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2026年06月24日

ありあけ ポケモンミルクハーバーモンブラン

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ポケモンミルクハーバーモンブラン単品 | ありあけ,ハーバーワールド,ポケモンハーバー | ありあけオンラインショップ
練乳とはちみつを使用したしっとりした生地で、栗ペーストを練り込んだモンブラン餡を包んだ、やさしく香る栗の風味にこだわった洋菓子のモンブランを焼き上げたイメージのひとくちサイズのハーバーです。
パッケージにはピカチュウと各地方で最初に冒険に出る際の旅立ちの3匹たちがデザインされ、多くの世代で楽しめる仕様です。個包装はタイプ別でポケモンたちがデザインされています(全6種)。ミルクハーバー商品本体はモンスターボールをモチーフにした形に仕上げました。
内容量 1個
カロリー:76kcal

商品価格:単品173円(税込) ・ 5個入864円(税込)
販売期間:2026年1月15日(木)〜2026年12月31日(木)
販売店舗:ありあけ直営店舗・百貨店・量販店・駅売店・ありあけオンラインショップ等


今年の一月に発売になっているので新発売って感じでもないけれども、「かなトク!」とやらでポイントが付くからなと思っていろいろ爆買いした中の一つ。

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直径が4.5cmで厚みが2cmぐらい。

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味は普通のハーバーみたいな。
ミルク感と栗感もあることはあるけれども。
ハーバーは相変わらずそれなりのお値段だけれども量が少なくて、一個ぐらい喰っても喰った気がしないってことで。

横浜銘菓 ミルクハーバー モンブラン + ピーナッツ半月 詰め合わせセット|焼き菓子 個包装 ギフト お土産 [Pikotta]



posted by ひと at 18:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年06月22日

テレ東の「田村淳のTaMaRiBa」で発達障害の話が少し出たりするかも知れません

発達障害を扱った回とかということではなさげなので、あんまり関係が無いとは思うが一応ご紹介しておく。

田村淳のTaMaRiBa〜子どもの夢と挑戦!新プロジェクト始動
テレ東 6月29日(月) 3:20 〜3:50 (6月28日(日) 27:20〜)
田村淳と共に地域創生や新規ビジネスの開発に挑!▽才能や環境の壁を越える子供たちの挑戦に密着し、日本の若者の意識を変える一大プロジェクト?社会をエンパワーメント!
番組内容
TaMaRiBaが始める新たなプロジェクトのキーワードは「子供の夢と挑戦」。日本財団とタッグを組み、生まれ持った環境や障害などの壁を乗り越え、ジャンルを問わず夢に挑戦する子どもたちをエンパワーする。がん経過観察中のスノボ少年、難病を抱える寝たきりeスポーツプレイヤー、独自の探究心を持つ発達障害の少年など、彼らの挑戦のプロセスが日本社会の意識を変革していく!?
出演者
田村淳、橘ケンチ(EXILE)、池澤あやか(日本IBM/タレント/エンジニア)、藤森慶太(日本IBM)、相澤佳余(日本財団)、高柳正盛(日経BP)、澤円(武蔵野大学専任教員)


この番組は後からYouTube等で公開されるっぽいので、見られない地域の方とか見逃してしまった方でも後から見られるのではないかと思われ。
そもそもこの番組を全く知らないのだけれども↓あたりに詳細が書いてある気がする。
新番組「田村淳のTaMaRiBa」スタートします!|田村淳のTaMaRiBa

ニューロマイノリティ:発達障害の子どもたちを内側から理解する



posted by ひと at 06:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 発達障害 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2026年06月20日

2026年5月18〜29日◆みんな政治でバカになる(後編)

これの続きです。

(著者は)綿野恵太さん、晶文社から出ている「みんな政治でバカになる」。
この「バカになる」という「バカ」というのは失礼だとは思うのだが、政治にまつわる様々な人の群れの解説という先週・今週。

保守という政治的な集団がいて、それから「時代は進んでいるぞ」というのがリベラル「改革派」の方。
先週、水谷譲が言っていたが「リベラルも昔とちょっと違うんじゃないですか」と言うのだが、リベラルも枝分かれしてしまって「左のリベラル」と「右のリベラル」がいる。
「もう全部、日本をやめてしまおう」という左派と、「一部改良しつつ保守を打倒していこう」という右のリベラルがいるという。
政治にまつわる集団の説明。
これはあくまでも説明だから「誰が誰々」とかと言っているワケではない。
この保守に関してリベラルが攻めていく。
攻めてくるリベラルに対して、「俺達が盾だ!」というので保守を守りに行く一団がいる。
ここにまた、「政治に絡むバカ」として存在する。
右翼の方を「バカ」と言っているのではない。
そういう種類の呼び名で語らせていただいている。
この右翼の人達に更に加えて、「政治ファン」という、「楽しむ」という。

政治的知識の獲得に熱心な人々がいると指摘している。しかし、それは自らが所属する集団や党派(われわれ)を応援し、対立する党派(あいつら)を嘲笑うためだという。つまり、阪神タイガースや浦和レッズを応援するスポーツファンのように、「政治ファン」なのである。(176頁)

ここからは「政治ファン」を「亜インテリ」と呼んで考察していく。(176頁)

「亜インテリ」というべき「ネット右翼」(179頁)

いつの時代、いつの世にもいる人達。
こういう人は本当にいる。
先月のことなんかグズグズ言いたくないが、一か月前にテレビを見ていて、番組名とか言わないが、一番頭にきたものを言わせてもらう。
岩手県の山奥が燃えていた。
何日も何日も。
雨が降らずに。
もうみんな必死になって雨を待っている。
それで、天気予報がゴールデンウィークの天気を予報し始めた。
「ここは雨降る」「こっちは晴れ」とかして、山火事で燃えている岩手県の話をしない。
あの段階で一番雨が欲しいと思っている人は、あの山火事の真下に住んでいる人達。
「こどもの日はちょっと要警戒ですね」「小さな雨傘お忘れなく」とか、そんなのではない。
もう悲しくて、武田先生は泣きそうになったのだが、山火事が何ミリかの雨が降って収まった。
あの一発目の雨で。
そうしたら山を見ているご婦人が涙ぐんで「雨がこんなにありがたいと思ったことはありませんでした」と言う。
山火事で悩んでいるところがあるのだから、一言でいい。
たった一言で。
本当に素敵なニュースで、その一番最初の雨から次の次の日には、もっと大量な雨が降った。
その時にニュース番組の難しさ。
ニュースというのを一回「人肌」というか、人間のぬくもりまで落とさないと。
もう理屈ばっかり言っている人達の意見というのを紹介していることに関して、ちょっと日本の年寄として凄く疲れてきてしまった。
「正体がバレてきた」というか「だんだん正体が分かってきた」という、そういう集団もいて。
これが現在の流れ。
「みんな政治でバカになる」だが、いよいよ「ポピュリズム」について語ってみたいと思う。
(この日の最後は武田先生の著書の宣伝)

現在の政治の世界で最も力を持っているのがポピュリズムということ。

 二〇一九年の参議院議員選挙では「れいわ新選組」や「NHKから国民を守る党」(当時)が議席を獲得し、「ポピュリズム」という言葉が広く知られた。また、西欧ではEUが求める緊縮財政に対して財政出動や社会福祉の充実を訴える左派ポピュリズム−中略−や、移民の制限やEUからの脱退を唱える右派ポピュリズム−中略−が躍進した。(144頁)

ポピュリズムはパターンがあって、日本もこれに習っている。
ポピュリズムというのは「部族主義」。

さまざまな政治的立場の人を「動員」するために、政治争点をひとつに絞った「シングル・イシュー」型の運動であった。(147頁)

歴史でいえば、幕末。
ワンイシューを叫んだ人達。
「尊王攘夷」「朝敵に天誅」
ポピュリズムの人はこういうスローガンが多い。
「MAGA(マガ)」とか

共通の「敵」を指し示し、−中略−「脱原発」や「反安倍」という「われわれ」=新しい部族の団結力を高めるための道具だった。(147頁)

このポピュリズムにとって、最も大事なのが敵。

左派ポピュリズムにおいて「感情」を「動員」することの重要性を語っている−中略−そのなかでも最も利用される「感情」が「怒り」である。私たちはまず「感情」や「直観」によって道徳的判断をおこなう。(151頁)

シングル・イシュー。
維新さんはシングルでもなくなった。
大阪都構想だけではなくなった。
今は「首都移転構想」というのか。
はっきりいって武田先生は古里は福岡だから「福岡に大蔵省を置くとかいいじゃんな」とかと思ったりなんかする。
分散するといいんじゃないか。
省によっては東京じゃなくてもいい省があると思う水谷譲。
そういうふうにすることというのは大事なのではないか?
とにかく用心しなければならないのは敵を作ることで感情を作ってしまうという。
そういう人の動かし方というのは嫌で仕方がない。
この本に書いてあったことで「今、世界的な流れはそうなんだな」と思ったが、ヨーロッパを中心にして、リベラルは相対的にパワーダウンしているそうだ。
リベラルのパワーダウン。
日本もそういう意味ではパワーダウンだろう。
リベラルの立場がやはり難しい。

二〇二一年に東京オリンピック・パラリンピック組織委員会の森喜朗会長(当時)が「女性がたくさん入っている理事会の会議は時間がかかります」という女性差別的な発言をした際には、日本のリベラル派だけではなく海外メディアからも厳しい批判を寄せられた。(157頁)

森さんは途中でお辞めになった。

なかには「老害」と罵る言説が見られた。反差別の立場で抗議するならば、「老害」という高齢者へのステレオタイプを表したネットスラングの使用は慎むべきだろう。(170〜171頁)

リベラルの考えを持っている方の前で何も言えなくなってしまう水谷譲。
それで一言、話を間違えると一回転して真後ろ、自分の後頭部にブーメランが当たるということがある。
このへんがリベラルがもの凄い勢いで苦しくなってくるところ。
人の非難というのは難しい。

遠い遠い昔の話。
分かりやすい昔の話をする。

ナチスの強制収容所の近くに住んでいた女性が、ユダヤ人への残虐行為を目の当たりにして、「そのような非人道的な行為はすぐにやめてください。さもなければ、誰も現場を目にすることのない別の場所でやってください」という抗議の手紙を書いたという(160頁)

ここに「政治的無知」というか「バカ」さというか。
こういうブーメラン発言は多い。
やはり他者を非難することの難しさをつくづく感じる昨今。

「みんな政治でバカになる」
「俺は知ってるぞ」というところがバカ。
これは武田先生が言っているのではない。
綿野恵太さんという方がおっしゃっておられて、晶文社から出ている「みんな政治でバカになる」。
こんなふうにして現状を振り返るのも面白い。
今までのお話を元に、またテレビなど見ると面白いかなという気がする水谷譲。
ズバリ言うと、政治的に人を批判するということが凄く難しい時代に入った。
それくらい情報というのが飛び交って、トランプさんが夜書いた日記が、朝一番の日本のニュースで流れる。
もの凄いテンポの速い時代にきている。
昨日話した話は、人を批判することの難しさだが、ナチスの強制収容所近くの東ヨーロッパのご婦人がナチスのユダヤ人への残虐行為を目撃した、と。
そこで「非人道的行為は辞めなさい」と訴えた。
そしてその後で「さもなくば別の場所でやってください」と手紙を綴って締めたという。
つまり「他者を非難して自分はどこに立つか」という、それが非常に難しい。
批判するその人よりも「俺は苦しみを知っているぞ」という批判そのものが非常にしにくいと言うか。
とにかく政治的な主張というのは簡単にやらない方がいいんだ、と。
簡単にやってしまうと「あいつら」「我々」「かっこいい」「みっともない」「間違ってるぞ」「正しいのは俺だよ」。
つまりハッシュタグで「あの人達の苦しみ」みたいな、そういう人の集め方をすると、必ずその物事の見方に歪みが生まれる。
この歪みが生まれることをこの著者・綿野恵太さんはこんなふうに形容なさっている。
勇ましいシュプレヒコールというのを仲間と一緒だと大きい声で叫びたくなって同じリズムで叫ぶのだが、でもそれじゃダメなんです、と。
仲間と一緒に何か叫んでいるというのは。
これは別の本の人。
これは武田先生は読んだことがあるのだが、この本の著者、綿野恵太さんも書いてらっしゃるのだが、この「三枚おろし」でも取り上げたと思うが、千葉雅也さんという人の本を取り上げた時に、千葉雅也さんがこんなことをおっしゃっている。
(千葉氏の著書を取り上げた回は2017年9月4〜15日◆来たるべきバカ

