「悪について考えよう」という今週だが、時代そのものが「悪の時代」なのではなかろうかということ。
これは製作にもいろんな意図があるだろうが、例えば配信動画の中では武田先生も見たが「サンクチュアリ」「地面師(たち)」「極悪女王」「ゴールデンカムイ」など。
暴力、殺人、詐欺。
それが物語の大きな流れになっているという。
悪をどう描くかが今、とても大事で。
正義の味方と同量、悪も描かないと物語が成立しない。
出てくる人がいい人、悪い人、というのは非常にわかりにくい時代になってきたのではないだろうか?
それ故に少年ヒーローの徳目「友情」「努力」「勝利」、これを読み間違えて闇バイトに走っているのではないだろうか?という。
さてマンガ家、「ジョジョの奇妙な冒険」の作家である大変な売れっ子さん、荒木さんはマンガ作家として悪について実に細かく細部からつくりこんでおられる。
先週もお話した通り、この方は悪というものを徹底的に調べた。
それでその上に悪役を作る時はその名前から服装、表情、そして悪へ傾斜していった動機等々悪の手口から悪の喜びまで、これが構成されないとストーリーが動いていかないそうだ。
配信動画の方へ目を転じる。
「ゴールデンカムイ」「サンクチュアリ」「極悪女王」「地面師たち」等々がある。
これは全て悪の物語。
日本の悪役というのは伝統芸。
だから伝統芸の要素というものを演技の中で表現しなければならない。
例えば武田先生達が子供の時に見たのは時代劇スターが主役で中村錦ちゃん(中村錦之介)とか 勝新太郎「座頭市」とか、そういう時代劇のヒーローが立つと、出てきただけで悪役とわかるという。
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「水戸黄門」がそう。
水戸黄門で一番求められるのは悪役がちゃんと悪役らしく演じるからわかりやすい。
迷うことはない。
ちょっとこの悪役の伝統というものに触れてみる。
ラスボス、一番偉いボス、或いはお代官様。
これは無表情であること。
そして笑う、怒る、叫ぶはなるべく突然に。
歩く歩幅は大きくしかもゆったりと。
他者を見る時は真っすぐ見下す。
やや上から目線で「そちが・・・」とか言ったりなんかすると「あ、この人は悪い人だ」。
日本人は非常に敏感に「あ、この人、悪だ」と。
「上で待てばよいのか、下で待てばよいのか作法をお教えください」「そのようなこともわからんのか。田舎大名。フナじゃフナじゃフナ侍じゃ」
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こういう演技。
そうするとみんな怒るという。
ラスボスの下の方の子分はどうするかというと、これは姿勢は半身。
半身というのはちょっと足を前後させて腰を低く。
それで斜に構える。
正対しない。
肩なら肩だけを向けて斜に構える。
表情はなるべく左右対称にしない。
「へっへっへっ。冗談じゃないてんだよ」とか何か言いながら。
表情は歪ませる。
笑い声は鼻で笑う。
アゴを引き上目遣いを基本とし、喜怒哀楽の表情は混ぜて。
目は怒りの表情ながら口元は笑っている。
「なんだと?」
こういう(演技の仕方をする)。
上手い(自画自賛)。
こうすると悪党に見えるという。
この法則は面白い。
基本形だと思う水谷譲。
これは自分で悪役をやると本当に伝統芸は身に沁みてわかる。
武田先生の悪役は「白夜行」だと思う水谷譲。
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あれでこういうことを次々と思いついた。
刑事なのに悪役。
殺人犯を追っているので刑事で正義の味方なのだが、表情は悪役。
だから顔を左右対称にせずに片一方が笑っているような頬の上げ方をして、片一方は下がっているという。
こういうことをすると悪役に見える。
憎々しい刑事だったと思う水谷譲。
こんなふうにして悪というのは作法に則ってやるワケだが、昨今はちょっと冷たい言い方をするが、最近の配信動画を見ると皆さん、悪の作法を知らずにキャメラ割りに頼っておられる。
それが意味の無い目のアップ。
何であんなに多用するのか?
