これの続きです。
「『話が面白い人』は何をどう読んでいるのか」
(著者は)三宅香帆さん、新潮社から出ている。
三宅香帆さんはなかなかの才媛で。
若い女性なのだが、抜群の切れ味という。
ただ、これは三宅さんには申し訳ないのだが、あなたが薦める本というのは武田先生も殆ど読んでいない。
だがあなたの感想文が面白くて。
もちろん「面白い」というのは「同感」というのもあるが、「いや、そうじゃないだろう」と反論したくなる感想文もある。
そういう意味では三宅さんがお書きになった本とは話をしながら読み終わったような一冊。
そういう読書も必要。
意見の違う人の本を読んで「いや、俺はそう思わ無ぇよ」。
そういう反論をしたくなる傾向の本も大事だなと思った。
物語を人生の中に取り込むというのは大賛成だが、「それ取り込んじゃ、おしまいよ」というのもある。
三宅さんが薦めている面白い本なのだろうが、武田先生はその本を内容を聞いただけで大嫌い。
「親ガチャ」
誰の造語か知らないが、親に対しても子に対しても、これほど侮辱した言葉があるだろうか?
ところがこの言葉が令和の世の中、平然と歩いているという。
津村記久子さんの『水車小屋のネネ』−中略−
について語りたい。いわゆる「親ガチャ」に外れた姉妹が、素敵な人生を送るまでの日々を、平成史とともに描く。(120頁)

これを三宅さんが感想文を書いてらっしゃるということ。
彼氏を家に連れ込むような母親から逃げ、18歳と8歳の姉妹は家出を敢行する。(120頁)
「親ガチャ」に外れた子らが、親から離れて自立し、やがて幸せを掴むという、ある意味でハッピーエンドだそうだが
何か好かん、この物語の流れが。
方言が出てきてごめんなさいね。
武田先生は「親ガチ」ャという言葉が大嫌い。
水谷譲も好きではない。
我々は古い昭和の人間。
この「親ガチャ」に関する物語があるとすれば、哲学的に洞察した「親ガチャの哲学」という。
戸谷洋志『親ガチャの哲学』−中略−
自分の生き様や性格、あるいは将来の選択、極端に言えば罪を犯してしまうかどうかという選択にいたるまで、「親から受けた養育の結果である」と考えることが「親ガチャ」の本質なのだ。(121頁)
自分の生き方は自分では変えられない、一度外れを引いてしまったらその後の人生をいい方向に変化させようとしても難しい、という諦念が潜む。(122頁)
そういうほとんどヤケな気分から生まれた言葉ではなかろうか?
確かに子を殺す母とも呼べぬ女が起した事件はある。
或いは親を殺す子、孫、そういうのも世間ではある。
そんな犯罪でさえも「親ガチャ」などという一語で解ける出来事ではない。
著者は言う。
「親ガチャ」に外れても、楽しい人生を、人は送ることができるのだ。当たり前かもしれないけれど、それを思い出させてくれることが、私は嬉しい。(124頁)
武田先生はそうは思わない。
一体に親ガチャに当たった人というのが世間に何人いるのか?
何を以て「外れ」なのか「当たり」なのかというのも曖昧だと思う水谷譲。
この点、著者の文章を読みながら、一人、この書を読みながら反論をつぶやいていた。
親はガチャガチャではない。
親は何者か?
親は「宿命」。
コミックでお話をする。
「あしたのジョー」も「鉄腕アトム」も「星飛雄馬」も「竈門炭治郎」も
もっと平たく言えば「桃太郎」も読みようによっては「親ガチャに外れた人達」。
「あしたのジョー」なんて命がけで闘っているのに。
あしたのジョーの親はどんな人かと思う水谷譲。
出てこない。
鉄腕アトムは(親が)天馬博士。
鉄腕アトムを作った人。
ロボットを作っておいて「成長しないから」といじめる。
星飛雄馬。
まあ嫌。
ちゃぶ台をひっくり返して、暴力しか振るわない。
竈門炭治郎もそう。
妹は鬼になったというのに、あの親は一体何をしているのだろうか?
宿命を受け取りつつ、自分の人生を負っていく。
それが人生ではないか?
親を否定したところに自分は無い。
考えてみましょう。
親ガチャに当たっていれば。
桃太郎は間違いなく鬼退治はしない。
桃太郎は親も酷い。
桃太郎を桃の中に入れて流した。
桃太郎を育てたのは見知らぬお爺さんとお婆さん。
それ(桃太郎が入った桃)を拾ったのがお爺さん、お婆さん。
(実の親は)桃に入れて流した。
本当にあんな狭いところに。
でも平たく言うとそれがある故に桃太郎は鬼退治をした。
桃太郎に鬼退治をさせる為に親は桃の中に入れた。
自分が物語を始める為には親の物語が必要。
「親ガチャ大当たり」で美味しく甘い人生があったとしても、そんなのはタネ無しのシャインマスカット。
美味しいと思う水谷譲。
タネ無しの話は明日また続きをということで。
昨日は親ガチャという言葉に巡る思いを喋らせてもらったのだが、三宅さんほど武田先生は「親ガチャ」という言葉が認められない。
何せ武田先生はデビュー曲が「母に捧げるバラード」だから。

