(番組冒頭は文化放送「浜祭」でのグッズ販売の宣伝)
さて本題だが、まな板の上は「倍音」が乗っている。
(著者は)中村明一さん、春秋社から出ている、ズバリ「倍音」という本。
発想は「声」を「音」という段階から考えようという。
歌謡、芸能の世界から入っていって、ゆっくりとお喋りの世界、それを辿りながらというところが武田先生にはたまらなく面白かった。
ここから声の方で「音」というのを見ていたいと思う。
政治の世界でいかんなく発揮したのが、田中角栄元首相でした。(59頁)
彼の演説の巧みさは群を抜いていた。
確かに本当にそうで武田先生も聞いたことがあるが、長岡の駅前で遊説を始める。
その時の第一声。
「ばあちゃん!」
その言い方が、何となく愛嬌がある。
喋りというのは不思議。
テレビ番組のインタビューに際して「……私は…シャケが好きでしてねえ…」と濁らせた声で、つまり[非整数次倍音]たっぷりで答えていたことが−中略−[非整数次倍音]を聞かされた私たちは、妙に親近感がわき、身近にいる人、という感覚が生じて、彼のことを好きになってしまったのです。(60頁)
(番組では政治家のパーティーの席での発言というような説明をしているが、本によるとテレビ番組のインタビュー)
この方が文春報道等々によってロッキード事件の親玉ということで「越後の悪代官」のイメージで見られた時だが、そこで大パーティーが行われた。
ゲストで呼ばれたのだろう。
それで挨拶をするのだが、その第一声が「ワタクシが田中角栄であります」。
これだけ。
「ワタクシが田中角栄であります」
会場大爆笑。
「ロッキード事件に関して何か言うのではないか?」という期待の真ん中で「ワタクシが田中角栄であります」という。
それが皆さんにはユーモアと余裕に見える。
大爆笑。
コロッケの「こんばんは、森進一です」。
これで爆笑を取るのと同じ。
どんな本音が聞けるかと思ったら何のことはない、ただの名乗りだった、自己紹介だったというところがおかしい。
このへんが[非整数次倍音]。
非整数の声、波の声ではない。
ノイジーな、そういう波音で声を聞かせると人気者が出てくる。
田中角栄の対極を置く。
田中角栄さんの対極にいる声を音にした持ち主は誰か?
小泉純一郎氏の場合、田中角栄氏とは違って、[非整数次倍音]を前面に出した声で演説をしていました。−中略−「自民党をぶっ壊す!」「感動した!」というように、発言の強さはありました。内容、言い方は強かったのです。しかし、声は[非整数次倍音]の豊かな声でした。少し濁って、ザラザラ・カサカサしていたのです。この倍音はダイレクトに心に響いてきます。(61頁)
(番組では田中角栄氏が[非整数次倍音]で小泉純一郎氏が〈整数次倍音〉という説明をしているが、本によると角栄氏は両方を使いこなしているが〈整数次倍音〉が強く出ていて、小泉氏は[非整数次倍音]だった)
これは本人の口調ではなくモノマネ芸人の小泉純一郎さんのマネをなさっていた、そのマネの中にこんなヤツがあった。
大観衆が彼を待っている。
そこに小泉純一郎のモノマネの人が出てくるのだが、もう出て来た瞬間から小泉純一郎になりきっている。
会場を静かに見渡して「何の集まりかは知りませんが、おめでとう」という。
さあ、では芸能ではどうか?
