだった。(76頁)

神が人間を作ったのであって、サルから人間になったのではない。
1968年になって「進化論を学校で教えることは禁止する」という法律に関しては取り下げた。
各州の州法に任されている。
アメリカの一般的な考えは何かというと「インテリジェント・デザイン」と言って「世界のすべては知的な不思議な力がデザインしたんだ」という。
でないとできるワケがない。
指が五本あって、手足が二本ずつあるとか、目玉が二つあるとか鼻の穴が二つとかというのは「設計図で書こう」と思わないと偶然にできるワケがないという。
だから「神の存在があった」という。
ダーウィンの『進化論』。
『進化論』というのはアメリカ社会全体ではかなりのパーセンテージで信用されていないという。
例えば鳥を見てみよう。
空を飛ぶための筋肉、そして鳥に応じて最適な羽、その長さと色。
これらが自然淘汰でできるワケがない。
「これは明らかに誰かのデザインだ」と彼らは主張するわけだが、この本の著者は断固「違う」。
著者は言う。
鳥を創ったのは神ではない。
鳥を創ったのは風であり大気である。
そして地上での出来事が鳥を創ったのだ。
空飛ぶ鳥は地上に舞い降りて来てエサをついばむ。
そのついばむための形、エサをついばむための姿が彼らの形を創ったのだ。
空飛ぶ力を鳥に与えたのは大地なんだ。
大地で生まれて彼らはそこを蹴って空に舞い上がって、ついばむために地上に降りてくる。
つまり「鳥が飛んでいるのは天井からの幻のフックで釣っているわけじゃないんだ」。

文化の進行から見てみよう。
武田先生が大好きな考え方。
アフリカの草原で立ちあがったサルがいた。
これはアフリカの東側の草原にいた。
これは間違いない。
密林に住むケモノのエサになるのが恐ろしくてサルは密林を出た。
それで食物の無い草原に立って木の実が成ったりするとそれを摘んで、摘み終って喰い物がなくなると別の実が成っている木を移動しながら探して歩くという。
移動するうちにささやかな道具を手に入れた。
例えば矢じりとか。
その草原で仲間とすれ違う。
そうすると自分は矢じりを持っていた。
向こう側の別グループは棒切れを持っていた。
棒を持っているのと矢じりを持っているので道具を交換していくうちに誰かが組み合わせた。
棒の先に矢じりを付けた。
槍になった。
こんなふうにして「交換」。
これが動物の中で「本能」となった。
まず交換があって交換が本能となった。
ある時、いっぱい槍でケモノが突けた。
急いで喰わないと腐らせてしまう。
別のグループがやってきた。
木の実を持っている。
やつらはケモノの肉に飢えていたので交換した。
前の、棒と矢じりを交換したのと同じ要領で。
この時に「交換」と「分業」が生まれた。
この交換と分業はサルからものすごいスピードで人間になったという。
これはわかりやすい。
そしてそのアフリカを出て紅海の海峡を渡り、モーゼに頼らず、彼らはユーラシア大陸へと旅立ったという。
これは世界史の謎を解いてくれるために忘れてはならないことだけれども、文化の累積がサルに固有の能力を与えてヒトへと進化させたのだ。
ヒトは複雑な認知の力を持つので文化を発明したと考えてしまいがちだが違う。
文化の累積がヒトの遺伝子を変えたのだ。
このものすごく分かりやすい例が「牛乳」。

西ヨーロッパや東アフリカの人々が持つ、牛乳にふくまれる乳糖(ラクトース)の消化能力がある。成体になっても乳糖を消化できる哺乳類は少なく、それは一般的には幼体の時期を過ぎて牛乳を飲むことはないからだ。しかし、世界の二つの地域では、ラクターゼ(訳注 乳糖を分解する酵素)遺伝子のスイッチを切らずにおくことで、ヒトは大人になってからも乳糖を消化する能力を進化させた。これが起きたのは、ウシを家畜化して牛乳の生産がはじめて行なわれたその二地域だった。なんという幸運だろう! 乳糖を消化できたので、人々は畜産を始められたのだろうか? いや、そうではない。遺伝子のスイッチを切らずにおけたのは、単に畜産の発明の結果であって原因ではない。(86頁)

人間を進化させてきたものは何か?
それは有能なリーダーなのか?
違う違う。
世界全体を進めてきたのは、それはボトムアップの力。
庶民の力。
そういうものが人間社会というか人間文明というのを進めているんだ。
こう言っている。
人間の社会を進めてきたもの。
それは「分業」と「交換」である。
人間を人間たらしめたのは「分業」。
仕事を分けることと物を交換すること。
分業と交換。
今はまとめて「経済」と呼ばれている。
その経済というものの進化の足取りを見てみようということになる。