母親という「外れの親」から物語を繋がないとあの歌はできてこない。
愚かな母だが、その母に向かって「あなたが教えてくれた人生」と歌いあげないとあの歌はできない。
そういう意味では親の捉え方が三宅さんとは違うワケで。
「なるほど。この人は面白いとこ、目ぇ付けるな」という章もあって。
「実は、趣味で短歌にハマって」
という言葉を聞くことが、増えた。(181頁)
なぜ今、短歌ブームなのか……?(181頁)
まず指摘したいのが、SNSと短歌の相性の良さである。(181頁)
それに季語等々の縛りが薄いもので、自分の感情みたいなものを五七五七七にしていけばもう短歌と呼べるワケで。
たとえば8刷・累計2万部を超えた『水上バス浅草行き』−中略−
。この歌集には「ほんとうにあたしでいいの? ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし」という短歌が収録されている。(181〜182頁)

やはりいい。
おそらく求婚された時の嬉しい動揺の中にその女性はいるのだろう。
その動揺を思わずつぶやいた言葉そのものが和歌に姿を変える。
もう分かる。
そんなに綺麗好きでもない部屋か何かだろう。
それにちょっとだらしなくて透明の数百円傘が何本もある。
それだけでその人がどういう人が、生活が全部見える
実はこの歌、Twitter(当時)で拡散されたことがきっかけでたくさんの人に広まったのだ。(182頁)
「わかるな」とかという「イイネ」がいっぱい灯ったという。
Yahoo!にしろGoogleにしろ、速報としてのニュースや知りたい情報について便利ではあるが、長い文章については時に筆者が読ませるだけの力量が無いものが多い、と。
あのタラタラした文章というのはイライラする。
基本はみんな拾い読みである。
客が欲しい故に、「人目を惹きたい」という文章が非常に多い。
SNSは情報制度も完成しているのではない。
悪事にも使えるという。
「悪い者の味方もしちゃう道具なんだ」という。
そういう意味ではあの道具は少しドロが付いている。
SNSと短歌の相性の良さが、若者の短歌ブームを引き起こしていった。(183頁)
その文章の短さ故に印象的な言葉の組み合わせがその作品の深さを伝える「文芸」に変化するという。
短歌とは深さを感じ取れない人には何も伝えない。
ところが深さを探る人には深さを感じさせてくれる文芸であるという。
これは「なるほど」。
それ故に人を立ち止まらせるような短歌というのはもの凄く優れたものがある、ギクッとするという。
(上坂あゆ美)。この歌集にもまたTwitterで人気となった「お父さんお元気ですかフィリピン女の乳首は何色ですか」という一首が収められている。(182頁)
何か凄いがお父さんに対して何かあったのだろうと思う水谷譲。
何だろう?この一首は。
一体にこの娘と父親に何があったのだろう。
なぜフィリピン娘の乳首の色を娘は父に聞くのであろう?
でもユーモアも感じる。
取り方がいろいろできるから面白いと思う水谷譲。
不完全であるが故に何かしらこの手の作品にも惹き付けられてしまう。
お互いの短歌を発表し合う「歌会」は、オンラインでも容易に開くことができる。(183頁)
面白い。
短歌は俳句よりうるさくなく、一首詠みたくなる文芸だ。
