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2026年04月04日

2025年11月3〜14日◆日本語再定義(前編)

ちょっと難しい六文字が並んでいるが「日本語再定義」。

日本語再定義


日本語、それをもう一回定義し直そう、と。
これは最近読んだ本の中で、ごめんなさいね、著者の方。
難度が高い。
書いてらっしゃる方がテレビで時々見かける異国の娘さん。
ドイツ・キール出身。
ヨーロッパの方で、マライ・メントラインさん。
2008年より日本在住。
ドイツらしく硬めの方で、おチャラけないという。
この方が翻訳とか書評とかエッセーもなさる頭のいいドイツの方で、物腰が実に柔らかなのだが、この方の日本の見方というのが非常に知的なインテリジェンス溢れる日本の見方で。
「アニメが好き」とか「日本文化ステキ」とかインバウンドの方が玄関先でおっしゃるようなご機嫌取りのご挨拶一切なしで。
この方が「日本人が使っている言葉って定義できない」という。
この方の理屈は何かと言うと、日本語の一語一語を取り上げつつ、カント、ニーチェ、ヘーゲル。
そういうドイツの哲学者がドイツ哲学で日本の一言を「腑分けする」というか「解剖する」というような。
そんなタッチで。
これは、非常に分かりにくくて唸るのだが「なるほど、ドイツの人はここにそういう不思議を感じるんだ」という。

まずはマライさんの現代用語に対する観察眼の透徹した論理の鋭さ。
「透徹した」たなんていう、難しい。
透徹した論理の鋭さを体験していただきたい。
まず「まえがき」でマライさんはこんなことをおっしゃっている。
これはちょっと意味深でわかり難いかも知れないが、でも噛みしめましょうね。
ドイツの方からの指摘。

その言葉の真意を定義することなく使いこなしてしまう瞬間の多さというものがある。−中略−そこで展開されるコミュニケーション上の蓋然性という面ではさしたる問題がないという点だ。つまり、実は「理解」ではなく誤解どうしが上手く噛み合っているだけなのかもしれない。(7頁)

なぜそんなことが日本語では可能なのだろうか?
ところが彼女曰く、「理解ではなく誤解しあったまんま理解し合う」という日本語独特の言葉遣いがある。
(番組では「日本語独特の」ということで説明しているが、本には「母国語にしろそうでないにしろ」とある)
日本語の本性については実に外国人にわかり難く、日本語の言葉の奥にもう一つ日本人だけがこっそり開ける「開かずの間」があるという。
それが日本語という言葉で。
でも水谷譲がいうとおり、具体例から入った方がいい。
多分、自分も知らず知らずにそういう誤解の言葉を使い合っているのではないかと思う水谷譲。
もう用例を出す。

「外タレ」とは「外国人タレント」の略称であるが(12頁)

 私が初めて外タレという概念的実在を目にしたのは、−中略−「ここがヘンだよ日本人」というテレビ番組だった。(13頁)

 九〇年代末期、姫路に留学する高校生として「ここがヘンだよ日本人」をホストファミリーと一緒に見ながら、私は「これがいまどき日本で成功するということなのか?(14頁)

この外国人タレントの「外タレ」という意味も時代と共に変遷している。
だからこのマライさんがおっしゃるのはいわゆるタレントとして成功している。
一番の外タレの成功者はデーブ・スペクターさん。

たとえば「お雇い外国人」になる。文明開化の音がする。(14頁)

西洋から文明を取り入れる為に日本人はもの凄い高額のお金を出して、西洋の学者さんを日本に招聘する。
あの人もそう。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)。
あの人は英語教師で松江に来た。
それからナウマンゾウの発見者であるドイツ人地質学者。
(エドムント)ナウマンさん。
ああいう人達も高額で雇われた外国人教師。
つまり「お雇い外国人」という「外国人タレント」だった。
まあ野球では「助っ人」という外国人タレントがいたりするのだが。
彼等は初期の方は目の飛び出るほど高額で雇われたのだが、日本の突出した個性で「知識が足りない時はお金を出して先生に来てもらう」という。
これは珍しい。
これは非常に尖った言葉になって申し訳ないが、お金を出してまで外国の方を教師として招きたがるというのは日本人ぐらい。
そういう外国の知識が欲しい時は、他の外国の人はどうしたか?
自分が外国に行くとかではないかと思う水谷譲。
日本の場合、遣唐使とか遣隋使がいるが。
異国の知識を知りたい場合、外国の人はどうしたかというと、さらってくる。
日本人は平安の頃から、お坊さんに来てもらうために船まで用意して高額のお金を、という。

