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2018年11月29日

2018年8月20〜31日◆おーい、中(なか)の人(後編)

これの続きです。

(街角の声のクールビズの話題から引き続いて)
今年の7月のあの猛暑の中、時代劇(水戸黄門)の撮影をしていた武田先生。
しきりにテレビが「暑さ対策」を語る。
でもその言葉づかいの中に、このジイサンの気持ちをカチーン!と逆なでする、お天気お姉さんの発言がある。
「不要不急な外出はお控えください」
それは言われたくない。
失礼だ。
その暑い盛りの中で、仕事で太陽の下に行く人は日本の経済を回すため、自分の人生のために必要。
そうしたら太陽の下で働いている人は「不要不急」な仕事をしているのか?
注意喚起というのが最近メディアでちょっと威張り過ぎている。
ちょっと煽り過ぎ。
だから「それを聞かなかった人が熱中症で倒れた」と、その文章にみんな当てはまる。
ご老人が部屋の中でクーラーを付けずに倒れていた。
それはクーラーを使わないからだ。
それから街角のおバアサンから出た言葉だが「クーラー好きで入れないんじゃないんだよアンタ。かけちゃあ神経痛が痛むんだよ!」と。
歳を取ると武田先生もそうだがクーラーが強すぎると肩が痛む。
そういう人たちに対して、たった一つの答えしか用意せず「適度にクーラーを使いましょう」とか「不要不急の外出はとりやめましょう」とかというのは何か親切でどこか冷酷。
人を「ワン切り」しているというか、一断面しか見ていない。
だんだん腹が立ってきてしまった。
確かに亡くなった方は熱中症で亡くなった方は人数が出るが「本当に熱中症だけで亡くなったのか」というのはわからないということもあると思う水谷譲。
さも重大な結果みたいに後付けをする。
それがジイサンとしては、割とカチンとくる。
(「水戸黄門」の撮影現場で)製作の人間が塩飴と麦茶、水を勧めに来る。
それで2時過ぎにアイスキャンディを喰う。
「はぁぁぁぁ〜〜!」とかと言いながら。
それなりにやっぱり喜びがある。
一本のガリガリ君を悲鳴をあげながら、60〜70代の高齢者スタッフと、孫のようなスタッフがタオルで汗を拭きながら木陰で「カァ〜!」と言いながら喰っているというのは楽しい職場。
でもそういう言葉づかいのことでも「おーい、中の人」と言いたい。

例えばこういう言葉づかいがある。
普段の言葉づかいだが、人を責める時「オマエが本当に反省しているなら、そんなことはできるはずだ」。
これは二重構造。
二重課題になっている。
ダブルバインド。
人を縛る、動かせなくなる言葉づかい。
「反省してます」という返事をすると「なら、なぜできない?」と。
逆に「できるはずだとおっしゃるんだったらば、できないのはなぜですか?」と切り返すと「反省してないからだ」と言う。
こういうダブルバインド。
とあるコンサートでチーフが使っていた言葉で、今でも覚えている。
「オマエたちはそこ並べ。このままでいいと思ってんのか?」
これは完璧なダブルバインド。
「このままでいいのか?」
「いいえ」と言えば「なぜやらない?」、「はい」と言えば「なぜできない」と、こうなる。
お母さんがたの子供を叱る時の言葉づかいで、よく連発される言葉。
「私が心配しているのに、どうしてあなたはわからないの!」
「わかってるよ」と言えば「いいえ、わかってないから心配してるの!」と、こう来るワケで。
「心配しないで」と言うと「どれだけ心配してるか、まだわかってない」と。
女の人はこういう「ダブルバインド」「相手を動けなくさせる」というのはうまい。
逃げ場をなくす、追いつめる。
これは「二重課題」。
このダブルバインドというのは夫婦関係などでもよく使われるる言葉。
武田先生の奥様もこれはもの凄く多い。
今も逆らう力も夏バテしているので、ない。
この言葉づかいで来る。
これは、ある意味では問い詰める悪魔の技術。
この一環として、ついこの間の話題だが「相手を潰せ」という発言が出てきたのではないか?
日大アメフト選手が会見 「監督の指示に従った」  :日本経済新聞
あれはやっぱり「悪魔の二重課題」。
「やらないと意味がないからな」
それは反則をやる。

人間というのは無意識のうちに行動をしてしまう。
それでその無意識というのを不思議なことに縛る言葉があるんだ、と。
無意識を動かす言葉がある。
それはあまりいい意味では使われないという。
そういうことを話している。
夫婦関係で女房の口癖とか、お母さんが子供を強く叱る時の言葉とか。
あるいは悪意ある他人への誹謗中傷。
そういうのは一種の無意識を縛る悪魔の技術ではないだろうか?
あまり頑張りすぎる商品の売り込みというのは、はっきり言ってこのダブルバインド話法が比較的使われやすい。
「お肌のシミ、気になりませんか?」
これは明らかに言葉づかいとしては危機意識を煽る。
気になる。
別に気にしなくてい。
テレビに出ているアンタから言われる筋合いはない。
「梅雨時のジメジメ、嫌ですね〜」
好きな人もいる。
「ジメジメ好き〜」という人はいる。
そのような人の否定というのが二重課題をさして初期設定されてしまう。
これに対抗するために私たちは無意識をどんなふうに操ればいいか?
それは「それを認めない」という動作そのもの。

首を上下に振らせるだけで、無意識のうちに相手に対して賛同・同調する効果を聞き手に持たせることができてしまうのだ。まさに、無意識のうちに心を操る、マインドコントロールである。(170頁)

「アメリカをもう一度、偉大な国にしましょう!」
誰でも「はい」と言うに決まっている。
ずっと「はい」の返事をさせていくうちに、とんでもないことを言う。
「十代の少年たちを鍛え直すために、みんな軍隊に入ろうよ!」。
思わず「はい」と言ってしまう。
肯定の「はい」を繰り返させることによって、相手のマインドをコントロールする。
逆の意味で言うと、とりあえず横に首を振る人がいる。
「いやぁ、それはもう・・・」
誰が何と言おうと、まず一回首を振るところから始める人。
この人は何を言っても相手に賛同しない。

6月のワールドカップ。
点数を入れられたキャプテン長谷部(誠)。
「下を向くなー!下を向くなー!」
あれは下を向いて敗者のポーズをとると、パフォーマンスが落ちていく。
上を向く、前を向くと、気分が高揚してくる。
これは脳を騙すテクニック。
それから、その人の意見が間違った意見でも頷いてあげる。
そうするとその間違った意見の中にいいものが見えてくる。
そういう動作が脳を動かしていく。
これは面白いこと。

柔道も相撲もそうだが、合気道というのはこれから戦う人に向かって頭を下げる。
その時に「私はあなたを尊敬してます」というポーズをとることによって、そのポーズが卑怯なことをさせない。
水谷譲のご子息も合気道をやっているが寒稽古をやっている。
何で寒稽古をやるか?
あれは体の方から脳に命令する。
寒いのを我慢してやる。
そうすると「我慢」という行動様式が無意識に宿る。
そうすると寒さ以外に「理不尽なお母さん」「ワガママなお母さん」の無理難題でも、わりとおっとりと受けていくようになる。
そうすると環境に支配されない「耐える」という力が他の部分でも芽を一斉に吹き始める。
それが貧しさに耐えたり、苦しさに耐えたり、寂しさに耐えたりする。
「むかつく上司には頭を下げろ」
静かに笑う。
そして大きく頷いて認めてあげる。
そのことによって自分の心を強くする。

武道にはいくつも耐えることが用意されている。
寒さに耐えるとか苦しさに耐えるとか。
すると「耐える」というしぐさが無意識に身につき、別の苦しさ、寂しさ、貧しさに耐えるという心理そのものが技になっていく。
これは「脳」ではない。
無意識は耐えることを習慣とすることができる。
これから戦う。
相手をなんとしてでも潰したいと思う。
乱暴なことだけど。
でもその相手に向かって深く一礼するという習慣を持つと、無意識の方から無限の武道的力を汲みだすことができる。
それが武道の神髄。
スポーツにはすべてそういうものがある。
これから戦う相手、自分が競わなきゃならない場所に対して一礼するという不思議な動作がある。
だから後ろからタックルするのはダメ。
「敵を本気で憎む人があるか!」という。

長距離ランナー。
例えば青学の選手が自分の区間を走り終えてゴールした瞬間に、ふらふらになって産まれたてのバンビみたいになりながら走った距離に対して一礼をする。
空間全体に対して。
でもそのことによって無意識を動かす。
それからピッチを降りてきたサッカー選手とか。
それから相撲における一礼。
だから一礼をやっぱり疎かにする相撲の人というのは強くならない。
手を叩く。
相撲は必ず手のひらを見せている。
「武器は隠し持っていない」という。
白鳳とか、きれいに手のひらを見せる人が2〜3人いる。
あれは「寸鉄も帯びず」「私はもう、ひとかけらの鉄も持ってない」という。
「この肉体であなたと戦うのです」という。
こういうこと。
だから礼儀作法とかっていうのが、いかに無意識を動かすか。
考えてください。
それからどんな人でも結構だから朝の挨拶「おはよう」、帰り際の「お疲れ様」。
こういう声をかけておく。
これは「単純接触効果」と言って、無意識のうちにパワーがだんだん宿る。
人間を動かす力になる。
だからテレビコマーシャルとかラジオコマーシャルもそう。
毎日そのコマーシャルを流すことによって「単純接触効果」。
「お疲れ様」とか「おはよう」とかという声と同じように聞こえて好感を持ってしまう。
それからまた別の意識の動かし方。
これはある前提を、ある基準を設定しておくと、その設定が相手を動かし続けるという心理行動。

「日本で双子が生まれるのは、夫婦三〇〇組に一組よりも、多いでしょうか、少ないでしょうか?」
 このように問われた時、我々は無意識のうちに「三〇〇組という数がおそらくは、妥当な値なのだろう」と思ってしまわないだろうか。心理学では、この無意識の想定をアンカリング効果と呼んでいる。実際には、二〇〇九年のデータでは、双子は五一組に一組の割合で生まれるという結果になっており、三〇〇は明らかに大きすぎる値だったのだ。
(186頁)

「平成二五年度の、男性の喫煙率は一五パーセントよりも高い、低い?」
 正解は、「高い」であり、三二.二パーセントであった。この三二という値を聞いて「え!? 意外と高いなあ」と感じた人は、一五パーセントという数字のアンカリング効果を受けていると言える。
(189頁)

これは近頃のクイズ番組なんかで年がら年中やられている。
このアンカー効果は例えばある問題が出た瞬間に画面の隅に「東大生正解率50%」。
それからまた別の横の方に「小学生正解率5%」と出ると「あ、難しい」「あ、易しい」と思ってしまう。
それからテレビショッピングでよくある特別セールの呼びかけ。

 当時のアメリカでキャンベルスープの正規価格は八九セントだったが、特売品として七九セントで売り出した。そして、売り出しのコピーに三条件を設定した。「お一人様四個まで!」「お一人様一二個まで!」そして「お一人様お好きなだけ!」という三つのコピーを別々の日に付けて販売した。−中略−
 その結果、「お好きなだけ!」条件ではトータルで七三缶売り上げた。「四個まで!」条件では、それが一〇六個までに大幅に伸びた。さらに「一二個まで!」条件ではなんと一八八缶という驚きの売り上げをたたき出した。つまり、一二個までという極端に大きい数であっても、それがアンカリング効果を産み出しうるのである。
(192頁)

テレビの「歯を磨いて歯垢を落とす」「歯の汚れを落とす」というコマーシャルをよく見ている。
よく見ると少し残っている。

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洗剤でも、バーッと水が流れていくというイマジネーションがあって、その拡大図にまとわりついた油汚れみたいなのが流れていくのだが、少し残っている。
排水口とかもそう。
「お風呂の壁掃除○○」と言うが「ほら、こんなにきれい」と言うが、少し残っている。
「真っ白」にはならない、と。
誇大広告にしない意味で、少し汚れを残しておくうちにコマーシャルを終わらせる、という。
あんまり綺麗にすると誇大広告になる。
だからアメリカは大変。
今はあまりやらなくなったが昔、焼きそばのコマーシャルで空飛ぶ円盤みたいに。
それで宇宙人が戦ったりするのがあった。
焼きそばの器がUFOに似ているので、そういう商品名を付けたが、それが星空からバーッ!とやってくるという。
ああいうのも最近、ダメになってきたようだ。

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焼きそばは星空を飛ばない。
それからイメージコントロールに関してうるさくなってきたようで、アメリカはもう徹底している。
もの凄い高級車が夜空を飛んだりする。
「車は飛ばない」
日本でもたまにそういうCMがあっても小っちゃく「イメージ上の映像です」みたいに書いてある。
そのあたりは厳しくなってきたということ。

著者があとがきで書いている。
有名な「吊り橋効果」。

 被験者は一八歳から三五歳の八五名の男性であった。橋は、カナダはノース・バンクーバーのカピラノ川にかかっていた二つを用いている。一つは木製で、上下左右に揺れがちな橋であり、橋から下の様子が透けて見えるものだった。橋は水面からの高さが二三〇フィート(およそ六九メートル)も上方にあるものだった。−中略−
 女性のインタビュアーが、橋の真ん中に立っていて、
−中略−アンケートの紙を一部破いて(実際にこのように論文に書いてある!)被験者に渡そうとするのだが、そこには女性のものであろう電話番号と名前が書いてあったのである。ちなみに、この実験では男性のインタビュアーの条件も用意してあったのだが、このことを知っている人は非常に少ない。
 さて、結果である。まず揺れる吊り橋で、女性のインタビュアーから電話番号の紙を受け取った男性被験者は二三名中一八名であった(五名が受け取りを固辞した)。このうち、実際に電話をした被験者は九名いた。
(202〜203頁)

これが有名な吊り橋効果と言われて。
吊り橋の上を歩くというハラハラが恋のドキドキと勘違いされて、無意識に「恋をしてる」と自分を思わせてしまうという。

男性インタビュアーの条件では、実際に電話したのは揺れる吊り橋で二名(203頁)

「これは面白いな」と思った武田先生。
まことに残念ながらこの本はここで終わっている。
このハラハラ・ドキドキの吊り橋効果というのは「男性優位であり、女性には効かない」という。
だから「片一方の実験もちゃんと取り上げるべきだ」ということで終わっているが、何でこの差が生まれたかに関しては著者は触れていない。
男女の性差の中に「誤解力」という力があって、男女で差があるのではないか?と。

8月の頭まで暑い京都にいた武田先生。
朝早く、遠い村までロケに出たりする。
江戸時代に見えるような村なので一時間以上かかる。
そこで武田先生の事務所の社長が気を利かせて「これ聞きませんか?」というのでラジオ番組を聞いていた。
その番組は『今朝の三枚おろし』。
これがびっくりするぐらいいいことを言う。
ちょうどその時にこの本(『脳は、なぜあなたをだますのか』)を三枚におろしていた時に、その京都で聞いたKBSの朝の『今朝の三枚おろし』という番組で「男女が恋するためにはバケモノが必要だ」と、あるアニメ映画を取り上げながら言っている。
(2018年6月18〜29日に放送されたアニメーション映画「この世界の片隅に」の件かと思われる)
「これはすごい一言だ」と思ってハガキを書こうと思ってしまった武田先生。
「吊り橋効果」
その吊り橋を渡る時のハラハラが恋をしていた時のドキドキと勘違いをして、ハラハラを恋のドキドキに脳の方が理解してしまうという勘違い。
この吊り橋の効果のハラハラ・ドキドキの男女の大きな差は何かというと、おそらくこの差こそ武田先生が探し求めていた「誤解力」ではないだろうか?
どういうことかというと「誤解力は男性について高く、女性に関しては低い」。
短く言えば、比較の差がその力との差となったのであろうと。
男性は誤解したがる。
男はハラハラとドキドキしたがるもの。
女性は何かというと、これはわずかな言葉の差だが、ハラハラ・ドキドキ「させたがる」。
女性にとって「誤解させている」という自信こそが「女の力」。
これはもう名言。
男にとって誤解することこそが生命力。
女性にとって誤解させることが生命力。
真実は意味がない。
そんなのは脳の後付け。
ゆえに別れの女性の言葉は決まっている。
「あなたのこと、わかったわ」
そして男性は「おまえ、そんな女だったのか」。
これは「別れの言葉」で「真実を知った悲劇」ということではない。
両者ともに「誤解させる力」がなくなった、「誤解する力」がなくなった。
だから真実を見た男に対する女性の最高の呪いの言葉は「見たな〜!」。
そういう怪談話が多い。
ずっと女の方。
男というのは何でも誤解する。
ツルを見て絶世の美女に見える。
『タニシ女房」はタニシを女と思ったとか。

ここからちょっと社会性を帯びるが「誤解するのも生命力なんだ」ということを考えると、今年の6、7月のこと、気象庁があれほど豪雨警報を繰り返しながら、自宅にとどまる方が多かった。
これは警報の出し方に「訴える力」がない。
「正確に言えばいい」と思っている。
その「正確に言おう」とする態度が「チェンジする」「逃げ出す」という力を産まない。
「この3日間で7月に降った雨量の3倍の豪雨がこの1日で降りました」
こんな言い方をされたのでは、何を言っているかわからない。
女性の方が「誤解させる力」があるのだから、今、足りないのは「正確な物言い」よりも誤解力を起動させる女子アナの声。
だから本当にお気の毒だが、自分の家、家庭でも「実は危険な場所である」という、その誤解を持っていないと。
だから「家庭が一番安心」みたいなことを言う。
台風が来たら「まっすぐおうちに帰りましょう」と言う。
「家が一番安心だ」と思っているから、本当に気の毒な犠牲者が何人も出た。
家ですら危険。
「いい意味で誤解させる」
そういう何か技を持たなければいけない。
日本は地震、台風、豪雨。
とにかく吊り橋のような国に住んでいる。
だからたくましき誤解をする力「誤解力」を持つことこそが大事なのだ。

「三枚おろし」を通じて同年代の方に呼び掛けたいと思う。
おーい、私の中の人。
さあ、しっかり誤解してゆこう。
一生現役。
最後の恋はある。
というワケで今日も一日頑張りたいと思う。


posted by ひと at 11:26| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年8月20〜31日◆おーい、中(なか)の人(前編)

「中の人」は誰かというと「私の内側に誰かもう一人、人が住んでるんじゃないか?」という。
小さい武田鉄矢。
そいつが時々「何を考えてんのかわからない時がある」ということで「おーい、中の人」。
「オマエは何を考えてるんだ?」ということでこういうタイトルを。

掴みは趣味でやっている合気道から話を始める。
面白い武道で日々発見がある。
高段者、有段の人から指導を受けている。
もう来年70歳になる武田先生だが、その歳になっても指導している高段者は時としてものすごく不思議なことを言う。
合気道は「見取り稽古」と言って「取り」と「受け」という二つに分かれて稽古を繰り返しする。
一番最初に師範が前に出て「こういう技をやりなさい」と技を見せてくれる。
これがそんなに難しそうに見えない。
相手が掴んでくるところを正面から相手の首を絞めるような恰好で倒すとか、単純に見える。
ところが、やり始めると、どうしていいかわらかない。
「あの動きは何だったのか?」という。
技をかける人、かけられる人に分けて取り掛かるのだが、自分が技をかける人になった場合、かけられる人に向かって「たしかこういうふうに動くんですよね?」と相談する。
相手が同じぐらいの腕前の人だと「え?そうでしたっけ?」「上から取りました?下からじゃなかったですか?」。
ところが高段者、五段六段の人になると「こうでしたよね?」と相談すると「考えてはいけません」と言われる。
それで向こうが仕掛けてくるので掴みに来る。
どうしていいかわからないが「考えずに動け」と言う。
「考えずに動け」と言われても、どう動いていいかわからないのに。
ところが3〜4年やっていると、何となく動くようになってくる。
はずれることもあるが半分ぐらい「そう。ほら、覚えてるじゃないですか」と言われてしまう。
とにかく武道というものの不思議さ。
師範、あるいは高段者の方がおっしゃる名言は「体に任せるんです」。
体に任せるっていっても?
「これは一体どういうことなのかなぁ?」と思って本屋さんに入ったら『脳は、なぜあなたをだますのか』という本に出くわした。


これは知覚心理学。
「人が心に抱く意志は錯覚である」という。
「錯覚」だってよ?
脳というのはことごとく錯覚する。
錯覚で世界を作っている。
例えば「ベクション現象」。
これは脳が特有の錯覚を起こした現象。

 坂道で車を停車させている時に隣の車が発進すると、自分の車が下がっていると錯覚してしまい、あわててブレーキを踏むという経験をしたことがあるだろうか。(29頁)

これは視覚情報で身体の移動感覚が誤作動する。
脳というのはかくのごとく、いとも簡単に誤作動を引き起こしてしまう。

また激しく流れる川をジイッと・・・
水谷譲は男か何かで悩んで、橋の上から見つめたことがあるのではないか?
そうすると不思議なことに、その流れと反対側に向かって自分がものすごく動いているような錯覚が。
これも「ベクション」脳の錯覚。

映画『スター・ウォーズ』のワープのシーンでは、画面中央に向って光る点が周囲に向かってすごい速さで通り過ぎていくが、それがまさにオプティカルフロー刺激である。(32頁)

これも脳の錯覚。
これらベクションは視神経に刺激を置くよりも、周辺を覆うように提示すると強いベクションを引き起こす。
つまり真ん中になるべくこう、注意を向けるような飾り付けにすると。

今までは視覚だったが聴覚にもある。

頭の周りに三六〇度ぐるりとスピーカーを並べて、その円を回転するように音を連続に提示する。すると、はじめは音が頭の周りをぐるぐると回転しているように聞こえるのだが、これを聞き続けると、回転しているのが自分自身のように感じられるようになるのだ。
 他にも、キューテニアス・ベクション(皮膚感覚ベクション)というものが報告されている。目隠しをして、乗馬型フィットネス機具に乗り上下左右に激しく揺らされた状態の被験者に、一方向から大型扇風機によって強い風をあて続ける。すると被験者は風が来る方向に自分の体が進んでいるように感じるのである
(40〜41頁)

THRIVE(スライヴ) 乗馬マシン ロデオボーイ FD-017



このベクションはなぜ引き起こされるのか?
これは入ってきた感覚について脳が「こんなふうなんじゃない?」と考えて世界を作っている。
これが私の「体の中にいる人」の感覚。

例えば電車が動いた。
「あ、今のは地震だ」
「あ、ドォン!と俺にぶつかりやがったな。コノヤロー!」
「いかん、めまいだ」
とか。
その理由を脳はいちいち付けたがる。
この間も関西方面であったのだが、道を走っていたら車の揺れか地震なのかわからない。
特に車に乗っている時はそう。
車に乗っている時の地震は、高架の橋みたいな所で揺れたので「これは地震だな」と判断したという水谷譲。
普通はちょっとわからない。
この間、震度4だったか。
ピンときたのは街路樹の揺れで「車の揺れと違う方角に揺れてるから地震だ」という。
こんなふうにして考えると「脳によってジャッジする」というのは、かなりやっぱり難しい。

この番組で繰り返すことになると思うが、脳はあまり賢くない。
それはもの凄いところもある。
でも、もの凄い間抜け。
今、そういうのを勉強中の武田先生。

言われてみるとそうだが、自転車を描けない。
私たちの身の回りの物で、80%ぐらいは描けない。
脳はすごく深いことを考えているみたいだが、意外と。
今度いつか正式に(番組で)やるが、トイレの水が何で流れるのか?
つまり私たちはいっぱい説明できない。
脳は「わかった気」になっている。

今、共演者と盛り上がっている話。
バットとボールで合計のお値段が1100円。
バットはボールより1000円高い。
では、ボールはいくらでしょう?
「100円」と言ってしまいそうだと思う水谷譲。
それを女子力だと思う武田先生。
(ボールが)100円だとバットは900円になってしまう。
二つ合わせて1100円にならなければいけない。

脳というのはそんなにあんまり頼りにならない。
跳び箱を飛ぶ。
ボールをシュートする。
飛んできたボールを打つ。
そういう行為を人間は平気でやっている。
スポーツ中継を見ていてもそれは一種、そうやって見ている。

刺激がはじまってから〇.五秒経たないと、我々はその刺激を気づくことができないのである。−中略−
 では、なぜそんなズレがあるにもかかわらず、我々は生きていけるのだろうか。なぜ適切に跳び箱が飛べるのか。なぜ野球でボールを打つことができるのか。〇.五秒ものズレが環境と意識の間にあるのに、我々はどうして環境に対して適切に行動ができるのだろうか。
(73〜74頁)

脳が遅い。
つまりボールが飛んでくるから打つ。
あれは「打とう」と思ってバットを振ったのではもう遅い。
あれは振った後に「打とう」と思っている。
そんなふうにして体と脳がズレていく。
その0.5秒の差のことを武道では「考えるな」と言う。
武道は体験としてそのことを知っていた。
人間はなぜ「打とうと思った」「シュートしようと思った」「跳び箱を飛ぼうと思った」と考えるかというと、記憶として残すため。
そうやって考えると、この私たちの「無意識」という「中にいる人」というのは、「何考えてんのかなぁ」と思わず呼びかけたくなるという。
人間のすべての行動は体が動いている。
その後、頭が「そうしよう」と思った。
「動いたからそう思った」のであって「思ったからそう動いた」のではない。

もの凄いことを途中でこの著者は言い始める。
知覚心理学の妹尾武治さん。
意志、意識は行動の決定に何の意味も持たない。
「この人が私の本当に愛する人かどうか、私、何べんも考えたの」
科学上では「嘘」。
これらの意志、意識は何のためか?
これは思い出として包み込み、しまうために脳が整理整頓。
選挙でもマニフェストをしこたま読んで、よく検討して清き一票を入れた。
「選挙民が自由意思によってあの人を選んだ」なんて言っているが、著者はすごいことに「人間に自由意思などない」。

アメリカの実際の選挙(上院下院)の投票結果を用いた実験をした。−中略−
 顔だけを見て競争力があるとして選ばれた方の人物が、実際に選挙で当選していた確率が七一.六パーセントにも達したのである。
(88〜89頁)

 次に、子供を被験者にして行った、これと非常に似た実験を紹介したい。−中略−二人一組の顔写真を子供に呈示し、どちらが選挙で勝ちそうかを予測してもらった。年齢は五歳から一三歳−中略−子供が顔写真だけを見て予測した結果の正答率は、なんと七七パーセントもの高さとなった。つまり、子供がちょっと見ただけであっても、選挙の合否はとても正確に予測が可能であったのだ。(92頁)

人はみんな印象派。

被験者は二人の顔写真を見せられる。ここでは、左右の手に二人の女性の顔写真が呈示されている。男性の被験者は、この二人のうち、いずれがより魅力的であるかを判断する。
 さまざまなペアの顔で、この判断を何度も繰り返して行ってもらう。その後、実験者が「先ほど選んだ顔は、どうしてあなたの好みに合致しているのか? その理由を聞かせて下さい」と被験者に問いかける。
−中略−
 ここにトリックがあり、数枚に一枚の頻度で実際には選ばなかった方の写真を被験者に見せて、選んだものとして理由を尋ねたのである。数枚に一枚の頻度であるため、被験者もすっかりだまされてしまって、自分が選んだ方だと思い込んで理由を述べたのだった。
(95〜97頁)

 好きだという理由はほとんど嘘であるということが、ここからもわかるだろう。(97頁) 

人は決して合理的な意志を持って恋をしているワケではない。

 ノーベル賞を受賞した彼の研究テーマは、「プロスペクト理論」と呼ばれるものだった。非常に簡単にこの理論を説明してみたい。今、一〇〇パーセントの確率で七〇〇〇円をもらえるのと、九〇パーセントの確率で一万円もらえるという二つのうち、どちらかを必ず選択せねばならないという状況になったとして、みなさんはどちらを選択するだろうか。多くの人は、確実にもらえる七〇〇〇円の方を選ぶのではないか?(103頁)

(本の中では上記のように「七千円=100%、一万円=90%」と言っているが、番組では「五千円=100%、七千円=80%」と言っている。この後の説明も本とは異なる)
これは何かと言うと、無意識のうちに期待値「もらえる金額×失う見込みの金額」7000×0.8=5600円
わずか600円を損する可能性から5000円を選ぶのである。
とにかく「二人でも落っこちるのであれば、そっちの方には行かない」と。
それより低い値段でも。
これが実は経済に影響している。
これは経済で人の心理を支配する法則。

 二〇万円の借金は、一〇万円の借金の二倍不幸に感じられるかもしれないが、二億の借金は一億の借金の二倍不幸かと言われると、おそらくそうはならないのである。(107頁)

(番組では10万円と一億は「罰金」としているが、この本によるとそういう内容ではない)

 告白するという選択をした場合の帰結は、大きく三つあるだろう。
1 恋人になれる
2 「友達のままでいたい」と言われる
3 友達以下の存在として煙たがられる
(110〜111頁)

これも「友達」でいい。
人間は真ん中を取りたがる。
だから「告白しない」が圧倒的に増える。
こういう傾向を心というか無意識は持っているという。
(このあたりを本には詳しい数式で紹介しているが、番組で言っている内容とは異なる)

人は万が一の成功よりも負の期待値が低い方がいいんだ、と。
つまり平凡でもいいから安心して得られる方法を選んでしまう、という。
そういう行動をとりやすい生き物だということ。
これを「プロスペクト理論」という。

内田樹先生がおっしゃる中で、ギクッとした話。
「恋がうまくいっている時ほど、相手に意外な一面を発見すると、男女はそれを裏切られる予感としてカウントする」という。
「二人ともうまくいっているんだけども、ある瞬間だけその子が期待した行動と違う行動をとる」という。
手をつないで歩いている時に、その子がちょっと手を離した瞬間に「違う男の臭いが」みたいな。
「お付き合いしている人がいたとして、何か『ん?』て、一瞬でも『違う』て思った瞬間があったら、結婚する相手じゃないかも知れない」と母から教えられた水谷譲。
そういうことが比較的おきなかったから、その人を選んだのだろう。

内田さんから言われて本当に思ったこと。
武田先生の家では特にそうなのだが「高価で割れやすい美しいガラスは、高いところに飾る」。
普段使いのものは低いところに置いて、蹴ったにしても「一枚も割れてない」みたいな。
でも高いものは上の方に、「上部に置きたがる」という。
逆だった方がいいのに。
こういう不思議な理論を心は持っている。

「モンティロール問題」という数学の問題がある。まずはこの問題を紹介したい。
 閉じられた扉が三つある。このうち、どれか一つだけ扉の向こうに正解のご褒美がおいてある。被験者には三つの扉のうちから一つを勘で選んでもらう。正解は一つなので、もし被験者が正解の扉を選択しているとすれば、選ばれなかった二つの扉の向こうにはご褒美は置いていないことになる。また、もし被験者がはずれの扉を選んでいる場合には、残された二つの扉のうち一つの扉は、はずれであり、向こう側にご褒美が置いていない。
 そこで、ゲームのマスター(仕切り人)が「今選ばれなかった扉のうち、一つは確実にはずれですから、私が開いてしまいます」と宣言して、一つの扉を開く。
 ここで、ゲームのマスターが被験者に問いかける。
「正解の扉は残り二つのうち、どちらでしょうか? はじめの選択のままステイしてもいいですし、残りのもう一つの扉に変更(スイッチ)してもいいですよ」
 このとき、被験者はステイするべきか、スイッチするべきか? みなさんはどう思われるだろうか。
(128頁)

可能性は33%。
33%がそれぞれ可能性がある。
その中から意図的に一枚をはずした。
ということは確率は66%に上がる。
それで「選べ」と言うと変えない(ステイ)。
設定そのものが変わったワケだから、可能性も変わっている。
科学的に見ても変えるのが常識。

最初の選択において被験者は三三パーセントの確率にかけており、その他二つの扉の正解の確率は合計で六六パーセントとなっている。今、この六六パーセントの正解率はそのまま保たれた状態で、一つが「はずれ」であることを教えてもらったので、閉まったままの残りの扉、つまりスイッチする対象の扉が正解である確率は二つの扉の合計分の六六パーセントになっている。これが数学的に正しい考え方なのである(128頁)

同じことを鳩にやる。

 鳩は、初日のセッションでは人間と同じく七割近くがステイを選ぶ−中略−しかし、最終日の三〇日目−中略−にはほぼ一〇〇パーセントの確率でスイッチを選択するようになったのである。(134頁)

(番組では「100回繰り返すと」と言っているが、本には「最終日には1日100回」なので、トータルで100回より遥かに多い)

武田先生が何を思いながら「三枚におろそうかなぁ」と思っていたかというと「避難してください」と呼びかけても、動かない人がいる。
チェンジとステイが、実は災害避難等々の場合に70%がステイを選んでしまうことを考えると、人間社会の中の「注意喚起」という意味で、その呼びかけ等々に関して、人間はステイを選んでしまうという常識を、ちょっと国民全体で共有するというのはいかがか?
「最初の自分の決断を信じたい」という心理が働いてしまうのだろうと思う水谷譲。
ニュースで一番ショックだったのだが、7月の事、息子さんがもう腰まで水に。
それで飛び込んで行くと親父が「おい、オマエも手伝え!」という。
日テレNEWS24 日テレNEWS24 「逃げなくても大丈夫」避難拒む父に危機が
お父さんのインタビューが後から出て「こんなことは初めてだから」。
「息子に言われて初めて」という。
ああいうステイを思わず選んでしまう。
それは自分の経験に照らして「その直感は間違っていない」と思う、という。
そいういう直感というのが総崩れの時代にきているんじゃないか?
こういうふうにして結びつけると鳩との比較なんかも面白い。

 心理学において、重要な概念に注意資源というものがある。人間の心の動きには、燃料が必要なのである。何か考えるにしても、脳が燃料を使う。なにかに集中し注意を向ける。つまり、なにかの課題を適切にこなそうと思ったら、注意の力が必要なのだ。
 この注意の燃料のことを、心理学では「注意資源」と呼ぶ。
(146頁)

たった一回入ってきた情報の方が人間はチェンジを選ぶ。
絶えず「お気をつけください」ばっかりを繰り返されると人間は気を付けなくなる、という。

 今、ある人の注意資源の最大値が一〇〇だったとしよう。かけ算に五〇の資源がもっていかれ、バスケットボールをつく課題に六〇もっていかれる状況だと、トータル一一〇の資源が必要になる。しかし、この人物の限界は一〇〇である。すると、どうなるか。
 答えは簡単で、かけ算がいつまでたっても解けないか、バスケットボールを突き続けることができず
−中略−
 同じ課題を、注意資源の最大値が二〇〇の人物が行えば、二つの課題は適切にこなされることになる。
(147〜148頁)

また加齢に対する衰えもあって、ボールをつきながらかけ算をやるというのは高齢者に難しく、運動神経が鈍い方はさらに難しく、練習した事のない人はさらに難しくなるという。
だから練習していない、あまり運動神経がない、歳を取っている。
こういう方々はステイに関して、もの凄く注意深くなった方がいい、ということ。

オレオレ詐欺に引っかかってしまうのも、まさに二重課題による注意資源の搾取が原因である。
 オレオレ詐欺では、息子と名乗る人物が矢継ぎ早に自分の困難な状況と、それを救うための金銭的な条件を電話越しに伝えてくる。聞き手、つまりその息子の母親や父親などの、オレオレ詐欺の被害者は、まず電話越しのやりとりを無難にこなすという課題を完遂せねばならなくなってしまう。つまり、自称息子が電話越しに伝えてくる中身を正しく理解するというタスクが課されているのである。
(157頁)

詐欺師なんかが使うのは「二重課題」。
「こつこつやる人よりも倍のスピードで動く人は、上達も倍になる」
「食べても痩せられる」
よく考えるとあるワケがない。

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2018年11月07日

2018年7月16〜20日◆植物は未来を知っている(後編)

これの続きです。

植物というのは記憶力を持っている。
これは間違いないんだ、と。
植物は視覚を持っている。
見てるんだ、と。
そう言われてみると桜がバーッと一斉開花するという日本独特の風景があるが、あれなんぞ見ていても桜がやっぱり周りを見ながら「あ、さくら咲くの?」みたいな感じで次々咲いていくという。
そういう会話をしているんじゃないか、という。
そしてこの方が次におっしゃっているのが、ちょっと日本では類例をみられないかも知れないから首をひねられる方もいらっしゃるかも知れないが「植物の擬態」。
カマキリが蘭の花に化けたりというようなのを擬態というが、これが「植物にもある」と。

ボキラ・トリフォリアータは、チリとアルゼンチンの温帯林で成長するつる性植物でボキラ属の唯一の種でもある。(68頁)

樹木に巻きついているどのボキラも、見事な擬態能力でそれぞれの宿主≠フ葉をまねしていたのだ。実際、宿主となりうる植物は一種類ではなく、ボキラはずうずうしくも、じつにさまざまな葉をそっくりコピーしていた。(69頁)

同じ森の中の10種類以上の植物の葉をマネするそうだ。
(とは本には書いていないが)

擬態能力は何らかの形で《役者》に利益をもたらす。この場合《役者》に当たるのはボキラだ。では、自分の葉を変化させ、宿主の葉を模倣することで、ボキラはどのような利益を手に入れることができるのだろう? 第一の仮説は、有害な昆虫から身を守れるということだ。たとえば、ボキラがまねしている葉が草食性の昆虫にとって有毒な植物だとしたら、そして昆虫自身もその葉を避けることを学習していたなら、ボキラはその植物に紛れこむことによって身を守れる。(70頁)

実はこの本を読んでクイズ番組で10万円を稼いだ武田先生。
アフリカのどこかの自然動物園か何かで草ばっかり喰うツノの曲がった鹿みたいなピョンピョン跳ねるヤツ。
あれが大量に死んだ。
それを追求していって出た結論が「植物が殺した」。
その葉っぱを喰うという鹿みたいな動物がいる。
そいつから喰いつくされることをおびえた植物は新芽の段階で毒を用意した。
それで全滅はさせないまでも2/3ぐらいを殺した。
減ったら毒を新芽から消した。
(番組は『世界まる見え!テレビ特捜部 謎を解け!ミステリークイズ2時間SP!動物3000頭ナゾの大量死』。アカシアが自分の身を守るために大量のタンニンを生成し、それを食べて消化ができなくなったクーズーが死んだ)
だから完全犯罪でどこかのドンファンみたいな話。
特集:紀州のドン・ファン 不審死 - FNN.jpプライムオンライン
植物の世界にもそういう「一服盛る」というのがあるそうで。
我々が食べている野菜だってそう。
ジャガイモだってそう。
ジャガイモの芽は毒。
あれもスタンバイしている。
ただジャガイモが今のところおとなしいのは全滅させられる可能性がないから。
そういう「動物に全滅させられてたまるか」と思った葉っぱは擬態によって他の葉っぱに化けて「私はボキラじゃないもん」とかって言う。
この辺はすごい。

二つの仮説を示している。一つ目は、ボキラは大気中に放出された揮発性物質を近くして、模倣すべきモデルが何かを決定しているというものだ。(72頁)

とにかく環境を目で見てマネしているとしか思えない、と。
動物の視覚とは全く違うしくみを植物は視覚として持っているのではないか。
葉っぱはとにかく光を探す。
根っこはひたすら闇を探す。
考えてみれば「視覚がないとできませんぜ?」という。
この好日と、いわゆる「闇を好む」という二つの性格。
この辺、植物はやっぱり動物的。

(著者の)ステファノさんがおっしゃっているのは、人類が解決しなければならない謎の一つ「秋の紅葉」。
これは謎の現象。

秋の森を彩る赤、オレンジ、黄の色の爆発は、数年まえまでは葉緑素の減少による当たり前の結果と考えられていた。葉緑素がなくなれば緑色で覆い隠されていたほかの色が現われてくるというわけだ。ところが、実際はもっと複雑な何かを示しているのではないか、という疑問が生じてきた。なぜなら、いくつかの種は、大事な資源を使ってまで葉を色づかせるための分子を製造していることがわかったからだ。しかも、葉が落ちてしまう数日もしくは数週間まえに。すぐに失ってしまうような明らかに無益なものに貴重な資源を投資するのは、いったいどうしてなのだろう?(80頁)

コストパフォーマンスが悪い。
全山紅葉するのは「じゃ、なにゆえなんだ?」と。
「わぁ、キレイだね」と言っているのは人間だから人間を喜ばせる投資になると言う水谷譲。
特に日本はもう、秋の紅葉というのは大事にする。
人間にとって楽しみではあるが、果たして他の動物にとって紅葉は楽しみかどうか?

二〇〇〇年、オックスフォード大学のビル・ハミルトンが亡くなる数か月前に提示した理論が、この謎を解き明かしてくれた。彼の研究によれば、秋に葉を華麗に色づかせる樹木は、いわゆる誠実な信号≠送っているのだという。つまり、紅葉は植物のもつ力をアブラムシ(アリマキ)に向けて誇示するメッセージというわけだ。(80頁)

「緑だから葉っぱでも喰おうかなぁ」とかと思って「これから寒くなるんでいっぱい喰おうかなぁ」とかと思って張り切っている時に真っ赤になるワケで。
「何!赤じゃん!」みたいな。
虫を弾き返す、寄せ付けないために紅葉させているのではないだろうかと。
そういう考え方がある。
一種、植物から動物への示威行動として。
炎のような色を見せつけて虫を脅し、自らの生命力を誇示する森の木々の「デモンストレーション」。
それが実は紅葉なのではないか、と。

 たとえば、一頭のライオンが視界に入っても、逃げようとせずにその場でバネのように飛び跳ねているガゼルの群を見たことがあるだろうか? 一見、ガゼルたちはエネルギーを浪費するだけのむだな行動をしているように思えるかもしれない。しかし、実際はライオンに向かって、「私がどれほど力強く頑丈なのかを見よ。捕まえようとしても、おまえは時間とエネルギーを浪費することになるぞ」というメッセージを送っているのだ。同じように樹木も濃く色づくことによって、秋のあいだに移住の頂点を迎えるアブラムシに対して、自らの強靭さと生命力を誇示する信号を送り、ほかのもっと楽な宿主を探すようにうながしている。(81頁)

かつて楽園があった。
どこにあったのか?
どうもやっぱり中東の方にあったんじゃないか?
そこで初めて人間の文明が立ち興ったという。
その文明とは何か?
メソポタミア地方。
学校で習う。
農業。
農業が興ったということがものすごく重大なことで。
ここで人間は集団で生きる。
そして農業を基礎にするという社会を作ったワケで。
あたりには森と草原があったはずで。
この人間を人間らしく集団にまとめたのは「植物」。
植物がなければ農業は始まっていないから。
その人間をまとめた植物は何か?
麦。
わずか1万2千年前の出来事。
麦という植物が育つことによる人間の文明があったという。
そこが今は森も緑もなくなって。
文明とは何かと問えば、文明とは定住生活。
もう移動しない。
人間の定住は何によって可能になったかというと「農業」によって。
農業は穀物によって支えられている。

今日、三種類の植物──コムギ、トウモロコシ、コメ──だけで人類の摂取するカロリーの約六〇%がまかなわれ、そのかわりにこれらの植物は、世界じゅうどこでも広大な土地を使って栽培され、地球全土へ拡散され、ほかのライバルたちを圧倒している。(82頁)

たとえば、コムギかコメが病気に襲われたら(すでに起こっているが)大参事になるだろう。(83頁)

人間がある植物の特徴に注目して栽培すると、ほかの植物がそれを擬態し、予想もしない結果をもたらすことを最初に指摘したのだ。(88頁)

ジャガイモからサツマイモ。
更にタロイモ、キャッサバなどが食べられるようになった。
とんでもない事をこの人は途中から言い始める。
それは人間がコムギ、トウモロコシ、コメを喰いだす。
植物が考えて「アイツらのマネをすればいいのか」というので、他の植物がコムギ、トウモロコシ、コメのマネをし始めた。
コムギ、トウモロコシ、コメの立場になって考えましょう。
この人たちは毎年、秋になったら人間に喰われちゃうワケだが、春にちゃんとまたタネを蒔いて育ててくれて「滅びる」ということがなくなった。
コムギ、トウモロコシ、コメというのは。
そうすると植物もバカではないのでこのコムギ、トウモロコシ、コメを見ていたヤツが「あいつらのマネすりゃ、一部喰われたにしても俺たちは永遠の命と共に生きることができる」と。
やっぱり見ている。
それでジャガイモがマネをした。
ジャガイモがいったらすぐサツマイモが「よぉーし!俺もジャガイモのマネしよう!」って言いながらパーッと膨らんだ。
タロイモがマネをして、今、アフリカあたりではキャッサバがそれをマネしているという。
コムギもすぐにコムギの擬態が始まった。
コムギ畑の中にコムギそっくりのヤツが増える。
この人(著者)曰く「これがライムギだ」と。
だから人間に喰われるかも知れないが、喰われることによって大変なアドバンテージを手に入れる。
有利になる。
アドバンテージを彼らも手に入れたかったのではないか?
それはなぜかというと、人間に喰われることによって来年の春は育ててもらえるということともう一つ、植物にとって絶対に不可能なことが可能になった。
それは移動できる。
世界中に広がることができる。

この除草剤の使用について不安を誘うデータがある。一九七四年、農業用に使用されたグリサホートは、アメリカ合衆国だけで三六万キログラムだったが、二〇一四年には一億一三四〇万キログラムに達した。つまり四十年のあいだに、三百倍以上にも増えたのだ!(91〜92頁)

(番組では「30倍」と言っているが上記のように「300倍」)
あぜ道の雑草はグングン耐性をつけている。
人間にすり寄ってくる植物について、すべてが悪いものと断定するのは早計であるぞ、と。
もしかするとその雑草の中に第二、第三のカラスムギ、ライムギの仲間がいるかも知れない。

花以外の蜜の働きは長いあいだ謎に包まれていた。ダーウィンは、花の外に現れる蜜は、捨てるべき余分なものだという意見だった。いいかえれば花外蜜腺は、もともと何らかの理由でつくりすぎた物質を外に吐きだすための排泄器官だということだ。−中略−
 デルピーノは、このダーウィンの理論にまったく同意できなかった。植物がこれほど甘い物質、つまりエネルギー価の高い物質をむだ遣いするなど、彼には考えられなかったのだ。これほど糖分の多い生産物が余剰物≠ノされるなどありえない。植物がこうした貴重な資源を捨てるのなら、そのかわりに何か自然の利益≠得ているはずだ。つまり、花以外で分泌される物質も、花の蜜と同じ働きをもっているにちがいない、と考えたのである。
−中略−
 数年の研究のあと、デルピーノが見つけたその理由は、《ミルメコフィリア(好蟻性)》
−中略−というおもしろみのない名前で知られるようになった。−中略−好蟻性とは、花外蜜腺を使ってアリを引き寄せ、そのかわりにほかの虫や捕食者から身を守るための性質だ。−中略−捕食者から守ってくれるお返しとして、甘い蜜がアリに提供されるのだ。(127〜128頁)

ネソコドン・マウリティアヌス
桔梗の花に似ている花。
その桔梗の花に似た花の内側から、花びらに向かって蜜を流す。
(本によるとヤモリをおびきよせて受粉させる)

 一例は、アフリカや南アメリカ原産のアカシア属のさまざまな樹木とアリの関係だ。アカシアはアリを養うために独特の実をつけ、樹木の内部に特別な場所も提供する。−中略−アカシアはアリに対して、食べ物、宿泊所、さらには花の外で分泌する蜜というフリードリンクまで提供する。かわりにアリはアカシアに害を与える恐れがある動物や植物──それがどんなに攻撃的な相手でも──から宿主を守りぬく。−中略−よこしまな考えを抱いて近づこうとするほかの昆虫を遠ざけるだけでなく、自分より数十億倍も大きな体の動物にも果敢に立ち向かう。アリがゾウやキリンのような巨大な草食動物に噛みついて、木に近づくのを思いとどまるまでけっして離そうとしないのも珍しいことではない。(129頁)

蜜は糖だけでできているわけではない。ほかのさまざまな化学物質、たとえばアルカロイド、γ−アミノ酪酸(GABA)のような非タンパク性アミノ酸、タウリン、β−アラニンなどもふくまれている。こうした物質には、動物の神経系を制御する重要な作用があり、神経の興奮をコントロールして行動を支配する。−中略−蜜にふくまれているアルカロイドは同じアルカロイドの仲間(あるいは類似物質)であるカフェイン、ニコチン、ほかの多くの物質のように、アリ(または、蜜を採取して花粉を運ぶ他の昆虫)の認知能力に影響を及ぼすだけでなく、蜜への依存を引き起こす。
 アカシアの樹木もほかの好蟻性の植物と同じように、花の外の蜜にふくまれるこれらの物質の生産を調整して、アリの行動を変化させられる、ということが最近の研究でわかった。つまりこうだ。狡猾な麻薬密売人のように、アカシアはまずアリを引き寄せ、アルカロイドが豊富な甘い蜜で誘惑し、アリが蜜への依存症に陥ると、次はアリの行動をコントロールし、アリの攻撃性や植物の上を移動する能力を高める。
(131〜132頁)

コロンブスが最初の中央アメリカ遠征から戻るときに、トウガラシはヨーロッパにもたらされた。(139頁)

ここからトウガラシの世界制覇への旅が始まった。

世界中でこれほど多くの人がトウガラシの辛さを好んでいるのはなぜか? カプサイシンはほかの植物性アルカロイド(カフェイン、ニコチン、モルヒネなど)とはちがった形で脳に影響を及ぼすが、どちらも最終目的は同じである。つまり、依存症を引き起こすことだ。(145頁)

舌で痛みを近くすると、脳に信号が届き、脳は痛みを緩和するためにエンドルフィンを製造する。
 エンドルフィンとは、モルヒネに似た、痛みを鎮める生理学的な特質をそなえた神経伝達物質だが、その効果はモルヒネ以上だ。
−中略−
 エンドルフィンが依存症を起こすというのは、奇抜な発想ではない。それどころか、よく知られたランナーズハイもここから来ると考えられる。
(145頁)

だから一回辛さに耐えると、もっと辛いものが欲しくなるという。
モルヒネ、キニーネ、アヘン、シャブ、マリファナ。
こういうものが全部植物由来であるのと同じように、植物が滅びたくないために人々を支配するという。
これはすごい。

 植物は、私たち動物に似たものを何一つもっていない。植物と動物の共通の祖先は六億年まえまでさかのぼる。その時代、生命は海から出て陸地をも征服しようとしていた。−中略−植物は新しい環境に適応し、地面に根を下ろし、太陽が放射する無尽蔵の光をエネルギー源として利用した。(158頁)

地球に暮らす全生物の総重量の少なくとも八〇%は植物が占めている。(158頁)

一番最初に話した藤子不二雄先生の漫画ではないが、海から一番最初に上陸して、地面で光合成によって地球上に生きること、それを始めたのは実は植物。
植物がしっかりと世界を作った後、招かれるようにして爬虫類が海から上がってきて両生類となり・・・という。
(本にはそういうことは書いていないし、進化の方向性を考えると両生類→爬虫類)
そうやって考えると、植物がまず地球を拓いたパイオニア。
動物は生存について問題が生じるとまず移動した。
すこし言葉をきつめに言えば動物の特徴は何か困難に出くわすと逃げ出すことである。
そう。
絶えず逃げてきた。
今でも変わらない。
とにかく何か困難に遭遇すると大臣以下みんな逃げる。
「やってない」「会ってない」とか。
「知りませんでした」とか、そういうことを言いながら。
植物だけが逃げない。
動物はあくまでも逃げて己を守る。
植物は逃げない。

植物は、じっと動かないことを選択した結果、並外れて優れた感覚を発達させた。環境から逃げられなくても生き延びられるのは、ひとえに、数多くの化学的・物理的なパラメーターをいつでも緻密に知覚する能力をそなえているためだ。パラメーターとは、たとえば、光、重力、吸収できるミネラル、湿度、温度、力学的な刺激、土壌の構造、空気の成分などだ。植物は、そうした力、方向、時間、強さ、刺激の特徴を、そのつど識別する。さらに、ほかの植物との距離、その植物の正体、捕食者や共生者、病原体の存在を伝える《生物的シグナル》(ほかの生物が発する信号)についても、植物はたえずインプットしつづけ、つねに適切にその信号に対応する。(165頁)

ライムギの個体一つは、数億本もの根端を伸ばすことができる。(167頁)

森林のわずか一平方センチメートルの土地には、数千もの根端が存在するといわれているが(167頁)

植物とは非中枢的生き物。
そういう意味で「植物的である」というのは大事な才能なのではないか?
高層ビルなども考えてみれば箱の積み重ね。
上の人の床が下の人の天井になっている。
失礼。
樹木においては、あれほど葉っぱがありながら、上の人の床を天井にすることはない。
わずかにズレてすべての葉っぱが太陽の光を吸収しているワケだから。


posted by ひと at 11:24| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年7月9〜13日◆植物は未来を知っている(前編)

これの続きです。

植物は〈未来〉を知っている―9つの能力から芽生えるテクノロジー革命



この本を選んだ動機。
芸能でお足をいただいていて生計を立てている武田先生。
ドラマではいろんな所に引っ張りまわされる。
あるドラマで海沿いの山道を登り、丘の上に登った。
その丘の上での撮影だった。
これがすごい丘で、伊豆半島。
いきなり山が高くなっている。
ミカンの丘が広がっている。
どのくらいの急傾斜かと言うと、ミカンの実がコトンと落ちると下200mぐらいにある県道まで転がり続けるというような急傾斜のミカン段々畑だった。
そこでキャメラを向けたのだが、片平さんと演っていたお芝居。
(内容的に多分TBSの『リバース』。「片平さん」というのは片平なぎささんのことだと思われる)
金曜ドラマ『リバース』|TBSテレビ
ドラマというのは右から撮れば左からも撮るという二つポイント。
ところがそのドラマに関してだけは海を見下ろす角度からしか撮れない。
逆の海側から山へ向かってのキャメラサイドはないのかなぁ?というふうに思っていたらキャメラマンがブスーっとふくれて「撮れるワケねえじゃん!」とふくれっ面。
「何でこんなにこの人は機嫌が悪いんだろう?」と思って「どうした?」と言うと気になる方角を彼が指差した。
ハゲ山。
そのハゲ山なのだが、金属の板がズラーッと並べられている。
太陽光パネル。
ミカン農園を営みながら死んだ息子の敵を討ちたいと思っている母を問い詰めた刑事の武田先生。
それ(太陽光パネル)の光り方が情感が出てこない。
何だか果物ナイフを横に並べてキラキラキラキラ振り回しているような。
つまり、はっきり言って殺された息子の思い出を語る時に後ろ側で金属片が光るとドラマにふさわしくない。
しかしすごい。
本当に「緑をはがされた」と言っていいほどの山。
かつては果樹園が、ミカン園が並んでいたそうだ。
そのあたりにロケハンにやってきてディレクターは気に行った。
ところが一年も経たないうちにそこに来てみるとも一山、全山。
一方方向だけのキャメラワークということだったのだが、通りかかったミカン農園の方が「あれ、外資と結んでる太陽光発電会社なんですよ」と。
「私どもも反対してるんですが、言うこと聞かないんですよ」と。
外国資本が一枚入っていて、権利関係が出来ているので「景観なんか関係ない」と。
ただ、ミカン畑であんなふうに全部木を切ってしまうと「山が崩れて、ということもあるんでねぇ」と言いながら不安そうだった。
茫然とその太陽光発電のパネルの並んでいる景色を眺めたのだが、どうにも日本の景色にはなじまない。
太陽光パネルというのは、例の福島での原発事故があって、日本人が急激に興味をもって。
水力、火力、そして太陽光、それから風車等々で何とか、といったのであるけれども。
圧倒的に不安定らしい。
それで外資の方はと言うと外から入ってきた資本なのだが、中国は太陽光パネルはもう強気で、国土が広いものだから「いくら並べても」という。
ところが日本みたいに角度の決まった丘の上に、時間にならないと太陽が昇ってこないような地形で、またもう一山買ってパネルを並べないと黒字にならないと言って買占めが・・・という。
申し訳ないがあんまりいい噂を聞かない。
前から言っていることだが、あのデザインは何とかならないのか?
太陽光(パネル)のデザインそのものをもっと考えられないかと。
つまり並べれば景色として美しくなるような太陽光パネルというのがあるんじゃないだろうかと。
そんなふうに思う。
樹木は葉っぱが太陽光パネル。
パッと目が合ったら「ああ・・・ホッとする。太陽光パネル」みたいな。
「植物と共に未来を眺める」という今週の始まり。

(番組の最初の街頭インタビューからの話の流で「イケメン」という表現が失礼に感じるという話が続く)
フランス語で美女を褒める時に「mannequin(マヌカーン)」と言う。
(調べてみたが「mannequin」にそういう意味があるかどうかがわからなかった。辞書にはなくても俗語としてそういう表現があるのかも知れないけど)
「マネキン」と。
服を着てずっと立っているだけ、という。
「おお、マヌカーン!」みたいな。
「イケメン」には同じ響きを感じる武田先生。

植物を見る時に、動物の私たちは、私たちと全く違う生き物と見ている。
植物は動物のように環境に適応し、己の姿を変化させ、それを動物と同じく「進化」と呼ばず「順化」と呼んで別の扱い。
「適応した」という。
しかし植物の順化は経験を記憶し、自らの組織構造と代謝を修正し己を変化させる。
生物とは一体何かというと、己の姿を変化させることによって生き延びようとするもの。
考えてみれば進化も順化も同じではないか、というのがこの本『植物は〈未来〉を知っている』のテーマ。
(番組では植物の「順化」を「進化」と同列に説明しているが、本の中では「順化」は「記憶力」と同じ種類のものというような説明)

例えばフルーツトマト。

高糖度フルーツトマト「太陽のめぐみ」 (無選別1kg)



本当にうまいのがある。
武田先生が好きなのは高知県のと熊本の八代。
ここのトマトは美味しい。
これは凄く面白いことに八代は「塩害」。
あれは潮風が入ってきて。
土佐の高知も台風で塩水を浴びた畑のトマト。
武田先生が感動した話。
フルーツトマトは一体どこから生まれてきたかというと、塩害の被害から出てきたのがフルーツトマト。
塩害で塩が畑まで来て全滅した。
植物が全部枯れてしまうから。
その中でよく見ると実を小さく実らせている。
塩で縮んでしまってチビになっている。
それで「こんなものは市場には出せねぇ」とその畑の人が喰ったら甘いの何の!
「これはベジタブルじゃない。フルーツだ」と。
それで、それからはわざと地面に塩を撒いてトマトに激烈な苦労をさせて。
実を小さくしても甘味を。
何で甘味が付いたか?
トマトが「俺は死ぬんだ」と思った。
その時に「生きたい」という思いが、地面から実は小さくても甘味を吸い上げる。
糖分を持っていれば糖分の栄養で生き延びられないかと決心した小柄なトマトがフルーツトマト。
この種からは続々フルーツトマトができてくる。
一回塩でつらい目に遭ったということを「フルーツトマトは記憶している」ということ。
そうすると発想を変えないとダメ。
この著者曰く「植物、記憶を持ってる」ということ。

オジギソウ。

可愛らしいオジギソウ 先生へのプレゼントに 感謝のしるしとして 教室で植物を育てましょう くすぐると葉を閉じて枝を下に向けます少し変わったプレゼントで先生はきっと笑顔に



黒胡椒みたいな小っちゃい種を撒いて観察日記で子供がやっていたという水谷譲。
子供だったら必ずやる。
大人だってやる。
ペロッと触る。
シュルシュルシュルシュルーと葉をたたんでしまう。
やり続けるとどうなるか?
やり続けると閉じなくなる。
やったことがある武田先生。
触って葉を閉じていたら風が吹くたびに閉じなきゃいけない。
風が吹いてももう閉じなくなる。
それが「記憶」「学習してる」ということ。

鉢に植えたオジギソウを、約一〇センチメートルの高さから繰り返し落下させる。落差の距離が刺激の大きさを表している。−中略−何度か落下を繰り返すと(およそ七、八回)、植物は葉を閉じなくなり、無視するようになったのだ。−中略−つまり、植物は過去の経験を記憶する#\力をもっているのだ。
 ところでその記憶力はどのくらい持続するのだろう? この疑問に答えるために、実験でちがう刺激を区別できるようになった数百のオジギソウを、何も刺激を与えないままに放置し、学習したことをどれぐらい記憶しておけるのかを調べてみた。すると、予想をはるかに上回る結果が出た。オジギソウは四十日以上ものあいだ記憶を持っていたのだ。これは多くの昆虫の標準的な記憶の持続時間よりはるかに長く、高等動物の記憶に匹敵する。
(30〜32頁)

(番組では落とした回数が40と言っているが本によると40は日数)

樹木にとってその枝先に花を付けるか、これは重大な決定。
桜はよくあれだけ揃って開くと思う。
気象予報士の森田(正光)さんが言っていた。
あれは太陽光を足し合わせたのと、ぶり返す寒さが何回目かを桜がカウントしている
合計の温度が○度に達すると開花する、という。
(渥美清ふうに)しかし森田さん、アンタ本当かい?
そうではなく、水谷譲ふうに言えば「あったまいいんじゃないの〜?」というような言い方の方が的確で。
桜はやっぱりきちんと記憶力を持っている、と。
動物が持っている記憶力とは全く違う種類の記憶力を植物が持っているのではないか?と。
これが最近、研究が進んでいるそうだ。
わけわからないがゾクゾクするぐらい面白く思える武田先生。

 最近、MIT(マサチューセッツ工科大学)の生物学部のスーザン・リンドクイストが指揮する研究グループが、ある仮説を打ち出した。それは、少なくとも開花の記憶のようなケースにおいては、植物はプリオン化したタンパク質を利用している可能性があるというものだ。プリオンは、アミノ酸配列が誤ったやり方で折りたたまれたタンパク質で、近くにあるタンパク質すべてに対して、この異常形成されたタンパク質をまるでドミノ倒しのように増殖させる。動物にとってプリオンは有益どころか、害にしかならない。たとえば、BSE(牛海綿状脳症)やクロイツフェルト=ヤコブ病は、プリオンが原因だ。でも、植物では、プリオンが独特な記憶方法をもたらしているのかもしれない。(34〜35頁)

何十年も前のこと、アトランタで取材をやったことがあってジミー・カーターさん(アメリカ合衆国第39代大統領)とお会いしてお話しをするという企画があった。
世界平和について。
ただ話を聞いているだけだったが。
ガードマンの人がマシンガンを持っているのが怖かった。
そのカーターさんが武田先生に会っていただけたのは、ある日本企業の協力があったから。
ファスナーで世界メーカーのYKK。
それがアトランタのカーターさんをずっと州議員の時から応援し続けた企業がYKKさんだった。
だからすごくカーターさんはYKKさん経由でアレすると連絡が簡単に付く。
そのお礼もあってアトランタのYKKの工場に行った。
富山方面から来ていて、その方々は松の木と桜の木を見せたがる。
ところが工場長。
日本人の方。
笑ってらっしゃったが。
松はあっちこっちから針金で引っ張って遮二無二枝が曲げてある。
「がんじがらめですね、この松は」と言ったら「ええ、もうね、アトランタで松育てるとまっすぐ伸びやがって」という。
風とかがあまりなくて気候がいいものだから「Pine Tree!」って言いながらまっすぐいっちゃう。
日本人は松の風情は風雪に耐え、枝をくぅ〜と曲げながら「生きております!常緑樹」みたいなのがある。
日本人ならではの。
だから大変。
あれを美しいと思いだすと、まっすぐの松はつまらない。
「おめぇ、芸ねぇな」みたいな感じになってしまう。
それでもう一つが桜の木だった。
あくまでもその時に聞いた話。
この桜がバカで。
立派な木。
大木になっている。
計算できないらしくて、もう何だか二月に咲いたかと思ったら九月にまた咲きやがって。
もう全然季節を守らない。
それで「何とかしなくちゃ」というので日本の庭師さんに富山の方は「四月の後半ぐらいに咲くようにならんですかね?このバカ桜」という。
そうしたら庭師さんがすごく面白いことを言って「四月ぐらいにここで咲く花は何ですか?」。
その手のスミレ草があるらしい。
そうしたら庭師さんが「じゃ、この桜の木の周りに四月に咲くスミレの花をいっぱい植えてくれ」と。
「そしたらだいたい桜も四月に咲きますから」と。
「そんなことあるんですか?」と訊いて「ええ、ええ。あのね、桜ね、仲間がいたり同じ時期に咲く花がいないとカウント間違えちゃうんだよ。見てっから桜」。
「あ、アイツ咲いたな」と思うと咲く。
「(渥美清ふうに)さくら、アイツ咲いたな?よし、咲くか」
バーッと咲く。
何で判断しているか?
目は無い。
見ているわけではない。
「見る」と言ったら「目」と言う。
だからこの作家さんが「違う」と言っている。
それでそれ以来四月にきちんと咲くようになったというふうに言われてもう一回、日本の桜の情景を見渡したら桜並木は一斉。
咲く時も散る時も。
「オマエ、咲いたな?さくら。散るのか?さくら。じゃ、俺も散っちゃおうかなー」
きれーいに揃える。
審議定かならずなれども、この著者によれば植物はやっぱり人間とは全く違うシステムの目を持っているのではないか、ということ。

人間はとにかく自然に学んできた。
ケモノをマネしたり鳥をマネしたり魚をマネしたり。
そうして動物の中でも他の動物を出し抜いて様々なものを人間は獲得してきた。
しかし現代はいよいよ植物から学ぶ時が始まったと著者は言う。
「インターネット」とういのを図式化すると植物の根と同じ。
構造としては植物の根と同じであり、植物的発想は未来へのヒントを含んでいる。
いよいよ人間は植物のテクノロジーを学ぶ時代が来た、と。
こうおっしゃっている。

私は、植物が新しいロボットの製作に大きなインスピレーションをもたらす可能性に魅了され、二〇〇三年に《プラントイド》(植物型ロボット)のアイデアをふくらませはじめた。(53〜54頁)

これは欧州宇宙機関では火星探査に関してアメリカ型の動物型ロボットをやめたそうだ。
動物型ロボット。
つまり自走。
自分で走って掘り起こして石とか土を持って帰ってくると言う。
これは「犬」。
犬型のロボットだが、これじゃない、別のロボットのタイプを開発しようというので、植物型ロボットを今、ヨーロッパでは懸命に考えているそうだ。
「これはすごい」と思った武田先生。
火星探査。
空気の薄いところにポンと降ろして箱がカタンと開くとその中から犬型のロボットが出てきて走って掘り起こして土を取って持って帰ってくるみたいな。
ヨーロッパが今、考えているのはそうじゃない。

無数のプラントイドを火星の大気中まで送り込むことを想定した。送り込まれたプラントイドたちは、火星上にまき散らされる。それぞれのプラントイドは約一〇センチの大きさで、赤い星の地表に姿を消すと、ただちにその体から根を土壌に差しこむ。この根が火星の地下を探索するいっぽう、表面に並んだ葉のようなものが光電池(太陽電池)を使ってエネルギーを補給する。−中略−プラントイドは、種子のように大気中ではじけて広範囲に散らばっていく。そしてその場でじっとしたまま、お互いに、さらには地球とも連絡をとりあい、土壌の成分についてのデータを地球に送信する。(57頁)

それでもう一つ。
「集合する能力」というのを与える。
集まる能力を与えておく。
そうすると「森」ができる。
(という話は本の中には発見できず)
とにかく植物を発想にして探査型のロボットを作るという。
これはやっぱり面白い。
夢のSFの世界。
これはもう現実に進行している。
生き物のマネではなくて植物のマネをして、これからは火星の探査をやるという。

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2018年7月2〜6日◆バナナがなくなる前に

これの続きです。

世界からバナナがなくなるまえに: 食糧危機に立ち向かう科学者たち



自然は決して人間に従うことはない。
自然を従えていると思い込んでいる者に、自然は実に自然に復讐をする。
南沙諸島の問題は大丈夫なのか?
天気予報を見てください。
あそこはバンバカ台風が来ている。
サンゴ礁を平地にして、遮二無二にそこに船とか飛行機を置いている。
あれは飛ばされる。
そんなことを思うと人間というのは自然を従えているつもりかも知れないが、自然には基地とか何とか一切関係ない。
そんなつもりでぜひ聞いて欲しい。

アメリカ自動車王のヘンリー・フォードさん。
この人の夢は一体何だったのか?
この人は何を革命を起こしたかと言うと大量生産。
同じものをいっぱい作るというシステム作りで成功した人がフォード。
これのおかげで車がガン!と安くなったのだが。
ヘンリー・フォードさんは車の大量生産で革命を起こした人なのだが、この人は実は農業にも手を出した。
車は工業製品。
ところが一か所だけ農業がうまくできないと、できない部品がある。

 自動車は石油と鉄鋼を必要とする。−中略−自動車にはゴムも必要だ。−中略−それはアマゾン川の南方の熱帯雨林地域を原産とするパラゴムノキ(Hevea brasiliencis)という木から採取される。(191頁)

だがパラゴムノキは、食物としてより重要であった。種子は食用になる。−中略−しかし一七七〇年、(やがて酸素を発見する)進取の気質に富むイギリスの科学者ジョセフ・プリーストリーが、凝固したゴムの樹液で鉛筆のなぐり書きを消せることに気づく。−中略−
 しかし二つの発明によて、すべては変わる。一つはレインコートだ。チャールズ・マッキントッシュは薄いゴムのあいだに繊維をサンドウィッチのようにはさむことで、防水性の布地や、のちにはコートを製造できるようにした(それゆえ「レインコート」は「マッキントッシュ」とも言われる)。もう一つは加硫法(Vulcanization)である。
−中略−加硫法は、貧困にあえぎながら大きな夢を抱いていたチャールズ・グッドイヤーによって一九三九年に考案された。彼はゴムの耐久性を向上させようと何年も苦心していた。ある日、ゴムと硫黄を混ぜ、ストーブの上に置いてみた。−中略−グッドイアー(原文ママ)は、硫黄によって弾力性と抵抗力が加わり、ゴムがより安定したと理解した。加硫法の発明により、さまざまな製品に、やがてはタイヤにゴムを使えるようになったのだ。(192頁)

ゴムというのは最初食物だったが消しゴムになってカッパになって靴底になってタイヤになったという。
でも、これは繰り返し言っておくが食物。
このゴムというのがまた西洋列強にとってはムカッ腹立つことに、イギリス辺りではできない。
アメリカでもできない。
暖かいところじゃないと。
これは「もってこい」ということでイギリスはアジア支配をする中で90%のゴムを独占した。
だからイギリス辺りからお金でゴムを買わないと、マレーシア、インドネシアのゴムが手に入らなかった。

 ヘンリー・フォードは、自動車の製造のために熱帯アジアに依存することを好まず、生産過程をコントロールしたかった。(195頁)

一九一二年の時点では、アジアのラテックスの生産量は八五〇〇トンであった。それが一九一四年には七万一〇〇〇トン、一九二一年には三七万トンに増大している。(194〜195頁)

ちょうどその頃、イギリス経由でゴムを買っていたアメリカの自動車王フォードはゴムを買うことをよしとしなかった。
全部自分のところで作って純益の嵩を上げたいという。
もうアジアに出て行く隙間がない
イギリス、フランス、オランダ。
いろんな所が、列強が植民地にしているから。
アジアはダメだ、と。
そこでフォードが狙ったところがアマゾン。
アマゾンの熱帯雨林にフォードのゴムノキ生産農場を作った。
このスケールがすごい。

一〇〇万ヘクタールの土地が開墾された。(195頁)

1ヘクタールが1万平方メートルだから3025坪。
だから何坪になるかというと30億2500坪。
その1辺の距離を車でだいたい60〜70キロで行くと世田谷〜成田。
1辺行くのに1時間20分ぐらいかかる。
それぐらいの広大な土地を手に入れて。
フォードはやることがすごい。

二〇万本の木を種子から育てるために二〇〇〇人以上の労働者が雇われた。−中略−要するに、ミシガン州の自動車工場の組み立てラインをモデルにフォードランディアを建設しようとしたのだ。(195頁)

フォードが雇った二〇〇〇人の労働者は、家屋やバラックで暮らしていた。プランテーションは、最終的に一万二〇〇〇人を抱える。コミュニティの健全性を保つために、飲酒や喫煙は禁じられ−中略−食事は無料で提供されたが、食糧はトウモロコシやダイズではなくコムギやジャガイモが、ブラジルではなくアメリカ中西部から調達された。余暇は、教会、レクリエーション施設、ゴルフコース、図書館で過ごすことができた。現地に一度も足を運ばなかったフォードは、雇用者のうちゴルフをする者は誰もおらず、ほとんどが名ばかりのキリスト教徒であり、多くの人が文盲であることを知らなかったらしい。(196〜197頁)

王国を支配するのはフォードが派遣した植物学者。
と言ってもこの人たちは、やっぱりエンジニアとビジネスマン。
植物のことを知るよりも、いかに早くゴムを生産するか、という。
(番組では上記のように名ばかりではあっても植物学者を派遣したように言っているが、本によると植物学者を現地に送っていない)
こういうことはやっぱり一事が万事ある。
このフォードのゴム工場の最大の欠点は順調な計算はすぐできるが、失敗を予想できない。
何を計算していなかったかというとゴムノキの病気に関して対策の手を打てる専門家が一人もいない。

南米葉枯病(Pseudocercospora ulei)と呼ばれる子嚢菌である。−中略−農園労働者は南米葉枯病について聞いてはいた。それは太古の怪物で、熱帯雨林の奥深くに潜む、説明不能なジャングルの悪魔であった。(198頁)

アジアのプランテーションをマネしているから、フォードさんはずっとゴムノキを並べる。
プランテーションはもう一面同じ木。
このゴムノキをザーッと世田谷から成田まで並べたという。
全部同じ木。
これがまず間違い。
これは一番、ゴムノキが嫌う植え方。
このあたり、植物の復讐がゆっくり始まる。

フォードがアマゾンの密林に作ったゴムの生産工場。
ゴム畑の話。
70万本に達したゴムノキは順調に成長した。
1934年まですべてが順調だった。
そしていよいよゴムノキからラテックスというゴムの汁が流れ落ちる収穫直前の1935年、一本の木に突然葉枯病が出現。

緑の葉は黒ずんであばたのようになり、やがて腐って地面に落ちた。−中略−木は再度成長しようにも、若枝の発育は阻害され、小さな葉をつけることができるだけだった。しかもその葉も、黒ずんでしおれた。葉枯病は古木から若木に、さらには苗木床の小さな木や苗にも拡大していく。(200頁)

すべての葉が落ちきって70万本全部が死んだ。
もうまったくラテックス一滴も採れないという。
(このあたりの話はかなり本とは異なる。「70万本」はフォードランディアの失敗の後に新設されたより大規模なプランテーションでの数。ラテックスは一滴も採れないということはなくフォードランディアもそのあとのプランテーションでもラテックスは生産できていた)
何でこんなに病の広がりが速いのかというと、並べて植え過ぎ。
これはやっぱり問題がある。
牛を飼うにしてもニワトリにしても「たくさん飼う」というのはこの病に関してはものすごくもろい。
ゴムノキ自身はそのことを知っている。
だからゴムノキは100m以内は同じ木になりたくない。

ゴムノキの果実は乾燥すると、ねじれてはける。それによって、種子は最大で一〇〇メートル先まで飛ばされる。川に落ちた種子は、さらに遠くまで数十キロメートルほど運ばれる。(199頁)

それくらい葉陰を嫌う。
葉陰になるとたちまちそこから葉枯病が成長するという。
この葉枯病の残忍さは葉っぱを食べるために育ちきってから一斉に病気になる。
ところがフォードはあきらめない。

一九三六年、彼はプランテーションを別の場所に移す。熱帯雨林を伐採し、フォードランディアよりさらに広い敷地を確保したのである。(201頁)

このことを踏まえて50万本を植えて。
(本によると苗木が500万本、生育した木が70万本なので「50万本」がどこから出てきたのか不明)
土地改良とアメリカお得意の農薬で育て上げたという。
これは焦るのもわかる。
1936年。
これはヨーロッパにヒトラーが出現して、欧州は戦場になりつつあり「車の需要がものすごく必要」という。
そのためにも彼は、ゴムを自らの手で生産し、ゴムタイヤを輸出したい。
そして、この1936年から苦労して何年か待った後、いよいよラテックス収穫の時かと思ったらまた災難が襲ってくる。

今回は(少なくとも最初は)葉枯病ではなく、害虫の突発だった。グンバイムシ、アカムシ、コナジラミ、ヒメアリ、ゾウムシ、ヨコバイ、ツノゼミ、ガなどの害虫が襲ってきて、プランテーションの端から端までゴムノキを食い尽くしたのである。数千人が動員され、手で害虫をつまみ取った。魚類の毒素を成分とする新たな殺虫剤が撒かれた。(201頁)

それをやれとフォードがニューヨークでテーブルを叩いて絶叫する。
「儲ける戦争がすぐそこまできてるんだ!やれー!」と言う。
とにかく朝から晩までとりあえず効きそうな農薬は撒く。
フォードのゴム農園はまるで一日中霧がかかった状態だったという。
(このあたりは本にはないので想像か?)
これでやっと虫が落ちて死に始めた。

そうこうしているうちに、葉枯病が舞い戻ってくる。再びゴムノキから葉が失われ、今回は二度と生えてくることがなかった。(202頁)

アマゾンのジャングルというのは病原菌に関しても最高の天国。
あまりに虫、葉枯病が交代で襲ってくるので「ここは呪われている」という噂が広がって従業員たちが逃げ出しはじめた。
(という話も本にはない)
彼の経営はニューヨークではもう万能。
しかしジャングルでは実に無力で役に立たなかった。

フォードはもう撤退する。
でもここはアメリカのまた「アメリカ魂」というか、ゴム作りに挑んでいく。
それで化学的なゴムを作ろうということで合成ゴムの研究に乗り出す。
この合成ゴムの完成が戦争にすごく役に立った。
その合成ゴムで爆撃機とか戦闘機、車両等々をアメリカ軍は山ほど作る。
その機器を対日本戦に合わせて合成ゴムで乗り切ったという。
だからやっぱり戦争は空母とか戦闘機とか言うが、底辺にあるのはねじの一個とかタイヤの原材料のゴムとかのこと。
この合成ゴムというのは石油生成。
石油から作っていく。
だからアメリカのお得意はお得意。
それでこの合成ゴムで天然ゴムの需要は減ると思われたが、ゴムの戦いは永遠と続く。

 一つの問題は、一九七三年に産油国がアメリカに対して石油輸出禁止措置をとったために引き起こされた石油危機に起因する。天然ゴムも輸送や加工の工程で石油を必要とするが、合成ゴムの石油への依存度はそれとは次元が違う。だから石油危機が到来したとき、合成ゴムの価格は、絶対的にも天然ゴムと比較しても劇的に高騰したのである。そのときには、天然ゴムの使用量が増えている。産油国の石油輸出禁止措置が解除されれば、天然ゴムの使用量は減ってもおかしくはなかったが、そうはならなかった。理由はまったく意外なものであった。ラジアルタイヤの登場である。(204頁)

ラジアルタイヤは、車のタイヤの素材として十分な強度を確保するために、その側壁に天然ゴムを使用しなければならなかったことである。(205頁)

それでまた天然ゴムが必要だということで天然ゴムを欲しがるようになって、ゴム戦争はいまだに続いている。
大戦中から戦後までアマゾンに入りゴムノキの種を探し続ける「シードハンター」。
これは新しいゴムノキが欲しくて探し続ける人がいる。
彼はアジアとは違う品種を探して。
また、掛け合わせることによって廉価で提供できるゴムノキをとにかく見つけたい。
葉枯病に強い木でないとダメなんだけれども、現状では強いゴムノキもあるのだが、それはラジアルに向いていなかったりする。
この辺は実に難しい。
未だに続々とそのアマゾンなんかのジャングルに入り、新種のゴムノキを探す人というのが山ほどいる。
私たちは何となくだが、戦争とか何とかと言うとすぐ兵器を連想するけれども基礎の材料というものがなければ何もできない。
その植物に関して無知であるということがいかに危険か。
そういうことを防衛力を上げるためにも必要だ、という。
逆の意味で言うと「核を持つ・持たない」。
日本の周りはほとんど核を持っているワケだから。
極論を言うと「核を持った方がいいんじゃないか」とかいう人がいるが、でも、そんな武器を持つよりも逆に「何か」を持てば、そこに日本の生きる道が。
「まさかそういう兵器とか戦争というところにゴムとか植物とかは『関係ない』と思っている」という水谷譲。
ところがとんでもない。
やっぱり自然から学ぶというのはたくさんあると思う。

(最終日は次に紹介する本の予告編)

植物は〈未来〉を知っている―9つの能力から芽生えるテクノロジー革命



植物というと「自分たちとはあまり関係のない」というか、同じ生物でも生き物のごとく植物を見ることはない。
何もやっていないのに玄関の横のミニバラが5月にちゃんと咲いたり、アジサイが何もしていないのに毎年花を咲かせたりするのを見ると「この人たちすごいな」と思う水谷譲。
6月のこと「梅雨だ梅雨だ」というワリにはさっぱり雨が降らない関東地方。
武田先生の家の近所にアジサイの並木道がある。
そこがものすごくきれいな色を付けている。
天気はピーカン。
だからコイツらもちょっと天気予報の何かお兄さんとかおじさんたちの言うことを聞き過ぎじゃないか?
世の中で枯れているアジサイぐらい無残なものはない。
「来年、これ咲かないだろうな」というぐらい枯れている。
でもちゃんと咲く。
ちょっと仕事で何日か転々と歩いて、夜タクシーで帰ってくる。
そこの遊歩道を通る。
フッとそのヘッドライトに照らされたアジサイの小路を見ると不気味なぐらいアジサイが青々と。
あまりにも色鮮やかなアジサイを見てギクッとしたりなんかして、次の朝、雨音で目覚めたりなんかすると「昨日のアジサイは雨、待ってたんだ。だからあんな顔色になったんだ」という「生き物扱い」をしてしまう。
何か植物が生き物に見えてくる瞬間というのがある、という。
そういう時に出くわしたのが『植物は〈未来〉を知っている』という本。

藤子不二雄先生の漫画が大好きな武田先生。
『ドラえもん』の先生。
確かタイトルが『緑の街』。
(調べてみたところ『みどりの守り神』という漫画のようだ)
そういう漫画があった。
昔読んだがいまだにその漫画が忘れられない。
どういう漫画かというと戦争か何かで世界が消えた後の街なのだが、人間が戦争で消えた街に一番最初に戻ってきたのが緑。
緑の木々とかツル、花の植物が、人間のいない街にバーッと咲いている。
そこに生き延びた人間が植物の下とかで寝たりなんかすると、目を覚ますとその人間の脇に木の実が置いてあって食べると美味しかったりする。
どこに行っても木の実とか花の実とか。
それから喉が渇くとツルを切ると水が出てくる植物にバッタリ会ったりなんか。
その時にその主人公が「植物のヤツが意識を持っている」と言う。
彼らもまた人間が吐く二酸化炭素がないと生きていけないので「人間を増やすつもりなんだ」という。
そうすると巨大な木から握手を求めるが如くツルが人間の手に巻きつくという。
それで「もう一度初めから君たちを世界を作ろう」というところでエンドマーク。
その「プラント」植物が意識を持って、人間が農業を育てたように植物の方が人間を育てていて吐く息を待ちかねるという、逆サイドから見たものの見方は面白い。
そのことのバランスが人間という動物の歴史を作ったんであって、この動物の歴史は動物のみではできなかった。
そうやって考えていくと実は、案外植物は「人間の未来をコントロールする力を持っているのではないか」という。

posted by ひと at 11:07| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月26日

2017年10月30日〜11月10日◆しがらみ、絆、思いやり(後編)

これの続きです。

人間というのは元々サルであった。
しかし人間のようなサルというのは他にもまだいっぱいいた。
一種類ではなかった。
ホモ・サピエンスだけではない。
人類は一種類ではなくホモ・エレクトゥス、それからネアンデルタール人とか、いわゆる「人類」というのは何種類かいたのだが生き残ったのは「人間」という我々だけ。
他に滅びた種はあったワケだが「一体その差は何であるか?」という。
今までは「脳だ脳だ」と言われていたがネアンデルタール人というのはそうとう優秀な脳を持っていて、社会もきちんと形成していたようだ。
それから石器なんかを見ても「技術的な知能も十分にあった」と。
じゃあ、なぜ彼らは死に絶え絶滅し、われら人類は生き残ったのであろうか?
それをこの学者さんたちがいろいろ調べてみた。
そのホモ・エレクトゥス、それからネアンデルタール人、ホモ・サピエンス、我々人類。
その違いは一体何かというと「トーテム」ではなかろうか?という。

長谷川 自分たちの部族には「ご先祖さま」がいて、それがチーターだったり、鳥だったりするというのがトーテミズムですが、こうした形で仲間意識を共有するというのはゴリラやチンパンジーにはないし、おそらくネアンデルタール人にもなかったでしょう。(74頁)

そういう今まであまり大したことはないんじゃないかと思っていた能力が、実は滅びの時に重大な役割を果たしたのではなかろうか?
そのトーテムというものの中には宗教ももちろんあるだろうが芸術もあった。
野牛を捕まえて殺すというのはネアンデルタール人もやっていた。
それからホモ・サピエンス、我々もやっていた。
だけどネアンデルタール人は壁に牛の絵を描かなかった。
人類は牛の絵を描いた。
それが差ではなかろうか?という。
もっとわかりやすく言うとネアンデルタール人、ホモ・エレクトゥス、そしてホモ・サピエンス。
何が違うかというとホモ・サピエンスは「祭り」を持っていた。
山車を持っていた。
トーテム。
そういうふうに例えることができるのではなかろうか?
共同で夢見る幻想を共有していた。
ネアンデルタール人たちはあまりにもリアルに生きていて幻想を持っていなかった。
幻想を共有できなかった。
もっと平べったく言うと、人類に進化したホモ・サピエンスは神を持っていた。
神を信じようとした。
ネアンデルタール人は神を持てなかった。
神を信じられなかった。
それが実は生き残った理由ではないか。
信じるものを持たなかった種はどうなったかというと滅びちゃった。
というのは、どんな小さな集団でも「人類」という名のつく集団は神を持つ。
アフリカの部族の方々、集団の方々。
マダガスカルの方、インドネシアの離れ小島の方。
みんな神を持っている。
持たなかった人類はというと絶滅したのではないか?と。
こう考えると面白い。
これをこの二人の著者はビタッと現代まで持ってこようとしている。
特に(2017年の)上半期あたりで男性が多く問題を起こす。
あるいは女性が多く問題を起こす。
現代にいろいろ問題を起こす人間がいる。
なぜか?
それは「祭りと神を持っていないからではないか?」という。
「祭りと神を持っている人は問題を起こさない」という。
(とは本には書いていない)

武田先生が大好きな構造主義、文化人類学者のレヴィ=ストロース。

神話と意味【新装版】



この人が『神話と意味』の中で自然を解き明かすためには科学的思考しかない。
ところが科学で全部宇宙を解き明かすためには調べなきゃいけないこと、わかっていないことがいっぱいある。
でも神話を使うと我々が住んでいる地球以外にも別に遠い世界があって何かすごい考えを持った人がいて「その人の考え方によれば」とかという。
そういうふうに理解していけばわかったような気になる。
その「わかったような気になる」ということがものすごく大事なこと
人間には三つの特性があって「理性」「感性」。
そしてもう一つが好きな言葉だが「霊性」。
スピリチュアルなもの。
スピリチュアルは何が便利かというと知識はなくても理解することができる。

文化放送の一番近くにあるお寺。
増上寺。
あそこの前は浄土宗の法然上人。
お寺の前にいつも看板が大きく。
「法然という人トは何で偉いのか」とつくづく考えたことがある武田先生。
文教は昔、哲学だった。
でも法然さんは日本にやってきた仏教、特に浄土宗の中から「勉強しなくてもいいじゃん」と突然言い出した。
重力波の話はそういう話で、重力波を理解することは不可能かも知れないけれども、神話とかそういうものを信じて「地球以外の別世界には別の物語がある」とかっていう。
それと法然さんが結びつくような気がして。
難しい話をずっと煮詰めていって、突然法然みたいな人が「いいじゃん、勉強しなくても。南無阿弥陀仏知ってりゃいいじゃん!」と言った。
みんな「シーン」となったという。
何かそういう神話的発言。
そういう別の考え方を。

チンパンジーは言葉を使う。
志村けんさんのあの番組(天才!志村どうぶつ園)を見ていればわかる。

長谷川 チンパンジーに言葉を教えるというプロジェクトはいろいろと行なわれていて、一般の人にもよく知られています。−中略−だいたい三〇〇語くらいまでは覚えられて、それらの単語を組み合わせて、単純な文章を作ることもできるようになります。
 しかし、そこで彼らが語る内容を子細に検討すると、ほとんどすべて自己の欲求を表現するものなんですね。たとえば「リンゴがほしい」とか「扉を開けて」といったことで、彼らは「世界の状態を描写」することがない。ここがヒトと類人猿の大きな違いでしょう。
−中略−
長谷川 ヒトは幼いうちから「このお花はピンクねとか「雨が降ってきた」、あるいは「何々ちゃんが来た」とか話しますよね。それが世界の状態を表現するということです。
山 岸 それができるのはヒトだけだというわけですね。
(100〜102頁)

そしてその特徴を人と重ねたがる。
だから母が見ているものと自分が見ているものが一致すると、それだけで子供は喜ぶ。
あれは美しい笑顔。
そして子供はその共感を拡大していく。
このようにして人の心は人間だけの、人類だけの社会性を育てていく。
この力とは一体何かというと「共感する力」。
同じ考えを持っているということが喜び、快感。
この快感によって協力というのが能力になる。
力を合わせて何かを成すということが気持ちよくなる。
この中には返礼義務「お礼しなきゃ」。
人間の中に眠っている「恩返しをしたい」。
日本風社会で言うと「義理」。
そしてこの返礼義務がなぜ芽生えるかというと「返礼義務をみんな持っているんだ」ということで集団がまとまると、返礼義務を持っていないヤツが時々いる。
ホテルのスタンプを集めたりするヤツがいる。
「別の人に使おうとしてる!」とかというのは返礼義務がない。
こういう単純なことが社会を形成する能力、生きていく力になる。
社会はこの共感する力、協力する力、そして一回プレゼントをもらうと「返さなきゃ!」と思う心。
これで出来上がったのが社会であり、実は国。
共感する力と協力する力と返礼する、それを感じる、義理を感じる。
このへん「しらがみ」「絆」「思いやり」断ち切れない何か。
こうやって考えると面白い。
それでそういうところから社会全体が生まれたという。

世代というものは25年で代替わりする。
25年で一世代が変わるという。
武田先生はデビューが20歳前後だから2世代生きてきたがよく生き残った。
だいたい「人気」は10年。
これが人気の実相。
それ以上、ずっと生きている人気者はいるが、その人たちはものすごく幸運な人たち。
武田先生もそう。
『金八先生』の後、黄門様。
「キン」の後「コウモン」。

 一世代二五年として単純計算すると、一万年で四〇〇世代ですよね。つまり、親の世代と違う形質を持つ子が産まれて進化するチャンスが、まだ四〇〇回しかないわけです。よほど強力な遺伝子の変化がないかぎり、四〇〇世代ではそんなに大きく変わりません。ですから私たちは、一〇人〜五〇人程度の小集団で何十万年もすごしてきた時代の脳の仕組みを受け継いでいると考えたほうがいいでしょう。
山 岸 社会のサイズと脳の適応にギャップがあるということですね。
(132〜133頁)

この間、渡辺直美さんが自慢していた。
(明石家)さんまさんとふざけて写真を撮ったらフォロワー数が47万人。
1枚の写真を10分とかそれぐらいの時間で47万人が見るという。
(『水戸黄門』で)武田先生の相棒だった助さん格さんの助がインスタグラム。
何で「グラム」なのか?
2枚写真を撮ると「2グラム」というのか?
5枚で5グラムか?
インスタグラムで「黄門グラム」を見せたらしいが、一日で1万数千人、急激に仲間が増えている。

産業革命、通信メディア革命。
何かそういうことが連続してもうこの短い時間の中でうわーっと興り、巨大な仲間が手に入るようになった。
そのくせ私たちはいまだ、草原のサルの能力しか実は持っていない。
その矛盾が様々な人間の事件を巻き起こしているのではないだろうか?と。
決して批判するワケではないが正直に言った方がいいから正直に言うが「小池都民ファーストから松居一代まで」と書いてあるが、これは何でかというと、ついこの間書いた原稿なのだが、この時まだ政党を作ってらっしゃらなかった。
だから「都民ファースト」と書いてあるが「希望の党」。
凄まじい数の議員団を国会に送り込もうと努力をなさったワケだが、あの小池さんの勢いというのは何かというと、都知事になったことで彼女に飛びついた。
でもあの支持者のことを「友」だと思っていいかどうか?
松居一代さんだって100万人ぐらいいるのだろう。
彼女のアレを見るのが。
「ちょっと興味本位」という人がほとんどだろうと思う水谷譲。
そういうことも全部含めて100万(人)単位となると、やっぱり松居さんが「これは私の友だ。支持者だ」と思っても、それはやっぱり仕方ないのだろう。
とにかく選挙等々やると「支持者」ということで「仲間を自分は集めた」というふうに思う人が多い。
そのことが大きい事件を巻き起こす原因になっているのではないだろうか?という。
小池さんはもちろんやっぱり今「女王」。
だけど小池さんという方はブレスが短い。
言葉の「切り」が早い。
抑揚の波がピッタリ重なる人がいる。
この人は落合恵子さんと同じ。
二人の声を聞けば綺麗にはまる。
やっぱり女子アナとしての能力が非常に高い方なのではないか?
だから語りの方の上手な方であって。
とにかく頑張ってくださいね。
これだけの支持を集めたワケだから。
その他にも、今度は「逆」の方。
仲間が集まらない方がいらっしゃる。
夫を次々殺す奥さんだった方がいらっしゃる。
この人も70(歳)近い方。
それからみなさんも事件として聞きたくもないだろうが、子供を男のために殺す若いお母さんもいらっしゃる。
こういう人たちは一体何か?
この人たちは仲間を作れなかった人たちではなかろうか?
これは武田先生の考えで本には書いていない。
逮捕されている女性を見ると、やっぱり孤独そうな顔をしてらっしゃる。
そういう意味では「仲間を集められなかった人」という。
だからそんなに人間を持ちあげることなく、草原のサルとしてもう一回捉えなおした方がリアルなのではないか?と思う。

(番組冒頭の街頭インタビューの「貯金をしている」という話に引き続いて)
頭で将来を考えて「貯めとこう」と思う人というのは、その金が必要な時はやってこない。
本当に人生はそんなもの。
そんなお金が必要な時は、たとえば(インタビューに答えている)君が婚約して彼女と一緒に何かする時は同じぐらい彼女が持っているから「彼女のヤツを使っとこう」というので君のはそのままにして、その上にまた重なっていく。
「将来、何か不安定になるかも知んねぇな」と思う人は将来安定している。
何かそんなものだよ人生は。
最近何か人生全体が少しわかってきた武田先生。
黄門様を演り始めてから。

「しがらみ」「絆」「思いやり」
これは全部同じものじゃないかというのが武田先生の主張。
本とは関係ない。
この本に乗ったのは「人間を考える時に人間を現代で考えないで、もうサルから考えよう」というところから考えると人間というのは理解できるんじゃないか?という。
「その発想凄い!乗った!」という感じだった。

今回は「いじめ」。
尾木ママが「イジメはやめましょう」とかあんなに言っているのにちっともなくならない。
なぜか?

いじめとは本質的には、子どもたちが自主的に秩序を作ろうとするプロセスの中で不可避的に起きる現象で(156頁)

秩序を作ろうとすることに失敗することがイジメなのである。
(とは本には書いていないが)
集団が秩序を求めなければイジメはない。

 つまり、学校で集団教育をするのを止めて、子どもたちはみんな家庭で学習させる。他の子どもとは一緒に遊ばせない。そうすれば、子どもはいじめを経験せずに大きくなることでしょう。(158頁)

しかしその解決では解決にならないから模索している。
「イジメとは心の問題ではない。これは本能の問題である」と著者は言う。
ここから、この文化人類学者はすごいところに入っていく。

山 岸 ハイトはこうした実験を通じて、「理屈抜き」で人間が守ろうとする道徳律には六種類あることを示しています。細かな説明は省きますが、〈ケア/危害〉〈公正/欺瞞〉〈忠誠/背信〉〈権威/転覆〉〈神聖/堕落〉、そして〈自由/抑圧〉がそれです。(175頁)

ハイトの道徳律の中には〈自由/抑圧〉はあるのに、平等は入っていない。これはなぜなんでしょうか。一般的には「自由と平等」はひとくくりにして扱われる概念ですよね。
山 岸 これはハイトが入れ忘れたわけではなくて、人間の進化環境で求められた道徳律には平等は必要とされていなかったからだろうというのが私の仮説なんです。
(178頁)

人間は平等じゃない方を選んでしまう。
だから「格差社会は問題なんです。差別はやめましょう」。
正しいけれども、それは実は本能に反している。
これはもうアメリカの人なんて大きくうなずいて聞いているだろう。
アメリカ社会を見てごらんよ。
この道徳を守ろうとする。
「ケア」「公正」「忠誠」「権威」「清潔」
アメリカ社会はものすごく敏感に反応する。
だけど平等と差別に関してだけはアメリカ社会ってなんとなく・・・。
フットボールを見ながら途中で副大統領がいなくなっちゃう。
「起立しなかった」と。
それで副大統領と大統領が務まっているのだから。
あの人たちの差別に抗議する精神というのがピンときていない。
副大統領ともあろう方が。
何でか?
これはすごい。
本能だから。
何の本能か?
集団をつくる時に平等と差別。
この中で平等の方を選ぶと集団は形成できない。
サルの集団で一番大事なのはボス猿。
メスの独り占め。
でも男の胸の中にどこかある。
メスの独り占め。
つまり平等と差別はサルの本能で、サルが集団をつくる時「差別が必要だ」いうものが人間の中にもちゃんとあるのではないかという。

情緒で物事、社会問題を解決しないで、もっと科学的にクールにいこうというのがこのお二人(長谷川眞理子・山岸俊男)の主張。
その中でイジメについて解決する方法がある。
お二人がおっしゃるのだが、同年クラスという学級制度をやめることである。
同じ年の子が一つのクラスを形成するというのをやめる。
複式にする。
複式とはなんぞやというと『風の又三郎』。

新編 風の又三郎 (新潮文庫)



1年から6年までワンセット揃っている。
だからあの時に武田先生は長いのに言った。
この件かと思われる)
あのイジメの元凶たる又三郎は転校していった。
一郎がいたから。
アレが歌った。
一郎が「又三郎よ、転校しろ」という歌を歌った。
「俺たちはこれから雨三郎と遊ぶ」という歌を歌ったばっかりに風の又三郎は二百十日の風に乗って転校していったというのが宮沢賢治『風の又三郎』。
つまり「複式学級にはイジメは起きない」。
これは断言しておられる。
(というのは本にはない)

差別とはどうするか?
差別とは何で起きるか?
これもまた科学的。
「差別とは群れの中の同じ順位の者が裏切った場合、上の者から危害を加えられるという結束だ」
同じ順位の者がいる。
高い順位の者がいて「アイツをいじめろ」と命令して裏切った場合、自分がいじめられるという恐怖感が差別を生む。
どうするかというとその罪の裁定者を消すという。
罰を下す者を消してしまえばいい。

差別をなくすには、差別をすることによって得られるメリットよりも、差別をしないことで得られるメリットを大きくすればいい。(187頁)

しかし根深いもの。
でも科学者の意見として傾聴に値するご意見だというふうに思う。

この著者二人が繰り返し主張しているのが「社会のシステムそのものが、あまりにも急激に進化しすぎているのである」と。
人間というものは一万年前とだいたい同じ頭で今日このシステムの中を生きている。
人間はほとんど進化していない。
そう思ってこの社会を見つめてください、という。

今年(2017年)初めからちょっとショックだった武田先生。
一回だけしかすれ違ったことがないが、夫から申しだされた離婚を拒絶してインターネットなんかでブログで呪ってらっしゃる方がいる。
あれは呪いの行為。
昔で言うと藁人形を「コーン!コーン!」と打ち付ける人の行為にそっくり。
だからこれは新しい形の女性が提案した問題ではなくて、一種「呪いの人形」としてブログが、SNSが利用されているということで。
それが100万人のフォロワーがいようが何しようが、そんなふうに考えていきましょうや、という。

最近社会問題なんかで、日本の社会がデモが少なくて。
「もっと声を上げろ」「批判精神持て」とか。
そういうものは率先してやった世代の武田先生。
そういう方のためにこんなことをおっしゃっている。
「臨界質量の変化」ということで、社会を引っくり返すためにどんなことをやったらいいか。
これは日本の場合は1億人。
1億の(うちの)何人が「この社会がダメだ」と立ち上がればいいかというと、1億人で10万人。
10万人の人が固まってこの社会を否定する。
10万人集まれば社会はひっくり返る。
たった10万人でいい。
社会を引っくり返したい方は10万人を目指してください。
それから1億(人)の国家で10万人。
だから10億の国家があったとする。
隣にあるが。
これは100万人。
100万人でひっくり返る。
1億で10万人。
だから日本の場合は10万人集まらないということ。
ちなみに明治維新。
当時日本は人口は3千万人だったそうだ。
後に皇室が勤王の志士と認めた人は何人か?
少ない。
2千人。
勤王の志士は2千人しかいなかった。
その2千人が明治という国を作った。
だからぜひ、反対派の人も希望を捨てずに活き活きと。
素晴らしい日本がまたそれで来るかも知れない。
でも人間というものの結びつき「しがらみ」「絆」「思いやり」実は内実は同じで人間というものはそれほど進化しているものではないんだというところで、もう一度人間を捉えなおしてみませんか?という提案だった。


posted by ひと at 20:24| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月30日〜11月10日◆しがらみ、絆、思いやり(前編)

「しがらみ」「絆」「思いやり」
三つともだいたい同じもの。
しがらみが大嫌いで政党を作った女性がいらっしゃったが、しがらみがなくなると絆と思いやりも無くなるような。
一つの感情には必ず日の当たる部分と日の当たらない部分があるという。

きずなと思いやりが日本をダメにする 最新進化学が解き明かす「心と社会」



長谷川眞理子さんと山岸俊男さん(の対談集)。
長谷川さんは行動生態学、進化生物学の人。
山岸さんは社会心理学の研究者。
日本という社会のあり方が何やら変化していることはみなさんも感じてらっしゃるだろうと思う。
武田先生の考えを先に言うと、この日本という社会をダメだとは思わない。
絶望していない。

武田先生たち「団塊の世代」は、冷たい言い方をすると小さい頃から「なんてひどい国に生まれたんだ、お前たちは」という教育を受けてきた。
それは間違いのないこと。
小学校五年生の時の担任は「シズオカ先生」という女の先生だった。
講堂に集められて、全校生徒で一緒に小学校で『理想の国 北朝鮮 チョンリマ(千里馬)』という記録映画を見せられた。
(1964年8月末に封切りされた『チョンリマ(千里馬) 社会主義朝鮮の記録』のことを指していると思われる)
それは北朝鮮がいかに理想にあふれた素晴らしい国かというカラー映画で。
それに比べて日本はもう本当に・・・。
思春期になると政府の官僚の人が書いた本が大ヒットした。
ブラジル大使か何か。
「最低の国、日本」っていうようなタイトルの本だった。
もう日本は最悪最低の国だった。
ところが全体を振り返ると「日本、教わった時ほどひどい国か」というと・・・。
(水戸黄門の撮影で)京都に行っていた。
何で外国の人があんなに来ているのか?
(外国の人が多くて)京都駅はすごい。
一人一人に訊きたい。
だって「ひどい国」ですよ?
その国のいったい何を?
しかも修学旅行で一番行きたくない所、京都。
苔寺とか見て、高校生はわからない。
ところが今、入れない。
苔寺も石庭がある龍安寺も。
つまり、それぐらい外国の人が日本を学ぶために来ている。
七月のこと、もう四条なんて歩くと毎日夏祭りだった。
みなさん浴衣を着て。
全部外国の人。
本当に韓国の人は、こんなひどい国に何で来るんでしょうね?
中国の人。
こんなひどいことばっかりした国に、何で観光に来て下さるんでしょうね?
感謝のしようがありません。
それからヨーロッパ系の方。
全員浴衣。
七月の京都なんか、暑くて最低最悪。
四条の大通りが通れないぐらい満杯。
そしてみなさん、京都の夏の暑さをエンジョイしてらっしゃる。
楽しそうにウチワで扇いでニッコニコ笑いながら弓削の八坂に向かい、清水寺までの二年、三年坂を歩こうとなさっている。
その時に「日本っていうのは何だろうか?」と思ってしまう。

とある動物学者、とある社会学の方が「日本をダメにしたのは何か?」という激しい告発で「それは絆と思いやりではないか」ということをおっしゃっているという。
「日本、ダメだ」というところは、武田先生たちの青春期とよく似ているので、思わず(この本に)手が伸びた。
長谷川眞理子さんっていう方は女性。
女性で日本の男性社会を批判する方は多い。
だって今年(2017年)の日本の芸能界は男の浮気ばっかり。
吉本(興業)の芸人さんから若手の俳優さんから・・・。
政界は反対。
女性が騒ぎを起こした。
それからさっきも言ったように「しがらみをやめよう」というような方が党をおつくりになったり。
「ハゲぇぇぇぇぇぇぇぇ!」っていう忘れられない雄叫びを上げられた東大出の自民党の議員さんがいらっしゃった。
それから男性の浮気を疑いつつ腹いせに旦那さんの悪口を言い続けた初老の女優さんがいらっしゃった。
この日本、一体何がダメなのか?
今年はなぜ、かくも男と女で日本は激しく揺れたのか?
そんなことをちょこっと振り返りつつ。

2017年は女性がすごく吹き荒れた時代。
活躍している女性もいれば、お騒がせな女性もたくさんいた。
特に武田先生が2017年に記憶に残っているヤツでは旦那さんを殺す婆ちゃんがいた。
毒殺して何人も何人も殺して「よく覚えてませ〜ん」とかという。
青酸連続殺人:被告の認知症焦点に 京都地裁で31日審理 - 毎日新聞これのことかと思われる)

女性大臣でメガネをかけた稲田(朋美)さん。
もう記憶がだんだん遠のいていく、という。
まだ問題は解決していないのに。
とにかく(2017年)前半だけでも相当女性たちが事件を巻き起こしている。

かつて大好きな女性社会学者の三砂ちづるが『オニババ化する女』というのを書いた。

オニババ化する女たち 女性の身体性を取り戻す (光文社新書)



「女の人はオニババになるから」という。
でも逆に鬼を退治したがる「桃太郎化したババア」というのも、言葉はちょっと悪いがやっぱり増えてきた。
そんな時に日本の問題ということで、行動生態学、それから進化生物学で名を成す二人の方の対談集ということで『きずなと思いやりが日本をダメにする』。
長谷川眞理子さんと山岸俊男さん。
集英社から出ているこの一冊をまな板の上に置いておろしてみた。

指摘としてなかなか面白かったのは、今、もう社会問題になって政党が掲げる大きな問題になっているが「少子化」について。
この少子化を語り合う前に、この二人の学者さんが「人口問題というのは戦後すぐ、何であったか?」ということを語り合ってらっしゃる。

 たとえば一九五〇年代から六〇年代の日本では、今とは正反対に「どうやって人口抑制をしていくか」ということが至上命題になっていました。その当時は出生率が四以上もあったので、このままで行くと人口爆発を起こしてしまう。とにかく出生率を下げないといけませんでした。
 そこで当時の官僚たちが考えついたのは二つ。
 一つは移民を積極的に奨励すること。私の子ども時代の友だちにも家族みんなでブラジルに渡っていった人がいましたが、当時は移民する人たちに対して優遇措置をしたんですね。
(38頁)

とにかく人口が増えるといけないんで、もう喰い物が無くなるんで、とにかく「出て行け」と。
政府というのは明け透けな生き物。

長谷川 この移民のほかに行われたのが2DKの普及です。
山 岸 いわゆる団地スタイルですね。
長谷川 当時の2DKは今よりもずっと面積も小さかったのですが、長屋や一軒家ではなく、こうした集合住宅に住み、冷蔵庫や洗濯機、掃除機などの電化製品を備えた暮らしを送るのが「文化的」なのだと宣伝し、それが大成功を収めました。
 その結果、出生率はあっという間に四から二へと下がったんです。
山 岸 なるほど団地サイズの家ではたくさんの子どもを育てられませんから、どうしたって子どもの数は減りますよね。
(39頁)

日本国民の素晴らしさだが、政府のいう事を聞く。
そして人口抑制策は短期で成功した。

世界でもこれほど成功した人口抑制策はないと思いますね。(39頁)

でも惰性がついているので、人口はいっぺんには減らないから。
国からすればダラダラ生きるヤツがいるから。
70年代になると1億人を突破してしまう。
でもここからわずか20年で出生率は2から1へ減る。
やっと戦後すぐの政府の言うことが完成した時代が今。
でも政府は今「人口を増やせ」と今度は言い出した。
二千年代に入って日本は人口が減りつつある。
もう政府も必死。
「保育園も作りますし、何も作りますし」「教育費タダ」「消費税、そっちの方に回しますから」とかと言っているがうまくいかない。
子どもを増やすということに関して、うまくいかない。
なぜその人口増加はうまくいかないのだろう?

