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「降りてゆく生き方Part2」ということで、申し訳ない。
これは本当に山ほどネタを仕込んでしまって、たった二泊三日の旅だったが、いい旅を事務所スタッフからさせてもらって、いいネタをたくさんそこで見かけることができた。
「どのへんから話を始めようかなぁ」と思って言うが、昨日ちょこっと起こったことから話す。
とある長い長いバラエティー番組に呼ばれて。
「何時間続くんだ?」というような長さだったのだが、それの収録をしていた。
(2月23日放送のTBS「ベスコングルメ」のことかと思われる)
それで声のいい麒麟の川島(明)さんが番組を回しておられる。
武田先生の使い道など無いのだが、川島君はいい子だから(話を)振る。
それで昭和の思い出話をする。
あんまり詳しくないから、武田先生の話せる範囲内は決まっている。
「101回目のプロポーズ」の前後とか「金八先生」とか、昭和の深い時代に終わった人気番組のこと。
川島さんが振るのだが、振りにもう無理がある。
全然わからない。
テレビゲームの話とかになる。
武田先生は「インベーダーゲーム」で終わっている。
「名古屋撃ち」とかそういうのでもう終わっていて、「〇〇ファンタジー」とかもうわからない。
それを若い人達が盛り上がるという。
そうしたら話が、今もブームが続いているらしいが「たまごっち」になった。
また再燃。
そんなのは全然知らない。
川島さんがよせばいいのに武田先生にたまごっちを振る。
武田先生はやったこともなければ興味も無い。
面白いとも思わない。
金八先生で「たまごっち禁止」という、そういうものを物語の中で扱ったことがある。
そうしたら川島さんが残念そうにあのいい声で「いやぁ武田さんご存じかと思ったけど、ご存じないんだ」とかと言うから「日本人は何でこんな奇妙なものが突然大ブームになるんだろう?」。
これは凄い。
たまごっちだけで二百億、三百億円の経済効果があった。
何で起こっているのか誰もわからないのに大ヒットしているという。
(川島さんが)「日本人て不思議ですよね」とおっしゃるから、日本人はそういう不思議なブームを巻き起こすことがあるというので、思わず「あ、俺らガキん時によくやってた赤土団子っていうのがあった」。
赤土団子を知らない水谷譲。
知るワケがない。
武田先生達は子供の時、小学校低学年の時、何も遊び道具が無い。
それで何をするかといったら、赤土を指でほじって、それをガラス板の上で丸める。
それを金属の玉みたいにテッカテッカにする。
それがパチンコの玉みたいに、もう赤土が金属に見えるぐらい光り始める。
それを「泥団子」と呼んでいた水谷譲。
それでその硬さとか光沢を仲間同士で競い合う。
それで何回も校長先生が朝礼で禁止条例を出す。
赤土が見当たらないから運動場の隅にある子供相撲の土俵の赤土を指でほじって。
運動場の隅に土俵があったのを不思議に思う水谷譲。
昔は相撲文化だから、それを指でほじる。
ところが全校生徒千人近くいるワケで、男の子は全員毎日ほじるものだから、土俵にボコッと横穴が空いてしまって、もう校長先生が烈火のごとく怒っているのだがやめない。
それから「ギンナン笛」。
校門の横にギンナンの木が立っていて実が落ちる。
その実のアレを取って、あのタネで笛を作る。
ところがそれをやると子供だからギンナンに負けてしまって発疹だらけになる。
そうしたら低学年の子は全員ブツブツ。
「やめろ」というのだがやめない。
いったん流行り出すとやり続ける。
これが「降りてゆく生き方」にどうつなげていくかわからないのだが。
LGBTの方がレインボー運動をやっておられる。
今、アメリカなんか凄い。
トランプさんが大統領になるが、あの中で、またLGBT嫌いな人が一人いる。
あれはまた揉める。
だが日本は意外とみんな許容している。
多様性は認めている国だと思う水谷譲。
それが考えてみたら文化の中にある。
歌舞伎はやっぱり女形が芸のうちになるし、宝塚は女性が男性を演じるところに美しさがある。
こういう「ジェンダーを入れ替える」というのは、平安の昔からあった。
「とりかへばや物語」というのが源氏物語と同じぐらいの時期に物語としてあって、男の子を女の子に、女の子を男の子にして育てるという物語が平安時代にある。
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そういう文化の中で、異国のLGBT問題と日本は少し違うんじゃないか?という。
「日本という国が独特の文化を持っている」というところから「降りてゆく生き方」「べてる」のあり方みたいなものを探ってゆこうと思う今週。
「降りてゆく生き方Part2」ということで北海道・襟裳岬の根本の町「べてるの家」。
ここに向谷地さん。
武田先生と同世代の方がいらっしゃる。
その方が教えてくれた「べてるの家」の活動みたいなもの。
これがなかなか武田先生の後半の人生にとって非常に深い意味を持っているような気がして。
「そのへんを語ってみたいなぁ」と。
「降りてゆく生き方」は素敵な言葉。
これは60(歳)の頃出会った言葉だったが「なるほど」と思った。
この「降りてゆく生き方」は多分、向谷地さんが作った言葉ではないか?