作ってみたくなるという。
ある歌会、SNSの歌会でこんなお題が出た。
お題:まっすぐ生きたい。それだけを願っているのになかなかそうできません。まっすぐに生きられる短歌をお願いします。−中略−
短歌:「まっすぐ」の文字のどれもが持っているカーブが日々にあったっていい
木下龍也(184頁)
これはいい短歌。
二度三度、口の中でつぶやきたくなる短歌。
SNSの情報とは違い、わずかな五七五七七ながらこの一首には物語がある。
「まっすぐ」とひらがなで書いてみて、一本もまっすぐの線が無い「まっすぐ」という文字の中に「曲がったっていいや、生きていこう」という。
こういうももの感じ方というのはつくづく「いいな」と思う。
「『話が面白い人』は何をどう読んでいるのか」
三宅香帆さん、新潮社から出ている。
読み甲斐があった。
ただしもう一回繰り返す。
本当に三宅さん、ごめんなさい。
あなたと武田先生は読書の傾向が違うもので、もう昨今の本はさっぱり武田先生は読んでいない。
勘弁してね。
読んでもいない本、見てもいないテレビ、贔屓にもしていない漫画コミック。
それらの感想文、これを読んで今、語っているワケで。
時として反論等々も喋っている。
でも著者の感性には教えられることがたくさんある。
40数歳も違う人だから感性の違いは当たり前だが、いい感性をなさっていると思う。
『「死にたい」とぶつやく 座間9人殺害事件と親密圏の社会学』(185頁)

今、こんなタイトルの本があるそうだ。
「三枚おろし」のことを考えると、武田先生は絶対にこの本は取り上げない。
世間の中には現実として生きづらさを訴える人の主張というのはあるワケで。
人間関係の中で繊細さ故に傷付きやすい人、そういう人達の主張も本にすべきということなのだろう。
最後に紹介したいのが、2022年10月に刊行された『聞く技術 聞いてもらう技術』(東畑開人、ちくま新書)である。(189頁)
東畑は、コロナ禍によって雑談が失われた、とも述べる。(189頁)
コスパとタイパを重視する社会は、人の孤独を癒す場をなくしやすいのだ。(189頁)
この「雑談」という一語に武田先生などもハッとしたワケで。
NHKの連続テレビ小説『虎に翼』が面白い。
1940年に女性で初めて弁護士となった三淵嘉子さんをモデルにした、主人公・猪爪寅子の人生を描いた物語である。(190頁)
(
連続テレビ小説 虎に翼 〈第110作〉|番組|NHKアーカイブス)
寅子の「はて?」は、社会に疑問を持つときのお決まりの台詞である。この「はて?」が秀逸だ。(191頁)
『虎に翼』を観たとき、「その手があったか!」と膝を打った。「はて?」という台詞。(191〜192頁)
疑問を外ではなく内に向ける。
疑問符であること。
そういう疑問符をちゃんと持っていること。
「なぜ?」「どうして?」といった言葉は、相手への否定のように受け取られやすい。(191頁)
確かに「はて?」は自分の頭の中に入ってくると思う水谷譲。
「一緒に考えてゆこう」というニュアンスが「はて?」にはある、と。
こんな著者の気付きは本当に武田先生は勉強になる。
更に興味深い本を紹介しておられる。
『〈公正(フェアネス)〉を乗りこなす』『訂正可能性の哲学』(194頁)


