これの続きです。
というワケでまな板の上はジュリー、沢田研二さんが乗っておられるがネタ本あり。
「なぜ、沢田研二は許されるのか」
実業之日本社から出ている。
(著者は)田中稲さん。
本当に振り返ることの多い一冊。
沢田研二という方が19歳で「僕のマリー」でデビューして、それから歌謡界の中で孤軍奮闘。
いろんなブームと相対峙しながら彼は沢田研二でありつつ「ジュリー」を演じて時代のセンターピンの中に身を置いた。
これだけでも偉大なのだが。
60年、70年を語ったがこれから80年代後半から話を、沢田研二レジェンドを始めたいと思う。
皮肉なもので沢田さんが男盛り30代後半の年齢で、アイドルを卒業せねばならぬという時代が1980年代後半。
アイドルはずっとは勤まらない。
どこかでスタイルをチェンジしないと、時代に即応して自分の姿を変えていかないと、変わらないと、日本では生き残れない。
武田先生ごときでさえも思っていたから。
難しいと思う水谷譲。
別種の人間的なふくよかさを手にできないと生きていけない。
はっきり言った方がわかりやすいので、名前は挙げないから言わせてもらうが、かつてかわいらしい男性アイドルで「60過ぎて無残」というのはいっぱいいる。
皆さんもお察しください。
老けてゆくなら老けてゆくで、ちょこまか老けてゆく姿を(お客さんに)見せておかないと・・・
アイドルのまま、若々しいままいなければいけないという、見ているとやはり痛々しいこともあると思う水谷譲。
それで若い子というのは残酷な言葉を平気で使う。
この間女子高校生が、若い時アイドルでちょっと髪の毛が薄くなった人のことを話題にしていて「な〜にコイツ。ハゲちらかして」。
「ハゲちらかす」と、「自分で髪をむしっているワケではないのだからそういう言い方は」と。
それが本当に大変。
おいおい老けてゆけないという。
沢田さんは年を取るということを宿命として引き受けて沢田研二を貫かれる。
だから1980年代の後半になって、彼はアイドルを卒業しなければならないという、そういう年齢になった。
その時にアイドルブームがやってくる。
「おニャン子」とか「たのきん」とか、それから「チェッカーズ」とか「安全地帯」のバンドブーム。
これはGSとアイドルブーム、彼は両方をおやりになっているのだが、その時代の波に彼は乗れない。
なぜならば彼は「毒のある花」。
でも大衆が求めているのは何かというと毒なんか全くない、ちっちゃくて花束に向いてこいのアイドル達。
沢田さんは花と毒、両方ともお持ちだったということ。
彼はあまりにも絢爛であり、唯一無二であり、まぶしいイベントであったという。
ここで沢田さんは凄い。
ご本人もいろいろ苦悩があったと思うが。
沢田さんはどうしたか?
その1980年代後半から、花と毒を捨てようと思われる。
彼は巨木として、大きな樹木としては使ってもらえないので、自分を加工して「日常で使える椅子やテーブルとしてお使いください」と自分のキャラクター作りに腐心する、苦労する。
そして潔く彼はヒット&エラーに挑む。
観客動員数でもアイドルのことを捨てて万、千、これは使わない。
どの単位か?
百単位。
百人単位のお客さんで沢田研二を売るという。
たったひとりの音楽劇=wACT』シリーズである。(40頁)
これまで何千人単位の前でパフォーマンスをしていた沢田研二が、ACTの公演では、キャパシティが500人ほどの会場を中心に演じることになったのである。(41頁)
1995年には宮沢賢治を演じ、有名な詩「雨ニモマケズ」を、ベートーベンの『運命』に乗せて歌うという驚きのチャレンジもしている。(40頁)
私達は全然知らない。
彼は何を目指したか?
歌謡曲とロックの融合を目指したジュリー。
沢田研二さんはケンジはケンジでも「宮沢賢治」を目指すという。
沢田研二を宮沢賢治に作り替えてゆくという。
宮沢賢治とは何者か?