まず、タモリです。彼は〈整数次倍音〉が非常に強い声の人です。−中略−タモリは、どちらかというと若い芸人やタレントとよくからみ、友だち付き合いをしているように、同レベルで親しみやすい内容の話をします。こうして親しみやすさの意思表示をしながら、〈整数次倍音〉の強い声で、どこか上のほうから、どこか遠くのほうから見ている人、というポジションを獲得しているのです。(63頁)
次にビートたけしを見てみましょう。−中略−話している内容は、きわめて毒のある、一見世をすねた、斜に構えた発言をしているのですが、声質が[非整数次倍音]を多くふくむ、カサカサしたものです。−中略−それゆえ、ひどい嫌みを言ってもそれが嫌みに聞こえない、ということが起こるのです。(63〜64頁)
さんまさんもそう。
[非整数次倍音]
これが単独の芸人さん。
ここから漫才コンビに入る。
ボケとツッコミ。
吉本の漫才の元型は「やすきよ」。
ツッコミの西川きよしは[非整数次倍音]、ボケの横山やすしは〈整数次倍音〉でした。これはむしろ、役割からすると逆のように思えます。−中略−これ以降、売れているコンビにはこのパターンが多くなっていきます。(65頁)
「ダウンタウン」も、元々、この形でした。ツッコミの浜田雅功は[非整数次倍音]の持ち主(66頁)
こんなふうにしてお笑いにもボケとツッコミの領域、エリアがあって、これを取り換えてはいけない。
ボケた人がボケたままツッコむと大変な炎上騒ぎになるという。
敢えて触れないが、あの8月、9月の番組を見るとおわかりでしょう。
オリンピックのメダル選手を迎えての司会は浜田さんと上田さんだった。
それがボケ・ツッコミのバランスの面白いところ。
「なるほど」と思うが[非整数次倍音]と言うが「ノイジーな声」。
だがノイジーな声というのはパッと引き付けるという、そういう力があるんだよ、という。
〈整数次倍音〉これは魅力的だけども、力量を持っていないと人を聞かせることができないよ、という。
ジョン・レノン、ボブ・ディラン。
この二人は[非整数次倍音]。
そしてもうくどいが美空ひばり、北島三郎、この人達は整数と非整数を自由に行き来できる。
それが歌の上手さになっているという。
整数と非整数を揺らしながら歌が歌えるという。
彼の人の歌唱力の中には日本人の何かを揺さぶっている、私達がただ「歌」と思っているが、実は深いところを掴まれているのではないだろうか?
日本人ほど音の響きについて敏感な国民はいない。
例えば普段の暮らしからみてそうだが、世界中でそんなことをやっているのは日本人だけだろう。
象徴的なもののひとつが、美味しいスイカの選び方です。八百屋さんの軒先に並んだスイカを、おじさんがポンポンと叩いて「ほら、いい音がするだろう。こっちのスイカは甘いよ」と声をかけてくる。−中略−私たちは、叩いた時の音で、スイカの味を聴き分けていたのです。(75頁)
海外では、果物売り場でメロンをポンポン叩く光景など見たことがありません。(76頁)
少なくともハリウッド映画などには出てこないと思う水谷譲。
ムスターファとかが出てきて、西洋の長いスイカをこう叩いて「あ!熟れてる」とかと。
そんな人は見たことが無い。
「甘いかどうか」というのを音と手の感覚で確かめるというから、舌で味わうものを指先の感触とか耳で確認するというのは本当に変わっている。
叩いた音で中身を知る、という方法を、専門的に利用している場があります。缶詰工場です。−中略−打検士と呼ばれる検査士が缶詰を叩きます。叩いて返ってきた音で、その缶詰の状態を判断するのです。(76頁)
それからトンネルか何かもヒビ割れが入ってないかどうかをコンコンコンコン叩きながら「こことここが弱くなってる」とかと叩いた音の反響で異常を知るという。
日本人の耳というのは凄い。
凄いところに話が飛んでしまうが、日本人というのは潜水艦を作るのが上手。
何で上手かというとスクリューの磨き工程が上手。
潜水艦のスクリューを磨く人達がいて、この人達が磨くと海底で回しても音が全くしない。
それが技術で。
武田先生はやっとわかったが、潜水艦みたいなところに行くと初めて納得がいくのだが、原子力潜水艦というのは意外と使い物にならないらしくて、どこにいるか音で一発でわかる。
原子炉がずっと燃えている。
あれは海底の中ではすぐ聞こえる。
やはり物事というのは進み過ぎると厄介なところが出て来たりするんだな、と。
打検士の話に戻る。
どのくらいの速さで検査ができるかといえば、通常一分間に二〇〇〜三〇〇個。−中略−一日一人当たり一〇万個の検査をすることができる。(77頁)
こんな耳を持った人というのは非常に珍しいということ。
リラックスした時、世界の人々は柔らかいものの上に腰をおろす。
ソファーとか椅子とかというのがあるのだが、かつての日本人は柔らかいといっても座布団が精いっぱいで椅子みたいにひじ掛けとか背もたれが一切付いていないので、そうすると衣服というものの根本の思想が違って、例えばベルト。
