(2024年にも同じ本、同じタイトルで取り上げている。
2024年9月2〜13日◆みんな政治でバカになる)
ショッキングなタイトルで「みんな政治でバカになる」という。
「政治について語ったりなんかすると、みんなバカになっちゃうよ」という、凄いストレートなタイトルで。
「この言い方は失礼だな」と思いながら、ほっと気が付くと騒ぎが多い。
漫才のボケをやってらっしゃる方が選挙特番か何かで総理に言った一言で大炎上が始まって大騒ぎになって。
そういう意味で、この「政治的発言」というのが非常に火が点きやすい状態。
その後も続々とテレビメディアの政治的発言というのが炎上しているのは御存じか?
色々ありすぎてわからない水谷譲。
この間も見ていたらびっくりしたが、朝の有名な政治を語る番組でゲストにお迎えした方がその番組の有名コメンテーターにつっかかり始めて。
そのゲストコメンテーターの人が番組に出ている女子のアナウンサーに向かって「あなた、真っ当な仕事やってると思います?」。
つまり「その番組自体が非常に偏向した報道やってるんじゃないか?それに関して内部にいる人間として自分が大人の仕事をやってると思うかどうか」という。
それをメインの司会者と、レギュラーコメンテーターが「それを彼女に聞くのは失礼だろう!」と言って、もうほとんど放送事故みたいな。
そのテレビ、あるいはラジオのある番組の中ではメインの司会者の方がそういうお考えをお持ちなので、ゲストを招いても全員司会者の意に沿うように忖度して番組の流れが決まっているというような。
テレビ等ではよく見受けられる。
そのことに関して、今度はまたもの凄い叩き方でソーシャルネット、SNSで叩きが始まる。
政治について、なぜかくも感情的に人間はなるのだろうか?
この壮大なるテーマをやってみようかなと思って。
いい本を見つけたと思った。
(著者は)綿野恵太さん、晶文社から出ている「みんな政治でバカになる」。

この「バカになる」という「バカ」というのは失礼だとは思うが、しかし前後の見境も無くカッとなることは事実。
テレビメディアのニュース番組というのは、今や「オールドメディア」と呼び捨てにされていて、SNSのネット世界に繋がる人達から「オマエ達は古いんだ」。
そしてSNSの方は自称を「ニューメディア」と名乗っていて。
でもこれは正確にいうと「マス」に対抗する「パーソナルメディア」「個人のメディア」と、それが正しい呼び方だと思うのだが、彼らはしきりに「ニューメディア」というふうに。
このニューメディアの方々、YouTubeなんかで番組を作っておられる方、ショート動画を作っておられる方は芸能人が嫌いなのだろう。
ボロクソに書いてあって。
その中に武田先生も時々、混じっている。
もう武田先生の場合は叩くというよりも「前にこんなヤツもいたな」というような・・・
「言われてなんぼ」「話題にのってなんぼ」だと思う水谷譲。
彼らニューメディアは芸人がニュースという事実に侵入してくることが許せないという感情があるのだろう。
この「許せない」という感情。
「許せない!」という「道徳感情」は「直観システム」に当てはまる。「直観システム」は非常に重要な認知機能である。(5頁)
強い行動を支える。
「自分の信念を裏付ける情報だけを集める」という「確証バイアス」があるが、
情報を合理化して都合の良いように解釈する能力も高くなり、ひいては自分の意見に合わせて巧みにデータを歪めてしまう」ことが指摘されている(8頁)
一定の間違いのパターン=認知バイアスがある。(5頁)
「俺は知っているぞ、本性を」「真実は一つ」とかと言う。
でも真実は一つとは限らないのが現代。
こういう「物事を知っている」、そして知っていることによってこみ上げてくる感情で「許せない」とかと思い詰めてしまうという。
こういう感情のあるものを綿野さんは「バカ」とおっしゃっている。
正確につかんでないのに許せないなんていう、もの凄い感情が沸き起こる。
「そのこと自体がオマエバカだよ」という。
だとしたらバカがいっぱいいると思う水谷譲。
(その言い方は)きついと思う武田先生。
でも今回、そのいっぱいいるバカを並べてみる。
日本にどれほどのバカがいるか。
大体匿名で皆さんSNSで発信してらっしゃると思う水谷譲。
だからこの「(今朝の)三枚おろし」では「あの番組のあの司会者」とか「お笑い界のあのボケの人」とかと指差しはできない。
それは失礼だし、それも一種、認知バイアス。
違う側面がその人にあるかも知れないので。
だから例え話が非常に少ないので、その分わかり難い。
今日、お話した話は何かというと、アメリカの話でどんなに世界が騒ごうがトランプさんが大好きだという方がいらっしゃる。
その人達はトランプを支持する為にはどんな嘘ニュースも信じるという方達。
彼らの真ん中に燃えている「許せない」という感情は何かというと、バイデンが許せない。
そういう感情。
「バイデンが許せない感情」がトランプを支持させるのだが、綿野さんはその感情そのものを「バカ」とおっしゃっているのだが。
どんな種類のバカがいるのか、探っていこうというふうに思う。
「みんな政治でバカになる」だが、どういうバカかというと、「俺は知ってるぞ」とすぐうぬぼれる。
ほとんどの人が政治について無知=バカである。いわば、「人間本性」によるバカ(認知バイアス)と「環境」によるバカ(政治的無知)とがかけ合わさった「バカの二乗」である。(12頁)
申し訳ない。
これは武田先生が言っているのではない。
全部罪を着せてしまうが。
綿野恵太さんという方がおっしゃっていて、バカにならない為にはどうしたらいいのか?