マライ・メントラインさん。
テレビなんかでコメントをおっしゃっているのも慎重で。
それからむやみにウケようとなさらないというクールさが大好きだったのだが、この人は相当頭がいい。
文章が難しい。
批判ではない。
マライさんの個性だと思うのだが、一直線に答えに持っていかないという思考法が見事だなと思う。

たった一語だが、「外タレ」という一言、この中に込められた日本人の微妙な日本語の定義。
明治の初め、いわゆる「お雇い外国人」ということで日本人を教育する為にヨーロッパ世界から招かれた先生達がいた。
そういう長い長い歴史があったり。
それで最初に外国人の先生たちに対して日本国政府は糸目も付けないほどの高額なお金を払ったという。
それがズバッと真ん中を抜いてマライさんたちの時代になるとタレントとしてやってくる。
マイケル・ジャクソンとかそういう人達も「外タレ」。
手の届かない国際的な人気者のこと。
ところがテレビに出てくる「外タレ」というのはマライさんもはっきりおっしゃっているが、グッとお値段が安くなって。
それで、かぶらなければならないキャラが用意してある。

「日本スゴイ系」と呼ばれる(18頁)

これが喜ばれるという。
「ワタシ驚キマシタ。日本スバラシイ文化デス」とか、そういう人達。
或いは日本的知識に熟知している才能。
これが求められるという。
彼女はテレビで、或いはラジオで鍛えられたのだろう。

現場で求められるのは単なる実力以上に「ガイジンらしさ」と「ガイジンらしからぬ愛嬌」であり−中略−外タレが一種の「種族」として成功を収めることが出来た最大の要因は「日本人のニーズに合ったガイジン像を演じる」能力とコツのつかみ方の的確さなのだ。(19〜20頁)

なかなか手厳しい。
絶妙な難しいところを突いていると思う水谷譲。
なにせ、生まれとしては武田先生は1949年生まれで、彼女は1983年生まれだから。
だから言葉に関しても彼女の指摘はある意味勉強になるという。
武田先生の残りの人生はこれを研究しようかなと思うのは、「日本とは何か?」「日本人とは何者なんだ?」という。
政治の話は全然ダメな武田先生。
センスが無いし知らないから。
だが、「ジャパニーズ・ファースト」と言うと「ジャパニーズ」の定義が難しい。
「日本人ファースト」でもいいが、「都民ファースト」とは何か?
「東京都民優先」だと思う水谷譲。
ということは、短めにいうと東京都民で都税を払っている人のこと。
「ジャパニーズ・ファースト」と言うと「都民ファースト」と同じように「税金を払っている人」といえば「税金を払えない人」もいる。
その人もまた日本人。
では「何を以て日本人と言うのか」というのを言うべき。
それは何か?
必死になって考えている武田先生。
武田先生は「卵かけご飯」だと思う。
時々見事だと思う人がいる。
生卵をご飯にかけて混ぜるのだが、醤油を一回しか使わない。
それで見事に卵かけご飯にする。
どこかがベチャベチャしていたり、かけ残ったところがあるとかそういうのではない。
一発でできる人。
武田先生はその時、その人に向かって「この人は日本人だ!」と思う。
それから、旅行に行った先の真っ暗い露天風呂でカミソリで髭を剃っている爺さん。
そういう日本人しかできない小技を持っている人。
それは日本人しかできない小技なのかと思う水谷譲。
それは太宰治のエッセーの中にあって、武田先生は凄く感動した。
それは太宰治が旅先の旅館で刃物の刃でヒゲを剃っている爺さんを見て「この爺さんは凄い」と感動する。
「光を求めない」という。
「闇の中でできる」という、このことの為にこの爺さんは一体何回ヒゲを剃ったんだろう?という。
「そういう日本人しかできない技」を持っている人のことを「日本人」と言うのではないか?

余計なことだが、武田先生は彼女の「日本語(再)定義」を読みながらしみじみ思ったのだが、例えば豆腐という食べ物がある。
豆腐という食べ物をザルで買うと、家に持って帰っている間、水が滴り落ちる。
でもあの水の滴りの中にも豆腐の旨みがあるとすれば、それは味を逃しているのではないか?
では豆腐を買う時は日本人はどうするかというと、ボウルの中に水を湛えて水ごと豆腐を買う。
「これが日本人だ」という。
(本に書いてあるのではなく)武田先生が思いついた。
つまりそうやって「滴り落ちる水すらも味だ」というそのこだわりこそがジャパニーズじゃないかと思った時に、ここに守るべき日本と日本人がいるという。
そういう意味でマライさんのドイツから見た日本語の挑戦というのは、やはりボウルごと日本語をそこに入れて味わおうという思考で。
この解釈は見事(自画自賛)。

