(スピンオフ動画配信「武田鉄矢語りおろし 漢字を説きし者あり 白川静伝 第二幕」の感想などが紹介されるがここでは割愛)
「手の倫理」という変わったタイトルを付けた。
これはズバリそのタイトルの本があって伊藤亜紗さん。
講談社。
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考え方がハッとした。
わずかな言葉の差異ながら、私たちはその言葉を使い分けている。
とにかく私たちは正確に使い分けている。
人間の認識の不思議さ。
人は「知らない」には「知らないことを知っている」場合と、「知らないことを知らない」場合がある。
もう一つあるのが「知らないのに知っている」。
ややこしい。
知らないのに体はちゃんと知っている。
その認識の不思議さが「さわる」と「ふれる」の差異。
英語にするとどちらも「touch」ですが、それぞれ微妙にニュアンスが異なっています。(3頁)
日本人は「さわる」と「ふれる」を間違わない。
つまり、知らないんだけど知っている。
「この場合は『さわる』だな」「この場合は『ふれる』だな」という。
そのあたりの設定の仕方が「面白いな」と思った。
武田先生は今、合気道をやっている。
武田先生が通う合気道場。
一緒に合気道を学ぶ方に全盲の方がおられる。
目の見えない方がおられて、盲導犬と一緒に。
何と腕前は三段。
稽古は約束事があって、片手を掴みに行く動作から始まるのだが、この方は全盲なので、この方の場合はそれを省略して掴んでいるところから始める。
片手を掴んだところから。
この動作から始めてもこの方はそれ以降の合気道の動きが完璧にできる。
見事な方。
この方とちょっと練習したことがあって、取りをやっていて技をかける方をやっていて、武田先生がバッと掴みに行くとこの方が凄く痛がる。
だから「技が効いてるんだろうな」と思って「そんなに効きますか?」とかと言って訊いたら「武田さん、爪痛い」と言われて。
爪が喰い込んでいた。
技ではなかった。
すぐに(爪を)切るようにした。
いろいろ話していると面白いことがある。
何が面白かったかというと、この方が寒稽古の時に雑談で見せてくれたのだが、全盲の方をエスコートする。
この方がおっしゃるのは手を繋がれる「こちらです」と引かれるとわからなくなる。
一番いいのは肩に軽く手を置かせるか、肘に手を置いてくださるとわかる。
手と手を繋ぐと方向性が全くわからなくなる。
これは面白い。
肩に軽く乗せておくともうどの方角に行こうとしているのかがわかる。
それをこの方が道場のみんなにやってみせてくださった。
見事。
本当に。
肩に軽く手を置いているだけで足並みは綺麗に揃えて歩ける。
この全盲の方なんかにもそうだが「さわる」と「ふれる」の差異がある。
虫や動物を前にした場合はどうでしょうか。「怖くてさわれない」とは言いますが、「怖くてふれられない」とは言いません。(3頁)
不可解なのは、気体の場合です。部屋の中の目に見えない空気を、「さわる」ことは基本的にできません。ところが窓をあけて空気を入れ替えると、冷たい外の空気に「ふれる」ことはできるのです。(4頁)
つまり私たちは、「さわる」と「ふれる」という二つの触覚に関する動詞を、状況に応じて、無意識に使い分けているのです。(4頁)
痴漢は「さわった」。
お母さんが眠っている赤ちゃんのほっぺたに「ふれる」。
その「さわる」と「ふれる」。
英語で言うと同じ「touch」なのだが、日本人はそこに微妙な差異を、違いを見つけ出している。
そしてその「ふれる」「さわる」をおこなう手の中に実は日本人は「倫理」があるのではないか?