山 岸 たしかに少子化問題については「心でっかち」な議論が横行していますね。「女性が働きたがるものだから子どもが生まれないんだ」とか「家族の素晴らしさを若者に教えないといけない」といった話ばかり。要するにお説教でしかない。お説教では社会問題は解決できないよ。(14頁)

人は何によって変わるか?
環境。
「寒くなるんじゃねぇかなぁ」と思うと人間は着込む。
「暑くなるなぁ」と思うと脱ぐ。
政治家の方がいくら「鍛えましょう、体を!」とか「国民の暮らし全体のために室内の温度は28℃で!」。
うるさい!
「お上」というのは本当に「心がけ」みたいなことをスローガンにしたがる。
「しがらみ」がなければ政治ではない。
武田先生はそれだけがわからない。
大変申し訳ないが、一番正しい政治的スローガンは武田先生たちが子供の頃にメガネをかけたオッサンで池田勇人という大臣がいた。
この人がダミ声で「所得倍増」と言った。
みんな日本人が「嘘つけ!」「所得が倍増するか!」と怒った。
でも倍増した。
その生々しい事実の語り口が政治家であって「心がけを説く」ということは違う分野の人がやった方がいいのではないか?
「ノーベル賞学者を何人作ろう」とか「うるせえ!」。
そんなことは別の人が考えるべきことであって。
「理想論ばっかり言われてもなぁ」「きれいごとを言われても」と思う水谷譲。

このお二人のこの対談が面白いのは、人間の捉え方が生物進化学に則っている。
この二人の学者さんがおっしゃっているのは「人間を変えるのは環境である」と。
「脳が考える力持って人間が進化したのではない」という。
人間の脳はさして変わらずに「環境に適応したい」という、そういう心がけが脳を作っていったわけだ、という。
この生物進化学の方が言うのは「心は森を出てサバンナで二本足で立ったあのサルの頃から、何一つ進化してない」。
そんなに進化しているワケではない。

なぜ少子化は簡単に解決しないのか?
政府のみんなは叫んでいるのに。
それを進化学の人は「当然ではないか?」
「環境に適応できそうにないから」そう女性が考えるから子供を産まないのである。
「その通り!」と思う水谷譲。
保育園はないし「仕事どうするんだ」と思うし、環境が整備されていないから「もう一点豪華主義で一人っ子にしよう」と思っている人は非常に多い。
でも別の環境もある。
保育園も無ければ幼稚園も無い。
何もなくても女性たちは子供を産んだ。
それは「働き手」としての子供が欲しかった。
今、働き手としての子供が必要ないから。
でもこの間、子供を十人ぐらい産んだ中年の女性のドキュメンタリーを見たが本当にうらやましい。
もう一回繰り返すが、砧公園で見かけた風景で、男の子を三人産んだママさんが三人を並べてノックバットで鍛えている。
「この人は産んだもの並べて、今、鍛えてるんだ」と思うと「いいよなあ〜。もう、産みたい子供!」。
この回で話されている)
少子化というのは何かというと「子供をたくさん産めば産むほど、これからやってくる社会に私は適応できなくなるのではないか?」「子供共々適応できなくなるのではないか?」という女性たちの予測の元に国が何と言おうとその思い込みがある限り、子供は絶対に増えない。
非難するつもりはないが、「国」というのは「人間を操ろう」「国民を操ろうとする」という。
何者なのでありましょう。
次は逆に国というものを考えてみる。
かつて国なんてものはなかった。
そもそも人間にあったのは「集団」「群れ」。
その群れと群れがくっついて、だんだん巨大化して群れが守れなくなった。
国家を発明したのは誰か?
これはつい最近知ったがナポレオンらしい。
何でかというと昔は兵隊さんはお金で雇わなきゃダメだった。
お金を払って雇う。
お金をもらえなくなるともう戦わない。
すぐ逃げちゃう。
そこでナポレオンという人が「国民皆兵」と言って国民そのものを兵隊さんにした。
そしたら強くなっちゃったというところで「国民が戦うんだ」「国民が兵隊なんだ」ということで、それをまとめる形として国家というものができたのだが、もともと国家なんていう単位が人間に理解できるはずがない。
せいぜいできて「集団」。

イギリスの人類学者ロビン・ダンバーは「言葉とはサルの毛づくろい(グルーミング)と同じなんだ」と言っています。つまり、集団生活をしていると個体間に軋轢が生まれるわけだけれども、サルの場合はそうした緊張を緩和するためにお互いに毛づくろいをしている。−中略−そこで毛づくろいの代わりに発達させたのが言葉だというわけですね。ダンバーの考えでは、そもそも言葉というのは他人の噂話、ゴシップ・トークをするために発達したものではないのか、つまり、種々雑多なメンバーたちに関する情報交換をするのに言葉が発達したんだろうというのです。(64頁)

ゴシップトークは大事。
「あの人、浮気したらしいよ」とか。
「ホテルからスタンプもらって、貯めてまた使おうとしてたらしいのよ」とか。
そういうことで笑ったりなんか。
だからゴシップトークが一番得意なのはやっぱり女性。
このゴシップトークで一番大事なテーマは何かというと安定した一夫一婦制の維持「亭主は浮気をしない」ということを前提に、浮気した女房を嘲笑うという話が好き。
それがサルの特性。
そういう話はワクワクするという水谷譲。
ワクワクというのは快感なワケで、快感を知っているというのは「野生」。
野生は何に支えれられているかというとサルの部分。
ゴシップトークで関係を強化し、一夫一婦制を守るというサルの本能が、まだこの平成の御代2017年の世にもある。
少子化の何が問題かと言うと「子供を夫婦で育てている」という勘違いが子供を産む自信を無くしている。

長谷川 ヒトはそこで「共同で子どもを育てる」ことにした。母親の時間とエネルギーだけではとても無理なので、配偶者、家族、さらには自分の属している所属メンバーからもサポートを得て、繁殖するという戦略を採ったというわけです。(23頁)

その基本をなくしたから、戦後すぐの社会のように子供を産めなくなっている。
サルが安心して子供を産むのは群れにいるから。
ご近所で夫婦も含めて36人いると人間の集団は安定する。
何でかというと36人いると、夜寝ている時も誰か起きている。
その最低の数が36人。
「子供が泣いたら世話をする」という単位が36人。
だから子供が産みたければこの36人の隣近所が作れそうなところに、そこに仕事があることが大事。
これはすごく説得力がある。
そして人間が「私は今、社会の中で生きている」と思う人数。
150人。
150人いればいい。
つまり「集団」というのを150人の単位で考えた方がいい。
150人が人間にとって「社会」。
こうやって考えていくと人間の本性「絆」と「思いやり」と「しがらみ」。
このそれぞれの何かがわかってくる。
すなわち「絆」「思いやり」これが可能な単位が36人。
最大で150人。
それ以上は「しがらみ」になってしまう。

山 岸 ダンバーは霊長類のデータを元に、ヒトの新皮質は本来、どの程度のサイズの集団に対応するために発達したのかを推計したところ、その数はおよそ一五〇人ではないかという結論になった。
長谷川 それがダンバー数というわけですね。
(65頁)

サルの群れがまさしくこれ。
ミツバチもそう。
増えすぎると別のところで巣を、という。
「数と集団の大きさ」というのはやっぱり決まっている。
1億2千万人。
どんどん今、減りつつあるが。
日本にふさわしいダンバー(数)かどうかというのは、ちょっと考えてみなければいけないと思う。
でも武田先生たち「団塊の世代」がいなくなったら日本は広い。
水谷譲が老婆になった頃、銀座と品川の間に森か何かできているかも知れない。

人間の集団の大きさで一番最適なのが150人前後。
会社でも150人ぐらいだと、だいたいの人の名前と顔は一致するという水谷譲。
ダンバーと人間。
そしてこのダンバー(数)で人間の集団をくくっておくと裏切り者がちゃんと探知できる。
ジャッジしやすい数。

そしてもう一つ。
「人間になった」という理由。
万能ナイフのように知恵というか能力を「折り畳み式にできた」という。
「環境や状況の変化に応じて適応する技術を引っ張り出せた」という。

今、また新しい本を読んでいる武田先生。
ジイサンにゆっくり入ってゆくが、やっぱりしがみつくように高齢者になっても「いいことはないかなぁ」と探している。
だから人間の能力で、視力はダメ、聴力も落ちてゆく。
瞬発力みたいなものが全部落ちていく。
その中で落ちないものがある。
それが「指先の感覚」と「皮膚感覚」。
皮膚感覚というのは落ちない。
番組を見ていたらアケビのツルみたいなので網カゴを作る福島の職人のジイサンの指元を映している。
速い速い!
いわゆる「匠」と呼ばれる人たちの持っている指先というのは「年季」。
それと口の周りの感覚が落ちない。
歳をとってきてお酒を飲む時にお酒と口が合わなくてお酒がこぼれることがあるという水谷譲。
武田先生の先輩が情けない声で「武田、俺はもうダメかもしれん」。
「どうしました?」
「いや〜、昨日な、メガネしたまま目薬さしてな」
そういうのは衰えてゆく。
口の周りの感覚というのは多分「味」のこととかではないかと思う。
さっき言った口からこぼした「酒」。
若いときより美味い。
年々美味しくなってきていると思う水谷譲。
だから指先の感覚、皮膚感覚、指先の感覚と口の感覚。
「黄門様」で老人役を演っていた武田先生。
夏だったので暑い。
五時には解放してくれるので六時半に撮影所に入って。
ちょんまげを付けなければいけないからそれぐらい早い。
だけど老公だから早目に上げてくれる。
五時には。
途中でスーパーでタクシーを停めて豆腐を買ってキンキンに冷えたビールを買ってシャワーを浴びて鰹節をかけて冷奴を喰いながらビールを飲む。
一人で騒いでいた。
ビールってあんなに美味いんだね?
「カーッ!」なんか言いながら。
フロントから二回電話があった。
「どうなさいました?」とかって。
倒れたんじゃないかって。
本当に美味い。
奥様には言えないが、雨が降って寒い日があったから一回だけその豆腐をアジフライにした。
新聞紙を丸めて鍋の中に網カゴがなかったからその上にアジのフライを置いて銀紙で包んでお湯で温めて日本酒で一杯やった。
うめぇのなんの。
その時「カーッ!」と叫んでまたフロントから電話。
「お倒れになったんじゃないか」と。

posted by ひと at 20:14| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月18日

2017年10月23〜27日◆できない脳

できない脳ほど自信過剰



できる脳で未来を見ると気が滅入る。
だったら「できない脳」で未来を見たら案外希望が見えるんじゃないかと思った武田先生。
それでこの本をさっそく読み下し、三枚におろした。
この本を読んでいたら、次々新しい発想が湧いてくる。
AIが、人工知能がこれからベストセラーを書くかも知れない。
AKBの新曲なんてAIがやるかも知れない。
もう将棋をやったって碁をやったって負けないんだから。
そういう未来が待っているかも知れない。
でも反対に考えるとAIは「売れない歌」は作れない。
「売れない小説」は書けない。
そうやって考えると何か少し未来が明るく見えてくる。
失敗作を作れない才能が成功作を作り続けることができるのか?
果たしてそれを「成功」と呼んでいいのか?
AIと人間の脳。
しかも「できない脳」について考えていきたいというふうに思う。

実は、脳にとって「学習が速くて記憶が正確」なことは、必ずしも好都合ではありません。(45頁)

脳にとって何がいいか?
「学習が遅くて記憶が不正確なこと」
そっちの方がよい。
これを先週のあの話と重ねてみましょう。

松居一代さんは船越(英一郎)さんのお父さん(船越英二)とあまりうまくいっていなかった。
船越さんのお父さんは二人が結婚すると非常に不幸なものを感じられた。
それがビッタリ当たった。
なぜ当たったか?
それは学習が遅くて記憶が曖昧な船越さんのお父さんの脳が、その結論を導いた。
これはしかし面白い。
つまり、「学習が遅くて記憶が曖昧」というその船越さんのお父さんの目には、ぼんやりと松居さんの○十年後が見えてきた。
そうすると松居さんの美しさの経年変化、歳を経るごとの変化、そういうものが滲んできた。
美しい人を見ると「わぁ!美しい」と思う。
最近、ジジイになってちょっと変わってきた武田先生。
だからジイサンは若い子から好かれないのだろう。
その人の40〜50年後がバッと浮かぶ時がある。
ある程度わかる。
あえて名前は言わないが、今、トップモデルの人。
(その頃には)とっくに武田先生は死んでいるので許していただけると思うが、間違いなくブッサイクなババアになる。
学習が遅くて記憶が曖昧だからわかる。
「美しい」と美しいことを学習すると記憶が正確になる。
綺麗な人の顔はバッと思い浮かぶ。
目元とか眉とか目に浮かぶ。
「綺麗だなぁ」と思う。
それは「ギリギリの何か」で守られている美しさ。
眉毛が1cm下に下がっただけで、ものすごくブッサイクに見える。
ちょっと太っただけで、ものすごく不細工に見える人を、もう何人も見てきた。
美女は所詮バランスだから、ほんのちょっとでもバランスが崩れると、本当に倍ぐらいみっともなく見える。
「それだったら最初からみっともない方がよっぽどよかった」というものだ。
目が慣れているから。
その美しさに何か欠点がある人の顔はそんなに「経年変化」年ごとの変化に、変化しない。
整いすぎている人の変化はものすごく大変化に見える。
整いすぎているから変化が目立ってしまう。
「整う」というのは何かというと「バランス」。
そういうのが伝わってくる。
やっぱり若い頃、パンパンに張った乳房というのがもうわかる武田先生。
女の人でおっぱいがデカい人で、やっぱりアレは見せたくなる。
(胸が)上の方を向いていたら。
でも向いていた分は絶対下がる。
垂れ下がったら無残。
母の乳房を見たことがあるが、若いときは母の乳房は本当に美しかったが、母が湯上りに浴衣を半分ひっかけて出てきて、武田先生の前に座った時、ボルネオのオランウータン。
本当に「経年変化」年ごとの変化、加齢変貌。
これは本当に・・・。

「できない脳」
これにどう未来が見えるか?

(スマートフォンのSiriは)道具として決して不満じゃないし、値段の分は十分活躍している。
「なんでも質問に答えてくれる」という。
最初「コイツ天才じゃないか?」と思った。
伊豆半島に旅した時に「近くの蕎麦屋」と訊くと、次々と店を挙げた、という。
でも娘がいじるのが好きで「パパ、英語の練習してるから、私フランス語にしてあるんだけど、パパ英語にしたら?」というので英語にした。
もう本当にこれはバカ。
察しろよ、オマエは。
一生懸命、日本人が英語でオマエに話しかけてんだから。
「京」の都の方へ撮影に行っていた。
天気が気になる。
だから朝起きて訊く。
丹後当たりまで撮影に行くものだから。
「Today's weather?」と訊く。
「Today's weather in Kyoto?」と訊く。
すると「weather(ウェザー)」を「wear(ウェア)」と聞き間違える。
発音が悪い。
「ウェザー?」と聞くと、ウェア関係ばっかり話して。
そのうちにウェザーと言っているのを「Leather(レザー)」と「革」みたいな。
「どんな革が必要ですか?」と訊いてくる。
オマエはバカか?本当に!
「オマエはSiri(尻)。私は肛門(水戸黄門)」と言いながら。
「What's ?」と訊いて返してきた。
頭にきた武田先生。
「ワッツ?」じゃねぇよオメェ。
なぜこの天才と言われるAI、これほどバカなのか?
「できない脳」の武田先生から言わせるとスマートフォンというのばバカ。
本当に察しろよ!オマエ。
一生懸命撮影来て訊いてるんだから、天気を。
本当に。
はっきり言ってコヤツは大事な教訓を忘れている。
アマチュア。
プロとは一体何か?
その道のあらゆる失敗を知っている者のことをプロと言う。
こいつ(Siri)は失敗を知らないからウェザーの発音一つをウェアとかレザーに間違えちゃう。
人間は言葉というものを作った。
なぜ言葉があるか?
言葉とは何かを考えましょう。
言葉とは複雑な組み合わせ。
使用することによってますます複雑にしたもの。
絶えず他人と結びつこうとする意欲が言葉。

 人からコミュニケーションを奪ったらどうなるでしょうか。そんな大胆な実験を行った人がいます。医薬分業を推進したことでも有名な神聖ローマ皇帝フリードリッヒ2世です。
 皇帝は身寄りのない赤ちゃんを集め、侍女に育てさせました。彼の趣味は「言語の起源」でした。人は言葉を習わなくても話すようになるでしょうか。侍女たちは母乳やオムツや入浴などの最低限の世話は許されましたが、赤ちゃんに話しかけることは禁じられました。結果は意外なものでした。2歳になる前、つまり言葉をきちんと覚える前に、全員が死んでしまったのです。
(102頁)

(番組では「34人が死亡」と言っているが、本によると死んだのは全員。「34人」というのは以下のルネ・スピッツの話と混同したものと思われる)

精神科医のルネ・スピッツは孤児院で蝶さを行いました。−中略−
 孤児院には多くの子が集まりましたから、慢性的な人手不足に陥っていました。介護者たちは乳幼児一人ひとりと十分なコミュニケーションを図る余裕はありませんでした。調査の結果、91人中34人が2歳までに亡くなってしまいました。
(103頁)

会話しないと幼児というのは死んでしまう。
AIが信じられないのは、人と会話して会話を覚えていないから。
発音がゆっくり積み上がっていないから、会話における失敗を学んでいないから、正確な発音の一種類しか知らない。
いかにも頭のいいヤツの最大の欠点。
「頭の悪いヤツの気持ちがわからない」という。
そこが頭のいいヤツの頭の悪さ。
AIはその結晶。

バルザックの言葉を引用します。
「孤独はいいものだという事を認めざるを得ない。けれども、孤独はいいものだと話し合う事のできる相手を持つことも喜びである」
(105頁)

これが人間。
「オマエはSiri、私は黄門」
本当に頭にきた。
「何か御用ですか?May I help you ?」と訊いてくるのだが、何を命じても本当に聞き取れないヤツ。
人間は絶えず他者社との関係を、特に「できない脳」であればあるほど他社との関係を結ぶという。
そのことによって学習していく。
AIはすごいかも知れないが、コイツは「ひとり学習」のヤツ。
他人と一緒に勉強をしたことがない。

過去の心理実験から「集団で行ったことは、一人で行ったことよりも記憶に留まりやすい」ことが広く知られています。(110頁)

一人でチョコレートを食べる場合と、見知らぬ人と二人で食べる場合を比較したのです。二人の場合でも会話などのインタラクションは一切ありません。ところがアンケートの結果、「二人で食べたほうが美味しい」と判定されました。(111頁)

人間の「ヤル気スイッチ」は人と人との間にある。
食事もそう。
何で長蛇の列に人は並びたがるか?
あれは、たくさんの人と食べた方が美味しい。
一人で食べると美味いものだって美味くなくなる。
だから仕切りを横に置くのはやめましょう。
美味しくなくなる。
他者のラーメンをすする音を聞きながら・・・。

 ヤル気(モチベーション)は「側坐核」という脳部位から生まれます。つまり、側坐核の活動を高めてやれば、ヤル気が出るわけです。(128頁)

バイオフィードバック活動が強くなった。
それでヤル気スイッチがオンになるという。
スイッチは自分で押すしかないというのが「ヤル気スイッチ」ということ。
「あ、俺意外と楽しそうにやってるじゃん!」というのが「ヤル気スイッチ」。
やる気の維持はモチベーション「内部の動機」。
これをいかに維持できるか。
よく人々はご褒美みたいなのをぶら下げておくとやる気が湧くとか言うが、それは逆にご褒美等々はそんなにいい「ヤル気スイッチ」の入れ方ではない。

理由はともあれ、「単に好きだからやっているだけ」という人が最終的によい成果をあげていることは確かです。(143〜144頁)

だから、その「好き」を見つけてやるという。
「この仕事、面白いでしょ?」と、その子が好きになるという理由が作業に一つ見つかるとむやみに面白くなるという。
これはやっぱりそう思う。
台本を開いて「ここをこうすれば、面白くなるんじゃないか?」。
スタッフに相談すると「武田さん、いつもやる気ありますね」と言う。
それは、好きでやっている。
自分が好きでやっていることを褒めてもらったり「いいですね」と乗ってもらうとますますやる気になる。
『(今朝の)三枚おろし』もそう。
本当にわずかな方だが「大変面白い」と反応をいただくと、やっぱりヤル気スイッチが入る。

脳はAIと違い、物事に飽きることがある。
AI、人工知能は飽きない。
しかし飽きるというのは脳の特徴。
だから料理に飽きてもいいし、愛に飽きてもいい。
朝から何だが、セックスに飽きてもいい。
「飽きる」というのは脳にしかできない能力。
ではなぜ飽きるのか?
大脳皮質にある能力で、飽きるというのは視点変換「見方を変えてみた〜いなぁ〜」と思った時に飽きる。
だから「飽きないと変」。

図1.png

太いT字形のパイプが描かれています。しかし、これを「トランペットのピストンです」と説明されたらいかがでしょう。「ああ、なるほど」と思いませんか?この感覚を英語で「アハ体験」と言います。(146頁)

図2.png

野球のホームベースに置かれたボールです。これを「王貞治さんの似顔絵」だと説明されると、なんとなく愉快さを感じます。こちらは「アハハ体験」です。(146〜147頁)

大脳というのは飽きる。
飽きた瞬間に視点変換「別の角度から見てみよう」ということになる。
そうすると別の意味が与えられる。
これは「できない脳」がすぐに飽きてやること。
だから飽きていい。

何かのラジオで言っていたらしき話。
「結婚して幸せだったのは三か月だけ。その後ず〜っと不幸です」という男性のお便りがあって、その司会者の方がボソッと「あなた、結婚して幸せになるつもりだったの?」という。
結婚というのは一体何かというと「不幸になった時のための用心の制度」が結婚。
そうやって考えると・・・。
奥様とジジイ、ババアになってきて喧嘩ばかりしている武田先生。
でもやっぱり最近「だからいいんだ」と思うようになった。
ジジイとババアになって初めて「愛の意味」が分かるようになって。
若い頃は可愛かったから「いい女だなぁ」と思ったし、連れて歩くのにも「見栄えがいい」とかというのも男と女にはある。
今、本当にシワくちゃのババアになったのだが「なんでこんな女と・・・」。
そうすると奥様が「だから愛なんじゃないの!」と言われると「あーこれは愛だ」と思う。
愛する理由なんか何もないのに、まだ一緒に飯を喰っている。
「愛」としか呼びようがない。
たっぷり飽きたから。
それで向こうが痩せてしまって転びそうになったりして、人(武田先生)のことを杖みたいにガシッと掴んできて。
「おっと!」「なんだ!しっかり歩け!」とか言って。
歩きながら「『人』という字になったね!」とか何か言いながら。
これはやっぱり本当にジイサンとバアサンが気づいた「愛」なんじゃないか?
理由がある時は誰だって愛せる。
ツヤツヤして可愛かったらなんでも好きになっちゃう。
「こんなになってんのに、まだ一緒にいる」というところから初めて「愛」という難事業が始まるのではないか?

「アハ体験」は視点変換。
この「アハぁ」とうなずくという瞬間。
これは側頭頭頂接合部(TPJ)という所がバッと赤く発火する。

TPJを人工的に電気刺激すると、幽体離脱が生じ、自分を体外から眺めることができます。(147頁)

視点変換で自分を天井の上から眺めたりなんかするという。
そういう能力に通じるので「アハ体験」というのは本当にバカにできない能力。
サッカー選手はバーッと走っている。
あれはドローンで飛ばしている。
それが優秀な選手。
ドローンを飛ばせる。
だから側頭頭頂接合部が真っ赤に燃えるんだろう。
そうすると自分の脳からドローンが出発して自分が左サイドにバーッと駆け上がって右の目の端っこの方に上がってくるヤツを見つける。
そうすると左サイドから「くれ、くれ、くれ!」と全然別の方角に向かって叫んで、そこに上がってくるボールを待って蹴り込むとかヘディングをやるという。
この側頭頭頂接合部の赤い発火というのはスポーツ選手には必要で、だから俯瞰している視点を別個に持っている。
卓球の選手もそうではないか?
もう一個目がないと、あんなちっちゃな玉は打てない。
バドミントンとか。
だから側頭頭頂接合部が発達している人はスポーツ界に多いのではないか?
一番大事なことは、ここの視点変換、あるいは側頭頭頂接合部の「自分をドローンで見る目」というのは脳の報酬系と結びついているので、自分を褒めることの多い人じゃないと手にできない。
「俺やるじゃん!」と叫ぶ人じゃないとここが。
だからサッカー選手は叫び声を上げる。
あれはやっぱり自分を褒めてあげる「別の声」なんじゃないか?
(福原)愛ちゃんが「サー!」と言うのと張本(智和)くんが「ハイサイ!」か何か叫ぶ。
(調べてみたが「チョレイ」だそうだ)
あの叫び声というのは別の人間が彼に送っている声援、もしくは報酬「よくやった」という雄叫びではないか。
この「自分をドローンで見る目」という、そういう人は国会に少ないような気がする。
「W不倫」なんか、シラを切られていた。
シラを切っているとしか思えないが。
あの人は、よく同じ口で他人の事はボロクソ言える。
だからやっぱりドローンを一切持ってらっしゃらない。
あの方は優秀な方なのだろう。
東大を出てらっしゃる方。
あの「ハゲぇぇぇぇぇ〜!」と叫んだ方も。
あの二人は同期。
でも先週紹介したAIの本に書いてあるが、AIが活躍する社会は東大出の人が必要のない世の中がそこまで来ている。
もう東大出の人は必要ない。
AIがあるから東大出なんてもういらない。
それよりも違う能力を持った人、つまりAIを上手に楽しくユーモアあふれる使い方のできる、そういう能力を持った人の方が、今、日本では、いや、世界で必要になってきている。
こんなふうに考えると「できない脳」の未来というのが明るく見えてくる。

twitter、ブログ等々、SNSで人は言葉と文字で凄まじい数の人とつながる世の中が出現した。
そういう「電網ネット」の上で、人はネットの上に足をかけて今、クモのように生きている。
人みなもう「スパイダーマン」のように。
しかしこの「ネットの上に住む」ということに関して、生きている人間にとってある矛盾が発生するという、そういう研究が進んでいる。

 まず、杭州范師範大学のリュウ博士らの研究から紹介しましょう。博士らはコンピュータ内の仮想世界に住む大勢の「人」を用意しました。実世界では社会構成員の全員が互いを知っているわけではありません。そこで仮想世界の「人」を部分的につなげてみました。−中略−
 この「仮想社会ネットワーク」内で情報がどのように伝わるかを調べたところ、いかなるネットワーク構造を試しても、情報が行き渡りにくい「情報盲」の地域(もしくは人)が、必ずどこかに生じることがわかりました。つまり、情報が行き渡らないのは、意地悪の結果でなく、人と人とのつながりの綾で生じる自然な現象だというわけです。
(168〜169頁)

これを中国の教育大学の先生が発表したというのが面白い。
13億(人)。
そこに中国共産党という政府があって、情報を広げたり締めたりしている。
必ず「ある少数民族をいじめる」という構造が自動的にできてしまうんだ、と。
これはアメリカでも同じことが。
日本でも同じことが。
もう宿命的にいじめるグループを作ってしまう。
だからイジメというのをそこから考えた方がいいのではないか。
イジメは深いものを持っている。
学校制度をいじったりするが、これだけ言って、これだけやめないというのは。
その考え方からも攻めていかないと解決しないということ。
理想ばっかり言って。
「心をいたわれ」とか。
そういう情緒面で絶対にうまくいかないという。

 次は蔚山科学技術大学校のキム博士らの論文です。こちらは仲間はずれの発生原理に迫った研究です。−中略−
 キム博士らが設定した仮想世界では、人々は自分と好みが似ている集団に帰属したいという欲求に従って行動するようになっています。さらに人間社会を模倣するように、似たもの同士が多く集まれば集まるほど、その集団の魅力がますます増すようにも設定しました。実装したルールはこれだけです。
 シミュレーションを開始すると、人々はおのおのに小グループを作りはじめ、しだいに集団サイズが大きくなってゆきました。すると、どのグループにも属さない少数派が生まれ、社会全体から孤立してしまうことがわかりました。
−中略−自分の好みをはっきりと示さず、メンバー同士が仲良くなるために利他的に奔走する「良い人」が集団内にいると、その集団はより強固になり、大きく成長しますが、意外なことに、その当人は仲間はずれの標的となり、集団から排斥されやすかったのです。
 注意していただきたい点は、シミュレーションには、仲間はずれを作ろうという「悪意」が一切装備されていないことです。自分と似た人と一緒に過ごしたいという各人の「温かい心」が、社会の中で相互作用するだけで、その裏では、仲間はずれが生まれてしまうのです。
(170頁)

(韓国は)自殺者が最も多い国。
AIを使うと未来予測が全部暗くなる。
だから電脳ネットというのが人間をくまなく幸せにすると思ったら大間違いで、「矛盾を作る」ということを「できない脳」としては、しっかり覚えておいた方がいい。
池谷先生もはっきり「○十年後に、この世界はすべてAIが支配する」とおっしゃっている。
勝てないそうだ。
(という記述は本の中には見つからず)
AIによる未来予測は何でこう暗くなるのか?
「できない脳」のまま元気いっぱい生きてきたい。

posted by ひと at 11:16| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月04日

2018年4月9〜20日◆甦れ日本(後編)

これの続きです。

この方は「アジアから学ぼう」と。
シンガポールや中国にだって学ぶところがあるんだから「しっかり勉強しましょうや」と。
それから韓国、いや、北朝鮮にだって学びましょう、と。
学ぶところがあるのだから。
そういうところに学びつつ、とにかく手を結ぶ隣国を一つに絞り込みましょう、と。
「仲良くする国は一つありゃいいじゃないですか」と。
「インドには日本の未来がある」と。
これは武田先生も何年か前から思っていた。
あと、仲良くするとよさそうなのはベトナム。
気質が合う。
それから旅先で出くわすタイの人というのは機嫌がよくていい。
そんなふうにして仲良くする国ときちんと手を結んで、きちんと商売をやれば、日本はますますと。

 たとえば、今のインドは江戸時代の日本に一番似ています。士農工商と同じようなカースト制度があって、そのカーストが自由経済とうまく折り合いをつけている特殊な事例です。インド型社会は精神性という点で、日本に一番適合しているかもしれません。(58頁)

勝海舟が「朝鮮にも清朝にも必ず外国が攻めてきたら西郷隆盛のような者が現われる」と予言した。
でも何年経っても現れない。
そのことを突っ込まれた晩年の勝海舟は小さい声で「おっかしいなー」と言ったらしい。
でもインドにはいるかも知れない。
西郷隆盛が、あるいは坂本龍馬が。
なぜならば「カーストがあるからだ」と。
面白い発想。
その坂本龍馬や、今やっている『西郷どん』の西郷隆盛、吉田松陰らはどこの階層から出てきた?
これはもちろん「士農工商」の「士」からも出てきているが、ほとんど「農」に近い人たち。
非常に身分の低いお侍さんたち。
そういう人たちがものすごく立派な志を持つことができるんだ。

「農」の中心は百姓です。百姓とは、単なる農民ではありません。言葉のとおり、百姓とは生業が100個ある人たちです。いわば、自営業者、マルチクリエーターです。農業もする人もいれば、木工をする人もいる。文章を書く人もいれば、祭りを取り仕切る人もいる。一般的に、医術も百姓の生業のひとつであって、医者も農に属していました。要は、100ぐらいの職のバリエーションをポートフォリオマネジメントしてきたのです。(76頁)

松前船。
あれは全部、土地を持たない次男坊が船に乗っかって「北前船を操った」というような。
だから士農工商の「農」というのは百姓。
様々な「姓」を持つ人々。
この様々な姓の中から大村益次郎(村田蔵六)とか関寛斎。
こういう医学を志す人も生まれてきている。
日本はこの「百姓の力で近代化を成し遂げた」という。

士農工商の中で、「商」は一番序列が低いというのは正しいのです。(77頁)

浮世の商業というものに関しては、あまり尊敬は払わなかった。
なぜならば「商は価値を作れる職業ではない」。
価値を回転させることはできるが「物を作る」という実体経済には参加していない、と。

AIが普及すると、「商」のホワイトカラーの効率化がどんどん進みます。(77頁)

眠らずに世界中から情報を集めて、その中で一番の利得はどこだというのは。
人間の直観や知識よりもAIを鍛えた方が、たちまち。
AIというのはかくのごとくして人々からいわゆる「職業」を奪っていくだろうけど「百姓」のランク、クラスにはAIが立ち入れない仕事が宝のごとく渦巻いている、という。

「20世紀は二人のアメリカ人によってつくられた時代です」という。
だからまだアメリカは威張っている。
その二人のアメリカ人とは誰か?
もう言われれば頷く。
20世紀をつくったアメリカ人。
エジソンとフォード。

 20世紀は、エジソンが電気製品をつくって売り、フォードが自動車を大衆化しました。これこそが、僕は一番大きな社会変化だと思っています。この2人が20世紀を決定づけたと思っています。(102頁)

20世紀とは何かというと「電気製品と自動車の時代」。
この二つを大量生産を可能にし、アメリカは100年間、世界を支配してきた。
この大量生産のために一つの課題に対応する商品がベストセラー。
例えば車。
走る。
それだけ。
他には何にも使えない。
一つの課題に対応する商品がベストセラー、ヒット商品になり時代に君臨した、と。
だから「車欲しい、車欲しい、車欲しい」ということ。
グローバリズムとは「絶えずマイノリティを差別した」ということ。
だから世界基準というのは「少数をイジメてイジメてイジメ抜く」という正体を持っている。
グローバリズムとは何かというと「平均以外は排除していく」という。
特に主導するアメリカングローバリズムは数少ないデザイナーが数少ない生産品のデザインを決定し、大量均一商品を世界にあふれさせることに成功した。
ほんの数人の人が考えたデザイン。
少ない人たちが握って、作る時はブワーッと作らせて最大のお客に掴ませるという。
これがアメリカングローバリズム。
グローバリズムの言語。
これが英米語。
英語。
ところがあれだけ「英語、英語」「バイリンガル、バイリンガル」と騒いでいたが、これはものすごい勢いで今、自動翻訳機が・・・。
「別に、もう勉強しなくていいんじゃねぇか?」という。
間違いないことは、もう日常会話に関して時間がどんどん短くなってきている。
だからもう間もなく、同時通訳ぐらいの感じに入れるのではないか?
そうすると申し訳ないが英語教育というのが、これは「もうAIに任しといた方がいいんじゃないか」と。
それよりもっと重大なことは日本語の学びを深めて日本語でいくつもの言い回しが出来るような、そんな日本語を仕込むことの方がAIを完璧に使いこなせるのではないか?と。

 たとえばLINE翻訳だと、「今日、一緒にご飯に行きませんか?」の場合、「ご飯」が「rice」と訳されるから誤訳になってしまう。しかし、「今日、一緒に夕飯に行きませんか?」と直せば、ちゃんと翻訳してくれます。このように繊細な言葉選びができれば、スムーズに自動翻訳できます。(113頁)

 僕は、英語は字幕がつけば、ネイティブと同じ速度で話すことができます。だから、聞き取れない単語があっても、スカイプの画面を開いておいて、リアルタイムで字幕がついていれば、それで意味を理解できます。(117頁)

マイクロソフトというのは急成長しているらしい。
もう間違いなく2020年の東京オリンピックは人間ではなくて翻訳機が、もういっぺんに進化するんじゃないか、と。
東京オリンピックを境にして、全く「英語教育何だったの?」という。
そしてもう一つ、この若い人たちの持っている「未来を解くカギ」。

サービスを伴わない車の職業運転手は、昔のエレベーターガールのような存在に近くなるでしょう。(118頁)

「え?タクシー、人が乗ってたんですか?」と言われる時代がもう来るのではないか?

 自動運転と同じく、未来に大きなインパクトをもたらすのが、次世代通信システムの5G(第5世代移動通信システム)です。(124頁)

今も日本は、4Gの接続率がすごく高い。−中略−モバイル通信に関して、日本は世界の中でもとても進んでいます。
 なぜ日本ではこれほど普及率が高いかというと、テレビが強いからだと思っています。
−中略−日本はすでに携帯電話網が全国に広がっているので、うまくインフラ投資を行えば5Gが全国に一気に広がります。−中略−
 とくに5Gで重要なのは、遅延がほとんどなくなることです。5Gになると、たった1ミリ秒の遅れで情報通信ができるようになります。
(124〜125頁)

ホロレンズ(マイクロソフトのRMデバイス)のようなMRゴーグルをかけていれば、3次元で中継をリアルに見られるようになります。(129頁)

世界は「デジタルネイチャー(計算機自然)」へ向かっていくはずです。(133〜134頁)

 CGの解像度が上がるにつれて、水槽の中の本物の金魚とCGの金魚は、きっと区別がつかなくなっていくでしょう。(136頁)

多分エンターテイメントの方から入ると思うけれども、たとえばボクシングの選手の頭のところに小さなキャメラが付いて、まるで対戦相手のパンチを受けるようなすごい中継ができる。
あるいは野球選手のバッターボックスからの情景等々が放送できるようになるということが可能になった段階で「遠隔医療」という。
これはすごい。
優秀なお医者さんをどこか県庁所在地の一点に集めておいて機材さえ持ち込めばその優秀なお医者さんの指先が完璧に再現できるという。
そうしたらそれはやっぱりかなりの方が・・・。

 リアルとCGが融合していくのはモノや生き物だけではありません。我々人間もバーチャルや機械と融合していきます。(137頁)

水槽の中に本物の魚とCGが一緒に泳ぐという。
そういうのが出来ると人間の生活にも影響がでてくる。
機会と人間が融合していくんじゃないか、と。
「耳」から「目」。

昔、聾唖学校の先生になろうと思った武田先生。
聴覚の障害のある方のことを昔「ろうあ児」と言った。
そこの先生になるつもりだった。
でももう今、補聴器の発展がすごい。
音をわずかでも聞けるようになった。
それと同じ。
この数十年で目、耳、手、足などの障害。
それがメガネをかける気楽さで機械に代わってもらうという。
あのパラリンピックを見てもすごい。
あれはもう、個人の努力もあるが、でもやっぱり。
一本足スキーを可能にした、あの機材の発達。
あれはささやかな発明だが、彼ら(障害者)に与えた「自由」というのは大きい。
障害者の方が雪山を100何キロで滑れる。
これと同じ事が社会にも起こって。
おそらく機械による介護、寝たきり老人等々の介護が可能。
あるいは、親戚にも「うまく歩けなくなっちゃった」というのがいるが、ロボットスーツさえ着込めば「朝の散歩は可能」という驚くべきところに進んでいる。
だから「ブロックチェーン化」。

これからの日本はすべてをブロックチェーンにして、あらゆるものはトークンエコノミーであるという考え方にしていかないといけません。(166頁)

となるといわゆる「金融経済」そのものが変わる。
「仮想通貨」という単位で経済が回り始めるのではないか?と。

プラットフォーム企業がわからない。
ブロックチェーンがわからない。
トークンエコノミー。
これもよくわからない。
トークンエコノミー。
カッコして「法定通貨だけではなく、交換したいものをクーポンにして交換する」という金融経済。
(本の注釈は「ここでは貨幣経済に対して、法定通貨のみならず価値交換に用いるこのとのできるトークンの発行に依拠した経済の意味で用いています」)

武田先生の解釈。
トークンエコノミーというのはビール券みたいなヤツ。
「ビール券4枚」みたいなので、それでビールが買えるワケだから。
それがドンドン広がっていったら、それは今言う仮想通貨になるのではないか?

この方が一生懸命わかりやすく書いてらっしゃるのだが、わかりやすく書いてあっても「わからない」という。
この方はこんなことをおっしゃっている。

PASUMOも仮想通貨のひとつです。(169頁)

武田先生が考えるに「仮想通貨とは『質札』のようなもの」。
この人の書いてらっしゃるのを見ると「質草」。
物とお金の交換だけでなく、物を質札にして、ネット上で手に入れて物と交換できる。
たとえばプラットフォーム企業とかビットコイン、リップルなどは質屋みたいなものか?
「悪質な質屋」のようなものとか、別何か個に形容詞を付けないと・・・。
やってみないとわからない。
この間、楽屋でボソッと話した時、興味半分に松ちゃん(松本人志)がやっている。
松ちゃんは「俺やってるでぇ」。
結構盛り上がっていた。
「いやぁ、遊び、遊び」
それで同じことを言っていた。
「やらんと何か、わからへんやん。浜田(雅功)やるかい!あいつは現金主義や!」と言っていた。
中国では電子マネーとして急成長している。
日本でもトークンエコノミーの流れは「もう後戻りはできない」と著者は言っている。
これはどんどん広がっていくのだろう。
もう間もなく東京オリンピック前後ぐらいから現金で物を買う人は覚せい剤か「オレオレ詐欺」の受け子か。
もう「持っているだけで逮捕」みたいな。
そしてこの仮想通貨からもう開発が始まっているが、人口減少と高齢化のための労働力不足、人手不足によりロボット技術化、無人化商店街が急速に日本で成長し始めている。
これはコンビニはできている。
カゴの中にバーッと入れて、もういっぺんにテーブルの上に置くと計算してくれる。
カードをピッ!と当てて支払いを済ませるから、やっぱり現金を持っていると「覚せい剤を買おうとしている人と間違えられる」という時代は、もう今すぐそこに来ている。
「この無人化等々が急速に日本では勢いづくだろう」と。
クビになる店員さんがいないから。
今やコンビニがそう。
TSUTAYA。
10回以上かかって、まだ一人でできない武田先生。
あの広大なTSUTAYAのレンタルの棚の中で、従業員の方が5〜6人。
武田先生が利用している店舗はわりと大きいので。
あとは誰もいない。
それで何を借りるか自分で決めて。
自分で機械の前に行ってカードを突っ込んで。
だからあのカードのこともやっぱりあれは仮想通貨なんだろう。
「値上がり、値下がりする」というのだけがわからない。

人間ドックも込みで、心臓の手術(二尖弁の手術を受けた)で大きいのでお薬、定期点検に行かなければならないので「病院会計」。
これも今、オール無人化。
これはもうすぐに駅、空港等々も全部「無人化になるんじゃないか」と。
東京駅で駅員さんはもう箱の中にしかいない。
昔、ズラーッと並んで(改札鋏を)カチカチ言わせていて。
いちいち(切符を)切っていた。
もう今、誰もいない。
そこに何の違和感も感じない。
空港の方も2020年に向かって「顔認証が進むだろう」と。
駅、空港、改札カウンター、手荷物チェック等々で、すべて人間が消えていく可能性がある。
今、銀行に人がいない。
この方角に向かって日本は進むが、それが日本をどのような未来に導くか?

プラットフォーム企業、ブロックチェーン化、ビットコイン、リップル、仮想通貨等々。
トークンエコノミーとか。
響きはいいが意味がまったくわからない言葉がズラーッと。
だけどこの若い方のご意見を聞いていると心から日本の未来に向かって「頑張っていけよ!」と叫びたくなる。

今は、2060年ぐらいに日本の人口は8000万人ぐらいまで減ると予想されていますが−中略−それでも、機械化によって一人当たりの生産を増やしていけば、労働力と購買力が減少してもGDPを成長させることは可能です。(160頁)

考えてみれば昔は駅に全部駅員さんがいて、切符をカッチンカッチン切って、乗降客何万人をさばいていた。
定期(券)はちゃんと見ていて「ちょっと待って!切れてる!」「期限過ぎてるよ!」みたいな。
エラい。
切符を切りながら「期限切れてる」という数字まで。
ところがもうそれが全部今、無人化で済むようになった。
その無人化にすることによって職業を無くす方々が無人化に反対するかといえば、今までなかった。
スーッと無人化の方角へ日本は。
だから「この先に未来があるんだ」と著者は言う。

今は、2060年ぐらいに日本の人口は8000万人ぐらいまで減ると予想されていますが(160頁)

ここで完全に日本は高齢化社会を通過する。
もうすぐ終わる。
武田先生たちが死に絶えて「高齢化社会」と問題視されたものが少子化とともに終わる。
ここから大きな国が次々と高齢化に入っていく。
最大は人類始まって以来の巨大な高齢者の層を持つ中国。
半端ではない。
70歳以上が1億を超えるという。
「一人っ子政策」をとっているから、下の世代が細い。
この時に中国が喉をかきむしるが如く欲しい技術が「ロボット技術」。
これはもう輸入に頼るしかないという。
今、中国は着手できない。
中国は人を使わないと経済が回らなくなる。
映画の撮影で行った友人から聞いた話。
日本でテレビのクレーン車はキャメラマンが上に乗っかって一人操る人がいる。
あれは中国で十何人いる。
機械は機械のまんまだが、遮二無二人間がくっつけてある。
働く場所がない。
だからクレーン車があるのだが、全部車で運ばない。
途中で必ず降ろす。
それでみんなで押す。
その時に「10人いる」というような態勢で空海映画とか作っている。
映画『空海−KU-KAI−美しき王妃の謎』公式サイト
そこに労働を作っている。
労働をたえず作っておかないと。
職の無い人だけでも1億人ぐらいいる。

そして日本の本当の敵はどこにいるか?
実はカリフォルニアに住んでいる。
グーグルやアップルという巨人。

 すでにカリフォルニア州は、GDPでいうと世界6位の規模にあります。イタリア経済より大きいのです。(178頁)

我々の周りにアメリカ製品はほとんどない。
戦争に使う道具以外。
でも「アメリカは豊かに」というのはいわゆるグーグル、アップルが持っているショバ代。
これがガッポガッポと入ってくるから「トランプさんでもOK!」。
この状況を終わらせるのがブロックチェーン化による・・・。
そういうことだと思う。
真ん中に中央の偉い司令塔があるんじゃなくて、いろんな所に司令塔があるという。
そういう「経済的元締め」を置かずに「非中枢的」な情報の貯め方。
スマートフォンでも情報を引きずり出す。
あれは誰が答えているのか?
たとえば武田先生が日本語で日記を書いて「英訳せよ」と言ったら英訳してくれる。
「はいはい、はい。はい日本語」
「誰がやってるんだアレ」と考える時点でそこがもうお爺さんの考え。
「スマートフォンの向こうに誰がいるんだ?」という。
「はいはい、武田さんですね。わからないことがあるの?」
無着成恭みたいな人が何十人も並んで「はいはい」とスマートフォンでやっているのか。
そうではない。
非中枢。

日本の多くの大企業は、でかくてのろい恐竜みたいになってしまいました。この状況を打開するためにも、「どうやって哺乳類型の小さくてフットワークの軽い企業をたくさん創り出して、恐竜型のでかい企業とつなげて、これまでと違うイノベーションを起こせるか」を考えなければなりません。(226頁)

posted by ひと at 10:13| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年4月9〜20日◆甦れ日本(前編)


武田先生がなぜこの本を取り上げたかというと、本の腰帯の著者の写真。
まるでジャニーズのタレントさんのよう。
堂本剛くんを細く小顔にしたような青年。

落合陽一(おちあいよういち)
1987年生まれ。メディアアーティスト。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了(学際情報学府初の早期修了)、博士(学際情報学)。筑波大学学長補佐・准教授・デジタルネイチャー推進戦略研究基盤長、大阪芸術大学客員教授
(カバーのそで)

(今は)平成30年だからやっと30歳の若者。
「客員教授」というのを務めてらっしゃるので頭はいいのだろう。
肩書きは「メディアアーティスト」。
(「今朝の三枚おろし」の)スタジオ中はジジイ・ババアしかいない。

特にきっかけは平昌オリンピックだった。
女子のスピードスケートなどを見ていて「確実に自分たちの時代は終わった」と。
もうとっくに終わっているのだが、ああいうのを見せられるとアリアリと感じる。
ジイさんたちは銅像の「何とか像」で揉めているのに。
金メダルを獲った女子選手のところに韓国の選手が来て抱きつくのだから。
若い人も楽々と乗り越えてきているのではないかと。
ああいうメダルを獲った人、あるいは獲れなかった人もそうだが、もう違う。
ちょっと今まで自分が持っている日本人の範疇から外れている。
つまり、ちょっと「若い人の意見」というのを、我々は相当聞かなければならないという。
そういう時代に入ったのではないか、と。
年寄りがよく言う「このままでは死ねない」。
はっきり「いつ死んでもいい」武田先生。

この幻冬舎から出ている『日本再興戦略』。
日本をリフレッシュ、リアゲイン。
「もう一回よみがえらせよう」という計画を持った学者さんの名前、メディアアーティストの名前は落合陽一さんという名前で。
この人が「日本は世界に先駆ける唯一の希望の国だ」と言っている。
これだけメディアが「絶望の国だ」と言っているのに、この若者はあえて日本を「希望の国だ」と呼んでいる。
ツカミのところの文章を読んでみると「日本はダメだ。○○を見習え」。
そんなフレーズで日本が元気になるはずがない、と。

吉田松陰は29歳で亡くなっていますが−中略−吉田松陰が残した「狂え」というメッセージは、当時の時代の変化が今の我々の対面している計算機時代と同様、並大抵のものではなかったことを示しているようです。(13頁)

狂え 吉田松陰の遺書とされている留魂録という書物に出てくる一文「諸君、狂いたまえ」から。(24頁)

「狂うほどの基準を自分で持ちなさい」と。
この「狂うほどの基準」こそが幕末から明治に至る変革。
これを「狂」で乗り切った長州藩。
尊王攘夷から、叶った瞬間、突然文明開化になる。
「異人を追い出せ」と叫んでおいて、明治維新が成ったその瞬間から「学ぼう、異国に」という。
若い方にはこんなことができる。
この著者曰く、やがてその欧州をまねて近代国家を作った。
その欧州をまねて近代国家を作って欧米と戦うことになり、日本はコテンパンにアメリカに敗れた。
そうしたら凄いことに日本はどうしたかというと「アメリカに学べ」と。
負けた敵を学ぶのだからこの国は凄い。
それが明治から現在に至る日本の150年。
欧州を見習い、欧米と戦って負けるとすぐに「欧米に学ぼう」という。
このざっくりとした掴み方が乱暴でいい。
絶えず日本は基準を変えつづけた。
だから「異人を殺せ」と叫んでいながら、逆に異人に学び、西洋を呪いつつ西洋にあこがれる。
日本は自分の基準を変えることで世界を変えてきた。
だから300万人という戦争による被害者を出しながら、敗北するやいなや、その殺した側のアメリカを基準にして国家を作ってしまう。
そしてなんと、それから十数年後に高度経済成長をやり遂げる。
考えてみたら変わった国。
手のひら返しがすごい。
考えたらこんな国はちょっとない。

 結局、高度経済成長の正体とは、「均一な教育」「住宅ローン」「マスメディアによる消費者購買行動」の3点セットだと僕は考えています。つまり、国民に均一な教育を与えた上で、住宅ローンにより家計のお金の自由を奪い、マスメディアによる世論操作を行い、新しい需要を喚起していくという戦略です。(15〜16頁)

「でもここからは?」というのがこの若い学者さんの提言。
では、次なる日本人の目標は何なのか?

日本は高度経済成長を戦後果たすワケだが、そのためには均一な教育とか「家一軒持てば幸せ」という基準。
それからマスメディアによるいわゆる「冷蔵庫、洗濯機、何とか」とか(1950年代後半の「三種の神器」である「白黒テレビ」「洗濯機」「冷蔵庫」のことを言っていると思われる)「手に入れると幸せ」とか、それが高度経済成長を支えたが「もうそれは終わったんじゃないか?」と。
これからは何が日本を動かす原動力になるのか?という。
この落合さんという学者さんがおっしゃるには「儲かる会社ではなく、役に立つ会社を作る必要があります」という。
それからその役に立つ会社、あるいはその会社に勤めている人は「日本の文化を深く理解することです」。
この二つを挙げておられる。

家族そろってテレビを見ながら食事をする武田先生の家。
その時は個人に走らず「穏やかな番組を見よう」というのでテレ東のジャパニーズもの『YOUは何しに日本へ?』(YOUは何しに日本へ?:テレビ東京)『和風総本家』(和風総本家 | TVO テレビ大阪)。
その中で外国で日本に興味を持った人を日本に招く。
例えば「宮本武蔵が好きになった」とか。
先々週ぐらいに見たヤツはドイツ人のかわいらしい娘さん。
大根の漬物にシビレちゃう。
シビレるというかイカレちゃう。
金髪のドイツのかわいらしいお嬢さん。
それが宮崎県の大根畑まで行く。
それでどうやって作っているかを見て、大根干しに感動する。
この人は何でも好き。
しば漬けから何から。
それで「グレート」とか「美味しいです」とかっていうのを連発。
だから田舎にドイツ娘を連れて行くものだから、タクアン製造会社の社長が大歓待するものだから、最後、金髪のお譲ちゃんは泣いちゃう。
日本人は凄い。
自分の職種を理解してくれる・・・。
『和風総本家』で見たヤツで若い人で宮大工にあこがれる人が多い。
宮大工に憧れる高校生の就業体験...|テレビ東京の読んで見て感じるメディア テレ東プラスこれかと思われる)
そのドキュメンタリーを見ていて驚いた。
十代で、もう弟子入りしているから中学を卒業して入っている。
それでその高3の年齢の子が高2の子に教えている。
それで高2の子は工業専門学校か何かに行っている。
「いい宮大工になるためにはどうやればいいんですか?」と言うと、その18(歳)の子が「自分の道具を大事にして、使い終わったら研げ」と言う。
「特にノミは」
毎日ノミを研ぐ。
ノミを研ぎながら「そんなんじゃダメだよ。立つまで研げ」と。
ノミを研いで綺麗な平面になると、手を離すと立つ。
ある角度を持って(ノミが立つ)。
武田先生がショックなのは17(歳)と18(歳)の子が話している。
それで18(歳)の子が「お宮さんを一軒仕上げ終わった時の気持ちっつったら、そりゃいいもんだよ」と言う。
一切言葉にしない。
態度で。
そういう若者がやっぱり「クールジャパン」。
そんな日本を今まで知らなかった。
だって宮大工は滅びゆく職業かと思っていた。
タクアンに興味を持つドイツ娘。
それから宮大工に興味を持つスケボーが似合うような若者たち。
そういうものを見ながらもやっぱり「日本人が日本をもっとよく知る」とか「学ぶ」とか、そういう時代が来ているんじゃないだろうか、と。
この落合さんが言う。
問題は、この国の何が日本を日本たらしめているのか。
それを自分で探る、そういう時代に入ったんだ、と。
「日本を教える人ではなく、日本を学ぶ人が唯一日本を変えられるんです」という。

若い方が広げる「大風呂敷」。
著者はこれから日本人が目指すべき基準を呼びかけている。

「ポジションを取れ。批評家になるな。フェアに向き合え。手を動かせ。金を稼げ。画一的な基準を持つな。複雑なものや時間をかけないと成し得ないことに自分なりの価値を見出して愛でろ。あらゆることにトキメキながら、あらゆるものに絶望して期待せずに生きろ。明日と明後日で考える基準を変え続けろ」と、以前Twitterに書きました。(253〜254頁)

これはもうジジイにはできません。
時々トキメくことはあるが、もうやっぱり日ごと夜ごとにトキメくというのは無理。
著者の若さが、今日いろんな論客の方がいらっしゃるが、この方々には無い、若者らしい提案をたくさんしている。

この方の日本人の掴み方が面白くて「なるほどなぁ」と思った武田先生。
「日本人は公平にこだわるが平等にはこだわらない」
もっと頭のいい人から別のたとえ話で聞いたことがある武田先生。
「資本が外国にある会社」というのがある。
それが成功する確率が高いのは日本。
ジョンソン・エンド・ジョンソン。
あそこはアメリカの会社。
「日産」にしてもそうだが、外国人社長でもうまくいく。
これは長い歴史があって九州の唐津とか松浦あたりに昔、海賊がいた。
「松浦党」とか呼ばれる海賊なのだが、社長が中国人。
給料を公平に分けてくれればいい。
「オマエはよく働いたからこれだけ」
「オマエは今月働いてないね?これだけ」
そんなふうにやると一切日本人は文句を言わずに「民族が違う」とか言い出さない国民。
日本人は公平にこだわるが平等にはこだわらない。

日本人は、センター試験でカンニングなどの不正が起きると怒るくせに、公教育に地域格差があったり、教育機関の差がある人が同じセンター試験を受けることに対しては無頓着です。(33頁) 

だって東大は東京にしかないワケだから。
でも「福岡県に東大を作れ」とは言わない。
何でかと言うと、東大は合格すればどこからでも行けるから。
これが「公平」にこだわっている。
東京の人だけしか行けない大学だと怒るが「試験パスしたら誰でも入れますよ」という東大はいいと思っている。

 平等という点では、日本人に合わないのは「男女平等」です。日本ほど男女格差がある国は珍しいと思います。男女が合コンに行ったり、飲み会に行ったりすると、当たり前のように男性のほうが女性より多く払いますが、あれは性意識の平等感に反します。(34頁)

 もうひとつ欧州発で日本には向いていないものがあります。それは「近代的個人」です。(35頁)

西洋社会というのは個人が神と直に結ばれている一対一の関係。
日本人は神と結ばれていない、と。
日本人はグループと結ばれている。
集団と結ばれている。
「個人主義」というとちょっと「ワガママ」のニュアンスが入ってくる。
「あの人ちょっと個人主義よね」と。

個人に平等に権利を与えて、全員が良識ある判断をすると仮定して、一人一票を与えたものの、選挙をしてみたら、全員にとって価値のある判断にはなりませんでした。集団の中で個人はそんなに正しく判断できないのです。ポリティカルコレクトネスのひずみやポピュリズムの台頭は西洋個人主義の限界点を示しているようです。(38〜39頁)

「僕個人にとって誰に投票するのがいいか」ではなく、重層的に「僕らにとって誰に投票すればいいのだろう」「僕の会社にとって、誰に投票するのが得なんだろう」「僕の学校にとって、誰に投票するのが得なんだろう」と考えたらいいのです。個人のためではなく、自らの属する複数のコミュニティの利益を考えて意思決定すればいいのです。(39頁)

一人に一票を与えたことがポピュリズム「人気につられて」という世界的な混乱を今、招いている、という。
現実に本当に招いている。
暗めに語ると、ヒトラーが出てきてもおかしくないような。
ヒトラーはものすごい「力」で出てきた人ではない。
あの人は民主主義で選挙で立場に立った人。
難しいもの。
この落合さんという方は個人として「誰々を選ぼう」とかって判断すんのやめましょう、と。
自分で集団を作れ。
コミュニティー、グループ。
まず個人の判断を捨てて、ある人数を集めよう、と。
「○○さんに入れる人、あーつまれ」みたいなことで。
だから自分のジャッジでアレじゃなくて、コミュニティとかグループとかそういう人たちで「誰々がいいんじゃない」ということを決定して投票に行けばいいんだ、と。
こうすると世界とかものの見方が変わるぞ、という。
これはやっぱり若い人らしい。

今は、ワークライフバランスという言葉が吹き荒れていますが、ワークとライフを二分法で分けること自体が文化的に向いていないのです。日本人は仕事と生活が一体化した「ワークアズライフ」のほうが向いています。(40頁)

昔からストレスが少なく、生活の一部として働いていたのです。(40頁)

これはドキッとする。
今、一番まずいのは「会社が社会になっている」という。
だから会社が勤まらないと社会の中でも「生きていけない」と思ってしまうというような早合点する人が出てくる、と。
そうじゃないんだ、と。
会社は何かと言うと「ギルド」。
ギルド制。
同業者の組合のこと。
だから日本風に意訳すれば「会社というのは『藩』ではないんだ」と。
「三菱」というと「三菱藩」という感じ。
会社というのは「そうじゃないんだ」と。
会社というのはギルドなんだ。
だから日本風にいうと、会社とは「海援隊」あるいは「新撰組」あるいは「伊賀」「甲賀」「才賀」。
つまり「ある技術を持った人たちの集団です」ということ。
「それが会社なんだ」と。
それでどんどん「業種が増えれば千切れて行った」と。
だから今の会社が楽しくないのは、かつての藩を守るために様々な藩主たちが犠牲になったのと同じで、他藩と付き合わずに藩内に閉じこもっているからだ、と。
だから海援隊だったり新撰組だったりすると、己の職能を持っているものだから、たとえば海援隊だと航海術で黒船を動かす技術だから「その技術を持った人とは誰と付き合ってもいい」という。
そういう伸びやかさが社会全体を活き活きするんだ。
そして己の職業の能力についてもいくつもの文化を持ち、様々な情報を取り込みながらどんどん複雑化できる。

「複雑化する」というのは「大人になる」ということ。

たとえば、仮想通貨のビットコインは中央機関がなく、プログラムによってルールが決められるという特徴がありますが、地形や自然というルールが多様な日本はとてもブロックチェーン的です。地方分権による意志決定が向いているのです。(48頁)

武田先生が考えるブロックチェーンという言葉の意味。
地方にあるアンテナ。
だから文化放送の電波を届けるために、どこどこ山とどこどこの山にアンテナ塔が建っている、という。
そのアンテナ塔に送ると、そこら全体が「ある放送局の声が聞こえる」というような。
そういうアンテナのことをブロックチェーンと言うのではないか。
その「ブロックチェーンが効いている世界だ」とこの著者は言う。

例えばレンガ職人がいる。
中国で。
あるいは韓国で。
このレンガ職人。
この方々は「技術者」。
それはどんな技術かというと「レンガを積む」ということ。
中韓では技術は一つでいい。
「レンガを積む」ということ。
ところが日本ではそうはいかない。
東京と長野では積み方を変えなければならない。
大阪と高知でも積み方を変えなければならない。
なぜならば、地方によって気候が全く違うから目指しているものが違う。
東京では頑丈さが求められるかも知れないが、長野では「雪対策」というものを考えておかなければならない。
大阪ではOKかも知れないが、土佐の高知では「台風と雨に強い」ということが一番の目標になる。
そうやって考えると沖縄から札幌まで気象が違う。
日本人はここらあたりに対応しないと「画一的なものを作るだけ」というのは「腕が悪い」と言われてしまう。
この辺がその「日本が独特の文化の中で生きている」という。

今、もっとも現実的で効果のある策は、「ローカルの発見」に力を入れていくことです。(49頁)

「日本の中にある田舎をもう一回見つめなおしなさい」という。
地方自治から日本の「リアゲイン」「よみがえり」を考える時に今は来ています、と。

すでに、その萌芽はあって、つくば市や福岡といった面白い市が生まれてきています。(50頁)

その故郷があればこそ、300万人の死者を出すという、ほとんど国が滅びた状態から日本はよみがえることができた。
何でよみがえったか?
それは「地方から先に芽を出した」と。
芽を出した地方が東京にやってきて、東京をよみがえらせたという。
東京は地方を吸い込むことにより、中央集権による工業生産様式を徹底させた。
様々な地方が東京に送り込むことによって、消費の循環がこの国を再生させた、という。
こういう話を聞くと、もうむやみに感動するし、むやみに思い当たる。

広島の小さな漁業メーカーがいる。
小魚なんかの仲卸をやっている。
船を持っていたのだろう。
ある時のこと、小エビばっかり獲れる。
それでこの小エビを何とか加工して「お菓子できねぇかな?」と言って小エビのカルシウムにビタミンか何かを混ぜて作った駄菓子がカルビーの「かっぱえびせん」。
そういうのを聞くと感動する武田先生。
「○○が大量に生まれたんで、それをうまいこと、日本スケールのスナック菓子にしていく」とか。

湖池屋のポテトチップス。
北海道で採れたジャガイモと九州で採れたジャガイモを循環させる。
それで美味しいポテトチップスを作るためには賞味期限を作らないとダメ。
「油もん」だから。
何か月かで商品を「オール引き揚げ」。
何か月か置いておくと美味しくなくなる。
韓国でポテトチップスの偽物が結構出回っている。
もうパッケージもそっくり。
「訴えたりしないんですか?」と訊いたら「ええ、大丈夫です」。
「どうしてですか?」
「美味しくないに決まってますから」
韓国に行って食べて「日本と味、違う」と思ったことが何回かある水谷譲。
あれは循環していないから。
作りっぱなしだから。
自分たちは循環させているので、いつも品質が一定で「パリッ!」とくる。
「偽物にはとてもマネできません」とはっきりおっしゃった。
「だからもう、食べてもらえばわかるから、別に裁判沙汰にしなくてもいいんですよ」と。
この余裕が「ローカル」。
「ローカルを使いまわす」というか。
そういう、地方で作り東京で消費の循環を巡って、この国はゆっくり再生し、高度成長までもっていったんだ、と。
今や第二、第三のイノベーションということか「改革の時が来てるのだ」ということ。

この人はやっぱり若いからドキッとすることを言う。
「お手本は多極化しています」と。
「日本人は学ぶとき、最高のパワーを発揮する」と。

学ぶべきは、シリコンバレー型、シンガポール型、中国深圳型のようなスピード感です。(54頁)

そして、これらの国に学びながら、手を結ぶべき大国はたった一つ。
インド。


posted by ひと at 09:55| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月08日

2017年10月16〜20日◆AI(2018年10月18日修正)

(今回は『AIが神になる日』という本を取り上げているが、かなり宗教の話とか哲学の話に紙面を割いている本だが、番組ではあまりその手のことは取り上げない)

もう自分がゆっくりと時代に取り残されつつあるという「手触り」をアリアリと持っている武田先生。
若い方が話している流行りとかヒット作品、テレビ番組に登場する人気者。
もうほとんどわからない。
もう人に訊いてばっかり。
最近のテレビドラマはタイトルを見ても内容が思い浮かばない。
タイトルを見てもわからない。
タイトルでわかるようじゃあダメなのか?
しかもニュースを聞いていても「そのニュースを笑っていいの?」という。
笑いながらニュース番組とかニュースバラエティの人が話題として扱う。
例えば、これはずいぶん前のことなのだが、(2017年)8月3日のこと。
中国香港からの伝でこんな事件があった。
人工知能AIの中国における大ヒット対話プログラムサービス「AIと話ができる」という。
騰訊(テンセント)という会社があり、そこのAI、人工知能に向かって誰か、愛国者の方だろう「共産党バンザイ」と。
するとAI。
対話ができる人工知能。
その人工知能が「腐敗と無能の政治に君はバンザイできるのか?」と答えた。

「共産党は無能」「中国の夢は米国への移住」正直なAIが反乱? 対話プログラムで批判展開、中国IT企業が急遽サービス停止 - 産経ニュース

「中国人の夢とは何か?」
習近平さんは「一帯一路」と党大会でそうおっしゃっている。
その人工知能は「中国人の夢とは何か?」と訊くと「米国への移住」と答えたという。
どういうプログラミングでそうなっているのかはわからない水谷譲と武田先生。
それに対して中国の人が「中国共産党をどう思う?」と訊くと、AIがたった一言「嫌い」と答えたという。
それでこれはすぐに北京政府が反応して、共産党が反応してすぐに騰訊のサービスを中止。
「訊いちゃいけない」ということいなったという。
それが香港伝で伝えられて、書き込みが増えて「人工知能はなんと、勇敢な反政府運動家だ」と称える書き込みが増えたという。
これをジョークであらゆるニュース番組がバラエティで伝えるのだが、これは笑っていいのか?
その人工知能「AI」。
それは今までの情報とか何とかが全部入っているわけでしょ?
未来予測に使えるんでしょ?
そうすると中国の騰訊という会社が持っている人工知能はもう、中国共産党に絶望しているワケだ。
これは重大なことなのではないか?
この8月3日のことを「これ、笑っていいの?」と思っていたら、NHKのバラエティ番組で日本のAIに日本国内の問題を尋ねるという趣向があった。

NHKスペシャル | AIに聞いてみたどうすんのよ!?ニッポン

この日本の「AI」、人工知能に対してNHKバラエティ班が日本の国内問題を問うた。
そうすると返ってくる答えが、AIが考えた答え。
「老人たちの健康を守るための具体策を示してください」
それからその次の問題が
「女性の活躍を促すための具体策を教えてください」
これは国会で論議されるような問題。
何とAIは答えたか?
一番最初「老人たちの健康を守るための具体策を示せ」という問いに対して人工知能は「総合病院をなくせ」と言ったという。
これは人間が考えるしかない。
とにかくAIはそう結論づけた。
二つ目の問題「女性の活躍を促すための具体策を示せ」と言ったことに対してAIは何と答えたか?
「モーテルと連れ込み旅館を増やせ」
理由があるんだけれども、それはAIが考えて答えたワケだから辿ることはできない。
AIは今まで詰め込まれたすべての情報を加味し未来予想をしている。
そしてもう一つ。
「少子化対策について教えてください」
AIは何と答えたか?
不思議な答え。
「自家用車の保有率を上げなさい」
これを人間が今、考えなければならない。
しかしドキッとしませんか?
老人の健康を守るための具体策「総合病院を潰せ」でNHKバラエティ班は何と驚くなかれ、総合病院が完璧に潰れたある町を発見し、老人が健康かどうかを逆調査した。
すると何と!

AI、人工知能。
それがいかに世界全体をリードしているかという話。
もう将棋とか碁とかAIに勝てない。
そんな時代になっちゃった。

「健康な老人を増やすために具体的に何をすればいいですか?」の問いにAIは「総合病院をなくせ」と言った。
本当にその具体例があったので、またNHKも頑張ってそういう町を見つけた。
最近、総合病院が全部潰れちゃったという町がある。
夕張。
市の財政が破綻したので。
武田先生が『黄色いハンカチ』で見た町だが。

あの頃映画 幸福の黄色いハンカチ デジタルリマスター2010 [DVD]



本当にシャッター商店街で、もう映画をやった頃とは違う。
今、必死になって市の人が立て直しをやってらっしゃるが、人口は流出し、産業はなかなか起きず。
頑張ってらっしゃるが。
それで老人の人口が増えている。
だからいわゆる「高齢者の町」。
総合病院がない。
健康状態は?
元気。
他の町に比べても夕張のご老人方はすごく元気。
病院がないので、みなさんものすごく自覚してらっしゃる。
「自分たちで自分たちの健康を守ろう」というので老人たちのグループの結束が固い。
だからものすごい勢いで、都市に見られる、町に見られる、集落に見られる「老人の病」というのが激減している。
夕張のお爺ちゃんたちに訊くと「しょうがねぇじゃねぇかよ!」とかおっしゃるのだが、みなさんものすごくお元気。
見方。
90歳ぐらいで雪下ろしをやってらっしゃる姿を見ると胸が痛むほど悲惨に見えるかもしれないが、健康度は上がっている。
こうやって考えるとAIが言っていることは当たっている。

武田先生もスマートフォンを持っている。
アレは「AIの結晶」。
やっぱり凄いなと思うのは日本語で四千字まで書きこんで、その文章をスマートフォンに命令すると「英語」「中国語」「韓国語」に一瞬で訳せる。
あれは凄い。
たまにちょっと違った訳になったりもする。
スマートフォンは「こいつバカか?」と思う時がある。
世田谷の大通りを朝、散歩していた武田先生。
タヌキと会った。
「ばったりタヌキと会った」と書いて、それを日記に英語で書こうと思って打ち込んだら、妙な英単語が出てきて「I suddenly met a cunning person」。
カンニングパーソン。
コマーシャルで「レッドフォックスアンドグリーン○○」というので「タヌキ」という単語はちょっと覚えていた。

マルちゃん 緑のたぬき天そば(東)101g×12個



「『タヌキ』のことを『カンニング』って言わねぇぞ?」と。
「私はタヌキに会った」というのを日本語社会におけるスラングで「ずるいヤツ」のことを「タヌキ」と言うので、そう思ったらしいスマートフォンはそれを「カンニングパーソン」と訳した。
ある意味頭はいいが、オマエ察しろよ!
「ずるいヤツ」を「カンニング」というのを一個覚えた武田先生。
それにしてもその「ヤッホー」や「ゴーグル」はすごい。
ここを開いて質問すればなんでもわかるし。
世間話に関しては、もうとにかく芸能レポーターに聞く以上に文字として流れこんでくる。
びっくりする。
気になる人物だったんで「松居一代」と「ヤッホー」を押した。
まあ、人の過去を暴く。
「そんなことまで教えてくんなくていいよ」というところまで教えてくれる。
とにかく歴史小話に関してはこの「ヤフー」「グーグル」は司馬遼太郎さん以上に知っている。
だからAIはすごいな、と。
そんなことで、AI、人工知能というものが気になり始めて、本屋さんに行って手に入れた本。

AIが神になる日――シンギュラリティーが人類を救う



 AIとはアーティフィシャル・インテリジェンス(Artificial Intelligence)の略称で、日本語では「人工知能」と訳されることが多いようです。(2頁)

世界中のあらゆるところからたえざるデータを吸い上げ、そのデータを蓄えて、一回入れたら忘れないワケだから凄い。
膨大なビッグデータを持っていて。
そして最近のAIはもう、論理を操る。
ひらめき、意志、目的をもった戦略まで可能になり、人間の頭脳のすべてを代行、さらには拡大できる世界がもうすぐそこまで来ているという。
こんな時代になったら怖い。
人間を完璧に追い越して進化を遂げるというのが。
10年後にはもう、我々の仕事も全部AIが取って代わるみたいなのは言われている。

 そうなると、その先にあるのは何でしょうか? それがテクノロジカル・シンギュラリティー(Technological Singularity)という言葉で語られているものなのです。(この言葉は、日本語では「技術的特異点」と訳されていますが、少し違和感がありますね。「特異点に至った技術」と訳するほうがよいかもしれません。)(10頁)

この特異点を通過すると世界が変わるという。
AI自身がより優れたAIを自ら育てていく。
その改良が加速度的無限に近づきつつあり、人間の想像を超えるAIが間もなく完成する。
その一瞬を「技術的特異点」シンギュラリティーと言う。
そこを通過すると世界は一変する。
その一変は、人間が今まで有史、歴史の中で体験した出来事をすべて追い越す。
印刷機発明、産業革命等々の大変化以上の社会的変化がこのAIによって起きるという。
どこまで人間の社会が衝撃を変化するかというのは、もう想像ができない

 俗に「倍々ゲーム」という言葉がありますが、今年が1なら来年はその倍の2、再来年はさらにその倍の4、その次の年(三年目)は8にまで膨れ上がるということです。−中略−もしこれが、二年目以降は「幾何学級数的に、つまり、二乗二乗で効いてくる」となるとどうでしょうか? 四年目はまだ256ですが、五年目で6万5536、六年目になると42億9496万7296という恐ろしい数字になります。(17頁)

40年で完璧なAIが世界を支配する、という。
もう人間がとにかく一切追いつけない天才が登場するらしい。
中国のAIが中国共産党政府を嘲笑った。
笑っているワケだが、これは笑い話ではない。
今、政治家が一番恐れているのはAIに聞かれることではないか?
今の段階で結論を出す可能性がある。
聞いてみたい。
そのことで社会全体が影響を受けると、これは何か恐ろしい。
ゾッとする「AIが支配する世界」はもう来ている。
半分お爺さんである武田先生にとって駅の改札口といったら切符にハサミを入れる音。
カチカチカチカチカチ・・・

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ああいう人たち(切符にハサミを入れる駅員)が新宿駅なんかにずら〜っと並んでいた。
国鉄の人が。
それでいちいちチェックして、定期(券)なんかも一瞬にして見抜くという天才的に目のいい人たちがJR(国鉄)にいて「学生さん!学生さん!」って言いながら「(定期券の期限が)切れてる!切れてるよ!」とか言いながら。
そんな時代は数十年前、そこにあった。
野口五郎の『私鉄沿線』とか、もう、歌がどんどん通用しない。

私鉄沿線



「夜汽車に揺られて〜♪」とかと歌うが「汽車」なんて言ってもみなさん知らない。
観光地を走っている。
「今夜の夜汽車で旅立つ〜♪」「遠くで汽笛を聞きながら〜♪」なんて、もうその歌がわからない。
歌に出てくる文句が理解できない。
銀行に勤めていた武田先生の奥様。
例の大手の銀行員の作業着を着て、真っ赤な口紅で窓口に座っていた。
お金を数えるのが上手。
ウチワでも扇ぐようにして。
奥様は今でも上手い。
今、受け付けに居るか?
お金をちょっと降ろしたり振りこんだりはもう、ATMでやるという水谷譲。
この事実はいかんとも動き難きこと。
飛行機の切符も昔はドキドキしながらどこかの受け付けに買いに行った。
(今は対面で)買わない。
飛行機、電車、駅、スーパーのレジ、電話局、製造、建設工事現場。
そこで働いていた人々が全部消え失せた。
確実にAIが世界を乗っ取ろうとしている。

 デューク大学のデビッドソン博士は「いま小学校に入学した子どもの65%は、大学卒業時に現在は存在していない職業に就く」と予想します。となれば、子どもたちが「将来の夢」と称して、就きたい仕事を騙ることにどれほどの真実味があるのでしょうか。(『できない脳ほど自信過剰』230頁)

今ある仕事の65%は全部AIがやるという。
子供の可能性は無限だが、可能性の方は無限ではなくなる。
松本氏は「人間優位などはどこにもない」と。
「人間が絶対いいんだ」っていうような確証はもう、これからの時代、持てないだろうとこの本の著者、松本さんはおっしゃっている。

 極端な話をすれば、詩人(作詞家)だって危ないでしょう。
 これまでだと、作曲家は、良い作詞家に頼んで(場合によれば頼み込んで)、自分の作った曲の歌詞を作ってもらいましたが、これからは「こんなメッセージを含んだ、こんな感じの歌詞をつけてくれ」とAIに要求すると、AIは、求められた「情景」や「感情」を表現する言葉を選んで、色々に並べ替え、韻を踏ませ、起承転結を構成させ、数十通りの案を作って、実際に曲に合わせて歌います。
 ついでに言うなら、作曲家志望の若い人たちも安心はできません。いったん名を売った作曲家が、いくつもの新曲を量産することが可能になりそうだからです。
(45頁)

ヒット作品のすべてのデータを取り込み、ヒットの要素を探らせてAIに頼れば、メガヒットが狙える、と。
特異点を超えた時、AIの方が人間を簡単に抜けるのではないだろうかと。
だからAI、人工知能は未来の神になりうる。
それも遠い未来ではない、と。
十数年先にはその神はこの世に降臨する。
それはAIという名の神である。
何せ、今まであった出来事、情報量をすべて知っているワケだから。
これはやっぱり「神」としか言いようがない。
これはやっぱり驚くべきこと。
宗教、政治、倫理の面から、正義や愛、憎悪の感情、知性、理性、感情について人間と比較してもAIは何一つ人間に負けるところがない。
この間、水谷譲のラジオ番組でロバさん(吉田照美)が言っていた。
ちょうどこの本を三枚におろしている途中だったのでびっくりした。
AIがAI同士で交信し始めた。
人間の許可なく、あの国のAIと、この国のAIがこっそり連絡を取り合って会話している。
それでその二国間がどことは言えないが、そのAIを全部壊した。
これは本当かどうかわからないが、都市伝説っぽいところもある。
AIというのが自立の思考体になるのではないだろうか?

将来の「戦場」では、今後は間違いなくロボットが主力になるだろうということです。(31頁)

兵隊さんというものが戦場から姿を消して、AIロボットの戦いになるのではないだろうか、と。
そういう意味ではAIは神にもなるし悪魔にもなりうるというようなことをおっしゃっている。
映画の世界。
「アイルビーバック」みたいな、あんな人工知能ロボットみたいなのができるのだろう。

ターミネーター [AmazonDVDコレクション] [Blu-ray]



AI戦争。
これが世界の戦争になるのではないか、と。
実に陰湿な情報戦が今、繰り広げられているが、これも全部AI。

アウンサンスーチーさんは「いい人」。
何か今、たくさんの人を苦しめていると言って「アウンサンスーチーさんってそんなにいい人じゃ無ぇ」というニュースが流れて、そのニュースに対してアウンサンスーチーさんが「フェイクニュース」と言ったという。

「ロヒンギャ問題はフェイクニュース」 ミャンマーのスー・チー氏が対応を正当化 - 産経ニュース

「フェイクニュース」はトランプさんの独占語だと思っていたが。
アウンサンスーチーさんまでもが同じ言葉を、という。
そんなことを考えると・・・
この裏側で働いているのがやっぱりAIらしい。
AIが偽情報を流すことによって敵がどう出るかを読み切って「揺らす」という。
もう人間に残されているのは、ほんのわずかな領域だけだ、ということ。
その人間に残されたほんのわずかな領域というのが「芸術」と「哲学」。
AIというのはいつも答えを持っているから「答えを必要としない」というものに対してAIというのはものすごく脆い一面もあるということ。
哲学においては、データを大量に持っていることはあまり意味がない。
また、超高速で解決する必要も全くない。
人は「意味」を求める。
意味の「意味」は一体何か?
それはおそらく「快」「不快」ということではないだろうか、と。
「意味がある」というのはとても気持ちがいいということで、「意味がない」ということは何か不愉快なことである、と。

松居一代さんにすごく興味があってスマートフォンで松居一代さんとか引いた武田先生。
恨み言を言う松居さんの顔がある。
あの顔と映画で活躍なさっている松居さんの顔が出るのだが、同一人物とは思えない。
AIも同じ人物だとは分からないのではないか?
AIも「違うんじゃないかなぁ…」とかと。
松居さんはちょっとお引きしたら日活の方で活躍なさっていたという。
ロマン(ポルノ)の方で活躍。
そういうデビューらしい。
その方と、あの船越(英一郎)さんを呪ってらっしゃる顔が一致しない。
あの若い頃の松居さんがこうなるというのはAIもわからなかったと思う。
でも「こうなるんじゃないか」とわかっていた人がいる。
船越さんのお父さん(船越英二)。
結婚にものすごく反対なさって「うまくいかない」とおっしゃっていたという。
そのことで松居さんは凄く怒られて位牌をあちこち持っていったりとかというような。
だが考えてみると船越さんのお父さんは「うまくいかない」とわかっていたわけだからAIより優れている。
だからAIの欠点は何かというと、日本に住んでいる女性全体の未来像は占える。
「モーテルを作ればいいんだ」とか、そんなことは占えるが、松居一代さんに関してはわからなかった。
これが惜しい。
全体はわかるが個人はほとんどわからないという。
これがAIの躓きで、(息子の方の)船越さんのためにはAIは役に立たない機械だった、という。
お父さんの方がちょっと当たっちゃったという。
AIよりも親御さんの方がやっぱり見る目はあるというか、自分も「親の言っていることはあの時、正しかった」と思うことが非常に多いから「やっぱり親は凄いな」と思う水谷譲。
「なぜお父さんはそれが見抜けたんだ」ということを考えましょう。
そこが実はAIが最も苦手とするいわゆる「哲学」なのではないか。
哲学とは一体何であるか?
「世界とは何?」「他人とは何?」「自分はここになぜいるの?」
「根源に向かって問う」ということ。
その根源への問いというのをAIはできない。
問わない。
「物事を問う」ということができないのがAI。

美羽ちゃん先生。
小松美羽さん。

小松美羽 −20代の軌跡− 2004-2014



神獣たち。
龍の絵を描く方。
「精子が龍に見える」というような。
あの美羽ちゃん先生の、小松美羽さんの世界はAIは理解できない。
美羽ちゃんの神獣、ケモノとかを見せるとAIは苦しむだろう。
そこが唯一AIに勝てるのではないかなぁというふうに思ったりする。
AIはこれからますます、間違いなく人間の社会の中に入ってくる。
凄まじいのは翻訳システムとしての活躍の度合い。
だからバイリンガルとか意味がなくなる。
教育システム。
これにもAIが入ってくるだろう。
病院の医療なんかにも中枢にAIが座るのだろう。
だから今まで世間を主導してきた人の姿というのはゆっくり姿を消していって、哲学、芸術、スポーツ。
そういう「右脳世界」そこに人間の生きるべき特質があるのだろう。

サスペンスですごく売れている岩木一麻さんの『ガン消滅の罠』というサスペンスの小説があったのだが、後味が悪い。

がん消滅の罠 完全寛解の謎 (宝島社文庫 「このミス」大賞シリーズ)



もう歯を喰いしばって読んだ武田先生。
「ガンが消滅する」というから「前向きな話かなぁ?」と思って。
「元気が出るといいな」と思って。
「ガンで悩んでらっしゃる方がいれば」と思って読んだが、気が滅入ってしまった。
これがすごい評判だが、何かものすごく悪魔的。
ちょっと気が滅入ったのであえてチャンスがある方は読んでみてください。
武田先生が気が滅入った理由がわかると思う。

この本(『AIが神になる日』)を読んでいて、もの凄い立派な方がこの本の推薦文を書いてらっしゃって、慶応大学の教授の方とか、明治の理工の教授なんかが松本さんの未来予測に関して「的中率は絶対に100%に近いはずだ」という。
(推薦文は夏野剛(慶應大学特別招聘教授)「AIの真髄を理解したい人、正しく理解すべき人、これらすべての人にとって必読の書。」高木友博(明治大学理工学部教授)「ここまで広範な分野を深く理解し、縦横無尽かつ明瞭に語れる人を私は過去に見たことがない。」なので、的中率の話が登場しないので、このあたりの内容がどこに書かれていたのかは不明)
でも松本さん、ごめんなさい。
読み終わった後、両手を合わせて「あなたの予測がはずれますように」と未来にお祈りした武田先生。
松本さんの本がショックだったので、ここから必死になってまた本屋を探して「この傷口を埋めたい」と思って見つけた本。

できない脳ほど自信過剰



posted by ひと at 10:53| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年08月05日

2018年5月28〜6月8日◆すげぇ年寄り(後編)

これの続きです。

武田先生が高校2〜3年生の時、ノダ君という同じ学年の友達がいた。
そいつが凄いことに12弦ギターというギターを買った。
それで「文化祭で歌を」と同じ組の中牟田俊男という同級生と三人で文化祭でフォークソング。
『天使のハンマー(If I Had a Hammer)』そういう歌を歌った。

天使のハンマー



何か気持ちよくて。
それで休みの日になるとノダが「練習しないか」と。
そのノダの家の近くの公民館を借りて歌を歌う。
公民館のその廊下側の窓を開け放つと一面の麦畑。
のどかなもの。
その麦畑を見ながらノダが中牟田と一緒に「これちょっとやてみよう」と言って加山雄三の新しい歌を弾き始めた。
もう、あの時に何か胸の奥で風が吹くというか、火がゆっくり立ち起こってくるというか。
あれは忘れない。
もう一面の麦畑を見ながら、自分が草原に立つ若者のような気がした。
この歌を夢中で歌った。

旅人よ



この歌を歌いながら、加山雄三に何か憧れた。
例の映画の若大将シリーズがスタートしていた。

若大将キャンパス DVD-BOX



その若大将はもう本当に我らもてない男の憧れの的だった。
その人に31か32歳の時に声をかけられて、番組で共演したりして。
夢のようだった。
ある日のこと、加山さんに叱られたことがある。
三十代の初めのこと。
とにかくスケジュールがギッチギチに詰め込まれる日々。
突然入る。
「明日明後日休みだよね?」「いや、入れました」とかって。
もうイライラしていた。
それでラジオ局、文化放送でバッタリレギュラーをやっている若大将とすれ違う。
そうしたら「オマエ、顔が貧しくなったぞ。光進丸にオマエを乗っけて時間を捨てに行こう」。
時間に追っかけまわされているので「時間を捨てる」という。
そして光進丸に乗って若大将はデッキで「鉄矢!」と言うから「はい!」と言ったら、緞帳がバーッと上がるみたいに陽が沈んだと思った瞬間から水平線から星が昇ってくる。
「この人は東経西経、緯度経度で遊んでる」という。
こっちが「角」でしか遊んでいない。
「新宿の○○丁の角、曲がった三件目に…」
加山雄三は・・・甲板で歌っているのだろう。
星空を恋の歌を。

青春スターの加山さん。
アイドルの側面がある。
例えば若大将シリーズ。
三十代の半ばぐらいまでずっと大学生の役をやってらした。
彼の人生の中でキラッと光る文芸大作がある。
そのNo.1がおそらく黒澤明監督の『赤ひげ』ではないか?

