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2026年07月03日

2025年12月1〜12日◆「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか(前編)

これはズバリ、この方の本のタイトル。
「『話が面白い人』は何をどう読んでいるのか」

「話が面白い人」は何をどう読んでいるのか (新潮新書 1101)


まるで武田先生に注文を付けるような本のタイトルで。
興味深いと思う水谷譲。
前にこの「(今朝の)三枚おろし」でもご紹介した三宅香帆さん。
2025年9月8〜19日◆なぜ働いていると本が読めなくなるのか
新潮社から出ている。
これは本屋に結構山積みの本。
やはり勉強の意味で「話をもっと面白くしたいから」と思って学びの意味合いでこの本を手に入れて読み下した。
武田先生の仕事の神髄、それもそういうこと。
話をどう面白く聞かせるか?演ずるか?という。
特にこの番組はラジオのお喋り、それも本を面白く語ることを仕事としているので、これはもう日々武田先生が思案していること、そこでこの若いこの方から学んでみようと。
彼女はこんなふうに切りだしている。

『千夜一夜物語』という、古代から中世のイスラーム世界のさまざまな物語を集めた説話集です。(20頁)

 あるところに、ペルシャの王様がいました。
 彼は妻に浮気されて以来、女性不信に。街中の娘を寝床に呼び出してはクビを刎ねる、という残虐な王様となり果てていました。
−中略−
 そんな王様のもとに、ひとりの娘がやってきました。
 彼女の名はシェヘラザード。
 ──シェヘラザードは、王様から寝床に呼び出されると、
 「王様、こんな話、知っていますか?」
 と、自分の知っているさまざまな話を語り始めました。
 シェヘラザードの語る物語は、それはもう面白かった。面白すぎて、王様は彼女を殺すことを忘れていました。
 夜が明けます。すると王様は。
 「早く続きを聞かせてよ」
 とせがみました。
 シェヘラザードは囁きます。
 「この後はもっと面白いけれど、続きはまた明日」と。
 こうして毎夜シェヘラザードは、王様の寝床で話をするようになりました。
 あくる日も、あくる日も。面白い話をし続けたのです。
 千夜明けたころ、王様は彼女を正妻に迎え、ついに暴虐は止められていました。
(20頁)

このことに感動した三宅さんはおっしゃる。

ここでシェヘラザードが語っていた話のひとつが、ディズニー映画で有名なアラジンの物語、あるいはシンドバッドの物語だったりします。(21〜22頁)

「話が面白い」とは、暴力にも権力にも財産にも負けない、身を助ける技術なのだ、と。(22頁)

 話が面白いって、最強じゃないですか?(23頁)

 昨今「論破」という言葉が流行っていたりしますが、私はあれはちょっと嘘だと思うんです。(23頁)

三宅さんはサラリと「これは最強ではない」と「論破には強い、弱いがあるかも知れないが、論破に『面白い』が無い」「面白い話が最強なのである」と。
(このあたりは本の内容とは異なる)

この「面白い話」をどうするか?
これは武田先生の日々の命題と同じ。
具体的なアドバイスがあるということかと思う水谷譲。
著者は言う。
面白いネタの為に話を作る為にはどうするか?
硬い方の話からいく。

 @〈比較〉ほかの作品と比べる
 A〈抽象〉テーマを言葉にする
 B〈発見〉書かれていないものを見つける
(26頁)

武田先生はこれをやっている。
書かれていないことを見つけるのは大得意で、著者からもお手紙をいただいたことがある。
「そんなことは書いてはいない」

 C〈流行〉時代の共通点として語る
 D〈不易〉普遍的なテーマとして語る
(26〜27頁)

この若い人は本当にいいことを言う。
勉強になりました、三宅さん。
三宅さんはおっしゃる。
本という素材を見つけ、その本を観賞・解釈する。
これが料理である。

 人に出すときは、料理したくらいの方がいいかもしれない。(28頁)

