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2023年06月24日

2023年4月10〜21日◆体はゆく(前編)

(本の中の傍点部はアンダーラインで表記する)
まな板の上は「体はゆく」。
武田先生はこの方(著者の伊藤亜紗さん)のファンになってしまった。
文藝春秋社刊。

体はゆく できるを科学する〈テクノロジー×身体〉



この著者の伊藤さんというのは前にも「(今朝の)三枚おろし」でやった(2020年7月27〜8月7日◆記憶する体2021年9月6〜17日◆手の倫理2022年10月17〜28日◆What am i? 私って何?)が、体にまつわる提言の多い方。
障害を持つ体がどう環境と折り合うかとの論考・考えを一冊の本にまとめた方。
病理について科学的な、ある意味では乾いた人間観をお持ちのようで、どこかクールで体というものを睨んでおられる。

のっけから伊藤さんは不思議な話をなさる。
プロローグ、つかみの章で伊藤さんが、こんな不思議な商品を紹介する。

(株)イマクリエイトが開発した「けん玉できた!VR」という商品があります。その名のとおり、バーチャルリアリティを使ってけん玉のわざをトレーニングする、というものです。−中略−コントローラーを手にもち、ヘッドマウントディスプレイを装着すれば、バーチャル空間内でけん玉をあやつることができます。リアルの空間と違うのは、玉の動く速度が実際よりもかなり遅いこと。スローモーションで動く玉を相手に、けん玉の練習ができるのです。−中略−このシステムを体験した一一二八人のうち、実に九六.四%にあたる一〇八七人が、わざを習得したというのです。必要な時間も、ものの五分程度。バーチャル空間で少し練習しただけで、リアルの空間でも、けん玉ができるようになるのです。(2頁)

これはもちろん遊びなのだが「人間の体とテクノロジーというものが、昨今、別の領域に入ったのではないか?」というのが伊藤さんの考え方。
何回も何回も、できるようになるまで繰り返さなければいけない。
バットの素振りでも何でも。
練習というのはそういうこと。
ところが、テクノロジーが入ることによって脳をすっ飛ばして技術と体が直に結びついてしまう。
これは遊びだが、ここから新しい産業に広がる可能性があるという。
職業訓練とか。

ちょっと脱線する。
遠い昔、この「三枚おろし」でお伝えしたことがあるのだが、「脳の中の幽霊」という、もの凄く奇妙な心理実験を紹介した本があった。

脳のなかの幽霊 (角川文庫)



 幻肢とは、事故や病気が原因で手や足など体の一部を切断したり、麻痺状態になったりした人が、ないはずの手足、あるいは感じないはずの手足を、ありありと感じる、という現象です。寝転ぶと幻肢の腕が床を突き抜けたり、電車で座ったら前に立っている人に幻肢の足が刺さったり−中略−
 問題は、この幻肢が、しばしば「幻肢痛」という強い痛みとして感じられることです。痛みの強さは一定ではなく、たとえば低気圧がやってくるとひどくなる人が多い。
−中略−フィリピン沖で台風が発生すると、大阪にいながらそれが分かる、という人もいます。(5頁)

こんな不思議な話が世の中にあるのだ。
左腕を失くしたある方がおられて、この人が左手の指先の痛みに耐えかねて脳と心理の研究者である米国(V・S・ラマ)チャンドラン博士のところに相談した時に、この方が「脳のなかの幽霊」の中でやったのは、両の掌をテーブルの上に置く。
左手はないワケだから無い。
無いところに鏡を置く。
自分が正面に立っていると、右手が左の鏡に映って見える。
これでしばらく手を開いたりグーにしたりチョキにしたり、そういうことを繰り返していると、左手の指先の痛みが消える。
これは脳をもう一回騙している。
脳は無いのに指先の痛みを脳で感じて体に送る。
ところが、鏡を置いた瞬間、右手が映り込むので脳が一瞬「あるじゃないか」と思う。
そうしたら痛みがフッと消えてゆくという。
この体と脳の関係というのが司令塔とその支店みたいな感じだけではないところに人間の体の不思議があって、伊藤亜紗さんの「体はゆく」はそのことの、つまり体と脳の問題の一冊。