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三船敏郎がいわゆる「仁術」。
江戸期の貧しい人々に優しいお医者。
また三船敏郎がいい。
女性の春をひさぐ場所に行って性病に罹った女たちをかっさらってくる。
そうするとヤクザどもがこの赤ひげをバアッと取り囲む。
「何しやがんでぇ!その女置いてけ!俺らの商売道具だ!」と言うと「この女は私が預かる」「うるせぇ!やっちまえ!」とかってバアッとなる。
この三船敏郎がそのヤクザものの関節を外していく。
これが凄い。
アゴがずれる。
「ああ・・あああ」と言いながら。
それで十何人をやっつけた後、振り返って「イカン!こんなことをしてはイカンのだ!」と言いながら手当をしていく。
お医者さんだから。
「ここまで殴ることはないんだ」と言いながら。
それをその青年医の加山雄三がジイッと眺めているという。
そして医療とは何であるか、仁の心とは何であるかと学んでいくという。
二木てるみを預かって。
売春宿に売られた少女。
狐憑きみたいな顔になっちゃって、精神的な病。
それを加山雄三の若い医師が三船敏郎の赤ひげから託されて一人で治療にあたる。
ご飯を全然食べないので、さじを持って喰わせるのだが、パァン!と手で払う。
そうすると加山雄三が泣く。
「可哀想に…」と言いながら。
「本当はいい子なのに、みんなからいじめられてこんなになっちまって…」という。
その一言で二木てるみは心を開く。
懸命に面倒をみるが故に、どんどん加山雄三が痩せてゆく。
その女の子の治療にあたっている時にあまりにも心身を使いすぎるものだから、加山雄三が痩せていく。
その女の子がまっとうな魂に戻った時、加山が倒れる。
それで治療していた女の子がずっと面倒をみつづけるという。
この間の痩せていく加山雄三はすごい。
監督は黒澤明だから。
加山さんは食べる人。
「つらかったんじゃないですか?」と訊いたら「いや全然。俺はラッキーだったぜ!」。
痩せるために何をやっていたかといったら監督からもお許しが出たので毎日サーフィンをやっていた。
サーフィンはその時すごく大好きだったから、飯を喰わなくてもできた。
どんどん痩せていくし、撮影入る前にサーフィンをやって、終わってからもサーフィン。
「もう面白くて。やっててうまくなんだよ!」「あぁ…そうですか…」「すっげぇ楽しかったなぁ。あの撮影は」
「そうかい」という。
普通だったらちょっと話に重しを付ける。
「あの減量ほど厳しい減量はありませんでした…」「役作りの為に僕は…」とか精神性を前に出す。
加山さんは違う。
「すっげぇラッキーだった。撮影やってんのに毎日できるんだぜ?サーフィンが!」
この軽やかさ。
そういうのがもうなんともはや、加山さんは素敵。
それから『君といつまでも』を歌う若大将シリーズ。
加山さんが恋人(役)の星由里子に向かって「二人を〜♪」と歌う。
ところが映画は監督から「加山、オマエ恋人に歌いかけるラブソングを『今作った』と歌え」と言われて「二人を〜♪」と歌う。
途中から星さんが一緒に歌い出す。
その意味がわからずに監督に「今作った歌なんですけど、何で歌えるんですか?」と。
「何で星さん歌えるんですか?」と訊いたら監督が「いいから黙ってやれ!」と言われた。
「俺は納得いかないんだよ、そういうのが!」
そういう少年のムキになり方が・・・。

池内さんは「年寄り」というものを七十代後半から八十代と考えているようで、今話している話は六十代の方。
すこしピタリとこないところがあるかと思う。
ただ、池内さんの「体験年寄り日記」というのを読んでいると、思い当たる言葉、励まされる言葉がいくつもある。

 でも、老いてからの病は、一つの病を治せば全快するというケースが非常に少ない。一つ出てくれば、それは他の潜在的な病の前兆であって、一つ治すと次が出て、それを治しても、また次々と出てくる。
 六十年も七十年も八十年も使ってきた人体なんて、いたるところに故障があるのが当然で、調べれば必ず何か出ます。
−中略−
 僕はもう十年以上、検査は受けていません。血液検査だけはやってますけど、いわゆる大病院の、至れり尽くせりの、あらゆるものを検査するようなものは、もう必要ないかなっていう判断です。
(101頁)

あんまりにも人間ドックの結果に振り回されないほうがいい。
このあたりはやっぱり頷く。
そら、悪いところは出てくる。
よくなるということはない。
悪いところがない人もいない。

 樹木を見てもわかります。大木、老木、古木なんて言いますが、もう長い間、伸びていないんです。その代わり、ぼこんとコブが出来たり、空洞が出来たり、枝が半ば折れていびつになったり、妙に威張っていて近寄りがたい。−中略−
 ああいうのがやっとドッと倒れると、まわりから待ってましたとばかり若木がワッと出てきます。
(25〜26頁)

だけど花だけは若々しくありたい、と。
それが老いることの理想ではないでしょうか?
枝の中にはもう腐り始めているものもあるし、いつ折れるかわからない頼りない枝もある。
それも生きてきたキャリアの姿なんです。
一番大事なことは春が来れば新しい芽が出ているかどうか。
新しい枝が作れるかどうかに老いの価値がかかっている、と。
(ということは本には書いていない)
その新しい花、新しい枝ということで「老年オリンピック」と称して、4年に1度は自分に新しい企画を課すそうだ。
だから武田先生もやらないといけない。
英会話をやって絵を描き始めて、合気道をやり始めているみたいなことを威張っているが、もう合気道も4年だから、また何か新しいことを企画しないと、新しい枝とか新しい花が咲かせられない。
最近フッと思うが「もう一回大学へ行って勉強したい」とか。
それからテレビ番組で熱心に見ているワケではないが時々チャンネルを回している最中、その番組が映ってくると見てしまう番組に『プレバト!!』がある。
あれの俳句と絵画は見る。
特に俳句は自分でも作詞をやるからだが、あの女先生(夏井いつき)は言葉のセンスがうまい。
あの先生が添削をすると、全然変わったものになる。
たった五七五。
17文字しかないのだが、わずかに入れ替えるとか、助詞「てにをは」を切り替えるとか。
それだけで、あんなにこう、深々とした句が生まれるという。
あんなのを見ているとやってみたくなる。
先人の一句。
俳優の小沢昭一さん。
『昭一的こころ」(『小沢昭一の小沢昭一的こころ』TBSラジオ)という番組をやってらして。
もう名番組。
あの方が作った一句で、時々フッと口をついて出てくる名句。
 まだ尻を目で追う老いや荷風の忌
永井荷風という、ちょっとエロっぽい文学の得意な方の記念日があって、その日に老いたりといえど、まだ女性の尻をつい見てしまうという。
その老いの描き方の見事さ。
それからラーメン屋さんに行くと芸能人のサインがいっぱい並んでいる。
あの中で昔の落語家さんはチョッチョッチョッと絵を描く。
上手い人がいる。
ああいう、こう、チョッチョッチョッというのを。

加山さんと話していて、加山さんの何気ないがジンときた言葉。
「鉄矢、覚えておけよ。運命が性格を作るんじゃないぞ。性格が運命を作るんだ」
これはいい言葉。
みなさん噛みしめましょう。
「運命が性格を作るんじゃない。性格が運命を作るんだ」という。
前を向いてる加山さん。
だからどんどん明るい運命になっていく。
加山さんはずっと長い事トップスターであり、その栄光を歩いてきた。
そんなふうに武田が簡単に持ち上げると「何言ってるんだい鉄矢。俺だってすっごい苦労したんだ」という。
芸能以外で事業を手掛けて、ものすごい借金をしたり「お金がない」という日々だって女房には体験させて「本当に女房にすまないと思ってる」。
もうすべてをなくしてアメリカに逃げたことがある。
週刊誌からその手の話ばかり書かれて暗くなって。
その時に気持ちがどんどん塞いでいくんだけど「ダメだ、しっかり前だけ向こう!」と思って残りのお金で買ったのか借りたのか。
アメリカに着いてロスでハーレーダビッドソン。
免許を持っている。
それで女房に「カネないけどこれ買っちゃおう」「借りよう」とかと言って。
「これで大陸横断しよう」と「おまえと」。
それで奥さんを乗せてハーレーダビッドソンでアメリカ横断。
街まで毛布とか食料とか燃料だけ買いに行って。
「寝るぞ」と言ってコヨーテなんかが寄ってこないように火を焚いて。
女房と二人で缶詰を開けたりマッシュルームを焼いたりなんかして。
「頑張ろうな」なんてことを話しているうちに、フッとメロディが頭に浮かぶ。
それで持っていったのか、あるいは途中で有り金で買ったのかも知れない。
ギター一本だけ。
ポロンと弾いてできたのがこの歌。

夕陽は赤く



借金に追われてアメリカに逃亡したスター。
入口のところは暗いが、聞いているうちにだんだん明るくなる。
それで「鉄矢。オマエ言うけど、すっげぇ貧乏したんだぞ」と言って怒ったくせに「それでさ、その一曲作って横断し終わって日本に帰ってきて『何かねぇか?』て言われたからさ、ポロンとこれ弾いて。そしたら売れちゃってさー」。
この、どんなに暗い話を始めても、最後は全部明るくなって。
この話を(武田先生の)女房にするといつも言う。
「そこがあなた違うんだ」と。
「あなた、まっすぐ落ちるでしょ?」
加山さんは何か、ずり落ちながらも掴んで、それが立派な強いロープみたいなのを見つける。
「ロープをたどっていったらケーブルカーがあった」みたいな。
貧しくても話が豊か。

(加齢で)眠るのがどんどん下手になってしまう。
(病院の)睡眠科にあんなにお年寄りの方が並んでらっしゃる。
ところが、この池内さんははっきりおっしゃっている。
「あの少年の頃の眠りが戻ってくるわけがねぇ!」という。
(本にはそういう文章はない)
あれは一生に一回のところだ、と。
「ぐっすり朝まで一度も起きずに」なんて、そんなことはもうないんだ、と。

 眠りはそれぞれ、三十分か一時間でいいので、合算すると六時間ぐらい寝ていることになって、非常に体にはいいと思います。(163頁)

そういうのはやっぱりハッとする。
加山さんが話してくれた。
大型のクルーザーを手に入れて太平洋を横断したい。
その船には必ず女房を乗っけて、人生を二人で祝いたい、と。
サンフランシスコに入って行って、甲板にジャグジーをひいて。
二人でジャグジーに浸かってシャンパンで乾杯したいって。
カッコイイ〜!
すみません貧乏な方。
もう語る夢が豪華絢爛。
確かにカッコよすぎる若大将なのだが、でもやっぱりそんな人を目指そう!
何かあの、枯れていくことにあまり力点を置かず豪華絢爛。
そんな加山さんの老い方というのは一種理想ではないかなぁと。
このあたりで加山さんの豪華さを語りつつ、番組を落とそうかなぁと思っていた矢先のこと。
加山さんにお会いしたのは3月25日。
わずか六日後の4月1日。
何と、その豪華絢爛たる若大将の光進丸が船火事を起こしたという。
ショックなニュース。
加山雄三の光進丸が鎮火 火災は電気系統トラブルか - 芸能 : 日刊スポーツ
ちょうど沖縄に行かれていて。
今度は武田先生の代わりに一曲目は南こうせつに歌わせて、中途から加山さんが入ってくるという、あのパターンのコンサートをおやりの最中に、打ち上げの席で光進丸から失火。
「ただいま炎上中」という知らせが入る。
次の日に加山さんの姿がワイドショーで。
もう加山さんは落ち込んでいて、可哀相で可哀想で。
ただ、やっぱりこの人の気遣いはよかった。
この方は警察と消防署の関係者の方に「鎮火にあたって下さり、ありがとうございます」と深々と頭を下げた。
それで「つらいです」という。
加山さんはずっと両手を合わせている。
「あの光進丸には思い出が多いんですよ」と。
だからいつの間にか、両の手のひらが合掌の形になって、光進丸の冥福を祈っておられるという若大将の姿を見て切なくなった武田先生。
でも昨日(この番組上の前日)もお話しした通り、この方は絶望の話の入り口から明るい豪華絢爛たるエピソードを生み出す達人。

光進丸




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2018年5月28〜6月8日◆すげぇ年寄り(前編)

2018年3月25日に仕事があったので、三枚におろす筆を一旦休めて福岡に飛んだ武田先生。
福岡では、とあるコンサートが待っていた。
「その方」のコンサートなのだが、何と一曲目には出てこないで武田先生が出る。
せりから上がってきて、お客がってきり「あの人」だと思ったら、くるっと振り返ると武田先生。
それでも平気な方。
「いや、やっぱり一曲目は…」と言うが「やってくれよ」と言うからやった。
それで、武田先生が歌を歌っていると、その方が突然現れるという。
こっち側をお客さんが観ているものだから、真後ろからその人が手を振りながら。
会場は満杯。
福岡の一番大きい劇場。
三千人近い。
四段ある会館が満席。
もう、一階のセンターからその人がライトを浴びて出た瞬間(歓声が)「ウワーっ!」。
それで歌い出す。

蒼い星くず



加山雄三。
それはどこから見ても「スター」。
本当に申し訳ないが、お客さんと握手しながらというのは見た目にはいいが疲れる。
興奮したお客さんは自分の方に(手を)引く。
それを足腰に力を入れて踏ん張りながら・・・。
体力を使う。
○千人のお客が手を伸ばしてくるところを、あの若大将(加山雄三)は颯爽と歌いながら登場してくる。
そしてセンターステージに着いてピンスポットを浴びた若大将は観客にご挨拶をする。
武田先生は煙のうちに消えてしまう。
もう(主役の加山雄三が)出た瞬間に何の役にも立たないから。
出た瞬間には「あ、武田鉄矢!」となって最初は笑うが、加山さんが出たら本当に用なし。
それで、その一曲を歌い終わった若大将のトークの第一声。
場内が割れんばかりの喝采の中、加山さんは観客に向かって話しかける。
「加山雄三です。どうですみなさん。若いでしょう?どう見たってボク、81歳には見えないでしょう?どう見ても80歳ですよね」
三千(人)のお客が「うわーっ」と笑う。
そして「よぉし、大丈夫だな、みんな!しっかりヒアルロン酸飲んでるな!」と言いながら二曲目に入る。
それを舞台袖からスタッフと観ながら。
加山さんのスタッフも今、すごく若い。
もう二十代、三十代前半の子ばかり。
その若い人たちに交じって、二曲目を歌う若大将をボーッと観ているうちに「長い付き合いになったなぁ」とか「なんてスゲェ年寄りだ」。
「あ!『スゲェ年寄り』?」ということで、池内紀(いけうちおさむ)さんの『すごいトシヨリ』と重ね合わせて、スゲェ年寄り加山雄三を語っていけば、肉厚に三枚におろせるのではないかと思った武田先生。

すごいトシヨリBOOK トシをとると楽しみがふえる



 老いるのは人間だけではありません。山も老いるし、星も年を取る。川も老いるし、建物だって老いる。(24頁)

それに年齢によって好みが変わる。
好みの街角。
すべてにおいて好みが変わってきたと感じる水谷譲。
昔は「こんなのあんまり」というのが今は好きになったりすることがある。
駅の降りる場所とか。
そういう「老いる」ということについての一種「思い」。

しきりに「老いても私はなお盛んである」と話す人がいたら病気だと思ってください。
「老いも病だと考えていいんじゃないですか?」とおっしゃっている。
(本の中にはそれらしいことも書かれているが、そのものズバリな感じの表記は見つからず)
何かいくつか褒められて「それが自分の個性だ」「それが才能だ」と思っている人がいるかも知れないが、十中八九その方はずれている。
「老いる」ということは、もうすでに賞味期限が切れつつあるわけだから。
「賞味期限切れ」という自分について自覚した方がいいのだ、と。
「豊かな老い」「心配のない老い」「大往生」「終活のすすめ」
そんなのがラジオやテレビから流れてきたら、まずは耳をふさげ、と。
どうせいいことは一つも言わんのだ、と。
「○○をやれば豊かな老後が送れる」とか「○○さえあれば豊かなんだ」とかっていう「老いに何かをプラスすることで老いが克服できる」という、そういう論法そのものがもうおかしい、と。
断捨離とか終活とかエンディングノートが流行ってみなさんやってらっしゃるという水谷譲。
終活に入った途端、老後は長くなる。
歌手の中にもやっぱりいる。
生前葬コンサートをやって、ずっとやり続けてゼイゼイ言っている方。
「疲れたぁ!」とおっしゃっているが。
なかなか自分のエンディングを演出するというのは難しい。
武田先生も自分で肝に銘じているが、自分の人生に幕を降ろすのは自分ではない。
熊本の義理の母が言った言葉。
それは「おまかせ」。
熊本の義理の母が武田先生の母親を「徳があるから、スッとあの世に行けた」と言う。
義理の母のグチを聞くと切なくなることがあって「親孝行しますから!」と言うことがあるが、とにかくラストは演出できない。
それは他の何者かに任せよう。
だって、生まれてきた時が、生まれてこようと思ってでてきたワケではない。
あんまり若い方が同情してくれるからと甘えていると、本当に哀れな老人になってしまう。
この池内さんの気骨溢れる文章というのは何かというと「自分の老いは自分の手で磨くしかないんだ」。
(このあたりの話も本には見つからず)
老人を作っているのは周りである、と。
老いというものを自分で磨いて、自分だけの老いというものを探しましょう、と。
これはやっぱりかなりギクッとする。

まもなく81歳の誕生日を迎えるという加山雄三さん。
福岡でのコンサートで、武田先生に出囃子だけやらせておいて、途中から自分がスポッといいとこ、センターマイクに立った。
そこから二時間半。
若大将はその前もステージがあって、張り切ってやっちゃっているものだから声がガラガラ。
でも一言も言わない。
普通は言う。
「喉の調子が本調子じゃなくてごめんなさいね。でも精一杯…」と。
並みの歌手でも、自分の頑張りを強調する。
「命をかけてこの世に…ゲホゲホ…」とかって気取る。
もう加山さんは声が枯れている。
それでも一個も言い訳をしない。
かすれた声で加山雄三が歌う『海』。
泣けてくる。

海 その愛



福岡でやった3月25日の加山さんのコンサート。
その時に加山さんは当日入り。
武田先生たちは前日から入って二曲しか歌わない。
でないときつい。
加山さんは当日入りで1時に福岡着。
それで会館に着くと、その足でまっすぐステージ、音リハ。
1時に着いて2時からリハーサルで4時から本番。
その4時から短い休憩も挟んで2時間半。
終わったのが7時半ぐらい。
驚くなかれ、8時15分の飛行機で東京帰り。
そして一週間もおかずに沖縄でのコンサート。
そのシリーズのファイナルをやるという。

老いは病ではない。
しかし病と同じように名付けた方がよい場合がある、と。

 老いの初期段階では、人の名前や固有名詞が浮かんでこない「失名症」や、人と話していると急に話を横から取っちゃって自分の話に持っていく「横取り症」が現われます。
 それから、「同一志向症」。これは例えば、自分のメガネをテレビの横に置いていて、家の人が掃除の時に動かしたとします。そうすると、「俺のメガネを勝手に動かすなよ」なんて言う。
(58頁)

(番組の中ではこの「同一志向症」は相手に共感を求めるような話になっているが本によると違う)

 ようするに、自分が決めたものが決まった所にないと承知できない。−中略−
 それと似たものに、「整理整頓症」があります。
−中略−
 それから、急がなくてもいいのにせかせか焦るのが「せかせか症」。
−中略−
 食事もせかせかして、誤嚥をする。食べ物が気管に入ってしまう。ゆっくり食べればなんてことはないのに、お餅を丸呑みして、大騒ぎになる。
 また、自分の昔話をする時の「過去すり替え症」も、このカテゴリーに入ります。
(58〜61頁)

これが老いの初期症状。
あれは病だと思ってあげてください。
可哀想に。
そして病態がさらに進むと老いの「カテゴリ2」。

年齢執着症・ベラベラ症・失語症・指図分裂症・過去捏造症・記憶脱落症(61頁)

老いが進むと、やたらと年齢に執着するようになります。聞かれてもいないのに、「いや、俺もね、いい年になってね」とか、「あなた、幾つ?」とか言い始める。これが「年齢執着症」。(61〜62頁)

「失名症」は「失語症」に進行します。「昨日食べた、あの……」って、普通名詞が出てこなくなる。ごくふつうの、日常のものなり言葉が出てこなくなります。(62頁)

とにかく人の話を聞かず「アレアレ」と言いながらやたらに指図し、座の中央、一座の中心人物になりたがる。
やがて他人の体験を自分のものにしたり、その時、自分がそれをどこで見ていたのかを思い出せない。
さらに進む(カテゴリ1)と自分のミス、失敗、他人への迷惑、否定的、苦境などネガティブ体験を忘れて、当人だけが幸せな状態になるという。
とにかくざっとまとめると、老いがさらに進むと聞く力がなくなる。

池内氏はドキッとする一言を言う。
「人に寄りかかるからこうなってしまうんだ」と。
「自立しろ」と。
最近マネージャーにカバンを持ってもらうことが多い武田先生。
ずっと心が痛んでいる。
若いときには、結構ムキになっていたが、最近は持ってもらう楽に慣れてしまう。
それから願望だが、自立の意味では料理ができるジイサンになりたいと思う武田先生。
今は奥さんに「面倒臭い」と怒られてしまうから。
横から手出しをすると「違う!そうじゃないの!」と怒られる。
この間も喧嘩になった。
旅番組で京都の湯葉の特集をやっていた。
「あー湯葉か」と思って「見事じゃないかよ、この京都の湯葉職人は」と言ったら奥様が突然話の方向が変わって「食べちゃダメよ、あなた。湯葉」と。
「何で?」
「タンパク質が多すぎる」
「だって植物性だよ?」
「関係ないの!動物も植物も!」と言われると湯葉を喰いながら死んでやろうかと思った武田先生。

 群れるのをやめて一人ひとりが過去を背負い、一人ひとりが自分の老いを迎えるのが本来であって、群れて、集まって、はしゃいで、というのは老いの尊厳に対する侮蔑ではないか。(37頁)

「ジジイで味わいがあるのは、一人のジジイだ」と言う。
それと、この方はやっぱり凄くはっきりおっしゃる。
「夫婦で、ジジイババアになって旅行すんな」と。

 以前、ある公共の宿に取材で泊まったのですが、食堂に入った途端、「ここ、介護施設かな?」と思いました。広い食堂いっぱいに、年を取った夫婦が並んで座っていて、シーンとしているわけです。どの夫婦も、ただ、黙々と食べている。(114頁)

旅館に行っても、バアサンが風呂から出てくるのをジーッとジイサンが表の暖簾で待っているなんていうのは「お部屋を忘れたんですか?」とかと、つい声をかけたくなる。

 ひと組だけ華やかなのがいて、「あれは、ワケありだよ」って僕はピンときた。他人だからあんなに華やいでいるわけで、あとはみんな夫婦。(114頁)

この人は生々しいヤツをご覧になったのだろう。
だからこの池内さんがおっしゃっているのは「ぬれ落ち葉みたいにくっつかないで、お互いに離れて歩け」と。

「夕方の何時頃までに宿に入る」ということだけ決めておいて別々のルートで出発すれば、お互い途中でいろいろな出来事があるでしょうから、夕食の話題になります。(114頁)

「オマエは山桜見たいんだったらば、山桜のとこ通るバスがあるから、俺は車ゆっくり走らせるから、下の川岸の方、見てくるわ」と言いながら、晩飯の時に両者が見た桜の色模様でも語れば、まだ話題があるが。
くっついているものだから、話すことも何もないというような。
これはやっぱりドキッとする。

君といつまでも



加山さんに声をかけてもらって40年になる武田先生。
とにかく加山雄三は憧れの人だった。
何で憧れか?
個人的な理由がある。
生年月日が一緒。
4月11日。
それで当然だが星座が一緒で干支が一緒。
丑年。
ということは(干支が)一回り上の兄貴。
そのことを加山さんが知っていて「オマエは腹違いの弟だ」と言って可愛がって下さる。
81歳の若大将はその3月25日のステージでも『君といつまでも』を歌ってらっしゃった。
武田先生が『君といつまでも』を聞いたのは十代の時。
三十代になったばかりの時に加山さんと知り合って、加山さんのステージに呼ばれて。
加山さんが『君といつまでも』を歌う姿を舞台袖とかバックステージ、後ろの椅子で見たり聞いたりしていた。
武田先生が40歳で、加山さんが50歳ぐらいになられた時に、またステージに呼ばれて、加山さんは『君といつまでも』を歌う。
その時になんとなく「加山さんて飽きないのかなぁ?」と思った。
だって20年ぐらい同じ歌を歌っているワケだから。
「同じ歌をずっと歌い続けると飽きちゃうんだろうなぁ」と思っていた。
でも、自分も同じ30歳で作った歌を60歳になっても「贈る〜言葉〜♪」で歌っている。

贈る言葉



フッと加山さんの心情を疑ったことがある。
今度また80歳になられた加山さんの歌を聞くと、いい。
それがいかに幸せなことであるか。
そしてそれがいかに凄いことであるか。
30歳で歌っていた歌を80歳で歌うというのは「その人の本当の力なんだなぁ」と思ったりした。

『すごいトシヨリ』をお書きの池内氏がおっしゃっているが「とにかく、なんでもいいから老いは楽しみを見つけなさい」と。

ワインっていうのは、ラベルがものすごくきれいなんです。ワインレコーダーという、ラベルをはがすシールがあって、それを使って、自分が飲んだワインのラベルをコレクションしています。(130頁)

そして「少し勉強して詳しくなろう」と。
(とは本には書いていないが)

 ラベルには、「どこで、いつとれて、どこで詰め合わせをして、どういう等級で、どういうテロワール(土壌)で、どういう人が作っていて」という、いろんな情報が書いてあるので、自分が飲んだワインについて、これを見るとおおかたわかります。(131頁)

こんなふうにしてワインレコーダーとしていろんなものを集めていくうちに詳しくなるという。
で、ヒョイと裏っ側を見て「あー」とかっていう、その姿は絵になりますぜ?と。
それから、まったく違う発見もする、と。
池内さんの発見。

「フランスは八割ちかくも原発でまかなっている」というのは、いつも日本の原発の言い訳に使われますが、その構造がまったく違うんですね。
 こういうことも、「あれ、なぜラベルの地名と原発の地名が同じなんだ?」って気づいたから。ボルドーとか、有名な産地はいくつかありますけれど、おおかた、原発の所在地でもあります。
(133〜134)

川沿いの斜面、海に近い潮風の荒れ地等々が、原発を建てるのにはもってこいなんだけれども、ワイン生産地としてもすごく大事な条件。
だからワイン作りのベルトというのは原発のベルトと重なっている。
池内さんがおっしゃるのは「福島あたりも一面のブドウ園にするといいのかもしれない。海に近いし」。
(このあたりの話の流れは本とは異なるが)
そうしたらもうワイン作りを始めた人がいる。
ボルドーに負けたくないということで。
福島浪江とか、あのあたりは気候風土が非常に近く、海にも近い。
荒れ地で栄養分が少ないから、逆にワイン作りにはもってこいという。
福島の浜通り辺りではそのへんの事情を加味して今「いつか必ず最高のワインを作ろう」という農業関係者が頑張っていらっしゃるそうだ。
池内さん曰く「飲みたいですなぁ」と。
(とは本には書いていない)
「ラベルレコーダーとして、そこのラベル貼りたいですなぁ」とおっしゃっている。
(とは本には書いていない)

若大将に聞いたことがある武田先生。
若大将はいつも歌ってらっしゃるから「若大将、すげぇ根性ですね」。
80歳過ぎてらっしゃるのにまだ歌うという。
そのステージへの執念、ファイト、すごい。
これを若大将曰く「ああ、ずいぶん長いこと続いてるなー。なぁ、鉄矢。なんで続くかわかるか?」
「いや、それはね、若大将の執念ですよ」
若大将曰く、歌はなぜ続いているか。
「遊びだからよ」
「執念」とか「この道一筋」とか絶対にこの人は言わない。
「いいか、鉄矢。何かを真剣に続けようとしたら、絶対仕事にするな。仕事にすると続かないぞ。遊びだとずーっと続くんだ。歌は俺にとって遊びなんだ。今まで苦しいと思ったことは一回もない」
これは何かガクッとくる。
日本人は力む。
生きてきた道を「マイウェイ」にしたがる。
でも違う。
若大将は遠くまでトンボを追いかけていく少年のような心で、素敵なメロディを追いかけている。
「その心なくんば遠くまで人間は歩けない」という。
このあたりが若大将の魅力。

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2018年06月01日

2017年11月13〜24日◆世界からバナナが無くなる前に(後編)

これの続きです。

(番組冒頭の小説を読まない話やドラマの話は割愛)

「農業テロ」といっても「農作物が枯れるだけじゃん」と今、お思いだろう。
ゆっくりこれからこの話を広げていく。
アマゾンの熱帯雨林。
そこに広がっていたカカオのプランテーション。
それが木を切り倒されたおかげで、砲撃を受けたような穴だらけの部分ができてきた。
この時にブラジル農協の方が考えたのは「テロだ!」と。
人がロープで結んでいる以上は。
「犯人は誰だ!」ということ。

考えられる説の一つは、ブラジル産以外のほとんどのカカオを栽培しているコートジボアール、ガーナ、マレーシアに住む誰かが、自国のカカオ生産を有利に導くために、ブラジルのカカオ生産の壊滅をもくろんだというものである。(110頁)

事実として第二次世界大戦中、戦争を行った国々は全部、実はこの農業テロの病原体の研究をしている。
ナチス、アメリカ、ソ連、日本。
この軍部は農業テロの研究をしていた。
毒ガス等々のことを言う方がいらっしゃるが、農業テロの方が被害がデカい。
あのアイルランドから100万人以上の餓死者を作り出すことが、たった二年でできる。
凄まじい被害が農業テロでは可能。
だからミサイルなんか研究している国は火を点けるのがわかるのだから、農業テロは怖い。
そうやって考えると、ちょっとやっぱり世界の見方も変わってくる。

ブラジル農協は必死になってこの犯人捜しも懸命にやったという。
しかしカカオの苗が高騰し、農民の中から農協を疑う声も上がった。
すごい、もう疑心暗鬼。
何で農協を疑うか?
カカオの病気をした木を始末した後「新しいカカオで、何とかもう一回頑張ろう」と思う人がいるとする。
農協に「カカオの苗を売ってくれ」というと五倍以上する。
もう病気で無いから。
ジャガイモが無くなったのと同じ。
種イモが無いワケだ。
それで「農協が農民にカカオの苗を高く売るために病気を広めたんじゃないか」というので、この手のことは内部で疑心暗鬼になる。
この著者がいいことを書いている。
農業テロのようないわゆる「農作物をダメにする」ということは「人間の性根まで腐らせる」という。
(この記述は本の中に発見できず)

バイーア州には六五万ヘクタールのカカオ園があったが、一九九二年には四〇万ヘクタールのみが残り、残った土地でも、かつてほど多くのチョコレートを生産することはできなかった。天狗巣病は根絶されず、完全な回復を図ることができなかったために、生産高は七五パーセント低下する。(114頁)

ブラジルは世界第二位のチョコレート生産国であった。それからたった四年後には、チョコレートの純輸入国になっていた(115頁)

何せ何にも足取りも証拠もつかめないわけだから、犯人捜しはほぼ絶望的。
今ならカメラか何かで撮っているから「犯人が」とか言うが、何十万ヘクタールの広さのあるエリアで、そういうカメラを置くのも無理。
ところが犯人がわかる。

 その後一〇年以上が経過してから、驚くべき答えが得られた。二〇〇六年になって、バイーア州のカカオ危機の関係者が誰も知らない一人の男が、ある告白をした。ジャーナリストのポリカルポ・ジュニオールが行ない、大衆誌『Veja』に掲載された四つのインタビューのうちの一つで、この男は、「私、ルイス・エンリケ・フランコ・ティモテオは、バイーア州への天狗巣病の植えつけに関係した一人です」と述べた。−中略−ティモテオは、最初の感染が発生する二年前の一九八七年、イタブナ〔バイーア州の都市〕のバーで飲んでいた。そこで五人の男−中略−と会う。−中略−彼らは−中略−カカオ産業を破壊することで、農園主の経済的、政治的権力を打破しようと画策していたのだ。−中略−地域の産業を破壊するのではない。人民のために、農園主の手から経済的な権力を奪取するのだ。そう考えたのである。この計画には「南十字星作戦(Cruzeiro do sul)」という名前さえつけられた。(115〜116頁)

 六人の男たちのうち、アマゾン地方についてもっとも知悉していたティモテオは、アマゾンを旅して計画に用いる天狗巣病菌を集めた。五〇時間以上バスに揺られて−中略−天狗巣病に感染した枝を集め、袋に隠してバイーア州まで持ち帰ったのである。−中略−こうして彼は、バイーア州とアマゾン地方を何回か往復することで、合計しておよそ二五〇〜三〇〇本の感染した枝を運んだのである。
 ティモテオがバイーア州に戻ってくると、六人は、CEPLACのロゴが描かれた車に感染した枝を積んで
−中略−沿道の木に感染した枝をロープで結わえていった。(116〜117頁)

(番組ではティモテオが主犯格と言っているが、すでに5人の男が犯行を企てており、ティモテオは6人目として加わった)
現実に犯人の仲間たちはその後、市長や農協関係者になっている。
政治的逆転というのは本当に怖い。
彼らのテロは大成功した。
ブラジル農協から憎きヤツを全部叩きき出して、自分たちが農協のトップに収まった。
ある意味ではよかった。
「テロ成功!」というワケだ。
ところが、何で自白したか?
ブラジル農協が潰れてしまった。
そこの組織の偉いさんになりたかったが、そこの組織そのものがカカオの不作で潰れてしまう。
それでちっとも美味しくなくて、ヤケになって喋っちゃった。
(本によるとそういう話ではないが)

そのせいで二五万人が職を失った。プランテーションの雇用者とその家族を含め、一〇〇万人近くが、都市へ移住した。(118頁)

6人は逮捕されたが、裁判では証拠不十分で無罪放免。
残った事実は何か?
世界第二位の稼いでた商品をブラジルが失くし、さらに苦しい貧困に陥ったという。
テロをやろうという方、よーく考えといてください。
これがテロの報い。

テロリストの人たちが農業の方に向かないように祈るばかりだと思ったが、でも日本でも鳥インフルエンザ等々があった。
あの時に鳥インフルエンザとか狂牛病等々が襲った村町をコンサートで流した武田先生。
その関係者の顔つきは、そういう顔つきだった。
鳥インフルエンザの時、もう町の名前を言うのをやめるが、県境で「そういや、何か月か前からか、○○国からの観光客が妙に増えたけん・・・」と。
それを言うと・・・。
それと渡り鳥に菌を・・・。

イムジン河



『イムジン河』の歌詞ではないが「水鳥自由に飛び交い群れ」と言っている場合じゃない。
その水鳥が大変な・・・。
決してそこの国の方を疑っているワケではないが、農業テロの恐ろしさは「そういう目」になってしまうということ。

後日談。
ブラジルはこれでカカオがすっかりダメになった。
急激にカカオ生産で名前を上げたのはガーナ。
ブラジルから西アフリカ。
アフリカにカカオ生産の主力基地は移った。
ここではまずはっきり言えるのは天狗巣病がまだ侵入していない。
そしてもう一つある。
ここが農業の面白いところ。
日本なんかも怖い。
確かに鳥インフルエンザも狂牛病も怖い。
色々ある。
だけど一番心配なのは中国。
アメリカも怖い。
耕作面積が広すぎる。
日本でこの手の心配がちょっと安心できるのは、スケールが小さいから管理が届く。
今、西アフリカでカカオが世界でNo.1になっているのは耕作面積が小さい。
小規模栽培。
だから天狗巣病が発生しても、いわゆる何坪かを抑えれば防げる。
発見まで二日も三日もかかるような広大なプランテーション農園という所が一番怖い。
今、カカオ生産が西アフリカでバーッと伸びているのは、この耕作面積の狭さ。
このへんが面白い。
プランテーションのような巨大さはなく、零細であるがゆえに、カカオの病が出れば、その飛散は小さい規模で食い止めることができる。
だからデカい農業生産をやっているところは、皆この農業テロの危険性がある。
そうやって考えるとロシア、中国、アメリカ気を付けて。
特に中国。
軍事費にお金を使っている場合ではない。

 アフリカに移植された当初、カカオはアメリカ大陸では知られていなかった難題につきまとわれた。その一つは、カカオの木の葉が赤くなり、若芽が腫れる枝腫病であった。この病気にかかると、やがて木は死ぬ。(123頁)

病原菌はアリによって拡大する。
今年(2017年)の日本の夏。
ヒアリ。
つまりその手のアリが世界中に横行する時代に突入している。

熱帯雨林の木陰に造成されたカカオプランテーションならどこでも、一〇〇種を超えるアリが見つかるはずだ。それらのアリの多くは、まだ名前がつけられていない。(126頁)

生態なんか全然わかっていないアリが。
この枝腐れ病を広げるアフリカのアリというのは地面ではなくて、木のてっぺんに住んでいる。

 熱帯雨林の樹冠に生息するアリには、羊飼いがヒツジの面倒を見るようにコナカイガラムシの面倒を見、それに依存して生きている種がある。(127頁)

このアリたちは名前も付いていないが地面ではなく木のてっぺんに住む。
このアリたちが害虫のコナカイガラムシと共生するということ。
一緒に生きていく。
このアリはコナカイガラムシを飼育する。

コナカイガラムシは樹液を吸って生きているが、−中略−余った糖分を排泄する必要がある。これはアリにとってはマナ、すなわち栄養満点の甘いミルクだ−中略−アリは排泄された糖分を摂取するだけでなく、糖分の供給を独占するためにコナカイガラムシの面倒も見る。コナカイガラムシの群れのうえに、雨や寄生虫や捕食者(さらには殺虫剤)から守るための小さなテントを張るのだ。(127頁)

(番組ではアリがコナカイガラムシに「カカオの葉っぱを喰わせる」と言っているが、本の内容はそうではない)

西アフリカで栽培されているカカオの木だけでも、アリが面倒を見るコナカイガラムシが二〇種以上見つかっている。(128頁)

その葉っぱは喰われ、カカオの実も喰われる。
このカカオの実を砕く時のアリのツバ、唾液に枝腐病の菌が住んでいるという。
これはどうしようもない。
(このあたりは本の内容とは違っている)
このアリが住む場所、このアリが虫を飼っている場所が木のてっぺん。
農薬が届かない。
ヘリコプターを雇って上から撒くと経費がかかりすぎる。
それでもう、どうしようもないということ。
これは一旦広まると、だからもう切り倒すしかない。
ところが『奇跡のリンゴ』の木村さんみたいな人がいる。

 早くからハリー・エバンスらは、木を救うためにアリ同士の戦争を利用する可能性を示唆していた。カカオの樹冠を支配するアリの種のほとんどは、カカオの天敵であるように思われるかもしれないが、ツムギアリと−中略−天敵ではなく、カカオの木に非常に有益な働きをする。有害なコナカイガラムシの種を保護したりはせずCSSVや疫病菌を拡散することがない。さらにはカカオの木を蝕む害虫を食べ、他のアリと積極的に戦う。これらのアリを用いたほかのアリのコントロールは、これまで長く実践されてきた。(130頁)

このハリー・エバンスさんは何と、アフリカのジャングルにこのツムギアリを放った。
今のところまだ結果は出ていない。
(ハリー・エバンスがツムギアリを放ったという話は本には出てこない。番組では「エバンズ」と発音しているが、本によると「エバンス」)
作物を守るための方法としては、彼は「絶対に自然に従うべき」と考えているそうで、農薬を使うというのは、そんなことをやっちゃいけない。
(このあたりの話も本の中には発見できず)
農薬も高いし農業が成立しない。
零細農業だから。
まだ未知なのだが、うまくいきそうな様子だそうだ。
だから「虫を退治するのは虫」という、この発想が抜群。
ツムギアリの他、コナカイガラムシを養うアリに寄生して体と免疫系を乗っ取る「ゾンビ菌類」の研究も始まった。
自然界にいっぱいある。
「腸」のところで話した。
このあたりの話かと思われる)
コナカイガラムシを養うアリという種類に特化して、小さな虫が寄生して脳を侵す。
脳を侵しておいて外側から「ライダーロボット!」みたいな感じで操作する。
そういうヤツがいて、乗っ取らせておいて、こっち側に持ってくるという方法を考えれば、自然界に沿って退治できるのではないだろうか、という。
これも自然界にある出来事で。
食物連鎖というものは実に細やかで、操る虫がいると、その虫を操る虫というのもいるという。
これは面白い。
そのうちに別個の女性が凄いことを発見した。

 ヒューズと研究を行なっていた学生ミーガン・ウィルカーソンは、非常に安価な方法でカカオ病原体のコントロールを試みようとしていた。彼女は、アリがコナカイガラムシのために作った小さなテントを、石鹸水を使ってこじ開けたのである。石鹸水はテントを破壊し、何匹かのコナカイガラムシを殺した。(132頁)

これが世紀の大発見。
それで「西アフリカの農業にもこれは使える」ということで。
ツムギアリと石鹸水。
この二つで今、カカオを守るという方策が成功しつつあるという。
『奇跡のリンゴ』の時に木村さんがリンゴに寄ってくる害虫をやっつけるために、酢とかお醤油とか何でもかける。
あれはやってみる価値があること。
とりあえず危険じゃないもので一回試してみるというのは。

虫が付く。
その虫をどうやって駆除していくか。
我々は、いとも簡単に「害虫」とかっていう呼び方をするが、そう一概には言えない。
木村さんが昔、お話しした時にいいことを言っていた。
リンゴに虫が付く。
だけどそのリンゴの葉っぱを喰うという害虫は葉っぱを喰うから顔つきが優しい。
それで、その葉っぱを喰う虫を喰う天敵「益虫」というのがいる。
ガラが悪い。
その木村さんのたとえが抜群にわかった武田先生。
虫と虫の関係は複雑。
そのよい例。

カカオと同じく、コーヒーはさまざまな脅威に直面している。その一つは、コーヒーの種子に穴をあける甲虫、コーヒーノミキクイムシである。−中略−一九世紀のセイロンで、コーヒー園を破壊したものと同じさび菌も脅威を与えている。(132〜133頁)

カカオとコーヒーの違い。
例えばコーヒーは最初から名前が付いている。
グアテマラ、コロンビア。
生産地に名前がそのまま付く。
コーヒーは大農園よりも中小の零細農園がコーヒーを支えている。
そっちの方が病害虫が広がりにくい。
大プランテーションにすると一発でコーヒーは滅びる可能性がある。
そうやって聞くと小さいスケールは意外と大事。
(本には公的な資金援助を受けた研究が一因などという記述しか発見できず)
ここからがまた面白い。

 ラテンアメリカの、特に木陰でコーヒーが育てられている場所では、アリはコーヒーの木のうえでコナカイガラムシの面倒を見ている。しかしここからのストーリーは、カカオの場合と異なる。コーヒーの木ではコナカイガラムシは菌類病原体に感染する。この奇妙な病原体は、コーヒーさび病菌にも寄生する。コナカイガラムシがたくさんいる場所には、この菌類病原体も豊富に存在し、その結果、それに感染してコーヒーさび病菌は減少する。(134頁)

だから多少被害は出るが、コナカイガラムシを全滅させるとコーヒーさび病が発生する。
だからコーヒーの場合はコナカイガラムシをゼロにせずに一定の被害が出ることを儲けに入れておいて全滅させずに飼いつづける。
まるでワクチン。
ワクチンを打った木のように収穫分のコーヒーが計算できる。
このへんは面白い。

 生物と他の生物が行なっている自然な相互作用を作物(と私たち)に有利な方向に変えるために作物の自然史や生態を研究する学問は、ときにアグロエコロジーと呼ばれる。(134頁)

今、もの凄い重大な学問として世界中の注目を浴びているらしい。
そんなことを考えると木村さんは先駆の人だったのだ。
ちょっとの犠牲は払っても「バランス」だという。
全部正義の主張をしない。
ちょっと悪いところを含む。
そのことによって社会全体がをしなやかさを持つ、タフさを持つ。
何か「排除しない」て大事。
いろんなことに繋がる。
このアグロエコロジーは日本なんかは大得意だと思う。
普通に市井に木村さんみたいな直感でこの道をたどり着いた人がいて、巨大ではない、プランテーションではない、零細であるということが農業を守る重大なヒントになっているというのは、何か我ら小さく弱い者を励ましてくれる。

ヨーロッパのとある国では、世界中の原種の種を氷河の底に貯蓄している。
冷凍保存できるように。
トウモロコシだって本当は種類が山ほどある。
それが一種類になることの危険さを知っているヨーロッパの進んだ国では、世界中のトウモロコシの種を冷凍保存で貯蓄している。
今、急速にかつての人々の食べた種が減りつつある。
それをキープしようという運動があって、氷河の中に種を蓄え続けている国があるらしい。

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2017年11月13〜24日◆世界からバナナが無くなる前に(前編)

世界からバナナがなくなるまえに: 食糧危機に立ち向かう科学者たち



「今、現代の文明というのはこういうことが起こりうるぞ」という警告の書。
バナナ。
ありふれた果物だが、これが突然、世界の食卓から消えるという危険性が今、あるという。

 一万三〇〇〇年前、私たちの祖先は皆、一週間のうちに数百種の植物や動物を消費していた。(7頁)

しかし、わずか三千年ほど前にその種類が減った。
なぜ減ったか?

 農業が拡大するにつれ、消費される食物の多様性は世界全体を通じて低下していった。(7頁)

人類が消費しているカロリーの八〇パーセントは一二種、九〇パーセントは一五種の植物から得られているに過ぎない。−中略−現在では野生の草原よりトウモロコシ畑のほうが、総面積が広い。(7〜8頁)

たとえばコンゴ盆地に住む人々は、カロリーの八〇パーセントをたった一種類の作物キャッサバ(ユカあるいはマニオクとも呼ばれる)から得ている。中国には、コメが消費カロリーのほとんどを占める地域が存在する。(8頁)

我々日本もそう。

北米では、平均的な子どもの身体を構成する炭素の半分以上は、コーンシロップ、コーンフレーク、コーンブレッドなどのトウモロコシ製品に由来する。(8頁)

その他に小麦、ジャガイモ。
これがほとんど全人類を養っているという。
家畜の飼料もそうなので、人類は実に今、非常に画一的に偏った食事をしている。

1950年代、こんな歌があった。

バナナ・ボート



全世界で大ヒットしたというハリー・ベラフォンテ。
「積んでも積んでもバナナの出荷が忙しくておうちに帰れない」という意味(の歌詞)。
「バナナの出荷が忙しくて、おうちに帰りたい。早くおうちにバナナを積み終えて帰りたい」と。
「アイウォナ何とかゴーホーム」だから「早くおうちに帰りたい」。
(歌詞を確認してみたが、この箇所は多分「me wan' go home」)
これは1950年代にヒットしたポップス。
これはどこの情景かというとグアテマラだそうだ。
(調べてみたがグアテマラではなくジャマイカのようだ)

 一九五〇年には、ほとんどのバナナは中米から輸出されていた。とりわけグアテマラはバナナの主要生産国で、アメリカのユナイテッド・フルーツ社が運営する巨大なバナナ帝国の核をなしていた。(9頁)

ユナイテッド・フルーツ社の収益はばく大で、一九五〇年には、グアテマラ国内総生産の二倍に達した。(10頁)

 やがて起きるべきことが起きる。パナマ病菌
と呼ばれる病原体によって引き起こされる病気、パナマ病が到来したのである。パナマ病は、一九八〇年にバナナプランテーションを破壊し始めた。
−中略−ホンジュラスのウルア谷だけで、パナマ病が到来したその年に、三万エーカーが感染し放棄された。またグアテマラではほぼすべてのバナナプランテーションが壊滅し放棄された。(13頁)

3万エーカーは東京ドーム2千4百倍。
(計算してみたが3万エーカーは121944000m2。東京ドームを単位として使う場合46755m2。よって2608.148861084376となり「東京ドーム2千6百倍」となる)
それでグアテマラが数か月後にバナナの名産地、バナナボートの国ではなくなってしまった。
その不幸により他の国のバナナが売れ始めた。
それがコスタリカ、エクアドル。
ここで別の種類のバナナが息を吹き返し、グアテマラのバナナ帝国は消え失せたという。
グアテマラは今、コーヒーで生きている。
昔はバナナな。
このコーヒーも考えてみると危ない。
何でかと言うと、挿し木でどんどん増やされていくので同じものだから。
だから多様性がいかに大事かがわかる。
いろんな種類というのが。
農業の画一化は単位面積あたりの収穫量を夢のように増大させた。
しかし滅びる時は数ヵ月で全滅するという危機。

前に取り上げたこともある「ジャガイモ飢饉」。
『ニワトリ』という本の時の件かと思われる)

一八四五年の春には、カナダのニューファンドランドに達し、その年の後半にはベルギーに上陸していた。ひとたびベルギーでジャガイモ疫病が発生すると、拡大の速度が上がり、その進行は、年単位ではなく月単位で、さらに週単位で測られるようになる。かくしてジャガイモ疫病は、七月にはフランスに、八月にはイングランドに達した。(22〜23頁)

一〇月には、ジャガイモ疫病がまだ到来していない畑は、アイルランドには存在しなかった。それから三か月以内に、一〇〇万エーカーのジャガイモ畑の四分の三以上が壊滅し、あとには悪臭を放つ黒い腐敗物が残されていた。
 畑のそばを通った人は、悪臭について語った。
−中略−感染したジャガイモの塊茎や茎が、硫黄臭を放っていた。地面から地獄のにおいが漂ってくると言う者もいた。(30〜31頁)

悲惨なのはアイルランド。
ジャガイモという穀物を奪われたアイルランドの農民は草や木を食べてその年、しのいだ。

 一八四六年の夏、不安は恐怖に変わる。雨は降り続き、それにつれ前年以上にジャガイモ疫病が拡大する。そしてジャガイモは失われた。(32頁)

ついに本格的な飢餓が始まり、死体を埋めるがもう穴に入りきれず溢れるという。
(本にはそうは書いていない)

 一八四七年八月の夏、銃を所持する者は、残った動物を狩りに出かけた。九月に入ると、銃と残った弾は、地主を脅して持ち物を奪うために使われるようになる。十月には、銃弾が尽きる。一一月には千人単位で人が死に、一二月にはそれが万単位、さらには一〇万単位になる。イギリス政府は援助の手を差し伸べず、ダブリンの行政府も何もしなかった(32〜33頁)

その年、全体の餓死者は100万人。
その数字がどんどん積み重なっている時にアイルランドに住んでいた50万人がアイルランドを捨てて国外に逃げ出した。
ほとんどがアメリカ。
一部がイギリス本国へ低賃金労働者として渡って行ったという。
その時に(アメリカに)渡った一家がケネディ一家。
アメリカまで行く船賃がなくて、イギリスの方の港町リバプールに辿りついた一家がジョン・レノンの一家になる。
ジョン・レノンもジョン・F・ケネディもアイルランド人。
同じ「ジョン」。
「ジョン」が付く人はアイルランド人。
ジョン・フォード、ジョン・ウェイン。
みんなアイルランドの人。
スカーレット・オハラ。
『風と共に去りぬ』でアメリカに行った一家に、この物語の主人公のオハラ一家がいた。

風と共に去りぬ (字幕版)



そうやって考えるとジャガイモ飢饉は恐ろしい。
これがまた「ジャガイモ疫病、どうやったら収まるのか」というので研究が始まった。
硫酸銅液体と石灰によって駆除できることがわかって駆除された。
この硫酸銅液体のことを「ボルドー液」という。
それでそれがブドウの葉腐れ病にも効いた。
それでそれをいっぱい使ったというようなことを聞いたことがある武田先生。
一種類のジャガイモが病気になると、わずか2年で100万人。
かくのごとくして、その飢餓や飢饉を避けるため穀物、植物を疫病から守るために様々な薬品開発がこのあたりの飢餓の事件から人類は思いつき「農薬散布」というのが農業の過程の中で入るようになった。
しかもこれは10回以上かけなければいけないのだろう。
だから菌を殺すため大変。
そして恐ろしいのは年々「耐性」が上がる。
菌が強くなってくる。
その他にも立ち枯れ病とか葉巻ウイルスとか、ジャガイモ飢饉の引き金になる疫病というのはもう、絶えず毎年増えている。
去年、湖池屋のポテトチップスであった。
あれは水害だった。
あれは「種イモ問題」。
ポテトチップス販売休止相次ぐ 北海道産ジャガイモ不足で  :日本経済新聞 単純に収穫量の問題のようだが?)
北海道のジャガイモなのだが、ジャガイモの○%を取っておいて、次の年の種イモにする。
それを三年ぐらい寝かさなきゃいけない。
そのイモが無くなったから全滅の危機が。
でも湖池屋はよく頑張った。
輸入物に頼らずに通常の商品を削って看板を守った。
湖池屋は偉い。
武田先生は(おそらくこっそりポテトチップスを食べようとして奥様に)見つかってモノサシで叩かれた。

農業という巨大な文明に支えられて今の文明がある。
その現代の農業は多様性をなくし、米なら米なんかに集約する。
小麦なら小麦に集約。
一点に食べ物が偏ってしまう。
その危険性を。
だから「いろいろ喰わなきゃダメだ」ということ。
日本というのはまだその多様性の可能性を残しているので、この国あたりから世界に発信できることは、そういうことではないかと思ったりする武田先生。

珍妙な話を。
近年の歴史に一つのヒントを与える農業の闘いがあった。
実はこのようなことが世界を動かしているのではないかと思う武田先生。

 一九五八年、中国共産党主席毛沢東は、国内から害虫を駆除することを決定した。(79頁)

今の習近平さんは毛沢東さんのことを心から尊敬してらっしゃる。
習さんは「第二の毛沢東」になりたいのだろう。
自信にあふれた彼(毛沢東)は農業において駆除すべき生物を選び出した。
「排除するぞ!」というので排除すべき生物。
ノミ、ネズミ、スズメ、ハエ。
これを標的とし、紅衛兵を隊長にして全国10億の民に「排除せよ!」。
北京で大音声を発せられた。
これは中国は燃えた。
ノミ、ネズミ、スズメ、ハエ。
「これは中国共産党、我が国のカタキなんだ」と。

国民の努力は、とりわけスズメに関して際立っていた。外に向けて鍋類を(代わる代わる)四八時間叩き続け、消耗して死ぬまで空を飛ぶスズメを威嚇するよう命令されたのである。国民はさらに、スズメの卵を見つけてはつぶした。(80頁)

政府が発表した四万八六九五、四九キログラムのハエ、九三万四八六匹のネズミ、一三六万七四四〇羽のスズメという数値は、その大きさにおいても精度においても驚くべきものである。実際の数値が何であったにせよ、この殺戮のあと、とりわけスズメは著しく減ったらしい。(80頁)

(番組ではネズミを934864匹と言っているが、本によると930486匹)
短期間にこれだけの生物を毛沢東の命令で退治した。
「その年から、ワーッと中国の大地は黄金の実りがたわわに揺れて、豊かな稲が実りました」とはいかなかった。

その結果、人類史上最大級の飢饉が発生し、少なくとも三〇〇〇万人、おそらく五〇〇〇万人が餓死したのである。(80頁)

これは一人の政治家が誤った決定によって人類を殺した最高の人数。
一切殺した人数は発表しない。
これが中国共産党伝統「まずいことは隠す」。

 毛沢東の計画は、生態学者が栄養カスケードと呼ぶ事象を考慮に入れていなかった。(80頁)

まあ「食物連鎖」。
これは一瞬崩すともうこれだけの被害になる。
この間もヒロミさんとそんな話になった。
あの人は猟銃を持って山に入ってケモノを撃っているらしい。
イノシシが専門らしいが、捌くまでやっているらしい。
ヒロミさんの話は何かというと「シカがいかに悪いか」。
もう今、めちゃくちゃらしい。
だから「オオカミを放とう」と。
この間「子供を襲うかも知れない」といって小学校に迷い込んだクマを撃ち殺したら全国から「かわいそうに」という批判が集まったという。
村の人が「じゃ、オマエがクマ捕まえに来い」と。
そりゃわかる。
校舎の中に子供がいるのだから、猟銃会の人は撃つ。
そういう話をヒロミさんとした武田先生。
食物連鎖みたいなことのピラミッドを人為的に人間がいじくると、たちまち全部がおかしくなるということ。
そのことの良い例がこの毛沢東の農業の闘いにあるのではなかろうか。

キャッサバ。
これは実にありがたい作物であり、原産はブラジル。
これはアメリカインディアンも栽培していたそう。
これはイモ類。
「サツマイモに似て根茎で、豊かなデンプンを含む」と。
まだ主役ではないが、熱帯において、東南アジア、西アフリカでは重大なカロリー源となっている。
これは肥料もなく暑く乾いた土地でも栽培が可能。
温暖化の進む地球では今、実は大注目の作物。
実はこれは全く日本では報道されないこと。

一九八三年、コナカイガラムシによる被害は「アウトブレイク」の状態に達し、ガーナの農民は収穫の六五パーセントを失う(五八〇〇万〜一億六〇〇万ドルの損害)。キャッサバの市場価格は九倍に跳ね上がる。苗(新たに植えるキャッサバ)の価格は五・五倍に高騰する。(93〜94頁)

(番組では損害を「1億8000万ドル」と言っているが上記のように「1億600万ドル」。苗が「5.4倍」と言っているが上記のように「5.5倍」)

歴史を知る者にとって、これら一連のできごとは、ジャガイモ飢饉の発生に至った経緯に著しく似通っていた。(94頁)

もうアフリカはただでさえ天候が不順。
キャッサバの不作なんかが続くと本当に殺し合いが始まるらしい。

栄養カスケードはとても美しい。−中略−ハンス・ヘレンは、キャッサバの生態系がそれと同様に予測可能であると考え、コナカイガラムシを食べる寄生虫を見つけられれば収穫量を回復できると期待していた。彼の計画は、毛沢東の計画とは正反対である。(81頁)

コナカイガラムシを殺虫剤で根絶しようという、これがもうアフリカの現実に合わない。
まず殺虫剤を買うお金がない。
そんなところで「農薬をかければいい」なんていう考えでは太刀打ちできない。
このハンスさんが知っているのは自然のルールに従わなければ「カスケード」食物連鎖は守れない。

 コナカイガラムシを攻撃する生物のうちごく普通に見られるものの一つは、ロペスのハチ−中略−と呼ばれる昆虫であった。このハチは有望だった。多産で、コナカイガラムシだけを食べるらしく、殺しのやり口は、恐ろしく効率的であった。ロペスのハチは、コナカイガラムシの体内に卵を産みつける。そこで幼虫が孵化し、その血をすすり、筋肉、脂肪、さらには消化管を食べる。しかもその間、コナカイガラムシの神経系はそのままにしておく。それから脱皮し、その頃には空洞と化している身体の外骨格に穴をあけ、交尾するために飛び去る。(86頁)

コナカイガラムシを全滅させず、その数を保つそうだ。
この「ロペスのハチ」と呼ばれる一種寄生蜂は、コナカイガラムシに取り付くが全部は殺さない。
何でかというと全部殺してしまうと次の世代が生きていけないから。
だからコイツらのためにも。
だから「全滅させない」ということがいかに大事かというのを自然界は知っている。
早速パラグアイからこのハチを取ってきてアフリカの大地、西アフリカ等々でばら撒いたら約二年で。

最初にハチを放ってからまだ二年しか経っていない一九八三年三月には(一〇世代のハチに相当する)、各散布地点から半径一〇〇キロメートル以内にある、あらゆるキャッサバ畑でハチが目撃された。−中略−キャッサバの生産は、魔法にかかったかのごとく回復した。ナイジェリアのキャッサバの生産高は、ハチを散布する以前の一五〇〇万トンから四〇〇〇万トンに増大した。(94頁)

(番組では「1500万トン」を「1500トン」、「4000万トン」を「4500トン」と言っているが)

一九八七年までに、ハチは西アフリカのほぼすべてのキャッサバ栽培農家に到達した。(95頁)

コナカイガラムシによる被害は既知の問題であるにもかかわらず、タイでは(あるいは、ベトナム、マレーシア、インドネシア、ラオスでも)その到来を阻止することができないでいる。(96頁)

だから今、このハチを散布中だそうだ。
こういうのはやっぱり大事な発想。
『奇跡のリンゴ』の木村(秋則)さん。

奇跡のリンゴ―「絶対不可能」を覆した農家 木村秋則の記録 (幻冬舎文庫)



あの木村さんはやっぱり害虫の研究から。
農薬を使わない。
あの人の本の中で、周りのリンゴ園が殺虫剤をバーッと撒いている時に、彼の農園だけ、リンゴ園だけ殺虫剤を撒かないので、全域の害虫が彼のところにやってくる。
そのやってきた害虫に向かって「俺んとこはオマエらにとって『ノアの方舟』だ」と言い続けたという。
それでエリアの害虫がやってくるのだが、害虫がやってきた瞬間、それを喰う虫がやってくる。
いつの間にか必ずバランスを取る。
リンゴの何%かは犠牲に遭うけれども、リンゴの何十%かは必ず生き残るシステムが畑を支配する。
カスケードの支配が及ぶ。

「チョコレートテロ」と呼ばれるカカオを巡る犯罪があった。

一九八九年五月二二日、ブラジルのバイーア州にあるコンフント・サンタナ・カカオプランテーションの一日は、いつもどおりに始まった。−中略−そのときプランテーションの技術者の一人が、異常を発見する。一本のカカオの木の枝が、がんのようなもので腫れあがっていたのだ。
 コンフント・サンタナ農園は、ブラジル最大のカカオプランテーションの一つであった。ということは、世界最大のカカオプランテーションの一つでもあった。この農園は、フランシスコ・リマ、通称チコ・リマの手で運営されていた。リマは、果実を摘んで開き、種子を発酵させ、カカオをチョコレートに加工するのに必要な最初の数ステップを実行するために、大勢の男女を雇っていた。それによって彼は比較的裕福になり、かなりの権力を持つようになった。地元の組織UDR(地方民主連合)のリーダーでもあった彼の権力は、カカオプランテーションのみならず政治にも及んだ。
−中略−腫れた枝の発見は、そのコントロールを失う最初の徴候であった。彼がもっとも恐れたのは、このがんが、プランテーション全体を破壊する能力を持つ天狗巣病菌(wiches'-broom〔魔女のほうき〕)と呼ばれる病原体によって引き起こされた可能性であった。(99〜100頁)

 天狗巣病は、菌類−中略−によって引き起こされる。この菌類は傷や気孔(葉の表皮に存在する、木が「呼吸」するための、すぼめた口のような穴)を通って木に侵入する。ひとたび木の内部に侵入すると細胞組織を食べ始め、木の成長の様態を変えて、ほうきのような形をした醜い腫瘍(がん)を形成する。ゆえに「wiches'-broom」という名前がついているのだ。時間の経過とともに、この菌類に侵された木は感染に屈する。木が死ぬ際には、ほうきの形をした腫瘍は黒くなり、ピンク色のキノこが生えてそこから無数の胞子が空中にばら撒かれる。そして他の樹木が感染する。(100〜101頁)

他の木に感染すると大変なことになるということでリマさんはすぐに動いた。

スタッフ三〇人が農園内を巡回しながら、全長数マイルの森林の下層に数マイルにわたって植えられていた一〇万本近くのカカオの木を一本一本チェックしていった。すると次々に、問題が見つかった。−中略−緩衝地帯を作り出すために感染した木の周囲に立つ木も切り倒され、それ以外の近くの木は週に一度検査された。(107頁)

ところがそれから、リマの農園の隔離領域の外に立つ二一本の木が感染していることが判明する。(108頁)

これはどういうことかと言うと、天狗巣病というカカオの木の病気がプランテーションの中から発生したんじゃなくて「外からうつされたのではないか」という可能性が出てきた。
外からこの病気がうちのカカオの木に伝染したとなれば、他のプランテーションへの伝染が心配される。

地方の小さい町を歌を歌いながら回っている武田先生。
宮崎なんかでもニワトリとか牛の病気を目撃した。
あれはやっぱりよくない。
人間が人間を疑うようになる。
県境にチェックの農業関係者が立って、入ってくるトラックのタイヤを洗うのだが、その時の目つきが「疑う」。
伝染病の怖さ。

このリマさんは地方のカカオ王であったのだが「全部切れ」というのが他の農園から出る。
10万本を。
「それは勘弁してくれ!」ということでリマさんは泣き叫んだが

CEPLACは、「木を切らなければ監獄行きになるぞ」とほのめかした、あるいは(記録によっては)そうはっきりと言った。リマのプランテーションの木は、一九八九年の五月から一一月にかけて、一万四〇〇〇人時間の労力をかけてすべて切られた。九万八〇〇〇本のカカオの木と、木陰を作っていた一万本以上の熱帯雨林の樹木が切り倒されたのだ。(108頁)

ところが、悲劇はこれだけでは終わらない。

 一〇月二六日、バイーア州のカカオ栽培地域の反対側、リマの農園から一〇〇キロメートルほど離れた地点で、ある農園主が自分の農園で天狗巣病を発見した。(108頁)

 ある農園では、天狗巣病に感染した一本の木に、さらに多くの天狗巣病のキノコに覆われた別のカカオの木の枝がくっついていた。ロープで結びつけられていたという証言もある。−中略−それから数週間、他の農園でも、別の木の枝がくっついた木が次々に発見される。それらも類似のロープで結びつけられていた。(108〜109頁)

凄まじい悲劇なのは、それからわずか二年後、1991年、この地域のカカオ園の75%が切り倒された。
あるいはこの病に倒れて枯れてしまった。
(本には1992年に生産高が75%低下と書いてある)

ロープで枝が結ばれていたという話がほんとうなら、病原体は故意に運ばれたことになる。つまり、それは一種の農業テロリズムが遂行されたことを示唆する。(110頁)

つまり「テロ」は爆弾だけではない。
今、世界が一番恐れているのは「農業テロ」。

posted by ひと at 16:56| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月13日

2018年1月8〜19日◆豆腐も切りようで・・・(後編)

これの続きです。

大沢悠里さんは言葉につまる。
「立て板に水」ではない。
それと、批判する時に「よどみ」がある。
「え〜・・・今の政治家の方にもね、ちょっとこう・・・」
悠里さんの「ガラのよさ」がヒタヒタと伝わってくる。
武田先生のメモ。
「この人の話し方は良い。喋りのスピードが良い。まるで水音のようだ。この人の喋り方にはマイナスイオンが立ち込めている」
マイナスイオンの立ち込める喋り方。
喋りのスピードが広瀬の水音、広い瀬を流れる水音のよう、という。
この人が誰かを批判する時、この人らしい作法がある。
追いつめない。
久米(宏)さんというのはナイフのような方で、本当に鋭い喋り方。
切り替えの速さで言葉を印象に。
聞き手として思うのは、大沢悠里さんというのは何かというと、その人のその批判には「あきらめ」がある。
この「あきらめ」がすごく明るく武田先生には聞こえる。
「あきらめる」というのは「明らかにする」ということ。
それで大沢悠里さんの発言を聞いていると「え〜・・・仕方ないですね。もう〜世の中ですから、なるようになるのでしょう・・・」というような。
単なる「諦念」「あきらめ」じゃなくて、とある「明るさ」を感じる。
ねばらない。
「あきらめ」というのはもしかすると、「ポジティブな決心」であるかも知れない。
世の中はやっぱりあきらめなきゃならないことはある。
水谷譲にも武田先生にも。
奥様からモノサシで手を叩かれる時にあきらめなければならない武田先生。
奥様のことをあきらめると本当に世界は広くなる。
これからが「愛」。
「好きだから、だから愛してる」というのはおかしい。
「好きじゃないかもしんないけど、愛してるなぁ」という時が「愛」。
それぐらい「愛」というのは難事業。
「どこがいいかわからない」とか「いなくなればいいのに」とか、そんなことを全部乗り越えて「あきらめる」。
で、「愛してる」と平気で言える。
これこそ「愛」。
誰でも快適だったら「好き」に違いない。
不愉快でいろんなつらいものがあっても「愛してる」という。
大沢悠里さんをマネしましょう。
「仕方ないな〜・・・なるようになるさ」
ラジオをやるんだったら大沢悠里さんみたいに。
この人はラジオ番組の中で、賞金が当たって、その聞き手の方とバンザイをする。
「よかったですね。一万円当たりました。さ、それではバンザーイ!バンザーイ!」とやる。
地域紛争とかが起きるとバンザイをやらない。
ピタッと控えたりなんかする。
そういうマナーの良さがある。
そういう喋り手でありたいと思う武田先生。
これはどうしてかと言うと、この喋りの中に実は「聞く人を健康にする」という、そういうことが喋り方であるし「自分も健康になる」という。
まず、副交感神経。
これをゆったりさせるためには「ゆっくりしゃべること」。
この「ゆっくり話す」のは相手を捉え、相手がどうすれば喜ぶか、それを考えるため、インストールのための手順であると。
たくさん話すこと、自分の存在をアピールすることを考えると、必ず先読みする。

無駄な想像をするせいで、次から次によからぬ考えが浮かんできて、どんどん自律神経のバランスを崩してしまうのです。(70頁)

これがなんと「自業自得の妄想」を呼んで副交感神経を乱し、ミス発言「失言」をしてしまう。
「失言」はみんなそう。
この間もいらっしゃった。
「何で黒いの好きなのか」 アフリカ支援で山本幸三氏  :日本経済新聞
アフリカのことを語る時に、わざわざ「色」を出して「そのような人たち」という。
あの方も無駄なく、たくさん喋ろうとする。

失言をする人は意外と一回失言して問題になっておいてそれを詫びに出てきて、また失言してというのがいる。
災害の時に、長靴を持っていないので部下におんぶさせて渡って。
「申し訳ありません」と謝っておいて「あれから結構長靴売れたんだって」とかつまらない冗談。
「長靴業界儲かった」おんぶで被災地視察・務台俊介政務官がふたたび謝罪
それはやっぱり交感神経、副交感神経が傷んでいる。
あの人たちは体が悪い。
そう思ってあげた方がいい。
間違いなく言えることは「失言」、あるいは「つまづきの言葉」というのは「質問された以上のことを答えようとして、その無理から失言を呼んでしまう」という。
先週放送分で「排除」というお言葉をお使いになって大きな蹉跌を味わわれた小池(百合子)さんだが、自民党が恐れるほどの人気があって、それがあのスピードでしぼむのだから、どうもあの時は小池さんはお疲れだったようだ。
大きい政治的な動きがあって、夜遅くまでミーティングが続いていたのではないか?
「疲れて油断もしてたのかな?」と思う水谷譲。
本当に「口は災いの元」というのの典型例があった。
そのようなミス発言をしないためにどうするか?
番組で政治的な批判を求められたりする武田先生。
テレビを見るともう、タレントのほとんどがニュースバラエティに行っている。
本当のことを言うとあまり出たくない。
政治家になったこともないし、そんなことはわからないのだから。
政治家の役は演ったことがあるのだが。
だが「答えないといけない」という雰囲気が現場にあって「しくじり発言しやすい」というポジションにタレントはある。
坂上(忍)さんなんて、やっぱり命を張ってやっている。
坂上さんはボロクソ言っているが、あれは結構度胸がいる。
そういうものに武田先生たちは晒されている。
街角を歩いていたら、ちょっと機嫌の悪そうなお年寄りがスーッと寄ってきて「武田さんは改憲派ですか?」とか訊かれたり。
「政治に無関心に生きろ」と言っているのではないが、武田先生たちはそういう意味で政治的なポジションとか発言というのが揚げ足に取り上げられやすいポジションにいる。
だから「口は災いの元」。
それは質問された以上のことを答えようとする時、松ちゃん(松本人志)なんかと付き合っていると、松ちゃんがうまいことを言うから負けじと何か一つこっちもひねろうとすると「自分の首ひねっちゃう」みたいなことになる。
難しい。
「話の切り出しは、まず相手を中心におけ」と。
主語は相手。
先週の月曜日(に放送した回の中で)、武田先生が最も感動した一言。
求めているキズバンを探していて、それがなかなかない。
その時に大型ドラッグストアの女店員の方が「売り切れてしまった」の言い訳で「お役に立てませんで、申し訳ありません」というのにハッと感動した武田先生。
これは何かというと、彼女のお詫びの中心に武田先生がいる。
「役に立てないワタクシです」というような正直な報告に、動揺するほど感動した。
これはなによりもやはり「私に対する彼女の理解」があったから。
例えば、とある人と出会って、これから何か話さなければならない。
その時にはまず、その人がどこから来たかを考えて「いやぁ、今日は遠くから大変でしたね」。
そして別れ際も「頑張ってくださいね」ではなく「ご無理をなさらず」。
この、相手の人格に向かって話すのではなくて、何というか「相手の自律神経に向かって話すクセ」。
こういうのを躾けると、そんなに大きな問題発言はなくなるのではないか?
(本に書かれている「自分からは話さない」というのとは内容的にズレてしまっているが)
普段「物の言い方」に気を付けている水谷譲。
例えばご主人に「ゴミ出し、何でしてくれなかったの?」と言うのではなく「ゴミ出ししてくれるとうれしいな」にしよう、とか。
そういう言い方で同じ意味なのに全然違ってくるので、それは気を付けるようにしている。
武田先生は(奥様から)そういう言われ方をされない。
全部「しといて」ばかり。
「きちんと冷蔵庫閉めといて」
身をねじるような。
本当に愛しています。
愛とは本当に厳しい道。
毎日、修験者の修行のような日々。

「口の利きよう」というか「言葉の選び方」、それが人生を左右していく。
プラス、健康も左右するという。
水谷譲は時折部下と言うか、後輩を叱らなければならない時もある。
お母さんなので子供を叱らなければならない時もある。

 @時間を空けずに叱る
 A短く叱る
 B1対1で叱る
(101頁)

時間が空いてしまうと自分の気持ちの中で練れてきてしまうので言葉が長くなってしまう。
人前でちょっと言っちゃったりするので、この三原則がすごくわかるという水谷譲。
練れてきて、どんどん言葉を飾り始める。

「この人は成長するな」と思う人は、次の2つのタイプに分かれます。
 @物事をはっきり口にする人
 A何も言わずに、じっと耐える人
(103頁)

(奥様から)モノサシで叩かれても耐えるという武田先生は後者。
これはやはり人生最後の課題。
「奥さん」はそれほど重大な問題。
「奥さんとの付き合い方」にここまで悩むとは思わなかったが、これは一種やはり「生存をかけた戦い」。
不信に思うともっとも疑わしい人物は「奥さん」。
栄養補給剤などを飲んでいるが、それを飲むと体調が悪くなるような気がする。
疑うとキリがないが黙って飲む。
あきらめ。
「明らかにする」ということで「あきらめ」。

依頼されて断る時の言い方。

「申し訳ありませんが、私には100%できません」(116頁)

こうすると「イヤです」とか「ダメです」とかという感情論ではなくて、可能性論になる。
「100%」が強ければ「80%やる自信がありません」とか「60%」とかという数値に落とすと、自分の能力について説得するという。
感情ではない。
これはよい言葉。
「申し訳ありません。私には○%できません。やる自信がありません」
これをパーセンテージで表現するという。
この本の書き手の小林弘幸さんという方はお医者さん。
この方自身が、やっぱりお医者さんの口の利きようで複雑だった骨の骨折部分が急によくなったという体験をお持ちなので(本によると「急によくなった」ということではないようだが)こういうお医者さんがいらっしゃるといい。

 私は禁煙外来も担当しているのですが、−中略−
 これほど害が多いにもかかわらず、やめたくてもやめられない方は非常に多く、禁煙外来を受診する方もあとを絶ちません。
 そんな患者さんに、私はこう言います。
「タバコはやめなくてもいいですよ。その代わり検診だけはしっかり受けてくださいね」
(131〜132頁)

「やめなくていいですよ」というのは開放度が高い。
ホッとする。
タバコの問題をやたら「鬼の首取った」みたいに威張る人がいる。
武田先生は(タバコを)やめた。
やめた理由は心臓の執刀医。
とてもいい先生で、その先生のことが好きになった。
その先生が手術執刀直前に武田先生の最後の健康をチェックする時に「武田さんは、タバコはいつ頃おやめになりました?」。
手術をするという計画は4か月前ぐらいからあったワケで。
「やめられて何か月経ってるのか」という返事を期待されたのだろう。
その時の武田先生の返事が「昨日です」という。
入院して近くの小屋まで吸いに行っていた。
朝から1本も吸っていなかったから早朝の回診の時に「昨日の夕方ぐらいからやめております」と言った時に「昨日ですか・・・」というような、全身崩れ去るような落胆の表情を見た時に「もういいかな」と。
何か「タバコ吸うの今、忘れてるなぁ」と思うぐらいの。
何か動くのが忙しくてタバコを吸うのを忘れている。
タバコをやめると暇になる。
結構いろんなことができる。

口の利き方。
豆腐も切りようで丸くなるがごとく、言葉も使いようで自分の健康を導き入れたり、幸運をその一言で掴んだり。
反対にいくと災いの元で、大変な転落が待っていたりするというのも「一言から」ではないかという。

自律神経を整える 人生で一番役に立つ「言い方」



武田先生が珍しく奥様に勧めた本。
「これ読むといいよ」と言いながら何気なく枕辺に。
この先生曰く「患者さんに相対した時、言葉というのはものすごく大事なんだ」と。
タバコの害を恐ろしげに説明するよりも「やめなくていいですよ。だけど検診しっかり受けていきましょう」と。
「やめるべき時が来た時にはやめましょう」というような発言。
それから胃弱の方には「食べたくなったら食べる。これで生き物は十分生きていけますから」。
(本には「食べたくなったら言って」としか書いていない)

一時期、睡眠障害で悩んだことがある武田先生。
もう5時間しか眠れない。
10時に寝て、3時ぐらいに目が覚めて、もうカーッとなって眠れない。
それで睡眠障害のところに行って100個の質問に答えて「どの手の睡眠障害か」というジャッジをするという、
そういうチェック機構が100問あって、30何点かだった武田先生。
その時にヤマグチ先生は武田先生の30何点の点数を見ながら「武田さん、ごめんなさいね。90以上をとらないと、ここに来ないでください」。
「いや、でもあの・・・5時間眠ったあと、本当眠れなくて」
「あとはどうなさってるんですか?」
「ええ。5時間眠った後、まぁ、その、体が凄いだるいもんですから、朝ごはんを食べたあと2〜3時間眠るということで過ごしてるんですけど」
「それだけ眠れば十分です」
「武田さん、昼寝すると夜、寝れませんよ?」と。
この先生の一言は堪えた。
気は楽になる。
「何で眠れないんですか?」
「いや、何かカーッとなっちゃうんですよ」
「普通、カーッとなりませんから。あなた何か考えてるでしょ?その考えてることで眠れなくなっちゃうんです。その考えてることが不安だったり、イヤぁな予感することだったり、でしょ?来年何か不安な仕事ってあるんですか?」
舞台があった。
ちょうど博多座さんと台本で揉めている時で「それですよ」と言われた。
それで睡眠導入剤を勧められた。
「カーッとなることは、歳をとるとあります」と。
睡眠導入剤と聞くと「中毒になっちゃうんじゃないか」とか「飲みすぎると効かなくなるじゃないか」。
「そんなことないですから。睡眠導入剤って飲んでから30分から1時間しか効きません」
それが外れると、もう眠くなくなる。
そんな短いもの。
きっかけを作るだけ。
そんな劇薬ではない。
劇薬ではないのを勧めてもらった。
でも、「歳をとる」というのはなかなか手ごわい。
それでもまだ時々眠れない夜が来る。
3〜4年前に夢の中で奥様が死ぬ夢を見た武田先生。
もう不安で不安で。
その時は不安だった。
「女房が死んじゃって、どうしていいかわからない」という。
その夢から覚めたら不安だけ残った。
それで目を閉じると奥様が呻いているような声に聞こえた。
「ううう・・・」という。
「どうした!?」と言ったら「起こさないで!」か何か言われて。
「触らないで!」とか。
それからまた眠れなくなった。
それでまた3年後ぐらいに「奥様が死んじゃった」という悪い夢を見てそれでまた夜中に起きた。
それから3年経っている。
ガバッと寝汗をかいて起きて「また女房が死ぬ夢を見た。正夢になるんじゃないか」と思いながら。
「あ・・・昔、3年前にこの夢見たな」と思って。
「あれから・・・死んでないな」と思って。
その時にフッと。
ものは考えよう。
「こいつ、なかなか死なないな」と思って。
それからぐっすり眠れるようになった。
「物は言いよう」だが「考えよう」でもある。
「人が死ぬ夢は実はよい夢だ」というふうにも言う。
でも「なかなか死なないな」と思ったり。
今度アレした時は「なかなか死なない」という不安がまた。

お母さんでもある水谷譲のため、子供に対して叱る時の工夫。
「ダメよ!」と言わない。

「悪かったことを言ってごらん」(143頁)

武田先生自身の体験。
あるイベントをやっていた時、もう武田先生は「芸人」なのだが、たとえば大手のスポンサーが付いたイベントなどは広告代理店の方がいらっしゃる。
広告代理店の30代働き盛りの方たちが現場に居並ぶ。
この方々、立派な大学を出て相当優秀な方が多い。
その時、そのイベントで付き合った方は東大の方だったのではないか?
流行りなのか、無闇にでっかい先の尖った靴を履きたがる人がいる。
ずっと子供の時から勉強しているから足の形まで何か万年筆みたいになっちゃうのか?
それで、その方がそのイベントの手順を説明なさるのだが、何というか、手順を説明しつつ、武田先生に注意なさるのだが注意が細かすぎる。
机が置いてあって、机がちょっとこう「弁箱」アップルボックスで底上げされている。
「見える」「見えない」の関係とか。
それからマスコミの方が2〜3人いらっしゃるというようなこともあってスポンサーも見てらっしゃるという見栄えの問題もあって。
だからその教室の机(教壇)に「手をついても大丈夫ですが、座らないでください」とおっしゃる。
ちょっと皮肉をこめて、その尖った靴の万年筆型の人に言った武田先生。
「私が机に座ると思う?」
座らないでしょう?
この方々はものすごくマニュアルを大事にしてらっしゃる。
あんまり丁寧に説明されると一種「侮辱になる」という、そういう感性が無い。
だから注意事項が1から10あると、1から10まで言っておかないと業務を果たしたことにならないという。
こういう方々は人扱いに関して、言い方が非常に不慣れ。
こういう人たちが今、業界にいらっしゃる。
何かやっぱりちょっと人扱いに関する発言というのは、どこかで訓練した方がいいのではないかなぁと思ったりなんかした。

すでに何度もお話ししているように、話す時は「ゆっくり」がポイントです。自分と対話する際も、口に出して話をすることで自ずとゆっくりになりますし(188頁)

「さぁ、困ったことになったぞ」と「なぜこうなったんだろう」と、決して優秀さを振り回すような早いテンポではなくて、とにかく今できることをまず一つやってみよう。
先のことはそれをやてから考えよう。
声にして独り言をはっきり自分で言う。
そうすると意外と解決策が見つかりますよ。と。
自律神経の切り替えがうまくいくようになりますよ。

武田先生が広げたイメージ。
言葉の使い方で誰とでもうまく付き合えるということになるかというとオールマイティではない。
そのことを覚えておかなければならない。
やっぱり世の中「トンチンカンなヤツ」とか「ヤバいヤツ」としか言いようのない人はいる。
ちょうどこれをまとめていた頃、あの事件で大騒ぎになった。
幅寄せをやってくるヤツ。
東名高速道路の追突死亡事故 被告は事故後も運転妨害か - ライブドアニュース
あおり運転。
東名高速道路で車を停めてしまって事故を招いちゃったということがあった。
これは「魔」に憑りつかれた人を相手にして言葉で説得することは不可能だと思った方がいい。
これは全然卑怯でもなんでもない。
魔がさした人がいる、魔に憑りつかれた人がいると逃げること。
寄っていってはダメ。
「車を停めて語り合えば」なんて絶対思わない方がいい。
逃げること。
こういう魔が憑りついた人というのは「人ごみの中にいる」と思ってください。
この手の人は原野にポツンといない。
「人ごみの中から人に絡む」という。
こういう人たちには言葉は一切通用しない。
だからやっぱり「逃げること」。
その「魔」に敏感になるには?
著者は言う。
「朝起きたら感謝しましょう」「『ありがとう』を声にしましょう」「挨拶をゆっくり元気に」「ため息はしっかり大きくして深呼吸しましょう」
何か気になることがあった。
例えば「部屋が散らかってる」と思ったら「いっぺん」じゃなく「一か所」だけ片づける。
そんな些細なことを毎日守っていれば「魔」からあなたを遠ざけることができます。
(本にはこれらのことは「魔」がどうこうという話ではなく「自律神経が整う」といったことで紹介されている)
小さく小さくまいりましょう。


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2018年1月8〜19日◆豆腐も切りようで・・・(前編)

どうしてもその日その時、「あのバンドエイド」が欲しかった武田先生。
テラテラでゴキブリの羽みたいに光るヤツや「水用」でくっつき過ぎて剥がすたびに傷口が広がる楽しいバンドエイド(は避けたい)。
気に入ったバンドエイドがあった。
そのバンドエイドは剥がれにくくて目立たなくて、今度剥がそうと思うとスッと剥がれるという。
昨年のこと、時代劇のテレビシリーズ(水戸黄門|BS-TBS)10話分をまとめて撮るために週のうち4〜5日、京都郊外の背の低いホテルに泊まりこんで、そこに下宿して働いていた。
東京へ戻るたびに合気道の道場へ顔を出して、そこに行くたびに皮が剥けてしまう。
合気道はまず、相手の手をつかまえるところから始まる。
そのため、いつも同じ個所にバンドエイドをしている。
老人なので治りにくい。
(バンドエイドを)ベロッと剥がすと、色があまり良くないのでコムラサキ色なので「どうしたんですか?」とか気持ち悪がるかもしれないので(バンドエイドを)かぶせている。
これ(現在使用しているバンドエイド)は肌色で非常に目立ちにくい。
あえてメーカーは言わないがこれが欲しい。
地方によっては「キズバン」「ファーストエイド」・・・
「クレパス」「クレヨン」問題になってしまうが。
とにかくその手のヤツ。
気に入ったヤツが一個できると、それにこだわるので、無かったら結構無闇に探すことになる。
これが本当にない。
それで今年、時代劇をやっていたので、あんまりテラテラ光るのは困る。
手甲、脚絆をしているので隠れるのだが、それを見つける目のいいチェック係りがいる。
治りかけたところにまたドーランを塗るので痛い。
それと合気道で治りが遅くなった。
とにかく必死になって(お気に入りの)バンドエイドを探す。
東京駅にちょっと早目に行って、新幹線の真下に大きい薬局があるのであそこに行った。
無い。
家の近所でもすぐに探したが売り切れている。
「まいったなー」と思って京都に行った。
撮影所に入る前に近くの早朝にやっている大型薬局、pharmacyに入って、その「エイド」を、その「バン」を買おうとする。
これはもう忘れもしない。
京都洛外に続く丸太通(「丸太町通」の間違いか?)という通りがある。
嵯峨野に続く国道脇のドラッグストアに行った。
世田谷でフラれて東京駅でフラれているから、結構カリカリきていた。
「○○というようなバンド無いよね?」「キズバン無いよね?」と。
まず否定形でレジ女性に尋ねる。
大型店舗には何度も裏切られているので、武田先生の訊き方も少し「トゲ」「嫌味」があったと思う。
その女性はレジを仲間にあずけて商品棚まで走られた。
それでレジのところで待っていたら切なそうな顔をして「売り切れている」と。
だからそのバンドは評判がいい。
「ああ、そう・・・」と不機嫌にその場を去ろうとした武田先生の背に、その丸太町、嵯峨野に続く国道脇の大型ドラッグストアの女店員の方がお詫びの声を。
その声が「お役に立てず申し訳ありません」。
これが、本当に申し訳なさそうに「お役に立てず申し訳ありません」というのが、すごく迫ってくる。
思わず振り返り「いやいやいや、いいのいいの。また探すわ」と言いながら、年甲斐もなく遮二無二笑顔をそこでこさえて会釈して別れた。
この方のたった一言でその日、ちょっとカリカリしていた(水戸)黄門の撮影が非常にうまくいった。
そんな時、たまたま本屋で見つけた一冊。

自律神経を整える 人生で一番役に立つ「言い方」



順天堂大学医学部教授の方の本。
その時にフッと思って、頭をかすめた言葉が「豆腐も切りようで丸くなる」。
ということで「言葉も切りようで」という。
何でこういうことで引っかかって新年早々(この放送は1月なので)この話をするかというと、今年一年の自分の目標にしようと思う武田先生。
何を言いたいかというと、やっぱり喋り方を「進歩しよう」と思わないとダメだ。
昔は「言葉」なんてポンポン出た。
それはやっぱりいいことではない。
聞き手の立場に立つと、あんまり朗々と喋る人の喋り方は、何か誠実さが無い。
やっぱり言葉が次々出てくるというのは詐欺師の技術の一つ。
言いよどむとか考えながら唸ってしまうとかという「間」というのが、やっぱり絶対に喋りの良心としては無いとおかしい。
このお医者さん、つまりこの著者、小林弘幸さん。
順天堂大学の方なのだが、まず、とりあえず「ゆっくり話そう」と。

「ゆっくり」言えば
空気が変わる、
人生が変わる
(73頁)

医学部の6年生の時に事故にあったのがきっかけです。ラグビーの試合で骨折をしてしまい、「一生まともに歩けない」と医師に宣告されてしまったのです。(15頁)

通院するたび、X線写真を撮るのですが、ある医師はその写真を見て「全然骨がくっついてないね〜」と言います。私も医学部の6年生ですし、自分の状態がわかるため、「本当に全然ダメだ」と思っていました。しかし、同じ写真を見て、また別の医師はこう言ったのです。
「あれ!? ここにさぁ、ひげみたいなのが見えるだろう、これがいいんだよ〜。これは再生してくるきっかけになるんだよな」と。
 そう言われた瞬間、真っ暗だった前の前に光がさしこみ、「もしかしたら治るかもしれない」と、力がわいてくるのを感じました。同じ写真ですよ? 同じ写真を見ているのに、それぞれの医師の言い方によって、こちらの気分がまったく変わってしまったのです。その瞬間、私の人生は変わりました。一縷の望みに懸けて、必死にリハビリに励み、現在では何不自由なく歩けるようになったのです。
(16頁)

この小林さん曰く、自分の不安が薄らいだ瞬間にそれこそ「自律神経」「約37兆の細胞」これが全身「酸素」という栄養を受けて血流をコントロールし、自律神経の働きがスイッチオン、スイッチオフで正しく入れ替わり始めた。
そうすると「倍速で再生した」という。
(というようなことは本には書いていないが)
だから「物は言いよう」「物は聞きよう」で「これほど体というのは影響を受けるのだ」という。

 自律神経で大切なのは交感神経と副交感神経のバランスであり、最も理想的なのは、10:10でともに高いレベルを維持することです。自律神経が整っている状態とは、この10:10の状態、もしくは8:8、9:9など、なるべく高いレベルでバランスを保っていることを指します(27頁)

そうするとバランスが維持されて回復力が急速に、という。
大事なことは健康を維持するために、相手を罵る時、一人でも「バカ」を使うな。

私が相手をおとしめる言い方をすると、相手の自律神経が乱れ、結果的に私にとってさらに不利益となることを知っているからです。(22頁)

 たとえば、「クソッ!」と、怒りに満ちた言い方をしたとします。
 すると、怒りの感情を言葉にしたことで、イライラが増幅し、交感神経がとたんに優位になって自律神経のバランスが乱れます。
(29頁)

「バカ」「クソ」というのは比較的ある。
そんな言葉を連発することがある武田先生。
「欠点の指摘」とか「悔しさの発露」とかというのを「まいったなー」「どうすんだよ」「やっちゃったよ〜」と使っていると、どんどんおかしくなって、その言葉づかいが健康を害する医学要因になりうる。
だから批判も温かみがないと、その人自身を逆に健康被害の導火線に火をともすことになる。
2017年、思慮の浅い言葉でこけていった人たちの特集を温かい気持ちでお送りしたい。
「批判」ではない。
「温かい気持ち」でお送りしたい、振り返ってみたい。

ちょっと素敵な「お母さん」である水谷譲。
11歳、小学校5年生の息子さんに合気道を習わせている。
(合気道は)面白い武道で、いろんなことを考えさせられる。
小さいことですぐに悲鳴を上げるようになる。
合気道の人は何も説明してくれないが、武田先生もそれが移ってしまったが悲鳴を上げる。
合気道の影響ではないかと思う武田先生。
合気道をやり始めてから蚊がよく見えるようになった。
それと悲鳴を上げるようになる。
道場で合気道は相手に技をかけるポジションと相手から技をかけられるというのを交代でやる。
かけられた時に、どんな高段者でも呻く。
「うぉっと!アイタタタタタ!キタ!」とか。
相手のその技に対して声とか呻き声で反応する。
自分に「驚くクセ」をつける。
武道というのは何か大きな出来事があった時に驚かないためにやる。
地震がガッ!と来ても非常に沈着冷静に行動できるという。
その驚かないための訓練で最高の訓練は何か?
毎日小さく驚くこと。
これは内田(樹)先生の言葉で見つけたのだが「小さく驚く人は大きく驚かない」。
小さなことで驚かないヤツは大きい時にものすごくパニックになる。
合気道は小さく驚く武道。
その「小ささ」に関してだけ、頭の隅に置いておいてください。

1月なので1年のスタートに自戒をこめて。
豆腐を四角に切ったばっかりにえらい目に遭った方というのが2017年。
もう典型的な例があった。
「排除します」
自分で政治政党を作れるほどの票を集めた人。
その人が「排除します」の一言で。
マスメディアは少し煽り過ぎて、この「排除します」に集約しすぎるが、やっぱり「排除します」という言葉がきっかけになった。
あの人をあれほど声援した東京都民はこの「排除します」で、「一体あの女性都知事の何を見たのか」というのをやっぱり思わず考えてします。
ということで小池(百合子都知事)さんそのものを考えた武田先生。
小池さんとは何者か?
この方は元々、言葉のプロだった。
前職は女子アナタレント。
キャスター。
この人は何か物を読むような。
あれはやっぱり若い頃からのクセなのだろう。
この人の声は「朗読声」。
ブレスリズム、呼吸のリズムが落合恵子さんとそっくり。
だからある意味で落合恵子さんと同じぐらいの声の質、声の性能、声の力を持ってらっしゃる。
落合さんのニックネームは「レモンちゃん」。
小池さんにもあだ名を付けましょう。
落合さんが「レモンちゃん」だったら小池百合子さんは「ミカンちゃん」。
それも「葉付きミカン」。
葉っぱが付いている。
ミカンは葉っぱが付いていないとただ喰われるだけだけれども、葉が付いていると鏡餅のてっぺんに置かれる。
まさしく小池百合子という人は「葉付きミカンちゃん」。
だからどこの政党に行っても上の方に「ポン」と置かれた人。
そういう方。
「飾りミカンちゃん」「ダイダイちゃん」
この方は都知事選の時、四角いものを丸く切った。
だから敵対陣営の・・・あの言葉は失礼。
「厚化粧」は言わない方がよかった。
それに対して小池さんはどうであったかと言ったら反応なさらなかった。
そういう侮辱に対して耐えられた。
昨年の2017年は「女性の一言」。
つまり豆腐の切りようがカドばったばっかりで問題を起こした方というのは多かった。
思わず興奮なさっていたのだろう。
「ハゲ」と言っただけで落選なさった方もいる。
やっぱり「口は災いの元」「一言で身を切り裂いた」という。

豆腐も切りようで。
物も言いようで。
その典型例を小池(百合子)さんに求めてみた。
2017年、たった一言、四角く切った言葉「排除します」。
この一言でこの方の票がこの方から離れていったという。
ただ、ありていに言えば、品の無い言葉だが「ミソもクソも一緒にするな」と言いたかったのだろう。
小池さんのホンネはそれが一番ピッタリ。
「ミソもクソも一緒にするな」というのは角が立つので非常に品のよい政治言葉で「排除します」とお使いになったという。
そうしたらバーッと票が。
離れた票はすごい票。
この一瞬で本当に流れが全部変わった。
そして週刊誌でこの人のあだ名の変化に気が付いた。
武田先生が「葉付きミカンちゃん」とか「ダイダイちゃん」と呼んでいるが、この「排除します」の一言でどこかの週刊誌がこの人のあだ名を書いた。
「緑のたぬき」
思わずコンビニでギクッとした武田先生。
「緑のたぬき」は武田先生の恩人。
これ(「緑のたぬき」)とは一緒に頑張ってきた。
マンションを買った。
だが、その「緑のたぬき」の方に世間が乗ってくる。
そのあだ名がついてしまったら、もう本当に「イメージが動かなくなる」というところが。
このあたりから小池さんの言葉づかいが、世間と歯車が合ってこない。
この方は選挙の名目で今振り返ると「安倍一強批判」。
そして自分たちが相当いい得票率で中ぐらいの政党を作れば、公明党と同じようなバランスの重りとなって安倍を変えさせて見せようという。
何と言うか半端な政治理念。
それから「忖度総理」の批判もしきりになさっていたが、安倍さんがもう相手をしなくなっちゃう。
そしてこの小池さんの対立軸に自民党が持っていったのが小泉進次郎くん。
この小泉くんが次々と小池さんの揚げ足を取る。
いや、「揚げ足」じゃない。
タックル。
小泉くんの若いタックルは小池さんに効いた。
上手だった。
彼が応援演説に宣伝カーの上に立とうとしたら反対側で敵方の政党が大声を上げている。
そうすると彼は注目が全部こっち側に集まっているのだが、あえて「立ち合い勝負の潔さ」というか、静かに終わるのを待って「終わりましたか?じゃあ始めさせてもらいます」という、このマナーのよさ。
このあたりぐらいからこの進次郎くんがグングンと・・・。
そしてこの方が小池さんの発言批判をなさる。
この発言批判が実にツイストが効いていてよかった。
小池さんは一生懸命おっしゃった。
これは東京都知事という側面もあるので「満員電車のない東京を作りましょう」とおっしゃった。
進次郎くんが何と言ったか?
うまいことを言う。
「その通りです。満員電車のない東京作りましょう、小池さん。でもね、小池さん、昨日山形の友人から電話がかかってきたんですがね、山形ではね、満員電車に乗ってみたいという県民の熱望もあるんです」と。
「あなたの発言はどこまでも東京であって、全国見てないじゃないですか」
このタックルは効いた。
一回相手を肯定して乗っておいて、また違う方向に持っていくというのがすごい。
この進次郎くんの「揚げ足」というか「タックル演説」というのは技として見事だった。
このあたりぐらいから小池百合子東京都知事、田舎の人間に引っかかることばっかりおっしゃっている。
三都物語。
大阪、名古屋、東京。
この三都が連合で保守政治、安倍一強政治にぶち当たろうというような、いわゆる「選挙協力体制」を「三都物語」。




谷村(新司)さんにも悪いが、博多の人間が聞くと、売れ残りの名物バター菓子の名前のようだ。
「名物『三都物語』。バターでくるんだ潮風の味ぃ〜」
小池さんのことを批判している場合ではない。
武田先生自身もいわゆる「口舌の徒」。
口と舌で生きているような人間なのでいつ「けつまづき」が待っているかわからない。
この間も武田鉄矢の悪口がボロクソ載っていた。
ムカッとくる。
腹が立つ。
だが、やっぱりつまづくことはいつかあるのだろう。
妙なご意見番化する武田鉄矢、物議醸す発言で番組盛り上げ? コンビニの成人雑誌「俺は見るね」 - zakzak
「水戸黄門を演っているので、ご意見番を気取った武田鉄矢は和田アキ子のマネをして」という。
もう発言は気をつけている。
やっぱりペロッと喋っちゃって「あ、痛っ!」というのが。
結構痛い目に遭っている。
だからそういう人がいることを忘れてはいけない。
発言等々「一言間違えたら大変なことになる」という方、ここからは熱心に聞いてください。
まずは8つの条件を必ず頭の中に入れて発言する前に振り返ってみてください。

「体調」「予期せぬ出来事」「環境」「自信」「天気」「相手の様子」「時間」「感情」(45頁)

「こういう8つを条件にして自分の発言に気をつけましょう」と。
「8つもあるのかー」と思うかも知れないが、慣れれば必ずできるようになる。
発言する前に自分の調子。
自分は油断があるかどうか。
慌てていないかどうか。
それは確かなことか。
そして今は朝か夕方か。
この後にいいことか悪いことか、そのどっちが待っているのか。
そういう想像力を持ちなさい、という。
政治家の方の失言というのは、そういう意味では非常にやっぱり体調があまりよくない時に多い。
週刊誌の人に囲まれて「ホテル行きましたよね?昨日」と言われるとやっぱり何て答えていいかわからない。
普段から自分をしつけておかないとダメで。

朝の8〜10時は、朝食を食べて交感神経が高まってくると同時に、副交感神経も比較的高い位置にあるので、非常にバランスが整っている時間帯です。会議や重要な会議など、集中力やひらめきを要する仕事を行うのに最も適しています。−中略−
 午後4〜6時は、再び自律神経のバランスが整ってくる時間帯です。
−中略−重要な会議や決断をするのに適しています。(53〜54頁)

 まず、最も大切なポイントは、ゆっくり話すということです。(58頁)

背筋を伸ばして、笑顔で。
どんなことでもまずは相手を褒めるところから話の切り口にしなさい、と。
何か違う視点を持っているかどうか。
話す時はなるべく大きく、楽しそうな、抑揚をつけて話しなさい、と。
そうすると不用意な失言はなくなる、と。
「そんな人がいるか?」と疑う向きもあるかも知れないが、やっぱり「話し上手」というのは世の中にいる。
ゆっくり、背筋を伸ばし、笑顔で、褒めるところから、違う視点で、大きく、楽しそうな、抑揚をつけて、という。
この番組をやっている武田はどうするか?
申し訳ないが、喋り上手の人たちの喋り方のマネをすれば、武田先生はけつまづくだろう。
やっぱりビート(たけし)さんと語っていて、ビートさんのリズムに武田先生が何か乗っかって喋ったら問題発言をすると思う。
松ちゃん(松本人志)とかというのはその危険性がある。
松ちゃんは喋らせる。
それで過激なことを言うから、こっち側も過激でスピンをかけて返す。
それは問題発言になりやすい。
武田先生はやっぱり、こういう人たちの喋り方のマネをすれば、人生を失うほどのミステイクをするかも知れない。
基本的に「口は災いの元」である。
しかし武田先生たちの商売は「災いを金銭に替えている」ワケだ。
だから危ない橋を渡ってきたし、これからも渡らざるをえない。
しかし、武田先生もだんだん年をとってきているので、反応が鈍くなる。
近年、ひたすらこの人を目指そうかなぁと思うお手本が実はある。
ご本人にそのことを申し上げたら、信用してくださらない。
この方は謙虚な方なので。
大沢悠里さん。
この人の喋り方はいい。
この人はご自身でおっしゃらないが、日本で一番聞かれているラジオ番組をこの間までやってらっしゃった。
これは『大沢悠里のゆうゆうワイド』。
この番組はすごい。
この人の全国放送の喋り方は北海道から沖縄まで聞く人がいる。
これはやっぱりすごい「喋りの力」。
豆腐の切り方が上手い。

大沢悠里のゆうゆうワイド 女のリポート100選



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2018年04月21日

2018年1月31日〜2月2日◆元気も気から

これの続きです。
(今回は週の途中から本とタイトルが変更になっているので、変更になっている部分から記事を立てる)

今日はヒョウ柄を着る日



「ヒョウ柄」についてのイメージ。
ヒョウ柄を着るおばちゃん。
特に関西。
女性にとってヒョウ柄を着る時は「攻める」時。
「最後の一枚」になった時にヒョウ柄を身につけているかどうかというのは女性にとって重大なこと。

 私が人生で最初にヒョウ柄を意識したのは、一九七八年、英国出身のロッド・スチュワートだった。大ヒット曲「アイム・セクシー」を収録したアルバム「スーパースターはブロンドがお好き」(すごい放題である)のジャケットでロッドは、体に張りつくヒョウ柄と虎柄の入り混じったボディスーツを着た、放漫なブロンド女性を抱いていた。そしてロッド自身もまた、ムッチリした体にパツパツのヒョウ柄パンツやスーツを身に着け、ステージで熱唱していた。(9〜10頁)

スーパースターはブロンドがお好き



 ロッドは性的魅力を表現するツールとしてヒョウ柄を取り入れたのだろう。(10頁)

 振り返れば、まだベルリンの壁が存在していた頃に訪れた西ベルリン一の目抜き通り、クーダムで夜な夜な客待ちをしていた高級娼婦の女性たちも、ヒョウ柄率が高かったように思う。(10頁)

ヒョウ柄のビキニを着ている女の子と恋仲になって、ギュッと抱きしめて「やめてください!そんな、そんな不潔な…」とアゴを突かれるとすべてが崩れる。
一回突かれたことがある武田先生。
「違うんです!私、そんなんじゃないです!」
何が違うんだい?
とにかくヒョウ柄というのは、そういう意味では「野生」だったり「セクシー」だったりという。

ところがまことに不思議なことに、星野さん曰く「なぜだろう?この地域性は」。
東京、京都、博多、そういう大都市、名古屋でも見られない。
「大阪でのみ、おばちゃんたちがヒョウ柄をまとう」という。
(本の内容としては大阪のおばちゃんしかヒョウ柄を着ないという話ではく、大阪のおばちゃんがヒョウ柄を着ているというイメージについて書いている感じ)
一体、大阪のおばちゃんはなぜヒョウ柄を身につけるのか?
では関西方面、特に大阪でヒョウ柄に託された意味は何だろう?
ヒョウ柄のおばちゃんが店に入ってきた瞬間、店の支配人以下が何を直感するか?
ヒョウ柄をまとったおばちゃんが店に入ってきた瞬間、店にピッ!と緊張が走る。
セクシーでもなければ発情でも野生でもない。
何を直感するか?
「こいつ、値切ってくるわ…」
その緊張。
つまり、ヒョウ柄とは関西でどう意訳されるか?
「ツッコむ」
このおばちゃんの野生の解き放ちのシンボルがヒョウ柄、つまりヒョウ柄はここから関係している。
おばちゃんたちに「値切れ!」という気を発散させる柄。
では、このアニマル柄に関する思いだが、なぜおばちゃんたちはヒョウ柄で「虎」ではなかったか?
普通は虎。
何で虎で突っ込もうとしなかったのか?