稲と野菜の人。
花と毒の人が自分を稲と野菜に仕立て上げようという。
(1999年9月29日付)には、彼のこんな言葉が取り上げられている。−中略−
今は、沢田という商品が素うどんなら、素うどんの好きな人だけ食べればいい、と。ぜいたくなトッピングをして食べさせたいと思わないんです」(43〜44頁)
はっきり言って武田先生達はこれ。
「海援隊」は素うどん。
そういう芸人としての生き方もあるということ。
「万単位ばかりがお客さん、イベントじゃありませんぜ」
沢田さんはそういう体験もなさっているところが凄い。
ここから沢田研二さんはある意味ではジュリーから脱出しようとなさる。
これは決心。
それで沢田さんの凄いところは、俳優さんとしても朝ドラでは脇に回って
連続テレビ小説『はね駒』(NHK)では、ヒロイン・りん(斉藤由貴)の初恋の相手である松浪先生役を演じた。(105頁)
映画『大阪物語』では、ヒロインの父親で、田中裕子とともに夫婦漫才師を演じた(54頁)
「NGKでの本番収録前には、3人でのネタ合わせを済ませて舞台へ。お客さんには『映画の撮影』だけしか知らされておらず、お2人が舞台へ出られても誰も気づかず−中略−
あんな大スターの二人がそのオーラを消し去り、会場の空気を「誰?」状態に持って行ったのはすごいことである。(54頁)
『幸福のスイッチ』−中略−
である。−中略−
沢田研二が演じるのは、ここで電器店「イナデン」を営む稲田誠一郎。(107頁)
まさしく沢田研二の持つ「素うどんの味わい」。
「なぜ、沢田研二は許されるのか」
この一冊には「沢田さんがいかな職人なのか?」その徹底した職人ぶりをザーッと報告してあるのだが、「(今朝の)三枚おろし」では触れない。
どうぞご本を読んで皆さん、楽しんでくださいませ。
この人の才能は何かというと花になる、毒になる、素うどんも演じられる。
これがいかに難しいことか。
渥美清さんは「寅さん」をやっている時は寅さん。
だが脇役を演じられる。
山田監督とそんな話にこの間なった。
「幸福の黄色いハンカチ」の時に(高倉)健さんが主役なので警察署長役でお出になる。
渥美さんが出てきただけでお客さんは笑う。
だが渥美さんはちょこっとふざけてもいいのに一切おやりにならない。
「脇の存在」をわきまえておられる。
どこにいってもその人が抜けきらない人がいる。
そういう個性の光らせ方をおやりにならない方。
「渥美さんがそうだったなぁ」と思ったら沢田さんもそう。
(「はね駒」の時には)なるべく主役の斉藤由貴さんのお芝居を邪魔しないように自分を演じておられたのではないか。
しかし興味深いのは老いても尚、「ジュリーやって」と言われるとジュリーをやるところに沢田さんの一種、凄味がある。
沢田研二は60歳で、大きな試みに挑戦している。−中略−
2008年に行われた還暦コンサート『人間60年ジュリー祭り』である。(110頁)
還暦コンサートは11月29日に京セラドーム大阪、12月3日に東京ドームの2回。−中略−
基本は4人編成のシンプルなバンド演奏のみ。特別なゲストも派手な演出もない。その状態で6時間、80曲を歌い続ける。誰か止めなかったのだろうか、と思うほど無謀ともいえる挑戦である。(111頁)
なぜ、60歳に合わせた60曲ではなく、80曲だったのか。−中略−
最初は60曲の予定だったが、同い年の泉谷しげるが先に、夜通し60曲を歌う『泉谷展覧会60×60』を開催していたため、曲数を変えたという。
「泉谷と同じじゃ嫌だと思ってね。(111頁)
それでやるに事欠いて60に20曲足したというのだから凄い。
それで「60歳で80曲」という。
もちろん沢田さんはヒット曲の数が凄すぎる。
60年代のザ・タイガース時代の代表曲や、−中略−
ロックバンドPYGの楽曲も披露した。新曲と往年のヒット曲が混在し、ソロ時代の全盛期の大ヒット曲も、2000年に入ってからの曲もほぼ休みなく怒涛のごとく歌い、しかもその歌唱力は揺るがない。(112頁)
事実として残ったのは万単位のお客さん。
ジュリーはやっぱりお客さんが万じゃないとダメ。
そして6時間半後、観客のボルテージは最高潮をキープしたまま終わったのである。(112頁)
沢田さんは60歳、還暦ロックコンサートでお思いになったのは若い世代が付いてきている。
この時に沢田さんは自分だけのジャンルをここで立ち上げてみようかと決心なさったという。
その立ち上げようと思ったジャンル。
「シニアロック」
いい。
若いロックには真似のできないニューロックの出現である。