ガンダムのモビルスーツのようなグローブ型の外骨格ですが、−中略−
 まず、五本の指それぞれの「座席」に指をすべり込ませ、マジックバンドで固定します。手の甲の側にはマジックハンドのアームの部分のような伸縮機構が五本ついていて、装着するとごつい鎧を着た貝類のような恰好に。
(36〜37頁)

何をするかというと「ピアノの練習機」。
できないことがテクノロジーによってできるようになるという実験。
とあるラボで、実験室でエクソスケルトンというマシンができたそうで、これが今、音楽メーカーが一生懸命頑張っているピアノ練習用器具だそうだ。
これはロボットの手みたいな。
「ターミネーター」の手が金属の手になる。

ターミネーター(吹替版)



あんなヤツ。
あれを人間の手にかぶせて手を装着する。

伸縮機構にはモーターがついていて、スイッチを入れると……そう、シャーッという音を立てて、指が勝手に動き始めます。−中略−エクソスケルトンは、確かに指を本人の意思と切り離して動かすことのできるシステムです。−中略−特定の演奏者の指の動きをデータグローブによってセンシングしておき、それをリアルタイムでエクソスケルトンをはめた別の人の手に出力することも可能。このシステムを使えば、プロの指の動きを、そっくりそのまま体験することができる、というわけです。(37〜38頁)

 エクソスケルトンは、速さやリズムだけでなく鍵盤を押す深さや押し方のパターンも再生できます。これだけの情報量があれば、そのピアニストならではのタッチを表現することも可能。(38頁)

だから「清塚信也」とボタンを押すと清塚信也が自分の両手を支配する。

Transcription (限定盤)(DVD付)



これで練習をするとピアノを弾いたこともない(人が)もの凄い短時間でピアノ演奏ができるようになる。
武田先生もよくわからない。
そういう機械がもの凄い勢いで今、開発中だという。
例えば水谷譲がエクソスケルトンを付けてやる。
ボタンで「ショパン」。
弾く。
その機械を取っても水谷譲に(弾く技術が)残る。
その時、水谷譲の頭の中には何もない。
指が覚える。
そういうことが、完璧ではないにしても上達が各段に速くなるという。

 古屋晋一さんは、体の動きに注目してピアニストの演奏技術を助ける方法を研究している科学者です。(29頁)

芸術とテクノロジーが結びつきつつある時代になっているという。
これはちょっと信じがたい。
信じがたいのだが、このあたりから「できる」「できない」が全然違う次元に入ってきているのではないか?

全身に点々(トラッカー?)をいっぱい付けて、その人を動かすと、その人の動きが記録できる。
それから(ウサイン・)ボルトの100m走のランニングは歪んでいる。
あの人はセンターからズレて傾いている。
傾いているのを直そうとするから速い。
それから棒人形がいて、その棒人形にイチローを教えるとイチローと同じ体使いをするという。
そうするとスポーツ選手の記録がいわゆる映像ではなくて、内側の体の動かし方が全部わかるという記録の残し方ができる。
たまにゲームセンターで拳銃を撃つようなゲームをやる水谷譲。
撃った後、手ごたえがある。
「あ、こんな感じなのかな」みたいな。
あれを使うと練習場もぐっと小さくなるし。

ここからもの凄く不思議な話をする。
今、言ったテクノロジー
そのテクノロジーによってどう開発していくかの一つにスポーツが繋がる。
これは柏野牧夫さん。

専門は心理物理学・認知神経科学。(64頁)

武田先生もドキッとしたのはここ。
ゴルフ。
「普遍的なよい打ち方」というのをレッスン書は説く。
だが、世界的に正しい打ち方があるワケではない。
ダフろうがトップしようがチーピンが出ようが、押し出し、スライス、フック・・・ミスにいっぱい名前が付いているが、その先にグリーンと旗があれば全部ナイスショットになる。
つまり、体にとって目標に向かう打ち方をすれば正しい打ち方なのであって、その体はどのように正しさを目指すか。
ちょっとややこしくなるがここからスポーツを分け入ると、様々な分野で活躍できるテクノロジーに結びついた体の動かし方が出てくる。