勉強の哲学 来たるべきバカのために 増補版 (文春文庫 ち 9-1)


哲学者の千葉雅也は「深く勉強するというのは、ノリが悪くなること」と指摘している(205頁)

これは名言。
ノリのいい言葉とかノリのいいスローガンに乗ってはダメなのだ。
ノリが悪くなるということが、物事を深く考える為の最初の態度。

 千葉は「ノリ」から自由になるためには「アイロニー」=「ツッコミ」と「ユーモア」=「ボケ」という二つのスキルが必要だと述べている。(205頁)

武田先生にツッコむ人がいて、すごく生涯大事にして、死んでしまったが。
年齢もあって別れたのだが。
武田先生が何かウンチクを垂れる。
その度に、もの凄い疑いっぽい声で「本当だろうね」と言う。
これが武田先生は凄く勉強になった。
何か自分が知っていて他者に教えるつもりで喋る。
それを疑われるということは、ノリが悪くなる。
つまり「おっしゃるとおり」というのはノリがよすぎる。
メインの司会者の人がいて、コメンテーター、或いは専門家がいて何か喋る。
その人が不機嫌そうに「本当ですか?」と疑った方がいいのではないか?
「おっしゃるとおり」と言われたら嬉しくなると思う水谷譲。
リズムが付いてしまう。
「リズムが付くと危険だ」というのを千葉さんがおっしゃっている。
本当にそう。
いわゆるツッコミというユーモアは彼にはあって、武田先生が何かを言うたびにツッコミで「本当だろうね」と激しく疑う時に「いや、だってさ」とまた次の理屈を言う。
それをどんなに言っても彼は簡単に頷かずに「何か信じられねぇな」と言う。
でも、それがやはり深く勉強する為の他者からの反応の一番大事なところ。
「おっしゃるとおり」と言うと、もうそれ以上勉強しなくなる。
その勉強しなくなるところにブーメランの発言があるのではないか。
そうやって考えてみると政治的な発言をする時「ノリが悪い」。
これがいかに大事かということで、このあたりにバカから脱出する何か手がかりが。

この本、(著者は)綿野恵太さん。
本当に綿野さんすいません。
これは意訳も相当入っているし、あなたがおっしゃっていることを理解する意味で、自分で付け足した(部分が)たくさんあって。
綿野さんの主張通りをなぞっているワケではない。
だがあなたの本のタイトル「みんな政治でバカになる」というのは、ひどく武田先生の心を捉えた。
この本で印象だけ語っておくが、著者の綿野さんは輪島塗の漆塗りのように、もう何度も何度も同じところを塗り固めておられる。
その丁寧な作業が「これは三度目の塗りだな」とかというのが分かればいいのだが。
この方は「政治を語りたがる」あるいは「政治に夢中な人達」のタイプを取り上げて古今東西の思想家の意見と重ね合わせて「バカの二乗になる」という、そういう論調。
綿野さんが書いておられる政治にまつわるバカな人達。
「大衆」「部族主義」「リベラル」「保守」「エセインテリ」「亜インテリ」「ネット右翼」こういう現代語で政治を語る人達の様々な、いわゆる種類別カタログみたいな感じで。
綿野さんごめんなさい。
あなたの本を必死に探したのだが「あ!これだ」という「バカからどう脱出するか」というのは最後まで当たらなかったような気がする。
綿野さん、分かってくださいね。
これは後半の方をもう一回読み返した。
それで何とかあなたの文脈から「政治を語る態度はどういう態度がいいのかな」という、それを探した。
水谷譲に「あ、なるほど」とかと言わせたくて。
これが当たっているかどうかわからない。
「政治を語ることの難しさ」というのは綿野さんのご指摘の通りだというふうに思う。
水谷譲にも話したと思うが、寿司屋さんと同じで我々はあの手のひらに絶大の信頼を寄せるという文化圏の中に住んでいる。
だからニュースを扱う時も寿司屋の職人さんのように、その手のひらが美しいという。

著者の話に戻る。

 進化生物学者のリチャード・ドーキンスが「利己的な遺伝子」と表現したように、私たちは遺伝子が自己複製するための「乗り物」である。(225頁)

遺伝子が人間を操縦している。
子供から大人へ、大人から恋をして夫婦となり、子を持ち育て、中年から老人になり、やがて死んでゆく。
成長の変化から性の目覚め、性の目覚めから恋、異性を求める。
娘を知り、やがてその娘の中から妻を選び、子を育てていくうちにまた違う怪しげな女性に惑わされたりする。
そういうバカなことを繰り返す「体」という遺伝子に乗っかっているのが俺達なんだ、という。
遺伝子は生命に対して事細かに「ああしろ」「こうしろ」と命じてくる、と。
政治についてバカなのも「賢くなりたい」とかと無闇に憧れたり、それからリベラルというグループを作ったり、それも多分、遺伝子からの操作からであって、本人が考えたことではない、と著者はこんなことをおっしゃっている。
ドーキンスはこれを「ショートリーシュ」と言っている。

細かな動作を逐一指示して制御する「ショートリーシュ」(短い引き綱)型(226頁)

ところが長く生きていくうちに、短い手綱では生きられない場面が出て来る。

火星探査機の例でよく説明される。地球上の操縦者との距離が遠ざかると、探査機を直接操縦することが難しくなる。−中略−そのためNASAの技術者たちは、−中略−「ロングリーシュ」(長い引き綱)型に移行せざるをえなかった。(226頁)

生きていくということはどういうことかというと、短い手綱と長い手綱、二本を持っていないと命はコントロールできませんぜ、と。
もの凄くわかりやすい例。
ちょっと朝から本当に申し訳ない。
でもわかりやすいのはこれ。
コンドーム。
遺伝子そのものは拡散を命じて「たくさん精子ばら撒け」と命令する。
ところがこれはショートの命令で、こんなこと、いうことを全部聞いていたら大変なことになってしまう。
そこでロングリーシュが必要になる。
そのロングリーシュが避妊具。
つまり快感の為だけの性行為。
それを人間は作った。
つまりショートとロングリーシュ。

避妊手段を講じたセックスも「文化」のひとつである。(230頁)

文化と進化。
この両輪で人間というのを回さないとダメだ。

人間の「長寿」はこのような「文化」の重要性を物語っている。−中略−高齢個体(祖母)が蓄積した「文化」的情報を若い親族に伝えることで、孫(子孫)の生存率を高めるからだと考えられている。(231頁)

こんなふうにして考えるとわかりやすい。
ちょっとまた寄り道してしまったが、とにかく頑張ってまとめる。

しかし苦戦した。
「みんな政治でバカになる」
結構深いというか難しいテーマだと思う水谷譲。
でもやはり、これからこういうのをやろう。
こういうご時世だからこそと思う水谷譲。
この綿野恵太さんの「みんな政治でバカになる」。
締めにいきたいと思う。
これはもう繰り返し言うが綿野さん、なかなか武田先生にとっては頭が悪いので難解で。
自分で例えを用意して一生懸命、綿野さんの文章を解説しているが、綿野さんがお書きになった文章、読み違いがあるかも知れない。
でも、そんなふうに武田先生には読めたということでご勘弁願えればというふうに思う。
この本を読みながら「どうすれば私は政治についてバカにならずに済むんだろう」という。
綿野さんは様々な知識人の様々な知恵を次々と紹介しながら、政治を語るということに批判を加えつつ語っておられて。
申し訳ない。
「これだ!」という結論に至らない。
でも、実に政治とは語り難い厄介なもの。
著者は「大衆とはバカなもので、その大衆をバカにするリベラルもまたバカだ」と主張するという。
大衆はいつも「分け前の多い・少ない」と考えて、多い分け前を夢見、リベラルは分け方、正しい分け方を見つめている。
しかし世の中には彼らの思い通りにはいかない。
文化を知っているものが分け方と分け前の充分さを知っている。
これらのバカな人々を笑い、バカに居直る人や、シニカルな冷笑で政治を語る人もいるが、これは際立った個性の人であって、政治的にこれらの人は何の力も無い。
綿野さんは現代の政治勢力を紹介してくださるが、「政治についてバカにならない方法」というのを武田先生は一生懸命探したのだが見つからなかった。
ごめんなさい。
でも「見つからない」ということも一つの答えかも知れない。
ただ一つだけ、こんな文章を見つけた。
これは評論家の呉智英さん。
この方を紹介しつつ、「バカ」という言い方は知識人から大衆に向けた侮蔑、侮辱の言葉である。
頭のいい人が大衆、武田先生とか水谷譲に向かって「バカ」と言う。
ところが大衆は大衆で、武田先生とか水谷譲は頭のいいヤツに向かって叫び返す侮辱の言葉がある。
「ドヂ」

なぜ知識人は「ドヂ」なのか。それは本来の「テンポ」から「ズレ」た存在だからである。(243頁)

そういえばリベラルな人はなんとなく服装がナウく無い。
「ナウ」はもう死語だと思う水谷譲。
何となくズレている人が多い。
洒落た方というのはあまりお見受けしないという。
それを言うとまた「武田さんルッキズムですよ」と怒られると思う水谷譲。
頭のいい人はテンポからずれる。
ところがしっかり勉強する為にはノリの悪い、テンポからずれた、ドヂな人間になること。
そうなることが政治を語る資格を手にすることではなかろうか?
これは武田先生の考え。
何かテンポの悪い、ノリの悪いヤツだったら水谷譲も武田先生もなれそう。
ルッキズムで。
武田先生は「ズレる」というのはとても上手。
海援隊の真ん中でタンバリンを叩いていて中牟田(俊男)から「ずれるからやめて」と言われた。
つまり「政治を語る」ということは、これくらい難しいこと。
水谷譲に向かって言いたかったのは、こういう分類で政治を見てみるという。
「こいつ典型的な偽インテリ」とか。
何か「分類する目を持っている」ということがとても大事なことだなと思って、武田先生はこの「みんな政治でバカになる」を必死になってバカの分類をやってみた。
ここでもう一つだけ、最後に繋がりを強調する意味で、つまり水谷譲と武田先生は自分のことを自称「大衆」と呼んだ。
「大衆」が実は今、大変な仕事をしているというのを、この次に語るので。
これは楽しみにしていてください。
ちょっと複雑な話っぷりでちょっと皆さんも混乱なさったかも知れないが、「あの一言はよかったな」というそんな記憶さえ残せれば十分なので。
(この日の最後は武田先生の著書の宣伝)

花咲けじいさん 人生後半の教科書


2026年5月18〜29日◆みんな政治でバカになる(前編)