まさに「三枚おろし」だと思う水谷譲。
そんなにうぬぼれてはいない。
ここから著者は実践の技術を披露する。

「『話が面白い人』は何をどう読んでいるのか」
その素材として三宅さんが出した二本の映画がある。
「となりのトトロ」そして「ハリー・ポッター」。

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「トトロ」はこの世ともう一つ、妖怪の住む世界があるという。
「ハリー」は魔法の世界が別個にもう一つあるという、そういうファンタジー。
日本の物語の中で「トトロ」に最も近い作品は何か?
こういうことを考える。
そうするといろいろ面白いことが分かってくる。
妖怪、或いは妖精だと思ってください。
ある日、突然小学校にやってきた妖精のような少年の物語。
「風の又三郎」

風の又三郎


似ている。
両者のテーマは同じく、「トトロ」も、風の妖精である「風の又三郎」も、子供達が成長していく物語なのだが異世界。

『となりのトトロ』のテーマは「子供は、大人に隠れて、成長する」ではないか。サツキやメイが成長する場面は、いつも父母には見えない。(33頁)

或いは又三郎がガラスのマントを翻しながら空を飛んでも見えない。
そして著者はこのトトロの中に「描かれていないもの」を見つける。
これは武田先生も「なるほど」と思った。
田舎に引っ越してくる車の走りから始まって、ボロっちい森の中のおうちに「お母さんの病院が近い」というので父親とサツキとメイが越してくる。
それで家の中にススのお化けがいたりいろいろする。

totoro003.jpg

『となりのトトロ』には、電化製品がほぼ登場しない。(35頁)

テレビも無ければラジオも無い。
もちろん電灯はあるとする。
炊飯器は無い、冷蔵庫は無い。
それからガスでおこすお風呂も無い。

この映画で宮崎駿監督が描きたかったのは、単なる自然と子どもの交流だけでなく、テレビや冷蔵庫などの電化製品が奪ってしまったものなのかも……?(35頁)

それでは「ハリー・ポッター」はどうか?
この作品は思えば全て遡る物語。
因果の物語。
だからハリー・ポッターの存在そのものも、あの子が生まれることでさえも一種因果。
ひたいの傷とか、そういう細かい因果物語。
それで善悪の業の葛藤から様々な結果が生起し、新しい因果が立ち興ってくるという。
だからハリー・ポッターは何やら日本の古典に似ている。
物語で一番ハリー・ポッターに近い物語は?というと「今昔物語」。

今昔物語集 本朝世俗篇 合本版 全現代語訳 (講談社学術文庫)


「今昔物語」は因果もの。
仏教因果。
「昔、ある男がある女に何々したのでこういうことになりました」という。
だからハリー・ポッターは何か説話に似ている。
つまり過去に遡り、過去を知ることで現在の苦境が読み説ける。
過去はやがて未来に繋がることとなり、少年が成長していくという。
ファンタジーを支えるものとしては面白いことに、同じようなキャラが両作品には仕組んである。

『となりのトトロ』のトトロ、『ベイマックス』のベイマックス、『ハリー・ポッター』のはハグリッド。どれもぬいぐるみが大きくなったようなパートナーが、子どもたちを守ってくれる。「ライナスの毛布」という言葉もあるけれど、包み込んでくれる毛布のようなものが子どもたちの成長のそばには欠かせないのかも?(37頁)

これは子供の成長にはそういう「フカフカした大きなもの」というのが必要だぞ、という。
これはもう古代から営々と続くという話をしていたら、水谷譲が(前日分の収録が)終わった後でフッと思い出して「そういえばスター・ウォーズにもそういうのいますね」というので。
ハリソン・フォードと一緒にいるチューバッカがいるとちょっと安心感があると思う水谷譲。
「オォオォ〜!」と言いながら。
「言葉とは思えない鳴き声で」という。
こんなふうにして世界中のファンタジーの中には「共通するキャラ」というのがある。
ファンタジー世界の中にはこういうふうにして遍く西洋東洋問わず共通のファンタジーキャラというのがいるというワケで。
その典型が「竜」「ドラゴン」。
もちろん東洋、特に日本では竜はやはり神の使いだが、西洋では何か悪さもするという。
でも結果として竜というのは子供と接する時はよい生き物。
フォークソングで「パフ」