OECD(経済協力開発機構)によると、今の世界経済の成長率でいくと──そして減速の徴候は見られていない──平均的な人が二一〇〇年に稼ぐ額は現在の一六倍になるだろう。(134頁)

今、問題になっている「格差」。
「ますます富裕層と貧困層の差は開いて、社会全体が二極に分断されている」という。
今、日本は一応「格差社会無くそう」という方向でいる。
ニュースで取り上げるいろんな格差の話。
給食費が払えない子とか食事がとれない子とか。
「豊かさ」とはいったい何だろう?
「塾に通えない子」というのはいる。
塾はカネを取るから。
「今でしょ!」の先生は大変。
彼の塾なんていうのは(とても高額)。
富裕層と貧困層。
トランプさんに比べるとはっきり言って武田先生は貧困層。
トランプさんは富裕層。
ところが、トランプさんを見ていて、トランプさんの暮らしの中で欲しいものが一つもない。
トランプ氏の暮らしぶりを見ていて憧れたことは一度もない。
トランプタワーのあの部屋は嫌いだと思う武田先生。
テーブルの角が膝を打つと痛そうにとがっている。
それに一番の問題はトイレがすごく遠そう。
トイレに行くためには2〜3段の階段を上り下りしなければならない。
それは深夜、トイレに数度立つ時にものすごく厄介なもので。
今、十歩以内でトイレに行けるというのが武田先生には快適。
あの部屋は嫌。
タワーのてっぺんというのもものすごく不安。
地震で揺れた時、ガラスが割れた場合、落下する危険性があのビルにはある。
心配なのはバロンくん。
バロン君の部屋は広い。
でも叫んでも隣の部屋まで声が聞こえないほどの広い子供部屋を持った子は不幸。
バロンくんは努力しなくても全てが手に入る。
つまり努力をしない少年になってしまう。
トランプさんの奥さんもちょっと武田先生にはきつい。
好みの問題だが、あのトランプさんの奥さんを見る度にちょっと疲れが出てくる武田先生。
もう見るだけで疲れる。
アメリカ人の(住居の)作り方は水回りで作っちゃう。
洗濯、バスルーム、トイレ、それにサイドボードを置いて一杯飲むところは水回りだからまとめてある。
遠いに決まっている。
文化放送(の建物の中)で言えば一番近いところで、ここからエレベーターぐらいまである。
夜中に三回から四回(トイレに立つ)。
それはきつい。
一時間ちょっと眠って。
(頻尿に効果があるとされる)「ノコギリヤシ」を飲んでも本当に・・・。
だから武田先生にとってトランプさんは憧れではないということ。
このあたりから考えると「豊かさとは何か?」。

ニューヨークも大嫌いな武田先生。
眠れない。
「ニューヨーク大好き」という人はいっぱいいるが、武田先生はダメだった。
眠らない街。
眠ろうよ、夜は。
時差ボケの上に眠れない夜だからきつい。
それに高層ビルが多い。
騒音は響きながら上に昇ってくる。
だからニューヨークは上に行けば行くほど変な地鳴りがしている。
すごくくたびれるから嫌。

豊かさとはいったい何か?
人間の暮らしの豊かさ。
マット・リドレーさんが言っている。

「ガス暖房、自動車、天然痘予防接種、屋内トイレ、安価な旅行、女性の権利、子どもの死亡率低下、適切な栄養、身長の伸び、平均余命の倍化、子どもの学校教育、新聞、選挙権、大学受験の機会を享受し、敬意を払われるようになった人が、何千万人も増えている」。(134頁)

今挙げた条件が満たされた人は世界史の中では富裕層に属する。
(とは本には書いていないが)
暖房、自動車、天然痘予防接種、屋内トイレ、旅行、新聞、選挙権、大学受験の平等。
それがきちんとできている社会は豊か。

世界規模の格差は現在どんどん縮まってきている。世界人口のうちインフレ調整後一日1.25ドルで生活する人の割合は、一九六〇年の六五パーセントから現在は二一パーセントに下がっている。(134頁)

世界は明らかに明るい方向に歩いている。
2008年にアメリカからリーマンショックという不況が立ち起こった。
これはすぐに日本にも伝承して1920年代の大不況と比べられたが、非常に短期間のうちに世界経済は立ち直った。
世界経済はリーマンショック直後は1%の縮小が見られた。
それが何と、翌年には5%成長している。
19世紀初めから欧州数カ国から始まった富裕化は今、世界に広がっている。
この大富裕化の原因はまだわかっていない。