違ったらごめんね向谷地さん。
パウル・ティリッヒ(アメリカの神学者・思想家)があります。『存在への勇気』という非常に難解な本でしたけれども、そこから私が得たものは、ティリッヒの「人生曲線」だったんですね。−中略−今を生きる高さから、私たちは毎日、死ぬという低さに向かって降りている、という考え方を教えられるわけですね。ここから私の中で「降りていく生き方」というキーワードが与えられ(212〜213頁)
それを生きているうちに模索しようではないか。
それから向谷地さんは読書傾向が似ていて
V・フランクルの本を示されるわけです。名著と呼ばれる『夜と霧』−中略−このフランクルの「ホモ・パティエンス」の考え方もそうですね。まさに人間は「苦悩する存在」であるということですね。この「苦悩」を人間存在の根本的なものとして捉えた。(213頁)
ものごとを「楽」とか「安らぎ」で解こうとするから、ものごとはどんどん絡まってくる。
全ての解決を苦労で解いてゆく、そういう生き方をすることだ。
「毎日みんなで苦労しようぜ」という。
そう覚悟したら人生は違ったものになる。
この言葉に向谷地という人は惹かれたらしい。
だから苦悩が義務であるから、毎日苦労してしているかどうかが問題なんだ、と。
強靭な意志。
それでこの方は社会の福祉に尽くす福祉人として精神病を患っている人と暮らしを共にする。
「精神障害の人達を病院に閉じ込めないで町に出て労働する、そこに解決策を見出そうぜ」という。
「社会復帰」っていう切り口からでなくて「社会進出」の発想でチャレンジする。(216頁)
精神的に障害を持った人が社会に進出していく、そういう生き方を探ろうということで小さな小さな浦河の町で地元産の昆布の商品化とか板金工、或いはパン屋さんをやったり、それからいわゆる道路補修等々の公益の事業に就いたりして一緒に苦労したという。
風呂に行くのを節約して早坂潔さんと雨の中で風呂代わりに体を洗って(209頁)
「苦労」への参画ということです。(216頁)
もう「今日も苦労。明日も苦労しようね」と言いながら苦労に参加していくと、次々新しい発見がある。
ここから向谷地さんは絶妙のことを言う。
何かというと精神障害を抱えたその人達が、毎日苦労するということを体験しているうちに幻聴や幻覚が質的に変化する。
私達が機嫌良くなると、幻聴さんも機嫌が良くなる。私達が仲良くなると、この幻覚も私達に対して親和的なものになるということが徐々に分かってきたんです。(216頁)
つまり幻覚や幻聴、特に幻聴が強い人が「オマエなど死ね」という言葉がどこからか聞こえてくるという幻聴に苦しんでいる。
それがここで毎日の苦労を覚悟して日々、肉体を使って働くと「頑張ろうよ」と言い出す。
つまり幻聴も変化する、という。
幻覚も変化していく。
この時に起こった事件が「空飛ぶ円盤で誘いに来た宇宙人」が、あの例の話。
みんなで語り合って、宇宙に連れていかない為にはどうするか?