興味がある。
(バカには)なりたくない水谷譲。
だからこの方のおっしゃる「バカ」というものをいろいろ考えてみようと思う。
特に政治を語る時、人間は間違いやすい、物事を歪んで見やすい。
しかも政治というものは真実が実に掴みにくいんだ、と。
政治に於いては、本質を取り逃がしやすいという。
実に面倒臭いが「政治的なバカ」というものに向かい合って「バカではない自分」というのをどこかで発見したい。
奥様からは「分かり難い」と酷評だったのだが「庭の話」。
(
2026年4月20日〜5月1日◆庭の話)
実はこの「みんな政治でバカになる」は「庭の話」の続編。

「庭の話」の中に、もの凄く心に引っかかる文章が一行あった。
三枚おろしのネタはこんなふうにして見つけていく。
その前作で語った「庭の話」に関して武田先生が引っかかった文章はどんな文章かというと
「意識の低すぎる」選挙と、「意識の高すぎる」デモ(「庭の話」340頁)
武田先生はこの一行が凄く気になった。
皆さん、ちょっと言葉を荒々しく語ってしまうが、勘弁してください。
「愚かな選挙」というのは選挙というのはバカがやっているという。
投票する方が、印象で勝手に票を入れているだけだ。
そして「賢すぎる反対運動」。
反対運動をやっている人はみんな賢すぎて、あれこれ推論を立てて、「こうすればこうなる、こうすればこうなる」その理屈で反対運動をやっている。
「愚かな選挙、賢すぎる反対運動」
こういうふうに言われるとギクッとする。
そしてここでまたキーワードが出て来る。
このキーワードは「大衆」。
これはもうはっきり綿野さんもおっしゃっているが「大衆」。
水谷譲は「何衆」か?
この間、武田先生に向かって「私は大衆」と言った。
武田先生も「大衆」。
武田先生と水谷譲は「大衆」。
バカ。
何でバカかというと
「大衆」は自らの「生活」にしか興味がなく、政治に関心がない。(27頁)
「大衆でいいじゃないか」と断定した思想家がいる。
吉本隆明。
吉本ばななさんのお父さん。
この人は「大衆でいいんだ」と言った。
「頭がいいフリをしてるヤツなんかロクなヤツいない。エリートぶりやがって」
つまり「そういう人達こそバカだ!大衆が偉いんだ!」と言って。
これは忘れもしない。
吉本さんが70年代に発表したのが70年の学生運動の中でもの凄く揺らした言葉がある。
それは「共同幻想論」という。
武田先生はこの言葉を聞くとギクッとする。
「学生運動やってるヤツってのは、共同で集団で幻想を見てるんだ。その幻想から目覚めない限りダメなんだ」という。
彼はエリートが見ている、つまり学生運動をやったヤツはみんな頭がいいヤツばっかりだった。
それを「共同幻想見てる」と否定した。
これは凄くショックな一言だった。
それで吉本隆明が言ったのは「共同幻想に溺れるぐらいだったら対幻想に溺れろ」。
「ペア幻想」
「『我々』っていうのは幻想なんだ。『私とあなた』」
ピンとこないかも知れないが、フォークソングは「我々」を歌った。
私たちの望むものは(岡林信康「私たちの望むものは」)

こういう「私達」を歌った。
ところが学生運動が行き詰まって、1975年で「私達」は全滅していく。
そこでポーン!と出てきたのが「対幻想」。
「ペアの出来事」を歌にする。
あのひとの ママに会うために(松任谷由実「ルージュの伝言」)

これは「ペア」。
そして80年の一番最後に「自己幻想」というのが出て来る。
自分の心境だけを歌う。
砂まじりの茅ヶ崎−中略−
俺の家も−中略−
今 何時?(サザンオールスターズ「勝手にシンドバッド」)

つまり共同幻想、対幻想、自己幻想。
全部幻想。
幻想を見ていないのは誰だ?
