(番組冒頭は文化放送「浜祭」でのグッズ販売の宣伝)
本題だが今週、まな板の上は「倍音」が乗っている。
中村明一さん、春秋社から出ている一冊なのだが。
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(番組の中で、正しく言っている箇所もあるが「整数次倍音」のことを「整数倍音」と言ったり「非整数次倍音」のことを「非整数倍音」と言ったりしているが、全て本の表記と同一の〈整数次倍音〉と[非整数次倍音]に統一しておく)
武田先生は奇妙なものに引っかかってしまって、三波春夫という昭和歌謡・演歌史の講談・浪花節の作品で「俵星玄蕃」というのがある。
それが9分間にも亘る長編浪曲・講談・歌謡曲なのだが、この作品を三波春夫さん自身が作ったという事実に圧倒されて、三波さんはなぜ作り上げたのだろうか?と、そこを考え始めた。
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ちょうどひっかかることに、この番組でもお話したが、武田先生は1970年の頃青春を過ごしていて、その1970年、まさに学園紛争のただ中で大学生だった武田先生。
ヘルメットの反戦運動の学生達が日本中に溢れたという。
その遠い思い出の中に九州のある大学で文化祭に出演したら過激派の学生から声をかけられて、そいつが言った一言「三波春夫の『俵星玄蕃』、あれ聞いてると何で涙が出てくるのかね?」という。
(この時のことに関しては2024年8月12〜16日◆俵星玄蕃で詳しく語られている)
ヘルメットの過激派の学生。
それが「俵星玄蕃」に感動しているというのが武田先生には不思議でならず「さあ、わからないな」なんていう返事をしたのだが、歳月が流れて50年の歳月、ある人の本を読んでいたらアルベール・カミュの一言「反抗的人間」という作品があって、その中でカミュの言葉だが
「人が死ぬことを受け入れ、時に反抗のうちで死ぬのは、それが自分個人の運命を超える『善きもの』のためだと信じているからである。−中略−人がある価値の名において行動するのは、漠然とではあっても、その価値を万人と共有していると感じているからである。」
これはちょっと難しい言葉だが、そのヘルメットの学生あたりが必死になって戦っていたのは「ベトナム反戦」という運動が、武田先生達1970年を青春で生きた者の中にある。
それ故に我々は社会全体に反抗した、という。
「ベトナム人民が可哀そうじゃないか。何人殺せば気が済むんだ、アメリカ帝国主義」という、そういう思いがあった。
平和を希求する「善きもの」の為に激しく社会と戦うという運動が70年の学生運動の中にはあったのではないか?
それにしても三波春夫の不思議は「俵星玄蕃」。
よく考えてみるとこれも元禄という時代の中にあって幕藩体制、幕府の体制ゆえに簡単に「正しい」「間違っている」を決められて自分のお殿様を亡くした侍たちが起こした反乱と思えば、武士の筋を通すという意味合いでは彼らの正義がここにあったのではないか?と。
三波さんはそのことを訴えたかったとすれば、なぜ東京オリンピックの年にこの歌だったんだろう?と、そんなふうに思った。
スーッと頭によぎったのは三波さんの胸の中にシベリアあたりで死んでいった日本兵の姿、「私の中で、死んだ戦友たちは日本の正義を信じていた」という無念を、それを忠臣蔵と重ねたのかな?と思って、「凄いな」と思って三波春夫を辿っていたら、また凄いのに出会ってしまった。
一つ疑問を持つと疑問というのは芋づるで次々繋がっていく。
晩年の歌唱だが、三波春夫さんが1999年、NHKの企画で「一本刀土俵入り」という任侠ものをやっている。
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二葉百合子さんとやっている。
(駒形)茂兵衛を励まして「立派な横綱になるんだよ」とかと言いながらやさしくしてあげる旅籠の女を(演じる二葉百合子)。
それを浪曲でやっている。
何度も何度も頭を下げていく茂兵衛。
「どんなに嬉しかったんだろうねぇ」とかと言いながら。
お蔦という、その宿場町の女が茂兵衛に向かって一声かける。
二葉さんが「よっ!駒形!」。
その声が何と言うか、しびれるぐらいいい。
この声の良さは一体何だろう?と。
朗々とし、凄味があって凛として響きがいい。
物語を始めるには最高の掛け声で背中にゾワりと泡立つものが感じられる。
こんな感激をなぜ感じるんだろう?