Puff, The Magic Dragon(「Puff, The Magic Dragon」)

(ここで本放送では「Puff, The Magic Dragon」が流れる)



「パフは魔法の竜」という。
少年と一緒に長い旅に出る。
そういう民話がイギリスにあって、「パフ」という歌になったという。
まんが日本昔話でも子供と竜が一緒にいるような絵で始まったと思う水谷譲。



ねんねしな(「まんが日本昔ばなし」OP)

そこしか覚えていない。
それからもう一つ、水谷譲がアッ!と思い出す「ネバーエンディング・ストーリー」。
「ネバーエンディング・ストーリー」で「ラッキードラゴン」(ファルコン)という。
何でも子供の言うことを聞いて「ワッハッハッハハ」と言いながら・・・
あれはいい。
竜が雲の中を飛んでいくと飛行感というのはいい。
あれは「竜」なのか?と思う水谷譲。
ラッキー「ドラゴン」だから。
「名前は?」と聞いたら「ラッキードラゴン」と言う。
それだけではない。
子供と仲良しになったドラゴンは子供の成長を助ける。
成長して立派な大人になる為に、「ドラゴン」というファンタジーの動物が必要。
現代にも通じるドラゴンがいる。
思いつくと「なるほど」と思う。
水谷譲も知っている。
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もう一ついく。
「ドラゴンボールZ」

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少年の成長に竜が絡む。
そして後に気が付いたことだが「そうか、ドラゴンには、竜には少年を育てる力があるんだ」と思って我が人生を振り返ったら・・・・
坂本龍馬。
これは面白い。
小さなことかも知れないが、ファンタジーで人間が育っていく時、国とか世界を越えて一匹の竜が飛んでいるという。
この物語の中にいる一匹の竜が、いかに人生の中で強い影響を与えるのか思い知るという次第。

読書というものが一生に亘ってどれほど強く影響するか?
「物語を読む」というのはもしかすると食育同然に人は本を喰わねば成長しない生き物ではないだろうか?
著者はそれを物語にこだわっていて、物語とは人生にとって生存の重大な要素である、という。
ここから著者は更に具体的に現代の物語を語る。
まだ本にいかない。
三宅さんはネット配信ドラマに関しても具体例を挙げておられて。
「国宝」「地面師たち」
ただこの三宅さんはワリとクールで「国宝」にしろ「地面師」にしろ、「地面師たち」も配信ドラマで大当たりを取ったのだが、「お客を選ぶ物語」という。
「地面師たち」をワクワクしながら見た水谷譲。
武田先生は一回で(見るのを)やめてしまった。
あんな面白いのに、その違いが不思議だと思う水谷譲。
主人公が老人をダンプで轢き殺したところから見るのをやめた。
これは許せない。
ドラマだと思う水谷譲。
そのあたり、ジャンル分けが必要だという、この方のセンスは説得力があるなと思った次第。
映像作品はここにして明日は小説世界に入っていきたいと思う。

ここからは三宅さんが青春小説を取り上げておられる。
これは本当に迷ったのだが、ここからは読書感想文になる。
三宅さんが読んだ本を感想文を書きながら、どう話を味付けしていくか、になるのだが。

『成瀬は天下をとりにいく』(宮島未奈)と、その続編−中略−「成瀬」シリーズの魅力を解説したい。(53頁)

成瀬は天下を取りにいく(新潮文庫) (「成瀬」シリーズ)


水谷譲は「ふぅん」と言うが、(書店に)山積みしてある。
表紙が漫画っぽいヤツ。
最近の本。
武田先生は「読もうかな」と思ったが、読む勇気が無い。
「今更、青春小説」というのがあって。
とにかく三宅さんの指示に従ってこの物語、どういう物語か見ていく。

