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2022年11月12日

2022年10月17〜28日◆What am i? 私って何?(前編)

今週から「私って何?」。
「私」とは何者か?
これはちょっとそういう本にぶつかった。
「ちくまQブックス」というシリーズで『きみの体は何者か』筑摩書房、伊藤亜紗さんという方がお書きになった本。

きみの体は何者か ??なぜ思い通りにならないのか? (ちくまQブックス)



(この本の中で赤い文字で書かれている箇所は太字にしておく)
タイトルの横にイラストが踊っていて、その説明に
なぜ思い通りにならないのか?
と、このイラストの人物がつぶやいている。
本当に体というのは思い通りにならない。
「壁ドン」なんていうと、パンツを履く時の武田先生の姿。
片足を上げなければいけないので、バランスが悪くなるので、あっちこっち(壁に)ドンをする。
「おっと!おっと!」と言いながら。
それが「壁ドン」。
その上、合気道で教わったりなんかするのだが、覚えが悪い。
さっぱり上達しない。
それからゴルフというのを親しんでいるのだが、これがまた体が全然思う通りに動かない。
そんな思い通りにならない体「何でだろう」なんて思っている時に『きみの体は何者か』なんていう本に触れたものだから、「What am i?」「私って何?」という意味合いで、この本を手にした。

武田先生は高齢者の年齢になっているが、合気道を始めたり、ゴルフに夢中になったりしているものだから、切迫した課題。
「我が体は一体何者なんであろう?」「何でこんなにいうことをきかないんであろう?」。
それでこの本を読み始めたのだが、第1章、出だしは説得力溢れる言葉が並んでいて、著者の伊藤亜紗さんは本の中でこうおっしゃっている。

 自分で選んでその体型なのではないし、
 自分で選んでその顔なのではないし、
 自分で選んでその性別なのではないし、
 自分で選んで体が弱かったり障害をもっていたりするわけではない。
(9〜10頁)

この顔に生まれついた、この体に生まれついた。
「宿命」として皆、受け止めて我が体と付き合っている。

 もちろん、努力して体をきたえ、理想の体型に近づけることはできるよ。−中略−
 整形手術や性転換手術を受けることもできるし
(10〜11頁)

テレビのタレントさんなんかで(整形手術を)やっている方もおられる。
これは水谷譲達は気付かない。
テレビで見るとだいたい同じように見えるが、本物に会うとわかる。
ちょっと言葉では言えない。
これはテレビ局に出入りしている人間としては「お金かけられたんだなぁ」とか。
だから顔かたちは変えることができるのだが

 だとしても、やっぱりそこには限界がある。

 まず、老いがやってくるよね。
(11頁)

歳を取るとわかる。

 要するに、きみの体はきみの思い通りにはならないんだ。
 きみは、体という「自分では思い通りにならないもの」をかかえて生きている。
(12頁)

そして誰もその自分から逃げ出せない。
つまり、思い通りにならない、それが体と私の関係であると著者はおっしゃる。
思い通りになれば体と語り合うこともないワケで、ひっくり返して考えると思い通りになれば体と語り合うことはない。
「ホームラン打ちたいな」と思ってカンカンカンカン、ホームランを打てるのだったら、誰も「何故あの球が俺は打てなかったんだ」という反省はわき上がってこない。
つまり自分の体について何か人間が考え始めるというのは、自分の体がいうことをきかなくなったところから考える。
だから自分の体と語り合う為には、自分の思い通りにならない体と遭遇すること。
こんなふうに考えるとお年寄りの方、(武田先生と)同世代の方、自分の体と語り合う為には老いる以外に手がない。
武田先生は別個の本でボーヴォワールという女性の運動家の本を読んでいた。
ボーヴォワールが美しい時はいい。
「実存主義」とか言って理屈っぽい方なのだが。
本式のババアになった時にボーヴォワールが結構くじけている。
アメリカに行って講演した時に、アメリカのネエチャンからすれ違いざまにボーヴォワールは「ボーヴォワール、結構ババアね」と言われたらしい。
それでガックリきたらしい。
それで「老いについて考える」という一冊を出すのだが、まずはそれは違う回のネタにして今週は「老いになって振り返る我が身」ということで、若い方にも是非自分の体との付き合い方がわからなくなったという方は今週、聞いていただくとなかなか面白いところをかするんじゃねぇかなと思ったりなんかしている。

ちくまQブックス『きみの体は何者か』伊藤亜紗さんの本。
その1章目の一番ケツに「私の体がそうなんです。私の体が私のいうことを聞かないんですよ」と書いてあるので、ゴルフで悩んでらっしゃるのか、スポーツで悩んでらっしゃるのかとよくよく読むと、この方は吃音の方。
「体がいうことを聞かない」というのは吃音のことかと。
武田先生は何かスポーツの話とか心理のこととか、そんなことが書いてあるんじゃないかと思ったものだから、吃音のその不思議さみたいなことをおっしゃりたいのかな?と思ってフッと気持ちが引き始めたのだが、この方、伊藤さんは文章が上手い。
どんどん引き込まれていく。