ただの歌謡曲ではない。
物語を辿るのだが、「歌声」なんていう軽いものではなくて。
とにかく声が入ってくる。
「これは一体何なんだろう?」と思った時に見つけたのがこの本。
「倍音」
武田先生はその時、直感で二葉百合子さん、三波春夫さんの歌声を「声」として解釈するのではなくて、「音」として解釈した方が正解に近づけるのではないだろうか?
とにかく歌声を一回「音」という基本の単位まで落として「倍音」という音に関する感性、それを今週から来週にかけて探っていきたいなと思っている。
日常の暮らしの中で「音」というものに注意を向けてみましょう。
奇妙なことに皆さんお気づきになりませんか?
私たちの身の回りにはさまざまな音があります。そのなかには、よく知っているようで、考えてみると不思議なことがたくさんあります。−中略−
テレビを見ていると、電話の音。
「あっ! だれからかな?」
電話に手を伸ばすと、テレビの中で女優が「はい」。
「なんだ、テレビの音か」
そうかと思えば、うちの犬は、窓の外から聞こえる犬の鳴き声には、どんなに遠くの小さな鳴き声にも反応するが、同じ室内のテレビから聞こえる犬の声にはまったく無反応。(3頁)
これらの不思議、謎を解く鍵は、「倍音」にあります。(5頁)
明らかに違うから反応しない。
人間の方にいく。
ドラマとか映画にもよくあるし、日常の暮らしの中でもあろうかと思うが、鹿威(ししおど)しがカーン!と鳴る。
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鈴虫がリンと鳴る。
季節はいつがいいか?
「秋」にする水谷譲。
除夜の鐘がゴンと鳴る。
「冬」だと思う水谷譲。
当たり前のようにおっしゃるが、私共は、かくのごとく音によって季節を言い当てることができる。
これはやってみないとわからないが、普段聞いている豪徳寺の夕方五時の鐘と、除夜の鐘の違いが分かるかも知れない。
私共は基本的に物音で季節を聞き分けるという力がある。
確かに「蝉が鳴いたら夏」と思う水谷譲。
私共にとってその風景の中にある音、自然の音、それが確実に季節を連想させる、という。
テレビで芸人が森進一のものまねをしています。「森進一です」の一言だけで皆が笑う。何がおかしいのでしょうか。(4頁)
小泉進次郎。
あの人が選挙でやってきて「こんばんは、小泉進次郎です」と言ったらおかしくもなんともない。
何なんだこれは?
それが「音」ということ。
「音まで深く入って考えてみよう」という。
私が小学校の頃、男の子たちは、音楽の時間に、歌うのがイヤでした。とにかく歌を歌うのが恥ずかしかった。(4頁)
そのくせ学校帰りには春日八郎とか三橋美智也は歌える。
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「ホーイのホイ♪」とか歌っていたが、なんだか良い子ぶって大きく口を開けて「あかいとり ことり♪」。
博多弁で言うと「なンつや付けて歌って」。
この差は一体何だろうか?
小津安二郎、黒澤明など、昔の映画を見ると、話し方が現在とまったく違うことに驚かされます。日本語に何が起こったのでしょう。(5頁)
その奥にあるのが「倍音」なのではないか?
私共は「倍音」の恩恵にあずかりながらも「倍音」に注意を向けたことすら無い。
では「倍音」とは何か?
これは海援隊の仲間がいると皆さんにわかりやすく説明できるのだが。
例えば武田先生の横にリードギターを弾く仲間がいて、そいつが弦をデーン!と叩く。
そうすると彼が叩いた弦というのは震える。
「震える」とは何かというと弦を震わせる波が移動していく。
沖からバーっと波がよせてきて浜辺に打ち上げるように音という波が寄せて震え続ける。
絵で言うと北斎
北斎の名画「神奈川沖浪裏」という有名で渦を巻いているヤツ。
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(番組では「かながわおきうらなみ」と言っているようだが「かながわおきなみうら」)
あの中に波が描かれていて、やや左手の方に大波がある。
大波のすぐ下には中波があって、一番下に小波があって海面がある。
あれを「倍音」と言う。
一番大きな波だって大きな波でいられる。
次に中波になって小波になる。
波が大きい時は谷になったりする。
その構造そのものを「倍音」と言う。
大波・中波・小波のことを。
「倍音」のことを、英語では−中略−「ハーモニックスharmonics」と言います。(9頁)
なぜ「ハーモニー」か?