「成瀬」シリーズの主人公・成瀬あかりは、滋賀に住む学生である。(53頁)

 彼女のやりたいことはかなり明確である。たとえば「大津市の魅力を発信する」という目標をもって観光大使になったり(53頁)

かつての青春小説は「脱出」、これがテーマだった。
尾崎豊の歌もそう。
脱出を図るのが青春だったワケで。

「ここではないどこかへ」という願望−中略−それがいままでの青春小説だった。(55〜56頁)

そこを更新したのが「成瀬」シリーズだ。
 なぜなら成瀬あかりは「ここ(教室)」を肯定するからだ。
(56頁)

武田先生達団塊にあった「東京に行かねば」「古里に背を向けて」とかという、そいういうのが無い。
私見、武田先生の考えだが「東京へ行かねば済まなかった」そういうのが完全に物語として終了している。
これはとても重大な気がして。
そう。
東京を経験しない。
これが、何だかスポーツ界も影響していて、イチローを筆頭にして大谷や佐々木など、東京を経由せず、中京地区からシアトルに飛んだり、岩手・花巻から札幌へ飛んでロスへ渡ってゆくという。
東京にじっくり居座ったことがないということかと思う水谷譲。
最近の若者達は地元から世界に行く。
そのパターンを踏んだのがこの成瀬シリーズで、つまり東京はいつの間にか飛躍の為の踏切板の効力を失っている。
踏切板は、今は生まれたその町。
そこでジャンプしないと跳び箱は越せない。
これは武田先生達との大違い。
1970年に始まった青春だが、武田先生達は全員東京を目指した。
「憧れの東京」だと思う水谷譲。
武田先生の立場でいうと、小さなライブハウスで歌っていた武田先生達だが、横にいた友達の「チューリップ」が東京へ行ったと思ったら、それよりも先行して隣町に生まれた井上陽水が東京へ行った。
何のことはない。
中州の喫茶店のマスターのタモリさんが東京へ行ったとか、皆、一斉に東を目指して走り出した、と。
それは自分を天下に押し出す為には「東京」という踏切版が欲しかった。
それが今や、まさしくイソップの寓話に匹敵するように「飛ぶんならその場で飛べ」という。
イソップの中にあるそうだ。
それはとあるホラ吹き男が「俺は空を飛ぶことができる」とかそんなホラを吹いたようだ。
「やってみせろよ」と言ったらそいつが「いや、悪い悪い。俺、それできんのロドス島なんだ。ロドス島っていう島ではね、凄い俺、飛べたんだ。ここではできない」
そうしたら見物人の一人が「ここがロドスだ」。
「飛べ。ここがロドスだ」というのは武田先生達の青春にはよくつぶやかれた言葉で。
武田先生は成瀬シリーズを読んでいない。
だが正しい手続きではないが、この著者の書評、読書感想文を読んで考えてみよう、と。
本当にごめんなさいね。
本当は読まなければいけないのだが、人の読書感想文を読んで、その読んでもいない本の物語を勉強したいなという。
でも「成瀬は天下を取りにいく」なんかもそうだが、新しい青春像が日本中に今、渦巻いているのだろいう。
全く新しい青春が、いろんなローカル、地方の中で育っているだろう。
今の若者達の飛躍力は、ちょっとやはり考えられない
東京は情報量が多い分、何かギュっと狭い世界になっている気がする水谷譲。
そうかも知れない。
気を付けましょう。
肝に命じつつ物語を進めたいと思う。

 平井大橋『ダイヤモンドの功罪』が面白い。これを書いている2024年時点で、第五巻まで出ている野球漫画である。(67頁)

ダイヤモンドの功罪 コミック 1-9巻セット (集英社)