ここからはちょっと吃音の話になる。
筆者自身もこのこの吃音に苦しむ人で

 大学で学生を相手に授業をしたり、一般の人を前に講演をしたりしている。(16頁)

ある意味では武田先生達と同じ仕事を、吃音という障害を抱えながらやってらっしゃる。

 原因も治療法も、まだ分かっていないよ。薬や手術ではもちろん治らない。(16頁)

この人は「どもる」という体と、どう折り合って人前で話すということを職業にしたのか。

 吃音が治ったわけではなくて、この体とつきあう方法を、自分なりに、開拓していったんだ。(16頁)

つまりど、もっていうことをきかない自分をコントロールする技、術を持っておられる。
そうやって考えると、その技をちょっとこっちにいただけないかと、そんなふに思うと次のページが興味深くてたまらない。
これは武田先生の絶えずの思いだが、上手にできるようになる為には、下手な自分を研究するしかない。
この方も同じ手順で吃音というものと向かい合われた。
この方の姿勢がいい。
「人が自分の体について考える為には病が必要です」という。
自分の体の病と語り合いましょう。

言葉をしゃべる」という行為は、一般に思われているよりも、ずっとずっと複雑で難しい行為だからだ。(23頁)

目の前に商売でやってらっしゃる水谷譲がいらっしゃる。
武田先生もそうだが、武田先生は多少ロレろうがヨレろうがかまわないが、(アナウンサーである)水谷譲達の場合は始末書とかがある。
聞くに堪えない時があるし、爺さんになると短気だから「ん!もう!」と言いながら(チャンネルを)変えてしまう。
考えてみれば人前で言葉を喋るというのは実はもの凄く複雑で難解な行動。
喉、舌、口、唇。
音を出しながら次の音を考えつつ言葉を手繰り寄せ、内容を考え、これは対人の場合だと相手の反応、それからその部屋にマッチした音量・言葉遣い・内容等々。
吃音の方は。
はっきり自分が吃音だからおっしゃっているのだが、吃音だからわかるらしいが。
これだけのことをリアルタイムでリハなしに調整しながら喋る。
体というのはこれだけのことをやってくれている。
水谷譲は音量に敏感。
ブースの中で喋る時に、ブースの広さマッチした音量を出していないともの凄く不快な顔をする水谷譲。
そのへんを使い分けている。
そうやって考えると、よっぽど心理的な気遣いをしないとできない。
それを全部、体に任せている。
だから水谷譲も「ベテラン」と言われる。
実は体に任せっきりにしている「喋り」ということを吃音の著者は「もう一回考えてみよう」。

 ちょっと実験をしてみてくれるかな。−中略−二つの単語を声に出して言ってみてほしい。

@しんぶん
Aぺんぎん
(28頁)

 このうち、それぞれ一つ目の「ん」に注目しよう。−中略−鏡を見ながらやると分かりやすいかもしれない。−中略−@「しぶん」の「ん」を言うとき、きみの口はたぶん閉じているよね。−中略−A「ぺぎん」の「ん」は、口を閉じないで発音している人が多いんじゃないかな。(29頁)

これだけの差がありながら、喋っている本人は殆ど意識していない。
しかし、唇はそうしている。
つまり本人に相談せず、体はそうしている。
文字にして同じ「ん」だから、口の動かし方は同じであっていいのだが、唇の動かし方が変わる。
次にいく。
@かんばん
Aしんきん(「信用金庫」の略)
これは些細なのだが違う。

 種明かしをしよう。
 答えは簡単。そのほうが楽だから
 わたしたちは「しんぶん」や「ぺんぎん」を言葉だと思っているよね。四つの音から成る、一つの単語だ。
 でも体はそうは思っていない。
(30頁)

体の身になって「しゃべる」をとらえると−中略−「ひとつの連続した運動」になる。(33頁)

「ホップ・ステップ・ジャンプ」「ハイ!ポーズ」「起承転結」の流れで発音している。

一つの動作が完結する前に次の動作が始まるのが、人間らしいなめらかな動きだ。(31頁)

「しぶん」の「ん」は次に「ぶ」を言わなくてはいけない「ん」だよね。だから「ぶ」を言うのに楽な「ん」の言い方になるんだ。−中略−
 だから口を閉じた「ん」が選ばれるんだ。
(31〜32頁)