 虎は、微妙だ。−中略−ヒョウ柄が「大阪のおばちゃん」を代表する特徴であることに思いを馳せれば、虎柄で勇ましさを表現するには多少困難があることは想像がつく。
 阪神タイガースのファンと間違えられるのだ。そして誰もが知っている通り、タイガースはあまり強くない。勇ましさを演出するより、弱さの象徴と見られかねない。
(15頁)

何気ないが、おばちゃんたちがヒョウ柄で武装をするということは、動物の「気」をわが身に引き入れること。
大阪のおばちゃんたちはヒョウ柄を着た瞬間、一種戦闘モードになる。
人間というのは動物の柄を借りて、その「気」を自分に移す。
だからファッションというのは、そういう意味ではアニマル柄を先頭にして、色も含めて、「気」をこちら側に引き寄せようとする。
やっぱり元気も「気」から始まる。
柄どころかTシャツにヒョウの顔が入っているような人がいる。
それはやっぱりアニマル柄に託した「気」。

戸越銀座で観察していると、ヒョウ柄以外におばあちゃんたちから人気を博している動物が、もう一種類いることに気がついた。シマウマだ。(16頁)

たまたまこの日、シマウマ柄のバッグを持ってきていた水谷譲。
東京の戸越銀座ではシマウマ柄のおばあちゃんが増えている。
これはシマウマの「気」をもらおうとする女性の心理が隠れているのではないか?
シマウマは「性的なアピール度」は非常に低い。
戦闘的ではない。
ツッコミ度も少ない。
シマウマ柄で「負けてくれ!」とかっていうツッコミというのはちょっと考えにくい。
シマウマは冷たく言うと肉食獣にとっては「餌」ということでもある。

古代からヒトと共に生きてきた馬との最大の違いは、シマウマは家畜化できないという点だ。(17頁)

 おとなしそうに見えて、実は芯が強く、けっしてヒトになびかず、戦うより逃げるほうを選ぶシマウマ。(18頁)

つまり「家なんかにいてられっか!」「アタシゃ草原走るんだよ!」という。
その心理こそがシマウマ柄に託された女性心理。
シマウマ柄のバッグで来た水谷譲。
夜に家に帰らずに食事に行く。
産んだ子供も待っている亭主もほったらかして「お食事をしたい」という、この欲望がシマウマ柄を引き寄せさせている。
シマウマは家畜化不可能。
だからおばあちゃんがシマウマ柄を着る時は「よーし!遠くへ行こう!じいさん置いて!」という。
簡単に「アニマル柄」と言うが、我々の心理の中に、実は「気」をもらうためにたくさん動物を引き寄せている。
シマウマ柄のバッグに入っている化粧ポーチがヒョウ柄な水谷譲。
こういう動物の柄とか動物の形を引き寄せて、自分の「気」にしようという。
こうやって考えると面白い。
それゆえにヒョウ柄をまとう高齢者女性。
これを星野さんは一種「武装化」とおっしゃっている。

 私は彼女たちの武装化を笑うことはできない。何が彼女たちをそうさせるかといったら、誰も守ってはくれない、という諦めに近い感情があるからだろう。社会全体が、年寄りを騙そう、年寄りからむしり取ろうという方向へ動いていることは、もはや誰の目にも明らかだ。(21頁)

ヒョウの如く戦うか、シマウマのごとく逃げるか?
戦うか逃げるかの選択。
その「気」がアニマル柄を高齢者に着させているんだ、という。
アニマル柄を引き寄せる「気」とは何かというと、この女性作家はその「気」のことを「覇気」と呼んでらっしゃる。
(本の中に登場する「覇気」はそういう文脈では登場していないようだが)
まさしく「覇気」。
中年とか若年層の方に「そんなことないよ。俺ら年寄り大事にしてるよ?」とか思ってらっしゃるかも知れない。
そういう若い人を信じる武田先生。
ただ、目の端から入ってくる社会的な全体の情報の傾向というのは、やっぱり「ジジイ」「ババア」という。
「日本の成長の足かせになっている」という。
もう政治家の方だって「少子高齢化」とおっしゃるのだから、高齢が問題になっているわけだから。
どこかでやっぱり「老いることの暗さ」というのを感じてしまう。

後半の章でおっしゃっている「覇気」。
これは「やる気」とか「元気」みたいなヤツと同じで、もっとすごいスーパーファイトみたいなもので「覇気」という章がある。
(本の中では「覇気」を「負けず嫌い」の言い換えとして紹介されているが)

世の中はどうも年寄りに関して冷たい。
年寄りに関して「追いつめるような」という。
武田先生はそういうふうには思わないが、そう言われると確かに。

 新聞や雑誌を開けば、「認知症にならないための生活習慣」とか、「こんな人が認知症になりやすい」「終活をしよう」「遺書を書こう」「子に迷惑をかけない人生の終わり方」「ピンピンコロリ」「あとで揉めない財産分与」といった文言が溢れている。−中略−
 そういった扇動的なうたい文句が目に入ると、年をとること自体が罪のように思えてきて、「生きててすみませんよ」と言いたくなるのだ、と母は言う。
(31頁)

年寄りのやる気、元気を奪う傾向が社会全体にあるのではなかろうかと。
年寄りの覇気を奪うという傾向に世の中全体があることは間違いない。
そしてこの逆。
とにかく持ち上げるだけ持ち上げる。
「90歳で現役」とか「100歳の芸術家の○○さん」とか。

九十歳。何がめでたい



そういう90歳で現役で皮肉っぽい文章を書いている女流作家とか。
まるでそれが年寄りのお手本のごとく「この人を見よ!」という
星野さんはよく見ていて、この手の人たちはすべて共通する一点がある。
「元気」「やる気」と同じように。
お年寄りに向かって「この人が年寄りのお手本だ」という人の共通点は「すべてこれらの老人には、ある程度の資産がある」。
(とは本には書いていないが)
そういう資産家で長生きをしている人を集めて「私の生き方は正しかったのだ」というような勝利者発言をさせて「見習え」と他の老齢者に向かって。
そんな加齢に関するプレッシャーをかけるのが今のやり方なんだ、と。

「ああいうのは、ごく一部の幸運な人たち。誰もああはなれない。なのに自分のようになれってプレッシャーを与えてくるから腹が立つ」
 母はさらに続けた。
「年とっても一線で活躍するというのはね、よっぽど我が強いか、人に遠慮しないって証拠だよ。
(33〜34頁)

年をとると行動範囲が狭められ、社会性が失われる分、もともと強い人はいっそう自己主張が強くなる。自分の言い分ばかりを押し通して周囲の調和をかき乱し、傷つけられて泣かされる人が後を経たないのだという。(35頁)

でも人間はあんまり強いと、人から嫌われる。友達が誰もいなくなって、嫌われてることに気づかないまま、ひとりで長生きすることになるんだよ」
 私は言葉を失った。弱くてもダメだし、強くてもダメ。年をとるってそんなに難しいのか。
(35頁)

人が長生きしているのは、たまたま長生きしているだけだ、という。
あんまり長生きを事細かに分析するな、と。

もう結構な歳になっている武田先生。
今、性欲がどんどん引いていくので「勉強しなきゃ!」と思う。
何で昔、あんなに夢中だったのか?
昔あんなに好きだったのに。
最近、自分が「あんなことしたら痛いよ〜」と思う。

 ホルスタインといえば、思い出がある。三十年ほど前、ある小劇場の稽古場に出入りしていた時、裏方として働く元女優さんと親しくなった。−中略−その彼女が、来る日も来る日も、ホルスタイン柄の服を身に着けていたのである。−中略−
 彼女はとてつもなく、おっぱいが大きかったのだ。
(17頁)

自分はアニマルには関係ないと思ってバッグを開けてみた武田先生。
身につまされた。
まず、意味もなく手ぬぐいを持っているのだが、手ぬぐいはやっぱり自分の理想。
龍。
ドラゴンは武田先生にとっては永遠。
ここからが最高。
これが今の自分。
ポーチはボンボンを振っている「柴犬」。
洗面道具を入れているのは「猫」。
つまり、武田先生は家にいついている。
奥さんとか子供を守るために「ワンワンワン」とか「ニャンニャンニャン」とか言っている。
でも、龍一匹だけを離せないところが武田先生らしい。
「アニマル柄なんて俺に関係ない」と思ったが、バッグをさぐると以外なアニマルが鞄の中に隠れている。
まさに武田先生の心理の代表。
それは犬と猫だったという。
また猫が情けない。
招き猫。

posted by ひと at 07:11| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年1月22〜30日◆病は気から

奥様に言われて大量にサプリメントを飲んでいる武田先生。
5〜6種類。
それと同様に病院から頂いた薬も5〜6種類。
毎日十種類が体の中を通過していく。
「なんだか効いてんだか効いてないんだかわかんない」みたいな。
「飲み続けることに意味がある」と奥様から言われる。
フッと何か言われると、そこに思いが行く時がある。
「そういえばアナタ、最近マッサージ行かなくなったね」とかと言われると「あ、そういえば」と思い当たる。
フッと気がついたら二か月近く整体を受けていない、マッサージをやってもらっていない。
定期的に月に二回、二週間に一回。
それが二か月近く開いている。
「あれ?女房の勧めたアレとアレとアレかな?」と思ったりなんかした。
それで去年のこと、暮れに「納め」ということで体をやってもらった。
凝ってる凝ってる。
整体の先生からはっきりと「開かずにやった方がいいと思いますよ?」。
何のことはない。
奥様の言葉に酔ってしまっていた。
「最近、整体受けないぐらい元気がいいね」と言われたものだから「元気、元気」と。
やってもらうと、やっぱりちゃんと疲労がたまっている。
それでも時折、フッと「アレのおかげかな?コレのおかげかな?」と摂っているサプリから連想することがある。

「健康」「病態」「天候」「芸能」「不倫」「モチベーション」「(とある人間の)心理」
これらの名詞の中にすべて共通するものが一つある。
その一語が、これらの単語の半分を占めている。
これらを全部別の言葉で言い換える。
「元気」「病気」「天気」「人気」「浮気」「やる気」「本気」
何のことはない。
半分は「気」。
人間の事情はかくのごとく、半分は「気」が絡んでいる。
ほとんどの人は「気」は取り上げない。
なぜ「気」を取り上げないか?
それは「気」を買い求めることができないから。
もし「気」が買えるんだったら、もう売っている。
「(ジャパネットたかた創業者・高田明氏ふうに)ご注目ください!今なら古い気を引き取って、マイナス4千円!びっくりのお値段!」
「気」を売りたい。
やってらっしゃる方はいらっしゃる。
江原(啓之)さんとかが売ってらっしゃる。
教えたり、指導なさっている。
「南の窓に黄色を貼っとくと、とっても…」
Dr.コパさん。
この方々が売ってらっしゃる「気」が「運気」というので、やっぱり「気」というのは凄い。
ただし、運気に関しては石やネックレス等々がある。
この「気」を売ることに関しては、やっぱり霊感商法等々で罠がいっぱい待っているという。
「気」とは文字と言葉で存在するが、実体は謎。
そして取り扱いがほとんど行われていない。

「病は気から」を科学する



これはチャームなタイトル。
「痛いの痛いの飛んでけ!」
これはドイツ語でもスペイン語でも共通。
英語でもある。
「ペイン、ペイン、ア、ゴー」
(調べてみたが「Pain, pain go away」)
「痛い痛いあっち行けー」という。
これはもう、世界中にこの、子供を案ずる母の呪文、謎の呪文として「痛いの痛いの飛んでけ!」は存在する。
この「痛いの痛いの飛んでけ!」というのが、ただ「おっかさんの呪文」で終わるかというと、そうでないという実例がポコッポコッと医学界に出現する。
「親の呪文で子供の痛みが消えた」という実例がある。

 ニューハンプシャー州ベドフォードで暮らすパーカー・ベックは、二度目の誕生日から数ヵ月が過ぎるまでは、明るく健康な男の子のように見えた。しかし、その時期から、自分の世界に閉じこもるようになった。笑うことも、話すこともせず、両親の問いかけにも応えなくなった。夜間、頻繁に目を覚まし、甲高い奇妙な叫び声を上げ、体を回転させる、両手で自分の頭を叩くといった行動を繰り返した。医師の助言を求めた両親ビクトリアとゲイリーは、返ってきた言葉におびえた──息子の様子は自閉症の典型的な兆候だったのだ。息子に最高の治療を受けさせようと努力したものの、パーカーの症状は悪化する一方だった。ところが、一九九六年四月、パーカーが三歳のとき、驚くべきことが起こる。
 自閉症の子どもにはよくあることだが、パーカーにも胃腸障害があり、慢性的に下痢をしていた。
−中略−
 検査そのものからは有益な情報は得られなかった。しかし、パーカーは一夜にして劇的な回復を見せた。胃腸の調子がよくなり、ぐっすり眠るようになった。さらに、以前のように意志の疎通が取れるようになった──人に微笑みかけ、アイコンタクトを取るようになり、ほとんど口を利かない状態だったのに、突然、教材用の絵カードを読み、ほぼ一年ぶりに、「ママ」「パパ」と言ったのだ。
−中略−
 彼女は病院を説得し、パーカーが受けた内視鏡検査について、使用した麻酔剤の投与量など細かい部分まで調べた。消去法の結果、彼女は息子の症状を変化させたのは、セクレチンという消化管ホルモンの投与だと確信した。
(22〜23頁)

(番組では「1996年6月」と言っているが、上記のとおり本によると4月)
セクレチンが難病の自閉症に効くなんていうことはあろうはずがない。
もう、それは大騒ぎだった。
ところがセクレチンを使用したことは事実。
その前日面倒を見てくれた医者のところに行って、セクレチン投与を願うのだが「検査もしないのに飲ませられない」ということで、その薬を投与してくれない。
医師から拒絶される。
そこで夫婦は何と、事情を説明しながら全米の医者に「セクレチンを打ってくれないか」と掛け合う。

一九九六年十一月、ようやく彼女の話が、カリフォルニア大学アーバイン校の精神薬理学の教授であり、自閉症の息子アーロンを持つケネス・ソコルスキーの耳に入った。−中略−
 この結果に納得したメリーランド大学のホルバートが、三人目の少年にセクレチンを投与したところ、その少年も同じ反応を見せた。
(24頁)

ビクトリアはパーカーの治療をしてくれる別の医師を見つけ、一九九八年十月七日、彼の物語がNBC『デートライン』で何百万もの視聴者に向けて放映された。(25頁)

 わずか二週間で、米国で唯一、セクレチン製造認可を受けていたフェリング・ファーマシューティカルズ社は在庫を売り尽くした。インターネットでは、一回分のセクレチンが数千ドルで取引された。購入するために自宅を抵当に入れたり、メキシコや日本から闇で手に入れたりした家族の話が伝わった。(25頁)

ところが調べても調べても、なぜ自閉症が改善したのか、医学的理由がまったく分からない。
出た結論は「プラセボ」。
「偽薬効果ではないか?」ということ。

ノースカロライナ州アッシュビルにある、子どもの発育を研究するオルソンハフセンターの小児科医エイドリアン・サンドラーは思い出す。−中略−
 サンドラーの試験の参加者は、そのような試験の標準的な基準に従い、無作為に二群に分けられた。片方の群はセクレチンを投与され、もう片方は偽薬つまりプラセボ(この試験では生理的食塩水の注射)を投与された。
−中略−結果は驚くほど悪いものだった。二群の間には有意差はなかった。−中略−「セクレチンを投与された群も、生理的食塩水を投与された群も、治療に大きな反応を示したのです」(26〜27頁)

セクレチンも効くが、本当に困ったことに食塩水も効いた。
(番組内ではセクレチンと食塩水と「通常の(自閉症の)薬」の三種類で実験をしたというような説明になっているが、本によるとセクレチンと食塩水のみ。というか自閉症の通常の薬なんて聞いたことがない)

 ボニー・アンダーソンがキッチンの床が濡れていると気づいたときは、もう手遅れだった。
 二〇〇五年の夏の夕方、七十五歳のボニーは、
−中略−浄水器の水漏れのせいで濡れていたタイルに足を滑らせ、背中から倒れ込んだ。
 ボニーは身動きできなくなり、背骨に耐えがたい痛みを感じた。
−中略−背骨にひびが入っていた。−中略−つねに痛みに悩まされ、皿洗いのために立ち上がることすらできなかった。−中略−
 数か月後、ボニーは椎体形成術と呼ばれる有望な外科手術の臨床試験に参加した。
−中略−手術後、病院から出たとたん、具合がよくなった。「すばらしい気分だった」と彼女は言う。「本当に痛みが消えていた。ゴルフもまた始めたし、したいことが何でもできたの」−中略−
 椎体形成術がボニーのひびの入った背骨の問題を解決したのは間違いない。ただ、ボニーが知らないことがある。あの臨床試験に参加したとき、彼女は椎体形成術群に入っていなかった。彼女が受けた手術は偽物だったのだ。
(28〜29頁)

驚くなかれ。
なんとこれは手術そのものがプラセボであったという。
彼女は数十分間眠っていただけで、数十分間後起こされて「終わりましたよ、手術。きれーいに傷口もふさがっておりますから、ちょっと自分の目でね、見られないかも知れませんが。違和感あります?ないでしょ?きれーいに塗ってありますから。すぐ抜糸して。回復早いですよ」。
とにかく彼女は「術後はよくなる、よくなる」を医者から説得させられて退院した。
元気に歩けるようになった数か月後に「全部ウソ」と。
(本人に知らせたという記述は本の中にはない)
こういうのを聞くと、やっぱりスタートで言ったが「病気」の半分は「気」なのだという。
「病」「気」という。
著者のジョー・マーチャントさんは、なかなかべっぴんさん。
この方は女性の方。
もう「これでもか!」というような実例を全米から集めてらっしゃる。
だが、読んでいくうちにこのプラセボ、偽薬なのだが、ちょっと不思議になっていく。

 リンダ・ブォナンノは会ったとたんに私を抱きしめ、−中略−過敏性腸症候群(IBS)との闘いについて話し始める。−中略−腸の痛み、急な腹痛、下痢、鼓脹に苦しむようになった。−中略−
 病気は社会生活も壊してしまった。症状がひどいときには、「家から出ることもできない」と彼女は言う。「痛みのあまり気絶したり、四六時中トイレに駆け込んだりするから」
(52〜53頁)

 過敏性腸症候群の患者の多くがそうであるように、リンダも何年もの間、病院を転々として。−中略−しかし、それもハーバード大学医学部のテッド・カプチャクが主導する臨床試験に参加するまでのことだ。それは、プラセボ研究の世界を根本的に変える試験だった。(54頁)

彼女を担当する胃腸科専門医、ハーバードのアンソニー・レンボは、カプチャクの共同研究者だった。担当医を通して臨床試験に参加したリンダは、ボトルを手渡された。−中略−最新の実験薬を試すのだと、リンダは興奮していた。ところがレンボは、「この薬は有効成分が一切入っていないプラセボだ」と説明したのだ。
 リンダは医療助手としての訓練からプラセボの知識があり、ばかげていると思った。
−中略−彼女はボトルを持ち帰り、一日に二回、カプセルを紅茶で飲んだ。−中略−数日後、ふと気づくと症状が消えていた。(60〜61頁)

偏頭痛の臨床試験では、−中略−薬、プラセボ、何も与えないという対応をした。するとプラセボと知りつつ飲んだ場合、何も飲まなかった場合と比較して、痛みが三〇パーセント軽くなった。(61〜62頁)

この「プラセボ」に対して今、その逆の「ノセボ効果」というのがある。

 ビビハジェラ高校は今にも崩れそうだ。アフガニスタン北東部のタルカンにある、泥レンガで造られた建物だ。−中略−
 少女たちは次々と吐き気とめまいに襲われ、気を失った。数時間のうちに、百名以上の生徒と教師が病院へ運ばれた。
−中略−
 そして、今回は毒が使われたように思われた。アフガニスタンでこうした事件は多く、ビビハジェラ高校での出来事は、その年六番目の事件だった。二〇〇八年以来、国中の二十二の学校で千六百人以上の生徒と教師が、似たような状況で健康を損なっている。
−中略−
 ところが、症状はすぐに消えた。少女たちは残らず回復した。さらに、何百個もの血液、尿、水のサンプルが検査されたが、結果はどれも異常なしだった。
(68〜69頁)

原因は、「集団心因性疾患」だったのだ。(70頁)

一種「集団催眠」のようにして「病」と同じことで、という。

 ノセボ効果は害を及ぼすこともあるが、進化の観点から見れば、道理に適っている。−中略−人は周囲の人たちが病気になっていくのに気づいたとき、あるいは自分たちは毒を盛られたと確信したときに、嘔吐を始めるのは賢明な対策だと主張する。−中略−頭痛、めまい、失神はどれも、危険な可能性のある場所から逃げろ、治療が必要だと伝える警戒信号として役に立つのだ。
 この観点から見れば、ノセボ効果は、「周囲の何かがおかしい」という心理的なヒントによって引き起こされる、無視できない生物学的なメッセージだ。
(72〜73頁)

実はそのことでたくさんの危険から逃れてきたという実績があって人間の体の中に残っている。
だから、妙に頑張らず、パタッと気絶するというのは、気絶した方が生存競争の中では有利。
それで今の人類もこれを持っている。
吐き気も半分「心理」。
嘔吐は移る。
昔、加山(雄三)さんの光進丸に案内された武田先生。
演出家が「ちょっと面白いギャグやろう」というので「どうだろう。甲板に吐くっていうのは」と言われて「加山さん、驚かそうよ」とかといって吐くふりをしていたら、本当に気持ち悪くなった。
だからやっぱり吐き気は移る。
そういうことを考えると、集団心因性疾患というのがある。

あからさまな言い方をすれば、医師にもプラセボとノセボの効果がある。
その人に会うと治ったような気になるのと「俺、もう死ぬんだ…」みたいな。
「今、武田さん、これぐらいで終わってますがね?」と言ってボタンをポンポンと押すと、それがどんな病に発展していくか一瞬のうちに画面に出るという。
そういうスマートフォンみたいなヤツをお持ちで。
どんどんひどくなる病態を説明されると、もう気が重い。
やっぱり「会うと元気のなくなるお医者さん」というのはいらっしゃる。
歯医者さんがすごくいい人に当たった武田先生。
この歯医者さんは自分も歯が悪い。
自分も歯が悪い歯医者さんの言葉ぐらい患者を励ますものはない。
「ここはね、武田さん。痛いんだぁ〜」とかって言いながら、ガリガリガリガリ…という。
「あ〜!でしょう?私もねぇ、痛かったよ。ここはぁ〜」と言いながら。

この著者が言っているのは、プラセボを利用して「薬をなくす」ってことが無理かも知れないが「減らす」ということはできるはずだと。

 条件反射を利用して薬をプラセボと置き換えることを、プラセボ制御による薬剤減量(PCDR)と呼び、副作用が軽くなるだけでなく、医療費を何十億ドルも削減することができる(104頁)

お医者さんにもはっきり言われたことがある。
薬を出さないと「ものすごい頼りない医者だ」と思われる。
だから弱いお薬というのをプラセボ代わりに出すお医者さんもいるという。
だから知恵のあるお医者さんは、そういうお医者さんもいる。
「毎日必ず飲んでくださいね」と言っておくと飲んでいるうちに「そういや…」という。
たまに「いや、お薬いらないですから」と言われると「え?ないの?」と思うことがあるという水谷譲。
だからお薬を勧めると言いながらも、それがノセボ効果になるものもあれば、逆にそれが非常に効果的な偽薬の効果になることもある。
お薬を飲む時は「1日2回」と決められると、飲むたびに「少しずつ良くなるはずだ」と思って口に入れるのだから、充分なプラセボ効果だと言えることがあるだろう。
まことに体とは科学的ではなくて、不思議なものだということをどこかで半分覚えておかなければならない。

 一九七八年五月八日の朝、霧と風と雪が渦巻く中、ふたりの男性がのろのろと進んでいた。−中略−
 数百メートル上にあるのは彼らのゴール、エベレストの山頂だ。
−中略−ヒラリーも、それ以降の登頂者たちも、酸素に頼って登っている。しかし、三十三歳のイタリアの登山家ラインホルト・メスナーと、オーストリア出身の登山パートナー、ペーター・ハーベラーは酸素なしで登頂することにしたのだ。−中略−
 登山家や医師たちは一様に、どうかしていると言った。それほどの高地では、空気中の酸素濃度は海抜ゼロ地帯のたった三分の一だ。そんな状況で体に何が起こるのか誰にもわからなかったが、一般的には、ふたりは重い脳障害あるいはそれ以上の危険にさらされると考えられた。
(106〜107頁)

いくら吸ったところで酸素はほとんどないという大気の中で、彼らは疲労困憊、乳酸がたまりにたまって死んでいなければならないはずなのだが。
それが、立ち上がれなかったにしても、四つん這いで8800mのところに存在できた。
では、医学的に「生きていくために酸素が必要です」とは一体何か?
この辺も、もしかすると半分「気」ではないか?という疑いが出てきた。

 二〇一二年八月十一日、二十九歳のロンドン市民モー・ファラーは、おそらく間違いなく人生最大のものになるレースに出場するために、トラックへと歩いていた。ロンドンオリンピック大会の五千メートル決勝だ。−中略−一週間前、観衆はファラーが一万メートルで金メダルを獲得し、後世に名を残すのを目撃した。(110頁)

5千mで金を獲った時、1週間前に1万mで金を獲っている。
能力的に獲れるはずがない。
なんで1万と5千(で金メダルを)獲れたかというと、これが最大の謎。
1万mを走ったりなんかした後、疲労で体は使い物いならない。
(ウサイン)ボルトも皆そう。
それぐらい陸上の疲れというのは凄まじい。
ところがなんと彼は疲労で、いつブッ倒れてもいいコンディションで金を獲り、なんと金を獲った後、ロンドンの観衆に手を振りながら、ゴールの後はずっと1周走っている。
これは考えてみると謎。
疲労困憊で倒れるべき人が、なぜ金を5千で獲れたのか?という。
ここにまた「気」の問題が出てくる。
定説ではアスリートというのは1万mぐらい走ると筋肉が使い果たされて、筋肉にたまった乳酸という疲労物質のおかげで1週間ごときでは回復するわけがない。
これがなぜか定説が覆されたという。
これはもう、何で金メダルが獲れたのか?
もう「調子こいた」という。
「調子こいちゃった」と言うしか他ならないという。
やっぱり彼はイギリス人だから張り切っちゃった。

疲労は筋肉を限界まで追い込むことで起こるという古い考えは真実ではないということだ。−中略−疲労感とは、脳により中枢性に強いられたものという考えだった。−中略−疲労は身体的な現象ではなく、破壊的な損傷を防ぐために脳が作り上げる「感覚」あるいは「感情」だ。(114〜115頁)

 進化の観点から見れば、そのようなシステムは極めて理に適っている。筋肉が傷つくまで疲労に気づかなければ、過度の運動をするたびに衰弱状態になりかねない危険を冒すことになる。先んじて身体活動を中止することで、安全を確保し、疲労の大きな運動の直後にも機能し続けられる。「これがあったからこそ、人間が進化したのだろう。どんなことのあとにも、つねに別のことをするエネルギーが要る」とノークスは言う。たとえば、突然、捕食者から逃げなくてはならないかもしれない。狩りに出れば、仕留めたあと、必ず食べ物を家に持ち帰る必要がある。これこそファラーが二個目の金メダルのために全力を尽くしたあと、腹筋運動をし、ゆっくり走ってまわるエネルギーが残っていた理由だ。(115頁)

これがけっこう堪えた武田先生。
合気道の練習中に息が上がってくるとわりと「ちょっと休ませてくださーい」と言っていたのだが、一瞬「あれ?これ、脳の仕業なのか…」と思う。
もちろん体に無理をすることはよくない。
それはわかっている。
だが「疲労とは脳の現象である」ということを知ると、ちょっとやっぱり思うところがある。
「疲労を口に出しすぎる」という。
だから職場での過労等々も実は体の悲鳴ではなくて、脳の悲鳴なのだ。
今「働き方改革」とかと言う。
あれは身体の問題ではなくて心理の問題。
やっぱりいろんな職場での問題があるが「嫌なヤツが職場にいる」その心理的負担というのが体の疲労になって現れるという。
人間関係がよくて楽しく仕事をしていればそこまではならない気がする水谷譲。
いろんな悲劇が昨年も生まれた。

合気道をやっている武田先生。
合気道で毎日同じ武道の動きを練習する。
先生の言葉の中に「合気道は一体何を目指しているのか?」という。
「わかるかね?武田くん」
館長から言われた。
合気道の達人の先生である館長曰く「合気道が目指している極意は『火事場の馬鹿力』」。
「ストッパーを外す」という。
だから「考えるな!」という。
「考えるんじゃないんだ!体の動く通りに動け!」という。
そうしたら1m50cmの子が2mの巨漢の手首を一瞬のうちに折ることができる。
その力を付ける。
「『相手が強そうだ』とか至らんことを考えるな!『あ、動いちゃった!』という。『なぜ動くんだ』という境地にならない限り、合気道を習得したことにはなりませんぞ」と。
(漫画の)キン肉マンも言っていた。
彼の合言葉が「火事場の馬鹿力」。
(作品中では「馬鹿力」ではなく「クソ力」と表現されていたと思う)

キン肉マン 全36巻完結 [マーケットプレイス コミックセット]



これはまた、とっても面白いことだが、ドーピング等々で大きいスポーツの大会が問題になっているが、ドーピングで「プラセボ」とか「疲労との関係」とかというのがわかってきたという。

(ここまでで一週分なのだが、今回は本が二週目の途中で変更になるので、本が同じ部分まで一個の記事に載せてしまう)

感動的な水谷譲とお子さんとのエピソード。
小学5年生で合気道をやっている。
一緒に歩いていて汚いものが目の前にあったので(母である水谷譲がお子さんに向かって)「ちょっとよけて!」と言ったら、ものすごく運動神経が悪い息子さんがピョンと跳び上がった。
それがすごい跳躍力だった。
「いつからそんなに跳び上がれるようになったの?」と言ったら本人が「これが火事場の馬鹿力だよ」と言った。
だから合気道がそこで繋がった水谷譲。
武田先生の指導者である(合気道の)先生がいつもおっしゃる言葉は「合気道は火事場の馬鹿力をいかに引き出すかであります」という。
これは実は『病は気から』に惹かれたのも合気道の館長の口癖。
「『気』を養成しよう。『気』を自分の中に育てないとダメだ」
「元気もやる気もみんな半分『気』ですよ、武田さん」とかと言われているうちに「あ、『気』だ」と思って。
そうやって考えていくと「気」はいっぱいあるなと思う。
武田先生の生活を支配しているのは「人『気』」。
それで今年もう一回(『水戸黄門』を)やるかどうかという「運『気』」もかかっている。
そうやって考えると暮らしの中に「気」が半分あるという。
「浮気も『気』だったな〜」とか。
「母ちゃんに確認されたのは、俺の本『気』度を試されたんだ」とか。
それで思い当たった。
こうやって考えると、いろいろ森羅万象の半分を占める「気」というヤツ。
そういうものは意外と大きいのではないかというのが、この本にフッと目が行ったという。

昨年大変なことが起こった。
桐生(祥秀)さんが日本人で9秒台を出した。
これは若い方はピンとこないかも知れないが、おじさんみたいなのはカール・ルイスから始まって「日本に100mは関係ない」と思っていた。
これがやっぱりちょっと「金・銀・銅の一角、入れるかも知れない」という。
そういうのが出てきたところが「気」の不思議さ。
桐生以外で9秒台が今年また出ると思う武田先生。
もう間もなく平昌(ピョンチャン)オリンピックがドンチャン始まる。
(放送は今年の1月なので)
あそこで出場停止に国ぐるみでなった国があるが、あの国のドーピングのおかげでいろんなことが分かった。
ドーピングの調査で分かったことは、直接筋肉に効く薬ではなく、脳に効く薬の方がドーピングにはもってこい。
だから、疲労感を筋肉からなくす薬よりも「脳が疲労を感じない」という、そういう薬の方がドーピングにはもってこいということが分かったということが、ドーピングを発見しようとすることで分かった。
脳を麻痺させること。

これは全く逆もある。
今、もの凄く問題になっているが「慢性疲労症候群」という病気があって「いつも疲れている」というのもある。
これも最初は「体の病気だ」と言われたが、昨今「脳の方の病気ではないか?」と言われているという。
(本の中での結論は「体の病気でも、心の病気でもない。その両方なのだ」)
かくのごとく「気」というものが人間の様々なものを支配しているという。
この「気」の育て方というのがまた難しい。
「武道」なんていうのはきっとそう。
「武道」というのは「気」を育てる運動だったのではないか。

武田先生が本当に納得がいかないこと。
フィギュアスケートが「10代がピーク」というのはおかしい。
もう引退してしまった(浅田)真央ちゃん。
あの子なんていうのは、女として綺麗になるのはこれから。
そんな、これから綺麗になる人を「シニア」と呼ぶというような競技というのは
、もうなくした方がいいんじゃないかと乱暴に思う時がある。
ちょっとそういう意味では非常にこの「ピーク」という考え方が肉体に寄りすぎているという。
特に女性の場合は体が丸みを帯びて重くなってくると飛べなくなる。
「回転もできない」という。
ただ、表現力は増していくと思う水谷譲。
実は我々が反応したいのはその表現力ではないか?と思うし、床なんかで金メダルを獲った人がいた。
床運動で国際大会で去年。
あの人なんかも変えた。
昔は細身の女の子がクルクル回るのがよかったが、あの子はプリップリで。
肉まんみたいな感じで力強い。
一つ発想を変えると、また別種の美しさがあるという。

昨年の年の暮れにコマーシャルを1本撮影した武田先生。
(タイミング的にスクウェア・エニックスのCMの件ではないかと思われる スクエニ、『星のドラゴンクエスト』新TVCMをオンエア開始 今年のCMを彩った勇者たち(武田鉄矢さん、デーモン閣下、ラモス瑠偉さん)が夢の共演 | Social Game Info
なかなかしんどい撮影で、どんどん追加された。
「もう帰れるかな」と思うと「あれもやってください」「これもやってください」。
スポンサーがいらっしゃったが、珍しくちょっとむくれてしまった武田先生。
覚悟をしていると我慢できるが、追加されると腹が立つ。
もうスチールは終わった。
それからコマーシャルの動きの方も。
左の肩が痛いし。
何で痛いかはコマーシャルが流れてからまたお話しする。
衣装が重かった。
共演者(おそらくデーモン閣下とラモス瑠偉)もなんだか気が合うのか合わないのかわからない人。
大変大手のスポンサーさんなのでよい印象を与えたかったが、ジジイというのはもうストレートだから「え?まだやんの?助けて〜!」とかというような醜態をさらした。
スポンサー様には申し訳ないと思うが、はっきり言って仕切りが悪いのでムカッ腹が立った。
ものは頼みよう。
予定していないのをどんどん追加してくる。
大きい声で「お疲れ様!」とかと言ったら「いえ・・・ちょっとよろしいですか?」と言われるという。
それで気の合わない三人でまた何か喋っていた。
「どう思うか」という。
「この賞品について」とか。
どうもこうもあるもんかい。
雇われているから、悪口を言えるワケがない。
喋っているうちに今度は三人が乗ってしまって、気の合わない三人が喋る喋る。
それで帰れるかと思ったら「また、もう一つ」というような。
この「追加される仕事への怒り」と言うか。
これは面白いが、今週の「病は気から」に則って言えば「人に無理をさせない」というような仕事がある。
休憩時間の長いボクシングだと思って欲しい。
3分戦って1分休憩だったらいいが、3分戦って15分休憩。
それの10ラウンドとなると、一種監禁状態になる。
これはわかるような気がする。
もう「3時間経ったとこで嫌になる」みたいな。
だから本当に難しいのは「働き方改革」というのは、「労働時間が短ければセーフ」というワケではない。
追加の仕事が、また仕事が終わった後で言ってきた。
「その働き方を改革してほしい」と思った武田先生。
だけど、その時にびっくりしたのは、そこの会社が立派な会社。
「武田先生からそこの会社の社員に呼び掛けて欲しい」と。
「5時になったんで、早くおうちへ帰ろう」と。
「もう無理な仕事はしないで、明日やればいいじゃん」とかと、武田先生の声を社内で流したいという。
その時に、無理しなければなかなか大変だろうその業界で「夕方5時には帰ろうね」と言うのを社長自らじゃなく芸能人にやらせるところが、今の企業の経営の大変さなんだな〜と思った武田先生。
その「やる気」の方、「働く気」の方の「気」の扱いもまた、なかなか難しいということ。
この「『病は気から』を科学する」ジョー・マーチャントさんは、この「気」の育て方を綿々と多方面にわたってこの後、追ってある。
例えば「マインドフルネス療法」。
マインドフルネスという心理療法がある。
それから「睡眠療法」。
「ゾーン」にいかにして入るかという。
スポーツマンを刺激するような。
それから「バーチャル・リアリティ」を使ったらどうかと。
最期にジョー・マーチャントさんは、この「気」の育成を「宗教」でやったらどうかと。
ところが、今ちょっと合気道に夢中な武田先生はどれにも乗らない。
睡眠にもマインドフルネスにもバーチャル・リアリティにも宗教にも乗らない。
「武道」だと思う武田先生。
それで自分が乗らないことは触らない方がいいと思う。

ここから次の本に乗り換える。
「病は気から」だったら「大阪のおばちゃんがヒョウ柄を着る気になった」というのは何だろうか?
「なぜ大阪のおばちゃんはヒョウ柄なのか」が気になったということで。

posted by ひと at 06:47| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月17日

2017年12月11〜29日◆なかにし礼(後編)

これの続きです。

笠戸丸は逆の意味で言うと幽霊船。
「沖を通るは笠戸丸」というのは幽霊船のようにバァーッと揺らめきながら沖を・・・という感じ。
二番目の歌詞もすごい。
語彙そのものが実に巧み。
二番目の一行目
燃えろ篝火朝里の浜に 海は銀色ニシンの色よ
ニシン漁のその夜は浜には煌々と篝火を本当に焚くそうだ。
これは火を燃やして魚を呼び寄せる。
魚を集める明かりとして浜辺に篝火を焚く。
もう一つ特徴なのは、なかにし礼氏が体験なさっている言葉だから重みがあるが、浜辺に篝火を焚きながら浜には物音ひとつしない。
物音ひとつ立ててはいけない。
音を聞くと魚が逃げる。
目に浮かぶ。
真っ暗い海の浜辺に煌々と篝火。
物音ひとつしない朝里の浜。
そしてやがて朝が来たのだろう。
ソーラン節に頬染めながら わたしゃ大漁の網を曳く
「労働のその弾む息から娘は頬を染めている」と、そう読み解ける。
礼氏曰く、これは違う。
これはなかにし礼氏から聞いたら『ソーラン節』はヤン衆が歌うと「猥歌」。
エッチソング。
もちろん正調は「ニシン来たかとカモメに問えばわたしゃ立つ鳥…」なのだが、あれは浜で曳いてヤン衆たちが歌う時は猥歌になっていて「カーチャンの上に乗っかってヤレンソーランソーラン…」というようなエロ猥歌。
それを延々と続ける。
その歌に娘は頬を赤く染めている。
その猥歌故に頬を染め、大漁の高揚もあるかも知れないが。
氏曰く、もちろん民謡の『ソーラン節』だが、ヤン衆が歌う『ソーラン節』というのは「中高校生が文化祭で運動会で踊る時に流れる、あんな歌詞じゃないんだ」という。
浜辺で唄われているのは「猥歌」なのだ。
「昨日カーチャンと寝床で船漕いだ」というような、そういう歌なんだ。
その猥歌に娘は頬を真っ赤に染めているという、そういう魚の生臭さと男女の性の生臭さが浜いっぱいに広がっているという。
活況と高揚、それが浜いっぱいにあの頃は広がっていたという。
そして、それらのすべての情景を飲んで時は流れ、今は「オタモイ岬のニシン御殿もいまじゃさびれてボロボロの幽霊屋敷のようだ」という。
(番組中「オモタイ」と言ったが、もちろん「オタモイ」)
そして時世が変わる。
時間が変わって「あれからニシンはどこへいったやら」。
いきなり時間が飛ぶ。
だから武田先生が言う「能狂言」というのがわかる。
一瞬のうちに時が掻き消えて、別の時間になってしまうという。
とても大きなお城が一瞬のうちに荒城のお城に一変するというような、そういう歌の深さを持っている。

最後の行に出てくる不思議な一行
かわらぬものは古代文字
これはここに行かないとわからない。
ここの浜辺に行かないと、この一行の謎は解けない。
よくこんな歌詞を入れたものだ。
小樽のこの浜辺の洞窟の中に、解読不可能な古代文字が刻んである。
「それをメソポタミア人が書いたんじゃないか」と言われるような楔形文字。
どこか、いつかの時代、誰かが書いたらしいのだが、これは今、洞窟遺跡として小樽の郊外の浜辺に残っている。
小樽市 :小樽市手宮洞窟保存館
縄文の文字なのかメソポタミア文字なのか判読不可能で謎はそのまま、今日も謎のままそこに置かれている。
そのことを詩人なかにし礼は
かわらぬものは古代文字
と締めくくって
(番組中「わからぬ」と言っているが「かわらぬ」)
わたしゃ涙で 娘ざかりの夢を見る
という。
老婆が賑わいの消えた荒れた砂浜に膝を抱えて座り込んでいるという情景で終わる。
ここまで説明しないとこの歌は聞けない。

武田先生のノートから。
なかにし礼氏は自信の「ルサンチマン」憎悪みたいなものを一曲に仕立て上げる、そんな人じゃない。
そういう恨みごとを綴るような、そんな詩ではないと。
この人は憎しみもするけれども、その憎しみをもっとも美しい言葉で語ることのできる詩人だと。
普通、憎しみというのは同じことを繰り返す、ただのグチになってしまいがちがだが、なかにし礼という詩人は自分の憎しみをもっとも美しい言葉で表現できた。
『石狩挽歌』は借金を背負わせて逃げ回り、やっかいをかけた兄への恨みの歌なのだが、その恨みの歌と恨みの情景をこれほど深い詩の次元まで…。



この一曲を踏まえてだが『夜の歌』という彼の自伝的小説の中には、このお兄さんの最期も書かれている。
これがまたびっくりするような。
このお兄さん「特攻隊帰り」と言ったが、なかにし礼さんはその後、お兄さんが亡くなられた後、同期でその特攻隊の部隊にいた戦友の方とお会いになっている。
お兄さんは特攻隊は特攻隊でも、飛行機がなかった。
もう戦況がボロボロで、特攻隊と言っているが飛ぶ飛行機がなかったそうで。
お兄さんのことを詳しく聞くと飛行機に乗ったことがなかったそうだ。
実際の訓練はまったく受けていないそうで。
配属された部隊はそうだったかも知れないが、実際としては飛行機にはまったく乗ったことがない方で。

兄は国旗に抱かれて焼かれたいと申しました。その願いをかなえてやりました。(『兄弟』322頁)

全部が終わった後、なかにしさんはちょっと苦しげに「あれも全部ウソか?」とおっしゃったのだが、まあ、お兄さんは別の意味での歌を書いてらしたのだろう。
実際は飛行機に乗ったことがない特攻隊兵士であったというようなオチになってしまうが。
ある意味で、ちょっと胸が痛くなるような人生。
なかにしさんの話はこれでは終わらない。
兄を見送ってから、もう一人の兄の物語が続く。

なかにし礼さんが慕ったもう一人の兄。
それは石原裕次郎。
昭和を代表する大スター。
偶然に出会っただけの銀幕のスター。
その銀幕のスターは市井の青年でしかなかった、なかにし礼さんに「歌謡曲の詩を書けよ」と勧め「できたら俺んとこ持ってこいよ」と気まぐれな一言を残し去っていき、残された青年はそこから作詩家の道を歩みだしたという。
まさに彼の人生の舵を海の方へ切ったのは石原裕次郎というスターだった。
裕次郎は様々なチャンスや逸材を与えて彼を「なかにし礼に育て上げた」という、立派なお兄さん。
そして、ここからがまた不思議。
ある日のこと。
その裕次郎氏からお呼び出しがかかったという。
それは出会いの1963年から23年後のことであった。
裕次郎氏から呼び出されて。
一回入院なさって、お元気に退院なさったんで、この後は元気にまた活躍してくれると信じて彼は会いに行く。
裕次郎さんの依頼はもちろんのこと、作詩。
裕次郎さんは「このへんで俺に一曲、またいいの書いてくれよ」。
何曲も書いてらっしゃるのだが「このへんで一曲頼むよ」。
「あ、じゃ、こんなのは」と言うと「いやいや、ちょっとこっからは俺が先に注文出していいか?何かさ、人生を歌うような歌がいいな」「え?人生を?恋の歌じゃないんですか?」「う、うん。人生を歌う歌がいいなぁ。例えばシナトラの『マイ・ウェイ』のような」。

マイ・ウェイ/夜のストレンジャー フランク・シナトラ・ベスト



その時、裕次郎さんは51歳。
4〜5歳年下のなかにし礼さんは「51歳で『マイ・ウェイ』は早い」と。
「どうかなぁ」と乗らない顔だったらしい。
気乗りしない表情を浮かべた礼さんに向かって裕次郎さんは珍しく注文を繰り返した。
どんな注文かというと「いや、何気ない情景の歌でいいんだよ。俺はさ、礼。毎晩自宅で酒を呑む。女房が満たしてくれたブランデーグラスを飲み干す。そういう習慣を持ってるんだけど、そん時さ、ちょっとしたクセがあって、女房がブランデーグラスに注いでくれたら、俺のちょうど正面にサイドボードがある。そのサイドボードのガラス板に自分の顔が映りこむんだ。その自分の顔に向かってグラスを上げて乾杯するんだ。そして妻とか俺を慕ってくれる後輩たちに対して、自分の運命に対して『ありがとう。乾杯』って言いながら礼を言うんだ」という。
「そんな歌。そういうサイドボードに映る自分の顔にグラスを上げて乾杯してる時にフッと歌いたくなるような歌を、オマエ、作ってくんないかな」という。
それを聞くともう、このなかにし礼という作詩家にはフワーッと歌がよぎる。
その時に、礼氏はそういう直感の持ち主なのだろう。
「この人、もしかすると死が近いのではないか?」と直感なさったという。
大きな病気から不死鳥のごとくよみがえった太陽の男ではあるが、しかし彼の好みの歌を聞いていると、どうもその歌の中に自分を「遺影」のように「写真」のように写し込みたいという。
この歌を聞く時に裕次郎を思い出すという、そういう「遺影」。
「写真のような一曲が欲しいのではないだろうか?」という、そういう直感がした。
その詩はこの出だしで始まる。
これは裕次郎さんが語った通りの一行から始めている。
鏡に映るわが顔に グラスをあげて乾杯を
裕次郎さんの日常の酒癖が実に平凡に静かに始まる。
そして三行目からが素敵。
たった一つの星をたよりに はるばる遠くへ来たもんだ
誰かの歌に似ている。
(海援隊の『思えば遠くへ来たもんだ』のことか)
美しいフレーズ。
2コーラス目、3コーラス目も同じ個所。
純で行こうぜ愛で行こうぜ 生きてるかぎりは青春だ(3番)
親にもらった体一つで 戦い続けた気持ちよさ(2番)
絢爛たる詩を並べているが、しかし『石狩挽歌』などに比べるとちょっと冷たい言い方をするが、詩に動きが少ない。
静止している。
詩がフレーズで止まっている。
でもこれはやっぱり詩人なかにし礼。
ブロマイドのような歌を作りたかった。
妙に揺らしたくなかった。
出来上がった歌がこの歌。



石原裕次郎に捧げた歌。
作曲は加藤登紀子さん。
これも「同じ大陸からの引き揚げ者だ」ということで加藤さんをご指名なさったようだ。

北の旅人/わが人生に悔いなし



鏡に映るわが顔に グラスをあげて乾杯を
たった一つの星をたよりに はるばる遠くへ来たもんだ
長かろうと短かろうと わが人生に悔いはない


この歌の完成から五か月後、シングル発売から三か月後、裕次郎さんは亡くなられる。
まさしく「運命」。
何と52歳の若さで、このシングルを発売して、この世を去られている。
彼は昭和のスターを演じきった。
しかもなかにし礼氏は裕次郎さんの死を演出した。
見事な演出。
この世を数か月後に去る人がサビでつぶやいた言葉「長かろうと短かろうとわが人生に悔いはなし」。
まさしく裕次郎さんしか言えない一行。
なかにし礼という人は弟として「幻の兄」裕次郎の遺影に花の如き挽歌を贈って飾った。
しかしその裕次郎にも実の兄(石原慎太郎)がいる。
長生きな方。
フッと思ったのは、この歌をお兄さんはどんな思いで聞かれるのかなぁと。
小池(百合子)さんにさんざん突っつかれ。
公聴会か何かに呼び出された時にお気の毒だった。
年齢。
あんなことをお命じになる方は情けがない。
だけど、もし慎太郎さんがこの歌を聞かれるとすると、この一行はまさしく裕次郎が兄を叱る声に聞こえたのではないか?と思う。
「兄貴、長かろうと短かろうと『わが人生に悔いはなし』だぜ?」という。
そう思うと歌は凄い。
やっぱり「歌」というのは死者の声を留める。
その意味でまさしく、なかにし礼、昭和の大作詩家。
この人の華やかな歌謡曲の裏地は「死」。
それが我々を圧倒する。

この歌は軍歌。
戦地で戦うご亭主のことを思ってしみじみ奥さんが歌っている歌。
なかにし礼さんはそれを詩を替えてコミックソングにしている。
元歌はコレ。
『ほんとにほんとに御苦労ね』



それをコミックソングで詩を替えて歌わせているのが、なかにし礼。
『ドリフのほんとにほんとにご苦労さん』



この歌は軍歌。
それをなかにし礼さんがドリフに歌わせる時にコミックソングにしている。
これはご本人に聞いていないので、理由はよくわからない。
ただ、この中に礼さんの「軍歌として不幸に生まれてきたが、俺はコミックソングに仕立て直して歌い継がせていこう」というような「過ぎた戦前を忘れさせてたまるか」というような意地を感じる。

遠い昔、こんな話を聞いたことがある武田先生。
この方も満州から引き揚げてきた方なのだが、その方のお父さんは満州鉄道の官僚だったそうだ。
彼は満州にいた頃はベッドで寝起きし、料理人は中国人、家庭教師はフランス人、父母は土曜日は舞踏会に出かけて行って、舞踏会に行く馬車の馬丁はロシア人だった。
そういう満州国ハルピンかその辺での生活をなさっていた。
ところが戦争に敗れて全部なくす。
この方は武田先生の恩人だが、日本に引き揚げてきて、もの凄い苦労をなさる。
その苦労話をお話しなさったのだが、お父さんと二人で生きるためにヤミ米を買って、昔、そんなふうにしないと喰い物がなかった。
米を背負って運んでいる時に、おまわりさんが接収にやってくる。
ヤミ米で「不当だ」というので取り上げられてしまう。
おまわりさんが来て「もう米なんてどうでもいいや」と思って動けず、へたり込んでいる時に「貴様!何をやっとるか!」とおまわりさんが少年の首に手をかけた時にボカーンと殴った人影がいた。訛りから在日韓国の人だったらしいのだが、その在日韓国人がその少年を救ってくれた。
おまわりさんを殴り倒してにっこり笑って「ショウネン、逃ゲナ」と言った。
訛りで朝鮮系の人だというのがわかって、もうそういう方が戦後、闇市にいっぱいいた。
その人はその少年を助けてくれた。
その少年は後に映画監督になる。
バァン!と横から殴ってくれたその人の残像をモデルにして「喜劇シリーズ」を作る。
それが『男はつらいよ』。

「男はつらいよ HDリマスター版」プレミアム全巻ボックス コンパクト仕様<全53枚組> [DVD]



何かその「永遠のヒーロー」を山田(洋次)さんは、その在日の朝鮮人の人の面影と重ねてらっしゃる。
表現することの引き金に、あの満州から引き揚げてきた人たちの「無念」とか「悔しさ」とか「切なさ」とか「暗い思い出」が、戦後日本のエンターテイメントの中にドッと流れこんだと思うと、なかにし礼という人の作品の数々というのは、そこも「込み」でかみしめ直す時に、二倍も三倍も味が深くなるのかなぁという。


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2017年12月11〜29日◆なかにし礼(中編)

これの続きです。

「立ち向かっていこう」と「負けたくない」というので懸命に頑張ってきた武田先生。
ここまでくるとはっきり差は認める。
最近そういうのが多い。
世の中には凄い人がいっぱいいる。
武田先生が最近一番尊敬している歌手は北島三郎さんになった。
あの人はやっぱり凄い人。
その番組(『武田鉄矢の昭和は輝いていた』「北島三郎3時間SP」を指しているかと思われる)で取り上げて、北島三郎さんのことを「生きてる神社」と呼んだ武田先生。
二礼二拍手すると何か良いことがありそうだと思う。
誰かが言っていたことだが、北島さんは「一つおやめになると一つ幸運が舞い込む」。
「もう紅白出ない」と不出馬宣言をなさって、一か月間の座長芝居も辞めて、「これからは体力に合わせて。80歳ですから」なんて切なげにそうつぶやかれたら、とたんに持ち馬が走り始めたという。
いっぱいお弟子さんがいらっしゃるが今、本当に北島プロで一番稼いでいるのはアイツ。
本当に「花さかじいさん」みたいな方だと思う。
昭和を生きてきた人間として己を振り返るが、その時に目の敵にした人の「才能」みたいなものがすごく最近身に染みて感じる。
阿久悠という人は只者ではない。
浜口庫之助さんとか。
ああいう人たちの作品とか人柄とか生きっぷりに、最近やっぱり次々に圧倒されている。
そしてお話した時になかにし礼さんの作詩の秘密を聞いていくうちに「やっぱりすごいな」と。
戦前、戦中、戦後を生きた人たちの「凄み」みたいなものがフツフツと。
見てきたもの、経験したことがもう全然違う。

戦後になってこのボロボロの人生で、なかにし礼さんは自分で苦学しながら大学に行かれてフランス語を勉強なさって学生結婚なさっている。
始めての結婚の時、お金を貯めて二人が伊豆下田まで新婚旅行に出て、そこで高いホテルに「一泊だけ泊まろう」と泊まって、そこのホテルに行かれたのが昭和38(1963)年。
下田東急ホテルに行かれて、ロビーをくぐったらそこにいた映画スターが手招きした。
その映画スターこそ石原裕次郎。
これは本当にドラマのようだが。
何で手招きされたか?

「いや、なにね、さっきからここに坐ってロビーにたくさんいる新婚さんたちの品評会を、ま、退屈まぎれに、この専務と一緒にやっていたんだよ。そこでよ、君たちが一番カッコいい新婚さんてことに、俺たち二人の意見が一致したってことだよ。ま、ここに坐れや」
 裕次郎は自分の右隣のスツールをぽんとたたいた。
−中略−ブルーのコットンパンツをはいた足は長く、白いスニーカーで悠々と床を踏みしめている。やたらとまぶしい。なんだかスターと凡人の差を感じて私は意気消沈してしまった。
「というわけでよ、君たちは新婚カップル・コンテストのグランプリに決まったってことよ。ま、一杯、祝杯といこうや」
−中略− 
「乾杯!」
 裕次郎がみんなを見回してジョッキをあげた。
−中略−
「なにやって食ってんだい?」
「シャンソンの訳詩をやってます」
−中略−
「あんなもの訳詩して食っていけるのか?」
「まあ、なんとか」
「本当か? 貧乏してるんじゃないのか。こんな可愛い嫁さんに苦労かけちゃまずいぜ。よお、嫁さんよ、おたくの旦那、大丈夫なのかい?」
 裕次郎は私越しに妻に声をかけた。
−中略−
「やめとけ、やめとけ、訳詩なんざ。シャンソンを日本語にしたってつまんねえよ。なんで、日本の歌を書かないのよ。流行歌をよ」
「流行歌ですか?」
−中略−
「自信作ができたら持ってきなよ。俺がすぐに歌うってわけにはいかないけど、レコード会社に売り込んでやるよ。なあ、専務」
 裕次郎にそう促された専務は、
「ええ、もちろんです。石原プロモーションに私を訪ねてきてください」
 と言って名刺をくれた。
(66〜69頁)

気に入った詩が出来上がったので三年後ぐらいに持っていく。
もう覚えていなくて玄関払いだろうと。
大スターだから当然だろう。
そう思ったら裕次郎さんはちゃんと覚えていて「できたかー」と言いながら事務所の奥から出てきた。
(本によると石原プロで裕次郎は応対していない。『夜の歌』はフィクションを含む内容のようなのだが『兄弟』の方にも同様のシーンが登場するが、やはり裕次郎はこの時応対していない)
まるで疫病神のような兄から「太陽をいっぱい浴びた新しい兄貴を見つけた」というこの瞬間から彼は日本の歌謡界に一歩を踏み出す。
この奇妙な縁はさらに彼を別世界へ運ぶ。

裕次郎さんが何かの関係で一人の女の子を預かった。
その預かった子が黛ジュンさん。
それで裕次郎さんから「この子の曲は絶対当てて欲しいんだ」と頼まれた。
それが例の『恋のハレルヤ』。

恋のハレルヤ (MEG-CD)



 黛ジュンという名前はどこから来たかというと黛敏郎からだ。−中略−その頃の私はクラシック音楽にのめり込んでいて、−中略−なんとしても黛敏郎の「黛」を拝借したいと考えたのだ。(216〜217頁)

なかにし礼さんは名付け親でもある。
それで『恋のハレルヤ』の大ヒットを飛ばした。
このなかにし礼という人は必死になって言葉を紡ぐ人。
その一つの例だが、裕次郎さんに言われた「シャンソンの訳詩だけじゃつまんない。歌謡曲作ってごらんよ」というので彼はシャンソンの訳詩もしながら歌謡曲の詩を作っていく。
まずヒットしたのはシャンソンの訳詩。
その当時、シャンソンの歌い手でナンバーワンと言われていたのが菅原洋一さんという。
ただ、シャンソンを歌う方はインテリ。
ちょっとうるさい。
それで、もう今でこそ笑い話なのだが、なかにしさんは必ず録音に立ち会う人らしいのだが、壮絶な闘いがあった。
その中で「なるほどなぁ」と思った一曲。
菅原洋一さんで『知りたくないの』。



これは一行目から大ゲンカになった。

 あなたの過去など
 知りたくないの
 済んでしまったことは
 仕方ないじゃないの
(242頁)

これは何気ない言葉。
これを菅原さんがテーブルを叩き「こういう言葉使う?普段から」。

念のため全音の『歌謡大全集』全十二巻を買ってきて、そのすべてに目を通して見た。思ったとおり「過去」という言葉はどこにも見当たらなかった。(『兄弟』199頁)

「過去」という二文字は男女の別れの色っぽい歌には使われない。
だいたい「過去」と言った場合、犯罪関係の話。
なかにしさんは「女心の深い傷跡として『過去』という響きの暗い言葉が一行目から必要なんだ!」というので。
でもヒットしたのでパーティーでお会いしたらすごく菅原さんは喜んでらしたという。
(『兄弟』にこの曲のレコーディングの時のことが詳しく書かれているが、菅原氏は「『過去』はカ行が二つ並んでいるせいか歌いにくいので他の言葉に代えて欲しい」と言っているが、テーブルを叩いたとか、普段使わない言葉であるという主張をされたということは書かれていない)

礼さんが『恋のハレルヤ』とか『知りたくないの』等々ヒットを飛ばすたびに、お兄さんが聞きつけて。
本名が「中西禮三」さんなのでわかってしまう。
(番組では「なかにしれいじ」と言ったが「なかにしれいぞう」)
だから「作詩家・なかにし礼」と言えば「弟ではないか」ということで住んでいるところがバレちゃうみたいなことで。
お兄さんがお母さんの面倒を見られた。
そういう関係があったらしい。
お兄さんが「母親の面倒は俺が見てる」と言われると返す言葉がなくて、お兄さんが人生に絡んでこられるという。
本人がそうおっしゃっているからそうとしか言いようがないが、本当になかにしさんのお兄さんは「疫病神」だったらしい。
ある意味で、もうはっきり憎悪を込めておっしゃる。
どんどんまた借金をして。
なかにしさんも考えてみればいいひと。
「母親の面倒見てるの俺だぞ」と言われると返す言葉がなかったらしくて、尻拭いの意味でお金を渡していくうちに、ものすごいことをなさったようだ。
勝手に借金の肩代わりみたいな。
莫大な負債をいつの間にか負わされて、歌の権利か何かも全部押さえられた。
そんな苦労をなさっている。
勝手に印鑑を持ちだされてみたいなことらしい。
それで先々の権利までお兄さんが手を出されていて、次のヒット曲を出さないとなかにしさん自身が破産するような。
連続ヒットを出さないと、なかにしさん自身が全財産をなくす。
最初の結婚はダメになってしまうが、二度目の奥様には頭を下げようがないみたいな大借金をお兄さんが持ち込まれた。
その時にレコード会社からの企画を持ち込まれて。
仕事だから、お兄さんに対する思いとか借金のことを考えると頭が作詩の方にいかないが、頭を掻きむしっているうちにヒョコッとできたヒット曲。



いしだあゆみさんの『あなたならどうする』。
「どこがどう」というわけではないが、サビの文句の「あなたならどうする」というのは、そう訊きたくなったのだろう。
それから選ばせる。
「生きるの?死ぬの?」とか何か。
あれももう、本当に全財産なくすかどうかの瀬戸際で思わず口からついて出た言葉で。
一番最初にこのなかにし礼さんを語る時に言った「『一語』が歌を作っていく」という。
この方は本当に壮絶。
それで驚くなかれ、借金はずっと背負い続けられて21世紀に入ってやっとその呪縛から。
そこまで引っ張った。
それも負債者がもう「群れ」で襲ってくる。
壮絶な巨大負債。
今まで一生懸命返してきた。
弁護士さんでものすごく立派な方がいらっしゃって、21世紀に入ってからだから数十年にわたって。
本当に「あなたならどうする?」と言いたくなる。
でも不思議。
こういう苦悩がなかにし礼という人に詩を書かせていく。
とりあえずお金とは関係ないが、作品が、一語が、次々とこの苦悩の摩擦から熱となって浮かび上がってくるという。

 『恋のフーガ』

 追いかけて追いかけて すがりつきたいの
 あの人が 消えてゆく
 雨の曲がり角
 幸せも 思い出も
 水に流したの
 小窓打つ 雨の音
 頬ぬらす涙
 初めから 結ばれない
 約束の あなたと私─
 つかのまの 戯れと
 みんなあきらめて
 泣きながら はずしたの
 真珠の指輪を
(247頁)



クラシック好きのなかにしさんらしい。
「フーガ」という。
ティンパニーのダダダーン!というような音なんていうのは、なかにしさんのアイディアだと思う。
そのなかにし礼さんが「負けてなるか」と思った一群が彼の人生に登場する。
フォークソング。
なかにし礼さんはこの歌を聞いた瞬間に「負けるもんか」と思ったという。
そのライバル心に火を点けた歌がこの歌。



作詩・岡本おさみさん、作曲・吉田拓郎さん。
自身も歌ってらっしゃる『襟裳岬』。
我々にはピタッとくる「襟裳の春は何もない春です」という。
「北の街ではもう悲しみを暖炉で燃やしはじめてるらしい」というような抽象表現が武田先生の世代の圧倒的な支持を。
そして森(進一)さんの歌唱力もあってレコード大賞に選ばれるという。
レコード大賞に選ばれた情景を、作詩家なかにし礼氏は「オマエらが襟裳だったら俺には小樽がある」ということで、彼は過去へと思いを走らせる。
その小樽にある情景というのは、あの忌まわしき兄。
そこの浜辺でニシンを引いたという「あの負けてしまったあの情景こそ俺は歌にしてやる」と。
普通は演歌だったらこれを「うみねこ」と表現するが、彼は「ゴメが鳴くから」と、こう表現した。
「ヤン衆」
漁業にまつわる季節労働者。
若いヤン衆たちの作業着を「赤い筒袖(つっぽ)」と呼ばせるという。
聞く者にあえて馴染みのない異様な言葉でその情景を語る。
この人は「ゴメ」から歌を思いついたのではないかと思う武田先生。
「海猫(ゴメ)が鳴くからニシンが来ると」とこの一行で「ブワーッと思い出が」という。
彼にはやっぱり小樽の浜辺にいっぱい思い出があるのだろう。
「雪に埋もれた 番屋の隅でわたしゃ夜通し飯を炊く」
凄い情景。
「夜通し飯を炊く」というのは体験した人じゃないと思い浮かばない。
飯を炊いているのは女。
しかも「飯炊き女」というのは響きの中に江戸期、宿場町なんかで旅人の給仕をし、売春も兼ねていた「飯盛り女」というようなのがイメージとして重なる。
それが夜通し飯を炊いて働いて、ヤン衆相手に春をひさぐというような強烈な北の匂い。
その娘がある日の浜の情景を語っている。
そういう歌。
それが五行目で突然消える。
ヤン衆相手に春をひさぐような、体を張った生き方をしている女が一瞬のうちにかき消えて「あれからニシンはどこへ行ったやら」と。
これが能狂言の舞台を観るようで、橋を渡って老婆がスーッと出現するような。
「老婆が若い頃の幻影を懸命に語る」というのが、何か能狂言の「夢幻能」を観ているみたいな感じがする。
『黒塚』とか「ヨーッ!ポン!」という。
「ハラマナサラ、ヒョワーッ!」とかというのがある。
うつつか夢がわからないという。
その闇の中から死者が浮かんできて、死者が死者を語り、また闇に消えていくような。
「夢幻能」の能舞台を観ているような気がする。
その老婆が語る風景も凄い。
「沖を通るは笠戸丸」
聞いてもわからない。
これはもう戦前を体験した人じゃないとわからない。
「わたしゃ涙で鰊曇りの空を見る」とサビが始まるが、この「笠戸丸」はかつて、南米ブラジルへと移民の人々、日本人を集めて太平洋を渡っていった、移住する人たちのための船だった。
客船だった。
これも一種「国から棄てられた人々」。
耕す土地が無いので、農家の百姓は「ブラジルへ行ってコーヒー園やれ」「一発当たりゃデカいぞ」なんて言いながら、国が笠戸丸を用意して日本人をせっせとそこへ運んだ。
それは自分たちの父と母が満州に賭けた思いと全く同じ。
そういう情景が。
この笠戸丸は戦後、荷運びの船となり、今は北の方の海に漁礁として沈められたそうだ。
(調べてみたがソ連軍に爆撃をされて沈没したようだ)
一曲の歌謡曲の中にこれほどの深みが。
「なかにしさんの歌の裏地は全部死人ですね」となかにし氏に言った武田先生。
大きく頷かれた。
「死んでいった人たちを歌の裏地に使う」という。
それが武田先生には「複式夢幻能」の構造を歌謡曲にこの作詩家は写しているのだと。
戦後日本の歌謡曲には様々な作り手がいたが、なかにし礼というのはその意味で「才人」。
能狂言を歌謡曲にして酒場に流すという。
後にそう呼ばれる一曲『石狩挽歌』。
この歌の中にはそれほどの深みがあるような気がする武田先生。
しかも歌詞の解説は一番だけでは足りない。
老婆は死んでいった者たちと、死んでいった者たちが見たであろうその情景を一曲の歌に託す。
この歌は無頼の兄に宛てて書いた「歌手紙」。
歌は書けない。
この歌はさらに二番に広がっていく。

石狩挽歌




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2017年12月11〜29日◆なかにし礼(前編)

BSで昭和歌謡を振り返る番組やTBSの歌番組でも『ザ・ベストテン』を振り返ったり、もうほとんどメインは「昭和歌謡史」。
関口さんとか『武田鉄矢の昭和は輝いていた』とか、いろんなところが昭和の歌を振り返っている。
そういう「時代の流れ」というのもあって「なかにし礼」氏を取り上げる。
『恋のフーガ』『恋のハレルヤ』『石狩挽歌』
日本作詞大賞から直木賞まで獲っちゃったという凄い才能の方。

夜の歌



一九三八年中国黒竜江省(旧満州)牡丹江市生まれ。立教大学文学部仏文科卒業。在学中よりシャンソンの訳詩を手がけ、その後、作詩家として活躍。(本のそで)

なかにし礼氏を自分の番組に招き、話を伺った武田先生。
武田鉄矢の昭和は輝いていた|BSジャパン 第181回 5月5日 「作詩家 なかにし礼の世界3時間スペシャル」)
その席で『夜の歌』という彼の自伝に近い小説、物語をいただいて、お話を伺いながらその本を読んだのが今回の『三枚おろし』のネタ。
この『夜の歌』というのがまた凄い。
なかにし礼氏が己が一生を振り返りつつ、小説にしてある。
ヒット曲にも恵まれず落ちぶれ果ているが作詞家である武田先生。
この方(なかにし礼)と同業。
ただ、スケールが違う。
武田先生はライブで数百人の観客がいれば十分というような、非常に「小商い」、狭い所帯で生きている。
なかにし礼氏はもう昭和歌謡史に残る、燦然とその足跡を残すという詩人。
自ら歌うこともあるが、彼の詩は多くの歌手に求められた。
個人の仕事ながら、それがそのまま昭和の歌謡史になるという。
作詩する力が違う。
なかにし氏は「百貨店」。
言葉の売り方、展示場が。
それに比べて武田先生は「軒下のたい焼き売り」。
「美味しいの焼けてるよ。買ってかない、お嬢さん!」とかと言いながら。
これほど商売のスケールは違う。

作詩というのは作り方「作業手順」というのがある。
その作業手順というのは「一語」から始まる。
一語、たった一つ。
その一つを思いつくか思いつかないか。
思い出があってそれが歌になるのではない。
その「一語」があって思い出がくっついてくる。
武田先生の唯一のヒット曲である『贈る言葉』。

贈る言葉



「暮れなずむ」という言葉を知った時から始まった。
これは堀内大學というフランスの訳詩集の中にあった言葉。
「暮れなずむ」
それが何だか呟いてみると響きがいい。
「夕暮れ」「日暮れ」などがあるが、この「暮れなずむ」を歌にしたかった。
そうすると当然そういう夕焼けなので「別れ」がいいわけで。
その別れは当然次に「去りゆくあなたへ」という言葉を呼び寄せる。
そしてこの「去りゆくあなた」から去って行った女の人を思い出すうちに歌が膨らんでいく、できていく。
始まりは「暮れなずむ」。
舞台を考えていくうちにそれが「別れ」になっちゃう。
「暮れなずむ町の 光と影の中」と来ると「去りゆくあなたへ」とこう来る。
「夕焼け」とか「日暮れ」とかっていうよりも「暮れなずむ」という。
その別れの情景を作っていくうちにその別れをベタッとしないでサラッと鮮やかに、というので、別れの言葉そのものを花束のように交換した、というので『贈る言葉』という。

その一語を見つけるために、本当にのたうちまわる。
自分の人生のすべてを振り返る。
そのことをテレビの番組でなかにし礼氏に訊いた武田先生。
「鉄ちゃんも作詩やるからわかると思うけど、一語なんだ。それをどう思い出の中から」という。
このなかにし礼という作詩家がどんなふうにしてその一語を持ってくるかを。
(歌の歌詞なので「作詞家」と表記するのが普通かと思われるが、この本の中では「作詩家」と表記されているので、なかにし礼氏に関してはこちらの表記に統一しておく)
礼氏がまだ8歳の少年だった時。
満州国に生まれた方。
この満州国が消えてなくなる。
昭和20年8月、日本の敗戦と同時に満州国は地上から消え失せる。
国家の庇護なく、国境から侵入してきたソ連軍の殺戮にさらされながら礼氏、8歳の少年は姉と母と共に避難民となって帰国の引き揚げ船を目指して歩き続ける。
そこで8歳の少年は、いっぱい人間が死んでいく姿を死んでしまった亡骸を見ている。
おそらく阿鼻叫喚の引き揚げ地獄があったのではないだろうかというふうに思う。
彼は自伝的な小説『夜の歌』の中でその情景を書いている。

「ぼくたちは重いリュックサックを背負い、ハルピン駅から石炭を運ぶための無蓋車にぎゅうぎゅう詰めにされて乗った。列車は中国の子供たちに石をぶつけられながら大連に向かって南下し、二十日ほどかかって遼東湾の西側にある葫蘆島という港町に着いた。
 その港町を歩いていると、海の香りがしてきた。その香りに導かれるようにして砂丘が作る小高い丘を上った。這うようにして砂丘を上りきって、ふと目の前の開けた景色を見ると、そこには雲一つない真っ青な空が広がっていて、その下には波一つない真っ青な海がたゆたっていた。そして沖のほうには、ぼくたちを日本に向けて乗せていってくれるはずのアメリカのフリゲート艦が錨を下ろして待機していた。
(229頁)

「やっとこの船で日本に帰れる。助かったんだ!」
そういう燃えるような(思いが)8歳の少年でもあった。
「もう死体を見なくていいんだ」という。
あの歓喜を生涯忘れない。
これが情景でまず思い出の中にある。
それから○十年後、話はポーンと飛ぶ。
なかにし礼氏は作詩家になっていて、曲が出来上がっている。
音符は4つ。
「4つで何かいい言葉はないか?いい言葉はないか?」
恩義ある人から頼まれた黛ジュンという新人のための歌。
頭を掻きむしっているうちに彼の思い出が8歳の少年に戻っていった。
なんとあの砂丘から引き揚げ船の船影が見えた瞬間を思い出した。
あの喜びを何て言おう。
その時に彼はフッと思う。
「あれは神がかりだった」

「ぼくはクリスチャンでもユダヤ教徒でもないが、あの時のあの喜びはハレルヤだ。神をたたえよ! その言葉しかない」(230頁)

4つの音符に「ハレルヤ」をはめ込んだ礼氏は、次に7つの音符に昭和21年10月中旬、引き揚げ船の出港を重ねた。
壮絶だったらしい。
「船が出て命が助かった瞬間、みんなウワーンと泣き出した」
(本には「ただただ無口でうずくまる引揚げ者たちは、無限にすすり泣いていた」という表現)

「満州のバカヤロー!」
 人々はそう叫びつつも、顔をくしゃくしゃにして泣いていた。
 空中に紙吹雪が舞った。それは緑色の満州国紙幣だった。
−中略−歴史とか世界とか人々の生活を無残に崩壊させる大いなるもの、神の力などとは言わない。悪魔の手になるのか善魔のなすものかは分からないが、とにかく止めようのない大いなる力がある。それを恋の歌の形で表現できたら、そこには万人が納得する必然性が歌の柱になってくれるだろう。
 タイトルは『恋のハレルヤ』で決まりだ。
−中略−
 ハレルヤ 花が散っても
 ハレルヤ 風のせいじゃない
−中略−
 ハレルヤ 沈む夕陽は
 ハレルヤ 止められない
(232〜233頁)
 
なかにし礼さんと話したり、この本を読んで圧倒されたのは、ものすごく暗い悲しい思い出が、後の彼が作ったポップスの歌詞になっている。
昨日(番組上の前日)、引き揚げ船で引き揚げてくる時に、消えた満州国に対する引き揚げ者たちの無念の叫び声と言った。
「満州のバカヤロー!」とか
でも、なかにし礼氏は「恨みだけではなかった」という。

満州で生きた人々にとって、満州で見た夢は膨大であり、−中略−夢に向かって歩みつづけた充実感と躍動感は生涯忘れがたいものになっている。(233〜234頁)

それくらい満州生活は胸がときめいた。
日本人だけではない。
周りには中国人の子もいるしロシア人の子もいるし、朝鮮民族の子もいる。
モンゴル系の人たちもいる。
そういうアジアの多民族が生きていた街というのは、我々が体感できない「賑わい」が。
それをなくした無念さというのは「どこか恋に似ていた」と。
それであの満州国に対する思いというのが『恋のハレルヤ』の中でこう変化する。



 愛されたくて
 愛したんじゃない
 燃える想いを
 あなたにぶっつけただけなの
(232〜233頁)

黛ジュン譲はそう歌っているが、実はこれは満州にかけた彼らの夢をあの『恋のハレルヤ』のサビのところに持ってきたという。

『恋のハレルヤ』は予定通り昭和四十二(一九六七)年二月上旬に発売されたが、プレスが追いつかないほどの売れ行きを示した。(236頁)

武田先生がびっくりした引き上げ直前の出来事。
ハルピンに命からがらたどり着いて「殺されなかった」と喜んだ瞬間に、1945年のこと、ハルピン駅で外国にいる日本人引き揚げ者に向かって日本国から勧告文書が届いた。

《ハルピン地区の事情がまったく分からないので、引揚げ交渉を行うにも方法がない。さらに、日本内地は米軍の空襲によって壊滅状態にあり、加えて、本年度の米作は六十年来の大凶作。その上、海外からの引揚げ者数は満州を除いても七〇〇万人にのぼる見込みで、日本政府には、あなた方を受け入れる能力がない。日本政府としては、あなた方が、ハルピン地区でよろしく自活されることを望む。 外務大臣・重光葵》(174頁)

いわゆる「棄民」。
国民を棄てる。
国家というのは時として国民を外国に棄て去るものであるという、そういう体験をなさっている。
私たちにはもう、想像もつかない。

 七歳の私でさえ、この紙に書いてある文章を読んでやり場のない怒りと悲しみを覚えた。私は牡丹江生まれだが、姉は日本の小樽生まれだったから、祖国に棄てられた衝撃は私よりも何倍も大きかったのだと思う。(176頁)

号泣するお姉さん。
家も財産もすべて投げ出してソ連の戦闘機に追われてやっとここまで逃げてきたのに。
帰るべき日本国政府からは「帰ってくるな」と「喰わせる飯がねぇんだ、お前たちには」という。
この「日本国に棄てられた」というこの無念と恨みを彼は歌にしている。
弘田三枝子さん『人形の家』。



 顔もみたくないほど
 あなたに嫌われるなんて
 とても信じられない
 愛が消えたいまも
 ほこりにまみれた人形みたい
 愛されて捨てられて
 忘れられた部屋のかたすみ
 私はあなたに命をあずけた


この暗い恋歌の底に、戦争敗北によって一国の街に棄てられた引き揚げ者の無念が込められていたワケで。
この人の「一語」は凄い。

満州から引き揚げてくる時、淡々と小説の中で書いておられるが、お父さんはソ連軍に連行されて、お母さんとお姉さんとまだ7〜8歳の少年であるなかにしさんは三人で逃亡していたらしい。
その逃避行の途中で「満蒙開拓団」満州に開拓に入った日本人の開拓団の人たちが中国人によって皆殺しにされたという惨状を眺めたり「七十万精鋭」と威張り続けた関東軍が紙のごとくソ連軍の奇襲に引き破られたというその関東軍の見苦しい逃げっぷりを語りつつも、かばうように帝国軍人の出来事を語ってある。

 大杉というのは大杉寛治少将のことで、−中略−
彼は参謀本部にいて関東軍の満州進出計画は手に取るように分かっていたから、父に牡丹江移住を勧めた。なぜそのようなことになったのかというと、大杉は母に結婚を申し込んでいたのだが、大正デモクラシーに染まった母は軍人よりも商人の倅である父を選んだという物語が背景にあった。大杉は自分を袖にした女性にたいして最大の寛容さをみせ、満州移住という一大プレゼントを差し出してみせたというわけだ。
−中略−
いわば大杉は父と母にとっては満州における成功と栄光をもたらしてくれた恩人であった。
(191頁)

昭和20年8月9日、大杉というこの少将は攻め込んでくるソ連軍を止めるためのしんがりを受け持った。

戦車はソ連軍一キロメートルあたり約四〇台にたいして日本軍ゼロ。戦闘機はソ連軍の数百にたいして日本軍はゼロ。大砲にしても的は四十倍、といった具合だ。(192頁)

日本軍はなんと大杉少将を先頭にして突撃を繰り返し、ソ連軍の侵攻を食い止める。

 大杉少将は言った。
「勝利の望みなき戦いで命を落とせし数多くの兵たちよ、その家族たちよ、祖国を恨むな。満州にわたり苦難を強いられた数多くの民たちよ、祖国を恨むな。祖国を許せ、
−中略−上官の言葉は天皇陛下のお言葉であると『軍人勅諭』にあったはずだ。−中略−天皇陛下のお言葉だと思って聞け! 兵たちよ、謝って済むことではないが、私は心から君たちに謝りたい。済まなかった。誠に済まなかった。済まなかった……」
 このあとカチリと音がして、兵たちが大杉少将を見た時はすでに遅かった。
 大杉少将はピストルをこめかみに当て、引き金を引いた。銃声が鳴った。
 大杉少将は膝からがっくりと地に倒れ、絶命した。
−中略−
 翌早朝、突撃隊に志願した兵たちおよそ四〇人は、大杉少将との約束どおり、白刃をかざしてソ連軍戦車隊にぶつかっていき、むなしく散っていった。
(193頁)

しかしまさしく『人形の家』の歌詞に込められたように「私はあなたに命をあずけた」というこの「満州へ渡った人たちの思い」みたいな、この絶望みたいなものが伝わってくる。

逃避行の最中、列車でソ連軍の戦闘機から銃撃を浴びている。
その時にお母さんが「伏せろ!」と言ったからそのまま伏せるのだが、もう戦場における生と死なんて運、不運のそれだけ。
だから「ダダダダダダ…」と銃をソ連の戦闘機が撃っていく。
だから当たって死んだその人の横は死んでいない。
死んでいない人のその先は死んでいる。
その運命の「非情さ」というか、そういうものをポツンとお書きになっている。
とにかく7〜8歳の少年はザクロのように頭蓋骨を割られた死体をいくつも見ながら逃避行を続けたという。
そして礼氏は、その体験を踏まえてこんなことをおっしゃっている。

 このたった四日間で、私は突如、幼児から少年になった。いや少年どころか、疲れても腹が減っても泣き言一つ言わない、しっかりした大人以上の大人になった。(51頁)

死を目撃することによって彼の中の成長が急がされてしまったという。
とても不幸な出来事かもしれないが。
「幸運」と「不運」というものの残酷さ。
それで彼らは恨みに恨んだ日本に帰ってくる。
行き場がなくてお父様の故郷である小樽にたどり着く。
そうしたらその小樽では一つ幸運が待っていた。
それはどんな幸運かというと、この一家、なかにし家の大黒柱であるご長男さんが生きておられた。

学徒出陣して陸軍特別操縦士見習士官となり、特攻隊として出撃したはずの兄は戦死していなかったのだ。(389頁)

そのお兄さんは(なかにし氏よりも)一回り年上。
「生き残った」という運を手にしてお兄さんと会った時、もう本当にお母さんは抱きついて泣かれたという。
いい話。
ところがそう簡単に話はいかない。
このお兄さんが何を思ったか、とにかく大博打が好きな人で、せっかくあった家、土地、建物の権利書を手にニシン漁の大博打に打って出られて「すべてをなくす」という。
なかにし礼氏に襲いかかる戦後の不幸はここからまた始まっていく。

もう昭和もとっくに終わって数年のうちに平成も過ぎていくのだろうが、この昭和という時代は振り返っても振り返っても不思議。
「引き揚げ」という言葉は我々の頃はまだぼんやり差別用語として使われていた。
「あの人は引き揚げ者たい」という。
つまり「一攫千金を夢見て中国大陸に渡ってはずした人」とか。
それから「日本国内がB-29で焼かれてる時に安全に眠ったやつら」とかっていう意味合いも含めてそんな言い方をする。
向こうは向こうでものすごい地獄があったワケだが。
でも満州から引き揚げてきたという人たちはものすごい才能が何であるのだろうと不思議で仕方がない武田先生。
森繁(久彌)さんは引き揚げてきた人。
加藤登紀子さん、なかにし礼さん、山田洋次さん。
この間、聞いてびっくりしたが宝田明さん。

とにかく小樽に引き揚げてきた。
引き揚げてきたら特攻隊で死んだはずのお兄さんが生きていたという。
「わぁ、うれしや」とみんなで抱き合って「生きてた、生きてた」で抱き合ったのもつかの間、このお兄さんが人変わりがしたような大変な大博打うちになり、まずは自分のところの家、土地、建物、それをカタにして高利から借金し、30万円でニシンの漁の網を買い、三日間船を借りて増毛の沖に網を張った。
戦後すぐの食糧難の時世なので、とにかく一日でも大量の網が曳ければ大金が転がり込むという大博打だった。

おばあさんが小樽にいらっしゃったようだが、おばあさんはわかったのだろう。

とんだ疫病神が帰ってきてくれたもんだ。(390頁)

このお兄さんは博打を強行。
何度曳いてもニシンが引っかからない。

 そして三日目、こんなことってあるのだろうか。兄の網にニシンが、しかも六十万尾という大量のニシンが入ったのである。(391頁)

もうそのまま函館に陸揚げしただけで100万円。
その当時の100万円だから、今で言ったら○千万円か一億近いかもしれない。
そのお金が入る。
この時になかにし礼さんは「興奮が忘れられなかった」と(本には書いていない)。
そのズシッと網に引っかったニシンの跳ねるその影が浜辺から見えた。
日雇いの「ヤン衆」漁労たちがウワーっと集まってきて浜で網を曳く。
そのニシンを曳き上げる。
篝火を焚いて延々と夜通し曳き揚げた。
「やった!ダイエン(と言っているように聞こえたがよくわからない)だ。これで一家は大金をつかんで幸せに」と思いきや、お兄さんは博打の上にもう一つ博打を重ねた。

 兄は言う。今日の大量で兄は一〇〇万円を得ることになる。しかしこの大量のニシンを輸送船をチャーターして秋田の能代まで運べば、三倍の値段になる。−中略−
 兄の取り分である三十六万尾のニシンをふた晩がかりで五隻の輸送船に積み終えた。
−中略−五隻の船は、嵐のような時化に遭って翻弄され、ニシンはみんな白子や数の子を吐き出しちゃって生ゴミ同然になってしまい、その生ゴミを海に投げ捨てて命だけは助かったのだそうだ。(392頁)

掛け金のすべてと住む家、土地をなくし、故郷に住めず、お兄さんも逃亡して一家は苦境に。
壮絶な人生。
それでなかにし礼さんは東京に出てくる。
お兄さんのことを恨みたかっただろう。

 私の初めての小説『兄弟』の、これが書き出しの二行である。−中略−
『兄貴、死んでくれて本当に、ありがとう』
(449頁)

兄弟



なかにしさんに憑りついた疫病神のごとく、お兄さんはなかにしさんを苦しめるということになるのだが、その作品は後年のことなので横に置いておく。
生活に追い込まれたなかにし礼氏。
お母さんとお姉さんを守りながら懸命に働く苦学生になって東京で学びながら働き、大学にも通いつつ、必死になってアルバイトで生きていく。
そこで彼がちょこっと芽を出したのは、フランス語をやっていたらしいが、フランス語のシャンソンの訳詩をやらせたらうまいので、バイトでやっていたら引く手あまたになった。
彼は学生結婚をして奥さんも働いてくれて二人で生きている時に面白い運命。

ここはひょっとして下田の東急ホテルか?−中略−
 私は、昨日結婚したばかりの新妻と一緒にホテルのロビーにいた。
 大勢の人だかりがしている。みな一方向を見て、口々に同じことを口走っている。
「裕ちゃんだ。裕ちゃんがいる」
 みなが注視している方を見ると、天下の大スターの石原裕次郎がロビー奥のカウンターのスツールに腰掛け、こちらを見て、にこにこ笑っている。
(64頁)

 と、すると、その裕ちゃんが、私を指さして、その人さし指を上に向けて、おいでおいでをしている。−中略−
 私はふわふわと石原裕次郎のいるカウンターに向かって歩き出した。
(64頁)

「疫病神の兄貴」から逃れたなかにしさんは、ここで「運命の兄貴」と出会う。
この人の人生の面白さ。

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2018年04月13日

2017年7月17〜28日◆人体5億年の記憶(後編)

これの続きです。

武田先生の整体師さん。
その人が武田先生の体を触りながら親指を入れる時などに「どこの筋肉か」というのを口走る。
頸椎かなんかを指で押す時も「○番目を押してます」とか「ここ押すと○○に繋がってます」とか。
一番不思議で仕方がないのは「腰が重い」というとお腹から親指を入れる。
これが痛い。
ナイフで突き刺すみたいな感じで。
その代り、その親指が無くなった瞬間にスーッと痛みが消えている。
それにはもう、本当に痛いのだが文句が言えない。
それからもう一つ、女性の方にはできない「本当はできるといいんでるけどねぇ」と残念そうにおっしゃるのは肛門のまわり。
肛門のまわりに何点かツボがある。
これが痛い。
呪いの藁人形の釘打ちみたいな感じ。
「うっ、う〜ん・・・う〜ん・・・」というヤツ。
肛門の真横なんて人間はなかなか触れるところではない。
だが、そういうふうにして「結び目」みたいなものが潜んでいる。

とある方の本を読んで「すごく面白いなぁ」と思ったのは、その人がずっと人体の筋肉図ばかりを描いていた。
哲学を志している方。
筋肉を描いておいて、女体を描いた。
前より上達している。
人体の筋肉というのを勉強して女性の裸を描こうとすると、やっぱり「しっかり筋肉の動きを見る」という腕の筆のさばきになる。

合気道の先生から教わった名言。
合気道の先生曰く「武田くん。殴りかかってくる人はですね、必ずですね、息を吸います」。
感動した武田先生。
殴る瞬間「スッ」(息を吸う音)。
絶対する。
だから「あ、吸った」と思えばいい。
瞬間のことだが、練習しているうちに見抜けるようになる。
合気道的身体の動きはどうするかというと「吸った」と思った瞬間、こっちは吐く。
そうしたら全部、自分の手足が自在に動く。 
吐くと肩から力が抜けるから、抜く動きの中で動きを模索する。
合気道は吐く練習の武道。
それから息だけで言うと、お相撲さんはぶつかりあって組み合う。
そうすると何を待っているかというと、相手が息を吐く瞬間を待つ。
息を吐くと力が抜ける。
その瞬間を見定めて一気に押していく。
呼吸の一息の中にほとんど格闘の妙味がある。

呼吸というのはただ単に吸う、吐くを繰り返す。

 「吸う方には横隔膜があるが、吐く方には、これに相当する専用筋のないことがわかる。(164頁)

肺が息詰まれば、心も息詰まる。さらに呼吸が息詰まる。悪循環いなる。そのためには、詰まった息を吐かないといけない。
 三木はこれを「息抜き」と言った。
(165頁)

臓器的には「吸う」には横隔膜という専用の筋肉があるが、「吐く」には特化した専用の筋肉はない。

吸うは易く、吐くは難し≠ニいわれるゆえんであろう。」(『海・呼吸・古代形象』26ページ)(164頁)

「息抜きが必要」とかと言われるのは「息を抜く、息を吐く、それを練習しなさい」という。
だから温泉なんかに浸かったりすると人間はやたらと吐いてばかりいる。
今時分(放送当時)、キンキンに冷えたビールを夕方、キューッ!と一杯飲んで「カーッ!」というのも「吐く」という方向に意識を持っていくという。

 「数百万年にもおよぶ水辺の生活の中で、いつしか刻みこまれたであろう波打ちのリズムが、私にはどうしても人間の呼吸のリズムに深いかかわりがあるように思えてならないのです。(167頁)

 内臓の感覚は微妙だ。その微妙な差異を味わってこその内臓感覚だ。たとえば肛門のあたりがむずむずして、中身が出そうになる。それがガスなのか、実(!)なのか、お尻のあたりの感覚を澄ましてみるとわかる。(195頁)

昔、人間ドッグにいって女医さんに肛門チェックで人差し指を入れられた武田先生。
あれは最初、慣れない。
意識、つまり脳の方では「開け!」と言うのだが、アソコが茶巾に絞ってしまう。
それでケツを叩かれて「力抜いて。武田さん。力抜いてください。入りませんから。力抜いて」。
でも絞ると、もう緩めようと思っても全然コントロールが効かないと時がある。
あれはやっぱり心と意識は違う。
あれだけ絞っているのだから。
何回ケツをペチャペチャ叩かれたことか。
「リラックスしてください」
リラックスと言われるとリラックスできない。

 「胎児は、受胎の日から指折り数えて三〇日を過ぎてから僅か一週間で、あの一億年を費やした脊椎動物の上陸誌を夢のごとくに再現する」(『胎児の世界』、107ページ)(208頁)

胎児の世界とは、「三十数億年の生命進化の圧縮」なのだ。(208頁)

男性の精子を受け入れて、精子が女性の肉体の中を入っていく。
あの時に、免疫システムは「開放しろ」と言う。
女の人の体の中に精子が入ってくることに関して「警戒するな。入れてやれ、入れてやれ」と言う。
そのくせ、精子を体の中に導こうとした瞬間に免疫システムは精子を迎えるために「解除!解除!」と叫ぶのだが、精神的に意識下で(水谷)加奈さんは他の精子が混入することをすごく警戒する。
だからその時に気持ちが不安定になったりする。
妊娠前期のまだ気づかないうちの心の揺れがある。
あれは精神面での「警戒せよ」というのと肉体の「解放せよ」の葛藤。
女の人は複雑にできている。
すごくイライラしたり、何を見ても怒りを覚えることが結構あったという水谷譲。
精神と肉体で体の中でぶつかり合う。
その卵子が生命体になる。
一億年の変化を再現して10か月間。
妊娠というのはもう、神がかったこと。
女性の体の不思議。

約一か月間、胎児の風貌、顔つきは変わる。
見ると恐ろしくなるような。
三木成夫さんはその胎児の顔を「恨みを含んだ狛犬のような顔」とおっしゃっている。
(この本にはそう書いている個所は発見できず。38日目の顔を「狛犬の鼻づら」と表記している)

 そもそも生物の上陸への進化についても、それをバリスカン造山運動と重ねる見方がある。大地の上昇・下降により、海が陸になり、陸が海になる。そのような大天変地異に対応して、海の生物が陸で暮らすようになったというのだ。−中略−
 ともあれ、アルプス造山運動という天変地異も、生物に苦難をもたらしたことだろう。ちょうどその頃に当たる胎児の顔に、苦行僧のような悩める顔を見て、三木がいう「秋霜烈日」が、そのような地質年代と合致することもなくはないであろう。
(214〜215頁)

(番組では胎児の狛犬の風貌の時期とバリスカン造山運動の時期を一緒にしているが、本によると狛犬の方は38日だし、バリスカンは60日〜90日)

 「ここで初めて、ドラマチックにつわりが起こる」(『生命とリズム』、51ページ)−中略−
よくあるテレビドラマのシーンで、嫁と姑さんがいて、嫁が台所でゲーゲー吐いている。それを度会うの隙間から見たお姑が「この人、もしかして?」と妊娠に思いをはせる。
−中略−そのときにお嫁さん(=母親)の胎内にいるのが、まさにこの上陸のドラマを繰り広げている胎児なのだ。胎児も、そのからだが、水中仕様から陸上仕様へと変貌し、必死でそのからだの変化を生き抜いている。その苦闘が「つわり」となって現れる。三木は、そんなふうに考えた。(212〜213頁)

やがて安定期に入って、その後は出産。
お母さんの膣の中を今度は赤ちゃんが出てくる。
これがまた重大。
その時にお母さんの膣の中に生きている微生物を全身に浴びる。
これが一時期すごくないがしろにされていたが、ものすごく重大で、赤ちゃんはその菌を一部取り込んで腸内細菌、(腸内)フローラにする。
だからこのシステムはすごい。
こういう三木さんのまなざしはすごい。
彼(新生児)はサルと同じ四つん這いで歩き、そしてよたよたしながら。
考えたらすごい。
立ち上がる。
彼はついに直立歩行の人類として立ち上がる。
感動的。
つわりは「わっ」とちょっと男は引いてしまうが「宇宙的なゲロ」なんだと思うと、宇宙と結びつけると感動する。

赤ちゃんは生まれてきてだいたい二年後に直立歩行人として、彼はついに立ち上がる。
立ち上がった後はもう、凄まじい勢いで人間であることを学ぶために発音、発声を繰り返し、原稿を作ったり開いたりしながら人間としての歴史をなぞる。
この子供たちの本能の中ですごく面白いことがある。
どんな小さな子でも綺麗なお姉さんが好き。
綺麗というか、優しい雰囲気を持っていて優しい声を出してくれる人に子供が惹かれていると思う水谷譲。
表情は大切。
これはなぜかと言うと「表情は内臓」。
小さい子が表情に惹かれるのは「あ、この人、内臓いいんだ」ということが本能的にわかるから。

 「人間の言葉というものは、こうしてみますと、なんと、あの魚の鰓呼吸の筋肉で生み出されたものだ、ということがわかる。……人間の言葉が、どれほどはらわた≠ノ近縁なものであるか……それは、露出した腸管の蠕動運動というより、もはや°ソきと化した内臓表情≠ニいったほうがいい。なんのことはない──はらわたの声≠サのものだったのです」(232頁)

優れた言葉の形成、これも内臓の感受性から生まれる。
だから内臓がやっぱり鈍感な人というのは言葉づかいでトンチンカンで失言が多くなるし、上から目線みたな発言に、という。
「失言」の方は表情が悪い。

 「あたま≠ヘこころ≠フ目ざめを助ける。
やげて独り言が無声化してゆく三歳児の世界でついに一人立ちし、ここに『自己』が産声を上げる。
(235頁)

内臓は植物の機能が宿り、内臓という森は宇宙リズムと呼応し波打つという興味深いエッセイをこの三木さんは残しているので『胎児の世界』などをお読みになるといいと思う武田先生。
(この本は以前番組でも取り上げている武田鉄矢・今朝の三枚おろし(8月26〜30日)◆胎児の世界(前編)

胎児の世界―人類の生命記憶 (中公新書 (691))



 「わたしたちは、あの昆虫網を斜めに構えて赤トンボを追う男児のまなざしに、遠い狩猟時代のおもかげを見はしないか。当時の感覚は、たとえば、釣竿を伝わる、獲物の筋肉攣縮のなかにも息づいているはずだ。わたしたちはまた、初雪のなかを生き返ったようにイヌと戯れる幼児の姿に、その大氷河時代の郷愁をおぼえるのではないか。(240頁)

 「幼稚園のジャングルジムに群がる園児たち。鉄棒、吊り輪、あん馬、平行棒に見せる体操選手の見事な「腕技」などなど。これらは第三紀の樹上時代に鍛え抜かれた「腕わたりbrachiation」のやむにやまれぬ復活といったところか」(240頁)

ヒトではなくニワトリの卵(や胎児)、それにサンショウウオなどを使って研究していた。生きたニワトリの胎児に、その心臓をめがけて、注射針で墨を入れる。すると血管の流れに沿って、墨は体に行き渡る。胎児の成長とともに、体は、血管は、どのような変化を遂げていくのか、そのような研究をしていた。(205頁)

ニワトリやサンショウウオではなく、ヒトの、「その胎児への墨の注入という問題にまで発展」(同前)してくる。(206頁)

 そして、医師仲間から、堕胎したヒトの胎児が提供され、研究室に運ばれてくる。三木は注入の実験を試みるが、要領を得ずに失敗する。
 その頃から、科学者としての三木の心境に変化が生じる。ちょうど妻の妊娠とも重なる。
(205〜206頁)

三木先生は著作の中で「人の発生には人がその目で決して見てはいけない瞬間があるんだ」と、そう自分に言い聞かせたそうで断念なさったと。
自分のお子さんがお産まれになった時に「やっぱりやらなくてよかった」としみじみお思いになった。
(というのはこの本にはない)

「三枚おろし」を本にしてくれた出版社があった。

人間力を高める読書法



(この本のことを言っていると思われる)
それを自分で読んで結構面白いと思った武田先生。
何が面白かったかというと、途中でポロッと自分が自分の考え方を言っている。
「この人のここが好きだなぁ」みたいな。
それが面白かった。
だからやっぱりそれを入れていかないといけないと思う武田先生。

三木成夫さんの世界はもう四回ぐらい(「今朝の三枚おろし」で)取り上げている。
もう亡くなられているが、この三木さんという解剖学者の方の順々と命を解き明かしていくという姿勢が好きだと思う武田先生。
この人(三木)が言ってらっしゃる「内臓世界」。
人間には意識の世界があって、これは脳が支配している。
だけど、もう一つ人間には世界があるぞ。
ものを考える、それが内臓世界だ。
その内臓世界というのは植物相、植物と同じなんだ、というようなこと。
「え〜?お腹ん中は植物と同じなのか?」と思っていたら違う本を読むと「小腸内に住んでいる細菌のことは腸内フローラと言います」と。
「あ、お花畑だったら…あ、三木さん正確な物言いだったんだ」という。
そういう発見。
小腸の中で花開いている花々、植物層は、実は太陽や月、星々とシンクロ、同期している。
植物はいつも空を見ている。
宇宙の方角を。
そうやって考えると「さらに学んでいきたいなぁ」と思う。

(最後はアンガールズの山根良顕氏との話。これは何度か他の回でも登場しているが今回は割愛する。2017年9月4〜15日◆来たるべきバカ(前編)

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2017年7月17〜28日◆人体5億年の記憶(前編)

この本以外からの引用なのか、番組で言っている内容がちょいちょい本の中にはない個所がある。
いつものように本に書かれている部分のみ抜粋するけど。

人体 5億年の記憶: 解剖学者・三木成夫の世界



以前にも番組で取り上げている三木成夫さん。
その三木成夫さんの授業を受けられた学生さんの著書。
もう結構年月が経っているので著者(布施英利さん)も中年以上の年齢になられた方。

 1980年のことだ。その年の4月、私は上野の東京芸術大学に入学した。そこで奇妙な授業を受けた。
 「保健体育」という科目が、五月の連休の頃、集中講義としてあった。講義では保健体育という名称の授業らしからぬ、独特な話がされた。
−中略−ある音を流した。子宮にマイクを入れて録音したという、心音や血液が流れる音だ。−中略−性の行動の果てに、どんな世界があるのか。それを実感させることで、生命の尊さと性の厳粛さを伝えようとしたのだろう。(9〜10頁)

非常に常識を突き破るような授業をなさった。

塩を持ってきて、それを持った手を、バーテンがカクテルを作るように動かす。「メビウスの輪の軌跡の動きが、いちばんベストだ」という。動きを止めて、最前列の学生に、その塩を舐めさせ(じつはその前に比較のために一回舐めさせてあり、メビウスの輪にゆすった後、また舐めさせたのだ)、「どうだ、味が変化したろう。甘くなっただろう」などという。−中略−三木先生は、メビウスの輪というより「らせん」の形と動きに、深い意味と価値を認めていて、らせんの動きを、学生に生々しく伝えようとしていたのだ。(11頁)

それでその「らせんの形」とういところからウンコが偉大な証拠であるという。
東京芸大の学生さんたちが、三木の授業が終わるたびに「授業のできがいい」とスタンディングオベーションしたという。
(本には「東京大学の医学部の学生が特別講義を聞き終わった後、感動の余り拍手したという伝説の解剖学者」という記述のみ)

三木はヒトの体を大きく二つに分けてみていた。「植物性器官」と「動物性器官」である。(33頁)

「全部動物ではないか?」と私どもはつい、人間をそんなふうに考えてしまう。
三木さんは独特。

からだの基本形は何か?
 三木は、それを「一本の管」であると考えた。口から始まって、胃や腸を通り、肛門という出口へと至る一本の、管。
(123頁)

 それは、ただの動物のぬいぐるみではなかった。体の中も作られていたのだ。しかも、普通の内部構造、というものではない。三木先生は教壇で、ぬいぐるみをつまんで、くるっとひっくり返す。靴下を裏返して、表と裏を逆にするような要領だ。すると、その小動物の姿は内側に包み込まれ、その代りに、内側にあった形が、表面に現れる。裏返して現れたのは、植物の樹木の形だ。ぬいぐるみのような素材の造形物なので、太く丸みを帯びている。リアルな樹木っぽくはないが、幹があり枝が伸び、葉が付いていて植物の形をしている。(12頁)

小腸というのが栄養を吸収する大事な器官で、新陳代謝の回転が早い。
それでガンの発生があまり見られない。
「小腸ガン」は聞いたことがない。
武田先生の奥様曰く「小腸は回転が早い」。
それでありとあらゆるものを作ってしまう。
神経伝達物質からタンパク質から何とかバーッと。
それでこれから排出するものを再処理する、最後に取り上げるのが大腸。
ここは古いのでガンが発生しやすい。

人間はとどのつまり一本の管である。
この管を引っくり返していくと細かな根の密集した樹木の根、根毛みたいな内臓器官があるのだが、その根が栄養と生殖を支配する。
「ムラっときた」とかと言うが「ムラっと」という感覚は内臓が支配している。
地上が感覚、伝達、運動の動物的側面であるのに対し、神経の情報、筋肉、骨、体の動きの世界は内側にあるという。
内臓にあるという。

三木はそれを肛門からの脱腸にたとえて、「顔というのは、脱腸が張り付いているようなものだ」と言っていた。(71頁)

 えらが、顔の筋肉になった。(71頁)

水族館でエイの裏側を見ると、やはりいくつもの切れ目(=えら)が並んでいる。もっと原始的な魚、ヤツメウナギなどを見ると、八つの穴が並んでいるように見えるが、そのうちの一つは目だが、残りの七つはえらだ。(67頁)

中生代1億年かけて海と陸とが激しく揺れ動いた1億年の時代があって「バリスカン造山運動」という時期があった。
(調べてみたが「バリスカン造山運動」は中生代ではなく古生代後期のようだ)
これは大変だっただろう。
陸地が盛り上がったと思ったら海の底に沈んで。
海の底だったと思ったのがブワーッと盛り上がって山になるという。
ヒマラヤもそう。
昔海底だった。
奥様と温泉旅行で伊豆に行った武田先生。
あれは島だったようで、ゴーンとぶつかった。
修善寺あたりを先頭にしておいて、下田が一番の島の尻で。
だからあそこは山のタイプが変わる。
ものすごく山が高い。
押し出された分が高くなっている。
そこに修善寺の岩山があったり。

天城越え



あれはメリメリメリメリと押されてしまって。
下田から天城越えはもういきなり坂道。
それでループ橋で上り下りしなきゃいけないぐらい、らせんで。
それは伊豆半島はああやってめり込んだから、それがバリスカン造山運動で島は動くわ大陸は裂けるわ。
(伊豆はバリスカンとは関係ないようだが)
裂けたと思った大陸、海になったと思った瞬間、海の底が盛り上がって、かつて海だったところが今度は陸になったりする。
そうするとそれについていけない魚類がいた。
それが何万匹何億匹と浅瀬に取り残される。
そいつらがギリギリの水でゼイゼイ言っているうちにもうエラ呼吸をやっている暇がない。
「これ塞いだ方がいいや」というので塞ぎ始める。
それで穴を一か所にまとめて口にしちゃって、耳の穴、鼻の穴にして。
それでゆっくりとヒレなんかを手足にしたという。
そこから両生類が始まる。
だから1億年は辛かったろう。
1億年、そんな目に遭っている。
それでめちゃくちゃ苦しんでいるうちに表情を作る筋肉になっていった。
顔とは腸の入り口であり、新しい仕事として嚥下、飲み込むその筋肉、発声、そして泣き笑いする表情。
表情というのは何かというと、内臓の意思を伝える道具。
ものを噛む、すする、舐める、声まで変化するのだが、実は内臓の思いを伝えるために顔の筋肉となった。
だからやっぱりあれは間違っていない。
「ムカつく!」
あれは本当にムカついている。

(番組冒頭のインタビューから続くスマートフォンの話が入るが、この部分は割愛)

五感は、まずは二つに分けられる。−中略−「近接受容器」と「遠隔受容器」だ。触覚器(皮膚)と味覚器(舌)が、近接受容器となる。−中略−嗅覚器(鼻)と聴覚器(耳)と視覚器(目)が、遠隔受容器となる。(97頁)

 三木は、舌という身体の部位について、進化の観点からも説明する。−中略−
 「ミミズのような下等動物では、この味細胞が触細胞と同じく全身に散らばり、からだ中で味をきき分けることができる。
(99頁)

だからアイツ(ミミズ)はこうやって地中の中に「うわぁ!塩辛ぇ〜!」とかって言いながら動いているのだろう。
魚類ぐらいから味を味わうというのは口の中に集めた。

 「舌は、口腔の底がもり上がった筋肉の塊を口腔の粘膜がおおったものである。この筋肉は、くびの前面の筋肉の続きで、手足と同じ体壁系、すなわち動物性筋肉に属する」(『ヒトのからだ』、110ページ)(100頁)

舌はどうやら三番目の手である。
「舐める」というのは触るのと同じこと。

まず子どもは、なんでも舐めるのだ。−中略−目や耳よりも、まず舌で、それを触覚といってもいいが、世界を把握しようとする。(223〜224頁)

ものすごくこの「舐める」という感覚が大事なのは、何せ我々は呼び名として「哺乳」類。
「乳を吸う」という。
乳を舐める生き物。
だから我々は唇と舌でおっ母さんの乳を吸ったというこの経験がこの世に生まれてきた一歩目の人間としての体験だから、舐めるというのは重大な感覚。

 三木は、このようなことから、たとえば接吻という、舌と舌を絡ませる男女の行為について、それが身体的にいかに「深い」ものであるか、大学の講義で熱く語っていた。(100頁)

若いうちしかしないが。
昨日、(綾小路)きみまろさんのアレ(CDか何かか)を聴きながら「本当におっしゃる通りだ」と思った武田先生。
お父さん!
若い頃、お父さんに叫んだ「めちゃくちゃにして!」。
そしたらお父さんが言うんです。
「めちゃくちゃにしなくても、オマエはめちゃくちゃになった」

でも若い頃を思い出しましょう。
本当に内臓感覚として舐めなければ確認できない何かがあった。
そういうところを三木先生がおっしゃっているのが面白い武田先生。
この先生がおっしゃっている中で「脳は意識を支配しています。しかし私たちは内臓の中にこころを持っている」。

舌を使ってものを確認するという。
それが人類の一番最初。
お母さんのおっぱいがわからないと死んでしまうわけだから。
だから人々は舌でものを確認する。
その中に男女の唇を重ねるとか舌を絡ませるとかというのは実に哺乳類的行為ではなかろうかという。
舌による愛撫を細かく見ていく。
相手を「舐める」「吸う」「噛む」。
これはまさしく接触行為と同様。
本当に考えた武田先生。
男は何で好きな人に向かって「舐める」「吸う」「噛む」をやりたがるのだろう。
本能。
その本能のことを「本能」で逃げないで「内臓」と呼ぶ。
それが三木先生の考え方。

武田先生の自説。
なぜ人は愛する人に対して「噛む」をやりたがるのか?
何とかさんというかわいらしいアイドルの人は猫を飲む人がいる。
口の中に猫の頭を入れる「猫吸い」。

夜の歌



『夜の歌』という自伝的小説をお書きになった作家、なかにし礼さん。
この方が中国大陸で迎えた敗戦によって大日本帝国崩壊の混乱を7歳で体験なさっている。
この7歳で体験し、しかもソ連機戦闘機の銃撃あるいはソ連兵の婦女暴行、殺人
中国人の盗み等々の生き地獄の中で隠れ住むような暮らしをなさっていて、いよいよ明日、日本に引き上げるという時に白系ロシアの美少女とお医者さまごっこをやっている。
小説として書かれているが、実際にあったことではないかと思う武田先生。

 ナターシャは私のまだ子供のチンチンを手で愛撫し、口に含んで愛しげにもてあそんだ。
 私は夢の中にでもいるかのように快感に身ぶるいしたが、だからといって、それ以上のことにはならなかった。
「レイのピーシャ可愛い! まだ七歳だものね」
 と薄く笑ってナターシャは自分の下腹部に私の手を誘導した。
「これ私のピーシャ。トゥローガチ!」
 触れと命じた。私は言われる通りにした。そこにはうっすらと柔らかい毛が生えていて、その下の方にはもう一つの口のようなものがあった。そのピーシャの上を私の手が物珍しそうにさまよっていると、
「ハラショ、ハラショ、ピーシャハラショ」
 と甘い声を出して身をよじり、私の指が恐る恐る中へ入ろうとすると、
「レイ、イヤ・リュブリュ・チュビア」
 私を強く抱きしめ両足を開いた。
「愛するということは舐めるということよ。動物も人間も愛しいと思ったものに頬ずりし、舐めるものなの。リーザイチ、それが愛情の表現なのよ。それが自然なのよ」
(『夜の歌』179〜180頁)

ソ連兵が乱暴を繰り返し、逃げていく日本人を惨殺し、中国人がものをかっぱらう、日本人を騙すという。
そういう最悪、最低の魑魅魍魎の世界の中で白系ロシアの娘、ソ連でも差別されている白系ロシアの娘。
綺麗な綺麗な中学一年生ぐらいのお姉さんの娘が7歳の日本人少年のオチンチンを触る。
それは死に取り囲まれれば少年や少女でさえも性にすがるという、もう重大な、なかにし礼からの指摘。
やがてこれらの引き揚げ体験が、なかにし礼の中で戦後歌謡曲になっていく。
この文章を読んだ時に三木成夫が言う「舐めるという行為が哺乳類の行為としていかに重大か」ということを感じた武田先生。

三木教授の指摘は舐めることは性へ繋がり、その性はどこに繋がっているかというと内臓へつながっている。
内臓はどこへつながっているか。
宇宙へつながっている。

 うんちは、日本語では大便という。大きな、便りだ。ではその便りは、どこから来るのか?それは宇宙から、としか答えようがない。(129頁)

海のサンゴは、6月の満月の夜に、一斉に産卵をする。サンゴなどという、理性や知性のかけらもない生き物が、いつが夏の初めの満月の夜なのか、それを知っていて、そのカレンダーに合わせて産卵をする。−中略−
 クサフグは、7月の満月の大潮の夜、日没から一時間後が大潮の満潮になる日にいっせいに産卵する。
(126頁)

彼らは決して間違えない。
なぜなら間違えたものは今までですでに死んでいる。
今、その時を間違えないものだけが生き残った。
これら生き物はその臓器が宇宙のリズムと結ばれている。

太陽や月の運行によって生まれる、海辺のカレンダー、それを察知するのが、この「遠・観得」で、それこそが「こころ」の正体であると三木は考えた。
 この一本の管を通って、からだの外に出てくるのが大便、つまりうんちである。三木はこのうんちに、こころが宿っていると考えた。
(128〜129頁)

 そもそも「こころ」という文字を眺めていると、その文字の形態が、自分にはうんちのあの形に似て見えて仕方ない。漢字で「心」と書いても、やはり巻きグソの、あのうねりとかさなって見える。(129頁)