「ふれる」が相互的であるのに対し、「さわる」は一方的である。(5頁)
傷口に「さわる」のは痛そうで、傷口に「ふれる」のは医療行為というような違いが感じられる。
このへんが面白いところ。
子育て、教育、それと朝から何だが性愛、男女の性にまつわる感情、そしてスポーツ、武道、看取り、そのあたりにも「ふれる」「さわる」の違いがあるのではなかろうかという考察。
筆者の体験から。
視覚障害者向けのランニング伴走体験でした。
−中略−特に衝撃を受けたのは、その逆、つまり自分がアイマスクをして目の見える人に伴走してもらうブラインドランの体験でした。
最初にアイマスクをして走ることになったとき、私はパニックに近い恐怖に襲われていました。(9頁)
そのうちに二人を結んでいる輪っかを触るぐらいにすると、やっと伴走者が感じられて少し恐怖が減った。
(このあたりは本の内容とは異なる)
(伴走者と握っているロープを)強く握ってしまうと伝わって来るものがなくなる。
このことを通してブラインドマラソンの重大なポイントに筆者は気づいた。
それは伴走者とのシンクロ、同調、それは「ふれる」能力が必要だ。
「ふれる」というのは能力なのだ。
これは凄く気に入った言葉なのだが、この著者が自らおっしゃっている。
自分がそれまでいかに「人に身をあずける」ということをしてこなかったか、ということに気づかされたのです。(10頁)
「人に身をあずける」というのは、やっぱり「能力」。
水谷譲も独自で判断するタイプなので、多分その能力はない。
この本に惹かれたかというと、武田先生にその才能がない。
こんないい歳になって始めた武道の合気道。
このこと。
「あずけろ。あずけろ」と言われる。
「ふれる」という能力がない。
だから相手から何にも情報は取れなくなる。
これは本当に身につまされる。
これは武田先生の話になるが勘弁してください。
もう70(歳)も過ぎて、こんなことで悩んでいる。
合気道には飛び受け身という受け身を覚え込むと、どんな技をかけられても、千変万化変化できる。
先輩たち、四段・五段を見ていると。
それは円形にくるんと回る。
歌舞伎の人たちのあの回り方と同じ。
ところが柔道をやっていたものだから頭を守るためのロールをする。
柔道と合気道は受け身の形が違う。
開いた魚をセンターから綺麗に一回転させるような、そんな感じがする。
柔道はロールだから「アボカド巻き」みたいな感じ。
これがいくらやっても怖くてできない。
腰の真芯を打つのが怖くて、臀部の肉で避けようとするから巻く。
それを「倒れろ」。
それで投げられる時に相手が投げようとする方角がある。
その方角に自分を持っていく。
それで回ると円が一番小さくて速く立てる。
ところがロールだと横に崩れるものだから。
それは違い。
柔道で「受け身」というのは負けの合図だから。
合気は「負け」ではない。
次の体勢を取るための受け身。
例えば武田先生が右手を伸ばして、その先輩に軽く握ってもらって正面から落ちていく。
それが合気道の飛び受け身。
これを繰り返し練習しているのだが、高段者の人から「まだ歪んでる」と言われて、それで一番偉い管長先生がおられて、管長先生が武田先生を叱ってくれればいいのに、その手を貸してくれている五段・六段を叱る。
それは「武田君が回ろうとしている時に、君が妙に力を入れるから武田君が緊張してしまう」という。
「君は武田君が回ろうとしている時に頭を打たないように引っ張ってるだろう。それが武田君の緊張を呼んでるんだ」というワケ。
それが武田先生は申し訳なくて。
「俺を怒ってくれた方が助かるんだけどな」と思う。
その時に誰かが思いついて「女性に握ってもらおう」。
「武田さんの回る飛び受け身の円が歪んでいたら女性が揺れる」という。
力がないから。
それで女性を相手に飛び受け身の練習で軽く手を握ってもらって武田先生がやった。
武田先生と一緒にその人は倒れた。
これは水谷譲rはお子さんが合気道をやっているから話しやすいのだが、水谷譲のお子さんは「ふれること」を学んでいる。
これは後に役に立つ。
本人はそんなこをと全然わからないで学んでいると思う。
わからなくていい。
だが必ずわかると思う。
水谷譲に申し伝える。
小・中・高・大。
様々な教育機関、教育プログラムの中で私たちは小(学校)から勉強の時間の中に体育という学習がある。
この体育の目指すべき目標は何か?
「体育の授業が根本のところで目指すべきものって、他人の体に、失礼ではない仕方でふれる技術を身につけさせることだと思うんです」(24頁)
例えばフォークダンス。
年上の女上級生になるとワリと命令口調で「ぐるっと回んの」とかと言いながら。
だが、その間に一番重大なことは「失礼のない仕方で他人の体にふれる」ができる。
スポーツが持っている倫理はこれ。
他人の体へのふれ方。
そのふれ方がそれぞれスポーツで違う。
そのルールを学ぶことがスポーツを学ぶことになる。
「ふれる」「さわる」というのはスポーツを支配している。
サッカーはだまし討ちを嫌い、抜け駆けを憎む。
それ故にオフサイドがある。
野球は油断を嫌う。
故に満塁、ホームスチールなど、隙を突くことはファインプレイとなる。
ゴルフはインプレイ中、グリーン以外でボールに触ることは違反であり、置かれたボールをそのまま打つことがルールである。
ラグビーはボールを手で渡す時は後ろの仲間へ、蹴る時は前に蹴ってよい。
これはよくよく考えてみるとボールが間にあるにしても、ことごとくそこにあるルール、バスケットとかバレーとかがあるが、それは問題は「ふれる」「さわる」。
だから、ふれること、さわることの倫理というのを学んでおかないとバスケットもラグビーもサッカーも野球もできない。
そういう意味で一番激しいコンタクトは日本では相撲。
相撲が最も。
だからこそ日本人というのは取り口にうるさいのではないか?