マライ・メントラインさん。
素敵な本当にドイツ人らしいお嬢さんが、この方がお書きになった本で「日本語再定義」小学館から出ている。
はっきり言う。
マライさん、あなたの文章は難しい。
マライさんが挙げられた言葉を読んでいるのだが、武田先生の読み方が正しいかどうかわからない。
マライさんは「違う」とおっしゃるかも知れないので、そのへんはもうどうぞマライさん勘弁してくださいね。
ただ、時々ハッとする面白い言い方がある。
こういうアンチテーゼをバン!と出されるところがマライさんの面白さ。

日本人がしばしば誇らしげに使う

「日本には、四季があります!!」(66頁)

別に普通の言葉だと思う水谷譲。
それが日本人。
これは国際的に間違った表現。
日本には四季があると思う水谷譲。
四季はどこでもある。
ハワイにだってインドネシアにだって雨季と乾季の間のそれぞれの中間で分けようと思えば四つの季節は必ずできる。
分けようと思えばあるが、日本ほど鮮やかではないと思う水谷譲。
鮮やかな四季が他にあったらどうするのか?
四季は「日本だけの」ではない。
自然現象。
それを「自分とこだけ」みたいな言い方をする。
「四季は日本の資源ではない」とマライさんはおっしゃっている。

地球の自転・公転をベースにした「地上のだいたいのポイントには国を問わず四季という現象が発生せざるを得ないんです」という(71頁)

それを日本人は自分のところだけフォーシーズンがあるみたいな言い方で。
観光ポスターにデッカく「日本には四季がある」。
どこでもあるんだよ、そんなもんは!
日本の四季は美しいと思う水谷譲。
「日本の四季は美しい」というこの思い込み。
思い込みではなく事実だと思う水谷譲。
インドネシアの四季だってあるかも知れない。
確かに海外の四季についてはちょっとわからないと思う水谷譲。
分からないくせに自慢げに「日本には四季がある」。
日本人は何でこんなものの言い方をするのか?
表現としてマライさんは本の中で「間違ってる」とおっしゃる。
今、ちょっと気づいたが、ホテルで「フォーシンズンズホテル」というのがあるが、ということはもう世界的に「フォーシーズン」がある、「四つの季節」があるということだと思う水谷譲。
そういうこと。

もう一つ、マライさんが引っかかって「なるほど」と思った言葉。

「日本人はおもてなしの心を持っているので」−中略−が頻出して、そのたび「他の国の人にはおもてなしの心がないみたいですがそんなことはありませんね」(66〜67頁)

日本は特にある、過剰にあるぐらいあると思う水谷譲。
これもマライさんはもの凄い疑問を持っておられて、おもてなし・ホスピタリティというのはどこにでもある。
日本は「お・も・て・な・し」なのだからと思う水谷譲。
この言い方。
それはやはり他国から見ると「オメェんとこだけじゃ無ぇ。こっちだってやってるよ」と。
ニューヨークの一流ホテルとか、おもてなしは凄いらしい。
なんでこんな日本人は、世界共通するものが「日本にしか無い」と言いたがるんだろう?という。
そう考えてドイツの人から指摘されれば、その通りではないか?
ところが日本人のこの言葉、間違った言葉の使い方の裏側に、もう一つ日本人の深慮遠謀、難しい言葉遣いになるが深き企みがあるという。
言葉としては間違っている。
「日本には四季がある」
それは「うちもあるよ」という人が何か国もある。
「じゃあみんな言えばいい」と思う水谷譲。
それは言わない。
日本人は実はこの間違った言い方の向こう側にもう一つ構えていることがある。
これが日本語の「開かずの間」。
「日本には四季がある」の裏側に隠されている言葉がある。

「日本には、四季を活かした魅力的な生活文化があります。(74頁)

フォーシーズンで生き方を変える。
冬の生き方と夏の生き方は生き方が違う。
「自分達はシーズンによって生き方を変えます」という言葉をもの凄く間違って「日本には四季がある」という言い方をするという。
それからもう一つ「おもてなし」。
これは世界に共通する「おもてなし」のジャンルに入っていないものを「おもてなし」にしてしまうという。
(例えば)京都の旅館に泊まったイギリス人がひっくり返る。
膳が運ばれてきて最初の先付を食べ終わって「一本目のお銚子が空いたな〜」と思ったら二品目が入ってくる。
その時に彼はあまりにも続く偶然に「どこかでキャメラが私を見てる」と。
「おもてなし」にいろんなホスピタリティがあるのだが、日本人は客と呼吸を合わせる。
食べ終わった時に次の料理を持ってくる。
「一本お銚子が空いたら二本目を持ってくる」という心遣いのことをホスピタリティの「おもてなし」のジャンルの中に入れている。
それを女将のカンでやる。
そのカンのことを日本人は「独特のおもてなしでしょう」というので「日本にはおもてなしがある」という。
だが、これがなかったら絶対に怒る。
「手ぇ叩いても来ないじゃない!ここ。電話電話!」「すいませ〜ん!」とかと。
つまりそういう独特の言葉の使い方によって日本を更に印象付けようとするという。