そういう本がある。
両方ともいい。
こういう本も、いつか取り上げてみたいと思う武田先生。
著者の読書感想文。
これを山程読んだのだが、あまりにも読んでいない本は飛ばした。
でも若い感性で惹きつけられる文章。
読んだことのない本の感想文で「方舟を燃やす」とか「女の国会」。

昔に書かれた本で「女の国会」があるそうだ。
(2024年に出版されているようなので「昔」でもないと思う)

「一番の恋人」

この三冊を取り上げ、「今、読書界に起こっている現象がある」と。
たとえば村上春樹『1Q84』をはじめとして、平成以降の日本において「物語は陰謀論に対抗し得るのか?」という主題は脈々と受け継がれてきたのだ。(207頁)

難しい世相の割り方だ。
しかし「物語と陰謀論がケンカしている」というこの見方はギクリとする。
武田先生はこの見方を実にわかりやすく割り切った。
テレビ界に置き換えて、物語とはドラマ、陰謀論とはニュース、そういう割り切りではないだろうかという。
陰謀論は時代によって姿を変える。たとえばオウム真理教の言説や、ノストラダムスの大予言、反ワク……さまざまな現象の中で、手を替え品を変え「この世界を悪化させている巨大な敵をつくる論理」を社会は探し続けている。(207頁)
日々のニュースは、或いはニュースワイドショーが取り上げている話題こそ、様々な陰謀を暴き伝えることにある。
戦争が起きれば、黒幕は誰か、と犯人探しを始める。選挙があれば、政策内容よりも候補者の人柄──特にその悪い側面にスポットライトを当ててしまう。(208頁)
そういうことが情報番組で少し張り切り過ぎているのではないだろうか?
やはり「繋がる物語を私達は作っていかなきゃなりません」という。
悪者を指さすことではなくて、その悪の生まれた原因を物語の中に落とし込んで、そこから考えるという。
ごめんなさい。
ちょっと上手く言葉にならないが、そんなことを彼女の文章を読みながら考えたワケで。
「話をもっと面白くしたいから」と思って本のタイトルそのものに引っかかって。
武田先生の仕事の神髄、それもそういうこと。
話をどう面白く聞かせるか?
話をどう面白く演ずるか?
勉強の意味でこの本を手に入れて読み下したワケだが。
「『話が面白い人』は何をどう読んでいるのか」
三宅香帆さん、新潮社から出ている。
この著者はもちろん平成生まれ。
武田先生より何と45歳年下で。
昨日ちょっと説明が上手くいかなくてごめんなさい。
水谷譲から指摘されたのだが「それは本に書いてあることですか?鉄矢さんが考えたことですか?」。
昨日だいたい喋ったことは武田先生が考えたことで。
いつもは印を付けるのだが、ここのところ印を付けていないものだから、まるで著者が言っているように言ってしまったのだが、あれは武田先生が言っていること。
まとめるとこういうこと。
昨今、「戦っているもの」の中だが、テレビでいえば情報番組とドラマ番組。
この両者が今、戦っているのではないだろうか?
吉本の芸人の方が中心になったバラエティーはというと、やはり情報番組。
「オモロいアイツ」とか「美味い町中華」とか「やっちまった芸能人」とか、これはやはりみんな個人情報。
バラエティーの楽しさは何かというと意図的個人情報流出。
「ヘマ」「トンマ」で。
ズバリ言い切ってしまうが、その話が面白いから笑っているのではない。
みんなで笑っているうちに面白くなる。
どんな話も笑い声から始まるようになっているので。
つまり聞いて笑ったのではない。
笑っているうちに話が始まるという。
情報番組等やバラエティーに独占されて、もう物語は今、もの凄く苦戦している。
一番いいのは有料配信チャンネルに参戦して、そこで新しいドラマを作ること。
武田先生も見るのだが(有料配信のドラマの内容は)あまりにも数奇過ぎる。
日常が全くない。
有料配信ドラマでゆっくり飯を喰っているシーンなんか見たことがない。
陰謀ばかり巡らせて裏側を描くことに邁進していて、それは物語ではないのではないか?という。
物語は出来事の仕掛けを情報化しているだけで、物語とは出来事の情報ではない。
物語とは物語についてゆこうとする決心を、見ている人にしてもらうという。
一緒に旅をする。
物語の創作された人物に自分を似せて作ろうとする決心。
何かそういう思いが物語ではないか?
この著者の(話に)ここから乗る。
だから武田先生はこの三宅さんという若い人にハッと教えられる気がしたが、こういう物語が非常に弱くなった時代故に、若い人が推しに夢中になる。
宇佐美りんの『推し、燃ゆ』−中略−
は芥川賞を受賞した。(213頁)