バーン!と目のアップに寄る。
ツーショットを映しておいたかなと思ったら悪党が何か思いついたら目のアップ。
でも本当のことを言ったら俳優さんが悪を演じないとダメ。
そのへん頑張ってください、若い方。
こういう「悪のお芝居」というのは長い映画の伝統の中で磨かれた伝統芸、作法。
配信動画の中の悪というのは、いささかハリウッド映画の影響を受けている。
俳優さんの芝居を見ていると「この人はアメリカ映画見過ぎだな」と思うのがある。
悪役の演じ方とかそういうのを語り始めると、水谷譲がだんだんノってきた。
その手の話になると面白いという。
何に関しても言えることだが、皆さんがご覧になっている時代劇の「SHOGUN 将軍」、それから大河ドラマ「べらぼう」。
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あのあたり、若い方あたりが時代劇の作法をはずしておられる。
それは武田先生は昭和を生きてきたからいろんな悪役の人とすれ違った。
彼らには演じるにあたっての作法があるのだが、昨今の方は作法が無い。
そんなことを感じる。
ハリウッドの映画を受けた時代劇に於ける芝居というのは、やたら相手に向かって話す。
大河ドラマもズバリ言うが、セリフを言う時に目と目を合わせ過ぎ。
セリフを相手役に渡そうという芝居が芝居だと思っておられる。
そうじゃない。
芝居に於けるセリフというのは相手に渡すのではなくて観客に渡さなければいけない。
その典型が歌舞伎。
歌舞伎というのは正面を向いてセリフを言うのだが、観客にセリフを渡す。
悪党は悪党の芝居を、正義の味方は正義の味方のお芝居をやる。
作法が全部決まっている。
何かその違いがあって。
大変になるとだんだん声が大きくなっていって話す。
それはない。
話が深くなると声を低くしていくのが時代劇の伝統。
叫ぶことは殆どない。
それから相手とは目を合わせない。
水谷譲と武田先生は目を合わせているが、それは仕事の関係で合わせているだけであって、お互いに何の感情もない。
ちょっと雑駁な言い方になったが。
ラブシーンを見ていて思うが、最近の恋愛ドラマは見つめすぎ。
相手を見つめることが愛の証だと思うせいか。
見つめるなんてちょっと照れくさくてできないと思う水谷譲。
普通はそう。
プロポーズの時だって日本人は相手を見つめない。
違う方向を見ながら「俺はアンタのことを思うと夜、眠れないんだ」と言う。
見つめて言えない。
悪役同士が向かい合って悪事の相談をしている。
日本の時代劇では悪代官と越後屋がヒソヒソと語り合うというあのシーン。
悪の相談をする時に正対している。
この時に悪の順位が分かるという。
ボスの方は必ず床の間を背にしているとか。
この時に一番声を低くする。
「(小声で)主水之介をどう始末するかじゃ」とか何か言ったりするともの凄く納得できる。
それでいよいよ主水之介が現れてコイツを殺す場面になると、もう悪いヤツは見つめ合わない。
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ところが最近、悪い人を描く時、ミーティングをやる。
何の作品というのは不味いから言わない方がいいか。
悪者たちがミーティングをしているのはドラマで見た水谷譲。
丸いテーブルを囲んでやる。
悪いヤツが円卓のテーブルに並んで悪事を相談する。
これが何だか武田先生には違和感。
これは悪の描き方が個人ではない。
集団化されたグループゲームになっているので、友情と同様に悪も円卓のテーブルで円陣を組んで語り合うという。
つまり悪にもチームワークが必要という。
今でいう悪というのはチーム。
役割分担があって。
部屋の外で見張るヤツと、部屋まで運ぶヤツと、そういう段取りと役割分担がこまやかに決まった「悪のチームプレイ」というのが今のこの悪のやり方になってしまったという。
これはまさしく悪に於ける「友情」「努力」「勝利」。
こういうもので支配されているグループの結束なのである、と。
これが政治の中にも反映されて。
「友情」「努力」「勝利」
これが国際政治の中でもジャンプふうになってしまって、皆さん真似しておられる。
プーチン、習近平、ネタニヤフ。
皆さん全員グループでミーティングをやりながら「少年ジャンプ」の結束、「友情」「努力」「勝利」を目指しておられるという。
ちょっと意外なところに行くかもしれないが、この意外なまま突っ走ろうと思う。
2000年代に入ってから世の中の流れが変わった。
かつて武田先生達が少年だった時の少年ヒーローの徳目、彼らの特徴は「勇気」「正直」「親切」。
これが少年マガジン時代。
それが2000年代あたりから変わって少年ヒーローの徳目、そのキャラクターはというと「友情」「努力」「勝利」。
この「少年ジャンプ」の影響が国際政治にも反映して、皆さんジャンプ的になってしまった。
トランプ、プーチン、習近平、金正恩、ネタニヤフまで風貌はラスボス的。
ラスボスという顔をしている。
トランプさんはピッタリ。
彼らにとって外交というのははっきり敵を想定して激しく憎むこと。
みんなそう。
「激しく敵を憎む」という。
これが一番必要とするのは何かというと「友情」。
つまり徒党を組みたがる。
例えばイスラエルは「アメリカの後ろ盾があって」とか、みんな連携してやりたがる。
プーチンさんなんか全然仲良くなかった北朝鮮の将軍様と仲良く手を組んだりなんかして。
やはり「友情」。
「僕達頑張ろうね」
戦線にそこの兵隊さん達がいって加勢しているワケだから。
目指すのはたった一つ。
彼らが目指しているのは何か?