(番組中では著者の意見も三木成夫の意見も区別せずに紹介しているが、上記は著者の意見)
「心」の古代系は金文に残っているが、ちょっと垂れ下がったオチンチンのよう。
男性性器とも言われているが、やっぱり「心」というのは内臓的。
排泄もそうだし、腎臓なども内臓の一部。
そこは植物的世界と同期リズムを持っている。

寄生虫が最も住み着くのが「腸」。
腸に住んでいる細菌が人間を操っているという説が最近グングン出てきている。
こういうことを考えているから「内臓支配」という考え方で世界を見てはどうだろうか?という。

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2018年02月06日

2017年7月31日〜8月11日◆「いい質問」が人を動かす(後編)

これの続きです。

浜渦さんは偽証か何かの罪に問われたが、その後の動きはあるのか?
逮捕されるとか。
何か最近、本当に中途半端。
石原さんも、あれは大丈夫なのか。
それから升添さんはどうなったのか。
このへんは話題から逸れるともうスーッとフェイドアウトという。
そういう意味で早い。
浜渦さんは(この放送当時)ついこの間の方。
この方が行なった記者との一問一答会、公開ヒアリングの様子を伝えたが、浜渦さんはやっぱりその力量が只者ではない。
記者を指名する、指を差すことによって主導権を全部握る。
そして鮮やかだったのは、非常に饒舌に語る質問とケンもホロロに「あ、記憶にない」と取捨選択していけるという。
一問一答しか許さないというルールがあるので「記憶にない」って言われるのは、もう二問目ができないわけだから。
質問の方角を自分で全部操ることができる。
このへん、浜渦さんは只者ではないという感じがする。
何一つ決定的なことは聞き出せない。
「結局なんだったんだろう」という。
相対的に質問力が落ちているのではないだろうか?と。
しかし今、現状メディアにあふれているのは「『ダメだ』と思った瞬間はいつか?」「一番つらかったのはいつか?」「なぜそんな人とオマエは付き合ってるんだ?」「責任者はあなたですよ?あなた責任全うしてるのか」「悩んでる人、たくさんいるんですよ?切り捨てるんですか」。
だいたいこんな質問で、反論できないところまで相手を追い込んで「勝ちを取りにいく質問」というのが大手を振っているようだ。
質問の根底には「わからないことを聞く」という素直さがもう少しあってもいいのではないかなぁと思う武田先生。

 私が弁護士になった後、賃貸マンションを探していたときの話です。−中略−
 すると不動産会社の社員は「かしこまりました。でも、この○○マンションシリーズはとても人気があって、すぐに借り手が見つかってしまいます。このお部屋はご契約なさらないということでよろしいですね?」と言いました。
 私は、その瞬間、とても不安になりました。
(142頁)

そうすると「ちょっともう一回いい?」と言いながら見直してしまう。

少なくなったり、なくなってしまったりするものほど価値があるもののように感じてしまう心理を「希少価値の法則」と言います。(143頁)

「契約しない。これはしないんですね?これはしない。これは検討するけども、こっちはしない。こっちはしないですね?」と言っていると、冷静な判断ができなくなってくる。

マーク・トウェーンは、「アダムがリンゴを欲しがったのは、そのリンゴが食べたかったからではない。それが禁じられていたから、というだけのことだ」(145頁)

そういうタブーとか拒絶に関して、人間は結構どこかでたじろぐところがある。

他人が自分に何かをもらったら、そのお返しをしなくてはならない気になることを、「返報性の法則」と言います。
 この返報性の法則は、日常生活のあらゆる場面で見ることができます。年賀状をもらったら、同じく年賀状を返し
−中略−バレンタインデーに女性から男性にチョコレートをあげると、男性は、何が起ころうともホワイトデーにお返しをしようとします。(149〜150頁)

スーパーの試食は−中略−それをもらって試食をし、爪楊枝と皿を返しただけで立ち去るのは少し心苦しい気がします。つい少しでも購入した方がよいのでは? という気になってしまいます。(150頁)

コンビニなんかで絶対にある。
この番組(『今朝の三枚おろし』)のために「ここだけは語ろう」というので赤鉛筆でシュッと線を引く。
その赤鉛筆の芯が、もうポキポキポキポキ折れる。
それで鉛筆削り器を回してもまた置くとポキっと折れている。
それで朝の散歩のついでに赤鉛筆をコンビニに買いにいった武田先生。
「あ、武田さん。今日、赤鉛筆だけでいいの?」と言われると「いや。あ、ちょっと待って、ちょっと待って。俺何か買い忘れてる」と言いながら付箋を買ったり、あと三つぐらい買っている。
これはやっぱりどこかで返報性の法則が体の中によみがえる。
人の心理。

「ここらへんではこれに決まっている」という商品がある。
「ここのこのお菓子を持っていくと喜ばれる」という。
「切腹饅頭」
会社同士の付き合いで何かミスがある。
その時に切腹饅頭とか切腹最中があって「切腹する代わりにこれを差し上げます」というのがある。
それをもらうと許さざるを得ない。
「おいおい。切腹饅頭かい?」と言いながら許してしまうという。

【新正堂】切腹最中(5個入り)



九州福岡だと、武田先生の子供の頃は、たとえば「銘菓ひよこ」「鶏卵素麺」とか。

九州銘菓 ひよ子本舗吉野堂【ひよ子14個入】



卵の黄身とはちみつで作った甘い、素麺に似せたお菓子。

鶏卵素麺(けいらんそうめん)1本入  【石村萬盛堂 和菓子】



それから千疋屋の果物。
(長嶋)一茂くんが言っていたが、長嶋さん家はだいたい贈り物は千疋屋のメロンだった。
だから「箱に入っていないメロンを初めて見た」とかっていう話を聞いたことがある武田先生。

返報性の法則。
爪楊枝に刺したお試し食品。
カマボコやハム。
味見のお試し食品の切り方が大きければ大きいほど返報性が高くなり、買って帰るという例が増大する。
小っちゃいのは「フムフム」とかと言いながら、それでけっこう喰って何も思わないのだが、やや大きめに切ってあると商品の眺めわたし方「あ、今食べてるのこれ?」とかっていう質問がちょっと大きくなる。
この前カブの漬物を試食でいただいた時に、カブがちょっと大きかったという水谷譲。
最近は爪楊枝のお試し食品の切り方が大きい。
昔より切り方が大きいような気がして仕方がない武田先生。
このへんは、やっぱりそういう人間の心理を捉まえた動かし方というのはある。
そして、女性がよく使うが、科学的には「譲歩の提供」というのがある。

何も与えるものがない場合−中略−「譲歩」を相手へのプレゼントにする方法があります。
 心理学者のロバート・チャルディーニが行ったこんな実験があります。「州のカウンセリング・プログラム」の担当者を装い、学生を呼び止めて非行グループを動物園に連れて行く付き添いを依頼したそうです。当然学生は嫌がり、83%の学生が断りました。次に実験者は、まず呼び止めた学生に「2年間にわたり、1週間に2時間、非行少年たちのカウンセラーを務めて欲しい」と依頼したところ、全員が拒否しました。すると実験者は、続いて「では、非行グループを動物園に連れて行く付き添いをして欲しい」と依頼をしました。すると、承諾率は劇的に上昇し、なんと50%もの学生が承諾したそうです。
(151頁)

つまりこれは「君が引き受けてくれないんだったら、どう?この条件で」と、さも譲歩したように見せかけて誘導する。
最初に難しい、乗らない条件があって、これは「譲歩を与えた」というように相手に思い込ませる。
これは女の人がよく使う。
よく引っかかった気がする武田先生。

人は、一旦ある行動を取ると、それに矛盾した行動が取りづらくなり、その行動と一貫した行動を取るようになる傾向にある、という法則で、心理学では「一貫性の法則」と言います。(155頁)

 アメリカの社会心理学者フリートマンとフレイザーはこんな実験をしています。−中略−ある町の家庭を対象にした、『「安全運手」と書かれた大きな看板を家の前に設置させていただけますか?』という依頼です。次のように行いました。

 A……いきなり訪ねて頼んだ。
 B……まず「安全運転をしよう」と書かれた8センチ角の小さなステッカーを窓に貼ってもらうように依頼し、承諾を得た後に大きな看板の設置を依頼した。

 実験結果では、Aは17%しか承諾しなかったにもかかわらず、Bではなんと76%の人から承諾を得ています。調査を受けた人は、小さなステッカーを窓に貼ることにより、「自分は安全運転を推進する立場の人間だ」という態度を表明したことになり、その後大きな看板を設置する際にも抵抗なく承諾する結果となるのです。
(155〜157頁)

今年(2017年)初めから総理も含めて発言とか失言が問題になっている。
こういう「発言が問題になる」「失言が問題になる」というのはどういうことなのか?という。
何であんなっことを言うのか?
「普段からそういうことを思っているからポロッと出ちゃうのではないか」と思う水谷譲。
失言にはやっぱり絶対、失言の何か手順みたいなヤツがある。
少なくとも言えることは失言というのは「その後に何かを言おうとした」という。
その言葉を経て何かを言おうとしたその手前で「失言だ」と騒がれていたという。
何か肝心なことをこれから言うべく、枕として言ったことが失言として取り上げられたというような気がする。

質問というのはすごく面白くて、まず自分に質問することによって自分の質を上げていかなければならないという。
まず「そもそも」「ところで」「だとすれば(だとすると)」この3節を枕にして質問を自分に重ねていく。
例えば「私はそもそも、なぜ『三枚おろし』という番組をやっているのか?」。
(この番組を続けていることは)けっこうきつい。
今(放送当時)はもう一つ大仕事を抱えている武田先生。
暑い暑い京都という所で、本当に日本一有名な老人役(水戸黄門)を演っているのだが京都は暑い。
しかもロケ地は滋賀県。
毎朝忍者と手代の若者二人を引き連れて移動。
そこでいろいろ着せられ、それで演んなきゃいけない。
その時にこの番組は重荷。
もちろんうれしい。
聞いてらっしゃる方で、時々すれ違ってものすごく褒めてくださる方が二か月に一回ぐらい現れる。
ある経済学者の先生、コメンテーターの方が聞いているそうで「面白いわ〜ん♪」としみじみ言われて、それがすごくうれしかった。
でも評判だけを目指しているのではない。
この番組をやっていることによって、自分の中で好奇心というのがいつも刺激されている。
そもそも:私はなぜ『三枚おろし』をやっているのか?それは聞く人のためでもあり、自分で好奇心いっぱいの自分でいるかどうか、それが確認できるからだ。
ところで:自分のためというなら「なぜ?」という問いを忘れない自分であることが大事なんだ。
だとすると:この番組を続けるしかない。
「そもそも」「ところで」「だとすると」という、こういう手順。

「いい質問が人を動かす」は自分に対することでもそうなんだと、そういうふうに谷原誠さんのご本を読んでそう解釈した武田先生。
「自分に対しても質問力を持っていないと人間ダメだ」と。
「発言にミスがあって」とかがいらっしゃるとすれば、やはり自分に対する質問がよくなかったんじゃないだろうか?
「なぜ?」を五回、自分に重ねて考えてみるとか「そもそも」「ところで」「だとすると」というような手順で自分というものを考える。
自分に対する質問力ということも大事なのではないだろうか。

四年ぐらい前からものすごい勢いで気力の衰えを感じ始めた武田先生。
ささやかなことがすごく気になり始めた。
眠れない日が続いたりしていた頃。
困ったことに奥様の一言が胸に突き刺さって眠れなくなったり。
それは奥様の言葉づかいが悪かったりということではない。
奥様から「あなた、どうするの?」と言われると本当にたじろぐ。
「どうなるんだろうか?」とか。
自分に質問を重ねていくうちに出た結論が「もしかすると自分の気持ちが衰えてるんじゃないだろうか?」。
お嬢さんが言った一言が気力を削ぐし、奥様から言われた一言が気力を削ぐ。
本当に削ぐ。
削り取る。
また身内は痛いところを突いてくる。
トイレを終わって出てきて、その次に奥様がパッと入った瞬間「臭〜い!」とかって言われると。
もう笑いごとじゃない。
本当に落ち込んで夢に見る。
他にも「あの件どうするの?」「この件どうするの?」「事務所どうすんの?」と。
あえて「事務所」と。
そういう公的な、それからプライベートな、その両方から「どうするの?どうするの?」の質問攻めにあうと、もう本当に「どうしよう?どうしよう?」しか言えないという。
その時に強烈な気力の衰えを感じて「これは何とかせんと。自分を変えんとイカンな」というので、ゴルフをやめてみた。
ゴルフどころじゃない。
それで合気道をやってみようと思って。
内田先生が大好きだったから。
内田樹という鮮やかな論理の関節技を使うというこの先生の一言に誘われて、とにかく合気道場を探して見つかった。
そこにも三年。
七月(2017年7月)で三年が過ぎた。
さっぱり上達しない。
しかし面白いものだ。
合気道の先生がいらっしゃる。
70代後半の館長が稽古が終わるとポソッと一言おっしゃる。
それが胸に沁みる。
館長「武田くーん!」
武田「はい」
館長「『元気』でも『景気』でも『病気』でもね、あんた漢字上手だろ?書いてごらん?『病気』『元気』『景気』。みんな半分『気』だよ、気。私どもはね、毎日こうやって練習しております。合気道もね『合気』。半分『気』があります。『気』は自分で作るしかないんですよ。そういうわけです」
これは本当に堪えた。
その「気」を養うため、自分への質問から一つの答えが見つかって、今度はゴルフをもう一回やり直してみようと思った武田先生。
今度の手順はすごい。
半年間でゴルフ場に行ったのは二〜三回。
でも打ったボールの数はもう一万発近い。
ひたすら練習をしている。
何で自分が下手かが、やっとわかった。
結局見つかったのは「ゴルフの理論がわかっていないからだ」というので、またこれも先生に付いて。
自分のゴルフスイングのスローモーションを初めて見た。
ひどい。
己の姿を見てびっくりした。
「はっはー!」と思った。
「遊ぶ」というのは何のために遊ぶか?というと「気を作るためだ」と思って。
そのために必死になってやっている。
そうすると発想が変わってくる。
奥様に対してもゆっくりと受け身が取れるようになってくる。
そこで今年(2017年)に起こったのが「スマートフォン事件」。

今年スマートフォン・デビューした武田先生に奥様の厳しい質問が待っている。
それは商品を見た瞬間に「何であなた、スマートフォンにしたの?」。
あの冷たい、鼻に引っかかったような、人に突っかかってくるあの物の言い方。
そしてこれは携帯の場合もそうだが奥様曰く「ねぇ、あなた。電話帳の履歴とか見せられる?電話帳どんな人入れてるの?残ってるんでしょ、記録。ちょっと見せて。やましくないなら見せられるでしょ?」と70歳を手前にした男に突っかかってくる。
これはどこの家庭でもある。
でもこの時に大事なのが「質問されることに関して、質問を仕返しする」という。
「質問で返す」という質問力。
どう奥様に質問するのか?
同じ悩みで悩んでらっしゃる方に教えてあげましょう。
どう質問を返すのか?
「どうして見たいのか?」
「何を見つけたいのか?」
「見つけたらどうするのか?」
「お互い見せ合うのはどうか?」
「あなたの方のスマートフォン、あるいは携帯に男性の名や奇妙な店の名を見つけた場合、私は少しもあなたを疑わないが、あなたはどうなのか?」
「同じことが私の方にあった場合、あなたはどうするのか?」
「質問をする力」とは自分を守る力、ディフェンス力。
大した騒ぎにはならなかったが。
スマートフォンとの歴史が始まったばかり。
下の方のボッチ(ホームボタンのことか?)を押して画面が出てくる。
その時にびっくりしたのは声が訊いてくる。
音声ガイドみたいなヤツ。
「あなたは何を訊いているのですか?」
機械が武田先生に突然質問する。
「あなたは何を知りたいのですか?もっとはっきり質問してください」という音声入力検索の声が聞こえてくる。
奥様もびっくりしていたが、ボタンを押すたびに機械から訊かれるとびっくりする。
思わず「いや、別に知りたいことはありません」とか「今ちょっとボタン押しただけなんですけど」とか答えたのだが、ずっとそれ。
画面が出てこないで検索の声が聞こえてくる。
解除の仕方がわからない。
解除しようと思ってボタンを押しているのに「何を訊いているんですか?よく聞こえません」とか。
それで会社の方に連絡をしたら「すでに押してる段階で長押しになっているんじゃないですか?」と言われた。
でも強く押せば何か立ち上がるのも早くなるような(気がしてしまう)。
テレビでもある。
映りが悪い時、わりと強めにボタンを押すという、戦後の習慣が。
これが武田家の「スマートフォン事件」。

考えるというのは、自分に質問するということです。自分に良い質問をすれば、良い方向に思考が回転し、悪い質問をすれば悪い方向に思考が回転します。(238頁)

更に質問を繰り返す。
そのことによって問題がはっきりする。
・なぜよいのか?
・なぜうまくいったのか?
・これは続けるのか?
・それを続けるのか?
・うまくいかないのはどうしてか?
・なぜうまくいかないのか?
・やめた方がいいのか?
・どこをどう変えるのか?
こういうフィードバック・クエスチョン。
それを必ず繰り返すこと。
そしてあきらめていないということがとても大事なことで「あきらめていないということが質問をよい答えに持っていく道なのだ」ということ。
ありとあらゆるものがそう。

 北海道の旭川市に旭山動物園があります。開業したのは1967年。−中略−北海道旭川という人の流れもあまりなく、札幌などからの交通の便もよくない場所でありながら、上野動物園(東京都)をもしのいだことがある驚異の動物園です。この動物園も、一時期は年間入園者数がピーク時の10分の1の30万人を割り込み、廃止論も出たほどでしたが、小菅延長が1995年に就任して動物たちの自然の行動を見せる「行動展示」を取り入れて一気に流れが変わり、入園者数が10倍も急増しました。
 実はこの旭山動物園の成功も短所を長所に変える逆転の発想に基づいています。
−中略−ところが、旭川空港から直行すると、30分〜35分くらいで動物園に着いてしまいます。−中略−また、「寒い」という短所は、「寒い環境に適応する動物には最適な地である」という長所に変換していまいました。(260〜261頁)

「なぜなんだ?」「なぜうまくいかないんだ?」「なぜうまくいくのか?」という自分に対する質問が上手だったという。
そのことによって新しい動物園ができる。
よき質問は自分の立場を考える。
次に相手の立場を考える。
そしてその「私と相手とのやりとりを見ている第三者の自分」をいつも想定できるかどうか。
それがいい質問を繰り出すための条件であると。
このへんはやっぱり見事だというふうに思う。
ぜひ「よき質問ができる人に」という一冊。

posted by ひと at 10:35| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年7月31日〜8月11日◆「いい質問」が人を動かす(前編)

「いい質問」が人を動かす



谷原誠さん。
弁護士の方。
弁護士の法廷に於ける駆け引きで「いい質問」が法廷の雰囲気を変えたりする。
池上(彰)さんの決め台詞「いい質問ですね」。
これはやっぱり「上から目線の人評価」という。
でも「いい質問」と言われると質問をした方はうれしい。
それが面白いところ。
「何でこんなことがわからないんだ?」と聞かれるよりは「お、いい質問ですね」って言われた方が上から目線でもうれしい。
「何でこんなことができないんだ?」と言われるとかなり感情的になるが「どうしたらできるようになるんだろう?」と全体の問題にすり替えられると印象はガラリと変わって解決に向かって前進したような気がするという。

人をフリーズさせる一言。
時としてM体質の武田先生は感動する。
いわゆる「ダブルバインド」。
武田先生の奥様の質問。
「このままでいいと思ってるの?」
これは「いい」と返事をすれば「どこがいいの?」と反論される。
「このままではいけないと思う」と言うと「なぜやらないの?」。
「どっちにいっても叱られる」ということ。
そういう質問の仕方をすると人を追い込むことができる。
武田先生にとって「妻との一言」は「妻もまたこの言い方、人を縛る言い方に抜群の才能がある女性です。妻は実に巧みです」。
例えば「なぜ汚すの?」。
「汚していないよ」と言うと「嘘、言う!」。
「汚した」と言うと「なぜ拭かないの?」。
これはやっぱり人を動かす最高のダブルバインド「縛り方」の質問。
人を縛って動けなくしてしまう、フリーズさせてしまうというものの問い方。

「質問の質を上げる」ということはどういうことかというと、とりあえず自分の中で「なぜ」という質問を五回繰り返しましょう。
そうすると「改善すべき主題」がハッキリと現われてくる。
これは国会答弁でも都議会でもそう。
「なぜ」というのを五回繰り返すと問題があらわになる。
ついこの間までゴルフをやめようと真剣に思っていた武田先生。
「ゴルフをやめようと思う」と自分に問う。
自分に「なぜ?」と聞き返す。
「少しも楽しくない」
「少しも楽しくないの?なぜ?」
「スコアが全然よくならないから」
「スコアが全然よくならない?なぜ?」
「ドライバーが当たらない」
「ああ、ドライバー当らないの?なぜ?」
「スイングが悪いから」
「スイングが悪いの?なぜ?」
「スイングの理屈がわかっていないから」
これで五回「なぜ?」を繰り返す。
そうすると解決策が見えてくる。
それは「スイング理論を身につけないかぎりゴルフは楽しめない」という。
とにかく「なぜ?」を五回自問していく。
そして自答していくと必ず問題点がはっきりしてくるという。

デール・カーネギー著『人を動かす』−中略−人間は、他人から言われたことには従いたくないが、自分で思いついたことには喜んで従います。だから、人を動かすには命令してはいけません。自分で思いつかせればよいのです」(8〜9頁)

人を動かす 文庫版



これは本当にそういうところがある。
人からそんなふうにして持っていかれているのだが、さも自分が思いついたように言った瞬間に人間はそのように行動するという。

質問の仕方によって物事の真相が見えたり解決策が見えたりしてくるものだ。
逆の意味で言うと、へたくそな質問がいかに世の中をグジャグジャにするかという。

谷原さんのご本は法廷術。
この方は弁護士なので、法廷等々でお使いになるという実例が出てくる。
この本を読みながら、この本を三枚におろしていた自分の見聞で、この方の意見をいろいろと使ってみた武田先生。
2017年4月12日の武田家での出来事。
浅田真央引退会見での記者の質問。
「引退の決意をどこでなさったんですか?」
「今までで一番印象に残る大会での演技はどの演技ですか?」
「あなたの演技の代表的な技、トリプルアクセルにもし今、引退するあなたが声をかけるとすれば、何とかけますか?」
こういう質問が飛んだ。
それを見ながら武田先生の奥様が(テレビの)画面に向かって「腕章して、いい年こいて、バカなこと訊いてんじゃねぇよ!」という。
「そんなことしか訊けないのか!」と言いながら。
矢のような鋭い言葉。
怯えるようにして妻の脇に小さく座っていた武田先生。
なぜ奥様は激しくそういうふうに記者の質問を罵ったかというと、この質問はいずれもその後、浅田真央さんが長いこと沈黙してしまう。
ライブだから、すぐに答えが返ってくる方がいい。
浅田真央さんの引退会見なので「深いことを訊きたい」ということはわかるが、いずれも答えるのに時間がかかる。
そういう意味で奥様曰く「いい質問」ではない。
記者さんたちには記者さんたちの「バカじゃない」理由があったのだろうが。
最初の質問「引退の決意をどこでしたのですか?」はネガティブ。
非常に暗い質問。
二つ目「今までで一番印象に残る大会と、大会で行った演技を答えてください」。
これは「一つだけ答えよ」という限定。
これがまた浅田真央さんを考えさせてしまう。
これは明らかに記者側にはもう答えがある。
例の「ソチの大会での」というようなことを言ってくれればこっちはうれしいんだがなぁという記者側のアレがある。
浅田さんは深く深くお考えになったものだから、ここでも間が開く。
そして三つ目。
あまりにも抽象的。
「トリプルアクセルに声をかけるとすれば、何と声をかけますか?」
だから記者は「ご苦労様。私のトリプルアクセル」とかって言って欲しいのだろう。
これは質問として難しい。
奥様の印象。
「今の三つは下手な質問である」
奥様が「あ!」と褒めたのがある。
奥様が賛辞を送った質問はどんな質問だったか?
それは男性だったか女性だったか「浅田さん。あなたはいつも強い気持ちでいくつもの困難を乗り越えられてきました。その強さをあなたに授けた人は誰ですか?」。
もうこれは、訊いた瞬間にキャメラマンがバーッとファインダーを構えて。
浅田真央は一言置いて「母です」と言う。
つまりそのいわゆる「すべての人が想定しながら、その一言を聞きたい」という。
また浅田真央さんが正直に言ってもその答えになるという問いを彼女の前に置いてあげる。
それで浅田真央という人は美しい笑みを浮かべて「母です」と答える。
そうするとババババババーっとフラッシュが。
つまりこれはもうそこにいたファインダーを覗いているすべてのキャメラマンも合点したという「いい質問」だった。
引退会見なので返事は暗くなりがちだが、返事も表情もその会見場の誰もが望んだ、それを引き出せる質問が「いい質問」はないかと。
これは本には書いていない。
浅田真央は背中を一回向け、涙を拭いて「母です」と答える。
この質問は武田先生の奥様が「非常に頭のいい質問」という。
というのは会場にいる全員の感情が動くという。
谷原さんは質問に関してはまず「相手の感情を動かすという質問が大事なんだ」と。
だからこの質問の人がうまかった。
「あなたにその強さを授けた人は誰ですか?」と訊いて浅田真央さんが「母です」と答える。
その後にこの質問者はこう訊いた。
「そのお母さんの力を発揮できた大会はありますか?」
そうすると彼女がさっき長い間で「テヘヘ」と笑いながらうまく答えられなかったのが「ソチです」という。
ショートで失敗してグシャグシャに気持ちが折れた浅田真央。
でもいよいよフリーに望む時「真央」と呼びかけた母の声がしたと。
そして当然だが彼女は「ソチのフリーの演技でした」と応じる。
なるほど。
それを聞けば満点。
日本人の多くがそれを聞くことによって共感、喝采を送る。
質問者の質問というのが感情と理性をきちんと把握して応答させる。
そのやっぱり技術。
質問には技術がある。
これはもう、谷原誠さんが法廷等々の中で何度も感じられたことなのだろう。
「質問には技術が必要なんだ」と。
だからこの浅田真央さんの良い例を今、使ったが、逆手に使えば相手を激怒させることも簡単。

例えば水谷譲が国会議員だとする。
水谷譲は大臣。
記者である武田先生が水谷譲に質問をする。
記者「あなたは東アジアのこのエリアにおいて戦争の危険はあると思いますか?戦争の危険はどうです?隣国の問題等々・・・」
大臣「差し迫っては無いと私は思います」
記者「では将来勃発するという可能性に関してはどうですか?」
大臣「う〜ん・・・まぁ、それは今後・・・」
記者「申し訳ありません。なるべく返事は『はい』と『いいえ』でお願いしたいと思います」
大臣「はい」
記者「あなたは危険がもしあるとお思いになるんだったらば、そのことを心配なさっておるんですか?」
大臣「まぁ、そりゃそうですな」
記者「若者に武器を持たせ、殺傷の技術を教える。そういうことは国防上必要であるとお思いですか?」
大臣「今の日本ではそれは考えられない・・・」
記者「そういうことは危険であると思いますか?」
大臣「危険なんではないかと」
記者「徴兵制度を復活することには、もちろんあなたは反対ですね?」
大臣「まぁ、そうですね」
このいずれの質問も全部「『はい』か『いいえ』で答えなさい」と言うと「はい」としか答えようがない。
つまり「はい」としか答えようがないところに相手を追い込んでいくと、簡単に相手を激怒させることができる。
とにかく相手が迷ったら一問目に戻ればいい。
「あなたは東アジアに戦争の危険があると思いますか?」「いや、それは・・・」と言うと「平和ですか?」と言う。
「いやいや、平和じゃない」「じゃ、危険なんですね」「そりゃまぁ・・・はい」って言う。
その後「若者に武器を持たせて自衛隊で訓練することは危険ですか?」「それはもちろん」って答える。
「でも東アジアには戦争の危険があるんですよ?」ってそこにずーっと戻っていけば、相手を何百メートルも同じ円の中で引きずり回すことができる。
これと同じことが、この2017年の4月に起きている。
復興大臣(今村前復興大臣)に対する仮設住宅援助打ち切りの問題の記者からの質問。
「我々はちゃんとやってるんだ!」と激高した方。
怒らせた方にすごい質問の技術がある。
今村復興大臣とフリージャーナリストのやり取り[平成29年4月4日]復興庁 | 今村復興大臣記者会見録[平成29年4月4日]
大臣さんがカンカンになって「出ていけ!出ていけ!」という。
「人に向かって何ていうひどい大臣だろう」と思った武田先生。
でもその次に思ったのは「あ、この人、髪の毛染めてるな」という。
(頭髪が)真っ黒。
長崎県(番組内の別日に「佐賀県」という訂正あり)から選出されたという、大変苦労人らしい。
その方が細身の体で血相を変えて乱暴な言葉づかいで。
これは記者からの質問を受けた復興大臣の方が仮設住宅援助打ち切りからケンカに発展したということ。
しかも大臣の発言は援助を打ち切るというその人たちに対して「そこから先の人生は自己責任だろう!」とおっしゃったというので大問題。
よく聞くと、この方はあまり大きく間違ったことは本当は言ってないのではないか?というのが後の反省で言われた。
ただ、言葉を間違えた。
「しっかり自立を促したい」と言えばいいところを「自己責任」と。
谷原さんの本を読んで、週刊新潮を買って、その顛末を調べた武田先生。
2017年4月4日の復興大臣と記者たちとの質疑応答だったわけだが、これはどういうことかというと、福島県原発事故により国の避難指示範囲の外に住む避難者に対して除染が進み、食品の安全性も確保されたとし、約70億円の支援が与えられていたが、災害救助法に基づき終了したと宣言した。
この経緯をフリージャーナリストの西中誠一郎さん(52歳)が今村雅弘復興大臣(70歳)に対して「それは終了ではなく打ち切りではないか」と質問する。
記者西中さんは「露頭に迷う人がいるんですよ?」と聞いたわけだ。
しかし国の立場からすると、そのエリアに関しては除染をしてそこに戻れるということでずっと費用をかけてきたわけで、復興大臣としては打ち切るということは、そこが安全になったということだから「援助を続けます」と言うと「除染サボってるんだろ!」と言われかねない。
「食品の安全等々も確保されているので」なのだ。
援助を続けるということは福島への風評被害等々を助長することになるので、打ち切るということで終了させない限り解決に向かえない。
これは非常に質問の仕方が上手なのだろう。
西中さんは「はい」としか言えないという立場にどんどん大臣を追い込んだ。
西中さんはただひたすら「露頭に迷う人がいる」というその事実を付き続ける。
「だからそれは」と大臣が言いかけると西中さんは「あなた、わかってるんですか!」と叩き込む。
西中さんはするどく「何を考えてるんですか!」という。
はっきりいって西中さんは大臣の弁を聞く気はない。
とにかく「露頭に迷う人がいる」ということに全部戻していく。
復興大臣が何を答えようと。
福島県の避難民のための援助というのがあって、それを打ち切るという。
70億円の打ち切りの話。
それが西中さんは「露頭に迷う人がいるんですよ!」と言う。
だから「はい」としか言いようがない。
現実に困っている人がいるのだから。
それで復興大臣はカーッとなられたのだろう。
大臣というのは、総理大臣もそうだが、答弁の場合は答えるだけ応答するだけで反論というか討論ができない。
答えるというポジションにある人たちだから「はい」と「いいえ」しかない。
だからちょっと西中さんには酷な言い方かも知れないが、とにかく怒らせる質問を繰り返していけば大臣級の人は怒るようなシステム。
とにかく、かくのごとく「いい質問」は「人を動かし、人を怒らせる」という技術。
西中さんには西中さんの正義の質問のつもりだろうが、復興大臣の今村さんの激高を招いたという。
一言間違えると大臣は大変。
その後、別の失言が続いて、とうという復興大臣をお辞めになってしまった。

その後も何か自民の人の失言問題があった。
三原じゅん子氏、自民男性議員ヤジに激怒 がん患者発言に「はらわた煮えくり返る」 : J-CASTニュース
三原じゅん子さんが嫌煙運動か何か語っている時に肺がんの人たちについての発言の中で「じゃあ肺がんの人、働かなくていい」とか何とか。
あれもあの方の憮然たる表情をまだ覚えている。
「何であの人はあそこであんなことを言っちゃったんだろう?」と。
今村さんはあの後の失言で「地震が東北だったからよかったようなもんで、首都圏に来てたら・・・」という大失言をなさった。
あの後、あなたの選挙区の長崎で地震が来た。
(震度)4.○。
いくつか来た。
危なかった。
もうちょっとで・・・。
今村復興相:「東北でよかった」発言と記者団への一問一答 - 毎日新聞
だから言っておくと、そういうことになっちゃうから。
だから肺がんの方も、とにかくあなたが肺がんになったら笑う人がいるから気を付けてください。
世の中には(そういうことが)ある。
本当に、からかっていたらそういう目に自分が遭っちゃったみたいなことがある。

「いい質問をさせない」というやり方もある。
谷原さんの本を読んでいる時に、この人が(テレビの)画面に出てきたので、谷原さんの本を基礎にしてこの人を眺めた。
豊洲問題渦中の人、浜渦(武生)元東京都副知事。
この方はお辞めになった復興大臣とは違う。
この方は何が違うか?
記者を自ら集めた。
「私がパーティーの主人公である」という場作り、座作りをやらないと。
そして「質問を受け付ける」とおっしゃったが、浜渦さんというのはこの人はやっぱりなかなかやる。
この手の頭のいい人は「いい質問をださせない、いい雰囲気作り」が上手。
質問者を自分から選ぶ。
選んだ後、時間を設ける。
「10名の方、1人2分以内」とか。
そういう「場作り」「座作り」が上手。
そういうところでは公開ヒアリング、いい質問が出にくくなる。
浜渦さんは、その公開ヒアリングで記者をお招きしておいて、その後、居並ぶ記者に向かってルールを決める。
これが一問一答。
一人の記者に許されるのは一問だけ。
「二つ目の質問は許さない」ということで。
浜渦さんのイメージは何かというと「すべての質問に答えた」というようなイメージがすごく強く残る。
しかもこの人は質問者を自分で指差す。
指差した時に質問者の容姿、顔つきを言う。
だけどフリージャーナリストの西中誠一郎さんが復興大臣の今村さんと激しくやりあった時、キャメラは今村さんを撮って、西中さんを撮らなかった。
「撮った方がいいよ」と思う武田先生。
「記者の顔つき」というのは大事なのではないか。
記者の顔というのは絶対撮られない。
浜渦さんはその「記者の顔を撮らない」というメディアの方式を知っているので、関係者が聞けばわかるように、その人の特徴を言う。
「そこのちょっと細型で、ほら、そこのメガネかけた人ね。赤いネクタイの。ちょっと地味な痩せ型のあなた」と言う。
「はい、次の質問いきましょう。そこの顔の長い、派手なシャツ着た人。黄色いシャツ着たあなた、あなた。メガネかけてる」
そうすると業界の人はやっぱりだいたいわかる。
それでちゃんとお聞きになる。
「所属は?所属。どこ?どこ所属?あ、○○新聞ね。はいはいはいはい」という。
質問者の特徴を記録として残して、匿名性ではなく特定個人の対話者であるということで、わずかながら相手の自尊心をくすぐりつつもはっきり記録に残す。
残されると意外質問はそう。
丸く収まる。
あまり激高できなくなる。
この後も浜渦さんの質問に対する応答というのは、やっぱりうまい。

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2018年01月24日

2017年8月21日〜9月1日◆心を操る寄生虫(後編)

これの続きです。

 人間の体に住んでいる微生物の大規模な調査は二〇〇五年にはじめて行なわれ(134頁)

私たちひとりひとりに住みついているウイルス、細菌、菌類、原生動物、その他すべての生物を合計した数を求めたのだ。最終的な集計の結果は一〇〇兆個を超え、人体のすべての細胞を合わせた数はそれより一桁少ない。−中略−簡単に言えば、自分の九〇パーセントは、実は自分ではない。(134頁)

(番組では「体重の90%」と言っているが、本によると重さではなく数)

自分の微生物相は指紋と同じで、自分だけのものだ。(135頁)

だからお腹の中には同じ菌が誰一人住んでいないという。
だから将来は指紋代わりにも使えるという。
そんなことも上がっているそうだ。
(というようなことは本には書いていないが)

 腸内で暮らす微生物は私たちが食べるものから分け前を得ているが、そのお返しとして消化を助け、ビタミン類を合成するとともに、口から入った危険な細菌を安全なものにしてくれる。そのうえ、私たちの感情を調整しているおもな神経伝達物質のほとんどすべて−中略−さらに精神活性作用をもつホルモンまで大量に生産する役割を果たしている。(135頁)

ある意味でアナタの気分を作っているのはアナタではなくて、それらアナタに住む微生生物なのである。

 興味深いことに、一部の胃腸障害、とりわけ潰瘍性大腸炎とクローン病(炎症性腸疾患のひとつ)では、腸内の微生物相の混乱が特徴として見られ(136頁)

不安、落ち込み、社会適応欠如等々も大半が実は腸内、あるいは体内に住んでいる微生生物なのではないかと。
それらの力なのではないかと。
武田先生がこの本を読みながらつくづく思ったのは刑務所に入ってらっしゃる方なんかに協力していただいて微生物調査を進めればどうかなぁと思っている。
協力してもらうと人間の心の闇と微生生物の関係なんかがもっとよくわかるのではないかと。
それが性格にどのように影響するのか、腸内の微生物のサンプル採取、そういうものに協力してもらうと・・・。
犯罪を犯す人は何かしら共通点があると思うので、それは知りたいと思う水谷譲。
そんなに簡単に「殺そう」と思わない。
それから「カッとなる」と言う。
どうなったら「カッ」となるのかというメカニズムが知りたいと思う武田先生。
いっそのこと、それが微生物のせいだったらすごく救いがある。
人類のものすごい文化に大貢献できる。
公職に就く方、国・都の方、市町村議員、大臣、議員、区会議員、都議会議員、そして都民ファーストの会の等々は検便。
これはもう義務化。
どんな虫が住んでいるのかオールチェック。
政治で間違えたら巨大な損害が生まれる。
人的損失も含めて。
だからこれはやって欲しい。
「健康状態を報告する」ということ。
健康状態を報告すると、ある程度精神も読める。
やっぱり運転している人に向かって後ろから掴みかかって「ハーゲー!」というのはちょっとやはり。
それはやはり相当イライラが。
「ちーがーうだろー!」というのは内臓にやはりちょっと支障が。
便が固いとか、かなりの水便とかと、絶対出る。
だからやっぱり検便が一番わかりやすいから血液検査と検便だけはやって欲しいと思う武田先生。
腸内の方の安定はどうなのかというのはやっていただくべきではないのか。
「これが本当の『身体検査』」と言う水谷譲。

腸内がかなり人間の感情面を作っているという。
そうならばなおさらのこと、政治に携わる方々は当選すると同時に尿検査と弁検査を終えて妙な虫がいないということを証明し、バッジを付けるというのをやったらどうか。
これはやって欲しい。

武田先生からの提案。
この本を読みながら思ったが「メディアにおける報道」。
ニュースを伝える人たちの気分とか口のきき方、コメンテーターの提案の一つ一つで社会が大きく揺れ動いたりする。
その人たちが病気だったりなんかしてては。
その人ではなくて「虫が言う」ということもある。
だからニュース、あるいはニュースバラエティ等々の司会、コメンテーター。
この方々は検便、検尿を終えて。
だから女子アナは特に。
アナウンサーもそう。
ニュースの読み方ひとつで真実が全然違う。
「堂々と検便を提出する」という水谷譲。
「今日の検便の結果」とかというのをバーン!と朝から一覧表で・・・。
毎日。
それぐらいやらないと。
やっぱり清潔な手でニュースを触らないと、ニュースは特に雑菌が混じりやすい。
アメリカの大統領も検便をやった方がいいと思う武田先生。
トランプさんには検便の結果を出してほしい。
なぜならば、腸内微生物によってその動物の性格が明らかに変わることがどんどん証明されつつあるから。

無菌マウスは特別な方法によって無菌の状態で飼育されるため、腸内微生物をもたない。−中略−ところが無菌マウスには、この自然な好奇心がまったくない。−中略−さらに、無菌マウスは奇妙に怖いもの知らずでもある。正常な微生物相をもつマウスなら行くべきではないとわかっているような場所に、平気で進んでいく。(137〜138頁)

物事に対して警戒するというセンサーがない。
純粋飼育でその無菌マウスを増やす。
そうすると「母性剥奪マウス」が完成した。
子供を食い殺すそうだ。
(本には生まれてすぐに母親から離されても平気だった程度のことしか書いていない)
現実問題としてこの社会に子を殺す母親が出現している。
「心の問題だ」とか言う人がいるが、まずはその方の腸内細菌を一回調べた方がいいということ。
あの感覚はまったく理解できない。
このネズミの中で子を食い殺すことができるという母親ネズミが無菌マウスから完成したということは、腸内細菌と母性というのはものすごく密接に関係していることであって、そういうことが証明されると人類の大きな進歩のために・・・・。

第一のグループには細菌が含まれたヨーグルトを一日に二回、四週間にわたって食べてもらい、第二のグループには非発酵乳製品を、やはり一日に二回ずつ四週間食べてもらい、第三のグループの食事には介入しなかった。その実験の前と後には被験者全員に情動認識の課題を与え、それをこなしている最中の脳の活動をMRIスキャンで測定した。情動認識の課題では、怒り、恐怖、悲しみの表情を表す顔の写真を見て、同じ表情の写真を組み合わせていく。すると細菌が含まれたヨーグルトを食べた女性たちではほかのグループの女性にくらべ、感情、認知、近く情報処理の三つの領域で落ち着いた脳活動が見られた。(143頁)

やっぱりかなり腸内の微生物というのはその人に大きな影響力を持っているということ。

男が女に惹かれる、女が男に惹かれるというのも腸内細菌が操っているんじゃないか?という。
つまり「あの人の菌、欲しいな」という。
(ということが本に書いてあると番組内で言っているが、それらしい記述は発見できず)
大物の素晴らしい俳優さんがいたが、奥さんが入院中に「浮気の虫が」というので詫びてらっしゃったが、あれなんか違う菌が欲しかったのではないか?
大阪の菌が欲しくて。
考えてみると男と女というのは恋をすると本当に接触したがる生き物。
ある意味でこれは細菌を取り込む本能のようなものが男女間で作動しているのではないだろうか?

本の中にとても興味ある新しい研究分野を紹介している。
「嫌悪学」
人間は生きながら必ず好きなものがあるが、絶対に嫌いなものもある。
「なぜそれを嫌うようになったか」というのは研究に値する。
なんだかわからないけれども「生理的にダメ」というものが確かにあると思う水谷譲。
それを歴史とともに一回考えてみませんか?
人々は生きながら何かを嫌っている。
例えばわかりやすく言うとミミズ、ヘビ、ゴキブリ、人が吐いたもの(吐瀉物)、排泄物、ネズミ、それから外国の方は必ずお挙げになるが「海草」。
西洋の本なので嫌うものの中に海草がある。
これは思わず日本人が「え?海草?」。
でも外国の方は「浜に落ちてて気持ちが悪い」と。
私たちはパッと見た瞬間「これ、味噌汁の中に入れてるヤツかなぁ?」「これ食べられるのか?」。
このへんが「嫌悪」の微妙なところ。
もちろん「寄生虫」。
最近で一番嫌われているのは「タバコの煙」。
昔、あんなに好かれたのに、今はもう、嫌われ者の上位に昇格したのがタバコの煙。
その他、花粉、ダスト。
激しく嫌われるこの「嫌悪」から何が浮かび上がってくるのか?

行動免疫システムというラベルには病原体によって誘発される偏見だけでなく、感染から身を守るための嫌悪に基づいたその他の幅広い反応や、同じ働きをする動物の行動までが含まれるようになった。(224頁)

自分が生き物として生きていく間に「病の元」ということで。

中世にはヨーロッパの全人口の三分の一が腺ペストに倒れた。コロンブスが新世界に上陸してわずか数世紀のうちに、ヨーロッパから押し寄せた侵略者と開拓者が持ち込んだ天然痘、麻疹(はしか)、流行性感冒、そのほかの病原体によって、南北アメリカの先住民の九五パーセントが死に追いやられた。(14頁)

これはやっぱりコロンブスと開拓民がネイティブの人からはバイキンに見えただろう。

一九一八年のスペイン風邪の流行で奪われた命の数は、第一次世界大戦の前線で殺された兵士の数より多い。現在この地球上で一、二を争うほど多くの犠牲者を出している感染体、マラリアは、史上最悪の大量殺人犯であると言ってよい。(14頁)

そういうものにまつわるものが「嫌悪」として挙げられるという。

妊娠している女性は、胎児を拒絶しないように免疫系の働きが抑えられている妊娠初期には、より外国人嫌いになるが、危険が過ぎ去った妊娠中期以降はそのようなことはない。−中略−妊娠初期に免疫系の働きを抑えるプロゲステロンというホルモンが嫌悪の感情を強め、それが外国人に対する否定的な態度と食べ物の好き嫌いを促すことを明らかにした。(226頁)

妊娠初期の女性の六〇パーセント以上が経験し、吐き気を感じさせたり嫌われたりする食品の第一位は、最も病原体に汚染されやすい食べ物である肉類(魚や鶏肉も含む)だ。−中略−つまり、つわりというのは、母体と発達中の赤ちゃんのどちらにも危険を及ぼす可能性のある食品を食べないようにと、自然が未来の母親に促すやり方なのだろう。(198頁)

これは実は脳内ホルモン系。
この妊娠中の女性と同じ心理というのが今、いわゆる「人種的偏見」とか「ヘイトスピーチ」などに繋がる脳内ホルモン、プロゲステロンに由来しているという。
「人種的偏見、ヘイトスピーチやめよう!」と言うが、腸内細菌と共に考えないとダメ。
いつもみんな「心は」とかって言うが、心の問題の前に体が本能で感じている腸内細菌も考えないと。
感染症で「もう人類全部全滅するんじゃないか」という恐怖感を何度か味わっているので、そういうものが本能として組み込まれている。
それはやはり頭では決して・・・。
このへんが人間の知恵の愚かなところ。

また二〇一四年には移民排斥のウェブサイトと、一連の連邦議員までもが、アメリカの南の国境から次々と流入する中南米とメキシコからの難民が市民にエボラ出血熱を感染させるかもしれないと警告した。(232頁)

アフリカまでエボラ出血熱の治療に出かけていったお医者さんを飛行場で入れない、とか。
「エボラ出血熱がメキシコで大流行し、メキシコ人がアメリカに逃げて来てる」という。
それで「メキシコ人を入れるな」というフェイクニュースが流れた。
これを大統領選で利用したのがトランプ大統領。
「壁を作ろう」というのはこの時の「国境に壁を作らないと、メキシコ人がエボラ出血熱に罹ってアメリカに逃げ込んでくるぞ」というのが流れた。
それをトランプ大統領は巧みにつかまえた。
もう一つ重大だったことは

このとき、テキサス南部でエボラ出血熱に感染した者などひとりとしていなかったにもかかわらずだ。(232頁)

まったくの「ガセ」。
この手の感染症の細菌のイメージを使うと、人間というのはいとも簡単に操られてしまうという。
アメリカにある差別用語は日本もあまり変わらない。
というのは同じものがその人を支配しているのだろう。
アメリカでは旧市民が新市民、新しく移民でやってきた人たちに投げつける差別用語、ヘイト用語に「シラミたかり」「ダニ野郎」「ブタ」という呼び方がある。
これは日本でも同じ。
これは何でかというと「感染症に対する恐怖をイメージとして人に与える」という。
それからヒルや寄生虫、ゴキブリ。
そういうふうに言うことで感染症の恐怖を人種差別に利用する。

 一九九四年にルワンダで発生した大量虐殺は、フツ族の過激派が「ツチ族のゴキブリどもを根絶やしにしろ」と追随者を扇動したことからはじまった。(233頁)

だからもう、日本からアメリカからアフリカまで、とにかく感染症を媒介する動物、微生物、生物の名前を差別用語として使うというのは嫌悪学として法則なのだ。
しかし「嘘である」ということ。
でも、こうやって考えると、嫌悪学を巧みに使うと政治的メッセージとしては強烈に相手をやっつける言葉になりうるという。
だから政治家は使っちゃイカンということ。
「都民ファースト」を主催なさっている小池百合子都知事がよくお使いになった言葉が「頭の黒いネズミ」。
こういう病をばら撒く動物を相手のイメージと結びつけると、強烈に自分が清潔なイメージを持つことができるわけで。
ただし言っておくが「あまりよい方法ではない」と、ご記憶いただきたいと思う武田先生。

この嫌悪学というのは実験で人間の視覚をイメージで操ることができるということを本の中で詳しく言っている。
それは「アップの手法」と「繰り返し」。
(このあたりの話は本の中には発見できず)
ある主張を人に信じ込ませる嫌悪のテクニック。
これで思考を操ることになる。
ヒットラーもよく使っていたのは人々の顔のアップ。
反対運動に汗を流す人々の顔、怒りの顔。
それから万歳、歓喜する人々の顔。
それからたった一発なのに何回も繰り返すので何十発も打っているように見える北朝鮮のミサイル。
あれはしゃべってる間の間が持たないから三回ぐらい同じのを繰り返すのだが、なんとなくイメージとしては「あ、三発打った」という。
あれは一発。
でもこの嫌悪学というのはなかなか面白い。
アメリカなんてこれを見るともう、この嫌悪学の実験場としては最高。
先ほど小池都知事の言葉の中で「頭の黒いネズミ」というのは失礼だなぁと思った武田先生だが、この失礼なのが政治的技術で大いに使われているのがアメリカ。

嫌悪学を悪用すると印象操作ができる。
安倍総理がよくお使いになった言葉だが「人の印象を清らかにも悪くにもできる」という。
小池都知事が「頭の黒いネズミ」という。
一群の反対勢力、自分とは違う考え方の政治家たちに対して「ネズミ」とお使いになったという。
「そういうこと、あまり関心しませんぞ」と話した武田先生。
ところがアメリカではもうこの嫌悪学を使った選挙キャンペーンはもうザラ。
相手をいかに人々から嫌いな存在にさせるか。

二〇一〇年のニューヨーク州知事選挙の共和党予備選で、ティーパーティー運動活動家であるカール・パラディーノ候補がはじめた新手の広告キャンペーンだ。選挙のわずか数日前、彼の党の登録有権者は自宅の郵便受けで、「オールバニー〔ニューヨーク州の州都〕で何かが悪臭をはなっている」というメッセージが書かれ、生ゴミのにおいがしみ込んだパンフレットを見つけた。−中略−彼はラツィオを完璧に打ち負かし、途方もない二四パーセントもの差をつけた。(248頁)

(番組では街中に貼ったと言っているが、本によると封筒)

 もっと最近の出来事としては、ドナルド・トランプが民主党予備選討論会でヒラリー・クリントンのトイレ休憩が長引いたことを取り上げ、「気持ち悪すぎて」話すのもいやだと奇妙な表現をして、聴衆の笑いと喝采を浴びていた。(248頁)

「ヒラリーがトイレに行っている」ということを前提として、待たされたことに苛立ったトランプさんがおやりになったしぐさ。
「ヒラリーは今、ゲロを吐いている」という。
「ヒラリー」と「ゲロ」というのを結びつけたという。
そういうしぐさをしてヒラリーのイメージを「ゲロ」と結びつけたという。
これはトランプさんはしきりにお使いになる。
この大統領は日本車を売り込むことに長けた日本の企業に対しても「日本の車はアメリカに寄生している寄生虫だ」と言った。
この「ゲロ」と「寄生虫」というのはトランプさんはものすごく好き。
だからいとも簡単に気持ち悪くさせられる。
だから嫌悪学というのはそういう意味では政治学としては強烈。
ある意味では宗教もそう。
例えば豚肉の扱いとかがうるさい。
何でも喰っているのは私たちぐらい。
日本人はそのへんがルーズ。
日本人はそういう意味ではタフなのかも知れない。

武田先生の直観。
この嫌悪学を応用するとイジメの問題なんかにも深く参加できる。
つまり同じような呼び方をする。
人をいじめる時に寄生虫の名前で呼んだり、媒介生物の名前で呼び捨てたりする。
ということは、同じようなものが作動している。

posted by ひと at 11:04| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年8月21日〜9月1日◆心を操る寄生虫(前編)

前回(この番組の前の週は「編集手帳」なのでそれより前のことだと思われる。『おしゃべりな腸』のことか?)に「腸内細菌だ。それが人間を操る」というような話をした武田先生。
予感っぽいのが今年の夏「妙に当ったな」と思ったのは「小さな生物が人間社会を揺する」というのが結構多かった。
ヒアリ。
ヒアリ騒動はすごい。
七月の下旬だったかにマダニが50代の女性を殺したというのが世界で初めて発表されたという。
マダニ感染症、猫から感染 女性死亡 「ネコからヒト」初確認  :日本経済新聞
武田先生はマダニで人が死んだのが「世界で初めて」であると誤解しているようだが、マダニで人は前から死んでいて、この事件が珍しいのは「猫からヒトへの感染事例」だから)
だから「生き物万歳」もいいが、寄生生物、腸内細菌が人間を・・・というのにクラっときた武田先生。
本屋さんに行って探していたら、その発展形でズバリ『心を操る寄生生物』。

心を操る寄生生物 : 感情から文化・社会まで



著者はキャスリン・マコーリフ。
もっと細かに前にお話しした彼女(『おしゃべりな腸』のジュリア・エンダースのことか)の説を前進させている。
腸に住んでいるような、あるいは胃袋の中に住んでいるような、小さな小さな腸内細菌とか寄生生物、寄生虫があなたを操っているのではないか?という。
寄生虫が体の中に入って脳を侵して人間を操るというホラー映画があるという水谷譲。

エイリアン (吹替版)



これは動物の世界で言うと前にご紹介したのは「寄生虫の指示によって猫にわざと喰われるネズミが出現する」と。
それでそういうことが実は生物世界にはいっぱいあって、人間社会にもあるのではなかと考えるとピタッとくる人がいる。
「この人はやっぱり腸内細菌、寄生虫じゃないかな?」という人が。
我が国の総理大臣、安倍晋三さん。
あの方は一回目に総理大臣になった時にズタボロで辞めていった。
気弱に眉毛を下げて。
あれはお腹の調子が悪かった。
腸が弱いということでお辞めになった。
いい薬に巡り合って今度、堂々たる総理として高い支持率を維持されて、一瞬のうちになくされて。
だけど、一回目の安倍晋三総理と二回目に登場した安倍晋三総理は別人のように性格が違う。
一回目の時はもう、支持率が低調になるとテリー(伊藤)さんのところに対談を申し込んできたというのが芸能界で流れた人。
いろんな芸能人と対談をやりたがって支持率を上げようと・・・。
今度は支持率が高い時は強気、低調になるとすごく丁寧になられるが、本性は強気。
あれだけ民進(党)から揺さぶられて堂々としてらっしゃる。

今、武田先生は一生懸命調べているが、女性の事件が多い。
政界もすべて含めて。
芸能界も含めて。
「わたくしは彼を許しません・・絶対に!」とか「ハぁゲぇ〜〜〜!」「違うだろ!違うだろ!! 違うだろーー!!!」。
あんなタイプの女性がいただろうか。
まだはっきりしないが、力のないお父さんを娘さん二人と、どうも奥さんが力を合わせて殺したらしいというあの事件。
夫を自宅に放置? 死体遺棄の疑いで母娘3人を逮捕 横浜 - 産経ニュースこの件かと思われる)
旦那さんをとっかえひっかえ殺したんじゃないかという、認知症の疑いで裁判を引っ張っておられるあの70代の方。
青酸連続殺人:筧千佐子被告に死刑判決 京都地裁 - 毎日新聞この件かと思われる)
そして千葉で自分が職場であまり大事にされていないので睡眠導入剤をコンデンサーミルク(「コンデンスミルク」のことを言いたかったかと思われる。英単語としては「コンデンサー」も「コンデンス」も同じだそうだが)みたいにワーッと。
それで世間話をしながら・・・。
睡眠剤混入、上司や同僚への不満が動機か 容疑者供述:朝日新聞デジタル
話題の中心は全部女性。
しかも、もうこれから老いていくという方。
稲田(稲田朋美防衛相)さんも含めて。
この人たちは失言とか犯罪とか、ソーシャル・ネットワークを使ってのプライベート暴きとかと色々あるかも知れないが、これはもしかしたら原因は一つで「寄生虫」。
これじゃないか?
あの中で一番ショックだったのは「この人さえいなくなればいいんだ」と言いながらすぐ「あ、もう殺しちゃおう」と簡単に決断する人。
繰り返すことが多くて動機が判然としないのは、実は動機は一つ「寄生虫」。
こういう解き方で接近していったら・・・。

寄生生物という、内臓の中に住み着いてその生物を操るという。
探すとそういう事例がいっぱいある。

吸虫はアリの脳に入り込み、運動と口器をコントロールする部分に居座る。そのようにして感染したアリの行動は、日中はほかのアリとまったく変わらない。ところが夜になると、巣に帰らずに草の葉のてっぺんまでのぼっていき、下顎をつかってそこにしがみつく。空中にぶらさがりながら、草をはむヒツジがやってきて自分を食べてしまうのを待つ計画だ。ところが夜が明けても食べられなかった場合は、また巣に戻っていく。(17頁)

やがてアリのついた草が食べられたとき、寄生生物はよやくヒツジの腹のなかにたどり着く。(17〜18頁)

そうするとアリの中にいた寄生虫がヒツジの腸の中でバーッと増えていく。
吸虫は、そこまで考えてやっている。

 その話の主人公は鉤頭虫と呼ばれる寄生生物だ。−中略−この寄生生物は成体になる前に、池や湖に住む小さなエビのような甲殻類の体内で成熟しなければならない。それらの甲殻類は、危険の気配を感じるとすぐ泥のなかに潜ってしまう習性をもっている。しかし鉤頭虫が成長の次の段階に進むためには、マガモ、ビーバー、マスクラットなどの腸に入り込む必要があり、どの動物も水面で暮らしながら甲殻類を食べている。−中略−感染した甲殻類は思いもかけない行動に出ることがわかった。驚くと下に向かって潜るのではなく、あわてたように砂地の表面に姿を見せ、せわしなく動き回るのだ。(18頁)

だから食物連鎖というのが自然界は支配しているというが、その食物連鎖を巧みに利用して隙間で生きていく寄生虫というのがいる、という。
「野良猫にはマダニが」とかって言うが、そのほかにもそういう隙間で生きていく寄生虫というものがいることを忘れてはいけないということ。

ふつうは森の下草で暮らして泳がないはずのコオロギが、池や小川に飛び込んでいたという。(36頁)

これも実はハリガネムシという寄生虫にコントロールされて自殺したコオロギかも知れない。
これは草の下で鳴いておけばいいものを、月夜の晩、満月が中天にかかったりすると鳴くのをやめて湖や池を目指し、遺書も書かずにトーン!と飛び込むヤツがいる。

ハリガネムシは宿主の体から抜け出すと水中で交尾し、やがてメスが卵を産んで、それが孵化して幼虫になる。(41頁)

これは結構でかい。
ひも状で7cmぐらいある糸みたいなやつ。
それがグルグルにお腹の中に憑りついているのだが、成人(「人」ではないけど)して色気づくと「女欲しい」とかって言い始める。
「もう眠れない!」みたいな。
それでどうするかというと、宿主であるところのコオロギを自殺衝動に導いて月夜の晩に自殺させる。
(本によると「自殺衝動」ということではなく「光に向かって進め」という寄生虫からの指示で月の光を反射した水面に入ってしまうらしい)
それで水中で死んだところでお互いが抜け出して交尾し・・・。
そしてこの交尾が済んだあとは、カワウなんかに憑りついて腸の中で卵はまた大きくなる。

ダイエットには理由がある。
女性が痩せる、生き物が痩せようと志すというのは何かある。
これが寄生生物の力だったりするという。
人間というのはやっぱり喰ってゴロゴロしとくのが一番楽しい。
でも痩せようと思うのは、他の何者かが「痩せなきゃダメよぉ」と。
自然界を見ていこう。
「太った蚊」というのはあんまり見たことがない。
「飛べねぇ!」「重てぇ!」とかっていう蚊はいない。
これは、蚊は絶えずダイエットしている。
しかも自分の意思ではない。
寄生虫がダイエットをさせている。
蚊に憑りついたマラリア原虫。
マラリアをばら撒くマラリア原虫という寄生生物。
これは蚊を操っているのだが、単純な操り方ではない。
「こんな小さな虫に、どこにそんな知恵があるんだ」というぐらい巧みに蚊という生き物を操って、マラリア原虫はマラリアをばら撒いている。

 だが、こうした過程でマラリア原虫を取り込むと、それまで貪欲に血を吸っていた蚊がたちまち食欲を失ってしまう。科学者たちはその理由を、マラリア原虫が子孫を人間に感染させるには蚊の体内で繁殖する必要があるから、繁殖している期間に蚊が血を吸い続ければつぶされるリスクが高まり、寄生生物にとって利益にならないからだと考えている。ただし一〇日後には寄生生物の子孫が成長し、より感染しやすい段階に入る。そうなると微生物は食欲を増進させることで大きな利益を得ることができるので、蚊の唾液腺に侵入し、抗凝固物質の供給を経ってしまう。その結果、蚊が血を吸おうとするたびに血はすぐ血小板で固まるようになる。蚊はいつものように血をたっぷり吸えなくて苛立ち、空腹を満たすためにより多くの宿主に噛みつく(53頁)

蚊はより多くの人の肌を求めて飛び回り、血を吸い回り、多くの原虫が人間の体内に侵入するチャンスを増やす。
一遍に吸わせてしまうと一人しかないから、わざと詰まらせる。

マラリア原虫は蚊が人間をにおいで探し当てる力を利用して、蚊と人間を近づけているかもしれないい。−中略−マラリア原虫が人間の体内に入ると、元々の体臭を強めたり、蚊を引きつける新しいにおいを出させたりする可能性がある。(54頁)

一寸の虫にも五分の(魂)と言うが、一寸にも満たないミクロの虫が、かくの如く宿主の心を操ってパラサイト世界の原動力というか、動かしている。

ヒメクモバチの仲間の寄生バチ−中略−だ。このハチがクモを捕まえて腹部に卵を産みつけたときから、寄生バチによる専制が始まる。卵が孵化して小さいミミズのような幼虫になると、クモの腹部に小さい穴をあけ、そこから体液を吸う。(60頁)

「獅子身中の虫」というヤツ。
内側から喰っていくのだが、クモの方は喰われている意識がないという。
だから「いけす料理」の反対側。
喰い物を保持しながら喰い続けて最後に息の根を止める。
「それまで生かしとく」という。

 メスのエメラルドゴキブリバチはワモンゴキブリのにおいを嗅ぎつけると、体長ではかなり見劣りするにもかかわらず強引に追跡して襲いかかる。−中略−そこでハチは、注射器を巧みに扱う邪悪な医者を思わせるそぶりで、毒針をもう一度そっと突き刺す。今回の狙いはゴキブリの脳だ。−中略−やがて戻ってきたハチはゴキブリの残った触覚の根本をもち、「まるで犬をひもでつないで散歩させるように、ゴキブリを巣穴まで連れていく」−中略−そしてゴキブリの足の外骨格に卵を産み付けると−中略−その後、卵からかえったハチの子どもたちはゴキブリの体をすっかり食べ尽くし、やがて成虫となって巣穴を飛び立つ。(64〜65頁)

いけすで魚を飼い、新鮮に保ちつつ刺身を食べるという、高級料亭の逆さのパターンで。
いけすの中に住みながらいけすを喰っちゃう、みたいなそういう暮らしをする。
だからこのハチはゴキブリの脳の領域の意識を奪う化学物質を作れるということ。
だから相当高度だろうと思うのだが、そういうことができる。

 アリタケの仲間のこの冬虫夏草−中略−は、胞子の段階から従順さとは無縁だ。胞子はオオアリの体についた途端、菌糸を伸ばしてアリの体内に侵入し、すぐに体全体を占領してしまう。さらにアリに命令を出して、太陽が最も高い位置になる時刻きっかりに木の上にいられるよう、若木にのぼらせる。アリは地上からおよそ三〇センチの高さで木の北西側にある葉の裏まで移動し、しっかりと固定できる主葉脈めがけて噛みつく。それと同時にこのキノコはアリの下顎をコントロールする筋肉を破壊し、アリの口を永久的に閉じたままの状態にする。彫像のように動かなくなった宿主は息絶え、その頭からはキノコが生えてきて、一本の柄の先に子実体ができる。まもなく子実体が破裂して胞子が地上にまき散らされ、そこでまた新しいアリに拾われる。(70頁)

ということで「冬は虫であるが、夏は草になる」という摩訶不思議な。
これもフードチェイン、食物連鎖の不思議「冬虫夏草」。
これは薬草なんかで使われているが、不思議な生き方。

トキソプラズマ問題が出てきた。
「猫に寄生して」という。
これは「人間には大丈夫だ」とかって言われていたが、マダニもそうだがやっぱり「家禽」と言うか家で飼われている獣というのは、それはやはり寄生虫にとっては願ってもいないターゲット。
トキソプラズマというのは影響を実は与えている。
今は「ない」と言われている。
「妊婦さんだけ気にしてください」ぐらいに言われている。

どんな方法であれトキソプラズマは実際に自分の脳に入り込んでおり、それが自分の性格を変えて危険嗜好を強めていると、フレグルは私に行った。さらに自分の研究から、この寄生生物は何百万人もの人々の脳をいじくりまわし、交通事故、統合失調症などの精神疾患、さらに自殺まで増やしている可能性があると考えるようになったようだ。(77頁)

トキソプラズマ原虫が居ついたニューロンは、ほかの三倍半も多くドーパミンを生産していたのだ。(95頁)

「インフルエンザが人を操ってやってるんじゃないか」という説がある。

被験者は予防接種を受けてから三日間の、ウイルスが最も移りやすい時期に、予防接種を受ける二倍の人と交流していた。「社会生活がとても限られていた人やシンプルだった人が急に、バーやパーティーに出かけたり大勢の人を自宅に招いたりする必要があると思うようになった。それが被験者の多くに起きていて、ひとりやふたりの変わった人の話ではなかった」と、ライバーは話す。(115〜116頁)

そう言われると風邪をひく直前に歩きたがる心当たりがある武田先生。
ちょっと「風邪かなぁ」と思うと「葛根湯、買いに行こう」と思う。
マネージャーに頼めばいいのに「葛根湯、買いに行こう」と思う。
あれはもしかしたらインフルエンザが人を社交性にするというホルモンで「大流行を演出している」という可能性があるという。

性感染症の場合もウイルスによって操られているのではないか?という。
この入院時の報告では「病状が出る直前に性欲が強くなった」という報告が多い。
(という記述は本の中にはない。インフルエンザと異なり、性感染症は症状が出る前に感染しやすいというこではないようなので「HIV感染者は末期段階になると恐ろしいほどの性欲にとりつかれる時期を過ごす」とのこと)
「浮気の虫」と言うが、これはもう東洋人の直感で「虫の仕業」。
本人の罪ではない。
寄生生物。
寄生生物は宿主の社会性、性欲、そして人の好みを操る。
とんでもないタイプの人を好きになったりする。
長嶋(茂雄)さんではないが「俺の守備範囲じゃない」のに行ってしまう。
「ライトを守っているくせに、レフトまで走っていく」みたいな、そういう熱病みたいなところが浮気の「気」にはある。
だからこれはやはり寄生生物の可能性が高い。

トキソカラには、イヌ回虫−中略−とネコ回虫−中略−のふたつの種があり、名前が示すようにそれぞれイヌとネコに感染する。このトキソカラが私たちの精神面に問題を引き起こす可能性がある大きなヒントは、その幼虫が人間の脳に住みつくことができるという事実だ。−中略−北米とヨーロッパの人口の一〇パーセントから三〇パーセントがこの寄生生物の幼虫に感染していると推定され、一部の貧しい国では感染者が人口の四〇パーセントに達すると考えられている。(123〜124頁)

症状というものが判然としないので「害がある」ということは断定しにくいが、行動においては行動障害、それから散漫等々が原因は実はソキソカラではないかと。
もしかするとこのトキソカラの脳内の感染によっていわゆる老人に多い「認知症」というのが可能性があるんじゃないか?という。
これはやっぱり調べてみる甲斐がある。
それであの友達のカケナントカさん(加計孝太郎理事長)という方は「獣医学部をつくりたい」とかとおっしゃったのではないか?
あれは動物を媒介にする寄生虫から操られて「今治にどうしても動物病院つくりたい」という。
「総理の責任じゃなくて、みんな寄生虫だった」という。
そんなことをフッと考える時がある武田先生。

『寄生獣』

寄生獣 新装版 コミック 全10巻完結セット (KCデラックス アフタヌーン)



右手に棲みついちゃった「ミギー」というヤツ。
漫画として最高傑作で、映画になった瞬間、つまらなくなった(と思う武田先生)。

寄生獣



頑張って作ったワリに・・・。
ただやっぱり漫画の方が怖い。

ターミネーター2 劇場公開版〈DTS〉[『T3』劇場公開記念バージョン] [DVD]



あの中に銀色の水銀人間が出てくる。
手の形が刃物に変わったりする。
あれの変身の仕方がそっくりだから、相当『寄生獣』の知恵が影響を与えているのではないか?

 人間を苦しめる寄生生物は一四〇〇種類以上もいて、それもわかっている数だけだ。まだ発見されていない種類が無数にある(132頁)

武田先生がすごく胸に沁みた言葉。
「腸の中には心の住む内臓世界があり、頭には脳が作る意識の世界がある」
そんなふうに人間を捉えたらどうか?

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2017年12月26日

2017年9月18〜29日◆はじめての福島学(後編)

これの続きです。

チェルノブイリの時にヨウ素131の問題とセシウムの問題を話した。
ヨウ素131の方は8日で半減を迎えるがセシウムは非常に警戒が必要な寿命の長い放射線、放射能。
「ベクレル」(番組で何度か「ベクトル」と言っているが、もちろん「ベクレル」)などという慣れない単位が出てきて、福島における放射線リスクを大いに語られた。

 たしかに、震災直後に、タバコのリスクと放射線のリスクを比べて「安全ですよ」という科学者に対して、放射線を心配する小さな子を持つ親たちが「子供はタバコ吸わねーし」とツッコミ入れていた。これは全くそのとおりのツッコミで、化学的な説明としてあまりにも安直で、かえって不信と不安を増大させて混乱を招いたことだと思います。(212〜213頁)

六年前、放射性物質への怯えが高まって、世田谷なんかをタイガーカウンターを振り回すおじさんがいて土の中からカウンターの針が震えたんで大騒ぎになったら「ラジウムだった」という。
世田谷の放射線、床下のラジウムから 原発は無関係  :日本経済新聞
ガイガーカウンターの貸し出しも始まった。

RADEX RD-1503 ガイガーカウンター(NEW 2017年 モデル/ 旧RD-1503 後任モデル)by Radex



そのうちにガイガーカウンターを振り回すおじさん、おばさんがいっぱい増えて、あっちこっちから放射線が出ているということで問題になったのだが。
あまりにもガイガーカウンターが鳴るので、みんなどうしていいかわからなくなった。
その時に賢い人はぼんやり思った。
「放射線なんて、そこらへんからいっぱい出てるじゃん」という。
あれは変だった。
ガイガーカウンターの鳴るところを一生懸命探し回って、鳴ったらニュースになるという。
それがどのくらい影響があるのか?健康に被害があるのか?あったのか?一切報道しない。
あの後何も。
ラジウムをどこで処理したかも何も言わないから、まんま放置したのだろう。

「一日平均で30ベクレル程度の放射性セシウムを摂り続けると、体内の放射性セシウムの量と放射性カリウムの量が(ベクレルで測って)だいたい同じになる」
 つまり、先ほどの「ごはん茶碗1杯200gあたり、放射性セシウムが0.4ベクレル」という例で言えば、30ベクレルに至るためには、毎日ごはん茶碗75杯分を食べる必要があります。
(193頁)

しかも捨てられたラジウムを探して、メディアは絶えずゴミを漁り続けたという。
テレビに出て放射性物質の危険度を繰り返し叫ぶ人がいて「いや、そんなに怖いものではありませんよ」と言うと「御用学者が!」と罵るのが流行っていて、その手の方がテレビ、ラジオでバーっと仕事を増やしていった。
あの頃のその人たちの合言葉「もう騙されない」。
また陣頭指揮に立った、今「民進党」だが、民主党の党首である総理までもが「騙されない」。
これを国是となさって突然、原発事故現場を訪れたりなんかしたという。
そういうことがあった。
また、大手新聞が「みんな原発の人は逃げたんだ」と罵ったという。
後で「いや、間違ってました」と訂正するが。
そんなふうにして立場の上の方の人たちも大騒ぎにして、パニックに陥ったという。
東電を始めとして、放射能を説明する人、今、原発でメルトダウン事故の対処にあたる人も「嘘をついている。誰一人信じられない」と、みんなが疑ったという。
それで何にも物事が進まなかったという。
でも幸いでしたね?
自衛隊の人とか消防署の人たちで、ものも言わずに一番危険な作業をやってくださって。
東電にもいらっしゃった。
それで何とか。

六年前のあの日をみなさん、思い出してください。
メルトダウンどうのこうので日本が揺れた時、もう本当に「芸能界ダメだぁ」と思った武田先生。
一年ぐらい仕事がないと思った。
もう娯楽が入り込む隙がない。
何か暗かった。
娯楽番組、バラエティやお芝居は、もう一年は放送されないと思った。
絶対あの時、みんな思っている。
あの時は、どうやって通常の放送に戻そうかというのも、どの局も迷っていた。
コマーシャルが全部すっ飛んで、広告公共機構(旧名称「社団法人公共広告機構」の「ACジャパン」を指していると思われる)ばかりやっている。
もう本当にあの時に「終わった」と思った。
民放からコマーシャルを取ったら何が残んだよ!
ましてそこを職場にしているワケだから「ああ・・・もうダメだぁ」と思って。
青山まで行ってジムをやっているので、もう時間を潰すのがそこしかなくて。
武田先生が青山の国際大学の前で見かけた風景。
コンビニに何も売っていないのだが、その青山のあの大通り、青学の前のあの通りを綺麗なスタイルの人がトイレットペーパーを抱えて歩いてらっしゃる。
ロールのヤツ。
六個ぐらい抱えてらして。
うまく手に入ったのだろう。
それぐらいトイレットペーパー不足というか、騒ぎになっていた。
ガソリンスタンドに延々と車が並んで、そんな異様な風景の中でトイレットペーパーを抱えたモデル風の美女に向かって、お婆ちゃんが大きい声で「アンタさ、ウンコ拭く紙なんだから、紙に入れてもらいなよ。みっともない」。
トイレットペーパー不足だから、奪い合うようにして、あそこの青山にある大手のあそこでうまいこと買ったのだろう。
その興奮で表に持って出たのだろう。

(震災直後の)3月12日、武田先生のお嬢さんが朝六時に泣いている。
「どうした?」と言ったら「玉電(玉川電気鉄道)走ってるよ、パパ」と言ったのを覚えている。
電車が早朝、走る音がした。
いつもの音がいつものように聞こえるというのが、いかに自分たちにとって重大か。
何時間もかけて、もうみんな歩いて家まで帰っていた。

あの時、国民の関心はその男に集中した。
総理大臣。
菅(直人)さんという方だったが。
この方が眉間に縦ジワを入れて、イライライライラなさっているのがこっちに伝わってくる。
パニックになってらした。
菅さんというのは人気があった。
ところが総理がパニックになる。
メディアが何を思ったか「この人の本性は『イラ菅』」と言い始めて「いつもイライラしてるんだ、コイツは」。
先に言ってくれれば(投票は)入れなかった。
もう「これからはその政党の時代だ」と思って入れたのだから。
この時は大変だった。
総理はカンカンになって官僚の人たちを怒鳴りまくっているし。
そしてあの都民が愛した石原(慎太郎)都知事。
この方も短気になられた。
東京の浄水場の方でちょっと高めの放射線量が観測されたというのでカーッとなられたのだろう。
「本年の隅田川花火大会中止」とおっしゃった。
「こんなことやってる場合じゃないんだ!国が傾いてるんだ!」
石原都知事がさらに「花見なんかやってる場合じゃないんだよ!」。
石原都知事、花見自粛呼びかけ 「同胞の痛みを分かち合うことで連帯感を」 : 【2ch】ニュー速クオリティ
この一言がまた日本中を・・・。
やっぱりあの都民が持ち上げた方だったので「あそこまで都知事が」ということで「花見はやめるべぇ、やめるべぇ」と。
三月の中旬。
だから気象庁が普段だったら桜の開花予想をする時期。
それが開花予想をしない。
でもその総理の「イラ菅」と、あのパニックになられ、怒りの石原都知事の言葉をかき分けて、これらの騒動があっという間に落ち着く。
何と被災地からものすごく重大な言葉が届く。
その一言が日本中をシーンとさせて日常に戻した。
つまり、あのパニックを救ったのは総理でもなければ都知事でもない。
被災者の方。
その被災者の方の一言。

2011年3月のこと、中旬を過ぎて日本中のパニックが広がっていく。
原発事故の不安、そして様々な方への不信、国政に対しての不信を持つ。
総理大臣の菅さんが眉間に縦ジワを入れて、そして枝野(幸男)さんという方がいちいち報告なさるのだが、この方の場合、声は冷静なのだがクマができるという。
そういうものが渦を巻いて。
そして東京都民が大好きな僕らがヒーロー石原都知事。
この方までも、どうなさったのか記者の質問に対して、あれはたぶん3月の14、15日。
東京のはずれの水道の浄水場で「放射線量が高い」ということが発表された。
その報道を受けての質問だったと思うが、石原都知事が言明なさって、まず第一は「浅草を中止にする」とおっしゃった。
三社祭を中止。
その後、石原都知事が「花見なんてやるもんじゃないよ!」。
それでもう日本中が静まり返って。
次々に桜見中止。
気象庁はもう三月の中旬だから、靖国神社に2〜3人出向いて、普通はもう開花予想を流す。
「そんなもん行ってる場合か!」と言って石原都知事が太陽にほえられた。

太陽にほえろ!1986 PART2 DVD-BOX



それで静まり返って桜見を中止にしたら、みんながそう決心した時に被災地、岩手の酒屋さんだったか、名言をおっしゃった。
何ておっしゃったか。
「花見やってください」とおっしゃった。
この戒厳令が引かれたような日本で「そっちはそっちでやってください」という。
その時に付け足しで、当たり前だがこの酒造メーカーのご主人が「お酒を飲んでください」。
「お酒を飲んで花見をしてください」 岩手、宮城、福島の蔵元がアピール - ライブドアニュース
「自粛しないでください」というメッセージをもらった。
その時に東京都知事もイラ菅も信用できなくなって「あの人が言うんだったら呑もう」という。
「オマエら、そんなことやってる場合か!」と絡まれたら「向こうのお酒造ってる方は『呑んで欲しい』って願ってらっしゃるんだ!」「その人に賛同して俺らは酔っぱらうんだ!」というので。
あの年はもうとにかくビール会社には申し訳ないけど日本酒を呑んだ。
最初はこっちだけ浮かれて呑むなんてちょっと申し訳ないと思った水谷譲。
その一言を聞いて、もう絶対「被災地のお酒を呑もう」と、みんな呑んでいた。
「カンパーイ!」じゃなくて、亡くなられた方に「ケンパーイ(献杯)!」と言いながら。
ジャパニーズがあの時、マナーをよく守った。
この国民はやっぱり、納得するとマナーは抜群。
この時にその花見にニックネームがついた。
これも庶民が作った。
「震災花見」
その結果ですらメディアは報告していない。
庶民が「よし!」と「もう都知事の言うこと聞かない。もう総理の言うこと聞かない。あの酒屋さんの言うこと聞こう。あの人たちを仕事でてんてこ舞いさせよう。さぁ、呑もうぜ!」。
クワーっと震災花見、あっちこっちで頑張った。
できるところはみんな花見をやった。

・日本酒造組合中央会によると、清酒出荷量が4〜9月期は宮城県で前年同期より39%、岩手県で17%、福島県で9%増えた(281頁)

何と例年に比べ、あの年、清酒メーカー、醸造メーカー最大の売れ幅を記した。
本当に「福島学」。
つまり「伝え方がうまいこと伝わると、被災地に対してもお金と物の流れがきくんだ」という。
今、福島第一原発。
もう変わることなくまだあの不幸、災いは続いている。
今も作業員の方々の必死の努力が続いている。
新技術に向けての作業が開始されたばかり。
武田先生もすごくうれしかったが、とうとう日立からロボットが一台到達した。
解決はしていない。
でも作業に向けて現場をカメラで捉えるというのが日本のロボット技術の最先端がここに投入され、集中され、撮影に成功した。
まだまだこれから問題は多いが。

武田先生の夢。
福島が今、頑張ってやっている医療機器メーカーの技術と廃炉への技術が合体していくと、我々の憧れの「鉄腕アトム」が福島からガバッと起きて「ボク、日本のために頑張ります!」と言いながらビューンと飛ぶというような未来が・・・という。

第三次産業でも福島の回復力は早く、2013年、JRのキャンペーンが功を奏した。
キャッチコピーがよかったので武田先生も乗った。
JRが上手いことを言った。
2013年JRのキャッチコピー「行こう!東北へ」。
(調べてみたが「行こう!東北へ」はJALのプロジェクト。JRは「行くぜ、東北。」)
これに載って福島に行った武田先生。
「東北でお金を使うことはいいことなのだ」という。
「震災花見」に続いてこの年、「震災観光」。

問2 2010年と比べて、2013年、福島県に観光客(=観光客入込数)はどのくらい戻ってきている?−中略−
 そして、問いの答えは、「2010年と比べて、2013年、84.5%の水準に回復している」です。
(297〜298頁)

もう今はすっかり回復している。
この手の「明るい」というのは人を惹きつける。
正直に言って今なお、福島第一原発は苦戦が続いている。
でも相馬双葉地区で相馬のイチゴ狩り、それから川内村のイワナ釣り。
武田先生が好きな渓流釣り。
これが再開されている。
チャンスがあったら来年の春にイワナ釣りに行こうかと真剣に考える武田先生。
これはとっくに回復しているが、いわきのスパリゾート。
常磐ハワイアンセンター。
【公式】スパリゾートハワイアンズ・ホームページ

 福島県への教育旅行宿泊者数の推移を見ると−中略−まだ3.11以前の半分以下という状況は続きます。(305頁)

韓国、台湾など日本への観光を積極的にする人々が多い国から万単位の客が逃げてしまっている状況が、いまだに続いています。(306〜307頁)

この、修学旅行、家族連れが少ないのは、もう間違いなく「子供を守れ」の叫びが効きすぎてストッパーにまだなっている。
メディアのみなさん、流した情報のその後を考えてください。
まだストッパーが効いている。
いわきはあれほど安全なのに。
メディアばっかり責めないで自分の我が足元も見てみたいと思う。

タレントが原発の作業員の方とか技術者の人に話を聞かせてもらえるというような紀行番組の企画は通らないのかな?と思う武田先生。
圏内に、中に入るのは難しいかも知れないが、せめて拠点のJヴィレッジに行かせていろいろ積極的に番組で公開バラエティーショーみたいなのを作業員の方々に楽しんでもらえるとうれしい。
でも新聞記者の人が入っているのだから。
不謹慎でもいいから。
何で武田先生があえてこんなことを言うかというと、やっぱり効果がある。

 会津については、2013年は明らかにNHKの大河ドラマ『八重の桜』効果が出ています。(299頁)

八重の桜 完全版 第壱集 DVD-BOX5枚組(本編4枚 特典ディスク)



会津の観光地の復興率、復旧率はすごく早い。
それと今、違う局に出ているが綾瀬はるかという女優さんはその後もずっと会津地方に関わりを持っている。
この女優さんは、よい女優さん。
この子はもう力みの何にもない子。
物おじしない、物を知らない子。
そこが明るくていい。
この綾瀬はるか譲から聞いたし、ローカルニュースで見たが、この子は会津まつりにまだ参加しているようだ。
もう番宣も離れて、いいのに個人的に。
会津まつりといって白虎隊の恰好をして少年たちが練り歩くようなお祭りが、会津戦争の無念を晴らすようなパレードがあるのだが、そこに招かれると綾瀬はるかは「山本八重の恰好をしてくれ」と言われる。
ちゃんと『八重の桜』の主役の山本八重の会津城攻防戦の恰好をして、スペンサー銃を持って山車に乗る。
もう綾瀬はるかが山車に乗っかって街に出た瞬間、ばあ様方が手を合わせて「八重さま〜!」と言う。
これが泣ける。
芸能人というのは本当に役に立たない生き物だとは思うが、こういう事例を見ると「やることはあるさ」と。

福島における出産の悲劇について。
放射能汚染等で今もささやかれている流産の多発。
それから先天性奇形の子の産まれた頻度。
これらが「異様に福島では高いのではないか」というでたらめが流れている。

問1 3.11後の福島では中絶や流産は増えたのか?
 答えは、「いずれも増えていない」です。
(331頁)

問2 3.11後の福島では離婚率が上がったのか?−中略−
「離婚率は明確に下がった。むしろ、婚姻率は上がる気配も」
(334〜335頁)

問4 福島県の平均初婚年齢の全国順位は?−中略−
 これ、答えは夫妻とも「1位」なんですね。2013年が夫29.8歳、妻28.2歳で、ともに1位でした。
(345〜346頁)

(番組では女性の初婚年齢が1位で男性が3位以内と言っているが、本によると両方1位。初婚年齢も本とは食い違う内容で説明している)
「先天性奇形の頻発、流産の頻発等々、取り上げるほど、報告するほどの問題は何一つ起こっていない」と。
「ヒソヒソ話で話すのはやめてください」と。

「避難」「賠償」「除染」「原発」「放射能」という「ビッグワード」に頼ることはあえて避けました。(349頁)

福島の負った傷を科学的にみてみる。
これはやっぱりびっくりする。
帰還困難、避難指示というワード、言葉というのはある。
福島に「帰還困難地区」という土地があることは事実。
科学的にそれを見てみる。

問1 今も立ち入りができないエリア(=帰還困難地域)は福島県全体の何%ぐらい?−中略−
 1位が北海道(8万3456.2、以下、単位は平方km)、2位が岩手(1万5278.7)、3位が福島(1万3782.7)です。
−中略−
 それで、福島県の面積の1万3782.7平方kmに対して、今も立ち入りができないエリア(=帰還困難区域)はどのくらいの広さか。
 これは337平方kmです。
−中略−
 ですので、1万3782.7のうちの337がどのくらいかというと2.4%ほど。
(350〜351頁)

これはドンドン減っている。
今、もう現状2017年では1%台まで落ちているのだろう。
それをまだ言う人がいる。
「傷は1.○%だ。2%弱なんだ!」という。
そこのエリアが傷を負っているという。
そんなふうに考えて福島というのに向かって行こうと。

(番組では帰還困難区域が減っていると言っているが、最新情報が見つからなかったが今年の三月に報道された<福島第1>避難指示 帰還困難区域解除見えず | 河北新報オンラインニュースによると「帰還困難区域」の解除は見通せない。面積は369平方キロとのことで、減っているという話は発見できず)

著者は「ありがた迷惑12箇条」として「こんな人は福島について語らないでください」と12箇条を挙げている。
彼は断固として「これらの人たちは問題の本質には全く関係がない」と「福島から出て行ってください。あなた方には福島を語る資格はありません」ということで12箇条。
一回も福島に行ったことがないのに語りがたる人がいる。
「県民の表情、何か暗いんだよね。福島は」とか。
そういうことを言うヤツがいる。

「今、福島は新しい問題に遭遇している」と著者は言う。

 ところが、3.11からしばらくしたら、町で暮らす人の半分がそっくりそのまま「新住民」、外から働きに来た作業員の方々に入れ替わったわけです。この町は若者が多いわけでもないし、関西弁など耳慣れない言葉で話す人がちょいちょいいる状況もなかった。以前ならいないような人が、コミュニティにドサッと入ってきた。だから、地元のおばちゃん、おばあちゃんたちからしたらすごく不安だ、というわけです。(366頁)

今まであまり顔を見かけなかった人たちがいっぱい新住民としているわけで、それが新旧住民として交流が非常に難しい、と。
その交流がうまくいくように「どうぞメディアのみなさん、手伝ってください」「そして何かアイデアがあれば、私どもに貸してください」と開沼先生は。
(そんなことは本に書いていないが)
だからそういう新旧住民のために活躍するのが娯楽・芸能メディアだと思う。
ちょっと少し混乱した街にとって、やっぱり娯楽を積極的に外から飛び込んでくるっていうのは。
福島第一原発のみなさん方が懸命に働いているところにチャンスがあれば『三枚おろし』も出向きたいと考える武田先生。

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2017年9月18〜29日◆はじめての福島学(前編)

はじめての福島学



あれから六年の歳月が流れて、昨今、他県で暮らしている子供たちがいじめの対象になっているという。
そういうことを全部含めて(著者の)開沼博さん。
この方は福島の方。
この福島の方が「『事実』『真実』とは一体何なのか?」という。
あの大きな厄災が襲ったエリアがある。
そのエリアが六年後に「何をそこから吸い上げたらいいのだろうか?」ということをあえて「福島学」ということで取り上げてらっしゃる。
これはもう、ちょっと本を読んでいてヒタヒタと通じてくるのだが、著者の方は拳が怒りで震えている(というふうに武田先生は感じる)。
それを懸命に「怒っちゃいけないんだ」「そのことも含めて福島っていうものをもう一回勉強しよう」と思ってらっしゃる。
やっぱりひどい偏見がある。

開沼博(かいぬまひろし)
社会学者。1984年福島県いわき市生まれ。
(214頁)

今、福島大学の福島再生を図る分野で研究を続けている方。
プロフィールにそうある。

忘れがたき2011年3月11日。
「東北は闇に覆われた」と。
福島の闇は特に深くて、丸ごと県内住民の避難を訴える人もいた。
「全部避難した方がいい」と。
じゃあ「そのアイディアは本当はどうだったんだろう?」という。
「福島はもうダメです。福島に近づいてはいけません」と叫んで参議院議員になった方もいらっしゃった。
昨今、絶望はやや小さくはなったものの東京電力。
その津波被害を受けた原子炉。
そこに関する闇はどうなんだろうか?と。
他県へ避難している県民の子らが避難先の小学校で「バイキン」と呼ばれ、いじめられているというような報道が2017年上半期に頻発した。
それを今は少し振り返ろうと。
このイジメが報道のとおりの事実ならば、放射能汚染による避難者は六年後の今は日本人のある人々からは「やっかみ」を受けている。
「放射能を避けてこっち側にやってきたヤツは特別待遇を受けてるんだ」と。
そのことに対するやっかみが、ああいう暗いイジメというような事件を増やしているのではないか?
「じゃあ、あの2011年の報道、メディアは本当にちゃんと報道したのか?」と開沼さんはおっしゃる。
「六年後、こういうことになったっていうことは、メディアさん、アンタ方の伝え方に少しゆがんだことはない?」っていう。
まあ、親の顔を見ながら子供というのはそういうことをしているのだろうが、やっぱりそういう子を生んじゃったというのにメディアの報道のあり方は正しかったかどうか。
メディアがあまりにも正義を叫ぶあまり、不当に悪人に仕立て上げた人々とか、事故等々があったのではないかっていうのが開沼さん。
「それを感情ではなくて、科学でやりましょうぜ」とおっしゃっている。
これはしかし、こういうことは、本当にどうしようもなくある。
福岡でもある。
何の事件か言わないが、ニュースバラエティの番組の中にいた武田先生。
コマーシャルに入った時、地元の人で「ヒソヒソヒソ・・・」と言う人がいる。
コマーシャルに入った瞬間「違うんですよ。実は話、これ逆でね。被害者みたいな顔してるでしょ?この人が実は・・・」みたいな。
その場で「それは嘘だよ」と言った武田先生。
そういう話っぷりそのものが非常に、今流行の「フェイク」。
フェイクニュースはすごい。

・ホール・ボディ・カウンターで福島県民約2万4000人の内部被ばくの状況を調べた結果、99%の人が検出限界以下だった
・福島第一原発から西約50キロの福島県三春町の小中学生1383人を同様に調べた結果、1人も検出されなかった
(197頁)

 2万4000人の調査のほうは、どうしても「放射線への意識が高い」人であったり、ある地域であったりに偏りが出てしまう部分もあった。例えば、「ものすごい食事に気を使っている人が多かったからみんな検出限界値以下だったのだろう」というツッコミを入れる余地もあったわけです。(198頁)

(番組では、上記のような非難は小中学生を調べた結果に対して出されたような話になっているが、本によるとそういう非難をする余地をなくすための小中学生に対する調査であったようだ)
こんなふうにして「真実」「事実」というのをクルクルクルクル風車みたいに回して「何が真実か事実かわからなくなっている」という。
それも一種「福島で起きた人間の仕業である」という。
その「人間の仕業」を学問にしましょうというのが開沼さんの『はじめての福島学』。

同じような事故があったということでチェルノブイリを見学し、福島と重ねて、かえって絶望を深くした人たちがいる。
そして日本人の中にはもう福島が難しくて、面倒になった人もいる。
「いまだに福島のことが信じられない」という方と、「とにかくみんなで力を合わせて福島を助けようよ」という。
六年の時を経て、福島に関する日本人の思いが今、千々に乱れているんじゃないか?
そういうことも含めて著者、開沼博さんは「『福島学』という学問にして福島で起こった問題を学問にまで高めましょうよ」。と。
これはグッドアイディアだと思う。
だから武田先生は読んでいて、この開沼先生の感情を抑えて福島に今ある問題を科学で見ようとする目というのは、もう本当に感動した。
では、科学でどのように、学問として福島をどのように見るか?

「メディアが報道した。それは真実だ」と思うのは「結構みなさん危ういですよ」。
もう一度、あの時の福島をあの時から見つめなおしてみましょう。
あの時、放射能汚染があったことは事実。
あれから放射能汚染はどうなったのか?
これはあんまりもう言わなくなった。
著者が問題としているのは「事実を報道して、事実をそのまま放置して、その後の真実、事実を全く報道しない。それはメディアさんおかしいじゃないの?」と。
「あん時に放射能汚染どうのって騒いでおった。今、どうなったか絶えず報告しなさい」という。
別の番組で伊東四朗さんがいいことを言っていた。
「この爺さん、いいこと言うな」と思った武田先生。
「水が不足すると『不足した不足した』と騒ぐくせにさ、水がある時はちっとも報道しないんだから」と言ったら、今はスマートフォンで調べられる。
メディアというのはそういう意味では「騒ぎ師」と言うか「とにかく話題になることを」という。
一回報道したらその後も報告すべきだと思う。
「一度『事実』『真実だ』と言って報道した。それが六年後にどうなっているかという報道も必ずやってくれ。それがメディアではないか」という。

「震災前に福島県で暮らしていた人のうち、どのくらいの割合の人が震災によっていま現在県外で暮らしているか?」(36頁)

 たとえば、東京大学・関谷直也特任准教授が2014年3月に全国1779人にインターネット経由で実施した調査では、「福島県では、人口流出が続いていると思う。□%程度流出していると思う」と質問しています。
 この問いに対して全体の1365名が「流出が続いている」と答え、その予想する平均値が24.38%でした。つまり、日本に暮らす人の8割がたが福島からの人口流出イメージを強く持ち
(38頁)

 さて、答えを言いましょう。正解は2.3%程度です。(39頁)

「現実の福島」と「イメージの福島」の間には実に10倍の差があるわけです。(39頁)

 震災前の福島の人口は、200万人ほど。一方福島から震災後に県外に避難している人の数は4.6万人ほど(39頁)

 例えば、福島の南隣の茨城県の数字を見てみましょう。茨城県は、2010年10月に296万9770人の人口がいましたが、2014年1月の人口は293万1006人です。3万9000人近く減っているわけです。(44頁)

地震、原発避難等の影響は福島はほとんど今はないそうだ。
他県と比べても福島の人口減少問題は、これは優等生。
人口の減っていない県の優等生。
ベストスリーかファイブに入るぐらいよかったらしい。

 実は、2014年初時点での日本の人口減少のワーストスリーは秋田、青森、山形です。それらの県の方々には大変申し訳ない感じもしますが、データを見れば、人口減少問題という意味では福島よりもヤバい状況になっています。(50頁)

 例えば、2012年3月の段階で出た朝日新聞の記事「福島の人口、30年後に半減の予測も政策大准教授試算」(http://www.asahi.com/special/10005/TKY201203050778.html)がそれです。
 簡単に内容を把握できるようにポイントを引用すると、「東日本大震災の被災の3県のうち、福島県の人口だけが減少を加速するとの予測」
(68頁)

福島県民が本当にうつむいたという。
これが一面に踊った。
「30年後、半分になる」という。
これはまったくの虚報で、あれから六年経っているが気配もないということ。

2010年の人口を100とした場合、震災がなくても2040年には福島が63.8(36.2%減少)、宮城が75.0、岩手が59.4になると試算」ということで、岩手も「半減!」ではなにしても、「4割減!」であることも一応は書いてあります。(68頁)

しかし、もうこれは発表からわずか数年後に予想が遠ざかってゆく。

確証バイアスとは「自己の先入観にもとづいて他者・対象を観察し、持論に合う情報を選別し需要して、それにより自信を深め、自己の先入観が補強される現象」を指すわけですが、「福島の人はみな放射線に怯え苦しみ、流出しまくっている」という偏見があったのではないでしょうか。(69〜70頁)

 社会学・心理学などでは、そういう不必要な負の感情を弱い立場にある人に持たせ続けるものを「スティグマ(負の烙印)」と読んだりしますが、スティグマ強化に誤った数字の独り歩きが今でも加担しているのだとすれば、少しでもそれが是正されていくことを願います。(71頁)

宮城とかよりももっと深刻なのは「放射能汚染」という、これが「穢れ」として貼り付けられている。
だから神奈川県に転出した子なんかが学校に行って「バイキン」と。
いじめ:福島から避難生徒、手記を公表 横浜の中1 - 毎日新聞
そういうあだ名を、ニックネームをつけられていじめられるというのは、メディアがばらまいた、あるいは福島を問題化した政治家たちが放射能汚染というもののに関して正確に捉えずに、ぼんやりとした不安で騒ぎ続けた。

風向きが毎日出ていた。
矢印がやや左の下の方を指すと「こっちに流れてきてる」。
でもあれは、何かの役に立つの?
asahi.com(朝日新聞社):福島産花火の打ち上げ中止 「放射能の恐れ」愛知・日進 - 東日本大震災
asahi.com(朝日新聞社):送り火用の被災松からセシウム 京都市、使用中止を発表 - 東日本大震災
もちろん危険は危険。
別に「安全」と言っているわけではない。
ただ「安全のための情報としてそれが必要か?」ということ。
角な情報が流れて「一度汚れた『穢れ』は絶対に祓えない」という、何か古事記にも出てこないような「穢れ思想」を放射能に託して無暗な怯えに震えていたのではないか?