(2024年にも同じ本、同じタイトルで取り上げている。2024年9月2〜13日◆みんな政治でバカになる

ショッキングなタイトルで「みんな政治でバカになる」という。
「政治について語ったりなんかすると、みんなバカになっちゃうよ」という、凄いストレートなタイトルで。
「この言い方は失礼だな」と思いながら、ほっと気が付くと騒ぎが多い。
漫才のボケをやってらっしゃる方が選挙特番か何かで総理に言った一言で大炎上が始まって大騒ぎになって。
そういう意味で、この「政治的発言」というのが非常に火が点きやすい状態。
その後も続々とテレビメディアの政治的発言というのが炎上しているのは御存じか?
色々ありすぎてわからない水谷譲。
この間も見ていたらびっくりしたが、朝の有名な政治を語る番組でゲストにお迎えした方がその番組の有名コメンテーターにつっかかり始めて。
そのゲストコメンテーターの人が番組に出ている女子のアナウンサーに向かって「あなた、真っ当な仕事やってると思います?」。
つまり「その番組自体が非常に偏向した報道やってるんじゃないか?それに関して内部にいる人間として自分が大人の仕事をやってると思うかどうか」という。
それをメインの司会者と、レギュラーコメンテーターが「それを彼女に聞くのは失礼だろう!」と言って、もうほとんど放送事故みたいな。
そのテレビ、あるいはラジオのある番組の中ではメインの司会者の方がそういうお考えをお持ちなので、ゲストを招いても全員司会者の意に沿うように忖度して番組の流れが決まっているというような。
テレビ等ではよく見受けられる。
そのことに関して、今度はまたもの凄い叩き方でソーシャルネット、SNSで叩きが始まる。
政治について、なぜかくも感情的に人間はなるのだろうか?
この壮大なるテーマをやってみようかなと思って。
いい本を見つけたと思った。
(著者は)綿野恵太さん、晶文社から出ている「みんな政治でバカになる」。

みんな政治でバカになる


この「バカになる」という「バカ」というのは失礼だとは思うが、しかし前後の見境も無くカッとなることは事実。
テレビメディアのニュース番組というのは、今や「オールドメディア」と呼び捨てにされていて、SNSのネット世界に繋がる人達から「オマエ達は古いんだ」。
そしてSNSの方は自称を「ニューメディア」と名乗っていて。
でもこれは正確にいうと「マス」に対抗する「パーソナルメディア」「個人のメディア」と、それが正しい呼び方だと思うのだが、彼らはしきりに「ニューメディア」というふうに。
このニューメディアの方々、YouTubeなんかで番組を作っておられる方、ショート動画を作っておられる方は芸能人が嫌いなのだろう。
ボロクソに書いてあって。
その中に武田先生も時々、混じっている。
もう武田先生の場合は叩くというよりも「前にこんなヤツもいたな」というような・・・
「言われてなんぼ」「話題にのってなんぼ」だと思う水谷譲。
彼らニューメディアは芸人がニュースという事実に侵入してくることが許せないという感情があるのだろう。
この「許せない」という感情。

「許せない!」という「道徳感情」は「直観システム」に当てはまる。「直観システム」は非常に重要な認知機能である。(5頁)

強い行動を支える。
「自分の信念を裏付ける情報だけを集める」という「確証バイアス」があるが、

情報を合理化して都合の良いように解釈する能力も高くなり、ひいては自分の意見に合わせて巧みにデータを歪めてしまう」ことが指摘されている(8頁)

一定の間違いのパターン=認知バイアスがある。(5頁)

「俺は知っているぞ、本性を」「真実は一つ」とかと言う。
でも真実は一つとは限らないのが現代。
こういう「物事を知っている」、そして知っていることによってこみ上げてくる感情で「許せない」とかと思い詰めてしまうという。
こういう感情のあるものを綿野さんは「バカ」とおっしゃっている。
正確につかんでないのに許せないなんていう、もの凄い感情が沸き起こる。
「そのこと自体がオマエバカだよ」という。
だとしたらバカがいっぱいいると思う水谷譲。
(その言い方は)きついと思う武田先生。
でも今回、そのいっぱいいるバカを並べてみる。
日本にどれほどのバカがいるか。
大体匿名で皆さんSNSで発信してらっしゃると思う水谷譲。
だからこの「(今朝の)三枚おろし」では「あの番組のあの司会者」とか「お笑い界のあのボケの人」とかと指差しはできない。
それは失礼だし、それも一種、認知バイアス。
違う側面がその人にあるかも知れないので。
だから例え話が非常に少ないので、その分わかり難い。
今日、お話した話は何かというと、アメリカの話でどんなに世界が騒ごうがトランプさんが大好きだという方がいらっしゃる。
その人達はトランプを支持する為にはどんな嘘ニュースも信じるという方達。
彼らの真ん中に燃えている「許せない」という感情は何かというと、バイデンが許せない。
そういう感情。
「バイデンが許せない感情」がトランプを支持させるのだが、綿野さんはその感情そのものを「バカ」とおっしゃっているのだが。
どんな種類のバカがいるのか、探っていこうというふうに思う。

「みんな政治でバカになる」だが、どういうバカかというと、「俺は知ってるぞ」とすぐうぬぼれる。

ほとんどの人が政治について無知=バカである。いわば、「人間本性」によるバカ(認知バイアス)と「環境」によるバカ(政治的無知)とがかけ合わさった「バカの二乗」である。(12頁)

申し訳ない。
これは武田先生が言っているのではない。
全部罪を着せてしまうが。
綿野恵太さんという方がおっしゃっていて、バカにならない為にはどうしたらいいのか?
興味がある。
(バカには)なりたくない水谷譲。
だからこの方のおっしゃる「バカ」というものをいろいろ考えてみようと思う。
特に政治を語る時、人間は間違いやすい、物事を歪んで見やすい。
しかも政治というものは真実が実に掴みにくいんだ、と。
政治に於いては、本質を取り逃がしやすいという。
実に面倒臭いが「政治的なバカ」というものに向かい合って「バカではない自分」というのをどこかで発見したい。
奥様からは「分かり難い」と酷評だったのだが「庭の話」。
2026年4月20日〜5月1日◆庭の話
実はこの「みんな政治でバカになる」は「庭の話」の続編。

庭の話


「庭の話」の中に、もの凄く心に引っかかる文章が一行あった。
三枚おろしのネタはこんなふうにして見つけていく。
その前作で語った「庭の話」に関して武田先生が引っかかった文章はどんな文章かというと

「意識の低すぎる」選挙と、「意識の高すぎる」デモ(「庭の話」340頁)

武田先生はこの一行が凄く気になった。
皆さん、ちょっと言葉を荒々しく語ってしまうが、勘弁してください。
「愚かな選挙」というのは選挙というのはバカがやっているという。
投票する方が、印象で勝手に票を入れているだけだ。
そして「賢すぎる反対運動」。
反対運動をやっている人はみんな賢すぎて、あれこれ推論を立てて、「こうすればこうなる、こうすればこうなる」その理屈で反対運動をやっている。
「愚かな選挙、賢すぎる反対運動」
こういうふうに言われるとギクッとする。
そしてここでまたキーワードが出て来る。
このキーワードは「大衆」。
これはもうはっきり綿野さんもおっしゃっているが「大衆」。
水谷譲は「何衆」か?
この間、武田先生に向かって「私は大衆」と言った。
武田先生も「大衆」。
武田先生と水谷譲は「大衆」。
バカ。
何でバカかというと

「大衆」は自らの「生活」にしか興味がなく、政治に関心がない。(27頁)

「大衆でいいじゃないか」と断定した思想家がいる。
吉本隆明。
吉本ばななさんのお父さん。
この人は「大衆でいいんだ」と言った。
「頭がいいフリをしてるヤツなんかロクなヤツいない。エリートぶりやがって」
つまり「そういう人達こそバカだ!大衆が偉いんだ!」と言って。
これは忘れもしない。
吉本さんが70年代に発表したのが70年の学生運動の中でもの凄く揺らした言葉がある。
それは「共同幻想論」という。
武田先生はこの言葉を聞くとギクッとする。
「学生運動やってるヤツってのは、共同で集団で幻想を見てるんだ。その幻想から目覚めない限りダメなんだ」という。
彼はエリートが見ている、つまり学生運動をやったヤツはみんな頭がいいヤツばっかりだった。
それを「共同幻想見てる」と否定した。
これは凄くショックな一言だった。
それで吉本隆明が言ったのは「共同幻想に溺れるぐらいだったら対幻想に溺れろ」。
「ペア幻想」
「『我々』っていうのは幻想なんだ。『私とあなた』」
ピンとこないかも知れないが、フォークソングは「我々」を歌った。

私たちの望むものは(岡林信康「私たちの望むものは」)

私たちの望むものは


こういう「私達」を歌った。
ところが学生運動が行き詰まって、1975年で「私達」は全滅していく。
そこでポーン!と出てきたのが「対幻想」。
「ペアの出来事」を歌にする。

あのひとの ママに会うために(松任谷由実「ルージュの伝言」)

ルージュの伝言


これは「ペア」。
そして80年の一番最後に「自己幻想」というのが出て来る。
自分の心境だけを歌う。

砂まじりの茅ヶ崎−中略−
俺の家も
−中略−
今 何時?
(サザンオールスターズ「勝手にシンドバッド」)

勝手にシンドバッド


つまり共同幻想、対幻想、自己幻想。
全部幻想。
幻想を見ていないのは誰だ?
「大衆」
吉本は途中で変えて「大衆」と呼んでいたものを80年代に入ると別の呼び方をした。
何と呼んだか?
「消費者」
そこから糸井重里のパルコのコマーシャルなんかが始まる。
「おいしい生活」

(この日の冒頭は武田先生の著書の宣伝)

花咲けじいさん 人生後半の教科書


本題に入る。
(昨日までの話は)流れが面白く「そういう繋がりなんだ」と思った水谷譲。
若い時に全然気付かなかった。
年を取ったら「それでこうなったんだ」というのが思い当たる。
このへんに老化していく意味合いがあるような気がして。
昨日お話したのは吉本隆明というこの思想家が60年代、70年代、学生で広がったのだが「共同幻想論」。
これはやはりハッとした。
「俺達が見ている『俺達』というのは幻想なのか?」という。
よしもとは「大衆」に何でここまで味方をしたか。

一九六〇年の安保闘争で国会を包囲するデモ隊にアンパンを売る「アンパン屋」がある(27頁)

「安保反対」で安倍(晋三)さんの祖父(である)「岸(信夫)を倒せ」というので国会を取り囲んだ。
頭のいい反対派の人達が何重にも取り囲んで国会が揺れるぐらいの大騒ぎになった。
その時に、吉本隆明は雷に打たれたような衝撃をデモ隊の中に見つけてしまう。
それが国会に押し寄せた安保反対のデモ隊に向かってリヤカーを曳いてアンパンを売っているヤツがいた。
これに吉本は感動する。
「あれこそ大衆だ」「そういうバイタリティこそ大衆なんじゃないか?」「こういう人達が時代を作っていくんだ」という。
面白い見方。

安保闘争において全学連を支持した吉本は、既成左翼=共産党を商売のためにアンパンを売っている男よりも「愚劣」だと罵倒した(27頁)

こんなふうにして彼は「大衆の中にこそ国の未来がある」と。
この大衆を嫌悪したのが60年代、70年代政治学者の丸山真男さん。
この方は知識人で、

丸山にあるのは「大衆嫌悪」である。(29頁)