「ぺぎん」の場合は、次に来るのが「ぎ」だよね。
「ぎ」は、舌の根元で喉をふさぐようにして発音する。
−中略−だからその前の「ん」も、あらかじめ舌の根元で喉をふさぐような発声方法が選ばれるんだ。そのほうが楽だから。(〜頁)

これは「四つの音」ではなくて、四つを連続しているワケで、体は楽な方楽な方をとる。
英語の発音の「R」と「L」。
これはアメリカの方と、日本人では違うもので、我々はRとLが区別できないのは体のせい。
アメリカ人の方はRとLを使い分けた方が楽。
そうやって考えると面白い。
自分は知らないのに体が勝手にやっていることはいっぱいある。
脇を締めてお茶を飲む人と、脇を開いて・・・という。
あれも体が選ぶ。
そのことを考える為に体がいうことをきかないという、そういう目に遭った方が体について人間は深く考えるようになるという。
これは面白い。

著者はどこに行くかというと、当然この方が書きたいの本のテーマは吃音。
治療の方法が今もって開発できないという吃音。
まず「連発」という問題がある。

「ててててててがみとってきたよ」−中略−最初の音が繰り返し出てくる、あの症状だ。−中略−
 パソコンにたとえるなら、一回キーボードを押しただけで「ああああああ」っていっぱい文字が表示される感じかな。
(37頁)

繰り返そうと思って繰り返しているわけじゃない。勝手に「出てくる」んだ。(37頁)

針に糸を通すような細かな作業をする時の震えに似ている。
急にやろうとすると手が震える。
例えばこの細かな震えというのは重い重量挙げか何かでバーベルを上げて、針に糸を通せとなると震える。
ブワーッと階段を駆け上ってハァハァ言いながら列車に飛び乗った瞬間に針に糸を通すとなると指が震える。

頭と体が連動しなくなっちゃうんだよね。(38頁)

しかしこれは吃音でなくても我々にもある。
心と体が上手く繋がらないという。
もっと平べったく言うと、恋をすれば恋する人の前で言葉は詰まる。
こういうことはありうること。
あんまりスラスラ、プロポーズをしようものなら結婚詐欺みたい。
その「体と心が上手く連動しない」というのは我々にもあることで、何故上手く連動しないか、繋がらないか。
我が体を振り返りましょう。

吃音はあくまで例えだと思ってください。
この例えの向こう側に私達の心と体を結ぶ何かあるのだろう。
ちょっとプライベートなことでちょっと申し訳ない。
合気道をやっている。
練習方法は簡単で師範代、先生がおられて、最初にその人が腕のいい弟子を呼んで技を見せてくださる。
その技を見せた後「どうぞ」と声がかかるので道場生、同じような人とその技を繰り返す。
それの繰り返し。
「見取り稽古」といって本番がない。
何せ相手の腕をねじったり骨折させる術とかそんなのばかりだから、本当に試合とかをやってしまうとバラバラになる。
それをやる。
どんどん技が追加されていって、一つの授業がお終い。
これが慣れないと、見て「どうぞ」と言われてもどうしていいかわからない時がある。
目の前で見ていてどう動いていいかわからない。
頭ではわかっているけれども、ということ。
体に全然技が染みていかない。
魔法でもないのに魔法の動きをなさったような気がして。
それと分かりやすい例がゴルフ。
ゴルフで女子プロゴルファーのゴルフを見る。
申し訳ないが、体は武田先生の方が歳は取っているがいい。
身長1m50cmちょっとぐらいの選手。
どう考えても不思議でならないのは、その女子プロが武田先生よりも遥かに飛ばす。
つまりボールを打っているのは体力ではないということ。
これがわからなくて。
もう一つは右の方に池があるので左を向いてそっちに向かって「飛べ!」と叩くと右に行ってしまう。
あれは何でか?
自分がやった行為に関して「ウソ!」と疑うのと「何で?」と訊くのは嫌。
これは心と体が上手く繋がっていないから。
合気道もゴルフも本当にわかりやすい話。

連発は連発しているその音に問題があるように感じるよね。「ててててててがみ」ってなったら、「て」が言いにくいのかなって。
 でもそうじゃないんだ。「て」はもう出ている。問題はその次。「て」が苦手なんじゃなくて「が」が苦手なの。「が」に行く行き方がわからないから、「て」でとまどっているんだ。
 だから、「てがみ」だとどもる人も「てんぷら」だと言えたりする。
(39頁)

「移行が問題」という意味では、一音ずつ区切って言うのも有効だ。「て」「が」「み」と一音ずつなら言える。−中略−つなげるとだめなんだ(39〜40頁)

ほとんどの人が、独り言だとどもらないと言う。(42頁)

吃音の引き金は「相手」ということになるので、相手がいるからということは合気道やゴルフも相手がいるから左へ打とうとしても右に行くんじゃないか?と。
ゴルフの場合の相手は同伴者(同じ組のプレーヤー)。
三人いるから。
たった一人で回ったことはない。
次のグループの人達が後ろで見ているだけで失敗することが多い水谷譲。

著者が連発「てててて」とどもってしまう病態と、もう一つ挙げたのが「難発」。
「難発」と「連発」は何が違うか?