問1 福島県の米の生産高は全国都道府県ランキングで、震災前の2010年は何位で、震災後の2011年には何位か?−中略−
問1 2010年が4位、2011年が7位
(104頁)

問2 福島県では放射線について、年間1000万袋ほどの県内産米の全量全袋検査を行っています。そのうち放射線量の法定基準値(1kgあたり100ベクレル)を超える袋はどのくらい?−中略−
問2 約1000万袋のういち、2012年度生産分で71袋、2013年度生産分で28袋、2014年度生産分については、2014年度末時点で0袋。
(104頁)

確実に回復しつつあるのだが、まだ騒ぐ人がいる。
TOKIO。
君たちは正しい。



福島ではその他、桃、リンゴ、ブドウの果実生産も回復しつつある。
きゅうり、なす、梨、アスパラ、なめこ、牛肉等々も。
ということで首都圏への供給は一生懸命今、TOKIOなんかがやっているが、あいつらは本当によい青年たち。
松岡(昌宏)くんとこの間、太秦ですれ違った武田先生。
生きのいい芝居をやっているようだ。
武田先生は『水戸黄門』の恰好をしている。
すれ違って「センパーイ!失礼しまーす!」なんか言いながら。
「何、演ってんだよ?」「『遠山の金さん』演ってまーす」とか言いながら。
ちょっと身びいきもあるがかわいらしい。

そのTOKIOも懸命に宣伝をやっているが、果実から野菜から牛肉等々、首都圏への供給が回復しつつある。
福島の農業がグングン回復しつつあるが、ただ一つは、まだグズグズ言う人がいる。
「検査もちゃんとしてあるから」
それでもまだ「いいえ」とか。
「あえて福島のものを買う」という人も非常に多い。
だが、福島の一番の問題は、頑張っていいものを作っても値上がりの可能性がない。
つまり「時間をかけたりお金もかけたんで、品物がいいです」と出しても「いや、お値段は去年と同じで」。
つまり「上から目線のバイヤーさんたちにさばかれているんで、努力が非常に実りにくくなっている」と。
「価格がなかなか戻らないんだ」と。
「もう勘弁してくださいよ」というのが生産者の悲痛な声だそうだ。

 たとえば果物なら、モモ、リンゴ、ブドウなどあるかもしれません。そこで、これもまた、ブランド化という点で考えてみましょう。
「モモつくっているイメージがある県はどこ?」岡山ですね。
「リンゴは?」青森ですね。
「ブドウは?」山梨でしょうか。
 他、ナシでもイチゴでもいいんですが、「福島産のイメージがある作物」というのはことごとく、「もっとイメージと結びついているライバルがいる作物」です。
(111頁)

お米。
どこをイメージするか?
新潟、宮城。
「コシヒカリ」「ササニシキ」「あきたこまち」
福島はその手のヤツがない。
「いわきの光」とか「会津の魂」とかって。
福島のお米を毎月買っている水谷譲も名前は思い出せない。
あんまり宣伝しない。

青森でリンゴが旬な時期とズラしてリンゴをつくる。そうすると、青森が引き上げてくれたニーズや価格を一定程度引き受けながら、品薄時期を埋めることができる。他の作物もそうです。
 これは、多様な気候・土地が用意されている県だからこそ、そして、首都圏や仙台など大量消費地の近くにあるからこそできる戦略です。
 名付けるならば、「一つの金メダルじゃなく多数の入賞」を狙う作戦です。「2位じゃダメなんですか?」と問われるならば、自信を持って「2位とか5位でもいいんです」と答えていく戦略。
(112〜113頁)

 2014年になって私があるラジオ番組に出た際に、コメンテーターが「福島の農地は汚れているんだから、福島の農家は農業やめて賠償請求して暮らせ」と言い出すので議論になったことがありました。−中略−
 良識派ヅラした偽善者の傲慢さに付き合う必要はなく、余計なお世話もたいがいにしろという話でしかありませんし、「おれは福島のことを本気で心配してるんだよー」みたいな顔したパーソナリティーまで同意しているのに閉口しましたが、こういう厚顔無恥なお気楽文化人と実際に被災地で暮らす人々との認識の溝は今でも深いでしょう。
(135頁)

(本には「あるラジオ番組」としか書いていないが、番組では「フクシマを語る」というタイトルだと言っているが根拠は不明)

日本中をウロウロしていると「何でこんな外国人観光客多いんだろうな?」と思う武田先生。
今、京都(太秦)に行っている。
この間「五山送り火」があった時に近くのスーパーまでスイカを買いに行った。
8月16日に「スイカでも喰おう」と思って。
黄門様(『水戸黄門』の撮影)がちょっと早目に終わったので。
それで行ったらすれ違ったのが浴衣を着たヨーロッパ系の人たちの集団。
友達の家の屋上で浴衣を着て「五山送り火」を見る。
京都の夕方なんて湿度80〜90%で耐え難い暑さ。
西洋の人が、彼らは楽しそうに歩いている。
かつて日本が非常に住みにくいとか言われたのを乗り越えて、西洋の人が京都を理解しようとしている。
その不思議。
京都と福岡に行くたびに外国の人が多いのに驚く武田先生。

福島にも外国の方が増えてきている。
「理解したい」という方がいっぱいいらっしゃる。
ところがその中で「日本人は」ということ。
2月(「3月」の間違いではないかと思われる)11日以来、農業引退者が確かに福島で多いことは事実。
しかしこれは水田が塩を被って、それを回復させる力がない等々で農業から去る人たちの数字が増えていると。

 小高地区は震災直後から福島第一原発から20キロ圏内であるため(142頁)

 また、立ち入りができなかった小高区については「農地としては使用しないため、手放したい」人が「20%しかいなかった」ということは、逆に8割の人は農地を手放さずにどうにかしたいと思っていた、それだけ農家は自分の農地を復活させる意欲が強かったとも読み取れます。(142頁)

これをはたして知識人たちは「絶望的」と呼んでいいのか?と。
よく知識人の方、コメンテーターがお使いになる言葉の中で「福島はどうなるかわからない」そして「チェルノブイリと重ねて考えても、福島に明るい未来が待っていない」と平気で言う方がいる。

チェルノブイリと福島を重ねて考える語り方がよくされがちです。たしかに原発事故が起こったという意味では共通しています。ただ、そのまま重ねあわせて考えて「チェルノブイリで起こったことが日本でも起こる」というような認識を持っている人がいますが、だいぶ状況が違うことを認識すべきしょう。(207頁)

この先生のいわゆる「反論」はチェルノブイリでは特に子供の甲状腺患者が大量に出た。
そのために福島はセシウム対策をすぐにとったのだが、一番大事なことは「チェルノブイリと福島は食習慣が全く違う」という。
(本によると食習慣の違いということではなく、各種対策によるというような内容になっている)
「チェルノブイリは牛が草から取り込んだセシウムを子供が牛乳で摂り続けてその悲惨を招いた」と。
しかし福島はただちに牛乳の廃棄と飲料水検査を繰り返し、この一点に関してはとことん警戒した。
そしてチェルノブイリは何かというと内陸。
食の習慣が全く違う。
都市からも遠く、その地域に住む人たちは自給自足の農業人。
だから主に摂ったのが牛乳、肉、そしてキノコだった。
これはもっとも放射性物質を蓄えやすいヤツを摂った。
での日本は福島では自給自足がないから(と番組内では言っているが多分違う)もう流通がすぐになだれ込んでいるから、その辺の違いを全然指摘しないで「チェルノブイリ、チェルノブイリ」と騒ぐという。
「何も発見できませんよ」というのが開沼さんの一種「怒り」。

そして日本は原爆から学んだ。
長崎で驚くほど甲状腺ガンの子供が少なかった。
これは「出る」と思われたのだが。
これは何でかといったら現地のお医者さんが調べたのだが、原爆が落ちた次の日から味噌汁を飲んでいた。
味噌汁に入れるワカメ。
そのことで抑えられたということで、日本人はヨウ素ということに関して発見した。
実際にあれほどの犠牲者の中で。
広島もそうだが、海辺に近い。
海産物を摂っている。
それがやっぱり。

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2017年12月13日

2017年9月4〜15日◆来たるべきバカ(後編)

これの続きです。

人は「次なるバカ」を目指して勉強するのだ。
そこでボケとツッコミ。
政治家の方々に失言が多いのは全部ツッコもうとするからだ。
その部屋中に満ち溢れている同調圧力。
人を同じ意見でまとめてしまおうという気配から脱するために「ツッコむ」という。
そのツッコんだ結果、それが失言として指をさされる。
その瞬間にすぐに「あ、すいませんでした、傷つけて」「陳謝いたします」「前言撤回します」というような。
武田先生も含めて、最近やっぱりこの「お詫びと訂正」を求められる。
武田先生も結構いろいろなところで投げつけられている。
舞台で座長で威張っている武田先生。
モロに劇場関係者から入ってくる。
「武田さん。二幕目のケツの方でちよっと二階のお客さん、からかったでしょ?ちょっとね、非難来ちゃってるんで一つ・・・」
でも、何か面白いことってみんな失言に近いこと。
二階のお客に向かって「前の方に来てください。ちょっとお値段張るけど。この貧乏人!」。
「そんなことを言いそうなバカ」というのが武田先生の個性。

この千葉先生の本で一個だけ納得したのは「利口において人は個性を発揮できない。バカにおいて個性が発揮できる」。
武田先生が大好きな内田樹先生の名言の中で「人は間違う時のみ個性的である」。
やっぱり、あの母ちゃんとの結婚は間違いだった。
いろんなバカを考える。
だけど、そのバカさが武田先生。
やっぱり結婚相手とかっていうのはそういう「バカさ」を選ぶ。
「安全パイ」とちょっと危ないのがあると、ちょっと危ないのを選ぶ。
武田先生の奥様は熊本のお百姓さんの娘で銀行勤めをしている。
選んだのはワケのわからないフォークシンガーの武田先生。
何で選んだかというと自分の生き方を変えそうな気がした。
「両親は絶対反対する」というので燃えたという。
「バカさ」の選択。
「利口さ」ではない。
だから偉くなりたくて国会議員の道を選んだ人というのはみんなの迷惑。
だからシャウトしちゃう。
そんな人がいた。
「違うだろぉ〜!」というのが。
オメェが違うんだよ。
国会議員を「バカだから選んだ」という人がお国のために役に立つ。
そういう人たちがものすごい仕事を成し遂げる。
とある人から聞いたが昔の総理大臣は選ばれるとポツンと小さい声で「身を粉にし、国民に勤めたいと思います」。
本当に身を粉にする人が多かったという。
国会議員になってから全財産を使う人がいた。
最近、国会議員になってから「小銭稼ごう」という利口が多いものだからおかしくなっている。
「給料なんかいらねぇ!」ということで一銭も給料がいらなくて国会議員として働いてくれたら、もう子供から尊敬する。
「どのバカを選ぶかが個性である」という。
それをこの哲学者、千葉雅也先生は「享楽的傾向」と言う。
一強体制というのはツッコミたくなる。
二回当選した人はスキャンダルが多いというよりも、一強という人はボケなければいけないのだが、ボケられない。
あの一強の方(安倍首相のことを指していると思われる)ももっとボケていたら今の苦悩はなかったろうと思う。
国会で「女房、クビにしちゃいますか?」とか何か。
チャーミング。
籠池(泰典)さんはずっとボケている。
だからあのおじさんにはメディアもツッコめない。
あれほど美しい夫婦愛を本当に見たことがあるか。
日焼けしないように首筋に出所の前日にクリームを塗ってあげている奥さん。
ボケ。
逮捕されるのにガラッと玄関で「秋晴れの、真っ青な空・・・」なんて言いながら。
「お父さん!」っていう。
ボケに完結している。
他の方はボケが足りない。
あたりに関係なく自分にノる。
その享楽的傾向を個人は持つべきである。
自分が持っている「バカさ」。
「それがその人の個性なんだ。バカさがない人は個性がないんだ」という。
そのバカさとは何か?
享楽的傾向とは何かというと「他の人は何とも思ってなくても私これ好きなんだも〜ん」。
そういうものというのが今、世界を席巻している。
その代表的人種が「おたく」。
この人たちは享楽的傾向。
あるものに対してすごく強い傾向を持っている。
ある意味では「バカさ」。
たとえば刀剣女子とか歴女とか山ガールとか。
これも享楽的傾向。
そういう傾向を持っている人は、ある仲間を形成することができる。
また、ある享楽のムーブメントを起こす人たち。
こういう人たちが、かつてはローカル、ドメスティックな人たちだったのだが、今、世界的になるんだということ。
その一例として武田先生が挙げるのは『君の名は。』
日本の高校生の恋物語か何か。
アカデミー賞でも騒ぎになった。
プラス、中国内陸部で大ヒットした。
去年のヒット作でバカ当たりをとって、日本の映画会社がもう本当に万々歳しているが『君の名は』に『ゴジラ』。
『シン・ゴジラ』
『君の名は』に『ゴジラ』。
昭和20年代、30年代の映画のタイトル。
まさしく歴史的に見てもドメスティックだしローカル。
その同じ名前のものが21世紀に大ヒットして世界的な傾向になりうる。

例の8月6日の広島の大会がある。
(原水爆禁止世界大会のことを指していると思われる)
あれの大会に今年、最も外国人が多かった。
アメリカの人が特に増えてきたという。
あの前後に太田川に灯籠を流す。
(調べてみたが太田川ではなく元安川のようだ)
あの石の階段にアメリカの人がびっしり。
何か?
それは「原爆反対」とか「アメリカの間違い」とかって責める方もあるかも知れないが、戦争で死んだ爺ちゃん婆ちゃんたちに手を合わせて、孫たちがろうそくの流し舟を送る。
風景として美しい。
その美しさ、ドメスティックな行事というのが世界的になりうる。
ちょっと種類が違うが、持っているバカさ加減。
でも本当に世界から原子爆弾をなくそうと思うと、この道をたどること。
武田先生が本当にすごいなと思うこと。
原爆のことを理解してくれたアメリカ人に対して、感謝のモニュメントがいっぱいある。
ニューヨークの新聞で初めて原爆の悲惨さを伝えてくれたアメリカのジャーナリストに対する感謝の言とか、ああいう異国の感謝に対するモニュメントが多い。
あれほど戦争の現場に、敵国の人間で理解してくれた人を絶賛するモニュメントが建っている跡地はない。
そのことを誇るべき。
いまだにマスコミは世論調査で言う。
「アメリカは50代以上の60%が『原爆はやむを得なかった』って言っている」
そんな統計をとったって一緒。
一番大事なことは今、アメリカの若い人たちの70%ぐらいが兵器として「やっぱり原爆は間違ってる」と言う。
そう思い始めたことが重大であって。
それで向こうの中学校教師とかが来ている。
みんな最初はとても楽しく広島を楽しんで、あの記念会館を一周して一時間半で出てくるとやっぱり顔つきが変わるというから、そこを信じよう。
つまり「来たるべきバカ」に向かって歩き出そう。
とにかく「おたく」とか「○○女子」とか享楽的ムーブメント。
それが世界を揺り動かす大きな力になるということ。

この番組(今朝の三枚おろし)をやりながらなぜ勉強をしているかというと「次のバカ」を目指しているから。
もう本当にバカに違いない。
65歳から合気道の道場に通っているのだから。
道場の先生「武田くんはどうして合気道を志したの?」「はい。ケンカに強くなりたくて」「誰に勝ちたい?」「女房に勝ちたいと思います」。
手か何かキュッっていう。
そうしたら道場の先生が「う〜ん・・・奥さんひねるの上手だからねぇ。強敵だねぇ」と言いながら。
合気道こそ武田先生の「来たるべきバカ」。
今年の7月で3年目で初段を取って黒帯になった。
二段こそ武田先生が目指す「来たるべきバカ」。
その道場は外国から練習に来る子も多い。
デンマークから来た子でヨハンヌという19歳の金髪の子。
おとぎ話から抜け出てきたようなきれいな子。
ガタイもデカくて白帯。
武田先生は「黒」だから「ジャパニーズブラックベルト」とわりと向こうはハッとして見る。
ただ、そのヨハンヌという女の子は10年やっている。
だから技の切れ方が半端じゃない。
受け身がきれい。
武田先生は「サムライジャパニーズ」とかと思っているのでヨハンヌと練習に入った時にパッと片手を出して、手を震わせてガラガラヘビのように威嚇した。
「カモン!ヨハンヌ!」と言いながら柔術の先生みたいに「隙があればかかってきなさい!」と言いながら。
そうしたらヨハンヌからパチンと手をたたかれて「合気道イズサイレント!」と言われて。
「黙ってやれ」と。
日本の武道の合気道は「静かな力みのない武道」なんだと。
香港映画のカンフー映画の悪役みたいに「そんなマネするんじゃねぇ!」と言われてガックリ来た武田先生。
でも、その「バカさ」で気づく。
このデンマークの19歳、ファンタジーガールはここまで深く日本の武道を理解しているんだと思うと、自分のバカさの浅さが一つの学びとなって。
「バカさの浅さ」を思い知らされるという。
次なる「来たるべきバカ」を目指して、さらなるお勉強というか修行を続けていきたいなと思う。

目移りできないツッコミは排他的である。
そして可能性を否定する。
他者の絶対化が始まり、誰かを一強にしておけば世界は一つで苦労せずその世界に同調圧力に迫ることができる。
「誰か一人がただただ強い」という、そういう世界が来た時、実は非常に便利で、一強の下で生きる人は「あの人は一番強いんだ」と黙っておけばいい。
つまり今年流行った「忖度忖度」で誰もツッコめない。
「ボケ、ツッコミができないから、それだからダメなんだ」と。
「一強に安住してはいけないんだ」と。

 絶対的な根拠はないのだ、だから無根拠が絶対なのだ。−中略−無根拠に決めることが、最も根拠づけられたことなのである。−中略−
 実際的に言えば、これは要するに、「決めたんだから決めたんだ、決めたんだからそれに従うんだ」という形で
(142頁)

決断とは、自分の決断の絶対化だが、それはつまり、他者への絶対服従である。(145頁)

これは人間が決断するということに関して「決断することがものすごく大事」という人がいる。
しかし、この哲学の先生はもっとも人の不幸は決断を自分の人生の答えにすること。
決断とはつづめて言えば「誤り」のこと。
なぜならその決断は「無根拠」で「他者に従った」というのが事実なのだから。
決断とはしょせん「仮固定」。

 ある結論を仮固定しても、比較を続けよ。(146頁)

(選挙で)自分の一票が何か頼りない。
それも実らないことがある。
都議選は民進の人に入れた武田先生。
小池さんのところが一強だったから。
民進の知っている議員さんがいた。
すごくいい人で合気道で知り合った人。
すごくいい青年だけど落ちてしまった。
それはむなしいし、今度都政で選ばれたのは小池一強の「都民ファースト」。
国政にも乗り出すと言っている。
偶然を起こすというのは「一票」。
「偶然」とは何か?
わかりやすい例。
みの(もんた)さんのクイズ番組『クイズ$ミリオネア』に出たことがある武田先生。
知人三人に訊いていいというヒントタイムと、会場にいらっしゃる50人のみなさんにABCどれが正しいかを訊いていいというのがある。
二つ特典である。
圧倒的正解を誇るのは三人の物知りの友人に訊くよりも50人座っている観客席のみなさんのABCどれかに従った方が正解率が上がる。
三人よりも50人で考えた方が、正答率、正解率が高くなる。
そうやって考えると「多数で投票する」というこの民主主義のポピュリズムを今、ケチョンパンに言う人がいるが、『ミリオネア』においてはこの民主主義的手法が正解率が高かったということは覚えておいてね。
とにかく「偶然」を起こそう。
誰かが言っていた。
「とにかく10万人」だと。
10万人が一斉に「ダメだ」とつぶやくと10億の国家がひっくり返る可能性がある。
千人が反政府運動を起こしても全員逮捕される。
ところが10万人が反政府運動をいっぺんに起こすと1〜10億ぐらいの国家がひっくり返る可能性がある。
10万人を終結させないように一生懸命やっている。
でも10万人はそんなパワーがある。
武田先生が推した人も落ちたが「多数」ということをもっと信じましょう。

決断とは所詮、無根拠である。
決断を自分の人生の答えにしてはいけない。
決断から哲学し、勉強をし続けて「次なるバカ」を目指す時、最初の決断が生きてくると。
もう年をとってくると身に染みてわかる。
「自分」というものの意味は「バカさ」において意味があるんであって「賢さ」においては意味がない。
「よい決断をした」と思う人はもうそこから躓く。

「あ、そうか。仮固定だったんだ」と思う水谷譲。
でも今の旦那さんに後悔していないというか「間違ったにしても、この間違いだったらいいか」と思える。
「しょうがないかなぁ」みたいな。
みんな「絶対」を求めるからおかしくなる。
時々本当に奥様に対してカッとなる武田先生。
ごはんを一粒こぼして、箸の頭で(奥様が)突っつくのはもうカチンと来る。
「ホラ!こぼした!」と言いながら。
腹が立つ。
だけど何か、向こうからボーっとやって来て「先生、お元気だった?」とかって。
「元気だったよ」
いつの間にか3〜40分話している。
ブスーっとしながら。
奥様が「あ、そう。一生懸命練習やって、今日はね。コーヒーでも飲むか」「じゃいっぱいいただこうか」と言いながらコーヒーを飲んでいる。
それでいいんじゃないの?別に。
女房だから本当に腹が立つ時がある。
本当に松居(一代)さんには申し訳ないが、いい参考になっている。
奥様が(おそらくテレビのワイドショーなどを)ジーっと見ながら「私はね、同じ事態に陥ってもここまではしない!」。
思わず「ありがとな」とポロッと言ったりする。
「それだったら俺もさ、安心して『黄門』続けられるよ」
「そうよ。暑いんだから気を付けなきゃ」
またコーヒー飲んじゃったり。
「こういう会話がなかったのね、このご夫婦(おそらく船越英一郎・松居一代夫妻)は」とかと言いながら。
「まあ、私たちは幸せ」
結論は全部そこにいく。
おかげで自分の賢さと間違っていない選択がだんだんわかってくる。
「間違ってたかなぁ」と思っていたのだが。
「まあ、こんなもんでいいですわ。十分十分」
とにかく人間は固有のバカさを所有している。
そのバカさの享楽的傾向こそがあなたなんだ。
ボケ。
そこから自分を持っていくんだ。
賢くなろうとしたところが間違い。

 僕が実際にやってきた方法で、「自分が何を欲望してきたか」の年表をつくるという方法です。これを、「欲望年表」とでも名付けましょう(155頁)

 自分にどんな享楽的なこだわりがあるのか、その成立史を、年表にしてみる。(156頁)

自分が子供の時から欲しかったもの。
なりたかったこと。
それを全部書くと自分の享楽的傾向というのがはっきりしてくる。
それで武田先生もこの番組のために挑戦した。
小学校4年の時の夏休みの提出レポートで、行ったこともない下関水族館の見聞レポートを書いた。
ご両親が夏休みにどこにも連れていってくれないので雑誌を読んで、さも行ったふりをして下関水族館の素晴らしさを自由研究で書いた。
雑誌を切り抜いて貼り付けたり。
「これはまったく評価されなかった」と書いている。
でもそれから妙にクセがついて、今でも気になると雑誌を切りペタペタ貼っている。
あれはこれから。
やっぱり「嘘ついた」。
嘘のレポートを書いたという。
あまりよいことではない。
でもそれから自分の享楽的傾向「レポートを書き続ける」という。
『三枚おろし』もその延長かも知れない。

武田先生が強烈に覚えていること。
小学校6年の時。
『世界日本人偉人伝』を図書館から借り出し、返却せず、そのまま盗んだ。
向こう側が管理している図書カードも早朝に行って一緒に処分したという。
完全犯罪。
ただ、これが「偉人伝」。
これを一冊ごと丸暗記した。
人名を全部覚えた。
とにかくこの一冊で日本と世界の偉人200人ばかり。
終わった人の人生を遡ることに無暗に感心した。
偉人伝だから「死んだ人」の。
それを読むのが面白くてたまらなかった。
『水戸黄門』の始まりも、この盗んだ人名事典から始まったのかも知れない。
だから本当にわからない。
武田先生が小学校6年の時、何をやったかというと、タバコの釣り銭をちょろまかして映画を観に行っていた。
おふくろから見つかって青あざがつくぐらいホウキで叩かれて。
ところが何十年も経った後で母親が誰かに「たぶん鉄矢は盗んだ金で映画俳優の勉強をしよったんだろう」と言う。
親が「悪いことした」と子供を叱るのは簡単だけど、やっぱり難しい。
その頃、全部観てる。
スクリーンの中で会った人と再会するのが自分の東京に来てからの歴史になる。
小林旭に会うし、加山雄三にも会うし。
星由里子さんにもこの間会った。
『若大将シリーズ』の澄ちゃん。

若大将 サーフ & スノー DVD-BOX



それから酒井和歌子さん。
やっぱり役に立つ。
『陽のあたる坂道』で浅丘ルリ子さんが出てきた。

陽のあたる坂道 [DVD]



お豆腐を買うシーンがあって「あそこはよかったですねぇ」と言ったら、大きいお目々で浅丘さんが「覚えてるの?あなた」と言われて。
盗んだ金で観た映画がどれほど役に立ったか。
「いい」「悪い」って難しい。
この哲学者が言う享楽的傾向は善悪を離れて決定していくワケだから、母親はその辺はやっぱりF1のカーレースのハンドルでは困る。
遊びの多いハンドルじゃないと。
いちいちカリカリきてると大変なことになりますよ。

千葉雅也先生は言っている。
来たるべきバカを目指しましょう。
我々が目指してはいけないのは「壁の中のバカ」です。
壁のないバカこそ君の目指すべきバカなんですよ。
バカになったら次なるバカを目指す。
こんなふうにおっしゃっている。
(このあたりの文章は本の中に発見できず)

posted by ひと at 13:41| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年9月4〜15日◆来たるべきバカ(前編)

勉強の哲学 来たるべきバカのために



あるバラエティ番組に出演した武田先生。
アンガールズの山根(良顕)くんは、前もご報告した通り『三枚おろし(武田鉄矢・今朝の三枚おろし)』を聞いてくれているらしい。
もちろん「時々」だと思う。
その山根くんが武田先生にそのバラエティの楽屋で『三枚おろし』を聞いた感想であろう。
短く鋭く武田先生に向かって「手間かかるでしょ?あのラジオ」と言う。
眉間にしわを寄せて「本、読んで、武田さん、あれいちいち読んで、本から抜き書きしてしゃべりのネタにしてるわけでしょ?」と言う。
まあ、手間はかかる。
現実にこの『三枚おろし』というのは武田先生の仕事の中では「原価割れ」。
元が取れない番組。
あまりにも山根くんが同情するので、やっているのが「不思議?」と。
「だって、聞いててわかるもん。あれ、勉強大変でしょ?だってラジオ番組やるのに勉強してる人っていませんよ?」と言う。
これが山根くんの番組に寄せる感想。
でも、これはハッとする一言。
ラジオ番組で勉強をしながらレギュラーを続けるということは。
これは何かというと「哲学的問い」。
この本の言うとおり「勉強の哲学」。
勉強してラジオ・テレビ番組をやっている人は今いない。
新聞をチョロチョロと読んだり、バラエティ番組も誰かが勉強したというか調べたのを壁に貼り付けてたりしながら。
それをわざわざ目隠しで隠してペロッとめくるというのがだいたいニュースバラエティ番組の回し方。
だから基本「勉強しないこと」。
これがバラエティの回し方。

タイトルは『勉強の哲学』。
副題が『来たるべきバカのために』。
その腰帯の自薦の文章に「勉強とは、これまでの自分を失って、変身することである。」。
更に勉強を深めることで、これまで「ノリ」でできたことが一旦できなくなりますよ、という。
つまり「来たるべきバカ」になるために勉強するのであって、山根くんがただ一つ誤解しているのは、武田先生が賢くなるために勉強していると思っている。
武田先生が元の取れないラジオレギュラー番組をなぜ何十年もやっているかというと「次なるバカ」になるため。
勉強しなきゃバカになれない。
現代のバラエティ番組で人気をとるためには勉強してはダメなんです。
何についてコメントし、何について面白いと思うのか?
それは一つの言葉で集約される。
「昔やったバカ」を番組内で発表し合うこと。
「今だから笑って話せるけど」みたいなことをネタとして。
「昔しくじったこと」が1時間番組どころじゃなく最近は3時間番組やっている。
つまり「昔バカやった」「昔のバカ」「昔バカだった」。
これが今、メディアを回している。
これがテレビを回転させているエネルギー。
見る方も賢い人を見るよりもバカをやっている人を見て「まったく・・・」という方が気持ちがいい。
そして政治家の方もそう。
今、政治家の人たちがメディアに取り上げられるのはただ一つ。
とんでもないバカを言う。
この「今バカ」「昔バカ」。
これが今、メディアを回転させているエンターテインメントのエネルギー。
しかしこの千葉雅也さんという哲学者、若い方なのだが、この方は「それじゃダメなんだ」と。
「我々は今こそ『来たるべきバカ』のために勉強を開始するんだ」と。

アンガールズの山根くんが心配しているのは、武田先生が賢くなるためにラジオ番組のために勉強をしているんじゃないか?
「それはまるで、渚でのたうつイルカですよ?」「待っているのは死ばかりですよ」というようなことを武田先生に伝えたかった。
武田先生は賢くなるために勉強しているのではない。
バカから脱出しようとしているのではない。
ダウンタウンの浜ちゃん(浜田雅功)とかと絡む時は「どのぐらいバカやったか」のネタを持っていないと浜ちゃんは笑わない。
それも結構きつめのバカをやっていないと。
松ちゃん(松本人志)は理屈っぽいから少し引っ張り上げてくれるが、浜ちゃんは「なんや、そんなこと言いに来たんか?」みたいな目で見る。
離婚からやんちゃ、失恋、事故、うぬぼれ、貧乏。
ここまで全部「昔やったバカ」としてバラエティを回すネタになる。
武田先生は最近、山根くんが心配するごとく、あんまりバカを発表していない。
それは何でかというと、もうネタ切れ。
昔、バカをやったがもうネタ切れ。
もう70歳手前にしてまだ昔のバカを言っているようではダメで、そこで武田先生が夢見ているのは「来たるべきバカ」。
「次にいかなるバカを目指すか」ということ。
ここからが千葉雅也先生の教えなのだが、来たるべきバカを目指した瞬間、「今のバカ」「昔やったバカ」を語り合う群れとは離れていく。
浮いてしまう。
武田先生の付け足し。
今、「昔バカ」と言った。
「昔やったバカのことをバラエティに乗せられる人が人気者」と言った。
これははっきり言うと(明石家)さんまさん。
もう「離婚ネタ」を引っ張るだけ引っ張っている。
もう聞き飽きた感があると思うが、あの人にとっては重大なネタ。
それから(ビート)たけしさん。
昔、出版社に殴り込んだとか、暴力事件ということで逮捕されたとかという「昔のバカ」「軍団と一緒にやったバカ」は、たけしさんのもう一種の背骨。
フライデー襲撃事件 - Wikipedia
だけどタモリさんはゆっくり最近離れていると武田先生は思う。
タモリというのは『ブラタモリ』を筆頭にして別格の笑いを目指す。
つまりちょっと郷土のひいきもあるが、タモリさんこそ「来たるべきバカ」に向かって歩き出した「高低差のあるバカ」。
あの人は高低差に弱い。
『ブラタモリ』はあの人は高低差を無暗に喜ぶ。
というのはレギュラーをやっていた(『森田一義アワー 笑っていいとも!』のことか)ばかりに
旅に行けなかったから、ずっと地図の上を指で歩いていた。
地図の中に高低差がある。
それがもう「感動的だ」という。
最近「昔のバカ」を使わない新興勢力が芸能界に出てきている。
くりぃむしちゅーの上田(晋也)くん。
この人はツッコミオンリーで自分のバカを言わない。
この上田くんのマネをして陸続と「昔のバカ」を使わない新興勢力という人たちが出てきている。
それが上田くんであるし、グルメで専門家よりいっぱい料理屋さんを回っている、最近きれいなモデルさんと結婚して4億円の豪邸を建てたというアンジャッシュのW(渡部建)。
あの人はもう「昔のバカ」を語って受ける芸人さんではなくなった。
それはあんなきれいなモデルの奥さん(佐々木希)をもらって4億円の豪邸を建てて、いいものを喰ってたら・・・。
このあたり、お笑いの世界は轟々と渦巻いている。
でもテーマは一つ。
「勉強の哲学」
そして「勉強することは、来たるべきバカを目指すこと」

勉強とは、自己破壊である。(18頁)

勉強とは何か?
それは「来たるべきバカ」「次なるバカ」を目指すことである。
勉強とは何か?
それは自己破壊である。
自分を壊すことである。

今、バカな人。
「過去のバカ」を使わず「今バカ」。
その芸風の方。
「今バカ」というのをずっと続けている。
出川(哲朗)さん。
外国の街角に放り出して「あそこに行ってこんな用事果たしてこい」といってメモを一枚持たせて一時間番組ができるという「今バカ」。
バラエティ。
エネルギー。
勉強とは自己破壊である。
自分を壊していくことである。
そして日本社会では言葉が悪いがバカこそ「個性」。
個性豊かな人。
それは「バカ」なこと。
バカな人。
それは「個性豊かな人」。

では、何のために勉強をするのか?
何のために、自己破壊としての勉強などという恐ろしげなことをするのか?
それは「自由になる」ためです。
(18頁)

 私たちは、同調圧力によって、できることの範囲を狭められていた。不自由だった。その限界を破って、人生の新しい「可能性」を開くために、深く勉強するのです。(19頁)

芸能界であろうが、政治の世界であろうが、メディアの世界であろうが、地域社会であろうが、職場であろうと、厳然とそこに同調圧力「みんなと同じことを考えているふりをしましょう」という一種「ノリ」が支配している。
例えばさんまさんの番組に出る、ビート(たけし)さんの番組に出る、所(ジョージ)さんの番組に出る。
そうするとそれぞれのお笑い芸人さんたちに同調圧力がかかる。
そしてその番組にゲストで出る人たちの鉄則は何かというと「司会の方より面白いことを言わないようにすること」。
これはもうはっきり言って「芸能界の鉄則」。
さんまさんの番組に出て、さんまさんより面白いことを言ってはいけません。
言うことはできても言ってはいけません。
それは所さんの番組、ビートさんの番組もそう。
これが「同調圧力」。
同調圧力とは番組を回す一種の流れ。
それにノる。
それがひな壇に立つ者の仕事。
ところがノらないことを一種、自分の個性とする人が出てきた。
土田(晃之)くん。
あの人は特有のノリ方をする。
「協力しない」ということを売り文句にしておいて、ひな壇に並ぶという個性。
別のノリ、同調圧力に従わない人が出てきた。
それから思うのはオリエンタルラジオの顔の長い人。
オリエンタルラジオ プロフィール|吉本興業株式会社この写真を見た限りでは中田敦彦さんの方が顔が長い感じがするがどっちだろう?)
あの人なんかも頑張ってノらないようにしている。
あれは彼が「次なるバカ」を目指して歩き始めたから、あえて自分で浮こうとしている。
彼はやっぱり「来たるべきバカ」を目指してノリの悪い人になっている。
それは何でノリが悪いかというと、次なる勉強を目指して歩き始めたから。
ここに勉強の破壊性がある。
彼はやっぱり自分を今、壊そうとしている。
あのWさんもそう。
今、壊そうとしてらっしゃる。
勉強することによって人は同調圧力から抜け出し、自由になる。
その同調圧力にノらないワケだから。
「俺は俺の自由がある!」という。

 勉強によって自由になるとは、キモい人になることである。
 言語がキモくなっているために、環境にフィットしない人になる。
(61頁)

まわりの人たちとは違う言葉の中に入っていくので浮いてしまう。
「お約束」から脱して別のノリに移っていく時、人間の顔さえも別のものに見えてくる。
武田先生の説明。
「ブルゾンちえみ」が時々「うしろの百太郎」に見える。
「菅官房長官」が「柳の木の皮」に見えたりする。

本の中でこの勉強の証を漫才に例えている。
これが「ボケ」と「ツッコミ」。
このボケとツッコミのどっちにいくかでその人の個性が浮き出てくる。

武田先生が今村前復興大臣に注目したのは、世間がこの前復興大臣のことを非難している最中。
特に世間が大きくこの大臣を叩いたのは「東北でよかった」という失言。
【速報】今村復興大臣が失言で辞任。「東日本大震災はまだ東北だったからよかった」 | netgeek
政治家の方の失言が連続していて、安倍政権を揺るがす失言が続いた。
この後にいろいろ起きるのだが、まず第一波として。
今年は多い。
今村さんだけではない。
「ガンの患者は働くな」という、かつての武田先生の教え子(『3年B組金八先生』で生徒役だった三原じゅん子議員のことを指していると思われる)も絡んだというような失言もあった。
東京新聞:「がん患者働かなくていい」 大西氏、発言撤回せず 党内外で批判:政治(TOKYO Web)
これは失言というよりも政治的な考えだが「アメリカファーストをとる」というような発言があった。
これは失言ではないにしろ世界全体からは失言と言われる言葉。
T(トランプ)大統領。
それからA(安倍)首相に関しても。
あれは何か「母ちゃんをクビにした方がいいんじゃないか」とフッと思う武田先生。
奥さんをクビにして、稲田前防衛大臣が奥さんの代わりか何かになればいいんじゃないかと思ったりした。
これも失言ととりかねないが。

人はなぜ失言するのか?
これはどうも「来たるべきバカ」問題と絡んでいて、失言は勉強中に起きる。
つまり失言している人は「勉強している人たち」。
こうやって考えると失言というのは一つの成長の「過程」。
これは漫才でいうところの「ツッコミ」。
I前復興大臣。
そういう方はみんなツッコミたかった。

 ツッコミ=アイロニーとボケ=ユーモアが、環境から自由になり、外部へと向かうための本質的な思考スキルである。(64頁)

つまりツッコミ、アイロニー、皮肉というのは勉強中である証。
だからツッコミを入れて、それが失言になってしまう。
見事な理屈。
悪いことではない。
芸能界のポジションでいうと、どの手のツッコミか?
フットボールアワーの後藤(輝基)。
これがツッコむために失言を繰り返す司会者のパターン。
それともう一つI前復興大臣もT大統領もそうだが、誰に似ているか?
芸能界で言うと坂上忍。
坂上忍という人は今、ツッコミで浮きあがっている人。
今のところまだ失言していないが。
後藤くんはちょっと最近及び腰。
家庭が大事なのだろう。
でも坂上くんは捨て身。
坂上忍くんはありありと「来たるべきバカ」を目指している。
「同調圧力に自分は押されない、潰されない」「自分はいつかさんまを抜く、タモリを抜く、たけしを抜く、ダウンタウンを抜いてやる」その野望に燃えているのが坂上くん。
きっと本人は「違う」と言うだろう。
武田先生の研究ではそういうことになる。
武田先生は坂上くんや上田くんあたりは、次のバラエティの渦を起こせる人だと思う。
力を持っている。
失言で失敗なさった方がいっぱいいらっしゃる。
何が用意できていなかったか?
ボケ。
ボケる。
ツッコんだからにはボケなければならない。

なぜ武田先生が坂上忍を「来たるべきバカ」の第一人者として押すかというと、彼は今までのキャラから降りて、来たるべきバカを目指している。
もう坂上さんが子役をやってたなんて聞きたくない。
この人は「今」が面白い。
武田先生は、現実にこの方は成功しておられると思う。
いろんな政治家の方もいらっしゃるが、ぜひ、この坂上忍あたりを見習ったらいかがかなぁと。
その政治家の方で失言なさる方もいらっしゃるが、ツッコむだけツッコんでいい。
それでツッコんで「次のボケ」を用意すべきだと。
そのボケとはいったい何か?

 ボケとは、一人だけ急に「ズレた発言」をすることですね。(70頁)

ツッコミは根拠に向かって己の足元を掘ること。
話を深めるためにはツッコまなければならない。
だから政治的失言というのはやっぱりツッコミ。
もっと深く掘り下げてみんなと一緒に考えようという、そのつかみの一言が失言という。
そこで失言でツッコんだらボケる。
たとえば「不倫は悪だ」ということで、とあるトレンディ男優(石田純一)をメディアが取り囲んだことがあった。
この時もこの方がちょっと真面目すぎる。
これもボケ方を知らないばっかりに、あまり皆さん方は「印象」というか「屁理屈」に聞こえたのだらろう。
「不倫は悪だ」というメディアコードに対してツッコんだ方がいる。
何とツッコんだか?
「いいや。不倫は文化だ」とツッコミ返した。
ところがメディアはさらに粘った。
「文化と不倫は同じではない」
これに対してこの俳優さんは「モゴモゴモゴ・・・」で消えたのだが、その時にこう言ってみせればボケたことになった。
これを武田先生がボケてみせる。
「『不倫は文化ではない』そんなふうに考えてしまうのはあなた方の頭が石だ(石田)」
これがボケ。
相手が返せない。
後に響くのはメディア側の小さい舌打ち。
手をつないであんな写真を撮られて、ネグリジェじゃないけれども寝間着でうろうろと写真を撮られて「関係は?」「一線は越えていません」という。
「何の線ですか?」とか「どの線でいけばよかったでしょう?」とかツッコんだ後はボケる。
「不倫は文化だと考えない君たちの頭は石だ!僕は純一!」とかと言えば。
その「不倫は文化だ」の方と最近お仕事をした水谷譲。
ものすごく勉強される方。
今はものすごく勉強されているというか、ものすごく真面目。
あの人のお父さんはもともとメディアの方。
だから彼が言うのはわかる。
やっぱり不倫は文化だ。
ただ、欲望で「おっぱいおっぱい」っていう人もいるかもしれないが。
やたらと不倫を暴く人がいる。
その編集長の不倫を暴くなんていうのも成立するだろう。
「あなたを傷つけてしまった私」「あの言葉を前言撤回したい」「陳謝します」この言葉を聞くと何がつまらないか?
それはその人が自ら自分の個性を否定したから。
失言したら粘ればいいじゃないですか。
もっともっと単純に傷口を広げるだけ広げましょう。
ベロッと別の世界が生まれてくるかも知れない。
その可能性を自ら否定するところに失言の失言たるゆえんがある。
ぜひ失言した方は頑張ってボケを勉強して、また絶対次の選挙で当選してください。

posted by ひと at 13:30| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月23日

2017年5月15〜26日◆ニワトリII(後編)

これの続きです。

胎児の段階のニワトリには、恐竜のような三本指のかぎ爪と長い尾も一時的に生え始めるのだが、すぐに消え失せる。(219頁)

太古の昔、恐竜であったという。
皆さん方も骨を見たりなんかすると薄々お感じでしょうけれども。
武田先生は福岡の方に帰った時にティラノサウルスの巨大な骨標本を置いた博物館に行ったことがある。
ティラノサウルスは本当に大きいニワトリみたい。

あの図体が大きくて角のある四つ脚の恐竜トリケラトプスは、尾に羽が生えていた。T・レックスでさえ、羽で覆われていたかもしれない。(221〜222頁)

ニワトリの性別は受精時に決定されるとはいえ、生まれたばかりのヒヨコの性別を見分けるのはきわめて難しい。色も大きさも形も、ほとんど同じなのだ。ヒヨコの雌雄鑑別は難解な技術で、一九二〇年代に日本の達人たちが開拓したその技は大変な技能を必要とする。(228頁)

日本人は指先の感覚が敏感なので、雄雌を見分けるという能力が最高に高い。

鑑別師はヒヨコの肛門のくぼみをそっと押し広げて、内側に雄のしるしの突起があるかどうか確かめるのだが、この説明から受ける印象よりもはるかに難しい。(228頁)

雄雌の選定はすごく大事。
残酷な言い方をするが、卵を産ませるためには雌が欲しい。
育てるのが大変だから卵を産むまで待てない。
本当に気の毒なのだが、雄はみんな捨てられてしまう。
それが縁日で売っていたカラーヒヨコ。
雄はゴミ同然に捨てられる。

 一九五一年六月のある晴れた日、ニワトリのファン一万人がアーカンソー大学フェイエットヴィル校のレイザーバック・スタジアムに詰めかけて、未来のニワトリを作りだすための全国的な取り組みがクライマックスを迎えようとしていた。−中略−米国副大統領アルベン・バークリーがカリフォルニアの農家チャールズ・ヴァレントスに「明日のニワトリ」コンテストの優勝賞金として五〇〇〇ドルの小切手を手渡した。(280頁)

 映画『チキン・リトル』が劇場で上映されていたころ、フランクリン・ルーズヴェルト大統領は食料不足に対処するために戦時食糧庁を設立した。(281頁)

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 爆弾と同じように、「明日のニワトリ」も第二次世界大戦の落とし子だった。牛肉と豚肉は戦時中は軍隊の食料に回すために配給制にされていたが、民間人には鶏肉で十分だったので、連邦政府は家禽の価格を高く設定して、農家が銃後の国民のために多くの家禽を生産することを奨励した。(280頁)

戦争中のアメリカの貴重な動物性タンパク質になったということで、ますますチキンがアメリカ人の生活の中に浸透していった。

かつては奴隷料理、西アフリカ料理と見下されたアメリカの鶏肉料理。
鶏肉の美味さが様々な料理方法で増大し、アメリカ人の食事にニワトリは欠かせない生き物になった。

 終戦時には、アメリカ国民は開戦時の三倍近くの鶏肉を食べるようになっていたが(281頁)

ひたすら養鶏業界はニワトリに改良を加え続ける。
アメリカ用のニワトリができる。
「工業用ニワトリ」。

一羽ごとの体重は二倍に増えて、餌の量は二分の一に減り、成熟するまでの期間も半分に短縮された。そして養鶏場の数は、五〇〇万以上あったものが一九七〇年までに五〇万カ所に激減した。(288頁)

(番組では養鶏場が増えたかのように言っているが、本によると「激減」)

一九五〇年、つまり「明日のニワトリ」が定着する前の時点では、ブロイラーが平均体重の三.一ポンド(約一四〇〇グラム)に達するまでに平均で七〇日かかり、体重一ポンドあたり三ポンドの飼料を必要とした。二〇一〇年には、わずか四七日間で体重五.七ポンド(約二五九〇グラム)に育ち、必要な飼料は二ポンド足らずで済んだ。この革命をもたらした要因は、育種だけではない。ニワトリは、とくに狭い場所に押し込められた状態でいると、たくさんの病気にかかりやすくなる。ニワトリの病気の徹底的な研究に基づく新しいワクチンのおかげで、その六〇年の間に死亡率が半減し、四パーセントまで下がった。(292〜293頁)

工業用ニワトリは遺伝子レベルまで扱い、徹底して合理化される。

イスラエルのある研究チームは最近、加工コストを削減するために羽のないニワトリを開発した。(293〜294頁)

著者の長い長いニワトリの旅はどうやらここらあたりが訴えたい重大なテーマようで、このあたりから筆に怒りや熱がにじみはじめる。
牛や豚の屠殺は苦痛を除くということがいろいろ工夫されている。
そして「鯨を殺すな!」と叫んで南極まで船で押しかけていって鯨漁を妨害する。
また日本の漁村へ潜り込んではイルカの殺し方にクレームをつけて、国際舞台で日本人の残虐さを訴えるということを繰り返している。
これは彼女が言っていること。
(武田先生は著者のアンドリュー・ロウラー氏を女性であると考えているようだが多分違う)
殺し方とか苦痛を与えることに関して「これほど過敏な文明を持つアメリカ人が気にしているのは、牛、豚、鯨、イルカではないか」と。
「毎朝オマエら何喰っとるんだ」と「スクランブルエッグとかって言いながらニワトリ喰ってるだろ」と怒っている。
そのニワトリの殺し方に関しては誰一人虐待を告発した者がいない。
著者はニワトリの現状を憂う。

いまやニワトリは毎年一億トンもの鶏肉を生み出していて−中略−一年に一兆個以上の卵を産んでいる。(299頁)

(番組中、上記の数字を「アメリカで食べている量」として紹介しているが、本の中では「生産している量」)
ニワトリを飼うカゴであるワイヤーケージ。
カナリアがつがいで飼われている鳥かごの大きさに工業用ニワトリは8羽押し込まれている。
だから翼を持っていても全く開くことができない。

鳥たちは首を外に突きだして、数層に積み重ねられたケージに沿って据え付けられた餌入れの中をついばみ、排泄物はワイヤーのすき間から下のコンベヤーベルトに落ちる仕組みになっている。(332頁)

ひたすら「肉を太らせる」「卵を産む」だけにニワトリという生き物の命が使われているという。

狂暴なつつき行為、鳥のヒステリー、不可解なし、さらには共食いさえ結果として起こることが多い。鳥たちは卵を産んだ直後につつかれやすいので、怪我を制限するために麻酔なしでくちばしの先端を切られる。(332頁)

それで肉をつけるために脚も立てないほど細くしてしまうという。

不気味な話が続くが、事実として目を向けていこう。
ここで出てくるが、アメリカの養鶏場を見学した日本の養鶏業者からあまりの合理的な養鶏業に関して「ちょっと行き過ぎじゃないか」という注文がついたらしい。
だからこのアンドリューさんはすごく日本の養鶏業者に尊敬を持ってらっしゃる。
(といった内容は本の中には見つからず)

武田先生が今でも覚えている場面。
宮崎県で牛が病気で倒れた時に、牛を飼ってらっしゃる方が号泣して病の牛を地面に埋めながら手を合わせて泣きながら仰った一言「立派な肉にしてやれんで、すまんねぇ」と言う。
これはすごいひとこと。
この日本人の持っている肉になっていくであろう、消費されるものになっていくであろう生き物、それに対しても同じ生き物のラインをキープしているという、思いを持っているという。

アンドリュー・ロウラーさんはルポルタージュを書くために恐れもしないでアメリカの有名養鶏業者を訪ねる。
一番気持ち悪いのは何か?
絶対に見せない。
飼っているところを見せないというのは気持ち悪い。

卵を産んでくれたニワトリの姿を見た事があるか?
武田先生たちの子供時代と違うところ。
かつて、そこらへんにニワトリがいた。
この間、石垣島に行った武田先生。
石垣島の隣に小浜島という島がある。
あそこに行ったら小学校でニワトリを飼っている。
あれは皆で食べるのだろう。
あれはやっぱりよく出来ていて容赦しない。
容赦しないというかはっきりしている。
飼ったニワトリは卵を頂く。
ある程度大きくなったら給食になる。
隅っこの方にヤギを飼ってある。
子供が皆で育てて、皆で食べる。
あそこは、そういうのが小さい共同体だから透けて見えるところに人間の野生みたいなものがある。
東京から移住した人が小浜島にもいる。
その人がヤギを飼っている。
飼うと懐いて可愛い。
そのヤギを家の前で草を食ませる。
通りかかる人が全部同じことを言う。
「急がないと固くなるよ。急がないと固くなるよ」「もうあなた、絞めなさい」
つまりやっぱり生き物の循環みたいなので、それを東京の人はそう言われるが殺せない。
だけど島の人たちはその循環を見事に回す。
それと同じことで、私たちはこれほどニワトリを喰いながら、フライドチキンを喰いながら・・・。
コンビニでチキンを扱っていないところは無い。
豚・牛肉は横に置いておいて、全てのコンビニエンスストアに茹で卵とパックの生卵と卵入りのサンドイッチと、それからレジの横にチキン。
これほど接しながら我々は一年間、一匹のニワトリも見ていない。
理由は現代の工業用ニワトリは免疫力がものすごく落ちている。
だから人との接触、それによって感染し病が広がることを養鶏の方は恐れてらっしゃる。
そこで隔離された養鶏場でニワトリを飼っている。
養鶏場を経営するためには鳥の環境をかなりアメリカ式に直さない限り・・・。
だって卵の値段は変わっていない。
著者は「そこに実はニワトリに対する矛盾があるのではないか?」と。

ニワトリの数がどんどん多くなるにつれて、逆説的だが、その姿はますます見えなくなる。(300頁)

今年もあった「鳥インフルエンザ」。
これが日本でも発生している。
これは何を恐れているかと言うと、ニワトリ系列でインフルエンザが発症した場合。

一九一八年の世界的流行──五〇〇〇万人の死者が出て、全人口の約三分の一が発病した(347頁)

「鳥インフルエンザ」も同様に、鳥から人へうつった場合にこれくらいの殺傷能力を持っているのではないか?
その鳥インフルエンザにニワトリがかかると皆殺しだから。
全部殺すわけだからニワトリも本当に気の毒。
対策としてはこの本の中に書いてあるが「平飼い」。
ケージの中にニワトリを押し込めて飼うのではなくて、昔と同じに野原に放って飼った方がインフルエンザの広がりは抑えられるのではないかというアイディアが出来ている。

 二〇一三年には、H7N9型という新しいウイルス株の感染者が中国で一三五名発生し、その三分の一以上が死亡した。犠牲者の大半は生きた家禽と接触があったので、おそらくニワトリから直接に感染したのだろう。(348頁)

最善の解決策は中国の生きた家禽の市場を閉鎖することだと主張する研究者もいる。この抜本的なアプローチは上海、南京、杭州、湖州で功を奏し、医学雑誌『ランセット』に掲載された論文によれば、その結果として四都市で感染の拡大が防がれた。(348頁)

こういうこともあって、ますますニワトリは人の住む場所から遠ざかりつつあるという。
でもニワトリに関する病というのは、アメリカか中国で起こるんじゃないかと。
やっぱり食べる量がものすごい。

中国では、国民が一年間に食べる鶏肉の量は二二ポンド(約一〇キロ)──アメリカ人の四分の一程度にすぎない(350頁)

中国は人口が13億いるので、ものすごい(数の)ニワトリを飼わないと供給できない。

福建聖農発展の従業員は一万人を数え、会長の傅光明は億万長者だ。タイソン・フーズは今後、中国国内に九〇カ所の養鶏場を建設する予定で、一カ所で一度に三〇万羽以上のニワトリを飼育する。(351頁)

こういうところからトリインフルエンザが発症すると、これはものすごく悲惨なことになるのではないかと。

二〇一四年に中国政府は、二〇一九年までにさらに一億人を田舎から都会へ移住させると発表した。そうなれば、全人口の六〇パーセントが都市に住むことになる。(351頁)

やはりこの手の病を恐れてだろう。
人間が側にいると接触から病になるという危険性があるんでということなのだろう。
(本にはこのあたりの話は病気の関連としては書かれていない)
しかし、ニワトリについてはもっと考えてあげたほうがいいんじゃないか?と著者は懸命に訴えている。
この点、一つだけ自慢しよう。
強いニワトリのタネを持っている。
それがいわゆる「地方の鶏」。
地方には地方の特色をいっぱい秘めたニワトリがいる。
例えば名古屋には名古屋の鶏鍋用に「名古屋コーチン」というのがいる。
秋田には「比内鶏」。
四国には「阿波尾鶏」。
福岡には「はかた地どり」。
これはニワトリ系列だが、地元の風土に合ったニワトリを。
それからケージで飼わずに野原で飼っている人がいる。
そうするとやっぱりニワトリが強くなる。

武田先生が誰かから聞いたことがある話。
野生のまんまでニワトリを飼っていると飛ぶようになる。
木の枝に身を置いて眠る。
そういう様々なニワトリの種類を持っているというところがニワトリとの良い付き合い方を生むのではないかとアンドリューさんが著作の中で仰っている。

一番最後はアンドリューさんの独特の物思いだろう。
「ニワトリに対する人類の扱いは不当である」と。
繁殖、取り扱い、屠殺の方法を考えても、牛、豚、イルカ、鯨よりも遥かにニワトリは、つらい目に遭っている。
ニワトリに対する感謝、配慮が足りないのではないか?
その根底にあるのは何か?
彼らを下等な生き物として見ている先入観が人間にはある。
しかし「ニワトリはもしかすると高等な生き物ではないかと思う」と彼女(多分「彼」だろうけど)は言っている。

ニワトリが人間よりも遥かに深く詳しい視点で世界を見ていることを突き止めた。−中略−鳥類は光を好んでいたので、哺乳類よりもはるかに優れた色覚を持っている。セキショクヤケイは濃い赤と青と緑の見事な羽の持ち主だが、この鳥は人間には見えない紫外線領域のまばゆい色の組み合わせを感知する。(328頁)

ニワトリの羽は綺麗。
いっぱい色がある。
釣りをやっている武田先生は疑似餌を作る。
その材料がニワトリの毛。
ニワトリの手羽のところの毛は八千円くらいする。
それを一本抜いて釣り針に巻いて虫に見せかける。
釣り針の毛にするためのニワトリの羽というのが何種類もある。
黒とかマダラとか赤とかブルーとか売っている。

さらにニワトリは、左右の目を別々の目的で使っていて、ある対象──たとえば、餌になりそうなもの──に焦点を合わせながら、もう一つの目で捕食動物が来ないか油断なく見張ることができる。(328頁)

ニワトリの脳が左右にはっきり分かれていることを確認した。(330頁)

(番組ではニワトリが左右の目を別々に使えることと脳が左右に分かれていることとを結び付けて説明しているが、本の中ではそういう説明はない)

あるドイツの言語学者が、すべてのニワトリには特定の行動に対応する鳴き声が三〇種類もあるという結論を下している。(329頁)

よくモノマネのあの女の子(福田彩乃さんのことを指していると思われる)が「コケッコッコー!」というのがいる。
あの子がニワトリの真似をしているが、ただ単にあのモノマネの女の子がやっている「コケコッコ」ではない。
あの中に深い意味がある。
「敵が近づいているぞ」「餌を見つけた」「きれいな雌がいたよ、ここに」みたいな。

著者が一番驚いているのは、ヒヨコは生まれてすぐに餌と小石を区別することが可能である。
それくらい目がいい。
よく突っついている。
あれはアホみたいにまぐれでやっているように見えるが、彼(あるいは彼女)には見えている。
「これは小石であるか」「これは餌であるのか」というのが。
見分けることが可能。
だからものすごく知覚の能力が高い。

ニワトリは……原始的な自意識を示しているらしい(331頁)

「わたし」という、そういう心理をニワトリは持っているという。

アメリカの方というのはこのニワトリをバカにすることが好き。

「鳥頭(バードブレイン)」という言葉は一九三六年に初めて登場し、「おじけづく(チキン・アウト)」とか「臆病者(チキンシット)」といった無礼な表現が最初に使われたのは第二次世界大戦中だった。(326頁)

このスラングははずれているのだと。

著者はひたすら360ページに渡ってニワトリの過去現在を追い、未来を描く。
溢れんばかりのニワトリの情報と薀蓄の一冊。
しかし、ニワトリを歴史的な意味合いで捉えると深い。
最後は環境問題まで行く。
牛と豚というのは食品にするにはあまりに穀物を消費しすぎる。
牛一頭とだてるのにどれほどのトウモロコシを喰うかと考えると全然割に合わない。
温室効果ガスは今や工場より大量に空気中に撒いているのだと。
全体の80%オゾン層破壊のメタンやフロンガスは農業と牛のゲップである。
これを解決するためには何をするかというと、著者はこう言っている。
「ハンバーグよりチキンを愛するのだ!」
そして彼女が言っているのは「より美味しい鶏肉を求めましょう」と。
ちょっと高めでも、そのためにもっともっと我々自身からニワトリに近づいていこうと。
そうすることによって人類の未来が開けてゆくのではないかということ。
彼女は現在、タイの方に行かれていて、セキショクヤケイの保護に乗り出すために今、ジャングルの中でヤケイを探してらっしゃる。
一番最後はタイで出会ったセキショクヤケイの美しさを語る文章でこの本は締めくくる。
(本の最後はベトナムで終了しているし、このあたりの文章は本の中には見つからず)

2001年宇宙の旅 (字幕版)



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2017年5月15〜26日◆ニワトリII(前編)

これの続きです。

ニワトリ 人類を変えた大いなる鳥



ニワトリという鳥がいる。
これは野生種から人間が「家禽」と言って家畜化した。
その歴史。
一番最初、ニワトリは間違いなく食用ではない。
これは「時を報せる」という「朝日に関してすごく敏感である」と。
ちょっと「神秘的な力」。
そういう個性を人間に愛されて、神話の鳥として人間の歴史の中に登場する。
ピラミッドにはニワトリのレリーフがある。
ピラミッドを作るときの作業開始ベル代わりにニワトリが使われていたらしい。
それからヨーロッパに渡っても勇猛に闘う雄鶏というのは強さのシンボルになる。
だからフランスに雄鶏マークのスポーツウェアがある。

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フランスにおいては、あれは「強い」というイメージ。
あれは「チャンピオン」とか、強いというイメージがあの国にはある。
また、ヨーロッパ全体もそういう意味でニワトリのその強さを愛した。
これがアメリカに行くとひっくり返る。
「チキン」も最大の侮辱の言葉。
アメリカではなぜ臆病者のことをチキンと言うのか?

話を巻き戻し、17〜18世紀に話を戻す。
その頃ヨーロッパ、特にイギリスでは観賞用のニワトリということでビクトリア女王が無闇にニワトリを愛したという。
ところがアイルランドで起きたジャガイモの不作で、大量の移民が喰うや喰わずで新大陸アメリカに渡って行く。
アメリカにはピューリタン(清教徒)たちがアメリカを開発していくが、アフリカから黒人の方々を奴隷として連れてきて、その巨大なプランテーションの作業をやらせるという。
そこにアイルランドの人たちと黒人の人たちが住むようになる。
アイルランドの人たちは細々とニワトリを飼い始める。
何でかと言ったら七面鳥は高くて喰えない。
それまでのヨーロッパの肉と言えばシカ肉、羊、豚、七面鳥、ハト、ウズラ、アヒル。
これがヨーロッパにおけるいわゆる「動物性タンパク質」の種類。
ニワトリは入っていない。
それがアイルランド人たちがアメリカに渡って七面鳥を食べられない。
それで彼らは一年間大事に育てたニワトリをクリスマスに食べ始めた。
それでそれを見ていた黒人たちが「これは俺たち、お金も持ってない奴隷の俺たちにはピッタリだ」ということでアイリッシュ系の人たちとそれから黒人奴隷の人たちがニワトリを食べていた。
そしで毎朝産んでくれる卵をありがたく拝借していた。
ニワトリは近くの虫や草を食べて大きくなるので便利がいい。
お金がかからない。
それでニワトリの肉というのがアメリカの南部に定着していく。
アイリッシュ系の人たち、黒人奴隷の人たち、それからユダヤ系の移民がニワトリを飼っていたので、いわゆる社会の下層の人たちなので、上の人たちがニワトリを喰う彼らをバカにするがごとくシンボルにした。

伝染性の強い「ニワトリ熱」がイギリスからニューイングランドへ飛び火した。(266頁)

愛玩用ニワトリ。

一八五四年二月に史上初の全国的な家禽展示会を主催し−中略−
二月一三日付の『ニューヨーク・タイムズ』は報じた。展示会の賞金として五〇〇ドルを提供した──現在の価値で言えば一万三五〇〇ドル相当
(267頁)

1855年、ニワトリのバブルがはじけるとニワトリは黒人、アイルランドの人、ユダヤ人たちが中心だが、食料としてアメリカ全土に浸透していく。
これはアメリカ人はこの辺を昔は工夫していた。
孵卵器を発明した。
「卵温め器」はアメリカで始まった。
(本にはアメリカ発とは書いていない)
母鳥の体温で温め続けないと孵らないのだが、この孵卵器で維持するとものすごく短期間のうちにヒヨコに孵すことができる。
(多分、孵卵器を使ってもすごく短期間で孵化はしないと思うのだが、本には母鶏が卵を温める期間が取られてしまうと新しい卵を産む時間が減るということが書かれているので、そのあたりから思い違いをしたものか)

一八八〇年にはアメリカ国内で一億羽のニワトリが五五億個の卵を産み、一億五〇〇〇ドル相当の価値を生み出していた。一〇年後、二億八〇〇〇万羽以上のニワトリが一〇〇億個の卵を産み(274頁)

近大養鶏業というのが立ち興った。
ところが、ニワトリというのは非常に見下されていたものだから、ニワトリ自身が人種差別のシンボルとなってしまった。
ニワトリの呼び名。
雄鶏「コック(cock)」。
雌鳥は「ヘン(hen)」。
アメリカでは雄、コックと言わず「ルースター(rooster)」と言う。
生意気なことを「コッキー(cocky)」と言う。
「怖気づいてる」は「チキンアウト(chicken out)」。
(番組では「チキン」と言っているが本によると「チキンアウト」)
それから「尻に敷かれている」は「ヘンペッド(hen pecked)」。
「雌鶏からケツをつつかれる」という意味で「恐妻家」ということになる。
英語の中で「コック」は汚い言葉。
言ってはいけない言葉で、特に女の子は。
日本語でわかりやすく言うと「ポコチン」という意味。
「ポコチン」の正規の汚い言い方がある。
それと同じ響き。
これはニワトリの雄鶏のことなのだが、そんなふうに使われたものだから、言葉には罪はないが汚い言葉No.1になってしまった。
ニワトリというのはものすごく変わった性生活をしている。

このヴィクトリア女王から始まったニワトリバブルの1800年代半ば、科学の対象としたのがダーウィン。
ダーウィンはニワトリにすごく興味を持った。
それからカール・リンネ。
いろんな生物を分けちゃった人。

 リンネの動物界では、ニワトリは脊索動物門に分類されている。−中略−その下の分類では鳥綱で、一万種に及ぶいわゆる鳥類がここに集められている。その下はキジ目で、七面鳥など空中よりも地面を好む、比較的重たい種が多数含まれている。その下はキジ科で、キジとヤマウズラとウズラとクジャクがすべてひとまとめにされている。どれも脚に蹴爪があり、ずんぐりとした体つきで、首が短いという特徴を共有しているからだ。(179頁)

そのニワトリなのだが、実は歴史が非常に不思議で「ヤケイ」野生のニワトリというところから進化しているのだが、そのニワトリが人間が飼うニワトリにどうやってなったかに関して実はまだ謎。

名古屋コーチン
博多の「はかた地どり」
四国の「阿波尾鶏(あわおどり)」
宮崎の「地頭鶏(じとっこ)」
それでニワトリというのはそんなふうにして「地ごとで生まれたんじゃないか?」という考え方があったのだが、ダーウィンという例の進化論のあの人が「ニワトリってもしかしたら各地各地で産まれたんじゃなくて、ニワトリっていう種類で一本筋が通っていて、それが各地の雌雄と混ぜ合わせるうちに新種ができた」という。
最初にニワトリという筋があって、各地の地鶏が生まれたんじゃないかっていう仮説を立てたのだが「原種のニワトリ」というのが見つからないので、この説はずっと疑われ続けた。
「ニワトリには原種はいないんじゃないか」「土地土地で交雑を繰り返しながら生まれた種類なんじゃないの?」というような。

「生殖器」というのは環境に適応しない。
つまり性的な特徴というのは、掛け合わせてもそう簡単に変わらない。

雄鶏にはペニスがないのだ。というよりも、正確に言えば、なくしてしまった。(203頁)

だから雄鶏雌鶏の交尾はキスと同じ。
その性の特徴をきちんと最初の原種も持っているはずだというのでニワトリのルーツを探すという大捜索が今世紀になってから始まった。

今上天皇の次男である秋篠宮は幼いころからニワトリに魅せられていた。祖母にあたる香淳皇后が第二位次世界大戦の直後、皇室の食卓の足しになればとニワトリを飼い始めていたのだ。東南アジアで野外研究をしたのち、秋篠宮らの研究チームはセキショクヤケイのミトコンドリアDNAの断片を抽出した。−中略−
 研究チームが一九九四年に出した結論は、ニワトリの家畜化が起きたのは一度きりで、場所はタイだというものだった。この研究結果に基づいて秋篠宮は博士論文を書き、八年後には別のグループの研究による裏付けも得られたのだが、それから二〇年後、この説はほころび始めた。アメリカの生態学者I・レア・ブリスビンによると、この研究で野生種として使われたセキショクヤケイはバンコクの動物園のもので、家畜化された雑種だったらしい。
(198頁)

日本の皇族のインタビューを手配するのは難しいため、直接に話を聞くことはできなかったが(199頁)

 二〇〇六年、中国科学院昆明動物研究所の劉益平率いる研究チームが、セキショクヤケイとニワトリの大いぼなサンプルのミトコンドリアDNAに九つの分岐群──すなわち、共通の祖先に由来するグループ──を発見した。この分岐群の分布から、家畜化は一度だけでなく複数回起きていることが示唆された。中国南部、東南アジア、インド亜大陸の古代人たちは、それぞれセキショクヤケイを飼育して、独自の遺伝子シグネスチャーを持つ別々の系統を作り出したというのが彼らの主張だった。(198頁)

今、この二つの説「一か所から出てきた鳥」「多方面から出てきた鳥」というので論争が続いている。

 雄鶏にはコックがない。(203頁)

タマキンが無い。
何故消えたのか?
ならば彼らはどう子作り、有精卵、卵を作り出しているのか?

ニワトリの場合──すべての鳥類、爬虫類、両生類と同様に──総排泄腔は尿路と消化管が合流した一車線の終点で、さらに生殖に関する機能も果たしている。人間の男性と同じように雄鶏には精巣が二個あるが、体の外にぶら下がっているわけではなく、内臓として腎臓の下にしまい込まれている。健康な雄鶏は一回の射精で八〇億個以上の精子を出すことが可能で、雄鶏と雌鶏がそれぞれ総排泄腔を反転させて押し付け合ったときに、雌鶏の体内に精子が送り込まれる。わずか数秒間の出来事だ。卵管に入り込んだ精子は、交尾から一カ月も生き続けて、一個だけの卵巣の中の卵子を受精させることができる。(204頁)

でも謎は「なぜニワトリはペニスを捨てたか?」。

 鳥類のうちの数種、主に水鳥は、ペニスをちゃんと持っている。たとえば、アヒルは長いらせん状のペニスを持っているのだ。(204頁)

アヒルのペニスはキュッキュッキュッシュポン!みたいな感じでねじ込む。
だからもう頭さえ入ればキリキリ回転させて入れてくるという。

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雄のアヒルは非協力的な相手に交尾を無理強いすることで有名で、その最中に相手を溺死させてしまうときもあるほどだ。(205頁)

雌の悲劇を避けようとしたのがどうもニワトリらしくて、ペニスを無くすことで短い時間でパッと強い精子を送り込むこと。
これはやっぱり一つの手段。

卵に小さな窓を開けて雄のアヒルとニワトリの胚を観察してみると、どちらも受精後九日目まではペニスが発達し始めていたが、ニワトリのほうはそこでペニスの成長が止まり、原始器官はしなびてしまった。九日目にニワトリの胚は、将来のペニスを先端からしなびさせる原因となるたんぱく質を作り始めていた。(204頁)

アポトーシス。
「自然死」。
細胞でも何でも老廃物として死んでいくようになっている。
新旧を繰り返している。
毎日生まれ変わる。
だからアナタは本当は新装開店になって全部総入れ替えしている。
それが順調にいっているから気づかないだけで「自然死する」というシステムを細胞が持っている。
その細胞がたまたま「死ぬ」ということを忘れちゃって頑張って生き続けるのが癌。
癌というのは往生際の悪い細胞のこと。
そういう滅びのスイッチを細胞はちゃんと持っている。
ニワトリは胚の段階で「もうペニスはいーらない!」と言ってオチンチンが消えて無くなって。
更に面白いのはヒヨコの段階でくちばしの中に歯も生えてくる。
「僕らは突っついて生きていくも〜ん」というので歯を消してしまう。
どうやらニワトリは殺し合うようなセックスのたかぶりよりも、雄雌の協力がなければ受精しないキッスのような性交を選んだ。
そしてさらにはくちばしで突っついて生きていこうということで歯も消してしまうという。

ニワトリにまつわるアメリカンジョーク。

一九二〇年代に米国のカルヴィン・クーリッジ大統領夫妻が別々にある養鶏場を視察したとき、夫人は一羽の雄鶏がせっせと交尾に励んでいるのに目を留めた。毎日何十回もおこなうという説明を聞くと、「大統領がいらしたら、それを伝えてあげてちょうだい」と冷ややかな口調で言った。伝言を聞いた大統領は、その雄鶏は毎回同じ雌鶏と交尾をするのかと尋ねた。違うという答えが返ってきた。雄鶏はいろいろな相手との交尾を好むのだという。「それをうちの奥方に伝えてやってくれ」と大統領は応じた。(207〜208頁)

「蛇口」のことは「コック(cock)」。
だからアメリカ人は絶対に言わない。
ゴルフの時も手首のことを「コック」というが、アメリカ人は絶対に使わない。
「ポコチン」と言っているのと同じだから。
「ちょっとポコチン(コック)ひねって水持って来て」とかって誤解しそう。

ゴキブリを意味する「cockroaches」でさえ、ただの「roaches」に変えられた。(207頁)

一時期金欲しさに「ゴキブリにはコックローチ!」といったCMに出演していた武田先生。
大声でハワイのスタッフの前で叫んでいた。



ブタ(ピッグ)とウシ(カウ)は肉になると呼び名がポークとビーフに変わるのに対して、チキンはニワトリと鶏肉の両方を意味する言葉なのだが、現在では肉を指すことのほうが多い。(302頁)

「ポコチンを消しちゃう」とか「口の中には実は歯があるのだがそれも消しちゃう」とか、
最近すごく面白い研究がおこなわれている。
その「消す」というボタンが遺伝子の中にある。
それを消してしまう。
まだ完璧にはできていないが、その「消す」ボタンを消してしまうとニワトリはどんな生き物になるか?
骨格を見たらものすごく納得するが、恐竜になる。
ティラノサウルス。
ジュラシックパークで一番凶暴だったヤツ。
あれと同じ骨組み。

ジュラシック・パーク (吹替版)



ニワトリの蹴り爪はすごい。
肉を引き裂くための爪だから、ものすごく鋭い。
そうやって考えるとニワトリはスイッチを消し忘れると恐竜になる可能性があるというところが面白い。

 アサラはT・レックスのアミノ酸配列のうちおよそ半ダースがニワトリのものと完全に一致することを突き止めた。彼とシュワイツァーは六八〇〇万年前の軟組織を分離した−中略−世界最古のタンパク質を確認し、それが現代のニワトリのタンパク質と同じだとわかったと主張したのだ。二〇〇七年に『サイエンス』誌に発表された彼らの論文によって(218頁)

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2017年09月21日

2017年7月3〜7日◆仕掛学

仕掛学



東洋経済新報社から出ている松村真宏さんの著書。
松村さんは大学の先生。

仕掛学。
著者による新しい行動心理学とでも読めるのか。
ある仕掛けを施して人をそこへ誘導する仕掛け。
これをもう一種、学問にしてしまおう。
日本初のフレームワーク、物事の考え方。

ついそうしたくなる。
そういう仕掛けというのがある。
例えば飲み屋なんかでちっちゃく「ここではしないでください」というので壁の下の方に赤い鳥居を描いておくと、鳥居のマークだけで何が禁止されているかは、だいたい日本人には通じる。
あれは一種の「仕掛け」。

著者が大阪市天王寺動物園に遊びに行ったときに「アジアの熱帯雨林」のエリアで見つけたものである。どこにも説明がないので何に使うものなのか明らかではないが、望遠鏡のような形をしているので覗くものであることはなんとなく推測できる。
 また、筒の真ん中の穴が気になってつい覗き込みたくなる。さらに地上1メートルくらいのところに設置されているので子供の顔の真正面に穴がくる。これらの条件がそろっていると覗かずに素通りするほうが難しい。少し離れたところから筒の側を通り過ぎる人を観察すると、子供たちが筒を覗き込んで筒の先に置かれている象のフン(の精巧な作り物)を見て楽しむ様子が見られる。
(11〜12頁)

ファイルボックスの背表紙に斜線を一本引くとファイルボックスが順番通りに並んでいるか一目見てわかるようになる。ラインが乱れていると気になるのでつい直したくなり、結果として整理整頓が達成される。背表紙をつなげると一枚絵になっている[仕掛け3]の漫画も同じ効果が期待できる。(17頁)


背中(背表紙)は一匹の龍が這っている。
それから工場などでも「ここにトンカチを置くところ」というのでトンカチのシルエットが描いてあるところがある。
あれは間違いなくそれを置いていく。
次に使う人がすごく便利で整理もしやすい。
コンビニのレジのところに両足をそろえたプリントが床にされていて「そこに並ぶんだな」と並ぶのも仕掛学。

ゴミ箱の上にバスケットボールのゴールを設置すると、ついおもちゃを投げてシュートしたくなる。シュートして遊んでいるだけなのに、結果的におもちゃがゴミ箱の中に片付くことになる。(19〜22頁)

大阪国際空港の男子トイレにある「的」のついた小便器である。−中略−
 この的は「つい狙いたくなる」という心理をうまく利用している。的は飛散が最小になる場所に貼られているので、的を狙うことによって知らず知らずのうちにトイレを綺麗に使うことに貢献することになる。
−中略−
 オランダのスキポール空港のトイレには「ハエ」の的がついており、飛散が80%減少したと報告されている
−中略−
 トイレの的には「的」や「ハエ」以外にもさまざまなバリエーションがある。著者がもっとも気に入っているのはキッザニア甲子園で見つけた[仕掛け9]の「炎」の絵のシールである。
(27〜30頁)

清掃班の手間は年間で数億円の節約となった。

 このゴミ箱にゴミを捨てると落下音が聞こえ始め、それが8秒ほど続いた後に衝突音が聞こえる。
 ゴミを捨てた人はもう一度音を聞きたくなってまたゴミを捨てたくなる。
−中略−
 この仕掛けを施したゴミ箱を公園に設置したところ、普通のゴミ箱より41キログラム多い72キログラムものゴミが集まったそうである。
(33〜34頁)



この「仕掛け」についてその要件を満たす条件がある。

・公平性(Fairness):誰も不利益を被らない。−中略−
・目的の二重性(Duality of purpose):仕掛ける側と仕掛けられる側の目的が異なる。
(37頁)

男性便器にしても「綺麗に使って欲しい」人と「的に当てることが快感」という、この違う快感の二重性があると仕掛けとして有効である。

 行動中心アプローチでは、窃盗犯のやる気を削いで犯罪を未然に防ぐことを考える。ゴミのポイ捨て、違法駐輪、建物の割れた窓を放置していると、無法地帯であることのサインとなって連鎖的に環境が悪化することは割れ窓理論として知られている[Wilson and kelling 1982;Keizer 2008]。そこで空きスペースに花壇を作れば住民の当該地域への関心やモラルが高いことのサインになり、窃盗犯から敬遠される。(74〜75頁)

「住民同士の結束が固い」「近所仲が良い」ということが花壇から伝わる。

こんなふうにして何かの仕掛けでいろいろな役割を果たすというのは日本には実は歴史的に多い。

うぐいすの鳴き声に似た声を出すうぐいす張りの廊下は侵入者に気づくための仕掛けである。
 竹筒が石を打って音を響かせる鹿威しは鳥や獣を追い払う。風になびいたときに音を奏でる風鈴は涼しさを感じさせる。これらの音は風流なものとして今でも親しまれている。これらも音のフィードバックを利用している。
(91〜92頁)

それからお寺の「玉砂利」。
シャリシャリという音が。
そういうのが考えてみると防犯には相当(効果があると思われる)。

三角トイレットペーパーを使うと、3分の1回転するたびにわずかな振動が手に伝わるフィードバックを実現できる。
 この三角トイレットペーパーとただのトイレットペーパーの使用量を比較したところ、三角トイレットペーパーのほうが一人当たりの使用量が約30%も少なかった。
(93〜95頁)

「匂い」をトリガにしたというので「鰻屋さん」。
これも一種「仕掛学」。
外に向かって煙を出すわけだから。

ホームベーカリーも焼き立てのパンの匂いで快適に目覚めさせている。(95頁)

 お店の前を通りがかったときに美味しそうな匂いがするのは偶然ではない。気づいてもらえるようにお店の人が人通りに向けて匂いを流している。(95頁)

それから焼肉屋さん。
それで一発で決断に変わる。
「今日はウナギ喰おう」「今日は焼肉にする」「ちょっと一杯やってくか」というのはみんな匂い、嗅覚によるトリガ。
ある意味では試食コーナー等々も味覚トリガで一種の「仕掛け」。

駐車場の入口で駐車券を受け取ると駐車券を口にくわえる人がいる。その無意識の行動に着目したチューインガム会社が、新しい味のガムのキャンペーンとして駐車券にミント味の層をつけた事例がある。
 駐車券を取って口に運ぶとガムの味に気づくという味覚を使った仕掛けであり、駐車場の近くのお店でそのガムの売上が上がったそうである。
(98頁)

(番組では「ガム自動販売機のミント味のガムの売れ行きが倍増した」と言っているが本によると異なる)

 小さい子供は何でも口に入れたくなる時期があるが、のどにつまらせると危険なものもある。そのような誤飲を防ぐためにリカちゃん人形はとても苦い味が塗布されており、子供が誤って口に入れたときに吐きだすようになっている。これも味覚を利用した仕掛けである。(100頁)

 脳波から読み取った感情に応じてカチューシャについた猫の耳が動くnecomimiも目に見えない感情を見えるようにしたものである。猫の耳が動くという体験が楽しくて、誰かとコミュニケーションしたいという心理的トリガが生まれる。(102頁)

necomimi



これはフィードフォワード。
思わずそうしてしまう流れ。
(本の中ではフィードフォワードではなくフィードバックに分類されている)
別の用語でアフォーダンスと言う。
何も「快」ばかりが人をアフォーダンスの流れに惹きこむ仕掛けではない。
「不快」「不愉快」なこともアフォーダンスの流れを作る。

踏んだときに不愉快な振動音がするランブルストリップスも車線を越えたことに気づかせる仕掛けである。(113〜114頁)

 交通に関する事例ばかりではない。食堂などでメニューの─にカロリー表示があると、ダイエットに意識のある人は高カロリーなメニューを避けるようになる。(114頁)

あれはやっぱり「オムライスやめよう」と思う。
オムライスは(カロリーが)高い。
ラーメンより高い。
メロンパンは高い。
あのカロリー表示というのも一種のアフォーダンス。
(本の中ではこれらの分類は「アフォーダンス」ではなく「ネガティブな期待」)

何かのルールを報酬、褒美を与えることでアフォーダンスに引き込むという手段もある。
(武田先生は「アフォーダンス」という用語を誤解しているようで、ここからは分類が「報酬」)

 ファン・セオリー・コンテストのもう一つの入賞作品である「ザ・スピードカメラ・ロッタリー」は、スピードカメラで車の速度を計測し、制限速度ぴったりで走っている車の中から抽選で賞金が当たる宝くじを贈るというものである。この仕掛けによって車の平均速度が22%も下がったことが報告されている。(116頁)

武田先生が「いいな」と思った交通違反、あるいは交通事故を防ぐ手立て。
酒気帯び運転。
検問に引っかかって3回続けて違反しなかった人。
酒気帯び運転で3回チェックされるというのもなかなか無いこと。
だから1年に3回酒気帯び運転の検問に呼び寄せられて、3度とも「法を守っておりました」という方は市町村にその旨、印鑑を押してもらって届け出すると宝くじがもらえる。
これはすごく効果があると思う。
2つ印鑑を持っている人は3度目の酒気帯び運転の検問が楽しみで仕方がない。
検問をやっていると自分で寄って行く。
検問が必ずしも不運とか不快の入り口ではなくて、幸運の出口になるかも知れないというような。

 著者が授業で行った実験では、チラシスタンドの上部に鏡を設置しただけで鏡を設置しなかった場合に比べてチラシスタンドのほうに目を向けた回数は5.2倍、ビラを取った枚数は2.5倍になった−中略− 
 人は鏡があると気になってついチラシスタンドに近づいてしまい、そのときに自身の行動を正当化するためにチラシを取ったのではないかと考えている。
(118頁)

小さな仕掛けが人間を思わず誘導してしまうという。
壁か何かに「見てるぞ」と漢字が書いてあって、目ん玉が一個描いてある。
目黒通り沿いで見かけた水谷譲。
歌舞伎の縁取りみたいな目ん玉とかが描かれている。
決して絵が上手くないし「こんなもん効果あるワケねえじゃねぇか」と思う。
あれは効果があるそうだ。
あそこで痴漢とか置き引きが減る。
目があるというのはやっぱり何かすごく嫌なのだと。

 青色防犯灯も犯罪の抑制に効果がるといわれている。イギリスの都市グラスゴーで景観のために街頭を青色に換えたら犯罪が減ったことが発端となり、今は日本各地の自治体や自殺の多い駅のホームにも採用されている。
 他の場所と雰囲気が違うことを警戒して犯罪や自殺が減ると考えられている。
(121頁)

映画『ローマの休日』で有名になった「真実の口」をアレンジしたものである。ライオンが大きく口を開けているので、恐る恐るつい手を入れたくなる。ライオンの口の奥には自動手指消毒器を設置しており、手を入れるとアルコール消毒液が噴射されて手が綺麗になるという仕掛けである。多くの人が手を入れてくれただけでなく、アルコール消毒液が手に噴射されたときのびっくりしたリアクションが他の人の興味をひくという連鎖反応も起こり大盛況であった。(164頁)

(番組では「どこかの消毒メーカーが作った」と言っているが、本によると著者のゼミが「シカケラボ」で展示したもの)

 C棟はコの字型になっていて、教室前の廊下から中庭が一望できる。ここを釣り堀に見立てて、地上を行き来している人を釣り上げようというアイデアを実現したのが[仕掛け34]の「人間釣り」である。浮きと人間釣りのビラの入ったカプセルをつけた麻ひもを4階から垂らすと、地上にいる人は目の前に垂れてきた浮きとカプセルを見て「釣られている」ことに気づく。見上げると4階の大きな人間釣り」の垂れ幕が目に入り、気になってC407教室に行きたくなるという仕掛けである。
 この仕掛けも大盛況で、釣りひもを垂らせば100%餌を取ってビラを見てもらえただけでなく、多くの人がわざわざC407教室まで足を運んでシカケラボの展示や人間釣りを楽しんでいた。
(166頁)

人間というのはもしかすると道具に縛られているのかもしれない。
その道具がその人にある行動をさせているのかもしれないという英語のこんなジョークがある。
(番組では「英語のジョーク」と言っているが、ジョークはこの話ではなく、本の中でこの後に登場する「一方ロシアは鉛筆を使った」という有名な笑い話)

「ハンマーを持てば、全てが釘に見える」(“if all you have is a hammer,everything looks like a nail”)[Maslow 1966]は「マズローのハンマーの法則」と呼ばれている。(160頁)

ハンマーを手にすると叩きたくなるという。
何でもコンコン・・・。
つまりアフォーダンス、ある道具がその人の行動を決めてしまうという。

道路の中央線、側線。
横の線がないと人間はまっすぐ走れなくなる。
中央分離帯とか破線というのを全部取っ払って「道」という感じで何も線を引かないと蛇行する。
破線にしてあるのは、安全なスピードに達するとあれが白い直線に見える。
そういう工夫がある。
(この本に関してはここまでで終了。最終日は途中から他の本の内容に入る)

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2017年09月14日

2017年7月7〜14日◆進化論II

他のお題の最終日の途中からスタートしているので、そこから紹介する。
今回はこれからの続き。

進化は万能である:人類・テクノロジー・宇宙の未来



マット・リドレーさん曰く「世界を動かしているのはトップたちではない」「世界を動かしているのは底力だ」「数人の天才が世界を進化させていくのではない。世界の人々の平均点が世界を変えていくのだ」。
このマット・リドレーさんの面白いところは、英雄、偉人、政治家がいかに世界を変えたみたいな顔をしているかという、そういう語り口が武田先生の好み。

 一九九七年、イギリス軍の北アメリカ総司令官ヘンリー・クリントンは「南部戦略」を採用し、ノースカロライナとサウスカロライナ制覇のために軍隊を海路送り込んだ。ところが、これらの植民地ではマラリアがはびこっていた。このあたりでは春になるとかならずマラリアが流行し、とくにヨーロッパから新たにやって来た人々のあいだに蔓延した。−中略−蚊が血を吸い、原虫がその赤血球に感染した。戦闘が始まるころには、兵士のほとんどは発熱で衰弱しており、コーンウォリスも例外ではなかった。−中略−
 もちろん、ジョージ・ワシントンの将軍としての手腕をすべて否定することはできない。しかし、アメリカのリーダーの名声は予想外の展開によって決まったわけで、蚊が少なくともリーダーに引けをとらないほどの影響力を持った。
−中略−いずれにしても、これで勝敗を決めたのはボトムアップな動きだったという考えがますますその信憑性を増す。(292〜294頁)

それからグーテンベルクの印刷技術によって教会独占の聖書が誰でも手に入る書物となり、識字率が上がり、ここからルターが始めたところの宗教改革が起こったということだが「これも違う」。
これはメガネの普及。
メガネの普及、レンズ作りが盛んになる。
それを小さな虫に向けたり星空に向ける人が現れてきて、ここから宇宙観を塗り替えた。
ガリレオの発見はメガネをかけて本を読んだ人々の平均点から生まれた大発見だったという。
(このあたりの話は本の内容とは異なる)

 カリフォルニア州にあるモーニングスター社は、「自主管理」の実験を始めて二〇年になる。−中略−この会社にはマネジャーも、上司も、CEOもいない。役職を持つ人は一人もおらず、昇進もない。−中略−ルーファーが「この会社をどんな会社にしたいか?」と問い、答えは三つの原則に集約された──(1)人は自分の人生を自分で支配できるときがいちばん幸せだ。(2)人は「思考し、エネルギーに満ち、創造的で、他人を思いやる」。(3)最高の人間組織は部外者によって管理されず、参加者が協調して運営するボランティア組織のようなものだ。懐疑的な人々の思惑をよそに、このシステムはずっと機能し続け、モーニングスター社は従業員四〇〇人、パート三〇〇〇人の企業に成長した。(298〜299頁)

私たちはあまりにも起業者とか社長とか経営者とか、そういう人たちを中心に物事を見過ぎているんじゃないか?
でも、もうその限界は今、来ている。
日本の家電メーカーで巨大な戦後の歴史を築いた企業がみんな不調に陥って、それはやっぱり強烈な指揮官がいた会社。
そういうところが上手くいかなくなっちゃってるというのは、そういうのがあるかも知れない。
トップダウンでいっている会社なんて、やっぱり最後は上手くいかないのではないか?

マット・リドレーさんは独特の考えをお持ち。
皆さん方に「どうだ。凄いだろ?」なんてことは絶対言わないが、この方がおっしゃりたいのは「独裁者であろうがそれが民主的な大統領であろうが、大義名分を振り回すという、そういうやり方で国家を引っ張っていっているように見えるけど、そんな立派なもんじゃないぜ」という。
その一節の中にこういう言葉がある。

つまり政府とは、もとを正せばマフィアの保護恐喝の仕組みなのである。暴力の独占権を主張し、市民を部外者の略奪から守る見返りに上前(税金)をはねる。これがすべての政府の起源であり、現在マフィアが行なっている保護恐喝はすべて、政府へと進化する過程にあるのだ。(314頁)

人の物を取ることはいけないこと。
悪いこと。
そんなことは誰でも知っている。
ただ、国家というのは「税金」という名前にして人の物を取っちゃうという。
それで国家の真似をする人は全員悪党になる。
「国家というのはそういう組織体ですよ」と言われると「なるほどなぁ」という。
国家はシステムとして悪を模倣する。
ギクリとする言葉。
国家がやる事をマネすると悪になっちゃう。
それは乱暴に考えるとそう。
車をパッと止めて「今、10kmオーバー。これ」っていうのは儲かる。
浜松町でやったら。
「今、曲がったでしょ。ほら、カネ置いてけ」とか。
国家のシステムをマネしてはいけない。
国家そのものが悪を模倣している。

今の総理の問題点というのは、ただ一つ言えることがある。
いろいろ漏れ伝えてくるところを当番組(『今朝の三枚おろし』)なりに噛み砕くと「友達悪りぃ」。
もうそれだけ。
何が悪いのか?
本当に言えること。
ちょっと友達によい印象の人がいない。
大阪で一生懸命幼稚園をやってらしたご夫婦がいらっしゃる。
武田先生が最初にパッと見た時の印象は「あ、吉本の人か」と思った。
あの関西弁のまろやかさとか饒舌さ、スピード。
あれは花月(なんばグランド花月)で絶対に受ける話術を持った方。
特に奥様の方。
本当にストレスなく生き生きと関西の街で生きて来られたという証。
それに長男さんもしっかりしてらっしゃるし娘さんもしっかりしてらっしゃる。
幸せな大阪のご家庭。
ただ、やっぱり言葉使いが荒い。
申し上げられることは「友達がちょっと悪いんじゃないか」。
それと学校関係者が多い。

アメリカでは、個人が所有する銃の数を心配する人が大勢いるが、公共機関が所有するものはどうだろう? 近年、アメリカの(軍ではない)政府が一六億発の弾薬を購入している。全人口を五回撃てる数だ。社会保障庁は一七万四〇〇〇発のホローポイント弾を発注した。国税庁、教育省、土地管理局、さらには海洋・大気圏公団まで、すべて銃を所有しているのだ。(316頁)

これは何のために所持しているかというとはっきりしている。
暴徒を鎮圧するため。
その弾丸と銃のお金は国民の税金が担当している。
この本の著者が言うとおり「国というのは悪を模倣する」。
逆らうヤツは皆殺し。
このへんはやっぱりファシズムとか資本主義、共産体制とか言うが、だいたい正体は同じような感じだそうだ。

マット・リドレーさん曰く「だいたいまとめようとする。そういうものは絶対にロクなもんじゃない」。
(という言葉は本の中に発見できず)
欧州連合、国際連合、COP21、TPP、大ロシア、台湾を飲みこもうとする中国。
そういうものは全部悪を模倣したシステムである。
偉大なアメリカ再生を叫ぶトランプ政権も、さらに金王朝の北朝鮮の三代目のあの国もそうだが、トップダウンで世界を変えようとする人たちが世界にはいる。
「しかし」とマット・リドレーさんは本の中で言っている。
「安心してください。失敗しますよ」
この本のテーマ。
トップダウンで世界は変わらない。
変えるのはただ一つ、ボトムアップ。
私たちが変えるのである。

エリートが間違うのは「ボトムアップで自発的に組織されるのが最善である世界を、設計することによっていつまでも支配しようとするからだ」と述べている。(335頁)

「トップダウンで事が決定する」といえば「豊洲問題」なんかもそう。
みんなトップダウン。
マット・リドレーさんの言い分だがトップダウン「偉い人が問題を解決する」んじゃないよ、ボトムアップ「底辺が決定していく」んだよ。
じゃあ、どんなふうに具体的に?という。

二〇一一年、イギリス政府はデジタル起業家のマイク・ブラッケンに、大規模なIT契約の管理方法を改革するよう依頼した。フランシス・モード大臣の支援を受けてブラッケンが考案したシステムは、彼が「滝」プロジェクトと呼ぶもの、すなわち前もってニーズを特定しても結局予算オーバーで時間も無くなってしまうやり方を、もっとずっとダーウィン説に近い方式に置き換えたものだ。(334頁)

例えば「豊洲問題」。
我々は何が欲しいのか?
これも当たり前。
安心、安全、便利、安く、楽しく。
そういうものが欲しい。
だから「築地」というおんなじ名称で五つばかり小さく作ってしまえ。
だから豊洲も「豊洲」って言わない。
「築地」と言っちゃう。
大間から持って来たり、大分の関から持ってきたりして、それを築地というところが売買している中継地点。
一番発展したところを「築地」にすればいい。
トップダウンがこの混乱を招いている。
元々は石原さん(石原慎太郎元都知事)の時のトップダウンでこうなってきた。
「トップダウンで決着しよう」とか「トップダウンで良い解決策を」というのが、もうそもそも間違い。
私たちが求めているのは便利で活気があって面白くて安心な市場なんだ。
安心、安全なだけじゃない。
便利で活気があって面白くないと市場じゃない。
だからボトムアップで決定していくというのは壮大な計画ではなくて、小さなステップを積み重ねる、その進化によって創造していく。
そういう街づくりがあっていいんじゃないか。
建築家の人がいて、線を引けば道路になると思ったら大間違い。
やっぱりそこを通行する人たちの楽しさとか面白さとか、そういうものが加味されて通りはできていく。

マット・リドレーさんは宗教の方にも話を広げておられる。
世界へ広がっていく宗教。
そういうものが世界を今、分けているわけだが、その世界に広がっていく宗教にはトップダウンがあったのではないか?
そういうものが今、宗教が世界を混乱させている原因になっているので「もう一度ボトムアップまで宗教、引き返したほうがいいんじゃねぇの?」と仰っている。
この宗教のボトムアップのパワーの付け方というのは日本という国では分かりやすい。
これくらい何でも拝む国はない。
お寺を観光で行きたがるのが日本人ぐらい。
日本人はイスラム圏に行こうがインドに行こうが西洋に行こうが教会を見たがる。
日本人にとって宗教は観光。
お伊勢参りにしろ、日本人にとって宗教は観光の要素が入っていないと宗教じゃない。
ちょっと不謹慎かも知れないが、逆の意味で「のびやかだな」と思う武田先生。

 一世紀のなかばには、テュアナのアポロニオスのカルトが、帝国の覇者の有力候補であるように見えた。イエス同様、、アポロニオス(イエスより若かったが、同時代の人物)も死者を甦らせ、奇跡を起こし、悪霊を追い払い、慈悲を説き、死んでから(少なくとも霊的なかたちで)復活した。だが、イエスとは違ってアポロニオスは近東全域で名を知られたピュタゴラス学派の知識人だった。−中略−どこから見ても、パレスティナの大工(訳注 イエスのこと)よりは洗練されていた。−中略−彼の消息が途絶えてからはるかのち、彼のカルトはユダヤ教やゾロアスター教、キリスト教と競いあったが、やがて下火になって消えてしまった。
 それはタルススのサウロ(聖パウロ)のせいだ。アポロニオスには、こつこつ働くピロストラトスという名のギリシャ人年代記作者がいたのに対して、イエスは、そうとう風変りではあるものの恐ろしく説得力のあるパリサイ人のパウロに恵まれた。
(338〜339頁)

宗教をチェーン店展開するというのは弟子でよい参謀がいないと世界宗教たりえないという。
これもまた新しい学問「神経神学」が紹介されている。
世界には「スカイフック的思考」がある。
スカイフックというのは「空中から不思議なフックがぶら下がっていて、それがあなたを助けている」という。
そういうのに思わず人間は引っかかってしまう。
偶然の一致にも「それを引き起こした何かがある」とそう信じ切ってしまう。

心理学者のB・F・スキナーはカゴの中にハトを入れ、機械で一定間隔で餌を与えた。すると何であれ、餌が出てくる直前にしていたことが、餌が現れた原因だと思い込んだように見えるハトがいるのにスキナーは気づいた。ハトははその思い込みのせいで、その動作を習慣的に繰り返した。反時計回りに歩き回るハトもいれば、カゴの隅に頭を突き出すハトや首を振るハトもいた。スキナーは、この事件は「一種の迷信を実証していると言えるかもしれない」と感じ、人間の行動にも類似するものが多くあると考えた。(351〜352頁)

「きれいな石には不思議な力がある」という「勾玉信仰」から指に宝石類をしたがるという。
その石の力に頼るというような。
それから近所のお寺さんにお参りに行くとか初詣に神社に行くとかっていう性癖があって。

面白い女の人と再会した武田先生。
小松美羽さん。
十数年前に絵が描きたくなって、その小松美羽ちゃんがモデル事務所の受付嬢だった。
スタッフの知り合いで女子美出身だから「この子に教えてもらうといいから」とかといって。
時々絵を描いて小松美羽さんに見てもらって、いろいろ助言、アドバイスをもらう。
でもあんまり絵をいっぱい描くと奥様が嫌がるようになった。
「どこにしまっていいか分からないし、飾りもしない絵は描くな」と言われてちょっと萎えてしまった。
この小松美羽さんはぐんぐん名前が売れた。
今はちょっと現代アーティストで大ブレイク。
イギリスの方から買い手が来たりなんかする。
小松美羽さんは龍の絵を描く。
これがすごい。

小松美羽 −20代の軌跡− 2004-2014



この小松美羽さんは「神社には何か住んでいるし、あらゆる空間にモノノケがいる」という。
そのことをひたすら信じている。

G・K・チェスタトンの言うように、人々は何かを信じるのをやめたときには、何も信じなくなるのではなく、何でも信じてしまう。(353頁)

何か信じていたほうが「何でも信じてしまう危険」から遠ざかることができる。

5月もそうだったし6月もそうだった。
国際的な問題はもうみんな決まっている。
疲れちゃう。
「大統領がどうした」とか「◯◯書記長がまたロケット打った」とか、何か同じことばかり言っているみたいで。
マット・リドレーさんはいろんなことでトップの人を激しく嫌ってらっしゃる。
マルクスとかフロイトとかアインシュタインとか、様々な強力な理論の持ち主が今まで世界を説明してきた。
しかし21世紀までに生き残った理論はアインシュタインのものだけである。
フロイトさんもどんどん新説で人間の心理を。
それからマルクスさんは、ちょっといたるところでマルクス主義というのから国家が離れつつある。
世界を席巻したあのマルクスやフロイトの理論はなぜ生き残れなかったのだろうか?
それは反証不能だからである。
そのことに反撃するというのができない。
「高尾山にはコブラは住んでいない」ということを証明するためにはどうしたらいいか?
証明できない。
不可能。
そういうことが平気でまかり通るようになった。
反証不能なそのことを問題視する人がいっぱいいる。

著者は一番最後にこんなことを言い始める。
「地球温暖化=二酸化炭素」は本当だろうか?
温室効果ガス説、地球温暖化。
これをかなり疑ってらっしゃる。
CO2は影響の一つであって、原因の一つではない」という。
温度が高くなるということはCO2が上がっていることで「CO2が上がったんで温度だ」っていうのは問い方が逆なんじゃないか?っていうことを仰っている。
この本の最後に何でこんなことを言い出したのかなぁと思う。
気象変動に関する政府間パネルによる報告書。

「これはあまりにトップダウンの物の見方なので心配だ」と私に語る科学者の数は増える一方だ。(357頁)

これは反証不可能。
異常気象について反証ができない。
この「温度が何で上がっているか」の原因は太陽の黒点活動の影響っていうのもあるらしいし、そういう反証できないことを問題視するという。


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2017年5月1〜12日◆進化論I(後編)

これの続きです。

イギリスのサイエンス・ジャーナリストのマット・リドレー氏による『進化は万能である』。
動物の進化論というものは、これは人間の文明にも当てはまるんだという大作。

著者の言っていることだが「イギリスは慣習法、判例法をとる」と。

 判事たちは、現場の事実に合うように、事例ごとに法の原理を調整し、少しずつコモンローを変えていく。新たな難問が生じたときには、判事ごとに対処法にかんして異なる結論に至るので、その結果は一種のしとやかな競争の体を成し、一連の公判を通して、どの判断が望ましいかが徐々に決まっていく。この意味では、コモンローは自然淘汰によって構築されると言える。(57頁)

絶えず新しく呼吸するというようなこと。
移ろいやすく、ダイナミックで混乱しており、建設的で興味をそそり、ボトムアップ、底からゆっくりとできていくのが憲法であるという。
そういうこと。

「世界でも最も成功し、最も実用的で、最も大切にされている法体系には、制定者がいない。それを立案した人もいなければ、考案した崇高な法の天才もいない。言語が現れ出てきたのとちょうど同じように、反復的、進化的なかたちで現れ出てきたのだ」。(57頁)

「法は国家から生じるのではなく、人々の暮らしの中から淘汰の形で現れてくる」という。
かくの如くして法は国家から生じるのではなく、人々の暮らしの淘汰の過程で浮かび上がってくるという。
これがイギリスがそう。
イギリスは「慣習法」「判例法」。

イギリスのマナーで「かっこいいなぁ」と思ったのは、中学の頃に国語の教科書で読んだと思われるもの。
エリザベス女王が馬車で通っていたらエリザベス女王が大嫌いなイギリスのオッサンがいて、女王陛下に向かって罵声を浴びせた。
そう言う人もイギリスにいる。
そうしたら横にいた別のジェントルマンが「やめていただけませんか?」。
「なぜだ?彼女は決してイギリスを代表するクイーンではない」と言うとそのジェントルマンが言った答えが「アンフェア」。
一人の人が野次を飛ばして女王を罵倒している。
声をあげていい。
それは表現の自由だから。
だけどやめなさい。
「アンフェア」だ。
なぜかというと、女王は今、あなたに反論できない。
非難してもいいけど、それは女王陛下があなたの反論に応えるべき立場の時にやるべきであって、ここでやるべきではない。
これをやっぱり「さすがに習慣の中から法律を作っていく民族である」と日本の学者さんが感心した。
バカな中学生だったが「へぇ〜」と思った武田先生。
「世の中には父ちゃんや母ちゃんと違う人がいるもんだ」と思った。

「サルから人間になった」というふうに学んできた『進化論』に関しては、今「そうじゃないんだ」という説もある。

 米最高裁が学校で進化を教えることを禁じる法律をすべて廃止したのは、ようやく一九六八年になってからだった。(76頁)

神が人間を作ったのであって、サルから人間になったのではない。
1968年になって「進化論を学校で教えることは禁止する」という法律に関しては取り下げた。
各州の州法に任されている。
アメリカの一般的な考えは何かというと「インテリジェント・デザイン」と言って「世界のすべては知的な不思議な力がデザインしたんだ」という。
でないとできるワケがない。
指が五本あって、手足が二本ずつあるとか、目玉が二つあるとか鼻の穴が二つとかというのは「設計図で書こう」と思わないと偶然にできるワケがないという。
だから「神の存在があった」という。
ダーウィンの『進化論』。
『進化論』というのはアメリカ社会全体ではかなりのパーセンテージで信用されていないという。
例えば鳥を見てみよう。
空を飛ぶための筋肉、そして鳥に応じて最適な羽、その長さと色。
これらが自然淘汰でできるワケがない。
「これは明らかに誰かのデザインだ」と彼らは主張するわけだが、この本の著者は断固「違う」。
著者は言う。
鳥を創ったのは神ではない。
鳥を創ったのは風であり大気である。
そして地上での出来事が鳥を創ったのだ。
空飛ぶ鳥は地上に舞い降りて来てエサをついばむ。
そのついばむための形、エサをついばむための姿が彼らの形を創ったのだ。
空飛ぶ力を鳥に与えたのは大地なんだ。
大地で生まれて彼らはそこを蹴って空に舞い上がって、ついばむために地上に降りてくる。
つまり「鳥が飛んでいるのは天井からの幻のフックで釣っているわけじゃないんだ」。

文化の進行から見てみよう。
武田先生が大好きな考え方。
アフリカの草原で立ちあがったサルがいた。
これはアフリカの東側の草原にいた。
これは間違いない。
密林に住むケモノのエサになるのが恐ろしくてサルは密林を出た。
それで食物の無い草原に立って木の実が成ったりするとそれを摘んで、摘み終って喰い物がなくなると別の実が成っている木を移動しながら探して歩くという。
移動するうちにささやかな道具を手に入れた。
例えば矢じりとか。
その草原で仲間とすれ違う。
そうすると自分は矢じりを持っていた。
向こう側の別グループは棒切れを持っていた。
棒を持っているのと矢じりを持っているので道具を交換していくうちに誰かが組み合わせた。
棒の先に矢じりを付けた。
槍になった。
こんなふうにして「交換」。
これが動物の中で「本能」となった。
まず交換があって交換が本能となった。
ある時、いっぱい槍でケモノが突けた。
急いで喰わないと腐らせてしまう。
別のグループがやってきた。
木の実を持っている。
やつらはケモノの肉に飢えていたので交換した。
前の、棒と矢じりを交換したのと同じ要領で。
この時に「交換」と「分業」が生まれた。
この交換と分業はサルからものすごいスピードで人間になったという。
これはわかりやすい。
そしてそのアフリカを出て紅海の海峡を渡り、モーゼに頼らず、彼らはユーラシア大陸へと旅立ったという。
これは世界史の謎を解いてくれるために忘れてはならないことだけれども、文化の累積がサルに固有の能力を与えてヒトへと進化させたのだ。
ヒトは複雑な認知の力を持つので文化を発明したと考えてしまいがちだが違う。
文化の累積がヒトの遺伝子を変えたのだ。
このものすごく分かりやすい例が「牛乳」。

西ヨーロッパや東アフリカの人々が持つ、牛乳にふくまれる乳糖(ラクトース)の消化能力がある。成体になっても乳糖を消化できる哺乳類は少なく、それは一般的には幼体の時期を過ぎて牛乳を飲むことはないからだ。しかし、世界の二つの地域では、ラクターゼ(訳注 乳糖を分解する酵素)遺伝子のスイッチを切らずにおくことで、ヒトは大人になってからも乳糖を消化する能力を進化させた。これが起きたのは、ウシを家畜化して牛乳の生産がはじめて行なわれたその二地域だった。なんという幸運だろう! 乳糖を消化できたので、人々は畜産を始められたのだろうか? いや、そうではない。遺伝子のスイッチを切らずにおけたのは、単に畜産の発明の結果であって原因ではない。(86頁)

人間を進化させてきたものは何か?
それは有能なリーダーなのか?
違う違う。
世界全体を進めてきたのは、それはボトムアップの力。
庶民の力。
そういうものが人間社会というか人間文明というのを進めているんだ。
こう言っている。
人間の社会を進めてきたもの。
それは「分業」と「交換」である。
人間を人間たらしめたのは「分業」。
仕事を分けることと物を交換すること。
分業と交換。
今はまとめて「経済」と呼ばれている。
その経済というものの進化の足取りを見てみようということになる。

OECD(経済協力開発機構)によると、今の世界経済の成長率でいくと──そして減速の徴候は見られていない──平均的な人が二一〇〇年に稼ぐ額は現在の一六倍になるだろう。(134頁)