「大衆じゃダメなんだ。市民がいて、市民の理性を呼び集めて理屈を作って、その理屈から政治的決定を下していくんだ」という。
どちらも正しい気はする水谷譲。
ここから日本のリベラルが始まる。
この丸山さんと吉本さんが仲が悪いの何の。
吉本さんは「大衆が世界を動かす」。
丸山さんは「優れたエリート集団が世の中を動かす」。
大衆というのは何かというと直観システム。
リベラルはというと市民が考えた仮説「こうやればこうなる」という「推論システム」で世界が動いて行くんだ、という。
当初のリベラルは、今言っているリベラルともちょっと違う意味合いがあるような気がする水谷譲。
このリベラルはどこから誕生したかというと

一七世紀に新聞や雑誌といったジャーナリズムが発達し、カフェやサロンで「論議する公衆」(ブルジョワ)が理性的な討議をおこなった−中略−しかし、このような「市民的公共性」はジャーナリズムが商業化し、テレビやラジオといったマスメディアが発達するについれて失われた。−中略−「討論そのものもショーとして定型化され」た(35頁)

これにまず飛びついたのはお笑いの人で、昔、政治漫談があった。
政治を語る漫才。
コロムビアトップ・ライトという人達がやっていた。
政治家のことをボロカスに言うのが可笑しい。
まだ覚えているネタがあった。
気候がよくなると人間は頭がポーッとしてくる。
そういうことを捉まえたコロムビア・トップさんが「気候がよくなると頭がポーッとしてくる。少しこう、バカになってくる」という。
「頭がいい人が春先になるとポーッとバカになっちゃう」という。
そうするとライトさんが手を叩いて「え!?マズイよ。今の総理大臣、東大だよ」。
それで笑いを取るという。
その政治を語り始めるということは丸山さんがおっしゃったようにエリートしかできない。
だから大衆に対して「俺達はエリート」そういう自覚がある。
17世紀にブルジョアを育てたサロンやカフェが、現代というところではニュースショーとか政治討論番組になったりしている。
ずっと尋ねていくと面白い。
水谷譲の疑問は「リベラルの意味合いが違う」という。
生まれた当時のリベラルと今、我々が言っているリベラルは何となくニュアンスが違ってきたのかな?という気がしている水谷譲。
ちょっと覚えておく。

昨日の水谷譲の質問も含めて水谷譲と語り合いながら話していこうと思う。
お互いに確認した通り、武田先生と水谷譲は「大衆」。
直観で生きていて政治のこともよく分かっていない。
その中でも賢い芸能人の方で、みんな強い。
武田先生も春先までテレビ番組をやっていたが、最近の芸人さん達は政治に対する認識の深さが凄い。
勉強されているのだろうと思う水谷譲。
武田先生は「円安・円高」なんかもよくわからない。
水谷譲も何回聞いても仕組みがよくわからない。
全然わからない。
何で安くなることを高くなると言うのか?
高くなることを安くなると言う。
そんなのをトントン話す。
羽鳥さんやああいう人達。
それから日テレの武田さんとか。
全然わからない。
頭がいいのだろう。
これぐらいの差がある。
それはもうなぜかというと、武田先生も水谷譲も「大衆」だから。
彼らは何かというと「リベラル」というのはふさわしくないかも知れないが、政治が理解できるというのは、やはり一種エリート。
でもこの綿野さんは本を読んでいても、そのエリートである人達に関しても表現が非常にきつい。
これは何でかと言うと「エリートの人達は大衆をバカにすることによって仲間と結びついている」とおっしゃる。
つまりエリートの人達というのはやはり頭がよくて先が読める推論パターンを持ってらっしゃる。

 私たちは自分の仲間かどうかを直観的に区別し、仲間だと認めたものをひいきする。このような傾向は「部族主義」と呼ばれている。一八〇万年前から一万年前に人類は狩猟採集をおこなう小さな群れで生活していた。「部族主義」は、自分たちの群れが他の群れにつけ込まれ、搾取されることを防ぐために、進化の過程で獲得された、と考えられている。(57頁)

「あいつら」(外集団、他集団)よりも、「われわれ」(内集団、自集団)のメンバーに無意識的な選好を持つ傾向である。(57頁)

DNAに組み込まれているのだと思う水谷譲。
だからそれに縋りついていること自体がバカだとおっしゃる。
このへんはどうか?
でもDNAだからしょうがないと思う水谷譲。
大衆のバカさもそう。
それはやはり人出がいっぱいあったら、知恵としては「アンパンでも売りに行こうか」という気になる。
それがどういう人出であろうとも「人が多いところでは商売が成り立つぞ」と思ってしまう。
その大衆の直観というのはまさに生きていくエネルギー。
このリベラル、エリートの人達は群れ易く、一度群れると自分達の道徳で集団をつくる。
群れ易い、環境を作るという。
「そこには誰も入れないぞ」という。
非常に自己の、自分の集団を大事にするという、そういう環境を作ってしまう。
これが彼らの、「部族主義」の人達の最大の欠点である。
リベラルな人達が求めているのは何かというと、自律的にふるまうということ。
自分で考えて自分で行動しているという。
それは自分の理屈に合っている、合理性と自律性。
この二つを自分の真ん中にしている。
人間にとって一番大事なことは自律的であるということ、合理的であるということ。
そういうふうに彼らは信じ切っている。
ところが大衆の中には自律的には生きられない人達がいる。
その手の精神の病を持っている人達にとっては合理、理屈に合う世界というのは非常に息苦しい。
そういう人達もいる。
これは「三枚おろし」で扱っているが、やはりあの「(浦河)べてるの家」とかというところで集団で生活する人達は自立できないからこそ集団をという。
これが合理と自律的にふるまうと対決してしまう。
そこで彼らは「こんなことじゃいけない」というので、ここで新しい言葉で「ケア」という言葉を使う。
(このあたりの説明は本の内容とは異なる)
社会がそのような傷つきやすい人達への配慮を忘れている。
ケアが足りないんだ。
寄り添うとかそういうことだと思う水谷譲。
それは武田先生は何か、そういうふうにコマーシャルで叫んだことがあった。
それは別仕立てにしてある。
根本的に水谷譲が言っている「リベラルな人」とか、この「エリートの人達」は何が違うか?
これは綿野さんすみません。
綿野さんの書いた通り武田先生は喋っていないかも知れない。
だが綿野さんの文章を必死になって自分で読み説いていっている。
綿野さん、そのへんすみません。
話がややこしくなってきた。
でも時々ワケのわからない日もあるが勘弁してください。

60年代に登場した思想家・吉本隆明は「大衆」に注目した。
彼はリベラルを憎んだ。
共同幻想論をふりかざし、理性や自立を振り回す社会運動家を嫌った。
大衆こそ世界を動かす、世論を動かすものなんだ。
彼らは後に「消費者」と呼ばれるようになり、消費者となってからは経済を回しながら国家を動かしているのだ。
だから現在いるのは「消費者」。
だからものすごく過敏。
政府も「米が高い」と言ってこれだけ騒ぐようになったのだから。
「消費者」というのはイコール「大衆」。

「大衆」はどうのように政治を判断しているのか。多くの人は−中略−「道徳感情」によって判断している。(46頁)

道徳とは何か?
この著者の方がおっしゃっている。
これも考えた。
著者の方がおっしゃっている大衆の道徳。
これは衣食と礼節。

「衣食足りて礼節を知る」という言葉がある。(47頁)

「衣食」=「取り分」(49頁)

自分の分け前のこと。
社会全体からの自分の分け前。
「給料」といってもいいだろうが、もっと生々しくこれは「分け前」と呼んでおく。
これは武田先生のアレ。
この方、綿野さんの文章を読み説く為の例えで使っている。
「大衆」というのはいつも自分の分け前を気にしているという。
ではリベラル、エリートな人は何を気にしているのか?
この方々が注目しているのは「分け方」。
だから分け方はどうやって決めているかというと、今はやはり真ん中に政治家、保守。
保守の方がおられて、高市さんがおられてこの方が分け方に関しては決めておられる。
大衆というのは「分け前」を気にしている。
ところがこの「分け方」を気にしている人達がリベラル。
「公平じゃないよ!今の公平じゃないよ!」
この方がリベラルであるエリート。
エリートの人達は大衆がバカに見える。
「誰かを信じて任せているからバカなんだ」
これが主張。
「分けるヤツはズルするに決まってるんだ。大衆ってのはそういうことはわからない」
エリートの人達はそのことを指摘する。
大衆は感情で考える。
大衆というのはどのくらいバカか?
この方が書いておられる。
綿野さんの中で武田先生が頷いたところだが。

 たとえば、大谷翔平や本田圭佑といったスポーツ選手がお酒や保険のCMによく登場する。しかし、よく考えてみてほしい。彼らの競技と商品には何の関係もない。好感度の高い有名人がCMに登場すると、私たちはその商品に対しても良い印象を持ってしまう。(46頁)

分け方は決まっている。
それが保守の主張で、選挙によって選ばれて分配という仕事をやっている。
それが時の政権中枢、内閣スタッフ、参与、総理大臣である。
大衆が「それだったらいいよいいよ。それだったら許す」「いや、それは許せないよ」という感情が世論を形成している。
これはそのまま書いてあることではないのかと思う水谷譲。
もう本当にごめんなさい。
かなり意訳してあるかも知れないが「こんなふうなことが書いてあるんじゃないかな」という。

アメリカ独立戦争における有名な言葉「自由か、さもなくば死か」(87頁)

リベラル。
自由が大事。
「自由が手に入らないようになったら死んだ方がマシだ」という。

中国の管理監視社会化−中略−「自由」と引き換えに「幸福」を享受するのである。(87頁)

「分け方」は信用してくれというのが日本の保守系の叫び。
さっきちょっと中国の話をしたが、今、少し問題が中国も出てきているのだが、監視を強めにやって、これを分配に社会に繋げているワケだが、監視のないところで道徳が落ちていく。
そういう現象がみられてしまう。
こういう「道徳」とか「昔からのやり方」とかというのは「文化」というもので、これは自分達の国で育てるしかない。
道徳・文化というのは、その国の大衆が自前で作るしかない。
東ヨーロッパからやってきたサッカーの選手がいた。
一回目の東京オリンピックの時、確かオシムさんのエピソードだったと思う。
オシムさんは早朝、街へ走りに出た。
その時に感動する。
それは誰もいない信号機の前で、一人の着物姿のご婦人が青になるのをジーッと待ってらっしゃる。
誰一人通っていないし、車も無いのに、なぜ立ってるんだろう?
それは見ていなくても信号を守る。
これは文化なんだ
オシムさんはこのご婦人に感動して誓った言葉が「いつかサッカー選手として名を挙げたら、この国のサッカーチームの監督さんになりたい」。
夢が叶ったということだと思う水谷譲。
彼が言っていたのは「この国にはルールを守る習慣が日常の婦人にもある」。
こういう文化を持っているということが大事。
申し訳ない。
まだオチがついていないので。
いろんなバカがこの後も出て来るので。
「政治に触ると人はバカになる」という。




2026年4月20日〜5月1日◆庭の話(後編)