「大衆」
吉本は途中で変えて「大衆」と呼んでいたものを80年代に入ると別の呼び方をした。
何と呼んだか?
「消費者」
そこから糸井重里のパルコのコマーシャルなんかが始まる。
「おいしい生活」
(この日の冒頭は武田先生の著書の宣伝)

本題に入る。
(昨日までの話は)流れが面白く「そういう繋がりなんだ」と思った水谷譲。
若い時に全然気付かなかった。
年を取ったら「それでこうなったんだ」というのが思い当たる。
このへんに老化していく意味合いがあるような気がして。
昨日お話したのは吉本隆明というこの思想家が60年代、70年代、学生で広がったのだが「共同幻想論」。
これはやはりハッとした。
「俺達が見ている『俺達』というのは幻想なのか?」という。
よしもとは「大衆」に何でここまで味方をしたか。
一九六〇年の安保闘争で国会を包囲するデモ隊にアンパンを売る「アンパン屋」がある(27頁)
「安保反対」で安倍(晋三)さんの祖父(である)「岸(信夫)を倒せ」というので国会を取り囲んだ。
頭のいい反対派の人達が何重にも取り囲んで国会が揺れるぐらいの大騒ぎになった。
その時に、吉本隆明は雷に打たれたような衝撃をデモ隊の中に見つけてしまう。
それが国会に押し寄せた安保反対のデモ隊に向かってリヤカーを曳いてアンパンを売っているヤツがいた。
これに吉本は感動する。
「あれこそ大衆だ」「そういうバイタリティこそ大衆なんじゃないか?」「こういう人達が時代を作っていくんだ」という。
面白い見方。
安保闘争において全学連を支持した吉本は、既成左翼=共産党を商売のためにアンパンを売っている男よりも「愚劣」だと罵倒した(27頁)
こんなふうにして彼は「大衆の中にこそ国の未来がある」と。
この大衆を嫌悪したのが60年代、70年代政治学者の丸山真男さん。
この方は知識人で、
丸山にあるのは「大衆嫌悪」である。(29頁)
「大衆じゃダメなんだ。市民がいて、市民の理性を呼び集めて理屈を作って、その理屈から政治的決定を下していくんだ」という。
どちらも正しい気はする水谷譲。
ここから日本のリベラルが始まる。
この丸山さんと吉本さんが仲が悪いの何の。
吉本さんは「大衆が世界を動かす」。
丸山さんは「優れたエリート集団が世の中を動かす」。
大衆というのは何かというと直観システム。
リベラルはというと市民が考えた仮説「こうやればこうなる」という「推論システム」で世界が動いて行くんだ、という。
当初のリベラルは、今言っているリベラルともちょっと違う意味合いがあるような気がする水谷譲。
このリベラルはどこから誕生したかというと
一七世紀に新聞や雑誌といったジャーナリズムが発達し、カフェやサロンで「論議する公衆」(ブルジョワ)が理性的な討議をおこなった−中略−
しかし、このような「市民的公共性」はジャーナリズムが商業化し、テレビやラジオといったマスメディアが発達するについれて失われた。−中略−
「討論そのものもショーとして定型化され」た(35頁)
これにまず飛びついたのはお笑いの人で、昔、政治漫談があった。
政治を語る漫才。
コロムビアトップ・ライトという人達がやっていた。
政治家のことをボロカスに言うのが可笑しい。
まだ覚えているネタがあった。
気候がよくなると人間は頭がポーッとしてくる。
そういうことを捉まえたコロムビア・トップさんが「気候がよくなると頭がポーッとしてくる。少しこう、バカになってくる」という。
「頭がいい人が春先になるとポーッとバカになっちゃう」という。
そうするとライトさんが手を叩いて「え!?マズイよ。今の総理大臣、東大だよ」。
それで笑いを取るという。
その政治を語り始めるということは丸山さんがおっしゃったようにエリートしかできない。
だから大衆に対して「俺達はエリート」そういう自覚がある。
17世紀にブルジョアを育てたサロンやカフェが、現代というところではニュースショーとか政治討論番組になったりしている。
ずっと尋ねていくと面白い。
水谷譲の疑問は「リベラルの意味合いが違う」という。
生まれた当時のリベラルと今、我々が言っているリベラルは何となくニュアンスが違ってきたのかな?という気がしている水谷譲。
ちょっと覚えておく。
昨日の水谷譲の質問も含めて水谷譲と語り合いながら話していこうと思う。
お互いに確認した通り、武田先生と水谷譲は「大衆」。
直観で生きていて政治のこともよく分かっていない。
その中でも賢い芸能人の方で、みんな強い。
武田先生も春先までテレビ番組をやっていたが、最近の芸人さん達は政治に対する認識の深さが凄い。
勉強されているのだろうと思う水谷譲。
武田先生は「円安・円高」なんかもよくわからない。
水谷譲も何回聞いても仕組みがよくわからない。
全然わからない。
何で安くなることを高くなると言うのか?