認知科学とかスポーツ科学なんかは研究が進んでいて、柏野さんという科学者の方は研究室をどこかのスポーツ施設の地下にお持ちのようで。
(本によるとスポーツ施設の地下に研究室があるのではなくて、研究施設の地下に野球の室内練習場)
この人は「不便な体を人間はどんなふうにして便利に使っているか」という。
これが研究目標らしい。
凄いところに目を付ける。
二足歩行はロボットで作るのは大変難しくて、今それを乗り切った。
二足歩行ロボットが出てくるようになった。
ところが片足を二足歩行ロボットから失くして、片足で歩くというのを「君、どうする?」と言われると二足歩行ロボットはできない。
(ケンケンは)できない。
人間は直ぐできる。
それは何なんだ?という。
不便な体を便利に使う。
その固有性に満ちたもの。
人間しかできない。
その使い方に全人類を覆う人間共通の何かがあるのではないか?という
そういう研究の目標がある。

耳の不自由な人達が指で話す、手のひらで話す、表情で話す「手話」という。
あれは共通項が凄く多い。
英語の手話も日本語の手話も意外と通じる。
そうすると凄いことに国際言語になりうる。
不自由だと国際的になりうる。
不自由じゃないと「ナニイッテルカワカリマセン」ということになってしまう。

柏野さんがスポーツ選手の体の使い方を研究しようという。

柏野さんが特に力を入れているのが、元プロ野球選手で現在は読売ジャイアンツファーム総監督をつとめる桑田真澄の身体能力の研究です。−中略−マウンドからボールを投げ、その様子をカメラで撮影し、解析する。(68〜69頁)

ホームベースからの距離一八.四四メートル、高さ二五.四センチのマウンドから、わずかボール六個分の幅しかないストライクゾーンをめがけて、ボールを投げ込んでいく。(70頁)

さすがに往年の大選手で、30球、殆どストライク。

一回ごとにかなり違う投げ方をしていたのです。(70頁)

 要するに、桑田の投球は、「フォームは毎回かなり違うのに、結果はほぼ同じ」なのです。(71頁)

「これがプロなんだ」ということ。
興味深い。
ボールを放つリリースポイントが30回で14cm違う。
凄く違う。
それで、桑田真澄選手にそのことを聞いても気づいていない。

桑田が苦笑いしています。「全球一緒の感覚で投げていたんですけどね」。(71頁)

だが、一球一球全部違って、結果はほぼ同じところにボールが置ける。
これは面白い。
物理を心理が操作している。
それも無意識で。
だから彼はプロなんだ。
こんなことが何でできるか?
「当たり前じゃないか、プロなら。毎回ピッチャーズマウンドが違う」と言う。
つまり職場が。
光も違えば風も違う。
甲子園、東京ドーム、PayPayドーム、神宮(明治神宮野球場)。
彼の立つマウンドは日々、土の柔らかさ、光、風が変化する。
その環境の変化に彼は合わせているという。
これがやっぱりプロたるゆえんだ。
WBCなんか見ていてそうだった。
やっぱり球場が変わってマイアミとかへ行くと変な構造のドーム。
無闇にホームランの壁は遠いし、球場のセンターの下か何かに飲み屋がある。
一杯飲み屋がいて、ブロンドの可愛いネエチャンがビールを運んでいるのが少し見える。
確かそんな話を聞いた。
松坂が言っていた。
それがもの凄く昔投げた時に気になったそうだ。
球場の席はそこはそこで置いておいて、一杯呑みに行く。
あまりにも飲み屋。
それで時(野球の試合を)やっているのが嫌になる。
かくのごとく環境は変わるが、体は合わせる。
体は合わせているが、合わせたことを頭に教えない。

 同じことを、柏野さんは「土地勘」という言葉で表現します。(74頁)

桑田真澄がストライクを30球投げる。
マウンドで30球、ことごとくストライクであった。
ところが科学的にその投球フォームを検証してみる。
一球一球、全て違う。
全て違って結果は同じ。
「これがプロなんだ」ということ。