これの続きです。

SNSの世界、サイバー空間だが、そのサイバー空間にプラットフォームというのがあって、ある議題で「みんなで語り合おうぜ」みたいな場所があるのだが、そこに参加すると敵と味方のゲームのような感じで善悪が語り合われる。
「そんなふうにゲーム化するのはおかしいのではないのか?」というのがこの宇野常寛さんという哲学者の方の考え方。
世界は今、変質し続けている、マトリックスの世界なんである。
戦場に於ける攻防も経済も情報になった。
フェイクニュースなどがそうだが、その情報から脱出して私達はその手触りのある世界を確実に持っていないとダメなのであるという。
その「手触りのある世界」のことを著者・宇野さんは「庭」と名付けた。
そしてサイバー空間に於けるプラットフォームに「庭」を造らなければならない。
武田先生もこのあたりから必死になって読んだ。
宇野さんが出されている庭の定義というのは実に哲学的で難しい。
ただわかりやすいのは「あの人の家は」と言った場合は「3LDK」とか「1K」とか記号化できるが、「あの人の家庭は」と言った場合は旦那さんとの関係、子供の教育、しつけ。
だから全ての個人は「庭」を持たないとダメなのである、と。
居住空間だけではない別空間「庭」を持たなければならない。
水谷譲もちゃんとベランダ、テラスという「庭」を持っておられる。
それで鉢のお花をやっている水谷譲。
さあ、ここから。
なぜ鉢か?
何か緑があった、花があった方がいいかなと思った水谷譲。
それは「自然」。

「庭」のように「かかわる」ことはできても、「支配する」ことはできない場所でなくてはいけない。(105頁)

水谷譲がどんなに「あの色の花を咲かせよう」といっても庭木は絶対に言うことを聞かない。
水谷譲は庭に対して触れることはできるが、支配することはできない。
これがプラットフォームとの違い。
「触ることはできるが支配できないものを人間は持っとかないとダメなんですよ」という。
「庭」には条件がある。

 私たちが庭の花に手を入れたとき、たしかにその場所に関与し、変化を与えることができる。しかし私たちはその場所を、完全に支配することはできない。(103頁)

庭を作り上げてゆくのは人間の関与もあるが、支配しているのは自然なのである。
コントロールはできない。
故にここにはグッドとかライクとかそんなマークなんか無いんだ。

敗者も、勝者もいない場所であるべきなのだ。(105頁)

第一、庭には完成が無い。
庭はあなたが作ろうとするシナリオを拒否している。
さらに四季を写して生態系と繋がっている。
そこにやってくる鳥がいると、それは生態系と繋がる。
(鳥が)「来ないかな」と思って、たまにベランダの手すりにパンを置く水谷譲。
それはある意味では生態系と繋がり、その花を観賞する場所であったり、時には旦那様とそこでコーヒーを洒落た感じで飲んだり、お酒を呑んだりする場所でもあるという。

「庭」は−中略−仏事、神事をおこなう祭祀の場でもあった。(99頁)

そこでお祈りしたそうだ。
それからある人にとっては神の声を聞く場所でもあった。
キリストもそう。
最後の方は庭で神と話をする。

ときに「庭」とは聖俗の混在する場所として機能した。(99頁)

そういうところを人間は持っていないとダメなのであるという。
さっき言った神の声を聞くというので、「審神者(さにわ)」と言った。
これは古代文字。
これは古事記なんかに出て来る。
武内宿禰(たけのうちのすくね)という。
これはとある女性天皇に仕えていた付き添いの人なのだが、この人は天皇が迷われると庭に出て祈り事をして、天啓、天からの指図を受けて天皇に伝えるという。
そういう人だった。
別の字で「清庭(さにわ)」。
つまり清らかに掃除をしておかないと神様は降りてこない。
これを守っているのが神社。
よくホウキで掃除しているおじいちゃんがいる。
こんなふうにして私達は自分の中にもサイバー空間だけではなくて、自然と繋がっている「庭」を持たなければダメなのである、と。

この宇野さんの凄いところは、これで自分の気に入った庭をずっと書いてらっしゃる。
本当の庭を調べ出して。
「どこどこの庭が素晴らしい」とか「どこどこの庭が考えごとするにはもってこいだ」とか。
つまり現実にそういう庭をを持ってらっしゃる。
武田先生はこれを言われてハッと気が付く。
武田先生はある。
場所は言えない。
「俺の庭」だから人には教えたくない。
公園の一角。
行きつけの公園。
それが「庭」。
そいうことでいい。
この庭からどんどん話が深くなっていくので、こうご期待の明日。

宇野常寛さんの「庭の話」。
この本は結構難しい。
宇野さん、申し訳ないが、あなたが思ってらっしゃることを武田先生が言えているとは思っていない。
あなたの能力に遥かに及ばないので。
ただ、この方のお書きになっていることとというのはやはりハッとすることが多くて。
庭を持っていることがいかに大事か。
庭を持っていると物事の考え方が変わる。
「その典型的な実践団体が日本にある。非常に興味深い団体だ」というので武田先生は思わずページに向かって挨拶してしまったが「浦河べてるの家」を挙げている。
(本の中には「浦河べてるの家」は出てこない)
旧知の友とバッタリ出会ったようで、読みつつ、その一行に向かって「ヨッ!」と挨拶をした次第。
彼らは「庭」を持っている。
確かにそう。

宇野さんが挙げられたのがまたハッとする事例。

二〇二〇年までNetflix、フジテレビほかで放送・配信されていたリアリティー・ショー『TERRACE HOUSE』に起きた事件だ。これは見知らぬ若い男女六人が共同生活を送り、そこでくりひろげられる人間模様がドキュメント的に放送・配信されるというテレビ番組だ。−中略−番組の視聴者が出演者を主にSNSで激しく中傷することが常態化してしまい、番組の演出もその出演者への非難をも視聴者に提供する娯楽の一要素として、はっきり言ってしまえば「煽って」いるように思えたからだ。(162〜163頁)

こういうサイバー空間に入った人間というのは止めようが無い。

出演者が番組内で、他の出演者の「やらせ」を暴露しはじめた。(163頁)

このような出演者間の「やらせ」暴露による相互批判は常態化し、番組の盛り上がりに大きく貢献した。この展開はすでに番組の主戦場がSNS上の好感度獲得競争に、相互評価のゲームに移行していたことを明確化するものだった。(163頁)

この評価ゲームになったら人間関係はダメ。
宇野さんの言い方。
「スレた視聴者」
(という表現は本の中には無い)
いる。
スレた視聴者。
このテレビ局の意図を「俺は読んでるぜ」というような人。
それから裏読みのファンが集って、これによせばいいのにスタッフが悪乗りして仇役にそのタレントさんを使って、盛り上げていくちに誹謗中傷が彼女一身に。

このタレントたちがある出演者を「売名目的で出演している」と批判したことだ。(164頁)

これはバカじゃ無ぇか。
声を枯らせて言うが。
これはスレた視聴者。
「売名目的で番組に出演してる」
売名に決まっている。
自分の顔も体も晒しながら画面に映っているワケだから。

出演者の一人である木村花が死亡した。これは『TERRACE HOUSE』の視聴者による誹謗中傷が原因の自殺だと考えられている。(164頁)

これはもう犯人ははっきりしている。
SNSに中傷を送り続けたユーザー。
そして演出したテレビスタッフ。
そしてそのことで収益を上げたプラットフォームにも責任がある。
しかし悪の責任が無自覚となり、その人を捕まえても、その人はその「イイネ」のマークを送っただけなので人を傷つけたという手触りは無い。
そんなことを平気で言い訳するようになった。
自己弁護というものを頻りに繰り返す光景があちこちに。
これくらいSNSの世界では手触りが無い。
だから何とかして責任を作らなければならない。
この責任をどうやって作るか?
このことで突拍子もないと思えるのだが、著者はこんなことを紹介しておられる。

「多飲症」の治療の例を取り上げる。これは精神疾患により、水を飲むことをやめられず水の「中毒」になる現象だが(178頁)

治しようが無い。
体を壊すほど飲んでしまう。
これをどうやって治すか?
治す方法が見つかった。

病棟において水を飲むことを事前申告制にして治療することができる。−中略−重要なのはこの治療が、医師や看護師、同じ病棟の入院患者など他の人と一緒に水を飲むことで、つまり周囲の人間からの承認によって水自体を「味わっている」ことをその人に確信させていることだろう。(178頁)

水を飲む回数というのが、実は水の味について私と周りの人達と語り合ううちに、水そのものに味を感じるようになる。
味を感じれば自然と飲む量が治まる。
そう言われてみると、水に関しては妙に思い出がある。
水谷譲が言ったのは部活が終わってから汗をかいた後に飲んだお水が美味しかった。
大学の時。
その味を忘れない水谷譲。
これが面白い。
水に味があって思い出になる。
武田先生が覚えているのは61歳の時の集中治療室で。
手術し終わった後。
あの時、ICUに入っている。
麻酔から覚めて「何か欲しいものありますか?」「水」と言って、やや冷ための水をくださった。
美味かった。
飲み終わった後、「美味い」といったらその人が「命の水ですから」と言った。
「そうか。水って命なんだ」と思って。
まだあの水の冷たさと味は忘れない。
つまりそういうこと。
「べてるの家」というのを思わず口走ってしまったのはそう。
「べてる」はそういう感触というか手触りを大事にする。
水谷譲に言った。
狂気の末に空飛ぶ円盤が見える。
その「べてるの家」は精神に病、障害を持った方がいっぱいいるので円盤に乗った人なんかゴロゴロいる。
それから円盤から誘われたら、その手の先輩がいて、円盤のライセンスがあるらしい。
これを持っていないと墜落したりなんかして大変だそうだ。
だから「ライセンスを確かめた方がいい」とか。
その後も円盤にまつわる様々な対処の仕方を「べてるの家で」は同じ病の人が大いに語っていくうちに円盤の方からゆっくりと遠ざかっていくらしい。
そんなふうにして各個人が持っている何かの手触りを語り合うということが狂気の世界ではもの凄く大事な、回復させる道を見つける方法になるそうだ。
水谷譲に話した。
VRのゲーム機を作る若い人達がいて。
その人達のゲームの始まりが空飛ぶ円盤が目の前に降りて来るところから始まる。
ところが空飛ぶ円盤をみんな知らないから、彼らが作る円盤に手触りが無い。
それで「べてる」の人に円盤を聞きに来た。
円盤をみんな見ている。
その彼らの話を参考にして円盤を作ったら大好評。
もう「本物みたい」と。
それはそう。
本当に見た人達。
彼らにとってはもう本当にリアルだと思う水谷譲。
つまりリアルというのはそんなふうにして幻覚や幻聴の中にも住んでいるということが分かると描き方が変わる。
これを向谷地という責任者の人がいいことを言って「もしかしたら狂気というものは命を支えている柱かもしんない」。
この狂気というのを「庭」と呼んでもいい。
触れるが支配することができない。
幻覚とか幻聴のように。
心の中の内側にある「庭」、一種狂気とも付き合ってみよう。

宇野さんはここからどんどん庭の話に入っていく。
宇野さんは人間が心の中に庭を持つ為の道具として基本的なこと、食事するとか何かとかそういうことも大事なことですよ、という。

山岡士郎(『美味しんぼ』)と井之頭五郎(『孤独のグルメ』)という、日本を代表するふたつの「グルメ漫画」(208頁)

美味しんぼ(1) (ビッグコミックス)


孤独のグルメ【新装版】 (SPA!コミックス)


「美味しんぼ」というのは美味しさを競い合う。
でも「それは味わいじゃない」と言う。
美味しくものを食べる為の絶対条件は何か?
好きな人と食べるとかかと思う水谷譲。
味わう為には一番大事なこと。
健康であることかと思う水谷譲。
もう一つ。
一人であること。
日本人は孤食を凄く低く見ている、という。

事物と純粋に接触するために、それを正しく受け止めるためには人間を「孤独」にする場所でなくてはいけないのだ。(208〜209頁)

