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2022年09月18日

2022年7月18〜29日◆ラジオ版 昭和は輝いていた@(後編)

これの続きです。

先週、戦後日本1945年から語り続けて50年代、60年代。
今週から70年代に入ろうと。
70年代は生まれていた水谷譲。
武田先生は1970年、21歳。
青春。
その頃何があったかというと、1970年3月15日、大阪・千里丘陵で大阪万博が開かれる。
テーマは「人類の進歩と調和」。
何と東京ドーム7つ分の巨大な敷地に77か国参加で大イベントが始まるのだが、これが驚くなかれ、まあ客は来るわ来るわ。
結論から言ってしまうと

一八三日間で、六四二一万八七七〇人−中略−という万博史上空前の観衆が殺到したのである。(213頁)

つまり、日本の人口の半分がその会場に駆け付けたという。
史上で最も成功した万博。
メインゲートの階段を昇るとあの岡本太郎の巨大な「太陽の塔」が聳えている。
太陽の塔の足元に広がっているのが「お祭り広場」。
毎日イベントがある。
そのイベントを仕切ったプロダクションが、ザ・ピーナッツなんかで力を溜め込んだナベプロ。
これでもうナベプロは不動の王様芸能事務所になった。
今は吉本興業とジャニーズだが、その頃はナベプロ、渡辺プロダクションがここを足掛かりに牛耳っていく。
ここで太陽の塔の下のお祭り広場でナベプロがイベントをやる。
これも凄かったらしい。
その隙間隙間、余り元手をかけないで、何かやっていた方がお客の集まりもいいので「何かやろう」というので、関西圏の学生を集めて「適当に歌、歌え」と。
素人さん。
それからちょっとラジオメディアで売れたフォークシンガー達がそこに行った。
道具が少ないから、ギターだから、ジャランジャランかき鳴らして歌っていると、何でもいい。
その頃の日本人は、たかだかギターの生音だけで人が集まってくる。
これで一番便利だったのがフォークソング。
ギャラも安い。
そこらへんの学生だから
「そこらへんの学生」の中に後にシンガーになる人達が。
森山良子とか杉田二郎とかが集まって。
「何かテーマが欲しいな」ということでこの70年に二十代の若さを誇っていた若者たちの中で切れ者のクリエイターがいて、まだ「団塊」という言葉もなかったと思うが、二十代を「俺たちを何と総称しよう?」。
誰かが言った。
(ここで本放送では「戦争を知らない子供たち」が流れる)
北山修さんか、その今大学生をやっている若いヤツらに向かって自分達の呼び名を「戦争を知らない子供たち」。
歌は後からできてきた。

戦争を知らない子供たち



「裕仁天皇が屈辱と共に味わったあの戦争をもう知らない。父ちゃんや母ちゃんたちの生き方は知らない。俺たちは俺たちで生きてゆく」
そういう歌を生ギター一本で歌い始めた。
重々しい楽団を率いる大物芸能人よりも、ギターを首から下げて歌う彼等というのは使いやすかった。
弁当と数千円で何とかなったのではないか?
彼等自身も吟遊詩人を気取っているから照明も何もいらない
フォークソングは外の風に吹かれて。
そのお兄さんたちの脇をすり抜けて、奇怪な少年がこの大阪万博に溢れる。
これはこの少年に聞いたことがある。
これも菊地さんはよく見つけて、武田先生も「なるほど」と思った。
この1970年の大阪万博の会場に溢れた大阪のニックネーム「万博小僧」。
万博会場を走り回りながら世界からやってきた観光客、その人達にねだってサイン帳にサインしてもらう。
カナダから観光に来たおじいさんに「ねえ!おじさん!書いてぇ書いてぇ!どっから来たん?どっから来たん?カナダから来たん?何ていう名前?え?ジョンソンさん?『ジョンソンフロムカナダから』て書いて」と言う。
それが万博小僧。
コイツらが記念バッチを胸に持っている。
例えばカナダの人だったらモミジのバッジなんか。
それを大阪万博のバッジと交換して世界中のバッジを集めるというのがこの「万博小僧」で大流行を呼ぶ。
この万博で集めたサインとバッジを大事に持っているヤツがいる。
この間「昭和は輝いている」でソイツと会った。
嘉門達夫。
アイツは万博小僧。
万博に十回以上行っている。
「どっから来たん?どっから来たん?」と言いながら。
武田先生よりも恐らく十歳ぐらい年下。
(当時)小学校5年か6年。
万博小僧。
「替え歌芸人」と書いてあるが。
有名な面白い男。
とにかく嘉門は小学校5年生のガキで、異国のスタッフ、異国観光客との交流を果たす。
嘉門さんは本当に楽しかったそうだ。
ここのお祭り広場で歌われていたフォークソングという音楽が時代を動かすことになる。
これには武田先生も踊り出す。