帯は、洋服のベルトとはメカニズムが異なります。−中略−帯は骨盤の上に巻くので、同じようには、できません。帯を締めて着物が着崩れないようにするためには、腹を出し続けていなければならない。(82〜83頁)
これは武田先生もいろいろ考えた。
皆さんに何を説明しようかなと思ったが、相撲で言うところの蹲踞(そんきょ)の姿勢。
或いは優勝力士がトロフィーを抱えて笑顔で。
あの時はおなかがまわしの上に出ている。
あれが関係しているという。
武田先生は「なるほど」と思ったのだがあれは腹式の呼吸をする。
(本によると「密息」というもので「腹式」とは異なる)
おなかを帯の上に出す。
そのおなかを息を吸うたびに上下させない。
そうするとおなかを動かさず呼吸ができる。
これが日本人の発声なんかに関して凄く有利に働いているのではないだろうか?という。
水谷譲は感動していたが、北島三郎という人は「風雪ながれ旅」を歌う時、必ず袴を付ける。
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あの帯の結び目に北島三郎さんのおなかが乗っている。
だからあのいい声が出るのだという。
来週から水谷譲も帯でやるように。
政治家の声、等々を辿ってきたがいよいよ水谷譲のアナウンスの方にもいってみたいと。
平べったく言うと、水谷譲も音の職業だから。
日本語の持つ音色性、倍音は日常の中に息づいていて、我々はわずかな響きの違いを微妙に使い分けながら生きているという。
「傘の絵」、「傘の柄」と発音してみてください。「え」の音の違いが分かりましたか。−中略−「絵」の方が、倍音が強いことが分かります。私たちが同じ音だと思っていた「絵」と「柄」は、実は異なった音だったのです。(93頁)
「絵」の方は響かせるのだが、取っ手の方の「柄」は響かないように。
「純音」というのはそう。
かくのごとく意識しないでもちゃんと使い分けている。
だからこの筆者が言う通り「倍音」というのがいかに深く体の中に潜り込んでいるのはわかる。
同様に、「死」、「師」、「詩」について考えてみましょう。「死を悼む」、「師を敬う」、「詩を書く」と言ってみてください−中略−「死」は「sh」を強調しています。「師」はあまり強調していません。「詩」の場合は逆に「い」を強調しています。(93〜95頁)
僅かな響きの違いで、まあ日本語というのは大変だ。
これをやっているワケだから。
これを勉強する人は難しいと思う水谷譲。
同じ「し」でも全部響きを変えて相手に伝えようとするという。
この「響き」というところが日本語の特徴。
そして日本語の共通点だが筆者も面白いのを挙げてくる。
『怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか』−中略−の中で、さまざまな男性の心をくすぐるものの名前に濁点が付いている(ゴジラ・ガメラ・ガンダム)とか、売れる自動車にC音が多い(カローラ・クラウン・シーマ)ということをあげています。私の観点からすると、ガ行もC音も、いずれも[非整数次倍音]が強い音です。(96頁)
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「助けて」という重要な言葉であっても、英語では[非整数次倍音]を入れないで普通に「ヘルプ・ミー」と言えば、聞き手も「助けて」の意味として受け取ることができます。しかし日本語の場合、[非整数次倍音]を込めて声を濁らせないと「本当に重要である」という言葉通りの意味が認識されません。(37頁)
(日本語の)「助けて」は歌にならない。
一曲だけある「老人と子供のポルカ」というので左卜全(ひだりぼくぜん)という人が
おお 神様 神様 たすけてパパヤー
ズビスバー(左卜全とひまわりキティーズ「老人と子供のポルカ」)
「助けて」と言えば大ヒット曲。
「ヘルプ!(Help!)」
ビートルズ。
「ヘルプ」で成立する。
ところが「助けて」には歌唱・歌謡にはならない。
なぜならば「助けて」と叫ぶ時、表情が決定しているから。
その顔じゃないと「助けて」は言えないので、その顔で始められる歌は無い。
サビだけ急にそういう顔になるというのは無理。
悲惨な一語を楽しい顔で歌うことはできない。
それが日本語なのである。
映画やドラマでは、この響きだけでセリフを持つ俳優が数多くいた。
これが先週話しかけてやめたところ。
日本の映画の中にはセリフが非常に不明瞭なことを個性とする俳優さんがいた。
そのトップバッターが左卜全という方で。
それがもう一人、子供の頃に時代劇スターで大河内傳次郎という人がいる。
何を言っているのかわからない
セリフがはっきりしないのでよくモノマネをされる。
東野英治郎をはじめとする役者の話し方が、現在とは非常に違っていることに気が付きました。−中略−「にってんでぇ。んなこてってるけど、とめぇなんかくぅだろぅ」(何言ってるんでえ、そんなこと言ってるけど、てめえなんかこうだろう)。(109頁)