この桑田の特徴を「ゆらぎ」「ノイズ」という言葉で説明します。(72頁)

環境に合わせてストライクゾーンへ投げるのだが、それを筆者は「土地勘」と名付けた。
これを普通の人は何に使っているかというと、引っ越して新しい自宅が出来た。
そこへ帰る時、一年ばかりいろいろ道を変えてゆく。
最短とか春に持ってこいの道とかを見付けてゆく。
これが「土地勘」。
これは頭の記憶ではなくて体の記憶。
だから「春先になると何だかあっちの道通って帰っちゃうのよ」という。
中途に沈丁花が咲いていたりする。
いい香りがするという。
香りの記憶がその人を春先、あの道を選ばせる、とか「商店街で雨、降った時はここ通ると濡れない」とか、いくつもの変化球を帰り道一つにでさえ探るのが人間。
運動スキルにおいて唯一絶対の点と線で結ぶような動き、これで自分を縛ってしまうと

 野球選手を悩ませる「イップス」も、ここに原因があるのではないか、と柏野さんは考えています。(76頁)

唯一絶対の正解という「線」ではなく、土地という「面」で把握しておくこと。(76頁)

カーブの投げ方についてです。−中略−桑田にそのやり方を問うなら、彼はそのポイントを三点、こう答えるでしょう−中略−
 @ボールの向こう側を中指で下向きにこする
 Aボールの手前側を親指で上向きに跳ね上げる
(80頁)

ハイスピードカメラに映っていた桑田の手元は、本人のイメージとはまったく違う動きをしていたのです。
 @まず、確かにボールの向こう側を下向きにこすってはいるのですが、使っているのは中指ではなく人差し指だったのです。
−中略−
 Aそして、親指は
−中略−跳ね上げてはいませんでした。跳ね上げるなら親指は外に出ていくはずですが、むしろ手のひらの中に隠そうとするような動きになっています。(81〜82頁)

 つまり、あらゆる点において、桑田の体は本人がイメージする動きとは違う動きをしていたのです。(82頁)

これらの本人と体の違いは、本人と手で行なっている。
つまり脳の領域の中でも最も脳に支配されている部分がお互いに実は何もわかっていない。
脳と第二の脳と言われる指先が全く結びついていない。
それでもストライクゾーンに投げ込んでいるのは手なのだ。
謎はここ。

 意識はできていないけれど、体はそのようになっている。物理化学者のマイケル・ポランニーは、人間のもつこうした知を「暗黙知」と呼びました。−中略−私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる」。(83頁)

「知る」を二つの種類に分けます。すなわち「対象を知っている−中略−」と「方法を知っている−中略−」です。(84頁)

「自転車を知っている」というのと「自転車に乗っている」という違い。
だから、桑田は指の使い方に関して知っていることを言っているのだが、投げている指とは違う。
人間は脳が全てを支配しているのではない。
本を読みながらつくづく思った。
ゴルフのレッスン書を読んで上手にならないのはこれ。
本当に書いてあることはできない。
「ざっくりを防ぐ三つのテクニック」で何遍ざっくりを繰り返したことか。
「絶対に左に行かない打ち方」何遍左に打っていったことか?
あの時に全部崩れる。
万里の長城の総倒れみたいな感じで。
万里の長城のドミノ倒しみたいな感じ。
体を上手く使う為には何をするかというと、リラックス。
ゴルフでも習う時に「はい!力抜いてね。変なとこ力入れない。リラックスして!ハイ!ラーメン!」みたいに教わる水谷譲。
それを言うなら「チャー・シュー・メン」。
「ラー・メン」では早い。
それでは20ヤードのアプローチはラー・メン。
チャー・シュー・メン。

これはさすが伊藤さん。
今までずっとスポーツの話。
突然障害の話になる。
体の不自由な人の体を借りて、体のことを考えるともの凄く解りやすくなる。
ここからは障害を持った方の体の使い方、それを学びましょう。
例えば視覚障害の人が白杖、白い杖を使って歩く。
初めは探ってらっしゃるから、白い杖の握り方や、跳ね返ってくる音、それの聞き分け方。
これがいくつも彼等に教えられるワケだが