1970年3月から始まった大阪万博の話をしている。
太陽の塔というシンボル塔があってそこにお祭り広場という空間があった。
そこでフォークソングが芸能ショーの幕間を埋めていった。
このフォークソングがやがて日本中に飛び火する。
フォークソングとは何か?
それは「戦争を知らない子供たち」で代表されるように「俺達は違う世代なんだ」ということで父母達の世代に反抗するという「戦争を知らない子供たち」。
そしてその子達は当然の如く父や母から旅立つということで、若者たちの当時の合言葉は「反抗」と「旅立ち」。
だから、フォークソングのテーマはことごとく「旅立ち」。
(ここで本放送では「風」が流れる)

日本の旅



大先輩のはしだのりひこ(とシューベルツ)の「風」。
人は誰もただ一人旅に出て(はしだのりひことシューベルツ「風」)
とにかく旅に出なければいけない。
杉田二郎率いる「ジローズ」。
さいはての(はしだのりひことシューベルツ「日本の旅」)
「日本の旅」

日本の旅

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とにかく日本を旅するという
この前後ではないか?
吉田拓郎が広島フォーク村でギターをかき鳴らして歌った歌が
(ここで本放送では「こうき心」が流れる)

こうき心



街を出てみよう
今住んでるこの街が
(吉田拓郎「こうき心」)
「とにかく古里の街を出なきゃダメなんだ」
武田先生達団塊の世代、二十代の若者達は「反抗と旅立ち」それを自分達の青春のテーマとした。
この『「象徴」のいる国で』をお書きになった菊地史彦さんの鋭いところだが、この反抗と旅立ちというのは若者に激震を与えた。
大阪万博が始まって12日後、過激派学生という若者たちの手によって「よど号ハイジャック事件」。
本当にこの一文は笑ってしまったが「犯罪者も旅立つ」。
五木寛之の小説「青年は荒野をめざす」。

青年は荒野をめざす (文春文庫)



全部「旅」。
加山雄三も歌っている。
(ここで本放送では「旅人よ」が流れる)

旅人よ



風にふるえる 緑の草原(加山雄三「旅人よ」)
「旅人よ」
若かったらば、二十代だったらば旅をしなければならない。
反抗と旅立ち。
だから赤軍はよど号ハイジャック事件を起こして

日本航空三五一便に乗り込んだ。−中略−ほぼ満席の一二二人の乗客に(270頁)

田宮高麿、柴田(泰弘)。
17歳の少年だが
(17歳なのは柴田。高宮はかなり上)

 彼らは模造の日本刀や短刀を身に帯び(270頁)

最初はキューバを目指したのだが、機長の方から「そこまで行く燃料が入って無え」と言うので、とにかく「旅立たなければ」ということで

仕方なく国内線で飛べる北朝鮮を選んだ。−中略−うまくいけば、北朝鮮の連中はキューバまで我々を送り届けてくれるかも知れない(273頁)

田宮さんはそう読んだのだが、送ってもらうことはなかったということ。

 田宮は前夜、−中略−あの「出発宣言」を書いた。−中略−
 世界革命万歳!
−中略−
 我々は、明日のジョー≠ナある。
(273頁)