高くなることを安くなると言う。
そんなのをトントン話す。
羽鳥さんやああいう人達。
それから日テレの武田さんとか。
全然わからない。
頭がいいのだろう。
これぐらいの差がある。
それはもうなぜかというと、武田先生も水谷譲も「大衆」だから。
彼らは何かというと「リベラル」というのはふさわしくないかも知れないが、政治が理解できるというのは、やはり一種エリート。
でもこの綿野さんは本を読んでいても、そのエリートである人達に関しても表現が非常にきつい。
これは何でかと言うと「エリートの人達は大衆をバカにすることによって仲間と結びついている」とおっしゃる。
つまりエリートの人達というのはやはり頭がよくて先が読める推論パターンを持ってらっしゃる。
私たちは自分の仲間かどうかを直観的に区別し、仲間だと認めたものをひいきする。このような傾向は「部族主義」と呼ばれている。一八〇万年前から一万年前に人類は狩猟採集をおこなう小さな群れで生活していた。「部族主義」は、自分たちの群れが他の群れにつけ込まれ、搾取されることを防ぐために、進化の過程で獲得された、と考えられている。(57頁)
「あいつら」(外集団、他集団)よりも、「われわれ」(内集団、自集団)のメンバーに無意識的な選好を持つ傾向である。(57頁)
DNAに組み込まれているのだと思う水谷譲。
だからそれに縋りついていること自体がバカだとおっしゃる。
このへんはどうか?
でもDNAだからしょうがないと思う水谷譲。
大衆のバカさもそう。
それはやはり人出がいっぱいあったら、知恵としては「アンパンでも売りに行こうか」という気になる。
それがどういう人出であろうとも「人が多いところでは商売が成り立つぞ」と思ってしまう。
その大衆の直観というのはまさに生きていくエネルギー。
このリベラル、エリートの人達は群れ易く、一度群れると自分達の道徳で集団をつくる。
群れ易い、環境を作るという。
「そこには誰も入れないぞ」という。
非常に自己の、自分の集団を大事にするという、そういう環境を作ってしまう。
これが彼らの、「部族主義」の人達の最大の欠点である。
リベラルな人達が求めているのは何かというと、自律的にふるまうということ。
自分で考えて自分で行動しているという。
それは自分の理屈に合っている、合理性と自律性。
この二つを自分の真ん中にしている。
人間にとって一番大事なことは自律的であるということ、合理的であるということ。
そういうふうに彼らは信じ切っている。
ところが大衆の中には自律的には生きられない人達がいる。
その手の精神の病を持っている人達にとっては合理、理屈に合う世界というのは非常に息苦しい。
そういう人達もいる。
これは「三枚おろし」で扱っているが、やはりあの「(浦河)べてるの家」とかというところで集団で生活する人達は自立できないからこそ集団をという。
これが合理と自律的にふるまうと対決してしまう。
そこで彼らは「こんなことじゃいけない」というので、ここで新しい言葉で「ケア」という言葉を使う。
(このあたりの説明は本の内容とは異なる)
社会がそのような傷つきやすい人達への配慮を忘れている。
ケアが足りないんだ。
寄り添うとかそういうことだと思う水谷譲。
それは武田先生は何か、そういうふうにコマーシャルで叫んだことがあった。
それは別仕立てにしてある。
根本的に水谷譲が言っている「リベラルな人」とか、この「エリートの人達」は何が違うか?