好きな人と一緒にいたら、何でも美味しく思えてしまうが、本当に味わう為には自分一人で孤独に食べないと味はわからないということかと思う水谷譲。
「あの人といたら何でも美味しい」というのはズバリ言うと一種の狂気。
恋愛というのはやはり、狂気発動の瞬間だから。
味わう為にはまず孤独になること。
ものを味わう為に一人でなければならない、と。
これはいろんな考え方があると思う。
宇野さんがおっしゃっているのだが、食べ物というのを「宴食」とか「飲みニケーション」とか飲み喰いするというのをさも美徳のごとく語る人がいるが、そんなのは私は違うと思う、と。

人間とのコミュニケーションを一時的にでもシャットダウンすること──これが目の前の料理という「事物」とのコミュニケーションに集中する唯一の方法なのだ。(208頁)

「残すことを許さない」といったイデオロギーのもとに児童の管理の手段として用いられる学校給食(213頁)

最近ダメになってしまった。
残したい。
だんだん(加齢と共に)小食になってくると思う水谷譲。
こんなになると思わなかったが、無理して喰えない。

「家族と食卓を囲むこと」が栄養学的に充実した食につながるという前提で啓蒙活動をおこなってきた。しかし−中略−この孤食/共食という図式を提示したことを「反省している」と述べているのだ。(212頁)

 必要なのは「共食」でも「縁食」でもなく、むしろ「孤食」なのだ。(215頁)

最も真剣に食べる為には孤食こそベストなのである、という。
我々は孤独をあまりにも躓きの原因と結びつけているのではないだろうか?という。
だから「孤独のグルメ」はヒットしたのかと思う水谷譲。
あの「孤独のグルメ」というのは、あの中にはやはりものを喰う本当の意味があったのだろう。

その孤独からの事件で古い事件を探ってみる。
これは凄く面白い、ハッとした指摘。

 二〇〇八年六月八日に起きた秋葉原無差別殺傷事件は、−中略−加藤智大の人となりが大きな衝撃をもって受け止められた。(216頁)

「加藤の凶行というのは孤独から始まったのではないか?」だったのだが、著者は「No!」「私は調べた」とおっしゃっているが、

加藤の人間関係は一概に希薄だとは言えなかったのではないか、と指摘する。−中略−俗に言う「兄貴分」的な関係を結んだ年長の同僚がいた。(217頁)

なのに彼はあれほど恐ろしい連続殺人事件をなぜ起こしたんだろうか?と。

実際に彼はインターネットの掲示板を通じて獲得した、ある意味においては濃密な人間関係に行き詰まり、それが暴走の大きな原因になっている。(221頁)

そのインターネットの中で彼をからかうものとか騙すものがいて、インターネットに安心して居座ることができずに、彼は怒りに震えて、そこにいるものが許せないという動機を覚えた。
その代理として普通に歩いている人達を自らの怒りの生贄にしたのではなかったか?
加藤は決して孤独ではなかった。
だから犯行に及んだのだ。
私達はまず、孤独でなければ。
それが生きていく上での一番最初の条件だと思い知るべき。
つまり一人から「私」は始まるんだ。
学ぶ、暮らす、恋する、考える、表現する、食べる、批判する。
それは全て前提として一人、孤独でなければならないんだ。
これはハッとする。
「なぜ秋葉原か?」というのは秋葉原の通りが彼がいるインターネットのサイバー空間にそっくりだったという。
自分がサイバー空間の居場所を失ったことの怒りをぶつけたのではないだろうか?という。

では孤独の行為とは、食べること以外にどんなことがあるか?
この著者は面白いことを言い出す。
孤独を大いに励ましてくれる場所をちゃんと挙げておられる。
じゃんじゃん言ってしまう。
銭湯。
銭湯は人がいっぱいいると思う水谷譲。

銭湯のような、−中略−そこにいる誰からも程よく「気にされない」場所なのではないか。(238頁)

これはハッとする。
そして孤独を励まし、孤独を磨いてくれる場所。
コインランドリー。
今、いろんなコインランドリーがあって、お茶が飲めたりすると思う水谷譲。
そう。

「喫茶ランドリー」(244頁)

孤独を最も充実させるいい場所だそうだ。
一人でも寂しくない場所。
周りが「あの人、一人なんだわ」と思うことが無いということだと思う水谷譲。
その孤独の場所というのは競争する材料が全くない。
つまりここにはゲームが無い。
そういう居場所としてリラックスできるという場所で、銭湯とコインランドリーを挙げておられる。
これは武田先生は考えた。
スリーセブン、喜寿の年齢。
(「喜寿」は「77」なので「スリーセブン」では無いと思う)
これはご同輩。
やろう。
今、お年寄りに呼びかけた。
やはり武田先生達老人はこの「一人呑み」「一人喰い」、後は「銭湯」と「コインランドリー」。
これを自らやりましょう。
これが老人を磨く最高の技術。
武田先生の新しい提案。

「『庭』ってそうなんだ」と考えた水谷譲。
そういえば昔は行水を浴びるにしても、洗濯をするにしても庭だった。
その世代ではない水谷譲。
何か近所の婆さんと話すような気分になってしまった。
とにかくサイバー空間に今、世界全体が巻き込まれている。
とにかくこの本は凄く気になる本で、著者の言葉。

本当に「弱い」状態にある人間にとって必要なのは「ひとり」でいても寂しくない場所なのだ。(222頁)

「ひとりあそび」を覚えたとき人間は孤独であるからこそ開く扉を通じて世界に関与できるのだ。−中略−
 つまり、ひとりあそびのコツは「目的」を持たないことだ。言い換えればその事物をゲームとして「攻略」しなことだ。
−中略−まだまだタイムが落ちないと誇る高齢のランナーたちの目の輝きが周囲の人びとを疲れさせる−中略−このようなゲームの「攻略」を手放したとき、はじめて人間は事物そのものと対峙できる。(223〜224頁)

他者との交流は暴力的に「ゲーム」を発生させ、「目的」を付与してしまう。(224頁)

 人間を「孤独」にすること──それがもっとも重要な「庭の条件」なのだ。(224頁)

孤独でありましょう。
このあたりが面白い。
そして水谷譲が質問してくるかな?と思って身構えたが質問は無かった。
「銭湯が孤独によければサウナはどうですか?」
サウナもいいんじゃないかと思う水谷譲。
ダメ。

「ととのう/ととのわない」の勝負になってしまっていて、サウナがSNS的なゲームの場になっている気がするんです。(239頁)

「そんなことじゃダメなんだ。そんなことじゃ一人になれないんだ」と。

 銭湯が提供しているのは「ととのう」ではなくて、むしろ逆の「ゆるまる」こと。(239頁)

全身が緩まってしまってダラーとしてしまう。

そしてこの著者の指摘。
思わず武田先生に贈る言葉かと思った。

 銭湯のピークは夕方だという。そこは昼間に働く時間と夜の働かない時間の結節点にある。その中間の時間が「夕方」なのだ。−中略−おそらく今私たちには「夕方」が足りていない。−中略−常に共同幻想か対幻想、どちらかを獲得するための対人のゲームに参加している状態になっていて、ゲームから脱し「ありのままの自分」になる時間をみずから放棄しつつある。−中略−この時間に、ただ弛緩して、「ゆるまって」、ゲームから完全に離脱することこそが、もっとも必要なのではないか。(241頁)

著者は繰り返す。

SNSプラットフォームの与えるものは、この「承認」や「評価」に先鋭化している。しかし人間はその反面、何者でもない(裸の)存在として肯定、いや、肯定未満の「許容」こそを必要としているのではないか。銭湯「的な」場所の与える安心感とはそのようなもののはずで(242頁)

「ゆるまる」はいい言葉なので、何かのキャッチコピーになりそうだが、キャッチコピーにすると「ととのう」ことになってしまうのでダメなのだと思う水谷譲。
その頭の使い方が緩まっていない。
この「私達に足りないのは夕方」。
武田先生の歌は夕方。

暮れなずむ町の
光と影の中
(海援隊「贈る言葉」)

贈る言葉


それから

列車が走り過ぎる コスモスを揺らして
夕陽に消えてゆく

(歌詞が多少異なるが恐らく海援隊「思えば遠くへ来たもんだ」)

思えば遠くへ来たもんだ


武田先生の歌のメイン舞台は夕方。
武田先生は福岡市の夕方が好き。
九州なので。
本当に「暮れなずむ町」
なかなか暮れきらない。
その夕方に対する憧れがある。

ここからまたぐっと難しくなる。
この方がおっしゃっているのは「エンパワー」といって、一番人生にとって大事なパワーはエンパワー。
自分の力で自分の持っている力を引き出す方法。
これをエンパワーと言う。
承認評価というのを激しく彼が否定しているのは、他者が経由している。
人がいないと承認も評価も無い。
でもそれに頼っていると人間は本当に緩まらない。
それじゃダメだという。
そして最後におっしゃっているのは何かを作りなさい。
それがあなたを励ますことになる。
もうこのへん、武田先生も哲学が深すぎてよく意味が分からない。
でも武田先生にとって「作る」というのは「私自身を作る」ことかも知れない。
私を作らなければいけない。
もう作られたのではないかと思う水谷譲。
一番最後にこんなことを書いている。
「分からない」が一生懸命「分かろう」とすること。
それが武田先生にとって作ることなのかも知れない。



2026年4月20日〜5月1日◆庭の話(前編)

これはどの部類かよくわからないが、(著者は)宇野常寛さん、講談社から出ている、もの凄い分厚い本。
タイトルは「庭の話」と言うのだが。

庭の話


水谷譲はどういうところにお住まいか?
つまり住居の在り方。
3LDKのマンション。
それは居住空間だから「家」。
でも水谷譲がご主人とか、お子さんを育てることを「家庭」と言う。
つまり3LDKは「家」なのだが、ご主人とかお子さんと上手くやっていくそのことは「家庭」と言って。
何で「庭」が入るのか?
武田先生は昔から不思議だった。
「庭」の起源を武田先生の大好きな白川静という人が「占いをやる場所なんだ」と。
お祈りをする場所が「庭」。
穀雨の時季がやってくると「稲が順調に」とかというお祈りをする場所が「庭」。
庭にいて、神様の霊感か何かをパッと感じる人。
そういう人のことを「審神者(さにわ)」と言う。
だから庭はそういう場所だった。

ここしばらく、人類は「家」のことばかりを考えすぎてきたのではないか。(60頁)

もう最初にタネを言ってしまうとそいういう話。
お庭が無い家が今はいっぱいあると思う水谷譲。
最近、庭の重要性を説く人がいなくなってしまった。
この書き手の、宇野さんは、武田先生よりはもうずっと若い方。
この方は「庭の話」をするのだが、変な庭の話から始める。

ロシアがウクライナに侵攻を開始した日、つまり開戦の翌日に当たる二〇二二年二月二十五日のことだった。−中略−ある噂がネットを通じて拡散していった。それはウクライナのMiG-29戦闘機を操縦するあるエースパイロットが、開戦から三十時間のあいだロシアの戦闘機を六機撃墜したというものだった。−中略−このエースパイロットは「キーウの幽霊」と呼ばれ、瞬く間にロシアの侵略に対する抵抗のシンボルの位置を獲得していった。(13頁)