「横綱は受けて立たなきゃ」とかという「格式」を求める。
照ノ富士が言っていたが「品格」というのはわからない。
「格」はわかる。
あれは強いから。
だが横綱の難しいところは「品」がないとダメ。
その品とは何か?というと接触に倫理があるかどうか。
そのことを気にしているからこそあえて横綱に「品」「格」を求めるのではないか?
その品格というのはスポーツ全部に通用していて、柔道でもそう。
強い人は「格」がもちろんあるが、「品」もある。
そこに何かやっぱり他人にさわる時に倫理とマナーをきちんと持っているか否かの違いがある、という。
これは接触というものが「道徳」とか「倫理」と絡んでいるということがあるのではないか。
そして今、やっかいなのは、これ以上話が広がらないのだが敢えて触れておくが、今このコロナ禍、ウィズコロナの時代にその接触が問題になっている。
お医者さんは「遠ざかれ。遠ざかれ」と言うのだが、テレビであれほど懸命に呼びかけられたが、あんまり日本人がもうお医者さんの言うことを聞かなくなってしまった、と言っていいのか。
怒られるか。
お医者さんの言うことはよくわかるのだが、やっぱりそれは人との距離感、人との接触というのが生きることと同意義で。
お医者様の指導の通りにはいかないという難しさを抱えている問題なのではないだろうか、という。
接触の力加減。
ちょっと抽象的ではあるが、実はここに人間としての深い問題がいくつもある。
明日はこの接触、「ふれる」「さわる」から更に道徳、倫理まで入っていこうと思う。
著者はこんな例を挙げている。
当時小学校三年生だった息子をつれて、アメリカに出張に行ったときのことです。−中略−ウィスコンシン州、その中南部に位置するマディソンという湖畔の街で学会が開かれることになっていました。
ホテルに到着し、買い物がてら街を散歩したときのこと、向こうから、四〇代くらいの太った女性がふらふらと揺れながらこちらに近づいてきます。
私はとっさに息子の手をぐいと引いて、その女性を避けるように通りの反対側に渡ってしまいました。自分ひとりならまだしも、子供もいる状況で、何かよくないことに巻き込まれたら大変だ。その一心でした。
その直後でした。息子がパニックを起こしたように大泣きをし始めたのは。なぜ、お母さんはあの人を助けなかったのか。なぜ、かわいそうな人にあんな仕打ちをするのか。(35頁)
「いつもお母さんは言ってるじゃないか。困ってる人がいれば助けましょうよって。あの人は正面から歩いてくる時に表情で自分たちに助けを求めるような顔をしたんだ。だから僕はあの人の力になってやろうと決心したのに、お母さんは凄い勢いで僕の手を引っ張って通りの反対側に渡ってあの人を避けた」
子供はそういうのをすごくよく見ているから、水谷譲も似たような経験をしたことがある。
これは、十歳の息子さんは四十歳過ぎのそのアメリカの婦人に対して「気の毒な、病気か何か、気持ちが悪いか何かじゃないか」と見たのだが、お母さんはどう見たかというと「アルコールか薬物の中毒者ではないか」(本によると「物乞い」であると判断していた)。
そのことに関してこの伊藤さんがおっしゃっているのは「どっちが正しいかわからない」と。
道徳的には息子の方が正しいのだろう。
困っている人、気の毒な人、それから健康に問題のありそうな人を助けるというのは「道徳」としては善である。
ところが「倫理」としてはどうだろう?
倫理とは何かというと「選択」である。
伊藤さんは「私の倫理の選択は間違っていない」とおっしゃる。
「あの女性は危険だった」と。
明らかにあの人は東洋からやってきた旅行者だと計算していた。
その大人の直観を息子は激しく憎んだけれども、そうせざるを得なかった、という。
だから「すべきである」と命じるのが道徳なら、「すべきだがそれはできない」ということを主張するのが倫理である。
武田先生がここで「手の倫理」を出したのは実はそこに通じていく。
『週刊文春』が出てくる。
週刊文春は道徳の週刊誌ではない。
倫理の週刊誌。
週刊文春は「善い」「悪い」をジャッジしているのではない。
道徳を毎週発売しているのではない。
倫理を提案している。
「これはすべきだができないことだろうか」「できるけどすべきではないことなのだろうか」とかという。
そこに道徳と倫理の違いがある。
これはまさしく「さわる」と「ふれる」の差と同じだ、という。
道徳は「さわる」、倫理は「ふれる」。
道徳に「さわった」。
倫理に関しては「倫理にふれる」。
こういう価値観が世界を回しているのだ、という。
だからメディアがいとも簡単に加害者と被害者を分ける。
犯罪の場合はわかりやすい。
ところが国際的な紛争などになると、どっちが正しいかというのはなかなかジャッジしにくい。
この人の考え方はここから更に深く入っていく。
武田先生も「言葉の使い方が浅いな」と思ったのだが「多様性」。
「多様性」という言葉を安直に使うことが今、横行しているのではないか?