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映画で見るとわかる。
こういう言い方をした。
かくのごとく「セリフが不明瞭で、セリフが伝わる」という演技がかつての日本の映画界にはあったということ。
(この日の最初は冒頭部分から引き続いての「暗黒の木曜日」関連の話なので割愛)
ここから水谷譲の出番。
それに対して、現代の、−中略−テレビ・ラジオのアナウンサーなどは、非常に違ってきています。−中略−口を大きく開け、言葉をきっちり区切って話しています。しかし、口を大きく開けることにより、倍音の高い成分がなくなります。(110頁)
だから水谷譲なんかもぜひお考えになってください。
水谷譲は〈整数次倍音〉の習慣がある。
これを職業となさっているが、どこかで[非整数次倍音]、それを技として水谷譲も持たないと水谷譲の老後はない。
自分で訓練すれば持てるものなのか?と思う水谷譲。
これが本当に面白いことに日本の古典を練習すると水谷譲も上手くなる。
落語の口真似でもいい。
そしてもう一つ、[非整数次倍音]の練習で歌舞伎。
[非整数次倍音]のお手本、それは歌舞伎。
歌舞伎というのはセリフを明瞭に言うと全くつまらなくなる。
(明瞭に発音して)「知らざあ言って聞かせやしょう 浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の 種は尽きねえ七里ヶ浜」
これは非整数を目指す。
「わかんないとこはわかんなくていいんだ」と開き直って「知らざあ言って聞かせやしょう 浜の真砂と五右衛門が歌に残せし盗人の 種は尽きねえ七里ヶ浜」。
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そうすると歌舞伎の演技になる。
整数で喋っていると歌舞伎の芝居にならない。
それと落語が持っている「(不明瞭な発音の言葉)」というそういう非整数の喋り方。
そこが実は魅力なのである。
非整数を狙う。
それがいわゆる葛飾北斎が描いた波の絵になる。
アナウンサーの方は大波だけ届けようとするから。
西洋音楽では、音高と時間的位置という要素に、決定的に大きな優先度が置かれています。それに続いて、音量という要素、その後に音質(=倍音構造)、という優先順位です。(114頁)
日本人にとっては、「この音高で奏でる」ということよりも「この音質(倍音構造)で奏でる」ということの方がより重要だったのです。
一方、時間と音量の情報は、古い尺八の楽譜には、まったくありません。個人に任されているとも考えられますし(116頁)
たとえば、能などにおいては「イヨーッ」というかけ声とともに、間を計り、「ポン」と鼓を打つことがあります。−中略−
アメリカでワークショップをしたときに、お手本を示してからアメリカ人の受講生に「イヨーッ、ポン」をやってもらいました。すると、受講生たちは、「イヨー(ワン・ツー・スリー)ポン」とすこしかけ声を変えて、それに合わせて手を叩く「間」を変えると、彼らは「さっきは四拍目で叩いたのに、なぜ今度は二拍目の裏で叩くのだ」と、多くの人が疑問を口にしました。−中略−
ところが日本人の場合は、誰もそのような疑問を持ちません。私が日本で、一番多くの人と行った事例では、約二〇〇〇人に、「イヨーッ、ポン」と手を打ってもらったことがあります。これだけの人数でも、日本人ですと、一糸乱れず、見事に「ポン」が合います。しかも、カウントを取る人はいません。(141頁)
(番組の内容とは若干異なる)
武田先生も一回だけ体験したことがあるのだが、あるパーティーで「手締めでいこう」というので、外国の方がいらっしゃったので、「関東一本締め」で「ヨーオ、パン」でいこうと「一本だけだからできるだろう」というので少し説明して入ったがダメ。
バランバラン。
だからリズムではなくて「間」でポンと叩く。
何でこういう間の習慣が付いたかというと、この人は面白い。
こういう間の練習を小さい頃、我々はさんざんやったという。
たとえば、ジャンケンを考えてみてください。「じゃんけんぽん」と声に出してから、動作をし終えるまで、無意識のうちに相手との「間」をはかり、呼吸を合わせていることに気が付きませんか。(177頁)
(外国の人は)できない。
パックンマックンとかやらせるとダメ。
とにかくビッタリ合うという、この「間」というのは日本人はなんだかんだ言いながら、体の中に沁みついている。
そして、この作者は、このあたりを一番説明したかったのではないか?
この方は尺八奏者。
この「間」は時に能の拍子で
能の囃子に用いられる能管という笛(143頁)
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ここで重大なのは音階を静かに上がっていった音が、突然整数次から非整数次へ飛躍する。
能狂言でこんな音を聞いたことはないか?