とにかく次々と旅立って、別の過激派だが重信房子さん。
この方はパレスチナへ旅出つ。
そしてパレスチナの過激派とドッキングするのだが重信さんの方は今年5月に出所なさって、そして永田洋子らの京浜安保共闘らは
(番組では「洋子」を「ようこ」と発音したが「ひろこ」)

 奥多摩から始まった革命左派の「旅」は、−中略−「榛名ベース」(群馬県榛名山)へ移動した。(277頁)

最後は長野の別荘地に潜り込んで「あさま山荘事件」を起こす。
本当にそう。
フォークソングが歌った旅は過激派の学生達も旅立たせた。
何と忙しい年だろう。
3月に大阪万博、よど号ハイジャック、そして11月、三島由紀夫割腹事件が起こる。
もうこんな凄い時代を。
この三島由紀夫の割腹事件もショックだった。
ノーベル文学賞候補にも挙がった人が腹を裂いて死ななければならないほどこの国はつまらないことか?というのが一つ。
それと三島さんは東大全共闘と大討論会をやっている。
その時に奇怪なことを言う。
「君たちが赤軍革命を起そうとするならば天皇と共に立ち上がりたまえ。日本で革命を起こす時、天皇を担がないで成功した革命はない」と言う。
言っている意味がわからなかった。
天皇は霊性を秘めている。
霊的な力を持っている。
日本ではその力を借りないと政治運動は成功しない。
同じお考えをお持ちの哲学者の方で内田樹さんという方がそのことをまだおっしゃっている。
内田さんは東大出だから、三島の大騒動を「凄いショックだった」。
いずれにしても「反抗と旅立ち」
この二つが武田先生達の青春の象徴。
これに煽られて二年後(武田先生も)旅立ってしまう。
「博多から東京行こう」という話になってしまう。
武田先生はこの潮目にいた。
この潮の流れ、止まるところを知らない。
1970年、武田先生はこの頃、青春をしていた。

 一九七〇年の晩秋、高校三年生の私は(284頁)

フォークソングをやったことのある若者しかこの歌を聞いたことがないと思うが、この歌を聞いた瞬間に革命を夢見て様々なことをやっている仲間達はいっぱいいた。
だがやがて全員「敗北するんじゃないか」という予感をした歌があった。
イントロはなく歌はいきなり始まる。
(ここで本放送では「追放の歌」が流れる)

追放の歌



 誰もいない でこぼこ道をあるいてく
 からの水筒も こんなに重いと思うのに

 俺の背中に こだまする人々のあの歌が
 喜びの歌じゃない 追放のあの歌
 きのうは俺も いっしょに歌ってた
(284〜285頁)

学生運動崩壊の予感いっぱいの歌。
逃げ回る過激派の歌にも武田先生には聞こえた。
昨日まで誰かを追放する為に懸命に叫んで歌っていた。
ところが今日、俺も追放された。

「休みの国」という不思議な名前のグループは、−中略−
 代表曲の「追放の歌」
(284頁)

「休みの国」というバンドは、高橋照幸という一人の人物のことだった。−中略−最初にレコードを吹き込んだメンバーは、−中略−つのだひろ(ドラムス)、木田高介−中略−ジャックスのメンバーである。ジャックスのリーダー、早川義夫は演奏に参加せず(286頁)

この早川義夫という人が作る歌詞が凄い。
われた鏡の中から
俺を探し出すんだ
(ジャックス「われた鏡の中から」)
僕らは何かをしはじめようと
生きてるふりをしたくないために
時には死んだふりをしてみせる
(ジャックス「ラブ・ジェネレーション」)
この早川さんが作る詩は逆説に満ち満ち溢れていて、武田先生はイカレていた。
その彼等がプロデュースした「追放の歌」。
「追放の歌」はドキッとする。

 こんなに暗く長い道の真中で
 あけてしまったかんづめを又 ながめ

 救われたと信じても 煙草の煙が教えてる
 休みの国はまだ遠い 静けさなんてないんだと
 まだ聞こえてる 遠い追放の歌
(285頁)