例えば性的なLGBTの人たち。
伊藤さんが鋭いなと思ったのは「多様性が必要だ」と思う時、自分の中にその多様性を抱えないとダメですよ、という。
武田先生はドキッとした。
「それはそれでいいんじゃない」とかという不干渉を「多様性」だと言っている部分が武田先生にはあった。
だが、実は自分の中にも多様性がある。
性的LGBTみたいな多様性はある。
私たちの中に。
70(歳)を過ぎて奥様のお化粧台の中から口紅を取り出してそっと口に塗ってみるとか、あってもいいのではないか?
昨日は私たちはあまりにも便利に「多様性」という言葉を使い過ぎる、と。
だから「多様性があるんだから、LGBTの方はレズ、ゲイ、両性愛、トランスジェンダーの方は性的にそういう傾向があるんだったら、それはそっち側でやってください」みたいな。
だが、「多様性とはそんなものではない」とおっしゃる伊藤さんに自分でガクッとした。
何をガクッとしたかというと「それはあなたの中にもあるハズだ」。
もの凄く昔の話、恋愛に破れた時に「何か男の人よりも女の人の方が一緒にいて楽だ」と思ったことがある水谷譲。
思春期の頃に宝塚に憧れた。
「それも一種、あなたの中の虹ではないか?」とおっしゃる。
(七色の虹は)性的マイノリティの人たちのマーク。
男の子にも男の子に惹かれるという瞬間がある。
中学校一年、オオイシ先生のクラスの時にババ君が好きだった武田先生。
ババ君は眼鏡をかけた丸坊主の子だったのだが、非常に絵に描きやすい顔をしている子で、眼鏡を描きさえすれば「お!ババ描いたか」と言われるぐらい。
ババ君が何か可愛らしい。
そういう感情。
それと、例えばお殿様がいる。
横に刀を持った少年がかしずく。
あれはお殿様の虹色。
信長は少年が好きで。
鹿児島の人から怒られるか。
西郷さんはそう。
男同士の虹色マークの人。
坂本龍馬は変わり者で有名だった。
女しか好きにならない。
土佐の高知には「稚児愛」と言って、若い男性を取り合うサムライの決闘があった。
有名な話。
だが坂本は女一点張りなので「ちょっと変」という。
秀吉の有名な話。
女性しか好きにならない。
一個一個お城を作って全部中に入れる。
秀吉にとって美女というのは美術館の展示物みたいなもの。
それで、あんまりにも女女しているので「世間体が悪い」と。
昔はそうだった。
女の人がちゃんと戦国時代を生き抜く子の数を整えてくれたら、男性に走っちゃうという。
それが秀吉はとにかく女。
それでとある人が絶世の美少年を贈り物にした。
みんな手をつけるのを待った。
秀吉がその少年をギュッと抱きしめるのを。
そうしたら少年を引きずり寄せて囁いた言葉は「姉ちゃんはいるか」と訊いたらしい。
これは司馬さんがお書きになっているから、どこかの余話に残っているだろう。
家康もそう。
ある一定の人数、女性がいて、大奥がいて子種を増やしたら、後はもう自由奔放に少年を愛するというのが常道。
お隣の国でもそう。
だから、そういうものの素養というのは自分の中にあるし、例えば他の民族の血潮は自分の中に流れている可能性もある。
東アジアの国に行って「古里じゃないか」と思ってボーッと風景を見る時がある。
そんな岡潔さんのエッセーもある。
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シンガポールをうろうろしている時に岡さんは泣けるぐらい懐かしかった。
その時に自分は海周りで日本にやってきた血族ではないかな?という。
だから最近の若い人は恋をするにしても遺伝子段階のことを言う。
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つまり「前世」を口にするということは、自分の血潮の中にある過去みたいなものを振り返ると。
そして異性に関するいわゆる性的な欲望というのはただ単に子供を増やすだけの性のしかけではない、という。
複雑。





