その込み入った話、まずはここから始める。
2025年12月8日、東京目黒代官山のあるギャラリーに武田先生はいた。
そこで何があったかというと「ジョンレノン写真展」(ヒルサイドプラザ「70年代ニューヨークのジョン・レノン」展)というものがあって、その「ジョンレノン写真展」に招待された。
その理由は当番組(「今朝の三枚おろし」)で紹介した「アーティスト伝説」の著者・新田和長さんからのお誘いで。
(アーティスト伝説I・アーティスト伝説II)
![]() |
かつて70年半ば、ニューミュージックの流れを立ち起こした東芝EMIの伝説のディレクター・新田さん。
あのチューリップを福岡で発見して東京へ連れて行って、多くのヒットを打たせて、その上にユーミン、寺尾聰、加山雄三など、ヒットの現場で采配を振るい、音楽界のレジェンド・新田和長さん。
その新田和長の戦友ともいうべき存在が青木冨貴子女史。
この方は70年代フォークソングの立ち興りにもの凄い興味を持たれた。
この人は頭のいい人。
音楽記者としてのキャリアをこの70年代の初頭から踏んでおられて、もう綺羅星の如き大スター、ユーミンさん、石川セリさん等の女性シンガーとも親交が厚くて。
一九八四年に渡米し、「ニューズウィーク日本版」ニューヨーク支局長を三年間務める。一九八七年、作家のピート・ハミル氏と結婚(本の奥付)
このピート・ハミルさんがニューヨークタイムズの記者だった。
ピートは−中略−ジョンがカリフォルニアから帰ってくると−中略−ロングインタビューをしている。(8頁)
ピートの弟でカメラマンのブライアン・ハミルはジョンをダコタ・ハウスの屋上で撮影し(8頁)
それを「何枚か未発表のものがあるので」みたいなことで日本で公開したいという。
それで音楽関係者がギッチリいる、高嶋(ちさ子)さんのお父さん(高嶋弘之)とかいらっしゃる中で、ただ一人、山田洋次監督が映画関係で来ておられた。
ピート・ハミルさんがリーダーズ・ダイジェストにお書きになった短編小説が「幸せの黄色リボン」で、それを映画化したというので山田洋次が。
(リーダーズ・ダイジェストはニューヨーク・ポスト紙の再掲)
![]() |
それに武田先生が出ているというので「来ない?」と新田さんから。
原作者の方の奥様、その方がジョン・レノンと繋がっているということ。
複雑。
それで青木さんが「監督さんお見えなので、ご挨拶を」と言うのでそこから会が始まった。
監督がまたいい話をする。
お喋りが上手い人。
ピート・ハミルさんが、山田洋次監督にピート・ハミル家の伝説を教えてくれたそうだ。
それはピート・ハミルさんがうんと子供の時に、お母様が子供全員に言ったそうだ。
「みんなでお祈りしましょう。アメリカは今日、大変な罪を犯しました。長崎という日本の小さな町に原子爆弾を落としました。何でそれが罪かというと、長崎の町には私達と同じようにイエスを信じる人がたくさんいたんです。アメリカ人として心からお詫びしましょう」と言ってピート君も両手を合わせて詫びた。
それでシーンと静まり返る。
それで山田監督が武田先生の方を向いて「音楽の方が多いから、何か一つ君もご挨拶しなさい」と言ってくださって、恥ずかしながら武田先生もその席に立ったのだが、周りはたくさんのジョン・レノンの写真。
そのジョン・レノンに向かって武田先生がジョン・レノンを語るという。
複雑ではあるが、奇妙に一本に繋がるという。
長生きをしていると感じる運命。
それを今日から語ろうかなと思う。
70年代、80年代の音楽関係者ばかりが集まった代官山の会場だった。
ところがジョン・レノンといったところで武田先生とは関係があるワケではない。
でも影響は受けてらっしゃると思う水谷譲。
影響についてはちょっと痒い思い出がある。
その当時、とにかくライバルたちはみんな「ビートルズ、ビートルズ」と言う。
「俺はポールが好き」「俺はジョンが好き」
ポールの圧倒的ファンで有名だったのがチューリップの財津さん。
井上陽水さんはジョン・レノンだった。
正直、武田先生はそんなに音楽的に強いワケではないし。
それでみんなが「ジョン・レノン、ジョン・レノン」と言うから「『ジョン・レノン』と言っておけば大体通用するな」と思って。