そうしたら彼を入院させて、それで出てきたら幻聴が遠のいた。
あれからも、宇宙人からのテレパシーで幻聴があったそうだ。
そうしたら内容が変わってしまって、宇宙人の幻聴が「なるべく地球に残った方がいいよ」と言い出した。
これは向谷地は「もしかしたら大変なことが実は起こってんのかも知んない」という。
それで彼はソーシャルワーカーとして頑張るのだが。
精神障害を持っておられる方、症状としてよくあるのが「幻聴」幻の声が聞こえる、
或いは「幻覚」神が目の前に出てくるとか、そういうことがある。
ところが向谷地さんはキリスト教徒なので、聖書なんかよく読んでらっしゃる。
その向谷地さんが気が付いた。
「そういえば幻覚・幻聴っていうのはキリスト教の中では聖書に書いてあるな」
有名な話がある。
熱心なユダヤ教徒であるパウロ。
彼は新興のキリスト教徒を激しく憎んで捕えては次々と処刑するという「キリスト教迫害者」だった。
ある日のこと、急に視力を失って気が付いたらキリストの声が聞こえた。
「パウロ、パウロよ、なぜわたしを迫害するのか」とキリストが責めたという。
(この時点ではパウロの名前は「サウロ」)
それからパウロは目からうろこが落ちたような状態になり自らキリスト教徒になったという。
それから、武田先生はこの話が大好き。
アピアン街道の話。
これはペテロ。
キリストが処刑されるのを見届け、それから熱心にキリストを神の子だと信じるようになったペテロ。
だんだんお爺ちゃんになってしまって。
その頃キリスト教徒も増えたのだが、ネロという恐ろしい皇帝様がローマ帝国の長になられると、キリスト教徒を遊び半分で殺す。
恐ろしくなったペテロは、命が惜しくて逃げる。
ローマからギリシャ方面に逃げようとしたのか。
そこでアピアン街道というところを走って逃げていた。
そうしたら向こう側からパンツ一枚で危険なローマに向かって走る若者を見る。
彼は急いでいる。
よく見たら何のことはない、若い時お別れしたイエス・キリスト。
それで彼はその若者、あの死んでしまったイエスに向かって声をかける「Quo vadis, Domine?」「主、汝いずこへ行きたまう」「イエスはどこへ行かれるんですか」。
そうしたらイエスが怒った目で、キッ!と睨んだのだろう。
「オマエはまた裏切るの?」という。
「最期の晩餐の時もそうだったじゃん。アンタ裏切って逃げたでしょ?私がよみがえって永遠の命を見せたのに今度またアンタ命惜しさに。何べん言ったらわかるの」みたいな、イエスは厳しい目つきだったのだろう。
そこでナヨナヨナヨと倒れたペテロは「申し訳ない。ちゃんと死にますから許して」と言いながらローマに取って返して十字架にかかるのだが、普通にかかったら、ご主人のイエス様に申し訳ないので「私を逆さにして磔にしてください」ということで磔のさかさまで死んでいったという。
そのペテロの逆さ吊りの十字架の跡に立ったのがセント・ピエトロ寺院(サン・ピエトロ大聖堂)。
でもこれはいずれにしてもパウロ、そしてペテロも怒りの声。
神様からの怒りの声。
これを幻覚・幻聴で聞いてしまう。
「べてるの家」の精神障害の人達は仲間と共に頑張ると幻覚・幻聴が明るく変わってくるという。
水谷譲に一回言ったことがある。
(2024年7月8〜19日◆老害・2024年8月19〜30日◆ヒト、犬に会うで遅刻する夢の話が出た)
幻覚・幻聴、或いは悪夢の傾向があるという。
武田先生があの時言った。
「遅れる」という夢を見る。
今でもしょっちゅう見る水谷譲。
武田先生も今だ、遅れる(夢を見ることが)めっちゃ多い。
試験会場に遅れる、国際線に乗り遅れる、新幹線に乗り遅れる、どんどん遅れてゆくという。
「生放送に遅れる」というのをしょっちゅう見る水谷譲。
自分の内側に眠っている狂気に向かって聞いてみた。
「何で俺はこんなに遅れる夢ばっかり見るんだろう?」
そうしたら気が付いたのだが、日本人の文化の中、物語の中に「遅れる」ということがいっぱいある。
宮本武蔵と佐々木小次郎。
巌流島の決闘で武蔵はわざと遅れてゆく。
それから堀部安兵衛の決闘高田馬場では自分が遅れるという。
それで自分の親戚のおじさんか何かが切り殺されてしまうので、堀部安兵衛がもの凄い勢いで高田馬場まで走って行った。