これはトランプさんもプーチンさんも習近平さんも正恩さんもネタニヤフさんもみんな同じ。
「勝利」を目指している。
ジャンプ的。
かつての時代、「少年マガジン」の頃はというとその頃の政治家はジョン・F・ケネディ。
この人はどう考えても「勇気」「正直」「親切」の人だった。
この人の演説はかっこいい。
「次の何年までに我々は人類を月に送り込もう。そして最も深い海まで潜ろう」
彼の呼びかけというのは勇気に溢れ正直で親切だった。
だから公民権もやはり認めた。
「黒人の人には権利があるんだ」という勇気。
それ故にああいう悲劇が。
本当にこのジョン・F・ケネディとかというのは少年マガジン的ヒーローだった。
でも「勇気」「正直」「親切」を言う政治家が今もいらっしゃる。
日本の石破さん。
この方は「少年マガジン」。
「勇気をもって野党の方、語り合っていこうと思うんです」「楽しい日本にしましょう」
やはり石破さんは「少年マガジン」。
一番胸がときめくのは迫力が悪役的。
山本太郎さんを睨む顔なんていうのは。
もう目が白くなると思う水谷譲。
もう素晴らしいと武田先生は喝采を送った。
だからこれからやはり石破さんが持っている「マガジン的」に期待しましょう、皆さん。
どこかで思い切ってくださると思う。
武田先生は可能性として菅(義偉)さんなんか凄いと思った。
菅さんは何を考えているかわからない。
(菅氏の顔立ちは)ラスボスの後ろにいる人。
更に後ろ。
ラスボスがいて、その後ろにいる。
スター・ウォーズで言うとヨーダ。
あのキャラ。
だから武田先生は菅さんは好き。
そうやって考えると、そういう意味では日本の政治家は面白い。
武田さんは面白いことを言う(自画自賛)。
日本という国は歴史と文化に於いて悪には緩い文化圏である、と。
キリスト教圏や儒教圏とは違う。
「元気」「躍動感」、これを「悪」と呼んでいる。
日本の文化そのものが悪を否定したことがない。
能、或いは狂言には悪太郎という登場人物がいて、悪さばかりするのだが、室町時代には「元気があってよろしい」という。
そして地方に芽生えた政治勢力。
これを鎌倉時代には「悪党」と呼んだ。
この悪党の中には楠木正成がいるし足利・新田義貞等々も「悪党」と名乗る地域、エリアの勢力だった。
やがて室町が終わって、ついに戦国時代がやってくると、悪というのは新しい日本を創造するエネルギーでもあった。
ここが中国の方の政治・歴史とは違う。
日本は悪を尊んだ。
その代表が信長。
それはもの凄い革命家。
信長なんていうのは、中国はもう絶対認めない。
中国史というものは易姓革命・華夷秩序、これは常識。
ところが日本はこの常識を一回も認めたことがないという。
日本というのは大変な国。
中国はあんな大国なのに全然真似をしようとしないのだから。
戦国時代、信長の家来でどこから湧いて出てきたかわからないような秀吉が次の天下を取る。
それは考えればもの凄い国。
日本は悪を否定しない。
日本の伝統としては「悪を成す人間」というのを排除しようとしない。
その人の持っているエネルギーを高く評価するという。
ただ一つ条件がある。
これが日本の面白いところ。
うわーっと元気で景気のいいヤツは好きだ、という。
明の時代に日本を訪れた中国の人がいた。
倭寇という盗賊がいて、中国の沿岸で悪さばっかりする。
それで頭にきた人が日本を訪ねてきて、九州のある町にやってきて日本人を観察する。
日本にやってきて彼が驚く。
それは何を驚いたかというと日本刀を振り回して暴れたりするのだが、秩序がある。
それでその明の人が「狂暴なれども秩序あり」という。
下剋上といって上下関係を無視して下が上を殺したりなんかする。
ところが面白いことに裏切りやだまし討ちをするともの凄く嫌う。
変。
「誰を殺してもいい」という戦国時代でありながら、光秀が信長を討ってしまうと「卑怯だ」と言う。
だまし討ちを嫌う。
そのくせ正々堂々だったら首を切ろうが何をしようがオールOK。
「堂々としているから」という。
このあたりが日本の歴史・文化というのが中国や朝鮮半島の国々と違う道を歩き出す。
これは恐らく鎌倉という侍の世の中、ここらあたりから日本は独特の文化圏になるのだが、この時に宗教に悩むという時代が鎌倉時代にあった。
仏とは何か?という。
その中で親鸞という人がいた。
この人は変わっている。
この人は宗教家、お坊さん。
この人は浄土真宗という宗教を興すのだが、テーマが何か?