音の波は海面から整数に倍で立ちあがり大波を作り上げる。
1/2、1/3の波、1/4の波、それで大波・中波・小波を作って走る。
音の周波数は通常、一秒間に何回振動したかによって表わされ−中略−一秒間に四四〇回の振動ならば四四〇ヘルツで、−中略−楽器のチューニングによく使う音叉の音の高さです。(8頁)
基音が四四〇ヘルツなら、−中略−四四〇ヘルツの音=ラ(A3)と言うわけです。(9頁)
産まれたばかりの赤ちゃんが泣く。
オギャー!
これがドンピタ「ラ」の音。
我々は「ラ」の音から人生を始める。
不思議。
人類が「音楽」というのを作って、何と音を記号で後世に伝えることができるという文明を興したワケで。
ただ、西洋音楽が「音」というものを記号に変えることができるのだが、だからと言って音を掴み切ったワケではない。
だから倍音も難しい。
音は波である。
それが山を描きながら伝わってゆくワケだが、「整数の倍音」というものもあれば非常にカウントしづらい、そういう音も中にはあって、そのような音のことを「非整数」という。
「整数(次倍音)」という音と「非整数(次倍音)」という音が暮らしの中にはあるという。
私共が持っている暮らしの音に関する情報だが、私共は〈整数次倍音〉と[非整数次倍音]を同時に聞きながら暮らしている。
都はるみは、ひとつのフレーズの中で、三点を自由に行き来しています。「アンコ椿は恋の花」という歌の「あんこ〜♪」の部分を見てみると、「あ」で〈整数次倍音〉を出し「ん」と唸る部分では[非整数次倍音]が強く、最後の「こ〜」というとことは倍音の少ない裏声に抜けていく。(56頁)
(本放送ではここで「アンコ椿は恋の花」が流れる)
こぶしが回って不安定になる。
あの不安定が[非整数次倍音]。
(本によると最後の部分は「倍音の少ない裏声」で「非整数次倍音」ではない)
「あ」が〈整数次倍音〉。
それをわざと非整数を。
そうすると演歌の正体が見えてくる。
整数の音を出しておいて、次の音に行く瞬間、不安定にさせてたどり着く。
それがこぶし。
我々はその音を聞くと凄く感動してしまう。
このへんがまことに面白いところで。
歌手の上手い下手というのは実は〈整数次倍音〉と[非整数次倍音]、正しい音階で歌っているところと正しくない音階に落ちた、そのぎりぎりのはざまの揺れが「あの人は歌、上手いね」という。
この〈整数次倍音〉と[非整数次倍音]というのは人間の耳をコントロールする力を持っているのだが、〈整数次倍音〉と[非整数次倍音]の天才的なシンガーが戦後の歌謡界にいる。
それが美空ひばりさん。
この人は正しい音から正しい音にゆくとつまんない歌。
「あ〜かいとり〜こ〜とり〜♪」になってしまう。
そこで「あかい」の「あ」から次の「か」にゆく時にわざと不安定な経路をたどって「か」にたどり着く。
しかも正しく「か」に辿り着ける。
基本的に、彼女の声質は、〈整数次倍音〉を多く持っています。だからこそ、カリスマ性を発揮して、多くの熱狂的支持を集めることができたのでしょう。(57頁)
だからいささか難しいことを言っていても唸ってしまう。
「あ、なるほど」と思ってしまう。
彼女の歌は歌詞でわからせるのではない。
美空ひばりという人は音でわからせる。
だから考えると矛盾しているが、矛盾が耳に心地よく感じる。
その典型がこの歌。
「柔」
(本放送ではここで「柔」が流れる)
勝つと思うな 思えば負けよ(美空ひばり「柔」)
「じゃ、どうすればいいんだ?」という。
2コーラス目はなおさら難度が増してわからない。
人は人なり のぞみもあるが
捨てゝて立つ瀬を 越えもする
せめて今宵は 人間らしく
恋の涙を 恋の涙を 噛みしめる(美空ひばり「柔」)
言われてみると不可解だと思う水谷譲。
武道の一番奥にある悟りのような心境を、いきなり演歌で歌って何となく聞いてしまう。
これが美空ひばりが持っているパワー。
彼女と並べるくらいの歌の力を持った人が北島三郎。
北島三郎というのは整数の倍音で歌うのだがずっと震えている。
