心と体がうまく繋がらないという。
そんな瞬間というのが人間にはあって、大事なミーティングで言わなければいけないこと、それがとんでもない方角に話が流れて、上手く表現できないとか、心と体が重なって、自分の思い通りに動くなんていうことはスポーツ競技でも。
フィギュアスケート、あんな天才の彼が「現役を辞めて」と決心するぐらい。
大谷翔平ですら「今日は腕が」なんていう日があって、人間は心と体が結びつかない苦悩の中に人生の時を刻んでいる。
この本を最初に手をした時は「そういう本かな」と思っていたが、実は違って『きみの体は何者か』筑摩書房から出ているが伊藤亜紗さんがお書きになった吃音との闘いの過程を書いた(本)。
ところが読みだすと何か人ごとと思えなくなる。
それでその吃音には「難発」と「連発」。
「ててててて」と言葉を最初の音でその次が出てこない。
それから「難発」。
言おうとしてもその言葉の頭が出てこないという二つの症状がある。
それに対する時にどうすればいいか?
それは難発、或いは連発が出そうな時に言い換える言葉を絶えず用意しておく。
「てがみ」
「て」でどもりそうだなと思った時は、「おたより」とか「めも」とかと違う言葉によって会話を繋いでゆくとできるという。
「この言い換えを用意する」ということを考えると、ラジオはもってこいの教材で。
ラジオで喋りの上手い人は言い換え。
特に水谷譲のような商売をやってらして、抗議なんていうのは言い方一つで凄い。
だが、上手いことを言う人がいる。
TBSには安住(紳一郎)がいる。
安住はやっぱり喋りが上手い。
日テレには藤井さんという人がおられる。
あの方々は何故優れたアナウンサー、お喋りのプロかというと、絶えず言い換えを用意してらっしゃるという。
この言い換えというのが人間的なスケールを持っていないと出ないし、絶えず勉強していないと。
「ものはいいよう」というが、本当に「いいよう」というのがある。。
同じことを言うのでも「こういう言い方すれば批判来ないけど、こういう言い方したら批判来る」というのがあると思う水谷譲。
吃音の対策方法なのだが、これは一般社会でも使えるワケで、この著者の方は少し吃音らしいのだが、吃音でもこの方の話は聞いてみたくなる。
「なるほど」と思う。
言い換えというのが新しい発見をさせてくれますよ、ということ。
武田先生にも悩みがあって奥様にこぼしたことがある。
奥様というポジションの人の言葉の言い換えというのは旦那に結構響くく。
何事かを彼女に相談する。
彼女がその問題について言い換えで武田先生に向かって「こういう問題なのね」と言った時に、その言い換えの言葉自体がヒントになる。
例えば人間的なトラブルが武田先生にあった。
その時に「これは俺の問題だな」と言う。
ため息をついて「これは俺の問題だな」と言った時に、奥様が問題を深くするのか浅くするのかわからないが別の言い方で「そうよ。この問題はあなたの為の問題よ」。
「問題が起こった」とか「問題がある」ではなくて「あなたの為の問題だから、あなたの為に用意されたんだから、その問題を解くべきであって、オロオロしないように」。
奥様がおっしゃっていることが金八先生のようだと思う水谷譲。
奥様の方が金八先生になってしまったか。
「この問題はあなたの為の問題ね」と言われると「俺だけが何故?」とかそういう言い訳ができない。
「あなたの為にわざわざやって来た問題」なんだから「俺だけが」ではなくて「俺だけに」来た問題ということで捉えると、問題に対する取り組みが変わって逃げ腰ではなくてがっぷり四つで行こうかと。
この本を読んでいる最中に思ったのだが言い換えの妙。
誰でもが求めているのはそういうことなのではないか?