「いぶし銀ロック」みたいな感じだと思う水谷譲。
シニアロックのビッグスター。
彼しかできない。
この「シニアロック」という名称がいい。
これは公然たる沢田さんの矜持、プライド。
このレジェンドはまだまだ続く。
沢田研二さん「ジュリー伝説」。
「思い出のジュリーじゃないぞ。懐かしの沢田研二じゃないぞ。シニアロックのスターだ」
還暦コンサートをやった以上はこれから古希、喜寿、傘寿、米寿、年を加える度にステージが華やかになる。
一度、武田先生も見たことがあるが、この人の喉の強さというのは怪物。
「喉の強さ」というのは聞いてわかるものなのか?と思う水谷譲。
歌い辞めない。
それと全然、衰えが感じない。
(キーも昔と同じで)いじっていないと思う。
とにかくこのシニアロックのスター、ジュリー。
目撃したものでなければ、その存在を信じられないという。
それ故にやはりスター。
誰もが懐かしいアイドルが観客を集めていると思う。
そう思う。
そんなふうに高を括っているのだが、そこに高ではない、全く別の違うシニアアイドルがそこに合流しているんだという。
2018年10月17日に起きたさいたまスーパーアリーナでのドタキャン騒動≠セった。
午後5時開演予定の公演で、7000人のファンがすでに会場に集まり開催を待っていたにもかかわらず、4時頃に急きょ中止がアナウンスされた、というもの。(93頁)
沢田研二は事前に所属事務所とイベント会社から9000人の集客と聞いていたが、実際は7000人程度しか入っていなかったという。(93頁)
この出来事は大きなニュースとなり、世間を騒がせた。(93頁)
世間の耳目は沢田さんに集まり、彼はすぐに記者会見をしている。
その時の彼の発言が「お客さんは来ておりました。『だからやれよ』それはわかる。でもね私にも意地があるんですよ。お客さんを信じている。僕の意地を通させてもらいました」
(本の内容とは異なる)
そうはいっても7000人入っている。
「十分じゃないか」と思う水谷譲。
それが「万に届いていない」というのが彼の不満だった。
ジュリー。
沢田さんは500人のホールで満足する人。
でもジュリーを演じる時は彼の意地。
芸能メディアは「沢田研二のわがまま」という
そういうふうに報道されていたと思う水谷譲。
この時に絶妙なことを言った人がいた。
「どう思いますか?沢田さんのこのわがままを」
武田先生は「偉いなぁ」と思った。
かつてのGSのライバルが答えた一言だったが、堺正章さん。
「お客さんが少ないって言って沢田さんやらないんですよ」
そうしたら堺さんはこう言った
「そりゃそうですよ。ジュリーだもん」
格好いい。
この堺正章という人は、この芸能メディアにマイクを突き付けられた時のコメントが上手い。
やっぱり、この人は大変な人。
武田先生の友、西田敏行がこの世を去った時、芸能メディアが堺正章さんにマイクを持っていって「悲しみの一言を」というと、堺正章は上手いことを言った。
「いやぁ天竺行っちゃいました。私ももうすぐ行きたいなぁ」と言った。

そう。
孫悟空だけ。
(「西遊記」の中で主要キャストで存命なのは孫悟空役の堺氏のみ)
場をフッと明るくする。
これは堺正章さんの「そりゃそうですよ。ジュリーですもん」というのはデカかった。
このあたりから芸能メディアはスーッと沈黙し始める。
(さいたまスーパーアリーナの集客は)チケットの売り方とかなどで集めようと思えば集められたのか?と思う水谷譲。
沢田さんは「ジュリー」という作品に関しては絶対にそれだけの観客を集めるということを条件にジュリーを出す。
それが「半分埋まってるからいいじゃん」。
それじゃあダメだ。
これはやはり彼にしかわからない、彼にしか真似のできない、この本のタイトルの通り「なぜ、沢田研二は許されるのか」。
ということはお客様も「しょうがない」という気持ちになった人が多かったのか?と思う水谷譲。
この大騒動の後、沢田さんはジュリーを演じる時は全部(会場を)満杯にしていく。
それでその沢田さんのファン達はジュリーを非難しないで支持に回ってしまう。
その直後の21日に大阪のSAYAKAホールというところでコンサート。
これはもちろん1200〜1300のぐらいの小屋なのだが超満杯。
そこからずっと満杯を続ける。
その「沢田さんはわがままだ」という揚げ足を取りたい芸能メディアなのだが、どのファンにマイクを向けても聞こえてくるのは支持。
「当然だ。ジュリーはやらなくていい」という。