武田先生は「母に捧げるバラード」という詞を作った。
![]() |
数十万枚を超えるヒットになったのだが、その変わった博多弁の歌が面白いらしくて、音楽記者の方が来て、「『母に捧げるバラード』って変わった歌ですが、どこで思いつかれたんですか?」と言うから、自分が知っているだけの音楽の知識で「あ、これジョン・レノンです」。
ジョンレノンの「マザー」。
(ここで本放送では「マザー」が流れる)
「Mother, you had me」というこのロックの歌。
「これを聞いてる時にファッとインスピレーションが湧いたんです」
そう答えた。
嘘に決まっている。
「ちょっと影響受けた」というのは何かというと、「ロックシンガーが母ちゃんのこと歌うか」という驚きがあった。
このジョンの絶叫。
ちょっとマザコンかなと思う水谷譲。
「Mother, you had me」
どう考えてもこの「Mother」は「お母さん」ではない。
「かあちゃ〜ん!」だ。
「俺はアンタのもんだったけど、アンタは俺のもんじゃなかった」
「Mama don’t go」
絶叫。
これは「かあちゃん行かないで」。
「come home」
「おうち帰ってきて。かあちゃん早う帰ってきて」
「大人げないな」と思ったのが印象だった。
「武田君はマザコンだね」とかと言われるのが嫌で、「ジョン・レノンの影響です」と、そういう話をした。
そうしたら会場が笑いに包まれた。
ジョン・レノンというレジェンド・ロックシンガーと武田先生は距離が遠すぎて。
武田先生のビートルズ理解というのは浅いもので。
メッチャみんなビートルズに詳しかった。
音楽仲間でカイダというのがいて、ビートルズを聞く。
そうしたら「高い方がジョン歌いよった。でもね、武田さん面白いと。次のサビで入れ替わるよ」
それを全部言い当てることのできるヤツがいて。
この「主旋律を時々入れ替えて、主旋律がハーモニーに回る」とかというのは武田先生達(海援隊)はやっている。
そのへんはビートルズの真似をしている。
でもチューリップの面々なんかのコーラスの力に比べるともう全然。
チューリップなんてもっと複雑なビートルズのハモりを踏襲というか影響を受けている。
それに比べれば武田先生などはもう全然。
そこから。
遠い遠い存在であるジョン・レノン。
ところが青木さんという「幸福の黄色いハンカチ」繋がりの方から頂いた一冊の本を読むと、ジョン・レノンと友達になったような気がする。
「ジョン・レノン 運命をたどる」
![]() |
講談社から出ている。
武田先生が今回、運命の複雑を語っているが、この本自体が運命を語っている。
この一冊は二人の男の生と死を描いた物語。
一人の男はジョン・レノン。
そしてもう一人の男はというと1980年12月8日、彼に向かって銃弾を浴びせた殺人犯のチャップマン。
この二人の奇妙な運命を青木さんが辿るという。
40年に亘って取材を続けた青木さん。
残された謎を埋めてゆく。
そのピースの埋め込み。
一体どんな運命の折り方が見えてくるのか?
辿りましょう。
先に振っておくが、武田先生とジョン・レノンさんは遠い遠い存在で。
ところがその一点だが、ジョン・レノンさんの友人であるピート・ハミルさんがお書きになった短編小説「幸せの黄色いリボン」。
それを山田洋次監督が映画化して大成功させた。
この薄い一本の本当に糸なのだが、そのピート・ハミルさんの奥さんになられた元音楽記者の青木さんとの縁。
細い一本の糸なのだが、青木さんがお書きになった「ジョン・レノン 運命をたどる」という本を読んでいたら、彼に繋がってゆくような気がして。
そんなことをいうと、ジョン・レノンファンの方から叱られそうだが。
人の運命というのは縁を感じると近く感じてしまう。
人と人とを結ぶ縁という糸が織りなす曼荼羅模様。
1966年秋、思わぬ発言が一人歩きした。北爆開始から1年、ベトナム戦争が激烈になり、−中略−アメリカ各地で戦争反対デモが大きな盛り上がりを見せるようになったこの頃、「ロンドン・イヴニング・スタンダード」紙−中略−に一本のインタビュー記事が掲載された。
「ビートルズは今やキリストより人気がある」
発言者はジョン・レノン。(16頁)
ところがこれがキリスト教圏では大問題になる。