そうやって思うと目の前が少し明るくなる。
言い換えによって自分が前向きにもなれるし、ポジティブになれると思う水谷譲。
だから結局、問題というのは前向きか横向きか後ろ向きかの「向き」の問題であるから「前を向く為の言い換え」ということというふうに思う。
ノートに書いている。
「問題は誰でもなく俺だけにやってきたのだ」
武道修行で合気道をやっていて、自分を磨こうと思ったら「俺の磨き方」で磨かないと。
それからゴルフは自分の体が動く「俺だけの言葉」を見付けない限り、上達しない。
「誰でも上手になる言葉」にすがっているうちは上達しない。
こんな話で今週は始まった。
それではその言い換えの妙を見事に表現したヒット曲をご紹介しましょう。
(本放送ではここで「セーラー服と機関銃」が流れる)
![]() |
薬師丸ひろ子さん「セーラー服と機関銃」。
これは歌詞にある。
さよならは別れの言葉じゃなくて
再び逢うまでの 遠い約束
言い換え。
「さよなら」を別れの言葉にしてしまうという文脈で読まず、「再び逢う為の遠い約束」と言い換えることによってその「さよなら」に応じるという。
そうすると実に鮮やかで深みを増す。
これは長く生きていると本当に思う。
「さよなら」で別れられると思ったら大間違い。
本当に会う。
70(歳)ぐらいまで生きていると本当に別れた人と会う。
さよならしたのに。
それで再び逢う遠い約束でもなかったのに。
これが人生の不思議さで「二度と会わない」と決めて会わない人生なんてない。
人間は再会する。
それもバッタリ。
自分の前に起こっている難問をどう読み替えるか?
だからとある人と別れた。
別れたと思ってはダメ。
またいつかどこかで会うと思って「さよなら」と言わないとダメ。
言い方が違う。
「二度と会わない」と思う「さよなら」と、「どこかでまた会うかも知れない」という可能性を秘めた「さよなら」は違う。
そういうこと。
それが再会した時に本当に出る。
「もう二度と会うまい」と思って言った「さよなら」は向こうが覚えている。
会った時に復讐される。
最近大きなスキャンダルが芸能界を走ったが何年も前のこと。
おかしさがなかったから。
本当に武田先生もある。
だが今、「よかったな」と思うのは、少なくとも再会を前提にして笑えるか笑えないかが人生を決定していくということ。
武田先生がノートに「家族の不機嫌は」と書いてある。
これは、アナタの前で家族の方がもの凄い不機嫌な顔をしている。
それでもそれを言い換える。
「そんな顔をできるのは私の前だけ」
家族として安心していなければそんな顔はできない。
不機嫌に叱りつける顔。
それができるのも家族だから。
ありのままどころか「人には絶対見せないぞ」というような不機嫌な顔を私だけに見せてくださる、と。
言い換えというのは言い聞かせるということ。
「諦める」というのは「明らかにする」という意味合いもあるそうだ。
自分で言っていて目がくらみ始めてきた。
世田谷神社の前の「神社からの言葉」という掲示板があるのだが、あれに書いてあった。
「上手は下手の手本」
上手な人は下手な人の見本になるが、上手な人は下手を見本にするぐらいの気持ちがないともっと上手になれないよ、という。
だがこの吃音から始まった問題が、いろんな問題に広がって解決策となる。
心と体が繋がらないということは人生の毎日に起きる。
ここから更に深く話を切り込んでいきたいと思う。
吃音の病をお持ちの方がその吃音とどう対峙したか、そしてそれを克服なさったかという、そんな本を読んでいたら、これが吃音だけではない。
ちくまQブックスというシリーズで、『きみの体は何者か』筑摩書房、伊藤亜紗さんという方がお書きになった本。
武田先生のような初老の男にも何だか深く頷けるという。
この中で伊藤亜紗さんがおっしゃっているのは「絶えず言葉に関しては言い換えを準備する、そういう心構えを持ってください」と。
「てがみ」と言いたいところを「て」でどもってしまったら「てがみ」を捨てて「電話でどうでしょう?」とか「おたより」と言ってしまうとか。
その言い換えの言葉数の多さがその人のことを支える。
「一語にしがみつくと体が硬直しますよ」という。
この伊藤亜紗さんのアドバイスは本当に頭が下がる。
自身も吃音で苦しんだ著者、伊藤亜紗さんは最後に心と体を同調させ、心身一如の極意を伝えてくださっている。
きみがきみの体について探求するための、とっておきの道具をプレゼントしたいんだ。昔の旅人にとってのコンパスみたいな強力なツールだよ。
それはメタファーだ。つまり、隠喩。「たとえ」だ(80頁)
もしかしたら、きみはメタファーを文章を美しくするための「かざり」みたいなものだと思っているかもしれないね。(80頁)
著者はこんなことを語っている。
伊藤さんも見識が深い。
言葉をどんなふうに喩えるかで質を変えるという。
コロナウイルスがやってきたとき、世界中のリーダーがなんて言ったか覚えている?