武田先生達世代全体が「世代ごとで敗北しちゃうんじゃないか」。
何を感心するかというと、この歌に目を付けた作家の菊地さんという方の目のよさ。
ここまで深く読んで感動しているのは武田先生唯一人ではないかと思う。
武田先生はこれを夏休みに聞いて「喜びの歌じゃなく追放のあの歌を」というのが、いずれにしろ武田先生達世代は、「反抗と旅」その二重性を持って70年代を生きてゆく。
水谷譲にはピンとこないだろうが、この70年の万博を筆頭にフォーク世代がギターで歌い始めると歌謡曲界もついて来る。
これに作られた歌が「遠くへ行きたい」。

当時の日本国有鉄道(国鉄)は「ディスカバー・ジャパン」というキャンペーンをスタートした。(293頁)

一九七〇代初頭に創刊された『an・an』−中略−や『non-no』(295頁)

経済成長と共にグループ旅行はやめて一人旅でリュックを背負って田舎町を歩くという旅の形式が。
まさしくノンポリの武田先生達は旅の適齢期となり、こぞって次々と旅立っていく。
70年から始まって71年、72年に上京を志して武田先生の唇には「青年は荒野をめざす」。
(ここで本放送では「青年は荒野をめざす」が流れる)

青年は荒野をめざす



これがあって、博多駅から千葉(和臣)と中牟田(俊男)と三人で夜汽車に乗った。
関門海峡を過ぎて山口県に入った時に武田先生は泣いた。
「ああ・・・九州ば離れた」と。
寝台車から目が覚めて朝、六時過ぎ。
カーテンを開けたら関東平野、横浜の人家の密集地帯。
「凄いとこ来たばい」と言いながら震えた。
まさしくあの瞬間から旅が始まった。
この若者の中から後、旅名人の沢木耕太郎などという人が世界へ旅立って

後にベストセラーとなった『深夜特急』−中略−の旅である。(305頁)

時代のキーワードが間違いなく「旅」だった。
73年の出来事だが、武田先生は「母に捧げるバラード」という破れて東京から地方に帰る子達に「お母さん、今ぼくは思っています」というフォークソングになって百万枚売れた。

母に捧げるバラード



つまり武田先生も時代の流れの中で生き残った。
自分の力で売れたと思ったら大間違い。
奥様もそう言う。

ここからごめんなさい。
菊地さん(の著書)を離れる。
菊地さんの本を読みながら、いくつものことを思い出した。
菊地史彦さんはこの後、戦後・昭和の象徴の流れを裕仁天皇、美空ひばり、ザ・ピーナッツを語っておられた。
そして大阪万博、深夜特急、沢木さんの若者の旅に触れた後、どこにいったかというと、ユーミンさんにいく。
ユーミンさんはひばりさんに続くJポップの女王。
今年、50周年でユーミンさんはご存じだろうと思うが。
こんな思いで聞いた人はいるだろうか。
荒井由実。
(この先ずっと番組内では「荒井由実」を「荒井ユーミン」、「松任谷由実」を「松任谷ユーミン」と言っているが、煩わしいので「由実」に統一する)
武田先生は「母に捧げるバラード」が売れて、もうその次の年から売れなくなった。
どんどん観客動員は落ちていって、デビューして三年目、武田先生を旅に駆り立てた70年から四年経ったと思ってください。
武田先生は「母に捧げるバラード」というちょっとコミックソング系で当たる。
その時26(歳)になっていた。
東北の米軍基地の町にいた。
そこからローカル線に乗り継いで、更に山奥の村まで行くという旅を
町はこっちの町の方が町なのだが、更に奥に行かないと仕事がない。
それで列車待ちで喫茶店で千葉・中牟田と一緒にコーヒーを飲んでいたと思ってください。
「去年まであんなに売れたのに、何でこんなに俺たちは人気が急速に落ちていくんだろう」と結構暗めの顔をしている。
その時、東北の田舎町の喫茶店に次から次へと流れてくる。
その歌がユーミンさん。
それで武田先生はユーミンの音楽のシャワーを浴びながら何を感じたか?
「ダメか知んねぇ」
俺ら、もうダメかも知れない。
彼女の歌を聞くと、自分のセンスでは作れない歌。
手も足も出ない。
何が凄いか?
フォークグループが展開している用語と荒井由実という人の使う歌用語、歌詞のワードが違う。
武田先生たちとセンスが。
武田先生が一番ショックを受けたのは「ルージュの伝言」。
(ここで本放送では「ルージュの伝言」が流れる)