その「ジュリーにそんなこと許されるんですか?」と言った芸能メディアのインタビュアーに対して「ジュリーはいいのよ」という。
このあたりがやはりレジェンド。
沢田研二さんのレジェンドの足跡を追っている。
沢田研二さん、彼は様々な仕事をやってきた。
小さな劇場で舞台劇、そんなこともおやりになっている。
また映画に於いてはジゴロというか、そういう男も演じられたかと思ったら年老いた男もおやりになっている。
ジュリーを演じる時、会場は満員でなければならない。
それが昭和のアイドルである。
寸毫も妥協しない。
その為にはアイドルはタフでなければならない。
2025年には団塊の世代800万人が75歳以上の後期高齢者となる。(134頁)
新しい価値観が800万人の中に生み出されなければならないという。
こういうのを言われると武田先生も考えてしまう。
コンサートに行く。
武田先生達は小さい会場で、700〜800人ぐらいの会場でやる。
それで十分なグループで、ギター二本で歌を歌っているのだが、この間も茨城とか川辺の町で歌った。
お客さんが来てくれて。
楽しそうに笑う。
それで気になるお客様の姿が目に入ったので、かなりご高齢のお年の方がお見えになって。
武田先生はジョークの中で、そのお年寄りのことを若い時に笑ったという体験がある。
「嫌な気になりませんでした?」とかと最後に聞いた。
そうしたら「え?何がですか?私、笑っちゃいましたあの話」とかと言われて。
それでホッとしたりなんかしたのだが。
その時にフッと頭をかすめるのは、その人達が何でこんな武田先生達、年寄フォークグループを見に来るか?
それはやはり同じ年寄り同士のコミュニケーション力で、それが彼らには、彼女達には、やってくる動機になっている。
同時代を同じように生きてきたという。
そのご高齢の方も「若い時を思い出しました」とお声をいただいたのだが、「若い時を思い出させてくれるタレントというのが今、必要なんだなぁ」と。
だって800万人もいるんだもの。
一人ずつ買ってくれればヒット作が作れるというような、そういう潜在力を持っているタレント。
それはやっぱり65歳以上のタレント。
それはやっぱりその人達のパワーだと思う。
ザ・タイガースの解散後も再集結を願い、最も積極的に動いたのは沢田研二だった。(137頁)
もちろんお亡くなりになった仲間もいらっしゃるし、もう一つ、もの凄く激しくケンカして仲たがいの故に別れた仲間もいる。
だけど「生きてるんだったらもう一度タイガースやらないか?」と努力なさっている。
冷たい言い方だが、タイガースというのはある意味では不発で終わったグループ。
メンバーの脱出とか、それから沢田さんがどんなに同窓会を呼びかけられても帰ってこなかったという仲間もいた。
それが沢田さんが60になり70になる。
それでもまだタイガース再編を辞めない。
そのあたりからメンバー達が変わってきてしまった。
加橋かつみさん、「トッポ」というニックネームでタイガースが最も売ったシングル「花の首飾り」。

このリードボーカルをとった加橋かつみさんも沢田さんとの意見の対立もあってタイガースを脱退なさる。
それも振り切るように。
そして水谷譲は事情を知らないだろうが、一時期、武田先生達フォークの方におられた。
武田先生は一緒ではなかったが、武田先生達の同級生はかつみさんと一緒にステージをやっていた。
それからもう一人、瞳みのるさん。
「ピー」というニックネームだった。
この方もタイガースを脱退なさって、こういう言い方は何だがタイガースがどうも心の傷だったらしくて、キャリアを消して大学に入り直すところから人生をやり直されたという。
タイガースでドラムを叩いてらした。
この人は武田先生のスタッフのイトウさんの説明によれば「もう一回やり直そう」というので慶應に入られた。
そこで教員資格をお取りになって先生の道を歩かれた。
それでその教師をやっておられる時に沢田さんが「もう一回タイガースやらない?」と言っても乗らなかった。
武田先生のスタッフ(所属事務所の社長)のイトウさんの言い分だが瞳みのるさんは成績優秀で。
凄い。
これは何で凄いかというと、これはピーさん、みのるさんがおっしゃったワケではないのだが「タイガースの時の苦労を思えばドラムの練習から新曲の模索とか新しいサウンドを作る為の労苦とか、その努力を思えばキャリアを消してなんてちっとも難しいことではなかった」という。
何と沢田研二は40年をかけてこの二人を呼び返している。
沢田研二さん。
彼はタイガースを再結成したい。
他界した友もいる。