ニュースで一切取り上げない。
ところがことの真相というのは、そういうところに本質が潜んでいるのではないか?というのが武田先生の考え。

「一人のウクライナのMiG-2ジェット戦闘機パイロットが、ロシア人との空中戦で一日で六回の勝利を収めました。彼は「キーウの幽霊」と呼ばれています」とその存在を讃えた。
 すでに広く知られているように、この噂は事実無根のデマにすぎない。そのようなエースパイロットは存在せず
(13〜14頁)

しかしウクライナはこの小さな嘘を最大限に利用した。「英雄」の物語によって自国の、そして西側諸国の市民の戦意高揚をおそるべき低コストで実現したのだ。−中略−この「噂」の拡散が、西側諸国においてウクライナ支持の世論が開戦直後に急速に醸成されたことに少なからず貢献したことは疑いようがない。(14頁)

ズバリ言うと、情報が世界を動かした。
情報というのは皆さんご存じのように嘘が混じる。
だから汚れた手で触ってはダメ。
だから情報というのはナマモノで手の綺麗な人が扱わないと、とんでもない食中毒事件を起こすこともあるということをお忘れなく。
「情報はナマモノです」という。
そういう別の言葉遣いで付き合わないと現代が理解できなくなってしまう。
武田先生は「サン!シャイン」で学んだのだが、70(歳)半ばをもう過ぎた。
出演者と同じように話していても、半分以上使っている言葉がわからない。
もう戦後生まれの団塊はそれぐらいのところまで来ている。
岩田(明子)さんという凄く頭のいい政治スタッフというようなキャリアをお持ちの人。
この方が、ある日突然怒り始めて「プラットフォームをちゃんと管理しないから」とおっしゃるのだが、何で都電のホームが管理されなければならないのか?
岩田さんの使われた「プラットフォーム」というのと、武田先生が知っている「プラットホーム」は違う意味。
そのことを理解しない限り、岩田さんが理解できない。
かくのごとく古い言葉でも食い違いがある。
今まで私共が知っている言葉遣いでは、この世界は割り切れないということで、そのことを「庭」に例えて話を進めてみようと思う。
面白くなければ二週で終わるので、二週まで是非お付き合いのほど。

昨日ちょっと回りくどい言い方をしたが、ウクライナ戦争が始まったその開始直前に、これはフェイクだったのだがウクライナの戦闘機がロシアの戦闘機6機を撃墜した。
目撃者が多くて、みんな喝采を上げ、長期戦を覚悟したという。
これはフェイクだったのだが、もの凄い勢いで伝わって戦争に入ったという。
この「キーウの幽霊」は21世紀の戦場には存在しているのである、と。
つまりSNSの世界で流した情報というのが、ある国民を励ませば、それはフェイクではなくて本当の情報なんだ、という。

情報技術に基づいたグローバルなプロパガンダが、それもトップダウンではなくボトムアップに構成されるものがもっとも強い力で状況を決定するきわめて二十一世紀的な戦争なのだ。(17頁)

 この新しい戦争のかたちが証明するように、今日の人類社会はインターネット上で、Facebookの、Instagramの、X(Twitter)のプラットフォーム上で展開されているユーザー間の情報発信による相互評価の連鎖(19〜20頁)

重大なことは20世紀には距離に意味があった。
遠い国があったし、近い国があった。
ところが今「遠いから安心」「近いから危険」そういうことはもうない。
テレビとラジオが持っていた大衆を動員した放送と映像の世紀は終わった。
今は情報発信と評価の形成が世界を支配している。
それがフェイクであっても情報として共有されて評価された。
そうするとそれはもう実在する。
縮めて言えば「国家」というものが影が薄くなって、経済というものも人間のやり取りではない。

その象徴が二〇十六年のふたつの事件──トランプとブレグジット──だった。(22頁)

トランプさんはもちろんあのアメリカの大統領。
「ブレグジット」というのはイギリスのEU離脱のこと。
現代の象徴なのである、と。
人々の呼び方を変えた方がいいよ、というのがこの宇野さんの哲学らしいので、武田先生は凄く納得してしまって。
国民とか民族とか言う。
国民とか民族はもういない。
何がいるんだ?といったら宇野さんが「世界の人々は二つの種類に分けられた」。

「Anywhere」な人びとと「Somewhere」な人びとに二分されていると。Anywhereな人びと、つまり「どこでも」生きていくことができる人びと(22〜23頁)

 これに対してSomewhereな、つまり「どこかで」しか生きられない人びと(23頁)

面白い見方をする。
これはハッとする。
水谷譲はSomewhere。
武田先生も一緒。
日本でしか生きていけないと思う水谷譲。
この番組はSomewhereな人がやっている番組だと思ってください。
これはどういう意味かというと、もの凄い例え。
アメリカでトランプさんを圧倒的に支持する人はSomewhereな人々。
この人達はアメリカのその田舎のその工業地帯でしか生きていけない。
だから「アメリカンファースト」と言っているワケだと思う水谷譲。
この人達が圧倒的にトランプさんを支持する。
アメリカは経済においてAnywhereな人々が稼ぎ出している国。
Anywhereな人がいる。
トランプさんと仲がよくて、中途で仲が悪くなった方とか。
リンゴマークでお馴染みのあの会社とか。

トランプの述べる排外主義は−中略−「壁をつくれ」というアジテーションは−中略−Somewhereな人びとを惹きつけているのだ。(26頁)

他から入ってこないから安心する。
ではAnywhereな人達の為にはどうするか?
奇襲攻撃。
国境という壁を平気ですり抜けていく。
これでAnywhereな人がトランプさんのことを好きになる。
トランプさんはどこから学んだか?
ライバルのバラク・オバマから学んだ。

彼はインターネットを通じて国民一人ひとりに呼びかけた。−中略−オバマの集めた献金のうち五億ドルがインターネットを介した個人による小口献金だ。(26頁)

「私を大統領にしてください」と。
これは有名なプラットフォームで「#バラクオバマ」と呼ばれて、それで彼は大統領になれた。
それをトランプさんは学んだ。
つまりSNS上で選挙をゲームにする。
そうするとアメリカでは(大統領に)なれる。
いや、もしかしたら日本でもなれるかも知れない。
つまりインターネットに於いて、選挙をゲームにしてしまう。
そうするとグッドマークを集めた人が一番高い得票率を集めることができるワケで。
小口献金の人達の為には「壁を作ろう。アンタを壁で守ってあげるよ」と叫ぶという。
大口献金の人には「壁、ブッ壊してやるよ。ああ、アメリカの言うこと聞かないヤツは税金だ」。
Anywhere、Somewhere、両方で、この人達をトランプの虜にする為に必要なものが一つだけある。

「敵」を批判することで、−中略−その発言は「味方」から一定の承認を獲得することができる。(25頁)

フェイクでもいい。
いっぱい幽霊の敵を作る。
それが情報の技術ということになる。
「敵を作ることがなぜメリットになるか」というのを考えて「敵がいるということは味方もいる」ということでいいのかと思う水谷譲。
或いは「味方になってくれ」というふうに頼む時にはどうしても敵が必要。
だからトランプさんにはたくさんの敵がいる。
その中でも「Qアノン」とかという陰謀説。
アメリカの後ろ側に悪の結社があって。
「子供を性の道具で使うような悪いショッカーがいてこれと戦う為にトランプは」という。
とにかく陰謀論が必要。
それからYouTubeの語り手達は敵を語る。
プライベートメディア、個人の人がやってやってらっしゃるので、武田先生達のような放送局に属した人間を「マスゴミ」「オールドメディア」とかというふうに。
それは「敵」。
敵にしておくと、彼らにグッドマークをくれる人が増えてゆく。
その人達を逆なでするようで申し訳ないが、真偽は関係無い。
ゲームとして成立。
これはゲーム。
面白いゲームはみんなそう。
敵がいる。
だから選挙というゲーム。
支持率というゲーム。
それを後押ししているのが情報社会で世界を結ぶ。
ここには壁が無い。
プラットフォームには壁が無い。
そこにSomewhereな人達、そこにしか住めない人達をハッシュタグで集合させる。
この時に、これはゲームなので個人は関係無い。
何個グッドのマークを獲ったかが、そのハッシュタグのパワーになる。
プラットフォームに集まる人達というのは自分で「イイネ」を押したかもしれないが、ゲームはその個人を一粒としてカウントする。
つまりSomewhereな人達は、自分の物語をやっているつもりなのだ。
ところがゲームそのものは他人の物語への感情移入にすり替えられてゆく。
これが現代。
重大なことが世界の文明の中で起こっている。

SNSのプラットフォームとは情報技術を用いて人間間の社会関係「のみ」を抽出する装置だと考えてよい。(50頁)

「アンタ、トランプ指示する?リベラル?それともウォルシュ?」とかという言葉で人間をえり分けていく。
情報が、網として人間にかけていく。
トランプは情報で圧倒する。
それが正解か何か全然関係無く。
毎日Xに登場する。
どんどん情報を。
しかもトランプさん自身が嘘もいっぱい情報で流すと思う水谷譲。
とにかく凄いことは、日本のマスコミ・メディアというのが、その前日に書いたトランプさんの情報を全部ニュースとして載せる。
こんな日記帳を公開する大統領なんて史上初めて。
だからもう本当に牛耳っている。
世界との関係、いろんな国にはいろんな事情があるのだろうが、トランプさんはアメリカとの関係だけをSNSで相手に送り続ける。
アメリカが全てジャッジする情報を流し続けているという。
そう考えるとアメリカの大統領が決めたことをX(旧Twitter)でつぶやくというのは考えられない、こんな大切なことをこんな方法でみんなに知らせるんだみたいなのは当初違和感があったが、今は普通になってしまった水谷譲。
今は普通。
それが新聞の朝のトップニュースになるのだから。
つまりこんなことをしながらもトランプさんの策略は何かというと、アメリカとの関係の中に全世界を閉じ込めてしまう。
「アメリカとの関係が上手くいけば上手くいく」という。
だから日本の宰相が言ったことはまさしく正解。
「世界の平和も繁栄も全てトランプさんにかかっている」というのは、もう本当に卓見。
あれはある意味皮肉だと思う水谷譲。
皮肉に決まっている。
でも現実にそう。
どんな一流新聞だって、さっき呟いたことがニュースになるワケだから。
そんな大統領の出現は初めて。

武田先生が朝の情報番組をやっていて、ちょっとした小さい矛盾を感じた。
つまり今、話したようにトランプさんが持っている「世界を自分の情報で檻に閉じ込める」そういう作戦というのが「なかなか厳しいですよ」というか「それじゃあ正しい判断はできないんじゃないかな?」という。
ここから別の説なのだが、でも今はやはりプラットフォームを含めて、もう世界、人間の生活を動かしている。