走ってゆくといえば何回も話が出ているが、太宰治の「走れメロス」も約束を守る為に遅れを取り返そうとするとか。
昭和の戦前のことだが、国際社会に対してだんだん不満を持った日本。
それが非常に焦ってきて、ヨーロッパと肩を並べられない自分達、我が国日本に対して「バスに乗り遅れるな」。
それからミッドウェー海戦では爆弾を入れ替えようとした時の「あと五分で出撃できます」。
その隙に飛行機が攻めてきた。
日本では間に合うか間に合わないか、これが大事な・・・
この「遅れる」という恐怖感。
これが日本人の体の奥に宿っているのではなかろうかと。
ただ一瞬だけ奇怪なことがあった。
武田先生は、この向谷地さんの本を読んでいて、遅れる夢を見た。
その時に「何で遅れる夢ばっか俺見るんだろう?」と夢に訊いた。
そうしたら、それから何か月間か遅れる夢を見なくなった。
「また遅れる夢か」
そうしたら向こうが「見抜かれるぞ」みたいな。
そうしたら何か月間か見なかった。
だいたい夢の中で遅れそうで慌て始めたら「夢かも」というふうに自分で疑ってみるという。
このあたり、人間の奥の奥にある何事か。
これは恐らく民族的な遺伝子ではないだろうか。
だって「キリスト教の神と出会った」というのはアメリカの人達に影響を与えている。
マイケル・ジャクソンが亡くなった時に、凄い言葉だなと思ったのだが「王がいない国の人達は神の真似をしたがる」と。
どこかの心理学者(の言葉)だと思うのだが。
王様がいる国というのは、狂気の人は王様の真似をする。
それで、王様がいない国は神様の真似をしたがる。
だからキリストの真似をして死にたがる傾向を持つとか。
そういえばアメリカの凄いアイドル、ジェームズ・ディーンとかも若くして死す。
マイケル・ジャクソンも。
あれは神様の真似をしたがったのではないか、という。
そういう例え方が凄く面白くて。
この日本人の「遅れることへの恐怖感」というのは、どこから来ているんだろうか?と本当に真剣に考えたことがあった。
今も考えている。
これはやはり稲作を中心とした社会。
季節に間に合わないと、完璧に遅れる。
人が田植えを始めたら自分も田植えを始めないと、乗り遅れると、真夏がやってくると雨が降らないという時期がくるワケで、そういう意味では「遅れる」ということが死につながる。
なんせこの国は桜が咲いたら新聞のトップだから。
「花が咲く」ということがトップニュースになるというのは、こんな国はない。
咲かなければ咲かないでそれもトップニュースになると思う水谷譲。
それは天気にしてみれば「暑い時だってあるよ」「ちょっと俺が遅れたぐらいで『遅れたろ?』」という。
何かそういう「遅れること」に対する恐怖心というのが、自然とか天然・自然の災害とか、そういうものによってしつけられている。
集団の足並みを乱すことへの罪意識。
他の民族と違ってもの凄く日本人は重大な罪として。
電車が二分ぐらい遅れただけで「大変申し訳ありません」という放送が流れたりすると思う水谷譲。
東京駅でよく見かける風景だが、新幹線が時間通り発車しているのを時計と発車のパネルを撮って出ていく新幹線と三つキャメラにおさめている人がいる。
だから九時発の新幹線が九時に出ているというのは彼らにとっては異常なこと。
武田先生はそういう意味で「遅れる」ということに対する社会の問題化というのが日本人の心の中には相当深くあるようで、一種狂気として「遅れることへの怯え」があるのではないだろうか?と。
子供の頃から「時間は必ず守れ」と言われたと思う水谷譲。
10分以上遅れたらぼろくそに言われた。
こういうふうにして自分の狂気をジーッと見つめていると民族全体の遺伝子の流れみたいなものを感じて仕方がない。
そうなってくると向谷地さんとどう結びつくのか?という。
向谷地さんに戻ろうと思うが、この人の話を聞くといつも感動してしまう。
この方は25年間、「べてるの家」の体験で20万件の精神障害の人達と語り合ったという。
彼は「べてるの家」の実践から狂気への取り組み方を会得している。
これはこの人のおっしゃっていることだが、その人が持っている狂気に関して、研究する時に最も大切なのは「対話型」「語り合うことだ」という。
障害者と治療者、お医者さんと患者さん。
上下を付けないで語り合う。
なぜその幻聴はきたのか?
その幻覚はどうやったら出現するのか?