最近聞いた若者言葉の中に出てきた言葉。
「萌え」

 【草木が芽を出す。芽ぐむ】[俗に、ある物や人に対し、一方的で強い愛着心・情熱・欲望などの気持ちをもつ](76頁)

この「萌え」というこの言葉の中にいろんな意味が流れ込んでいる、という。
意味についての確かな定義は無く、対象に対して抱く様々な感情を表す「萌え」。
マライさんはこの「萌え」の一語について何を意味しているのか?
「萌え」というのは定義としてこういう意味である。
それが各個人によって違って共有されていない、という。

解の共有が不十分な暗号化でもある。(77頁)

だから武田先生のような70半ばの人間が「いやもう、俺、あれに関しては『萌え』」とかと言うと若い人が「違うよ。そういう意味の『萌え』じゃ無ぇや」と。
つまり人から「違う違う」という激しい指摘を受ける言葉である。
というのは、定義が一定ではない。
各個人によって違うという。
「萌え」の開かずの間に意味が隠してある。
これはマライさんの指摘だが、少女的なものに向けられる性的欲求。
もう一つ条件がある。
性的欲求の「寸止め」。
オタクカルチャーからの感情が主旋律であるともいうという。

「幼女・少女的なものに向けられる性的欲求の寸止め」から抽出されるサムシングの上澄みを精製した感情が「萌え」なのだ!(79頁)

欲望の寸止め。
この寸止めが利かなくなったら野獣と同じ。
言い得て妙だと思う水谷譲。

「萌える」心的メカニズムの根源にあるのはこの騎士道精神的な何かだ、というのがしっくりくる。つまり、何らかの障壁の存在とそれを躱す欺瞞性が、むしろ情動をターボ加速するという面が重要であり(80頁)

恋する異性がいても「好きだ」と言わないということによって内側にある自分の性的欲求、それをタブーで止めることによってターボ、より一層情熱を上げてしまう。

セクシャル情動的なタブー感情と神聖っぽい何かの衝突、およびその自覚の衝撃である。(82頁)

深い。
だから「萌え」というのは、欲望に突っ走ることではない。
それを抑えることによって更に次元の高いものにしていくという。
こういうものが日本のいわゆるアニメ文化の中に流れ込んで

仮想アイドルの先駆けにして完成系ともいわれる初音ミク(85頁)

萌えフィギュアや萌えグッズを依代とする自分の内的な価値体系や精神性には、凡人には窺い知れぬ素晴らしい意味があるという確信が求められる。(82頁)

この領域ではいわゆる性的関係を結ぶ以上に、相手を愛でるという行為が、至上の心的・魂的表現として描かれていることが大きなポイントだ。(82頁)

日本人は感性の新造語をどんどん作る。
例えば「あはれ」。
不思議な感情。
それは威勢がいいことでも美しいことでも無い。
これは平安の頃にもたされて、個人の好みの状況を「いとあはれ」と紫式部が言ったという。
ところがこれが鎌倉時代になると真ん中に小さい「つ」を入れて「あっぱれ」。
これは武士だけの専門用語で、「見事」という意味ではない。
敵将がいて、それが負けるのだが「懸命に最後まで戦った」というのを勝利者の側の武将が「あっぱれ!」と言うという。
そういう敗北の美的な意味合いでも「あっぱれ」は使えるという。
こういう「あはれ」とか「あっぱれ」の独特の感性を日本人は新造語、新しい造語として使いたがる。
それが「萌え」になっているのではないか?
そして水谷譲が言っていた「エモい」。

「エモい」とは、ただ単に嬉しい・悲しいという気持ちだけではなく、寂しい・懐かしい・切ないという気持ちや感傷的・哀愁的・郷愁的などしみじみする状態も含んでいます。形容しがたいさまざまな身上を表現する便利な言葉として「エモい」は使われているのですね。(136〜137頁)

「エモい」というのは「エモーショナル」ということなのだろう。
これも武田先生は「エモい」なんて初めて知った。

基本的には古語「あはれ」と大きく重なるが、−中略−何かプラスアルファ的な要素を感じた/相手に伝えたい場合に用いる表現で、そこには暗号めいたニュアンスが含まれることもある。(137頁)