「自分の近く」に注意が向いています。
 ところが、だんだん道具がうまく使えるようになると、そのような「近くへの注意」は消えていきます。
(85〜86頁)

この「近さ/遠さ」の問題を、運動化学の言葉を用いて「インターナルフォーカス」「エクスターナルフォーカス」と呼びます(87頁)

意識が遠い方へ上書きされていくという。
これはどういうことかというと

それは「体を自由にさせることができている」とも言えます。(88頁)

近くを見ようとすると緊張して体を縛ってしまう。
ところが白杖の使い方一つで近くを探れるようになると、体が遠くに向かって歩けるように。
その時に近くから解放されて遠くを見るという自由さを獲得することができるのだ。
視覚に障害のある方がおられて、一緒に合気道をやっている。
合気道場に入る為に、大通りを歩いていると角を一個曲がらなければいけない。
「あそこの角、よくわかりますよね」「どうしてるのかな」と訊いたら「そこ通る瞬間に風が来るじゃないですか?」。
だから何番目の風かチェックをしている。
風の度に臭いが変わる。
商店街の香りから少し行って、ビル街を直進した後、ラーメン屋さんと不動産屋さんの隙間から吹いてくる風は風の臭いが変わる。
それで「そこへ来た」と思って曲がる。
つまり体が自由。

「暗黙知は、身体と事物との衝突から、その衝突の意味を包括=理解することによって、周囲の世界を解釈する」(94頁)

これはよくわからないかも知れないが、我々の中には言葉にできない知識がある。
それは周囲の世界をきちんと解釈していく。
WBC的に言うと、あそこの球場でやったことがあるヤツとやったことのないヤツは何かセンスが違う。
やはりアメリカが有利なのは当たり前で、彼等は気温とか全部慣れているから。
周囲の世界の解釈、それが「言葉にできない知識」「闇の中の知識」。
これはポランニーという学者さんの言葉。

 言語化が必要になる具体的な場面は、技能伝達の場面です。わざをそのまま言語化するのは不可能だということを分かったうえで、人は自分の感覚を、後輩や仲間や生徒に伝えようとします。それは同時に、言葉の力が試される場面でもあります。
 ある人がもつ技能を他の人に伝えるためのこうした言葉は、「わざ言語」と呼ばれます。
(94頁)

これは技を伝える為だけの言葉。
この「わざ言葉」「わざ言語」というのは面白い。
これはよく「長嶋言葉」と言われるヤツ。

 たとえば有名な長嶋茂雄のオノマトペ。「ググッとなったらウンッと溜めてパッ」といった表現を使われるのは、それを聞いた人が「ググッとなる」や「ウンッと溜める」を自分でも口真似して、身体的に理解できるからに他なりません。(229頁)

技能を伝達するための「わざ言語」でしばしば擬態語が使われる(229頁)

この時に日本が使うオノマトペというのが世界の中でも優れているのではないか?
耳の詩人と言われる宮沢賢治はオノマトペの達人。
異様な風が吹いてきたことを彼は「どっどと風が吹きました」とか、そういうオノマトペ。

風の又三郎



物事の様子をそういう言葉で伝える達人。
甘い木の実が川に落ちて流れるその様を宮沢賢治は「クラムボンクラムボン」という。

やまなし



それからボウフラが水中でずっとのたうち回っている。
あれを見ていると面白い。
そのボウフラがクニャクニャ水の中で暴れまくる。
それを「あーら不思議やアラビア文字」という。
(「蠕虫舞手《アンネリダタンツエーリン》」の「アラベスクの飾り文字」を指しているかと思われる)
抜群。
そういうことを理解できる言語の領域を持っているという。
前から水谷譲によく愚痴っていた。
「合気道を教わるのはいいが、何言ってるのか全然わかんない」という。
これが「わざ言葉」。
先生が言う。
「ギューッとダメよ。かーるく」とかと言う。
そこに技の奥義みたいなのが。
「腰でクルッと回る」
こういうのもそう。
それからゴルフで言うところの「パン!と打つ」とか。

「チャー・シュー・メン」はそうした言葉のひとつでしょう。(95頁)

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