ルージュの伝言



何に圧倒されたか?
あのひとのママに会うために−中略−
バスルームにルージュの伝言
(荒井由実「ルージュの伝言」)
彼女は何が言いたいのか?
ご亭主がつまみ喰いか何かの不倫をした。
新婚の夫が浮気をしている。
若妻は取り乱すことなく洗面所の鏡に口紅で置手紙を書いた。
そして夫の母親、姑に言いつけるために汽車で旅立つ。
これは武田先生達がやっている旅とは違う。
姑の実家に帰る旅は旅ではない。
しかも洗面所に口紅で置手紙。
これを彼女曰く「バスルームにルージュの伝言」。
その不実な夫のことを彼女は「マイダーリン」と呼ぶという。
呼ぶか?
そして、ばんばん(ばんばひろふみ)と二人で「すげぇ!」と言った。
列車に乗ったら夜景が後ろに下がってゆく。
後ろへ遠ざかる。
それを彼女曰く、汽車の窓の景色は「Ding-Dong遠ざかってゆくわ」。
Ding-Dong?
この「Ding-Dong」という形容詞一つでさえも武田先生からは出てこない。
打ちのめされるのはこんなこと。
それを聞きながら「もう、この子が売れたらダメになる」。
本当に直感で思った。
ショックだった。
その次に「中央フリーウェイ」。
(ここで本放送では「中央フリーウェイ」が流れる)

中央フリーウェイ



おいおいおい、待てよ?「フリーウェイ」あるか?
中央道は有料道路。
山梨県に行くヤツ。
料金を下高井戸で取る。
彼女の言いかえの妙。
風景をユーミン流で抽出する能力の凄さ。
これはもう勝てない。
使う用語によって太刀打ちできない。
しかももっと不吉なことが起こる。

時代にはそれぞれに「象徴」がいる。
その何代目かの象徴に荒井由実さんという方がいた。
もちろん結婚されて名前が変わるのだが「松任谷由実」という名になって「Jポップの女王」。
中島みゆきさんがJポップの「歌姫」だったらば、ユーミンさんには「女王」という匂いが。
ユーミンさんの楽曲を聞いて武田先生自身が思ったのは「彼女のような人が天下取ったら俺たちみたいなダッセエのが生きていけるワケない」。
この予感は当たる。
田舎駅で不吉いっぱいに聞いたユーミンさんの「ルージュの伝言」とか「中央フリーウェイ」とか「海を見ていた午後」。

ソーダ水の中を 貨物船がとおる(荒井由実「海を見ていた午後」)

(ソーダ水の中に貨物船が)「入るか?」とか言っている場合ではない。
本当にダメになる。
もっと少なくなる。
というのは、ユーミンさんのせいではない。
時代が変わった。
時代は荒井由実を選ぶ。
そして別ポジションにいたヤツもユーミンの流れに乗っかったというか、その流れで本流ができてしまう。
一番「ダメだ」と思ったのは小椋佳さん。
「白い一日」
(ここで本放送では「白い一日」が流れる)

白い一日



真っ白な陶磁器を
眺めては あきもせず
かといって ふれもせず
(小椋佳「白い一日」)
なら買うなよ。
そんな理屈はいい。
二十代の若さで陶磁器を眺めるという、それを歌にするという。
愕然とする。
同郷、ついこの間まで仲間だった。
その人もこの流れに乗っかって遠ざかってゆく。
(ここで本放送では「心もよう」が流れる)

心もよう (Remastered 2018)