アメリカのトランプ大統領や、フランスのマクロン大統領はこう言ったんだ。
「これはウイルスとの戦争だ」(81頁)
コロナウイルスとの戦争と見立てて「その敵と闘う指揮官こそ私だ」とトランプさんは言いたかったのだろう。
習近平さんもそう。
「コロナウイルスは国家を壊滅させようとする敵である」
こういうメタファーをお使いになった。
イタリアの小説家パオロ・ジョルダーノは、今回のパンデミック(感染症の世界的流行)を「引っ越し」というメタファーで表現している。
ジョルダーノは、パンデミックは環境破壊のせいだと考えた。つまり、さまざまなウイルスが、人間の環境破壊によって、コウモリの体などもともといた場所から追い出されて、他に居場所をもとめるようになった。ジョルダーノは、ウイルスは居場所から追い出された「難民」だとも言っている。(83頁)
メタファーが現実の見方を変えることがある。
そして、それにともなって、人々の行動も変わってくる。(83頁)
まさしく羅針盤。
メタファーで歩き出す方角が見えてくる。
そうすると見え方がどんどん変わってくるワケで、「敵と味方」で世界を見ると世界は硬直する。
「引っ越し」で見ると付き合い方が見つかる。
これはもう本当に前から武田先生はイライラしているのだが、「コロナは敵」というものの見方だから、ずっと不安で語る人がいる。
本当に悪いがもう疲れてしまった。
ちょっとコロナ話で何だが、武田先生は不思議でしょうがないが、ちゃんとおっしゃっているワクチンを打った。
だが「ワクチンってそういうこと?」と訊きたくなる。
ワクチンは一回打ったらずっと効いているヤツではないのか?
効き目があるのは数か月。
そんなバカな。
ワクチンというと一生持つから「ワクチン」と言っていなかったか?
インフルエンザは毎年打たなければいけないから違うと思う水谷譲。
小さい頃に打ったいろんなワクチンは一生なのか?
はしかとか。
当然のごとく「何回目打ちましたか?」という話があるのだが、元々そのワクチンというのは発明された時は「一生持つ」ということを前提にスタートした筈なのだが。
敵味方で世界を見ると世界が緊張するというのは、本当。
だからメタファーの使い方次第によって世界が変わるということはある。
何かもっと上手いこと、メタファーを使ってくれる人はいないか?
続く憂鬱も殆ど変わっていないが、何かこう、このへんでボチボチ絶妙のメタファーで上手く乗り切れる方法はないのかな?と思ったりしている。
武田先生が欲しいのは多分それ。
本を読みながら必死になって、上手なメタファーの使い手を探している。
今のところ見つかっていないが、いつかきっとこの世界を言い換えてくださるメタファーの達人をこの番組で放送したいなと思っている。
関西の芸人さんはこのメタファーが抜群に上手い。
「何やオマエ。〇〇みたいだ」とかというのが上手いなと思う。
(島田)紳助は上手かった。
紳助というのはメタファーの達人だった。
メタファー話だが、自分の体に起こっていることが言葉にできる。
必要なのは体で理解して、他の人にも伝えられるメタファーの創造。
何に喩えるか?