テレビでこの間久しぶりでマレーシアを見た。
飛行場で事件があったので。

プロゴルファー 織部金次郎5 ~愛しのロストボール~ [DVD]




『プロゴルファー織部金次郎』でマレーシアに撮影に行ったことがある武田先生。
20年前、40代に行った頃のマレーシアよりも遥かに豊かになっている。
そうやって考えると間違いなく世界は明るい方角へと。
そのことをマッド・リドレーさんは何度も何度も繰り返し言っている。

18世紀の人だが、イギリスのアダム・スミスが『国富論』の中で国が豊かになるという中で「市場が開放的で自由であること。それが経済にってとても重大である」と。
経済を勢いよく回すには「分業」、分業による「交換」。
その交換は信頼を生んでいく。
これが世界から搾取と略奪をそぎ落とす唯一の手段。
歴史から学びましょう。

経済史を一瞥すると、商人によって商人のために動かされている国は完璧ではないが、独裁者によって動かされている国よりも繁栄し、平和で、文化的であることは明らかだ。フェニキアとエジプト、アテネとスパルタ、宋と元、イタリアの都市国家とカルロス一世のスペイン、オランダ共和国とルイ一四世のフランス、商人の国(イギリス)とナポレオン、現代のカリフォルニアと現代のイラン、香港と北朝鮮、一八八〇年代のドイツと一九三〇年代のドイツを比べてほしい。(139頁)

商業に関して、商売、経済に関して「分業」と「交換」。
その自由を認めない国というのは貧しくなる。
そしてマット・リドレーは言う。
経済は人間の行為だが、人間の設計ではない。
経済を設計しようとする政治家は失敗する。
ファラオもナポレオンもヒトラーも経済を動かすことはできない。
なぜなら一人で動くものは経済ではないから。
経済は分業の中で出現するもので、交換によって勢いを増す。
そのスピードがあることが豊かさで、スピードは創発的現象。
交換の勢いを挙げるためには独裁者が人種や国によって交換相手を選んでは創発は現れない。
選んじゃいけない。
やっぱり「オープンマインド」。
開けておく。

スミスの表現を借りれば、「ものを交換しあう性質」は、人間には自然に身についているが、他の動物には見られない。「二匹の犬がじっくりと考えたうえ、骨を公平に交換しあうのを見た人はいない」(140頁)

ある意味で経済学者の方々は不吉な未来を探し続ける。

一八三〇年代からイギリスで生活水準が急上昇しはじめたあとでさえ、ミルはそれを一時的な成功と見ていた。すぐに収穫逓減が起こるだろう。一九三〇年代から四〇年代にかけて、ジョン・メイナード・ケインズとアルヴィン・ハンセンは、世界大恐慌は人間の繁栄が限界に達したことの証だと考えた。(144頁)

これは全部外れた。
有名な経済学者だが。

日本が戦争に負けた。
第二次世界大戦、大東亜戦争、太平洋戦争の直後。
その時に予想されたことは何かというと「日本での餓死者は100万人出るだろう」という。
ところが驚くべきことが日本で起こる。
それは何かというと人々は食料の奪い合いをせずに「闇市」というところで着物とお米を交換する等々で飢えを凌いだ。
この時に日本人はものすごく激しく物を交換した。
それで餓死者というのが非常に少なかった。
日本中全部焼かれたのでもうボロボロ。
武田先生が不思議で仕方がないこと。
昭和20年8月に皇居の前に行って、みんな戦争に負けてモンペ姿で泣いている。
その年の冬、新年、晴れ着を着て皇居に行って日本人は万歳している。
たった半年で「何もかも変わる」と、この国の人は面白い。
この小さな国、日本は敗戦からわずか15年で世界で二番目に稼ぐ国になっている。
ほとんど奇跡。

人口論 (中公文庫)



マルサスという人が『人口論』から「収穫というものがだんだん減っていってやがて食料が奪い合いになり、飢餓が世界を襲うことになると」そう予言した。
これはダーウィンの時代。
ところが今、人口は70億になっても飢餓の国というのは減りつつある。
ここでも予想は外れている。
「ボトムアップが社会全体を変えるんだ」というこの本の著者の考え方が何となく個人的な趣味に合う武田先生。
「未来は明るい」「2100年に向かって人類はもっと景気よくなるぞ」と言っているのは武田先生だけ。
確かに「学校に行けない」とか「昼食、夕食が摂れない」とか、そういう子たちの存在があるのだろうが、昨今の騒ぎ方に関して首をひねる。
「貧乏」は「動機」。
「結果」ではない。
「子供時代に貧乏でした」というのは動機。
そこから「ウサギ跳び」が始まる。
星飛雄馬はあそこからウサギ跳びで『巨人の星』を目指す。