部外者を内に入れない対話者との関係によって業界界隈に応じたニュアンス表現であるという。
つまり定義も各個人でズレているのだが、「俺はあれがスゲぇエモいんだよ」という「俺はこっちのエモいだ」なんていう、お互いに共通の言葉ではなくて違う意味合いで「エモい」を使い合う。
一種、他者との感情や感銘の共有ではなく

他者との分断ポイントを敢えて不明確にすることでポジティブなコミュニケーションを成立させやすい、という効用があり(140頁)

「オマエもエモいって感じんの?あ、いや、俺もあれはね、前からエモいって思ってたんだ」というような、違いながらも結びついているという。
このへん、日本語というのは非常に微妙なことを相手に伝えようとする言霊、言葉。
マライさんの指摘は驚き。
彼女にとっては「あはれ」をもの凄く難しく難度を上げた言葉のように感じられた。
その「あはれ」から「エモい」という新造語を生み続ける日本という国の言語空間の不思議さ。

武田先生はこれが一番びっくりした。
これはそんなふうに読んでもいいと思うが。
マライさんはこんなことを言っている。
自分のドイツ語の世界と比べて。
ドイツでは「萌え」「エモい」を何というかと考えると、ない。

「何も言わない」のだ。(142頁)

 一意に説明可能なもののみが言語化され、言語的に定義可能なもののみが存在する。(142頁)

これはもの凄く面白いこと。
つまり武田先生と水谷譲が同じ思いで見つめることが無いもの。
それはドイツ語では言葉にしない。
ではいわゆる若者言葉とかは無いのかと思う水谷譲。
おそらく無いのだろう。
マライさんがおっしゃっているのは、あの文豪ゲーテやシラーに向かって話す言葉こそがドイツ語であって、ゲーテやシラーと話しても通じるのはドイツ語。
ところが日本はこの「エモい」とか「キモい」とか「萌え」とか信長とか土方歳三に向かって使ったら叩き斬られてしまう。
それぐらい現代語の中にニュアンスを含む新造語が多い。
ではドイツではどうかというと、意味を伝えない言葉というのはドイツではあってはならない。
観念的に存在しない言葉、それはドイツ語では言葉にはなりえない。
この指摘は面白い。
そしてマライさんの可愛らしいところだが、これはそういうふうに読んでいいと思うが、そう考えると「ちょっとドイツ語って寂しい」という。
前に言っていた。
日本語を一生懸命学んでいる外国人の若い子に向かって国語の先生が「『超』とか『ヤバい』だけは絶対使うなよ。そういうのを使っていると日本語の語彙数が減るから」という。
2025年9月22日〜10月3日◆日本語教師、外国人に日本語を学ぶで紹介している話)

日本語教師、外国人に日本語を学ぶ (小学館新書 487)


でも「超」と「ヤバい」を知っているといろんな表現ができる。
特に「ヤバい」はヤバいと思う水谷譲。
それを彼女が瞬間的に、本能的に、とっても美味しいショートケーキか何かに当たった時に思わず「超ヤバい」と言ってしまうという。
直訳すると非常に危険な言葉なのだが、それを「ファンタスティック」と同じ意味で使うという。
日本語はそういう意味ではもの凄くトリッキー。
前に話した。
「適当にやっとけ」も。
「適当」というのも「本当に適時にやること」と「手を抜くこと」という、相反する意味を平気で使う。
「いい加減」もそう。
それから全く反対の意味になるのだが、「あの人の悪口を言うものはいない」。
この人は凄くいい人が凄く悪い人。
そんなふうにして文脈を読み間違えると逆の意味になるという。
この間、NHKのアナウンサーさんで嘆いておられる方があって「ああ、この人にもこういう悩みがあるんだな。ラジオって面白いな」と思って、思わず聞いてしまった言葉。
経済情報を知らせた後「ごきぶりの回復です」。
「日本経済の方ではアンケートを取りますと五期ぶりの回復です」
短い音楽を挟んで虫の話。
そうしたら喋り手の人が「私はびっくりしたよ。NHKのニュースで『ゴキブリの回復』を伝えるような状況なのかと思って」という。
日本語では「ごきぶりの回復」というのは全く別のもの、「中小企業の人がゆっくり景気よくなる」のと、「出川さんみたいなのがヒクヒクヒクと真っ白になって死んでいくような姿」というのが二つ、パッと浮かぶという。

というワケで「日本語再定義」。
これが皆さん、意外と深い。
来週もまた、このネタでお届けしたいというふうに思う。


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