これは綿野さんすみません。
綿野さんの書いた通り武田先生は喋っていないかも知れない。
だが綿野さんの文章を必死になって自分で読み説いていっている。
綿野さん、そのへんすみません。
話がややこしくなってきた。
でも時々ワケのわからない日もあるが勘弁してください。
60年代に登場した思想家・吉本隆明は「大衆」に注目した。
彼はリベラルを憎んだ。
共同幻想論をふりかざし、理性や自立を振り回す社会運動家を嫌った。
大衆こそ世界を動かす、世論を動かすものなんだ。
彼らは後に「消費者」と呼ばれるようになり、消費者となってからは経済を回しながら国家を動かしているのだ。
だから現在いるのは「消費者」。
だからものすごく過敏。
政府も「米が高い」と言ってこれだけ騒ぐようになったのだから。
「消費者」というのはイコール「大衆」。
「大衆」はどうのように政治を判断しているのか。多くの人は−中略−
「道徳感情」によって判断している。(46頁)
道徳とは何か?
この著者の方がおっしゃっている。
これも考えた。
著者の方がおっしゃっている大衆の道徳。
これは衣食と礼節。
「衣食足りて礼節を知る」という言葉がある。(47頁)
「衣食」=「取り分」(49頁)
自分の分け前のこと。
社会全体からの自分の分け前。
「給料」といってもいいだろうが、もっと生々しくこれは「分け前」と呼んでおく。
これは武田先生のアレ。
この方、綿野さんの文章を読み説く為の例えで使っている。
「大衆」というのはいつも自分の分け前を気にしているという。
ではリベラル、エリートな人は何を気にしているのか?
この方々が注目しているのは「分け方」。
だから分け方はどうやって決めているかというと、今はやはり真ん中に政治家、保守。
保守の方がおられて、高市さんがおられてこの方が分け方に関しては決めておられる。
大衆というのは「分け前」を気にしている。
ところがこの「分け方」を気にしている人達がリベラル。
「公平じゃないよ!今の公平じゃないよ!」
この方がリベラルであるエリート。
エリートの人達は大衆がバカに見える。
「誰かを信じて任せているからバカなんだ」
これが主張。
「分けるヤツはズルするに決まってるんだ。大衆ってのはそういうことはわからない」
エリートの人達はそのことを指摘する。
大衆は感情で考える。
大衆というのはどのくらいバカか?
この方が書いておられる。
綿野さんの中で武田先生が頷いたところだが。
たとえば、大谷翔平や本田圭佑といったスポーツ選手がお酒や保険のCMによく登場する。しかし、よく考えてみてほしい。彼らの競技と商品には何の関係もない。好感度の高い有名人がCMに登場すると、私たちはその商品に対しても良い印象を持ってしまう。(46頁)
分け方は決まっている。
それが保守の主張で、選挙によって選ばれて分配という仕事をやっている。
それが時の政権中枢、内閣スタッフ、参与、総理大臣である。
大衆が「それだったらいいよいいよ。それだったら許す」「いや、それは許せないよ」という感情が世論を形成している。
これはそのまま書いてあることではないのかと思う水谷譲。
もう本当にごめんなさい。
かなり意訳してあるかも知れないが「こんなふうなことが書いてあるんじゃないかな」という。
アメリカ独立戦争における有名な言葉「自由か、さもなくば死か」(87頁)
リベラル。
自由が大事。
「自由が手に入らないようになったら死んだ方がマシだ」という。
中国の管理監視社会化−中略−
「自由」と引き換えに「幸福」を享受するのである。(87頁)
「分け方」は信用してくれというのが日本の保守系の叫び。
さっきちょっと中国の話をしたが、今、少し問題が中国も出てきているのだが、監視を強めにやって、これを分配に社会に繋げているワケだが、監視のないところで道徳が落ちていく。
そういう現象がみられてしまう。
こういう「道徳」とか「昔からのやり方」とかというのは「文化」というもので、これは自分達の国で育てるしかない。
道徳・文化というのは、その国の大衆が自前で作るしかない。
東ヨーロッパからやってきたサッカーの選手がいた。
一回目の東京オリンピックの時、確かオシムさんのエピソードだったと思う。
オシムさんは早朝、街へ走りに出た。
その時に感動する。
それは誰もいない信号機の前で、一人の着物姿のご婦人が青になるのをジーッと待ってらっしゃる。
誰一人通っていないし、車も無いのに、なぜ立ってるんだろう?
それは見ていなくても信号を守る。
これは文化なんだ
オシムさんはこのご婦人に感動して誓った言葉が「いつかサッカー選手として名を挙げたら、この国のサッカーチームの監督さんになりたい」。
夢が叶ったということだと思う水谷譲。
彼が言っていたのは「この国にはルールを守る習慣が日常の婦人にもある」。
こういう文化を持っているということが大事。
申し訳ない。
まだオチがついていないので。
いろんなバカがこの後も出て来るので。
「政治に触ると人はバカになる」という。