そういうことを徹底的に語り合う。
「そうするとだんだん正体がわかってきますよ」ということ。
向谷地さんの言葉遣いの面白いところは、精神障害がワリと重篤で治療困難という方がおられると、向谷地さんは武田先生の前でも使ったが「この人は手ごわかったんですよ」と。
「手ごわい」という。
それからさんざん迷惑をかけられた精神障害の人に対しては「いやぁ〜勉強させられました」と言う。
この向谷地というのはいい人。
とにかく徹底的に語り合う。
それで裏の裏を見抜くという。
統合失調症を持つAさんを紹介します。−中略−安全保障問題から政治情勢まで、機関銃のように話題が口から出てくるんですね。例えば病棟の看護師長さん今度は知事になるとか、自分は自民党の政調会長になるとかそんな話を延々とするわけですね。(225頁)
これは武田先生ではない。
向谷地さんの本の中で書いていた一言だが、精神障害の人と付き合ってるとわかるが、そういう人達が政治を語るっていうのは病気が酷くなっている時。
これはちょっとごめんなさいね。
国会の為に頑張って働いてらっしゃる方を決して軽蔑してるのではない。
前にお話しした神様との契約をしてるというその人と、政治を語る裏側に何があるのかと思って向谷地はずっと探索していくと彼の神様がいた。
(2024年11月25〜12月6日◆人生、待っていたのはに出て来た話)
神様からのテレパシーで送られてくる命令の内容が、何と一四種類あって、その中に、「新聞を読むな」「テレビを見るな」なんと「部屋から出るな」っていうテレパシーもあるんですね。ちゃんと神様のテレパシーを守ってるんですね。−中略−私はそれを聞いて言いました。「神様もいろいろいるけどあなたのその神様ひどいじゃないですか、その神様に苦情を申し立てたい」っていうふうに言いましたら、「Aさんはそれはやめてくれ」という事で、私は「ぜひ神様に嘆願書を出しませんか」とスタッフの人に言ったら、看護師さんはそれはいいねって言ってくれて、看護師さん達は見事な嘆願書を作ってくれました。それで署名欄まで作ってくれて、スタッフの方たちや入院患者さんの一部の方たちも含めて四〇人以上の人が署名してくれて、Aさんにそれを見せたんです。これを絶対神様に届けようねって言ったらものすごく喜んでくれました。
すると、不思議なことに、あっという間に縛りが一四から五つにまで減りました。私は五つの縛りの中身がちょっと気になりまして、−中略−「あんまり看護師さんの胸を見るな」なんて声がちゃんとあると言って大笑いしたことがあります。(225〜226頁)
これを向谷地は「狂気を共有すると狂気の方もこっち側を見ている」という。
これでアジア圏から注目する人がいる。
メールをいただき私はべてるのスタッフ、メンバーとアジアの最貧国のバングラディシュへの「家庭訪問」を決行しました。
檻の中で家畜同然のように暮らす女性と鎖につながれている女の子の家に家庭訪問をしました。−中略−五年ぶりに檻から出ていただきました。しかし、シラミのために髪の毛はバリカンで丸坊主にせざるを得ませんでした。庭に出た彼女は何かに怒ってまして、私は挨拶した途端に回し蹴りとパンチをくらいました。−中略−私は一緒に彼女と塀の外へ出ました。−中略−一緒にリキシャに乗ってですね、町を一緒に散策しました。(233〜234頁)
特に鎖につながれていた女の子は何かに恐怖していると思いました。−中略−次の日、地域の会館を借りて一緒に当事者研究をしました。彼女はかぼちゃのおばけに苦しんでいたことがわかりました。−中略−彼女にとって必要だったのはですね、一緒に苦労について対話できる仲間だったんですね。私たちはこれからもアジアの精神保健福祉の現状を変えるためにアクションを続けたいと思っています。(234頁)
(番組では話を混ぜてしまっているが、向谷地氏に暴力をふるった人とかぼちゃのおばけに悩まされている人とは異なる)
この向谷地が語る狂気への向き合い方、これを知れば知るほどこの人は本当に偉大な人だと思うし、精神障害の人達のことも知れば知るほど狂気というものが格別の障害になるとは思えなくなる。
政治、宗教、思想、恋愛、芸能、そういうものにみんな狂気の片鱗がある。
それでちょっと面白いことを考えた。
武田先生の中にもそれ(狂気)はあるなと考えて、「心身症」とか呼ばれるヤツの人の本を読んでいたら、武田先生はピッタリ。
それはまた別に話す。
つまり精神にある「バイアス」「歪みとか傾きを持つ」というのは意外と人間、あるのではなかろうかと思った次第。
来週だが、もの凄く大きい問題に突入していく。