それは横に置いておいて、生きているタイガースのメンバーは全員集めたい。
それも全てジュリーの為に。
沢田研二さんはジュリーの為にタイガースを再び立ち起こそうとした。
呼びかけ40年。
タイガースを離れていった仲間に「帰ってこないか」「一緒にやらないか」という声を。
加橋かつみさんにはそんなふうに呼びかけたそうだ。
「もう一度青春の頃のメンバーで、同じ楽器の守備位置に付いて歌を歌い出す。そうするとそれはただ単に懐かしいだけじゃないんだ。その歌声は必ず励ますことができる。新しい考え方で懐かしいことをやってみよう。それが新しいエネルギーを生むから」ということを繰り返し繰り返し。
そして彼が頭の中にあったのは日本の人口の中で60歳以上、つまりタイガースを見聞きした人が人口の中で3000万人いる。
「その3000万人に対して歌を歌おうよ」という。
「その歌を歌うことによってその人達が『ああ、懐かしい』と言ってくれればそれは一つの文化だよ」という。
これを広告代理店が沢田さんの頑張りなんかを見ていて名前を付ける。
そういう沢田さんの動きを。
これはいい言葉。
「インフラ友達」というのを名付けたらしい。
これはもちろん田中さんの本の中にあったのだが「インフラ友達」。
(本を読んだ限りでは「インフラ友達」は沢田氏とは無関係な言葉のようだ)
これはみなさん噛みしめてください。
いい言葉です。
インフラとしての友達。
水道、電気とか、そういう生きていく為の道具として「友達」
これはハッとする。
「インフラ友達」というのはどうやってできるかというと「一緒に聞いた」とか「一緒に歌った」とか。
65歳以上の−中略−
施設などに入っていない一人暮らし世帯は約672万人もいるという。(159頁)
社会の中で人間の繋がりを忘れている、切れている人達。
そういう人達を「タイガース聞いた?」という、その一本の糸でインフラとして結べば、それは社会的な力になりうるのではないだろうか?
特に2020年からコロナパンデミックが人間の関係性をズタズタにした。
そして自然災害。
地震の多発、台風の大型化。
そういうことが連続して日本を襲っている。
そんなのを自然災害やパンデミックに対してできる備えは「友達」。
水道、水、電気、道路、友達。
これはやっぱり生きていく為のインフラ。
武田先生達はフォークソング。
お客さんを歌わせる。
南こうせつという人がお客さんを歌わせるのが上手い。
シングアウト。
こうせつさんに呼ばれていって、あの人が「貴方は〜もう忘れたかしら〜♪」とか言って、客席にゆっくりと指を振って指揮棒の振りをすると千どころではない、万単位のお客さんが「赤い〜手拭〜マフラーにして〜♪」と歌い出した瞬間、これはやはり「歌はインフラ」。

沢田さんはそういう意味でタイガースを一種、「インフラにしたい」という
「命を支える連帯の証として、もう一度タイガースを思い出して欲しい」という。
沢田研二はコロナを機に、客席にこう呼びかけるようになった。
「生きててね、生きててね」(121頁)
いい。
沢田研二、ジュリーがタイガースをバックに「みんな、生きていようよね!」と叫ぶ時、それは凄いロックの叫び。
10代、20代がそれを叫んでも何も響かないと思う水谷譲。
でもあの沢田研二が・・・
ちょっと申し訳ない。
少しおなかの大きくなった沢田さんが、それでもジュリーのあの声で絶叫した時、これほどインパクトのあるメッセージはない。
内田(裕也)さん「ロックンロール万歳!」というのはこのこと。
「生きていようよね!」「ロックンロール万歳!」、いや「シニアロック万歳!」と叫ばせたい。
イ「ンフラという友達を作る為にタイガースを」という、このジュリーの考え、沢田さんの考えは最高だと思う。
妙な言い方だが「沢田さん、学ばせていただきます」。
500(人)の観客を前に武田先生も言う「生きていようよね!」。
2011年の沢田研二のライブにて、瞳みのるが復活を遂げた時、森本太郎はこう語っている。−中略−
いずれ、僕らには『死という絶対的な別れがくる。その別れまで今のような状態でいたいんです。それは回数じゃなくて、会いたいと思ったときに会える関係でいたいということなんです」(151頁)
「思えばタイガースはGS、グループサウンズの大ブームの中で今、唯一オリジナルグループとして現役という冠を被っています。どうぞタイガースをよろしく」
(という言葉は本の中には無い)
森本さんの素敵な言葉だが、ごめんなさい一言伝えさせて。
「海援隊」もやってます。
というワケで「ジュリー伝説」だった。