悪。
悪について考えた人。
それで凄いことを教義にする。
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善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや(歎異抄)
「善人?もちろん極楽いけますよ。悪人?行けるに決まってるじゃないですか」
そして「人間はどんないいことをすれば極楽に行けるんですか?」と言ったら「何言ってるんですか!我々人間は」と親鸞が言った言葉は
地獄は一定すみかぞかし(歎異抄)
「オマエの行く先は地獄に決まってるじゃないか」
上手い言い方ではないが「地獄が決定」「所属する場所だ」と、こう親鸞は言う。
しかも凄い。
親鸞は言う。
「たとえば人を千人殺してんや、しからば往生は一定すべし」(歎異抄)
「どうしても極楽に行きたかったら人を千人殺せ。そうしたら往生できる」
久遠劫より今まで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生まれざる安養の浄土は恋しからず候こと(歎異抄)
意味を言う。
「久遠劫よりすてがたく」
「嫌な嫌な世間でございます。嫌なことばかりある。ところがいざ死ぬ段になると何だか死にたくないんだなぁ。死ねば極楽が待っているのに」
「安養の浄土は恋しからず候」
「ちっとも極楽が恋しくない」
人間と言うものは
「さるべき業縁のもよおせば、いかなる振る舞いもすべし」(歎異抄)
「業(ごう)が心に立ち起こればケダモノのようなことをするんですよ、人間は。そんなもんなんです人間は。だからこそ仏教があるんです。阿弥陀様という方がおられて、あなたが悪に染まりやすいから、いつでも救ってあげるって彼は言ってるんですよ。それを信じましょうよ」
彼は悪から救済を見つめた人。
善から救済を考えるという手順、そこにもの凄い困難を感じた。
「いや、悪の方が優先的に救われるからこそ、そこに仏の力があるのではないだろうか」という。
だから親鸞の浄土真宗の教えというのは、読み間違えるとすると「少年ジャンプ」になってしまう。
闇バイトの危険さ、これを悪の自覚なく悪をバイト仕事として引き受ける。
そして金銭を得る。
それを成功と呼ぶ無知。
そこに欠けているものは何か?
盗みをする仲間に友情を感じ、共犯という悪の結び目を絆とするオマエ達の人間としての狭さ、ラスボス・実行犯・見張り・逃走係、そんなの悪で結び付く。
そして暴力を犯し窃盗をやる。
そんなことを努力し勝利と読み間違えている、という。
でも、これはとっても危険なことだが、これはあり得る。
何があり得るかというと「昔ヤンキーだったんだけど、今は凄い良いパパ」とか。
よくあると思う水谷譲。
親鸞が怒っているのはここ。
「その人の語り口の中の言葉の中に『昔ワルだったから今、いい人になった』という、甘えがあるんじゃ無ぇの?」
これを親鸞はめっちゃ怒っている。
つまり「悪くなったら次はいい人になれる」というような人生の読み間違いが、闇バイトが無くならない一因になっているのではなかろうか?という、実に複雑な。
「闇バイト」から浄土真宗・親鸞「歎異抄」に来たワケだが今日は締め括りたい。
昨日言った「若気の至りで悪さをしておいて、成人になると立派な人になる」という。
それが何だかまるで一つのストーリーのように言う人がいる。
じゃあ最初から真面目な人はどうなのか?