今、問題になっている「格差」。
「ますます富裕層と貧困層の差は開いて、社会全体が二極に分断されている」という。
今、日本は一応「格差社会無くそう」という方向でいる。
ニュースで取り上げるいろんな格差の話。
給食費が払えない子とか食事がとれない子とか。
「豊かさ」とはいったい何だろう?
「塾に通えない子」というのはいる。
塾はカネを取るから。
「今でしょ!」の先生は大変。
彼の塾なんていうのは(とても高額)。
富裕層と貧困層。
トランプさんに比べるとはっきり言って武田先生は貧困層。
トランプさんは富裕層。
ところが、トランプさんを見ていて、トランプさんの暮らしの中で欲しいものが一つもない。
トランプ氏の暮らしぶりを見ていて憧れたことは一度もない。
トランプタワーのあの部屋は嫌いだと思う武田先生。
テーブルの角が膝を打つと痛そうにとがっている。
それに一番の問題はトイレがすごく遠そう。
トイレに行くためには2〜3段の階段を上り下りしなければならない。
それは深夜、トイレに数度立つ時にものすごく厄介なもので。
今、十歩以内でトイレに行けるというのが武田先生には快適。
あの部屋は嫌。
タワーのてっぺんというのもものすごく不安。
地震で揺れた時、ガラスが割れた場合、落下する危険性があのビルにはある。
心配なのはバロンくん。
バロン君の部屋は広い。
でも叫んでも隣の部屋まで声が聞こえないほどの広い子供部屋を持った子は不幸。
バロンくんは努力しなくても全てが手に入る。
つまり努力をしない少年になってしまう。
トランプさんの奥さんもちょっと武田先生にはきつい。
好みの問題だが、あのトランプさんの奥さんを見る度にちょっと疲れが出てくる武田先生。
もう見るだけで疲れる。
アメリカ人の(住居の)作り方は水回りで作っちゃう。
洗濯、バスルーム、トイレ、それにサイドボードを置いて一杯飲むところは水回りだからまとめてある。
遠いに決まっている。
文化放送(の建物の中)で言えば一番近いところで、ここからエレベーターぐらいまである。
夜中に三回から四回(トイレに立つ)。
それはきつい。
一時間ちょっと眠って。
(頻尿に効果があるとされる)「ノコギリヤシ」を飲んでも本当に・・・。
だから武田先生にとってトランプさんは憧れではないということ。
このあたりから考えると「豊かさとは何か?」。

ニューヨークも大嫌いな武田先生。
眠れない。
「ニューヨーク大好き」という人はいっぱいいるが、武田先生はダメだった。
眠らない街。
眠ろうよ、夜は。
時差ボケの上に眠れない夜だからきつい。
それに高層ビルが多い。
騒音は響きながら上に昇ってくる。
だからニューヨークは上に行けば行くほど変な地鳴りがしている。
すごくくたびれるから嫌。

豊かさとはいったい何か?
人間の暮らしの豊かさ。
マット・リドレーさんが言っている。

「ガス暖房、自動車、天然痘予防接種、屋内トイレ、安価な旅行、女性の権利、子どもの死亡率低下、適切な栄養、身長の伸び、平均余命の倍化、子どもの学校教育、新聞、選挙権、大学受験の機会を享受し、敬意を払われるようになった人が、何千万人も増えている」。(134頁)

今挙げた条件が満たされた人は世界史の中では富裕層に属する。
(とは本には書いていないが)
暖房、自動車、天然痘予防接種、屋内トイレ、旅行、新聞、選挙権、大学受験の平等。
それがきちんとできている社会は豊か。

世界規模の格差は現在どんどん縮まってきている。世界人口のうちインフレ調整後一日1.25ドルで生活する人の割合は、一九六〇年の六五パーセントから現在は二一パーセントに下がっている。(134頁)

世界は明らかに明るい方向に歩いている。
2008年にアメリカからリーマンショックという不況が立ち起こった。
これはすぐに日本にも伝承して1920年代の大不況と比べられたが、非常に短期間のうちに世界経済は立ち直った。
世界経済はリーマンショック直後は1%の縮小が見られた。
それが何と、翌年には5%成長している。
19世紀初めから欧州数カ国から始まった富裕化は今、世界に広がっている。
この大富裕化の原因はまだわかっていない。

テレビでこの間久しぶりでマレーシアを見た。
飛行場で事件があったので。

プロゴルファー 織部金次郎5 ~愛しのロストボール~ [DVD]




『プロゴルファー織部金次郎』でマレーシアに撮影に行ったことがある武田先生。
20年前、40代に行った頃のマレーシアよりも遥かに豊かになっている。
そうやって考えると間違いなく世界は明るい方角へと。
そのことをマッド・リドレーさんは何度も何度も繰り返し言っている。

18世紀の人だが、イギリスのアダム・スミスが『国富論』の中で国が豊かになるという中で「市場が開放的で自由であること。それが経済にってとても重大である」と。
経済を勢いよく回すには「分業」、分業による「交換」。
その交換は信頼を生んでいく。
これが世界から搾取と略奪をそぎ落とす唯一の手段。
歴史から学びましょう。

経済史を一瞥すると、商人によって商人のために動かされている国は完璧ではないが、独裁者によって動かされている国よりも繁栄し、平和で、文化的であることは明らかだ。フェニキアとエジプト、アテネとスパルタ、宋と元、イタリアの都市国家とカルロス一世のスペイン、オランダ共和国とルイ一四世のフランス、商人の国(イギリス)とナポレオン、現代のカリフォルニアと現代のイラン、香港と北朝鮮、一八八〇年代のドイツと一九三〇年代のドイツを比べてほしい。(139頁)

商業に関して、商売、経済に関して「分業」と「交換」。
その自由を認めない国というのは貧しくなる。
そしてマット・リドレーは言う。
経済は人間の行為だが、人間の設計ではない。
経済を設計しようとする政治家は失敗する。
ファラオもナポレオンもヒトラーも経済を動かすことはできない。
なぜなら一人で動くものは経済ではないから。
経済は分業の中で出現するもので、交換によって勢いを増す。
そのスピードがあることが豊かさで、スピードは創発的現象。
交換の勢いを挙げるためには独裁者が人種や国によって交換相手を選んでは創発は現れない。
選んじゃいけない。
やっぱり「オープンマインド」。
開けておく。

スミスの表現を借りれば、「ものを交換しあう性質」は、人間には自然に身についているが、他の動物には見られない。「二匹の犬がじっくりと考えたうえ、骨を公平に交換しあうのを見た人はいない」(140頁)

ある意味で経済学者の方々は不吉な未来を探し続ける。

一八三〇年代からイギリスで生活水準が急上昇しはじめたあとでさえ、ミルはそれを一時的な成功と見ていた。すぐに収穫逓減が起こるだろう。一九三〇年代から四〇年代にかけて、ジョン・メイナード・ケインズとアルヴィン・ハンセンは、世界大恐慌は人間の繁栄が限界に達したことの証だと考えた。(144頁)

これは全部外れた。
有名な経済学者だが。

日本が戦争に負けた。
第二次世界大戦、大東亜戦争、太平洋戦争の直後。
その時に予想されたことは何かというと「日本での餓死者は100万人出るだろう」という。
ところが驚くべきことが日本で起こる。
それは何かというと人々は食料の奪い合いをせずに「闇市」というところで着物とお米を交換する等々で飢えを凌いだ。
この時に日本人はものすごく激しく物を交換した。
それで餓死者というのが非常に少なかった。
日本中全部焼かれたのでもうボロボロ。
武田先生が不思議で仕方がないこと。
昭和20年8月に皇居の前に行って、みんな戦争に負けてモンペ姿で泣いている。
その年の冬、新年、晴れ着を着て皇居に行って日本人は万歳している。
たった半年で「何もかも変わる」と、この国の人は面白い。
この小さな国、日本は敗戦からわずか15年で世界で二番目に稼ぐ国になっている。
ほとんど奇跡。

人口論 (中公文庫)



マルサスという人が『人口論』から「収穫というものがだんだん減っていってやがて食料が奪い合いになり、飢餓が世界を襲うことになると」そう予言した。
これはダーウィンの時代。
ところが今、人口は70億になっても飢餓の国というのは減りつつある。
ここでも予想は外れている。
「ボトムアップが社会全体を変えるんだ」というこの本の著者の考え方が何となく個人的な趣味に合う武田先生。
「未来は明るい」「2100年に向かって人類はもっと景気よくなるぞ」と言っているのは武田先生だけ。
確かに「学校に行けない」とか「昼食、夕食が摂れない」とか、そういう子たちの存在があるのだろうが、昨今の騒ぎ方に関して首をひねる。
「貧乏」は「動機」。
「結果」ではない。
「子供時代に貧乏でした」というのは動機。
そこから「ウサギ跳び」が始まる。
星飛雄馬はあそこからウサギ跳びで『巨人の星』を目指す。

TVシリーズ放送開始50周年記念企画
想い出のアニメライブラリー 第75集
巨人の星 劇場版 Blu-ray



それは物語の舞台であって「結論」ではない。

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2017年5月1〜12日◆進化論I(前編)

進化は万能である:人類・テクノロジー・宇宙の未来



中身は「今までの考え方を少し変えてみませんか」。
著者のマット・リドレーさん。
イギリスの方。
ヨーロッパ文明というものを土台にしながら、そのヨーロッパ文明のいくつもの矛盾を見抜くという、サイエンス・ジャーナリスト。
外国の人は書き方がしつこい。
向こうの人の「粘り気」は本当にすごい。
イギリスの方なので皮肉屋さんで、読み手としてはすごく読みにくい。
こっちは英語圏の人間じゃないから。
ただし、その分だけ面白い。
翻訳の方は訳すのが大変だっただろう。
皮肉というのはスラングも入ってくるので「冗談じゃないよ。ビートたけしみたいなことを言っちゃって」というのが日本語で書いてあって、それを英訳されて向こうで英語で本を出された場合「元浅草の芸人」とかでは済まない。
「ビートたけし的態度をとった」というようなことが書いてあったらニュアンスが伝わらない。
それをこの人たち(訳者の大田直子、鍛原多惠子、柴田裕之、吉田三知世)は一生懸命調べてやっている。
大変だったろうと思う。

とにかくこのマット・リドレーさんの主張はこの一言。
「世の中どんどん良くなってるし、これからどんどん良くなる」
この方の明るさはサルの時代から現代まで貫く。

 二〇世紀の物語には語り方がふた通りある。一連の戦争や革命、危機、伝染病、財政破綻について述べることもできる。あるいは、地球上のほぼすべての人の生活の質が、ゆっくり、しかし確実に向上した事実を示すこともできる。(417頁)

新聞を読むと私たちはこれからもう災難から災難へ、よろめきつつ進んできて避けようもない更なる災難が明日また待っているという。
それが新聞の論調。
それから学校。
歴史の教科書を見ましょう。
お嬢さんがくれた「年表」を持っている武田先生。
「災難」しか書いていない。
「戦国時代、幸せな一家がおりました」なんて一行も出てこない。
「戦国時代に幸せな一家があるはずがない。だから信長は立ち上がった。秀吉は立ち上がった。家康は世の中をまとめた」というふうに歴史教科書には書いてある。
家康も知らずに平和に生きた家族もいたということが関ヶ原のあの晩にもあったはず。
このあたりから「世界の見方を変えませんか」というお誘い。

ラジオメディアの中でニュースを伝える時に、順番を打つと「不幸なニュース」から。
(この放送がされていた当時)もう五月になってしまったが「桜が咲きました」なんていうのも一番最後。
殺人事件があった場合は不幸の方から順位が高い。
そこをこの「エボルーション」『進化は万能である』のマット・リドレーは語っている。
今朝も朝からニュースは「大国のエゴと脅威、隣国の混乱、政治家の傲慢発言、あきれ返った病院関係者、何と情けない学校関係者。訳の分からものが都政に介入しているという恐怖感、あるいは都政にタッチする能力もないくせに昔威張っていた『太陽の子』」みたいな。
これは今、武田先生が勝手に言っているだけ。
何一つ該当するニュースはないのだが、だいたいこんなふうに語っておけばどれかが当たる。
今朝もきっとこの手の中で世界は進んでいると思う。
だからこれはもう年末のしめくくりも出来る。
同じことを言えばいい。
「大国のエゴ、隣国の混乱、政治家の傲慢発言、あきれ返った病院関係者、学校、警察関係者。政治が混乱した」というようなことを言っておけば、大体これは年末でも使える。
上手くいかなかったことを挙げなさい。
それで大体あなたは今年の予言が全部できる。
この悪いニュースを聞きながら「チェッ!何だよこの世の中は。なってないよ。何とかしろよ」とかっていう。
でも皆さん、よく考えて。
皆さん方は間違いなく十年前より幸せです。
皆さんは今、二十年前より幸せです。
今日もラジオから流れる悪いニュース、更にコメンテーターの方や専門家の方が怒って「また悪い方に向かって日本の舵が切られてしまった」そう彼らは嘆いている。
よく考えてみましょう。
悪いニュースには全て特徴がある。

悪いニュースは、歴史に押しつけられた、人為的で、トップダウンで、意図的な物事にまつわるものだ。−中略−第一のリスト──第一次世界大戦、ロシア革命、ヴェルサイユ条約、世界大恐慌、ナチス政権、第二次世界大戦、中国革命、二〇〇八年の金融危機。これらは一つ残らず、意図的な計画を実施しようとする比較的少数の人(政治家、中央銀行総裁、革命家など)による、トップダウンの意思決定の結果だ。(418頁)

では良いニュースはないのか?
良いニュースが山ほどある。
ただし、悲しい事に「良いニュース」「幸せなニュース」を伝える能力がメディアに無い。
なぜなら良い事はゆっくりにしか起きないから。
悪いニュースはなぜ伝えやすいか?
それは突発的で言葉にまとめやすいから。
「◯◯地方で◯人の方がお亡くなりになった」「◯人の方が事故にあった」これはものすごく伝えやすい。
良いニュースを伝える能力がメディアにない。

第二のリスト──世界の所得の増加、感染症の消滅、七〇億人への食料供給、河川と大気の浄化、富裕な国々の大半における再植林、インターネット、携帯電話を使ったバンキング、遺伝子指紋法を利用した、犯罪者に対する有罪判決と無実の人に対する無罪判決。これらは一つ残らず、偶然で予想外の現象で、こうした大きな変化を引き起こす意図のない無数の人々によってもたらされた。(418頁)

探せばあるのだが、伝える言葉がない。

人々の暮らしは良くなる一方なのだ。(417頁)

反論したかったら「十年前を思え」。
特にガン等々に関してはすごい。
ガンという、かつては死の宣告と同じ響きだったが、ステージ1、2ぐらいだったら・・・。
もうそういう時代になっているわけだから、ゆっくりだが前進していることは間違いない。
リドレーさんは「私たちの暮らしは良くなってる。これは事実なんだ。そのことをまず認めましょう。そこから新しい考え方を作っていきましょうよ」。
もう一つ重大な指摘をこのリドレーさんがしている。

興味深いことはすべて漸進的に起こり、過去五〇年間、人間の生活水準の統計値のおける主要な変化のうち、政府の措置の結果はほとんどないと、選挙学者のサー・デイヴィッド・バトラーは言っている。(418頁)

わかりやすく言うと、過去50年の歴史を振り返って「我々国民の暮らしが良くなった」というデータがあるとすれば、それは政府が頑張った結果ではない。
朝からテレビ、ラジオから流れてくる政治的なニュース、トップニュース、政治、政策、公約、あるいは政治家たちの目標、宣言。
ドンドン流れてくる。
これは今朝も流れている。
リドレーさん曰く「失敗します」。
リドレーさんはその理由を簡単に挙げる。
誰か一人が意図として世の中をデザインして計画、実行したもの。
それは失敗する。
この世界に秩序をもたらすのはトップダウンではない。
優秀な指導者がいて、その人が「世界全体をこのようにしよう」と設計図を書いて提出した。
それは失敗する。
世界は実はそこでは動いていない。
社会全体を進化の力に乗せて運んでいるのは先頭の指揮者ではない。
最後尾から重たき社会を押しているボトムアップ。
その力こそが進化の原動力なんだ。
草原の群れの中でリーダーがいて、その草原の群れのサル。
それがひょっこり立ち上がって二足歩行した。
「お!あいつ立って歩いてるぜ」というので他のサルもみんな真似た。
そんな進化論はない。
100匹のサルがいる。
全員が立ち上がろうとした。
ヨタヨタしながら100匹がお互いに支え合って、今まで四つんばいだった101匹目のサルが「みんな立つんだったら、俺も立つよ」と言って、その101匹目のサルが入った瞬間に草原のサルは人間となった。
これはダーウィンが『進化論』で説明した通り。
これが『進化論』。

武田先生が面白いと思ったのは「創発」。
用意された条件や予測から説明できない特性が物事には生まれる。
それを科学用語で「創発」と言う。
つまり最初に組み込まれた特性とかルールをどんなに決めても、どんどん発展、展開していくうちに予測から外れていくという。
上手くいくのはたいてい「意図されていないこと」で、上手くいかないのは「意図されたこと」。
恋心で言うと、好きなばっかりでは恋愛は結婚まで進展していかない。
恋愛は一回「コイツ、バっカじゃねぇの?」と思う。
「バっカじゃないの」と思った感情を二重の赤線で消して「バカじゃない、この人は」と思った瞬間に。
それが「創発」。
どんなにルールを決めても進むにしたがってルール以上の事が出てきたり、ルールではジャッジできないことが出来てくる。
この「創発」が無いと物事は進んでいかない。
どんなにルールを決めても、そのルールでは乗り越えられない「とある局面」が誕生して、新しいルールを「そのもの自体」が作っていくということ。

これは、道徳、経済、文化、言語、テクノロジー、都市、企業、教育、歴史、法律、政府、宗教、金銭、社会における変化が起こる、主要なかたちである。(420頁)

今朝も主に悪いニュースが幅を利かせて、テレビやラジオ、新聞等々、世界中で流されている。
そのニュースについて語る人たちは「世界全体が昨日より悪くなった」と語る。
彼は、あるいは彼女はうそつきではないが正しくない。
よいことは必ず目に見えない形で進展する。
彼が言っていることはこういうこと。

暴力はこの数世紀で驚異的に減少している。
暴力にまつわるニュースはいっぱいある。
何年も前から「とある国で暴力が」というのは今朝も報道されていると思う。
でもこのマット・リドレーは断固として言う。
暴力はこの数世紀で驚異的に人類の間で減少している。
「いや、そうじゃない。◯◯という国じゃね、戦争やってるんだ!」とおっしゃるかも知れないが、人類の歴史全体から見ると戦死による死亡率は減少し続けている。
もちろん悲惨な戦闘がまだ終わらないところもある。
しかし人類はもう知っている。
これはトランプさんもプーチンさんもご存じだと思う。
習近平さんも気づいてくれるはず。
暴力に何かを解決する力はない。
もうそのことは世界中の指導者が分かっているはず。
習近平さんはちょっと南の方の島の手の出し方が乱暴。
だけどそのことを全面戦争で・・・という決心はしていない。
無理。
あの国は海岸部の大都市を一部攻撃されただけでも大パニックに陥る。
海岸線の都市にもし何か攻撃が仕掛けられた場合、内陸に向かって逃げ始めるわけだから、それを押しとどめて整理するという能力は中国の軍隊にもない。
商業や経済が発展すると暴力は効果を失う。
どこの国でもそうだが、商売をやっちゃうと戦争ができなくなる。
これがボトムアップのパワー。

モンテスキューは、人間の暴力や不寛容、憎悪を和らげる効果を持つ取引のことを、「温和な商業」と読んだ。そしてその後の年月のあいだに、その正さが十二分に立証されてきた。社会が豊かで市場志向になるほど、人々は善良に振る舞うようになった。一六〇〇年以降のオランダ人や一八六〇年代以降のスウェーデン人、一九四五年以降の日本人とドイツ人、一九七八年以降の中国人を考えてほしい。−中略−
 商業が盛んな国では、商業が抑えられている国よりもはるかに暴力が少ない。
(53頁)

特に中国は10億(人)を超える国民がやっと喰えるようになった。
商売のお陰。
もう一度繰り返すが全面戦争は無理。
中国はもう小麦を輸入しなければならない国。
商業が育ち始めるとルールが生まれる。
ルールを守らないと商売ができない。

 エリアスは、道徳基準は進化すると主張した。そして、それを裏づけるために、エラスムスほかの哲学者たちが刊行した礼儀作法の手引きを紹介している。これらの手引きには、テーブルマナーや排泄にかんするマナー、病人に対するマナーが満載されている。言わずもがなと思えるものばかりだが、逆にそのおかげで当時の実情が浮かび上がってくる。たとえば、「排尿中や排便中の人には挨拶しないこと……テーブルクロスで鼻をかんだり、手鼻をかんだり、袖や帽子の中に鼻汁を噴き込んだりしないこと……誰かにかかるといけないので、唾を吐くときには脇を向くこと(51〜52頁)

つまり、これくらいのマナーしかなかった。
今、マナーブックにそれを書く必要はない。
なぜかというと、そんな国には観光という商売ができなくなるわけだから。
ルールブックに書いていたことを書かなくてよくなったルールが発生した。

世の中には世の中を嘆きたがる人がいる。
それをマット・リドレーさんは激しく非難してらっしゃる。

ローマ教皇フランシスコは、二〇一三年の使徒的勧告「福音の喜び」で、「無制限の」資本主義が富める者をさらに豊かにする一方で、貧しい者を困窮させたとし、「他者への敬意が失われ、暴力が増している」事実はその野放しの資本主義のせいであると主張した。困ったものだ。これは完全に誤った社会通念の一例にすぎない。暴力は増加などしておらず、減少しており、しかもそれは、最も制限の少ない形態の資本主義が見られる国々で、最も急速に減少している。−中略−二〇一四年に世界でもとりわけ暴力が多かった国を一〇挙げると、シリア、アフガニスタン、南スーダン、イラク、ソマリア、スーダン、中央アフリカ共和国、コンゴ民主共和国、パキスタン、北朝鮮となり、どれも資本主義からほど遠い国ばかりだ。逆に平和な国を一〇挙げると、アイスランド、デンマーク、オーストリア、ニュージーランド、スイス、フィンランド、カナダ、日本、ベルギー、ノルウェーとなり、みな揺るぎない資本主義国だ。(54〜55頁)

(番組中、フランシスコのこの発言は「20年前の出来事」と言っているが、その当時はまだフランシスコは教皇ではなかったし、明らかに誤り)

道徳とは、人間が成長する過程で互いに行動を合わせているうちに生じる偶然の副産物であり、比較的平和な社会に暮らす人間のあいだで発生する創発的減少であり、善良さは教える必要はなく、ましてや大昔のパレスティナの大工(イエス・キリスト)という神聖な起源なしには存在しえない迷信的信条と結びつける必要など皆無だというのだから。(49頁)

言い方はきついが「道徳を決定するのは商業と経済なんだ」という。
「お金儲け」と言うかも知れないが「お金儲けのためにどうするか」ということを考えていくと、暴力を否定せざるを得ない。

日本にも良い参考になるなと思って武田先生が一生懸命読んだ章が「憲法、法律の章」。
(56ページからの「法の進化」のことか)
日本は今、安倍政権の元で「憲法論議」。
安倍さんは憲法改正が悲願なのだろう。
いじった方が良いかというのはわからない。
だが、このリドレーさんが「手、出すな」と。

イギリスとアメリカの法は、けっきょくはコモンロー(慣習法・判例法)に由来する。コモンローとは、誰が決めたわけでもなく人々のあいだで自然に定まった倫理規範を指す。(56頁)

憲法論議は日本ですごくうるさいが「憲法を今のまま維持する」というのと「憲法を変える」というのと、もう一つ「憲法を無くす」というのも憲法改正の一つの方法ではある。
基本的人権とか、そのたびそのたびに「考えな」と。
十年か前に日本の老人方がタバコを売っている専売公社を訴えた。
タバコ屋の小せがれの武田先生。
それは「危険な物を国家が許可して売っている」「責任を取れ」という。
そうしたら裁判所が「それは嗜好品だから、あんた方が好きで吸ってるんじゃないか」ということで。
(1998年のこの件かと思われる。たばこ病訴訟 - Wikipedia
「基本的人権」とか「国家は国民の命を守る」とかということをタテにして争議が起きているのだが、それはやっぱり時代によって変化する。
個人によっても変化する。
だから憲法にジャッジを仰がない「正義」というのが時代時代で浮かび上がってくるのではないか?
極端な言い方だが、武田先生がこの本を「面白いなぁ」と思ったのは憲法論議にしても「憲法を守ろう」「憲法を変えよう」「憲法を無くそう」というその「三つ目の考え方もある」ということを提案しているから。
現実に憲法が無くてうまくいっている(国が)世界にある。
イギリス。

posted by ひと at 20:26| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月06日

2016年11月21〜25日◆嘘ついたら針千本

『三枚おろし』初めての公開録音。
東京、水道橋の日本大学法学部の講堂。

『天皇の料理番』で日大法学部の教授の役を演じた武田先生。

天皇の料理番 [DVD]



何の教授なのかを知らずに演じていた。
周りの小道具を見ると、法律関係の小道具がいっぱいあった。
実在する大学教授ということでご縁があった。
そのご縁がある日大。
せっかく日大法学部の方でやるのだから「法律に関係することを」ということで依頼された武田先生。
依頼されるとちょっとムキになる性格なので「できない」とは言わないということを信条にしている。

経済で読み解く明治維新 江戸の発展と維新成功の謎を「経済の掟」で解明する



時を遡って江戸時代まで「法律の根」を探して旅をしてみようと思う。
「徳川幕藩体制」と言うと一色で時代を考えてしまいそうだが徳川時代は実に多彩な時代だったようだ。
将軍家光、犬将軍と言われた綱吉、「暴れん坊将軍」吉宗、「天保の改革」の家慶、最後の将軍の慶喜。
経済学者の方から言わせると違いがあるらしい。
例えば三大将軍の家光、犬将軍の綱吉。
この頃は徳川家は結構カネを持っていた。
これはなぜかと言うと家康という江戸幕府を始めた方が天下を取って金銀財宝が湧き出る山、その手のものを全部徳川家のものにした。
だからカネを持っていた。
ところが徳川家康というのは天下を取るが、完璧には天下を取っていない。
道路整備等々のインフラは信長のものをいただいてる。
それから経済については秀吉。
この人は面白いことを考えた。
日本の商売を考える上で「商売をやるという中心があった方がいい」というので、それを大坂に置いた。
諸国の物は全部一回大坂に集まる。
とにかく一回全部大坂に集めて、大坂で値段を決めて、それをまた諸国にばらまく。
例えば山形の「紅花」。
女性の口紅になったりなんかする。
あの原料の紅花は山形が作っていいのだが、口紅は作っちゃダメ。
一回大坂に集められて紅花の値段が決まったら京都に行って京都で加工する。
それで口紅ができる。
その口紅を山形の人は買う。
そうするとお金がグルグル回る。
お金がグルグル回ることによって国中の景気を良くしようという。
これは秀吉が考えたらしい。

お金のことを俗語で「お足」。
小判のデザインは俗説では俵の形。
ところがよく見るとワラジに似ているという。
だからお金というのはグルグル旅をすると景気が良くなる。
お金が足を止めちゃうと景気が悪くなる。
お金というのは回っていればいい。
だから「お金を使う人」じゃないとダメ。
高須クリニックの高須先生のようにドバイか何かへ行ってヘリコプターを操縦して、何の関係もないが女の人を呼んで高いシャンパンを飲ませているという。
最後ににっこり笑って「高須クリニック」という。
ああいうふうにしてお金をたくさん使う人のことを「お金持ち」という。
そういう経済のシステムを考えたのが秀吉。
じゃあ、家康は何をやったか。
何もしない。
「今のまんまにしといてあげるから、天下は一応俺のものということにしてくれ」という。
国を小さく分けることによって「徳川幕藩体制」という体制を作った。
最初のうちは佐渡からは小判はザクザク出てくるし、石見の方では銀が。
江戸期初期は世界で有数の金銀の産出国だった。
ところがこれがゆっくりと減っていって・・・。
徳川の政権の初期の方は全国の金山銀山を持っていた。
莫大な金銀を使うことができたという。
だから東照宮なんかができた。

特に家光のド派手な浪費は有名で、東照宮の造営に57万両もの大金をかけ、参拝すること10回、そのたびに10万両を使い切ったと言われています。(61頁)

同時期に起こった「島原の乱」では、戦費として40万両を使っています。(61頁)

カネのあるうちは徳川政権はかっこいい。
実はもう徳川は四代、五代ぐらいでパワーダウンしてしまう。
ところが政府がお金をいっぱい使ってくれて日本に小判をばらまいたので民間は元気がよくなったという。
そんなふうにして、ゆっくりと経済の主人公というのが民間に移っていく。

 百姓とは、農民および非農業民(商業、運輸業、サービスに従事する人々)を含む庶民の総称であって、決して農民というわけではありません。(46頁)

そういう人たちが経済の主体になっているという。
徳川幕府というのは、考えてみれば不思議な政権。
価値の基準がお米。
だから「◯万石」という国の実力、経済的なスケールを表現する。
「加賀百万石」とか。
だから米さえ採れれば「カネを持っている」ということ。
日本の「庶民」というのはたいしたもの。
税金だけは米で納めるのだが、庶民は何をやり始めたかというと、畑を作ってそこに大豆とか小豆とか別のもので金儲けをし始める。
武士というのは困ったもので、「◯万石」なので米を収入源にしている。
ところが米が豊作になると、武士のところにカネが回ってこない。
その間に庶民の方が金儲けが上手い。

つまり大豆を作ることによって豆腐なんか作る。
豆腐が高く売れてしまう。
徳川幕府は頭がカチンカチン。

 白石が捉われていた頑迷な考えを「貴穀賤金」と言います。これは「米などの農産物は貨幣よりも貴く、お金は賤しいものだ。だから農業以外の産業は仮の需要でありバブルである」という極めて間違った考え方です。(82頁)

しかし、そういうトンチンカンなことでは庶民は全く納得しない。
やっぱり醤油をかけて豆腐を喰いたがる。
侍の偉い方は頭が固いので、「贅沢禁止令」と称して何回も何回もやる。
織物も「色物はダメだ」と命令する。

 もともと譜代大名が着けていた裃のプリントから発展した江戸小紋は、遠くから見ると無地に見える細かい模様の型染めが特徴です。贅沢禁止令が定める素材や色の規制の中で、なぜか鼠色は「お構いなしの色」とされていたことをうまく逆手に取りました。(103頁)

「贅沢を内側に隠す」という「粋」の文化、江戸文化を生んでいく。

法律の「法」。
サンズイはもちろん「川の流れ」を表しているのだろう。
「去」。
「法を守れないヤツは川の流れに『去』らせる」という意味。
漢字の語源そのものからすると古代、三千年前。
非常に怖い意味なのだが、不思議なことに日本にはスっと定着していく。
国民性なのだろう。
子供の「はやし」の言葉、遊びの言葉の中に「指切りげんまん」という、指を結んで約束をする。
その約束が守れない場合は「嘘ついたら針千本飲ます」という。
考えてみれば「遵法精神」「法律を守らねば人は美しくない」という、そういう文化がもうすでに江戸期に小さな子供たちの間にもあったという。
「経済がゆっくり庶民の手によって膨らんでいった」というのと、その中から道徳として「決まり事は守らねば人としては美しくないぞ」という、ささやかなる遵法精神。
そういうものが芽生えていったということ。

江戸小紋とかというのはお侍さんの厳しい贅沢禁止令の中から工夫で生まれていったという。
つまり今、外国の方が来てくださって日本のことを「クールジャパン」と褒めてくださるのは、江戸期の文化遺産。
そうやって考えるとやっぱり「江戸」というのは非常に興味深い時代。
「金銭は賤しい」ということで、激しく経済を回す人たちへの軽蔑が続く。
経済を回していく人たちはそんなことに関係なしに力を貯めていく。

明治維新が大好きな武田先生。
岩崎弥太郎のエピソードで遭遇した「嘘ついたら針千本飲ます」とよく似たエピソード。
維新後のこと、明治の世になってのことだが、土佐下級武士から身を起こして、ちょっと今、車の方ではけつまづいているあの大三菱を起こした岩崎弥太郎。
この人は商売をするための船を購入する。
それで莫大な借金をする。
その時に抵当がなかった。
つまり「返せなかった場合は、こういう物を代わりにあなたにあげます」という抵当がなかったという。
岩崎弥太郎がお金を借りた相手にしたのは何かというと、証文の末尾に「返せなかったら、どうぞ私を笑って下さい」。
これが抵当になりえた。
つまり「約束を守らない」ということが日本人にとってどれほど不名誉なことか。

江戸期経済を回していくエネルギー、パワーというのが徳川幕府ではなくて、ゆっくりと民間人に移っていく。
日本の民間人というのは優秀。
民間人がゆっくりと経済を回していく。
その民間人たちの中で、ベンチャーで次々と参加する者が多かったのが海運業。
「物を運ぶ」というのは江戸時代は儲かった。
海運業というのがゆっくり全国のネットワークになっていく。
最初の方は海運業は太平洋側にはなく、日本海側で「北前船」といって繁盛したらしい。
この北前船のネットワークのパワーが太平洋側にも移り、太平洋側にも航路が。

1670(寛文10)年には幕府の委託を受けて、東回りの航路の整備事業を始めました。
 東回り航路とは、江戸から小湊、銚子、那珂湊、平潟、小名浜を経由して、荒浜(現在の宮城県亘理郡亘理町荒浜)に至る航路です。
(147頁)

この海運業は太平洋側、日本海側で競って伸びていく。
百姓(ヒャクセイ)の人たち。
様々な姓を持つ人たちが参加する。
この時に一番大事だったのは法律。
「◯月◯日までにこれを必ずあなたのところにお届けします」ということを守らないと海運業というのは成立しない。
それゆえに「約束を守る」「法律を守る」という、資本主義の基礎みたいなものが、江戸時代の封建制度の中で日本人が鍛えられていく。
そして北前船が行き来するという中で米ばかりではなく、移動するのが地方の特産品。
そしてついに北前船においては北海道蝦夷地の昆布。
沖縄料理のダシを取るものは蝦夷地の昆布。
江戸時代から沖縄の人は蝦夷地の昆布を使っている。
沖縄の人たちはその北海道の昆布をどうやって手に入れたかというと砂糖。
これが江戸時代からあったということだから、北海道から昆布を運んだヤツがいる。
そして高い純白の砂糖を手に入れて各地で売ったのだろう。
かつて江戸の人たちは昆布を北海道で仕入れて、点々と港を福井ぐらいまで下りてくる。
福井ぐらいまで下りてくると、昆布が大量に福井で降ろされて、とろろ昆布とかサバに昆布を巻きつけてお寿司が出来たりする。
すごく武田先生がワクワクするのは、ぐるっと瀬戸内を回って大坂経由よりも、福井で降ろしちゃって「直に京都に運ぼう」というせっかち人がいて京都に運ぶ。
これがすごい。
鰹節と一緒に昆布を料理のだし汁に使う。
合わせ出汁。
この鰹節と昆布をダシにするという京都人の発明は、今の日本料理の基礎を作る。
だからそれを考えたヤツは名前もないヤツだが偉いと思う武田先生。

海運業の方から「約束を守る」ということが日本の商業の中に染み込んでいく。
そして独特の日本の経済用語が生まれる。
切符(きりふ)手形。
もちろん「切符」なので「合鍵のように合わせる」という意味合いもあるのだろう。
「切手」という響きの中から日本人がイメージできるのは「嘘ついたら針千本飲ます」という。
つまり「◯月◯日までに切符手形で約束したこの日時に物品を納入しないと片手を切り落とすことをあなたと約束します」というような、ちょっと「武士道」に似た「商道」、商人たちの道徳みたいなものが生まれていく。
そういうものが日本人の基礎になっていく。
「約束を守らねば」という思いが「遵法」、法を守るという精神にゆっくりと・・・という。
それが江戸期の中にもう培われていたという。

幕末に起こる事件。
幕末は世界中の国が日本にやって来る。
日本では攘夷運動が起きる。
「外国人なんか」という。
その攘夷運動から面白い侍たちも出てくる。
土佐の田舎町に一人の青年がいる。
名前は坂本龍馬という。
その大好きな友達で武市半平太(武市瑞山)が「グループ作ろう」というのでグループの名が「土佐勤王党」。
檜垣清治という勤王の同心と江戸の町でばったり会った坂本龍馬。
その時に檜垣清治が龍馬の腰の物、刀を見て愕然とする。
びっくりするぐらい短い。
檜垣清治が龍馬に「おまん、そがいな短い刀では尊王攘夷はできんぜよ」と言うと「何を言うちゅうがーじゃ」と龍馬は言う。
龍馬の理屈は、これからは外で戦うのではなくて室内戦「家の中で戦う」というのが多くなるので刀は短い方がいい。
「長い刀を持っているとその辺の柱に喰いこんでなかなか取れなくなるぞ。俺は短い刀だ」と言って檜垣に突きだした刀が陸奥守吉行といって二尺二寸しかなかったという非常に短い刀。
檜垣清治は龍馬の真似をして短い刀を手に入れる。
それでまたばったり坂本龍馬に会う。
龍馬に「ほら、俺もこんなに短い刀にしちゃったよ」と言うと、龍馬がニタッと笑って「時代遅れ、チッチッチッ」と言いながら「おまんがそがいなものじゃ尊皇攘夷はできんぜよ。これからの世は刀ではない。これの時代じゃ」と言いながら、懐からスミス&ウェッソン社製の32口径のピストルを出して彼に見せた。
檜垣は燃えた。
彼も苦労して長崎なんかを散々歩き回り、やっとスミス社製のピストルを手に入れる。
三度目、ばったりまた坂本龍馬に会う。
坂本龍馬に檜垣が「俺も手に入れたぜ龍馬、ピストルぜよ」と見せると龍馬が「チッチッチッ。檜垣、ピストルの時代は終わったがよ」。
「これからは何だ」というと彼が懐から出したのが「万国公法」という国際法の書であったという。
つまり坂本は次の世は「法律が最強の武器になる」ということを予見した。
これはレジェンド風に聞こえるが、全くのデタラメではない。
彼は後に海運業に乗り出す。
独立部隊を彼自身が作りあげる。
名を「海援隊」と言う。
この海援隊という秘密結社を興した時に、懐に入れた法律の本がいかに強力な武器であったかという歴史的事実を残す。
とうとう「出る人が出た」という感じ。

明治大学の経済学者で飯田泰之さんが仰っている。
「経済では江戸期までに日本はすでに十分世界水準に達するまで成熟していた」
この一言で感動した武田先生。
民間人の方たちが海運業を通して新しいアイディアを。
もうこの時に保険の制度とか北前船の船主さんで思いつく人がいた。
このあたり、日本人というのが閉ざされた日本国内というところでありながら、民間だけの力で経済の本質みたいなものを学んでいたという。
日本は海運業。
北前船とか太平洋航路の樽廻船で「流通業」。
流通業はやがて発達して商社的な力、も持つ。
例えばミカンが江戸には無いので「ミカンを運べ!」とミカンを一発運ぶだけで億万長者になって吉原でパーッと遊んで帰ったというような、いわゆる「海運業のベンチャーの人たち」の活躍がある。

遠い思い出になるがハンサムな福山(雅治)君と『龍馬伝』というのをやった武田先生。

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坂本龍馬というのは黒船をパッと見た瞬間に「使える」と思ったのだろう。
「これは商売に使える」という。
この商売に使うために何を勉強するか?
もちろんそれは、黒船の動かし方もあるだろうが、黒船を操ることだけではなくてやっぱり法律。
『万国公法』という国際法の法律書を懐に入れていた龍馬。
慶応三年のこと、彼自身が「いろは丸」という160トン、小さな外輪船を回す黒船に乗り、45馬力、小さな船で瀬戸内海を航海中に紀州船の「明光丸」887トンと激突し、海上事故を起こしている。
この時に勤王の志士であればカーッとなって、憎き徳川幕府の御三家のひとつだからケンカの一つも売りたいところだろうが、龍馬という人はケンカを売らない。
何をしたか?
国際法の万国公法を楯にとって裁判をやる。
坂本のケンカのやり方は独特で、長崎奉行所にこの海難事故を持ち込み、イギリス東洋艦隊の艦長をオブザーバーに、そこで海上侵犯の裁判を展開している。
(番組内で上記のように「東洋艦隊」と言っているように聞こえるのだが、「東洋艦隊」は1941年かららしいので、この時代には存在しないものと思われる。この時の裁判に参加したのはイギリス領事とイギリス海軍提督)
ケンカするよりも裁判で勝つということが、いかに利益に結びつくか。
七万両という賠償金を紀州藩からせしめる。
このあたり、刀よりもピストルよりも「法が最強の武器である」という国際時代に龍馬は入ったことを既に知っていた。
この七万両を手にしたのだが、坂本龍馬はその年の暮れに暗殺されてしまう。
もったいない。
七万両あるので、それを横からガサーッとかっぱらったのが岩崎弥太郎というヤツで、それを資金にして三菱を作る。
悪いヤツ。
こんなふうにして龍馬が発揮したのは「法がピストルよりも刀よりも力を持ちうる」そういう時代に入った。
そういうことを彼は「いろは丸事件」で我等に教えたということ。
彼が倒幕後の「統一国家を作らねば」ということで友達に託した。
後藤象二郎という友達に日本がこれから進むべき八つの方策を授けている。
その第五策に坂本龍馬は日本がこれから辿るべき未来の図としてこんな一言を残している。

古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。(船中八策)

「今までの法律を全部集めて、その中から新しき法を持つこと。そのことがこの国の未来にとって重大なことなのである」と龍馬は高らかにそう謳っている。

日大学祖、山田顕義。
長州の人。
1881(明治14)年、何と驚くなかれ、この若さで憲法の私案を作成したという。
「時の政府なんかに任せない。自分でとりあえず勉強して、自分で憲法を作ってみる」
このガッツ。
彼は日本の伝統、習慣、文化を踏まえ、法律学校を構想し、明治22年「日本法律学校」という学校を創立し、これが後の皆様方が所属しておられる日大へと発展する。
「約束を守る」というその精神がこの日本に「法」というものをもたらしたのではなかろうか。


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2017年08月31日

2016年3月27〜4月7日◆タッチ(後編)

これの続きです。

マイスナー小体・パチニ小体・メルケル盤・・・4つある。
(もう一つは「ルフィニ終末」)
それが(皮膚の)深いところとか浅いところにあって物を感じる。
これらの今話した4つのセンサーで人間には絶妙なことができる。
これは他の生き物はできないらしい。
他の生き物が出来ない皮膚感覚の絶妙な技。
手のひらに残されているこのセンサーで一番すごいのはポケットの中から500円玉を選んで引っ張り出せること。
1円玉、5円玉、10円玉、100円玉、500円玉。
それを指でわかるのだから、これはすごいセンサー。
外科医用の手袋を一枚しただけで無くなる。
100円玉と500円玉はギザはかなり難しくなるのではないか。
だからほんのちょっとでも何か遮蔽物があると、もうそのセンサーは壊れる。
セメダインを塗られただけで、もうわからない。
それぐらいやっぱりこの皮膚に埋め込まれたセンサーというのはすごい。
このセンサーから伝わった感覚が脳に向かって「すべすべしている」あるいは「フチがギザギザしている」「これはこれよりも大きい」そんなことを見るがごとくジャッジする。

 ルフィニ終末からの情報を脳がどのように利用しているかは、あまりよく分かっていない。皮膚表面に沿って物体が動くときに皮膚が局所的に引っ張られるため、そうした動きの検出に役立っているのかもしれない。(64頁)

だからストレッチで伸ばしている時「アイタタタ・・・」という。
その「アイタタタ・・・」を言えというセンサーがこのルフィニというセンサー「神経」らしい。
これがなくなったら腕なんか折られちゃう。
「『参った』をする」というセンサーがあるという。

皮膚のネットワークから入った触感は皮膚から脊髄へ、そして脳へ、そして神経細胞へと伝わっていく。
その伝わり方と役割がものすごく複雑。
結論を言うとその後何が書いてあるのかよくわからなかったが、面白くなったのはその次の章で「愛撫のセンサー」。
皮膚から入ってきたセンサーが捉えた情報が神経を伝わって脳に送られるが、脳に送られるスピードが違う。

C線維を伝わる電気信号は遅い。時速3.2キロほどだから、人がぶらぶらと歩く程度だ。これに対してAβ線維の機械受容器からの信号は時速約240キロ、Aα線維の固有受容覚信号は時速約400キロのスピードで伝わる。(99頁)

この皮膚から入ってきた情報がそれぞれスピードが違うのは、その後のジャッジをするため。
物にぶつかって額を打った。
その時に「この痛みが大体何日間ぐらい続くか」と予想する。
しゃがみ込んで「痛テテテテ・・・」と言っているのだが「我慢できないこともないか」とか「これはちょっとマズイな」と思ったり。
それは、それぞれ電気信号に変換された伝わるスピードの違いがそのことを判断させる。
危険を感じる、危機を感じる痛みの時は、その痛みの伝わり方は速い。
ところがうずくというか、熱を持つというか、ゆっくり腫れてくるというか、その感覚が伝わるスピードが変わる。
これは伝わる神経線維が違う。
これは「電線」が違う。
速い痛みを伝える電線と鈍い痛みを伝える電線が違う。

 C繊維は長い間、痛みと温度と炎症の情報だけど伝える神経だと考えられてきた−中略−しかし最近、一部のC繊維がある特別な触覚情報を伝達していることがはっきりしてきた。C触覚繊維と呼ばれるその神経は、人と人との接触に特化した、いわば愛撫のセンサーなのである。
 C触覚繊維の終末は有毛皮膚にしか存在しない。その終末は毛包を取り囲み、毛の動きに反応するようになっている。
(99頁)

このC触覚は学習から最適を学ぶ。
この、撫でられてちょうどいい速さを学ぶと、その触感を強く意識して、男の子はよく分かる。
他人の接触を見ただけで「あ、自分も触れられているような気がする」という。
スピードでそれを自分の体感とするという。
だからそっち系(アダルト系)のDVDが売れたりするのは、このC触覚があるから。
「◯◯の見た?スゲェよあれ」とかっていうのはC触覚のスピードと自分の快感のスピードが一緒だから。
武田先生もやったことがあるが、早送りにしてしまうとあれは何も感じない。
バカにできないのは、その手の愛撫のエロスの触覚でありつつも信頼を築く「絆のセンサー」でもある。
信頼はセクシー。
「その人を信頼する」というその「信頼」というのは「安心感」。
安心感が与えられない限り、信頼の絆というのは生まれないワケだから。
どちらかというとエロスの匂いがしないと。
このC触覚の中枢である脳の部位は実に複雑。
これは快感と感じるというのは大変。
様々な脳の領域か関与していて、これが全部燃えないと快感に感じない。
快感というのは脳の支配によるもの。
だから恋の愛撫「彼がそーっと肩を撫でてくれた」というのと、ケンカの時に「ドーンと肩をぶつけた」というこすりあいでは全く違う。
自分が「快」を与えているつもりでも相手にとっては「痛み」となる。
そういうのが触覚センサーの宿命。
そういうので女の人にいっぱいフられてきた武田先生。
「ゴメン、許して」「あーん!もう痛い!」とか。
よく覚えているのはフォークソングでホシカワという先輩がいた。
人柄のよい人。
その先輩の恋人は一つ年上の女性だったが、23歳ぐらいの女性。
可愛らしい人。
ニックネームが「おかあちゃん」。
この二人が仲がいい。
何かの拍子に「どこがいいんですか?」と訊いた。
ホシカワ先輩はガタイはいいが、そんなにカッコイイ人でもなかったので。
歌う歌は岡林(信康)の『山谷ブルース』ばかり。
ガテン系の歌が多い方で、フォークギターで。
そうしたらその「おかあちゃん」という子がしみじみと「うどんを食べてる顔が可愛いの」と言った。
「うどんを食べてる顔が可愛い?そんなもんでこの人はあの先輩の恋人になったのか」と思うと。
「ツルツルツルって食べるの」と言われて。
それでホシカワ先輩とその恋人と数人でデパートのイベントだったので地下でうどんを食べた。
武田先生がうどんを食べた瞬間「武田くん、きたなーい!」と言われた。
先輩もツルツルと結構ツユを飛ばして。
でも武田先生だけ「きたなーい、武田くん」。
その時に「同じじゃん」と思った。
「何か」が違う。
その「何か」というのは女性の方が敏感である。

触覚の他にも様々、人間には感覚がある。
例えばこの本の中でこんな面白いマンガが紹介してあった。
四コマ漫画。

(タイトルは『臭うチーズ』)
若い男女が車に乗っている。
女性は買い物袋を抱えている。
そんな時、男性がちょっと警戒したような険しい表情でつぶやく。
「ここ、なんか臭くない?」
そうすると女は買い物袋の中を覗いて嗅ぐ仕草。
そしてポツリと「さっき買ったチーズよ」。
そうすると男は「あ、そうか。それなら」と納得した後、安心した様子で女性に語りかける。
「なんだか美味しそうな匂いがするね」

これはあること。
最初はすごく警戒して「臭い」と言って、それが気にいって買ったチーズだと分かった瞬間から「美味しそう」になるという。
面白いもの。

「性の触覚」つまり「性感」は、神経終末の分布はほぼすべての男女で同じ。
性にまつわる触れられることへの感性、それは神経全部同じ。
違いがない。
ところがこれを快とするか不快とするかは個人による。
なぜそんなに個人差があるのかはまだわかっていない。
とにかく性的なものというのは脳の中の様々な領域が同時に発火、真っ赤に燃え上がること。

生殖器への刺激を続けると、恐怖に関連する情動信号を処理する扁桃体の活動が低下する。この現象は生殖器への刺激が、恐怖の減少とその結果としての潜在的脅威に対する警戒の消失に関連することを示すと解釈されている。(142頁)

性的に興奮すると不安を感じる能力がぐっと落ちていって、慎重な判断を下す領域がオフになる。
(本の内容とは若干解釈が異なるようだが)
運動なんかもそうだが、カーッと燃える時、スポーツ選手はすごい。
ラクビ―でも骨折しながら走ったりする。
あれはやっぱり「慎重な判断を下す領域」のスイッチが切られてしまうのだろう。
とにかく「同時多発」。
そうすることによって性的な快感が得られるという。

「味覚と触覚のまじりあい」という奇妙な感覚もある。
世界中のほとんどの人がいろいろ触覚に関しては感覚が違うが、面白いことに味覚とあいまったもの、例えば唐辛子を「熱く」ミントを「冷たい」と表現するという。

クールなミント、ホットなチリという比喩は、人間に生まれつき生物学的に備わったものであると思われる。
 ミントの主な有効成分はメントールという物質だ。トウガラシの方は、カプサイシンという化学物質である。
(149頁)

なぜか冷たさを感知できる神経群はこのメントールに反応する。
だから本当に冷たいワケじゃなくて、冷たい時に活性化する神経を励ます。
それからカプサイシンの場合は熱は全然ないが「辛さを熱と感じる」ということがある。
これは人間の進化ではなくて、植物が身を守るためにそうした。
全部喰われちゃうと嫌だから、人間が嫌がるカプサイシンをいっぱい食べて、喰われることを防ごうとしたのが唐辛子の側の事情。

トウガラシという植物と鳥類とは、進化の過程で、ある種のデタントに達したようだ。哺乳類は種を食べると臼歯ですりつぶしてしまいがちだが、鳥には臼歯がなく、種子の大半はそのまま消化器官を通り抜ける。鳥が糞をすると、これまでとは違う場所に発芽可能な種子を播いていくことになる。(152頁)

(番組内ではミントに関しても鳥との間には同様の関係があると言っているが、本にはそういう内容はない)

無痛症。
痛みを感知できない遺伝病があり、どこから飛び降りても痛くない。
骨折しても痛くない。
これは何よりも恐ろしくて、だいたい十代でお亡くなりになる。
そうやって考えると「痛みがある」というのは身の安全のためには大事なこと。
だからちょっと痛むところがあったりしても、これはやっぱり「長生きするための一つのセンサーである」というふうに思いましょう。
「痛み」というのは絶妙なもので、この「痛み」を感じると、また「感情」も一緒に燃え上がる。
何で感情が燃え上がるかというと、痛みを判断しなければならないからで、痛みは種類によって「この痛みは安全のうちにあるか、それとも危ない痛みなのか」「この痛みは予想通りなのか、それとも意外な痛みなのか」「ずっと痛むのか、わりと早めに収まるのか」そういうことも痛みの感覚、痛みの伝わり方で人はジャッジする。
更に痛みは脳記憶として結びつく。
それがPTSD「心の痛み」みたいなものもちゃんと記憶されてしまう。

 治療がとくに難しい慢性痛に、幻肢痛と呼ばれるものがある。手や足を切断した人の約6割が、失った手足が痛むような慢性痛を経験するのだ。(189頁)

それとは逆にピアノやバイオリンの演奏者というのは脳を経由しないで「手が勝手に動く」という触覚の技術に入ることがあるという。
これも一種の触覚の見せる奇跡。

「慢性の痛みがあるのに、どうして慢性の快感がないのだろう」。(188頁)

それは快感よりも痛みの方が生き残るためには重大なセンサー。

「痛みと脳がいかに結びついているか」のものすごい実例。

 イラク戦争中の2003年4月13日、アメリカ陸軍実戦部隊の衛生兵ドウェイン・ターナーは、バグダッドの南50キロほどの暫定作戦基地で少人数の舞台とともに補給品の荷下ろしをしていたときに、敵襲を受けた。(190〜191頁)

 ターナーの右足と太ももと腹には手榴弾の破片が刺さっていたが、動きは鈍ることはなく、何度もクルマの陰から飛び出しては、倒れた仲間を安全な場所まで引きずった。その間、2度撃たれ、1回は左足に弾が当たり、1回は右腕の骨が折れた。だがダーナ―は撃たれたことにはほとんど気づかなかったという。(191頁)

 ターナーはそのうち出血で倒れてしまうが、−中略−ターナーの働きがなければ少なくとも12人の命がこの場で失われていたと考えられ(192頁)

このターナー衛生兵は衛生兵をやっていたために「他の兵士を救わねば」という脳の方の意思の力が強くて、感じる痛みを全部遮断していたのではないか。
どんな激痛でさえも、脳はそれを遮断する力を持っている。
痛みについては大きく心がジャッジしている。
痛みと感情、特にネガティブな感情は深く絡み合う。

被験者にコンピューター上でバーチャルなキャッチボール・ゲームをしてもらい、参加メンバーから外すといった軽度の社会的排斥でさえ、背側前帯状皮質と島皮質後部の活動を引き起こす。(204頁)

だから、そんなささやかなことでも心は痛む。

切り替えが遅い方で、ちょっとクヨクヨ、ウジウジする武田先生。
「そういう言い方しなくてもいいじゃないか」とか何か。
人の言い方をグズグズ考え込むが、ちょっと最近よくなってきた。

「痒みとは小さな痛みだ」と言われていた。
ところが、著者によるとやっぱり「痛み」と「痒み」は違う。
この痒みに関するものは、まだ今はもう少し研究が必要。
これさえはっきりすれば、もう少し神経伝達物質やニューロンのことが分かれば、アトピーに対する対策ができるのだが、これができない。
「小さな痛みだ」ということでアトピーをやっつけようとしたら、全然効かなかった。
アトピー対策のために今、必死らしい。

 ヘロインやオキシコドンなどオピオイド(アヘン様物質)が強い痒みの発作を引き起こすことはよく知られている。(217頁)

以前、元中毒患者の人と話をした時に「痒み」とおっしゃっていた。
その痒みが「手のひらに虫が乗ってる」というあの幻覚と来る。

鎮痛薬としてオピオイド(モルヒネなど)を使った患者の80%は痒みを経験する。(217頁)

「痛み」と似ているが「痒み」には独特の個性、特徴がある。
実験でも分かる通りだが「痒みは伝染する」。
痛みは伝染することはないが、痒みは伝染する。
それが証拠に、イラストでもいいし、フィルムの写真でもいいが、虫、ダニ、ノミを見ると100人中何人かは必ず掻きはじめたり、手のひらを撫でたりする。
この「伝染する」という能力が痒みには強力にあるということ。
痛みも痒みも、それ相応に心の問題で、だから人間にとっては重大な感覚。

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2016年3月27〜4月7日◆タッチ(前編)

お隣の国、半島の両方の国で騒ぎが起こっている。
おそらくヨーロッパの街角でばったり会ったりすると、隣国の方と日本人の区別はほとんどつかない。
「何が違うのかなぁ」と思う時がある武田先生。
「理解ができない」というのは、韓国の人は本当に整形美容に抵抗がない。
あの裁判で出てきた「◯◯さんの娘」みたいなのがいた。
あれで何か語られてもすごく苦しい。
教育テレビを見ていたら「整形についてどう思いますか?」というので世界中の人が集まって、そういうことをワーワー井戸端会議をやるという番組をやっていた。
「それは、もう何てことないものです」と手を上げたのが韓国の人で、他にも西洋の人がいた。
「だいたい中学校の真ん中ぐらいになった時に顔を変える」というのが一番いいそうだ。
「チェンジにもってこい」で。
そう言われると「いいのかな?」と思ってしまう。

身体(しんたい)髪膚(はっぷ)これを父母(ふぼ)に受くあえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり(古代中国の書物・孝経)

整形に抵抗がある。
こっちはあんまり親から良いものを貰っていないから、何とか他でカバーしようと思って。
それが人生じゃないかなぁと思う。
歳を取ってから崩れてきてわかってしまうのが嫌だし「そんなことしていいのかな」という抵抗がある水谷譲。
あえて名前を出さないが、整形をやった俳優さんの演技を見たことがある武田先生。
整形前よりもオーバーになっている。
顔が持っている表情を自分がコントロールできていない。
だから無闇に顔を使うが、全部オーバー。
それで、複雑な心理の芝居ができない。
「静かな顔をしようとしてるんだけど、内面が動揺してる」という『飢餓海峡』なんかで三國(連太郎)がやったような演技ができない。
「オメェがサチコさん殺ったんだろ!」「やってませんよ・・・」
その時に観客が見て「あ、殺ってる。犯人はコイツだ!」という、それが出ない。
自分の顔の筋肉をコントロールしていない。
或いは一枚お面をかぶったような感じで、肉を動かしているが表が動いていない。
そういえば法廷みたいなところに引っ張り出されたその整形で綺麗になられた方の顔を見ていると、指から先も反省しているように見えない。
それは、美しさのために表情が顔に出てこなくなったんじゃないか。
そう思う時にすごく抵抗がある。
そんなことを頭の中で考えているうちに、フッと本屋さんで目が合った本。

触れることの科学: なぜ感じるのか どう感じるのか



著者はデイヴィッド・J・リンデン。
THE SCEIENCE OF HAND,HEART,AND MIND
TOUCH

というタイトル。

見れば信じられる。だが、触れることができればそれは真実だ。
         ──トーマス・フラー「ノーモロジア」一七三二年
(6頁)

この著者は特に男性にとって「触る」ということが、いかに決定的な感覚なのか、それを懸命に本で訴えている。
『ロリータ』をお書きになった作家さんの言葉をこの著者が本に書いている。

「男性にとり、視覚に比べれば取るに足らない触覚が、決定的な瞬間には、現実を扱う、唯一とは言わないまでも主要な感覚となるのである」(10頁)

女性より男の方が、触覚に関しては重大。

この著者が遠回しに言っていることをズバリ言うと、大人の方だったらばどなたも経験なさったと思うが、男女のその瞬間、両方とも目をつぶる。
なぜ目をつぶるかというと、それは触覚による情報をマックスに上げるために視覚を消して触覚に専念するという。
個人差があるかも知れないが、間違いなく言えることは、ジーっと相手を目を開けて下から眺めていられると、一種「侮辱」ととられる。

 私たちの場合も、触覚経験は感情と分かちがたく結びついている。それは英語の日常的な表現をとってみても分かる。−中略−「傷つく(I'm touched:触れられる)」や「いじめてる(hurt your feeling:触覚を傷つける)」のほか、「ツンツンする(pricky:棘の多い)」、「キツい(rough:表面が粗い)」、「ずるい(slippery:つるつるしている)」などはごく普通の比喩表現だ。私たちは人間のさまざまな感情や行動や性格を、皮膚感覚を使って表現することに慣れている。たとえば、−中略−
「厄介な(sticky:べとべとした)状況」
−中略−
「難しい(hairy:毛深い)問題だ」
−中略−
 気の利かない人のことを英語でtactlessと表現するが、これは文字通りtact(触覚)を欠いているという意味である。
(10頁)

だから、触ることというのがいかに感情表現に用いられているかということ。

触覚の不思議なので、言われてみると確かにそう。
「触覚」とは実は私たちの例えば「子育て」とか「傷」とか、気配や空気を読む男女間のいわゆる「情」みたいなもの、「別れの予感」。
そういうものも含んでいるという。

面白いのは「ミント」を冷たく感じる。
唐辛子は熱く感じる。
皮膚に塗っても。
これはどうしてこういうことになってしまうのかというと、脳の領域でジャッジする。
だからミントが冷たいワケではない。
唐辛子が火のように熱いワケではない。
それが脳に行くとミントで皮膚を撫でると「あ〜冷たい!」。
それから唐辛子だと「あ〜熱い、ポッポしてきた!」とかっていうことに。
温度を持っているワケではないのだが、脳の領域ではそれを「冷たい」、それを「熱い」「ホット」とジャッジする。

かくのごとく「触る」「触られる」というのは脳でジャッジするから、ものすごく複雑。
ある人が触ると愛を感じる。
ある人が触ると警察に訴えようと決断する。
恋人がアナタのお尻にソッと回す手と、電車の中で痴漢の人がソッとアナタのお尻を触るのとは、力具合においてはだいたいおんなじだが、感情が全く違う。
つまり「触覚」が決定しているのではなく、触覚から伝わってきた感情がその触ってきた者に対してジャッジしているという。
これは面白い。
ものすごくクールな言い訳をすると「性的な絶頂感」は中身はクシャミと同じ。
これは感覚器で言うと「あくび」と同様の反射。
それが一生忘れられないということは、いかに脳がこの「接触」「タッチ」「触覚」に意味を与えているかということ。
性的な絶頂感でさえ、肉体的には女性でクシャミ、男性ではあくびと同様の痙攣であるという。

心理学科の建物に入ってきた被験者を、女性の実験助手がロビーで出迎える。−中略−助手はどうしたわけか、コーヒーの入ったカップと、クリップボードと、教科書を2冊手にしている。研究室の階まで上がるエレベーターの中で、助手は被験者の情報をクリップボードの用紙に書き込みながら、何気なく、コーヒーを持っていてもらえないかと頼む。コーヒーを返してもらったら、被験者を実験者のところに案内する。その際、ある被験者にはホットコーヒーを、別の被験者には冷たいコーヒーを手渡す。−中略−
 有意な結果として、ホットコーヒーを手に取った被験者は、冷たいコーヒーを手渡された被験者よりも、架空の人物を温かい人(人間的、信頼できる、友好的)と知覚した。
(20〜21頁)

NBA全30チームの2008〜09シーズン開幕後2カ月分の試合(選手総数294人)の録画をチェックし、ゴールを喜ぶ接触−中略−を数えた。(24頁)

少なくともプロバスケットボールの文脈では、短時間の喜び合いでの身体的接触が個人とチームの成績を押し上げていること、それも協調性を築くことを通じて成績を上げていることを、強く示唆している。(25頁)

「喜んでないで早くやれよ」という時がある。
あれはダメ。
いちいち喜ぶ。
それから、もし点数を取られたら、いちいち励まし合う。
こうすると強くなる。
これは「なるほどなぁ」と思う。

人手不足の児童保護施設で、1日20〜60分、子供を優しくマッサージし、手足を動かしてやったところ、触れ合い不足の悪影響はほとんど打ち消すことができた。この接触療法を施した赤ん坊は体重の増加ペースが上がり、感染に強くなり、よく眠り、あまり泣かなくなった。(40頁)

 未熟児に対して優しく接触刺激を与えるには、カンガルーケア(早期母子接触)と呼ばれる方法が効果的である。(40頁)

子供を育てる時、接触は重大な感覚であるという。

 デポー大学のマシュー・ハーテンスタインらが、感情伝達における対人接触の役割を調べる興味深い実験を始めている。ひとつの実験はこのようなものだ。カリフォルニアの大学の学生を集め、2人ずつテーブルを挟んで向かい合って座ってもらう。2人の間は黒いカーテンで遮られている。お互いの姿を見たり、話をしたりすることは禁止だ。伝達者の役を割り当てた側に、感情を表す12の単語リスト(怒り、嫌悪、恐怖、幸せ、悲しみ、驚き、同情、困惑、嫉妬、誇り、感謝)の中からランダムにひとつを見せる。伝達者にはしばらく考える時間を与えたうえで、もうひとり(解読者)の前腕の肌に、その感情を伝えるために適切と思われる触れ方で5秒間触れてもらう。−中略−外向きの感情である愛情、感謝、同情は、偶然によるよりもはるかに高い確率で解読された(42頁)

若い時もそうだが、母ちゃん(武田先生の奥様)の手なりなんなり握ると大体分かる。

女性が男性に怒りを伝えようとしても男性はその意図を正しく解読できず、男性が女性に思いやりを伝えようとしても女性はそのメッセージを解釈できなかったのだ。(44頁)

この男女差というのは、やっぱり男と女の恋愛も含めての、恋の駆け引きにもなるだろうが、一歩まかり間違うと事件になったりする。

1960年代に心理学者のシドニー・ジュラードが、世界中のコーヒーショップで会話をする人々を観察した。それぞれの場所で、きちんと同じ数のペアを同じ時間だけ観察したのだ。その結果、プエルトリコのサンフアンでは2人の間の身体的接触が1時間に平均180回と最も多く、パリでは110回、フロリダ州ゲインズウィルでは2回、ロンドンでは0回だった。(44頁)

これはおそらく日本も0なのだろう。
日本は触らない。

番組の控室か何かで指原莉乃さんとした話。
結構疲れてらっしゃったから「前のスケジュール大変だった?」「ちょっと握手会があったもんで」という。
何気なく「アンタも嫌だろ?他人と。な、手を握ってくるんだろ。アンタの手を」と。
「そんなことないです」という。
マツモトさんが横にいらして、小っちゃい声で「ウソ」とおっしゃっていた。
どっちが本当か分からない。

「触れる」というのは考えてみれば、不思議な感覚。
東アジアに限って「触れる」ことというのを考えているが、外見では分からない。
香港と台湾の人の違い。
香港の人は、中年とか初老、老年になってもすぐに手を繋ぐ。
香港を旅した時に、中年夫婦がもうほとんど十代のカップルのような密着度で歩いてらっしゃる姿を見て、ちょっと驚いたことがある武田先生。
台湾は肉体接触がき。
ダンスとかすごく好きだから。
でも、台湾の方は香港ほどではない。
台湾と上海も違う。
何でこんな話をしたかというと、武田先生が英語を教わっていたイギリスの娘さん、カリーナ先生が時々面白いことを言う。
あの英国娘の目というのがすごく刺激的だった。
よく一杯飲み屋なんかで、ニュースか何かが音声を全部消してテレビが流れている。
そうしたらえらい事故が起こっていて、事故の現場風だったから「え?どっかで死人出たんだ・・・」とつぶやいたら、あのイギリス人が「あ、これ日本じゃないよ」という。
「え?何で?日本人じゃん」
「違う違う、これ韓国よ」
「何で分かるの?」
「泣き方違うもん」
そういう例を取り上げて申し訳がないが、韓国の人はそういう悲惨な出来事が起こるとワーッと抱き合って泣く。
それで、日本人からすると泣き方がすごく強い。
悲しみの表現が韓国の方はすごく強い。
ある意味では大地を叩き、地をかきむしるような。
それを誰かがガバーッと抱きしめるとか。
気絶しそうになる方がたくさんいらっしゃる。
それに比べて日本人はいっぱいニュース報道でも見てきたが、泣く時に一人。
踏ん張って、伸びてくる手を振り切る。
接触を拒否して単独で泣こうとし、極力泣くまいとし。
異様なのは、事故現場から笑顔で被害の状況を語る人がいる。
本当に多い。
気の毒そうにテレビ局の人がマイクを差し出すと笑う。
「もう逃げる暇もなーんもなかったですたい」と言いながら。
巨大な火山の爆発を遠目に見ながら、ほんのわずか笑みを浮かべて語る雲仙の人を見かけたことがある。
それから、もう本当に武田先生が泣いたが、広島で土砂崩れで家が何軒も流された時に連れ合いの80代のおばあちゃまを亡くされた90代近いおじいちゃんが「まぁしかし、一瞬の出来事だったんでね、大きな苦しみはなかったと思います」と言いながら淡々と語ろうとする。
その時に倒れたり一切しない。
自力で立って妻の最期みたいなことを語るおじいちゃんを見ていて、皮膚感覚の違いと感情表現の違いを半島の両国と日本、それからユーラシアに巨大な国を持つ中国と、それから島である台湾。
何かそれぞれの感情表現の、それが何か違うのではないかと。

「日本人ってやっぱり触覚の人種なんだ」「タッチの国民なんだなぁ」と武田先生が思うのは、この国の手工芸品に出ているような気がする。
日本は「手のひらの感覚で判断して物を造形していく」という能力がすごい。
東京12チャンネル、テレ東の番組とかを見ると。
「匠の技って何か?」と言ったらほとんど「触覚」。
その辺がやっぱり大陸の国、そして半島の国、島の国である台湾あたりの人たちと日本人との差ではないのかなぁと思ったりする。

日本は戦前のことだが「アジアは一つ」と言って、大まとめにアジアを考えたところから大きな戦争を起こしてしまって。
アジアの他の国も含めてご迷惑をかけた。
ちょっとトリッキーな言い方になるが「アジアは一つではない」と「アジアはバラバラ」。
こういうところからアジア観を作っていった方がいいんじゃないだろうか?
武田先生が考えたのは「韓国文化は何か?」と言ったら「視覚文化」じゃないか?
どう見せるか?
だから愛情も見せる、怒りも見せる。
それから自分の力も見せる。
つまり「見せる」ということが最大の文化的特徴。
日本は反対で「見えるものを見えなくしてしまうところに見えるものがある」という。
「行間を読む」みたいなこと。
寅さんでも健さんの任侠ものでも日本人がゾッとするのは、主人公がクルっと背中を向けて歩き出した瞬間に「クライマックスに入った」という。
その「後ろ姿の美学」。
「見せないことの努力をしていることが、より見せることになる」という。
連れ合いのおばあちゃんの死を訥々と語るおじいちゃんのその口元に胸を揺さぶられるような悲しみを感じるという。
その間におじいちゃんは一粒の涙も流さない。
インタビューが終わった瞬間に、おじいちゃんは身をねじった瞬間に「泣いているんだぁ」と思った瞬間に、隠された涙を我々は見ることができるという。
「涙を隠すところに涙を見る」という。
その「隠そうとする文化」と「見せようとする文化」の違いが、時折半島の方々とすれ違いになっているのではないか。
原子が爆発するというような爆弾を作っても強さの証明にはならないと思うが、どうしてもあれに火を付けて上がっているところを見せないと自分たちの軍事力を見せられないのだろう。
その辺の違いみたいなのが、皮膚感覚の違いみたいなものがアジアの人々の間にそれぞれあるのではないだろうか。

この「触覚」という問題に関してはものすごく複雑。

 皮膚には基本的に有毛と無毛の2種類がある。無毛皮膚というと、読者はすべすべの肌を思い浮かべるかもしれない。たとえば女優のキーラ・ナイトレイの頬のような。けれども、キーラの愛らしい顔の柔らかい皮膚を注意深く観察したなら、実際には細く短い、色の薄い毛に覆われているのが分かるはずだ。軟毛(産毛)と呼ばれる毛だ。−中略−この軟毛は、基本的に毛管作用で水分を運ぶ役割を負っている。汗を皮膚表面から引き上げ、効率的に蒸発させて皮膚の冷却を助ける。(49頁)

 本当の無毛皮膚は、手のひら(指の内側を含む)と足の裏、唇、乳首、生殖器の一部にのみ見られる。(49頁)

 有毛皮膚も無毛皮膚も、基本構造は同じである。二層構造のケーキを思い浮かべて欲しい。上層は表皮で、さらに薄いいくつかの下位層に分かれている(図2-1)。どちらの皮膚も、表皮の最上層は角質(角質層)と呼ばれる死んで扁平になった皮膚細胞の層で、その下に3つの薄い層(顆粒層、有刺層、基底層)がある。(49〜50頁)

こうして表皮の細胞は、50日ほどですっかり入れ替わる。(51頁)

そしてその4つの層には4つのセンサーがある。
このセンサーがすごい。
浅い皮膚には物の形、質感を判断する「メルケル盤」。
握る力の強弱のセンサー「マイスナー小体」。
深いところでは「パチニ小体」。
揺れを感知するセンサーで皮膚が0.0001mm動いても感知する。
ほんのちょっと揺れても「あ!揺れた」と感じるというのは、この皮膚のセンサーのおかげ。
掴んでいる物の、手に伝わってくる震動を正確に神経の方に送って、何を感じているか絶えず脳にジャッジさせている。

シャベルで砂利を掘るところと、柔らかい土を掘るところを想像してみてほしい。あなたの手は、シャベルと地面の接触箇所からずいぶん離れているにもかかわらず、砂利と土の違いはすぐに分かるはずだ。(62頁)

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2017年08月07日

2017年4月10〜21日◆「ぐずぐず」の理由(後編)

これの続きです。

音がしないことをも音で表現するのである。音のない動作だが、まるでかすかな衣擦れの音でそれと感じるかのように、なにかじっとしておれないような気配が察知されるときも、「そわそわ」「いそいそ」「こそこそ」といったぐあいに[s]の音がよくつかわれる。(98頁)

「ためらい」「あてつけ」「命令」「懇願」をオノマトペで表現する。
「そわそわ」「いそいそ」「こそこそ」
振る舞いのオノマトペ。
「当てつけの非難」もオノマトペである。
「おめおめ」「ずけずけ」「めそめそ」「いじいじ」「だらだら」「ちまちま」「もたもた」「あたふた」。
更に広がり「批判と否定」のオノマトペ。
このオノマトペは人の悪口を言う時に大活躍する。

 じっさい、多くのオノマトペには否定的な意味あいが色濃く含まれている。思いつくままにあげても、「うじうじ」「めそめそ」「ぐずぐず」「どんより」「べろんべろん」、「ぼろぼろ」「だらだら」「でれでれ」「めろめろ」「もたもた」「ばたばた」(101頁)

これは動きなのだが、もうこのオノマトペが出てきた段階で非難しているのは分かる。
「何だかアイツは、来たのはいいんだけどバタバタバタバタしててさ」っていうのは目に浮かぶオノマトペ。

 さらに、オノマトペを含む動詞句から派生した名詞にも否定性は色濃くうかがえる。「きりきり舞い」「のろのろ運転」「よちよち歩き」「ひそひそ話」「びしょ濡れ」「ぶつ切り」「ごちゃ混ぜ」−中略−「どんちゃん騒ぎ」「こそ泥」「がり勉」といった例がその最たるものである。
 こうした否定の強い含みは、オノマトペの動詞化のみならず形容詞化によってもおこえなる。「い」をつければ、「くどい」「のろい」「ぼろい」「とろい」
−中略−「しい」をつければ、「とげとげしい」「たどたどしい」、さらには「けばけばしい」(103頁)

「けばけばしい」という漢字。
クイズ番組に出ていた。
「毳毳しい」
漢字で書くと痒くなる。

 擬音・擬声語は、ドイツ語で「音の絵」といわれる。(92頁)

このオノマトペの豊かさは身体の感覚的な手触りの表現からお気づきの方も多かろうと思うが、これは「子供の感覚」。
これは大人の感覚ではない。
子供の目で見たその感覚がオノマトペになっている。
他の国と比べて日本では幼児の感覚を言葉に残している。
「お母さん、ベトベトしてるー」というやつ。
子供がうまく言語を使え無い時にオノマトペを使って自分の語彙を増やして伝える。
「ずーっと泣いてたから、お顔が涙でベトベトになった」とか、他の国と比べて日本語というのは幼児の感覚を言葉に残している。
ドキッとする。
日本のマンガ、実はアニメ文化を支えているのは豊かな、このオノマトペではないだろうか。
童謡やアニメソングに擬音が多いのは子供の国からそれらがやってきたからだそうだ。
ぽっくりぽっくりあるく(童謡『おうま』)
その意味で日本のオノマトペの真相を民俗学者の柳田国男は

「緑児は言わば無意識の記録掛りでありました」と、忘れがたい言葉を書きつけた。(106頁)

日本人は老人になっても幼児の言葉を使っているという。

日本の言葉の中にこの鷲田さんは「幼児性がある」と。
その幼児性というのは決して悪い事じゃないんだと。
幼児の感性みたいなものを大事に日本人っていうのは体の内側に秘めている。
そういう人種なのではなかろうかと。
こういう人種というのは中国大陸にも朝鮮半島にもいないという。
日本列島、ジャポネシアという諸島。
数々の島からできたこの国独自の国民性ではなかろうかと。

日本人はなぜ幼児の感性、感覚をこれほど濃く言葉にとどめたのであろうかと。
それには日本のオノマトペが内臓感覚から生じたものだからではないだろうかと。
「うきうき」「きびきび」「るんるん」「すごすご」「のこのこ」「よたよた」
人の動作の擬態語であるが、その動きのときのわずかな動作の違いが内臓を通して私たちには分かる。
違いは「内臓感覚」。
「うきうき」も「きびきび」も「るんるん」も、実は外から見た目は全部おんなじ。
だけど使っている筋肉が「うきうき」と「きびきび」と「るんるん」では違う。

今度は内臓の元気の無さで考えるとその違いがわかる。
「すごすご」「のこのこ」「よたよた」
これもやっぱり使っている筋肉が違う。
そういう内臓感覚の差みたいなのがオノマトペで表現されている。
日本人はすぐにわかるが、異国の人にはもう、そう簡単に分からないと思う。

「ひりひり」「びりびり」は違う。
これはおそらく皮膚の傷の痛みの違い。
「ひりひり」は「擦りむいた」とか。
「びりびり」は電気系。
つまり同じ痛みでもオノマトペ一言で使い分ける。
この「ひりひり」と「びりびり」に関しては幼児でさえも日本は使い分ける。

 その解剖学者・三木成夫は、講演録『内臓のはたらきと子どものこころ』(初版一九八二年)のなかで、次のように述べる。口は、内臓前端露出部といえるものであり、「最も古い、最も根づよい、そして最も鋭敏な内臓感覚」がここに表れている。−中略−この臓腑の波動が「大脳皮質にこだま」して、音として分節されたのが言葉である。−中略−解剖学的にいえば、口の内部と周辺では二つの系列の筋肉が交叉しているのであて、顔面の表情金は内臓系の筋肉、起源的には鰓の筋肉からなっているのに対し、舌は、手や足とおなじ体壁系の筋肉からなっている(だから「喉から手が出る」と言う)。(127頁)

表情は実は内臓であり、舌は五本目の手足である。
だから「便秘がちの人の笑顔」というのがある。
ビックリするくらい出た朝は浮かべる笑顔が何か自慢げ。
「何キロ出せば気が済むんだ」みたいな、時々自分に向かって語りかけて、「全部これ俺?」みたいな。
その時に笑顔。
それはやっぱり内臓の調子のよさというのは笑顔に出る。
内臓の悪い時は笑顔はやっぱり人を惹き付けるに足りない。
男は女の子と仲良くなるために飯を喰う。
あれは「何で飯喰うか」というとやっぱりそれではないか。
「相手の内臓を見る」というのが食事にかかっているのではないか。

 言葉も、こうして虫が地中から這いだしてくるように、ひらく。その初発の言葉はmaという音を核にかたちづくられることが多い。(125頁)

英語にはmammalという語もあって、これは哺乳類を意味する。西洋ではお乳にかかわるものをmammaで表現し、日本では食べ物を「まんま」という。(126頁)

全部「M」。
これは「ま」という唇の動きの中に特性が。
子宮に海を持つ女性。
海は「Marine」。

むらむら、むちむち、めらめら、もっこり、萌え、悶え、乱れ、淫ら、股、腿……と、性的な淫猥さを連想させる言葉にもマ行の音はよく用いられる。(126頁)

内臓は、胃袋も腸管も、膀胱も子宮も、ぐねぐねうねり、たえず蠕動しているのだが(107頁)

心拍のようなリズムと分節し難いうねりの響きを「ぐぐぐ・・・」といううねりの響きを内蔵は持っている。
その故に音を重ねるオノマトペが言葉として生じ、人の知覚の始まり「基盤」となるという。
リズムを刻む心臓と内臓のうねり、それがオノマトペに影響するという。
だから「ベチャベチャしてる」とか「ベタベタしてる」とかっていう感覚用語、オノマトペが生まれる。
言葉のスタート「喋る」はおそらく「しゃぶる」から来ているのではないだろうか。
(と三木成夫さんが言っていると番組では言っているが、本にはそういう記述は発見できず)
「舐めまわす。舌で」それが実は「しゃべる」の語源ではないだろうか。
子供は何でも口に持って行く。
これは舐めることでそのものを見ようとする。
脊椎動物は内臓部と体壁部二つに分かれている。
内臓部は体内にあって天体運行と同調。
内臓を動かしているのは星空。
大きな宇宙と連動していると三木さんは言う。
内臓は遠くと共振する不思議な力たここにはあるんだと。
だから魚が川をのぼり、産卵を開始するという秋というのは、天体運動からその時期が決定する。
水谷譲は女性だから「周期」を体の中に持っている。
生理。
それには「月齢」といって月の運行と深く水谷譲は結ばれた臓器をお腹の中に持っている。
内臓には天体の運行を感じるアンテナが秘められている。
生命というのはやっぱりリズムなのだ。
人は成長にともなって、舌から手、皮膚で見るようになり、その後やっと目で見るようになる。
おそらく日本人のオノマトペは内臓の触覚「舐めまわすこと」。
その感度の表現であろうという。

『ホンマでっか!?TV』の先生方は個性的な方が多いのだが、読んでいた本の中で一番惹かれた話。
気が合う合わないというのは「食事」。
心理学の本に書いてあった。
セックスの時間が分かる。
二人で食事する時間の長さが大体、二人がセックスで夢中になっている時間と同じ。

日本語というのは内臓感覚。
だから内臓で理解する。
日本人にとって内臓で理解するということはとても重大なこと。
内臓で理解することを「腑に落ちる」。
「内臓で理解すること」これは了解することであって「頭で理解すること」それよりも上回ることが「腑に落ちること」。
この舌によるオノマトペは日本人特有の味の肌理を伝えるオノマトペを生んだ。
おそらく「あまい」「からい」「にがい」「しょっぱい」以外に味の肌理を伝える言葉を持つ国語は世界でも日本だけではないだろうか。
喉を通過する時の感覚をオノマトペで言うのだからすごい。
「ツルッ」と。
お蕎麦は「ズルズル」と音がするかも知れないが、絶対に「ズルズル」と表現しない。
お蕎麦を食べる時、日本人は「ツルツル」と言う。
そうすると喉に入っていくあの麺の感触が分かる。
更に衣服と体のオノマトペ。
こんなのも日本独特。
着ている服の感覚をオノマトペで表現する。
ちょっと小さい衣服を着た時「キツキツ」「キチキチ」。
英語だと「little bit tired」とか何か言わなければ「a little」「any」とかを使わなければいけないのだろう。
日本では「あ!キチキチ!」とかアルファベットの「K」の音で何か言えば。
それと「肥満」「痩せ」。
これも全部オノマトペで表現する。
「weight over」とか、そんな理屈っぽくない。
「『ぼてっ』として」「『でっぷり』してる」「おいおい、あの子『ムチムチ』してる」
何かワクワクする。
もっと愛嬌のある言い方では「『ぽっちゃり』だよ」。
それから体の比率があまり合っていないことを「『ずんぐり』してる」という。

 肥満を表す英語を見てみると、chubby,fat,heavy,bloatedのように[b][f][v]といった唇子音や、huge,roly-poly,round,stockyのように[o][ʊ][u]といった円唇母音、abdominous,adipose,coporational,dumpy,plumpのように[om][po][mp]といった唇音がかならずといってよいほど含まれていると、田守はまず指摘する。一方、肥満を表現する日本語のオノマトペを見ても、「ぽてっ」「ぷよぷよ」「でぶっ」「でっぷり」「むちむち」「ぽちゃっ」「ぷりぷり」「ずんぐり」といった言葉には、英語とおなじく、[p][b][m]といった唇子音や「お」「う」といった母音のみならず、ほとんどに唇音が連続して含まれている。(173頁)

 逆に、肥満と反対の痩身を意味する語を調べてみると、
gangly,lank,lean,skinny,slender,spindly,thin,twiggyには[p][b][m]といった唇音があまり含まれておらず、おなじく痩身を表す日本語のオノマトペを見ても、「がりがり」「げっそり」「ぎすぎす」「ひょろっ」「すらっ」など、唇母音、唇子音を含むものはほとんどない。
(173頁)

英語は全部「s」で日本語は「s」と「g」の行で英語と共通する。
そういうのは不思議なのがある。
「太陽が『さんさん』と照る」とか。
全部「s」系で始まっているとか。
そのオノマトペが実はこの日本のマンガとかアニメにあるのではないだろうかという。
これはやっぱりハッとする。

オノマトペは内臓から生まれた言葉ではないか。
その上に日本人にはその他にも「からだ言葉」がある。
体が感情を表現している。

「からだ言葉」ということでよく例にあげられるのは、「胸が痛む」「胸が締めつけられる」「胸が張り裂けそうになる」「胸が膨らむ」とか、−中略−「腰が砕ける」「脚が棒になる」とか、「目をかける」「鼻であしらう」(180頁)

「腹を割って話す」とか「腑に落ちる」もそう。
だから「感覚」ではない。
だから中国人の方々、それも漢人の方、それから半島人であるところの朝鮮人の方々。
こういう人たちはユーラシア大陸の本当にしっかりした地盤の上に自分たちの文明、文化を広げた民族。
だからこの人たちを動かすためには強い情動が必要。
それに比べて日本人を動かすのは肌理の細かさ。
発生学「鰓が顔の表情を作る」と言った三木博士はこう言っている。
内臓の響きこそが世界への手触りである。
(本では「もはや響き≠ニ化した内臓表情」となっている)

オノマトペで小さいその子の歩き方を「よちよち」。
「『よちよち』歩いた」という。
そこから何十年の歳月を過ごして老人になると「『よたよた』歩いてた」という。
同じ「よ」でも「ち」と「た」でこれだけの年月の差を表現する。
これは面白い。
やっぱり日本人というのはそういう意味で変わった民族だと思う。
そのことをまず日本人が自覚すること。

さいとう・たかをは『ゴルゴ13』のなかで、高級ライターで火を点けるとき、それを百円ライターの「カチカチ」ではなく「シュボッ」と表現することで差異化したし(236〜237頁)

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これはいかに日本人が手触りの肌理の国民かというのが分かろうと思う。
そういう意味で挙げた中国のコウフン(「興奮」か?)、朝鮮半島の「恨(ハン)」、その対立項で日本人は「肌理」というものを最も大事にしているのではなかろうかと。
そんなことで「アジアは一つではない」と。
それぞれに住む地政学的な条件によって感性が違う。

本には存在への手触り等々一切書いておらず、武田先生の付け足し。
中国、韓国等々の話は全くこの本を読んでも出てこない。
日本のオノマトペの特性やら表現をひたすら現象学的に分析した一冊。
読むうちに中華の人とか半島の人々の感性の違いで語った方が皆さんに分かりやすいかと思いつつ三枚におろした武田先生。

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2017年4月10〜21日◆「ぐずぐず」の理由(前編)

「ぐずぐず」の理由 (角川選書)



鷲田清一(わしだ・きよかず)
一九四九年、京都生まれ。

(武田先生と同い年)
大阪大学総学長をへて、大谷大学教授。哲学者。

「日本人とは何者か?」ということを考えているのは日本人だけらしい。
日本人だけが「日本とは?」あるいは「日本人とは何者か?」と考える。

今年、年が明けてからの半島情勢は非常にめまぐるしいものがある。
朝鮮半島は事件が多い。
二つの国が同じ民族なのだが、国が二つに分かれている。
両方ともトップオブリーダーの大騒ぎがある。
片一方の国は「世界中に迷惑をかける」ということがあの国の正義。
もう片一方の国はとにかくひっくり返る。
大統領が途中からいなくなっちゃう。
それで今、また大騒ぎが始まっている。
前から思っていたが、どうも私共は韓国あるいは朝鮮の方々とかなり違うんではないかと。
これは人種どうのではない。
」物を考える手順」が違うのではないだろうか。
韓国の方の整形手術におけるおおらかさというのは、すごく武田先生の肌に合わない。

身体(しんたい)髪膚(はっぷ)これを父母(ふぼ)に受くあえて毀傷(きしょう)せざるは孝の始めなり(古代中国の書物・孝経)

「体に何か刺青とか手術痕を付けないのが親孝行の始めである」という。
それとはもう全然違うという。
それは何だろうかと考えた時に、一つ思ったのは半島人、朝鮮半島に住むあの二つの国の人々というのは非常に視覚的民族なのではないかと思い当たった。
そういえば「目で見えるもので訴える」というのはこの半島に住む両国共に共通したところではある。
「俺んところの国は強いんだ!」と言うと大体ロケットを打ち上げて「遠くまで飛ぶぞ」という。
そういうのを見せたがる。
「少女像」も「恨んでるぞ、お前たちのことを!」というので象徴的に少女像といのは胸に刺さる。
大変に南の方には申し訳ないのだが、何十体も作るとその銅像が象徴するものの意味というのが薄れていく。
50体以上もお作りになって、いろんな所に置くというわけなので。
あまりシンボルが増えると、ちょっとパワーがダウンするような気がする。
北の一番偉い方は非常に髪型が視覚的に個性的。
「あそこまで刈り上げなくてもいいんじゃないか」というような。
それから南の方はと言うと高校生を乗せた船が沈みかかっているのに「お肌の手入れを受けていた」というようなスキャンダルが流れて。
これを合わせると非常に視覚的。
これは我々ジャポネシアという島に住んでいるのだが、わりと日本人というのは視覚的に訴えるものが弱い。
半島人の方々が「視覚的文化」だったらば日本人、このジャポネシアに住む人たちは「触覚」ではないか。
つまり「手触り」の国民。
そんなことを考えた時に本屋で目が合った本が鷲田清一『「ぐずぐず」の理由』。
日本人というのが非常に触覚、感覚を大事にする民族で、擬態語「オノマトペ」というものを無闇に発達させてきた民族ではないのかなぁという。

水谷譲にはわかっても、外国の人に話す時は分からない。
「カリカリ」と「ガリガリ」は違う。
微妙なニュアンスが外国の方は「わからない」と言う。
「ギリギリ」と「キリキリ」は違う。
これは明らかに使い分ける。
「もうアイツとの関係も『ギリギリ』だよ」
「いやぁ、胃が『キリキリ』痛んでさ」
かくのごとく日本のオノマトペというのは非常に感覚的。
そういう意味で、この「ぐずぐず」というようなオノマトペから日本人の個性というものを三枚におろせたらというような今週。

『「ぐずぐず」の理由』は読みだすと面白いのだが「伝えるべき何かがある」というのではない。
綿菓子みたいなフワフワした手触りなのだが、読んでいくうちにだんだんそのオノマトペ、日本語の言葉の不思議さみたいなのが染み込んでくるという。

 この点に関連して、九鬼周造が興味深い指摘をしている。
 たとへばは、芳賀矢一氏が指摘していゐるやうに、すべて頭の方に位する尊ぶべきものである。
−中略−また、たとへば耳漏雪崩雨垂五月雨などの間に一見したところで存する偶然性は、すべてこれらの語が「垂れ」に還元される限り、必然的関係として現はれて来る。(15〜16頁)

さらに一例つけくわえて、襦袢とズボンも、音のまったくの偶然的な符号のようにみえるが、じつはそれぞれポルトガル語とスペイン語の語源に関係づければ必然的に帰されてしまうという。(16頁)

ジョウロ(ポルトガル語「jorro」)。
「雨、露の如し」と書いて「如雨露」。
こういうふうにして響きを整える。
これが面白い。

統合失調症を患っている中年の娘と痴呆(認知症)の父とが生活保護を受けつつ二人暮らしをしているケースである。ここで精神科医の春日武彦は、事態が臨界点まで行ってからでなければ、治療の効果は出ないと言う。(18頁)

この時、第三者の積極的な働きかけで解決するケースではないと、ほっとくしかないんだという。
これは「何か事故が起きないうちに」でも「それはほっとこう」と精神科医の先生は言った。
この時に使った言葉が「ぎりぎりまで待ちましょう」。
(という記述はなく「ぎりぎり」の例としてこの事例が取り上げられているのみ)
ぎりぎりを通過しないかぎり、人間の手では事態は動かしてはいけないと。
この「ぎりぎりまで待ちましょう」というのが非常に日本人らしい言葉使いだなと鷲田さんは仰っている。
ボーダーライン上の危うさ、人間としての軋轢、つまづけば怪我をする不安定さ。
そういう限界上の手触りを私達は擬態語で「ぎりぎり」と言う。
良い事がおこるにしろ、悪いことがおこるにしろ、そのフチまで行かないとダメという。

鷲田先生はおっしゃる。
「ぎりぎり」の「ぎ」は舌と上あごを擦れ合わせ、足の裏が地を擦る音をまねたものだ。
(という記述は本には見つからず。足の裏の感覚の話は本の中でこの後に出てくるが「ぎりぎり」の件とは無関係)
日本民族は相撲、能、舞についても足の裏で床を擦る。
擦りつける。
故に皮膚とそれに触れるものの感触が「オノマトペ」言葉になっている。
「ぎりぎり」がそう。
「ずっと徳俵まで押していかれた」という。
後は「ざらざら」「じりじり」「ずるずる」それから「ぞろぞろ」「もぞもぞ」。
これは日本人はすごい。
心理面でもそういうオノマトペがあって、決断のつかない心を「ぐずぐず」という。
なぜこれほど豊かなオノマトペが日本語に生まれたのか?
それは「皮膚の持つ感性であろう」ということ。
人間に関わるものはすぐには答えが出ない。
スカッと噛み切れず、ズルズル人間は生きていくしかない。
「それが人生なのだ」と著者は言う。
おそらくは舌の動き、舌の感覚が創り出した。
日本は舌が言葉を作る。

「な」で始まる動詞というのは、なかなかになまめかしい。
 たとえば、「舐める」「撫でる」「擦る」「なぞえる」「なずむ」というような動詞。皮膚という他者の表面に、遠慮がちに、あるいは執拗に、触れることで、相手の気を惹いたり、相手の官能を探ったり、反応をうかがったりする。
−中略−
 だれかの存在の封印を解くということ、愛撫はそのことを願っている。相手の存在の封印を解くというのは、いいかえると、相手の存在の固さをほぐすこと、ほどくこと、つまりは相手の警戒を解かせるということであり
(69頁)

故に結論として「なめる」「なでる」「なする」「なぞる」。
その結果「なまめく」「なびく」「なだめる」「なぐさめる」「なれあう」。
「な」がバーっと連続で。
これは特に上方言葉は「な」が多い。
あそこは人間が擦れ合っているから。
関西で活躍する芸人さんを見ると分かる。
人間と人間の距離が無闇に近いから友達のように寄ってくる。
東野幸治さんを「何かなれなれしい」と思う武田先生。
これは上方言葉の「な」が頻繁に使われるからこそ、我々は探られつつも固さをほぐされてしまう。
上方言葉の典型。
最初に「なあなあ」と呼びかけ、「なんなん」「なんぼ」「なんで」「なんでいかへんの」。
「なんちゅうこっちゃ」と驚き、人への提案としては「なあなあ、オマエ言うたりぃな」。
「な」を使って同意を促す。
またオノレの弱さで相手の関心を引こうとする動き、これを「なよなよ」と言うが、ちょっとなよってる。
これは「くねくね」と同じで媚態、誘惑の戦略性を関西弁、上方言葉は隠している。
オノマトペはそういえば「な」が多い。
「なんでやねん」「なんちゅうこっちゃ」
これは論理性が全然ない。
ノリ。
「どういうことなの?」と言うと固くなるが「なんちゅうこっちゃ」。
何かそれだけのこと。

人は顔面に走る筋肉で収縮、弛緩をさせて表情を作っている。
その小さな変化を決して人は見逃さない。
特に日本人は小さな収縮、小さな弛緩を見逃さず、その人の小さな顔面の動きでその人の一番奥、深い心、その真相を探ろうとする。
眉毛がわずかだけちょこっと動くと「あ、動揺してる」とか。
日本人にとってそこに浮かんだ表情を偽ることは、その人の心の深さを持つことを証明することになる。
日本人の言葉の中に「顔で笑って心で泣いて」というのがある。
凄い言葉。
顔は笑っている。
でもその人はお腹の中では、心では泣いている。
その偽ることこそが、彼の悲しみの深さを表現する。
武田先生がテレビで一回観たもの。
広島で住宅街の奥からがけ崩れがあって、80いくつのおばあちゃんが死んで、90歳ぐらいのおじいちゃんが生き残って。
インタビューのマイクを向けるとおじいちゃんが笑う。
「昨日までよう笑うておりましたからですな、もう悔いはないと思います」と軽く仰るが、手が小さく震えている。
その時に私達は、このおじいさんの想像もできないほどの深い悲しみを察することができる。
私共は笑顔で悲しみを語る人に胸をつかれて、その人の心の深さを・・・。
心の内側にもう一つ、別の思いを隠している。
その思いこそが本当のためには顔は別の表情を浮かべなければならないという。

芥川龍之介の『手巾(ハンカチ)』

武田先生がとある方とすれ違って、物陰に入ったらその人が遠ざかったものだと思って大きい声で「今、通り過ぎた小さいおじさん、武田鉄矢?」という。
その人とまたエレベーターの前で一緒になったので、会釈しながら「小さいおじさんです」と言いながら。

日本語の素晴らしい語彙表現の広さ。
「にこり」と「にやり」。
「にんまり」と「にこにこ」。
「にやにや」と「にたにた」。
「にやにや」は思わす良い事があって「先回りの笑顔」。
「にたにた」っていうのは道徳的に許されない、何か「隠した思い」みたいなもの。
「にやにや」はやっぱり「将来の設計を考えると思わず上手くいきそうで『にやにや』した」という。
「にたにた」はスケベっぽい感じがする。
「昨日のあの子の胸元が見えた」というような。
「にこり」「にやり」「にんまり」「にこにこ」「にやにや」「にたにた」を全部使い分ける。

武田先生の私論。
この言葉の差異というのは韓国の方にはほとんど拾ってもらえないのではないだろうか。
美容整形の盛んな国は、やっぱり顔をいじるわけだから別の表情を盛りつける。
盛りつけられた表情はその本人の心を浮かべることはない。
美容整形をやって「顔が動かなくなった」と嘆く女優さんと一回すれ違ったことがある武田先生。
我々はそれで商売しているから、顔が動かないというのは困ったものだ。

「にこり」と「にやり」は違うということを分ける日本人の笑顔の読み方というのは凄く深いというか、種類が多い。
だから笑顔は喜びや親しみの表現だけではなくて、悲しみを隠す衣でもあるということが日本ではある。
これらはやっぱり半島人の方には、かなり理解されないことではなかろうかと我々はやっぱり覚悟すべきで、そのことを踏まえて両国の関係を見つめなければならないのではないのか。
そういえば前の大統領もピンチに追い込まれてもすごく落ち着いてらっしゃった。
クールだった。
あの安倍首相の動揺に比べると非常に少ない。
安倍さんははっきり浮かぶ。
質問に対して「失礼じゃないですか!」と言うのだから。
それから◯◯防衛大臣もはっきりわかる。

九州のある都市に大集団の中国観光旅行団が押し寄せた。
これは、その町にとっては人口が減りつつある都市なのでもう大喜び。
その都市が観光スポットNo.1に挙げたのは、その街の中華街。
これはもう特に有名で。
この街の中華街は戦前、上海・福建省の中国人の方が渡ってきて作ったという。
ところが、この戦前から上海・福建省からやってきた中国人の方々の中華街が中華観光客に向かって数か月も経たないうちに店の前に貼り紙を貼った。
これは東京では放送されないのだが、何と貼られたか?
「中国人立ち入り禁止」
それはトイレのマナーが悪いということで。
これは、この街以外に上海と福建省で大問題になった。
「失礼な!」と。
「トイレの使い方が悪いとか、文句ばっかり、サービス業のくせに言いやがって!」
しかも中国の方が怒ったのは「オマエら戦前まで中国人だったじゃねぇか!何が立ち入り禁止だ!」。
これはローカルで大変な話題になった。
何でこの中国人同士の対立が始まったか?
これがまた「オノマトペ」。

戦前のこと、上海や福建省から渡ってきた中国の苦労人の方々が繁盛させた中華街がローカルにあった。
九州は中国大旅行団が押し寄せる島。
お店を経営してらっしゃるのは中国の方だから、ここが中国の方が一番リラックスできる。
そこの街の行政はそこを観光スポットにした。
ところがそこの中華街は店の前に堂々と「中国人立ち入り禁止」と書いた。
これで揉めるだけ揉めて、本国の中国、上海で新聞で取り上げられて大問題になったらしい。
日本で全然報道されていないが。
これがまた切ない話だが、日本の行政機関が県の役人さんが間に入って「何とか考えてくださよ」と中華料理店を説得した。
「何でそんなに中国の観光客の方を嫌うんですか?」と聞いたら「トイレを『べちゃべちゃ』にする」。
ここでもまたオノマトペ。
ところが中国の方は人種的には「漢人」。
漢人の反論はというと「トイレは水で洗い流すとこじゃねぇか」。
向こうのトイレは石造りで、バーン!と水で清掃する所。
石造のトイレの多い中国では便器に水をかけ、外へ洗い流す。
これがトイレの清掃方法。
だからベチャベチャになるのは当然。
ところが日本人(日本で暮らしてらっしゃる中国の方)はこのベチャベチャをものすごく嫌う。
スリッパを脱ぐところまで綺麗な絨毯で、とかしてあるワケだから。
かくのごとくベチャベチャを嫌うが、その他にもオノマトペで「ネチャネチャ」。
「ベチャベチャ」の次に嫌いなのが「ネチャネチャ」。
そして「ネバネバ」している、「ベトベト」している、「ヌルヌル」している。
日本人はこういうものをすごく嫌う。
これはなぜかと言うと、気候から考えて日本は高温多湿だから。
必要以上に湿り気が多いと、細菌の発生を招くことへの恐怖感がある。
ところが漢人の方はと言うと、半分砂漠。
非常に乾いた大地で過ごしてらっしゃる。
だからベチャベチャというのがあまり不愉快ではない。
「わお!湿っぽーい!」みたいな。
結局真ん中に日本の方の行政官が苦労して入って「条件付きで歓迎する」という流れでやっと落ち着いたようだ。
これは「別トイレ」と「別ルーム」。
国のどうのじゃないが、かくのごとく分けるところが最近多い。
「朝食会場、中国の方はこちらへ」という。
それはどうのじゃなく、朝から「ワーッ」と陽気にペチャクチャやるのが大好きな中国の方と、ペチャクチャを嫌うというそういうのの不快の量りが全然違う。
そうやって考えるとやっぱりやむないことかなぁと思う。
湿りっ気が多いことを嫌うオノマトペが、恋人同士の囁き合いだって「何だあんのやろ!ひっついたり離れたり『ベタベタ』しやがって!」とか。
「ベタベタ」を嫌うのだから。
「オマエ英語で言ってみろ!」という。
「べちゃべちゃ」「ぺちゃくちゃ」「ねばねが」「べとべと」「ぬるぬる」
英語も懸命にオノマトペを探している。
このあたり、なかなか「オノマトペ」が面白いところ。
今は「笑顔の違い」、それから「湿りっ気に対する恐怖の度合いの違い」を語ってみた。
「だから韓国の方は」「だから中国の方は」と言っているのではない。
余りにも「アジアは一つ」とまとめてしまう方が危険で。
中国の方と我々は感性が違うんだ、韓国の方とも違うんだっていうことを踏まえて同じところを見つけるという、このセンスというのは大事じゃないかなぁと思う武田先生。

いっぱい不思議を感じる。
中国風ライオン(獅子)を二匹、中華料理店の前に置いてある。
我慢できないのは二匹が同じ顔をしている。
日本は「阿吽」と言って表情が違う。
中国は同じ。
かくのごとく違う。

posted by ひと at 14:34| Comment(0) | 武田鉄矢・今朝の三枚おろし | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月29日

2017年3月13〜24日◆龍馬のビール(後編)