自分に物語が無い故に人の物語に賛同し、その人の物語にどこまでもついてゆこうとする決意。
それが彼女、或いは彼の物語になっているという。
そうやって考えるとこの三宅さんの指摘、「推し、燃ゆ」を絶賛なさったのだが、武田先生は「推し」がわからなかったから。
「何かそういうことんじゃないかな」と思う。
つまり物語を辿るという人間の好奇心を刺激すること、それが物語に課せられた使命でははなかろうか。
情報と物語が今、戦っている。
私たちの社会の景気と「推し」は相関する。今、あなたの「推し」がしんどいとすれば、「推し」自体の問題ではなく、それは社会の問題かもしれない。(215頁)
そこまで物語を大きくしている。
何かそういう「情報ではない物語に対する飢え」みたいなものがあるのではないだろうか?という。
これはちょっと武田先生は言い方が難しかったかも知れないが、これは前にこの番組で紹介したのだが「『象徴』のいる国で」というので菊地(史彦)さんという方の、もの凄く優れた「象徴」というものの捉え方があった。
(
2022年7月18〜29日◆ラジオ版 昭和は輝いていた)

これ(「象徴」)は天皇のこと。
ところが天皇の象徴ということを言っているうちにいつの間にかその象徴が歌謡界に移り込んで象徴を美空ひばりさんに托す。
それ故に彼女は「歌謡界の女王」と呼ばれた。
つまり何か物語が時代の中に移り込んでゆくという。
こういうのがいい。
芥川賞を取った「推し、燃ゆ」あたりぐらいまで話が分かったが、その先、天皇のどうのこうのとかという話から美空ひばりの話まで、何を言っているかちょっとよくわからなかった水谷譲。
これはちょっと武田先生も申し訳けない。
これはまた別の本を持ってきたからなおさら混乱したのだが。
びっくりしたのだが最近、自分のことを「アイドル」と言う子がいる。
これはおかしいと思う。
アイドルは人が呼ぶ時にアイドルと呼んで自称するものではない。
アイドルというのは物語を感じさせてくれる芸能人のこと。
いよいよ最後だが、終わりの章に近いところで、この著者の三宅香帆さんはこんな文章を書いておられる。
2023年は、ひとことで言えば、リバイバルブームの年だった。(223頁)
昔やった作品の続きを書いてしまう。
これはハッとする指摘。
たとえば村上春樹の新作『街とその不確かな壁』は−中略−
彼自身の初期中編小説−中略−
をセルフリメイクした作品だった。(223頁)
『SLAM DANK』を作者井上雄彦自らメガホンを取り、リバイバルしたことで成功した一本だった。(223頁)
また映画でいえば『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』『ゴジラ-1.0』が流行するなど、既にあるコンテンツを元に制作しヒットした作品が目立った。
宮崎駿監督の最新作『君たちはどう生きるか』もまた、これまでのジブリ作品のセルフオマージュのような場面がちりばめられ、やはりリバイバルブームの文脈に配置できるだろう。(223頁)