そこにあんまり物語を感じない。
昔悪かった子が今はいい、立派な大人になったということが、面白味があるワケだから。
そのことをしきりに言う人がいるのだが、武田先生は闇バイトの中にこの論法が生きているような。
つまり「若ぇ時、悪さをやってもいいんだ。大人になってからマトモになりゃそれで取り返せる」という。
この中のストーリーは何かというと「善に気づく為に一度悪に身を染めてみせる。それを機に悪から真逆の善の方角を見つけ出すんだ」という。
この生き方が「闇バイト」というのをバイト感覚にしているのではなかろうか。
こんなことはとっくに親鸞が叱っている。
これは「歎異抄」の一条に書いてある
弥陀の本願には老少善悪の人をえらばず、ただ信心を要とすと知るべし。 (歎異抄)
「若かろうがそんなことで阿弥陀様に救われる救われないが決まるワケじゃない。ただただ信じるか否かだ。若気の至りで多少の悪さをしてもいいというのは弥陀を信じていないからだ」
弥陀を試している。
「一回悪に染まろう」なんていうのは、試すというのは、もう根性が間違っている。
「弥陀の信心」とは何かというと、
罪悪深重・煩悩熾盛の衆生を助けんがための願にてまします。(歎異抄)
「どんなに悪い人でも救ってやろうと決心なさった。その人の前でオマエは悪党のふりをするのか?」という。
悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきがゆえに(歎異抄)
「阿弥陀様はただただ我等を救わんがために永久の誓いとして『人類を救済せねば』とそう宣言なさった。その宣言を信じるんだ。どんな悪を成したものでも必ず救おうと決心なさった。その決心をオマエは試すのか?」
親鸞は人間に絶望していると言える。
人間というのはとんでもない悪いことをする。
もう今の世の中を見てください。
悪いことばっかりするヤツがいっぱいいる。
でも
善き心のおこるも宿善のもよおすゆえなり。悪事の思われせらるるも悪業の計らうゆえなり。(歎異抄)
「運命によって善も悪も決定してしまう。運命がほんの僅か曲がっただけで人間はとんでもない罪を犯してしまう」
わが心の善くて殺さぬにはあらず、また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」(歎異抄)
「『人なんか傷つけちゃいけない』と思いながらも運命の喰い違いで思わず人を殺めてしまうこと、それも百人も千人も殺めてしまうことだって人生にはあるんだ。悪なんてコントロールできないんだ。それが人間なんですよ」という。
心の善きをば善しと思い、悪しきことをば悪しと思いて、願の不思議にて助けたまうということを知らざることを(歎異抄)
「心が『よいことをしたぞ』『悪いことをしたぞ』、考えてしまうが、それを全部忘れて善悪を超えて救ってくださる。そこに阿弥陀仏のありがたさがあるんだよ。悪を重さに換算して『未成年だから』『少年法が守ってくれるから』、そんな計算をする薄汚い悪がどこにあるんだ」
そして一番最後に彼がおっしゃっているのは
わざと好みて悪をつくりて、「往生の業とすべき」由を言いて、ようように悪し様なることの聞こえ候いしとき(歎異抄)
「わざと悪をつくって、それを往生のきっかけにしよう。それはね
「薬あればとて毒を好むべからず」(歎異抄)
薬があるからといって毒を喰うような真似をするのか?お前は。それは毒で薬を試すことだ。薬を信じるなら毒を試すな」
もちろんここに親鸞の矛盾がある。
矛盾があるからこそ親鸞は惹き付けられる。
一番最後に親鸞はこんなことを言っている。
「海河に網をひき釣りをして世を渡る者も、野山に獣を狩り鳥をとりて命をつぐ輩も、商いをもし田畠を作りて過ぐる人も、ただ同じことなり」と。(歎異抄)
「漁師の人、お百姓さん、商売やってる人、鳥・獣を殺して生きていく糧になさっている方、そんなふうにしてみんなは業(ごう)の中で自分の業の苦しさを感じつつ生きている。そういう人は私の友達なんです」という。
いい。
親鸞は一度ひっかかるとずっと考え続ける。
まあとにかく「闇バイト」から「親鸞」まできたということで納得していただければという。
ワケがわからない回になったかも知れないが、また来週は別のネタでご機嫌伺いたいと思う。