「なぁぁぁぁぁ〜み〜〜だのぉぉぉぉ〜〜〜おぉぉぉ〜〜〜♪」
面白い。
これからぐいぐい話を広げていきましょう。
これが歌謡曲だけに終わらないところにこの話の面白さがある。
ささやかことなのだが、この倍音の勉強をしている時に昔の歌謡曲を辿ったりなんかして、「柔」を歌う美空ひばりさんの姿があった。
それが彼女が袴を履いて、紺絣で柔道着を肩にかけて歌うシーンがあった。
見事。
「正中線」といって武道でよく言うが自分の体の真ん中を一本芯が通っているみたい。
真っすぐ。
美空さんはその線が一本綺麗に通っていて「勝つと思うな〜♪」が入ってくる。
我々の体の中には〈整数次倍音〉に関して素直に従うという本能が仕組まれている。
芸能界を探しましょう。
日本の歌手で〈整数次倍音〉が強いのは、−中略−松任谷由実。話し声では、黒柳徹子やタモリの声があげられます。(23頁)
かつて庶民の生活に溶け込んでいた物売りの声にも、〈整数次倍音〉が強く含まれていました。「たーけやー、さおだけー」の竿竹売り、金魚屋、豆腐屋、焼き芋屋などの売り声です。(23頁)
民謡、謡曲、声明、「歌いもの」と呼ばれるジャンルに属する長唄や地歌などの声は、どれも〈整数次倍音〉の比率が多くなっています。(23頁)
これに対してもう一方であるのが[非整数次倍音]。
これはわかりやすく言うと波としては崩れてしぶきをまき散らかしているという。
ザラザラした、ガサガサした音、あるいは高次だとカサカサした音、という表現ができます。(24頁)
森進一、−中略−演歌以外では、宇多田ヒカル、−中略−桑田佳祐、明石家さんま、ビートたけし(54〜55頁)
日本伝統音楽の発声の中では、「語りもの」と呼ばれるジャンルに属する義太夫節、説教節、浪曲などの声に、[非整数次倍音]が多く含まれています。−中略−日本の人達は、尺八、三味線、琵琶、能管など、海外から入ってきた楽器をすべて、この[非整数次倍音]が出るように改良したのです。(24〜25頁)
〈整数次倍音〉ではないから不正確。
不正確な故に人が意図的に聞こうとする。
浪曲なんかもその為にわざわざ声をガサガサにする。
「旅行けば♪」
あの歌声なんていうのはそういうワケ。
尺八なんかもそう。
尺八の指孔が大きく、指孔の数が少ないこと。これらは、みな、高音を連続的に変化させることを可能にするために改良されたのです。(117頁)
それを魅力とする。
「正確に一発で出ない」というところが日本人の音に関する感性。
面白いもので、ちょっとわかりにくいかも知れないが、ここに日本人の耳の特徴がある。
西欧人は−中略−言語やそれに似たものの音を聞いたときには、左脳で反応しているわけです。それ以外はすべて右脳に入っている。西洋楽器音、−中略−自然音、鳴き声、雑音などはすべて右脳で反応が見られます。(26〜27頁)
日本人は、言語・邦楽器音を含む自然界にある音はすべて左脳で(27頁)
鳥の声を聞くと人間の声と同じように反応してしまう。
犬がワンワン!と吠えると「まぁ、チイちゃん。今日はお元気ね」と御近所の奥さんが犬の鳴き声だけを人間の言葉に変えることができるという。
そういうのができるのは日本人の耳だから。
いわゆる自然音に関して耳が日本人は敏感。
日本は四季があるからというのも関係するのかと思う水谷譲。
季節も全部音から入ってくるという。
水谷譲は今、「日本には四季がある」と言った。
四季ともう一つ自然の中にあるもの。
自然の音は、主として[非整数次倍音]でできています。(37頁)
倍音が強い音というのは、火山の爆発、地鳴り、台風など、人間にとって異様な状況の時に現れる音でした。(144頁)
「この風の音はただごとじゃないな」とか「この波音はだたの波じゃない」とか、その分だけ自然に関してもの凄く敏感な耳を持っていて。
地震にしても最初の揺れみたいなものを体験すると「デカくなる・デカくならない」を日本人は全身で感じる。
そうして行動すると思いませんか?