哲学的な話をしている。
非常に複雑な話。
この本をお書きになった宇野常寛さん。
この方は頭のいい方なのだろう。
この人の本を読みながら、フッとこんなことを思った。
世界を支配する情報。
朝の番組をやっていたら、こんな問題が取り上げられた。
とある地方の中学校で少年が少年を殴っているという動画が上げられた。
ツッパリ少年がゲンコで気弱そうな少年のアゴを殴り、ヘラリと笑って右足のハイキックで気弱な少年の顔を蹴っている。
それを撮影していた子がいて、その子が動画で上げた。
顔はもう丸見えだから。
もの凄い大炎上だったらしい。
たちまちそれは警察が見るところにもなって、教育委員会も含めて暴力事案としてツッパリのその少年は警察から取り調べを受け、そういう顛末。
このツッパリは「何しやがるんだ、人間に向かって」とかということで大非難を。
でもその非難しているのもリンチのような非難で。
このへんはまた難しい。
二人の少年の顔がはっきり映っているワケで、加害、被害、これはもう一目見ただけでどっちが悪いかわかる。
それが小さな田舎町で起こっているから、町中挙げての「殴った子、あの子よ」になるワケで。
この殴った子の周りから振るわれた暴力というのも凄いもので、この子は半べそかいて謝っている。
「悪いことした」と。
でも全然収まる気配が無いという。
これは放っておくと、この子が自殺するまでやり続ける。
誰かが止めないと。
繰り返し言うが情報はナマモノなので、手が綺麗な人が扱わないと、本当に死者が出るということがあり得る。
一番の問題は何かというと、この殴った少年をやっつける為にその炎上騒ぎを起こした群れた人々。
絶対に忘れてはいけないのは、群れた人々、「あの暴力少年をやっつけろ、みんなで」と言った人は顔が無い。
グッドのサインだけだから。
つまりハッシュタグの元に集まるという時、集まったその人達は顔と体を置いている。
顔と体を置いてゆけば、どんな惨いことだってできる。
ズバリ言うと、トランプさんみたいに壁を作ることもできる。
こんなふうにして考えると、今のSNSの世界で一番問題なのは顔と体が無いことじゃないか?という。
おっしゃるとおりだと思う水谷譲。
第三者の人達が、全く関係ない人達が、匿名で「あれやこれや」意見してくる、それに動かされてしまうというのは危険だと思う水谷譲。
これはちゃんと裁判で決めること。
顔も体も無いのに「オマエなんか死んじまえ」とか「この暴力少年」とか「あの町で生きていく資格は無ぇ」とか、そう言う資格は無い。
つまり情報社会がもたらしているのは、かくのごとく顔と体が個人に無い。
あるのは何かというと、グッドの印の親指を立てたあのマークの一つだけのこと。
ここから武田先生がもの凄いことを言う。
つまりグッドとか、賛辞を寄せる時、それはゲーム化。
暴力のゲーム化がそういうこと。
武田先生は(問題になっている少年の動画を)見たのだが、おかしなことに気づかないか?
あの動画を顔と体で見てみる。
あのツッパリがビンタをかます。
その後、アゴに蹴りを入れる。
殴られてひっぱたかれて蹴りを入れれらた少年はあんまり体がぐらついていない。
あれはきちんとした、つまり武道とかボクシングをやった連中だったら、殴ったら相手はもう少し揺れる。
あれは二発とも効いていない。
武田先生もアクションシーンでやったことがあるから。
あれはやった方も痛い。
パンチとか蹴りというのは、同様の痛みを自分も負うということ。
特に人の頭なんかを回し蹴りで蹴ると、次の日足の甲が腫れた。
「刑事物語」で。

刑事物語 HDリマスター版 《DVD》


だからやった方も「相手はこんな痛いんだ」というのを体感することを、彼はできていないということかと思う水谷譲。
つまりあの子は「暴力を振るうだけの力も持っていない」ということ。
つまりあの子には体力が無い。
技術はもちろん無いが。
殴られている子がいた。
変なことを言うが、ちょっと誰かが技を教えてあげたらいつでも復讐できる。
つまりそういう危ないところに人を殴ったり蹴ったりするという行為があることを、あのツッパリ少年はこれから学ぶべきなのだ。
体を通して物事を考えると、別の側面が見えて来る。
武田先生が言ったのはどうも振るわれている暴力に威力が無い。
「体を通してみると別の側面が見えてきますよ」ということが言いたいばかりに、そういう言い方をした。
ノーグッドの審判は社会参加の自分の物語への体験として多くの人達がそこに参加しているワケだが、所詮は他人の物語への感情移入であって、どうなるかというとプラットフォームの経営者に収益を捧げるという。
それが結果なんだ、と。
相互評価のゲームとしてプレイヤーは満足しているかも知れないが、その評価で自分が悦に入るということはどうだろうか?
満足してはいけないのではないか?
そのゲームに参加したという、その満足には中毒性があり、ゲームプレイヤーに敵を提供し続ける。
つまり次なる動画がまたあなたに敵を見させてくれるという。
あなたはそこにバーっと走っていって、親指を立てたマークをそこに残すのだが「それは所詮ゲームなんだよ」という。
あなたは顔のある、或いは肉体を持つ人間に触ってないんだよ、という。
「触っている」ということがもの凄く大事な、これからの感性ではなかろうか。
今週のスタートでトランプさんの話を。
日本の人達が驚くのは、世界に対してあれほど傲慢に振舞っても支持者がゼロになるワケがない。
このトランプの人気は何か?
これは、この本の作家の宇野さんは本当に鋭いと思った。
トランプには手触りがある。
どんな手触りか?
「世界を触っている」という手触りがある。
彼の言い分だが「アメリカの国内の若者達をだらしなくさせる為に麻薬ばっか作りやがって。そいうのバンバンバンバン売っといて偉そうに〇〇っていう東洋の大国とは仲良くして、原油をそっちに輸出する?俺が許すワケ無ぇ!」。
その瞬間にSomewhereな人達は世界を動かしているという手触りが。
その手触りがたまらない。
つまり私達が政治家に求めているのはその手触り。
手触りのない人はやはり票を集められない。
行動力と言ったらまた違うのかも知れないが、口では言っているけれども何も行動しない人は手触りが無いがトランプさんはよくも悪くも行動に移すから手触りは感じるということだと思う水谷譲。
ベネズエラが終わったら次はイランかとかと、世界に明らかに触っている。
この「手触り」という、つまり「体で感じるものがある人」というのはサイバー空間でも強い。
世界を動かしているのはここ。
全て手触りのある世界に人間は覚醒すべきである。
つまりトランプさん以外の手触りを感じさせてくれる人、そういう人達が次に出てくればいいという。
今週分だけのまとめなのだが、この宇野さんという作者の方は、その手触りのことを「庭」と呼んだ。

 世界に素手で触れていること、その手触りを人間間の相互評価のゲームではなく、開かれた事物の生態系に関与できることで得られる場所であること、それが「庭」の条件として必要になる。(103頁)

ではその「庭」とは一体何だ?
私達は私達の暮らしの中に「庭」をどうやって作ればいいのか?
気になる。
我々がいつも住んでいるサイバー空間というのは空間のことで、SNSで結ばれた世界。
ここにはまず大事なことに手触りが無い。
グッドのマークだけだから。
では手触りとは何か?
人間を深く語る時に、そういう言い方をする。
つまり普段使いの言葉の中でも「加奈さんち、何LDK?」と言う時は「家」だけの話。
でも「水谷さんの家庭ってどういう家庭?」と言われると、話がバッと深くなる。
つまり出自、家庭環境、代々の先祖の話、家柄、素性、血統、それが「庭」に托されている。
つまりその人個人ではいじれないその人の系統が「庭」で伝わるというワケで
庭はそういうことを伝える為の一種、キーワードであるという。
「家庭」となると話がグッと深くなるというところがこの話の面白いところ。
では「庭」とは何なのか?
さらに「庭」をどう作ればいいのか?
さあ、来週が楽しみになってきた。



2026年06月18日

くばら トマトソース

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商品紹介 | 北海道くばら
1本でナポリタンもチキンライスもピザトーストも美味しく作っていただける万能トマトソースです。

容量 : 320g
希望小売価格 : 486円(税込)
栄養成分(大さじ1杯(16.8g)当たり)熱量 18kcal


容器の高さが13cmで幅が6cmぐらい。

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このようにいろいろな料理が作れるということで。
チキンライス的なヤツでも作ってみることに。

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トマトケチャップっぽいけれども、トマトケチャップよりは水分が多い感じ。

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もっと赤くなるかと思ったら、そうでもないな。
味はすっごくチキンライス!っていう。
これならパスタ類でも合う感じの味だよな。

開封後は要冷蔵なのだけれども、このぐらい小さいとそれほど邪魔にもならないし、何かと使い勝手がよさそう。

北海道くばら 万能トマトソース 320g 2本セット まとめ買い 時短でおいしい洋食調味料 懐かしの喫茶店メニューが簡単に作れる パスタ ナポリタン ピザトースト チキンライス ポークチャップ 煮込み料理などに最適 毎日のお弁当や常備にも便利 ペースト



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ローソンストア100 はちみつチーズパン

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はちみつチーズパン | 新商品 | 商品・おトク情報 | LAWSON STORE 100|ローソンストア100公式サイト
クリームチーズの塩味とはちみつの甘み、バランスの良い甘じょっぱさが楽しめる味わいです。

発売日不明。
本体価格 118円(税込 127円)。
販売地域全国。
内容量1個。
1個当たり熱量259kcal。
製造者山崎製パン株式会社。
メーカー名LAWSON VALUE LINE。

公式のInstagramには6月11日に新発売ということで紹介されているので、そのあたりに発売になったものと思われる。

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直径が10cmぐらい。

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はちみつたっぷりだな。
生地はどうせ普通の菓子パンみたいなヤツだろうと思ったらちょっと違うな。
もっともっちりというかしっかりというか。
りんごみたいな香りだなと思ったが、味もりんごみたいに感じるんだけど気のせいかな。
原材料のところに「酵素」ってのがあってその中に「りんごを含む」とは書いてあるけれども。
クリームチーズとはちみつが入っているワケだが、はちみつも結構多いので、塩気は弱めに感じた。
小ぶりだから、全然足りない感じだろうと思ったが、食べてみるとそれほど足りない感じもしなかった。

Mielizia(ミエリツィア) アカシア の 有機 ハチミツ (純粋) 110g はちみつ (100% オーガニック 非加熱 bio)(イタリア 産)



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ローソンストア100 ピザチーズパン

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ピザチーズパン | 新商品 | 商品・おトク情報 | LAWSON STORE 100|ローソンストア100公式サイト
ふんわり食感のパンにピザソースとチーズを包み、表面にチーズをトッピングして焼き上げました。

6月10日発売。
本体価格 125円(税込 135円)。
販売地域全国。
内容量1個。
1個当たりエネルギー282kcal。
製造者株式会社KYベーキングカンパニー。
メーカー名LAWSON VALUE LINE。

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縦横が12cmで高さが4cmぐらい。

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「ふんわり食感」なんて書いてあっても実際には普通の菓子パンの生地だなっていうことが多いが、これは普通の生地よりもふんわりというか柔らかい感じ。
温めた方が美味しいのでは?という気もしたのだけれども、どこにも温める話が書いていなかったので常温で食べた。

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四か所に空洞があって、その内側にトマト的な何かが塗ってあったり、中にチーズ的な何かが入っていたり。
若干お高めのお値段だなと思ったが、ピザっぽい美味しいパン。

モッツァレラチーズのマスターズ 食通シェフ、パン屋、ピザスライス パーカー



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東ハト あみじゃが・テキサスBBQ味

東ハト あみじゃがテキサスBBQ味 51g


あみじゃが 東ハト
テキサスBBQの味わいをイメージした、
スモーキーな香りとペッパーのキレが
引き立つビーフの旨味をお楽しみください。


6月8日発売。
期間限定発売。
クリエイトSDで79円(税別)で購入。
オープン価格。
参考小売価格164円(税込)。
内容量51g。
1袋当たりエネルギー275kcal。

うっかりパッケージの写真を撮り忘れてしまったな。
袋の大きさは縦が21.5cmで横が16cmぐらい。

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他の「あみじゃが」と形や大きさは同じだと覆うけれども、直径が4cmぐらい。
厚みがあってちょっと硬さもあるポテトチップス的なヤツ。
「テキサスBBQ味」ということだが、サッポロポテトのバーベQあじに近い感じの味かな。
美味しいと思う。


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