 難発とは、体がフリーズしたように固まってしまうことだ。−中略−
 全身に力が入っているから、声が出なくなるどころか、呼吸までうまくできなくなるんだ。
(49頁)

一人で顔が真っ赤になってしまう。
著者がおっしゃっているが、殆どフリーズに似ている。
相手がいる。
話を聞く人が目の前にいるという時にこの「連発」「難発」が出てしまう。
水谷譲たちアナウンサーも一人で何か言ったりする時はできるのに、皆にニュースを伝えるという段になると言えなくなってしまうということがある。
「さっきまで言えてたんだけどな」みたいな。
これはもしかしたら水谷譲が言う通り「ニュースを伝えなければならない」という相手のあることが、つまづきを水谷譲にもたらしているかも知れないという。

「心と体が上手く繋がらない」というというようなことがあった時、その原因は恐らくそこに人がいたからという。
吃音の方ではそうこの著者は書いておられる。
心の原因は「相手」なのだ。
この吃音、どもってしまうのは「他人から見て笑われてはいけない私」、人から見て「こうでありたい自分」を上手く演じたい。
ところがそれが上手く演じられない。

 他人から見て「こうありたい」という自分をうまく演じられないとき、恥ずかしという気持ちが出てくる。
 それはとっても自然なことだ。
(60〜61頁)

 きみたちは、自分が人からどう見られているのかとても気になると思う。好かれているのか、とか、嫌われているのか、とか、変な人に思われていないか、とか。(61頁)

緊張があると体は自然に硬直してしまう。
「他人を経由して自分」なのだ。
「生きている悩みは全てこれに尽きる」と武田先生はノートに書いてる。
人に裏切られたり、恋が破綻したり、家族の不機嫌、あることが上手くできなかったことへの無念さ。
武田先生が習っている武道なんかも、さっぱり腕が上がらない。
あれはやっぱり「相手があるから」なんだ、と。
相手のあるところで心と体はなかなか上手く繋がらない。
武田先生の下手クソの原因は、この吃音の方と同じような病相があるのではないだろうか?

必死に武田先生はこの著者の言葉を辿っている。
第5章。
著者は実に奇妙な結論を広げていく。
思わず赤線を引っ張りながら読んだ箇所。
連発から難発の障害にいかな手を打つか。
この心身の断絶に後進で繋ぐ一手があるか?
一手だけあるのです。
それは

言い換え」だ。(63頁)

「て」まで出たが「が」に素直に「てがみ」と言ってくれない。
「てててててて」という。
「『が』を出さなければ」と悪あがきをする。
こんな時に言い換え、違う言葉で語り出す。
「てがみ」とよく似たもので「おたより」でもいいし、例えば「めも」だったら出る可能性がある。
こんなふうにして置き換える言葉を一つの言葉の後ろに準備しておく。
そうすると「て」が出なかったらそっち側に乗り換えるという。
自分に向かって予感が走った時に「どもるな」と命令するな。
静かに言葉を置き換えてゆく、言い換えてゆく。
そうすると言葉が出てくるようになるという。
言い換えというのは技術。
人間は凄く言葉に囚われる。
やらない方人は「嫌味な言い方するな」とお聞きかも知れないが、ゴルフがわかりやすい。
ゴルフは本で読めば読むほどわからなくなる。
遠くへ打つ為にドライバーという道具を持つ。
キリキリと巻き上げる。
もう腕に力がいっぱい入っている。
それで打つのだから。
それで上までねじり上げたら解説書は凄いことに「腰から入る」。
手で道具を持っていて腰に力が入るか?
つまり、人間は二か所一遍に力が入らない。
絶対に重要なことは、手で持ち上げているかも知れないが、手からの力を抜かないと腰に力はいかない。
放屁。
例えばブッと出す時でも喋りながら力をフッと瞬間(肛門の方に)持っていく。
あれと同じ。
肩に力を入れたまま、放屁はできない。
わかりやすく言うと。
力を抜かないと。
妙なところを力んでいると、それが気体か物体かわからなくなるので。
実か屁か問題。
そんなふうにして「力を抜く事」の重大さ。
その「力を抜く重大さ」を後ろから支えているのが「言い換え」。
これが何と、吃音から、ゴルフから、武道の稽古から、もの凄く重大な要件になってくる、条件になってくるという次第。
更に話は深みに進む。


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