キリストというのは西洋文明を背負うほどの神だったワケで。
6月になると、ビートルズは日本で初公演を行う。−中略−「キリスト発言」を載せた−中略−抜粋がアメリカのティーンエージャー雑誌−中略−(9月号)に掲載された。−中略−米国の「ニューズウイーク」や「ニューヨーク・タイムズ・マガジン」は件のインタビュー記事を抜粋する形で掲載していたが(18〜19頁)
(番組ではジョン・レノンの発言が9月と言っているが、最初に掲載された記事は3月4日付)
「ジョン・レノン、人気もんだっつんで、少し有頂天になってんじゃ無ぇの?」
これが難しい問題。
アラバマ州バーミンガムのラジオ局WAQYディスクジョッキーのトミー・チャールズへ送ってみた。チャールズは朝のラジオ番組でジョンのコメントを話題にして、討論に火をつけようとした。(19頁)
「もうビートルズのレコードはかけないことにした!」とディスクジョッキーは興奮して声を上げた。(20頁)
これはやはりアメリカ南部。
アメリカ南部はこの手のことでは敏感に反応するところで。
メディアのなかには「ビートルズはキリストより偉大だ」と誤ってジョンの発言を伝えたり(20頁)
ここからビートルズ14都市でのステージ中止。
(本には「予定通り、一四都市で行われることになった」とある)
これでビートルズのライブ公演はすべて中止。これからはスタジオ録音に専念するという爆弾宣言だった。(21頁)
アメリカ南部で「ビートルズは自らを神より偉大だと言ってるぞ」と「冒涜の発言をした」というのが広がってゆく。
1955年5月10日、テキサス州フォートワースに生まれ、米国南部ジョージア州ディケーターで育ったチャップマンは(22頁)
そのラジオ放送を11歳の少年が聞いていた。
このチャップマンという少年。
11歳なのだが「神を冒涜した」というジョン・レノンが「絶対許せない」と思ったという。
(このあたりは本の内容とは異なる)
まだ子供なのにそこまで思ってしまうのかと思う水谷譲。
このテキサス州とかジョージア州とかといういわゆる「ディープサウス」はそういう方が非常に多くて、宗教的体質な方が多いのか?
トランプ支持者が多いのがこの州だそうだ。
そういう環境の中で、チャップマンというのがジョン・レノンに対して激しい怒りを11歳で覚えたという。
これが後々運命で結ばれていく。
11歳のチャップマン。
この少年はジョン・レノンの発言「僕達は今やキリストより人気があるんだよ」。
その言葉が曲解されて「僕達は今やキリストより偉大なんだよ」という、その言葉を真に受けて、どこかで「神を冒涜した男の名」としてジョン・レノンという名前を少年として胸に刻んだのだろう。
青木冨貴子さんの凄まじさは何かというと、何とこのチャップマンに何度もインタビューを申し込んでいる。
ジョン・レノンへの殺意が、青木さんはやはり合点がゆかない。
だから音楽記者として凄く興味を持ってインタビューを申し込んでいる。
ひと時の報道では「ジョン・レノンの熱烈なファンだった」という説もあって。
それがなぜその彼を?という。
やはり運命。
ビートルズ解散は1970年。
(当時、水谷譲は)三歳。
解散した。
春、カイダが泣いたのを覚えている。
武田先生達は福岡のアマチュアだったが、カイダが泣いていた。
「ビートルズが解散したとよ〜」と言いながら。
ビートルズは解散したのだが、ジョン・レノンさんが亡くなられたのが1980年。
ジョン・レノンさんはビートルズが解散して10年後に亡くなられた。
この1970年代というのが彼の生きた10年間なのだが、日本でも音楽の揺れ方が半端ではない。
フォークソングが興ったと思ったらニューミュージックが立ち興り、ニューミュージックが全盛を覆ったと思ったら70年の後半になったらサザンオールスターズがデビューする。
それでジャパニーズロックが生まれたと思ったところからJ-POPがもう始まる。
その10年間の中でジョン・レノンさんが残した音楽的な足跡の大きさというのは重大だなと思う。
青木さんは、殺害したこのチャップマンに直接会って話を聞こうということで、チャップマンも刑務所内の取材について「条件が合えば」と返事をしてきたのだが。
なぜ青木さんは選ばれたのか?