これがスポーツものなのだが、武田先生達のスポーツものと全く違う。
昨日の成瀬もそうだが、
「ダイヤモンド」は野球のダイヤモンド。

 主人公は、小学生の、綾瀬川次郎(通称ジロー)。彼は−中略−スポーツの天才だった。
 彼の不幸は、「どのスポーツをしても、抜群にできてしまうがために、友達ができない」こと。
(67頁)

こんな主人公に武田先生は出会ったことが無い。
この手の天才過ぎる万能の才能を令和の今では英語で「ギフテッド」「才能を贈られた」という。

ギフテッドという言葉が使われる時はむしろその負の面が注目されるようである。−中略−実は学校になじめなかったり社会に出てから人とは異なる苦労があったりするのだ、と。『ダイヤモンドの功罪』の主人公ジローもまた、スポーツ分野のギフテッドといってよいだろう。(69頁)

『ダイヤモンドの功罪』が広く読まれる背景のひとつに、昨今の「才能は努力や運ではなく環境によるものだ」という言説がある。
 マイケル・サンデルが出した本『実力も運のうち 能力主義は正義か?』
−中略−がその言説の一旦を担っている。
 本書は、エリートたちに向けて「君たちの成功は、君たちが頑張ったからだと思っているかもしれないが、君たちの運(環境)が良かったからに過ぎないのだ」と説いた本である。
(70頁)

実力も運のうち 能力主義は正義か? (ハヤカワ文庫NF)


つまり「教育格差」の問題で、今、話題になっている。
つまりお父様とお母様が教育熱心できちんとした収入がたくさんあって、教育費をたくさんかけっると優秀な子ができるという。
こういうことだそうで、アメリカなんかもそうで、やはり金持ちの子には勝てない。
そういうことをサンデルさんもおっしゃっているそうで、「ダイヤモンドの功罪」というのは、そういうことのコミック化なのだろう。
とにかくギフテッド、才能を神様から貰うだけ貰うと、その分、もの凄く深い孤独に陥ったり仲間外れになったりなんかするという。
そういうことを描いてあるという。
これはごめんなさい、三宅さん。
ついていけない。
この「ダイヤモンドの功罪」の主人公ジロー。
好きになれない。
こういうギフテッドという天才のスポーツマンとかというのにはついていけない。
ついていけないというか、興味が無い。
昭和にもスポーツの天才はいっぱいいる。
挙げてみる。
ちばてつや「おれは鉄平」「ハリスの旋風」。

おれは鉄兵 (1) (コルク)


ハリスの旋風 (1) (コルク)


面白かった。
決定的な違いは何かというと、主人公が嫌われるということは無かった
親がお金持ちで例えば「頭がいい」とか「スポーツがよくできる」というのは昭和の時代は恥ずかしいことだった。
と、言った方がいいのではないか?
なぜかというと、それは本人が作った才能ではないから。
例えば「巨人の星」という野球漫画がある。

巨人の星(1) (週刊少年マガジンコミックス)


これは天才ではない。
小さい時から必死になって己をとがらせてライバル達と戦うのだが、我々が劇画の中で星飛雄馬にぞっこんだったのは、彼が貧しく、子供の時からいわゆる「根性を試される」というので「大リーグ養成ギプス」とかと言いながら金具でぐるぐる巻きにされて、体を作っていく。
そこに我々はもの凄く感動して。
水谷譲は笑うが、泣きながら見るヤツがいたのだから。
努力と修行の成果でその才能を手に入れた主人公達。
才能がある人はいるが、だが嫌われない。
大谷翔平、藤井聡太。
嫌われない。
ギフテッド。
ごめんなさい。
この漫画についていけない。
三宅さん、申し訳ない。
武田先生が言いたいのは、ギフテッドの野球と将棋の彼らがどう努力したか、「努力の天才」というところが我々が感動するところであって、「努力しない天才」というのはそんなものは物語ではない。
でもそれを聞いて逆にちょっと読みたくなった水谷譲。
このコミックはまだ結末が出ていないそうで。
大きい躓きがこの後、あるのかも知れない。


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