「ピョー〜〜〜ピョォォォォ」
この笛が〈整数次倍音〉「ピロロ〜♪」とかと弾いていて、突然音がある間を挟んで[非整数次倍音]に「ピョ〜」と鳴ったりなんかするという。
これは舞台上のもちろん演出の為だが
大きな倍音の変化により、空間も歪みます。時間も空間も異様に歪んた状況において、現実世界とは遠い異界への扉が開いていきます。(144頁)
この[非整数次倍音]へ飛んだその間の後から死者、或いは霊が登場するという、そういう展開のきっかけに[非整数次倍音]があるということ。
もともと、倍音が強い音というのは、火山の爆発、地鳴り、台風など、人間にとって異様な状況の時に現れる音でした。倍音が強くなると、脳はさまざまな反応をし、脳の状態が通常とは異なった段階に上がります。(144頁)
そういうので整数から非整数次へ飛ぶ音に関しては過敏になったのではないだろうかという。
これは面白い。
これはあくまでも筆者の感じたことだと思うが、この手のことが国際的に日本の文化の中から外へ流れ出したんじゃないか?
ジョン・レノンなんかにもあるが、やたら非整数を使う。
東洋の文化の影響かどうかわからないが、ジョン・レノンは異様な音が好き。
だから初期の作品だがハウリングから始まる、そういう音楽があった。
「アイ・フィール・ファイン(I Feel Fine)」なんかがそう。
(本放送ではここで「アイ・フィール・ファイン」が流れる)
つまり、非整数次、ノイジーに聞こえるものの中に音楽性を見つけるという。
そうやって考えるとビートルズ、特にジョン・レノンはもの凄く東洋の影響を受けている。
「スターティング・オーヴァー (Just Like) Starting Over)」だったかソロアルバムでも仏壇のチーン!と叩くような音から始まったり。
仏壇っぽい。
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あの人は日本人のノイジーが好き。
「世界は女の奴隷か」で何か誰かから聞いたがクールファイブを聞いて感動したという。
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(「世界は女の奴隷か」ではなく「女は世界の奴隷か!」。意味が逆になってしまう)
あんなしつこいサックスの音を好きなのは日本人だけ。
「ああああ〜長崎〜は〜♪」で「ブブブブ〜♪」というのはノイジー。
ノイズい近い。
だが「ノイズの中に何かある」というイメージを。
尺八もやはりノイジーで、最初から整数が出しにくい。
人間は、物質とエネルギーを取り込んで成長し続ける有機体というモデルとして、考えることができます。(173〜174頁)
食事がそうで、そして人間は人間とコミュニケーションすることで人間を成長させる。
〈整数次倍音〉、或いは[非整数次倍音]、そういう声を持った人に関して人間というのは情緒豊かに育てることができるんだ、と。
本当はこれからもう一ネタあるのだが、もうネタがあり過ぎて、これを語るにはもう一週必要なので、今回はこれでやめておく。
チャンスがあったらこの続きをやりたいと思う。
それで実は何でこんなに「声」を「音」ということで皆さんに語ってみたかったかというと、一つ、武田先生の胸のうちにあることで、それがこの本の著者とビッタし考えが同じだった。
武田先生としては、それが凄くうれしかった。
この中村明一さんが「音の中に脳にまで沁み込んで脳を非常に癒す力が音にあるのではないだろうか?」こうおっしゃっている。
声として発するときには、〈整数次倍音〉の方が、−中略−エネルギーが少なくて済むので、超高音波と呼ばれる領域の高次倍音まで出すことが可能です。−中略−この領域の超高周波を聞くと、α波をはじめ、脳内で快感となる物質、抗ストレス・ホルモン、免疫機能向上ホルモンを出すことが分かっています。すると気持ちが良くなり、癒され、リラックスし、精神が安定し、−中略−免疫機能が向上するといった働きが起こる。(36頁)
この音の解釈は凄い。
美空ひばりや北島三郎さん、或いは三波春夫という人達の歌声、それが戦後の日本の中でなぜ誕生したかというと、日本人の大脳に沁み込んで彼らを励ます強いエネルギーになり得たのではないだろうか?
そう思うと、ただ単に歌謡史の問題ではなくて、これは精神まで沁み込んできた「声」ではなく「音」ではないだろうか。
そうやって考えると素敵なオチ。
「楽」という字を書いてください。
「音を聞いて楽しい」これが「音楽」。
そして音楽の「楽」に「くさかんむり(艹)」をかぶせると「薬」。
このオチを考えた(武田先生が)武田先生を好きになった。
というワケでうぬぼれ一杯だが、まだ落ちはついていないので、どこかのチャンスでこの「倍音」のパート3をやりたいと思う。