[非整数次倍音]で伝わってくる自然からの物音で感じる。
[非整数次倍音]というのは何かが起こる時の音。
だから耳がギョっとそっちを向いてしまう。
だからストーンと自己紹介とかをされるとガクっとくる。
[非整数次倍音]で「こんばんは、森進一です」と言うから。
小泉進次郎君だったら何ということはない。
だが森さんが[非整数次倍音]で「こんばんは、森進一です」と言う。
だからおかしい。
面白い。
かくのごとく我々は〈整数次倍音〉[非整数次倍音]を使い分けながら生きているという。
水谷譲は昨日「あ、そういうことか」と思ったことがあって、例えばアナウンサーの喋りでも凄く上手に器用に喋る人がいるが何も入ってこないという人がいる。
それはもしかして倍音が関係するのかな?と思う水谷譲。
整数過ぎる倍音はよほど力量が無いと右から入って左へ抜けてゆく。
音声が明瞭だが意味不明の人というのがいる。
それと同じこと。
ここからまた喋り方のチャームさなんかにも話が広がっていくから
日本語の特徴というものをもう一回考えてみましょう。
日本語の特徴。
これは日本人の耳の特徴だが、日本人は言語脳であるところの左脳で鳥のさえずりや虫の音、自然音も聞いてしまう。
だから人の声として理解する。
そういう音世界に住んでいる。
音楽。
西洋音楽は右で聞く。
日本語の言葉そのものは異様な言葉で「あいうえお」の言語なのだが、これは数少ない。
この反応の傾向は、日本人とポリネシアの民族において見られました。(29頁)
子音と母音は何が違うか?
この本でやっとわかった。
70(歳)も真ん中過ぎているのに。
「かー」と必ず「あ」になると思う水谷譲。
それも特徴。
日本語の「あいうえお」。
この母音というのは何者か?
この本で初めて教えてもらった。
著者の方、本当にありがとうございます。
何と驚くなかれ、母音の「あいうえお」。
これは口の大きさだけで音が発声できる。
「かきくけこ」
舌と歯がやたらと出てくる。
「さしすせそ」
「たちつてと」
唇と歯。
それに比べて母音。
「あいうえお」
口の大きさだけ。
母音がこれほど多く使われている言語も珍しいと書いています。実際に、胃、鵜、絵、尾−中略−母音のみの単語がいくつもあります。(89頁)
私たちは「か」と言ったときに、実はKと書く「クッ」というカサカサした[非整数次倍音]と、Aで書く「あー」という〈整数次倍音〉とを、常にセットにして発音しています。(90頁)
かくのごとくだが、日本語は独特の言語世界・言葉世界を持っているという凄い国語。
このポリネシアなんかの人達と同じような母音中心の言語と会話をすると、他の言語の人達と全く違うところが一箇所だけあって、身振りがいらない。
日本人は、非言語性の表現の中で、身振りなどの感情表出は控えめだが、音声・音響表現により敏感であるという研究結果も出ています(98頁)
西洋人はもの凄く身振りが大きいと思う水谷譲。
ヒトラーも疲れたろうと思う。
でも日本人であそこまで動く人はいない。
このへんが面白いところで、大きな身振りを必要としない。
これは東洋人の中でも中国の人よりも身振りが少ない。
香港映画とかを見ていると臭い時がある。
「チョチョシンゴンバー」とかと。
指でこうやるのが多いと思う水谷譲。
あんなのはいない。
時代劇でああいうヤツが出てきたら監督から凄く怒られる。
つまり、言葉だけでそういう世界を持っているということが日本語の面白いところ。
故に、日本人はこの言語の世界であらゆるものが決定していく。
喋り方がそうだから。
〈整数次倍音〉[非整数次倍音]と母音の多い言語、母音支配の言葉遣いで日本語は成立しているワケで。
これがいかに我々の体に沁み込んでいるか?