著者は「今、物語に飢えた人達によってリバイバルブームが続いている」。
ドキッとした。
皆さん、来年期待してください。
新年明けから始まります。
チャンネルは8(フジテレビ)を中心に「
102回目のプロポーズ」

(今回の本放送の収録は昨年末なので、このドラマは既に終了)
余計な物など(CHAGE and ASKA「SAY YES」)

あれ(「101回目のプロポーズ」)のリバイバルが立ち興る。
あそこで終わった物語、そこから数十年の時を経てその後、彼らはどうなったのであろうという物語を継ぐ物語が2023年から考えられるようになってきた。
これが長寿高齢化社会を迎えて待望されているのではないか?
だからもう年取った人は新規の物語についていけない。
この三宅さんみたいな頭のいい人が読んだ物語も、こんなお爺さんになると「そういうもものの言い方は無ぇよ」とかになってしまうが、三宅さんがおっしゃる「この物語の続き」とかいうと「ゴジラ-1.0」とか見てしまう。
武田先生も「ゴジラ-1.0」を見た。
だが私が読みたいのは、村上春樹の初期三部作、とくに『羊をめぐる冒険』の登場人物たちが果たしてどのような老後を迎えているか、である。(225頁)

そして三宅さん、ごめん。
自分の都合のいいところだけで興奮するこのお爺さんを許して。
あなたが終章でお書きになったその文章の中にこれがあった。
A司馬遼太郎アベンジャーズ(226頁)
やはり司馬遼太郎先生の小説の登場人物を一気に出すしかない……!「坂本龍馬VS.秋山兄弟VS.土方歳三VS.斎藤道三」、夢の競演。−中略−
ともかく、私は小説でもアベンジャーズ企画をもっと読みたい派なのである。(226頁)
これは三宅さん、武田先生は乗る。
これは大賛成。
司馬遼太郎というのは日本史の中にヒーローを見つけて再発見した歴史小説家。
彼は敗戦後の日本、300万人以上の死者を生んだあの太平洋戦争の一兵士として戦ったことのある司馬遼太郎は無残に敗れた祖国に愛想が尽きた。
「何もかにも」の日本に嫌気がさした。
でもフッと「昔はこんな日本じゃなかった」と思った時に、次々と日本史の中にヒーローが出てきたという。
「推し」が。
その「推し」の一人に南国の英雄、土佐の坂本龍馬がいるわ、勝海舟がいるわ、空海はいるわ。
そういうアベンジャーズ勢揃いの新奇な物語。
これはごめんなさい、三宅さん。
武田先生はできている。
武田先生はこの手の物語をもう構想している。
シノプスをもう持っている。
タイトルは何というか?
「遼太郎の夢」
日本が戦争に負けてヤケクソな福田青年。
(司馬遼太郎の)本名は福田という方。
この人がヤケクソで戦後の日本を生きている。
「何だこの!バカじゃ無ぇか。負けるような戦争しやがって」
腹が立って仕方がない。
でも喰っていく為に仕方がないので新聞記者を始めた。
それもペーペーの。
彼が一番最初にやった仕事は寺社巡り。
京都のお寺をグルグル回って、四季折々の行事事を新聞の片隅に載せる。
それが司馬さんの仕事だった。
それで京都の東寺でこれは本当にあった話。
よく昼寝していたそうだ。
その昼寝した隙に彼の枕元に歴史上の主人公達が時空の穴を通り抜けて次々とやってくるという。
そして司馬遼太郎が歴史上の人物に取材を開始するという。
素敵だと思うのは武田先生だけか?
面白いんじゃないかと思う水谷譲。
年を取っての夢だが、武田先生の推し活はまだ続いている。