TVシリーズ放送開始50周年記念企画
想い出のアニメライブラリー 第75集
巨人の星 劇場版 Blu-ray



それは物語の舞台であって「結論」ではない。

posted by ひと at 20:32| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年5月1〜12日◆進化論I(前編)

進化は万能である:人類・テクノロジー・宇宙の未来



中身は「今までの考え方を少し変えてみませんか」。
著者のマット・リドレーさん。
イギリスの方。
ヨーロッパ文明というものを土台にしながら、そのヨーロッパ文明のいくつもの矛盾を見抜くという、サイエンス・ジャーナリスト。
外国の人は書き方がしつこい。
向こうの人の「粘り気」は本当にすごい。
イギリスの方なので皮肉屋さんで、読み手としてはすごく読みにくい。
こっちは英語圏の人間じゃないから。
ただし、その分だけ面白い。
翻訳の方は訳すのが大変だっただろう。
皮肉というのはスラングも入ってくるので「冗談じゃないよ。ビートたけしみたいなことを言っちゃって」というのが日本語で書いてあって、それを英訳されて向こうで英語で本を出された場合「元浅草の芸人」とかでは済まない。
「ビートたけし的態度をとった」というようなことが書いてあったらニュアンスが伝わらない。
それをこの人たち(訳者の大田直子、鍛原多惠子、柴田裕之、吉田三知世)は一生懸命調べてやっている。
大変だったろうと思う。

とにかくこのマット・リドレーさんの主張はこの一言。
「世の中どんどん良くなってるし、これからどんどん良くなる」
この方の明るさはサルの時代から現代まで貫く。

 二〇世紀の物語には語り方がふた通りある。一連の戦争や革命、危機、伝染病、財政破綻について述べることもできる。あるいは、地球上のほぼすべての人の生活の質が、ゆっくり、しかし確実に向上した事実を示すこともできる。(417頁)

新聞を読むと私たちはこれからもう災難から災難へ、よろめきつつ進んできて避けようもない更なる災難が明日また待っているという。
それが新聞の論調。
それから学校。
歴史の教科書を見ましょう。
お嬢さんがくれた「年表」を持っている武田先生。
「災難」しか書いていない。
「戦国時代、幸せな一家がおりました」なんて一行も出てこない。
「戦国時代に幸せな一家があるはずがない。だから信長は立ち上がった。秀吉は立ち上がった。家康は世の中をまとめた」というふうに歴史教科書には書いてある。
家康も知らずに平和に生きた家族もいたということが関ヶ原のあの晩にもあったはず。
このあたりから「世界の見方を変えませんか」というお誘い。

ラジオメディアの中でニュースを伝える時に、順番を打つと「不幸なニュース」から。
(この放送がされていた当時)もう五月になってしまったが「桜が咲きました」なんていうのも一番最後。
殺人事件があった場合は不幸の方から順位が高い。
そこをこの「エボルーション」『進化は万能である』のマット・リドレーは語っている。
今朝も朝からニュースは「大国のエゴと脅威、隣国の混乱、政治家の傲慢発言、あきれ返った病院関係者、何と情けない学校関係者。訳の分からものが都政に介入しているという恐怖感、あるいは都政にタッチする能力もないくせに昔威張っていた『太陽の子』」みたいな。
これは今、武田先生が勝手に言っているだけ。
何一つ該当するニュースはないのだが、だいたいこんなふうに語っておけばどれかが当たる。
今朝もきっとこの手の中で世界は進んでいると思う。
だからこれはもう年末のしめくくりも出来る。
同じことを言えばいい。
「大国のエゴ、隣国の混乱、政治家の傲慢発言、あきれ返った病院関係者、学校、警察関係者。政治が混乱した」というようなことを言っておけば、大体これは年末でも使える。
上手くいかなかったことを挙げなさい。
それで大体あなたは今年の予言が全部できる。
この悪いニュースを聞きながら「チェッ!何だよこの世の中は。なってないよ。何とかしろよ」とかっていう。
でも皆さん、よく考えて。
皆さん方は間違いなく十年前より幸せです。
皆さんは今、二十年前より幸せです。
今日もラジオから流れ