さみしさのつれづれに
手紙をしたためています あなたに
(井上陽水「心もよう」)
「旅、出なきゃ。手紙書いてる場合じゃ無ぇ」
圧倒的説得力で自分の事情を歌う。
小椋さんも荒井さんも井上さんも全員「自分の出来事」を歌っておられる。
時代の中に隠れたキーワードなんか探さない。
「手紙を書く」「バスルームで鏡に口紅で落書きをする」或いは彼氏との送り迎えのささやかを色鮮やかに描いてゆく能力。
凄い。
小椋佳「シクラメンのかほり」。
(ここで本放送では「シクラメンのかほり」が流れる)

シクラメンのかほり



(シクラメンは)香りがするか?
ちょっと半分ヤケで言っているが。
とにかく目の前が真っ暗になった。
それからみんなそっちに行くのだから寂しかった。
「シクラメンのかほり」が出たら同郷の財津(和夫)さんというのが「サボテンの花」とか歌う。
拓郎さんは拓郎さんで「我が良き友よ」とか。
その時代の言語を探さない。
自分の中の物語を選んで歌を作る。
「僕らの名前を」(ジローズ「戦争を知らない子供たち」)とか「私たちの望むものは」(岡林信康「私たちの望むものは」)とかがニューミュージックはない。
そこにドーン!と流れが。
武田先生達はもう生きていけない。
本当に諦めた。
九州に帰ろうと思った。
申し訳ございません、ユーミンさん。
めでたい50年を迎えてらっしゃるのだが、あなたの歌を絶望と共に聞くというのも「ユーミン現象」の中であったことだというふうにご記憶ください。
武田先生にとってあなたの歌は「追放の歌」でした。
土臭くてダメ。
武田先生達は「もうこれで終わりかなぁ」と本当に覚悟した。
ところが、今、考えれば武田先生をフォークソングが救う。
(ここで本放送では「幸せの黄色いリボン」が流れる)
「幸せの黄色いリボン」

幸せの黄色いリボン



アメリカで大ヒットしたフォークソングがある。
それを松竹の監督さんで山田洋次という人が「映画にしたい」とおっしゃった。
それでフォークソングなので「フォークシンガーで面白いヤツいないかな」といって。
武田先生はもう絶体絶命のピンチの中でフォーク繋がりで、
その他にもいくつかの要因があったのだろうが、拾われた。
それで武田先生は「演技をする」ということで喰い繋いでゆく。
ある日のこと、撮影中に山田洋次監督が武田先生に向かって相談なさる
あの大監督が
「武田君、ちょっと。赤い車を運転しながらさぁ、何かこう鼻歌で桃井かおりさん、君の横に乗ってる娘さんが鼻歌で歌う歌が欲しいんだ。どんな歌が今、流行ってるかな?」
その時に武田先生がやっぱりフォークソングを選びたかった。
武田先生たちは真っ先にダメになってゆくタイプのフォークソングだが、生き残ろうというエネルギーを持ったフォークシンガーが吉田拓郎以外にいた。
吉田拓郎はもう、ニューミュージックにいっても通用する人だから。
正やん(伊勢正三)という武田先生と同郷の人が作った歌で、同じプロダクションのイルカという女の子に歌わせている歌で「なごり雪」というのがあった。

なごり雪(オリジナルVer.)



武田先生は「あれはフォークだ」と思った。
それで(山田監督に)「『なごり雪』なんかどうでしょう?」。
「へぇ〜どんな歌だい?」
「汽車を待つ君の横でぼくは時計を気にしてる」と歌った。
(ここで本放送では「なごり雪」が流れる)
(高倉)健さんが聞いていて「俺はその歌、好きなんだよ」とおっしゃる。
それで映画のワンシーンであの歌が。
それは武田先生の心の中の祈りで「生き残ってくれ!フォークソングよ」という。
「かぐや姫」とかイルカさんにはニューミュージックに対抗できる時代のキーワードを探すというシンガーソングライターの意地をどこかで・・・というのでその歌を。
フォークソングという一筋の希望を持って昭和という時代を。
申し訳ございません。
菊地さんの本を借りながらテメェの話になってしまったが、松任谷由実さん、悪意はございません。
ただ、正直に自分を語っていたら次々に暗い思い出が蘇ったというだけで、そちら様には一点の非もございませんので。


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