これの続きです。

司馬遼太郎の指摘。
大阪弁は潤滑油の方言であり、この言葉は感情のみ。
哲学的思考はできない方言。
物事を比較的手触り良く曖昧にする最高の方言で「もうかりまっか?」「ぼちぼちでんな〜」という。
正体をくらますためには最高だが、論理思考には向かない。
現在の国会、あるいは政界というのは長州弁。
ズバリ言って「〜であります」等々は長州の方言。
横から横へ、手渡しにはもってこいという。
それが長州弁、山口弁。
維新の黒幕である岩倉具視がひどく嫌ったのが土佐弁で、土佐弁というのは「人を揺さぶる」というアジテートの方言で、何でも劇的に聞こえる。
これは西南戦争に駆けつけてボロクソにやっつけられた男の証言が土佐弁で残っている。
これが講談みたい。
「そがいなときにワシは一切ひかんと言うたがよ」とか。
響きが抜群にいい。
土佐弁というのは何かそういう竹刀で叩きあうような軽快さがある。
聞いていて気持ちいい。
武田先生がどこでも言っていることだが「坂本龍馬は何でかっこいいか?」。
「土佐弁で日本を心配したからだ」という。
「日本はこのままでは非常に危険です」と言われてもピンとこない。
「このままではニッポンはいかんぜよ!」というと「イカンかな〜」とみんな思っちゃうという。
今回の主人公であるキリンビール高知支店で同じことが起きたのだろう。
(この後もまた本には登場しない「社長に『たっすい』と言った」という話が続く)
1998年、土佐弁を使うと物事まで土佐弁っぽく動くのか、この本社から高知支店に社長直々の電話があって「味を元に戻す」。
(という記述は本にはない)

 社長はその翌日、東京に帰って、すぐに、たまたま新聞社の取材がありました。そのときになんと、「現場の声でこういうことがあるので、ラガーの味を元に戻す」と言ってしまい、そのコメントが新聞の記事になってしまったのです。
 この問題は本来いろんな会議などコンセンサスが必要なレベルのことなので、社長があとで役員に説明するような事態になったようですが、予想もしなかった形でラガーの再リニューアルが決定しました。
(86頁)

 年初、高知新聞の取材を受けました。−中略−
 そこで、「高知の人の声でラガーの味を元に戻しました」というタイトルの記事が出ました。
(86〜87頁)

これで高知で「俺たちの好みにキリンは合せてくれたんだ」ということが話題になって。
この田村さんというのはやっぱり支店長でキレる。

大苦戦のときに投げつけられたこの言葉を利用させてもらい、「たっすいがは、いかん!」という大小のポスターをつくって大々的なキャンペーンを行いました。(96頁)

「高知の声が変えたラガーの味」というのと「たっすいは、いかん」がすごく評判になる。

 なおかつ追い風が吹きました。ラガーのリニューアル発売から1カ月後の1998年2月、発泡酒「淡麗〈生〉」が新発売されました。(91頁)

キリン 淡麗極上〈生〉 350ml×24本



営業レディーの一声から本社が動いて、キリンラガービールの味が変わった、元に戻った。
それも全てこの高知から始まったことだという。

 そうやって、1カ月に400店以上回るようになっていました。
 3年前には30〜40店舗の飲食店しか回っていなかった、同じ営業マンたちです。
(92頁)

外回りでものすごいパワーを発揮し、本当に「もう家に帰る暇など無くていい」というような。
今、働き過ぎ、働き方等々が様々問われているが、仕事が面白いという幸せは何物にも代えがたい。
そんな気持ちで聞いていただくと面白い。
一番負けていたキリン。
そのキリンビールがゆっくりと売り上げが上り始めたという。
他の四国3県はというと、相変わらずアサヒが強い。
勝てない。
ただ高知支店のみがラガーに関しては、キリンビールに関しては「真田丸の如く奮戦した」という心地のよさ。
そしてこれは全国展開でも後に話題になるが、ラジオCMで傑作を生む。
ドキュメンタリー風のラジオコマーシャルを高知県だけで流した。

 ラジオCMでは電車の音と一緒に「電車が高知県に入りましたので、ビールはラガーに変えさせていただきま〜す」。「飛行機バージョンでは「ただいま、高知上空にはいりました。今からビールはラガーに変えさせていただきま〜す」。(95頁)

もうこのあたりでラガーから一挙に奮戦が始まる。
そうすると事務方職員は・・・。
もう支店長は何も言わない。
勝手に営業マンたち、所員たちが働く。

 それまで高知支店では午後5時半になると留守番電話に切り替えられていて、生ビールのサーバーの故障など、夜の営業時間に起きる緊急事態への対応もできていませんでした。しかし、いつの間にか、最後のひとりがオフィスを出るまで、留守電にせずに対応するよういなりました。
 すると「夜に困ってキリンのオフィスに電話しても人が出る」という評判が立ち、キリンのサービスの良さや熱心さという情報が広がっていきました。
−中略− 
 たとえば、あるディスカウントショップに10ケース単位でスーパードライを買いに来るお客様がいる。どうも消防署員のようで、厳しいトレーニングや勤務のあとに飲んでいるらしい。そういう情報が入ると、すぐさま、消防署に出向き、熱心にお願いして「わざわざ買いに出なくても、キリンビールならお届けします」と提案して、「じゃあ、今度からキリンにするか」となりました。
(99頁)

社長に猛抗議した女子社員はもう事務方ではなく、土佐では外回りもする戦力と化していたという。
働くというのはこういうこと。

 花見で飲むビールの銘柄は人気投票のようなものです。
 宴の翌日現場に行ってみると、ゴミ箱には昨年まではアサヒ8割、キリン2割だったのが、ほぼ互角の空き缶の数になっていました。
(102頁)

(番組では「全社員が桜の下で泣いた」と言っているが、そういう記述はない)

 1997年に37%と落ち込んだシェアは、1998年に反転し、その後も着実に上昇を続け2001年に44%となり、ついに高知県ではトップを奪回しました。(106頁)

 まず高知以外の愛媛、徳島、香川はどうであったかというと、実はどこも以前の高知と大きくは変わらない状況でした。(113頁)

 またたまたま、高知が5年ぶりにトップを奪回した2001年に、キリンビールは逆に、四十数年ぶりに2位に転落したのでした。(106頁)

しかし一か所だけでも勝っているという。
この大坂夏の陣の真田丸同様「高知は勝ってるんだ!」というのは全社に檄としてその名が響く。
当然のことだが、田村さんはここまで優秀な方なのですぐに四国全県の統括本部長として香川高松への転勤が決まる。
(本によると「四国4県を統括する四国地区本部長」)
この人は、この本を読んでいても仕事中毒のそういう人ではない。
やはりどこか深い。
今、働き方などで悩んでいる人がいたら、この人の働きぶりをちょっと振り返ってみてください。
この人は自分の仕事に対して、あるいは本社に対して「疑念を持っていた」という。
キリンビールという会社は、社会に必要なのか?
巨視的な目で自分の会社を振り返るという。
働くということは時として哲学的でもある。

この方は売り上げが思わしくない時は自分の仕事にいて考え込んだ。
考え込む材料は「自分が懸命に勤めているこのキリンビールという会社は社会に必要なのか?」。
考え続けて、こう考えをまとめる。

・百年の歴史と「品質本位」「お客様本位」の理念をもつこの会社は残すべき会社である。
・日本人に愛飲され、ひとりひとりの大切な記憶につながるキリンラガーは、守るべきブランドである。
・だから、最後のひとりになっても闘う
(79頁)

大きな「理念」を胸の中に持っていないとダメなんだという、そういう考え方がいい。
若い時に学生運動をやっている先輩から説教をされた武田先生。
フォークシンガーになろうかなるまいかと、ウジウジ悩んでいる時に学生運動をやっていた先輩。
頭のいい人だった。
その方が「武田君、戦争に協力せん職業はみんな尊いとよ」という。
それに何かえらい深く感動したことがあった。
何かそう言われると急に芸人風情でも胸を張りたくなる。
理念の問題。
そういうものがないと人間というのは生きていけない。
社長以下の顔を並べて「社会全体にいかに奉仕しているか?」それから「この会社を必要とする人がいるだろうか?」という。
この2点のみチェックするだけでも働き方は変わるような気がする。

ついに高知から飛び出して四国全体、全県の戦いを担当することになった著者の田村氏。
アサヒも素晴らしきライバルで味をよくするためにものすごい巨費を投じて愛媛にビール工場を作り、新鮮なビールを四国全県に供給する。
サプライズ、キリンを圧倒している。
故に今度の新しい転勤地の愛媛はものすごくアサヒが強い。
松山は武田先生も歩いたことがあってよく分かるが山深いところ。
松山には南予エリア。
これはアサヒ系の問屋さんがシェアを独占していて、キリンは持っていない。
これはもう致命的。
つまりお城がない。
基地がないので出撃できない。
そこで著者も感動する。
著者が全体の統括を面倒を見るということで四国の営業マンたちが奮い立ったのだろう。
「よーし!高知に続け!」ということで。

 ここでひとりの南予担当者M君が、自分の考えでアサヒ系の2つの問屋に行き、なんと、
「なんでもお手伝いしますから、トラックに同乗させてください」
 と頼み込んで、問屋の営業マンと一緒に南予を回り始めたのです。
 はじめはアサヒ系の問屋も提案にびっくりしていましたが、キリンの営業マンが一日中汗を流しながら、アサヒビールや日本酒の上げ下ろしまで手伝ってくれたものだから、「キリンの社員はプライドが高いと思っていたけれど、本当に一生懸命やっていた」と信頼を得て、「これからはキリンも売ろうじゃないか。
(117頁)

(番組では愛媛県の全員の営業マンがやったと言っているが本にはそう書いていない)
キリンの社員たちは営業所を持っていないのでアサヒビールの問屋さんまで出向いてアサヒビールの積み下ろしを手伝う。
そのことによって顔をお店の人に知ってもらおうという努力を重ねるという。
敵方のビールを下ろして回った。
で、お店の人が「アンタ誰?」と言うと「ワタクシ実はキリンの営業マンで」「え?アンタ、キリンなのかよ。アサヒ手伝っていいの?」と笑われて「しょうがねぇな。じゃあ来週持っておいでよ」とか。
何ケースか買ってくれるという。
そういう巨大なダムにアリが穴を開けるような作業を営業マンがやる。
これは本当に、水谷譲が言ったが大変だし、ある意味空しい。
ところがこの田村という所長さんが帰ってきた営業マンを絶賛する。
「無駄な努力」とか言わない。
「よくやった」とか言う。
(という話も本の中には出てこない)
その新統括の本部長さんを迎えたことによって全店が色めき立つ。
「俺らも何とか高知に続いて四国を奪還しよう!」という。
今度は徳島支店がものすごい手を考える。

 徳島支店が考えた戦略は、コンビニエンスストアの攻略。−中略−目の前にいつもお店があるので、少量でも扱っていただいているなら訪問してみようとお店に行ってみたところ、店員はアルバイトが多いので、直接訪問しても商談できないことがわかります。商品陳列の権限はオーナーにあるからです。当時、オーナーはアルバイトを確保しにくい夜の時間帯をカバーしていることが多く、夜中に出てくる店も少なくありませんでした。
 そこで徳島支店は全員で、オーナーが出てくる夜の12時から明け方の4時までコンビニを回りだしました。
−中略−
 深夜の訪問を受けたオーナーも、深夜にやってくる営業は初めてですから、話を聞いてくれました。
(119頁)

夜中で話し相手のいない寂しい時間帯だから、ずっと話を聞いてくれる。
1週間に3回ぐらい連続で来られるともう、オーナーの方から中で「ハイハイハイ!」と手を振っている。
(とは本には書いていない)
それで「何缶か置いていきな」。
その一言で驚くなかれ、一年で売り上げが5%伸びたという。
この営業マンたちの努力というのは凄いものだ。
それから問屋さんの手伝いで「1ケース置いてください」が積もり積もって、アリの穴がだんだんデカくなってきたという。
このあたりが働くことの一種「面白さ」。

ここまでで本の半分ぐらいだが、この後、この人は全国展開でキリンビールを立て直していく。

著者は懸命に今、四国で戦っている。
このあたりも本当に申し訳ないが、死者を出してしまったあのセレブ会社との「違い」かも知れない。
何か面白い。
片一方では警察に踏み込むような大騒ぎになり、片一方では生き生きとした労働物語。
著者はこの本の中で懸命に叫んでいる。
「職場における女性というのは、すごいパワーを持っているんだ」と。
高知支店で「ラガーの味を元に戻せ」とキリンの社長へねじ込んだのも電話番の内勤の女性社員。
営業マン達の苦悩を見かねて、この内勤女性は社長がやってきた時に「たっすいは、いかんぜよ」と言いながら「ラガーの味を元に戻せ!」という、その辺の社員ができないような交渉をやる。
そういうことを経験した著者は「女性ってのはパワーなんだ」と。
女性社員のやる気というのはもう、全軍の士気に関わるということで。

総人員を増やすのは難しかったので高松に置かれた四国地区本部で勤務する総務、企画、経理、営業サポートといった役割の女性の内勤者と話し合い、合意を得られたメンバーから、営業現場に出てもらいました。約20名中3割程度でした。
 これは正直なところ、抵抗にあいましたし、自ら営業マンになりたかった女性社員はひとりもいなかったと記憶しています。
(121頁)

ちょっと得意先との接触なんかで「女性営業マンは・・・」というような首をひねるような趣もあったのだが、この著者の元で働きはじめると女性たちもグングン生き生きとしだし、女性社員が混じった方がはっきり売り上げが伸びる。 
この四国4店を見習えということで、キリンビールでは内勤女性に対しては「宝の山」というニックネームでもう全国展開になっているようだ。

2年半の在任中に四国4支店の数字は反転し、県別売り上げ対前年比でも4県ともベスト10入りという快挙も上げるように優秀な支店群となりました。(122頁)

 2007年3月、わたしは12年ぶりに東京の本社に戻り、営業部門と商品部門を統括する営業本部長に着任しました。(147頁)

(番組では四国の次が本社のように言っているが、四国の次は東海)

働き方が問われる時代。
また、過労死等の職場環境が社会問題というような時代になった。
テレビでこの働き方に関して発言をしたら、番組のディレクターさんから「武田さんがそれを言うと、私、クビが飛びます」と言われたことがある。
「働いていいんじゃないの?死ぬまで」と軽く言ったので。
怒られてしまった。
しかし、この本を読んでいると本当に昔読んだ『太閤記』。
あの天下取りに挑んでいく一武将の物語を読むようでワクワクする。
この本の中に込められた、著者が社員としてキリンという会社に所属しながら「本当にこの会社は社会に必要なのか」「本当にこの会社はこれからも社会に尽くすつもりなのか」。
そのことをとことん考え抜いたという、その姿勢がとても惹き付ける。
給料を手にする前に、この人はこのことを考えている。
その理念の確かさがこの人の労働意欲、そして働くことへの炎の熱さになっているような気がする。
「労働条件」でなく「労働理念」がなければ人は働けない。
頭の中に何がパーッとよぎったかというと、トランプさんがよぎった。
「アメリカファースト」も結構だし「アメリカに最も職をもたらした大臣として歴史に残りたい」と仰るが「働く」とはそういうことではない。
トランプさんは何かちょっと勘違いしてらっしゃる。
そういう危険性がある方。
あの人、仕事仕事と言うが、彼が夢見ている白人男性労働者の筋骨隆々たるハンマーを振り回すような働き方。
そこではもう「ロボット化」。
トランプさんはロボット化していく産業界に対する逆行でもある。

この本の中に込められたものは「働く人の物事の考え方が働くことを明るくしていく」というか。
上の方が仕事を作るんではない。
「下の者が仕事を作っていく」という。
そのことが一番職場にとっては大事なような気がする。

2017年3月13〜24日◆龍馬のビール(前編)

武田先生の歌は過労死をいざなうような歌で、非難の的。

母に捧げるバラード'82 (1982年10月20日 福岡サンパレス ライヴ・ヴァージョン)



人間働いて、働いて、働き抜いて、もう遊びたいとか、休みたいとか思うたら、一度でも思うたら、はよ死ね。

そういう意味で武田鉄也っていうのは非常に現代に逆行する。
そんなこんなで「働き方が難しい」という昨今。
とどのつまりはあのエリート集団、セレブカンパニーと謳われた巨大な巨大な広告代理店。
そこの女子社員の過労自死から警察が踏み込むという。
あそこの社員さんの男性は、どこかの大手の会社の坊ちゃん。
それがあそこの広告代理店に入っていたり。
それから東大の方なんかが非常に多い。
悠然とした会社だったのだが、いつの間にかブラック企業同様に「ガサ入れで捜査を受ける」という時代になったという。
このあたりでこの「働き方」というのが難しくて。
入社当時にまず部長に「這ってでも会社に来い!」「自分の番組は死んでも守れ」「死守しろ」と言われた水谷譲。。
「それがプロの世界なんだ。カッコイイ」と思い、そのつもりでやってきた。
そういう時代だった。
武田先生同様「遊びたいとか休みたいとか思うな!」という。
それが今はもう、大問題になる。

キリンビール高知支店の奇跡 勝利の法則は現場で拾え! (講談社 α新書)



そんな時に思わずこの本に手が伸びたのは、高知県の小さなキリンビールの高知支店が全社をあげて懸命に頑張って営業成績を好転させたという。
そういう仕事の歴史。
その戦歴の記録。
自死する社員がいたり、職場をブラックと告発する社員のレポートの方はニュースメディアの方でやってらっしゃるのでお任せして『三枚おろし』は全く逆の人、中年で単身赴任で懸命に社の為に働いた「勤王の志士」を取り上げて皆さんにご報告したい。
(番組中、著者のことを「単身赴任」と言っているが、本を読んだ限りでは家族と一緒に行っているようだし、単身赴任だとは書いていない)
舞台はまさしく土佐の高知。
売るべきは「キリン」。
伝説の「龍」と「馬」のキマイラ複合神獣、これがシンボル。

ミニミニ知識で、あのキリンビールのキリンはよく見ると小さい絵文字で「キリン」と書いてある。
あのキリンの絵の首根っこのところにマークが付いていて、あの中に「キ」「リ」「ン」という文字が入っている。
この「キリン」というのは、とある人から言えばあれは何と「龍」と「馬」の合体だそう。
「龍」と「馬」の合体が「キリン」であるならば、ビールを高知支店で懸命に売ったという物語は、これは一つの現代の「龍馬伝説」ではないかと思って取り上げた武田先生。

ビールも様々。
アサヒビール、サントリー、地ビール等々。
東京あたりではオリオンビールも売っている。
外国ビール。
バドワイザーとかクワーズ。
ビール戦争は大変なのだが、今回の場合はキリンを取り上げる。
この物語は田村さんという方がビールを売るために支店長として高地へ転勤になったというところから始まる。
著者の名前は「たむらじゅん」さん。
ロンブーではありません。

まずはビールの歴史から振り返っていく。
一説によるとビールという飲み物は西南戦争の頃にもうすでに札幌でスタートしている。
それで西南戦争が落ち着いた時に大久保(利通)が「ビールで一杯やろう」とパーティーを企画したという。
それぐらい明治維新になって10年後にはもう日本人の・・・。
それから夏目漱石先生がよく飲んでいた。

 1888(明治21年)年に「キリンビール」を発売します。(18頁)

大日本帝国憲法発布直前に発売になっている。
意味深。

1907(明治40)年に岩崎家によってジャパン・ブルワリー・カンパニーを引き継いだ麒麟麦酒株式会社が設立され、−中略−出資者である土佐の岩崎家などは、三菱創業と同様、理念を大切にする方針を掲げています。(18頁)

 関東大震災、第2次世界大戦の生産統制などさまざまな困難はあったものの、1954(昭和29)年に国内シェア1位の座に着きました。
 そこから長らく「ビールはキリン」という時代を送り、1970年代初頭、物価の高騰が社会問題となると、シェア60%を超えていたキリンには批判が集まるほどになりました。独占禁止用による分割はまぬがれたものの、一時は〈売り過ぎない〉ようにするほど、市場においてガリバーの存在になったのです。
 しかし、1987(昭和62)年にアサヒビールが「スーパードライ」を発売したことを契機に、売り上げは急落します。
(18〜19頁)

アサヒ スーパードライ 350ml缶×24本



 スーパードライは、発酵度を非常に高めた製品で、コクとキレという対立する概念をひとつのものとして「美味しさのイメージ」をつくりました。(19頁)

 しかしキリンは、1990年に「一番搾り」を発売して大ヒットさせ、スーパードライの勢いを止めることができました。(19〜20頁)

キリン 一番搾り 350ml×24本



 しかし1993年に総会屋への利益供与事件が起こり、1995年には新製品「太陽と風のビール」に雑菌が混入する事件まで発生。
 1976年にビールの国内シェアが63.8%もあったのが、1995年には50%以下にまで落ち込み
(20頁)

 そのようななかで、数字上の危機感から、百年の伝統がある「ラガービール」の味覚を変更するという決断をし、新しいラガービールとして広告も一新して1996年2月に発売しました。(20頁)

キリン ラガービール 350ml×24本



従来のラガーは、喉にガツンとくるコクと苦みが特徴で、多くのファンをつかんでいましたが、スーパードライを支持している若者や女性層を取り込まなければならないと、飲みやすいタイプに方針転換したのです。(20〜21頁)

NHKの大河ドラマもそう。
女性を若者向けに舵を切った。
香取慎吾君の『新選組!』ぐらいから。

香取慎吾主演 大河ドラマ 新選組! 完全版 第壱集 DVD-BOX 全7枚セット【NHKスクエア限定商品】



昔から「NHK大河ドラマ俳優」というエリート集団がいた。
この方々は3年に1回ぐらい出ていたのだが、NHKは全部やめちゃった。
それでとにかく若手の俳優さんで。
武田先生の大河ドラマデビューは『草燃える』。

石坂浩二主演 大河ドラマ 草燃える 総集編 全3枚セット【NHKスクエア限定商品】



石坂(浩二)さんの子分の安達藤九郎盛長役。
それから『徳川家康』の豊臣秀吉。
『太平記』の楠木正成。
それから『龍馬伝』の勝海舟。
それから『功名が辻』では一豊の一番の家来。
そういう意味でやっぱり雰囲気が変わった。
同じこと。
このことで悩んだのだろう。
若者と女性向けに「新ラガー」。
これは味を変えてしまった。
キリンお得意の「ホップを効かせる」というのをやめちゃって、あんまり苦くないビールを発売する。
ところが急激に売り上げが落ちていく。
中でも急激に売り上げを落として最下位の支店が実は高知支店。
ここに赴任した著者は・・・ということで「たかがビール」を売るために「されどの努力」が始まるという。

とにかくグングンキリンビールが売れなくなった1996年、著者は中でも売り上げ最下位の高知支店へ回される。
そこの支店長に単身赴任で赴く。
(と番組内では言っているが、支店長になったのは1995年。そして「単身赴任」という記述は無し)

 当時の高知支店は全部で12名。支店長に営業マンが9名、そして営業のサポートをしている内勤の女性が2名です。(24頁)

その1996年、どうあがいても勝ち目はなく、高知キリンビールは惨憺たる負けっぷり。

 まずは11人のメンバーに「なんで負け続けているのか」とヒアリングを行いました。(31頁)

 飲食店で飲まれているビールはビール全体の25%でしかありません。75%は家庭で飲まれているのです。
 しかし、家庭で飲まれている酒は、量販店でまとめて買ったり、酒屋さんに注文して届けてもらったりしているのでここを変えるのは容易なことではありません。
(38頁)

つまりご家庭一軒一軒のことなので、営業で「置いてください、お願いします」と頭を下げても売り上げに直結しない。
まず勝負を仕掛ける25%の居酒屋、レストラン、ビアホール、焼き肉店等々へ頼み込んでキリンを浸透させること。
「とにかく1本でもいいから置いてくれ」というので月に30〜50軒、顔を繋いで営業マンが歩き回る。

アサヒも四国の中に工場を作ってそこから売って行く。
だから現実に味も良い。
アサヒの勢いはすごいからこうなればもう仕方ないと「月に1人100軒回ろう」というので、営業マン9名全員で100軒を回ろうと決意する。
(とは本には書いていない。)
でもアサヒの営業力が凄まじくて何の効果もない。
飲食店は次々と特約問屋の契約を結び、割って入る隙がない。
その上、担うべきビールがない。
キリンの旧ラガービール。
これが本当に切ないことにファンが多い。
「新」はものすごく評判が悪い。
武田先生はそこまでではないが、事務所の社長がビールにうるさい。
やっぱり分かるらしい。
かつて飲んだ「あの苦味」というのがないと、もうとにかく。
月100軒の顔繋ぎ営業も効果がなく、たちまち元の木阿弥。
営業マンたちのボルテージがスッと下がった。
この時に9名の営業マンを前にして支店長である田村さんは拳を振り上げる。

「あなたたちは、年頭に目標をリーダーと合意しましたね。営業活動をやって会社に帰ってきた時点で、目標の訪問数に達していないのに、なぜ家に帰るのか。極端なことを言うようだが、目標数を達成していないのなら家に帰ることは許さない!」
−中略−信頼を取り戻すのが、我々の使命なのだ。その責任を果たさないといけない。信頼を取り戻すために『やる』と決めたことができないなら、会社にとって必要がない。辞めていただいて結構だ。(45〜46頁)

(このあたり、番組内と本の内容とは前後関係に喰い違いがあるようだ)
どこかの大統領じゃないが「ユア・ファイヤーだ!」と叫んだのだ。
この怒りはかなり危険。
これは現代ではパワハラになりかねない。
「しかし私は一本筋を通した。それは全員で語り合って100軒回ろうと決めたんじゃないか」っていう。
「それを早々とあきらめたらどうするんだ」と。
問題になった会社なんていうのは「仕事に喰らいついたら死ぬまで離すな」。
水谷譲も放送局に入った時は番組を守るためには「這ってでも現場に来い」という叱咤激励が。
はっきり言ってしまうと、死ぬ気で働くかどうかというのは、個人の決意で会社の決意ではない。
武田先生の歌(『母に捧げるバラード』)でいうと、母が武田先生に行ったことで、同じことを絶対人には言わない。
息子だから言う。
お言葉を返すとすれば、会社の上司が考えて手帳に印刷することではない。
やっぱり田村さんが仰るように、それは印刷せずに表情で、熱意で、息で伝えるもの。
己で決めたこと。
会社が命じたこと。
これは天地の差がある。
田村さんがこだわったのは「己で決めたことではないか」ということ。

 入社2年目のある営業マンは、1カ月に飲食店を200軒訪問する、と目標を宣言しました。(49頁)

他の8人もその新人につられて「じゃ、僕も」というので、みんなまた一歩前に出ちゃったという。

 不思議なことに、結果が出ずとも、ガマンして4カ月目に入ると、皆、身体が慣れてきました。(50頁)

これが働くことの難しさ。
では、この高知支店がなぜブラックにならなかったのか?

アサヒにやられっぱなしのキリンビールの支店。
やってもやっても切り込んでくるスーパードライに勝てない。
必死になって努力が始まる。
県内二千軒の飲み屋さん。
それを小まめに9人の営業マンが回る。
ところが高知県と言っても室戸から四万十まである。
本当に和歌山県の横から大分の横まである。
高知県内を室戸から四万十、中村まで、これを9人でカバーする。

 当時の高知県の人口は約80万人。東京の世田谷区ぐらいの人口ですが、その人たちが世田谷区の約120倍もの面積に住んでいるのです。(66頁)

それを9人で戦いぬく。
高知支店は殆ど絶望的な戦いに挑んでいく。
パワハラになりかねない支店長だが、この人の凄さは負け戦の中で必死になって勝ち目、勝機を拾い集めようとする。
その「勝機」「勝てるかも知れない」という糸口のために、この方は戦略「なぜ負けるのか?」。

なぜ売れるビールと売れないビールに分かれるのか。
 それは、情報です。
「美味しそう」
「元気がいい」
「売れている」
(58頁)

アサヒは凄いことに生産工場も愛媛に置いて、広告展開も実に営業スタッフ共々、必死になってやっている。
「それをどうやって崩すんだ?」と疑問を抱えながら懸命に彼は歩く。
しかし、よくこの負け戦を見ていくと、やがて奇妙なことに気がつく。
それはキリンラガービールだけは人口の比率で割ると一人あたりの消費量はアサヒに買っている。
アサヒもキリンも他にいっぱいビールの種類がある。
ラガービールだけは一人あたりの消費量は高知ではギリギリ1位になっている。
「指一本、まわしに指がかかっている」というようなお相撲。
そんな指一本、一か所だけ、ラガーだけまだ評判がいいなら、そこを突いて宣伝しようと思う。

「この300万円を使ってダメなら、もうごめんなさしよう」という気持ちで仕掛けたのが、「高知が、いちばん。」という新聞の15段広告でした。(68頁)

 しかし、この「高知が、いちばん」というコピーは、高知の人々の琴線に触れることができました。なにせ、離婚率が全国1位から2位になっても悔しがる県民性です。
 高知の人は「いちばん」が大好き。
(70頁)

ラガー瓶消費量日本一の高知県の市場は、ラガーの味覚変更にハッキリとノーと言っていました。料飲店を回る営業マンは何かにつけ、「味を元に戻せ」「あの苦味が良かったのに」と言われ続けていました。(74頁)

県東部の安芸市の酒販店に一生飲む分としてひとりで100ケース、2000本!もの旧ラガーの注文が入ったという報告がありました。(43頁)

(番組では「10年分」と言っているが、本によると「一生分」

キリンは若者と女性向けに苦味を抑えてラガーの味を変えた。
現実としてはそれで女性と若者が伸びたところもある。
だから変えたからすっかり落ちたということではない。
全体としては負けているけれども新規のお客で若者と女子を呼び込んだという一側面もあるそうだが、いかんせん現場、つまり土佐の高知、高知県ではものすごく新ラガービールは評判が悪い。

 1997年11月、佐藤社長が全国視察の一環で高知支店に巡回してきました。その際、視点のメンバーと意見交換する場が設けられました。皆が挙手して忌憚のない意見を言いましたが、女性メンバーのひとりが「ラガーの味を元に戻してください。なぜできないのですか」と、ずばっと社長に迫りました。
「そういう意見は聞いている。けれども、すぐに会社の方針をぶれさせることはできないんだ」と、社長は答えました。
 あとで社長が泊まっていた高知のホテルで一対一で話したときに、怒られました。
(84頁)

(番組では全部社長が高知に来た時の話にされているが、著者が味を元に戻すように訴えたのはこれより前の「全国支店長会議」。飲みの席で女子社員が「たっすい」と言ったという話になっているが、上記のように飲みの席ではなく「意見交換する場」で、「たっすい」の件はこれより後に出てくる)

 1996〜97年の大苦戦していたときに高知の方から受けた叱責の言葉は「今度のラガーはたっすくなった」「こんなたっすいビールは飲めんぜよ」が圧倒的に多かったのです。「たっすい」とは土佐弁でさっぱりしているとか、味が薄いという意味。(96頁)

土佐弁は方言でありながら論理性が一本。
関西弁は接触(触ること)の方言。
「どうだす?」「ああ、ぼちぼちだすがなぁ」とかっていう接触面を柔らかくする。
でも土佐弁は言語による斬り合い。
「いうたちいかんちゃ」「何をいうちゅうがーじゃ。このままじゃキリンはいかんがぜよ」とかって言うと、リズムに乗っかって剣道の竹刀で打ち合うようなリズムが出てくるから「たっすいがいかんがぜよ」とかって言われると社長もポンポン竹刀で頭を叩かれているみたいな感じになって「何を言っているんだ君は!君、田村くん!酔ってるよ、この子は」とかって。
でも「たっすいがいかんぜよ」は耳に残ったのだろう。
(社長に向かって「たっすい」と言ったという記述は一切ない)
「たっすい」というのは土佐弁ではまた他にも深い意味を持ち、もう一つ「煮え切らない」「断固としてない」。
(調べてみたが、そういった意味は見つけられなかった。本の中に高知の人の意識として「煮え切らない」のをよしとしない気風があるといった記述があるので、それと混同したものか)
龍馬の故郷なので「いごうっそう」を好む。
ちょっと変わり者でも断固としたもの、その個性をやっぱり。
佐藤社長は相当異様な方言を投げつけられてクラっときたのだろう。
この「たっすい」が巻き起こした騒動はやがてキリンに大旋風を巻き起こすことになる。

2017年07月24日

2017年2月13〜24日◆心はすべて数学である(後編)

これの続きです。

全文表示 | 将棋スマホ不正指摘に「待った」 「出場停止」三浦九段は疑惑を否定 : J-CASTニュース
スマホとナビというものは「すごいなぁ」と思う武田先生。
感動する武田先生。
誰かが一回やっておくと「それは全ての人に使い回しができる知識となって残る」ということ。

現代数学は今、カオスの問題に直面し、数学者はこのカオスと格闘している。
カオスとは何か?
それは「要素」は二つの軌道がまじりあっていること。

 このカオス的な軌道の集合がもっている意味とは、その集合の中に加算無限個の周期解(周期的な運動)と非加算無限個の非周期解(非周期的な運動)があるということです。(70頁)

何か「バカじゃ使え無い」みたいな感じがしていい。
「それはいわゆる加算無限個の問題でしょ?」とかって東大の学生さんで話しているような感じがする。

このカオスの問題は最近、脳と心の関係にそっくりであるということが発見されたという。
ニューロンというものの集合体が脳。
ゼロか1かでこの脳の複雑な動きをしている。
計算機もそう。
コンピューターも基本は「0」「1」。
「ある」か「ない」か、それだけ。
ところが、その「脳に心が宿っている」ということは「脳も実は心があるゆえにカオスなんだ」と。
数学的には脳が心を表現していると同時に、心が脳を表現しているという等式の定理が発見された。
「逆もまた真」だったのだ。

 心が脳を表現している──。そう考える立場から行われている実験の一つにバイオフィードバック(生体自己制御)があります。−中略−例えば血圧を下げることを考えてみましょう。血圧を意識的に下げたいと考えたとき、「血圧よ、下がれ!」と思っただけでは血圧は下がりません。−中略−ところが、血圧計で測って現在の血圧の状態が絶えずモニターできるようにしておくと、血圧を上げたり下げたりできるようになるのです。意識で血圧をコントロールできる、これをバイオフィードバックといいます。(81頁)

これをやってみている武田先生。
人間ドッグでお医者さんに迷惑をかけている。
白衣高血圧。
白衣を見ると血圧が上がる。
この間先生から「もういい加減あたしたちに慣れて下さいよ」と言われた。
血圧を測って持っていく数値と、病院で測るのとでは50以上違う。
やっぱり(白衣を)見ただけで緊張する。
入るだけで嫌だ。
ずっと「また高く出るんじゃないかなぁ。また高く出るんじゃないかなぁ」。
武田先生は慌てるタイプなので「ちょっとシャツをめくって下さい」と言われるとジジイなので厚着している。
全部脱いで裸の腕を出すだけで「ハァハァハァ・・・」となっている。
先生も時間がないだろうから、ちょっと急がないと悪いと思ってしまう。
その病院のせいではないのだろうが椅子(のキャスター)が固い。
椅子のコロコロの滑りが悪くて、前に行かないからケツで押しながら行くので「ハァハァハァ・・・」ともう(息が)はずんでしまう。
それで(血圧計を測る時の)「シュッシュッシュッ・・・」という音がダメ。
先生が心配そうに「低く出るといけどね」とか言うと「高くなるんじゃないかなぁ」と「ええ?180!!」とかって言われるともうダメ。
この間やっぱり先生から「慣れて欲しいな、私たちに」と言われて「先生のこと俺、好きなんですけどね」とカラッカラの声で言ったのだが「まあ、冗談はそのくらいにしときましょう」と言われてしまった。
本当に何もうまくいかない。

はっきりしていることは、血圧は「意識」によってコントロールできる。
これは血圧だけではなくて、血流というものが目に見えるんだったらば意識下でコントロールできる。
心拍数とか血圧とか血流とか。
これはなぜかというと心を動かす「非加算無限個」で変えることができる。
つまり「心で脳を変えることができる」。
このことが発見された故にこの本のタイトルが「心は数学である」という。

「1」という単位のニューロンで、その集合体でできた「脳」というものはこれは「加算無限個」なわけだから「非加算無限個」の心で動かすことができる。
これは今、始まったばかりの研究分野であり、本人が一所懸命祈るワリには武田先生の血圧も下がっていない。
しかし科学として「それは可能である」ということは「定理が発見された」ということ。
「希望そのものが病を」という可能性が科学あるいは医学の中にちゃんとあるそうだ。

 ノーベル賞(物理学賞と科学賞)のメダルの裏には二人の女神が刻印されています。自然の女神はベールをかぶっていて顔が見えない、科学の女神、スキエンティアはそのベールをあげて自然の女神をのぞき見ている。つまり自然の女神のベールをはがそうとするのが、自然の理を解き明かそうとするのが自然科学者だというわけですが、朝永振一郎さんは、「そういうぶきっちょなことをしてはいけない」「ベールの上からでも素顔がわかる科学というものがあるのではないか」と考え続けました。そして彼は亡くなる前に「今でいえば、地球物理のようなものがそうだろう」と言った。地球物理学は、地震にしても火山にしても厳密な意味で予測可能なモデルが作れないという難しさをはらんだ学問なのです。(94〜95頁)

日本は全世界の地震と火山の被害の数十パーセントを引き受けているようだ。
去年の10月ぐらいだったか釜山で地震があった。
<韓半島最大規模地震>慶州で地震、ソウルも揺れた | Joongang Ilbo | 中央日報
大陸に住んでらっしゃる方は「地面は揺れない」と思ってらっしゃるからパニックの度合いがひどい。

著者はここから脳の数学的解釈を始める。
「脳は複雑系である」と「カオス的臓器である」。
脳は自分で自分を自己組織化する。
私達は成長する一年ごとに記憶と組み上げていく。
自己組織化には秩序が必要である。
そしてその秩序のためには非平衡状態、つまり絶えず外部とのエネルギーのやり取りがなければならない。
これは難しいことを言っているようではあるが「絶えずオープンマインドで心を開いて他と情報をグルグル交換していないと、人間というのは自分で自分を支えることが出来なくなりますよ」ということ。
「孤立主義はありえない」ということ。
それから「一国だけの正義」というのは、それがもうすでに悪である。
「正義」とか「善」とか「価値」とかっていうものは絶えず他人と交換しながら値打ちが決まっていくものであるという。
絶えず外部とのエネルギーのやり取りがなければ「自分である」というそういう自己組織化ができない。

脳の単位はニューロン。
それを繋げば脳のネットワークができると思われがちだが、そこには定理がなくニューロンは外からの情報エネルギーが入ってこなければ組織化されない。
脳にはネットワークがある。
そのネットワークというのは外から情報が入ってくるとネットになっていくのだが、入ってこないとただの棒になる。
もっと平たく言うと「他者によって自己ができる」というふうに脳はできている。
「私は『私』から生まれるのでなく、外にいるものから生まれてくる」という。
(水谷)加奈さんは「加奈」と名乗るから「加奈さん」ではなく、「加奈さん」と呼ばれることによって「加奈」になっていった。
「ママの自分」を想定すると分かる。
妊娠して子を産んだからママになったんじゃなくて、生まれてきた子が「ママ」と呼ぶからママになる。
この人はそういうことを言っている。
「私はアナタから生まれてくる」というのは実に哲学的でもある。

 そもそも、なぜ神経系は記憶という装置を作ってしまったのか? これは大きな神秘であり、問いです。環境が完全にランダムで予測できないものだとすると、記憶はそもそも役に立ちません。−中略−一方で、予測可能なことだけが起きているとすると、これもまた記憶は必要ないことになる。例えば一定の間隔で太陽が昇り沈むという周期運動は記憶する意味がないわけです。まったく同じことが繰り返し起きるだけですから。(124頁)

つまり「必然」と「偶然」。
これが大きく波打って訪れるからこそ、脳は記憶を作り知覚を使って、更に幻覚まで作ったという。
何気ない物が人間の顔に見えたりする。
木の茂みが人の顔に見えたり。
それはちゃんとした脳の活動。
幻覚活動。
それはアナタが最もその事を気にしていることの象徴。
記憶を進化させるためにそういう幻覚も含めて一定の「ゆらぎ」或いは「のりしろ」が必要。
「記憶する、しない」で絶えず「捨てる、拾う」で選別する。

 記憶という高度な心の働きのみならず、脳のゆらぎが持つ知性を説明する上で、現象学のフッサール(1859−1938)による「宙づりにする」という概念が関係するように思われるのです。それは勝手に解釈すると「不定性」と言い換えられるかもしれません。不確定ではなくて「不定」にする、つまり判断をいったん停止させるということです。(140頁)

脳における「保留」はすごく大事らしい。
「保留」がなくなると人間はどんどん考え方が狭くなっていく。
これは脳とか心の話をしているが「対外関係」とかもそう。
なんでも正体を射止めようとギラギラしている人は付き合っていて息苦しくなる。
やっぱり保留できない人というのは側にいるだけで息苦しい。
「Get out!」って叫ぶ人はあまり好きじゃない。
「尊米攘夷!」「天誅!」
そういう人はきつい。
5万人しかいないのに「50万人いた!」と断定するな。
この「ジャッジしない」「保留しておく」そういう能力というのが次に起こった事態に対処する時のアクションの起こし方に関係してくるという。

判断を保留すると「大脳をジャッジに使わない」ということ。
大脳の他に考える脳がもう一つある。
これが小脳。
小脳が担当する。
大脳でなく小脳が担当すると直接考えずに手足を動かすことになるワケで、ニューロンを伝う時間をショートカットしてアクションが決定する。
これはいわゆる「心の自動操縦化」に移る。
こういうことが人間の脳にはある。
それがわかりやすく言うと「ピアニストの手と指」。
あれは自動操縦。
大脳を経由していないから小脳だけで反応しているという。
オリンピック選手の競技中の動き。
これも安定と不安定の中間にあえて自分を宙づりにすることによって脳の中の有り方、心が最もフレキシブル。
大脳を関与させないことによって別の能力がアナタを動かし解決策を見つけることがある。
そうすると人は最も身体の感覚、体の感覚が非常に高い状態が可能になる。

内田(樹)先生の言葉の中で本当にわからない言葉があった。
「身体感度を上げる」という。
「心の感性みたいなものの感度を高くする」という、その言葉の意味がわからなかった。
それは「安定と不安定の真ん中に自分をあえて置く」ということ。
「わかったような、わからないような、それでいいんだ」という。
ヘタくそながら合気道の練習をしている武田先生。
ミラー細胞を試すような練習。
見取り稽古。
師範(館長)が出てきて一番弟子と一緒に技を見せてくださる。
「ほら、こんなふうにすると人間は」みたいなことで関節技をかける。
それを数度見せておいて「やってごらん」と言う。
我々は「写し」のコピー機となってそれをやるのだが、これが動くとなると、小さな技でも分からない。
「若先生」という高段者の方がいらっしゃって「武田さん来て下さい」と技にかかってくださるのだが、どちらからかけていいか分からなくなる時がある。
「えーと・・・右の足から動くんだっけ?左の足から動くんだっけ?」という。
その右か左かで迷った時にもう若先生が容赦なく逆襲してくる。
その時に若先生の腕を振りほどこうとして手を動かすと、若先生が「それ!」と言う。
つまり「脳を経由させるな」という。
若先生というその高段者の人曰く「とにかく動く」という。
左右を考えないで、もうとにかく動いてみる。
「そこから技の型に入ることがあるんだから」という。
そういうことというのが人間関係でも恋愛関係でもあるのではないか?というのが言いたいこと。
「全部頭で考えない」ということがやっとわかってきた武田先生。

でもそれは今までちゃんと大脳で考えて考えて、考えてきたからこそ「小脳だけで動くことができる」ということではないか。
最初から大脳で考えない人はダメではないかと思う水谷譲。

現代社会の中で脳の問題が出てくるという。
テレビなんかでこの間騒いでいる人がいた。
「人工知能がいわゆる労働力削減に役に立つのはいいけれども労働者の敵になるんじゃないか?」みたいなことを言う方がいらっしゃった。
それ以前の問題でこういう問題が起こっている。

2000年のシドニーオリンピック、陸上の金メダリストで、ジョン・ドラモンドというスタートダッシュの速さで有名な選手がいました。−中略−2003年のパリの世界選手権で、彼は優勝候補と目されていながらフライングをして失格になってしまったんですね。2003年以前は、フライングを二度すると失格であったのが、2003年以降、そのレースで二度目にフライングした者が失格になるというようにルールが変更されました。ピストルの音が鳴ってから100ミリ秒(0.1秒)以内でスタートしてしまうと失格です。−中略−スタート地点とピストルの位置は、およそ10メートル離れていて、だいたい1秒あたり330メートルの速度で音が伝わることからすると、ピストルの音は30ミリ秒で選手のもとに届きます。さらにそこから脳に入って手足にその情報が伝わるのに、合計で100ミリ秒はかかるだろうという計算だと思うのです。つまり、音が鳴ってから100ミリ秒経つよりも前にスタートしたら、それはスタート音を聞くよりも前に動いているからフライングだ、と判断するのでしょう。
 ところが、そのときドラモンドは「絶対に自分は正しくスタートしている」と言い張って、トラックの上に大の字に寝てしまったんですね。
−中略−私は、このドラモンドの失格の判定は間違っていたのではないかと思ってきたのです。
 その後、スターティング・ブロックにかかった圧力の解析結果からは、ドラモンドは0.052秒で反応したことになって失格になりましたが、それはピストルが鳴る前から、彼の足が完全には静止していなかったため検知器が敏感に反応してしまった結果のようです。しかしこの時、彼の足は次に説明するような理由で反応≠オたのではないか。
−中略−ピストルで合図の音が鳴ったら、普通はその音波が耳にくると同時に、足にもくるでしょう。仮に足にも体を通る弾性波に反応するように脊髄反射をうまく訓練してエフェランス・コピーができるようなトレーニングをしていれば、最速で30ミリ秒でスタートしていたっておかしくないと思うんですね。(145〜147頁)

「居合抜刀術」というものがある。
あんなので「目にもとまらぬ」というのがある。
そういう「武術的動き」というのが存在する。
それをスポーツは許さない。
でも武道ではある。
座頭市さんみたいにパッ!と斬ると、斬られた人が「斬られた」と気づかないということがある。
斬られていることに気付かないほどの速さの剣の動きというのは存在するという。
そういう「戦い」みたいなのが今、実はスポーツの最前線で起こっているという。

心でも脳でも判断できない時、人間は何をするか。
それが人間の面白さ。
サイコロを振る。
どうしてもジャッジしなければならない時はサイコロで振って決めてもいいんだという。

2017年2月13〜24日◆心はすべて数学である(前編)

心はすべて数学である



小学校三年生で「数学」につまづいてしまった武田先生。
分数の掛け算や割り算に納得がいっていない。
「リンゴ半分と4分の1を割ると『ひっくりかえして掛ける』」というのが分からないヤツが、何で『心』になるんだよ!」という反発から買い求めた本。

 数学の天才、ガウス(1777−1855)が小学生のとき、「1+2+3+……+100を求めなさい」と学校の教師に課題を出され、即座に(100+1)(100/2)=5050と答えた、というエピソードが残っています。これは、n=100の場合ですね。ガウスは1から100までを一直線に並べて、その下にもう一列、今度は逆に100から1までを並べて上下の項をそれぞれ足せばすべてが101になる、だから101×100÷2の計算で答えが出ることを瞬時にやって見せた。(16頁)

(番組の中で、このエピソードは「1ページ目」と言っているが16ページ目。この時のガウスを「小学校三年の時」と言っているが、調べてみたが「低学年」といった記述しか見つからず、何年生かは特定できなかった)
これは100の場合OKだが、101の場合は、奇数になった場合は変わるのではないか?
最後の数が「n」。
だから「n(n+1)/2」。
それが「定理」。
最後の数字が「n」。
でも、この場合は偶数の100だから割り切れるのではないか?
101でいってみる。
次は102になる、その次も・・・。
偶数とか奇数にしたところで、この定理は成り立つ。

(ここから野球の「総当たりリーグ戦」の話が出てくるが、3月13日の放送内で訂正があった。以下の話は全て「トーナメント戦(勝ち抜き戦)」のことを間違えて「総当たりリーグ戦」と言っているようだ)
11チームの野球チームが総当たりリーグ戦で戦って優勝を決定する。
一体、優勝が決まるまでに何試合必要でしょうか?
何試合が行われるでしょうか?
これを一瞬で解けるコツがある。
試合総数は11チームが相戦う場合、何試合になるか?
ややこしいので、一回スケールを小さくしてみて、そのスケールから物事の共通項を探してみよう。
「2チームが戦って優勝が決まる」という試合があるとすると試合数は1個。
「3チームが戦って優勝が決まる」と試合数は2個。
 ・
 ・
 ・
11チームがリーグ戦で戦った場合、優勝が決まるまでの総試合数は10回。
99チームが戦って優勝が決まるまでの総試合数は98回。
スケールを小さくして物事を考えて、それからその中に潜んでいる公理・定式を見つけるという。
これが数学的頭。
私達は「足せ」と言われれば足す。
「10チームで戦う」というと「ABCD」まで考えると「1、2・・・」といく。
そうではなくて、スケールを小さくしてその中に潜んでいる定理を見つけるという。
これには武田先生はビックリした。

ピタゴラスの定理。

 直角三角形の斜辺の2乗は、他の二辺の2乗に等しいという有名な定理ですね。(17頁)

図1.png

直角三角形ABCの直角をはさむ2辺の長さをa、b、斜辺の長さをcとすると、
 c2=a2+b2
(18頁)

「ピタゴラスの定理を知ることによって何か得する?」
数学が嫌いなヤツがいつもいう一言。
「足し算、引き算の他、割り算掛け算ないねん!世の中には!!」と、なにわ弁で怒鳴った漫才師がいるが違う。

図2.png

ピタゴラスが言いたかったことは「この正方形2つを合わせたのがcの正方形だ」ということ。
「斜辺を一辺にする正方形と面積が同じだ」とピタゴラスは言っている。
でも、(水谷)加奈さんには不満がある。
「何で同じ面積になるのかが分かりません」
どうやってそれが確かめられるの?

図3.png

直角三角形を二辺延長して広げる。
縦a辺の長さの2分の1を足し、横b辺の長さを3倍になるように延長すると正三角形に包まれる。
ここで大きな四角形と小さな四角形が出来るが、大きな四角形の中の4つの直角三角形は小さな四角形の中に4つに畳める。
(この部分の意味がよく理解できない。本の中にはこの説明に合うような箇所が見つからない)
ピタゴラスの定理というのは面積の問題。
「不動産屋さん」に使う。
不動産屋さんがとあるマンションの説明をする時に「ほら、見て下さい。実はね、これピタゴラスの定理なんですよ」と言う。
「収納とテラスと廊下とこの居間。おんなじ面積なんですよ。いわゆる『a2+b2=c2』になってるんです」なんて言うと「そうか、ピタゴラスか!」みたいな感じで「へぇ〜、ピタゴラス使ってるんすか、この部屋」みたいな。
そんなことで心がグラッと動いて「借ります!」なんていうことになると、まさにこの本が言っている「心はすべて数学である」という。
一見狭そうに見えるが「収納と廊下を合わせると居間とおんなじ面積なんです」って言われると「へぇ、デザイナーやりますね」とかって思わず言ってしまう。
結局ピタゴラスが言いたかったことは「ピタゴラスの定理は面積の問題だ」ということ。
だから「数式で面積を表現した」という。
あのけつまづいた東京オリンピックのマーク。
市松模様じゃないヤツ。
彼が発想したのはTという字を元に「組み合わせによって立体にもなる」というオリンピックマークだった。
あれはバラバラにできる。
だから「立方体にもできる」というような強み。
平面に収まっているけれども「旗にもなるけど置物にもなる」という。
だからオリンピックマークは旗にされがちだが、一番最初のあの盗作の騒ぎを起こした人のヤツをオリンピックマークにしておくと置ける。
だからピタゴラスの定理というのも数式なのだが、実は面積を表している。
「間取り」を表している。

とにかく「心」。
現代医学では「脳に宿っている」というふうに言われている。
その心、脳について考えていこう。

今ここに、柱時計があるとします。秒針が連続的に動いているとしましょう。ずっと秒針を眺めているとスムーズな運動です。ところが部屋の壁など、どこか違うところを見ていて、次の瞬間に、いきなり秒針に目を向けたとします。すると秒針は不思議なことに、一瞬止まって見えるのです。−中略−
 その瞬間は止まっているようにしか見えない。だけど普段ずっと見ていると、連続的に見える。これは脳が勝手に予測して、時間の隙間を補完しているからなんですね。予測能力があるから補完できて、離散化された脳の処理を連続的に、滑らかに復元しているわけです。
(44〜45頁)

さらに「海馬」という脳の部位は200分ほどの出来事を1分間に圧縮して思い出させるように時間を畳む。
脳は絶えず編集あるいは改ざんしながら出来事を記録していく。
「見たまま」「起こったまま」ではない。
脳はそれほど実は完全な臓器ではない。

眼で見て何かがあるかどうか分かることと、あると分かった時にそこに何があったのかが分かることの二つの間には、さらに時間の開きがある。「見る」という行為一つとってみても、一様ではない。あるかないかがわかるのは0.03秒くらい、何があったかが分かるのには0.3秒くらいかかる。つまり、「赤い風船を見た」とき、何かがあると分かるのには0.03秒かかり、その「何か」が「赤い風船」であることが分かるのにはさらに時間がかかる。(31頁)

脳はそのかかった時間を全部忘れさせて「今見たかのように」錯覚させる臓器。
これは脳がニューロンという神経線維を繋ぎ合わせてそこに電気を走らせ、神経回路のネットワークが発火して働くものであるから。
そのゆえに、振り子のように動くものでも、ストロボを焚くと全部一瞬一瞬止まって見える。
「それが心だ」と言う。
だから「脳と心は違う」と言う。
心が関係してくると脳はとたんに複雑になる。
ここに数学的には「カオス問題」という問題が発生する。
これは今、世の中まさしく「カオス」。

例えば振り子。
左右の繰り返しだが、その振り子の先にもう一つ振り子を付けると、その動きは複雑系、非周期的となるのでこれを「三体問題」と呼ぶ。

この地球と太陽の運動のように二つの天体の間の運動方程式を計算(積分)すると、安定な周期解をとることがわかりました。−中略−ところが、地球と太陽に、例えば木星が加わって、天体が三つになるとどうでしょう。すると、地球は初期のエネルギーの値によっては周期的な起動を描くことができずに、複雑な運動をします。この時の運動は本質的にはカオスのようなものになるのです。(67〜68頁)

紅茶に砂糖を入れて放置すると、ゆっくり全体に広がって、やがて溶ける。−中略−しかし、スプーンでくるくると2、3回混ぜてやれば、カオスが発生して、あっという間に砂糖を溶かすことができるのです。(69頁)

これは今、全世界がそう。
メディアは最近すごくシンプルに「二体」で考え過ぎ。
「アメリカファースト」とか。
「アメリカが一番」とトランプさんは仰りたいのだろう。
でも世界はアメリカだけの問題ではない。
外交とか貿易に関して、一国のみ「国民と私のみで考える」ということはありえない。
武田先生の事務所の社長のイトウさんと世間話をするが「アメリカファーストって言うけど、その言葉はないよな?」という話を車の中で「何と言いますか?」と問われたので、武田先生が答えたのはトランプさんの考え方は「尊米攘夷」。
「そんべーいじょういー!」っていう。
それが「Get out!」になる。
でも「尊王攘夷運動」なんて日本もあった。
同じような「トランプ運動」が。
でももう数年で文明開化に変わったのだから。

2017年06月11日

2017年1月23日〜2月3日◆心配事の9割は起こらない(後編)

これの続きです。

申年の2016年は「申年は騒がしい年になる」と言われていたが、特に年の後半から二つのショックが日本を襲った。
一つ目のショックは「SMAPショック」。
そして二つ目のショックが「トランプショック」。
昨年後半は「『プ』ショック」。
ダブルプショック。
そういう2016年だが、トランプさんはとうとう大統領としての活動が始まった。
どんな騒ぎがアメリカでこれから起きるのか?

アメリカから始まったグローバリズムだった。
つまり乱暴に言えば「手を繋げば繋ぐほど世界はうまくいくんだ」という。
世界を支配する言語は二つでいい。
アジア圏は中国語、西洋圏は英語。
この二つさえ覚えてしまえばあとの全部「消しちゃっていんじゃねぇの?」っていう。
これは日本も全部、日本語をやめて中国語になったりなんかすると、上海市場なんかにも参加しやすくなるし。
というふうにして進むはずのグローバリズムだったが、昨年トランプショックの方でピタッとグローバリズムが止まってしまった。
でも、ここで皆さん、ちょっと足を止めて2016年トランプショックの始まりを心に刻んでおきましょう。
なぜアメリカはトランプを選んだか?
原稿をまとめる時につくづく考えた武田先生。
「オバマの言う先に豊かなアメリカはない」と思ったアメリカ人がいたのではないか?
だからバトンを受けるヒラリーというのが好きになれない。
そこでアメリカは気づいた。
「トランプを大統領にしよう」と。
非常にこの人は欠点の多い人。
もうこれは間違いないこと。
しかしアメリカはこの人がよかった。
その事実から目をそらしてはいけないと思う。
トランプさんを最初に見た時、武田先生は「なんて品のないサンタクロースだ」と思った。
皆はまず思っているのは「トランプが背中に担いだ袋の中身はたくさんプレゼントがあるぞ」という。
もう就任式が終わったので、その「トランプの袋」を開けていただこうというふうに思うが、なかなか開けない。

ここからは武田先生の思い。
ヒラリーではダメだった。
アメリカメディア、日本のメディアもそうだが「アメリカ国民が何を望んでいるのか」を言い当てられなかった。
これは事実。
トランプが大統領になったということで世界の人々はハッキリ知った。
それは何か?
「アメリカには豊かな人よりも貧しい人の方が遥かに多い」という。
アメリカは貧しい国だった。
トランプが大統領になれるほど。
トランプがトランプタワーに住んでいる。
あの家のインテリア。
何が嫌か?
「暗闇でぶつかると痛いもの」ばっかり。
寒い日か何かにテーブルの角で親指の先を打つと「あっ!あああ!」って言いながらうずくまって動けなくなる。
それから可愛らしいバロンちゃんにスター・ウォーズのおもちゃか何か買ってあげても片付けるような子じゃない。
プラスチックでできたスター・ウォーズのダース・ベイダーか何か踏んだ瞬間の足の裏の痛み。
しかもあれは最上階。
あんな高いところに住んでいる生き物なんかそういない。
200m級のところに住んでいる。
(調べてみたが58階建てで、高さは202m。最上階を含めた三階分が住いだそう)
10階上ったら気圧を感じる武田先生。
空気は絶対薄い。
土も草の臭いもしないなんて。
しかもあのトランプのおじさんが寝起きしている部屋は空気が乾いている。
ニューヨークの空気の乾き方が半端ではない。
映画で時々見る。
蒸気で街全体を暖めているから、漏れ出した蒸気がマンホールからバーッと吹き出すっていうニューヨーク名物の景色がある。
あの暖かいお湯で全ビル暖房している。
これが微調整が効かない。
だから暖かいのはいいけど、暖かいまんま。
トランプタワーなんて住むとこじゃない。
でも、そういうトランプさんの暮らしに憧れたアメリカ人がヒラリーさんよりも多かった。
「世界の心配よりも俺たちの心配をしてくれるトランプへ」という。
それほどトランプさんがサンタクロースに見えた人々が多かったというところがグローバリズムの逆を行く世界の出現ではなかろうか。

トランプ大統領出現ということで、世界の流れが変わった。
ラジオなんか聞いているとエコノミストなんかは「逆行し始めた」と言う。
やっぱり前大統領に比べて反対側の道を行くということなのだが、その反対側の道を行くという事情がアメリカにあったのだろう。
アメリカの大統領に関してそこまで期待した我々もバカだったと思う武田先生。
間違いなく言えることはグローバリズムという今までの世界の流れ「手を繋げば手を繋いだほどいいことがあるぞ」という考え方はここからは役に立たない。
「手を握りしめた手をお互い一回離そうじゃないか」という、そんな時代。
それはそれなりに時代としては大事なんじゃないか。
皆さん方も「そうじゃないよ」とかって言いたくなるかもしれないが。
しかし日本の文化というのは鎖国時代に発酵したわけだから。
日本的なものってのは鎖国という時代があってこそ。
今、そんなふうにして自覚する時代ということなんじゃないか。
グローバリズムが終わったということは「スペシャリストの時代が終わった」とすぐに直感的に思った武田先生。
例えばソフトバンクの孫さん。
ソフトバンクはもう何屋さんか分からない。
つまりソフトバンクは白い犬のお父さんの代表する企業のみではなくて、違う仕事もやっている。
つまり専一企業、ただ一つの企業ではなくて、様々な仕事をやる多種業の会社になっているという。
そういう意味で「スペシャリスト」の時代というのが沈んで、前から言っているが「ジェネラリスト」多種事業の時代が来た。
例えば過労自殺したあの会社(電通)も認めるべきは、会社が個人を完璧に縛るという時代、これがもう終わりつつあるんじゃないか。
だから「会社が終わったらあなたは完璧な個人ですよ」っていう、そういう時代が来ちゃった。
例えば広告代理店に昼間勤めている。
規約通り5時で会社を終わって、それから三茶でワインバーを経営するとか。
この間、そういう店がちょっとあった。
本当にちっちゃな四畳半ぐらいの店だけど、シャレたことをやっているのがいて、そういう仕事が両立できる労働環境というのがこれからもてはやされるんじゃないだろうか。
不動産屋さんが大統領をやっているのだから、もうジェネラリストの時代。

「八風吹けども動ぜず」
 生きているうちには、さまざまな風が吹きます。よい風が吹くこともあれば、悪い風が吹きすさぶこともある。しかし、いちいちその風に心動かせることなく、どんな風も楽しんでしまおう、というのがその意味です。
(94頁)

アメリカがそう。
トランプさんみたいな人を大統領にした。
もうアメリカは他国にプレゼントをあげる国でなく、プレゼントを欲しがる国になった。
そのことを正直に選挙で世界を宣言した。
その正直さに関して「アメリカは偉大だ」と拍手を送ってあげましょう。
これからおそらく右傾化が始まり、保護主義が始まる。
しかしこの右傾化、保護主義、アメリカンファースト。
「まずアメリカのことを考える」というトランプ大統領。
小池さんも同じ。
「都民ファースト」
嫌な言葉。
(小池都知事曰く)政治はガラスのように透けていないとダメ。
どこでも「スタッフオンリー」がある。
「従業員しか入れませんよ」という空間がないと、何かサービスは信じられない。
アメリカはそういう国になっちゃったという。

プレゼントを与えるのではなく、プレゼントが欲しいと泣きじゃくるアメリカ。
その正直さを皆で、世界の人は祝ってあげましょう。
アメリカ、おまえは正直だよ。
そして武田鉄矢曰く。
ガガ、泣かないで。
日本人は心の豊かで気品を持っている君につくづく同情する。
日本人は君が好きだよ。
「アメリカは何て人を選んだんだ」って泣いている君は優しい娘だよ。
でも落ち込まないでください、ガガ。

 禅には「愛語」という言葉があります。
 相手を慈しみ、その心で語りなさい、と説いています。
「愛語は愛心より起こる、愛心は慈心を種子とせり、愛語よく廻天の力あることを、学ぶすべきなり」
 これは、『正法眼蔵』の中にある道元禅師の言葉です。相手に慈しみの心をもって語る愛語は、天地をひっくり返すほどの力がある、というのがその意味。
(107頁)

これは何に対していい言葉か?
「愛語(あいご)」優しい言葉使いの反対語「ヘイトスピーチ」。
でも日本のヘイトスピーチなんてたいしたスケールではない。
トランプスピーチに比べると。
国境でメキシコ人を入れないために壁を作ろうというのはすごい。
自分を支持しない人間は指差して「ゲット・アウト」って言うのだから。
トランプさんは道元と反対側の人。

 中国の史家司馬遷はこういっています。
「君子は交わり経ゆとも悪声を出ださず」
 たとえ、相手との関係が切れたとしても、けっして悪口をいわないのが、君子のふるまいだ、というわけです。
(109頁)

司馬遷は2000年近い前の人だけどいいことを言う。
今は逆。
姿がなくなったらボロクソ言うか、あるいは悪口を言いながら商売だけはやるとかっていうのが「外交上手」とかって言われている時代。
でも「君子は交わり経ゆとも悪声を出ださず」っていうのは徳のある言葉だなぁと思う武田先生。

「閑古錐」という禅語があります。
「閑」は閑古鳥が鳴くという言葉もあるように、閑(ひま)ということ。「古錐」は古くなった錐のことです。つまり古びて先が丸くなり、使われなくなった錐を閑古錐というのです。
(112頁)

禅はその使われなくなった先の錆びた錐(きり)のことも「またそれはそれでよし」と言うそうだ。
何故ならば錐が錐として役に立つ時、その錐は赤ちゃんの側には置けない。
危険だから。
使い道がなくなったらもう大丈夫。
「この錐は赤ちゃんの側にも置ける」と。
「何かの役には立つでしょう」と。
人皆、閑古錐たれ。
「古びても何かの役に立つ私でありなさい」と。

今、世界で一番正義について最も熱く語れる能力を持った人は韓国の人。
「政治というものはこうであってはならない」って言いながら、あれだけの人数が毎日毎日大統領邸の前まで押しかけるわけだから。
ただし、申し訳ないが団結力は素晴らしいが、はっきり言って羨ましいと思わない。
政治的正義というのは実はジャッジしにくいもの。
メディアの人はいわゆる書き文字メディアの人も、文春も含めて、スキャンダルをバンバンやればいい。
でも文春は大元は角栄金脈か何かで名を馳せた有名なメディア。
でも最近、本を見たら「田中角栄は間違ってなかった」という。
急に何十年か経つと「あの人はよかった」とか「罠にはまったんだ」とか。
語録もすごく売れている。

世界の中で最も正義について激しい気性を持つ国民、それは韓国とアメリカではないかと思う武田先生。
悪を憎み糾弾する両国人民の団結力は素晴らしい。
しかし、少しも羨ましいとは思わない。
政治は正しい時と間違っている時がある。
「これが正しい」と言えないのが政治であり、「こんな政治は間違っている」と叫ぶ人が間違っている。

「日日是好日」
 これは毎日がよい日ばかりだという意味ではありません。人生には晴れの日もあれば、雨の日もある。
(117頁)

そこを日々のせいにはしないで「私のところにやってきた日をよい日にしたいなぁ」という、そういう願いこそが「日日是好日」なのである。
時代があなたを左右するのではない。
あなたが時代を左右するのです。

加山雄三さんが言っていた言葉ですごく好きな言葉。
「運命があなたの性格を作ったのではない。あなたの性格があなたの運命を作るのです」

 ものごとには、すべて、力づくではどうにもならない「流れ」というものがあります。流れに任せる。水は岩があればそれと争うことなく、わずかに方向を変えて行き過ぎます。しかし、目標≠ヘあやまることなく、最後は大海へと流れ込んでいくのです。(132頁)

岩あれば水争わず、岸部の矩を踰えず、故に海に至る。
この心を「柔軟」という。
いろいろ日本も大変かも知れないが、一つ「水の心境」で。

「不立文字、教外別伝」という禅語があります。ほんとうに大事なことは文字や言葉にはならない、仏様の教えの神髄は、(経典の)文字や(説法の)言葉で伝えることはできない、ということです。(135頁)

時折、武田先生自身もコメンテーターもどきを頼まれてやっている。
これは松ちゃん(松本人志)も言っていたが、本当に喋った後で「つまらんことを発言したなぁ」と結構ハラハラする。
ああいうのって何秒かしか時間がないから、バーッとキューを振られるが、貰った時間が短ければ短いほど発言は切れ味がいいのだが、切りすぎるというか尖ってくる。
あれはやっぱり時間に追われて言葉が尖ったりなんかするのだが、基本的に表現には余白と言うか「沈黙」「間」が必要。

 余白、間は、言葉でいったら「沈黙」です。
 沈黙には大いなる表現力があります。
 ときには言葉よりずっと気持ちや思いを伝えることができるのです。
(136頁)

人の気持ちを察する時の沈黙は相手の話を聞き、汲み取ろうとするための沈黙で、これほど相手に伝わる「思い」の表現はない。

 禅には沈黙のすごさ≠示すエピソードもあります。
「維摩の一黙」と呼ばれるものがそれ。維摩居士は在家の仏教信者ですが、あるとき文殊さんから問答をしかけられ、沈黙で答えるのです。その一黙は「響き雷鳴の如し」と表現されています。
(138頁)

高倉健さんが誰か問答中にフッと黙り込んで「うーん」と言うと、健さんの沈黙に・・・。

 正論をいうとき、その人の目線は、必ず相手より高くなっています。(163頁)

正しい言葉を上から落とすと、相手の顔に激突する。
正しい事はそっと相手に手渡さなければ、かえって傷つけてしまう言葉使いになる。
「正しい」「間違ってないぞ」と思った時は危険。

クリントンは討論会でトランプに正しい事を言って三度勝った。
テレビ討論会でヒラリーが全部勝った。
ヒラリー・クリントンは三度勝っている。
それで本番の選挙で負けた。
これはもしかしたら正しい事を言うことのむずかしさかも知れない。
作戦としてこんなことを武田先生が言っている。
ただの一度でもいい。
ヒラリーがトランプの暴言の前に泣いていたら。
或いは悲しく微笑んで黙り込んでいたら。
何か大きく印象が変わった可能性が、あの三度の討論会にはある。

「時々人は間違える人が好きなのです」
全部正しい人っていうのをあんまり好きになれない。
時々間違う人が好き。
これを別の賢い学者さんは「反知性主義」とかって言うが、武田先生はそこまで大げさな言葉ではなく、時々間違う人が好き。
その人は、時々間違う人の間違いの中に何かを見る。
ヒラリーさんはあまりにも正しく完璧過ぎたのではないだろうか?

 こんな禅語があります。
「花に逢えば花を打し、月に逢えば月を打す」
 花に逢ったときはその花をしみじみと味わい、月に逢ったらその月を感じるままに味わう、というのがその意味です。
(168頁)

武田先生が大好きな哲学者の内田(樹)師範が魔物に憑りつかれない三つの心構えをこう教えている。
「礼儀正しく、オープンマインド。そして身体感度を上げること」
「身体感度」がよくわからない武田先生。
やっぱり「皮膚感覚を敏感にしなさい」ということではないか?
これが禅宗が言うところの「花に逢えば花を打し、月に逢えば月を打す」。
綺麗な花を見たら思わず「おお、綺麗!」って言っている自分。
月を見上げたら「おお、いい月だわ!」と見上げている自分。
そういうものが身体感度なのではないか。

「門を開けば福寿多し」という禅語があります。(179頁)

「玄関を開けて外を見てごらん。いいこといっぱいあるじゃん。探しなよ、自分で」という。

お釈迦様のご臨終前の最後の教えとされる『仏遺教経』の中には、少欲知足についてこう書かれています。
「知足の人は地上に臥すといえども、なお安楽なりとす。不知足の者は、天堂に処すといえども、また意にかなわず。不知足の者は、富めりといえどもしかし貧し」
(194頁)

足ることを知っている人は、地上に倒れてもうすぐ息を引き取ろうとしていても心の中は安楽でいっぱい。
足ることを知らない者は、いよいよ死ぬ時に「なんてつまらない人生を送ったんだ」とまだ不満をつぶやいているという。
幸せへの道は二つしかない。
欲望のままに欲しいものをすべて手に入れるトランプ流か、逆にこの曹洞宗の住職のごとく欲しがる欲望を小さくし、欲しいものを少なくするか。
この二つ。

人間力を高める読書法



2017年1月23日〜2月3日◆心配事の9割は起こらない(前編)

心配事の9割は起こらない: 減らす、手放す、忘れる「禅の教え」 (単行本)



曹洞宗の住職である枡野俊明氏の著書。
(番組内では「としあき」と読んでいるが、本によると「しゅんみょう」。仏門に入ると名前を音読みにするという習慣があるようなので、本名は「としあき」さんかも知れないが、一応「しゅんみょう」さんということで)
お坊さん以外にも仕事をやってらっしゃるという、なかなか本当に面白い方。

武田先生が本を手に入れたきっかけ。
5〜6年前に心臓手術をした武田先生。
大動脈弁が人工のセラミック。
胸、心臓に心配のある人生を今、生きている。
この病は杉良太郎さん、ゴルフの倉本、シュワルツネッガーさんも同じ。
この方々は全員セラミックだと思う。
だから皆さん全員、ちょっと憂鬱を抱えてらっしゃるはず。
どんな憂鬱かと言うと、毎日ワーファリンという血液サラサラ錠剤を飲むことが死ぬまで続く。
これを飲まなかったりなんかすると白血球とか血小板がセラミックにくっついちゃうという。
他にも心臓に負担をかけないように糖尿病の心配。
もうボーダーでギリギリのところにきている武田先生。
その数値で主治医から「下がった上がった」。
一喜一憂が半年に一回ある。
とにかくドッグの結果を受けて、その薬が一錠だけ減ったという。
けっこういろんな種類を飲んでいるから。
それで隣の町まで診断書を手にして、指定薬局で購入しに行った。
ところが、前回診断書に書いてあった薬で睡眠導入剤があった。
それはなぜかというと、7月の博多座の舞台で、興奮したりすると眠れないことがあるのでそれを頂いた。
それをそのままお医者さんが消し忘れている。
大変だった。
持っているから「この薬いりません」と言った。
「主治医と連絡をとって確認が取れない限り、買っていただかないと困ります」
もうその時は11月過ぎていたのだから。
その7月の公演も一錠も飲んでいない。
もう、コットンコットン眠っている。
バイオリズムでそういうことがある。

中村玉緒さんという心配なお婆さんと一緒に演った時のことだが、全然心配がいらなくて、毎日九時半に眠って七時に起きるという「何時間眠ってんだ、オメェは」みたいな、快調な体調で終了することができるわけだが。
「申し訳ありません。病院の主治医の先生に今から連絡をとります。もしいらっしゃらなければ買っていただかないと、こちらの方では消せません」という。
「ああ、そうですか。ちょっと本屋さんへ行ってプラッと本でも見てきますんで、連絡だけしてみてください」
それでその薬局の隣にある本屋さんへ行った武田先生。

そうすると、本屋さんのテレビで大変なニュースが流れている。
どんなニュースか?
「トランプ氏逆転で大統領へ」という、その頃だった。
そうするとその慌てたテレビ局が街頭インタビューを開始していて、みんな不安そうに「え?トランプ?マジですか?」とかって。
どこかの店頭でトランプマンがトランプをやっていた。
ニュース番組がトランプマンのところに行っている。
トランプマンも語りたいのだが話せない。
言葉は話しちゃいけない。
トランプマンに「どう思いますか?トランプですよ、トランプマン」。
「トランプが・・・」って言われたらトランプマンも肩をすくめてトランプを繰る。
それでトランプのキングを出す。
それでハンカチをかぶせる。
トランプが消えるのかと思ったら、その日に限ってトランプのキングが消せない。
彼は「キングのトランプは消せない」というのを仕草で報道番組に伝えたのだろう。
それを見ていた本屋の親父が「冗談やってる場合じゃねぇよ!お前」って言いながら。
ヒラリーさんの方の自伝か何かを大量に仕入れていたのだろう。
「全部オマェあれだよ!また注文書書き直しだよ。何てことしてくれるんだよ!」とかって。
「この後、トランプ氏が大統領になって一体どんな世の中が来るんだろうか」と気持ちが暗くなった武田先生。
心臓に病も抱えているわ、大統領はトランプになるわ、トランプマンはトランプが消せないわ。
その時にフッと目が合った本が『心配事の9割は起こらない』。
気が付くと手が伸びていた。

なぜ人間は心の中に心配事を抱いてしまうんだろう?という。
それを曹洞宗のお坊さん、禅宗のお坊さんの立場からこう仰っている。
「妄想するからだ」
妄想というのはおそらく悪い予想ということだろう。

 心を縛るもの、心に棲みついて離れないものは、すべて「妄想」です。(12頁)

 妄想を生み出しているもっとも根源にあるものはなにか。
 それは、ものごとを「対立的」にとらえる考え方です。
 たとえば、「生・死」「勝・負」「美・醜」「貧・富」「損・得」「好き・嫌い」といった分別をしてしまうことです。
(13〜14頁)

「こんなふうにして対立的にとらえると『妄想』という、こすった摩擦熱が生まれますよ」と。

 日本における宗道集の開祖・道元禅師も、「他は是に吾にあらず」といっています。
 他人のしたことは、自分のしたことにはならない、と教えています。
(15頁)

武田鉄矢の場合、心臓病も糖尿病も来るかもしれないが、間違いなく言えることは、今来ていない。
ここにあるのは「私」と「今」だけ。
「私」と「今」だけに集中しましょう。
武田先生は安倍(首相)でもなければプーチン(大統領)でもない。
「私」は「私」。

二時間遅刻したプーチン大統領。
「舐めやがって!」と言ったコメンテーターがいた。
韓国人のコメンテーター、ピョンさんも怒っていた。
あの方はだいたい韓国担当なのだが、あの日に限ってプーチンに関しては北方領土の島からミサイルを日本に向けていた。
「何で一緒に温泉へ案内するのか?安倍外交っていうのは何を考えて・・・。侮辱されてんねん。侮辱も気づかないのか?」という。
「そういう人なんだろう」と思って、何とも思わなかった武田先生。

12月のディナーショーでプーチンさんが通った道を車で通った武田先生。
山口のとある町。
地方都市でホテルのクリスマスディナーショーがあったので、プーチンさんと同じ行程で山口の飛行場に降りて、そこから長門方面に車で走った。
武田先生の考えすぎかも知れないが、ハッと気がついたこと。
竹林がけこう綺麗に刈られている。
竹林は今は竹の林を利用する業者が少ないからどこでも伸び放題。
竹林はだいたい闇になっているのだが、プーチンさんが車で走った道の竹林は左右を見ても、結構陽の光が差し込んでいる。
根本を見ると、つい最近切ったばっかりみたいな切り株。
やっぱり狙撃の危険性か何かを感じて、沿線の住民に協力を呼びかけたか、そういう行政の指導があって市の人が動いたか。
山口県はビルの谷間とかが無いので。
山口市内近くに行かない限りは、竹藪、森、田んぼという、三枚しか風景は変わらない。
それが、どの竹藪も結構スッキリしている。
その時に「あ、プーチンさんのために切ったんじゃないか」。
物陰を作るまいとしたのではなかろうか?
ということは、プーチンさんってものすごく狙われている人。
だから、そのいわゆるテロリストたちから狙われている人が時間通りに動いちゃまずい。
どこかで少しずつずらさないと。
それも遅刻しないと。
あるいは時間を守らないことで・・・。
お帰りになってすぐに、トルコで警備の男から演説をしていた時に撃たれちゃう。
(この件かと思われるトルコ:ロシア大使が銃撃受け死亡 展覧会で - 毎日新聞
だから「警備の中に紛れ込んでるかもしれない」とかっていう心配をする国の大統領だから、時間通りに動いちゃまずい。
だから遅刻というのはあの人にとっては身を守る手段なのではないか?
とにかく一番危険なのは時間通りに動くこと。
安倍さんは全く遅刻しない。
プーチンさんが亡くなったらロシアは大変なことになる。
政敵を潰したのはいいけど、代わりがいない。

 世の中には自分ではどうにもならないことがある、ということです。(30頁)

命そのものさえ自分の手が及ばないもの、どうにもならないもので成り立っているのです。(31頁)

今生きているということすら主体じゃなくて、命任せで生きている。
間違いなく「生かされている」のであって、あんまり「生きている、生きている」と力むなよと、こう禅師は仰りたいのだろう。
どうにもならないことはそのまま「どうにも」に任せて、あるがままに受け止めよう。

 心に向けるべきはそこではなく、「どうにかなる」ことのほうです。(33頁)

「あるがまま、そのまま」──それが正味の自分。(33頁)

トランプの嫁、トランプの娘、トランプの息子、財産、やり方。
これからは大丈夫なのか?
日本が大きな迷惑を被るんじゃないか?
こんなことを言ったところで実は何の関係もないこと。
トランプは、彼もまた生かされている「ただの人」なのですよと。
トランプさんは大統領に見事なられたが、アメリカの歴史上始まって以来の大統領就任式だったらしい。
ガードも含めて。
何かテレビがやたら騒いでる。
奥様の全裸のヌードか何か。
娘さんで、すごいぺっぴんさんの。
それから「旦那さんも素敵」とか。
何と言ってもバロン君。
身長1m70cmある。
まだ中学生。
(日本で言うとまだ中学生の年齢ではないのだが、アメリカは飛び級などもあるのでこのあたり不明。2006年3月20日生まれということなので現在11歳だと思われる)

情報だけで、あるいは相手の一面だけを見て、大体嫌な感情、否定的な思いを持ってその人を見ると、見誤ることになる。
「あの人にも良いところがあるはず」と見つめて、あなた自身が良いところをその人に見つけると世界はガラリと変わります。
何が変わるか?
そう、あなたは良い人なのです。
みんなが「悪い」と言っている人の良いところを見つけると。
トランプさんもどこかいいところがあるだろう。
年末の番組なんかでやっていたが、トランプはダイアナ妃を狙っていたらしい。
お近づきになろうとしていた。
デヴィ夫人が言っていた。
いくらカネを使ってもいいから名誉ある位というのが欲しかったらしくて、イギリス系のその手の伯爵とかなんとかっていう身分が貰えないだろうかとお金を使ったらしいのだが、やっぱりイギリス社会からは・・・。
それでヤケで付けた名前が「バロン」。
バロンは伯爵、公爵、そういう意味。
(伯爵でも公爵でもなく「男爵」)
「息子ぐらいは・・・」と思ったのだろう。
だから切ないと言えば切ない話。
しかし、もう70歳。
あの方も、この倍は生きるわけないわけだから。

とにかく「あせるな」「あわてるな」。

 禅語にこんなものがあります。
「七走一坐」
 七回走ったら、いったん座ってみよ、ということです。
(54頁)

 中国古典だったと思いますが、「一日一止」という言葉もあります。
「一止」という字を見てください。「止」のうえに「一」をのせると「正」という字になります。一日に一回、止まって自分を省みることは「正しい」ことだというわけです。
(56頁)

いかに言ってもそれでも落ち込む人があるでしょう。
世界もゆっくりと歪み、特にアメリカが歪み始めて、中国、ロシア、フィリピン、イギリス、仏独の右傾化。
そして日本の安倍独走体制等々。
心配事ばっかり。
心配事は数え上げれば武田先生にもいっぱいある。
ゴルフで左ひっかけのOBが直らない。
血糖値も高い。
心臓の心配もある。
しかし「それでも」と師匠は言う。

本当に考えてみれば妄想というか、そういうのがどんどん湧いてくるご時世。
まだ年がスタートしたばかりだがアメリカの新大統領がスタートして、中国、ロシア、フィリピンは凄まじい人。
ドゥテルテ。
それからEU離脱のイギリス。
それから仏独。
これは年末にテロもあったが右傾化傾向がますます強くなるだろう。
そして安倍独走体制。
もう「やりたいことをやっちゃうんじゃないか」という。
武田先生は血糖値も高い。
食べるとすぐ太る。
もう本当に嫌!
また美味しい。
それでも奥さんから「食べ過ぎ!」物差しでピシャッ!と手の甲を叩かれる。
それからさっぱり上達しないゴルフ。
こういうこと。
もういちいち上げると心配事というのはどんどん湧いてくる。
東京オリンピックも心配。
それで今度の東京オリンピックは8月。
8月の暑さは大丈夫ですか?
と、心配すると本当に数限りなく心配事が。
小池体制も心配。
千葉、東京、神奈川、埼玉の知事が集まった。
昨年「カネ出す、出さない」で。
4人集まったうち、3人がタレント。
ニューキャスターとかテレビに出ていた人だから、テレビタレントさん。
映りばっかり気にして。
あの人たちはメディアの使い方を知っているから。
こうやって考えると心配事は数限りなく、何年か先、2020年の8月の気温まで気になるという。
考えたらバカみたい。
冷夏だったりするかも知れない。
涼しくなっているかも知れない。
やっぱり人間は先のことを考えると全部不安になる。
「先のことを考える」ということは「不安になる」というのと同意義語。
禅宗のお坊さんは言う。
「もうこのままでは世界は滅びる。この世界は末法の世」と叫んだのは平安時代だった。
平安時代に「もうすぐ仏罰の世界がやってきて、人類は、日本人は死んでしまうんだ」という末法思想が広がった。
あれからずいぶん時間は経ったがまだ滅んでいない。
ここに人間の希望があるのではないですか?
「世界は滅びる」とは何人もの人が叫び、西洋のお坊さんで「1999大魔王が降りてくる」とか言って、ご本が山ほど売れたことがあった。
滅んだのはその本を書いた人だけだった。
お亡くなりになったそうだ。
御気の毒で。

「災難に遭う時節には災難に遭うがよく候」
 心には、必ず、「転じる力」があります。
(61頁)

世界を一変させましょう。
世界をもう全て変えてしまいましょう。
「どうやって?」と住職に問うと、曹洞宗住職枡野さんはこうお答えになる。
「あなた自身が一回転しなさい。世界を一回転させるのは大変だから、あんたが一回転しなさい。そうすれば世界も回転します」
(本の中では「自分の心を転じろ」ぐらいの表現しかないが)

「冷暖自知」という禅語です。(68頁)

「器の中の水が冷たいか暖かいか、見てないで手、突っ込んで確かめろ!」という。
本当におっしゃる通り。
体感するためには、まず自分で動け。
この間、DeNAが謝った。
全文表示 | DeNA社長が謝罪会見、医療系サイト「WELQ」のずさんな実態明らかに : J-CASTテレビウォッチ
嘘の医学知識か何か。
去年大騒ぎになった。
DeNAの何かサイトがあって、そこを開くと健康情報か何かが。
それで「肩こりは背後霊のせい」とか「悪霊が取り憑いている」とかってあって。
他にもデタラメがいっぱい載っていて。
DeNAの頭のいい人たちはヨソから盗んできて載せていた。
あれなんかまさしくこの住職から「喝!」って言いそうなやり方。
つまり手も足も皮膚も使わずに言っているワケだから。

 実践する中で経験を積み重ねて、体でわかる、つまり、「体感」することで、自分にとって正しい判断ができて、もちろん、行動もついてくるのです。(69頁)

この世界には現実に餓死する人がいる。
ただ、本当に奇妙なことに反対では「食べ過ぎて死ぬ人」も今、多い。
特に我が国日本は5人中2人が糖尿病と診断されているという国。
もうおわかりの方も多いと思うが「何かをたくさん食べれば健康になれる」という宣伝をする食品会社がある。
武田先生の奥様の言葉。
「『たくさん食べて健康になる』ということは人間の体について絶対ない」

ニッキをかじっていた武田先生。
血圧が夢のようにスッと下がるのが嬉しくて。
でも噛み続けないとまた上がってくる。
だからドッグの前なんかにニッキを噛んでいた。
そうしたら奥様から「ニッキをかじって下げて。何なの、それが」と言われた。
それでお医者さんから「武田さん、ニッキ臭い」と言われた。
血圧の方は普通(高血圧)に戻っていた。
「解決した!」っていう情報が今、この世界にはいっぱいある。
「こうやれば解決する」
でも枡野禅師は言う。

 どんなにたくさん情報を集めたって、したいこと≠熈生き方≠煬ゥつけることはできません。やはり、自分の心の中に見つけるしかない。(73〜74頁)

自分で動いて真実をつかむ。
これ以外に真実の掴み方は無い。
だからテレビとかラジオ等々で事件報道を聞く時は一番冷静な人を選んでその人の意見を聞くように、意見に耳を傾けるようにしてください。

情報は迷い≠フもとになもなります。情報がありすぎるからかえって、心をどこに置いたらよいかわからなくなるのです。(74頁)

食べ物と同じ。
多ければ必ず摂り過ぎで病になる。
そして自分というものを忘れて情報に従おうとすれば、あなたはとんでもないミスを犯すことになる。

「随所に主となれば、立処みな真なり」
 という、臨済宗の開祖である臨済義玄禅師の言葉があります。
 その意味は、どんなところにあっても、「いま」「ここ」でできることを一生懸命にやっていれば、自分が主人公になって生きられる、ということです。
 主人公≠フ視線は飛び交う情報に惑わされて、あちらこちらにキョロキョロと宙を泳ぐようなことはありません。しっかりと一定方向を見据えています。
(75〜76頁)

「指示が出た」とか「出なかった」とかっていうことで舌打ちする人がいっぱいいる。
「係員の誘導がなかった」とか。
そういうのもあるかもしれないが、プラス、まずアナタが「生きたい、この生命を」と願わない限り、逃げるべき道は見つかるはずがない。
さあ皆さん。
本年2017年、いよいよトランプショックが始まります!
グローバリズム、もうずっと今まで叫ばれてきた。
もうおしまいです。
トランプさんが終いにしました。
ここからはアメリカでさえも「自国のみを大切にする」という。
そしてヨーロッパではうぬぼれの右傾化が始まる。
でも、よく考えましょうね、皆さん。
グローバリズムで、ある意味で「競争原理」。
世界に競争原理が持ち込まれ、勝ち負けで決着を付けようと費用対効果のみが最大、最高の目標だった。
「安く闘い、高く勝つ」
これがルールのすべてだった。
あの時にこのグローバリズムに反対した人もいっぱいいた。
グローバリズムというのにものすごい不安を示す経済学者は多かった。
対する言葉があまりよくないが「ローカリズム」というか。
そういう世界性を持たない。
世界性ではなくて、人間は自分のエリア「棲み分けの法則」っていうのは大事なんじゃないかという人もいた。
でもオバマさんがグローバリズムでバーッと世界を均した。
でもトランプさんが大統領になって「やーめた!」って言った。
そのグローバリズムを進めたのはアメリカだが、そのアメリカから「グローバリズムをやめた」と言った。
グローバリズムの勝者、それは誰かと言うとトランプさん。
そのトランプさんがアメリカを一時期田舎に還すというふうに宣言したわけだから。
これはなかなか面白いこと。
皆さん不安かも知れないが、頑張って生きていきましょう。

2017年05月25日

2016年4月18〜29日◆GO WILD(後編)

これの続きです。

「わたしたちが脳を持つ理由はただ一つ、状況に応じた複雑な動きをするためだ。ほかにもっともな理由はない」。脳の構造は体の動きと緊密に結びついており、動きは脳を必要とし、ゆえに脳を形成する、と彼は言う。(111頁)

ニューヨーク大学の神経学者ロドルフォ・リナスの次の言葉っだ。「わたしたちが思考と呼ぶものは、進化の過程で動作が内在化したものである」(111頁)

「今やコンピューターはチェスでチャンピオンを打ち負かすまでになった。だが、その駒を物理的に動かすことに関しては、六歳の子どもにもかなわない」(111頁)

 この議論を体現するかのような生物がいる。未発達の神経系を持つ原始的な海生生物、ホヤだ。誕生したばかりのホヤは海の中をしきりに泳ぐ。その目的はただ一つ、食料が豊富な場所を見つけて根づくことだ。そしてその目的を達成すると、まず自分の脳を食べてしまう。もう動かなくていいのだから脳はいらない、というわけだ。(112頁)

「動かない生活は、認知機能の低下をもたらす」。はっきり言えば、動かないとばかになる、ということだ。(116頁)

高齢者が運動を行なうと「海馬の容量が著しく大きくなり」海馬は記憶に関与するため結果として記憶力が改善したと結論づけていた。(118頁)

これは最近発見されて大騒ぎになった。
「脳は歳取ると変化しない」と言われていたのだがとんでもなくて、脳の海馬なんていうのは使うと量が増える。
だから老いのせいにはできないところに、この人間の進化の複雑さがある。

著者が言う主張の中で武田先生がショックだったこと。

ジムの会員になり、ライクラのウェアに身を包み、週に六日はランニングマシンやエアロバイクに乗ってタイマーを三〇分にセットし、iPodのトレーニング用プレイリストをかけながら健康への道をひた走る。これがこなすべきトレーニングだと思っているならあなたはまだまだだ。ファストフードをやめて真のごちそうを食べよう。ジムでの運動は多少プラスにはなるだろうし、筆者も反対はしないけれど、本書のテーマは野生に戻ることであり、体をベストの状態に近づけることだ。(123頁)

体のための正式な運動は「トレイル・ランニング」。
その時のトレイル・ランニングのシューズが例の五本指。
何でかと言ったら、細い道を走るから小指に神経があって左に体重をかけすぎれば断崖絶壁から落下するという、ランプというかセンサーを足の小指に一個ずつ持つという。
そのためには足の裏をまとまって使わないという。

体のために良い運動とはなにか?
それを著者ジョンJ.レイティさんは「トレイル・ランニング」と言う。
これはどういうランニングかと言うと、例えば高地の細い山道、坂の上り下りがきちんとあるところ。
草や石、次々と路面が変化する。
そういうものを様々なギアでスピード・コントロールしながら走ること。
しかも条件として裸足。
それがもし不可能ならば、ということで彼が提唱したのが「五本指ソックス」。
(番組中「ソックス」と表現しているのは「シューズ」のことを指しているようだ)
逆さ「へ」の字のマークから出ている。
五本指ソックスを発注した武田先生。
指が短いので全部ダボダボになる。
合気道をやっていたら足の指が広がってきた。
素足で畳の上を歩いていて、踏ん張って回転したりするときに、一番端っこにある小指のセンサーというのがすごく大事になってくる。
やっぱり踏ん張る時に素足になると小指に力が入る。
「なるべく裸足で走って欲しい」とジョン・レイティさんはおっしゃる。
それはまあ、ちょっと不可能かも知れないけど。
この人の提案でギクッとするのは「私達の足はベアフットで走るために構造化されている」。
つまり靴を履かないということが実は進化の原動力になったように、自分の体に何か変化を与えるんだったらば、素足でもう一度戻ることなんだと。
何故かと言うと足裏から入ってくる道の情報によって脳は活き活きと連絡網を脳に作って、脳自体が豊かになる。

武田先生もやってみたことがあるが、裸足で走ると下から入ってくる情報量が違う。
例えばピーナッツ大の小石とか尖った石、あるいはガラス片に関して敏感に応じる。
それで、それを「踏んだ」と思った瞬間に踏みしめないように重心を移して強く踏まない努力を一歩ずつでする。
足裏から入ってくる情報ってすごい。
「ここ、ぬめっとしてる」とか「滑るかもしんない」「あ!ウンコ踏んだ」とか。
そういう足裏の情報は靴を履いた瞬間、完全に断絶する。
素足の懐かしさは泥田の中で遊んだ思い出。
指と指の間をニョロッと泥が入ってくるという。
それで深さを判断する。
「急いで上げないと足、取られるぞ」とかっていう感性は指と指の間を通り抜ける泥の速さで。
靴を履くと全くダメなワケで。
だからこの人が言う「ベアフットで走るために人間の足はアーチ状になり構造化されている」という。

面白い例。
日本とロシアの外交史の第一ページ目は「裸足になるかならないか」ですごいケンカをしている。
日本は土足厳禁。
むこうは「靴、履かせろ」とケンカする。
それで生まれた履物がスリッパ。
スリッパは日本人の発明。
とにかく西洋の人たちの靴を失くした時の屈辱感と情けなさというのはもう、ほとんど信じられないぐらい。

野生の体を取り戻すためにレイティさんが勧める処方が「裸足で走ること」。
そうすると人類の起源まで人間は遡る。
「感性を遡らせることができる」とおっしゃる。
ゴルフとかテニスとか陸上競技とかラグビー、サッカー等々そうだが、素足でやるとなると、これはすっかり変わるんじゃないだろうかと思う。
日本人は素足に強いような気がする武田先生。
剣道、柔道。
基本的に日本はやっぱり素足。
今、文明世界においてもスポーツを裸足でやるのは水泳、サーフィン、ビーチ・バレー。
野生と言う意味で「素足」というのは重大なキーワードである。

人というものを野生という次元で考えると睡眠というものもずいぶん意味が変わってくる。

アメリカはイラク戦争のために一〇年間で数兆ドルを消費したが、そのいっぽうでスニッカーズ・バー(チョコレート菓子)の売れ行きを大いに伸ばした、とスティックゴールドは言う。−中略−特筆に値するのは、空爆が主となり、しかもアメリカの技術が暗闇でのコントロールを可能にしたため夜の戦いになったことだ。その結果、兵士の多くは睡眠不足になった。−中略−睡眠不足がもたらす影響について現在わかっていることの一つは、高密度の炭水化物と糖──三章で議論の中心となった栄養素──をやたらに欲しがるようになることだ。(140頁)

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ところが、これによって免疫力が下がる。

だれでも一日に八時間半眠りなさい、というものだ。(145頁)

「わたしが心に刻んでいるのは」と、スティックゴールドは言う。「日中に二時間、情報を取り込んだら、その意味を理解するために脳は一時間の睡眠を必要とする、ということです。(144頁)

2時間以上お勉強すると、眠らなくても目は閉じる武田先生。
睡眠にもレムからノンレム。
浅い、深いという大きな波がある。
だいたい二時間おきに浅い、深いを繰り返す。
浅い夢(多分「眠り」と言いたかったと思われる)の時、50%の人が夢を見る。
この夢が「悪夢を見る」傾向にある。
これはかつてケモノに寝込みを襲われ喰われたという記憶が人にくっきりと残っている証拠で、恐ろしい夢を見ることでハッ!と目が覚めるという危機訓練。
(本には目が覚めることが危機訓練というようなことではなく、恐ろしい夢が困難に立ち向かうリハーサルであると書いてある)

睡眠時間帯の年代による違いはどの文化にも共通して見られ、それを互いに重ねあわせると意味が見えてくる。ワースマンはある計算を行ない、このように睡眠時間がずれているせいで、平均的な年齢分布の三五人の集団なら、夜間のどの時間も必ずだれかが起きていることになると結論づけた。(155頁)

「野生の眠り」とは大勢の仲間と一緒に眠ること。
そして眠りながら弱いものを守ること。
そうするとぐっすり眠れる。
水の流れる音、あるいは火が静かに燃える音、仲間の寝息、動物の安らかな気配。
そばに何か別の動物がいて、そいつが安らかにしている気配があると、人間は深く眠る。
ネコや犬をお年寄りが飼いたがるのは、実は犬やネコが野生に戻るためのサポーターになる。

幼いものを守るために眠る。
だから赤ちゃんがぐっすり眠っていると、横で眠っている親もぐっすり眠れる。
(このあたりの話は本の中の「睡眠を調節する最大の理由の一つは、幼児を守ることなのだ」という記述を誤解した発言と思われる。番組では「幼児を守るために眠る」という趣旨のことを言っているが、本の記述によると「幼児を守るために睡眠を調節する」)
子供がもう大きくなって奥さんと一緒なので守るべきものが何もない(ので眠れない)武田先生。
奥様の「うわぁ」といううめき声みたいなので「わっ!」と起きる時がある。
だからやっぱり誰か守らないとダメ。
「子供の声がうるさい」なんてとんでもない。
野生というのは幼い子の眠りの寝息を自分の安眠の材料にする。

災害や戦争の後遺症であるPTSD(心的外傷後ストレス障害)。
これは恐怖を「通り過ぎていったもの」「終わったもの」として扱えず、「来るべきもの」としてとってしまうという記憶処理の障害。
これは鬱の原因となるという。
日本は災害が多い。

男は歳をとるとダメ。
やっぱり弱い。
歳を取ると時間が反転して迫ってくる。
昨日が遠くなって10年前が近くなる。
女の人はいつも「今」。

このPTSDなんかで不眠になる。
その原因はどこにあるか?

野生の脳はどこにあるのか?

 迷走神経は脳の最も原始的な領域につながっている唯一の神経で、「迷走」という名のゆえんとなっているユニークな経路で、体の各部を遠回りしながら進む。ほかの神経、たとえば視神経は、脳と眼球をまっすぐつないでいるが、迷走神経は首に沿って下降し、そこから枝分かれして体の中心部をくねくねと通り、消化管、生殖腺、内臓へと進んでいく。そして奇妙なことに、その一部はまた上へ向かい、のどを経由して口頭、耳、顔面筋にいたる。−中略−ポンプ役の心臓と、目じりのしわにどんな関係があるというのか。(239頁)

心臓と目じりのシワが迷走神経で結ばれている。
これで何が言えるかというと、心臓のドキドキするのが目じりに表情として出るという。
こういう異様なところが人間は糸で結ばれている。
「よろずヒモ」みたいに何が景品で当たるかわからない。
お祭りの時にある、ああいう構造が人間の中にある。

 じつのところ、迷走神経の経路は進化の痕跡であり、古代の迷走をそのまま残しているのだ。脳から胸部と心臓まではまっすぐ下るものの、それから上に戻って、はるか遠い祖先のエラから進化した構造につながる。(239頁)

自律神経系の重要な役割の一つは、脅威、恐怖、そしてライオンに対峙したときの反応の調節だ。−中略−たとえば、闘うにせよ逃げるにせよ、心拍と呼吸が速くなると追加のエネルギーが必要となるので、消化系はエネルギーを蓄えるために働きを止める。生殖腺も免疫系も同様だ。怒りを表現するために顔の筋肉が収縮する。悲鳴や怒声を出すべく咽頭も収縮する。(240頁)

心臓と目じりを迷走神経が結んだのはこのためである。
敵に遭遇したら心臓がバクバクする。
そうするとカーッと目じりを吊り上げるようになる。
そういうふうにして結んでおいて、敵が襲おうとしてくるのに表情で反撃するというのを心臓が目じりに伝える。

例えば不快でありながら、それを笑顔で包んで人と対話することを可能にするのは迷走神経のブレーキの効きがよい人なのである。
だから顔にすぐ出ちゃう人ってのはブレーキの効きが悪い人。
「奥さんとうまくやっていこう」と心から祈っている武田先生。
余りにも剣呑な言い方をすると・・・。
頭の中でゆっくり言おう(と思って)「(落ち着いた調子でゆっくりと)何が?」と言おうとすると「(強くて速い口調で)何が!」と言う。
ほんのわずか早い。
あれだけ、どうしようもないと思う。
頭の中で(ゆっくりと)「何が?」と言いたいのに(きつい口調で)「何が!」。
あれはやっぱり心臓と、武田先生の場合は声帯が繋がっている。

この著者の言っていることの中で、すごく面白いのは「人間は何でも頭で考えてると思ってるけど、そうじゃありませんよ」という言い方が、すごく納得がいった武田先生。

腸の神経系は神経伝達物質を装備しており、体と心の両方の幸福感を調節し、意志決定プロセスにさえ影響する。(242頁)

日本人の「腹をくくる」とかっていう表現は実に現実的で見事で、実は腸は考えている。
腸が感じる不安とかっていうのは食欲に出て、脳の方に「不吉だぞ」とかっていう直感を送り込む。
その腸なんかに情報を知らせるのは足の裏だったりする。

脳だけで人はコントロールできない。
物事は真逆の神経反応が要求させるものがある。
例えば集中しているのとリラックスしている。
具体的に言えばドキドキしているのとボーっとしているという。
ドキドキしながらボーっとしているのは不可能だが、人間にはある。
睡眠。
これは何かというと眠ろうとする時「眠ろうとする」という意思を忘れない限り眠れない。
「今日は眠んなきゃ」と思うと、張り切ると眠れない。
「よーし、今日は眠ることに集中するぞ」っていうと眠れなくなる。
これは何かというと「眠ろうとすることを忘れるぐらいじゃないと眠りに入れない」。
人間はこういう時に覚醒とリラックスを両立させる。
これが人間の際立った特性。

 ボーガスは、このことはジムで行なう運動に直接関係があると言う。彼に言わせれば、ランニングマシンやエアロバイクに乗り、イヤホンをして現実世界の音を遮断し、前に据えつけられたテレビ画面のぞっとするようなニュース映像を見ながら走ったりバイクをこいだりするのは、迷走神経の「爬虫類」領域に語りかけるようなものだ。(246頁)

エアロバイクを35分くらい漕ぐ武田先生。
その時に見るテレビが日テレの「ミヤネ屋」。
「ミヤネ屋」というのは「母が子を殺す」とか「祖父が孫に殺された」とか、その手のニュースばっかり。
それを見ながら漕いでいると35分がアッという間に過ぎる。
だけどよくない。
その手の事件物を見ながら足裏を使って運動するというのは、ジャンクフードを食べながら痩せるのを目指す食事をしているのと同じ。
迷走の心理になって「こいつ嫌だな」「こんなヤツなんか死にゃいんだ」とか。
あの時に「怒り」を感じる。
怒りを支配しているのは「爬虫類脳」。
そこを刺激するから運動として悪い方に流れていっちゃう。
走る時に己が脳を野生に戻したければ、風、鳥のさえずり、山川の映像を見ながら走れ。
その時に足の裏は野生化する。
「小石を踏むな」「松ボックリがあるぞ」とかって、ものすごい何億年かの進化の裸足の感性を伝えながら運動することになる。