それが世界を見る為の極意である、と。
吃音の引き金は話を聞く相手。
その人がいるから「上手く話さなければ」と思ってしまって吃音という病態を起す。
どもる体を果汁たっぷりのゼリーにたとえてくれた人もいた。彼女は難発にならないように連発でしゃべろうとしているのだけど、その感覚は、「果汁たっぷりのゼリーのふたを汁がこぼれないようにそうっとあける」ような感覚なんだそうだ。(84〜85頁)
人生には吃音と同じようなつまづきはいくらでもありますよ。
心と体が断線してパニックで硬直する。
そして人生にはしばしば、本当に武田先生もそう思うが「罠」が待っている。
仲間の裏切りがある。
恋人から突然の別れの宣告。
家族の不機嫌。
悪いことがいっぱいある。
それをただの一つで解決しようと思ってはいけない。
メタファーを持って、それを喩えながら「自分の思い」というものを相手に伝える。
「そういう技を使わないとダメですよ」と。
面白いことをおっしゃっている。
伝えようとすると息苦しくなりますよ。
水谷譲は女子アナなので伝えるのが商売。
だが、伝えることは息苦しくなる。
極意は「伝える」」ではなくて「伝わる」で十分。
伝えるのではない。
伝わればいい。
そう思うこと。
伝わる為には(ゼリーを)落としたり、早く開けてブチュッと出てきたにしても、何かが伝わるものがあればいいということで、伝わる語り手でありなさい。
上手に読めるアナウンサーがレポートしても、何か伝わらないが、たどたどしくちょっとレポートする報道記者さんが現場からレポートすると伝わったりすると思う水谷譲。
「伝えよう伝えよう」としている人の喋り手というのは飽きてしまう。
そして何かイラッとしたり、ちょっと「ウザっ」と思ったりする水谷譲。
本当にごめんなさい。
決して若い方を虐めるワケではないが、殺人事件の話をしておいて、次のコーナーがお天気コーナーだと笑顔になる人がいる。
あの時、ちょっと異様さを感じる。
とにかく伝わるリラックスを持つ。
そのリラックスの声が伝わるという気がする。
著者はこんなふうに終章を締めくくっている。
思い通りにならないことが、思いがけない出会いをつれてきたんだ。−中略−
何かをうまく伝えられないときでも、体から伝わっていくことがある。(91頁)
「そういうものなんですよ。人間が語り合うということは」という。
これは武田先生は何を思ったか、このメタファー、喩えの方で「日本人には最高の教材がありますよ」というのを付け足している。
俳句。
俳句というのはテーマに沿った言い換え、メタファー。
名月や 畳の上に 松の影(宝井其角)
浮かぶ光景がある。
光が浮かぶ。
メタファーの巧みさ。
それから武田先生が大好きだった漢詩の一行。
「月影 階段を昇る」
(調べてみたが何の漢詩かはわからなかった)
月が昇って来て、時間が経つと庭に落とした松の影が階段を昇り始めて濡れ縁まで昇って来たという。
年寄の日と関はらずわが昼寝(石塚友二)
「『敬老の日』関係無ぇよ、俺には」と思いつつ、私はぐっすり昼寝するという、この悠然たる・・・
老人の日よ晩学の書架貧し(馬場移山子)
「私はねぇ、遅くから勉強を始めたもんで、本棚見ると本が少なくって」という。
こんなふうにして違う言葉で違う情景を歌う、違う情感を伝えようとする。
日本にはショートポエム「俳句」という最高の文藝がある。
「そういうので鍛えるといいですよ」という。
ネタを使い切ってしまった。
(最終日は今後取り上げる予定のボーヴォワールに関する話なので割愛する)