それで理由を探るとチャップマンは凶行の数年前、1978年春だが、日本を訪れている。
もちろん韓国・中国などのアジア旅行の途中ではあるが、特に日本での体験は彼を喜ばせた、と。
その興奮を恋人に絵葉書で伝えている。
青木さんはそれを取材なさっている。
そして殺人犯のチャップマンが絵葉書で「日本はいいとこだね」と書いた葉書の宛先、つまり受取人はハワイ在住の日系二世(本によると三世)のアベさんという20代のお嬢さんだった。
その年、1978年に結婚している。
相手は日系三世のグローリア・アベ。(22頁)
チャップマンの妻グローリアの日本名は小野洋子と同じ「洋子」だった。(24頁)
ここにやはり青木さんは記者として焔が立ったのだろう。
真っ赤な炎が。
「何なんだ?」
両方とも日本が関与している。
ただの偶然にしても被害者と加害者の真ん中に日本がいる。
今度はジョンの方を語る。
ジョンの連れ合い、奥様のヨーコさんのことを語る。
小野洋子は昭和8(1933)年2月18日、−中略−東京に生まれた。
洋子の母方の安田家は、−中略−安田善次郎が一代で築いた財閥だった。(41〜42頁)
お父様は日本興業銀行・副を務めた方。
(本によると日本興業銀行の副総裁は父の父)
学習院大学哲学科に進学すると−中略−洋子は名門女子大サラ・ローレンス大学に入学した。(45頁)
(番組では「留学」と言っているが、本によると「入学」)
22歳、洋子は−中略−大学を中退(48頁)
ヨーコは−中略−前衛芸術家として頭角をあらわし−中略−ニューヨークやヨーロッパの美術界で注目される存在になっていた。(41頁)
このヨーコさんとどうやってジョンが繋がっていくか?
財閥のおうち、銀行副頭取のお父様で、ニューヨークに行って、前衛芸術家として注目を集めて1966年のことだが、イギリスから誘われてロンドン・インディカ画廊で開かれたオノ・ヨーコ前衛展。
このインディカ画廊にジョン・レノンがフラリとやってくる。
そこにオノ・ヨーコさんがいらっしゃったらしい。
「ジョンがインディカ画廊を訪ねたのは、ほんの偶然だった」と数多くの本や記事に書かれているが、実際にはヨーコは彼が来るように仕組んでいたという説もある。(48頁)
ジョン・レノンという人は変わったものが大好きで。
そのオノ・ヨーコさんの個展を見るのだが、その中に参加するアートとして
「釘をハンマーで打ち込め」と書いた掲示だった。ジョンは「やってもいいか」と聞くとヨーコは「だめだ」と答えた。ショーは翌日から始まるから釘で傷つけたくなかった。そこへダンバーがきて、ヨーコに小さな声で「やらせなさいよ。この人は大金持ちだから、買いあげてくれるかもしれないよ」と囁いた。−中略−結局ヨーコが「いいわ。五シリング出してくれたらやってもいいわ」と言ってきた。−中略−
〈お利口さんのぼくは「わかった。5シリング君にあげたつもりで、釘をハンマーで打ち込んだつもりになるよ」って言ったのさ。(50頁)
それが出会いだったらしい。
これはやはり運命的なのだろう。
ジョンは別の展示台にのっているリンゴを手に取った。−中略−一口かじって戻した。(50頁)
それでそのままポーンと置いてウインクしながらジョン・レノンが帰っていった。
(ということは本には書かれていない)
全てがドラマチックだと思う水谷譲。
後にビートルズが作るレコード会社の名前が「アップル」。
それで考えたら凄い。
でもオノ・ヨーコさんの前衛センスというのが、二つの世界を動かした会社のマークになっているということを考えると、この人の持っているセンスのすばらしさはわかる。
どこでどうなったかはわからないが、これが初めての出会いで、ここからジョンとヨーコの物語が始まる。
そして1968年。
名盤「ホワイト・アルバム」を作る。
「ホワイト・アルバム」の録音にもジョンはヨーコを連れてきた。(55頁)
ここでも色々噂があって、ポールが「ヨーコ大嫌い」とか。
ヨーコさんが、ジョージ・ハリスンのサンドイッチを喰ったらしい。
「ジョージ・ハリスンがメッチャ怒った」という説があるのだが「みんなでワイワイ楽しそうに『ホワイト・アルバム』作ってたよ」という説が・・・
もうこのへんは真偽は確かめられない。
しかしヨーコがいつもジョンのそばにいて、ジョンはそこからみるみるアーティストとしての深みを増していくという。
さあ、この二人、いかなことになるか?
その続きは来週のまな板ということになる。






